♪邪馬台国ドンと来い!♪126
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九州北部は中国の影響下そのままで、銅矛も銅鏡も中国のものがずっと使われて、中国語で矛と鏡と表記されているのに、それを否定とか、わけわからん。 その矛を使った祭祀が弥生時代から平安時代まで続いてるというから
証拠を示せと言っているのに一向に証拠を提示せずに結論連呼とか
マジで頭の構造がワケわからん じゃあ、魏志倭人伝の倭国と日本が連続していなくてもいいよね。 >>391
>弥生時代の遺物を「矛」と名付けたのは江戸時代の学者なのだがwww
どこの誰? 百科事典マイペディアの解説
矛【ほこ】
鉾とも書く。金属製の両刃の利器に長い柄を付けた刺突用の武器。日本では弥生(やよい)時代から鎌倉初期まで用いられた。 >>415
弥生時代は祭祀じゃないだろ。
勝手に歪曲するな。 >>419
論点は平安時代の矛を用いた祭祀が弥生時代から連続してるかってところだから
矛と呼ばれる武器の存在自体は論点じゃないよ 春日大社の神宝「鹿島立御鉾」は、奈良時代初期の創建の際に鹿島神宮から遷されたものだそうだ。 >>423
逃げに入ったか。
弥生時代と平安時代の矛が連続していないという根拠は?
中国の矛と日本の矛が違うという根拠は?
矛が半島起源だという根拠は? >>391
>弥生時代の遺物を「矛」と名付けたのは江戸時代の学者なのだがwww
どこの誰? >>425
半島起源など誰も主張してないぞ
日本語の読解力に難があるな 矛バカが鼻息荒く提示したサイト
http://www.kyobunka.or.jp/gaiyou/ken.html
>剣鉾は,祭礼の神輿渡御(みこしとぎょ)の先導を務め,悪霊を鎮め
>る祭具です。剣鉾の原型は,古代の武器であった銅剣,銅矛などに結び
>つける説もありますが,定かではありません。
>古代の武器であった銅剣,銅矛などに結びつける説もありますが,定かではありません。
実は自爆でしたとさwww >>402
>弥生時代の平行時期に朝鮮半島でも矛と表記されてた証拠でも探したら?
お前が半島と言い出したんだろ。 >>397
>>>392
>弥生時代の銅矛の祖形は朝鮮半島のものだよ 祖形と起源の違いがわからない低能です
弥生時代から平安時代まで「九州の矛からの進化をたどることができる」といいながら
その過程をまったく提示できない嘘つきです 牛頭天王の信仰が入ってきたときに、その武具が日本になかったので、それまでにあった矛の文化と結びついた。
そのため、日本では牛頭天王の祭りで祭器として矛を用いる。 >>434
>それまでにあった矛の文化と結びついた。
はい、ここがウソ
論証抜きで言い張ってもだめだよ
牛頭天王を祭る寺社で、矛をご神体や祭器にしているところはないと思うよ
少なくとも、普通にググっても出てこない
つまり、それは一般的なことではまったくないってことだ
さあ、論証できるなら、がんばって論証してみてくれ 八坂神社では不満なのか?
畿内を代表する大社なのだが。 歴史の長い神社なので、ほとんどの神宝は後世のものだが、神宝には矛も含まれている。
そもそも祇園祭が矛を祭ることから始まったことも忘れてはいけない。 繰り返しになるが、奈良を代表する春日大社も、神宝は矛だ。 大阪の住吉神社も調べたら、もともとは神代草薙剣があり、熱田神宮に移されたとのこと。
こちらは明確に、古墳時代より前(弥生時代)の剣として祭っていたわけで、神社に武具を祭るのは珍しくないようだ。
また、弥生時代と平安時代などは文化的に断絶があるわけではないこともわかる。 ・神社の主張を無批判に採用しているところ
・さらにその主張を無検証で弥生時代のことだと断じていること
・仮に弥生時代のことだとしても古墳、飛鳥、奈良をすっ飛ばしているところ
いずれも歴史を研究するという自覚があるなら無視できない事項 神武より前の時代を神代と呼ぶが、神武が卑弥呼の時代なら、神代とは弥生時代になる。
それは筑紫の王国が全国に稲作を含む弥生文化を広めていった時代だ。 >>443
>・神社の主張を無批判に採用しているところ
史料を無視する理由にはならない。
畿内説は文献を無視し過ぎ。
それでは古代史の政治は捉えられない。
>・さらにその主張を無検証で弥生時代のことだと断じていること
神武より前なら弥生時代だろう。
あなたの考えでは、神代は何年代?
>・仮に弥生時代のことだとしても古墳、飛鳥、奈良をすっ飛ばしているところ
その間の記録がそこになければしょうがないだろう。
お前さんみたいなのが、歴史を消して歩いているんじゃないか? >>446
>神武より前なら弥生時代だろう。
>あなたの考えでは、神代は何年代?
横からだけれど、神武は卑弥呼より5世代程度前だよ >>446
・史料批判って知ってる?
・神代は神代 年代なんてあてはめない
・物証を示すのが科学的な態度
非科学的非歴史学的態度に終始してるねw >>446
史料を鵜呑みにするなら神武はBC660年即位
ちょっと前の年代観なら縄文時代
最近のAMSなら弥生時代前期
弥生前期であったとしても青銅器は広まってない
輸入品がちょろっとある程度
世代的にはそれよりさらに遡る訳で だからこそ、史料批判で実年代に較正しないとね。
イザナギが博多湾で矛をゴロゴロしていたのなら、九州に銅矛文化が上陸してからの話と考えられる。 応神天皇元年を390年と考え、そこからの平均在位を計算できる。
平均在位と言っても短すぎるのも長すぎるのも、
正確な数値が出ないと思われるので、
30代を基準に25代〜35代をランダムに採って見た。
・25代平均 応神天皇390年〜39代弘文天皇没672年 11,28年
・28代平均 応神天皇390年〜42代文武天皇没707年 11,32年
・30代平均 応神天皇390年〜44代元正天皇没724年 11,13年
・33代平均 応神天皇390年〜47代淳仁天皇没764年 11,33年
・35代平均 応神天皇390年〜49代光仁天皇没781年 11,17年
11年弱が平均在位。
さらに古くなると若干在位が短くなると考え、
「11年」で計算してみる。
ただし神功皇后は確実な一代と見なし、15代遡ってみる。
11年×15代=165年。
応神天皇390年ー165年=225年。
神武元年は3世紀前半。
卑弥呼の時代である。 伊都クズにとっては学問的に適切であるかどうかなど関係ない
ただただ自分に都合がいい結論を連呼したいだけ 複数スレをageて順繰りに書き込んでるけど旗色悪いとageないらしい 漢文読めずに珍読を連発
考古学の成果を知らずに珍説を多数
歴史学の方法論を理解できずに珍論に固執
まるで珍獣 伊都クズ
連続句読点
「キナイコシ」
八咫バカ
矛バカ
珍獣
いろいろあるなw >>457
あなたのいう「学問」は、自分に都合のいい妄想による砂上の楼閣 しばらく前に、楼閣を楼蘭って書いてる人がいたけど、
どんな入力をしたらそんな間違いになるんだろう >>462
>自分に都合のいい妄想による砂上の楼閣
伊都クズの主張のことですね
激しく同意します >>462
マジレスしといてやると
伊都クズを批判してる側ってことは
歴史学の方法論通りあやしい史料には依拠しないということので
その上に妄想の楼閣なんか建つはずがない
論理的思考を訓練した方がいいぞ >>466
>怪しくない史料って何?
怪しいか怪しくないかは、0or1じゃないのは分かるよな?
いや、分かってたらそんな疑問は持たないかw
きちんと史料の限界を意識しながら、考古遺物等で裏付け、クロスチェックをして
信頼に足ると判断できる部分を精査しながら読む文献が怪しくない史料だよ
史料の限界を無視して魏志倭人伝原理主義的な読み方をしてたら、それはもう
怪しい史料だけれどw 怪しくない史料なんてない
だから最初に史料批判を行う必要がある 伊都クズが歴史学オンチの妄想チェリーピッカーだということを満天下に知らしめる良スレ 研究者でもなければ怪しいと判断することはあっても
怪しくないと決める必要がある機会なんてないと思うが ハイキングでたとえると
・この先は危なそうだから進むのは止めておこう
→一般人でもあり得る判断
・この先が本当に危ないのかあるいはルートとして使えるのか確認しよう
→一般人はまずしない判断 トンデモさんは、
地図もみないで「俺様が迷うはずがない」ないと自分を過信したあげく
あらぬ方向につき進んで別の山に登ってるのにまったく気が付いていない
ってところかなw 九州説がよく使うダメ論理
邪馬台国は魏志倭人伝にしか書いてないんだから、
魏志倭人伝を正しいとするのは絶対の前提
魏志倭人伝は正しいのだから、伊都国は末盧国の東南五百里でなければならない
末慮国は呼子
こんなやつw ありとあらゆる史料が畿内説を否定しているからね。
全てを史料批判の名の下に黒塗りしないといけないね。 >>477
>ありとあらゆる史料が畿内説を否定しているからね。
だったら、一つでも二つでも「具体的に」示してくれよ
どうしてそんな簡単なことができないんだい? >>476
>魏志倭人伝を正しいとするのは絶対の前提
邪馬台国論争は魏志倭人伝に記載内容を議論してるんだから
小さな誤記はあったとしても基本的に魏志倭人伝の記述内容は正しいとして議論しないと話にならないよ
大前提を否定したら議論にならなし何の結論も出ない。 >>476
神々や日本人の総歴史を著したといわれる古事記や日本書記に
邪馬台国や倭国群そして卑弥呼の記述が全く書かれていないのが原因でしょ
今や古事記や日本書記の信頼性信憑性に疑いを持つ人達が増えつずけてるけど >>481
>今や古事記や日本書記の信頼性信憑性に疑いを持つ人達が増えつずけてるけど
そりゃ、信頼性信憑性に疑いを持つのは当たり前。
だって、記紀は倭国(阿波)国内で起こったことを書いているんだから。 @阿波 >>481
記紀は神武以降は基本的に畿内の歴史書となっている。
だからこそ、邪馬台国は畿内ではなく九州だと考える根拠でもある。 >>480
>小さな誤記はあったとしても基本的に魏志倭人伝の記述内容は正しいとして議論しないと話にならないよ
その線引きがおかしすぎるって言うんだよ
しかも恣意的
末盧国が呼子とか言い出すのはいい加減にしろや >>484
魏志倭人伝の骨子を無視するなら、君は邪馬台国を論じなくて良いよ。 >>484
>末盧国が呼子とか言い出すのはいい加減にしろや
そうだね。 末盧国は世界文化遺産の福津・宗像方面だね。 @阿波 >>483
>神武以降は基本的に畿内の歴史書となっている。
神武の時点で、卑弥呼より前なんだから、卑弥呼の時代も畿内の歴史でいいんじゃないの それなのに卑弥呼が記紀に登場しないから、そもそも畿内の人物ではないのだろうという話。 >>484
原文を尊重してるだけです
原文を無視して恣意的に解釈してるのは君だ。 >>484
ちなみに末盧国を呼子とは言ってない
末盧国は現在の唐津市など東松浦半島付近の国邑で
魏使が末盧国に付いた場所が呼子付近。 >>490
>ちなみに末盧国を呼子とは言ってない
そうだね。 末盧国は世界文化遺産の福津・宗像方面だね。 @阿波 >>488
>それなのに卑弥呼が記紀に登場しないから、そもそも畿内の人物ではないのだろうという話。
いや、倭迹迹日百襲姫命という名前で記録されてるよ
崇神天皇代の、ヒメ王で祭祀王として描かれているし、その死が特別なもので
大いに墓を作ったことも記されている >>489
>原文を尊重してるだけです
>原文を無視して恣意的に解釈してるのは君だ。
>>490
>ちなみに末盧国を呼子とは言ってない
>末盧国は現在の唐津市など東松浦半島付近の国邑で
>魏使が末盧国に付いた場所が呼子付近。
呼子では、末盧国に着いたことにはならないし、呼子でも伊都国へは東南陸行にはならない
それでも間違ってないって強弁するから、おかしいって言われるんだよ 呼子は末盧国の北端で壱岐に一番近いから最短の航路を採って呼子に着いたんだよ
呼子は末盧国の一部だから末盧国に着いたことにる
呼子からほぼ南下し唐津市中心で方向をほぼ東に変えて進んだから伊都国へは東南陸行と記したんだよ。 末盧国に至る行程に方角がないだよね。
普通に考えたら南下だから松浦と考えがちだけど、次の陸路の行程考えると上陸地点は宗像しかないわな。 伊都国東遷スレ 9
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1532907357/
614日本@名無史さん2018/08/06(月) 22:38:58.11
祇園祭の山鉾はめちゃくちゃ大きいぞ。
でもちゃんと九州の矛からの進化をたどることができる。
↑
たどることができるといいながら、結局その過程を明示することはありませんでした
つまり、大嘘つき なぜ日本の歴史をそんなに分断・抹消しようとするの? >>495
>呼子は末盧国の北端で壱岐に一番近いから最短の航路を採って呼子に着いたんだよ
既にここから事実誤認がある、というか歴史が分かってない
この時期まだ領邦国家段階にはないから、面積を持った国とか
領土の範囲とかいう近代〜現代の概念で国を捉えるには間違い
中心となる集落と、そこと直接水管理などで関わる範囲が国だよ
末盧国は唐津平野の範囲で、東松浦半島の先端付近は無人の地では
ないだろうが名もなき集落だよ
これを末盧国と言い張る辺りがイタイ
>呼子からほぼ南下し唐津市中心で方向をほぼ東に変えて進んだから伊都国へは東南陸行と記したんだよ。
そこから北に行かないとどうやっても伊都国には着かない
こういうごまかしをしてまで、魏志倭人伝に書いてあることを
正しいとしなければならない辺りが史料の限界無視の原理主義だって
非難されてるのは分かるかい?
九州説は魏志倭人伝の「方角の間違い」を絶対に認められないんだよなw
まあ、もともと末盧国から東南陸行五百里は、伊都国行きの旅程では
なかったのだろうけれど >>496
>末盧国に至る行程に方角がないだよね。
ただ、壱岐のところで、南北市糴と書いてあるから、
壱岐から南へ行くと考えるのが素直な読み方だと思うがね こいつの「素直な読み方」は根拠のない妄想に過ぎない。
文献は無視するくせに、妄想は撒き散らす。 >>501
その通りだ
倭人伝では、壱岐から航行するのは、北と南に限ると限定しているわけだ。
もう一つ、末蘆国から東南とは、
東南の方角に至ることのできる道を行くこと五百里で・・・、という指示である。
エデンの東と同じで、五百里陸行した結果が東南の地であるべき、という意味なのだ。 >>500
>末盧国は唐津平野の範囲で、
それも間違い。 末盧国は福津・宗像方面 対馬海流を無視してはいけない。 @阿波 >>502
>文献は無視するくせに、妄想は撒き散らす。
どこが妄想なのか、「具体的に指摘」してね!
でなければ無意味
末盧国から東南陸行五百里で伊都国と書いてあるけれど、
比定地の紛れのない伊都国から見て北西五百里は、どうやっても海の上
これで、魏志倭人伝の旅程、方角は正しいって言い張っても無駄だろうに >>506
>比定地の紛れのない伊都国から見て北西五百里は、どうやっても海の上
その比定地が、まぎれもなく間違っているんだよ
東南陸行五百里は、素直に佐賀平野の川上さ、倭人伝の道理は正しい! >>505
>ずいぶん方向がずれてるね
方向って、なんの? @阿波 >>510
>おまいのアタマの中の羅針盤が、だよ
は、は、 そうかもね。 @阿波 >>508
>素直に佐賀平野の川上さ
その佐賀の川上で、一大率はどうやって、臨津搜露するんだい?
その川上の伊都国のどこに「津・みなと」があるんだろう? >>508
>素直に佐賀平野の川上さ
その佐賀の川上から、奴国はどっちに行くんだい?
その場合の奴国の比定地はどこ?
戸数二萬餘戸は、遺跡の発掘状況から考えて、定説どおりの
福岡平野以外には考えにくいと思うが? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています