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【九州説】邪馬台国は福岡県山門郡にあった!
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001日本@名無史さん
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2018/10/15(月) 20:41:41.77
九州に決まっとろうが
福岡県山門郡周辺を今すぐ発掘せよ!

邪馬台国畿内説の根拠は
邪馬台=大和=奈良(完)と言う
風潮に論理的に反論するスレです

*過剰なコピペは厳禁!
0002日本@名無史さん
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2018/10/15(月) 20:45:29.39
新井白石が「古史通或問」において大和国説を説いたのちに「外国之事調書」で筑後国山門郡説を説いた。

以降、江戸時代から現在まで学界の主流は「畿内説」(内藤湖南ら)と「九州説」(白鳥庫吉ら)の二説に大きく分かれている。ただし、九州説には、邪馬台国が”

移動した"とする説(「東遷説」)と"移動しなかった"とする説がある。「東遷説」では、邪馬台国が畿内に移動してヤマト王権になったとする。
0003日本@名無史さん
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2018/10/15(月) 21:04:30.70
出雲市山根掘った方が早くね?(まあどこでもええですが
卑弥呼さんは伊都で狗奴は吉備から畿内のち近江若狭と連合(解決
0004日本@名無史さん
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2018/10/15(月) 21:25:53.15
久米雅雄は「二王朝並立論」を提唱し、「自郡至女王国萬二千餘里」の「女王国」と、「海路三十日」

(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の「邪馬台国」とは別の「相異なる二国」であり、筑紫にあった女王国が

「倭国大乱」を通じて畿内に都した新王都が邪馬台国であるとする。
0005日本@名無史さん
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2018/10/15(月) 21:27:26.11
邪馬台国九州説では、福岡県の糸島市を中心とした北部九州広域説、福岡県の大宰府天満宮、大分県の宇佐神宮、

宮崎県の西都原古墳群など諸説が乱立している。

邪馬台国九州説の基本論拠は以下のものが挙げられる。

帯方郡から女王國までの距離を直線距離ではなく行程だと考えれば12,000里のうち、福岡県内に比定される伊都国までで既に10,500里使っていることから、

残り1,500里(佐賀県唐津市に比定される末盧國から伊都國まで500里の距離の3倍)では邪馬台国の位置は九州地方を出ないとされること。
0006日本@名無史さん
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2018/10/15(月) 21:29:11.00
九州北部に比定される伊都国から、邪馬台国への行程において、投馬国や邪馬台国への旅程日数を合算しても「2カ月」であり、方角が「南」であるため。

邪馬台国と対立した狗奴国を熊本(球磨)の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられること

魏志倭人伝中で邪馬台国の埋葬方法を記述した『有棺無槨』を甕棺と見なす見解に基づき、北九州地方に甕棺が多数出土していること。
0007日本@名無史さん
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2018/10/15(月) 21:31:01.09
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0008日本@名無史さん
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2018/10/15(月) 21:32:31.31
筑紫平野
古くから指示されており、人口の多い久留米説を始め、平塚川添遺跡の甘木・朝倉説、八女説、吉野ケ里遺跡もこれに含まれる。

福岡平野
奴国があったと考えられる福岡平野に、これに隣接するように邪馬台国もあったとする説。伊都国や奴国から放射説行程とする説もある。

佐賀平野
唐津から松浦川沿いや現国道323号沿いなどの経路で佐賀平野に抜ける説。広くは吉野ケ里説もこれに当たる。

宇佐
経路などはともかく、八幡宮の総本宮である宇佐神宮を邪馬台国と見る説。
0009日本@名無史さん
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2018/10/15(月) 21:36:26.93
東遷説

神武東征を史実とするかはともかく、記紀などの国内資料に基づく研究では、九州で成立した王朝(邪馬台国)が東遷したという説がある。

白鳥庫吉、和辻哲郎が戦前では有名であるが、戦後は、歴史学および歴史教育の場から日本神話を資料として扱うことは忌避された。しかしこの東遷説は戦後も主に東京大学を中心に支持され発展し続けた。
0010日本@名無史さん
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2018/10/15(月) 21:39:23.67
>>1

>邪馬台=大和=奈良(完)

やまとの地名は九州にもあるし
胆略的すぎるな、ありえんw
0011日本@名無史さん
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2018/10/15(月) 21:41:40.91
異説

古田武彦によって提唱された説に、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝(太宰府が首都)があったとする九州王朝説がある、古田は「倭」とは九州のことであり

「邪馬壹國」(「邪馬臺國」)は九州王朝の前身であるとし、その後、九州王朝が成立したが、663年(天智3年)「白村江の戦い」の敗北により滅亡にむかったとしている。

邪馬台国から「倭の五王」までを九州に比定する論者はかつてから存在しており、古くは鶴峰戊申から戦後では長沼賢海らがいる。
0012日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/15(月) 23:00:40.22
実は既に18年前の1992年に謎が解かれていたことを最近知りました!!
 張明澄著『誤読だらけの邪馬台国』(久保書店刊)に書かれています。著者は台湾人で、魏志倭人伝の邪馬台国についての記述(漢文)を読み解いて、その位置をずばりと書いています。
https://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e/dfa3241cf12432febe1480c01c9f5375

張明澄氏は、邪馬台国を「川内平野の阿久根」とされた。


 帯方郡(ソウル
 ↓7,000余里
 (渡一海)→狗邪韓国(釜山
 ↓1,000
 対馬国(西ノ浦
 ↓1,000
 一大国(郷ノ浦
 ↓1,000
 末櫨国(佐世保)→100→不弥国(潜木
        →100→奴国(大塔
        →500→伊都国(塩田
 ↓2,000
 邪馬台国(阿久根

 以上の如くである!
https://blogs.yahoo.co.jp/eraser1eraser/41214268.html
0013日本@名無史さん
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2018/10/15(月) 23:01:18.76
>>3
出雲だ
0015日本@名無史さん
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2018/10/15(月) 23:38:22.04
>>12
マジ読みたいわ、そのほん
0016日本@名無史さん
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2018/10/15(月) 23:39:33.12
>>12
なぜ今まで解読出来なかったんだ?
0018日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/15(月) 23:42:29.72
>>16
本によると魏志倭人伝を中国語で読まずに漢文読み下しで読んでいるせいだそうだ。
0019日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/15(月) 23:43:51.21
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0021日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/15(月) 23:55:29.37
福岡県山門郡の歴史
日本書紀に記された神功皇后が山門県で土蜘蛛田油津媛を討ったとされる山門県に比定される

近世以降の沿革
明治初年時点では全域が筑後柳河藩領であった。
旧高旧領取調帳に記載されている明治初年時点での村は以下の通り(1町113村)。
柳川城下(以下省略)

・・・・・要するに、柳川藩のことじゃねえかwwwww
0022日本@名無史さん
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2018/10/16(火) 01:09:40.09
>>18
それにしても
中国人に頼めば済むことやん
0023日本@名無史さん
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2018/10/16(火) 07:41:57.73
西日本の覇権の推移
倭奴国(博多)の覇権→倭国大乱→邪馬台国(筑後)の覇権→倭奴国残党の分裂

倭奴国残党の分裂
1博多に残って邪馬台国の支配下に=伊都国、奴国
2南九州(西都原)に移住=天孫降臨
3近畿(巻向)移住=神武東征

近畿移住組の立場
はじめは近畿の覇者ニギハヤヒ傘下の豪族→四国、出雲征服→近畿覇権奪取(崇神=ハツクニシラス)

九州の再征服
景行遠征→仲哀遠征→継体遠征(磐井の乱)→白村江で九州政権滅亡→九州全域が支配下に

律令、神話の統一
大宝律令、古事記、日本書紀の制定
0024日本@名無史さん
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2018/10/16(火) 08:27:43.41
>>23
九州は半島南部も支配していた倭国
巻向は半島倭国からの帰来者と大和の豪族と組んだ新政府軍みたいな感じじゃないか?
0025日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/16(火) 08:31:06.15
>>22
そう思うけど、それをした人がいなかったらしい。
「到」と「至」に意味の違いが読めていないとのこと。
ウィキペディアによるとこの張明澄氏は「漢学
『誤訳・愚訳 漢文の読めない漢学者たち!』(1967年久保書店)で、
『唐詩選』をはじめとする唐詩の誤訳や原文の間違い、意境の至らなさなどを痛烈に批判した。
(中略)
特に批判の対象となったのは、吉川幸次郎の「新唐詩選」や、前野直彬の『唐詩選』など、岩波書店から出版された漢詩の翻訳であり、
張は激しい調子で王翰の「涼州詩」などに対する吉川らの解釈を否定した。
発表当初は中国文学界からは黙殺されたが、
後になって漢詩解釈の専門家である松浦友久が張の説を取り上げ、吉川の解釈と比較して検証をしている。
松浦の検証によれば、王翰の「涼州詩」に対しては吉川の解釈も張の解釈も両方歴史的に見て正しく、
解釈として成立するものだという。(同著作選は研文出版)」
とのことで古典を読むのに長けた台湾人だから可能だったのかもしれない。
0026日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/16(火) 09:31:49.65
>>12
阿久根に遺跡があるの?
末廬国が対馬ではなくて佐世保と言う話だけど
現代的な距離感で訳して推測も入ってるな
地名からの解読を無視していいのか?
0027日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/16(火) 09:35:47.44
古代の作文には、今の我々には想像もつかないほどの厳しい字数制限があって、
書き方に多大の工夫を擁した。
代名詞・短縮形・省略形は無数にある。
そのぶん、読み・解釈に幅が出るのはやむを得ない。
一方は絶対に正しく、他方は絶対に間違いという硬直した態度では、読み解けないだろねえ。
0028日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/16(火) 09:54:40.69
>>26
投馬国な
0029日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/16(火) 10:21:55.79
張氏の説は絶対では
あり得ないとは思うが
張氏の説こそが魏志倭人伝なんだよな

張氏倭人伝を解読すりゃ
それが真実や
0030日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/16(火) 10:45:22.22
外国人だけに、九州の地理感・距離感ゼロだわ。
佐世保に阿久根じゃ、箸墓の二の舞、三の舞だな
0031日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/16(火) 13:18:00.91
『また一海を南渡して千余里、一大国にいたる』と続くが、
ここでの「千余里」が、現代の何キロになるかは分からない
と張氏は説明しているが、少なくとも「対馬国へいたる」
千余里と、ここでの千余里はほぼ同等距離でなければ
いけないとのこと・・・当然だろう。
そのため、「一大国」は「壱岐」に比定している。
距離が同等であれば、対馬国から「千余里」で行けるのは
「壱岐」しかありえないからだ。
(中略)
「壱岐」の次は「末蘆国」と「伊都国」になるが・・・
日本では、松浦と発音が似ているからといって、松浦半島の
「呼子」や「唐津」に比定しているが、百パーセント間違いだと
解説している。
なぜ間違いかといえば、距離は分からないが「千余里」は
等しくなければいけないのに、松浦半島では距離が短すぎる
からだ。
昔であっても、等しいか等しくないかはわかったはず。
さらにこの後、方位的に「南行」できなければ「邪馬台国」へ
行けないのだから、松浦半島では絶対に無理である。
「壱岐」から「千余里」で、「魏志倭人伝」に書いてある
通り、4千人程の人が住めて、その後「南行」できる場所は
「佐世保」しかありえないとのことだ。
地図を見てもらうとわかるが、「魏」から船旅をしてきた
一行が、落ち着いて船を着けることができる場所は、
湾があって、波も穏やかな佐世保ならベストだろう。
それ以前に、上記の条件がすべて合う場所がここしか無い。
https://kazunohi.exblog.jp/18859317/
https://kazunohi.exblog.jp/18865451/
0032日本@名無史さん
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2018/10/16(火) 13:35:04.05
>>31
古代と現代では地形も変わってるだろうから
さらなる解読は必要だと思う、かといって大きく離れた場所でもないはず

これまでの魏志倭人伝の信憑性0%と比べれば
張氏は50%
0033日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/16(火) 13:44:18.25
>「壱岐」から「千余里」で、「魏志倭人伝」に書いてある
>通り、4千人程の人が住めて、その後「南行」できる場所は
>「佐世保」しかありえないとのことだ。

ここを四角四面に解釈している割には、その先がハチャメチャ。ま、20点。
0034日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/16(火) 13:56:07.15
『東南に陸行すること五百里、伊都国にいたる。』
「伊都国」を「糸島」としているのも間違いだと説明。
当時の方位、「千余里」の半分の距離である「五百里」。
これにあたる比定地は、現在の「塩田」だとしている。
『東南して奴国にいたるは百里』。
距離、方位、地形を考えると「大塔」に比定できるという。
ここで大事なのが、「到」と「至」の区別だ!
これを間違うと「邪馬台国」にたどり着けない。
ここで一番重要な点がある。
「伊都国」と「奴国」の「起点」だ!
「到」と「至」では、「起点」になる、ならないが
明確に違う。さらに「起点」になるならば、「従」「始」「又」などに導かれて着いた地点でなければならないそうだ。
多くの学者は「到」「至」「従」「始」「又」を考えずに解釈してきたらしい。
そのため、「帯方」「対馬」「一大」「末蘆」「伊都」「奴」と、いわゆる「直線読み」をしてきた。
さらに「放射読み」をしてきた学者は、「起点」を
間違えて、「邪馬台国」までたどり着けなかった。
(中略)
では、何が正しいのか? 問題はまず「伊都国」「奴国」の解釈に出てくる。
『東南に陸行すること五百里、伊都国にいたる。』の
「起点」は「末蘆国」である。
しかし、「伊都国」の前には「到」があるため、そこは「起点」にはなりえない。
つまり、次の「奴国」の「起点」も「末蘆国」である。
さらに『東行して不弥国にいたるに百里』と続くが、
やはりこれも「末蘆国」が「起点」であり、「伊都国」や「奴国」を「起点」にしてはいけない。
「伊都国」を「起点」にしてしまっている学者が多い。
これを正しく訳すと「末蘆国から伊都国までは五百里、末蘆国から奴国までは百里ですよ。」ということになるし、
それ以外の読み方はできないそうだ。
https://kazunohi.exblog.jp/18865451/ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)
0035日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/16(火) 13:56:54.16
距離、方位等を考えると比定地は現在の「潜木」となる。
ここでひとつ矛盾が生じた。
実は「奴国」には「至」が使われていることだ。
つまり、今までの解釈では「奴国」も「起点」になる
はずだが、張氏は違うとはっきり言っている。
「起点」になるためには、まず「距離」が書かれた後に
「地名」が書かれなければいけないが、「奴国」の場合、
「地名」の後に「距離」が来ている。
この場合は「・・・ならば・・・」と仮定として読まな
ければいけないそうだ。
つまり「末蘆国から伊都国までは五百里、末蘆国から奴国
へ“行くならば”百里ですよ。」・・・つまり「奴国」
へは行っていない、当然そこを「起点」にしてはいけない
ということだ!
https://kazunohi.exblog.jp/18921676/
0036日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/16(火) 15:31:41.70
>つまり「末蘆国から伊都国までは五百里、末蘆国から奴国
>へ“行くならば”百里ですよ。」・・・つまり「奴国」へは行っていない、

なんかつまりが多いな。
ま、それはそれとして、伊都国へ行った後に、同じ末蘆国からすぐそこの行かなかった奴国百里を書くのはダサいな。
陳寿は、そんなへまな文章は書かねえよ。
0037日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/16(火) 15:42:13.61
なーんだ
ド田舎の字辺鄙ばかりじゃねえか。
0038日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/16(火) 16:19:17.24
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0039日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/16(火) 19:35:44.63
>>36
よく知ってるな。友達なのか?
0040日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/16(火) 22:12:24.94
海岸線は今よりも内陸にあるはずだから
とりあえず海岸沿いの町阿久根では無いな
阿久根よりも10Km内陸側にある地域が
邪馬台国だ!
0041日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/16(火) 22:22:19.81
>>9

> 東遷説
>
> 神武東征を史実とするかはともかく、記紀などの国内資料に基づく研究では、九州で成立した王朝(邪馬台国)が東遷したという説がある。
>
> 白鳥庫吉、和辻哲郎が戦前では有名であるが、戦後は、歴史学および歴史教育の場から日本神話を資料として扱うことは忌避された。しかしこの東遷説は戦後も主に東京大学を中心に支持され発展し続けた。
0042日本@名無史さん
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2018/10/16(火) 23:46:50.47
訳者は邪馬台国論争の経緯とか
日本の歴史とかには疎いのかな
鹿児島の隣の宮崎なら日向とか高千穂とか比定地はあるが
0043日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 00:07:28.85
>>42
「張氏は「魏志倭人伝」に書かれている内容を、忠実に訳しただけであり、本当に「邪馬台国」がそこにあったかどうかは別である。」
https://kazunohi.exblog.jp/19767540/
0044日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 00:11:58.33
鏡の刻印とかで
中国人ならすぐに日本製か中国製か分かるそうな日本製なら和製中国語で書かれてるから
しかし皮肉なもんだ、今なら日本製が有り難がれるが、古代では逆になるんだな
0045日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 00:14:17.57
>>43
決定打がなぁ...
なかなかうやむやっとさせるな
0046日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 00:17:01.03
>>45
シュリーマンのトロイアみたいなものだ。
0047日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 00:19:03.91
しかし、巻向でどんだけ出土品が出ても
近畿が邪馬台国じゃないのは良く分かった
なんで畿内説論者は結論はさも近畿で決まったかのように思ってるのか
0048日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 00:29:12.09
>>43
要するに、伊都国放射説を改変した「末盧国放射説」ってだけのことだ。
0049日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 00:30:22.12
>>48
「到」と「至」の読み分けな!
0050日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 00:40:53.55
>>48
「張氏の本を読む必要も張氏の解読した本の内容を受け入れる必要も無い。しかし、張氏が言う
1・語学的に絶対に無理が無いこと。
2・原文を絶対に修正しないこと。
3・国々の位置が陸上にあること。
この考え方を理解しない人は「魏志倭人伝」や「邪馬台国」を語らない方がいいだろう。」
https://kazunohi.exblog.jp/19767540/
0051日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 01:05:12.75
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0052日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 01:26:49.84
>>50
2.原文を絶対に修正しないこと・・・、といっても、
行程上の国々の間隔がチョッキリ千里ずつで並んでいたと厳格に解釈するのは、いささか不自然で教条的だ。
人間関係・人間の行動に関することならともかく、自然現象は人智が及ばぬからな。
0054日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 06:41:03.33
帯方郡(ソウル)
 ↓7,000余里
 (渡一海)→狗邪韓国(釜山)
 ↓1,000
 対馬国(西ノ浦)
 ↓1,000
 一大国(郷ノ浦)
 ↓1,000
 末櫨国(佐世保)→100→不弥国(潜木)
        →100→奴国(大塔)
        →500→伊都国(塩田)
 ↓2,000
 邪馬台国(阿久根)
https://blogs.yahoo.co.jp/eraser1eraser/41214268.html
0055日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 07:02:32.81
末櫨国(佐世保)は4000戸の大国で、
それ以下の4国のキーステーションのはずなのに、官も副も書かれていないのは不合理。
0056日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 07:30:31.17
佐世保じゃないということだよ。
糸島平野の入り口なら、三雲の直轄地で良い。
0057日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 07:39:08.31
佐世保じゃないということだよ。
佐賀平野の入り口の唐津なら、川上・伊都国の半直轄地で良い。
0058日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 07:48:25.60
東南至奴国百里。官曰兕馬觚、
東行至不弥国百里。官曰多模、

両者を比較した場合、東南至、と、東行至、では、
行という動詞のあるなしで、決定的な違いを明示している。
台湾人は、ここんところを読み飛ばしてるようだ。
0059日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 08:04:42.57
>>57
「日本では、松浦と発音が似ているからといって、松浦半島の「呼子」や「唐津」に比定しているが、百パーセント間違いだと
解説している。」
https://kazunohi.exblog.jp/18859317/
「なぜ間違いかといえば、距離は分からないが「千余里」は等しくなければいけないのに、松浦半島では距離が短すぎるからだ。
昔であっても、等しいか等しくないかはわかったはず。
さらにこの後、方位的に「南行」できなければ「邪馬台国」へ行けないのだから、松浦半島では絶対に無理である。
「壱岐」から「千余里」で、「魏志倭人伝」に書いてある通り、4千人程の人が住めて、その後「南行」できる場所は「佐世保」しかありえないとのことだ。」
https://kazunohi.exblog.jp/18865451/
0060日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 08:11:05.74
>「なぜ間違いかといえば、距離は分からないが「千余里」は等しくなければいけないのに、
松浦半島では距離が短すぎるからだ。

↑これは、台湾流の読み方だな。
陳寿は、千里・千里・千里と、切り良く書いたのだ。
壱岐−唐津は、四捨五入すれば、十分すぎるほど千里なんだからなんの問題もない。
0061日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 08:31:11.25
海岸線が今と違うだろ
まずは海岸線を特定してから
距離を当てはめないと意味がない
0063日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 08:40:10.67
>>60
それは出張報告書としてはNGだなw
別の人が再訪することができないじゃないか。
0064日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 09:10:12.43
>>62
台湾人だからといって、中国語完ぺきとは言えない。
とくに陳寿の文章癖に精通というわけでもなかろう。
なお、日本の地理は関知せずというが、この問題は、地理に合わなければ何の価値もない。
0065日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 09:16:57.17
>>63
>至一大国。官亦曰卑狗、副曰、、、耕田猶不足食、亦南北巿糴。

ここで、南北に市櫂といっており、(南へ航路を取れ)と指示している。唐津を目指せということだ。
0066日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 09:20:02.30
>亦南北巿糴。

台湾人学者は、↑この一節も見逃してるようだ。
0067日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 09:50:05.59
魏志倭人伝の解読に関しては
ここで批判してる奴よりも
張氏を信じる
問題は海岸線だ
数キロずつ内陸側にずれるから末廬国は
佐世保じゃない、佐世保より内陸側にある所
似たような地名があればそこが末廬国だ
0068日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 09:57:48.26
末廬国は佐世保市松浦町だ
0069日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 10:08:53.76
魏志倭人伝の邪馬台国は
鹿児島県阿久根市の山下地区じゃないか?
海岸線から数キロ内陸で
山下小学校の辺り
0070日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 10:17:23.89
鹿児島県川内市東郷町山田
ここもくさい
0072日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 11:20:19.63
>>65
生兵法は怪我のもと
お前には無理
0073日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 11:22:20.58
>>71
肝心要は、市櫂の前の南北
0074日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 11:35:18.48
>>73
対馬も壱岐も島だから南北に船で移動でき、交易を行うことが可能。
何の問題が?
0075日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 12:05:00.01
まぼろしの邪馬台国によると
弥生時代の海面は今よりも40m高く
福岡と有明海が繋がっていた
0076日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 13:09:55.34
おい地図見てみろ
福岡と有明海が繋がってたなら
陸行で佐世保から阿久根までかなりの遠回りになってしまうぞ!
0077日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 13:22:54.62
本当に地質学的にそんな地形だったのか?
ソースは?
サイエンスのソース(「まぼろしの〜」以外の客観証拠)出してくれ!
0078日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 13:28:19.10
有明海と福岡が繋がっていたなら
吉野ヶ里が末廬国じゃね?
弥生時代の吉野ヶ里は内陸部ではなくて
有明海沿いになるわけだから

そこから阿久根まで陸行でも水行でも南下するだけで
たどり着く
距離的には変わらない
0079日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 13:32:54.31
>>77
2000年前の古代の事にソースはって
そんなもん仮説に決まってるだろ
てめえで調べるか
ブルドッグソースたらふく飲んで氏ね
0080日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 13:35:52.19
>>79
調べもせずに地形が全然違ってたって仮定を置いたのか?
驚いた!
0081日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 13:47:51.14
>>80
お前がまぼろしの以外とか
小難しい事言うからだろ
ソースはまぼろし好きの人のブログだよ
0084日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 14:03:56.45
どっちにしても有明海今よりもかなり内陸部に
あって
佐世保から阿久根までは遠回りになる
0085日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 14:52:59.81
>>77

有明海沿岸低平地域における過去の海岸線の変化
www.ilt.saga-u.ac.jp/~hn_lab/lowland_mystery/ariake_shoreline.html
0086日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 14:58:36.12
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0087日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 15:04:04.78
>>85
>>79と同じだ。リンクが切れてるけど。
0088日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 15:35:10.61
とりあえず畿内では無い事は分かった
0089日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 16:22:03.99
いや、科学的ソースだから
なんか佐賀大のつながらなくなってるけれど、とりあえず
「有明海沿岸低平地域における過去の海岸線の変化 」でグーグルで検索して「画像」で見ると
図は見られるよ
0090日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 16:23:10.89
>>88
>とりあえず畿内では無い事は分かった

いや、山門のあたりは弥生時代半分くらい海だったって
いう科学的ソースが出てるんだけど?
0091日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 16:39:49.75
>>63
次回の現地ガイドも短里を使う倭人なら問題なし。
0092日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 16:44:34.83
>>91
>次回の現地ガイドも短里を使う倭人なら問題なし。

短里を使う現地ガイドなど、どこにいるんだ?
倭人は里数を知らないと隋書が書いてるよ?
0093日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 17:48:08.41
>>90
やっぱり有明海は福岡県まで
行っちゃってるんだな、まぼろしの邪馬台国もまんざらでもない

しかし、張氏は日本の学者を全否定してるのが痛い、せめて地形を踏まえて解読して欲しかった
0094日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 17:49:02.20
>>90
畿内は無いと言ってるが
0095日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 18:10:34.95
>>94
>畿内は無いと言ってるが

それ、まったく根拠ないし、間違っているけれど、
ここは九州説のスレだし好きにしていいよ
0096日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 18:30:31.02
根拠はあるよ
魏志倭人伝に書いてある
0097日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 18:48:33.40
>>96
>根拠はあるよ
>魏志倭人伝に書いてある

「魏志倭人伝のどこに何がどう書いてあって、それがどういう意味だと解釈できるから
 畿内はないという根拠になる」
というように書かなければ、何も言っていないのと同じ
つまり、根拠はないと言っているのと同じ

でも、ここは九州説のスレだから、好きにすればいいよ
0098日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 18:59:30.44
>>97

>好きにすればいい

なら黙ってろ
0100日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 21:03:47.10
>>76
遠回りだろうが陸行一月でたどり着けば
問題ない、弥生時代の地形は今とは異なるだろうが町が古代から陸上にあれば
距離は変わらないだろ
0101日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 21:06:27.00
>>97
(末廬國から)
 南至邪馬壹【臺】國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬戸
と書いてあって南には畿内はないから
0102日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 21:30:51.47
>>101
ナンシーヤマディーコー ニョンワンノショティエン

って訳した奴無いの?
0103日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 22:03:07.02
つうか九州説未だに唱えてる奴ってパヨクとか呼ばれてる反日キチガイでしょ?
日本人がノーベル賞とる度に発狂してる火病患者
0104日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 22:07:38.77
キチガイはお前だろ
0105日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 22:20:52.42
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0106日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 22:41:33.59
>>103
マスコミ使って扇動とかの方がよっぽどパヨクくさい
0107日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 22:43:37.02
>>102
南、邪馬壹(xie2.ma3.yi1/sa.ma.ir)【臺】國(女王の都する所なり)に至るには水行十日、陸行一月。
官に伊支馬(yi1.zhi1.ma3/i.ji.ma)あり、次を彌馬升(mi2.ma3/mi.ma.seung)といい、次を彌馬獲支(mi2.ma3.huo4.zhi1/mi.ma.hoek.ji)といい、次を奴佳鞮(nu2.jia1.di1/no.ka.?)という。
七万余戸ばかり。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/gishi/gishi_framepage.htm
0109日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 00:12:41.30
>>107
佐世保から水行で10日もかかるだろうか?
0110日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 01:07:52.85
帯方郡から福岡まで水行十日。
0111日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 07:22:33.17
リマン海流と対馬海流を越えなきゃいけないから
0112日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 08:23:03.64
末盧国を佐世保とするなら、
伊都国は塩田(佐賀県嬉野)だそうだが、
そげんかド田舎に、帯方郡の駐在所を置いてどすんだよ。しかも一大率も常治というに。
0113日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 08:56:46.51
>>112
「張氏は「率」というのは「師」であり、分かりやすく言えば「司令官」と訳すのが本当だと言っている。
誰かが「率」を軍団や軍隊と訳したために、「一つの大きな軍団が・・・」という訳になっておかしくなったらしい。
つまり集団では無く、一個人を指している以上「大」を大きなと訳すのはおかしいというのだ。
司令官であれば、今も当時も集団のトップなのだから
当然「大」であって、改めて付けるのはおかしいらしい。
当然、「一」も一つのという意味は全くなくなる。
もしこじつけて訳すなら、「一人の巨体の司令官が」になってしまう。
司令官は通常一人だから「一」もいらないし、司令官が必ずしも「巨体」とは限らない。
つまり「率」の前にくるのは「名詞」以外ありえないのだと!
ではどういう意味かと言えば、「一大国の司令官だ!
「一大」か「一支」かという話を最初にしたが、その「一大国」の司令官という意味である。」
https://kazunohi.exblog.jp/19384088/
http://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000002-I000002197163-00/
0116日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 10:12:36.47
妄想ちゃんセンセ
0117日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 10:22:50.32
倭人伝は、中国本土王朝と倭国との親密な間柄を物語ってるからねえ。。。
0118日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 11:07:04.80
>>112
衰退してしまえばただの山になってしまうから
現代的に言えばド田舎になるんだろうが
遺跡はド田舎に出てくる
だからまぼろしの文明なんだよ
0119日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 11:16:36.41
洛陽のこつば、台湾人にたずぬっつが、むりかばい
0120日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 12:23:05.98
阿久根のアクと言うのは古代からの言葉で
魚介を捕ると言う意味らしい
透き通る東シナ海、魚介を捕る人々、神の舞い

正に魏志倭人伝の邪馬台国のイメージその物
0121日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 12:25:25.41
【九州説】邪馬台国は鹿児島県阿久根市にあった!今すぐに発掘せよ!

次スレはこれでお願いします
0122日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 12:41:05.87
>>113
>「張氏は「率」というのは「師」であり、分かりやすく言えば「司令官」と訳すのが本当だと言っている。

これは同意するのだけど、百済の官名で大率、徳率などがあるんだよね。
倭では率の官位をひとつだけ、大率として設置していたということだよ。
壱岐の率でも意味は通るかもしれないが、周辺国の制度とのすり合わせは大事だよ。
0123日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 12:41:39.10
>>121
ご自分でどうぞ。
0124日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 13:05:38.85
「倭は韓の東南、大海中の山島によっており、およそ百余国ある。(前漢の)武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼしてから、

三十余国が漢に使訳を通じてきた。国では皆が王を称することが代々の伝統である。そこの大倭王は、邪馬臺国に居する。

楽浪郡からその国(邪馬台国)へ去ること一万二千里、その(倭の)西北端の拘邪韓国へ去ること七千余里。

その地はだいたい会稽郡東冶の東にあり、朱崖や儋耳と相似しており、その法俗も多くが同じである」

楽浪郡から一万二千里(1200Km)で阿久根と一致するか?
0125日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 13:18:58.68
俺の計算では1123kmになった
0126日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 13:25:27.62
俺の計算では0123kmになった
0127日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 13:38:04.94
いちき串木野まで1200km
0129日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 13:42:32.16
魏志倭人伝には帯方郡から一万二千里
東夷伝には楽浪郡から一万二千里

どっちなんだよ?
0130日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 13:51:27.32
帯方郡から先に南、後に東へと水行し、七千里ほど

してから海を渡り、千余里したら対馬国まで行ける。

帯方郡から7000里でごわす
0131日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 13:59:44.57
>>124
>>129
>>130
「『南して邪馬台国にいたり、女王の都するところ、水行すれば十日、陸行すれば一月』・・・
ここで問題になるのは、肝心な「邪馬台国」までの距離が記されていないことだろう。
しかし「魏志倭人伝」には『都より女王国までは、万二千余里』・・・つまり1万2千里なのだから、引き算すれば残りの距離が出てくる。
翻訳と計算が正しくできていれば・・・の話だが・・・!
「帯方」から「其北岸」は約七千里、「其北岸」から
「対馬国」が約一千里、「対馬国」から「一大国」が
約一千里、「一大国」から「末蘆国」が約一千里・・・
残りは二千里ということになる。
つまり、水行十日=二千里になる。
「魏志倭人伝」を忠実に読むならば、「邪馬台国」は
「末蘆国」から「南」に水行、或いは「陸行」できて、約二千里・・・一千里の約二倍の距離にあって、『七万余戸』、つまり七万人ほどが生活できる場所で無ければならない。
これだけでも比定地は限られてくるが、「魏志倭人伝」はここで終わっている訳ではない。
当然、この後の文献内容ともつじつまが合わなければ正しいとは言えない。
そのすべてを考えると、張氏は「邪馬台国は現在の出水平野あたりになる。」と解釈している。
さらに「条件を当てはめると、現在の水俣市と阿久根市が考えられるが、水俣市では地形的に七万人が住むのは難しい。従って阿久根市が邪馬台国にふさわしい条件だ。」
と言っている。」
https://kazunohi.exblog.jp/19053182/
0132日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 14:19:56.48
>>124
>>125
>>126
>>127
対馬-壱岐が千余里だから、それをベースにすると12,000里は840kmぐらい。

>「魏志倭人伝では狗邪韓國から對海國(対馬)までが千里、對海國から一大國(壱岐)までが千里とあるが、実距離もそれぞれ約70kmであり、短里が採用されていたことを裏付けている。」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD
0133日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 14:31:29.74
しかし阿久根には、これと言った伝説が無い...

地図を見たら少し上に八代市がある
ここじゃね?八代=ヤダイ、ヤマタイと読めなくもない、距離は80kmほど短くなるが
古代の地形や道を考えるとそれぐらいは
誤差の範囲
0134日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 16:22:59.04
見つからないと言う事は
見つからない場所にあるから
邪馬臺の臺は一段高いという意味
マチュピチュのような山の中腹にあったのではないか?
山の中だと2000年もすると木がわんさか生えて見つからないだろ
0135日本@名無史さん
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2018/10/18(木) 16:51:56.19
ヤマチュピチュ國
0136日本@名無史さん
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2018/10/18(木) 16:56:36.09
マチュピチュは無い
魏志倭人伝の魚介を食べるの一説と辻褄が合わなくなる
0137日本@名無史さん
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2018/10/18(木) 17:04:25.14
ムム...

肥後国誌には「八代」の地名の由来は社(やしろ)で、天照皇太神の山陵が上古にこの地に在ったので「やしろ」と言われるようになったと記されており、九州王朝説では倭姫命が定めた伊勢神宮のあった伊勢の有力候補地とされる。

景行天皇十八年(88年?)が九州を巡幸した折、休息されたとされる芦北の小島は八代市の球磨川河口にある水島である。
0139日本@名無史さん
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2018/10/18(木) 18:09:18.51
>>138
当然、今の八代平野と弥生時代の八代平野は
違うだろうな、弥生時代はほぼ海だった

という事は文明があったとすれば山間部の
斜面に差し掛かる所、その方が邪馬台(やまだい)の名に相応しい気がするけど
恐らく今は山の中で真相は藪の中
0141日本@名無史さん
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2018/10/18(木) 18:30:25.70
「八代平野、江戸時代から近代にかけて盛んに干拓が行われた。現在の平野の半分以上は干拓により造成された土地である。面積は230平方キロメートル」

230kuの半分以上が海でも100kuが平野なら
十分な人口が住める...

張氏はなぜ八代をスルーしたんだ
0142日本@名無史さん
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2018/10/18(木) 18:36:35.45
やはり狗奴国が熊本なんだよ。
それより南のことはわからない。
0143日本@名無史さん
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2018/10/18(木) 19:41:19.44
この方によれば、張明澄の解読は「要するに、この本は清朝末期の考証学者(丁謙)の説を紹介しているに過ぎ」ないものなのだそうだ。
https://smcb.jp/diaries/3706354
0144日本@名無史さん
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2018/10/18(木) 20:14:43.80
これを読むと、距離はちょうど阿久根あたりでぴったりよさそうだが、
「倭人伝には、南、東、南東の記述はありますが、西に行ったとは一度も書かれていません。狗邪韓国から見て邪馬台国は南東方向にあると考えるのが無理のない解釈だと思います。」
「川内平野は狗邪韓国から見て南なので除外できそうです。」
というロジックで一蹴されている。
なぜ、南じゃいけないのか誰かわかる?

http://hokanko.mond.jp/wordpress341/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%BD%8D%E7%BD%AE%E3%81%AF%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E3%81%AB%E6%9B%B8%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%EF%BC%9A%E6%B8%AC%E9%87%8F%E6%8A%80
0145日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 20:24:40.34
>>143
畿内説論者はなんとでも言うさ
0146日本@名無史さん
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2018/10/18(木) 20:27:02.83
>>144
見れないんだが
0147日本@名無史さん
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2018/10/18(木) 20:50:11.71
しかし、阿久根は良いところだなぁ
住みたいわぁ
0148日本@名無史さん
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2018/10/18(木) 21:18:05.46
別スレで閃いたんだが
やはり川内平野のどこかに邪馬台国は
眠ってると思う

邪馬台は山の台地から来てると言うやりとりをしていて
邪馬台=山台=仙台=センダイ=川内

張氏が言う位地も地名もピッタリだろ
0149日本@名無史さん
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2018/10/18(木) 21:25:41.52
川内(センダイ)の由来

ニニギ (ニニギノミコト)がこの地に皇居を定めるにあたり、千の台を作るように命じたという故事によるとされる。

また、この地は薩摩の中心で高台には国府や国分寺が置かれており、その高台を「千台」と言った。この「千台」が川内川の北側(内側)にあった事から「川内」になったとも言われている。

古来は「仙台」「千代」「千台」「河内」などとも書かれたが、1720年に当時の薩摩藩主であった島津吉貴が「川内」と命名し定着した。これは川内川と高城川の内側という意味である。
0150日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 21:37:52.87
私は川内じゃなくて人吉盆地だね。
ここだけでも奈良盆地に匹敵するらしいですね。
0151日本@名無史さん
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2018/10/18(木) 21:51:30.15
>>146
ちょっと重くて開くのに時間がかかるが開いたぞ
0152日本@名無史さん
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2018/10/18(木) 22:01:42.16
人吉盆地には海が無い
倭人は魚介を食べてるだから
海沿いのイメージ、人吉は熊襲とか狗奴国じゃね?
0153日本@名無史さん
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2018/10/18(木) 22:07:58.36
>>151
not foundって出てくる
0155日本@名無史さん
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2018/10/18(木) 22:28:05.34
まさに人吉が球磨地方で
宮崎とつながる免田式土器が出てくるから
熊襲の領域とも言えます。

ただし、人吉盆地までは肥後国なので
獲ったり獲られたりで
最終的には肥後国が獲ったわけです。

ここが熊襲との最前線で
もし戦でなくなったとすればここでしょう。

古墳の候補としては本目遺跡があります。
ここも装飾品が多いので女性墓の
可能性があります。
0157日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 22:53:11.34
色々出てきたな
阿久根、川内、人吉、八代
80km圏内に収まる
0158日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 23:11:43.73
狗邪韓国を起点にピタゴラス三角形を当てはめてみると、邪馬台国の場所は宮崎県延岡市を指しています。

川内平野は狗邪韓国から見て南なので除外できそうです。すると、宮崎平野が最有力地ということになります。

邪馬台国には7万戸の家があったと書かれています。1戸に5人住んでいたとして人口は35万人。広大な平野がなければこの人口を養っていくことはできません。


これ七万戸の解釈を間違ってない?
0159日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 23:20:10.64
免田式土器は熊本県北部も出る

ttp://www4.synapse.ne.jp/yatusiro/mennda1.jpg
0160日本@名無史さん
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2018/10/18(木) 23:29:31.13
>>144
この人の解釈の問題だと思う
倭人伝には南って書いてあるはずだが
この人は南東にあると解釈したんじゃないか?

東南の文字があったような気がしないでもないが
0161日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 00:25:50.92
阿久根だとしたら
投馬国は薩摩のどこだろうか?
阿久根も薩摩だしな
0163日本@名無史さん
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2018/10/19(金) 00:47:56.39
>>162
鹿児島は分かるが
邪馬台国からさらに10日って書いてなかった?
0164日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 01:23:59.99
>>163
「道程がはっきり記されている国の中で、比定が残っているのは投馬国だけである。原文によると、末盧国から、投馬国までが約二十日間、邪馬台国までが十日間だから、末盧国から投馬国までは、末盧国から邪馬台国までの二倍の時間がかかる位置にあることになる。
しかし、あくまで南に向って水行する所要時間が二倍ということであり、距離が二倍とは限らない。
出水郡からさらに南に向かって水行し、佐世保から阿久根の二倍の時間かかる場所といえば薩摩半島のほかには考えられない。
薩摩半島といっても、範囲が非常に広いが、古今を通じて中心になるのは、あくまで鹿児島である。当時は恐らく鹿児島とはいわず、むしろ、出雲といわれたはずである。」
「誤読だらけの邪馬台国」p67-69
http://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000002-I000002197163-00/
0165日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 01:42:56.38
 女王国の東、海を渡って千余里行くと、また国が有り、皆、倭種である。また、侏儒国がその(女王国の)南にある。

人の背丈は三、四尺(72p〜96p)で、女王国を去ること四千余里。また、裸国と黒歯国があり、また、その(女王国の)東南にある。船で一年行くと着く。

張さんはこの部分も解読してるの?
0166日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 01:48:21.96
種子島が侏儒国であると比定される動きが、一部に出ている。これは、種子島から発掘された弥生期から古墳時代にかけての人骨の調査結果で、

「極端な」短頭、低頭、低身長特徴を持ち、魏志倭人伝に記述されている侏儒國の人類学的特徴と一致しているとの見解による。 この特徴は同時期の人骨が発見されている沖縄や九州、
本州などには見られない特徴で「小人並」の成人の人骨は種子島だけにしか見られないとのことである。

邪馬台国九州説を唱える者の中には、種子島は九州北部から短里という概念で約四千里、南方に位置することにもなるので、比定する者がいる。

これだな 侏儒國 シュジュ 種子島 シュシ
0167日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 02:02:41.11
>>165
「解説
侏儒とは小人であり、身長がわずか三尺か四尺あたりだという。本当にそんなに小さい人類がいるとは、とうてい信じがたい。
女王国の東方に向って、海を渡ると、千余里で、また国があり、みな倭種である。
またその南に侏儒の国があり、身長は三、四尺である。侏儒の国は女王国から四千余里離れている。さらにまたその東南に裸の国、黒歯の国があり、船で行って一年で行くことができるのである。
以上が原文からそのまま直訳した内容である。
女王国近辺に小人の国があるというのは、どう考えても疑問が残る。裸国や黒歯国なら、船で一年もするところだから、途方もない遠さで、真偽の確かめようがない。恐らく本当に見たのではなく、噂を聞いた程度だろう。
南米アンデス文明圏にまで裸国や黒歯国を求める人もいるが、裸や黒い歯だけの条件なら、どこでもあてはめることができる。」
「誤読だらけの邪馬台国」p161-162
http://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000002-I000002197163-00/
0168日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 07:30:43.62
だからよ、
中国人が記紀と倭人伝を読めば誤読だらけ… の邪馬台国 : ってかいてあるだろ。
0169日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 08:38:06.19
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0170日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 08:52:49.65
>>167
正直、それはがっかり
>>166で答え出てるじゃんよ
短里で4000里、小人の遺骨が出土してる
種子島しか無いだろが
0171日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 08:58:32.77
張さんは誤読が無くても
所々感情的になって誤解しやすい人
0172日本@名無史さん
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2018/10/19(金) 09:05:48.69
中国本土に対して、何かアレがあるように感じるな。
そんな立場の人に、本土洛陽の貴族が書いた倭人伝のことを尋ねる方がKY
0173日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 09:15:34.62
>>166 名前:日本@名無史さん 2018/10/19(金) 01:48:21.96
>種子島が侏儒国であると比定される動きが・・・、
>侏儒国シュジュコク≒種子島シュス島と・・・、

なるほど、種子島か、有りうる。(屋久島は伊邪分国)
なお、其の(女王の)東南の裸国や黒歯国といえば、小笠原諸島に当たる。
黒潮に乗って北太平洋を回遊すれば、1年かかって到着するかもしれぬ。
0174日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 09:23:55.00
 女王国の東、海を渡って千余里行くと、また国が有り、皆、倭種である。

これが畿内かと思っていたが距離的に邪馬台国が東シナ海側にあったとすれば遠い
出雲だったら北西、西は出て来ないから除外
やはり畿内しかない
と言う事は邪馬台国は九州中部もしくは中南部の本州側にあったんじゃないか

「の東、海を渡って千余里行」だから畿内へ水行で真っ直ぐ東に向かって行ける場所だ
0175日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 09:34:30.50
川内から畿内だったら大きく薩摩半島を回って北に行かなきゃ行けない、川内からだったら東の国は四国、土佐あたり
東の国が畿内の事なら西は別府
0176日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 10:08:39.38
>>173
太平洋の潮の動きは複雑で
どこにたどり着くか分からんわ
でもイメージ的にはニューギニアだよなぁ
0177日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 10:42:24.21
パプアとか、ミクロネシアの人たちは、星を標にカヌーで太平洋を往来していたそうだ。
小笠原だって航行の範囲さ。
0178日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 10:50:52.33
やはり、
広志の南邪馬嘉国(肥後・山鹿国)と、倭人伝の邪馬台国(肥後・山鹿菊池一帯)は、どちらも同じクニで、
その国衙は、菊池市七城町臺だったと考えると、最も無理がないね。
0179日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 11:31:19.49
>>178
八代?天照太神稜があった場所?
0180日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 11:37:44.84
>>177
それもあるが赤道海流があって、島が広範囲に横並びになってるから島伝いに西はインド、東は赤道海流に乗ってメキシコ、エクアドルまで行けたかもな
日本列島からは黒潮で北西に流されて南東へ行くのが難しいと思う
0181日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 11:49:30.97
>>144
その筆者を信じるなら
延岡、日向辺りになるが、東にある倭種の国は
どこになる?海を渡ればすぐ四国だぞ
別府なら東へ真っ直ぐ瀬戸内海を抜ければ畿内にたどり着くが
0182日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 12:20:28.85
>>181
距離はぴったりなんだよね。
狗邪韓国の南でいけない理由はなさそうだから、距離だけ採用するのがよいかとw
0183日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 12:27:56.50
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0184日本@名無史さん
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2018/10/19(金) 13:02:17.71
>>172
中共の方ではもう古典の読める人がいないと聞くぞ。
三国志演義の話も一般的には知られてなくて、日本にいる中国人はゲームの三国無双がオリジナルだと思っているらしい。
だから中国古典が読める可能性が高いのは台湾の方かもよ。
0185日本@名無史さん
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2018/10/19(金) 13:05:33.34
>>174
千余里って70kmぐらいしかないぞ
畿内であるわけがない、邪馬台国が宮崎か大分だとしたら四国、北九州だとしたら山口県
0186日本@名無史さん
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2018/10/19(金) 13:11:00.77
だんだん鹿児島県じゃ無いような気がしてきた
魏志倭人伝は畿内については全く言及していないと思う
邪馬台国についてはかなり詳細に書かれていて
更に東に行くとそこにも倭人が住んでるよ、南東へ行くと小人族がいるよーと突然アバウトになる
0187日本@名無史さん
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2018/10/19(金) 13:33:24.61
>>184
何を勘違いしておるのだ。
中国本土には12億人以上、つまり日本の10倍以上もの優秀な人材がいる。
中には、日本人より日本語の達者な通訳もいる。決して甘く見てはならぬ。
0188日本@名無史さん
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2018/10/19(金) 13:50:05.22
海を渡って東に倭種が住んでる
の部分気になるなぁ

阿久根の東に海は無い、張氏はこの部分を解読してるの?
0189日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 15:23:26.16
長崎県佐世保市及び佐賀県鹿島市一帯が、次有斯馬国。
長崎県諫早市一帯が、次有已百支国。
鹿児島県伊佐市が、次有伊邪国。
同県屋久島が、伊邪分国。
同県種子島が、侏儒国。・・・こんなところだろうな。
0190日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 15:26:07.14
>>189
佐世保が末盧国だったけど...
0191日本@名無史さん
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2018/10/19(金) 16:10:52.74
>>113
漢委奴国王印 いわゆる金印part2 
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1537107301/
33 :日本@名無史さん[] 投稿日:2018/10/16(火) 10:02:13.52
「漢委奴国王」は
日本では「漢の倭の奴国王」という読み方が一般的だが
中国の専門家には「委」を「倭」と読む人はほとんどいない。

57年 漢委奴国王
57年 新羅の王が倭人になる

金印をもらったと同時に新羅の王も倭人になってるから
「漢から(新羅や任那や九州北部の管理)を委ねられた奴国王」って意味だよ。
古代中国は朝貢した倭王に、朝鮮半島南部の軍事権などを与えている 。
例えば、倭王武が与えられた称号は、「使持節都督・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭国王」であるが
「漢委奴国王」もそれと同じ。

41 :33[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 22:53:56.83
漢委奴国王を初代天皇とすると
漢委奴国王が神武天皇ということになる。

西暦815年に編纂された『新撰姓氏録』には
神武天皇の兄である稲飯命は新羅王の祖であると書かれている。

西暦57年 神武天皇が漢委奴国王になった。
西暦57年 稲飯命(神武天皇の兄)が新羅の王になった。

45 :33[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 10:57:01.35
『魏志倭人伝』にも卑弥呼を佐治する弟(卑弥呼の政治を補佐する弟)のことが書かれているが、
「一大率」は、伊都で佐治する人(伊都で卑弥呼の政治を補佐する人)のことだよ。

伊都佐治(いとさち) = 一大率(いったいそつ)
0192日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 16:35:27.68
>>190
台湾人の学者には、軍港佐世保の印象がことさら強いんじゃないの。

で、倭人伝の盧は「の」と読む
オレ読みでは、末盧国(まつのこく)は、松野連(まつのむらじ)の祖と思えるんだけどね。
0193日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 16:39:20.35
>>185
>千余里って70kmぐらいしかないぞ

つまり、測ってもいないし(当時海上の距離は測れない)、
現実の距離との対応関係はないってことだ

>畿内であるわけがない、邪馬台国が宮崎か大分だとしたら四国、北九州だとしたら山口県

だから、こんなことを考えるだけ無駄
0194日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 16:47:27.16
>>193
お前みたいな人が畿内説論者
思考停止を自慢するクズw
0195日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 17:56:04.62
畿内説の大御所は、とっくにトンズラしたぞー。
残っているのは、雑兵ばかりなりwww
0196日本@名無史さん
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2018/10/19(金) 18:13:20.13
>>192

>オレ読みでは、末盧国(まつのこく)

盧は、台湾語白話字では[Lô͘]になってる
朝鮮では[No]
0197日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 19:44:21.38
>>2
東征はしたんだろうけど、制圧した後も都は九州のままで、大和の勢力が拡大したのはずっと後じゃないか?
白村江から九州倭国は衰退して拡大していた大和王権がそのまま倭国を併合した

なんかそんな感じがする
0198日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 20:02:49.45
>>193
海上で測る必要はない。
到着してから陸上で測ればいいんだから。
ここに「普通の人が疑問に感じるのは、倭人伝に書かれている距離は正しいのかということでしょう。もう少し考えると、どうやって測ったのか、ということになります。
 三世紀、三国志の著者陳寿の時代にこのような測定ができたのか、という素朴な疑問です。
 できたのですよ、これが。中国の文明を侮ってはいけない。」
としてちゃんと説明がある。
http://hokanko.mond.jp/wordpress341/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%BD%8D%E7%BD%AE%E3%81%AF%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E3%81%AB%E6%9B%B8%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%EF%BC%9A%E6%B8%AC%E9%87%8F%E6%8A%80
0201日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 20:14:22.44
>>195
>畿内説の大御所は、とっくにトンズラしたぞー。

また捏造してるww

畿内説をやめた現役の研究者はいないよw
0202日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 20:14:45.13
>>197
正解
0204日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 20:16:28.72
>>198
>到着してから陸上で測ればいいんだから。

どうやって?

三角測量をするにも島の上では、十分な長さの基線が取れないんだが?
小さな角度を正確に測る方法もないし、結局は根拠のない言いっぱなしの主張でしかない
0205日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 20:23:27.83
>>204
ちゃんとリンク先読めよ。
「倭人伝が書かれた当時より以前に成立していた『周碑算経』という天文学・測量学の教科書に「一寸千里法」という最古の天文測量法が記されています。」って書いてあんだろ‼︎
0206日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 20:28:20.81
誤差が大きいから、目視でおよそ千里。
0207日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 20:31:34.66
熊本県菊池市七城町臺:うてな(台)遺跡
>うてな(台)遺跡は、菊池川の支流である内田川と迫間川とに挟まれた台地の西端(標高約73m)に位置している。
遺構は広い範囲におよび、弥生時代から室町時代までの遺構が確認されている。

>弥生時代後期から古墳時代前期までの集落跡が、台地西北端を中心に、直径約300mの範囲に広がっている。

>古墳時代前期の方形周溝墓
集落跡の西方から、四角の溝で墓を囲んだ方形周溝墓が発見された。
中心に箱式石棺があり、一辺11・5mの溝がめぐっていた。この一帯には多数の方形周溝墓が埋もれているものと思われる。
また、集落跡の南東方向から、舟形石棺を納めた一辺34mもある大型方形周溝墓が発見された。
これは、福岡県前原市の平原1号墳の2倍以上の規模である。
0208日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 20:44:28.07
熊本県菊池市七城町臺に近接する蚕の伝来を示す地名

>菊池市七城町に「五海」という地名がある。
ここは、「蚕飼」が本来の漢字であったと言う。蚕を伝えた集団が住み着いたのであろう。
戦後しばらくまでは、この地域は蚕の飼育が非常に盛んであった。
周囲には、人為掘削の天神川が引かれ、「羽根木、蛇塚、高島」など、渡来系集団に由来する地名が密集している。
0209日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 21:09:31.44
>>208
江南百越だな
0210日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 21:13:43.00
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0211日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 22:34:27.01
宮崎康平の島原邪馬台国説もかなり良い線
行ってるような気がする、張氏と違う点は距離
島原から南下すれば阿久根着くから
末廬国の位地解釈の違いだろう
方角は一致してる
0212日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 22:48:31.40
>>188
167 名前:日本@名無史さん :2018/10/19(金) 02:02:41.11
>>165
「解説
侏儒とは小人であり、身長がわずか三尺か四尺あたりだという。本当にそんなに小さい人類がいるとは、とうてい信じがたい。
女王国の東方に向って、海を渡ると、千余里で、また国があり、みな倭種である。
またその南に侏儒の国があり、身長は三、四尺である。侏儒の国は女王国から四千余里離れている。さらにまたその東南に裸の国、黒歯の国があり、船で行って一年で行くことができるのである。
以上が原文からそのまま直訳した内容である。
女王国近辺に小人の国があるというのは、どう考えても疑問が残る。裸国や黒歯国なら、船で一年もするところだから、途方もない遠さで、真偽の確かめようがない。恐らく本当に見たのではなく、噂を聞いた程度だろう。
南米アンデス文明圏にまで裸国や黒歯国を求める人もいるが、裸や黒い歯だけの条件なら、どこでもあてはめることができる。」
「誤読だらけの邪馬台国」p161-162
http://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000002-I000002197163-00/
0213日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 22:52:41.16
>>212

>>166
0214日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 22:59:08.59
>女王国近辺に小人の国があるというのは、どう考えても疑問が残る。

いやいや、噂でもなんでもなく実際にあったんです。現在でも小人族の村は存在する

それにしても魏志倭人伝の信憑性は恐るべし
裸国も黒歯国も絶対に存在する、実際に一年かけて行った奴がいたんだろうな
0215日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 23:08:35.85
種子島の広田、鳥ノ峯の人骨は平均154cmくらいだから
西北九州、南九州と4、5cmしか差はない
0216日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 23:28:32.04
弥生期から古墳時代にかけての人骨の調査結果で、

「極端な」短頭、低頭、低身長特徴を持ち、魏志倭人伝に記述されている侏儒國の人類学的特徴と一致しているとの見解による。 この特徴は同時期の人骨が発見されている沖縄や九州、
本州などには見られない特徴で「小人並」の成人の人骨は種子島だけにしか見られないとのことである。
0217日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 23:30:22.50
>>216

>魏志倭人伝に記述されている侏儒國の人類学的特徴と一致している

というのは誰の見解?
0218日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 23:58:21.98
>>211
島原だったら海を渡って東に千余里に又国ありの説明はつくが...
倭国を治めている中心組織が九州の端の島にあるかなぁ、と言う疑問が残る
0219日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 00:41:12.46
このスレ的候補地

阿久根、川内、人吉、八代、日向、延岡、別府、島原

張氏が言う阿久根、川内は距離と方角が魏志倭人伝と一致するが「海を渡って東に」の下りとは
一致しない

人吉は規模と方角が許容範囲内で規模は申し分無いが、周りに海が無いから、「魚介を食べている」の下りと一致しない

八代、距離と方角はまずまずだが末廬国から
南へ降りてから海峡を抜けなくては行けない
魏志倭人伝にはその部分が書いてない

日向、距離はほぼ合格。「海を渡って東に行けば国がある」の一説にも一致する。
だが末廬国(松浦又は佐世保)から南へと書いてあるのに南東にある

延岡、距離はピッタリ。「海を渡って東に」も合格。だが日向と同様に末廬国から南東に位置する

島原、方角は良し、末廬国を佐世保ではなくて松浦から見れば距離も合格。「海を渡って東に」も一応一致。だが魏志倭人伝には島だとは書かれていないし、内陸の国々の事は散々書かれてる上に「海を渡って東に国がある」の説明は違和感がある

条件をすべて満たしている国はまだ無いな
皆どこかしら疑問が残る
0221日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 07:44:18.61
ここは、【九州説】邪馬台国は福岡県山門郡にあった! というスレなのに、
出水や阿久根や川内に伊都国はないだろう。
0222日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 07:46:58.90
あと高千穂

また高千穂町に五ヶ瀬川付近で隣接している熊本県山都町は、町名が「ヤマト」であり、邪馬台国の領内とも考えられ、

邪馬台(ヤマト)の地名の由来が、阿蘇山のふもと、山本、山門の意である様に考えられまう、

このスレで答えが出るような気がするよ
0223日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 07:55:48.02
>>221
スレ主です。

それは邪馬台国=大和(完)の風潮に反撃するための謳い文句でありまして
真実に近づけるなら、どんな地名が候補に挙がっても構いません
0224日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 08:03:12.78
その通り、
邪馬台国は山鹿・菊池平野から阿蘇〜山都町にかけての七万戸。
阿蘇のカルデラ内外は早くから水田開発が進んだ。
卑弥呼の都は高千穂町三田井(馬台)だな。
0225日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 08:14:38.28
>>223
さようでしたか。
福岡県筑後地方の山門郡は、江戸時代からの候補地の一つで注目度も高く、畿内大和説(完)の立派な後継。
が、それ以外でも良いというなら、大いに結構なことです。
0226日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 08:20:42.58
倭国を代表する王都は筑紫の日向であり、魏志倭人伝の邪馬台国も同じだと思う。
ただ、卑弥呼自身は先代までの伊都国の天孫族ではなく、肥国から共立された女王だと思う。
それならば、邪馬台国の本義が有明海沿岸の筑後川流域や阿蘇周辺を指すこともあるだろう。
魏から見た表層と、倭の内部事情という深層には乖離があるはず。
同じ時代の倭を記録したはずの魏志倭人伝と記紀の内容の食い違いも説明できる。
0227日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 08:27:14.47
出水郡長島町の山門野遺跡で5世紀の住居跡が3軒見つかっている
3世紀には7万戸だったが少しだけ減っている
0228日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 08:48:35.16
ほとんど中南部九州だな
その一帯全部が邪馬台国だろ
0229日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 09:13:03.12
山都
都ってのがミソだね
0230日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 09:19:28.18
「誤読だらけの邪馬台国」の著者の張さんは漢方が専門みたいだな
0231日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 09:40:52.20
肥前肥後国の肥の国の領域かな?
0232日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 10:18:32.38
>>226
その通り、倭人伝は親魏組の表層と、先住組の深層を使い分けてると思うね。
倭国大乱の誘因は、
先住王族である筑紫那国勢と、あとからやってきた渡来系肥国王族との争いであり、
その渡来系王族を帯方郡が後押しして卑弥呼の共立に至った・・・、という具合に、
仮置きして考えるとわかりやすい。
0233日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 10:20:13.80
宮崎って言うと東こくばるを思い出すが
日向って言えば小次郎だよな
0234日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 10:43:51.88
女王が共立された後の倭30国では、旧の王は官に(降格に)なった。
一方、不属女王の狗奴国は男王そのままだった・・・、の旨が書かれている。
しかしこれは、魏側(陳寿)の建前論だったのではないか。
実際に各国内では、王は王として、王族は王族として敬われ続けていたのだと思う。
0235日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 10:43:57.40
肥後といえば太平燕だな
元は福建省福州の郷土料理
0236日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 10:47:40.05
>>491
>>492
>>502
「”到”と”至”とは、漢字の三大要素である形(字の形態)、音(字の発音)、義(字の意味)が全て違う字である。
しかし、日本語で読むと、両字とも”イタル”と読むので、全く同じ字と誤解されている。
まず、両字を英訳すれば、その違いがよく分かるが、
”到”はreachまたはarrive to、”至”はtillまたはuntilというように違っている。
日本の漢和辞典は、これらの両字をどう扱っているのかは知らないが、中国の辞典(例えば、台湾中華書局印行の『辞海』)は、明らかに二つを違う字としている。
『辞海』によって、”到”と”至”の意味を調べて見よう。
”至”は至部の字であり、その意味は、第一に”極”、第二に”到”、第三に”大”、第四に”善”...というようになり、『魏志倭人伝』では、素直に第一の意味を取っており、”.....まで”として理解したらいい。
”到”は刀部の字であり、その意味は、第一に”至”、第二に”周”、第三に”倒”、第四に”弔”...というようになり、『魏志倭人伝』では、素直に第一の意味を取っており、”.....にいたる”として理解したらいい。
(中略)
”到”は現代音では”タウ”、中古音では”トウ”でいずれも陽音
”至”は現代音では”ツウ”、中古音では”チイ”でいずれも陰音
というようになり、もともと違う意味を持つ両字である。
(中略)
『三国志』を見ると、いたるところにこの使い分けが見かけられる。」
「誤読だらけの邪馬台国」p23-27
http://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000002-I000002197163-00/
0237日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 10:48:55.15
すみません。誤爆しました。
0238日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 10:49:30.52
高千穂といえば

ザ グレート カブキ
0239日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 10:49:54.76
漢方の張さんが阿久根なら、
「炎の料理人」金萬福さんにも倭人伝を読んでもらうといいかもしれない
0241日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 11:08:11.69
>>228
釜山から371kmの同心円上にあると考えれば、やはり中南部九州になるのではないかな?

「帯方郡から狗邪韓国まで『七千余里』。『自郡至女王國 萬二千餘里』とあるので、帯方郡から邪馬台国までは一万二千里。ということは、狗邪韓国から邪馬台国までは、『五千里』ということになります。

 帯方郡は現在の平壌、狗邪韓国は釜山あたりと比定されているようです。平壌と釜山の直線距離は520Kmです。これから計算すると、邪馬台国は釜山から371Kmの距離にあることになります。

 7000里 : 5000里 = 520Km : X Km
X = 371Km
 1里 = 74.3m

 釜山から371Kmで同心円を描くと次のようになります。つまり、邪馬台国の場所は九州の南側、宮崎平野か川内平野のあたりということでしょうか。」

http://hokanko.mond.jp/wordpress341/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%BD%8D%E7%BD%AE%E3%81%AF%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E3%81%AB%E6%9B%B8%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%EF%BC%9A%E6%B8%AC%E9%87%8F%E6%8A%80
0242日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 11:19:09.61
>>236
>”至”は至部の字であり、その意味は、第一に”極”、第二に”到”、
>”到”は刀部の字であり、その意味は、第一に”至”

至は到るであり、到は至るである、というのに、
何を、偉そうに講釈してんだよ、

漢人の場合、到と至は、あとにつづく語との平仄合わせで使い分けるのさ。
0243日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 11:29:40.29
>>241

阿蘇山を先端に熊本南部、大分南部、鹿児島北部、宮崎北部
中部から中南部一帯が邪馬台国の領土
卑弥呼がいたのは山都町
0244日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 11:45:55.76
>>241
同心円を見れば、
邪馬台国の場所は九州の南側というより、「九州中部」というほうが適切だろう。、
0245日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 11:59:24.72
山都町は元は宅部(やべ)
0246日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 12:01:35.86
訂正

宅部(やべ) → 宅部(やかべ) ○
0248日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 12:45:00.26
>>247
中心の末盧国が未確定の唐津になっているので、狗邪韓国比定地としてほぼ確定した釜山ベースと違う結果のなっているな。
末盧国≠唐津ということになるかな?

天文測量法である『周碑算経』の「一寸千里法」を用いていれば距離は行程に依存せずに測定できるはずだが、森村氏は実際にかかった時間からアバウトに割り出したとしているようだ。
0249日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 13:02:32.08
末盧国≠唐津といっても、佐世保より順当だろう
佐世保にした場合、官の名前がないことを説明しきれないもんな。
唐津なら、末盧国の主邑が松浦市あたりで、当時の唐津は片田舎だったから常駐していなかった。、
それで、必要な時は、佐賀川上・伊都国の一大率が代役をこなした、で説明できる。
0250日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 13:09:52.90
>>248
似たようなことを考えてる(考えてた)人は、たくさんいるってこった。
ま、九州中部説の支持者は少なくないな。
0251日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 13:20:18.91
山都町は近年に命名されたようだな
これは、勇み足
0252日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 13:25:58.08
中国人だ台湾人だ言うから間違って張さんではなく孫さんの「邪馬台国の全解決」って本買っていつ阿久根が出てくるんだ思って読んでたわ
でもこの本面白いね畿内説なんて絶対あり得ないって確信できる
0253日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 14:03:36.27
孫栄健は在日韓国人じゃないかな
0254日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 14:11:11.28
確かに最初から日本語で書いたとしか思えない本だった
0255日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 14:12:18.94
>>234
>女王が共立された後の倭30国では、旧の王は官に(降格に)なった。
>一方、不属女王の狗奴国は男王そのままだった・・・、の旨が書かれている。

そうそう
伊都国の官の禰宜は邇邇芸の末裔だと思う。

>実際に各国内では、王は王として、王族は王族として敬われ続けていたのだと思う。

卑弥呼が伊都の天孫族より上位の天皇的な立場だったが、魏から見たら王の上には魏の皇帝しかありえないから、卑弥呼を王、禰宜を官としたのかもしれない。
0256日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 14:22:45.50
都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也 

隋書ではこう書かれてるらしいが 
タイの文字がなぜ「堆」なのだろうか?
0257日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 14:51:06.14
その頃は大和をそう書いたんでしょう
この場合は邪馬壹は今の大和と言う判断ですね
わざわざ又って字を水行の前に付け加えている
逆に魏志の記述では直列の距離とは読めないということ
あと付けの知識で改変したと
0258日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 15:11:10.90
臺は隋唐くらいまではダイ
0259日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 15:25:23.63
>>257
なら大和と書くだろ

「堆」これはタイだぞ
0260日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 15:27:40.62
日向 ヒムカ
0261日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 15:57:54.43
>>252
誤読だらけのをアマゾンでチェックしたら
20000円だったぞ
0263日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 16:24:49.11
図書館は → 図書館はある
0264日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 16:36:47.12
アマゾン以外だったら850円だったw
0265日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 17:40:55.48
邪馬台国の主邑とみている山鹿市・菊池市は、現況で一望13,000haの田畑が広がっている大水田地帯である。
何しろここは、弥生時代には大きな古代湖だった土地柄で、当時の汀線は海抜約30mだったそうである。

以後、水田として少しずつ開拓されてきたのだが・・・、
その開拓地を巡っては、海神族や八幡族などが、入れ替わり立ち代わり侵入してきて、
先住民との間で騒動を繰り広げた場所でもあったらしい。

この古代湖の汀線より5mほど高い微高地にある方保田東原遺跡の出土物から推測すると、
とくに三世紀には、最新式の鉄製武器や農具を携えた大種族がやってきたようである。
それが邪馬台国族ではなかったかと思う。
0266日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 17:58:11.36
邪馬台
中国語の発音だと

シィェ マァ タイ
だと!
0267日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 18:03:51.73
無問題がモウマンタイだから
台はタイなんだろうな

よく聞くドゥとかドーとかは大和に
近づけたい人達の捏造か?
0268日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 18:06:43.59
シィェ + マァ タイ
元々の形は、邪+馬台、つまり馬台国ではなかったかとおもうのだが、、、
0269日本@名無史さん
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2018/10/20(土) 18:13:31.13
邪馬台は倭人が口頭で伝えた
のを宛てたんだろ
タイはともかく

シィェーは酷いなw
0270日本@名無史さん
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2018/10/20(土) 18:19:41.83
>>269
中国語はまるきりだが、
邪馬台国の邪は何かありそう、と以前から気になっていたんだ。
そのシイエー、というのの醜い由縁は?
0271日本@名無史さん
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2018/10/20(土) 18:20:23.24
鹿児島市に
草牟田と言う地名がある...
0273日本@名無史さん
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2018/10/20(土) 18:25:22.71
川内に藺牟田イムタってのもあるぞ
こっちの方がヤマタイに発音が近いな
しかも川内
0274日本@名無史さん
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2018/10/20(土) 18:38:27.49
草牟田の由来

『かごしま市史こばなし』という本によると、むかし、この辺り一帯が湿地で“沢牟田”とも呼ばれておりました。この沢牟田がなまって「草牟田」と呼ぶようになったそうです

ここが邪馬台国かは別にして湿地帯の事を
「サワムタ」って呼ばれていたと言う事は
邪馬台国が湿地帯界隈にあったとすれば

魏の使者が倭人に口頭で「サワムタ」と教えられて邪馬台(シィェマァタイ)の字を宛てたのかもしれない
0275日本@名無史さん
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2018/10/20(土) 18:48:26.97
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0276日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 18:51:59.75
張氏の説だと山門野もピッタリ合いそうだな
0277日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 19:54:48.33
張氏の説だと、郡使は嬉野の伊都国に泊まって、温泉浸りだったようだな
0278日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 20:23:56.36
邪馬台=ヤマトじゃない感じがしてきた
0279日本@名無史さん
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2018/10/20(土) 20:49:29.16
>>1
山門
女の首長を立てる風土が強かったのは間違いないね
信仰は太陽信仰だっただろう
日の巫女=卑弥呼(天照大神)の出身地のひとつの可能性は高い
だから邪馬台国の卑弥呼と呼ばれたのだろう

地理的に邪馬台国(筑後川流域、北部九州連合国)の中心に甘木に拠点を移動して国を収め、
最後は伊都の平原で亡くなった

山門がちょうど
日の国(肥前、肥後)に挟まれたところにあるのも注目される
0280日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 20:58:50.00
熊本県山鹿市・菊池市にまたがって広がっていた弥生の古代湖は、面積約2,270haであった。
その汀線は海抜30mで、これよりやや高い海抜35m〜45mあたりに数多くの集落が営まれ、小径もあった。
その基本形は現代にも引き継がれ、山鹿市・菊池市の市街地・住宅地・国道・県道などになっている。

この平地からさらに約40m高いところに、面積200haほどの平たい高台があって、平野部へせり出している。
これが うてな(臺)台地である。
とくに先端部の20haほどは、山鹿・菊池の水田地帯のド真ん中といってよいほどの好位置にせり出しており、

ここに古代の「臺城(うてなじょう)」があった。古代湖を下に見る、まさに天然の大舞台であり、
此の台地こそ、戸数七万戸の邪馬台国の主邑であったに相違ない。
(なお発掘記録を探すのだが、地元は古代史に関心がないらしく、出土物も見当たらないようだ)
0281日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 21:06:45.72
>>280
残念やね 筑後川流域や糸島・博多みたにガンガンそれとわかるものが
山鹿・菊池には出てないよね
でも狗古智卑狗の里には間違いないよね
0282日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 21:12:27.50
みんなヤマト=邪馬台に拘るが
本当に邪馬台がヤマトだったのだろうか?
普通に読んだらジャマダイ(タイ)としか読めないだろ、中国読みでシィェマァタイ
ヤマト政権が九州倭国の存在を隠すために
本当はシィェマァタイなのにヤマト
本当はワなのにヤマトと書き変えたんじゃ無いか?

>>274
の「サワムタ」が気になるわ
0283日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 23:16:16.28
魏晋の邪はjia(國際音標)でピンインのya(ヤ)だろ
0285日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 02:57:54.35
>>283
中国人に聞いたがシェとしか読めないだってさ
0286日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 03:01:29.98
魏の使者 「ここはなんと言うクニであるか?」

邪馬台国の人 「サワムタ」

魏の使者 「シィェマァタイか」
0287日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 08:08:25.09
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0288日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 09:56:06.45
>>285

中国人なら誰でもいいってことはない
日本人が皆上代日本語知ってるわけじゃない
0289日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 09:57:15.95
>>281
うてな台地の臺城は見張り楼だったようで、目ぼしい出土遺物はないらしい。
しかし、その北西数キロメートルの古代湖畔にあった方保田東原遺跡の弥生鉄はすごい。

方保田東原遺跡の概要
>この遺跡は、熊本県北部の菊池川と支流の方保田川に挟まれた台地上に広がる弥生時代後期から古墳時代前期にかけてのもので、
今から約1700〜1900年前)に繁栄した大集落遺跡です。
調査の結果、幅8mの大溝や多数の小溝、100を超える住居跡、土器や鉄器を製作したと考えられる遺構が見つかっています。

>また、全国唯一の石包丁形鉄器や、特殊な祭器である巴形銅器など数多くの青銅製品や鉄製品が出土しており、
この遺跡の国力の強さがうかがい知れます。
このほか、山陰地方や近畿地方など西日本各地から持ち込まれた土器なども出土しており、
交易でも繁栄していた集落であったことが分かってきました。

>昭和60年、熊本県を代表する重要な集落遺跡として国の史跡指定され、平成18年7月28日には、約11haが指定範囲となりました。
現在のところ、発掘調査が行われた面積は、全体の1割にも達していません。
今後の調査によって、皆さんをアッと言わせるような数々の発見が期待されます。
0291日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 11:38:56.09
>>282
>ヤマト政権が九州倭国の存在を隠すために・・・

江戸時代の幕藩体制が壊れて、
薩摩長州主導の大日本帝国に変わった明治維新の経過を思い出せばいいんじゃないかなあ。
九州倭国は、九州各藩の連合体、
東遷勢力は、薩長同盟、
大和王権は、薩長同盟が建てた大日本帝国明治政府
0292日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 11:40:45.43
>>291
俺もそんな感じがしてる
0293日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 11:45:22.31
>>283
ヨーロッパ人が言うならわかるが
中国人は日本=ジッポンって言ってるじゃん
ヨーロッパ人はヤポン
0294日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 11:55:49.88
国際音声記号(国際音標文字)は、もともとヨーロッパで作られたもの
0295日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 12:07:35.58
だから中国人はヤと発音しないんじゃね?
0296日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 12:11:34.88
だから國際音標のjiaは漢語拼音(ピンイン)ではya
0297日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 12:30:15.35
>>290
卑弥呼の時代のクマ国の有力な国のひとつだろうね
しかし
巴形銅器が出ているし、筑後川流域の邪馬台国、吉野ヶ里とは交流も当然あったんだろうと推測がつくよね
クマ国、熊襲とか言われて敵対する時代ばかりではなく親戚のような間柄だったはず
とくにこの方保田東原遺跡はそうでしょう

ともに日の国だからね
信仰は太陽信仰だったね
0298日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 13:15:49.11
張氏の解読

 出水の"イズミ"の"ズミ"を陳寿が"邪馬"(ジャッムワッ)をあてはめ、"台"は音訳ではなく、台地という意味である
0300日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 13:52:58.44
川内平野から延岡まで
邪馬台国の領土だったって事か?
0301日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 13:57:43.91
邪馬台は出水台地か
0302日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 14:02:36.24
張氏の専門が医学だから
全く反響が無かったんだな
学会は専門外の人物に自説を覆されたく無いだろうし
0303日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 14:03:35.04
遠絶不可得詳として列挙されてる中にある邪馬國の方かもしれんぞ
0304日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 14:43:48.22
張氏は古文訳の専門家でもあるから
ある意味魏志倭人伝に特化してる
0305日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 14:53:28.09
ヒルメ 卑弥呼
古代のコは男子につけられる事が多いから

ヒルメ、ヒメと呼ばれてるの意味か...

中国語発音ではペェイミィフゥーだった
0306日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 14:57:02.42
>>305
つまりオマエはイムフなカスだと
0307日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 14:57:28.96
広東語では
bei nei fu
0309日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 15:02:23.99
>>307
アフォは帰れよ
0310日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 15:09:17.14
「南至邪馬壹國女王之所」は「都」の前で区切る。
「都水行十日陸行一月」は「都」を含めて読むことにより、帯方郡からの日数になる。
0311日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 15:16:39.90
>>310
「南至邪馬壹國女王之所」は
南に行くと女王(卑弥呼)の出身地である邪馬壹國がある
と読むのが正解
0312日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 15:25:19.63
>>311
女王の住んでる所じゃないのか?
出身地だったらまた意味が変わってくる
0313日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 15:28:13.84
邪馬台国というのは倭国(九州北部を中心とした倭人の国々)の中央政府の名称
邪馬壹國は邪馬台国を構成する一つの国の名称
0314日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 15:30:34.58
卑弥呼 pieg mier hag
上古音でも大して変わんないぞ
0315日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 15:31:09.20
>>312
魏志倭人伝では伊都国に王がいると記載している
これは邪馬台国の中央政府が伊都国にあるということ
今でいうと東京に日本政府があるというのと同じ
0316日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 15:37:59.37
>>315
つまり卑弥呼は伊都国に住んでいるということ
0317日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 16:03:58.52
>>315,>>316
普通に読めばそうだよま
不弥国は内陸だから不弥国から水行とか不可能だしな。
0318日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 16:04:35.94
>>315,>>316
普通に読めばそうだよな
不弥国は内陸だから不弥国から水行とか不可能だしな。
0319日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 16:35:01.48
>>302
>張氏の専門が医学だから
>全く反響が無かったんだな

いや、専門外の素人が「ぼくの考えた最高の読み方!」ってのを本にしても
あー、はいはい、以上の反響は起こりようがないだろ?w
0321日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 16:37:06.58
>>311
>>310
>「南至邪馬壹國女王之所」は
>南に行くと女王(卑弥呼)の出身地である邪馬壹國がある
>と読むのが正解
「南至邪馬壹【臺】國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬戸」だぞ。
なぜ「都」を消した?
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/gishi/gishi_framepage.htm
0322日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 16:45:33.79
>>321
>>310 を読んでくれ
0323日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 16:55:39.09
>>322
アホちゃうか
0324日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 16:57:51.12
>>320
自演じゃないけどな
魏志とか魏略が書き下ろしだと思ってるのか?
ベースになる書物があってそれを参考にして書いているとしか考えられないだろ
俺が言ってることで整合性があってないことがあれば具体的に指摘してくれ
0325日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 17:05:37.67
>>310
そんな読み方中国語で意味が通じるの?
0326日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 17:08:52.29
>>323
中国語を学んでくれ
「都」がどういう意味かわかる
首都という意味もあるが、全部でというだ
0327日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 17:10:50.10
>>325
「全部で」という意味で使われることの方が多いと思う
0328日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 17:15:25.23
日本語でも「都合」と書いて
全部合わせてという意味で使われるよね
0330日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 17:28:47.70
>>327>>328
同じ三国志にも儉遂束馬縣車,以登丸都,屠句驪所都というのがあるし、
女王之所都を女王の都するところと読まないというのは無理がある

都にすべてという意味があるのは副詞として使われているとき
ここでは、都という名詞または都するという動詞なので、すべてという読みにはならない
0331日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 17:41:18.10
>>330
でっかいブーメランだなw
三国志のその部分でも都の後に首を取った数があるだろ?
いっぺんに取ったわけじゃないだろうから、「全部で」とあった方が文章として自然だろ?
それに「都」を動詞として使うことなんてないだろw
0332日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 17:47:33.75
何も付けずに水行〇〇と書けばそこまでの所要日数そこからの所要日数や時間にするためには又を付ける又渡海みたいに
大和政権を知ってる随書ではわざわざ又を追加してる最初の畿内説だな
もちろん三国志ではわざと付けてない
0333日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 17:48:37.55
時間ちゃうわ距離だ
0334日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 17:51:24.30

都の新解釈。

どーりで変な書き下しになると思った。
それが正解だね。
0336日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 18:08:47.68
>>310
>南至投馬国、水行二十日。
>南至邪馬壹国、女王之所、都水行十日、陸行一月。

新案特許は結構なことだが、
そんじゃ、都のない投馬国の水行二十日は、どう読むんかの??
0338日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 18:30:49.02
>>319
言うても
古文訳の専門家だよ
0339日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 18:38:30.01
>>336
別に俺が考えた案じゃないけどなw
ポイントは「到伊都国」
つまり伊都国が最終目的地だということ
伊都国についてからは伊都国が起点となっている
伊都国から投馬国まで水行で20日
邪馬壹国までは「都」があるので出発地帯方郡から水行十日、陸行一月
0340日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 18:39:58.13
>>315
東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰謨柄渠 有千戸 丗有王皆統屬女王國 郡使往來常所駐
(東南、陸行五百里にして、伊都國に到る。官を爾支といい、副を泄謨觚柄渠觚という。千余戸あり、世に王ありて、皆女王國に統属す。郡使の往来常に駐まる所なり。)
だから、伊都国の王は女王国に属しているわけだから女王とは別人で、伊都国が中央政府なわけないだろ?
0341日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 18:40:38.95
>>335
それどこがどう論破なんだ?
0343日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 18:43:18.19
>>339
「到」は起点にならないはずだが...。
次への起点になりうるのは「至」で書かれた国。
0344日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 18:54:44.24
>>340
「統屬」という言葉の使用例が他の史書に無いから(あったら教えてくれ)
「皆」が何を指すかがポイントになる
「世世王有’なら代々の王が皆になるが、
ここでは「世王有」だ。これは今現在の王がいるという解釈が正しい。
ひとりでは皆にならない。
であれば女王国に属する国々としか考えられない。
意味としては女王国に属する国々は皆女王国に従っているとなる
0345日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 18:57:51.62
>>343
自分が伊都国にいたとして
投馬国までどう行けばいいか聞かれたらどう説明する?
そういうことだ
0346日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 19:00:12.87
>>342
そのひとつひとつを俺の解釈読んでみてくれ
それで意味が通じないことがあれば
前後の文章と共につっこんでくれ
0347日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 19:04:36.44
>>343
>「到」は起点にならないはずだが...。
などと、誰ぞの陳解釈をかつぐのはいかがなものか

到と至のちがいは、そのあとにくる文字との平仄関係(日本語でいうアクセント)で決まるのだ。
中国本土の漢人貴族に固有の正調アクセントだからな(ま、台湾人にはムリムリ)。
0348日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 19:07:21.84
>>340

魏略には世有王がないならなぁ

〜東南五百里到伊都国戸万余置曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚其国王皆属女王也

これが伊都国の説明なら、伊都国の女王が各国の王を皆属している、という解釈もできる

すると、倭人伝の"皆"は、何を指すのか?

そもそも意味がおかしいと思わないかい?
代々の王を女王国が統属する、という文
正直、ちょっと無理矢理な訳だよね

皆を各国の意味とすればすんなり通る
後は女王国がどこを示すか?だね
0349日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 19:20:04.30
>>348
>代々の王を女王国が統属する、という文
>正直、ちょっと無理矢理な訳だよね

ぜんぜん、おかしくはないよ。
たぶん、この文章の時代背景を誤解してるきがするな。
女王也とは、卑弥呼が共立女王=倭女王になる前の「邪馬台国だけの女王」であったじだいのことなんだよ。(倭人伝においても同様)
0351日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 20:00:56.08
>>347
お前何人?
0352日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 20:04:35.25
>>347
至倭循海岸
至對海【馬】國
至一大國
至末廬國
至奴國
至不彌國
至投馬國
至邪馬壹【臺】國 
至女王國
下の9つと以下の2つの平仄における「到」と「至」の使い分けを説明してもらえませんか?
是非教えてください。
到其北岸狗邪韓國
到伊都國
0353日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 20:52:34.47
>>351
>>352
平仄の件は、数年前の「邪馬台国は九州にあった」で専門家の解説があった。
当時を知るものにとっては、格別のことではない。。。
0354日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 21:02:15.58
「到」は倭国に到着、最終目的地の伊都国に到着だな。
0355日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 21:13:54.09
東南五百里 至伊都国 戸万余 置曰爾支 副曰洩渓觚 柄渠觚 其国王皆属女王也。
この解釈は正直難しい。
個人的にはこう解釈している。
東南五百里 至伊都国 戸万余 置曰爾支 副曰洩渓觚 柄渠觚 其国王。皆属女王也。
つまり、「国王(女王)によって官、副官が置かれている。(拘邪韓国、対馬国、一支国、爾支国、伊都国は)皆女王に従っている」
そう解釈しないと「皆」の意味がない。
伊都国の王が女王に従っているという意味なら「皆」は不要だからね。
0356日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 21:15:37.23
>>353
だから平仄の観点で各々の次の字に応じて「到」か「至」が選ばれる理屈がわかってるんだろ?
それを教えてくれないかと言っているんだが?
0357日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 21:17:26.48
>>355
それともし伊都国に女王以外の王がいるなら
官や副官より先に記載があってしかるべきだしね。
0358日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 21:34:19.41
多くの学者は「到」「至」「従」「始」「又」を考えずに解釈してきたらしい。

そのため、「帯方」「対馬」「一大」「末蘆」「伊都」「奴」

と、いわゆる「直線読み」をしてきた。

さらに「放射読み」をしてきた学者は、「起点」を間違えて、「邪馬台国」までたどり着けなかった。

「直線読み」は、文献を全く理解出来ない、まるで小学生並みの解釈だ。

では、何が正しいのか?
問題はまず「伊都国」「奴国」の解釈に出てくる。『東南に陸行すること五百里、伊都国にいたる。』の

「起点」は「末蘆国」である。しかし、「伊都国」の前には「到」があるため、そこは「起点」にはなりえない。つまり、次の「奴国」の「起点」も「末蘆国」である。

さらに『東行して不弥国にいたるに百里』と続くが、

やはりこれも「末蘆国」が「起点」であり、「伊都国」や「奴国」を「起点」にしてはいけない。「伊都国」を「起点」にしてしまっている学者が多い。

これを正しく訳すと「末蘆国から伊都国までは五百里、末蘆国から奴国までは百里ですよ。」ということになるし、それ以外の読み方はできないそうだ。

畿内説論者はこんな分かりやすい解説が理解できないのか
0359日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 21:40:48.41
>>355
「東南五百里 至伊都国 戸万余 置曰爾支 副曰洩渓觚 柄渠觚 其国王皆属女王也」
は魏志倭人伝の文章じゃないよね?
魏志倭人伝は
「東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
だよね。
0360日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 21:47:34.91
>>356
後ろにくる文字(この場合は国名)の頭が高い(強い)平仄音(アクセント)の場合は到る。
低い(弱い)平仄音の場合は至る。
なお、日本語でいうアクセントの強弱と、漢語でいう平仄は、似てはいるが、同じではないそうだ。
あれこれ屁理屈を云ったら、日本人に平仄は分かりっこない、といって怒られたことを記憶している。
0362日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 21:59:31.26
熊本県山鹿市は、古代史に造詣が深く、弥生末の方保田東原遺跡の保存に力を入れている。
しかし隣接の菊池市は、此処を本拠地にした中世菊池一族の菊池城、及びその前身の鞠智城にこだわっており、古代への関心は薄いようだ。

中世の菊池城(きくちじょう)
>菊池城は、熊本県菊池市隈府にある中世の山城で、正平年間(1346-1370)に菊池武政により築城された。
(別名隈府城(わいふじょう。なお隈は、「くま」とも呼ばれ、「熊本」の語源となった。)
菊池氏は九州における南朝方の有力者で、後に肥後守護に任じられ、現菊池市は城下町として栄えた。

>戦国時代に入ると菊池氏は内紛を繰り返して衰退し、家督を阿蘇氏や豊後大友氏に奪われて、菊池氏の正統は没落した。
なお菊池市には、これとは別に、七世紀の鞠智城(きくちじょう、くくちのき)もある。
0363日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 22:00:50.47
>>359
魏略
0364日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 22:07:14.15
>>360
倭、對、一、末、奴、不、投、邪、女
が頭の弱い平仄音
其、伊
が頭の強い平仄音
いうことですね?
もう少しわかりやすく説明してもらえないかな?
0365日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 22:28:01.84
要するに、韻の流れが単調にならないようにリズム(声調)を整えてるんだろ?
0366日本@名無史さん
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2018/10/21(日) 22:49:38.89
>>365
各字について説明してください。
中国語わからないのでわかりやすくお願いします。
0367日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 22:53:23.79
>>366

>>360じゃないので知らない
0368日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 22:54:54.69
占い好きの張さんの読みでは
末蘆國を起点にしてる割には官の名もなく
伊都國のように郡使往來常所駐でもない
0369日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 23:12:18.96
>>345
読者は郡使の気持ちで帯方郡を基準に考えるのだろうな。
0370日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 23:50:10.68
>>368
畿内説の脈がなくなっただけでも
大きな前進、張氏自身もそこにあるかどうか分からないと言ってるし
0371日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 23:56:17.11
>>339
>ポイントは「到伊都国」
>つまり伊都国が最終目的地だということ

それ、倭人伝だけじゃなく、三国志全体の至と到の用例を調べた結果から
あえなく否定されてるんだが?

もうずいぶん古い話だよ
九州説の人はいつも持ち出す話題が古い
0372日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 00:02:48.85
ひみこ・・・てらす?
すさのお・・・何だか知らないけど

いまのアイヌ、エミシ?だという話をしている人がいなかった?
部下が反乱を起こしたので鎮圧しろという話とか

松傾の話
0373日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 00:05:11.53
言うこと聞かない、何やらを守らない・・・とか、
そういう話

エミシを制圧、
自作自演?ではないと思うんだけど

どこだったかな、
同じようなことを言ってる人がいた
0374日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 00:05:39.11
>>371
誰がしらべて
誰が否定したん?w
0376日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 00:11:11.61
高天原(邪馬台国)はいまの出水平野にあり、イザナギ族が支配していた。出雲(投馬国)はいまの薩摩にあり、

イザナミ族が支配していた。いずれも中国から渡ってきた呉越人の子孫である。

 出水の"イズミ"の"ズミ"を陳寿が"邪馬"(ジャッムワッ)をあてはめ、"台"は音訳ではなく、台地という意味である。

また、出雲の"イヅモ"の"ヅモ"を陳寿が"投馬"(トゥッムワッ)をあてはめたのであろう。

 イザナミ王に娘が二人いて、姉のほうは跡継ぎに残し、妹のほうはイザナギ王に嫁いだ。しかし、出産してすぐ高熱を出して死に、

イザナギ王は妹の代りに姉をもらいたいと思い、出雲ヘプロポーズに行った。

 ところが、出雲にいるときにイザナギ王は姉姫のヌードを盗見て、癩病で体中がただれているのを見て、びっくりして出水に逃げ帰った。
0377日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 00:13:23.63
その後、イザナギ王は再婚して、三人の貴子が生まれた。それは、長女のヒルメ(卑弥呼)で妾腹、長男のツクヨミで妾腹、

次男のスサノオ(男弟)で后の子、三人である。
 そのとき、九州では、ちょうどスサノオという朝鮮英雄の伝説がはやっていたので、

イザナギ王は、大きな望みを正妻(后)の子である次男に託して、英雄の名をつけのである。しかし、期待に反して、

スサノオは素行が悪く、手のつけられない乱暴者として育った。長女をいちばん愛したイザナギ王は、引退するとき、ヒルメに国をゆずり、

ツクヨミは山岳地、スサノオは海原地に分封した。
0378日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 00:16:10.39
スサノオは分封地に不満を持ち、ヒルメのところに身を寄せ、ヒルメと情を通じ、オシホ(天忍穗耳命)をはじめ、多くの子を生んだ。

 そして、ついに実権を握り、ヒルメを閉じ込めて人と会えないようにし、ついに殺してしまった。『魏志』「倭人伝」には、これらの事件について、
 
夫婿なく、男弟ありて、国を治むるを佐け、王となしてより以来、見るもの少くあり、婢を千人持ってみずから侍べり、

ただ男子一人ありて、飲食を給い、伝辞に居ることろを出入りす、と記している。
0379日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 00:19:01.67
国を奪ったつもりのスサノオは、クーデターによって追放され、後にヒルメの子のオシホを婿に迎えた当時十三歳のアキヅ(台与)が

その父親の高木神の力によって女王に立てられた。追放されたスサノオは、自分の軍隊をつれて出雲に入り、癩病ゆえに全身ただれ、

ヤケになって暴政の限りを尽していた出雲の女王(イザナミ族の姉姫)を殺し、苦しんでいる人々を救けた。

ヤマタノオロチとは、全身ただれて暴政する女王のことである。スサノオはそのまま出雲王になり、死んだ後は、

六男が大国主(出雲王)になったのである。大国主であるスサノオニ世は、老いてから娘のスセリの夫である大穴牟遅に位をゆずり、

大穴牟遅が大国主になって出雲を支配した。
0380日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 00:20:42.87
天孫降臨はどこからどこへ
いまの川内平野は、もともと邪馬台国の領土だった。しかし、ヒルメとスサノオのゴタゴタで投馬国に編入されてしまい、

邪馬台国のほうは、いつか取り返したいと思っていたのである。国力が回復してから台与は高木神と相談し、

アマハヒやアマワカなどを使いとして投馬国に派遣したが、いずれも大国主に降った。三度目にミカズチを派遣し、

半分おどしで川内平野を取りもどし、ますます国力に自信がついた。それで、台与と高木神は、オシホに狗奴国を討伐するよう命じた。
0381日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 00:22:30.23
倭の女王の卑弥呼と狗奴国の男王の卑弥弓呼はもとより和せず、であったから邪馬台国にとっての狗奴国は、まさに漢にとっての匈奴のようなものである。

狗奴国はいまの宮崎県にあり、宮崎市の近くの地名から、"狗奴"(クッナッ)という字があてはめられたのである。腰抜けのオシホは、討伐軍を出すほどの勇気がなく、

遠征は次の世代に持ち越された。本当に狗奴征伐に出たのは、オシホと台与の子のニニギであった。
 
ニニギの大軍は阿久根から出発して、川内で集結してから、東郷、宮之城、鶴田、菱刈、栗野という順で霧島山を越え、

一気に下に向かって攻めており、小林、都城の二か所を落とし、最後は宮崎まで落としたのである。結果的に、狗奴国はとうとう邪馬台国に攻め滅ぼされたのである。
0382日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 00:24:26.09
天孫降臨の場所は、『古事記』の記述によれば、
 "日向の高千穂のくじふる嶺に天降りまさしめき"
 "ここは韓国に向い"

とあるため、前述のコースの中には、必須条件としての、高千穂、韓国岳が揃っているから、ほかのところは考えられない。

日本では、天孫降臨について、朝鮮半島からの渡来など、やたらスケールの大きいロマンにしたがるが、本当は、

ただ南九州の中で山を越えただけであり、邪馬台国が狗奴国を攻め滅ぼした史実を神話にまとめたものである。
0384日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 00:55:02.03
『誤読だらけの邪馬台国』(1992年)の久保書店って
成人向け漫画とB級のSF/ミステリ叢書の出版社かw
0385日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 00:57:19.11
言うこと聞かない〜〜〜〜????

げげげのキタローみたいな話?
そういう曲がなかった?
0387日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 01:09:22.73
それよりも家の老婆なんだけど、なんで詳しいんだろう、
母親もキタローが何やらという話をしていたり
0388日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 01:15:49.37
エミシ、アイヌ・・・、
何やら神、何やら族〜とか、そういう話なの?





老婆、あと親にも聞いてみたんだけど
「知らない」と言っていたり
0389日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 01:40:06.10
『Radio Ga Ga』

それにしても老婆なんだよ・・・・・・、
こういう曲と同じような話をしていたり
0390日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 03:07:16.70
これも、おかしな話

キタローに出演していた俳優がいて、
サトシという名前だっけ?

と言っていたり
0391日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 03:13:32.39
『ボーボボ』

ほとんど同じだしな・・・
「弟だよ」(二男)と言ってる人がいたり
0392日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 03:37:03.67
河童のさんぺい・・・


キュウリの葉?なぜか家の写真の話ばかり
0393日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 03:39:52.97
『何者にもなれない お前たち』?

  ほとんど同じだしな・・・
0394日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 04:05:14.95
何度書いても同じ


げげげ(きたろー)の原作者よりも、
家の老婆のほうが、はやく生まれているし・・・、
あの謎の写真は、もっと前のモノだと言っていたり、
老婆が生まれるよりも前のモノ・・・、どういう事なんだろう
0395名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!
垢版 |
2018/10/22(月) 08:06:04.20
>>364
一夜のうちに、ずいぶんレスがついてるわ。好評のあかしだろう。

おれはアマチュアで、詳しいことはわからぬ。
しかし、平仄と至・到の関連は、そのとおり。
なお中国語もそうだが、大和時代の漢字も、アクセントを考慮して使用されてる。
いわゆる、漢字の甲類・乙類区分がその例だ。(どちらかが高くて、どちらかが低い。ご参考まで・・・)
0396名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!
垢版 |
2018/10/22(月) 08:20:35.67
>>395

>>347
>>343
>>「到」は起点にならないはずだが...。
>などと、誰ぞの陳解釈をかつぐのはいかがなものか

>到と至のちがいは、そのあとにくる文字との平仄関係(日本語でいうアクセント)で決まるのだ。
>中国本土の漢人貴族に固有の正調アクセントだからな(ま、台湾人にはムリムリ)。

ここまで書いて、実はわからないというのはあんまりではないかな?
0397名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!
垢版 |
2018/10/22(月) 08:36:26.29
>>396
ま、そう責めてくれるな
ご承知の通り、中国語は四声といって、一つの語にも四種類の発声があるそうだ。
さらにそれは、地方によっても、じだいによっても変わるらしい。
三世紀の発声は陳寿の文章の通りとして、その理屈は、今の洛陽市の専門家にでも確認するほかなかろう。、
0399名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!
垢版 |
2018/10/22(月) 10:22:19.90
その前に「至」と「到」は三国志の第一巻 魏書01 武帝紀第一を、全文検索するだけで、
「到」に到着地を指すなんて意味がないのはすぐに確認できるぞ

普通に行軍の途中に、「至」と「到」が混ぜて使われている
「到」の方が少ないから「到」で検索かけてごらん

三国志全文検索
http://www.seisaku.bz/search/search.php
0400名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!
垢版 |
2018/10/22(月) 11:10:39.20
至は矢のように真っ直ぐ至る、
到は至に刀を付けて曲線的に至る
0402日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 11:23:50.78
>>400
>至は矢のように真っ直ぐ至る、
>到は至に刀を付けて曲線的に至る
「到は出発点にいる人が引き寄せられて終点(目的地)に至ることを示す図形。この意匠によって、目的地に行き着くことを意味するtɔgを表記する。」と言っている人もいるぞ
http://gaus.livedoor.biz/archives/21467402.html
0403日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 11:40:13.08
>>399
全部は見れないけど検索して最初に出た三国志01 魏書01 武帝紀第一の文章を一つ見た、
「太祖兵少。乃與夏侯惇等、詣揚州募兵。刺史陳溫丹楊太守周マ、與兵四千餘人。還到龍亢、士卒多叛。至銍建平、復收兵得千餘人。進屯河內。」
還到龍亢は龍亢に帰り着くまでに四千餘人の兵のうち士卒が多く叛いた、という意味で、至銍建平は銍建平へ行くまでに兵を千餘人得て、さらに河内へ進んだ、という意味なら、次に進む場合は「至」、進まない場合は「到」で合ってるんじゃないか?
この場合「還」がついているから、そこで行程は独立するわけだし。
漢文や中国語に詳しいわけではないので自信はないが...
0404日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 11:44:03.73
狗邪韓國から先に進んでるから
0405日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 11:46:55.23
三国志で"到"の用例に途中の行程例があるかどうか?だろうね
0406日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 11:54:34.96
>>404
倭の北岸に到着した

これからは倭内である、という事

だかは、始度一海、で続きと説明か
0407日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 12:02:24.64
>>400
>到は至に刀を付けて曲線的に至る

白川静氏によると到の刂は人だそうですよ
甲骨文字では刀と人が似ていて人が刂になったそうです
到は人が至るの意味ですね。
0408日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 12:04:01.24
>>401
魏書ですから今の世とは魏の世ですね。
0409日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 12:07:06.56
>>407
ここには
「白川は到を「矢の到達点に人がいたる」という意味だとするが、こんな意味がありうるだろうか。
何のために矢の到達点に人が到るのか。矢が当たったかどうかの確認のためか。そんな行為を一語で表すだろうか。いかなる文献にもこんな意味には使われていない。」と書いてある。
http://gaus.livedoor.biz/archives/21467402.html?ref=head_btn_prev&;id=7068944
0410日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 12:08:26.51
>>401
やはり時代を勘違いしてるね
卑弥呼には、
@邪馬台国だけの王女、又は女王であった時代
A共立倭国の王である倭女王(又は倭王)であった時代
B魏王朝から金印紫綬を賜わって親魏倭王に昇格した時代の三つがあり、この順番にストーリーが進んでいる。

伊都国の段は、
このうち@の時代のことを記述しているので、その当時伊都国には王がいた。
なお、魏王朝年間の出来事には「景初二年〜」などとして年号がふられている。
年号が記されていない記事は、後漢時代、もしくは、次の晋王朝時代の出来事であった。
0411日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 12:26:00.15
>>410
伊都国の説明を過去とする理由は?

過去とする事が前提であるなら、何か倭人伝にそれを示す事が記載されていなければならないが
0412日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 12:37:09.49
「丗」は、後に「皆」があり、その後に「郡使往來常所駐」と伊都國のことを書いているから
父子相繼、三十年の意だな
0413日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 12:37:23.95
>>410
行程説明の部分と、歴史説明の部分を混合したらいけないと思う

一説として論ずるのはかまわんが

そもそも、行程説明は出来事ではないので、年代の記述は必要無いからね
0414日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 12:50:40.52
>>400
「到」はその場所に着いている。
「至」はこのまま進めばその場所に着く。
0415日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 12:52:14.66
結論

邪馬台国は

日向小次郎
0416日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 12:52:18.48
つまり、単に女王と書いてある場合は、卑弥呼が単なる女王であった時代を示す。
このように、女王か、倭女王か、親魏倭王かで、
時代を判別できる仕組みになっているわけだ。

陳寿としては、いろいろ書きたかったが、
魏の時代文だけでは、どうしても材料に乏しかったので、
曹操が活躍し、曹操が命じて開かせた後漢時代の帯方郡の事績も取り込んで、ドラマ風に仕立てたのであろう。
0417日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 13:02:05.86
>>416
その理論で言うと以下はどう説明する?
世有王皆統屬女王國
0418日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 13:26:24.68
>>416

では、女王之所都

女王の都とする所、は女王だから、過去の事になるな

卑弥呼はどこにいるんだい?
0419日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 13:55:03.24
>>416
思いつきとしか考えられないよ
魏志倭人伝全文読んだことある?
0420日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 13:57:16.37
畿内説論者の頭の悪さと
粘着力には脱帽だわ、凄い才能だな
0421日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 14:13:23.73
>>420
>畿内説論者の頭の悪さと
>粘着力には脱帽だわ、凄い才能だな

どこがどう頭が悪いのか、具体的に指摘して
畿内説側は、通説、多数説の説明をしているだけ、
通説、多数説になるにはそれなりの理由があるから、それを説明している
それを粘着質と考えるのは、九州説ではうまく反論できないからだろうね

九州説側は、結局、通説・多数説への反論を、根拠なし、
あるいは検証不能なことを根拠に言い立てるだけになっている
0422日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 14:16:41.42
伊都國だけ女王に従属している父子相繼の王が書かれて
官名は書いてあるが王の名は無いから伊都國は非倭人王の国
末盧國は官名もないから一部だけが倭国圏
0423日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 14:25:27.83
畿内説側は何の説明も無く
いつまで経っても邪馬台国=大和
これだけ、巻向スレで三國志の作者は
東に伸びる国へ東に向かって南行すると言う認識で魏志倭人伝を書いたとか捏造してるキチガイがいたが、ここに紛れこんでるんじゃね?
0424日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 14:48:37.55
興奮せずに従属国の伊都国から先に進むことから始めよう
0425日本@名無史さん
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2018/10/22(月) 14:53:56.03
>>422
そうなんだよなぁ、
伊都国に伊都国の王がいたら一番先に名前と説明があってもいいと思うんだ
0426日本@名無史さん
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2018/10/22(月) 15:04:13.01
>>417
以下の通り:
女王がまだ邪馬台国だけの女王であった時代のこと、
伊都国には代々王がいた。その王たちは女王国の一統(統は一統、即ち一族・血縁のこと)であり、統を以て属していた。
0427日本@名無史さん
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2018/10/22(月) 15:17:04.25
>>418
>女王の都とする所、は女王だから、過去の事になるな

そのとおり、帯方郡が調査した後漢時代の倭国事情を記載している。
この女王は、実際には卑弥呼のことであるが、後漢時代のことであるのであえて実名は伏せられている。
そして、魏の時代に入ってからの出来事になって、実名を記載したのであろう。即ち、

>其国本亦以男子為王。住七八十年、倭国乱相攻伐歴年。乃共立一女子為王。

ここで初めて卑弥呼の実名が出てくる。
共立年は推定220年頃。このころ魏王朝も成立したのではないか。
(というより、魏王朝が成立した後に共立されたので、ここで初めて実名を記載したのであろう。)
0428日本@名無史さん
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2018/10/22(月) 15:25:06.35
>>425
ま、「それにしては伊都国の王の名前がないじゃないか・・」、と、おもうかもしれないね。
此処はとても大事なところだ。
もし此処で伊都国の王の実名を書けば、のちに登場させる卑弥呼と同格に扱ったことになる。
ゆくゆく伊都国の王は、卑弥呼の臣下に入るので、名前を伏せることで格下ですよー、と、伏線を張っているわけだ。
なお、狗奴国の王は臣下には入らないので、にっくき敵役として実名で登場させている。
0429日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 15:47:41.22
伊都国にいた王が卑弥呼なんだよ。
陳寿はなんだかもったい受けた言い回しが多いね。
邪馬台国までの旅程も、里程と日程の両方で記載して後世の読者がかえって混乱した。
0430日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 16:06:04.56
ま、伊都國王=卑弥呼は特殊な人だけだろう
0431日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 17:21:42.09
>>425
>そうなんだよなぁ、
>伊都国に伊都国の王がいたら一番先に名前と説明があってもいいと思うんだ

でも、狗奴国も地理のところで出てくる初出のところでは、官の狗古智卑狗だけが出てきて
王名の卑弥弓呼は後回しで、最後の卑弥呼との不和ってところまで出てこないんだよな
魏志倭人伝はそういうフォーマットなんだと思うしかない
0432日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 17:22:22.56
ま、伊都國王=卑弥呼と考える人は、特殊な人だけだろう
0433日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 17:22:45.06
伊都国と邪馬台国は、明らかに別の国として書いてあるからね
0434日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 17:31:19.06
魏志倭人伝は特殊なフォーマットだけれども、さすがに王の名がないなどということはない。
王の名は書いてある。
卑弥呼と。
随分と離れたところに書いてあるよね。
0435日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 17:33:08.56
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0436日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 17:42:17.75
男弟=一大卒=伊都国王=難升米と考えれば全て解決根拠もある
なんなら=スサノオまでいこかby孫栄健
0437日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 17:45:31.37
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(一大率は)伊都国で(女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは(魏で皇帝が)刺史(を州に派遣し検察させて洛陽で治めているの)と同じようだ」の意味となる。

女王卑弥呼が一大率を任命して治めさせているのは自女王國以北の対馬海峡の国々である。
女王国が伊都よりずっと東の畿内にあったら、一大率が支配していたのは畿内の北である若狭湾沿岸になってしまう。が、伊都に置かれていたという記述と齟齬を生じる。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。

「刺史」・・・各地方を治める監察官
「大率」・・・百済などにあった高級官僚の役職
0438日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 17:50:08.29
伊都國は女王境界の外側にあるんだよ
不彌國のもそお
0440日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 17:57:23.12
>>437
>女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけである。


そのように、福岡県内に限定すればそうかも知れないが、
対馬海峡の国々は長崎県の肥前国だぞー、残りはホントに福岡県で正解なのかぁ・・・、
0441日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 18:50:54.30
特殊な人の主張だから特殊なフォーマットをこしらえる必要があるだろうな
0442日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 20:32:21.69
>>440
壱岐対馬は長崎県だけど、長崎県というともっと西をイメージしてしまうからね。
0443日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 21:50:51.84
対馬海峡の国々は、長崎県・肥前国だぞー、
それに末盧国の唐津は、佐賀県・肥前国だぞー
海路を完全に肥前国に押さえられているのに、残りはホントに福岡県で正解なのかぁ・・・、
0444日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 21:59:01.66
そう来るか。
0445日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 22:10:48.21
壱岐国と対馬国は肥前国ではないけどな
0446日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 22:29:30.34
ワロタ
0447日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 22:30:07.91
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0448日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 22:35:15.52
>>414
「(問題の“至”と“到”は、(中略)『三国志』の中でも違う意味に用いられており、簡単にいえば、“到”は“到る”、“至”は“まで”ということである。
“到”というのは、点的な概念であり、その一点に着くことであり、文章の中では、次のところへの起点にならない。
“至”というのは、線的な概念であり、その一点までということで、文章の中では、次のところまでの起点になる可能性がある。
aがA点からB点に「到」するのは、aがA点からなくなって、B点に存在することである。
bがA点からB点に「至」するのは、bがA点からなくならず、B点にまでおよぶことである。
到 ーーーーーーーー→a
A B
bbbbbbbbbbbbb
至 ーーーーーーーーー
『三国志』を見ると、いたるところにこの使い分けが見かけられる。
(中略)
一般的に、中国古文は、文章の中で、これら二字の中の一字だけを使っており、
“至”でも“到”でもすべて“到”、
“至”でも“到”でもすべて“至”、
のいずれかになっている。
しかし、文章の中で“到”と“至”が混じっている場合、
“至”は“まで”で何かがA点からB点までおよぶ、
“到”は“到る”で何かがA点から離れてB点に移って着く、
というように区別される。
中国古文多く読んで見ると分かるが、“到”と“至”が混じっている文章において、これら両字が全く同一の意味に使われている例は、いまだ一例もない。だから、この文章では、両字をしっかり区別して読むべきである。」
「誤読だらけの邪馬台国」p26-p32
0449日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 23:05:13.20
「始度一海 千餘里 至對海國」の起点は
「到其北岸狗邪韓國」だろ
0450日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 23:07:30.41
到を使うのは目的地
0451日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 23:09:20.38
卓球の選手だった張さんの目的地は阿久根だろ
0452日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 00:07:21.62
>>449
「倭に対して”至”を使い、狗邪韓国に対して”到”を使っている。」
0453日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 00:19:58.90
>>452

文章の中では、「始度一海 千餘里 至對海國」の起点はどこなの?
0454日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 00:31:57.53
>>453
七千餘里 始度 一海 千餘里 至 對海【馬】國 其 大官 曰 卑狗 副曰 卑奴母離 所居 絶島 方可 四百餘里 土地 山險 多深林 道路 如 禽鹿徑 有 千餘戸 無 良田 食 海物 自活 乗船 南北 市糴
だから帯方郡から七千余里進んだところが起点と書いてある。
0455日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 00:37:25.21
>>454

帯方郡から七千余里進んだところが狗邪韓國だろ?
0456日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 00:42:08.05
>>455
そうだと思う。
でも文章としては狗邪韓国が起点ではなくて、帯方郡から七千余里進んでから海を渡って千余里で対馬国に着くと言ってる。
狗邪韓国起点なら七千余里は書く必要がない。
0457日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 00:46:28.65
>>456

狗邪韓国が起点ではないならどこから海渡るの?
0458日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 00:52:11.50
>>457
狗邪韓国が実際には起点だけど文章の中の表現は帯方郡から七千余里進んでから海に出て千余里となっているから、狗邪韓国には「到」で起点にならない形をとっている。
0459日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 00:55:42.77
>>458

実際とは違う行程を書いて何の意味がある?
0460日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 01:10:46.81
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0461日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 07:21:07.63
>>459
帯方郡→狗邪韓国と帯方郡ー七千余里→海岸はおそらくダブってるから実際の行程とは違わない。
狗邪韓国起点にするとそこから七千余里行ってから海を渡ることになるのでは?
0462日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 07:30:36.30
「到」と「至」の使い分けは、意味の違いじゃないんだから、がんばるのは無益だよ
0463日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 07:34:44.49
>>462
平仄ね?
でも誰も説明できないからなぁ
0464日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 08:34:47.83
>>461

ダブってないよ
0465日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 08:36:57.34
>>454
>七千餘里 始度 一海 千餘里 至 對海【馬】國

もしやと思うが、ここの「始度」は、始点や起点のことではない。
・・・これまでは穏やかな内海の沿岸航行でどうってことなかった。
・・・しかしここで、初めて命がけで外洋の荒波を渡ることになる、、、と、こんな感じだ。
0466日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 08:56:43.99
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0467日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 08:59:57.20
>>463
日本語でも、
箸と、箸墓と、箸墓古墳とでは、同じ「箸」でも、音の高さやアクセントの置き方が違う。
意味を伝えるのに、発声の高さ・強さは、極めて大事。

英語でも、ペンは、 a pen だが、リンゴになれば、an apple だ。中国語にも四声がある。

前後のつながりで、調子を整えるための語や音の変化は、万国共通のありふれた現象だ。
それを勘定に入れないで、漢字の字面だけで議論するのは滑稽でもある。
到と至に意味のちがいがあるといって、大見えを切った者は、
アクセントや平仄なし、小学生の学芸会みたいな無味乾燥な人物だったのだ。
0468日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 09:16:26.67
>>465
帯方郡から七千余里進んで狗邪韓国の着くわけじゃないの?
0469日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 09:18:29.17
>>467
意味の違いがないと言い切れるものではないだろ?
0470日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 09:23:20.63
>>467
東に向かって南行する奴はお前だろ
0472日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 09:43:20.30
>>469
>意味の違いがないと言い切れるものではないだろ?

三国志巻1魏書1武帝に、「到」が16件「至」が57件あるから、
違いがあるって示してくれればいいよ

まあ、行程以外の「官至太尉」みたいな昇進記事もたくさんあるけれど、
16件の「到」が全部経由地ではないことを示してくれればいいよ

さあ、がんばれ
0473日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 09:52:19.28
中国古文翻訳のプロ>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>

>>>>>クレーム専門の5ちゃんねらー(東に南行する男)
0474日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 10:08:38.54
「到」は人が至る・・・行動が伴ってる、到着など。
「至」は人に限らずに何でも至る、行動以外の時間、道が至る、地位が至る。
「至」>「到」ですね、「到」の方が使用範囲が狭い。
0475日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 10:15:01.06
>>409
矢の飛んだ所まで人が行くってことでしょう
つまり人が到着する。
0476日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 10:23:49.98
>>474
そういうのはいいから、三国志での用例で「到」と「至」の使い分けを示してよ

武帝紀だけでいいからさ
0477日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 10:24:57.69
>>472
403 名前:日本@名無史さん :2018/10/22(月) 11:40:13.08
>>399
全部は見れないけど検索して最初に出た三国志01 魏書01 武帝紀第一の文章を一つ見た、
「太祖兵少。乃與夏侯惇等、詣揚州募兵。刺史陳溫丹楊太守周マ、與兵四千餘人。還到龍亢、士卒多叛。至銍建平、復收兵得千餘人。進屯河內。」
還到龍亢は龍亢に帰り着くまでに四千餘人の兵のうち士卒が多く叛いた、という意味で、至銍建平は銍建平へ行くまでに兵を千餘人得て、さらに河内へ進んだ、という意味なら、次に進む場合は「至」、進まない場合は「到」で合ってるんじゃないか?
この場合「還」がついているから、そこで行程は独立するわけだし。
漢文や中国語に詳しいわけではないので自信はないが...
0478日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 10:33:55.60
>>477
>還到龍亢、士卒多叛。至銍建平、

龍亢から建平へ進んでいないと判断するのかい?
0479日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 10:42:19.59
>>477
還がついていると、甲論乙駁になってややこしい。
次、もう少し単純な例に進もう。
0480日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 10:44:47.81
行程では狗邪韓國と伊都國以外には人が至ってないわけじゃないからな
0482日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 10:50:12.53
>>480
「至」>「到」ですね、「到」の方が使用範囲が狭い。

「至」の方が利用範囲が広いから全部「至」で書いてもか構わないんだよ
狗邪韓國と伊都國にだけ「到」を使ったのはそこが特別な場所だったから。
0483日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 10:51:13.15
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0484日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 10:52:47.98
張氏は、水行十日、陸行一月を帯方郡から邪馬台国までの距離とみなす(例えば、古田武彦氏)のは、
漢文的にあり得ないといってるらしいな
0485日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 10:58:11.88
>>484
張氏?
0486日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 11:03:39.69
九州説はチェリーピッカーだから、そんなことは気にしないよw
至と到の書き分けだけしか見てない
0487日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 11:05:45.47
『誤読だらけの邪馬台国』で「到」が「起点」にはなりえないと言っている
明の宰相張居正の子孫と自称している張さん=小島さん
0488日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 11:17:44.43
>>487
古田武彦氏とどっちが信用できるの?
0489日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 11:20:44.71
「水行十日陸行一月」は、
専門は中国医学で漢詩にも精通している張さんの解釈では、
末蘆国から「水行するならば十日、陸行するならば一月」
どろぼう偽書に心酔していた古田は
郡から水行十日の後半島内陸行一月だな
0490日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 11:25:06.94
>>409
これ誰が書いたもの?
0491日本@名無史さん
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2018/10/23(火) 11:26:17.68
>>489
>専門は中国医学で漢詩にも精通している張さんの解釈では、

専門は中国医学で漢詩は趣味程度じゃないかw
0492日本@名無史さん
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2018/10/23(火) 11:28:06.98
>>489
なんで起点が末廬國なんだ?
中途半端な場所だなw
0493日本@名無史さん
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2018/10/23(火) 11:31:47.12
伊都国から、
奴国の場合は、「東南至」奴国だし、投馬国も南至、邪馬台国も南至だ。
が、不彌国の場合は「東行至」不彌国だから、明らかに扱いが違う。
もし張の理屈なら、東至不彌国でなくてはつじつまが合わぬ。
古田もないが、張もない。
0494日本@名無史さん
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2018/10/23(火) 11:34:06.07
漢詩の解釈は、王翰の「涼州詩」のように解釈は専門家でも分かれるから
陳寿の三国志のような非常に簡潔な文章は
まあ張さんのような解釈もあるかもということで、
どろぼうのほうはいらないだろう
0495日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 11:48:06.48
張さんの解釈でおかしいと思うのは、
末盧國から、東南に百里で二万戸の大国の奴國で
末盧國から、東南に五百里で伊都國なら
伊都國に行くのに奴國に先に着くことになるから
小島さんの解釈だと行程としてわかりにくい
0496日本@名無史さん
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2018/10/23(火) 12:00:04.62
>>488
>>487
>古田武彦氏とどっちが信用できるの?

同じことを言っているんじゃないか?
0497日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 12:05:19.36
水行十日、陸行一月
これを水行ならば十日、陸行ならば一月というのはありえない
この時代港や道が整備されているわけがないから、
水行したり、陸行したりして目的地まで行くというのが基本
投馬国まではたまたま水路だけでいけるということ
0498日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 12:06:19.21
どろぼうは伊都國を通って不彌國の後振り出しに戻るから違う
0499日本@名無史さん
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2018/10/23(火) 12:08:40.24
「到」は倭国の狗邪韓国に到着する、目的地の伊都国に到着するという意味
中間経路は「至」で現している
0501日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 12:15:13.79
「到」で最終目的地の伊都国に着いているから、
使者はそこから先へは行っていない。
奴国、末盧国、投馬国、邪馬壹国への起点は伊都国
邪馬壹国は邪馬台国ではない
邪馬台国は倭国連合の名称
邪馬壹国は倭国連合を構成する一国家
0502日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 12:16:52.29
>>497
ありえなくはないだろう。
陸上を進みながら舟に乗り換えたりしたとしても、それをトータルして陸が1月、水上が10日なんて書くかな?
外航船で来ているのだから、船で海から回れば10日で行けたのではないか?
船を捨てて行くわけにはいかないんだし。
陸上隊と船を回航する隊に別れればあり得ると思うけどね。
0503日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 12:19:39.22
倭国連合の国が列挙しているところで奴国が2回でているが、
これは伊都国より南にある国を列挙しているから
既出の奴国も南にあるから記載されている
0504日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 12:20:30.41
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0505日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 12:23:09.39
南にあるはずの投馬国が記載されていない
これは九州ではないということ
水行20日だから奄美王島か四国
こう考えれば水行だけしか記載されていないということも理解できる
0506日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 12:26:24.62
>>495
全くそのとおりだ。
目的地の到伊都国500里を先に書いて、同じ道の途中にある(はず)の至奴国100里を後から上書きするのはいささか不合理。
0507日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 12:31:47.20
卓球名人張さんの末盧國は佐世保だから
阿久根までの水行十日は長崎と天草灘の沿岸水行じゃないか
0508日本@名無史さん
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2018/10/23(火) 12:40:29.62
>>502
実際末盧国で船を乗り捨てているんだから
それに対馬海峡は慣れていないとかなり危険な航海だと思うよ
そこを最初から最後まで船というのは当時考えられないと個人的には思う
0509日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 12:44:35.60
呉の横らへんにあるようにもってきたいから追加しただけじゃないの?会稽の東とセットで
0510日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 12:47:32.15
>>507
その水行は良いとしよう。
しかし、そうすると陸行一月は、嬉野塩田の伊都国を経由して、佐賀、筑後、山鹿、菊池、熊本、宇土、宇城、八代・・・、を経由して阿久根に至ることになる。
故に、終点だったはずの到伊都国(嬉野・塩田)経由して、更に進むことになるんだが・・・、どうするよ。
0511日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 12:57:53.08
>>510

張さんはどろぼうではないので伊都国を終点とはしてない
到があるから先に進まないのではなくて
次の奴国百里が末盧國(佐世保)からの距離
陸行一月も末盧國(佐世保)からの日数だな

一応言っとくが俺は占い師張さんの説は採ってない
0512日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 13:13:02.10
>>502
>陸上隊と船を回航する隊に別れればあり得ると思うけどね。

一緒に海を渡ってきたのに=みんな船に乗れるのに、
別行動に分かれる必要はないよね?

船を回航するとか書いてるけど、>>502の言い分でも水行・船の方が早いんだから
わざわざ陸上隊を分ける必要なないだろ?
荷物も船の方が楽に運べるし

つまり、「別れればあり得ると思う」には妥当性がない
0513日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 13:20:30.04
大陸の正史を全文検索しても、地理・旅程記事でガンジス川とソンホン川のような
大陸河川以外に川の移動に「水行」という言葉が使われている部分はない

地理・旅程記事での「水行何里(日)」という書き方は「陸行何里(日)」とセットで、初めて三国志から正史に使われるようになっている
川での移動は、川を遡るときは「泝流」下るときは「順流」が主に用いられ、具体的な川を出すときは「泝漢水」のように用いる
0514日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 13:21:14.54
>>510
狗邪韓国のときと同じでは?
帯方郡→末盧国
狗邪韓国→伊都国
とすれば、同じじゃないかな。
旅程は伊都国を経由したしても行程の記述は末盧国でいいように思う。
0515日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 13:30:01.71
西側の諸国は
史記「大夏去漢 萬二千里」
北史「蒲山國,故皮山國也。居皮城,在于闐南,去代一萬二千里」
  「悉居半國,故西夜國也,一名子合。其王號子。治呼犍。 在于闐西,去代萬二千九百七十里。」
  「權於摩國,故烏秅國也。其王居烏秅城。在悉居半西南,去代一萬二千九百七十里。」
  「渠莎國,居故莎車城,在子合西北,去代一萬二千九百八十里。」
こんな感じで、12000里+αくらいになってる

魏志東夷伝の最後の評に「評して曰く、史・漢(史記と漢書)は朝鮮・兩越を著し、
東京(=洛陽。後漢のこと。東観漢記をさすか?)は西羌を撰録す。魏の世、匈奴遂に衰え、
更に烏丸・鮮卑有り。ここに東夷に及び、使譯時に通じ、隨事記述す。
豈常なるや(常であろうか、いやそうではあるまい)。」とあるし、先の史書に朝鮮・兩越、
西羌を書いてあるから、魏志では東夷伝を書いた的なことが書いてある

で、西域が萬二千里の彼方とされているから、女王国まで萬二千里というのはそれに合わせた数字
0516日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 13:33:51.91
水行と陸行について
「漢書 後漢書 三国志 宋書 南斉書 梁書 魏書 北斉書 隋書 南史 北史 旧唐書 新唐書」の範囲の「陸行」の全文検索結果について、書いておく
この範囲に「陸行」は全部で15件

漢書 3件
「陸行載車,水行乘舟,泥行乘毳,山行則梮」 
禹の治水のエピソード
「轉粟西鄉,陸行不絕,水行滿河,不如海陵之倉」
陸を行くものは絶えず、水をいく者は河に満ち  人が非常に多い様子の表現
「孟賁,古之勇士也,水行不避蛟龍,陸行不避犲狼」
孟賁が、水を行くときは蛟龍を避けず、陸を行くときは犲狼を避けず 孟賁が勇猛な様の表現

後漢書 1件
「孟賁水行不避鮫龍,陸行不避虎狼」
注釈上の漢書の引用(上記)のみ

三国志 2件
「東南陸行 五百里,到伊都國」
「南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月」
上記2件はおなじみの倭人伝部分
0517日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 13:34:14.42
宋書 1件
「以表歸コ之誠,或泛海三年,陸行千日」
皇帝の徳に帰するを表するを以って(皇帝の徳が遠くまで届きそこから朝貢するのに)
あるいは海を三年かけ、陸行1000日の距離を超えて(朝貢に訪れる) (泛は浮かべる)

梁書 3件
「以表慕義之誠。或泛海三年,陸行千日」
上記宋書のコピペ
「又東南陸行五百里,至伊都國」
「又南水行十日,陸行一月日,至邪馬臺國,即倭王所居」
魏志倭人伝のコピペ2件 
陸行が「一月日」になっていて九州派の陸行「一日」の間違いという説の心の拠り所
0518日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 13:35:40.83
北史 3件
「初發其國,乘船溯難河西上,至太沵河,沈船於水。南出陸行,度洛孤水,從契丹西界達和龍」
勿吉国のことで、難河は今の嫩江(アムール川の支流、もちろん大河)、太沵河は今の洮児河で嫩江の支流、洛孤水は西遼河で渤海に至る遼河の支流(これも大河だね)、和龍は今の遼寧省朝陽市
川を遡る旅程だが、水行とは書いていない
また川の遡上は困難で、船が沈んでしまい、南に出て陸行し、洛孤水を渡る
川の遡上と陸行は並列はなっていない
「又東南陸行五百里,到伊都國」
「又南水行十日, 陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都」
魏志倭人伝のコピペ2件
0519日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 13:36:47.98
旧唐書 1件
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C南去太和城十餘里,東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
ここでは、「水陸行を通し」で水行と陸行とを一緒にしている
陽苴棟驍ヘ現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、東に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で
安南(ハノイ)に至る 実際には東南

水行と陸行が混じる経路はこのような書き方になる
陸行だったら何日、水行だったら何日という書き方はない
0520日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 13:37:47.40
新唐書 4件
「千里至鴨淥江唐恩浦口。乃東南陸行,七百里至新羅王城」
唐恩浦口は仁川付近、そこから東南陸行700里で新羅王城
「又泝流五百里,至丸都縣城,故高麗王都。又東北泝流二百里,至神州。又陸行四百里,至顯州,天寶中王所都」
丸都縣城:吉林省通化市集安市丸都山にあった高麗王都の故地
神州:吉林省臨江市西南葫芦套村の対岸(北朝鮮側)
どちらも、中国、北朝鮮国境の鴨緑江沿い
顯州:吉林省延辺朝鮮族自治州和龍
天寶中王所都は、天宝年間仁王が都を置いたの意味
0521日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 13:38:40.07
「又西一日行,至烏剌國,乃大食國之弗利剌河,南入于海。小舟泝流,二日至末羅國,大食重鎮也。又西北陸行千里,至茂門王所都縛達城」
烏剌國:クウェート、大食國:イスラム帝国、弗利剌河:ユーフラテス川、末羅國:バスラ、縛達城:バクダッド
クウェートまで海、そこからユーフラテス川を小舟で遡り(泝流)、二日でバスラに着き、陸行1000里でバクダッドに着く
「江淮水陸轉運使杜佑以秦、漢運路出浚儀十里入琵琶溝,絕蔡河,至陳州而合,自隋鑿汴河,官漕不通,若導流培岸,功用甚寡;
疏雞鳴岡首尾,可以通舟,陸行纔四十里,則江、湖、黔中、嶺南、蜀、漢之粟可方舟而下,繇白沙趣東關,歷潁、蔡,涉汴抵東都,無濁河泝淮之阻,減故道二千餘里」
これは、唐代の漕運(主に食料などの水運)の話
杜佑が江淮水陸轉運使となり、漕運路を浚渫などでほぼ全体が舟で通れるようになったので、陸行はわずかに(纔)40里で、故道を二千餘里減らした、という話
0522日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 13:39:05.98
こうして見て来ると、水行何日とか、陸行何里とかいう、地理・旅程記事での「水行」「陸行」の使い方は、三国志(魏志倭人伝を含む)がおそらく最初であることが分かる
それ以前の漢書・後漢書には、禹や孟賁の活躍を記したり、人が大勢いる様子を表現する部分でしか、陸行の語は使われていない
0523日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 13:39:29.32
そして、そうした陸行は常に水行と対の言葉として使われている
これまで「地理・旅程記事の水行」という言い方をしてきたのは、この陸行と対となる言葉としての水行を考えるべきだということ

三国志以降の「陸行」は「陸行何里」あるいは「陸行何日」の形のみが見られる
魏志倭人伝以降の「水行」もこうした「陸行」と同じ使い方の部分について考えないと意味がない
0524日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 13:39:50.66
また、地理・旅程記事で陸行と合わせて「川」を移動している部分では、ほぼ水行の語は見られず「泝流(流れを遡る)」の語が多く使われていることも分かる
旧唐書で1例、通水陸行と、水行と陸行を合わせた表現があるが、これは例のソンホン川流域を通ってハノイ(安南)に至る経路で、川沿いの陸行だったり川を行ったりしたのだろう
0525日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 13:40:32.00
史記の「陸行」は5件だけど
陸行乘車,水行乘船,泥行乘橇 が3件で
水行不避蛟龍,陸行不避豺狼  が2件

地理・旅程記事の水行、陸行はない
0526日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 13:46:54.64
陸行一月間の国名がないから、沿岸水行で行ったけど
倭人から聞いた陸行なら一月の情報も旁國名と一緒に書いたとも考えられるな
0527日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 13:47:02.19
>>514
えーと、これでいいのかな
>帯方郡→末盧国
>狗邪韓国→伊都国
0528日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 13:50:33.11
>>514
それでいいのなら
伊都国→投馬国、伊都国→邪馬台国、でもいいんじゃないの
0529日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 13:58:14.08
佐世保・末盧国を起点に、行ったり帰ったり、行ったり帰ったり・・・、
さすが、ピンポンの名選手也。
0530日本@名無史さん
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2018/10/23(火) 14:20:13.87
>>528
狗邪韓国へは「到」ったので次への起点にせず、
前の起点の帯方郡から七千余里〜

伊都国へも「到」したのでそこからは先に進まず、
前の起点の末盧国から、東南百里に奴国〜

という意味だったんだが。
0531日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 14:25:29.85
>>530
>狗邪韓国へは「到」ったので次への起点にせず、
>前の起点の帯方郡から七千余里〜

?????????
始度一海、千餘里至對馬國の「千餘里」の起点はどこなの?
帯方郡なの?
0532日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 14:54:08.00
>>474
それでFAみたいですね
ざっとしか三国志の用例をみてないですが、それで合致してそうです

つまり、使者は伊都国までは確実に来ていますね

伊都から後の記述は文献的には行程ではなく、地図的の説明もありえるといった所でしょう
実際に行ってない事もありえますね
0533日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 14:54:32.89
>>531
454 名前:日本@名無史さん :2018/10/23(火) 00:31:57.53
>>453
七千餘里 始度 一海 千餘里 至 對海【馬】國 其 大官 曰 卑狗 副曰 卑奴母離 所居 絶島 方可 四百餘里 土地 山險 多深林 道路 如 禽鹿徑 有 千餘戸 無 良田 食 海物 自活 乗船 南北 市糴
だから帯方郡から七千余里進んだところが起点と書いてある。
0534日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 15:01:39.82
ま、その都度あと帰りして、
都合の良いところを起点にして前に進むってことのようだな。超わがまますごろく、、、、、、
0536日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 15:02:04.24
特殊な人は自演するw
0537日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 15:34:26.59
>>532
わざわざ到を使った狗邪韓国と伊都国は魏志倭人伝では特別な場所だっんですね。
0538日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 15:37:11.75
ピンポーン
0539日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 17:12:11.42
魏志倭人伝を読む前提が間違っている人が多いよね
この文章は書下ろしではなく、いくつかの文献を参考にまとめたもの
そう思って読むと違う解釈ができると思うよ
0540日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 17:16:31.48
熊本県といえば、菊池市の祖の菊池氏と倭人伝の狗古智卑呼を結び付けて、狗奴国を連想する人が多い。
しかし、その元々を探ると、七世紀に築かれた鞠智城(くくち城)に由来している。

七世紀の鞠智城(きくちじょう、くくちのき)
>鞠智城は、山鹿市と菊池市にまたがる臺台地の更に上の方、標高約90〜170メートルの米原台地に築かれた朝鮮式山城である。
>続日本紀には、文武天皇2年(698)、「大宰府をして大野、基肄、鞠智の三城を繕治せしむ」と、記載されている。
>初築年は不明。しかし発掘調査で、7世紀後半〜10世紀中頃まで、約300年間存続したことが判明している。

>このことから、白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に大敗し、追撃を恐れた大和朝廷が、
>倭地(日本)防衛のために急造した筑紫の水城・大野城・基肄城と、ほぼ同時に築かれたと考えられている。
>また、八角形建物跡や銅造菩薩立像の出土などから、築城には百済系の亡命者が関与したことが窺える。
0541日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 17:35:06.10
>>539
南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸 
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 
官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸

ここの文とか後から挿入したものだよね。
0542日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 17:54:36.66
南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸

あとから挿入したのは、↑この部分ではないかな。
(これがなければ、迷うお人は少ないと思う)
0543日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 18:04:18.55
元は倭人伝がなかったりして
0544日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 18:15:58.29
>>541>>542
挿入されたのは
倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。
「舊百餘國、漢時有朝見者。(中略)居處宮室・樓觀・城柵嚴設、常有人持兵守衞。
女王國東」渡海千餘里、復有國。皆倭種。
のカギカッコ部分だよ

魏略だと
倭在帯方東南大海中 依山島爲國「 」度海千里復有國 皆倭種
が直結されてる
0545日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 18:17:54.25
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0547日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 19:32:37.45
>>540
狗奴国は境界のつきる所だから串間市の山間部から大隈半島の方だと思うよ
0548日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 20:00:24.34
七世紀の鞠智城(きくちじょう、くくちのき)をククチ城と読んで、三世紀倭人伝の狗古智卑狗と結びつける説は少なくない。

>私も、このククチが「茂賀の浦」と呼ばれた古代湖の水が引いて菊池盆地に広大な湿地帯かできていた(弥生の)頃に名付けられたと考えている。
つまり菊池は、湿地帯を意味する「久々知(ククチ)」が語源である。
0549日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 20:15:27.39
単に7世紀より前の記録がないという、いつものパターン。
菊池城の遺構は、明らかに7世紀よりは前だよ。
0550日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 20:30:32.13
>>549
>菊池城の遺構は、明らかに7世紀よりは前だよ。

で、それはいつ頃なのかな?
編年の推定に役立つ土器やなんかは出てるの?
0551日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 20:34:26.66
>>548
邪馬台国の時代からそこにいたとは限らないよな最終定住圏がその辺りって事じゃない
蝦夷も北に追いやられた訳だし
0552日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 20:56:53.70
しかし、七世紀の鞠智城(≒ククチ城)は、古代湖周辺にあったククチ湿地からは北東に数q離れた山の中腹の
水利不便な標高140メートルほどのところに建てられた朝鮮式山城である。
依ってククチ城の名を、古代のククチ湿地に由来するものというのは、いささか無理がある。

このような次第で、三世紀倭人伝の狗古智卑狗につながりそうな名を探せば、以下の神の名が候補に挙がる。
>イザナギとイザナミは、次に海を生み、その次に山を生みました。
>また次に、木の神となる句句廼馳(ククノチ)を生みました。
>次に草の神となる草野姫(カヤノヒメ)を生みました。

ここでククノチとは、クク=木々、チ=神、であるので、「ククのチ=木々の神」という意味である。
一方、新羅渡来のククチ一族(久々知氏族)は、築城木工の専門集団であったことが知られている。
これらのことから、三世紀の新羅人狗古智卑狗の末裔の久々知氏族の築城木工集団が、
七世紀の鞠智城(≒ククチ城)を短期間で仕上げたのでこの名がついた・・・、とでも考えるのが順当ではないか。
0553日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 21:02:18.78
>>552
邪馬台国の北になってしまう
0554日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 21:05:38.25
>>551
その通りだ。
久々知一族は新羅人であったので、狗古智卑狗も新羅からの渡来人であった可能性が高い。
そうすると、七世紀には菊池で築城の仕事についていたとしても、三世紀の邪馬台国との抗争時にどこにいたかは定かでない。
0555日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 21:16:27.08
狗古智卑狗の久々知一族が、熊本平野の先住民であったとしても、
二〜三世紀に、最新式の武器・農具を携えてあとからやってきた邪馬台国一族に追われて、
南へ逃亡したのかもしれない。
倭人伝の、卑弥呼 与 卑弥弓呼、素より不和、とは、このことだったのではないか。
0556日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 21:48:35.26
串間市辺りの山間部にクコチって言う地名は無いのか?どっか見たような気がしたが
0557日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 21:52:24.35
>>554
渡来人なの?
その頃は多民族が押し寄せてた時代だから
異民族と言う感覚は無いのでは?
0558日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 22:18:59.00
>>551
はいはいおまえはエベンキだから関係なし
0559日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 22:23:27.66
>>558
>>551
>はいはいおまえはエベンキだから関係なし
間違ったわ

>>554 ね エベンキわ

菊池は縄文だ ヴォケ
0560日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 22:27:49.41
それよりも『河童の三平』(不明)だよ、

あの写真・・・『松傾』?
こういう名前の家の写真なんだけど

どういう事なんだろう、
何か知っている人はいないのかな

知っているのは老婆だけなのかな
0561日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 22:35:51.74
河童の三平の作者も生まれていない頃の写真だしな・・・、
どういう事なんだろう


家以外・・・ほとんど創価(一説によるとストーカーのような事をすると書いてあったり)?
というわけでも、なさそうだし
0562日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 22:58:46.13
これは老婆の話

後に創価に入ったとしても、
あの写真(家の写真w)は老婆が生まれるよりも、前のものだと言っているし?

誰も、知らないはず

有名人だとしか言えない?
0563日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 23:00:47.19
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0564日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 23:40:09.54
>>544
別文献参照はあるだろうね

後、蛭田さんだったか、倭人伝の錯簡説
もしかしたら、それもありうるか〜と思った
0565日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 11:47:00.48
出雲に何があるんだ?
0566日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 12:21:02.88
空白の四世紀に
騎馬民族がきた
0568日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 12:37:14.44
狗奴国は呉と通じてたから
生き延びる事が出来たんだな
0569日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 12:38:30.74
出雲が古代から東西のハブだったんだな。
記紀はやはり正しかったんだよ。
そして、弥生中期に出雲の国譲りがあり、筑紫が倭国の新たな盟主になったのだろう。
0571日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 12:52:30.20
出雲の大己貴神は国譲りのときに
「天孫若し此の矛を用て國治さば、必ずまさに平けく安からん」
と言って廣矛を二神に授けた

大国主が廣矛で治めていた国々を譲った
0572日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 15:48:07.74
邪馬台国・筑後山門説
>邪馬台国の場所を巡っては、江戸時代以来、畿内説、九州筑紫説、九州山門説など多数が今日まで論議されている。

>このうち畿内説は、北九州からの航海を東へとしている。しかし命をかけて航海の舵をとる海人が方向を間違えるはずはない。
>魏志倭人伝に記載された距離の12000里(1里≒90mと推測)をあてはめると大和までは届かない。
>また大和説の邪馬台国では、以北に役人を置いた海に近い伊都国らしきものは存在しないど、地理に関しても無理がある。

>しかし九州の筑後山門説(福岡県みやま市瀬高町)であれば、魏志倭人伝に書かれた方位と地名がよく当てはまる。
>また古代からの地名である山門も筑後山門説の大きな根拠として注目され、
>山門郷東部の女山(ぞやま)には、古代朝鮮式山城の「女山神籠石こうごいし」があって、
>この一帯が、卑弥呼に関連した古代遺跡と推定される。.
0573日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 16:26:17.16
>>571
幅が広い矛は実用武器ではないとか言っている馬鹿がいるんだが、どう思う?
0574日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 16:38:30.77
>>573
>幅が広い矛は実用武器ではないとか言っている馬鹿がいるんだが、どう思う?

実用武器じゃないよ
柄をつけて使った形跡はない

>とか言っている馬鹿がいるんだが、どう思う?

事実を言っている人をバカと呼ぶ人がいるんだなぁ、と思ってるよww
0575日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 16:56:16.32
北部九州では細形から中細形までは銅剣、銅矛が多く副葬されるが
出雲で中細形銅剣、中広形銅矛が大量埋納されてからは
九州では中広形以降広形まで銅剣銅矛は一切副葬されなくなり、
銅矛だけ埋納されるようになる(対馬は広形銅矛を副葬する)
0576日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 17:01:14.53
柄をつけたかどうかなんて、正確にはわからないだろ。
もしくは、たまたま未使用のストックの状態で見つかったのをそう思い込んだのかも知れない。
祭祀で使う時だって柄に挿して使うからね。
矛が武器ではないなんて、どこかの耄碌ジジイの思い込みをいまだに信じているのはやはり馬鹿。
そもそも武器として中国から伝わり、記紀でも武器としての役割が与えられている。
日本においてはその後に槍や薙刀の原型となったとされる。
「武器ではない」なんて、過去二千年の歴史のうちでこの十数年だけの馬鹿げた非現実的な妄想だよ。
0577日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 17:04:00.67
出雲の大量埋納は、武器の貯蔵と言うよりは、出雲の国譲りによる武装解除の跡なのかねえ。
0578日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 17:10:40.85
広形銅矛は刃も研がれていない
0579日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 17:12:05.78
荒神谷で発見された全ての銅矛の袋部には鋳型の土が残されたままである
0580日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 17:15:36.67
やはり使用前に武装解除したんだな。
祭祀用ですらない。
0581日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 17:16:04.38
考古学者の森浩一氏も、つぎのようにのべている。

「ぽくなんかは、長いあいだ、昭和三十年代、四十年代、『古事記』や『日本書紀』の神話の 部分がまったくの事実ではないとか、弥生時代のものが伝承として後世に伝わるはずかない とか、そういうことは考えることもいけないと思っていた。
しかし、最近、よく考えてみると、三世紀の倭人伝で使っている『対馬』というような字なんて、いまでもそのまま使っているわけでしょう。」

(森浩一・石野博信共著『銅鐸』学生社、1994年刊)
0582日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 17:18:42.70
埋納が丁寧だから祭祀だな
0583日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 17:21:29.22
祭祀用なら、枝につけて、儀仗兵を並べて立たせただろう。
鋳型ごとということであれば、完成前になんらかの理由で放棄したとしか考えられない。
武装解除ならその状況を説明できるし、記紀にはそれに相当する出雲の国譲りが記載されている。
そして、筑紫には三種の神器の文化を持つ(矛を重視しない)天孫族の王権が誕生したことになっている。
0584日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 17:24:19.63
筑紫では出雲の大量埋納後さらに広い銅矛を作って埋納している
0585日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 17:29:32.92
埋納と、副葬を区別しているのでしょう。
0586日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 17:32:10.83
中国では、高位の者が剣を、一般兵が矛を用いる。
イザナギが矛を使っていたことがむしろ驚きでね。
途中で気がついて剣になったのだろう。
スサノオは明確に剣を意識していたね。
0587日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 17:46:03.44
イザナギの天沼矛は北部九州の朝鮮ポコじゃないよ
0588日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 18:55:43.63
>>577
>出雲の大量埋納は、武器の貯蔵と言うよりは、出雲の国譲りによる武装解除の跡なのかねえ。

武装解除よりも、祭祀の統一(上位者の誕生)により、祭器が召し上げられたとする説の方が説得力があるように思う
0589日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 18:57:25.51
>>576
>矛が武器ではないなんて、どこかの耄碌ジジイの思い込みをいまだに信じているのはやはり馬鹿。

一人だけ言ってることが違うことにいつ気がつくんだろう?
0590日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 20:02:32.78
>>588
祭器なら、そんなに数をそろえる必要はないはず。
まあ、どちらにしても天津神が出雲に放棄させたという筋書きで通るわけだが。
0591日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 20:08:00.32
邪馬台国・筑後山門説 (某氏のブログより・抄)
>邪馬台国の場所を巡っては、江戸時代以来、畿内説、九州筑紫説、九州山門説など多数が今日まで論議されている。
>このうち畿内説は、、、、方向に関しても、、、、距離の12000里に関しても、、、、地理に関しても無理がある。

>しかし九州の筑後山門説(福岡県みやま市瀬高町)であれば、魏志倭人伝に書かれた方位と地名がよく当てはまる。
>また古代からの地名である「筑後山門」も山門説の大きな根拠として注目されており、
>山門郷の東部の女山(ぞやま)には、古代朝鮮式山城の「女山神籠石こうごいし」があって、
>この一帯が、卑弥呼に関連した古代の遺跡と推定されている。
0592日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 20:23:48.75
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0593日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 20:24:30.04
>>590
>祭器なら、そんなに数をそろえる必要はないはず。

これ、各集落レベルで1本ずつ持っていたのを、召し上げて集めて埋めたって考えてる人がいるよ
出土した本数と、記録に残る郷の数(だったかな?)がだいたい一致するから、だそうだ
0594日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 20:27:22.49
放棄するのに整然と刃を立てた状態で埋納して
覆屋のようなものまで建てる必要はない
0595日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 20:36:47.53
邪馬台国の文化圏(某氏のブログより・抄)
>さて邪馬台国の範囲であるが、邪馬台国は福岡県みやま市の筑後山門郡から熊本県菊池市の山門郷あたりにかけてあったと確信する。
>筑後山門のみならず、その南東約30qの菊池山門にかけての遺跡や古墳、甕棺の出土状況を比較検討すると、
>両山門は同じ文化圏であったことが解る。

>倭人伝には「その南に狗奴国あり。男子を王と為す、、、不属女王」とあって、
>邪馬台国に敵対する国として狗奴国の名を挙げているが、菊池市山門郷あたりが狗奴国を見張る防衛最前線地域であったとみる。
>狗奴国は、阿蘇から球磨川に権力を持った熊襲(隼人)だったのであろう。

>なお、この防衛最前線地域の菊池市山門郷が邪馬台国であったと推測されている例もあるが
>私は、前述の文化の共通性から、両山門は同一国内であったとみなしている。
>また、邪馬台国は「七万余戸ばかり」とある。
>筑後山門の海の幸と菊池山門の山の幸、それに大陸伝来の五穀が、邪馬台国の人々の食料をまかなっていたのである。.
0596日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 20:53:16.61
筑後の山門郡は、女山で有名ですので、以前から知っていました。
今回、>>595のブログを読んで、菊池市にも山門郷と呼ばれた邑があったと知り、驚きました。
かの臺城と菊池市役所の中間の一帯で、標高45-55メートルといったところですので、弥生早期から陸地化がすすんでいた場所でしょう。
ですから筑後のみやま市山門は、正しく邪馬台国の入り口(門)だったのではないでしょうか。
0597日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 21:11:28.98
>>594
放棄するにも、儀式は必要だったのだろう。
「大国主武装解除式典」みたいな。
0598日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 21:12:41.32
>>596
邪馬台国の卑弥呼と狗奴国の卑弥弓呼はもともと同族で、家督争いをしていたのだろうね。
0599日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 21:18:37.95
>>598
>卑弥呼と卑弥弓呼
陳寿のことだから、この書き方は、そのような可能性を暗示しているのではないかなあ
0600日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 21:29:35.77
>>593
鋳型の土が残っていたなら、配布したものを集めたという可能性はない。
未完成品を配ることはないからだ。
柄をつけて完成品なのだから、柄をつけた跡がないなら配る前の未完成品だ。
0601日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 21:34:54.98
祭祀って簡単に片付けるのもどうかな。
もう意味不明の代名詞みたいになってる。

意味不明な出土物=祭祀
0603日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 21:39:53.67
全くだw
0604日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 21:44:14.28
出雲が武装解除したなら、それに関わった人物の名前もわかっているわけだよ。
もう名無しの勢力と名無しの人物の影と名無しの墓ばかりの古代史はやめたらどうだ?
0605日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 22:10:45.93
>>602

それは戦国時代の長槍だろ
0606日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 22:15:45.70
>>605
矛が進化したものだと言われているよ。
0607日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 22:20:04.23
槍なんか石器時代から使ってる
0608日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 22:26:33.24
矛 Wikiより引用

矛は金属器の伝来と共に中国から伝わってきたと考えられている。
材質は青銅製の銅矛で後に鉄で生産されるようになると、銅矛は大型化し祭器として用いられるようになった。
日本の訓読みで「矛」や「鉾」、「桙」だけでなく戈、鋒、戟いずれも「ほこ」の読みがあることから、この時代の「ほこ」は長柄武器の総称であった可能性がある。

鎌倉時代では従来の矛や手鉾(てぼこ)が用いられていたものの、戦闘は馬上合戦の一騎討ちが主で、刀の作成技術の発達と流行から、太刀、長巻、薙刀が主力であった。
しかし鎌倉時代後期の元寇において元軍が用いた集団戦への対応や、足軽の台頭により、日本でも戦闘形態が徒歩の集団戦へと変化した。
それに適した武器として長柄の刺突武器が見直された結果、槍の誕生へと繋がった。
0609日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 22:33:08.31
銅矛は大型化し祭器として用いられるようになった。
0610日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 22:35:56.09
大きいのはあくまでも武器。
祭祀用は小さくなった。

矛 Wikiより引用

祭礼に用いる祭具として祭矛がある。 なお、祭具用矛は「儀矛」とも呼ばれ、神宝、神宝、威儀物などとして使用される。
それらは手矛であり、鍔は円形で金、柄は黒漆、鍔下柄に鰭をつけるが、赤地錦で先を三山に切り、金色の巴紋または神紋を取り付けることになっている。
0612日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 22:43:45.33
その「先を三山に切り、金色の巴紋または神紋を取り付ける」って何時の祭矛なんだよ
0613日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 22:47:29.17
鐔がある時点で弥生のものとは明らかに別系統
古墳時代に新たに流入してきた鐔付鉄矛の系統だな
0614日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 22:53:10.92
縄文時代から云々とか言っていたのはどっちだよ。
0615日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 23:04:21.00
縄文時代から何が?
0616日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 23:14:05.11
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0617日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 23:15:40.18
>>601
考古学者はあふぉうだから
>意味不明な出土物=祭祀
にしたがるというのはよく耳にしてきたけどな

大量埋納というよりは大量隠蔽
親分の首を埋めて隠すのと同じたぐいの行為だろ
0618日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 23:19:57.85
北部九州ではあっちこっちに広形矛を隠したのか
0619日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 23:23:30.57
弥生時代の矛は祭祀用とは違うということでFA
0620日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 23:26:13.65
こんなところにも隠していました

刃部周縁は面取り研磨されてつぶれています。
佐賀平野西端での出土例であり、武器形祭器の波及など、
弥生時代の青銅器文化を考える上で貴重な資料です。

http://www.city.takeo.lg.jp/kyouiku/bunkazai/pages/bunkazai/bunkazai-304.htm
0621日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 23:29:04.10
卑弥呼の鬼道から弥生時代の倭は呪術のイメージが強すぎるが、記紀や、魏志倭人伝の卑弥呼の前後の流れを読むと、戦いが絶えない実戦的な社会だったんだろうな。
儀式のためだけに膨大な生産力を傾けるのは無駄だったろうし、記紀にも矛を使った祭祀のことなど読んだ記憶がない。
超大型内行花文鏡くらいが例外で、あれは儀式のためとしか言いようがない。
そしてそれは記紀にも登場している。
0622日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 23:29:38.26
後期の武器形青銅器の出土状況で
大量埋納の形態でで出てくる割合自体がかない高いし
範囲も広範囲だよ
0623日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 23:35:44.87
住居内にも隠しておりました

重留遺跡(北九州市小倉南区)

第一竪穴住居あとでは屋内の土坑から広形銅矛が出土し、
それが埋納施設であることが全国で初めて判明した。
これは広形銅矛を祭示巳に使用したことを示すものであり、
その使用方法を明らかにする貴重な例である。

http://www.city.kitakyushu.lg.jp/shimin/02100250.html
0624日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 23:36:44.50
埋めてあったらなんでも祭祀かよ。
0625日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 23:40:43.72
筑紫説は祭祀場をサイキバと読むくらいに
基本的に日本の祭祀には興味が無い、というか祭祀が嫌い
0626日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 23:42:00.29
重留の場合は1本出てきただけ
0627日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 23:47:17.35
重留遺跡は調査の結果、収納された穴は7回ほど繰り返し埋め戻されていることと、
穴の上には目印の白色粘土が貼られていたことが分かり、この建物は一般の住居でなく、
祭祀用の施設で司祭者を兼ねた地域の勢力者が住居とした可能性があることが窺えます。

どこに隠すか迷ったのかなw
0628日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 23:47:44.97
福岡県筑紫郡那珂川町安徳原田

広形銅矛12 口。地下2.5 尺に12 口まとめて、刃を互い違いにして横に並べてあった。
0629日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 23:48:38.33
広形銅矛のようなお遊びの要素の高い武器形青銅器は
実用武器の多くが鉄器化して切り替わって
武器用の青銅素材を他に流用できる余裕ができた段階でこそ
出現しうる
0630日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 23:50:32.19
福岡県春日市岡本辻

広形銅矛9 口。地表下5−6 寸に石1 個、その1 尺5−6 寸下に刃を打ち違えて密接したまま埋没していた。
0631日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/24(水) 23:51:20.40
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0632日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/25(木) 00:02:05.36
広形銅矛は製造数が限定されている
広形銅矛の製造地は博多圏に限定される
博多湾の海底がら引き上げられた物件があるが各地に運び出されたのだろう
おそらくは
「広形銅矛を配る」という政治的行為があったのだろ
であれば
広形銅矛は王権ツールとして理解され直されねばならないことにはなる
0633日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/25(木) 00:19:55.92
広形銅矛は弥生終末期に発展する博多湾沿岸は出ないからな
壱岐も出ない
0634日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/25(木) 00:31:51.20
>>632
>広形銅矛は王権ツールとして理解され直されねばならないことにはなる

興味深いです。

ところで、博多湾の海底のものは、能古島(おのころ島)における伊弉諾の国産みにまつわる神事によるものだという意見もあるようです。
いずれにしても、博多湾沿岸が倭国王権の発祥の地であり、倭の王都に所在地なことは確実と言えます。
もちろん、倭国女王卑弥呼の王都も博多湾沿岸に求めるしかありません。
0635日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/25(木) 00:38:00.00
壱岐とかを占領したインベーダーが博多湾沿岸をも占拠して
広形銅矛配給体制を崩壊させた
これが記紀での天孫降臨のモデルになったいわゆる倭國乱で
「長大」補正して精密化してあげるとAD210-AD225 のあたり
0636日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/25(木) 00:38:14.28
海にも隠したのかw
0637日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/25(木) 06:59:38.84
いやいや、既存の博多湾沿岸勢力にとってかわって成立したのが、伊都の「男王70-80年」とされた日向三代なんだ。
長大補正すると、卑弥呼と神武が同世代だからね。
倭国大乱で、天孫族は王座を追われて東征した。
0638日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/25(木) 07:01:43.89
おのころ島の「お」は接頭語「ろ」は接続詞。
能古島のこと。
イザナギが銅矛を使ってここを攻略して、最初の倭国王権が誕生した。
紀元前の吉武高木遺跡が三種の神器を副葬された最初の王墓となる。
0639日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/25(木) 07:46:39.85
既存の博多湾沿岸勢力というのが、イザナギとその子、孫である綿津見神、大山祇。
それに取って代わったのが伊都国の天孫族。
舞台は筑紫の日向(ひむか)、すなわち高祖山。
年代的には、倭奴国の金印をもらった時はすでに糸島側に天孫族の王権が立っていたので、倭奴国とは伊都国と同じ。
卑弥呼(ひむか)女王の時の表記が伊都国。
0640日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/25(木) 07:51:27.91
九州・山門郡スレがにぎわっているようだ。
ま、筑後山門は邪馬台国の門、いわば邪馬台の入り口の1丁目1番地ってことだ。
0641日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/25(木) 08:48:36.13
筑紫・福岡県から南へくだり、肥後・熊本県に入るところに筑肥山地がある。
古今の主たる交通は、此処を西へ迂回して有明海沿いの平地を下る。
その幅10qほどの平地が旧山門郡で、江戸時代には柳川藩であった。

現在では海側半分が柳川市、山側半分がみやま市になり、
この10qのあいだを、九州新幹線・高速道路・JR鹿児島本線・主要県道209号線がひしめき合って通っている。
北部九州(筑紫・肥前)から、中南部九州(肥後・薩摩)への玄関入り口で、邪馬台国への関門でもあった。
このことから筑後山門郡の名がついたのではないか。
0642日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/25(木) 08:55:22.43
>>641
大事な電車を忘れておった。
この10qの間に、もう1本、西鉄大牟田線(福岡ー大牟田)も通っている。
みやま市近郊の途中駅には、孫氏自慢のソフトバンクの2軍練習場もできたようだ。
0644日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/25(木) 15:05:59.42
>>638

能古島は刀伊の入寇や元寇のときに被害を受けてるから
お前のようなペクチョン部落民は同じことを妄想する
0645日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/25(木) 17:50:43.30
>>644
日本の建国神話を愚弄する気か?
0646日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/25(木) 18:04:06.46
>>645

日本の建国神話をパクってるのがペクチョン部落民のお前だ
0647日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/25(木) 19:11:54.49
筑紫・福岡県から南へくだるには筑肥山地を迂回して有明海沿いの平地を進む。。
その幅10qほどの平地が古代の山門郡であった、
これが江戸時代には柳川藩となり、現在では、その海側半分が柳川市、山側半分がみやま市になっている。

そしてこの10qのあいだを、
九州新幹線・高速道路・JR鹿児島本線・西鉄大牟田線・主要県道209号線がひしめき合って通っている。
新井白石ほか多くの歴史家が、邪馬台国をこの筑後山門郡に比定している。
0648日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/25(木) 19:31:54.14
明治に入って、東京帝国大学の白鳥庫吉教授も邪馬台国九州山門説を唱えた。
しかし白鳥教授が比定した山門は、
同じ山門でも、みやま市の山門から30qも南に下った熊本県の「菊池郡山門郷」であった。

この菊池郡山門郷とは、先に述べた古代湖を見下ろす七城町の臺城と、
現在の菊池市役所の間を流れる迫間川(はざまがわ)の流域一帯のことであり、
弥生時代の早期から陸地化が進んだ海抜50mほどの、住み心地の良い微高地である。
0649日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/25(木) 21:17:52.20
「和名類聚抄」の中に、肥後国菊池郡山門郷がある

肥後国菊池郡
 ・城野郷     木野(鹿本郡菊鹿町)  
 ・水島郷     旧砦村(七城町)    
 ・辛家郷     加恵(七城町)        
 ・夜開(關)郷   夜開(七城町)
 ・子養郷     五海(七城町・蚕飼)
○・山門郷     迫間川流域(はざま川)
 ・上甘郷     蟹穴(七城町)
 ・曰理郷     亘 (菊池市)
 ・柏原郷     旧河原村(菊池市)
0650日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/25(木) 21:49:47.56
>>649
海から遠いよ、1800年も前の事だから
同じ地名であるとは限らないし

意外と阿久根のようなノーマークな場所の方が
説得力がある。阿久根、川内、出水にはかなり大きい弥生遺跡があると昔から言われてるらしいが
人が住んでいるため調査自体されたことが無いみたい
0651日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/25(木) 23:03:09.07
全部狗奴国だろ。
0653日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/25(木) 23:23:04.79
>>652

北薩の遺跡

「出水地方の弥生時代遺跡は,出水市六月田や高尾野町柴引・下高尾野町一帯に濃密に分布しているが調査が行われたことがない」

弥生遺跡だよ
0654日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/25(木) 23:26:03.79
>>651
邪馬台国が北九州ならそうなるが
魏志倭人伝の記述と合わない
少なくとも魏志倭人伝に書かれてる邪馬台国
九州中南部かと
後に北上したかもしれないが
0655日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/25(木) 23:46:49.31
邪馬台国が九州中南部なら狗奴国は鹿児島オンリー

制圧に1年もかからんだろボケ
0656日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/25(木) 23:53:43.20
>>655
面積と制圧の容易さは違う...
0657日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/25(木) 23:59:46.58
狗奴国はやはり熊襲だろうか?
0659日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 07:51:16.64
>>655
狗奴国のバックに呉が付いてるし
最新式の武器を持ってた可能性がある
0660日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 08:21:08.61
狗奴国が熊本なら鉄器も稲作も豊富で、国力があった。
鹿児島では土地が悪く、厳しい。
0661日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 08:39:01.56
邪馬台国が熊本なら鉄器も稲作も豊富で、国力があった。
0662日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 08:41:42.29
邪馬台国が熊本
日向大隅がクナ国を支持します

古事記だったか風土記だったかで
日向大隅が熊襲国らしいので。

景行天皇が征伐したのが熊襲国
0663日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 08:55:55.23
狗奴国と熊本を結び付けて認識してる論者は少なくないようだ。、
しかし調べてみると、
11世紀に大宰府から下向して住み着いた藤原の孫が菊池氏を名乗り、築いた城の場所を隈府(わいふ)といった。
のちに現在の熊本市へ城を移転した時に、この隈府の隈をとって、隈元(くまもと)というようになり、
関ケ原のあと、手柄を立てた加藤清正が入城した際に、隈府ではいかにも弱弱しい、熊本にしよう・・、となった。
こういうことらしい。だから、熊と狗奴には何の関係もない。
0664日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 08:56:09.55
景行天皇が実際に戦ったのは豊前や筑豊。
あれは邪馬台国の内紛。
敵の中に、邪馬台国の官の耳垂とかいたからな。
0665日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 08:57:30.38
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0666日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 09:34:13.77
北九州固定説は
魏志倭人伝を無視と言う意味で畿内説論者とさほど変わらん

倭人伝と遺跡の分布を考えたら
南部から北上したとしか考えられない
0667日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 09:46:30.77
─後漢書──
「西暦57年、倭の極南海(最南端)の奴国(委奴国)の王に金印が授与された」とある。
これは間違いなく福岡県の志賀島で見つかった「漢委奴國王印」のこと。委奴国、或いは奴国は、福岡県にあったことと矛盾しない。
極南界とは、

最南端の境界のことであるから、従って「倭国の最南端は福岡だった」と書いてあるのが要点になるのです。

これで判断したらまるで朝鮮半島が倭国で
北九州が最南端
日本列島ほんの一部だけ倭国だった見たいな書き方だぞ、倭国ってまじで現在の大和民族とは関係ない別の国だったんじゃないのか?
0668日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 09:57:39.52
そうだなあ、倭国はせいぜい大宰府までな。
甘木・朝倉・久留米・八女・三養基から小城のライン以南は全部が非倭の国家群ww
0669日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 10:07:43.75
畿内説九州勢力どころか邪馬台国どころか

倭国は九州ごと外国だったw
0670日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 12:09:10.76
倭人が九州人
倭種が畿内人その他
倭人勢力が朝鮮半島南岸にまで及んでいた。

>>667
つまり大和民族=倭種
元祖大和民族=倭人、九州人だな。
0671@東京
垢版 |
2018/10/26(金) 12:25:43.68
>>664正解
邪馬台国は田川郡の山
現在より昔は海抜が高かった
現在の低湿地帯は全て海だったと思ってよい
田川郡の盆地か山あいが邪馬台国
邪馬台国は田川郡とみやま市と門司の大台ヶ原
この3つのどれか?

門司も捨てがたい
なにせ同じ地名が奈良にもある
福岡県の山や海を見渡せる絶景、海の先には彦島がある
田川の彦山とかぶる
0672日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 13:20:48.08
>>660
>狗奴国が熊本なら鉄器も稲作も豊富で、国力があった。

熊本の製鉄遺跡周辺は、早くから畿内様式土器が出るんだよな
その辺も畿内勢力のお仲間

奴国の中心の比恵那珂遺跡もそうだし、九州だけの倭国はやはり難しい
0673日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 13:25:04.58
>>667
>最南端の境界のことであるから、従って「倭国の最南端は福岡だった」と書いてあるのが要点になるのです。

魏志倭人伝は、北から南へと順に国を記していて、
邪馬台国の先の余傍国の最後にある「次有奴国」をAD57年朝貢の倭奴国と同一視したために
極南界とした、という説に一票
0674日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 14:25:22.79
>>667─後漢書──
>「西暦57年、倭の極南海(最南端)の奴国(委奴国)の王に金印が授与された」とある。

良く知られているように、
我が奴国は、倭地の南の果て(界=薩摩・大隅)まで極めている(支配している)、だけどねえ。
0675日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 15:27:05.60
金印はまだ真偽論争があるが、本物ならば、極南界のどこからか
江戸時代に盗んできた可能性もある
金印と同じく出土状況不明なものに南九州串間の玉璧がある
0677日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 16:15:10.07
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif

「出土物の空白地帯」がヤマト側(ヤマトにより収奪されたため出土物がない)
「出土物が豊富なところ」が土蜘蛛、熊襲、磐井側(7世紀まで半独立地域だったため出土物が豊富)


こういうことでしょ
0678日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 16:25:01.91
えびの市の島内地下式横穴墓群からもいっぱい出てるよ
情報が古い
0679日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 16:47:09.89
>>676
倭=倭地
倭地=九州島(筑紫島)
倭人=九州島(筑紫島)に住む人
倭国=九州島諸国のうち、女王に属する30国(又は倭の奴国王に属した旧100余国)
0680日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 16:47:31.97
【認めたら負け】 風疹、結核、梅毒、赤痢、PM2.5でもCO2でもない原発公害が発生、責任者は安倍首相
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1540520412/l50

国連が日本政府の福島帰還政策を非難! 安倍はまたニヤニヤで応戦か?
0681日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 17:09:29.45
卑弥呼は公孫氏なの?
0682日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 17:38:53.84
公孫氏といっても4代目までいた
で、公孫康の時代には、卑弥呼と良い関係だったのではないか
もしかして後ろ盾になってくれてたのかも
しかし、バカ殿だった4代目公孫淵のときは、最悪だったのだろうね
0684日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 18:49:37.99
極南界を「ごく南界」と読むのは、日本語特有の熟語読みだからな
「南の果てを極める」と、一字ずつ読むべし
0685日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 19:02:31.58
「南の果てを極める」と読んだ場合は
倭奴国の位置は書いてないことになり
南の果てもわからない
0686日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 19:03:05.05
方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき)
>熊本県山鹿市方保田にある(邪馬嘉国臺城の北西数qの位置)
>菊池川とその支流の方保田川にはさまれた台地上に広がる弥生時代後期から古墳時代前期に繁栄した環濠集落遺跡である。
>広さは35〜40haと広大で吉野ヶ里遺跡(およそ50ha)に匹敵する。
>住居跡80軒、埋葬施設21基のほか、幅8mの大溝や多数の溝が確認され、外敵から集落を守っていたことが分かっている。
>出土した鉄器は、破片も含めると170点を超え、
>全国で唯一といわれる石包丁形鉄器が発見されるとともに、鉄器を作った鍛冶場と思われる住居跡も発見されている。
>巴形銅器をはじめとする数多くの青銅器も発掘されており、この地の権力者を中心に形成された集落であると考えられる。
0687日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 19:17:45.91
西弥護免遺跡(西やごめんいせき)
(注:「免」は肥前松浦市や平戸市でも用いられている用語で、字、又は集落の意味)

>熊本県菊池郡大津町にある(邪馬嘉国臺城の南十数qの位置)。
>総数214軒にのぼる弥生終末期の住居跡で、198基の土壙墓群・住居跡群を囲む環濠の総延長1キロメートル以上の大遺跡である。
>総数581点の鉄器が出土している。このうち298点の鉄器片は173号住居跡に集中して出土した。

>鍛冶工房とみられるこの住居跡から出土した鉄器は、形のわかる鏃5点・やりがんな2点のほかは、
>すべて針状か幾何学形の細片であり、再加工のための鉄素材という性格をもっていたと思われる。
0689日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 19:41:39.07
倭国の最南端が福岡

つまり倭国の領域は朝鮮半島南部〜対馬〜本州日本海側〜福岡
0690日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 19:42:40.78
それ日本史じゃないな
0691日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 19:53:38.89
>>682
日本は、と言うか
九州はと言うか、旧日本は、大陸の動乱に巻き込まれて異邦人に利用されたのが始まりなのかよ、幕末の函館政府みたいな?
0692日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 20:00:51.40
倭国の中で最も発展していて、中国と直接交渉できたのが福岡(倭奴国)ということだろう。
その勢力範囲は対馬海峡を中心とし、西日本全域に影響力があった。
後の大和はその末裔の一部。
0693日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 20:07:47.61
>>685
倭奴国の位置は書いてないし、南の果てもわからない。
しかし、倭の奴国の使いが大見えを切ったから、くれてやったって意味さ。

>>688
ごく南界とよむからおかしくなる
「きょく南界」は正解、すなわち、誰が何といおうが、(間違いなく)南界を極めているのいみだね。
0694日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 20:08:33.21
>>691
そりゃしょうがない。
0695日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 20:11:08.60
倭国の南の果てだろ?
倭国とは対馬海峡周辺のこと。
朝鮮半島の民族とは分けてくれよ?
狗邪韓国は韓国とつくけど、韓伝ではなく倭人伝に書いてあるから、倭国の一部。
この倭国についての認識がベースで、卑弥呼の邪馬台国も理解しなくてはいけない。
0697日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 20:14:22.13
>>693

南界を極めていると読むのだから
倭奴国の北にも南にも国々があり
倭奴国がどこかわからないし
南の果てもわからない
0698日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 20:18:20.10
>>697
北には国があるが、南にはない。
そして倭奴国は福岡とほぼ確定している。
(個人的には糸島平野だが)
0699日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 20:19:35.52
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0700日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 20:23:27.84
>>698

極めた南界が福岡でその南に国はないのなら
朝鮮半島南部勢力が南下して福岡を征服したという主張であり
韓国起源説
0702日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 20:27:09.98
レベル高いスレだな
巻向スレと偉い違いだ
やれ畿内だ九州だと、
あいつらいつまでもいつまでも
0703日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 20:28:05.05
>>701

>>700と同じこと
0705日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 20:34:40.32
呉越が南半島と九州北部に流れ着いて
国を起こした、それが倭奴国?倭人って呉越人なのか?卑弥呼がなんで公孫氏なんだ?
0706日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 20:35:51.51
日本が倭地じゃなくて、半島南部勢力が南下して福岡だけ征服したなら
韓国起源説だろ
0707日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 20:37:13.34
>>700
そういう言い方を
すると史実が見えなくなる
0708日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 20:39:08.47
>>707

お前が妄想してるだけだから
0710日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 20:59:18.91
韓国起源説は、メソポタミア文明・インカ文明・西洋文明・生態系まで多岐にわたって
朝鮮半島に起源を求める言説群の俗称なんだよ
0712日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 21:06:23.91
韓国起源説の在日バージョンがお前の妄想
連呼の特徴は同じ
0713日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 21:09:29.00
公孫氏は韓国人なん?
0714日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 21:12:39.37
なんで、いやだーって言う感情が出てくるんだよ、仮にそうでも日本はいち早く近代化に成功して何も恥じる事はないだろ
0715日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 21:14:14.87
>倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑
>舊百餘國、、、今使譯所通三十國、、、

平均すれば、旧の3.3カ国が合併して、新の1国になったということだから、
七万戸の邪馬台国なら、旧の七カ国が市町村合併して新1カ国を作ったような大変動があったわけだ。
だから昨今の地方自治体のように、統治機能は旧を引き継いでけっこう分散しており、
例えば、熊本県菊池郡山門郷は某官の一族郎党の家屋敷が立ち並んでいた、というようなことだったのではないか。
0716日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 21:14:26.62
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0717日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 21:15:17.66
元々稲作は朝鮮起源と教わって
普通に受け入れてたが、近年日本起源みたいな説が広がってきてやっぱそうこなきゃって
思ってたら、卑弥呼が公孫氏って
0718日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 21:16:51.77
誰が4世紀に何があったか教えろ
0719日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 21:18:23.66
>>714

韓国起源じゃなきゃいやだーって言う感情がお前らだろ
0720日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 21:20:17.89
>>700
てめーの妄想ダロ
0721日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 21:21:07.64
>>705
呉の太伯の末裔だろ。
0722日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 21:24:18.58
>>720

ファビョるなチョン
0723日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 21:28:32.66
公孫氏と交流が深かったが、公孫氏そのものではない。
起源は大陸南部。
対馬海峡に住み着いたんだろう。
0724日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 21:30:37.24
妄想の連呼だけ
0725日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 21:51:17.36
>>719
>>714は日本人だと思うよ
0726日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 21:52:00.33
急にレベル低くなってきた
0727日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 21:52:57.95
呉の太伯の末裔は倭人の自称だぞ。
0728日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 21:57:14.79
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0729日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 21:59:52.78
畿内大和と邪馬台国は関連性あるの?
畿内に九州から人が渡った形跡も無いし
九州と畿内が戦争した形跡も無い
そして九州以外の本州全域からは人が集まってる

邪馬台国は3世紀に盛り上がって4世紀に勝手に滅んだんじゃないか?
0730日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 22:13:15.35
戦争した形跡が無いのはたまたまかもしれないよ
0731日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 22:16:43.32
畿内には九州から多量の物資が運ばれ、多くの人間がやって来た。
ただしど田舎の纒向は別。
纒向に来ていたのは尾張の人間だけ。
全国の人間が集まっていたのは福岡。
0732日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 22:19:39.77
>>730
>戦争した形跡が無いのはたまたまかもしれないよ

スーパー頭脳集団の「忌部はん」が最先端の文化を持って、開拓にきてくれたんだから、
有難がりこそすれ、戦争なんてするわけないでしょ。  @阿波
0733日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 22:22:16.74
>>731
>畿内には九州から多量の物資が運ばれ、多くの人間がやって来た。

ウソはイカン。
全国に出向いて行ったのは、「忌部はん」以外には居ない。  @阿波
0734日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 22:23:08.63
福岡で全国の土器は出ない
南九州のは僅かで、畿内の土器は模倣している
古墳時代から外港になる西新町は山陰系の土器とされている
0735日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 22:37:15.86
筑紫と畿内と出雲なら、当時の倭国の「全国」だよね。
0736日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 22:43:02.36
筑紫の土器は消失する
0737日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 22:48:47.14
>>727
中華思想がそう言ってんだよ
0738日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 22:51:02.91
新しい技術を取り入れるのは、悪いことではない。
むしろ筑紫が多くの人と物資と技術が集積する、賑やかな王都であったということだ。
0739日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 22:53:06.03
>>738

後進国として、新しい技術を取り入れるのは、決して悪いことではない。  @阿波
0740日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 22:54:48.82
そんな事よりも、
サザエさん(不明)の話なのかな?

なぜ写真を撮らせてくださいと
家に来たんだと思う?


母親だけが素足(裸足)に下駄・・・、
家は『松傾』こういう名前の家なんだけどw
0741日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 22:55:40.38
玄関口だから賑やかな雑居地帯だな
0742日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 22:58:48.93
だから博多から少し離れたところ、伊都に静かな新都として伊都を建設したんだろ。
0743日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 23:01:09.58
>>741
>玄関口だから賑やかな雑居地帯だな

九州は表門であって、決して母屋ではない。  @阿波
0744日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 23:01:53.78
新都ってどこに?
0745日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 23:07:39.50
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0746日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 23:09:51.23
>>729
旧唐書は日本が倭国を併合したと言ってるから
戦争は無いな、白村江で敗れて無血開城したとしか考えられない
0747日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 23:13:02.39
博多がニューヨーク、伊都がワシントンだよ。
伊都は内政を司る大率が置かれ、外交官である郡使も滞在した。
王城は伊都国三雲地区の目の前、高祖山にあった。
0748日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 23:21:41.34
このスレでは、熊本説のレス内容は誰でも確認できる内容を書いてるが
朝鮮人の伊都国=邪馬台国説は何も発見すらされてない高祖山の王城なんぞ
妄想の連呼しかしない
0749日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 23:29:00.37
>>744
もともと倭国の弥生王墓は福岡平野側に作られていた。
三雲南小路以降は、弥生王墓は糸島平野側に作られるようになった。
奴国から伊都国に遷都または政権移行があったと考えられる。
そして筑紫に日向三代の男王70-80年の時代があり、倭国大乱後に卑弥呼が伊都で即位した。
0750日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/26(金) 23:33:37.29
2世紀の話か
3世紀の糸島は福岡平野の動きから遅れている
0751日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 00:01:23.87
倭国大乱で政治的空白があったからだろ。
その後で卑弥呼が共立されて平原遺跡が作られた。
(そもそも何をもって遅れているというのかよくわからないが)
0753日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 00:09:47.82
山門郡の遺跡を示してくれよ。
女王墓でも王宮でもいいよ。
0754日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 00:13:03.04
平原1号墓築造は200年頃
わからないんじゃなくて日本の研究者の研究成果を拒絶するからな
0755日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 00:40:56.57
・平原の管玉と同類のものは、日本からは出土せず、
韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から
多量に出土していて、時期は、共伴している土器や鉄器から三世紀前半から
四世紀と考えられている

・耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、
漢末から六朝初期に造られたと推測される浙江省杭州老和山搏室墓から
出土したものと同型である。
0756日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 00:43:35.30
ああ、筑後山門説を否定しているわけではないよ。
壹與の時代には筑後が中心だっただかもしれないし、卑弥呼が筑後出身だったかもしれないからね。
0757日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 00:51:46.26
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0758日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 01:20:18.94
>>755

いつもの他人の間違いブログコピペ連呼
0759日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 03:17:53.31
狗奴国は宮崎鹿児島エリアで畿内はむしろこっちの後ろ盾のような気もする
邪馬台国を狗奴国を利用して倒した後弱ったところを熊襲と呼んで征服したと
0760日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 03:46:23.97
卑怯なことして滅ぼしたから先祖を熊襲エリアの出身として鎮魂した
これが高千穂降臨からの神武東征の神話となった
0761日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 04:11:49.93
その神武というのは何なんだ?
0762日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 04:19:39.17
天津・国津・・・天神?天孫?
そういうのもあるみたいなんだけど、何の話なんだ
0763日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 04:23:32.95
カルト教団ならカルト教団です
と公表したほうが良いと言っているだけなんだよ
0764日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 07:56:55.08
>>760
構図としては、とても良いのではないかな。
ただ、敵味方をどのように配置し、勝者・敗者をどう張り付けるか・・・そこが難問だ。、
論者により、意見は真逆にもなりうるからねえ。
0765日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 08:09:51.60
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0766日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 09:51:38.13
大陸から追い出された刺青をする海賊勢力が九州の領土をめぐって争っていた。
同時期に刺青をしない海賊じゃない勢力が大和を築いた。両者は人種的には同じ倭種だが出身地が微妙に違うんだと思う、百越地域は広い
0767日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 10:13:25.23
>>755
>耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、

この「特徴的な特殊な形状」ってどんな形?
説明できる?

ただ文字列を受け売りでコピペしてるだけなの?
0768日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 10:25:57.86
>>766
華南ニグロブタは華南ニグロブタの掲示板に行けよ。

日本の掲示板に来るな。

汚らしい。
0769日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 11:17:45.52
>>768
ウゼーコピペ気違い
巣(ベンキ)に帰れ
0770日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 11:32:04.10
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0771日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 11:36:59.72
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0772日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 11:37:23.36
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0773日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 17:02:13.95
>>766
正解
0774日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 17:19:24.02
平原遺跡の耳璫は金層ガラスで、早くても3世紀のものらしいですよ。
2世紀にはなかった技術になります。
0775日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 18:07:54.15
>>774
>金層ガラス

金層ガラスを強調するなら、藤ノ木古墳と同じころ、古墳時代末期だろ?

>>767で聞いているのは形状の特徴のこと

「>耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、

 この「特徴的な特殊な形状」ってどんな形?
 説明できる?」
0776日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 19:44:54.98
>舊百餘國、、、今使譯所通三十國、、、
平均すれば、旧の3.3カ国が合併して、新の1国になったということだから、
七万戸の邪馬台国なら、旧の七カ国~十カ国が市町村合併して新邪馬台国を作ったような大変動があったわけだ。
その多様な種族からなる幾多の郷邑の結束を可能にした技術的手段は何だったのか?

文字の導入で文書が発達したというにしては、三世紀の木簡や竹簡は出ていないようだ
とすれば、他の有力な手段として考えられるのが「銅鏡」である。
日の光を受けてピカリと光るインパクト、神獣図案等の彫刻、刻まれた不可解な文字
それを拝領した郷邑の首長たちは、卑弥呼に強いシンパシーを感じて結束を誓ったのであろう。
0777日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 20:03:34.89
後漢書・檀石槐伝
光和元年(178年)、「檀石槐は烏侯秦水にまでやって来て川魚を獲って食料にしようとしたが、まったく獲れなかった。

そこで、汙人(倭人)たちが魚獲りに巧みだと聞いたので、汙国を撃って烏侯秦水のほとりに移住させて魚獲りに従事させ、食料難を解決したという」

この汗人については「三国志集解」で倭人のことだと注釈があり。

倭人なさけねーな
負けんなよ
0778日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 20:19:19.98
弥生末の熊本平野には、方保田東原や西弥護免など、全国有数の鉄工房があった。
今でいえば、新日鉄やJFEが、熊本に立地していたようなものだ。

こうした先進巨大産業を核に、旧の10か国ほどが集まって、邪馬台国を建てたにちがいない。
筑後みやま市、大牟田市、玉名市、山鹿市、菊池市、合志市、熊本市、阿蘇市、山都町、それに女王の所都があった高千穂町、
これらが、女王国七万戸のメンバーだったと考えられる。
0779日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 20:22:59.63
鉄工房があったのは地方都市だ
0780日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 20:43:25.33
邪馬台国の拡大とともに、その辺縁部に鉱業が移転していったのだろう。
もともとは奴国や伊都国にもあったが、次第に果ては淡路島などにも移転されたらしい。
0781日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 21:33:00.03
卑弥呼の所都は高千穂町だったというと、
あんな山中に、とんでもない・・・、と思われるお方は少なくないであろう。
しかしそこには、古代九州島(筑紫島)ならではの長所もあった。

沿岸平野部を通ると、インフラなど全くなかった時代であるので、たびたび大河川に行く手を阻まれた。
また、湿地や芦原に足をとられて行先は見通せず、進むどころではなかった。
しかし九州島の脊梁部分は意外に平坦であった。(現在では、そこを南北に国道が通っているほどである。)

だから、この脊梁部を通交すれば、小川が有ったとしても一跨ぎすれば足りた。
また、巨樹古木が枝を広げ、落ち葉が降り積もった木陰の路を進むので、快適この上ない。
日田市から高千穂町まで、また南の小林市から高千穂町まで、そんな木陰の街道がつづき、
そこから東西に分かれ道も発達していた。

いわば九州島という巨大なカメさんの背中を縦横に行き来するような便利さがあったのである。
高千穂神話に云う「天の八衢」とは、このあたりのこのような情景を述べたものだったのではないか、、、
0782日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 21:41:06.86
天皇は薩摩出身だと日本書紀に記述があるんだろ
つまり天皇は狗奴国出身者だな
0783日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 21:54:12.33
倭国は海洋民族だから戦争のたびに移動してる
一世紀までは北九州、そこから縦横無尽に南下したり北上したりだ
0784日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 22:01:34.91
>>774

>平原遺跡の耳璫は金層ガラスで、

ウソ書くな
0785日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 22:11:08.21
>天皇は薩摩出身だと日本書紀に記述があるんだろ

ねーよ

筑紫の伊都

邪馬台国だろ
0786日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 23:49:40.19
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0788日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/28(日) 00:34:06.17
>>787

耳璫が金層ガラスなんてどこにも書いてない
字が読めないのか
0789日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/28(日) 01:01:46.14
このような構造を成
すガラスは、古墳時代の遺跡から発見されている、いわ
ゆる「金層」ガラスである。金層ガラスの多くは金屑を含
むものは少なく、内側孔に近い部分には、気泡が多塗に
含まれるガラスを使用して、その外屑には褐色透明なガ
ラスが用いられており、構造や材質に多くの共通点があ
り、加工法も同様であると考えられた。
0790日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/28(日) 01:05:18.71
[背紺色透明なガラス連玉]本試料を顕微鏡観察したところ、
重層ガラスであることが明らかになった。
中略
ガラスは青紺色に着色されているが、
着色ガラスは内層・外層のどちらか一方に使用されているように見うけられた。
このような構造を成すガラスは、
古墳時代の遺跡から発見されている、いわゆる「金層」ガラスである。

平原の重層ガラス連玉のように内層・外層のどちらか一方に着色されてる
ような構造を成すのが金層ガラスで、
耳璫のことではないし、このガラス連玉も金層ガラスということではない
0791日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/28(日) 01:26:40.81
古墳時代の技術である金層ガラスが平原遺跡にあったことは確かなわけだ。
それが耳璫かどうかは別として。
年代的に2世紀というのは無理がある。
0792日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/28(日) 01:39:05.20
重層ガラス玉

透明ガラスを二重に被せて製作された玉を重層ガラス玉といい、
インド洋周辺のガラスやササン朝ペルシアのカットグラスと
同じガラス素材で作られたものが、西方に散見される。
間に金箔や銀箔を挟むものや、
間に空気の層を作ることによって光っているように見せるものなどがある。

http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00005323.htm
0794日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/28(日) 01:44:42.46
古墳時代の技術というよりも
日本の技術じゃないから時期がわからない
0795日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/28(日) 03:20:08.15
国産か外国産か、はわからんが、技術的に高度な物があった、という事だね

超大鏡にといい、平原は謎だねぇ
0796日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/28(日) 03:25:37.49
非倭人商人だろ
0797日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/28(日) 07:00:40.98
日本でも古墳時代にはいくつかの出土例はある。
ただし弥生時代の出土例は平原遺跡だけ。
0798日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/28(日) 08:54:10.14
日本で重層ガラスの出土は5世紀から
平原の重層ガラスの材質は、
「しかし、 MnO 含有量の多い青紺色ソーダ石灰ガラスが、
弥生時代の遺跡から出土したのは初めてで、
その多くは古墳時代の後期に見つかっているものであり、
今後ヨーロッパからアジアに至る広範囲なデータとも比較検討する必要がある。」
平原だけ特別に早い
そして日本で産するものが何も出てない
0800日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/28(日) 11:16:45.60
平原遺物は、出土の経緯状況が不明瞭だってことかな・・・、、
0801日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/28(日) 12:40:59.98
仲哀・神功皇后記は四世紀の話なのに、
倭人伝に引きずられて時代を120年ほど繰り上げ、怡土を三世紀のイトコクに仕立て上げた。
そのため、本来の佐賀川上の伊都国が、30qほど北の糸島に設定されてしまった。

またその影響で、熊本南部の宇土・宇城・八代圏にあった狗奴国も、
30qほど北に引き上げられて熊本市・菊池市付近に比定する人が少なからず出てきた。
しかし、全体地図を南へ30qほど繰り下げて見ると、
佐賀川上を伊都国で山鹿菊池を邪馬台国の説は、現地状況によく合い、行程パズルは解けるね。
0802日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/28(日) 13:12:32.36
阿蘇ガイド 
幅・津留遺跡は、弥生時代の巨大集落

>「幅(はば)・津留(つる)遺跡」は、2万年前に阿蘇中岳より流れ下った溶岩を基盤とする台地上にあり、
南阿蘇村両併と高森町津留にまたがっている。
弥生時代中期後半(2000年前)から営みを始めた西の集落と、弥生時代後期(1800年前)から営み始めた東の集落が確認されている。

>東西のムラには、地面に突き刺した「立石柱」が残っている。
その長方形の中心線の方向は、夜、阿蘇・根子岳の上に輝く北極星に向けられている…、
>東ムラは鉄で栄えたムラ。
竪穴住居から沢山の鉄の道具(摘み鎌・鎌などの農耕具、袋状鉄斧、小刀など木材加工具)が発見されており、
住人は高い生活水準だったことを示している。

リモナイト(阿蘇黄土)から作ったベンガラ(真っ赤な顔料)を大量に墓に使っていることからして、
この阿蘇特産のベンガラと、他の地域の土器・鉄などとを物々交換して生活していたのかな?
0803日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/28(日) 13:55:39.17
出土の経緯は明確で、学術調査もされている。
しかしあまりにも内容が傑出しているため、その位置付けがわからない。
2世紀にしてはオーパーツだが、3世紀でも比類なき内容。
0804日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/28(日) 14:00:10.94
「耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもの」
九州説の人が答えないので勝手に答え合わせ

これは晋代の耳璫が特徴的な「くびれ」を持つことをいう

そして平原1号墓出土の耳璫はこんな形
https://pds.exblog.jp/pds/1/201308/12/45/a0237545_23314878.jpg
まあ、くびれてると「見ることもできる」程度のもの

この形状をもって晋代に違いないというのは困難だと言わざるを得ない
0805日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/28(日) 14:13:30.77
>>800
すべて国宝だが?
>出土の経緯状況が不明瞭
おまえだな
0806日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/28(日) 14:14:44.48
めちゃくちゃくびれているなあ。
0809日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/28(日) 16:13:25.89
幅・津留遺跡の住人は、特産の阿蘇ベンガラと、
方保田東原遺跡や西弥護免の職人たちが作り出した農業用の穂摘み道具などを、物々交換していたのだろうなあ
最新式の鉄製農業用具なんだから、生活水準も高かったわけだ。
0810日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/28(日) 17:30:51.09
幅・津留遺跡から出土した立石柱の指し示す先には、
北極星と北斗七星があったそうだ。
とくに北斗の動きに合わせて、何らかの祭祀(あるいは葬送)が執り行われていたとみられている。
三世紀の阿蘇の住人にしてこの知識文化だ。
魏の使いは、日の出を見て45度も方角を間違えた・・・、などと、畿内説の○松くん振りには感心させられた。。。
0811日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/28(日) 18:37:07.26
金層ガラスと合わせて考えると、平原遺跡は3世紀以降であり、卑弥呼の没年と一致する。
0812日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/28(日) 19:10:36.72
根拠無しチョンボ連呼民族
0815日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 07:38:59.17
>>808
>くびれが少ない瑪瑙耳璫は漢代からあるから

平原1号墓の耳璫はこっちのタイプだろうに
0816日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 07:42:12.70
北斗七星:
北斗星君(ほくとせいくん)は、中国において、北斗七星が道教思想によって神格化されたもの。
「死」を司っており、死んだ人間の生前の行いを調べて、地獄での行き先を決定するという、
日本でいう所の閻魔大王のような役目を持つ。
0817日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 07:44:23.98
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0818日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 07:44:50.35
>>811
>金層ガラスと合わせて考えると、平原遺跡は3世紀以降であり、卑弥呼の没年と一致する。

金層ガラスが古墳時代後期なのを除けば、平原1号墓は2世紀後半で特に問題ない
1号墓の後に平原遺跡では、3号墓・4号墓が作られており、古墳時代まで1世代以上
間があくことも、2世紀後半と見ることと整合性が高い
0819日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 07:49:52.06
皇室の北斗七星信仰:
中国の皇帝や日本の皇室にも、この北斗信仰が見られる。
中国の皇帝の祭服の左袖には北斗七星、右袖には織女がデザインされている。
宮内庁所蔵の孝明天皇の礼服は、背中の中央上部にも北斗七星が置かれている(ただし、織女はいない)。
0820日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 08:00:35.33
幅・津留遺跡から出土した立石柱の指し示す先には、
北極星と北斗七星があったそうだ。
とくに北斗の動きに合わせて、何らかの祭祀(あるいは葬送)が執り行われていたとみられている。
三世紀の阿蘇の住人にしてこの高度な知識だ。
はるかなる大陸から伝搬した中国文化、とりわけ道教の影響が想定される。
0821日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 08:09:48.41
道教による宗教戦争:
曹操軍の強さのひとつに太平道の残党を吸収し、それを直轄兵力とできたという点がある。
信仰を持った軍団の結束力と士気は強力であり、曹操にとってはまたとない戦力であったことは言うまでもない。
そのため曹操は、道教に対して保護政策とも言える態度をとっており、
儒教の国家であった漢に対して、曹魏は道教の色彩の濃い国家となった。
0822日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 10:27:15.18
九州阿蘇・邪馬台国地方の北辰・北斗七星崇拝文化は驚きだ。
古代人の知識の深さを理解しなければならぬ。
0823日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 12:35:53.88
>>818
金層ガラスという特徴的な出土品を無視した論議は意味がない。
畿内説は都合が悪い出土品を無視している。
0825日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 14:13:37.04
平原から金層ガラスは出ていない
平原の背紺色透明なガラス連玉は金箔を挟んでない重層ソーダガラス
タイ、ベトナム、カンボジアの紀元前後の遺跡からソーダガラス他の
ガラス小玉がたくさん出土する
0826日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 16:26:26.82
>>825
金箔ははさんでなくても、金層ガラスを呼ぶんだよ
そして、弥生時代の出土がないのも事実
0827日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 16:56:31.91
阿蘇・高千穂神社:
>当宮は高智保皇神と申し上げ、神武天皇の皇兄三毛入野命が御東征の途次高千穂にお帰りになって、
この地に天孫瓊々杵尊・木花開耶姫以下三代の神々をお祀りされたのが初めであり、
千百余年前の仁明・清和両朝には、日向国最高の御神階が授けられました。

>また源頼朝は、畠山重忠を代参として多くの宝物を奉納し、その重忠手植の秩父杉は八百年を経た今も社頭高くそびえています。
文永・弘安の役には勅使が見え、南北朝の頃の征西将軍懐良親王の御祈願もありました。

>大正十四年の秩父宮御成をはじめとし、続いて十数家の皇族の御参拝もあり、
昭和四十六年七月一日には別表神社に列せられました。
0828日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 17:02:45.87
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0829日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 17:35:03.35
神社関連の記事は、きれいにできすぎていて、なんとも言いようがない
裏側というか、人間臭いところを見れないものかねえ。
0830日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 18:42:28.03
>>826

金を挟み込んだのが金層ガラス玉(ゴールドサンドイッチガラス)
https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/1634/1/AA11581556-46-7t-1.pdf

銀を挟み込んだのが銀層ガラス玉
https://www.sankei.com/region/news/171115/rgn1711150009-n1.html

何も挟み込んでないものを含めて総称が重層ガラス玉

日本で金層ガラス玉が5世紀からしか出土しないから
平原の重層ガラス玉が3世紀だということにはならない
0831日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 18:59:31.15
>>830
平原1号墓に関しては、原田大六氏が殉葬墓だと勘違いした土坑墓が、
1号墓の周溝にあり、その遺物の編年から土坑墓が3世紀前半と考えられている

その土坑墓は、1号墓の周溝が土で埋まってから、その土に土坑を掘っているので
周溝が埋まるくらいの時間差が土坑墓と1号墓の被葬者の間にある
そう考えると、平原1号墓は2世紀後半と考えるのが落ち着きがいいんだけれどね
0833日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 19:21:49.26
久住も確認してるんだからできるだろ
0835日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 19:27:20.00
平原遺跡は放置されている問題として、
方法、目的が謎の錆色塗装鏡(工程途中の塗装)があるが
このような銅鏡は中国での出土がないので
これはそのうち分析されるのを待つしかない
0836日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 19:27:41.16
金属ガラスって金属を含んだガラスの事なのか。
現在では金属ガラスは金属の非結晶質のものを指すから
紛らわしいな。
0837日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 19:31:32.39
金層(ソウ)な
0838日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 20:14:41.24
弥生時代に平原遺跡の他に重層ガラスの例があるのか?
0839日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 20:28:18.45
重層ガラスも錆色塗装鏡も無い
だから非倭人だろ
0840日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 21:31:18.75
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0841日本@名無史さん
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2018/10/29(月) 21:40:16.27
>>839
九州は他国に占領されていたとでも?
魏志倭人伝を無視するなよ。
0842日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 22:35:59.91
>>835
>目的が謎の錆色塗装鏡(工程途中の塗装)があるが

今でも悪徳骨董屋がやりがちな古色処理なんじゃないの?
0843日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 23:22:14.77
>>841

築造が200年頃だから倭人伝は関係ない
持物に対して墓=動員力が小さいから商人だろ
0844日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 23:24:19.48
>>843
>持物に対して墓=動員力が小さいから商人だろ

だが、平原遺跡の家系は古墳時代に入っても曽根遺跡群の3つの古墳を作っているから、
伊都国ではそれなりの上位家系だと思う
0845日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 23:50:14.00
平原遺跡は曽根丘陵西側斜面
ワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳の3つは少し離れて曽根丘陵頂上から東側で、
古墳時代前期を飛ばして中期まで同じ家系が続いているとは言えないだろ
糸島平野の中心に前期に前方後円墳の端山古墳が造られた後の時代だから
0846日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 07:43:30.07
端山古墳のあと伊都国中心部には築山古墳が作られる
ワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳は出土遺物も少なく編年根拠がはっきりせず、
古墳時代前期がないというのも説得力があまりない

「平原遺跡は曽根丘陵西側斜面
 ワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳の3つは少し離れて曽根丘陵頂上から東側で、 」

曽根丘陵と言うほど高くない
西側斜面、東側斜面を区別する必要はないのでは?
0847日本@名無史さん
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2018/10/30(火) 08:07:33.00
平原遺跡1号墳の概要:(森村伊作ブログ)
◇墳墓14m×12m
◇棺:割竹形木棺
◇出土品:銅鏡39枚(内行花文鏡、方格規矩鏡)、素環頭太刀1本、鉄鏃、やりがんな、のみ、鉄斧、ガラス勾玉、メノウ管玉など
◇国産・大型内行花文鏡(直径46・5cm)4面
◇築造年代:遅くとも3世紀初頭。

>先にも述べたが、神獣鏡は後漢末に興きた天師道(鬼道)の産物である。
神獣鏡が1枚もなかった平原1号古墳は、少なくとも神獣鏡が流行する卑弥呼以前の築造と判断して良いだろう。
鬼道の神仙人思想とは異なる内行花文、方格規矩といった中国古来の精神性をモチーフとした鏡が出ていることでもそれはいえる。
卑弥呼と関連のある時代の築造であれば、200%神獣鏡が埋納されていたはずである。

>そもそも方形周溝墓には武器類の出土例が少なく、 農工具 、装身具類なども副葬され、
祭祀として用いられた底部に穿孔(穴あけ)をした壷形土器や小形丸底壷が溝に落ちこんだ状態で出土する。
平原遺跡1号墳の場合は、大小の銅鏡39枚に対して、素環頭太刀がたったの1本である。この偏りは尋常ではない。
0848日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 08:25:28.07
そりゃ平原遺跡は、男王ではなく女王の墓だから。
ただ、剣は三種の神器の形式に合わせるためにどうしても一振りだけは入れなくてはいけなかった。
逆に、そぅでしても剣を入れなくてはいけないくらい、三種の神器の様式は明確に成立していたということでもある。
それは倭王の象徴として不可欠だったということ。
0849日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 08:56:05.09
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0850日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 09:04:46.61
平原遺跡1号墳の概要:(森村伊作ブログ)
1.住居周辺に方形周溝墓が密集している。居住区域のほかに私有農地や領地を所有しなかった集団の墓ではないか。
2.武器類の副葬・出土が皆無に近い。武器をもたない職業集団か、武器所有の必要がない集団か、
武器所有が許されなかった集団で、開拓・労働集団の集落と墓だったのではないか。

3.弥生早期に出現した方形周溝墓は、円墳や前方後円墳とも共存している。そこに何らかの差別化が働いていた様子である。
4.方形周溝墓は成人から幼児まで家族単位で埋葬されており、明らかに家族墓の形態を見せる。
5.つまり、円墳や前方後円墳を造った人たちとは異なる身分か、出自か、生業の集団だったのではないか。
0851日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 09:10:10.68
自分で自分を守る必要がない(兵が守ってくれる)、倭王という特殊な集団だな。
それは畿内などに見られる前方後円墳の主人たる物部氏とは一線を画し、紀元前から三種の神器と方形周溝墓を持つ権力者だよ。
九州北部全体が領土だから、大きすぎてその境界が見えないだけ。
0852日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 09:11:46.29
最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。
0853日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 09:14:55.27
「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

もともと第一の道論は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先 進性をことさらに高く見積もり、前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一 の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、 修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続 けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改 善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道とは、(中略)大和弥生社会がこの時期により大き な別の権力主体によって征服、あるいは包括、
刷新されるという苛酷な道であり、そこでは農業共同体構造の再 編は外的強力によって強制的に達成されたことになる。
旧稿において私は、(中略)第二の道を主張した。
しかしこのことが、私があたかも北部九州勢力の東遷論 者であるかに評価されることとなり、
5年後に刊行された橿原考古学研究所論集では改めて、いわゆる「東遷論」 一般には与するものではないことを明記した。

こうした小共同体の安定した強固にすぎる程の紐帯とそれを安住させ得る自然条件の卓越性、それゆえの保守的基盤と非闘争性をもつ大和の弥生社会が、
いわゆる「ヤマト王権」と呼ばれる政治的連合体の権力中枢を内的に生成させ、国家形態を「王国」にのし上げ得るだけの母胎にはたしてなりうるのだろうかという疑問をもつにいたった。
そもそも私は、橿原考古学研究所に入所し自らこのテーマを追い始めた1976 年頃から、大和弥生社会の自然的、社会的、
そして文化的安定性とそれゆえの緊張関係の欠除、いわば内陸後背地の保守的地域がそうした王権機構を生成するような母胎にはたしてなりえたのか、というこの疑問が終始脳裏を離れることがなかった。

(一)大和にとっての外的強力とはいかなる地域のいかなる集団であったか(権力中枢の系譜)、
(二)彼らの征服活動に興ずる必然性とその対象としての大和とりわけ東南部の重要性、
(三) 農業共同体再編の具体化と階級的支配関係の実体については、その後の論攷で私なりの一応の答えは用意することができた。
0854日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 09:16:49.18
ttp://www.tokyo-np.co.jp/article/forum/list/CK2014092002000221.html

 日本書紀をみると、王宮では崇神天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊代(みたましろ)を祭っていた。
天皇は御殿で「同床共殿(どうしょうきょうでん)」の祭祀(さいし)を行っていたが、神の霊威(れいい)を恐れて、宮内の大庭にホコラを建てて、大神(おおみかみ)のご神体である宝鏡をお納めした(神宮雑例集)。
これが建物Cである。それでもまだ恐れ多いので、垂仁天皇の時代に伊勢に社を造り、宝鏡をお移しした。
それが伊勢神宮であり、建物Cの復元形態は神宮の正殿と極めてよく似ている。
神明造(しんめいづくり)の形が倉庫と近いのは、王宮における建物Cが宝庫だったことによるのである。

ということで、纒向建物群は崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)であり、倉庫から発展した伊勢神宮のモデルとなる、独立棟持柱を持つ建物が含まれていたということ。
卑弥呼とは関係ない。
0855日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 09:21:53.04
平原遺跡1号墳の概要:(森村伊作ブログ)
>平原1号墳の特徴の一つは、副葬した大量の鏡が徹底して割られていることである。
こうした例は他の古墳ではあまり見られず、当時の倭人のスタンダードな葬送儀礼とは思えない。
中国には破鏡重円という信仰思想があるが、平原1号墳の破鏡もこの信仰思想に関連するものと思われる。

>破鏡行為とその概念は、のちに「破鏡重円」という言葉を生む。
これは、古くは前漢代の『神異経』に見られることから、中国古来からある精神性と思われる。
0856日本@名無史さん
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2018/10/30(火) 09:30:13.13
>>847
微妙な表現が多いな

>◇墳墓14m×12m

これは、周溝を入れたサイズ
墳丘だけなら12×8メートル

>◇出土品:銅鏡39枚(内行花文鏡、方格規矩鏡)、素環頭太刀1本、鉄鏃、やりがんな、のみ、鉄斧、ガラス勾玉、メノウ管玉など

情報が古い? 銅鏡は現在40面とカウント
「鉄鏃、やりがんな、のみ、鉄斧」は周溝の土坑墓から出土で1号墓の副葬品ではない

>◇築造年代:遅くとも3世紀初頭。

まあ、二世紀後半から末くらいだろう
0857日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 09:33:36.79
>>850
>1.住居周辺に方形周溝墓が密集している。居住区域のほかに私有農地や領地を所有しなかった集団の墓ではないか。

平原遺跡は住居を伴わない
家族(家系)単位の墓苑と見たほうがよいのでは?

>4.方形周溝墓は成人から幼児まで家族単位で埋葬されており、明らかに家族墓の形態を見せる。

平原遺跡の5号墓、1号墓、2号墓、3号墓、4号墓は、それぞれ一つずつ埋葬主体を持ち
一つ一つは家族墓とは見られない
0858日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 09:34:37.88
金層ガラスが含まれていたなら、3世紀以降、古墳時代と言わざる得ない。
しかし方形周溝墓という伝統的な様式を守ってもいる。
そして、八咫の鏡を含む三種の神器が副葬されている。
物部氏が作った流行りの前方後円墳ではなく、伝統を堅持した倭王(女王)の墓だろうね。
0859日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 09:36:34.10
>>857
>家族(家系)単位の墓苑と見たほうがよいのでは?

倭国王家の一部かな。
王都である伊都に墓域を持てる時点で、極めて特異な立場であったことがわかる。
先代の男王達の墓域である三雲にも近い。
0860日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 09:38:47.86
平原遺跡について

・1号墓(女王墓)と2号墓(陪塚)が周溝を共有しており、
方形周溝墓と円形周溝墓が共通の周溝で囲まれた一体の墓域だった
・出土品は一括して国宝指定
・周溝の一部を発掘しただけで合計10基の土壙墓(殉葬墓)

<1号墓(方形周溝墓、18×14m)>
・水銀朱丹(大量の中国朱が、外に流れ出したことで墓が発見された)
・割竹形木棺(下半身を東南の日向峠へ向ける)
・ガラス製耳璫 3(女性用高級装飾品、国内唯一の出土)
・メノウ製管玉12、ガラス製勾玉3、ガラス丸玉 約500、ガラス小玉 約500、ガラス管玉 約30、ガラス連玉 約900 (ヒスイ無し)
・鉄製素環頭大刀 1、鉄鏃多数(倭人伝記載と同じ五尺刀)
・大型内行花文鏡5面(日本製、直径46.5センチメートル=八咫、世界最大)
・方格規矩鏡 32面、内行花文鏡 2面、四螭文鏡 1面
(9割以上が仿製鏡で、舶載鏡は前漢鏡1後漢鏡1だけ=籠神社の伝世鏡と同じ組み合わせ)

<2号墓(円形〜隅丸方形周溝墓、周溝を含んで径10m)>
・丸太木棺
・土器片
・前漢鏡3

<18本の柱穴>
・うち2本は東南の日向峠へ向いている鳥居か
0861日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 09:59:24.01
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0862日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 10:27:17.52
>>859
>王都である伊都に墓域を持てる時点で、極めて特異な立場であったことがわかる。

そもそも怡土が「王都の伊都」であったかなかったかが問題なのである。
それが不明で問題なのに、先走って限定するのはいかがなものか??
0863日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 10:30:09.64
>>860
>・周溝の一部を発掘しただけで合計10基の土壙墓(殉葬墓)

九州説はいまだにこんな御伽噺を信じてるんだw
土壙墓は、1号墓の周溝が埋まったあとの「周溝を埋めた土」を掘って土壙を作っている
つまり、1号墓本体とは周溝が埋まるだけの年月を置いてから作られている
そんな殉葬はないww

そして、周溝の一部を発掘しただけというのも不正確
後代の土地利用で確認できなかったところを除いて、周溝は全部発掘している
発掘できなかったところがあるから発掘したのは周溝の一部というのは、100%間違いではないが
全部掘ったらもっと多いような印象をわざと与えようとしている書き方

そして極め付けが、1号墓の墳丘内にも土壙墓が掘られている
1号墓の被葬者は土壙墓が作られるころには、尊敬され祀られる存在ではなかったということだ

そんな倭王はいないだろ?
https://syoki-kaimei.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_221/syoki-kaimei/Y23E5B9B3E58E9FEFBC91E58FB7E5A2B3E585A8E4BD93E59BB3.jpg
0864日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 10:32:29.04
>>860
>・うち2本は東南の日向峠へ向いている鳥居か

鳥居か、とされる対となった柱穴は、3対あるが、残り2対はどこを向いているんだ?ww
そして、埋葬主体の木棺痕の長軸は、日向峠よりも南を指している
日向峠に向いているというのも、原田大六氏の思い付きであり、おそらく意味のない偶然
0865日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 10:38:39.57
>>860
>・鉄製素環頭大刀 1、鉄鏃多数(倭人伝記載と同じ五尺刀)

また嘘をついてる
平原出土の鉄刀は長さ750mmだから、三尺刀だよ
0866日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 10:40:58.30
>>860
>・大型内行花文鏡5面(日本製、直径46.5センチメートル=八咫、世界最大)

八咫だと言ったのは原田大六氏で、昭和の時代にそう思っただけ
実際の大きさは八咫ではないし、漢や魏の度量衡に「咫」という単位はない
0867日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 10:53:14.84
末盧国から東南へ:(森村伊作ブログ)
>伊都国が1000余戸か1万余戸だったかは議論の余地を残すが、それは「いつ」と呼ばれた国だったとみている。
伊都国へは、末盧国の港(唐津港)から山あいを縫うように、松浦川に沿って、現在の唐津街道を通り、東南に500里陸行する。
佐賀平野の多久市までが28キロメートル。そこから7キロメートルほど先の、眼前が広く遠くひらけたところが小城市。

>ここには、旧小城町と牛津町と三日月町とで作るトライアングルの中に、土生(はぶ)遺跡ほか、4つの弥生集落遺跡がある。
土生とは、埴生のことで、土器づくりに好適な粘土を産する地を意味する。
隣接する三日月町は、古代の甕調(みかつき=カメつくり)が、その町名の由来になっている。
嘉瀬川と福所江川に挟まれたこのエリア(小城市三日月町の遠ノ江、金田、久保田町)に、伊都国があったとみている。
0868日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 11:02:54.03
ま、あれだ。
寺沢ほかの撤退が続き
畿内箸墓が卑弥呼の墓でないことが明らかになったからには、糸島怡土が伊都国であるべき理由も消滅してしまったわけだ。、
0869日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 11:09:57.01
佐賀に王墓がない。
0870日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 11:40:18.95
ま、あれだ。
寺沢ほかの撤退が相次いだせいで
「畿内箸墓が卑弥呼の墓で糸島怡土が伊都国であった」という昭和の原田の構想も、あえなく崩壊してしまったというわけだ。
0871日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 11:50:13.10
佐賀川上村にあった2000基もの古い墓群は、
明治この方、取り崩されて蜜柑山などに姿を変えたというから、
その中に、王墓の10や20あったと考えてもおかしくはないだろう。

それより重大なのは、
佐賀川上には、伊都国時代の官衙であったと思われる大規模な区画遺構が残されている。
今は大願寺廃寺跡というが、創建当時には椅寺(イ寺≒伊寺)と呼ばれていたらしい。
0872日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 11:51:10.28
>>846

朝鮮人集団が日本の研究者の推定年代にケチつけてるだけで
年代不明になるだけの話
平原遺跡は三雲側から見えない有田側の小高くなった場所
0873日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 11:54:58.82
>>871
4世紀の熊襲タケルの宮、またはその直前の壹與の宮かもしれませんが、壹與は河上神社の方かもしれません。
3世紀は厳しいのでは?
0874日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 11:55:57.61
平原の報告書の新訂版が出てるんだな

新訂版 国史跡曽根遺跡群 平原遺跡  福岡県糸島市有田所在遺跡の調査
シリーズ 糸島市文化財調査報告書第16集
出版社 糸島市教育委員会
出版年 2017/03
http://www.book61.co.jp/book.php/N74364

興味ある奴は絶版になる前に買っとけよ
0875日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 12:02:24.66
>>858

ガラス連玉も謎の塗装鏡と同じく棺の外にあったと推定されているので
平原の朝鮮大柱とソッテが何時立てられたのか不明だが
墳丘が削られた後の時代に朝鮮族の祭の場所になって、
埋められた可能性もある
0876日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 12:31:19.09
神道の御柱だろ。
0877日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 12:40:06.36
>白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した大和朝廷は、倭(日本)の防衛のため古代山城を築いた。
665年(天智天皇4年)、福岡の大野城、佐賀の基肄城がそれである(日本書紀)。
建設を担当したのは亡命百済人で、軍事技術の専門家の憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくぶ)である。

佐賀川上のイ寺も、亡命百済人の手になるもので、上記の大野城、基肄城と同時期に建造又は修繕されたとみられる。
このイ寺自体は三世紀ではないが、一帯の道路区画は大規模であり、多くの建物群の跡も推定されることから、
ここは古代からの重要地区であったと思われ、伊都国官衙の比定地として最もふさわしい。
0878日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 12:42:06.39
「名之為蘇塗 立大木縣鈴鼓事鬼神 諸亡逃至其中皆不還之 好作賊」(韓伝)

これを名づけて蘇塗とする。大木を立て、鈴や鼓を懸けて鬼神に仕える。
さまざまな理由で隠れたり逃げたりしてその中に至ったものは皆これを引き渡さず、
好んで賊を作っている。
0879日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 12:59:13.83
佐賀川上って土蜘蛛がいたところだろ
0880日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 13:08:32.78
そのとおり、
カワカミノタケルとか、記紀に登場する有名人も多いところだよ。
0881日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 13:11:45.89
熊襲タケルの王宮だよ。
0882日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 13:16:30.58
カワカミタケルは違うだろw
0883日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 13:17:32.74
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0884日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 13:27:30.73
>>872
>平原遺跡は三雲側から見えない有田側の小高くなった場所

そうはいうが、平原遺跡の立地は三雲遺跡群の中心地から見て
冬至の日没方向に当たる

三雲遺跡群との関係は無視できないし、それは視認できる位置関係だと思う
0885日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 13:28:47.36
與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。
0886日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 13:29:25.73
>>882
川上にいたから川上タケルなんだよ。
0887日本@名無史さん
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2018/10/30(火) 13:30:39.00
>>872
倭国全体の中から見れば、極めて近接した一連の倭国王墓だよ。
方形周溝墓、三種の神器など、墓制もほぼ一致する。
0888日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 13:48:10.50
>>884

三雲遺跡群も古墳時代になっても、冬至の日没方向に王墓を造るような習慣は見られない
こじつけ
0889日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 13:52:11.82
>>887

その倭国全体の範囲はお前が決めただけだから
甕棺と平原は墓制は一致しない
0890日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 14:09:19.26
佐賀の川上は熊襲じゃなくて
「土を馬の形に作って祀るといい」と言って協力した土蜘蛛婆さん
0891日本@名無史さん
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2018/10/30(火) 14:12:25.30
>>888
>冬至の日没方向に王墓を造るような習慣は見られない

平原遺跡は王墓ではないと何度言えばww
0892日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 14:33:39.47
>>890
土蜘蛛婆さんの記事は風土記じゃなかったかな。
ともあれ、殉葬ではなくて、埴輪にしなさいとの婆さんの仰せだったようだ。
ということは、記紀に直すと垂仁天皇の時代だったということになるねえ。
0893日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 14:42:37.20
馬形だから殉葬は関係ない
5世紀以降だろ
0894日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 19:17:20.68
阿蘇の幅・津留遺跡は、弥生中後期の巨大集落
>「幅(はば)・津留(つる)遺跡」は、弥生時代中期後半(2000年前)から営みを始めた西のムラと、
弥生時代後期(1800年前)から営み始めた東のムラが確認されている。
東西のムラには、地面に突き刺した「立石柱」が残っている。
その長方形の中心線の方向は、夜、阿蘇・根子岳の上に輝く北極星と北斗七星に向けられている…、

>鉄で栄えた東のムラ
東のムラの竪穴住居からは沢山の鉄の道具(摘み鎌・鎌などの農耕具、袋状鉄斧、小刀など木材加工具)が発見されており、
住人は、裕福な生活水準だったことを示している。
阿蘇黄土(リモナイト)から作ったベンガラ(真っ赤な顔料)を大量に墓に使っていることからして、
この特産のベンガラと、方保田東原の鉄製品などを物々交換して農耕生活をしていたようである。
0895日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 19:24:00.68
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0896日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 19:49:17.01
中国の皇帝や日本の皇室には、独特の北斗七星信仰が見られる。
中国皇帝の祭服の左袖には北斗七星、右袖には織女がデザインされている。
また宮内庁所蔵の孝明天皇の礼服にも、背の中央上部に北斗七星が描かれている。

阿蘇幅・津留遺跡の東西のムラから出土した立石柱の指し示す先には、北極星と北斗七星があった。
このことから、北斗七星の動きに合わせて、祭祀或は葬送が行われていたとみられている。
古代中国文化と同様の信仰形態が、すでに弥生中後期の阿蘇のムラで行われていたことは、大きな驚きである。
0897日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 21:09:26.88
弥生文化には中国系文物が一切ないから、中国から入ったものではないね。

だいたい星信仰なんて世界中にある。 
0898日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 21:29:17.83
阿蘇には弥生時代から中国文化が入っていたのか。
まあ、前漢の頃から、倭人は年を間違えず朝貢していたとあるから、中国文化にも精通していたということだな。
弥生時代のイメージを修正するべきだな。
0899日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 21:44:23.22
方保田東原の鉄拵え石包丁はめずらしいものだと宣伝しているけど
半島では各地で出ている
そのあたりで身元がなかばばれちゃうだろ
0900日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 01:23:45.94
>>898



で、阿蘇のどこに中国からの渡来定着痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と
土壁の中国系住居と石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と
漢字の金石文と龍信仰と亀卜と、渡来時に伝わった中国系言語の単語があるの?


で、阿蘇に弥生時代から中国文化が入っているとウソブいている頭の湧いた
考古学者の氏名と所属団体は?


.
0901日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 08:51:48.31
前人未到の路:末盧国から東南の伊都国へ(森村伊作ブログ)
>伊都国が1000余戸か1万余戸だったかは議論の余地を残すが、それは「イツ」と呼ばれた国だったとみている。
>伊都国へは、末盧国の港(唐津港)から松浦川に沿って、山あいを縫うように唐津街道を通り、東南へ500里陸行する。
>多久市までが28キロメートル。そこから7キロメートルほど先の、眼前が広くひらけたところが佐賀平野の小城市。
0902日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 09:08:21.34
江戸時代の新井白石は、神功皇后記を拠り所に、伊都国を糸島(怡土)西部の深江に比定した。
明治以降、卑弥呼と神功皇后とは時代を異にすることを疑う者は徐々にいなくなったものの、
不思議なことに伊都国の場所は、依然として「鉄板・糸島(怡土)説」のままであり続けている。

地元論客の原田も、神功皇后記に由来する伊都国深江説を強烈に非難しながら、糸島東部の平原に移しただけで終わった。
しかし、倭人伝の云う方角は、末盧国の東南500里である。
森村伊作氏は、前人未到の道として、末盧国からは、唐津街道に沿って東南の佐賀平野へ進むべしと説いたのである。
0903日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 09:16:00.07
ご参考までに、
「鉄板・糸島(怡土)説」とは、
NHKの邪馬台国番組・知恵の泉における、明言(迷言?)である。
0904日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 09:27:23.16
もともと、神功皇后の話は魏志倭人伝の卑弥呼の話を上書きするために書かれたもの。
その頃から、伊都国は怡土という認識だったということ。
0905日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 10:56:12.44
>>904
そういうことなんだろうねえ
(このように書けば、人々の関心は正しき佐賀平野から離れ、糸島怡土(伊都?)に向いてくれるだろう)
(かといって記紀・風土記が、「糸島怡土は伊都国であった」と、断じたわけではない)
(ゆえに、大和朝廷が、卑弥呼を認めたことにはならない・・・、ふふふ、フェイク、フェイク)
0906日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 13:37:25.86
地元論客・原田大六の「糸島東部平原説」に対しては、
のちのち、方角が合わない、という反論がなされたようである。
これに対して原田は、自著の最終章あたりで、以下のようにエクスキューズしている。

倭人伝の方角は、伊都国までやってきた帯方郡使が記録したので、たしかに伊都国は東南と記述されてる。
しかしこれは、呼子から見た日之出の方向を元に東西南北を微修正すれば、問題ない。
さらに、畿内大和への方角のずれは更に大きくなっているが、
これは帯方郡使が伊都国より先へは行かず、伝聞に依ったものであるのでやむを得ない・・・、
と述べて、大多数の邪馬台国論者と同様に、ご苦労を重ねながら方角を修正している。
0907日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 13:53:04.26
振り返って見れば、
記紀・風土記に記された「この地を伊蘇(或は伊蘇志)という。今怡土というは訛れるなり」・・・、
の印象操作的作文は、1300年後の今日まで、絶大な効果・効能をもたらしたというわけだ、、、、
0910日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 15:44:02.40
>>909
いえいえ、どういたしまして。
下書きを2つに分けてレスしたので、後半の>>906が説明不足の文章になってしまった

>(説明不足)地元論客・原田大六の「糸島東部平原説」に対しては、・・・
>(補正文章)地元論客・原田大六の「伊都国は糸島東部平原にあった説」に対しては、・・・

で、その後、どういうわけか、平原は天照の都説も付け加わえることになったらしい。
たぶん昭和40年頃、大型内行花文破鏡(当初推定4面)が見つかって、そうなったのかもね。
0911日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 16:03:12.18
ま、皮肉といえば皮肉な話だけど、
仮に原田が、唐津街道を東南に進んだ佐賀平野に伊都国があった、といっていたなら、
大型内行花文鏡が見つかった時点で、「高天原の天照=卑弥呼は平原」と、すんなりはまったんじゃないのかな。

先に、「糸島は伊都国」と力説したがために、伊都国と高天原がかぶって、
「平原には天照大神=卑弥呼もいた」、といわざるを得なくなった。
そのせいで倭人伝の解釈もぐちゃぐちゃになり、収拾つかなくなってしまったのだろうね。
0912日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 16:07:13.47
伊都国説の唯一の弱点は、八咫の鏡はニニギ(三雲南小路の被葬者)が高天原から伊都国(筑紫の日向)持ち込んだはずなのに、ニニギの降臨からしばらくしてから伊都国で(卑弥呼が)製作したことになってしまうこと。
順序が少しおかしい。
0913日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 16:21:58.64
塗装鏡と一緒に出た平原の鏡はニニギの八咫の鏡じゃないから気にしなくていい
径40cmを越える大型鏡は南越墓から出ている
0915日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 17:57:09.49
でも、あれだね
江戸時代の邪馬台国論争華やかなりし折も折、福岡県の志賀島から金印が出てきた。
これは「倭人伝の奴国は、筑前福岡の那国ではないぞ」というサインだったのでは、とささやかれている。

昭和の邪馬台国論争喧々諤々の折も折、また福岡県の平原から八咫鏡が出てきた。
今度も「倭人伝の伊都国は、筑前福岡の糸島ではないぞ」というサインでは、とのうわさが絶えない。

ホントのような、ホントでないような・・・、
0916日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 18:16:19.95
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0917日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 20:07:44.97
江戸時代の新井白石は、記紀の神功皇后の記事を拠り所に、伊都国を糸島(怡土)西部の深江に比定した。
地元糸島生まれの論客・原田大六も、この伊都国深江説を強烈に非難したわりには、糸島東部の平原に伊都国を移しただけで終わった。
しかし、倭人伝の云う方角は、末盧国の東南陸行500里である。
森村伊作氏は、前人未到の道として、末盧国からは、唐津街道に沿って東南の佐賀平野へ進むべしと説いたのである。
まさに、倭人伝の示す通りの行程の先に、伊都国はあったのである。
0918日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 20:10:04.09
ねつ造?そのような事はするなと言っているんだよ、
どこの低脳なんだ
0919日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 20:11:29.84
それ、お前の家の話ではないだろう
と言ってる人がいたり


何の話なんだと思う
0920日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 20:38:40.41
九州倭国と畿内大和の関係を教えて欲しい
どのような経緯をたどって九州から大和に移ったか?もしくは九州倭国と畿内大和は同時期に発展していた文明だったのか?
倭国大乱の戦闘跡は畿内にもあるのか?
0921日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 20:44:34.95
畿内大和が発展していたというのが思い込みにすぎませんよ。
白村江で九州倭国が滅びて、その後に文物や人材を畿内が吸収して発展を遂げました。
701年の大宝律令、710年の平城京遷都などですね。
0922日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 21:27:29.74
695年、九州王朝年号では大化になります。
大化の改新がこの時期に行われていれば
大和朝廷への交代も説明がつきますね。
0923日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 22:27:40.65
西北九州の特殊技術を持った半島からの難民は
後から来た集団の技術のほうが有用だから
先に来ていた支石墓、甕棺造墓集団は没落した
北部九州で優勢な集団は常に入れ替わる
0924日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 22:28:17.64
白村江より前の畿内は、一地方勢力の1つに過ぎなかったでしょう。
筑紫倭国の時代と畿内日本の時代(律令体制)では、行政区分なども違いました。
0925日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 22:43:52.08
近畿と九州の分裂ではなく、

河内と大和の分裂なんだよなあ

常に九州ってのは、河内と大和の勢力争いに巻き込まれてるだけ

白村江だってそうだよね
0926日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 23:21:34.66
>>923
筑紫にあった王都の支配者は、しばしば入れ替わった。
その反動が、万世一系という妄想を作り上げたのかもしれない。
実際には、複数の部族が覇を争い、同族でさえも血で血を洗うような争いをしていたのが、倭国。
記紀における天皇家の中での争いや、熊襲の討伐、魏志倭人伝に残る倭国乱などの記事にその記憶が残されている。
0927日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 23:40:41.49
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0928日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 23:53:24.01
>>926

争いは弥生中期くらいしかしてないだろ
0929日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 23:54:48.55
何なんだ、その一系というのは?
基地外か何かなのか?
0930日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 00:04:49.34
九州説はとにかく古墳時代が嫌い
千年を超える時を経てなお、古墳という実物の質量が、
九州というのが特に見るべきもののない一地方に過ぎないことを明確に示しているから

墳丘長200メートル以上の大古墳は、全国に40基ある
奈良県 20基
大阪府 15基
岡山県 造山古墳
    作山古墳
    両宮山古墳 
群馬県 太田天神山古墳
京都府 神明山古墳 

トップ101で数えると墳丘長137メートルまで数えることになるが、
奈良県 34基
大阪府 27基
岡山県 9基
群馬県 5基
京都府 5基
兵庫県 茨城県 宮崎県 3基
三重県 2基
宮城県 山梨県 愛知県 鹿児島県 福岡県 千葉県 
岐阜県 福井県 石川県 香川県 埼玉県
が1基ずつだね
ちなみに福岡県は岩戸山古墳で80位 筑紫君磐井の墓だね
これで、古墳時代の間中ずっと存続していたという九州王朝を
どうやったら想定できるのか
0931日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 00:15:01.59
↑時代錯誤
0932日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 00:15:53.86
最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。
0933日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 00:23:18.15
わかったから、もう頭の病院に行け
0934日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 00:25:44.28
刑務所に入れられる前に、頭の病院に行け
0935日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 07:50:58.11
>>931
>↑時代錯誤

??
昔も今も古墳の大きさは変わらないよ?

効いてる効いてるww
ってことでいいのかな?w
0937日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 08:46:19.58
白村江まで筑紫に王朝があったと書いてるから
全国の古墳規模の比較をしてるんだからな
0938日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 08:55:13.13
>>935
古墳時代じゃないと言うのもあるが
大和と倭国で文化が違うと言う事だろ
倭国倭人は刺青集団
大和倭人は古墳集団
同じ倭種でも違う文明なんだよ
0939日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 09:16:21.45
古墳時代の人物埴輪に刺青あるから
0940日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 09:49:04.48
>>932
>最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
>後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、
>井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。、、、、
>これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、
>出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。

↑これが、順当な見方だと思うね。
上記の、糸島平野を含む一連の遺跡は、博多那国(奴国)の代々の王家の谷だったと考えるのが正しい。
0941日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 10:41:42.32
>>938
>大和と倭国で文化が違うと言う事だろ

奴国  那珂八幡古墳
伊都国 端山古墳

古墳時代初期から、北部九州も古墳文化の下にあるね
逃げ口上を言っても無駄だよw
0942日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 10:45:49.56
>>940
それ全部、2世紀以前で、卑弥呼の時代に届かない

古い時代に、北部九州が朝貢して栄えていたのは確かだけれど、
3世紀の卑弥呼の遣使のころには、九州は衰えている

漢鏡の出土も減るし、他の地域が大きな墳丘墓を作っている中、
北部九州にめぼしい墓は、吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓くらいしかない

その吉野ヶ里も、卑弥呼の登場前には衰退している
考古学的状況から見ても、卑弥呼の時代の北部九州はオワコン
0943日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 10:46:38.44
原田大六著:邪馬台国論争より
>福岡県怡土郡深江付近(のちの糸島郡西部)を初めて伊都国に比定したのは新井白石であろう。
>彼は、神功皇后を卑弥呼と考えていたので、鎮懐石伝説の深江を結び付けたまでのこと。
>しかし、伊都国の中心部は、怡土郡の東境に近い現在の糸島郡前原町大字三雲付近と考えられる。


とはいうものの、糸島郡を伊都国に比定した理由はといえば、
新井白石も、白鳥庫吉も、榎一雄も、原田大六も、その他大勢の論者も、神功皇后伝説の尾を引いていたことに変わりはない。
0944日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 10:56:59.92
>>942
北部九州(博多那国圏)の旧勢力に変わって、台頭してきたのが、
最新式の鉄製武器・農耕木工具を携えて佐賀平野に進出してきた馬韓系の渡来人勢力だったのではないのかな。
そしてその新勢力が、倭国大乱を制し、共立倭国を打ち立てたと考えてはどうかな、、、
0945日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 11:58:44.04
北墳丘墓は紀元前1世紀前半
0946日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 13:44:29.65
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析によると、ちょうど朝鮮人とオロチ、ギリヤーク(ニヴフ)の
中間あたりの位置を示す。

オロチ、ギリヤーク(ニヴフ)の分布位置と朝鮮半島のちょうど中間あたりはウデヘ、ナナイの
住む沿海州南部あたりで、これは弥生開始土器の示す沿海州南部と整合している。


http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/1-thumb.jpg
http://f.hatena.ne.jp/nyankosensee/20110813183224
0947日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 18:23:50.28
>>921
おいおい巻向遺跡の存在を無視かよ
7世紀以前から奈良にも大規模な文明があったのは事実だろ
で、俺九州論者だが
0948日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 18:29:42.13
単純に考えて
邪馬台国は狗奴国に負けたと
考えればすべての説明がつく
0949日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 18:41:48.98
単純に考えて
女王の倭国は狗奴国に勝ったと
考えればすべての説明がつく
0951日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 19:46:40.86
>>947
全国どころか、畿内でもそれほど抜きん出ているわけではない。
金属器の少なさ、交流相手が尾張だけという狭さから見て、尾張に付属する一地方の一つにすぎないです。
0952日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 19:47:13.40
単純に考えて、狗奴国とは和解したでいいんじゃないかな
台与は狗奴国も納得できる王だったと考えればいい

復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王、國中遂定

この「国中」が狗奴国も含むとすればそれで済む
0954日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 19:48:47.78
そう思う。
もともと卑弥呼も狗奴国の王も同族に思えるし。
倭国の中の内乱に過ぎない。
0955日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 19:49:32.96
纒向遺跡への搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%

纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。
邪馬台国が交流していたはずの楽浪郡からの土器も出ない。
0957日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 22:57:20.69
>>951
邪馬台国とは別国と言う所までは分かるが
大規模な遺跡や出土品とか宮殿跡があると言う事は大和は本州の首都だろ

邪馬台国が戦乱に明け暮れてる間に
地道に発展させた徳川家康みたいな奴が
いたとしか考えられないのだが
0958日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 23:03:14.57
>>956
北部九州は畿内様式土器を受け入れ地場の土器を放棄しているし、
奴国の那珂八幡古墳が作られるのは邪馬台国とほぼ同時代で、畿内発祥の古墳祭祀を受け入れている

北部九州の中心、奴国と畿内が緊密に連携している以上、別の文化・別の国という解釈が
成り立つ余地はない
0959日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 23:08:55.32
>>958
親戚だったんだよ
卑弥呼と卑弥弓呼
似すぎだろ、卑弥弓呼はスサノオじゃね?
0960日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 23:18:48.18
>>968
残念ながら、畿内発祥は思い込みかな
古墳の拡がりについては同時多発的に各地に発生

畿内の3世紀後半〜の大型化等を見てると、ある程度の集権はあっただろうがね
西日本全体を集権範囲とするのはいつからだろう?とは思う
0962日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 23:40:38.63
>>958
別の国、やや別の文化だった
0963日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/01(木) 23:57:31.66
畿内といっても、発展していたのは河内など沿岸部だよ。
しかもそこは纒向から近いはずなのに、土器の流れからはあまり交流がなかった。
纒向は尾張側だったんだよ。
少なくとも纒向は畿内の発展の中心ではない。
0964日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 00:13:01.77
>>963
ぶっちゃけ巻向って
言う程でかいん?
0965日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 00:18:42.91
倉庫のような大きな建物。
問題は、周りが過疎すぎること。
そして鉄器が出ない。
田舎の更新地域に箱物があったイメージ。
千人の奴婢が勤務できる王城ではない。
0966日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 00:40:47.15
民家も無いしな
0967日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 01:10:16.95
倉庫というよりは神殿かなあ
0968日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 07:50:35.67
>>965
過疎?
過疎なら昔は栄えていたって事じゃね?
0970日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 08:02:39.80
>>960
>残念ながら、畿内発祥は思い込みかな
>古墳の拡がりについては同時多発的に各地に発生

残念ながら、同一規格で作るという合意なしに
「同時多発的に各地に発生」するなんてことはできないんだ

その合意がどこでなされたかと考えれば、纒向以外を想定することは不可能だし
結局、纒向発祥以外の結論にはならないんだよ

九州説はオワコン
0971日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 08:08:10.93
>>963
>しかもそこは纒向から近いはずなのに、土器の流れからはあまり交流がなかった。

大和と河内は、第V様式、庄内式、布留式と同時に土器様式が変遷する
一つの勢力としてまとまった「国」であり、その国の中に土器の製造センターが
河内と大和にそれぞれあっただけ
同じ土器をそれぞれ作っているだけだからわざわざ持っていく必要がない

河内に初期古墳がないのも、河内の首長も大和の大倭・柳本古墳群に
墳墓を作っていたからだよ

河内と大和は一体の国
0972日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 08:21:39.83
>>970
>その合意がどこでなされたかと考えれば、纒向以外を想定することは不可能だし

まったく根拠ない。
河内政権の方が現実的だ。
0973日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 08:30:16.77
>>970
ウィキペディアに
「全国的には、徳島県の萩原一号墳や鳥取県南部町の浅井11号墳、福岡市博多区那珂1丁目の那珂八幡古墳など3世紀の前方後円墳が多数ある。
近藤義郎によれば、全国の前方後円墳を築造された時期別に畿内編年の1期から10期の10段階に分けて整理すると、
最も古い1期でもっとも多いのは筑前(福岡県北部)で9基、第二位が播磨(兵庫県)で8 基、第三位が大和で6基、以下備前、美作、備中(岡山県)、讃岐(徳島県)となっている。
さらに朝鮮には3世紀に石積みながら前方後円墳が多数ある。以上から、この地が前方後円墳の発祥地とは言えない。」
と書いてあるのはウソなの?
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%92%E5%90%91%E9%81%BA%E8%B7%A1
0975日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 08:39:36.47
半島の3世紀の積石塚はウソ
実測図をみてあれを前方後円墳だとするまともな研究者はいない
騎馬民族説信者と天皇渡来人説信者が
江上波夫と森浩一のリップサービスをたてに現在も喚いてるだけ
0976日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 08:50:05.48
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0977日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 09:01:36.44
>>971
>同じ土器をそれぞれ作っているだけだからわざわざ持っていく必要がない

からの土器だけ運んでいたとでも思ってる?
中にその地方の産物を入れて運ぶわけだよ。
海のある河内と内陸の大和では産物がまったく違う。
しかし交易していた痕跡が乏しい。
瀬戸内の富を集約した河内摂津に対して、尾張の傘下にある大和。
これが纒向の頃の関西圏の構図なのだろう。
畿内というまとまりはない。
0978日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 10:32:41.31
纒向から河内の土器出てるから
0979日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 10:35:59.82
ほんの少し。
0980日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 10:55:36.64
大和と河内の庄内の違いはヘラ方向程度だから
お互いに行き来しても、土器職人でもない限り
わざわざ土器を作らなくてもいいから
0981日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 11:12:47.59
空の土器だけ運んでいたとでも思ってる?
海のある河内と内陸の大和では産物がまったく違う。
しかし交易していた痕跡が乏しい。
0982日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 11:17:33.69
乏しいことにしたいんだろ
0983日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 12:44:37.56
畿内説は言い張るだけ。
だから信用されない。
0984日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 12:50:00.93
考古学会はももう少し九州にも力を入れて欲しい、九州には遺跡があると分かっていながら全く調査が入ってない地域がある
0985日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 13:24:46.06
>だから信用されない。

構わん
学者は畿内説だから
0986日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 13:44:30.57
>>985
人はこう呼んだ

『GOD HAND!』
0987日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 13:57:19.30
藤村はアマチュアだから
0988日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 13:58:15.42
>>972
>まったく根拠ない。
>河内政権の方が現実的だ。

河内政権と大和政権を区別する根拠は?

同一政体である根拠は>>971で示したように
「大和と河内は、第V様式、庄内式、布留式と同時に土器様式が変遷する 」ことから明確になっている
0989日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 14:02:22.88
>>974
>発生期は同一規格じゃないでしょ

吉備の楯築墳丘墓や、出雲の西谷9号墓は古墳時代の発生期よりも前だよ

古墳時代発生期の初現古墳が同一規格なのは、例えば京都の向日丘陵古墳群の
五塚原古墳を見れば分かる
箸墓古墳の3分の1サイズ
0990日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 14:15:58.72
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0991日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 14:51:35.16
古代の大和政権そのものが幻想だったかもしれない。
いい加減に、神武の即位以来の大和における王権などという夢は捨てるべきだ。
大和は関西における中心ですらない。
0992日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 16:10:11.73
ま、あれだ。
寺沢ほかの撤退が相次いだため
「畿内箸墓が卑弥呼の墓、そして怡土郡(糸島郡)が伊都国だった」という昭和の原田大八の構想も、あえなく崩壊してしまったわけだ。
0993日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 16:15:09.02
大八は二つ多い
0994日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 16:19:32.82
>最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、
>および、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
>後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して、いわゆる伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、
>井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。、、、、
>つまりこれらの王朝は、まず高祖山の東の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野へと移動している。
>出土品や墓制が同じであることから、基本的には一連の王権であると考えられる。

これら糸島平野を含む一連の墓跡も、博多那国(奴国)の代々の「王家の谷(墓場)」だったと考えるのが正しい。
0995日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 16:24:44.37
>>993
座布団八枚、いや座布団六枚!!
0996日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 16:44:35.27
(森村伊作ブログより)前人未到の路:末盧国から東南の伊都国へ
>伊都国が1000余戸か1万余戸だったかは議論の余地を残すが、それは「イツ」と呼ばれた国だったとみている。
>伊都国へは、末盧国の港(唐津=津は川の港)から松浦川に沿って唐津街道を通り、山あいを縫うようにして東南へ抜ける。
>多久市まで28キロメートル。そこから7キロメートルほど先の眼前が広くひらけたところが佐賀平野の小城市。伊都国はすぐそこだ。
0998日本@名無史さん
垢版 |
2018/11/02(金) 17:30:29.81
>>991
そこまで否定せんでもよい
邪馬台国に幻想を抱く奴らは
畿内説論者と一緒だ
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