【刀】鈴木眞哉史観を疑う 六太刀目【騎馬武者】
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「歴史の真実を見極めよ」と既存の歴史観にエキセントリックに疑義を投げかける、
紀州雑賀衆の末裔を自称する「日曜歴史家」鈴木眞哉。
ネット上を見ると、彼を評価する人間も少なくないが、
鈴木のいう「歴史の真実を見極める」とは
彼の説を無条件に受け入れるだけで事足りることなのか?
彼の提案する説で疑問に感じるところはないのか?
鈴木史観との向き合い方から鈴木史観の内容についてまで、
それを日本史板なりに専門的に議論するスレ。
前スレ
【刀】鈴木眞哉史観を疑う 五太刀目【騎馬武者】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1350722151/ >>9
草創期の武士は、上手に騎乗戦闘を行える技術持っているというのが絶対条件だから。
武士の概念がインフレして、騎馬戦闘できないのも武士化したからね。 >1000 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 2014/10/07(火) 16:23:55.42
>>>997
>騎乗、馬上だけ集めて部隊を作るってことは集団戦の運用方法だ。
>当時の武士の戦い方として、集団戦はあまり普及していない。
集団戦じゃない戦争って何?
そんなものが人類の歴史上存在したことがあるのか? >>19
剣の柔軟性の問題か・・・
それならば反りが入ってることも頷けるな
刃で衝撃を減らすか反りで衝撃を減らすかの違い >>21
古代ギリシャみたいながっしりした編隊を組んでの戦争ってことでしょ
日本は渡辺勘兵衛覚書みてもちょっと違う フロイスが言うには戦国時代の日本の軍の編成は
同時代のヨーロッパと変わらないくらい組織化されてたようだけど >>23
綺麗に隊形組むことと騎馬を一かたまりで運用することにどういう因果関係があるのかよく分からないんだが >>22の補足
両刃が幅広で重たい剣であるならばの話だが・・・
馬上で剣を振るため幅広の重たい両刃を長くする必要が出てきた
そこで両刃の片方の刃を無くして軽くする
んで強度不足は反りで補う >騎乗、馬上だけ集めて部隊を作るってことは集団戦の運用方法だ。
>当時の武士の戦い方として、集団戦はあまり普及していない。
>また逆に、集団戦の運用となると、全兵の1〜2割しか居ない馬上だけでは兵力が厳しい。
>それまでの戦闘と違い、集団戦ではランチェスターの二乗則が効くからな。
>歩卒より馬上の方が、一対一では仮に3倍強いとしても、人数が半分ぐらいだったら負ける。みたいなね。
こいつ、マジで何言ってるのかわからん
何で
騎馬隊が存在する=騎馬隊だけで敵の全軍を相手する
みたいな話になってるんだ? >>26の続き
結局のところ卵が先か鶏が先かになるんだよな・・・
卵が先だと言う者と鶏が先と言う者 槍と薙刀見ても刺突は直刀、斬撃は反り入りが有利なわけかね? >>27
騎馬隊の機動力・速度を活用しようとしたら、騎馬隊だけで敵の全軍と衝突する場面が出ないような運用は困難だろ
歩兵も含め、できるだけ多くの兵を戦場に投入しようとするなら、行軍速度は歩兵の速度によって制限される。
騎馬隊をあえて作る意味は薄くなるだろ >>30
>>31が言う通り。
そもそも必要もねえのに騎馬だけ集めてどうすんだよ。
北条家や武田家はバカだってのか? >>30
奇襲とかなら数が劣ってても十分に有効な攻撃が可能だろ?
正攻法でも手薄なところや崩れたところに騎馬を回り込ませるとかいくらでも使いようはあるのでは?
実際、朝鮮の役の明兵の記録には日本軍の騎馬突撃の様子が描かれてる
ていうか欧州、中国、モンゴル辺りでもある程度以上の規模の軍起こす時は騎兵はあくまでその一部だったろうに
少数で当たると不利だから騎馬の意味がないので騎馬隊はなかった
なんて理屈が通るなら、世界中のどこにも騎馬隊なんて存在しなかったことになるでしょ 数百以内程度の小競り合いならともかく数千以上の単位の軍同士で
全軍が同時にぶつかり合う戦なんてあんまりないんじゃないの? >>33
明兵の記録ってどういうふうに書かれてるの? 一応、鈴木氏は史料なり馬の体格なりと実体のある具体的な根拠は挙げてるよな
ことごとく論破されただけで
「なかった」という結論から出発して理屈だけをこねくり回すのとは違う ランチェスターの経験則って馬鹿文系がよく使いたがるけど
あれ、投射兵器限定のそれも射程範囲内規模での経験則だからな >>35
日本軍が交代射撃と遊撃騎兵による攪乱を組み合わせてくるので我が軍は逃げられない、的な内容
「経略復国要編」という書にあるそうだ >>37
そこまで限定的とは知らなかった。
同等の装備で無策にぶつかりあう状況くらいに思ってた。 馬上筒ってのはどれくらい役に立つものだったんだ?
使い道が滅茶苦茶限定されそうな気がするんだが >>38
ググったら奇しくも輪番射撃について書いたページがでてきたw 騎馬が突撃の祭にどのぐらい距離を走るのか?
・弓の有効射程(せいぜい100m)
・火縄銃の有効射程(200m?)
火縄銃の射程ギリギリまで詰めてから加速すると思われるから突撃距離200mでいいだろ
最高速度
・騎馬(30km/h)
・足軽(15km/h)
突撃距離200mで騎馬は足軽の2倍の速さだから・・・突撃時に足軽は100m離される
直ぐに追いつける距離さ 南北戦争でも、歩兵は近距離での密集隊形で撃ち合いをしている。
戦国時代に、一万の武田騎馬隊が密集隊形で全力疾走しながら突撃したなら、もの凄い打撃力となり戦線に穴を開けたはずだ。 >>43
Civil Warの頃は銃が進歩してたから、両軍ともひどい損害を受けて、戦列歩兵戦術が廃れる原因になってる。
ついでに、戦列歩兵に正面から騎兵でぶつかったら騎兵が壊滅するのも世界の常識。
だからこそ、戦列を砲で崩す、崩れたところに騎兵が突っ込む、陣形の乱れたところを歩兵で押しつぶす、
という歩・騎・砲の連携戦術がナポレオン戦争から第1次世界大戦前期まで常識だったわけで。 一万の武田騎馬隊とかわざとやってるんじゃないかな
前のスレでも朝方に荒らす人きてたし 武田や北条の史料に騎馬隊がいることはわかっているが、1万の騎馬隊とか誰も言ってねえのにねw >>44
500の戦列歩兵に500の騎兵が突っ込んだら壊滅するのは歩兵の方だけどな >>45
武田領が最大まで拡大していたときでも、そんなに多くの馬上はいない。
家臣の馬上を全員集めても、せいぜい3000か、多くて5000ぐらいだぞ。1万とか荒唐無稽すぎる。 荒唐無稽も何も一万の騎馬隊の存在なんて誰も主張してないだろ
自分で勝手な数字出してきて「有り得ない数字だ」とか喚かれても反応に困るわ >>47
そうか? 元込め連発もってる南北戦争の戦列歩兵相手に正面から突っ込んだら切り込む前に全滅するんじゃね? 全滅しないし、態々正面から突っ込む池沼は居ないからな >>50
いつの時期の合計か気になるな
勝頼時代? >>42の続き
いずれにしろ突撃時に足軽は騎馬から少し離される
これは実質、騎馬だけの突撃になるんじゃないの? 兵科ごとに分かれていたわけでもなかった時代の蒙古襲来絵詞でだって
そうなってるしね
戦国時代に限らず伝統的に騎馬武者はそういう戦い方をしたんじゃないかな 騎馬が穴空けて歩兵が突入する。
近代戦に近い形になってるじゃないか。 鶴翼の陣で両側の騎馬隊で回り込んで攻撃。
車掛りの陣で槍足軽による円陣を組んで対抗。
ヨーロッパの騎馬戦術、それに対する防御策と寸分たがわない。
やはり日本にも騎馬隊はあった。 兵力を騎で表記されることが多かった理由、そして騎馬で謎だった運用方法も解けた感じだね
騎とは騎馬の数というより騎馬を中心とした1ユニットを表していた
んで1ユニットは近距離・遠距離及び突撃・防御など幾つもの戦闘形態に対応できる なんで騎馬一万だの鶴翼と車懸りだのっていう極論が唐突に出てくるんだ?
極論持ち出してそれを否定しても騎馬隊そのものの否定にはつながらないと思うが 在チョンに論理なんて無いからな、願望と妄想しかない >>58
少なくとも戦国後期は史料から見て兵科別の編成が行われていた可能性が高い
って話だったのにユニット説に逆行するのかよ >>61>>62
戦国後期は兵農分離が進み侍のサラリーマン化、
更に領地の拡大等で兵科別の割合を増やす余地が多分にあったとは思う
>話だったのに
済まんね
新参者ですので過去の話は知らんのです >>58
そういう鈴木説は既に妄想に過ぎない事が判明している。
戦国時代は、騎馬隊、槍隊、弓隊、鉄砲隊と純化した兵力運用がなされている。
研究が進むと鈴木が罵倒した黒沢映画が正しかったということだ。 編成権を持つのは統治者
大名でも編成権限が及ぶのは直轄領だけ
それ以外は要請しかできない
んで侍がサラリーマン化すると侍は事実上統治権を失う
こうなると大名は陪臣の領土の編成権を持つようになり、大規模な兵科制を取り入れることも可能になる
要は兵科制とユニット制は共存してたんだと思う
んで戦国末期になるにつれ兵科制の割合が増えてきということじゃないのか
江戸時代になると侍が城下に住むようになるよな
これは侍のサラリーマン化なんだな >>66
>んで侍がサラリーマン化すると侍は事実上統治権を失う
逆じゃね。
大名が、家臣たる侍たちから、それぞれの領地への統治権を取り上げることでサラリーマン化させていったんだろ >>67
んま〜そうだな
大名の思惑としてそうした部分も多分あるだろうね よし、次いってきようか
徒歩と騎馬では遠距離攻撃においてどちらが優れてるか?
ま〜一長一短あるだろうから騎馬の優位部分だけ
弓の場合、高い位置から放つ方が威力が増す
騎馬だと徒歩より1mぐらい高くなるのかな
眺望も騎馬の方が効くしさ
んでもう1つ
騎馬は移動しながら攻撃できる じゃあ、私は歩兵の有利を。
弓術と馬術の両方を修めねばならない弓騎兵より育成が容易⇒数を揃えやすい。
馬を維持しなくて良い分コストも安い。
地形にもよるけど、馬では昇りにくい傾斜地とか森林に陣取れる。
馬上より徒歩の方が強い弓を引ける。 戦国時代は城攻めが極めて多くなるから歩兵がメインなのは仕方ない。
野戦でも陣城や遮蔽物の設置は当たり前になってきてるからますます騎兵の出番は少なくなってる。 大名の思惑もあるけど、本当に兵科別の編成が行われてて
尚且つそれで結果が出てたのだとしたなら
下の連中も勝つ可能性=生き残る可能性の高い方を選択するんじゃないか? そういう編成が長期間続くと
「我が家からは騎馬、鉄砲、槍を3人ずつ出して、後で兵科別に編成します」から
「我が家は騎馬9人出します」「我が家は鉄砲」「我が家は槍」と、従軍時の編成から変わってきそうだな。 馬や鉄砲は数に限りがあるだろ
兵農分離と言っても完全なものではなく規模や状況次第で普通に農民の徴集もあったろうし >>73
それじゃ大名側が困る。
大名が必要な兵種を割り当てるという方式にしないと。 >>76
軍役だからね。
馬や鉄砲を買いそろえることが出来る財力を基準に割り当てを決めるんだろ。
兵力が自分1人のような地侍だと鉄砲なんて割り当てられんだろうさ。 慶長元和あたりも相変わらず槍脇の刀や鉄砲なんかの郎党を伴っての
槍合わせをやってたのは確実だからなあ いろんな兵科を提供して再編成だと
「○○家、□□家、××家の槍兵さんはこちらに集合して下さい。指揮は○○様が執ります」となる。
初めから兵科別で従軍できれば
「○○家の槍兵さん、持ち場はこちらです。指揮官は○○様、つまりあなた方の殿様です」となる。
後者の方が便利ではありそう。史実でどうなのかは知らない。 >>79
組が決まってるから。
結果的に指揮官も同僚もよく見知った者同士になるんじゃないの。 そりゃ兵種ごとに隊を分けたとしても常に分かれて戦ってたわけじゃないだろ
共同で戦うことも入り乱れての乱戦になることも普通にあったはず
そんなことは戦国日本に限った話じゃないと思う 備単位で集めた兵隊を兵種ごとに再編成するんだから、ある家のある兵種の兵隊が配属される部隊はいつも同じメンバーだし、指揮官も同じだろ。 武家社会とは寄り合いの世界なんだな
領主の集合体なわけよ
足軽を弁当に例えよう
A君が持ってきた槍弁当とB君が持ってきた弓弁当
簡単に交換できると思う? >>83
その話は前スレで現状の研究成果がさんざん説明されてたように思うけど…
改めて聞くけどこれはどう考えてるの?
ttp://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1350722151/946
>> 軍役名宛人の領主的性質を重視する見解をとる人って
>> >>759で説明されている衆全体の備えの定め(軍隊構成)と、個々が軍役で連れてきている人員の違いをどう理解するの?
>> そもそも兵種別再編成自体もなかったって考えるの?
ちなみに前スレ759はこれね
ttp://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1350722151/759 創られた“軍師”山本勘助 丸島 和洋
最終回 幻の武田騎馬隊
ttp://kaze.shinshomap.info/series/kansuke/03.html >>83
仕事だよ仕事、児童の遠足に喩えるとか在チョン反日狂死かよ 西上野の小幡一党、赤武者にて、入れ替へ懸かり来たる。
関東衆、馬上の巧者にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓を打ちて、懸かり来たる。
(『信長公記』長篠の合戦)
↓
近江彦根に移住した甲斐武田の旧臣が発した驚きの声(『武田流軍書』)
「何たる事にや、上方の士、馬を入れる事が無きぞ」
何という事だ。我々甲州武士と違い上方武士は馬から下りて戦う。 >>69
クセノポンが歩兵に比べて騎兵の利点はただ退却が用意という点のみだって書いてたな >>85
宮城四郎兵衛泰業の着到状の原文を読まないと・・・・
探しても出てこん。。。。。
それに北条だろ
領土を広げていった戦国大名は古くからの地侍を追い出してるからね〜 >>90
出てこないも何も前スレ759に
>>元亀3年正月4日付宮城四郎兵衛泰業の着到状(戦国遺文北条氏編1570号)にプラスして
>>岩付衆の陣定(備え)示す天正5年北条家印判状(豊島宮城文書、戦国遺文北条氏編1923号)。
とあるとおり戦国遺文北条氏編1570号だよ
原文読みたいなら図書館にでも行ってみてきなよ
ネット上で見られる史料なんてほんの一握りだよ >>90
国立公文書館のデジタルアーカイブを念のため探したら現物の画像が出てきたわ
たぶんこれ
北条家着到書出
ttps://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/detail/detailArchives/0000000099
ttp://jpimg.digital.archives.go.jp/JPEG/PGV49.jpg >>83,90
>>それに北条だろ
>>領土を広げていった戦国大名は古くからの地侍を追い出してるからね〜
兵種別編成は、北条氏のみの特殊事例ととらえるってこと?
それとも領土を広げていった戦国大名は特別だってこと?
今はまさにそういう戦国大名の軍隊構成の話をしてたんじゃないのか?
まず武士の領主的性質について話してるのになんで「地侍」の話を持ち出すのかよくわからんが
たとえば宮城泰業自身が、「宮城」を称し始めたころから数えても南北朝時代から続く武蔵に土着してた小領主だよ
ただ>>92の文書画像にも書いてあるとおり、宮城の采地は岩付ではなく近隣に細かく分散しているけどね
他にも宮城とともに岩付衆の馬上奉行を務めた渋江式部大膳は、永正年間に岩付城主を務めていた渋江氏の一族なのはほぼ確実だし
土着の領主層が完全に追放されていたわけでは決してない
あと一次史料上武田氏も同様の兵種別編成を行っていたのがほぼ明らかだ
武田氏や北条氏が兵種別編成を行いだしたのは、着到状等の武器と人数を指定する軍役を課す一次史料の初出時期から
永禄年間(1550年〜1560年)ころではないかと、西股総生や平山優あたりは指摘してるけど
>>83のような見解を取る場合、武田氏、北条氏以外の戦国大名は一切兵種別編成を行っていなかったと考えるの?
「兵農分離」が完成するまで兵種別編成はなかったとするの?
従来の通説的な「兵農分離」論からすると、一次史料上から兵種別編成がおこわれていたことが明らかな武田氏、北条氏は
織田氏などに比べて兵農分離が進んでいなかった代表例だったんじゃないの?
この辺の兵種別編成の問題と大名権力論と「兵農分離」論は、丁寧に分けて慎重に検討しないと
議論が錯綜しちゃいそうだね
>>86の丸島和洋みたいに兵種別編成を否定する見解を取る人は
自身の大名権力論と兵農分離論に対する理解と矛盾がないか改めて再検討した方がいいと思う なんか前スレからの話を見る限り岩槻の件と武田の陣立しか騎馬隊の存在を示すものがない感じ?
随分とサンプルの量がさびしい話になってんだね
もっと例があるんなら出してほしい >>94
戦国大名の軍役の様子を示す史料の研究が進んでいるのが北条と武田以外あまりないのだから話が逆さま。
現在のところ北条家ほど史料の研究が進んでいる戦国大名はない。 >>95
研究の進む進まないに関係なく史料はないんですかという話です
戦国遺文は便利な形に編纂してくれただけで北条と武田の史料自体は
昨日今日でてきたものじゃないんだから
もしかして他家では見られないんですか? 「信長公記」見る限り長篠では五回攻勢に出るんだけどそのうちの
たった一回、それも小幡ら関東武者中心の騎馬突撃しかないんだよね
武田の誇る「馬之衆」はこれで打ち止め? >>96
横レスだが、確実な一次史料だけから疑いようがなく兵種別編成されていたことを明らかにできたのが
現状北条氏と武田氏だけだってことで、他に兵種別編成をうかがわせる史料がないわけじゃない
ぱっと思いついたのを挙げるとすれば、兵種別編成の前提となる所領の大きさ(石高、貫高)に応じて一定の武器と人数を出せ、
とする軍役を定めていたことを示す一次史料としてはたとえば明智光秀家中軍法がある
ttp://www.city.fukuchiyama.kyoto.jp/fukuchiyamaisanWEB/siteibunkazai/komonjyo/goryoujinjya%20mituhidekankei.html
ttp://www.city.fukuchiyama.kyoto.jp/fukuchiyamaisanWEB/siteibunkazai/komonjyo/katyuugunpou.jpg
あと史料自体がどこかに存在していることと、
とある命題に関する内容を証する史料があることの間には果てしない隔たりがあることを理解した方がいい
戦国時代の軍事の実態はどうであったか、という視点で史料を検討した研究者が
ちょっと前までいなかったんだから、今、現に存在が確認されている史料のなかに
「騎馬隊」が存在することを証する史料があるかないかは、改めて検証してみないと分からない
逆に言えば、今からでも戦国遺文にまとめられていない大名家の文書を総ざらえすれば
「騎馬隊」の有無に関しても相当な発見があると思うから、自分でやってみるといいと思うよ その通り。
戦国時代の軍事の実態の研究自体今までほとんどされてなかったんだよね。
それを本格的にやり始めたのが史料が豊富の揃ってる北条家の研究をしている連中ってこと。
そしてそこから兵種別編成の具体的やり方がわかって来たということだ。 上の方に出てる経略復国要編の
「?倭奴用分番休送之法、時出遊騎以攪我師、我師進不可退」って記述は
鉄砲と騎馬が別々で運用されていた一例にならないか? >>97
甲陽軍鑑品十四
丘陵地で開けていない長篠では騎兵隊を突撃為せ無かった、とある
要するに、それ以外の殆どの戦で騎馬突撃させてるって事だね >>101
信長は騎馬突撃に向いていない長篠を戦場に選んだという事だよね。
陣城まで築いて。
陣城だと雨天でも鉄砲使えるし。
相手の弱みを消して自分の強みを生かすいい戦術。
この戦場に武田を引っ張り出せるかどうかが戦いの帰趨だったと言える。
それでも戦いはかなり長時間に及んだから武田は不利な状況でかなり頑張ったと言える。 相手の弱みを消して自分の強みを生かすいい戦術。×
↓
相手の強みを消して自分の強みを生かすいい戦術。○ >96
戦国時代って史料の残存状況が悪いからねえ
北条の研究が進んでるのは、充分な史料が残ってる唯一の例だからだったはず。
武田は研究が進んでると言っても残存状況は良くないんじゃなかったかなあ
武田上杉間の、川中島の戦いの回数さえ、結論が出たのは20世紀の話だろ。それまでは5回説より7回説とか9回説の方が主流だったほどで。
>>102
甲陽軍艦は史実を反映した部分もあるが創作部分も多いから、創作じゃなく史実の部分、史料であることを裏付けられないと使えないんじゃなかったか。 「三河物語」
当世之衆ハ心得候らへ共、合戦之時ハ、皆々馬より
追下して、馬をバ後備より遥かに遠くやる物とハ知らずして、
何時も馬に乗りてあらんと計云も、はかなきことなり。
↑は徒歩化が進んでいた西国寄りの三河武士の認識だけど
馬が勝手に帰るわけはないから騎馬武者には馬取りがいたんじゃないかな? >>105
軍鑑は一級史料だよ、創作部分が多いとかほざいてたのは
妄想だらけで歴史学ごっこしてた老害連中 >>98
兵種別編成は疑ってないですよ
こういう陣立書や着到状の類が今現在どれだけ確認されてるのか知りたいだけで
研究が進む進まないの話ではなく活用されていないのも含めてどの程度あるのかな
というのが気になるんです >>107
一級史料って言葉が随分安くなったなあ
史料批判の上で使えそうなところを慎重に活用するならわかるけど >>108
北条家みたいにまとまった史料はなかなか難しいだろうけど、
ここで書かれているように戦国時代の戦の具体的やり方についての研究はまだ始まったばかり。
陣立書、着到状の類の史料はこれからどんどん表に出て来るんじゃないかと思うよ。 原形に近いって意味だよ
創作部分が少ないって意味だ >>111
山本勘助「創作部分とは具体的にはどういったところを指すのですか?
甲陽軍鑑が創作部分が少ないとは誰によって実証され支持が得られたのですか?」 KDDI au スマートバリュー CM 「おとくちゃん」篇 鈴木梨央ちゃんは騎馬武者の娘。
着物姿がかわいいですね。 芝辻氏か誰か忘れたが甲陽軍鑑には使っていいところと絶対に参考にしてはいけないところがある
とか言っていた研究者がいたな
捨てられない部分はあるが一級史料として活用するなんてとんでもない話だよ どこらへんがだ?
甲斐や信濃に牧があったのは事実だぞ
馬に乗るのは侍大将以上、郎党は徒兵
配下の騎馬武者は全て合わせて9300人
徒兵はそれの5,6倍 一級史料かどうかはともかくとして、武田の最大領域は瞬間風速で120万石くらいはある。
4万〜5万の動員は可能だから騎馬が9300でも不自然な数字ではないな。 場合によっちゃ小山田がそうやったように騎馬武者一人に10人あつめるなんて無茶もあったけど
徒兵は領内にすむ住人の中から集める つまり純粋な武士とでもいえるのはその武田の瞬間最大領域とやらでも1万人いないってことだw
これがいわゆる郷士階級とでも言えるもの ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています