九州王朝ってどこまで信じれるの?
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wikとか見たらすごい面白そうなんだけど
トンデモ説の域はでてないのかな? 都というか、当時は王族の住む宮が各地に点在していたのだろうね。 唐との戦争に負けて滅亡しました。
唐の傀儡政権として畿内ヤマトが成立し、足繁く遣唐使を送り、唐に習った律令制を導入しました。 >>212
なんで九州に傀儡政権を創らなかったのか?
なんで、遥か遠方の山奥の田舎の奈良に傀儡政権を創ったのか?
理由を述べよ 九州には唐が直轄する筑紫都督が置かれています。
その後、福岡と太宰府は筑紫地震で壊滅します。 中大兄皇子らが実権を握る近畿政権はもともと新羅と親交があり、積極的には朝鮮半島に援軍を送らず、百済と親しかった筑紫倭国を意図的に敗北に追い込んだ。
663年に白村江において行われた決戦で倭国の1000隻余りの水軍のうち400隻余りが炎上し、陸上戦でも敗北した。
記紀を編纂した近畿大和朝廷から見れば筑紫倭国の敗戦に責任はないばかりか、これこそが政権奪取の好機だったのである。
中大兄皇子が唐や新羅ともとより通じていたのであれば、敗戦処理においてむしろ唐の信任を得て勢力を拡大したことも合理的に説明できる。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留される。
筑紫には唐から郭務悰ら唐人六百人を含む2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからに他ならない。
668年、筑紫の駐留軍は撤退し敗戦処理が終わり、後を引き継いだ中大兄皇子は天智天皇として西は九州、東は東北南部までの統一政権を樹立した。この敗戦処理が中大兄皇子がなかなか天皇に即位せず大兄(おおえ、皇太子)でありつづけた理由だろう。
その翌年には筑紫都督府が置かれ、唐の皇帝が任命する官の行政府として機能した。
こうして栄華を極めていた倭国王朝は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する親唐的な畿内大和政権が継承した。
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
実質的な権力移行により官僚は畿内に移動し、地震により倒壊した建物や仏教芸術を含む白鳳時代の文化財も畿内に移築され、主権を失っていた筑紫は震災からの復興もままならなず政治的には没落したと考えられる。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内には国号の変更については記録がない。 671年に天智天皇は病死し、672年にその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
天武天皇の時代に編纂された古事記と日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
ただし新たな創作をするのではなく、九州における歴史の一部を抹消し、一部の事実は組み込んで細かいつじつま合わせをして、
本来は傍流であったはずの畿内大和がおよそ三世紀頃と推定される神武の時代まで遡って列島の支配者であるかのように見せかけた。
日本書紀の編纂と並行してそれ以外の歴史書の焚書を行ったため、
8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われたと考えられる。
日本書紀は多くの書からの引用を含んでおり、編纂が行われていた頃までは邪馬壹国を含む倭国王朝の記録もあったに違いないが、倭国の名を消すために慎重に歴史の改竄を行っている。
文書上の改変だけでなく、倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物が平城京に移動される。
九州北部と畿内で多くの地名が配置も含めて一致していることが知られており、歴史や地名も含めた文化のすべての移植をはかったのである。
その一方で、天武朝のときに外交使節として筑紫館が建てられたとされており、後の鴻臚館として朝鮮半島との通商の拠点として福岡の経済的再興の礎となった。
701年の大宝律令の制定により、正式に日本が国号として用いられるようになり、行政単位が唐の評から郡に改称され、畿内大和政権は独立国として国郡制による全国支配を確立したと考えられる。
続く710年には奈良盆地に壮大な平城京が建設され、九州から畿内、関東まで勢力下に置いた中央集権国家としての畿内大和政権が誕生する。
この統一王朝の名称としては大倭(オオヤマト)が用いられ、表記が大和とあらためられた後に、
以前から筑紫倭国に対して近畿の政権を示すために用いていた呼称である日本国が列島全体の統一王朝の国号となると、大和は政権中枢の位置する畿内の地名に変化してしまった。
中国に対しては筑紫の政権から畿内の政権が連続する王朝であると主張し、近現代においては筑紫に王朝があったことすら忘れ去られようとしているのである。 筑紫王磐井の乱って古事記日本書紀にも書いてあるやん
大和政権とは別で独自に大陸と外交、交易してたんやろ? >>217
>中大兄皇子らが実権を握る近畿政権はもともと新羅と親交があり、
ド田舎の奈良の山奥にどうして近畿政権とやらが出来たんだ?
初っ端から捏造話である。
最初っから、やり直せ!! >>220
いやいや、内陸の奈良に飛鳥寺や法隆寺が建てられてるんだが
お前らは九州のどこに飛鳥寺や法隆寺があったと言ってるの? 九州王朝説=支那が日本を占領したことにしたい説
に最近は落ちてるな 阿波には飛鳥寺や法隆寺より古い寺院があったそうな。 太宰府観世音寺は聖武天皇の天平18年(746年)の完成だろ? だいぶあとだな。 >>226
天平18年(746年)以後の移築になるが? 観世音寺は7世紀後半に発願なので
完成には100年くらいかかってるんですよ。 >>228
完成後の移築ではなお時期が合わなくなるな。 まあ、出来たところから運用を始めて
費用や材料が都合のついたところから
順次整備して行ったんでしょうね。 阿波には白鳳瓦の瓦窯跡もあるそうな。いったい阿波って? 着工から完成まで約80年を要した観世音寺
観世音寺の完成は、よく知られるところの、僧正・玄ムが天平7年(745)に
観世音寺に造観世音寺別当として左遷された翌年に落慶法要が営まれて
いることから746年だとされる。仮に着工が前述の670年とすると、実に完成
まで76年をも要したこととなる。
ただし、下記の通り観世音寺には施入が行われたとの記録が残されている
ところから、伽藍全体としては建築途中ながら金堂などの中心堂宇は完成
して僧が住して日々の宗教活動は遂行されていたと考えられる。そして
養老7年(723)に僧・満誓が勅によって造観世音寺別当として派遣されている
ことから、この頃には一応の寺観は整っていたのではないかとも考えられている。
○朱鳥元年(686) 観世音寺に封200戸を施入
○大宝元年(701) 5年に限って封を停止
○大宝2年(702) 筑前国上座郡の園地49町を施入
○大宝3年(703) 筑前国上座郡把伎野他を施入
○養老7年(723) 僧・満誓を勅によって造観世音寺別当として派遣 阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字の練習をしていた。
観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財指定された。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀末頃に奈良へ遷都する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。 糞ジャップ共は全員津波に飲み込まれて死ね!!!!!!!!!!!!!!
ジャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアップwwwwwwwwwwwwwwwwww
劣等人種ジャップについて語りたい場合は
↓
http://hanabi.2ch.net/ogame/ >ド田舎の奈良の山奥にどうして近畿政権とやらが出来たんだ?
なんか勘違いしてる?
畿内王家も併行して存在してたんだよ。
継ぎはぎなのは、その権力実体<九州の傀儡政権の方が強かったと思われる。
武烈(九州派)と継体(反九州派)の争い。継体なんて酷い諡だが、勝った継体が
九州と決戦してようやく山口までと筑紫の屯倉一つ得た。なんじゃそらw
衰えたといえまだ相当の軍事力を有していた事になるね。 >144
>148
大善寺の御塚、権現塚は倭の五王の墓だ。
八女筑後は上妻、下妻の名前が残っている。投馬国だ。
邪馬台国は旧山門郡た゜4. >239
九州王朝と言っても九州には
邪馬台国の勢力、邪馬台国と倭国大乱で戦った勢力、狗奴国の勢力があったんだよ。
初期の九州王朝は邪馬台国と倭国大乱で戦った勢力だ。
糸島〜博多湾岸〜宗像を活動の拠点にしていた。筑紫(●ちくし)の勢力だ。
邪馬台国は肥国の勢力だ。有明海を拠点の中心としていた。
邪馬台国は 他油津媛が神功皇后に殺されて権力は博多湾岸勢力か゜優勢になった。
博多湾岸勢力は4世紀以降は活動の中心を倭国大乱で支配しようとした肥国に移した。
だから肥国の中心である筑紫平野は筑紫(●つくし)と呼ばれるようになり、
肥国と呼ばれるのは、肥前(佐賀県)と肥後(肥後)だけになり、筑紫平野で分断されるかたちになった。
4〜5世紀を境に筑紫(ちくし)の勢力は筑紫(つくし)の勢力と婚姻関係などをむすんだりして。
活動の中心を筑紫平野へ移して、倭の五王などが良山、大善寺で活躍した。
狗奴国は菊池を中心とする肥後の勢力であり、仲が悪くなる以前は肥国の邪馬台国の勢力だ。 最初から最後まで全部が妄想の産物である九州王朝に、信じられる部分など絶無だよ 九州には筑紫、豊、肥、熊襲の勢力があった。
筑紫と肥は長年争っており、
佐賀の神埼から鳥栖、
福岡の旧山門郡から熊本の玉名、山鹿
には戦争の痕跡が多く残っている。
4世紀には景行天皇の高良山仮宮神話の元となる
筑紫の久留米攻略に成功。
大善寺玉垂宮から上津天満宮、
高良山玉垂宮への攻略と
結構生々しい話が残っており
それにちなんだ神事も残っている。 筑紫の久留米攻略によって
筑紫平野をめぐる戦争は終結し
肥は筑紫に従属した。
肥との戦争がなくなった筑紫は
豊へ侵攻を開始する。
景行天皇、ヤマトタケルの熊襲征伐の
話の元となった戦争である。
豊前から侵攻し、豊後日向大隅へと
征伐を続け、大隅へしばらく滞在したのが
記紀の記述にある。
後には肥後を巡幸し、従属した肥後を
見回ったような記述もある。
この巡幸は浮羽を最後に終わっている。
久留米高良山か筑紫大宰府に
帰還したのだろう。 90 : 日本@名無史さん2017/03/12(日)
>>88
狗邪韓國は何人の領土?
95 : 1 ◆q8leUXpsw. 2017/03/12(日)
>>90
領土といいう観念に語弊があるかとは思いますが韓人の国でしょう
金官国の全身とするのが通説です
↑
この衝撃的な失言を落とすために
スレ乱立して板操作しておりますですよ なぜ音読みが呉音かと言う説明もつくよな。
九州は魏〜晋の系譜で南朝の属国。北朝の随、唐は高句麗滅亡を宿願として
おり、二重に敵となる。 九州王朝が実在したかは知らないが、長崎から鹿児島までは一つの国(熊襲?)だったと思う
というのも、成人T細胞白血病(ATL)のウイルスキャリア分布図と日本語アクセント九州二型地域がほぼ重なってる
どちらも親から子へと受け継がれていくものなので、この地域は先祖が同じ集団だったと推測できる
九州の西側の海を船で往来してたんだろうね >>250
それは肥国であり、その王家を熊襲という。
肥国王家や筑紫王家、豊国王家が連合して倭国すなわち邪馬台国連合を形成していた。
九州王朝は倭国の俗称である。 卑弥呼は肥国王家出身であったが、倭国の都である伊都で君臨した。
同じ肥国王家の肥後狗奴国とは王位をめぐって対立した。
壹與と熊襲梟師(河上梟師)も肥前河上の王である。壹與は肥前国一宮河上神社の祭神淀姫として祭られている。 私は九州王朝説を卒業します。
九州王朝説なんてアホらしくてやってられません。
古田は真正の痴呆でしょう。
彼を信じてた私も痴呆でしたが。
あんな糞野郎に騙されてたのかと思うと、チンコの皮がムケません。 別に信じちゃいない。
ただ、納得できる点も多かった。
これはおかしいという点もたくさんあった。
自分で取捨選択すればいいだけ。 大陸は古代から延々と戦乱を繰り返しているわけで
その強い影響を受けるのはやはり北九州でしょう
後にそこは防人と呼ばれる大宰府であったり、伝統的な日本の防衛拠点に位置することに
なる場所だ
平和な縄文文明から真っ先に離脱していくとしたら
大陸の戦乱地に最も近い北九州だったと思う だよな。具体的な論説を元に組み立てられた学説だから、全部賛同する
必要もないし、変な説、無理筋な説も結構ある。
ただ、如何に日本の古代史学会が空っぽかつ歪んでるかを教えてもらった
だけでも良かった。
自然科学者とのコラボが多いのもいいところかな。法隆寺の木材が九州
産とか。「九州」呼称、九州年号、郡評論争、黒曜石産地、ペルーの縄文
土器とアカホヤ噴火、実に多くの「無視・スルーされた謎」に光を当てた
功績も偉大だが、とにかく学者が卑怯なことw
何故筑紫神話なのか、天神とは何か、三種の神器は何故畿内から出ないのか、
中国文献からは九州しかイメージされない事、旧唐書の記述、交戦国なのに
唐から罰を受けない大和朝廷、そもそも唯一大和王権だけが古代から連綿と
王家だったというキチガイじみた妄想www
考古学者という誤れる唯物史観の連中には、奈良の古代像すら明らかにできて
いないじゃないかと。三輪さんとは何か、神武と欠史八代の謎、巨大古墳の
謎、纏向マキムクとうわごとのようにそればかり言ってた割にはどういう遺跡
かも明らかにできていない。物だけからは、王朝の数次にわたる断絶もわからない。
古墳編年という奇態な超絶技巧だけがよりどころというみじめさ。 >>255
そもそも水田稲作が始まり、最初に弥生時代に突入したのが九州北部の玄界灘沿岸部だよ。
最初の王権も考古学的には博多湾に成立している。 筑紫勢力 漢委奴国王(57年 後漢書)->九州王朝
肥国勢力 親魏倭王(238年 魏志)->邪馬台国->九州王朝に吸収合併
畿内勢力 元小国で倭国を併合 印綬不明(703年 旧唐書) ->大和朝廷 日本国が周辺国に国号変更を通達したのは680年、畿内政権の完全な支配権の確立は701年の大宝律令。 九州王朝も厳密には512年成立だから
それ以前は筑紫勢力というべきかな。
(二中歴より) >>260
それって何の年?
それ以前とどう違うの? >>261
九州王朝の九州年号が
二中歴によると
西暦512年から始まるんだよ。 年号建てる以前から建国している可能性はある
少なくとも年号を立てた時点で既に建国はしてあると考えるべきだな それなりの勢力が安定して
年号を建てるようになったんだから
当然年号以前からふさわしい国はあっただろうな。
どこに線を引くかだけの問題だ。 正確に言うと二中歴では
逸年号の一つとして紹介されており
九州年号と書かれているわけではない。
しかし広く使用されていたものらしく
各古文書で二千箇所ほどの使用例があり
本来大和朝廷の年号で書かれている
記紀でさえ、数カ所の使用例があるそうである。
引き写しのときに変更し忘れたのかもね。
白鳳文化の白鳳も、大和朝廷年号にはない
九州年号の年号である。 広く使用されていた逸年号であるが
大和朝廷では大化を初めて建元した年号としており
九州年号は大和朝廷年号ではないことは
確実である。
広く使われていた九州年号の時代にも
年号を発布する政権があり
それは大和朝廷とは関係がないと言うことになる。 そんなことは知っている。
しかし建国とは全然違う。
九州倭国の建国は紀元前のイザナギによる博多湾の能古島開闢から。 九州年号かどうかなんて分からない
四国年号かもしらんし 九州年号の最初は継体であり、
さらにその前の政権から
継いだような印象を受ける。
九州王朝内で大きな政権交代が
あったのではなかろうか?
また九州年号の最後は大化となっており
その後は大和朝廷の大宝へとつながる。
大化の改新は、九州年号の大化ではなかろうか?
大化の改新で九州王朝から
大和朝廷に変わったとすれば
非常に合理的に説明できるのだが。 >>271
九州年号の大化のあとには大長があるという説もある。
完全にチェンジしたわけではなく、
残党が残っていたのかもしれない。 大化の頃はまだ九州王朝の絶頂期ですよ。
政権交代なんて起きません。
やはり白村江における敗北が痛かったのです。 >>273
あ、九州年号の大化です。
695年が九州年号の大化だったと思います。 崇神が4世紀初頭の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するかのように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
もちろん彼らには正后(奥さん)はいる。
しかし彼らが大王ならその血を残すために複数の妃がいて当たり前。ところがいない。
つまり彼らは大王ではなかったのだ。
やはりこの時代は女王国であった。
では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。
それがいるのだ。
@神武→ヒメタタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマトヨツヒメノミコト
D孝昭→ヨソタラシヒメノミコト 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
見事にヒメとトヨの時代。
そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。
邪馬台国の都とは「ヒメ」タタラが住まわれた葛城、奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。
これが私=天才のHPだ。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite/home 隋書「度百濟,行至竹島,南望耽羅國,經都斯麻國,乃在大海中。
又東至一支國,又至竹斯國,又東至秦王國,其人同于華夏,以爲夷洲,疑不能明也。
又經十余國,達於海岸。自竹斯國以東,皆附庸於俀」
筑紫は一支國とおなじ途中のくに。
其人同于華夏,以爲夷洲,疑不能明也は秦王國のこと。
だから清は秦王國に行った。
俀とは秦王國のこと。
だから筑紫は秦王國の属国。 秦王国は筑紫のすぐ東にあるように読めるな。
その当時は豊国、今の北九州市が倭国の盟主だったのだな。 >秦王国は筑紫のすぐ東にあるように読めるな。
その当時は豊国、今の北九州市が倭国の盟主だったのだな。
隋書「又東至一支國,又至竹斯國,又東至秦王國」
一支國は壱岐のこと。竹斯國との間に海があるが、書かれていない。
従って竹斯國と秦王國の間に海がないとは断定できない。
秦王國が竹斯國のすぐ東にあるというのは想像に過ぎない。
最後に至が付いているのは秦王國であるから、清は秦王國までは行ったにちがいない。
そこから先は達であり、書き方が変っているので、行っていない可能性大。
こういう見方をすれば、清の目的地は秦王國で、そこが俀のこと?
「其人同于華夏,以爲夷洲,疑不能明也。」は目的地の説明である。
秦王國が九州にあれば「又經十余國,達於海岸。」海岸に達するまで10国以上あったことになるが? >>279
文書が秦王国の後でいったん切れている。
筑紫の近くにあり、そこが当時の都だった。
北九州市、遠賀川流域、筑紫の岡田宮のあったところ。
豊国の都だな。
九州北部にあった倭国連合の一員だ。 >>277
秦王国から東にも海と十余カ国あり、筑紫より東は全て倭国である。
秦と筑紫とどちらが上位かわからないけれど、どちらにしても九州北部で、本州はその属州と。 >>280
>文書が秦王国の後でいったん切れている。
そのとおり。
>筑紫の近くにあり、そこが当時の都だった。
そこが当時の都だったはその通り。
筑紫の近くにありは推測に過ぎない。>>279で筑紫から秦王国まで海がないとは言えないと例示した。
だから、筑紫の近くと断定して推論するのは早いといっている。
>>281
>秦王国から東にも海と十余カ国あり、筑紫より東は全て倭国である。
あいまいにしてはいけない。正確には、秦王国から東に十余カ国を経て海に達すると書いてある。
秦王国が九州にあれば、筑紫より東で、なおかつ10余国を経なければ海岸に達しないなど、
小さな国が密集していたことになるが。
>秦と筑紫とどちらが上位かわからないけれど、どちらにしても九州北部で、本州はその属州と。
「どちらにしても」は、秦王国が九州という前提が入っている。
秦王国が九州という結論はでていないのに、推論している。 >>282
筑紫のすぐ後に秦王国が書いてある。
海の話は少し間をおいて書いてある。
筑紫のすぐ隣が秦王国だろう。
そこまでは使節が往来しただろう。
秦王国が関西方面なら、途中の記事とか距離や日数が書かれないとおかしい。 >筑紫のすぐ後に秦王国が書いてある。
一支國と竹斯國 が隣り合っていないが「又東至一支國,又至竹斯國,又東至秦王國」とある。
又至は距離を感じるが、それは主観だからどうでもよい。
>海の話は少し間をおいて書いてある。
>筑紫のすぐ隣が秦王国だろう。
「又經十余國,達於海岸」の基点はどこか。筑紫か秦王国か?
十余国通過しなければ海岸に到達できない。不思議に思わなければそれまで。
>秦王国が関西方面なら、途中の記事とか距離や日数が書かれないとおかしい。
「関西を想定すれば、こう書かれていなければおかしい。そうでないから、関西ではない」
という論法は関西で無いという論拠にはならない。
関西で無いことを結論付けたかったら、隋書以外を使ってでももっと強い論拠を示す必要がある。 隋書「度百濟,行至竹島,南望耽羅國,經都斯麻國,乃在大海中。又東至一支國,
又至竹斯國,又東至秦王國,」
ここに現れる国名は、秦王国以外は現在でも場所を特定できる。
秦王国もほかの国と同様れっきとした国。
秦王国を魏志倭人伝中の侮辱的な名前の一国のように考えては間違う。
秦王国が地名で無い場合、旅程と地図からでは確定できない。
清はここを訪れている。逆に、清が訪れた国が、なぜ、秦王国という大陸系の名前なのか、
なぜ、そこの人は夷でなく中国人と同じといわれたかを考えるべき。
政治史に解答がある。昔の研究者にはピーンときた人もいるでしょう。 邪馬台国がクニの共立女王であることは確定だから、当時のクニは小国も
多数存在していたことは確実。まあ実際は民主的選挙などではなく、大国が
推戴して小国に押し付けた共立だろうが。それしかないよな?現実には。
だから、核になる国はあったはずで、そこか対立する大国かが九州倭国の
前身であったのは間違いなかろう。僻遠の東方に大陸の窓口があったなどと
ほざくどっかのアホは、平和裏に女王を共立した遺構=纏向などとほざいて
いたが、そういえば最近大人しいな。何か具合が悪いのか? ww
更に考えてみると、大国同士の手打ちなのか、むしろ支配権の拡大をねらった
卑弥呼の推戴なのか。ならばその国こそ九州王家の宗家となったんだろう。
実体は、某大国による卑弥呼の背後からの操作による支配権の拡大。恐らく、
暦や観測技術に関することではないか。フィクサーは漢人かもしれない。
ウガヤ、物部ら豪族たちは、その国内の家臣なのか、それとも各国の首長
なのか。 その各国の具体的な問題だけど、大きな王家は九州北部に3つしかない。
筑紫の天孫族、豊国王家、肥国王家しかない。 肥国は火の国でもいいけれど、有明海沿岸の国。
熊本県と佐賀県、長崎県の一部、福岡県の一部。
文化的にはそこまでが北部。
これがいわゆる倭国。 佐賀長崎の肥前国と
熊本の肥後国ですね。
その間の筑後が肥国なら
邪馬台国の使者は肥国以外
通っていないことになります。
肥国が招聘したのなら当然ですね。
筑紫はもちろん九州王朝ですが
4世紀頃に邪馬台国を吸収します。 戸籍研究の題材で有名な火君(肥君)猪手が、肥後を根拠とする火君家の支流ながら筑前に拠点を置いてその地で郡司を勤めていた点を考えたら、
肥の王家は肥前肥後だけの領主ではなかったんじゃないの? 筑前の一部も含めてかなり広範囲な雰囲気 三王家の代表が倭国王として筑前において大王となったのでしょう。
卑弥呼も肥国から擁立されて倭国女王となり、都を伊都に置いたのです。
それだけに、同じ肥国から王を名乗る者が出たことで処遇に困ったことでしょう。
他の部族であれば、夷狄として倒せば良かったでしょうが、同じ王家ではそうもいかなかったでしょう。 一つの農地周辺=クニが拡大・併合していき、大国連合同士が領域を接し始めると、
戦争が起こる。北部九州レベルでは先進地域同士の争いであり、決定的な差はつかず、
泥沼化する。そこで農業技術や暦、観測などを共有化することでその祭祀を共立女王
とした。
その死後、当然前回より生産力と兵器所有、人口は増加しており、さらなる大乱は
周辺諸国を巻き込んだ。
これを治めるのは容易ではなく、卑弥呼の時とは別の何かが必要だっただろう。
それが本腰上げた東方植民地への拡大―政治的には「天下り」と自称するムーブメ
ントの開幕である。高地性集落もむなしく、九州・半島南部勢力のポテンシャルは
凄まじく、たちまち畿内、東海まで進む。 >>297
適当なカタカナで煙に巻いているところは、畿内説のスレの中二病のスレ主と似ているな。 歴史で持ち出すことはない。
具体的に説明できないから誤魔化しているだけ。 いーんじゃないか
変に細かくて結局何が言いたいの?な
畿内説学者より
そんで若者をわざと寄せ付けないw 結局何が言いたいのかわからないことに変わりはない。
無意味 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ 昨今の政界を見ていると、筑紫倭国の末期における混乱も同じようなものだったのかなと思う。
裏切り者が大きな顔をして、新政権の中枢になるようなことがあったのだろう。 竹取物語に登場する貴公子たちはほぼ実在の人物で、その官位からは舞台が西暦701年、律令制の確立された年とされる。
ただ1人の仮名の人物は藤原不比等と推定されており、かぐや姫から課された課題は筑紫の龍の玉、すなわち王権を取りに行くことであったが、これを嘘偽りで済ませようとした。
嘘偽りで政権を取ろうとする企みは昔からあった。 白村江の戦いにおいて、中大兄皇子は積極的に援軍を送らず、結果として倭国は大敗した。
唐が筑紫を占領し、筑紫都督府を置くのと並行して、中大兄皇子は天智天皇として政権を握った。
政権の成立過程には多くの疑問があり、計略により権力を掌握したのではないか。 白村江の戦いにおいて、中大兄皇子は積極的に半島系渡来人を起用し
日本国内における尊王攘夷政策への転換を遂行した。
新羅対百済の内戦で、百済の白村江に日本が意味不明の海軍を送る理由は無く、
唐に対して、対等国として喧嘩ならいつでも買うという姿勢
宣戦布告を行い、独立国姿勢を示す以外の理由は無く、疑問の余地はない。
半島利権の維持が目的なら唐の勢力外の釜山から布陣する。
半島利権の放棄で九州起源虚像の神話の皇国を確立した。 百済は天皇家の外戚で、半島の利権の回復も狙っていた。
百済王家の再興を掲げ、実際には傀儡政権の樹立を目指した。
それが唐との対立の原因となった。
筑紫倭国からの政権交代後は、遣唐使による唐への朝貢外交が盛んとなり、唐を真似た律令制の導入など、戦後の日本よろしく戦勝国への服属外交となった。 百済の成立自体がそもそも日本の傀儡国家である。
百済の朝貢によって得た、七支刀、銅鏡、五経博士、仏教などを日本に献上させた。
中国は属国朝鮮に与えても、日本に知識や技術、文明を提供していない。
昔の中国の賢人曰く、日本のように隣国に知識や技術文明を与える国は亡びる、のである。
留学生を受け入れさせるのは、服属外交とは言わない。
戦前の日本は、皇国神話に背いて日韓併合を行った。
白村江での唐との対立は半島利権に関する政治的好戦姿勢であり
大韓帝国や満州国の建国の逆と同様、外交的戦後処理によって唐に半島を委譲しただけの事である。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています