結局、鎌倉時代末期ってどうするのが正解だったの? [転載禁止]©2ch.net
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鎌倉幕府は北条高時みたいな執権が出るくらい衰退してたみたいだけど
後醍醐天皇が倒幕して建武の新政始めてもグダグダになったし
足利尊氏がそれを潰して室町幕府開いても幕府が弱体だったりで南北朝の抗争が延々続いたりするし
結局鎌倉幕府が続いた方が良かったんじゃないかな? 足利が裏ぎりゃなかったら、正成も赤松も名和も後醍醐もろとも一巻の終わりだな。
新田も動かんし。 新田は動いたんじゃないのか
足利の子供を預けたおかげで兵が集まったとかいうのは高氏の卑劣な功績盗みだろ >>27
楠正成は、千早城で幕府軍10万を相手にさんざん引き付けたからなその間に六波羅を落とされてしまった。楠軍を相手にせず六波羅防衛に専念、後醍醐を隠岐から脱出させなければな。 >>28 足利が動かなくて、新田が動いた場合どうなったろう。仮に、信濃源氏
や甲斐源氏 佐竹 など清和源氏は動いたとしても 武蔵七党や坂東八平氏
藤原秀郷流などの 他系統の有力武士団は動くかな? これで、鎌倉が落ちて
六波羅が落ちないというのも面白いが。
>>29 ちょっと、スレ違いになるが、同じ間違いを新田が白旗城で犯して
いる。白旗城は正成に寡兵で任せて、義貞は山陽道を駆けに駆けたら、
尊氏は終わっていたんじゃないか? >>30
鎌倉の北条一族が自刃したのは六波羅が落ちたという報告がきて戦意喪失したから。
逆に鎌倉が落ちたと伝令が来れば六波羅探題仲時は、自刃したかもな。 >>31 しかし、尊氏や佐々木道誉は裏切ってないんだよ。鎮西探題の北条英時
だって、六波羅健在なら持ちこたえるかもしれない。 >>31
逃げて合流するつもりだったのが、合流する予定の六波羅も陥落してると聞いて落胆したからだろ
片方だけなら挽回できるつもりだったんじゃなかったかな >>27
新田の挙兵は、上野の税を取り立てにきた幕府の使いを斬ってしまい幕府が大軍で攻めてくると聞いたのでやむを得ず。 でも、それなりに鎌倉に向かう途中で集めたんやろ。
そのネームバリューがあれば、すぐに奪還されるかもしれんが鎌倉は落とせたかも。
幕府軍は主力を関西に注ぎこんでるしな。 どうやれば北条の鎌倉幕府は生き残れたか?
@後醍醐天皇を拘束して隠岐に流したら、
すぐに半済令を発令して、武士たちの北条得宗家への支持を確保する
A北条邦時(得宗家嫡男)が左兵衛督か左近衛中将くらいになって、
北条得宗家の権威を高める
B蒙古襲来を撃退した北条時宗を顕彰して、正一位の位を追贈してもらい、
北条得宗家の正当性を高める
C 上の3つをやった後に、長崎父子を粛清して、弾劾状を公表。
幕府へのこれまでの不信を全部長崎父子にかぶってもらう >>35六波羅が落ちず逆に楠木赤松名和を殲滅 後醍醐捕縛、鎌倉は落ちて関東の北条一族全滅
さてこの後はどうなるのか? >>37
鎌倉末期は、将軍が軍勢を率いて出陣してないのでお飾りであるが親王にお出でいただく。
六波羅残党で京に幕府を移すのがよい。高時の遺児は、逃げたんだよ。次の得宗に。 >>38 そうなったら、義貞どう動くでしょうね? 尊氏も千寿王に兵をつけて
鎌倉討伐に参加させているんですよ。 >>37
六波羅軍は光厳天皇をかかえてるし京都を守れてるなら戦いようはあるだろ
史実での六波羅陥落時には、光厳天皇までひきつれて東国へ向かう道中で道誉に阻止されたわけで
あ、ちごた、別れた直後ぐらいに追い付かれたんだっけか >>40 だから、尊氏 道誉 が 新田と約束したが北条を裏切れず。新田単独
で立ったところ、鎌倉を討伐することに成功した。さあ、その後はどうなる?
六波羅は、楠木 赤松 名和 を鎮圧。後醍醐は廃帝。関東の方は、尊氏挙兵
予定だったから、人質になっていた千寿王は鎌倉から逃亡、義貞に合流。
という前提で。 >>39
新田の挙兵は明らかに突発的なもので、事前の約束とかはあり得ない 黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!
赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。
それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。
台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。
赤の遺伝子afb1b3が入ると南方人になり、日本人種が穢れる。
gm遺伝子
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/001Gmidensi_1/asiaandjp.gmidennshi.nobunnpu.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:64a812ccf8e4a0c33443d7cecf6a78f3) >>41
六波羅に鎮西探題と東北の安東氏を集めれば鎌倉を落とした新田を鎮圧するのは容易い。
新田を殲滅後、鎌倉は足利に任せ京で政務を行う。 ていうより鎌倉幕府の軍制ってどうなっていたのだろうか
将軍直属の兵なんてのはいるわけないだろうが得宗直属の兵って
どれくらいいたの? 鎌倉幕府の軍政は桓武平氏系の連中を味方につけての連合政権
対抗馬の木曽義仲に味方したのが北関東から北陸地方 守護時代に北条氏が全国の守護職を独占したが行ってみりゃ一番偉い上役を北条氏が独占したんで部下らは現地にもともといたやつらだから最後はみんな裏切られてる 高氏とかいう
高時の字をもらい、後に執権となる北条の妹を娶り、外戚として大軍を委ねられながら神明に誓った約束を破り裏切るゴミ
次は尊氏という字をもらいながらまた裏切る
「頼朝は厳し過ぎたから俺は優しくいくわ(笑)」とふかしながら
親王を殺し執事を見捨て弟まで切って我が子と無駄に争う
存在自体が無駄に戦争を生み出す迷惑な存在 楠木、赤松、名和みんな北条が守護やってた国の奴らだからな >>49
北条の命で関東から引っ越しさせられた御家人やら御内人たちの裏切り頻度も異常
大友や島津や楠あたり、これだよね
赤松は、地元民だったっけ? >>51
名和って佐々木が守護やってる国のひとじゃなかったっけ?
忘れたわ 関東の武士自体が
もうその後も裏切りまくり
特に謙信と北条に挟まれた時の寝返りっぷりはすごい >>54 謙信と氏康だから、そいうこともできたが。元就や信玄、宇喜多直家
なら血の雨の洪水になった。 >>55
大内と尼子の間での、中国地方の武士らの寝返りっぷりも、相当だろ
それと比べたら、関東の武士の方が義理堅い感じに見える あの地勢で裏切るなって、そりゃ無理だろ。
2大勢力に挟まれた立地の中小勢力なんて、何処の国も地域も一緒だよ。 >>56
あの地域は本当に裏切りが凄い。大内が大寧寺に滅びるまで終始大内義興、義隆に
忠誠を尽くした毛利元就の方が例外中の例外。大寧寺の変の際、陶晴賢は忠臣
毛利元就が大内を助けるのを恐れ、毛利元就が尼子侵入の対応で身動きできない
タイミングを狙って奇襲している。
実際に、毛利元就は2年かけて尼子と、尼子と同盟を組んだ陶晴賢の部下江良房栄を
追い出した。当然元就の倍返しの復讐は行われ、江良を偽情報で謀殺され、尼子は
新宮党事件という内ゲバを元就の計略で起こされ弱体化させられた。
その後、すぐさま大内義隆の弔い合戦を開始している。 大河ドラマの見過ぎだな。
尼子氏の内紛が毛利の計略だったかどうかは分からない。 >>57
ちょっと敵を攻めきれなくて引き返しただけで脱落者離反者が続出するのは、少しおかしくないか あ〜ちょっと聞くが北条が守護しめた国の数知ってるのか?
40国くらい行ってるぞ
いちいちくだらん当てずっぽういいからさ 北条一族はあれは皆殺しになるの当たり前だろw
得宗含む北条四流だけで政敵をほとんど滅ぼし守護職乗っ取ったからな
新田なんざ宗家職を取り上げられて庶家のやつ代理に立てられたりな
けっきょく最後は里見一族の兵力に頼るしかなかったからな
いちいち変な仮想戦記い〜からさw
や〜公あたりゲン担ぎ好きだから新田なんてヤクザの組もあったんだっけ?
やつらバカだから最後は絞められて終わったけどなw >>63 時行なんかが、諏訪と一緒に鎌倉を奪還したこともあったが。 北条ってたんに支配者、権力者としての治世自体はおかしくない。但し権力掌握と維持手段がやばすぎ
@頼朝が養父上総を暗殺
A頼朝イニシアチブ
B発狂したか周辺人物に囁かれ錯乱頼朝が兄弟を皆殺し
C頼朝暗殺説(執権下手人説)が流れ、頼朝死亡(資料においても頼朝の死因の正規公表なし、病死とも公表なし)
D頼朝派を政権から大量追放、及び偽の転覆容疑で長いナイフの夜、赤軍粛清の如く大粛清
E有力者が三浦、執権、千葉氏の御三家のみになる
F執権が三浦一党と千葉氏老中を暗殺、合議制を配して執権+安達の独裁を確率
G強くなった足立を暗殺
鎌倉時代とその権力過程って最終的に執権がこそ執権のための暗殺を繰り返して、そういう凶行主義でやってきたもんだった
治世の実体は問題ないけど、強権主義以上にとにかく服従しないやつを暗殺しまくってきたんだよな。
あいつあの時代なのに一族殺しとかやって推定数千人は権力確率のためだけに暗殺しまくっったんだ
であるから恐れられて、足利に離反されるのはある意味必然だった。
でもその足利自体も権力取ったら治世だけは肯定して政治の変更はしないと名言しちゃう
どうみても執権権力確率のためによりともを廃したし、(頼朝の死因非公表で、一族と取り巻き殺してればそりゃ頼朝殺してるよね)
上総暗殺は頼朝の私怨なのか?(neetと嘲笑され全面的に意見が無視され、政治力を潰された)
諭したものがいたとしたらそれは悪名高い梶原か?実は千葉氏か?それよりも養父的な地位にある執権家こそがそういう吹聴を最も行いやすかったのでは?
兄弟を執拗に殺したがったが、諭した、あるいはライバルを蹴落とせといったやつは誰なのか?
実はすべての権に関して執権が一番嫌疑が濃く、上総暗殺から60年間全員を廃して回ったんじゃないかと思う 思えば富士川の戦いの前の決起時、千葉市郊外に結集した時は、青写真に坂東武士団を中心に数十人の武士と脇にいる執権が映ってた
ところがその5年後には上総がきえ中心によりともが映ってる。
ちしょうかえいの乱の戦功写真は義経が中心に映ってる。
後の1192作ろうの頃は頼朝と梶原が中心で右大将に千葉氏が映ってる。
1199年の頼朝没後には急遽執権が中心で梶原と頼朝の姿はない
1206年の写真は頼朝一派も姿を消し、写真は三浦、執権が中心に映ってる。
じょうきゅうの乱の戦功写真は三浦、執権が中心
宝治合戦後の写真は執権と安達以外誰もいない。
後数十年後には写真は千葉氏と執権しか映らない
実は千葉氏と天皇と藤原以外全員有力者は滅ぼされて、執権の子分として存続して、まさに執権が執権のためで動いてた権力史だった
まぁ殺されないと止まらないのは必然だ。 後醍醐天皇と足利尊氏について、前々から考えていたことがあるので、このスレで語ろうかと考えたが、
少しスレチな方向に行きそうなので別スレ立ててみる。、 分野的には南北朝関係のスレで良さそうだけどなあ
いくつかスレがあるから、いちばん合いそうなとこを選べばよし >>69
うんうん。あのスレもたまに読む。このスレは「どうすれば鎌倉幕府は延命できたか?」というのが主眼だし、
南北朝時代だけでなく応仁の乱まで150年間の「室町時代」を俯瞰して、
「この150年って一体何だったのか?」で、ちょいと書き込みたいのと意見聞きたいので、
ちと南北朝スレでやるのも他人に迷惑かな、と。 素人なこと聞いて申し訳ないのですが、戦前の教科書に「北条氏の善政」って載っていた
らしいのですが、具体的にはどのように載っていたんでしょう? 鎌倉幕府は別に衰退していない
ただ底辺の御家人が上流の有力御家人に借金しまくった所で徳政令を発動して有力御家人を怒らせた
この得宗家への怒りが倒幕に利用されてしまった
リビアのガタフィ政権が崩壊したのとよく似ている
ガタフィ政権も庶民には大人気で経済・社会は安定していたが上流階級には嫌われていた
この上流階級にアラブの春を利用されて内乱を起こされて崩壊
要は有力者を怒らせたらダメだってこと >>73
それはどうだろうか? 誰よりも金を貸してたのは御内人だろ。
霜月騒動でも、安達泰盛に連座したのは有力御家人が多く、
逆に御内人側に回ったのは、分家や庶流が多かった。
永仁の徳政令(1297年)は、霜月騒動(1285年)の後、平禅門の乱(1293年)の後、
嘉元の乱(1305年)の前に出されたが、そもそも安達泰盛の弘安改革寄りの政策だ。 >>73 新田は土地の売り食いをしてたらしいけど、新田って金貸して貰えなかったの? 得宗家・身内人が強大化せず、北条一門が幕府の役職を独占せず、有力御家人
たちが評定衆として幕政を支える体制が存続していれば、鎌倉幕府はもっと
続いたのではないか?
御家人たちが幕政の内部にいれば、後醍醐天皇が挙兵しても、承久の乱の
ときのように、御家人たちは一致団結して征伐できたのではないか。
御家人の団結があれば、北条一門だけが鎌倉で孤立して、新田勢に滅ぼされる
事態も防げただろう。 そもそも承久の乱はなんで起きたのか?
朝廷が武家社会を否定したからよ
だから武士が後醍醐天皇に付くとか、武家社会にあってはいけないことなのね
この矛盾が室町幕府を常に揺るがした ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています