♪邪馬台国ドンと来い!♪126
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松浦は現在の松浦郡唐津
伊都国が小城、多久付近
奴国が佐賀市大和町から佐賀市内
ウミ国が大川城島付近
あとは水行有明海へ >>512
>その佐賀の川上で、一大率はどうやって、臨津搜露するんだい?
末蘆国・唐津における渡海の好機は、倭人伝にある通り6月と12月
その時を見計らって、一大率は末蘆国・唐津へ出向き、舟を待って臨津搜露した。
>>513
>その佐賀の川上から、奴国はどっちに行くんだい?
倭人伝にある通り、東南の方角100里だ。
現在の佐賀県庁一帯。当時は水田開発で大にぎわいだったのだろうな。
>>515
その通り
倭人伝の主要な舞台となった国々は、肥前肥後(および日向)の肥グループだったわけだ >>516
>現在の佐賀県庁一帯。当時は水田開発で大にぎわいだったのだろうな。
その辺、弥生時代末期にはまだ海だよ
「北部九州における縄文海進以降の海岸線と地盤変動傾向」
下 山 正 一 1994年
第四紀研究 (The Quaternary Research) 33 (5) p. 351-360
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaqua1957/33/5/33_5_351/_pdf/-char/ja
この論文、図7の遺跡分布の図が左右反転してたりして、実際の地図と重ねにくいけど、
その前の図6を現在の地図と重ねると、柳川市役所は弥生末期でもまだ海の中、
大川市役所も海岸まで500メートルくらい
この論文では筑後川の運んだ砂による鳥趾状三角州を弥生末期には陸化していると
しているけれど、その西側には大きな入り江が入り込んでいて、佐賀駅から500メートルくらいの
ところまで海になってる 弥生時代の筑紫平野は、筑後川は大きすぎて灌漑に利用できないし、まだまだ陸地化途上だし、
大きな国をそこに求めるのは無理がある >>517
リンク先の佐賀平野の陸地化図面見た
>・・・ど、その西側には大きな入り江が入り込んでいて、佐賀駅から500メートルくらいの
ところまで海になってる <
でもな、この解説レスは ↑ 縄文時代の海岸線を示すぶっとい黒線のことではないか。
弥生末期は点線だから、佐賀駅から南へ7-8qあたりまで陸地化しているようだよ。
再確認してくれ、、、 >>516
>末蘆国・唐津における渡海の好機は、倭人伝にある通り6月と12月
そんなこと、どこに書いてある?
12月の冬の日本海をなめてないか? >>520
>景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝献。太守劉夏、遣吏将送詣京都。
>其年十二月、詔書報倭女王曰、「制詔親魏倭王卑弥呼:帯方太守劉夏遣使送汝・・・
この通り倭人伝には、卑弥呼の使いは6月、その詔書報礼は12月と書いてあるだろ。
おれも不思議だったのだが、
近年の九大の観潮レーダー観測の結果、
6月と12月の新月?だか、満月?だかの前後数日間に発生する「離岸流」というのに乗れば、各海峡間を1日で渡れるのだそうだ。
九大の研究も素晴らしいが、
古代人の航海術にも、驚異的な知識技術の蓄積があったのだなあ・・・、と感激した次第。 弥生期の海岸線は、あまりよい推定ができないので、堆積層の暑さで適当に決めたって書いてあるだろ?
それに、海が堆積三角州で埋まったところは地下水の塩分が多いから稲作に向かない
いずれにしても、佐賀県庁あたりが弥生末期に大集落になってるってことはないよ >>522
>其年十二月、詔書報倭女王曰
これは、皇帝が詔書を作った(皇帝の行為)が12月という意味で、実際にその詔書を持って
対馬海峡を渡るのは12月じゃないだろう
よく読んで >>524
>其年十二月、詔書報倭女王曰
「制詔親魏倭王卑弥呼:帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都巿牛利奉汝所献男生口四人。。。
今以難升米為率善中郎将、牛利為率善校尉、假銀印青綬、引見労賜遣還。。。
今以汝為親魏倭王、假金印紫綬、装封付帯方太守假授。。。
又特賜汝紺地句文錦三匹、、、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤。。。
皆装封付難升米、牛利還到錄受。。。<
・景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝献。太守劉夏、遣吏将送詣京都。
(六月には、帯方郡経由で京都へ達した。皇帝は6月ころには到着を知っていたので)
・其年十二月、詔書報倭女王曰→→皆装封付難升米、牛利還到錄受
(12月には、倭女王に曰く。難升米、牛利が帰り来たらば目録を受け取れ)
再度、よく読みました。↑こんな時系列ではないでしょうか。
渡海のチャンスはかぎられていたので、
12月中には倭女王に伝わるよう取り計らった(そして、その通りに運んだ)・・・、でよいのじゃないの 基本大陸王朝側基準で書いてあるから、
景初二年六月は、(倭女王が大夫難升米等を遣わし郡に詣で、天子に詣で朝献するを求めたので)
「太守劉夏が吏将を遣わし京都に詣でるを送る」なんだよ
そこから半年がかりで洛陽について、その年の12月に皇帝から詔書をもらえる
6月に皇帝が倭の朝貢を知ってた訳じゃない >>516さんは、「唐津における渡海の好機は、倭人伝にある通り6月と12月」と
いう訳ではないのは確認できたかな?
冬の日本海はやばいよ 水行を考える場合の補助として「陸行」を見てみた方がいい
「漢書 後漢書 三国志 宋書 南斉書 梁書 魏書 北斉書 隋書 南史 北史
旧唐書 新唐書」の範囲の「陸行」の全文検索結果について、書いておく
この範囲に「陸行」は全部で15件
漢書 3件
「陸行載車,水行乘舟,泥行乘毳,山行則梮」
禹の治水エピソード
「轉粟西鄉,陸行不絕,水行滿河,不如海陵之倉」
陸を行くものは絶えず、水をいく者は河に満ち 人が非常に多い様子の表現
「孟賁,古之勇士也,水行不避蛟龍,陸行不避犲狼」
孟賁が、水を行くときは蛟龍を避けず、陸を行くときは犲狼を避けず 孟賁が勇猛な様の表現 後漢書 1件
「孟賁水行不避鮫龍,陸行不避虎狼」
注釈上の漢書の引用(上記)のみ
三国志 2件
「東南陸行 五百里,到伊都國」
「南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月」
上記2件はおなじみの倭人伝部分 宋書 1件
「以表歸コ之誠,或泛海三年,陸行千日」
皇帝の徳に帰するを表するを以って(皇帝の徳が遠くまで届きそこから朝貢するのに)
あるいは海を三年かけ、陸行1000日の距離を超えて(朝貢に訪れる) (泛は浮かべる)
梁書 3件
「以表慕義之誠。或泛海三年,陸行千日」
上記宋書のコピペ
「又東南陸行五百里,至伊都國」
「又南水行十日,陸行一月日,至邪馬臺國,即倭王所居」
魏志倭人伝のコピペ2件
陸行が「一月日」になっていて九州派の陸行「一日」の間違いという説の心の拠り所 北史 3件
「初發其國,乘船溯難河西上,至太沵河,沈船於水。南出陸行,度洛孤水,從契丹西界達和龍」
勿吉国のことで、難河は今の嫩江(アムール川の支流、もちろん大河)、太沵河は今の洮児河で嫩江の支流、洛孤水は西遼河で渤海に至る遼河の支流(これも大河だね)、和龍は今の遼寧省朝陽市
川を遡る旅程だが、水行とは書いていない
また川の遡上は困難で、船が沈んでしまい、南に出て陸行し、洛孤水を渡る
「又東南陸行五百里,到伊都國」
「又南水行十日, 陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都」
魏志倭人伝のコピペ2件 旧唐書 1件
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C南去太和城十餘里,東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
ここでは、「水陸行を通し」で水行と陸行とを一緒にしている
陽苴棟驍ヘ現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、東に水行陸行を通して成都に至る如し
(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る 実際には東南 新唐書 4件
「千里至鴨淥江唐恩浦口。乃東南陸行,七百里至新羅王城」
唐恩浦口は仁川付近、そこから東南陸行700里で新羅王城
「又泝流五百里,至丸都縣城,故高麗王都。又東北泝流二百里,至神州。
又陸行四百里,至顯州,天寶中王所都」
丸都縣城:吉林省通化市集安市丸都山にあった高麗王都の故地
神州:吉林省臨江市西南葫芦套村の対岸(北朝鮮側)
どちらも、中国、北朝鮮国境の鴨緑江沿い
顯州:吉林省延辺朝鮮族自治州和龍
天寶中王所都は、天宝年間仁王が都を置いたの意味
「又西一日行,至烏剌國,乃大食國之弗利剌河,南入于海。小舟泝流,
二日至末羅國,大食重鎮也。
又西北陸行千里,至茂門王所都縛達城」
烏剌國:クウェート、大食國:イスラム帝国、弗利剌河:ユーフラテス川、
末羅國:バスラ、縛達城:バクダッド
クウェートまで海、そこからユーフラテス川を小舟で遡り(泝流)、
二日でバスラに着き、陸行1000里でバクダッドに着く
「江淮水陸轉運使杜佑以秦、漢運路出浚儀十里入琵琶溝,絕蔡河,至陳州而合,
自隋鑿汴河,官漕不通,若導流培岸,功用甚寡;疏雞鳴岡首尾,可以通舟,
陸行纔四十里,則江、湖、黔中、嶺南、蜀、漢之粟可方舟而下,繇白沙趣東關,
歷潁、蔡,涉汴抵東都,無濁河泝淮之阻,減故道二千餘里」
これは、唐代の漕運(主に食料などの水運)の話
杜佑が江淮水陸轉運使となり、漕運路を浚渫などでほぼ全体が舟で通れるように
なったので、陸行はわずかに(纔)40里で、故道を二千餘里減らした、という話 こうして見て来ると、水行何日とか、陸行何里とかいう、地理・旅程記事での「水行」「陸行」の使い方は、
三国志(魏志倭人伝を含む)がおそらく最初であることが分かる
それ以前の漢書・後漢書には、禹や孟賁の活躍を記したり、人が大勢いる様子を表現する部分でしか、
陸行の語は使われていない
そして、そうした陸行は常に水行と対の言葉として使われている
これまで「地理・旅程記事の水行」という言い方をしてきたのは、
この陸行と対となる言葉としての水行を考えるべきだということ 三国志以降の「陸行」は「陸行何里」あるいは「陸行何日」の形のみが見られる
魏志倭人伝以降の「水行」もこうした「陸行」と同じ使い方の部分について考えないと意味がない
また、地理・旅程記事で陸行と合わせて「川」を移動している部分では、ほぼ水行の語は
見られず「泝流(流れを遡る)」の語が多く使われていることも分かる
旧唐書で1例、通水陸行と、水行と陸行を合わせた表現があるが、これは例のソンホン川流域を
通ってハノイ(安南)に至る経路で、川沿いの陸行だったり川を行ったりしたのだろう >>536
普通にヤマト国だろ?
川の水行はない
=博多湾沿岸から南へは水行できない
=南至投馬国水行二十日は南ではない方角 までは確実
陳寿の認識、「倭国は會稽、東冶之東まで南北に長くつづく洲島」と合わせて考えれば、
投馬国へは東に日本海沿岸を水行したと考えるのが蓋然性が高い
そしてそこに出雲があるのだから、問題ないだろ >>538
>南北なのに東に行く?
南北市糴は、対馬と壱岐だろ?
北部九州から投馬国へは水行二十日で行くが、
北部九州博多湾岸から南へは水行できない←川の水行がないから
まあ北や西へも行けるけれども、北や西には
五万戸の投馬国にあたる場所が想定できない
なので、消去法で東に向かうことになるというのが、最も蓋然性が高い >>540
>まさに詐欺師の論法w
どこが詐欺師なのか、「具体的に指摘」してくれww
川の水行を言い出す方がよほどバカだろ?
川の水行は「ない」
川の水行がなければ、博多湾岸から南への水行はできない もう訳わかんねえから
だれかまとめてくれ。
ジジイのオレが死んじまう前にw。 >>543
古墳時代には日本列島の広い範囲で前方後円墳を作るという合意が為されており、
それが事実上倭国の範囲そのものと見なせる
そして古墳時代の全期間を通じて各時期の最大の古墳は畿内に作られ続け、畿内に
前方後円墳体制の盟主があることは明白
ここまでは、「ごく一部の九州説(九州王朝説:古田史学の一派)」以外は認めること
邪馬台国論争は、邪馬台国の絶対年代が古墳時代に入っているかどうかに焦点がある
そして、学究畑では編年研究の成果から3世紀初頭には前方後円墳体制が成立していたと
考えられるようになっている
これが全てだよ
既に決着済み >>542
>方角詐欺
だから、どこが詐欺なのか「具体的に指摘」してくれ
川の水行がない以上、博多湾岸から南への水行はできない >>544
>そして、学究畑では編年研究の成果から3世紀初頭には前方後円墳体制が成立していたと
>考えられるようになっている
年代詐欺 >>546
>年代詐欺
だから、どこが詐欺なのか「具体的に指摘」してくれ
一人二人の考古学者が言ってるだけの仮説じゃなくて、
これまでの多くの研究成果を総合した多数説だぞ 「具体的に指摘」してくれ って書くと九州説は消えるね
まあ、そんなもんだw >>548
古代中華帝国の7役人が残した魏志倭人伝の存在が致命的だっね寄生中内説 畿内説の学者なんて真っ当な学者じゃないだろ
"布留0式土器と古式新羅伽耶陶質土器とは共伴して出土している。
朝鮮の三国時代の陶質土器は瓦質土器よりも高温での焼成が可能となったもので、
慶尚南北道、新羅・加耶地域のものが日本列島に流入した。
地域性が発現する前のほぼ4世紀の慶尚南北道の「古式陶質土器」
は馬韓や百済の土器とはかなり異なっているので、
馬韓・百済の土器と区別するために,
武末純一がこれを古式新羅加耶土器と呼ぶことを提唱した。
その後5世紀初頭ごろ、古式新羅加耶土器は地域性が明確になり、
新羅土器と加耶土器が分立するようになる。
従って、古式新羅伽耶陶質土器はほぼ4世紀のものを指すので、
石野博信らの布留0式土器が3世紀後半であるとの主張とは合わない。" 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>544
>そして古墳時代の全期間を通じて各時期の最大の古墳は畿内に作られ続け、畿内に
>前方後円墳体制の盟主があることは明白
前方後円墳体制の盟主は3世紀後半以降。
それ以前、ヒミコを含めた盟主は前方後円墳ではないし纏向にはいない。
葛城である。
そうするとすぐ「遺跡は?」と聞いてくるだろ。
卑弥呼の時代の王宮跡は式内・名神大社になっている、だから掘れない。
逆に言えば謂れのない所を掘って出て来た纏向の大型建物の遺跡は王宮ではない。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>552
>前方後円墳体制の盟主は3世紀後半以降。
>それ以前、ヒミコを含めた盟主は前方後円墳ではないし纏向にはいない。
この決めつけが既に間違い 平原遺跡の年代
・平原の管玉と同類のものは、日本からは出土せず、
韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から
多量に出土していて、時期は、共伴している土器や鉄器から三世紀前半から
四世紀と考えられている
・耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、
漢末から六朝初期に造られたと推測される浙江省杭州老和山搏室墓から
出土したものと同型である。 これじゃね
「古代東アジアにおける耳?の流伝 高山 純」
(考古学研究 14巻2号) >>559
それ、読めるところある?
形のような主観的なものではなく、その耳璫の成分の化学分析の結果
耳璫の型式
この耳飾りとされている「背紺色透明なガラス連玉」の2000年の報告での分析結果
「平原遺跡出土ガラスの保存科学研究」(肥塚隆保 奈良文化財研究所 年報 2000)
https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/2668/1/AN00181387_2000_%E2%85%A0_32_33.pdf
これによると、
「本試料を顕微鏡観察したところ、重層ガラスであることが明らかになった。」
「孔に平行する断面を観察したところ二層構造を有し、孔に近い内側は大小多量の
気泡を含むガラス層、その外側には気泡をほとんど含まないガラス層で形成していた。」
「このような構造を成すガラスは、古墳時代の遺跡から発見されている、いわゆる
「金層」ガラスである。金層ガラスの多くは金層を含むものは少なく、内側孔に近い
部分には、気泡が多量に含まれるガラスを使用して、その外層には褐色透明なガラスが
用いられており、構造や材質に多くの共通点があり、加工法も同様であると考えられた。」
これを素直に読むと、このガラス連玉は古墳時代に位置づけるのが、相応ということになる またその成分は
「本試料の材質は、基礎ガラス材としてはソーダ石灰ガラス(Na20-CaO-SiO2 system)で、
これにコバルトイオンによって着色したものと考えられた( 表2) 。
しかし、 MnO含有量の多い青紺色ソーダ石灰ガラスが、弥生時代の遺跡から出土したのは
初めてで、その多くは古墳時代の後期に見つかっているもの」
とあり、この耳飾りだけに頼って編年するのであれば、編年は埋葬主体の出土物で最も新しいものに
合わせるという原則に従って、平原1号墓はかなり新しく古墳時代後期でもおかしくないことになる
古墳時代後期というのは、例えば藤ノ木古墳から金層ガラスが出ている 現在のところ、平原1号墓の編年は出土鏡が国産であてにならないため、
周溝から出た土器の編年に頼っている
1号墓の周溝からは弥生後期前半と終末期の土器片が出土、2号墓南側から
庄内併行期と思われる土器の破片が出土しており、1号墓と2号墓が周溝を
共有しているため、同時代の築造と考えられている
で、現在は、この庄内平行期の土器の破片が平原1号墓の編年の理由になって
いるのだが、これと金層ガラスの関係をどう考えるかによって、編年が変わることになる 周溝の土器って公開されてなくて、柳田も現在は根拠にしてないんじゃないの 国産だから編年できないなんてことはないだろ。
2世紀末以降、つまり卑弥呼の治世になるから言いたくないだけだろ。 >>564
>国産だから編年できないなんてことはないだろ。
>2世紀末以降、つまり卑弥呼の治世になるから言いたくないだけだろ。
いや、むしろ周溝の土坑墓遺物から考えると、もっと古くなるのが相当
卑弥呼の治世にかかったところで、卑弥呼の死よりも前の墓は
卑弥呼の墓じゃないだろ? >>565
>いや、むしろ周溝の土坑墓遺物から考えると、もっと古くなるのが相当
一番新しい出土品に合わせないと。
>>565
>卑弥呼の治世にかかったところで、卑弥呼の死よりも前の墓は
>卑弥呼の墓じゃないだろ?
すり替えるな。
卑弥呼の死より前の時代の可能性がある副葬品だ。
卑弥呼の死後に副葬してもいい。
「卑弥呼の死よりも前の墓」という表現に根拠はない。
詐欺師め。
平原遺跡で一番新しい副葬品は、魏晋代の3世紀中頃以降の耳璫だ。
つまり平原遺跡の年代が3世紀中頃より遡ることはない。 倭人伝の起点になっているのは帯方郡(及び帯方太守)である。
其の帯方郡は、馬韓(のちの百済)の中心地であったソウル付近に置かれていたそうだ。
このことを考慮すれば、
帯方郡にとって、馬韓種族(百済種族)はかけがえのない人脈だったにちがいない。
其の貴重な人脈を表すのは「馬」。
倭の国名から探せば、斯馬国、邪馬国、投馬国、そして邪馬台国である。
これらの国々は後の肥国〜火国(日向国)を成すわけであるが、
これら勢力が、旧体制であった倭奴国に対抗する戦線を構築して卑弥呼共立に成功したのであろう。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>567
>一番新しい出土品に合わせないと。
平原1号墓の編年で、もうひとつ考えなければならないのが、周溝の土坑墓である
原田大六氏はこの土壙墓を殉死者の墓と考えておられたそうだが、現在では土壙墓は
周溝が埋没した後に造られたものと考えられている
周溝の土壙墓からは鉄鏃・鉄鉇(ヤリガンナ)・鉄刀子・ノミ状鉄器が出土している
この土坑墓遺物の編年は、弥生時代終末(200年〜250年前後)で問題ないので、
先の2号墓周溝からの庄内併行期の土器片と時代が一致する
となると、本体である1号墓と土坑墓では「周溝が埋没」するほどの時間差があるので、
1号墓の編年は弥生時代終末よりもかなり古くしなければならない
耳璫の形がどうこう、というのを平原1号墓の編年にしたいようだけれど、
形が似ているというのは、主観による判断に頼らざるを得ない
より客観的に分析できる耳璫の「材質」が、金層ガラスでありその色がコバルトの青で
あることは九州説の人は、まったく考慮に入れない
耳璫が金層ガラスであることからはより新しく想定され、土坑墓遺物からはより古いほうが妥当性がある
肝心の副葬品は国産鏡で編年のあてにならない
まあ、周溝の土坑墓が殉葬に「見えた」のが、卑弥呼の墓候補にされたきっかけなんだから、
土坑墓が殉葬ではないことがはっきりした以上、卑弥呼の墓だと考える理由は既にないんだがな 平原1号墓が墳丘の平面プランで、同じ葬送文化の吉野ヶ里北墳丘墓の
10分の1以下って時点で、倭王の墓とかチャンチャラおかしいレベルなんだが、
他に候補すらないから仕方がないんだよなw
平原1号墓 12×8メートル 96平方メートル
吉野ヶ里北墳丘墓 40×27メートル 1080平方メートル
客観的な数字で見ると、歴然だろ? >>574
>より客観的に分析できる耳璫の「材質」が、金層ガラスでありその色がコバルトの青で
>あることは九州説の人は、まったく考慮に入れない
知っているよ。
だから一番古く見積もって、3世紀中頃なんだよ。 ・平原の管玉と同類のものは、日本からは出土せず、
韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から
多量に出土していて、時期は、共伴している土器や鉄器から三世紀前半から
四世紀と考えられている
・耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、
漢末から六朝初期に造られたと推測される浙江省杭州老和山搏室墓から
出土したものと同型である。 >>578
>耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、
前にも聞いたんだけれど、「どこがどう特徴的で特殊」なのか教えてよ 自分に不都合な考古学の編年研究に対しては
個人的な感想レベルに過ぎないと切って捨てたのに
都合のよい編年研究にはすがりつくという
伊都厨がクズっぷりをいかんなく発揮中 編年なら、畿内にも九州にも豊富に存在する鏡がいいだろう。 >>584
「キナイコシ」はお前で、考古学・編年を否定しているのは>>583の九州説の書き込みだろ?ww >>578
前にも聞いたんだけれど、「どこがどう特徴的で特殊」なのか教えてよ ここも古い偽スレだから、とっとと使い切って倉庫送りにすればいいと思うんだけどね >>578
前にも聞いたんだけれど、「どこがどう特徴的で特殊」なのか教えてよ
できれば、図で見られる典拠を示して欲しい
待ってるよ >>589
>ググレカス
つまり、えらそうなことを言って根拠一つ示せないゴミクズ、伊都クズが
内容も理解もできないまま書いてたってのが、FAだな
「晋代あたりの特徴的なタイプであろう」というのは
高山純が「古代東アジアにおける耳璫の流伝」の中で
「浙江省杭州老和山の漢末六朝初期に比定される搏室墓から出土した琥珀製耳璫」について書いていること
柳田は同書から引用して、平原遺跡の耳璫もわずかにくびれる形式なので
「後漢末が平原王墓の年代の弥生終末と符号している」と書いている
この「わずかなくびれ」だけが、平原1号墓が3世紀である根拠な訳だな?
大笑いもいいとこwwwww これが問題の耳璫の画像だが、くびれてるか?
https://pds.exblog.jp/pds/1/201308/12/45/a0237545_23314878.jpg
この上段左の赤いものが耳璫
割れてるからなんとも言えないというか、特徴的なくびれがあると
言えるような形状じゃないだろ?
平原1号墓が3世紀とかいう根拠はこんな程度のもの
土坑墓遺物等から2世紀とする編年の方が妥当だな >>592
>土坑墓遺物等から2世紀とする編年の方が妥当だな
典型的なコンタミ >>593
>典型的なコンタミ
土坑墓の土坑の外からも同様に出ていればそれも通るけれど、
土坑墓遺物という出土なんだから、それは通らない
結局、平原1号墓が3世紀の墓というのは、そういう見解を持った人もいるだけで
根拠はびっくりするほど薄弱だと分かったな
くびれていると言い張ればくびれているという程度の「くびれ」に全てが掛かっているだけ
これが「晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状」の根拠のすべてww
そりゃあ具体的には示せないよな
恥ずかしくてさw どこの学会?
邪馬台国の会は学会じゃないって知ってるかい? 平原1号墓は3世紀の根拠がまったくなくなってしまったねぇ
これで伊都国説も絶滅かな? 倭人伝の水行の距離は??
循海岸水行・・・・・七千餘里
始度一海・・・・・・千余里
又南渡一海・・・・・千餘里
又渡一海・・・・・・千餘里
ここから距離の表示が無い
南至投馬國 水行二十日
女王之所都 水行十日
すると南至投馬國 水行二十日 女王之所都 水行十日
計30日間は距離は?
循海岸水行・・・・・七千餘里が引っかかるのだが 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>599
水行20日 福岡から出雲平野までが約300キロ 妻木晩田遺跡辺りまでだと370キロ
水行10日 妻木晩田遺跡から竹野までが約150キロ
陸行1月 竹野から纏向までが170キロくらい >>599
>倭人伝の水行の距離は??
>循海岸水行・・・・・七千餘里
>始度一海・・・・・・千余里
>又南渡一海・・・・・千餘里
>又渡一海・・・・・・千餘里
これは、
一日で漕ぎ渡れる渡海は一律で千里
倭国の本土に到着するまでを萬里にする
という二つだけで作った数字だよ
計測して出した数字じゃない >>266
>なんでドンとこいスレは番号が飛んでいるんですか?
>そもそもはここが本スレと聞いていましたが。
このスレの>>1を見れば、これがスレタイ騙りスレだって分かるだろうに 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 みんなでこのスレも使いつぶせばいいよ
どうせニセスレなんだし 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 大昔の神武東征以前のこと、新羅から、摂津国へ築城木工集団が渡来して、
その首領であった、久々智(くくち)が『新撰姓氏録』・摂津皇別に登場する。
(現在も、尼崎市に久々知の町名が残る)。
このくくちの最初のくが母音変化すると、きとなって、木口(きくち、口は集団一党を意味する)となり、
のちに佳字の菊池(きくち)を当てたとなる。
この氏が、九州方面にも移り、菊池一族を中心に繁栄したとすると、菊池さんの人口、15万にもなりうる。 摂津の開拓は九州の発展よりずっと遅いのだから、熊本のククチさんが大阪に進出したんだろう。 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2Rivcaei8JbT38AGR4dOfx7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 熊本県掬智城
>続日本紀に、
>「大宰府をして大野(福岡県)、基肄(きい・佐賀県)、鞠智(くくち・熊本県)の三城を繕治せしむ」と、記載されている。
>大野城と基肄城は、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した後、
大和朝廷が倭(日本)の防衛のために築いた古代山城である。665年(天智天皇4年)。
>二城の建設を担当したのは亡命百済人で、「兵法に閑(なら)う」と評された。
>そして、続日本紀の698年(文武天皇2年)には、 大野城・基肄城・鞠智城の三城の修復記事が記載されている。
九州に「久々知・くくち」の名が現れるのは、この698年が最初。
おそらく新羅渡来の久々知族が築城を担当したので鞠智城と呼んだのだろう。その建設もさほど古いことではあるまい。、 鞠智城は取り合えず7世紀よりもずっと古いらしいけどね。
魏志倭人伝の中に大野城、基肄城らしき地名もあるのだから、古代三城が3世紀には成立していたということでいいだろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています