邪馬台国 畿内説九州説VS他説 [無断転載禁止]©2ch.net
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畿内説のへ、・・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう!
九州説の方へ、・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう!
他説の方へ・・・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう! >>564
>筑紫王権が倭国(対馬海峡、日本海の国)の覇権を握った
記紀のは日向三代であって、筑紫王権なるものは出て来ないんだがね 日向三代は、イザナギが住吉三神を生み出したのと同じ筑紫の日向の倭王だよ。
それは博多湾沿岸を舞台とする物語だ。 >>566
>それは博多湾沿岸を舞台とする物語だ。
そう言い張るのは、一部の九州説(伊都国説)ぐらいしかいないマイノリティ
例えば、天孫降臨後のサルタヒコとアメノウズメの婚姻の場であるという荒立神社の
伝承のようなものが、筑紫の博多湾岸にはない
http://www.kuis.ac.jp/chinese/column-korogi.htm
神話や説話から考えると、日向の高千穂はやはり宮崎県が舞台と考えた方が蓋然性が高い 猿田彦神社は福岡市早良区の古の倭国王都にある。
後に猿田彦は邇邇芸を迎えて、倭国は筑紫の日向の中で東の早良から西の糸島に遷都したんだね。 邇邇藝命は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。
天忍日命と天津久米命が武装して先導した。
天忍日命は大伴連(おほとものむらじ)らの、天津久米命は久米直(くめのあたひ)らの、それぞれ祖神である。
邇邇藝命は「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」
東に平野、西に平野、北に韓国への海路が開けているのは福岡の高祖山。
宮崎では平野は東だけ、韓国は遠い。 >>567
>伝承のようなものが、筑紫の博多湾岸にはない
筑紫の日向においてイザナギが禊をした時に生まれたのが住吉三神であり、それを祭るのが筑前一宮である博多住吉神社。
神道の最も重要な祝詞となっていて、中心教義の一つである。 そんなところに遺跡はないだろ。
福岡なら、王墓もなんでもある。 宮崎の古墳群だね。
福岡が圧倒的なのは間違いないけど
九州はどこも遺跡が豊富なので
無いというと間違うよ。
注意せよ。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>575
>宮崎は第二の勢力である投馬国(宮崎県都万)
残念ながら、魏志倭人伝に投馬国は邪馬台国以北と書かれているから、
宮崎に投馬国を置くと、邪馬台国の比定地で詰むよ >>577
>以北なんて書いてないよ。
>嘘つくな。
あー、漢文の読めない人かw
南至投馬國『水行二十日』(官名略)『可五萬餘戸』
南至邪馬壹國、女王之所都、『水行十日、陸行一月』(官名略)『可七萬餘戸』
「自女王國以北、其『戸數』『道里』可得略載」
と連続で書いてあって、邪馬台国も投馬国も、『戸数』『道里』が略載されてるんだから
当然に「女王国より以北」だろ? 投馬国はなんらかの理由でそこに挿入されただけ。
前置き、溜め、なんだよ。
文学的表現だな。 >>579
>投馬国はなんらかの理由でそこに挿入されただけ。
>前置き、溜め、なんだよ。
>文学的表現だな。
投馬国行きの道里と、邪馬台国行きの道里の記載がまったく同じ形式
何らかの理由も何も、北部九州から先の長距離水行を含むところだから
同じ形式で書かれている
邪馬台国行きの水行が、帯方郡起点だと主張するなら、
当然に投馬国息も帯方郡起点でなければならないが、そうなると
投馬国の比定地が注に浮く
九州説の読み方はいつも捏造を交えた無理読みなんだよ >>580
無理矢理じゃないよ。
独特の読み方があるから難しいと中国の考古学者も言ってたから。
倭人伝の他にも色々あるらしい。 投馬国は倭人から日程だけ聞き取りしたけど、里程はない。
わかるのは、投馬国が邪馬台国より南だということ。
邪馬台国が九州北部で、投馬国は九州南部。 投馬国の中心は都万神社だよ。
今でもそのままの名前だろ。
屈指の古墳群を抱える西都市にある、日向国総社だよ。
郡使は伊都までしか行かなかったけど、第二の都市である投馬国の情報だけは仕入れていたわけだ。 >>582
>独特の読み方があるから難しいと中国の考古学者も言ってたから。
その「独特の読み方」とかいうのが、無理読みなんだってば
人に物事を伝える文書が、解読が必要なものだったら困るだろ? >>583
>わかるのは、投馬国が邪馬台国より南だということ。
だから、それは「自女王國以北、其戸數道里可得略載」に反するからダメだって言ってるだろ?
「南至投馬國水行二十日」官曰彌彌、副曰彌彌那利「可五萬餘戸」
↑ ↑
道里 戸数
投馬国は道里、戸数が略載されている女王国以北の国 里程は書いてないな。
日数だけだから、倭人からの伝聞だ。 >>585
とうの西都原の博物館の展示には熊本から宮崎(西都原含む)にかけて集中して出土する免田式土器の分布域が狗奴国であるという説は魅力的だとあったよ >>588
>里程は書いてないな。
>日数だけだから、倭人からの伝聞だ。
魏志倭人伝に書いてあるのは「其戸數道里可得略載」であって、
里程が略載されているとはどこにも書いてない
そして、日数も道里の記載として普通の表現
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、
倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
水行は魏人にとってなれない移動法だから、距離の換算ができなくて
日数のまま記録しただけだろう 「道里」という言葉一つきちんと解釈できないから、九州説なんてやってるんだろ?w
今の世の中では、史書・古典もデジタル化されてて、検索も容易になってるんだから
自分で調べればいいのに
『九章算術』も「道里」で検索をかけて見つけたんだよ >>581
>で、どう読んだら畿内にたどり着くんだ
奴国までは定説どおりでいい 奴国は福岡平野の比恵那珂遺跡群を中心とする国
福岡付近から、出雲まで水行20日
ただし出雲の場所が決めがたく、
出雲大社や西谷墳墓群がある出雲平野か、
熊野大社や出雲国府が置かれた松江平野か、
あるいは妻木晩田遺跡のある大山付近か、いずれかが候補
そこから丹波へ行くまでが水行10日
丹波の上陸地点は、網野銚子山古墳のある網野町か、神明山古墳のある丹後町竹野の竹野川河口付近
地名からすると記紀に丹波竹野媛(開化天皇妃)があることから竹野が有力、地形的には離湖という潟湖がある網野かな、とも思う
どちらに上陸したとしてもそこから陸行で京丹後市役所のある峰山付近を通って丹後半島を横断
横断したところが籠神社のある与謝野町、そこから野田川沿いに遡っていくと蛭子山古墳がある
福知山付近を通って、山陰本線に近いルートで亀岡まで来ると、丹波国一ノ宮の出雲大神宮がある
亀岡から桂川沿いに京都盆地に入り、巨椋池を経て木津川を遡り平城山を越えて奈良盆地に入って纏向ってルートでいいだろう
水行20日 福岡から出雲平野までが約300キロ 妻木晩田遺跡辺りまでだと370キロ
水行10日 妻木晩田遺跡から竹野までが約150キロ
陸行1月 竹野から纏向までが170キロくらい
水行中の日数は、夜に浜辺で休んだ日数や潮待ち、天気待ちも含むと思う
投馬国滞在日数は含まないんじゃないかな これはあくまで「かな」程度
陸行部分は、途中の集落の滞在日数も含むと思うが、そんなに大きな町も途中にはなさそう
あっても、丹波国の竹野付近と与謝野町くらいかな
遺跡の分布や神社の名前からして、出雲と大和の往来はこのルートでいいだろう
その出雲と大和の往還路を魏使ももたどったと考える
ただ、丹後半島を縦断するより、回りこんで若狭湾に入った方が楽かもしれないとも思う >>592
そっちの使い方が間違っているのでは?
キナイコシは都合のいい部分だけ文献を信用するんだな。 >>594
『九章算術』は長く使われた、計算問題にスタンダードだよ
ここに使われている用語の使い方は、大陸知識人には常識
日数も道里だってこと
都合のいいも何も普通の用法なんだよ
自分でも調べてごらん >>594
ああ、ゴメン
「キナイコシ」は漢文が読めないんだったねww
できないことを要求して申し訳ないww 倭人伝の内容だけ見れば
九州説は距離以外はほぼ問題無し
畿内説は方角以外も問題だらけ
違う? >>597
>畿内説は方角以外も問題だらけ
その問題だらけを具体的に指摘してみて
答えられることは答えるよ
その前に九州説では、投馬国の比定地とセットのまともな説がない 投馬国は薩摩も妻も単独じゃ人口規模的に無理があるよね。宮崎+鹿児島全部足しても5万戸は無理だと思う。
弥生時代の九州全部の推定人口が10万でしょ。末期だから古墳時代の推定人口で考えてみても九州全部で20万人いくかどうかくらいだし。
かと言って畿内説日本海ルートの出雲でも中国地方全部で10万くらいだから5万戸じゃなくて5万人なら有り?ってくらいだしなぁ。
結局倭人の言ってることをそのまま記しただけで、全然信用できませんよってなるよな。
そうなると畿内説も九州説もどっちも問題なしだし。 当時の「戸」には「人」の意味があり、むしろその使い方の方が多いと説明している。
https://kazunohi.exblog.jp/18859317/ 倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。
女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。
魏志倭人伝 普平陽侯相 陳寿撰 >>601,602 ありがと〜実際は単純に人で多く見せるために戸とか家って書いたのだろうと考えていました。
>>605 面積で、対馬約700㎢、宮崎+鹿児島約16,900㎢(離島含む)面積比較で約25倍。
可住地域の広さとか生産力とか考えると単純比較はできないけどもちょっと厳しいかと。
あと、和名類聚抄での郡の数が対馬9、宮崎+鹿児島102郷で10倍程度しか無いので50倍の人口は当時は居なかったと考えます。
対馬は離島なので1郷の戸数が本土より少なかったとかも考えれなくはないけど。 >>600
>結局倭人の言ってることをそのまま記しただけで、全然信用できませんよってなるよな。
奴国・福岡平野二萬戸を一つの基準にして、投馬国五萬戸ははそれより人口が多い
邪馬台国七萬戸はさらに多い、くらいに読めばいいと思う
実際の数を数えたってことはないだろうし、二万と五万だから2.5倍ってこともないだろう 邪馬台国と投馬国は併記されている。
しかし奴国は他の国邑と同じ内訳に過ぎない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>608
>邪馬台国と投馬国は併記されている。
>しかし奴国は他の国邑と同じ内訳に過ぎない。
国と国を重ねてダブルカウントするのは二重帳簿詐欺だよ
投馬国の内訳はなしかい?w 投馬国は行っていないから内訳なんかわからなかっただろうね。 梯儁さんは皇帝詔書を携えた除正使だから卑弥呼に金印を渡すのが仕事で
ヤマト国まで行ってるし、張政さんも台与に檄を告喩してるからヤマト国まで行ってる
投馬国はその経路上の国だからちゃんと見てるよ 投馬国には里程がないし、邪馬台国より遠いから、郡使は投馬国へは行っていない。 >>614
>投馬国には里程がないし、邪馬台国より遠いから、郡使は投馬国へは行っていない。
それは単なる誤読
>>590に書いてあるとおりに、日数も道里の表現として普通の表現
日数だから(里程が書いてないから)道里じゃないというのは通らない
魏志倭人伝には、自女王國以北、其戸數道里可得略載と書いてあり、
投馬国は戸数も道里も略載されている女王国以北の国
邪馬台国まで行っている除正使梯儁は、当然途中の投馬国にも寄っているよ 畿内の大御所は、とっくにトンズラした。
残っているのは、雑兵ばかりなりwww >>616
畿内説を推してるのは、桜井市教育委員会と毎日新聞だけ。 >>616
>畿内の大御所は、とっくにトンズラした。
トンズラした理由は九州説に負けた訳ではないからw
トンズラした理由は倭国(阿波)の実体を知ったから。 @阿波 倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。
男子は大小無く、皆、黥面文身す。
古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。
夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。
今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み
文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。
後、稍に以って飾と為る。諸国の文身は各に異なり
或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。
その道里を計るに、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”) の東に在るべし。
女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。
「魏書」第30巻『 魏志倭人伝 』 普平陽侯相 陳寿撰
神々からの日本最古の捏造教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国漢人官僚には正確に記述されてた
神々しい伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本の何処にあったんだろう? ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>616
>畿内の大御所は、とっくにトンズラした。
また捏造してる
トンズラした大御所って誰だよ?
具体的に言うてみ? >>480 >>479
2014/06/06
【嫌儲邪馬台国スレ】女王・卑弥呼はどこから来たの?九州説と近畿説、邪馬台国論争に新たな説が!
http://fox.2ch.net/test/read.cgi/po●verty/1402030330/
「邪馬台国論争」は、九州説と近畿説が長らく対立してきた。しかし近年、各地で調査が進み、新たな説が浮上してきた。
それは、卑弥呼は九州北部の伊都国に生まれ、近畿に移動してきたとする説だ。
九州で女王・卑弥呼が誕生し、その後、近畿に都ごと遷都してきたという可能性もある。 >>481
2016/07/04
邪馬台国=南九州説が正しいような気がしてきた 出雲は九州人の植民地だった
http://hayabusa3.2ch.s●c/test/read.cgi/news/1467623283/ >>482
2012/12/02
九州「邪馬台国は間違いなく九州!」 畿内「いやウチだろ、卑弥呼の墓もあるし」 岡山「待ちたまえ君達」
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/po●verty/1354432717/
若井氏は、楯築弥生墳丘墓(倉敷市)が前方後円墳の祖型だとし、「邪馬台国(吉備)の
文化を大和が取り込んだ」とした。
2014/10/08
【岡山】邪馬台国の場所がついに決定 畿内説(笑)九州説(笑) [654328763]
http://fox.2ch.net/test/read.cgi/po●verty/1412753165/
2015/12/06
邪馬台国が魏からもらったとされる神獣鏡、岡山の古墳から多数出土 [231982652]
http://maguro.2ch.s●c/test/read.cgi/po●verty/1449390077/
同展で初公開されている、江戸時代に岡山市の古墳から同神獣鏡が複数出土したとす
る古文書(同博物館など所蔵)については、「大変驚いた。新しい鏡の資料はもう出てこな
いと思っていた」と驚きを隠さず、銘文などから魏で240年ごろ製作された鏡と分析 >>482 >>491
2016/04/07
【邪馬台国】 畿内・九州以外の説も考えてみるべきでは? 島根説、沖縄説、四国説、奄美大島説、台湾説、etc… [231982652]
http://maguro.2ch.s●c/test/read.cgi/po●verty/1460018135/
邪馬台国の所在地を奄美大島とする著者は、周の要求に応じ、倭人が特産の桑の木と蚕を献上したのではないかという。
奄美大島では現在も大巫女をフミコと呼び、そのフミコが卑弥呼へ転化したと解説。 ここって頭の悪いスレをスレ立てしてして、URLを貼るスレなの? アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RCL6WAQsxbu3kAXBGU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 http://www.youtube.com/watch?v=aljW2VJn7f8&feature=youtu.be
私の 説は 邪馬台国 は 球磨郡 にあった です
魏志倭人伝の 翻訳 とか みなさん 読んで かたってますか?
ぼくも 読む前は 邪馬台国 やまたい 大和 ヤマトゥ と このよみから 近畿だと ゆってましたが
これは 本居宣長 の 策略でした まんまとはまってました
魏志倭人伝には 邪馬壹國 と あり これは 中国よみで シュマイ 日本語で よんでも やまいこく 臺灣 台湾 誤字ったにしろ とにかく ソウル から 邪馬台国 まで 1マン2000里 である 100里が7KMとしても 近畿にはとどかないので
九州しかないのです そのへんも 動画にまとめました 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>633
日本語が不自由ですね
自動翻訳ですか? 九州説と青森三内丸山説
時代が合わないという点ではどっこい? 夏王朝と漢字を作ったのは日本人(シュメール人)
夏王朝を倒したのは商
商王朝がバカだった原因は占い
夏=summer=シュメール ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 倭人は帯方の東南、大海の中にあり、山島に国を作っている。
土地は平野少なく山林が多く、良田はない。海産物を食す。
昔は百余の小国が互いに接す「。魏の時に至って、三十の国があり親しく交流した。
戸数は七万あり、男子は大人、子供はみな、顔と体に入れ墨している。
倭人たちは自ら太伯(古代中国の周王朝)の子孫だという。
また昔、倭国の使者が中国を訪れた時、倭人達は自ら大夫(周朝の貴族)と称す。
いにしへの夏朝(中国大陸初の王朝)の少康(夏朝皇帝)の子は
中国会稽に封じられると、髪を切り、入れ墨をし蛟龍の害を避けたが
今まさに倭人達は沈没して魚を取るのを好み、同様に入れ墨をし水魔を払う。
倭国までの道のりを計算すると、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”)の東にあたる。
その男子の衣服は横長の布を結び合わせてつなぐだけで、ほとんど縫いつづることがない。
婦人の衣服は一枚の掛け布団のようで、中央に穴をあけ頭を入れる。
皆おかっぱ頭で、裸足である。 倭人の地は温暖で、稲やカラムシを植え、養蚕して布を織る。
土地に牛、馬は無し。刀、楯、弓矢があり、鉄をヤジリにしている。
倭国には家屋があり、父母と兄弟は異なる場所で寝る。
食飲にはまな板状の台と高坏を用いる。
正月や四季の区別が無く、ただ秋の収穫の時を数えて年紀としてる。
死に際し棺はあるが槨なく、土を盛って墓を作る。初め喪中は哭泣して肉食を絶つ。
葬儀が終わると、家中の者が水に入り、体を洗い清潔にし穢れを取り除く。(神道の源流)
重大な決断時には、太占を行い骨を焼いて吉凶を占う。
倭人は長生で、百歳とか八、九十歳の者が多い。
婦女は淫らではなく、嫉妬もしない。争いや訴えはない。
軽罪を犯した者は家族ともども身分を奪って奴隷にし、重罪者は一族を滅ぼす。
その倭国の王家は昔は男子を君主として立てていたが
漢末に倭人達は乱れ戦うことなり倭人達は共に女子を立てて倭国の女王とす。
其の名は卑弥呼という。
宣帝(魏の宣王、司馬懿仲達。晋の建国後、宣帝と諡された)が公孫氏を平らげると
その女王は遣使して帯方に至り朝見した。その後も貢ぎ、遣使することは絶えなかった。
文帝(司馬昭)が魏の相国になると、また何度か使者を遣わし中国に来朝す。
晋の泰始元年(司馬炎)に遣使し、倭人は通訳を重ねて中国へ朝貢に遣って来た。
「晋書」第97巻 『 四夷伝倭人伝 』 房玄齢撰
神々からの日本最古の捏造教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国漢人官僚には正確に記述されてた
神々しい伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本の何処にあったんだろう? >>613
倭人伝では途中の国までは方角と距離を書いてるがそれ以降は水路や陸路で何日と書いてるよね。
つまり元資料を書いた人は途中までしか行っておらずそれより先の行程は聞いた話でしかない。
よって邪馬台国まで行った魏の使者の使節団の関係者じゃない 奴国や伊都国は福岡県と特定されてて、倭人伝では邪馬台国連合の勢力圏と記述。
邪馬台国が畿内にあったらそこから福岡までもが勢力圏ということになるから邪馬台国は九州だと思う。 >>642
邪馬台国への行程を書いた人物は末端役人か商人なのだろうね。
陳寿が倭人について書くなら実際に邪馬台国へ行った使節団の公的記録を引用した方が正確だし、普通ならこちらを選んで載せるはず。
ただ公的記録が入手できなかったからそれを載せたってだけかもしれないが。 >>641
>倭人の地は温暖で、稲やカラムシを植え、養蚕して布を織る。
>土地に牛、馬は無し。刀、楯、弓矢があり、鉄をヤジリにしている。
>神々しい伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本の何処にあったんだろう?
だから、倭国(阿波)だと、何度言えばw @阿波 >>643
>邪馬台国が畿内にあったらそこから福岡までもが勢力圏ということになるから邪馬台国は九州だと思う
いや、普通に畿内から北部九州まで一つの勢力圏なんだが?
それが倭国であり女王国だよ
ただ、九州説の人の好きな「支配」とか「服従」とかの関係ではないけれど アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>648
>バカ発見
こういうのが典型的な九州説
どこがどうバカなのか、一切説明できないから、
腹いせで小学生のように「バカ」と書くことしかできない
小学生、ごめんなさい(>_<)
どこがバカなのか具体的に指摘してごらん
って書くと消えるんだよなw >>633日本語が どうたら ゆうてる やつ 自分の ハプログループ しらべてみた?
だいたい こうゆう 人のことを きずつけることゆうやつは
渡来人系の 02 グループだろうーな 百済の言葉かな? じゃーわからないわ >>651
キノコっていうのは、キウスの弟子って意味か?ww >>651
百済をバカにしてる辺り、全羅道に差別意識を持つ人間だなww >>651
>だいたい こうゆう 人のことを きずつけることゆうやつは
日本語が不自由と言われて傷つく日本人はいないって分かるかい?
自分の巣へお帰り 2018/11/10
【古代史】「邪馬台国」時代の鉄器生産工房…「ヤマト建国」に隠された淡路島の「不運な歴史」
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1541840994/ 九州説はもう減らず口をたたくくらいしかやることがないんだろうな 九州説より三内丸山遺跡が邪馬台国だったという方が筋がいい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています