【家康没後400年】徳川家康のためのスレッド [無断転載禁止]©2ch.net
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没後400周年なのにスレッドがないようなので立てました。
真田丸でも散々なキャラにされてます。 >>139
↑
誰かコイツをつまみ出せ
女子供は来るなよ リアルでは、名古屋よりも三河のほうがミャーミャー言ってる。 >>141
でも、嘘ばかりだもんな
嘘で固めてすごいんだぞといって何か楽しいのだろうか 幾多の窮地を助けてもらった
叔父・水野信元を大樹寺に
呼び出して、息子もろとも斬殺。
先祖代々の菩提寺を血と陰謀で汚した。 徳川家臣の半数以上が一揆方に
ついたと言われる
三河一向一揆の時でさえ
家康に味方し続けた竹馬の友
石川数正の突然の寝返り。 幼少期から家康の側近として
仕えてきた三河三奉行の一人
天野康景の領地を放り出しての
突然の出奔。 切腹させられた長男・信康。
疎んぜられ他家に追放された
次男・秀康。 >>144
北朝鮮の将軍様と一緒なんだわ
金王朝と程度は変わらない >>149
それは徳川家に失礼だな。
そもそも将軍様による天下を実現したのは
はるか900年前の源頼朝が先駆者。
そして徳川家康は将軍様を超える
大御所様、そして権現様となった。
金はいまごろ真似してるだけ。
日本より900年は遅れていることになる。 三河ヲタが沈黙したままなのは
敗北を認めたということだな。 三河ヲタを自認しながらも
大樹寺暗殺事件とか知らなかった
ようだな。
自分に都合のいいように歴史を
解釈、あまつさえ捏造する手口は
言語道断。 >>150
将軍を超えたのは徳川のみ
源道義なんて関東すら抑えられずに何が将軍だ >>114
訂正
浅野長政は愛知県北名古屋市
でした。 大阪方もなんであと数年待たんかったんやろか?
大阪夏の陣の翌年家康亡くなっとるのに
次の秀忠なら勝機もあったろうに 結果を知ってる歴史論って阿呆みたい
戦国時代板でやればいい 夏の陣の時点で75歳だぜ
あと数年待つだけで確実に家康お亡くなりになるのにもったいねぇ
秀頼側に有能な家臣が居なかった&淀がしゃしゃり出すぎた 家康の死を待ってもどうにもならんよ。
あの時点では既に徳川体制は盤石だし。 家康って良い人生だなと思う
目標達成して翌年には死亡
晩節を汚すことがなかった >>161 冬の陣でも夏の陣でもいい、家康 秀忠 を真田あたりが同時に
消してしまっていたらわからない。 夏の陣で豊臣家勝利の可能性なんて万に一つもないよ
家康が没した所でどうにもならない
家康は冬の陣の講和推進派で秀忠が主戦派だったからな
講和をちゃんと守ればよかったのにあほなことだ 真田が家康秀忠に勝った場合
松平忠直か
松平忠輝が将軍
忠輝勝利の場合は伊達政宗が
ちゃっかりと関白となるだろう
豊臣氏の没落を防ぐのは難しいと思うぞ
あ
忠輝が江戸将軍なら
幕府年寄は大久保長安で
関東副将軍は里見な
里見の謎 家康亡くなってから乱起こせばいける
伊達上杉島津毛利で江戸征伐すれば戦国に逆戻りできる 無理だな。
特に毛利や上杉は30万石程度の弱小だぞ >>168 >>169 それだけ、動きゃ、安芸の福島 筑前の黒田 肥前の鍋島 肥後の
加藤 阿波の蜂須賀 土佐の山内 あたりが動きだす。外様を辺境に置きすぎたのが
逆効果になる。 仮想戦記でももう少しマシな発想するわ。
奥州仕置きと同じオチになるだけ。 >>171 懐良親王の東征よりは、可能性はあると思うが。四国や中国からも
味方を募っておる。 無理、徳川と毛利は裏で繋がっている
源頼朝の側近が大江広元だったように、徳川の側近の酒井は大江広元の五男の家系、萩氏庶流ではないか
家康が生まれた岡崎の平安時代の領主、高階惟長の嫁は大江広元の娘だった
明治維新とは江戸の三河武士から、長州の三河武士への国譲り
実は明治政府というは三河国宝飯郡萩に隠れ住んだ南朝落人の政権で、同じく南朝系を称した徳川政権から禅譲されただけ
譲られただけだからこそ江戸城は無血開城され、今までどおり東京が首都になった
徳川幕府は崩壊していないわな
http://books.google.co.jp/books?id=RVXyIQq5VMYC&pg=PA46&lpg=PA46&dq=%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E8%90%A9&source=bl&ots
=tYDHrH7uuT&sig=fBVt13JJ3pGPoJN1o7c5a6G4XE8&hl=ja&sa=X&ei=bHggU5HHKImgkgWuoYD4Bg&ved=0CDkQ6AEwAw#v=onepage&q=%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E8%90%A9&f=false
>三河の萩の南朝の末裔が、大江氏に連れられ長州に移り住み、三河の萩を忘れない為に萩と名づけた
三河国宝飯郡萩と大江広元(毛利氏の祖)
大江忠成(海東忠成)
・鎌倉幕府評定衆
・大江広元の五男
・三河の藤姓熱田大宮司家に養子入り
・熱田大宮司
藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→範忠→忠季→忠兼→海東忠成(養子入り)→萩忠茂(三河国宝飯郡萩、萩大宮司))、 無理、武士の世界は縁故が古いほど尊重される
徳川と上杉が徹底的に反目するとは考えられない
■上杉氏
太田亮
上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
足利尊氏が生まれただろう上杉氏の屋敷
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 家康17,000 vs 秀吉100,000
家康は秀吉軍を『上方の弱い軍勢』であると見下していた。
(「NHK英雄たちの選択/小牧長久手の戦い」磯田道史・岡山県出身の歴史学者) もし秀頼が生き残って家康が死ねば、秀頼が関白就任して豊臣政権が復活したかな? 秀頼関白で関白家の固定なら
藤原摂関家の逆襲がありそう
秀忠の後は摂家江戸将軍が成立し
土井利勝が執権につくも西軍に敗北
西軍が関東制圧後はさらに北上し
加藤明成の籠城する会津城での合戦となる 豊臣政権の五大老や五奉行も世襲化すると
相互に既得権益の争いになり、何も決められず、政権として機能しなくなっていく感じがする。
豊臣の後継者がよほど強力な指導力が無いと室町幕府の山名細川の対立のように
毛利徳川が喧嘩して政権瓦解で再び戦乱の世へ、なんて最悪のケースもあり得る。 >>178
五大老五奉行はあくまでも幼少の秀頼が成人するまでの臨時職だし
世襲化の意図はなかったんじゃないか
徳川は秀吉が外様の五大老に政権運営を任せて崩壊したのに倣い
幕府役職は譜代だけのものとして大封の外様を完全に締め出した
それでも幕末には薩摩や長州などの外様連中の下の者ども騒ぎだして
幕府を滅ぼしてしまったからどのようにしようが滅びるときは滅びる >>179
家康、利家の場合は秀頼成人まで保たない可能性を考えれて世襲指定してたけどな 五大老は一代かぎりの話だろうね
ただその時点で色々にらみを効かせられて、その上お互いに牽制できる力関係だと思ったんだろうね
でも徳川がやや突出してたけど。 家康は「律儀の大将」というのが結構当てはまる人間だから、
秀吉が家康に丸投げしたのは正しいだろ
関ケ原の戦いが起きても豊臣家は摂河泉65万石の徳川御家門として残る路線なんだから充分におつりがくる
秀吉は人物をよく見ていたと言わざるを得ない 他に頼れる大大名いないしな
せいぜい前田利家か毛利輝元か、になるんだろうが。
毛利は中央から遠いし島津あたりに睨み効かせてほしいし。
五奉行が力不足すぎたのも豊臣に悪い流れを生んだな 尾張農民は甘えすぎじゃね
大名どころか、日本国の歴史において尾張農民は恥とばかりに亡きものにされたよな 実際尾張って天領よりも年貢が安く、甘やかされていたし。 >>183 輝元は叔父の小早川隆景がいないと、なんの役にも立たない。 普通なら、後に許されてお家再興だがな
豊臣は日本史の汚点とばかりに抹殺されたよな 豊臣時代の
天下六大将
徳川 前田 毛利 上杉 島津 佐竹
このなかだと徳川に単独で発狂すれば勝てそうなのは島津しかいない
この二者をぶつけるには岡山に遷都し
徳川と島津の首都への距離を等分にするしか無い
あとは岡山で大政参与となる宇喜多秀家が実父に似れば
両軍の総大将が不在となり応仁の乱パート2となる >>176
秀次とその側近団を始末したせいで、政権中枢の人材不足から大身外様を大老にして政権の安定化図ったんだろ。
秀吉から秀次に政権委譲できてたら徳川らが政権中枢に入ることすらなかったのにね。江戸期の前田みたいに。 いい加減ゴッコの話は辞めろ
日本統治の経験のない尾張の田舎者のおままごとが長続きするわけないだろうが >>188
おねの実家が木下家として残ったじゃん、豊臣姓を名乗ってたし 徳川っつったって家康が凄いだけで、秀忠単独で秀頼健在な状態で毛利や上杉まで抑えきれるわけがない。
だから家康は存命中に秀頼の息の根を止めた。 そんなことはない。秀忠が将軍職を継いだのは大坂の陣の10年も前のことだし。
大坂の陣では主戦派だった秀忠や家臣団にも家康はかなり配慮している。 あの時点で毛利も上杉も中堅クラスがいいとこの日和見状態だもんな 毛利は先収貢租返還、萩築城、天下普請などで財政がボロボロ。大増税で一揆まで発生してたし、上杉も多少はマシとはいえ似たような状況。
ぶっちゃけ中堅以下じゃないかな 家康が秀頼討滅を決意したのは夏の陣の前くらいの段階で
それまでは温存路線だよ。牢人衆の不退去問題に秀頼が乗って和睦が反故にされた段階で諦めた。
あまり本意とは言えない解決だっただろうな。 落城は早速たるべし
子細は御袋は専制にして秀頼は乳飲み子なればなり 細川忠興から見たら後詰のない籠城で指揮系統も不明確
譜代家臣の5倍以上の牢人は金で雇ったんだから負けは必然に見えたんだろうな
誰も味方に付くわけがない
戦乱が原因で余った女性がヒステリックにならないという保証はない。
黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!
赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。
それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。
台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。
赤の遺伝子afb1b3が入ると南方人になり、日本人種が穢れる。
gm遺伝子
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/001Gmidensi_1/asiaandjp.gmidennshi.nobunnpu.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:64a812ccf8e4a0c33443d7cecf6a78f3) 徳川は明治で落ちたが基本的に強いよな
平成日本はゆるく観光地化してるけどそれもまた運がよい証拠
まあなんとなく家康鯛てんぷら丼でも食ってくるわ 宗家、慶喜家に水戸家が侯爵から陞爵して徳川公爵家は三家 江戸時代は御三家とはいえ水戸は最高官位は中納言止まりで格下だったのが明治になって侯爵で同格と引き上げられている。
昭和になって皇国史観の高まりに伴い、大日本史編纂の功績ということでさらに公爵へと格上げされた。 まったく純粋に基準に爵位を当てはめると
水戸家は伯爵にしかなれなかった >>210 >>211 >>212 >>213
宗家、慶喜家 は朝敵なのに。
>>213 御三卿はいらんのにな。 家康にしてみたら歳も60近くなって秀吉がなくなって、
徳川家の存立のために奔走しなくちゃいけない状況って物憂かったと思う
どの大名だって豊臣家時代に築いた自家の安泰さえ保全できればそれで満足なのだから
豊臣家の吏僚派や政敵の大名に目の敵にされて戦ってたら
いつの間にか自分が天下を切り回さないといけなくなった
しかし、家康以外に適当な代役がいなかった >>214
一橋を最終的に使ってるからいらなくはないのでは。
ただ徳川も終わりのほうは後継者生まれないね
やっぱり恵まれすぎは生命力さがるのかな >>216
戦国大名とか大名の一族クラスでもバンバン戦死するから子供の数も多いよな。
そしてその子がどんどん戦死するんだよなw 家斉家慶はまあ頑張った
ただ家慶の子供が女含めて30人ほどいたのに成人したのが
半分池沼の家定一人だけっていうのがな >>218
家斉世継ぎ多いのは知ってる
側室も世継ぎも最多だっけね
本人が病弱?だったのが不思議なくらいだな スレが伸びてると思ったら
スレタイ読めないバカが湧いてただけか >>221
そう思うならスレタイにそった書き込みしろバーカ >>215 毛利元就も家を守るために戦っていたら、中国全土と筑前 伊予 まで
版図が広がっていたらしい。それと、似ているね。 偏諱を与えた家臣って
榊原康政とか大須賀康高がいるけど
なにか基準があるの? あの三方ヶ原の敗戦から長篠、天目山にいたる武田軍との戦の経験がなかったら、
家康は小牧・長久手で秀吉にコテンパンにやられてたってこと考えられる。 >>223
形は違えど幕末に一度毛利氏が天下をとった事になるのか ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 江戸中期以降の松平のおちぶれぶりと言ったら…
ソースは池波 秀忠さんのスレはないんだね。
最近、ドラマに出てくる度に評価を落とされてる印象がある。
徳川将軍は一般に遺体の情報を公開されがちだがやけにリアル。
>この際に秀忠の遺体の調査が行われたが、その遺体は、
>棺の蓋や地中の小石等の重みにより、座した姿勢のまま
>その衣服等とともに縦に圧縮され、畳んだ提灯の如く
>つぶれていた。圧縮により変形が激しく、また骨が著しく
>分解され軟化していたため、詳細な調査は不可能であった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%A7%80%E5%BF%A0
ここまで晒されたら祟るかも。 BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 「日本」という国号は、畿内を中心とした大和朝廷を指す国号として成立した。本来、「日本」とは畿内の政権のことを指し、「日本人」とは近畿を中心とした西日本の人々「大和民族」を意味した。
東の地(関東・東北)の人々は 吾妻 蝦夷と呼ぶ日本の外に居る被差別民。
従って現在の東日本の人々は「蝦夷」の子孫であり、正しくは「日本人」ではない。
※あるいは、大和朝廷の政策により東京関東に朝鮮半島からの奴隷・棄民等を入植させており
東京人「朝鮮人奴隷の子孫」と言える。
666年 百済人2000人を東国に移す
716年 高麗人1799人を武蔵國に移す
758年 新羅人74人を武蔵国に移す
760年 新羅人131人を武蔵国に移すetc
近畿及び西日本の人々は大和朝廷の「大和民族」の子孫であり、真の「日本人」である。
正史「日本書紀」に記されているように、日本人は単一民族ではなく「大和民族」と「朝鮮奴隷、蝦夷などのその他」に分けられる。
以上のことは過去・現在・未来において不変。 俘囚のことを無視してはいけませんねぇ
っていうか家康に絡めて話しろよ 家康は信長との同盟20年、秀吉政権に入って10数年で相手を裏切ったことがない
秀吉の没後も家中の一部の反対を抑えて婚姻を実行したり、
いったん盟友関係になると律儀な人だったのは間違いない
>>226
大内氏などと違って畿内に公方も擁立できてないのに取ったとは言えないでしょう >>9
豊臣家は天皇を利用した関白の地位で正統性が担保されているが、
1600年前後に関白はおらず、左大臣もおらず、
いたのは秀次事件で連座して豊臣に恨みをいだく右大臣の菊亭晴季と、
関白の地位で三方ヶ原の勝ち戦をなかったことにされ、家臣筋の秀吉に天下を盗まれて従わざる得なかった内大臣の徳川家康だった。
この状態で政務を代行するのは誰かとなれば内大臣家康しかいないし
豊臣家は天下を統治する正統性のない状態だったんだよ
その後は征夷大将軍が生まれ、武家は将軍の命令に従わないわけだから、逆らう豊臣家滅ぼされてもしかたないといえる。
秀吉は信長の臣下で、家康はその信長の盟友で縁戚だった。これを関白の地位でねじ曲げていたのが秀吉なんだから 最後から二行目訂正
×武家は将軍の命令に従わないわけだから
〇武家は将軍の命令に従わなければいけないわけだから >>9
あと、関白に尽くした恩賞が先祖伝来の三河から引きはがして敵地だった関東に移封したわけで、
徳川は自分の方が主君筋で、戦にも勝って、関白に尽くして貢献したにもかかわらず、移封という嫌がらせをされたわけで、豊臣に恩なんかないわな まあ虫ケラが関白になったら国を汚す
秀頼達の駆除は正しい 家康が今川家を大事にして、織田家と同盟を結ばなかったらどうなるか?
それでも、史実とそう変わらないと思う。
築山殿や信康を大切にされるから、そっちの方が美しいんじゃないか?詳細はこんな感じでどうだ?
1560年 桶狭間の戦い
駿府へ戻る
1561年 三河の防御を命じられる
しばしば織田方に攻めかかるも、藤吉郎秀吉の機略で攻めきれず、にらみあいになる。
1562年 織田に対抗手段として、松平今川は武田北条と同盟。
三河一向一揆が起こるも、これを沈める、以降今川の重心として活躍する。
一方、織田は畿内を掌握して対抗する。以降、拮抗状態になる。
1582年 本能寺の変で、織田信長が明智光秀に討たれて斃れる。
中国地方まで進軍してた秀吉は、明智を討つ。
勢いに乗った秀吉は、信濃に攻め込み甲斐の武田を滅ぼす。
甲斐の混乱に乗じて武田の旧領を押さえ込み、秀吉に対抗。
1584年 小牧・長久手の戦い
(以降、関ケ原まで史実どおりに)
1603年 家康は、今川氏真を担ぎ出し今川幕府を開き。
以降、有能な執権として政治手腕を発揮する。
1615年 幕府に従わない大阪城の豊臣を滅ぼす(大坂夏の陣)
1616年 家康死去 >>240
秀吉最盛期に戦下手な徳川家康の後ろ盾のみで
今川幕府が開けたというのが無理すぎ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています