【阿曇氏】海人族 part2【宗像氏】 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
前スレが落ちてしまったので再び立てます。
謎多き海人族について語るスレ
海人族とは何者だったのか?
天孫族との関係は如何なるものだったのか?
前スレ
【阿曇氏】海人族【宗像氏】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1317289551/ 記紀海神族の可能性というのは、
縄文以来、倭人伝によって金印57年以降の九州北岸の諸国であって
倭国大乱後190年付近で卑弥呼擁立の筑紫21国の北部博多湾岸国だよ。
或いは、
BC200年辺りから本州への青銅搬入を背負った
これは、邪馬台国勢力が及ばなかった
遠賀川地域〜隠岐出雲〜丹後〜糸魚川〜男鹿の日本海縄文海神。
瀬戸内海海神、吉備と繋がる行橋中津地域の、海賊w氏族もあるかと思う。
本願的には銅鐸文化の非統一によって
壱岐と沖ノ島、対馬の東岸と西岸で別れる
本州寄りと九州系の2系統が有るべきかと思う。
宗像より古そうな、安曇族が卑弥呼擁立の海神族、まあ 奴国が妥当で、
卑弥呼没年247年以降、『因齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩』
による、東夷侵略加担要請の魏との交流を嫌った、
大和朝廷の前身に下った、当時の邪馬台国の一国、奴国や所属国が
半島や糸魚川方面の開拓に配流されたというのは当然有り得る。
これは三国志中国統一半島進出の魏に、屁垂れた卑弥呼の危機を察知できた、
朝廷が有ったからこそ、富国強兵で半島進出や牛馬の移入に成功したのであって
大和朝廷成立への古代日本史史上でも 決定的な好采配だろ?
こんなもん、戦国の歴史の可能性として、全然、謎じゃないだろ? 北方馬賊侵入説だっけ? って有っただろ?
馬と鉄器が敵だと、縄文の関東方面は当然敗北する。
ところが、歴史はそうならない。
300年当時の富国強兵で関東に馬が導入されるのは
朝廷の御牧や、貨幣価値のある税としての稲を栽培させたからである。
おまえら、米が喰えるのは誰のおかげだよw
なんで、弥生人は米の為に郡国領主の奴隷になるかねwww
治安を提供されない土地所有は無い。
戦国領主は、朝廷から領地安堵を認められた。
これが、日本史の基本だろ?
水戸学の基準で、現代では記紀は、デタラメなんだがw
それによって、歴史上の固有の領土というものが確定している
日本の天皇制は永遠でなければならない。
歴史の話で、中韓が歴史上固有とか、ないからwww
チベットウイグル満州がなんで中共だよ?
世界征服が解放軍だろ?
竹島の韓国人に至っては、盗っ人猛々しい。 >>432
どこの世界の「普通」だよ。
そもそも、弥生時代を遡れば遡るほど、南九州など何もなくなる。 銀座といえば、普通は東京都中央区銀座を指すのだろうが、どこかの田舎が「うちにも銀座があるから、どちらかわからない」と嘯くようなもの。
筑紫の日向は弥生銀座の一角を占める福岡市西部だよ。
それ以外の場所だというのなら、その根拠を示せ。 >>430
もうね、お前の姿勢は郷土愛か何か分からないけど頑なに阿曇の本貫を志賀島にしたくないという感情論が最優先されてて話にならない。
阿曇に呼応する住吉の存在からも意図的に目をそらしてるし、摂津安曇が志賀海人族の信仰を乗っ取ったなどという暴論を持ち出してまで煙にまこうと必死になる理由が不明。
住吉の本社が博多湾の南岸にある住吉神社で、海神の本社が博多湾の北の沖にある志賀海神社なのだから、素直に史料と現存する神社から読み解きなさいよと言いたい。
摂津には海神の本社もなければ伝説もないのだから。 奴国研究者の受け売りだと、黄泉の国から「帰って来て」から檍原に「行って」禊をしたのだから
帰ってきた場所は淤能碁呂島=博多湾に浮かぶ能古島で檍原は志賀島って説を見たことがある 黄泉の国って、日本列島以外の
当然の隣接半島の事? だよね? クワバラクワバラw。 今でも筑紫日向(竺紫日向)は宮崎だなって言ってるやつが入るんだな >>438
タチバナというのは岬のことであり、小戸すなわち九州半島側であることは確実。 >>441
温泉といえば九州であることが確実。
また、黄泉比良坂の、ヒラは上り坂、サカは下り坂なので、黄泉の国は奴国から峠を一つ越えただけのところにある。
少なくとも福岡県内であり、本州でも半島でもない。 >>443
九州半島側ではなく九州本島側な。
誤変換容赦。 >>437
なんか、スゲーふぁんたじーワールドだな。
日向は普通、南九州のことだが、その日向が福岡市あたりだというその理由については、爪のあかほども説明ないな。 >>438
能古島は、残(のこ)の字が使われることがあるので、(残った嶋)が能古島の意味だろうよ。
つまり、志賀島が陸繋島となって本土につながったので、能古島が最後まで海中に残った島という意味だろうな。 >>438
黄泉の国で伊邪那岐は伊邪那美に、「伊邪那岐命語詔之、愛我那邇妹命、吾與汝所作之國、未作竟、故可還」と言ってるから、還ったのは淤能碁呂島で間違いないと思われ
淡路の比定地で人気があるのは自凝(島)神社のある沼島か淡路島だけど、禊をした伝承のある地は付近にないんだよな >>447
お前のトンスルファンタジーほど臭くないからOK! >>448
陸繋島になったのは昭和だぞ無能チョンw >>437
尋ねているのは、安曇氏が糟屋の志賀から移住したという史料だよ。
それしか聞いてないよ。
たったそれだけの史料が出せんのに、摂津安曇氏が志賀から移住したのは歴史事実だとのたまわっても、はいそうですかとはならんだろうが。 史料研究の最前線で日向を日向国に比定してたのは昭和中期くらいまでだろう。
日向の説明として「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉き地。」とあるのだから、カラクニと対峙せず、西側に1,500m級の連山がそびえる日向地方は夕日の日照る地にはなりえないというのが現在の通説。 >>452
海神の本社は志賀海神社で信州安曇郷もその通説を継承してるのに、その中継地点である摂津安曇だけが志賀島以外から発生した安曇と考えるほうがどうかしてる >>451
志賀島はずっと陸繋島だった。
ただ、満潮時にはその砂洲は水没していた。
昭和に橋を架けてから橋脚部分に砂がたまって水没しなくなっただけやな。
陸繋島であったのは変わらん。 >>453
ってことはツクシの日向は朝日が遮られず、夕日も遮られない土地
つまり高山か島ってことになるな >>380
>なお、全国の阿曇氏の祖神で綿津見神(少童命)と同一神と目される阿曇磯良は八幡愚童訓において、「安曇磯良ト申ス志賀海大明神」と記され、
>阿曇氏の祖とされる大浜宿禰は新撰姓氏録の右京神別下で「安曇宿禰"海神綿積豊玉彦神"子穂高見命之後也」とあり、
>同録の摂津国神別にも「安曇宿禰同祖"綿積命"六世孫小栲梨命之後也」と記されとる。
これで十分に思えるね。 >>456
志賀島がに砂州が溜まったのは福岡(黒田)藩が冷泉の津を埋め立ててからと記録があるぞ >>459
摂津チョンコはそれでもガンとして減らず口を叩いてるがな >>380
>あと、志賀海神社には元宮があり、志賀島最北部の勝馬に現在も表津宮跡、中津宮、沖津宮が残っとる。
>>427
>実は摂津チョンコと似た文調の>>380が書いた中津宮付近にはイザナギの禊地であるという伝承があり、御身洗という地名を残してる
これだと、イザナギの禊は九州ではなく志賀島になってしまうなあ。
それとも、橘(岬の意)そのものが志賀島のことなのか?
そうすると博多湾全体が筑紫の日向? 摂津チョンコって呼び名やめへん?
絶対に志賀島は嫌マンとかでええやんけ >>462
伊都国・奴国メインで研究してる人たちはそう考えてるよね >>462
もしくは小戸
伊都クズさんのスレに詳しい >>456
少なくとも香椎宮の記録では離島となっている >>453
完全否定されてるトンデモ説を、いまだに信じてるとはな。
しかも、「日向」の字が見当たらんじゃないか。
韓国については、書紀で「空国」(むなくに、からくに)と書かれているそれを、古事記が勘違いで韓国(からくに)と表記をしたのだろうな。
いずれにしても、イザナギが禊したアワギハラがある日向が福岡市あたりだという説の説明にはなってないぞ。
日向=福岡市あたり説は、勝手解釈の結果やとや言われてもしようがないなあ。 wiki 志賀島から引用
1281年(弘安4年)、弘安の役では 志賀島の戦いの舞台となる。
博多湾に現れた元軍は、石築地(元寇防塁)からの上陸を避け、陸繋島である志賀島を占領し軍の停泊地とした。
これに対して、日本軍は海上と海の中道の陸路から元軍に総攻撃を行った。
この志賀島の戦いで日本軍は大勝し、元軍は志賀島を放棄して壱岐島へと後退した。 >>467
引用された文章全体が、筑紫の日向についての説明だ。
勉強して出直せ。 >>467
>韓国については、書紀で「空国」(むなくに、からくに)と書かれているそれを、古事記が勘違いで韓国(からくに)と表記をしたのだろうな。
文字は後から当てただけだよ。
「からくに」と言えば、朝鮮半島に他ならない。
「空国」では具体的にどこも指していないことになるからナンセンス。 >>467
>いずれにしても、イザナギが禊したアワギハラがある日向が福岡市あたりだという説の説明にはなってないぞ。
それ以外のどこだというのだ。
証拠をつけて言ってみろ。 筑紫や筑紫島を九州島と見る研究者もいるけど、筑紫は北部九州を指す以外に使われた史料はないいだよね
筑紫島も"筑紫のある島"と捉えるのが妥当だと思う
天照や天孫が穀霊神に繋がる稲作農耕の神様だって考えれば、最古の稲作遺構が古墳時代の日向の国より縄文晩期から稲作やってる福岡市のほうが自然だしね 安曇の本貫地はどこだ?という題から目をそらさせようと必死な摂津チョンコの策に九州勢がハマってて草 >>460
その記録の部分を挙げてみてくれ。
冷泉の津が埋め立てられたのは事実やが、冷泉の津の海にいくつもあった島が陸につながったとされている。
志賀島は北に遠く離れているので、冷泉の津の埋め立てで志賀島がつながったとは信じがたい。
その記録の部分を挙げてくれ。
話は、それからや。 >>471
なに言うとるの。
通説は、日向は南九州や。
それを日向は福岡市あたりやと異常な論を出してるのやから、そちらが証明せなあかん問題やないか。
へんなこと言うな。 >>474
アホかよ
南側の埋め立ての影響で北側に砂洲が溜まったってことやろ
出典に関しては調べられる自信がないから>460に譲る(笑) >>475
ジジイかよ>>453が現在の通説だマヌケチョン >>475
だから南九州のどこだよ。
何県何市何町だよ。 >>475
下手なエセ関西弁がキモくてゲロ吐きそうだから標準語で頼むは 元寇の時にはもう陸繋だったらしいとの話はあるね。
しかし香椎宮の記録では、古代には繋がっていなかった?
てっきり海の中道が天の浮橋かと思っていたよ。 福岡は自然の埋め立てや人口の埋め立てに加えて過去を振り返りたがらない気質があるから地名と伝承が残りにくくて可哀想 >>481
>>380がリンク張ってくれてる社団法人土木学会のファイルを見ると地盤は繋がってないのが分かる
宮津の天橋立や別府の瓜生島みたいに周期的に離れたり、繋がったりしたんじゃない? >>470
日本書紀を読んでから、それを言うのがよい。
日本書紀は「そ宍の空国」と書いてある。
背中の肉のように豊かでない国という意味がそれや。
霧島連山から南西の今の南さつま市の吹上浜に向かう山の尾根のことや。
具体的にどこも指してない、などと書紀よんでない証拠やな。
韓国と書いた古事記は、意図的に間違った字を用いたのよ。
古事記は、そもそも信用ならん史書や。 とんこつラーメンで有名な長島も1200年頃の古地図だと陸繋砂州で、1600年頃の地図だと完全に陸地になってるから博多湾の地形って流動的なのかも 元寇のときには繋がっていたそうじゃないか。
黒田藩の埋め立てで繋がった志賀島て、どの島よ。 結局、能古島(残島)は、海中に残った島という意味でよい、ということやね。 >>484
そんなところに皇祖つまり倭王がいる必要はない。
考古学的にも何もない。 >>487
それはチョンコの思い込み以外に根拠がないから却下やで >>478
はよ、日向は福岡市あたりのことやという説の、その根拠を言わんかいな。
韓国じゃ説明にならんわ。 >>493
いやお前が反論したんだから反証義務はオマエ摂津チョンコにあるんだぞ無能 >>493
韓国と対峙してて朝日と夕日を遮らない土地だからでしょう?
宮崎は朝日が刺す以外の条件がないし、そもそも弥生時代の遺物が殆ど出てないでしょ >>487
残されるという語が上古にあったとは思えないなあ。 結局のところ摂津チョンコは文句が言いたいだけで反証は出来ないアホ野郎だから
相手にしても無駄なんだってみんな気づいたほうが良い >>493
漢字表記は当て字に過ぎない。
「からくに」は朝鮮半島に他ならない。
それを正面に見るのだから、玄界灘のどこかに限定される。 古代スレって其々に色んなチョンコが棲み憑いているんだね 最近はここの摂津チョンコと高天原スレのカマチョンがアツいね
ちょっと前までは百済スレの無能ヒトモドキってのが面白かった >>498
どこかに限定される、という文の主語はなにか。 >>496
能許利多留由棄仁末自例留宇梅能半奈…
(残りたる雪に混じれる梅の花…)
万葉集 大伴旅人 結局、摂津安曇氏が糟屋志賀の出自であるとする説を裏付ける資料はないということやな。
かくまでひつこく食い下がったワイも、実は摂津安曇氏は志賀から来たと思っとるのやが、いかんせんそれを証明する資料に出会わんのだ。
それで、お主らに聞いてみたのやが、同じことやった。 日本書紀の巻第一、第五段、一書曰の六
伊弉諾尊既還、乃追悔之曰、吾前到於不須也凶目汚穢之處。故當滌去吾身之濁穢、
則往至筑紫日向小戸橘之檍原、而秡除焉
そもそもアワキハラと読むのは古事記であって、日本書紀には明確に「檍原」と記されているのだからアホキハラないしイキハラと読むべき
そして檍原の場所が分からないのなら、その後の行動から推察すれば良い
海辺で厄神と直神2柱が生まれ落ちた後に入水し、
又沈濯於海底。因以生神、號曰底津少童命。次底筒男命。
又潛濯於潮中。因以生神、號曰中津少童命。次中筒男命。
又浮濯於潮上。因以生神、號曰表津少童命。次表筒男命。
其底筒男命・中筒男命・表筒男命、是?住吉大神矣。
底津少童命・中津少童命・表津少童命、是阿曇連等所祭神矣。
海の底に沈んで濯うと底津ワタツミ、次いで底筒ノオという神が生まれる。
潮の中に潜って濯うと中津ワタツミ、次いで中筒ノオという神が生まれる。
潮の上に浮いて濯うと表津ワタツミ、次いで表筒ノオという神が生まれる。
底筒ノオ、中筒ノオ、表筒ノオ、それ即ち住吉大神である。
底津ワタツミ、中津ワタツミ、表津ワタツミ、それ阿曇連たちの祭る神である。
残念ながら日向の有力比定地である日向国に住吉と綿津見の伝承はない
淤能碁呂島の有力比定地である淡路にも住吉と綿津見の伝承はない
摂津には住吉の伝承はあるが、本貫は筑前住吉神社に譲っており、綿津見伝承はない
地名から推察できない以上、そして行動から推察する限り禊を行ったのも、淤能碁呂島も筑紫日向小戸橘之檍原も
禊伝承と住吉伝承、綿津見伝承の3つが揃っている那の懸界隈の他にないと言える >>504
直接の資料がないケースなんてゴマンとあるやんけ
一級史料の前後や社伝、伝承、を交えて比定するのが歴史学やと思うんやが
もちろん異論もあるやろが、累積できる根拠の多い方を採るのが学術的姿勢と思うわ >>504
やけん>380の、
>なお、全国の阿曇氏の祖神で綿津見神(少童命)と同一神と目される阿曇磯良は八幡愚童訓において、「安曇磯良ト申ス志賀海大明神」と記され、
>阿曇氏の祖とされる大浜宿禰は新撰姓氏録の右京神別下で「安曇宿禰"海神綿積豊玉彦神"子穂高見命之後也」とあり、
>同録の摂津国神別にも「安曇宿禰同祖"綿積命"六世孫小栲梨命之後也」と記されとる。
でとっくに解決しとるとって(笑)
志賀海神社以外に綿津見信仰や海神崇拝の本社がないんやけん疑念を持つほうがオカシイ。 >>505
行動から探るって他で見たことない考察だな
面白い >>507
綿津見と磯良は別だからなあ。
磯良は氏神、綿津見は海神。
綿津見は博多あたりの海人が祀っていたのを、5世紀頃になって摂津の海人豪族安曇が博多の海人に代わって綿津見を祀るようになったのだろう、という見方は面白いな。 >>509
志賀の安曇氏は5世紀頃に摂津から移住してきた海人豪族で、その本家の摂津安曇氏は朝廷の内膳司として仕えるようになったものの、やがて高橋氏と競って競り負けたということかな。 >>509
畿内チョンコって乗っ取った説が大好きだよね(笑) >>511
マルハン創業者の韓昌祐氏によれば、関西には密入国して日本人の戸籍を背乗りした朝鮮人がいっぱいいるらしいからね。
自分たちの得意技を自慢したいのかもね。 順番としては元々磯良を祀ってた志賀海神社を綿津見三神が乗っ取ってるんだけどな >>510
磯良も綿津見も博多の海人の族神、海神だろう。
この博多海人族は、中国史書で奴国と呼ばれた部族だろう。
この奴国の海人族は、南九州の阿多族を本家とする海人系の分家筋にあたる集団だ。
一方、阿多族や奴族とは遠縁に当たる摂津安曇氏は難波近辺の津守氏と同族の海人で、淡路に勢力を持っていたのだろう。
応神政権が朝鮮半島との交易を活発化するのに伴って、東の住之江は津守氏が、西の博多は安曇氏がそれぞれ分担して海神を祀ることになり、安曇氏が博多に赴いて綿津見を志賀島に祀り、また氏神を磯良として祀ったのだろう。
仲哀紀で博多から豪族が出迎えなかったのは、志賀安曇氏が在来系の豪族ではなく朝廷に仕える摂津安曇氏の分家であり、博多が大和朝廷の直轄地となっていたことなどを反映したということなのだろう。
まあ、志賀安曇氏は、摂津安曇氏の分家とみるのがよいのではないか。 >>509-510
全然違うよ。
>新撰姓氏録の右京神別下で「安曇宿禰"海神綿積豊玉彦神"子穂高見命之後也」
つまり、本家安曇はワタツミの子ホタカミの子孫。
ホタカミ(ウツシヒカナサク)を祭る神社は志賀海神社の境内にある今宮神社と長野県安曇野の穂高神社で摂津は無関係。
一方
>新撰姓氏録の摂津国神別に「安曇宿禰同祖"綿積命"六世孫小栲梨命之後也」
つまり、摂津阿曇はワタツミの6世孫(=ホタカミの5世孫)のコタクナシの子孫。
時系列に並べると、筑紫安曇が本家、信濃安曇が分家、摂津安曇は分家の分家の分家の・・・略。
また
先代舊事本紀の巻一、陰陽本紀には「少童三神、阿曇連等斎祀、筑紫斯香神」
要はワタツミ3神は安曇連らが”いつきまつる”筑紫の志賀海神社。
時代をのぼって
宗像大菩薩御縁起には「武内宿禰が天の岩戸の神楽に倣って呼び出そうと神功皇后に提案して安曇磯良丸を召喚。
熊襲退治と三韓征伐で活躍した磯良丸に48隻の船を与えて難波に移らせた」とある。
もう十分でしょう。 >>514
> この奴国の海人族は、南九州の阿多族を本家とする海人系の分家筋にあたる集団だ。
根拠の提示を求む
> 一方、阿多族や奴族とは遠縁に当たる摂津安曇
根拠も求む
> 東の住之江
住之江は筑前現人神社が発祥であることは住吉大社も認めるところから却下
> 安曇氏が博多に赴いて綿津見を志賀島に祀り、また氏神を磯良として祀ったのだろう。
磯良は那の津の土着神であることは記紀及び数多の史料が認めるところだから却下
> 仲哀紀で博多から豪族が出迎えなかったのは、志賀安曇氏が在来系の豪族ではなく朝廷に仕える摂津安曇氏の分家であり、博多が大和朝廷の直轄地となっていたことなどを反映したということなのだろう。
> まあ、志賀安曇氏は、摂津安曇氏の分家とみるのがよいのではないか。
完全なる妄想でしかないから却下 >>515
皆、平安時代の系図などだな。
こんぐらがって分からなくなったあとの再編系譜だよ。
海人族の宗本家は南九州阿多族。
その分家が博多の奴族。
丹後や尾張ほかの西日本の海人族は阿多族が西日本に広がったときの血族。
長野の安曇は、ずっとあとのおそらく白村江のあとの安曇分散で生じた比羅夫系の一派だろう。
志賀の安曇は、5世紀頃に摂津安曇の分家あたりが朝廷の政策で綿津見を祀るために移住したものだろうな。
綿津見と筒男は元々は薩摩阿多の宗本家が祀っていたのが、応神政権の要請で綿津見は安曇に、筒男は津守に祀らせるようになったというのが、最も妥当なところだな。 >>517
380がすでに小馬鹿にしてる連中の資料の寄せ集めやんけ >>518
何がなんでも志賀島にはしたくない情熱www >>518
>海人族の宗本家は南九州阿多族。
>その分家が博多の奴族。
イキナリ始まりから無根拠の妄想じゃんか >>509-510,514>>517-518
親の前で10回音読してから出直して来い
チョンコの考える「正義」の概念は非常に独特であり、まず根拠を必要としないという特徴があります。
なぜ根拠を必要としないかと言うと「この世に正義は一つしか存在しない」と考え、特に根拠はないのですがチョンコだけがその「正義」の側だと信じ込んでいるからに他なりません。
通常、それぞれが正義と信じる者同士が争った場合、ホモ・サピエンスは「相手の正義」の存在を認識しながらも「自分の正義」のために戦います。
「相手の正義」を認識しているからこそ、勝ったときには相手を称え、負けたとしても自分が「悪」だとは考えません。
一方、チョンコはとにかく「相手の正義」の存在をいっさい認知できず、相手の劣等性を指摘(曲解でも、捏造でも、その件と全く関係なくても、何でも良い)する事で
「自分だけの正義」の担保とします。
ですから勝った時には殊更に負けた相手を「悪」と罵り、負けた時には難癖をつけて負けを認めないことで「自分だけの正義」を守ろうとするのです。
つまり負けは「悪」なので「感情的に受け入れられない」と逃げ回るのです。
また、自分自身に向けられた問題提議や指摘を模倣し、オウム返しのように相手にぶつけます。
こういったチョンコ独特の「正義観」は独特と言えるもので、予備知識を持たずに対峙すると「錯乱している」「気が狂っている」としか映らず対話を諦めてしまう結果となってしまいます。
しかし、チョンコ独自の正義「観」を知っておくことで対話は可能となるのです。
では、この特殊な「正義観」にはどう対処すべきなのでしょうか?
その手法は非常に簡単です。
論点をすり替えさせる隙を与えないこと。
多くの問題をいっぺんに片付けようとせず、一つずつ解決していくことです。
チョンコにとって負けは「悪」ですから受け入れることは出来ません。
ですから負けを予感した瞬間に別の戦いを仕掛けて負けかけたことをなかった事にしようとします。
チョンコ以外の人が見れば「逃げた」「論点をすり替えた」「卑怯」と映るでしょうが、そうではありません。
チョンコ独自の「正義観」では負けなければ「正義」であり、ウソでも何でも「じぶんだけの正義を貫くこと」が何よりも優先されているだけなのです。 けっこう有益な情報もあるのに民族願望やら罵詈雑言で埋もれてしまってますね。
海人族論に関しては>>210の天津神・国津神論や>>211のアマ・ワタ論に対する色んな意見をもっと聞いてみたいですね。
安曇本貫地については>>341の面土国=ワタツチは興味深いし、多岐に渡る>>380のような考察と反証も面白いし、>>427や>>505の住吉との関連も面白いですね。
個人的には>>515の旧事紀からの引用で解決って気がします。 >>514
奴国は都市化が進み過ぎて、特定の優勢な氏族がない政治的空白だったのでは?
魏志倭人伝でも、大都市なのに権力を持っていたのは小さな伊都国の方だった。 奴族の末裔の志賀の草が細々と綿津見を祀っていたところ、応神政権が瀬戸内海と玄界灘の制海権を確保するために、
住之江では筒男神を津守氏に祀らせ、摂津安曇氏には博多で綿津見神を草から乗っ取って祀るようにさせたのだろう。
このときに、博多の現地へ赴いた安曇氏の分家は氏神の磯良を分祀してもらい、志賀で祀るようになったということなのだろう。
513さんとは逆になるが、これが歴史の真実だろうな。 >>518
>海人族の宗本家は南九州阿多族。
根拠なし。
却下。
>志賀の安曇は、5世紀頃に摂津安曇の分家あたりが朝廷の政策で綿津見を祀るために移住したものだろうな。
根拠なし。
却下。
何が「妥当」だよ。
お前、キナイコシだろ。
嘘をつくときの口癖が出ているぞ。 >>291が非常に良いこと言ってるんだよな。
> 横からだが、日本史板の特に古代スレで「〜たのだろう。」って言うやつは例外なくチキガイ。
> 思い込みが強く、他説を聞き入れる耳もなければ、聞き止める度量もない。
> そしてどんどん追い詰められるスタイルが共通点。 >>522
日本書紀読んで、考古学の知見と合わせたら、こうなるな。
お前は素人だから、口出すな。 >>527
お前は>>516が読めないんけ?
>> 東の住之江
>住之江は筑前現人神社が発祥であることは住吉大社も認めるところから却下
>> 安曇氏が博多に赴いて綿津見を志賀島に祀り、また氏神を磯良として祀ったのだろう。
>磯良は那の津の土着神であることは記紀及び数多の史料が認めるところだから却下 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています