九州王朝ってどこまで信じれるの?
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wikとか見たらすごい面白そうなんだけど
トンデモ説の域はでてないのかな? 百済は扶余族なので、その建国は倭国とは関係ない。
倭国が半島に干渉しようとして失敗して、九州王朝が滅んだ。 >>1
>トンデモ説の域はでてないのかな?
そうだよ、トンデモだよ。 >>302
細かいところにこだわるから細かいテーマしか出せない一般の研究者と逆に
細かいところを尽く蔑ろにして成立してるのが古田説 こまけぇこたぁ
いいんだよ!!
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|イ二つ/⌒⌒\
| 二⊃ (●)(●)\
/ ノ/⌒(_人_)⌒ \
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/ \ `ー′ / 筑紫の日向が糸島市のことだと明確にしたのは大きな功績だったよ。
それだけで古代史の様々な謎が一気に解けた。 結局、古田の言説の大半は与太話にしかならなかったんだよな 記紀と魏志倭人伝の整合性は、記紀も魏志倭人伝も都合が悪い畿内説にとっては、大変不利なことなんだろうなw 九州王朝説はトンデモらしいが、なんで日本書紀には南宋だっけ、に朝貢した記事がないんだ?少なくとも奴国と倭国は別物だよなあ 倭国が朝貢したのにその記録が日本書紀にないなら、倭国と日本は別の国。 >>319
そういう、史書に無謬性を求めたい気持ちが九州王朝説という幻想を妄信させてるんだよね
史書には間違いも多く含まれているのが普通だという現実を受け入れられないんだよ 九州王朝があったのなら、畿内の大和政権と頻繁に戦闘がありそうだが。 3世紀では畿内は政権とも呼べないくらい弱小ですよ。
神武が出かけて行って戦った記録はありますけどね。 もう九州王朝信者は過去半世紀ぐらいの考古学研究を全否定しないと成り立たないぐらいまで衰退したしな 過去二千年分の文献を全て無視しないと成り立たない畿内説には言われたくないですね。 相変わらず妄想全開の九州信者乙
文献に誤記や誤信、誤情報が含まれてるのは当たり前で、魏志倭人伝も記紀も例外ではないと言ってるだけなのに。 九州王朝説はどこまで信じられるか?
そりゃ、信じたら白痴認定されるくらいに、だよ >>328
全くの同意。
自謂太伯之後という一文でそれがよく分かる。
太伯というのはBC12Cの人物なんだが、BC12C頃はもちろん、縄文から弥生を通して、
日本には中国からの渡来定着を証明する証拠遺跡も、その生活痕たる中国系土器も
中国系農具も何もない。
全く違う人物を魏使が勘違いしただけだろう。
だいたい太伯は当時さえ1400年くらい経っていて、魏使にとっても伝説の人物。
ありえないね。 稲作が呉のあたりから誰かが稲作を持ち込んだのが紀元前10世紀くらいだから、辻褄があってしまう。 >>331
で、呉あたりから誰かが稲作を持ち込んだ事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系土器と中国系農具と当時の呉あたりの中粒種のイネは?
で、呉あたりから誰かが稲作を持ち込んだと言っている頭のおかしな考古学者の
氏名と所属団体は?
. まあ、野生種の稲を栽培化して水稲水田耕作をはじめた地域が長江流域以外に有り得なくなったのはたしかではあるが。
で、陸稲の栽培が水稲からの派生しか考えられなくなったこともあるが。
日本に水田を伝えたのが長江流域から直接だったかどうかは不明なままではなかったかな >>334
頭が20年以上前で終わってる棺桶に片足突っ込んでる死にかけの爺さんか?
稲作の研究はこの10年で著しい進歩があり、日本の稲作は99.9%半島から
導入されたもので決着している。
江南が出る幕なんか、もうスズメの涙ほどもないぞ。 その当時は今の朝鮮民族はまだいなかった。
北方の扶余族は稲作なんか知らないだろう。
つまり江南の民族が楽浪を経由して持ち込んだんだろう。
結局、江南の民族または江南で稲作を学んだ漢族(太伯の後w)しかありえないではないかな。 >>336
ほう。
で、そんな狂った事を供述している頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?
. >>336
少なくとも山東半島南岸までは水田文化が拡大したし、山東半島は遼東半島や韓半島と水路での交流はある
遼東半島や韓半島の北半部が水田耕作の北限を越えているからと言って、そこを経由しなかったとは言えないだろ
呉太伯の末裔説は当時の一部の人が妄想して言っただけの与太話だろ
ただし、韓半島南部で水田耕作を受容していて日本列島に伝えたという人々が倭人系(縄文人系)だった可能性もある(なんせ、半島南部に縄文系の集団が住んでいたからね) >>338
朝鮮稲作は遼東半島からのパクりだと思いますね。
なぜなら中国土ねが櫛目文土器時代から朝鮮無文土器時代を通して朝鮮半島に
ないじゃないですか。
箕子朝鮮が侵入するまで、朝鮮半島の文化は総て遼東半島からのパクりだと思いますね。 >>338
うーん、偏差値43。
朝鮮稲作は遼東半島からのパクりなだけ。
なぜなら、櫛目文土器時代から朝鮮無文土器時代を通して、生活痕たる中国土器が
朝鮮半島には全く存在しない。
箕子朝鮮が侵入するまで、朝鮮半島の文化は総て遼東半島からのパクり&コピーだと
考えられる。
で、その遼東半島からのパクりを今後は九州北部の弥生人たちがパクった。
朝鮮土器が一基しか出土していないのだから、最古水田菜畑の弥生人が朝鮮半島経由の
集団であるはずがない。
半島に縄文人の定着を証明する証拠遺跡も、その生活痕たる縄文土器もない。 >>338
うーん、偏差値43。
朝鮮稲作は遼東半島からのパクりなだけ。
なぜなら、櫛目文土器時代から朝鮮無文土器時代を通して、生活痕たる中国土器が
朝鮮半島には全く存在しない。
箕子朝鮮が侵入するまで、朝鮮半島の文化は総て遼東半島からのパクり&コピーだと
考えられる。
で、その遼東半島からのパクりを今後は九州北部の弥生人たちがパクった。
朝鮮土器が一基しか出土していないのだから、最古水田菜畑の弥生人が朝鮮半島経由の
集団であるはずがない。
半島に縄文人の定着を証明する証拠遺跡も、その生活痕たる縄文土器もない。 朝鮮半島に土器も稲作もなかった頃に朝鮮半島から稲作が伝わったっていうのは、どういう理屈なのか。 >>338
>遼東半島や韓半島の北半部が水田耕作の北限を越えているからと言って、そこを経由しなかったとは言えないだろ
苦しすぎる。
江南の民(王?太伯の後?)が遼東半島の沿岸を航海して九州北部にたどり着いたら遼東半島経由だと言い張るのか?
江南から伝わったとは言わないのか? >>343
いや、江南から韓半島南部に移住した人らと半島南部の住民(このへんは半島人じゃなく縄文系が多く住んでたはずだが)が交流したあと、世代を経てそこから(江南人じゃなく半島在来系が)稲作を伝えたとか言うロジックは否定できないっていったんだよ
江南系の文化をもった住民が日本列島に来たわけじゃないなら出土物と矛盾しないってこと >>343
で、江南の民が九州北部に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系土器と中国系農具は?
. 稲を積んだ舟で漂着したほんの数人
あるいはたった一人であっても
現地人に受け入れられれば稲作を伝えることは可能だったろう >>344
で、江南から韓半島南部に移住した人らを証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる江南系土器と中国系農具は?
で、半島南部の住民が縄文系である事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる縄文系土器は?
. >>346
だからそれを早く証明しろよ。
その漂着して定着した証拠遺跡と、その生活痕たる中国系土器と中国系農具と
当時の江南の中粒種のイネは?
. >>24
継体は即位前の地方豪族時代からオオド王として百済から贈り物をもらってたんだよ
そして当時は「王」は王家(後の天皇家)の姓だった
(姓と同じように、父親から受け継ぐものだった)
(つまりたとえば権力者でなくても、女性でも、「王」を名乗ってた)
「オオド王」と名乗ってた時点で王家の(地方に飛ばされた分家で、かつ5世代離れてるものの)男系の人間だから、皇位継承権がある
だからこそ百済は王家本家(雄略系)の断絶を見据えて、オオド王に贈り物を贈ったわけだ
そういう意味では王朝交代はない >>348
>当時の江南の中粒種のイネは?
江南中粒種=陸稲中粒種=縄文陸稲種=BC2000東北地方出土炭化米
江南短粒種=水稲短粒種=BC1000菜畑縄水稲種 江南短粒種=水稲短粒種=BC1000菜畑縄文水稲短粒種 >>350
で、当時の江南の中粒種のイネは?
早く証拠現物を見せてみい。
. >>352
>早く証拠現物を見せてみい。
既に河姆渡遺跡等江南で中粒米短粒米が混在して発掘されている。
灌漑設備のない時代に、中粒米と短粒米を混作すると
中粒米=陸稲種米 梅雨に水が少ない年は豊作となり、梅雨に水が多い年は不作となる。
短粒米=水稲種米 梅雨に水が多い年は豊作となり、梅雨に水が少ない年は全滅となる。
なお、米の単位耕作面積あたりの収穫量は、短粒米=水稲種米>>中粒米=陸稲種米
中粒米と短粒米を混作することにより、いかなる天候でも米収穫量は確保できる。
菜畑遺跡のような扇状地では水が常に確保できるので、多量収穫の短粒米=水稲種米の栽培だけでよい。
中粒米=陸稲種米の栽培は不用。 >>353
初めて稲作するのに何で短粒種だけで良いと知ってるの?
おかしいじゃないか。
だいたい倭に稲作がないって何で分かったの?
その前に海の向こうに倭があるって何で分かったの? >>353
で、菜畑遺跡で出土した中国系耕作用農具は? それよりも
琉球王国だよ、確実にあった、実在していた 琉球は稲作を導入しやがったんじゃなかったかな。
だから弥生時代そのものがなかったはず。 >>355
>菜畑遺跡で出土した中国系耕作用農具は?
菜畑遺跡では水稲短粒種を広さ10畳程の水田で栽培していたから、
稲陸中粒種耕作用の中国系畑作用農具は使わない。
>>354
>初めて稲作するのに何で短粒種だけで良いと知ってるの?
菜畑遺跡のような扇状地の水利の良い水田で水稲短粒種を栽培すれば、
畑作の稲陸中粒種より数倍の収穫がある。 偶然、テレビから聞こえてきたんだけど、
気分が悪くなって入院にした、若島津?
むかーし島津という名前の同級生がいたような気がする、
たしか気分が悪くなって、学校の近所にある、病院に入院したの
給食を食べた後だったかな?気分が悪くなったんだよ、
給食の前の運動の時間?たしか鉄棒のようなところに頭をぶつけて・・・
ジャングルジムだったかな ただ島津という名前なだけで、
先祖が、そっちのほうから来たのか、どうかは?
もれ(仮)には、わからない >>363
じゃあ、江南では水田にどんな耕作用農具を使ったんだ?
で、初めて稲作するのに何でそれが分かるんだよ?
. 石包丁は
江南のものが九州を素通りして
唐古・鍵遺跡から出てるんだってね
不思議だねぇ。 熊本からは石包丁型の鉄包丁ってのが
出土してるな。
オリジナルの創作の萌芽期のようで
興味深い。 >>367
>江南では水田にどんな耕作用農具を使ったんだ?
江南では陸稲中粒種と水稲短粒種の混作であるから畑耕作用農具しか使わない。
水田耕作用農具は不必要。
梅雨に十分な降雨があれば水田となり水稲短粒種が育つ。
梅雨に降雨が不足すれば畑となり陸稲中粒種が育つ。
水稲短粒種か陸稲中粒種かどちらの収穫になるかは天候まかせ。
>初めて稲作するのに何でそれが分かるんだよ?
文意不明。
それ は何を指すの? >>372
で、最古水田菜畑から出土したその江南の畑耕作用農具は?
. >>372
うまいやり方だよね。
日本みたいにカレンダーと降雨の関係が安定してないならその方がいいものね。 >>372
江南の稲作は畑作じゃなく水田だぞ
農具も当然、その作付方法に合うものしか使えない
なぜ畑作用農具を使うんだよ、おかしいだろ >>372
>梅雨に十分な降雨があれば水田となり水稲短粒種が育つ。
>水稲短粒種か陸稲中粒種かどちらの収穫になるかは天候まかせ。
バカ言うな。
そんなことに生活をかけられるものか。
九州に上陸した瞬間にはすでに水田の灌漑の仕組みも上陸している。 少なくとも江南での初期水田は自然沼沢地を利用した水田で区画整理も灌漑も未発達だから丸かったりひょうたん型だったりの不定形水田だな
日本列島に渡来した時点では相当規模の区画整理や灌漑の技術を随伴してるから自然水田ではなくなってたよ
渡来当初から水田は区画化されている。
ただ、初期の水田は米穀の収穫物よりか藁などの副産物の方が目当てだった可能性さえ想定されるほどに収量が低かった模様。
そででさえヒエやアワの畑作を下回るほど低くはないが。 唐津の菜畑遺跡だと
川沿いの低湿地地帯を利用してたから
川沿いに細長くなってるね。 川から水を汲み上げるのも大変だから
川の水面に近い高さのところを
利用しているが、その分適地が少ないわけだ。
筑後川沿いの農地は水面から1〜2m高いけど
広大な平地の筑紫平野では、
もっと高い標高の水を引ける地点が遠いから
三連水車など、組み上げる工夫が必要になる。 弥生時代前期末から中期初頭(2400年〜2300年ほど前)にかけて、西日本一帯で発生した大洪水を無視してはだめですよ。
灌漑水田稲作は壊滅です。
この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。
その大洪水により、阿波においては弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、一部で大柿遺跡の棚田がみられるが、縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせるらしい。
弥生時代前期中葉に大規模化した灌漑水田稲作経営は、災害の影響もあって一段落したものと考えられている。
土器の植物種実圧痕観察(レプリカ法)により、弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流であったようだ。 @阿波 >>377
渡来してませんので。
最古水田菜畑の弥生人たちは中国土器も朝鮮土器も一つも作ってませんので。
搬入した朝鮮無文土器の壺が一基出土しただけ。
稲作は朝鮮南部からパクっただけ。
渡来したのはその50年以上前の山陰あたりだと、弥生開始土器は語る。 どこから経由したにせよ日本に渡来はした
そして、その時点では「相当規模の区画整理や灌漑の技術を随伴してるから自然水田ではなくなってたよ
渡来当初から水田は区画化されている。」
と読むことすらできないのか、どれだけ頭が堅かったらそのようなレスになるかも理解できないよ >>375
>江南の稲作は畑作じゃなく水田だぞ
>農具も当然、その作付方法に合うものしか使えない
>なぜ畑作用農具を使うんだよ、おかしいだろ
江南の稲作は、水田の水稲短粒種と畑の陸稲中粒種の混作である。
江南で出土した農具は固い地面を耕す畑作用の石鋤である。
畑を石鋤で耕し、水稲短粒種と陸稲中粒種の種を植える。
畑は多雨になれば水田となり水稲短粒種が育つ。
少雨であれば畑となり陸稲中粒種が育ち、多収穫の水稲短粒種はほぼ全滅。
水稲短粒種の原産地(発生地)は長江中流流域の湖南省と推定されている。 >>382
その場合、渡来という言葉じゃなくて、導入か取り入れたという言葉だろ。
導入当初から水田は区画化されている、なら理解できる。
九州北部の弥生人たちは頻繁に半島南部を訪れていたから、訪れるたびに技術や
ノウハウが蓄積していき、最古水田菜畑は完成しただけ。
弥生人の渡来とは全然関係がない。
弥生人の渡来はその50年以上前の山陰あたり。
九州北部の黒川式縄文土器が山陰方面から入ってきた刻目突帯文土器を持った
沿海州系の渡来人に乗っ取られて、その渡来人が半島南部から稲作をパクってきて
弥生時代は幕開けする。 >>383
違うだろ。
弥生開始と同期する江南の地面を耕す農具は石耜。
そのまんま石刃のスキの事。
石鋤は石刃で地面を引き削って除草する除草用の農具で、日本には
伝わっていない。
最古水田菜畑には両方とも伝わっていない。
出土した耕作用農具は木製のクワとエブリだけで、これらは当時の江南にはない農具。
しかも最古水田菜畑にはスキがなかったのである。
スキが伝わったのはそれから200年以上経ってからで、やはり木製であった。
江南の耕作用農具である石耜も石鋤も日本には永遠に伝わる事はなかったのである。 縄文末期〜弥生初期までの時期で長江流域の文化ってえと呉城文化(紀元前1400年? - 紀元前1000年?)あたりか?
その地域は日本列島よりひとあしふたあし早く青銅器時代に入ってて、弥生初期になる前に衰退しつつあったっぽいとこなんだよな
文明的ピーク期が日本列島の縄文中期と前後する感じ >>386
呉城文化期で正しい。
しかもBC10Cの弥生開始時と同期する江南の土器は全体の1割ほどが
既に原始磁器であり、もう土器時代ではなく、陶磁器時代に入っていたのである。
炊飯器は鼎と鬲の両方があったが、鼎の方が江南では優勢だった。
その後、越式鼎という足の長い鼎が名物になり、句呉でも使われていた。
壺には大きな双耳が付き、持ち運びに便利になっていた。
飲酒も盛んで、様々な酒器があった。
鳥形三足酒器のキ、ラッパ形酒器の尊、酒甕の罍など、見たことも聞いたこともない、
まるで宇宙人の創造物かのごとき飲食器であふれていた。
我が国の弥生時代にはそれら江南の先進文物が微塵も伝わらず、
壺も持たない全く原始的な沿海州系の土器が伝わる事で我々の弥生時代は
幕開けしたのである。 >>387
>壺も持たない全く原始的な沿海州系の土器が伝わる事で我々の弥生時代は
幕開けしたのである。
チョンのごとき嘘でたらめ書くな。
土器の伝わる方向が逆だ。
17000年の歴史を持つ縄文土器が沿海州に伝わったのである。 >>388
台湾ブタ広鼻 亜熱帯形質 ハナノアナガヨクミエル 巨大タラコ唇ピーデの
ごとき嘘デタラメ書くな。
青森の土器は16000年前だろ。
アムール川下流域あたりでも16000年前の土器が出土している。
土器技術はアムール川下流域あたりで出現したと考えるのが妥当。
沿海州でもガーシャ遺跡の土器は炭素測定で約13000年前のものという結果。
ユー、 ハノイ!wwwwwwwwwwwww
. 全ての国に王がいて、全ての王を統括するのが大王(後に天皇表記)っていう構図 >>389
日本産の黒曜石の石器がアムール川流域で発掘されてるから
土器も同様に日本→アムールだよ 17000年〜20000年前に東日本の火山地帯で発生した縄文土器が
黒曜石と同様に北海道を経由してアムール川流域沿海州に伝わった。
細石刃はアムール川流域→北海道東日本への流れ。 土器の伝播と言っても最初から縄文土器作家は居たわけで
流行が弥生式になったのは生活の変化が要因だろ。
採集の原始共産制から貯蔵や売買が可能な穀物が主食になって
それ用の鍋と釜や貯蔵具や食器が普及した。
縄文文化と言っても皮革、布、農具、黒曜石、翡翠宝飾、塩の流通は有った訳で
土器だって地域的としても商品だったはずである。
弥生文化を稲作と渡来人のセットで捉えても
稲作不適地にも弥生文化は浸透している。
関西で銅鐸祭祀、以降関東に大和朝廷、
国家形成に渡来人がどんだけ役に立ったかはしれている。
DNA解析の結果は方法論的にもまだちゃんと出ているとは言えない。
って、言うか結果ありきで作為的だろ?
ネットでミスリードのアラシやってるやつって・・・
相手スンナwww >>391
そんな詐欺を働いている考古学者はいない。
ユー、 プノンペンブラック!プノンペンブラック!wwwwwwwwwwwwwwwwww
with ブタ広鼻wwww >>393
そんな見え透いた詐欺を働いている考古学者なんか居ない。
あなたは台湾ブタ広鼻 亜熱帯形質 ブタチック半黒人wwwwwwwwwwwwwwww この辺りに住んでいるはず
『川崎区 桜本 島津』
近(遠い)親者だったのかな、
少なからず、ゆかりがあるんだと思う
島津という名前を知らないと付けられないし、
島津氏のことを知っているという意味でしょ 検索しても出ないようになっているのかな?
何度(再度読み込み)も検索すると・・・出て来た どうなっているんだろう
ここでもライオンズ?の話が出てきたり、
それとも検索結果が表示(反映)されない?
http://www.google.co.jp/search?q=%E5%B7%9D%E5%B4%8E%E5%8C%BA+%E6%A1%9C%E6%9C%AC+%E5%B3%B6%E6%B4%A5&hl=ja&ei=zUM_WqvoIsOt0gSL76OACw&start=0&sa=N&biw=1093&bih=530 羽地?というのも、
いたような気がするんだけど、琉球関係?
字が違ったかな? >>397
古代の一大豪族、シマ氏族。
蘇我氏や島津氏はその末流?
島。洲。嶌。嶋。縞。
志麻。 志摩。志満。志麿、、、
司馬(シマ/シバ)。芝。柴。斯波。紫波。司波。志波 ってか1万2千年前までは、日本列島と大陸は陸続きだから
日本海は巨大な湖と考えて
日本海沿岸部は全て同一文化圏と考えた方が良いかもね Wikiみるとそれほど与太話って感じではないな。
説唱えた人も親鸞研究とかで実績ある人みたいだし。
壬申の乱が九州で起きてたってのは根拠あるのかな? >>406
これがヨタ話に見えなかったら、金星人もムー大陸も素直に信じられる 九州説の立場だが、さすがに壬申の乱が九州の中だけというのはその後の歴史と繋がらないから信頼できない。 九州王朝が白村江で大敗北して
大津近江京へ疎開。
畿内地元民がいい具合に統治してたところへ
上位の統治者とは言え、九州王朝が
負けて兵も少ない状況なのに、
入り込んできて偉そうにしてたのが
面白くないのは当然で、
大津近江京でクーデター。
しばらくは九州王朝の政治形式を引き継いできたが
九州年号大化(695〜700)に
政治形式を一新。大化の改新である。
これを期に九州王朝から大和朝廷に移行する。
年号も九州年号から大和朝廷の年号に変わり
中国の政権交代に習って、
記紀などの歴史書を編纂する。 じゃあ、蘇我氏が九州王朝?
壬申の乱が切り替えで、中大兄が九州王朝の方が無理が少なくない? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています