【阿曇氏】海人族 part2【宗像氏】 [無断転載禁止]©2ch.net
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前スレが落ちてしまったので再び立てます。
謎多き海人族について語るスレ
海人族とは何者だったのか?
天孫族との関係は如何なるものだったのか?
前スレ
【阿曇氏】海人族【宗像氏】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1317289551/ 何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき
妄想フルスロットルで「〜のだろう。」と断定したがる
識者らに追い詰められると「が妥当」と逃げまどう
それがキナイコシ(主に邪馬台国関連スレでの呼び名)
別名も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ
高天原スレではカマチョン(猿芝居ではカモ先生)
海人族スレでは摂津チョン
などスレ毎の呼称も存在する
特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく
また聞き止める度量がない
そして追い詰められると様々なスレを渡り歩いて逃げ回るスタイル 安曇氏が志賀島にワダツミを祀ったのは、信仰の形式から500年以降だとは思うけど
190年から247年の博多湾はシャーマン卑弥呼が女王なわけで、
ワダツミ信仰というのは、中国の鬼道に見えるんですかね?
キナイコシの都合はともかくとして、
安曇族は邪馬台国内2万戸の大夫奴国の難升米に起源がある?
金印が志賀島から出たなら57年のこの時も同邪馬台国系でしょ?
畿内はないwww
風浪宮もそうだが、記紀、神功皇后とかが出てくると、基準になる古代年号の
天皇諡号自体から頓珍漢で、難升米=磯良で神になってしまうけど、
三国志では魏の将校職ですw 皇帝なら曹操や劉備が神でも良いとしても・・・
卑弥呼時代190〜楽浪撤退の313年までに三韓征伐なんて有り得ない訳で
その後は高句麗戦を日本が後押しして350年辺りで百済新羅を建国してます。
>>515 の (神功皇后ソースで疑義満載だけどw
熊襲退治と三韓征伐で活躍した磯良丸に48隻の船を与えて難波に移らせた
が、魏と邪馬台国外交が終わった、247年以降であれば
朝廷が外交防人拠点の一大卒を設置して、邪馬台国は対魏で本州勢力と合流
これによって、摂津で朝廷貴族化して海神族を名乗った。 と、言うのが成立する。
そもそも、BC200から、青銅器輸入で親交のあった
公孫氏や韓王朝が滅びるのを見て危機感の有る日本が親魏倭王の卑弥呼を王にしてたら、
300年代の半島進出や富国強兵政策なんて、可能なわけが無い。
238年から247年の九州フロントの外交を終わらせて、国内が古墳時代に突入したんだよ。
卑弥呼の墓径150mは、はったりで張政に見せるための
日本最初の巨大古墳だったと思うね。 >>548
>安曇氏が志賀島にワダツミを祀ったのは、信仰の形式から500年以降だとは思うけど
イミフ
>190年から247年の博多湾はシャーマン卑弥呼が女王なわけで、
はい、そうですね。
>ワダツミ信仰というのは、中国の鬼道に見えるんですかね?
見知らぬ形式での祖先崇拝として、鬼道と呼ばれた可能性はあります。
>風浪宮もそうだが、記紀、神功皇后とかが出てくると、基準になる古代年号の
神功皇后は120年繰り上げてあるみたいです。
実年代は4世紀後半でしょう。 >>594
>神功皇后は120年繰り上げてある
で、記紀厨や南=東みたいなご都合で書換え畿内説で盛り上げるのは良いけど、
神功皇后、三韓征伐、とか、その帰りに >>380 風浪宮192年創建
って言うのは、どんなもんか? という話なんです・・・
192年は卑弥呼が倭国大乱終わらせた辺りで、
なんで神功皇后が三韓征伐終了で、シャーマン九州に神道神社創建なの?
日本側も九州統一前で、百済新羅も未開で、戦争対象の統一国無いし・・・
繰り上げると、313年は高句麗台頭で韓四郡撤退ですが?
日本は、百済新羅後援の形で対高句麗戦初めて牛馬の移入と鉄生産の国内化です。
神功皇后の事績が入り込む隙間が無いと思うのですが。
記紀作者は中国史書は読んでますが、その世界観、歴史認識で、時系列の有る史書に
神話を混ぜ込むのは無理な相談だったのではないかと思いますが、どうでしょうw 「対馬編年略」には、「対馬島は高麗国の牧(高麗・朝鮮時代の行政単位の一つ)である。[昔は]新羅人が住んでいたが
開化天皇の代にこの島[対馬]から[日本の本州へ]襲来した。仲哀天皇が豊浦宮で対馬を経て新羅を征伐し、ついにこ
の島を得た」と記されている。
三韓征伐したのは仲哀だったということだ 誤爆 >>549
話が全く見えない、キナイコシだかザラコクレスみたいのは、
どこ行っちゃうんでしょう? 日本史板の謎? ロマンじゃあ、ないなwww >>550
>繰り上げると、313年は高句麗台頭で韓四郡撤退ですが?
繰り下げでしょ。
それではまだ4世紀前半だよね。
神功皇后は海外の史書との比較から4世紀後半というのがよく言われる説だと認識している。 >>551
なんで高麗www
朝鮮時代って何? 箕子とか衛満の遼東?
半島の朝鮮時代ってのは、普通日本では、李氏朝鮮のことだが?
よくわからんが、
記紀よりさらに輪をかけてわからん後続のご都合主義の歴史が、
近隣国に存在するのは知ってる。
真実も存在する日本? 世界のネットを選択的に見られる、
よゐこのみんなには関係ない。 >>553
事績の年代が判ったりわからなかったりで
在位期間が仲哀天皇とで100年近くなるのか? とも思うけど、そっち行く?
で、後の400年になると、倭の五王で、
これは、息子の応神天皇よりだいぶ後ではないのかな?
だから、神功皇后の事績で捨てられない、
九州に数々の伝説を残す仲哀〜神功の三韓征伐が、
倭人伝の247年以降だと時系列で入る隙間が無いのでは?
という事 なのですが?
神功皇后イラネ、とは、戦前学者が言えないのは知ってる。
アタシ等、令和のよゐこには関係ない。 景行が4世紀初頭、仲哀神功が4世紀後半、応神が4世紀末。 >>558
言いっばなしはチョンコの始まりだぞ!
書き込むなら根拠も示せバカチンが! >>557
年代不明の記紀でも、志賀島海神とされた安曇族が
三韓征伐の神功皇后によって、摂津に配流というか招請されたんだろ?
年代確定中国の史書で190年から247年まで、筑紫に居た卑弥呼の邪馬台国は
240年に魏帝から印綬で来日の遣建中校尉梯儁の軍隊を迎えた後
239年公孫氏や246年韓王朝を滅ぼした、魏と対峙する為に
本州勢力と合併して、本州は銅鐸時代から、古墳の富国強兵政策に転換した。
これが日本の古代史だろ?
畿内説でも阿波でもw 邪馬台国の奴国が博多志賀島で後の安曇族である以上
神功皇后無しに、卑弥呼や安曇族が語れるのかね? すまない、自分で読んで、おかしな話なのは判る。
神功皇后が実在すると仮定すると、日本の歴史の話は真実にならないかもw >>560
お前の思い込みの話をさも史実のように語られてたって半笑いくらいしかしてやれないよ… >>560
>本州勢力と合併して、本州は銅鐸時代から、古墳の富国強兵政策に転換した。
ここが不要。 キナイコシって存在を最近知ったんだけど、なんでキナイコシなの?
過去に自称したの?それとも何か由来があるの?
あと、ここの摂津チョンコはキナイコシが似非関西弁を使う猿芝居用のキャラだってのは分かったんだけど
高天原スレのカマチョン(カマ先生)もキナイコシだよね?
百済スレの無能ヒトモドキもキナイコシ? 前に、筑前国風土記は筑前国続風土記のまちがいやないかと言ったが、筑前国風土記の逸文が残っているらしいな。
安曇氏はそれに書かれているのだが、神功の従者として大浜、小浜という者が登場するようだ。
名前しか書かれてないが、この大浜は応神天皇のときに海人の宰に任じられた大浜と同一人物と考えられることから、安曇氏だとみなされているものだ。
したがって、筑前国風土記逸文にみられる安曇は、摂津安曇ということになる。
ということは、前日からの議論のように、この逸文の記述が安曇の志賀発祥を示すものでないことは明白やな。 >>562
記紀のご都合や思い込みの話ではなく、史実を抽出したいわけだが
対馬航路フロントの邪馬台国が、
238年〜246年に、本州もBC200程度から
半島南岸移民や青銅移入で、親交があった公孫氏や韓王朝の滅亡を知り
>>563 の
>本州勢力と合併して、本州は銅鐸時代から古墳時代の富国強兵政策に転換した。
というのは、日本の古代の歴史の必然ではないのかな?
倭の五王400や任那四県割譲500 磐井の乱が無くて、白村江海戦有り得るか?
畿内説や記紀厨が、古代史の真実を、謎の半島史忖度に捻じ曲げたい
通称 チョンコ? www なのは、知ってる。 筑前国風土記に残っている話なのだから、筑前での話。
神功皇后についての説話はほぼ全て福岡県が舞台だし。
応神天皇も仲哀天皇も九州人だし。 >>565
とするとや、神功のお供に摂津安曇の大浜や小浜らが付き従うとるときに、神功が志鹿の草という者を遠見に出すが、これがおかしいのやな。
草が安曇氏なら、安曇の大浜と親戚とかなんとかという話になるはずやが、そんことは一言も書かれてない。
ちゅーことは、志鹿の草は安曇氏でもなんでもないということにならんか。
神功のときには、志賀には安曇氏はおらなんだという可能性が極めて高うなってくるな。 >>565
キナイコシ先生なのか?
どこに嵌ってんだよ? ワロスwww
神功皇后が
卑弥呼在位190〜没247〜313楽浪郡消滅の
どこで、記紀の九州事績作れるよ?
安曇族は57年から247年の卑弥呼まで一貫して、
金印志賀島の奴国の後だろ。
記紀の話がしたいなら、
この時系列のどこに神功皇后の事績が存在しえるか?
歴史には、時系列が必然であって、
>>551 みたいのが、歴史というならソースも偽書だろwww >>568
そもそもや、3世紀末頃には博多地域には大きな地元勢力はおらんようになっていたとする説がある。
つまり、那珂八幡古墳の被葬者が地元の勢力なのか、外部から来た者なのか、それがはっきりせんとされとるくらいなんや。
また、この時期から5世紀初頭まで、ここには古墳群がない。
仲哀の出迎えに博多から行った者がおらん。
神功に遠見に出される志鹿の草は小者のような扱いやし。
安曇というような大族がおったようには見えんのよ。
応神になってから、博多に前方後円墳が再び作られる。
老司古墳がそれや。
那珂八幡から老司までな〜んもない。
安曇がもとから博多にいたというのは、単なる思い込みやないか。 博多は大都市すぎたんだ。
だけど安曇は志賀島の方だから別だろ。 >>568
なんで、謎の関西弁のキナイコシ先生に自己レスだよwww
既にロマンの無い、記紀神話の神功皇后の時系列的実在は無理なのに
実在の 志賀島海神、邪馬台国卑弥呼、共立国の雄、奴国、安曇族が
神功皇后の陪臣で、摂津に招請、配流されてるんだよ?
247年時点で一大卒が対馬外交フロントに入り、卑弥呼は外交権を失ってるだろ?
死んでるけど日本初の径150mの巨大古墳になってるから、国は滅びてはいない。
13歳の豊は、畿内にお輿入れで、箸墓古墳になってっても良いね。
でも、この時の新造首都、纏向が金印の57年から有るという考古学は無いだろ?
使大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
日本はBC200から青銅器移入で半島を経由し、公孫氏は卑弥呼時代には居た。
238年の魏の帯方郡占領に始まり、247年に魏との外交を絶った九州の邪馬台国が
公孫氏と韓王朝を滅ぼした魏と対抗するため本州に有った、後の朝廷勢力と競合した、
それ以外の歴史解釈ってあり得るか? >>571
これまでのみなさんの説では、奴国の続きの儺の津は安曇氏が支配してたというものやったと思うが。
別か。
しかしそれやとしても、糟屋の志鹿の草という者が安曇かどうか分からんし。 >>572
そりゃ、ファンタジーやないか。
纏向の政権が卑弥呼の倭国を解体し、博多を牛耳って鉄などの貴重財を独占取得して加盟各国に配布した、というのが実歴史やな。
その結果、交易の拠点の博多を纏向が直轄地として扱うようになり、在地豪族を解散させた。
一応、那珂八幡古墳を作って、博多は纏向政権の傘下やと示したものの、大きな在地勢力はなくなったので、その次の古墳は造られなんだ。
5世紀になって摂津の安曇が代官みたいな立場で派遣されたので、老司古墳が造られた。
そういうことやろな。 >>565
だからなんでそういう結論になるんだよwww
チョンコ脳すぎんだろ >>573
志鹿=筑紫斯香神=志賀(志那)=海神の子孫=筑前安曇本家
分家の分家のそのまた分家の摂津安曇氏 >>574
>5世紀になって摂津の安曇が代官みたいな立場で派遣された
そろそろお前が根拠を示せよ無能 古代の歴史の話だろ?
青銅器ってのが有る。 日本ではBC200年位からなのかな?
これは、半島経由で入っている。
本州は日本海ルート、縄文海神の隠岐?
対馬は経由するとしても、出雲がこの中心と考えられる。
で、この九州対馬ルートで57年、漢の倭奴国は金印を貰った。
これは中華文献が証明する、大陸本土、中華と日本の 交流の存在を示すものであり
この物証である金印は、安曇族の聖地博多湾志賀島から出た。 だよw
この、時系列の信頼性がまあま、ある倭人伝によって
190年から247年までの博多湾は邪馬台国卑弥呼の支配下管轄下に有る。
邪馬台国には畿内説とか東遷説というのが有るが、
そんなもんは、原文を読めば、イミフ。
安曇族は238年から247年まで、魏と外交のあった博多湾の
邪馬台国に存在したという事は間違いない。
本スレで、摂津には神功皇后年期が不明だが
朝廷の九州平定が247年でも良いが、300年辺りの九州統一で豪族化している。
アタシが記紀、神功皇后が嫌なのはこういう事。
信濃安曇野での安曇氏は 247年以降配流では有るが、
663白村江以降で謎の消滅という話なのである。
縄文売りの諏訪に弥生時代が有るのか? と言われるほど
信州で弥生系水稲耕作というのはかなり遅いのだが
安曇野が稲穂で穂高というのも若干疑問。
竪穴住居の屋根用の葦原としては
日本の中心の豊葦原ではあるwww 妄想ばかりでつまらなくなってきた。
もう結論は出ているのだから止めろ。 >>581
しょーがいやん摂津チョンコがしつこく妄想垂れ流すんだもん 何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき
妄想フルスロットルで「〜のだろう。」と断定したがる
識者らに追い詰められると「が妥当」と逃げまどう
それがキナイコシ(主に邪馬台国関連スレでの呼び名)
別名も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ
高天原スレではカマチョン(猿芝居ではカモ先生)
海人族スレでは摂津チョン
などスレ毎の呼称も存在する
特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく
また聞き止める度量がない
そして追い詰められると様々なスレを渡り歩いて逃げ回るスタイル >>583
お前には、安曇についての考えがないのかね。
ちょこっとも、言うたことないな。
邪馬台国は、筑後山門と昔から決まっとる。
奴国は、博多だということも決まっていて、異論の入る余地はない。
しかし、この奴国の主が後の安曇氏だという証拠はどこにもないのだよ。
一方、はっきりしてるのは、5世紀前後には摂津に安曇という大族がいたということだ。
お前も、この謎に、何かためになる史実を一言二言言うてみるか。 >>578
この志鹿の草と安曇大浜、小浜は同時代の人物になるんだから、草と大浜が同じ安曇族としたらヘンじゃないかい。
草が安曇だとはどこにも書かれてないからなあ。 >>585
えっと・・・
大浜宿禰=阿曇大浜=阿曇宿禰
まさか摂津チョンコとあろうものが一人のことを指してると思ってたとは驚きだ >>586
なにいっとるの。
大浜は安曇宿祢。
この大浜が、神功のお供で博多へ行ったわけ。
その博多で、志鹿の草が遠見を命じられて朝鮮半島を望見したの。
この草が大浜の本家の安曇族なら、それらしいことを書紀は書いとるだろうな。
しかし、そんなことはひとことも書いてない。
草が安曇だというのは、へんだろう。 地名からの推察:
西日本古代紀行 神功皇后風土記や筑後争乱記―蒲池一族の興亡、九州を制覇した大王―景行天皇巡幸記、
神功皇后の謎を解く: 伝承地探訪録、景行天皇と日本武尊: 列島を制覇した大王、などを上梓されている福岡の
郷土史研究者である河村哲夫氏によれば、
筑前阿曇氏の拠点は阿曇郷、信州阿曇氏の拠点は安曇郡、摂津阿曇氏の拠点は安曇江
阿曇氏、阿曇連から地名が発生したとするならば"阿"曇郷が本貫地であり、"安"曇郡や"安"曇江は移住先と推定できます
史料からの推察:
新撰姓氏録の右京神別下、地祇によれば
安曇宿禰海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也
つまり、綿積の子、穂高見の子孫であると書かれています
同様の記述は古事記の上巻ニにも掲載されています
穂高見を氏神として祭るのは志賀海神社境内の今宮神社と信濃穂高神社の2社のみ
しかし、同姓氏録の摂津国神別によれば
安曇宿禰同祖綿積命六世孫小栲梨命之後也
つまり、綿積の6世孫、小栲梨の子孫であると書かれています
この小栲梨という神を祀る神社は存在せず、また摂津には綿津見を祀る神社もありません
先代先代旧事本紀の巻一、陰陽本紀によれば
少童三神、阿曇連等斎祀、筑紫斯香神
つまり綿津見三神は阿曇連が斎(いつ)き祀(たてまつ)る志賀海神社の事であると書かれています
志賀海神社=綿津見三神=阿曇連が斎祀する神であるにも関わらず、摂津に綿津見を祀る神社が存在しないです
ただ、綿津見の娘、豊玉姫の子である阿曇磯良を祀る疣水磯良神社が摂津にあります
新撰姓氏録と先代先代旧事本紀からは筑前阿曇と信濃阿曇は男系(本流)であり、摂津阿曇は女系(傍流)だと言えます
また、綿津見=ワタスミ=海住み=アマスミ=阿曇の音変も十分に考慮できますし、
海住みにシンクロする川住み=住之江=住吉も綿津見三神と住吉三神の同時誕生にシンクロします
摂津の住吉大社は住吉本社を自称しつつも総本社は筑前住吉神社(元宮は現人神社)であることを認めています
それでは摂津チョンコさん、阿曇の本拠地が摂津であり、5世紀には大族となっていて、その分家が筑前に入ったとする推察の根拠の提示してみてください >>589
589で述べられていることは、平安時代になってからの系譜などによった解釈であって、その系譜がみな根拠を欠いている。
肝心かなめの筑前安曇氏が、いつから筑前にいるのかということが資料によって何一つ確認されていない。
書紀に書かれている(志鹿の草)が安曇氏であるのなら、少なくとも神功のときには志賀に安曇氏はいたと考えることができる。
しかし、この(草)が安曇氏だとの確証はないのよ。
ワイがいっとることは、志賀で綿津見を祀っている安曇氏は、後代に畿内からやってきた一族の可能性もあるのではないかというもの。
推測だな。
証拠はない。
しかし、お前さんらは、志賀に元々から安曇氏がいて、摂津などへも移住したのだというてるの。
だから、志賀に元々から安曇氏がいたという証拠をだしたまえというてるわけよ。
ごく普通の要望だよ。 >>590
筑前国風土記逸文では、神功に大浜、小浜がお供で付き従っていたと書かれている。
この大浜は安曇宿祢だと考えられる。摂津安曇氏で、応神のときには海人の宰に任じられる。
一方、日本書紀では志鹿の草という人物が登場する。
草が安曇氏であれば、大浜の本家だと考えることができるものの、残念ながら草が安曇氏かどうか定かでない。
草が安曇氏ならば、書紀はなんらかの注記を入れることも可能だった。
しかし、特にそうした注記もない。
果たして、草は摂津安曇氏の本家だったのかということになると、あとは推測しかないということになるわけさ。 キナイコシだか、記紀厨だから間抜けなのか知らんが・・・
安曇氏は志賀島海神であるなら57年金印以来、邪馬台国、奴国だったというのは判る?
これが、神功皇后に192年、摂津に招請されて、安曇の連のかばねを得て朝廷に参入した。
安曇宿禰海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也
これは、600年とか、後付けで記紀神話の海神に格付けされたという事であって
247年までの九州に、安曇族が有ったという証拠が有ったら偽書だろ?
御本尊としては、卑弥呼なり難升米までは辿れる。
しかしこれは、朝廷統一前の、魏の倭王や将校でただの九州人なんだよ。
わっかんね〜だろな? キナイコシwww >>584
>邪馬台国は、筑後山門と昔から決まっとる。
>奴国は、博多だということも決まっていて、異論の入る余地はない。
神功皇后記の信者には決まっとること・・、という意味。 >>590
お前の都合で史料の選別をするな無能。
阿曇の本貫地は志賀島。
摂津にその痕跡がない以上アホの一つ覚えのごとく「書紀がぁ〜書紀がぁ〜」とほざくんじゃない。 >>591
散々「筑前国風土記なんてないニダ〜」と大ヅラこいてたくせに篠川賢のPDF見つけた途端に他の資料を認めることもできずに「筑前国風土記逸文ガー!」ってサルかよwww >>597
川崎の重度統合失調症症患者「松傾チョンコ」は日暮れ前に首を吊れよ
何度も!何度も!何度も!
繰り返し!繰り返し!繰り返し
「即死しろ!」と命令されているだろう?
むしろ松傾チョンコへのレスは「首を吊って死ね!」以外にないじゃないか
誰にも相手にされてない=存在する意味がないという事だろう?
なぜ素直に命令をを聞いて首を吊ることができないんだ??
いくら無能な統合失調症症患者のヒトモドキとは言え、
日本語くらい読めるのだろう???
これだけ多くの者達に首を吊れ!と命令されているのだから
さっさとセルフ絞首刑を実行しろよ松傾チョンコ
日暮れ前に必ず実行しろ!
必ずだぞ!!! どこの池沼なんだよ?
『チョン州 長州』
こういう話の関係者、被害を受けた、被った人? なぜ皆さんは色々と知識も豊富なのに
なぜそんなにも口汚いのでしょうか >>592
摂津に招請されて…て、何を根拠におサルさん。
推測なら、推測らしい言葉を使ってね。 >>595
安曇の本貫地は志賀島…という信念なのは分かるが、根拠がなければなあ。 >>606
根拠だらけなのに、お前が勝手に信じられないとほざいているだけ。
証拠もないことをダラダラと書くな。 結論としてはキナイコシが歴史を論ずるに値する脳も姿勢もないサルだってことだけが明確になった
サル知恵、サル顔、サル踊り >>603摂津チョンコは鏡見たことないのか???
何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき
妄想フルスロットルで「〜のだろう。」と断定したがる
識者らに追い詰められると「が妥当」と逃げまどう
それがキナイコシ(主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)
別名も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ
高天原スレではカマチョン(猿芝居ではカモ先生)
海人族スレでは摂津チョン
などスレ毎の呼称も存在する
特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく
また聞き止める度量もない
そして追い詰められると様々なスレを渡り歩いて逃げ回るスタイル どういう教育を受ければそれほどまでに口汚くなるのか興味がある それくらいキナイコシはウザいんだよ。
根拠のないことを言い張ってばかり。 どこの池沼なんだ?と言っているんだよw
倭人・・・朝鮮人・・・、
何なのか知らないけど、どこかの工作員か何かなんだろう? 倭人、朝鮮というのとは別
漢の人・・・わかりやすく言うと中国w
そういう人たちがいるんだよ
と言ってる人がいるでしょ 中国〜?実際は東北地方にも住んでいるよ
『伊達の桃太郎』
家の老婆は、ほとんど同じ話をしているし >>618
首を吊らなくても良いから息するのだけはやめてよ 摂津には海神伝説がないし、安曇が祭るべき神もいないのに何で摂津チョンコ?キナイコシ?サル?は摂津が本家と妄想してるんだ? >>621
それがキナイコシの平常運転
上の方にチョンコの正義感がなんたらってコピペを読むと理解しやすい 炎上芸って言うのかね
会えて強弁してほくそ笑むと言う 地名からの推察:
西日本古代紀行 神功皇后風土記や筑後争乱記―蒲池一族の興亡、九州を制覇した大王―景行天皇巡幸記、
神功皇后の謎を解く: 伝承地探訪録、景行天皇と日本武尊: 列島を制覇した大王、などを上梓されている福岡の
郷土史研究者である河村哲夫氏によれば、
筑前阿曇氏の拠点は阿曇郷、信州阿曇氏の拠点は安曇郡、摂津阿曇氏の拠点は安曇江
阿曇氏、阿曇連から地名が発生したとするならば"阿"曇郷が本貫地であり、"安"曇郡や"安"曇江は移住先と推定できます
史料からの推察:
新撰姓氏録の右京神別下、地祇によれば
安曇宿禰海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也
つまり、綿積の子、穂高見の子孫であると書かれています
同様の記述は古事記の上巻ニにも掲載されています
穂高見を氏神として祭るのは志賀海神社境内の今宮神社と信濃穂高神社の2社のみ
しかし、同姓氏録の摂津国神別によれば
安曇宿禰同祖綿積命六世孫小栲梨命之後也
つまり、綿積の6世孫、小栲梨の子孫であると書かれています
この小栲梨という神を祀る神社は存在せず、また摂津には綿津見を祀る神社もありません
先代先代旧事本紀の巻一、陰陽本紀によれば
少童三神、阿曇連等斎祀、筑紫斯香神
つまり綿津見三神は阿曇連が斎(いつ)き祀(たてまつ)る志賀海神社の事であると書かれています
志賀海神社=綿津見三神=阿曇連が斎祀する神であるにも関わらず、摂津に綿津見を祀る神社が存在しないです
ただ、綿津見の娘、豊玉姫の子である阿曇磯良を祀る疣水磯良神社が摂津にあります
新撰姓氏録と先代先代旧事本紀からは筑前阿曇と信濃阿曇は男系(本流)であり、摂津阿曇は女系(傍流)だと言えます
また、綿津見=ワタスミ=海住み=アマスミ=阿曇の音変も十分に考慮できますし、
海住みにシンクロする川住み=住之江=住吉も綿津見三神と住吉三神の同時誕生にシンクロします
摂津の住吉大社は住吉本社を自称しつつも総本社は筑前住吉神社(元宮は現人神社)であることを認めています
それでは摂津チョンコさん、阿曇の本拠地が摂津であり、5世紀には大族となっていて、その分家が筑前に入ったとする推察の根拠の提示してみてください 阿曇の本貫地は筑前志賀島で決定
摂津には綿津見信仰もないし、根拠も何一つないから阿曇の傍流と確定 >>625
筑前阿曇氏がいつから阿曇郷にいるのかについて確定資料がない以上、筑前阿曇郷が安曇族の発祥の地と断定することはできない。
お書きの通りに推測であり、確定事項とはいえないのは摂津安曇氏が本家であるかも知れないとするワイの説と同じ。
安曇氏筑前阿曇郷発祥は推測ということ。
摂津に綿津見を祀る神社がないのは、綿津見神は元々奴国系の海人が祀っていたもので、あとから筑前に参入した安曇氏が祭祀を交代したものとすることもできること。
みなさんが「安曇族は筑前安曇郷で発祥したと推測する」とするのであれば、横やりを入れる必要はない。 >>627
>摂津に綿津見を祀る神社がないのは、綿津見神は元々奴国系の海人が祀っていたもので、
その海人が筑前安曇氏だろ。 >>629
その海人が筑前安曇氏だという資料はないと、何度言ったら。
正しい表現は、(その海人が筑前安曇氏だと思う)だよ。 淡海は阿波の海
淡路は阿波の路
阿曇は阿波の阿雲
安曇も阿波の阿雲
安房も阿波の安房 @阿波 >>631
みんな、「忌部はん」 の進出・開拓地。 @阿波 >>631
みんな、「忌部はん(海人族)」 の進出・開拓地。 @阿波 海部氏系図も、「忌部はん(海人族)」 の系図。 @阿波 >>630
バカかよ。。。 古代史なんてほとんど確定事項なんてないだろ。
「資料がないニダ!資料がないニダ!」と駄々こねるなら歴史を語る資格はないよ。
現状としては神話、社伝、地名、資料において阿曇族の本貫地は筑前志賀島が最有力なのは間違いがない。
そして一番重要なのは他に候補地が存在しないこと。 >>635
淡海は阿波の海
淡路は阿波の路
阿曇は阿波の阿雲
安曇も阿波の阿雲
安房も阿波の安房 @阿波 >>635
候補地なら、摂津安曇があるじゃないか。
安曇宿祢大浜の拠点だ。
大浜が応神のときに突然大豪族にのしあがったわけじゃあるまい。
その前から淡路の海人を束ねる部族だったはずだからな。
とにかく、みな推測なんだよ。
だから、推測だとひとこと言うのが筋じゃね。 >>638
淡海は阿波の海
淡路は阿波の路
阿曇は阿波の阿雲
安曇も阿波の阿雲
安房も阿波の安房 @阿波 >>638
根拠がないから候補にならない。
日本書紀にだって大浜が摂津だとは書かれてないし、むしろ地元の豪族説のほうが強いと思うがね。 >>640
今までの流れ見てないのか?
いくら諭してやっても言う事聞かないのが摂津チョン
↓
何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき
妄想フルスロットルで「〜のだろう。」と断定したがる
識者らに追い詰められると「が妥当」と逃げまどう
論破されても「確定資料がない」と殻に閉じこもって喚く
それがキナイコシ(主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)
別名も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ
高天原スレではカマチョン(猿芝居ではカモ先生)
海人族スレでは摂津チョン
などスレ毎の呼称も存在する
特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく
また聞き止める度量もない
そして追い詰められると様々なスレを渡り歩いて逃げ回るスタイル >>596
ワイが「筑前国風土記はない」と言うたら、貝原益軒を持ち出してきたのは誰じゃ。 ついでに
海部氏系図も、「忌部はん(海人族)」 の系図。 @阿波 >>640
日本書紀は「阿曇連の祖大浜宿祢をして…」と書いていて、この大浜の子孫とみられる安曇連の安曇百足が摂津の浦上に住んでいたことが分かっている。
大浜は摂津に住んでいた海人豪族であることは確かだ。 >>644
>大浜は摂津に住んでいた海人豪族であることは確かだ。
いずれにせよ、「海人豪族」とは、「忌部はん(海人族)」 。
「忌部はん(海人族)」以外の海人部族なし。 @阿波 >>643
阿波の人民は、縄文時代に南九州から四国南岸に入り、阿波に定着した者らの末裔。
この人民の一派は、そのあとさらに紀伊の紀ノ川へ進み、次に伊良湖岬方面へ渡った。
つまり、阿波の人民は南方系縄文人の子孫だな。
忌部は、ずっとあとになって大和から来て、縄文人民の上にヨイショと座った者だ。 >>644
宗像大社の社伝には磯良丸の功績を讃えて船48艘与えて摂津に招聘し、その子孫が百足。
筑前から摂津に移った痕跡は山ほどあるけど、摂津から筑前に移った痕跡はゼロ。
お前の負け。
諦めろ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています