NHK大河ドラマ「真田丸」質問解説スッドレ [無断転載禁止]©2ch.net
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「真田丸」を見ていまいちわからなかったことや疑問があったら質問ここで ♪あ〜じ〜よ〜しのう〜り〜
めされそ〜おぉら〜え〜 ♪ 瓜ってこの時代あったんだな メロンじゃん フルーツじゃん フルーツじゃ無いじゃろ。
そのままじゃ味が無い、漬け物じゃろ?
マッカじゃないじゃろし。
瓜の漬け物はのうなったのう。瓜はいかにも、昔の田舎の食べ物いう感じやさかいのう。 >>235
基本は御所言葉だし
そこを強調するとアズマってのがバレちまうからなw 東京の標準語ってのは薩摩長州と江戸が混ざったのらしいからな 江戸と言っても山の手言葉だけどな。江戸っ子が話す江戸弁(下町言葉)とは違う。
薩摩長州も関係ない。 ネット上で真田丸見れるとこないですか?
リアルでテレビが買えません 黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!
赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。
それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。
台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。
赤の遺伝子afb1b3が入ると南方人になり、日本人種が穢れる。
gm遺伝子
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/001Gmidensi_1/asiaandjp.gmidennshi.nobunnpu.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:64a812ccf8e4a0c33443d7cecf6a78f3) でやんす ありんす てやんでぇい 手鼻ラーメン
これが江戸弁 ひつもん。
なんで戦国時代の人ってミドルネームがあるの? 真田源次郎 信繁とか
何で名前が二つあるの? どれが本名? 戦国時代じゃなくても、少なくとも平安時代くらいからはある
真田(名字)源次郎(仮名)信繁(諱)
おそらくは諱を直接呼ぶのは失礼という考えがある中国の影響
長男なら源太とか太郎とか、次男なら次郎とか長序が分かる単純な仮名がつけられるのが普通
官位があれば、あるいは官位を称してれば真田左衛門佐のように呼んで識別するのが一般的だが官位がないとそれもできない
したがって真田源次郎、という風に呼ぶ必要性が生まれる
明治になって仮名と諱が統合されたから現代人からするとよく分からなくなっている
ちなみに名字の他に源平藤橘のような姓もある 姓と名字も明治の時に統一されたから違いが判りにくいよね。 サンクス
姓と苗字も違うのか…!
じゃあ俺も仮名を付けるかぁ 例えば徳川家康をフルネームで書くと「源朝臣徳川次郎三郎家康」または
「徳川次郎三郎源朝臣家康」となる。源は本姓(ほんせい)、朝臣(あそん)は姓(かばね)、
徳川は名字、次郎三郎(じろさぶろう)は通称、家康が諱。
かばねは古代史で出てくる臣(おみ)とか連(むらじ)と同じもの。本来はいろいろあったんだけど
ある時期までに朝臣に統一されたような状態になってしまった。
次郎三郎は仮名のうちの通称に当たる。兄弟の中の順番を表す排行名に見えるけど
実は代々同じ名を名乗っている。江川太郎左衛門と同じ。 姓は同じものが代々受け継がれてゆくのだけど、同じ姓の人でも住んでる地名を冠して言わなければ分かりにくくなった
それで二条の藤原さん、九条の藤原さん、近衛の藤原さん、‥
新田の源さん、足利の源さん、徳川の源さん‥などと区別できるようになった 中韓は姓なので日本みたいに新しい苗字など増えてゆかないから、姓の種類が少ない >>264
マジか… スペイン系の名前にも劣らない長い名前だな
平民はどうだったんだ? やまのふもとに住んでりゃ山本、村の中心なら中村、てなもんだろ
姓は‥馬の骨の子孫だからそんなものはない 今は下級国民でも教育受けて字くらい知ってるけど、昔は文部省も学校もなかったから、下々は字も読めなかった
兼家とか家康とか正武とか徹とかの難しい諱なんて付けられるわけもあんめぇ 諱?調べたら死後付けられる名前って書いてあったが、、 >>270
何を見たんだ?死後に付けられるのは諡(おくりな)。
諱は「いみな」だ。忌み名という意味があって大事な本名だから他人が
みだりに書いたり呼んだりすることは憚られる。 草燃えるというドラマでは
ほうじょうのまさこ
わだのよしもり
という言い方をしていたけどこれは間違い?
地名にのをつける言い方は今でもするので間違いとも言い切れない気がするが 一般的に本姓には「の」をつける。名字にはつけない。
と言われてるが反例もあるのではっきりどうとは言い切れない。
例
みなもとのよりとも
たいらのきよもり
ほうじょうまさこ
とくがわいえやす
反例
高師直(こうのもろなお) 高は名字で本姓は高階。
本姓は朝廷に与えられるか認められる必要があって勝手には名乗れない。
どこの馬の骨かわからない人間は過去に朝廷が認めた源氏とか藤原氏とかの子孫を
勝手に名乗るのが普通。
真田丸で秀吉が「とよとみのひでよし」と名乗っていたのは本姓を持たない下賎の出の秀吉が
朝廷に豊臣という新しい本姓を認めさせたということを強調したもの。 >>192
160センチぐらいだったというのが甲冑から言われてる。
大男だったという記述が信憑性のある史料では全く出てこないのと合わせて考えると190センチだった可能性より160センチ前後だった可能性が高いだろうという話みたい。
実際は会って測った人しか分からない。 >>184
しかもその虎は既に他の人の武器で傷付いていた手負いの虎だっという話だね。 >>174
土木工事の天才とされていて清正は他の城の縄張りやら重要箇所の割り当てを多数こなしていたらしいけど。
清正自身が専門知識があったというより、恐らく優秀な石積み職人や大工集団を抱えていたということのようだけども。 辞書アプリで
いみな【諱】
死後,その人をうやまっておくる称号。おくりな。
って書いてある 粟津出身の人が普通に粟津さんと呼ばれ続けて通り名になってたりしたな
上杉家とかの家来の農民に「名字の名主」ってのがいる
刀狩り〜戦後の時に、功績のあった人々を武士と農民を分けないといけなくなって
その時に武士より農民を選んだ名家がわりといる
家の格としてもそこらの武士より高かったよ
もちろん名字、帯刀も許されてる ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 >>277
もうちょっと詳しく書いてあるWikipediaなど見れば、それは間違いとわかる お茶の栽培でも中国本土からダイレクトに伝わったし稲作もダイレクトなのは動かし難い
栽培不可の土地を伝わったと考えるのは解しがたい >日本では時代が下ると、僧侶の受戒が、俗人の葬式で死者に授戒し戒名として諱を与える儀礼として取り入れられた。
>このため、現在では諱は諡と混同され、現代日本語ではしばしばほとんど同義に使われることもある。
まさにこの混同が起こってるな
諱(いみな)と諡(おくりな)は本来別物 地侍の堀田作兵衛って小汚い服着て、百姓みたいな生活してるけど、
あれ江戸時代で言えば庄屋でしょ?
戦国当時だってもっと小綺麗な暮らししてたんではないのか? スレとは関係ないけど、名字の名主に対して、家柄町人というのもいた
一般人が城に上6がるには名字が必要だったから
庄屋さんは名字あるね
地侍でも小作農に働かせるタイプは世間が安定しないと難しいんじゃないかな
部下を納得させられるだけの働きができなけりゃ贅沢は難しいでしょ
演出もあるし >>281
そんなオカシな事言ってる考古学者は一人も居ないぞ台湾褐色ブタ広鼻ロイド。 >>283
地侍=庄屋ではない。
地侍ってのは基本的に自作農で小作人を有期限、無期限で抱えたりもするけど家族のみってのも多い。
小作人いるところは戦に行く時にそいつらを従者として連れてくけど、他の地侍を傘下に置くことはない。
地侍は組親と呼ばれるようなそれこそ庄屋クラスの国衆とか大名配下の侍の指揮下に入るのが基本。 最後は信繁が秀頼連れて鹿児島に落ち延びて天草四郎が生まれるとこまで描いたらいい 最後は天草四郎が美輪明宏に生まれ変わるところまで描いたら良い ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 >>291
マルチは辞めろ
稲作は半島になんの縁もない 秀吉一家は大納言になろうが関白になろうが秀次を「孫七郎」と呼んでるのに
真田一家って本当に官位コンプレックスだな
昌幸は正式に任官されてないのに安房守って自称しつづけたし 孫七郎の娘は源次郎と子供産んで東北の方で で暮らしたのか、ルソンに渡ったのかどっちやねん?? >>298
この大河上ではルソンに渡った後、ほとぼりが冷めた頃(例えば秀吉死後)に
日本に戻って信繁の元に行って、娘を産んだって事になるんじゃないかな 千利休以外で初めて京阪式アクセントの男の声を聞いたな。一言だけで顔出しもなしだったがw >>293
できるけど?伊豆守から呼び換えて豆州って呼びたいってなに >>303
とりあえず三回くらい見直せ
それでわからなければ、小学校からやり直せ ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 >>283地侍の定義が何だが武田領の場合、軍役負担と引き換えに色々免許状乱発してるから
動員人数は多いけど零細な地侍も多そうなイメージだな。 豊臣家としての集まりで、太閤秀吉が最上席、関白秀次が次席に座しているけど
実際はどうなんだろう?
御前会議では関白が臣下の最上席で、太閤は・・・あ、出席しないのか 天皇家だって天皇より上皇が上と主張して家長の権限で院政を布いているんだから
家族の集まりでは秀吉が最上席だろう。 プライベートな場では家長たる上皇が上席だろうけど、
公的な場には、・・ご隠居は原則出ないんだよな・・・ 公式な存在じゃないから慣例に沿わず動けるという存在だからな。
だからやっかい プーチンが大統領の時は首相より偉い
首相の時は大統領より偉い 寝たきりで体力の衰えた秀吉が数キログラムはありそうな砂金の袋を震えることなく軽々と持って・・・? 院政は荘園をもってるかどうかで決まるわけでしてね
所領のない戦国期上皇(正親町しかいないが)が天皇の上に立つのは?? 上皇云々の話は太閤になった秀吉の立場を例えるために出てきたもので、戦国期の上皇そのものの存在、力の話題ではないと思うけど。 荘園を持ってるかどうかで決まるとかどんな謎の理論だよ >>317
経済的な裏付けとそれを持っているという事実が上皇の政治的な存在を担保するという意味でなら間違っていないかと。
金もそれによる影響力もない上皇はただの退位した天皇 違うだろ
基本的に幼年の天皇を上手く丸め込めるかが実権の有無を左右する
院近臣への利権のばら撒きも自身の荘園とは関係がない
金だけでどうにかなる余地を見つけるほうが難しいと思うが あの風俗の女は患者だったのか。
京阪式がおかしい率が高かったのもあれもニセモノという演出のうちなのだろうか?
まぁその辺で一番有名な風俗嬢は、真田安房守ごときに毎日抱かれに行かないだろな。 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 ろくがして板真田丸みたが
なんで紙おむつしてるの?
NHK馬鹿じゃないの?
あの時代に紙おむつ!
あるわけねーだろ! 一月ほど前は予告画像にバミテープが貼ってあるのがあると話題になっていたなw てか、セットの使い回しのひどさはないよな
襖変えたけだけとかでなくて、もっとわからんようにやれと きりちゃん(のモデル)が側室になるのは九度山幽閉の時だっけ?
>>1
そころで「スッドレ」って何? >>319
院政とは何かをもう一度勉強するべし。
保元平治の乱、南北朝分裂も院領荘園を巡る争いという一面がある。 側面というかまんまだと思うけどw
信長が座を禁じたり、仏教勢力潰したのも結局はその地から上がる収入を巻き上げて自分の資金にするためだったわけで。
秀吉、家康も貿易の制限をすることでその上がりを独り占めにし財源とした。 出浦って徳川家中と顔合わせしたことなかったっけ
真田の手のものが顔出して家康暗殺しに行って囲まれるってアホすぎね ぱっと見は農民だけど実は武士でもあるとかぱっと見は忍者だけど実は武士でもあるとかあるんだね
武士って言うと時代劇のお侍さまのイメージだけどこれは江戸時代がそうなだけで江戸以前は色んな武士がいたんですか?
それとも江戸以前以後関係なくずーっと武士には色んな種類がいるの? 農民と武士がはっきり分離されたのは秀吉の時代から江戸時代の初めくらいまでの間。
それ以前は農民は自衛のために武装しているし、下級武士は名主みたいな立場で
農村と深く関わっていた。秀吉は平和な時代の農村には自衛の武力は必要ないとして
刀狩りをして武器を取り上げようとした。しかしその効果は限定的だったと言われていて
完成するのは江戸時代に入ってからと考えられる。
それと江戸時代になると伊賀者や甲賀者といったいわゆる忍者の一部は江戸幕府の
家臣となって伊賀組とか甲賀組と呼ばれる。これらは忍者でも武士である。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています