先祖探しのテクニック、エピソードを語るスレ 21 [無断転載禁止]©2ch.net
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先祖を探す方法を何でも幅広く語りませんか? テクニックやエピソードなど・・・
初心者からエキスパートまで先祖を探す情報交換の場にしましょう!!!
1 なにか質問されたり困っている住人がいればみんなで協力してあげよう(ググレ禁止)
2 HNを使うとみんな分かりやすいのでは?(誰が誰だか混乱するので)
3 画像をUPするとみんな一目瞭然で分かりやすいですよ
4 家の格式を必要以上に誇ったり、蔑んだりしない事 武士だから素晴らしい農民だから駄目ということはありません、今の自分があるのは先祖という感謝の念で!!
5 あくまでも、先祖調査の経験やノウハウの語るスレです
6 荒らしは無視でスルーしましょう。
※UPの方法
@デジカメやスキャナなどで画像をPCに取り込む(ファイル名を当たり障りの無いものにしとく。UPしたらファイル名晒されるので)
Aペイントソフトなどで危なそうな箇所を消す(よく確認して!UPしてからでは遅いです)
BアップローダでUPする(一応利用規約は読んで)
CURL貼り付けたかったら貼る
○自分の先祖を語るスレ○
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/mukashi/1172634664/
【源平】お前らのご先祖様を語れ!【藤橘】
http://maguro.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1232458748/
戦国大名の家柄や先祖について
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1190452733/
みんなの家紋ってどんなの?
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/live/1390913655/
家柄ってなんだろう?
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/rights/1402948559/
前スレ
先祖探しのテクニック、エピソードを語るスレ 20
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1411232212/ 墓に彫られてる家紋が「丸に平四つ目」なんですけど、祖父が昔着てた着物には家紋がついていて「丸に隅たて四つ目」でした。
祖父はとっくに亡くなっているので聞けません。
どっちが我が家の家紋なのか… >>412
家紋は地域によって事情が違うので何とも言えないわ
家紋を複数持つ家もあって表紋とか替紋って聞いた事ない?
いろいろ使い分けてたんだよ
女系から女系へ伝わる女紋という別の家紋もあったりするし(主に関西の商売人の家系)
北海道へ開拓しに行った人は心機一転するために家紋を変えた場合があって
旧家紋が着物の方に残ってて、それを見た記憶のある子供が旧家紋が復活させてしまい
墓には新家紋が彫られてるしで、孫や曾孫の代でもうわけがわかりませんという状態になった場合もある 松方デフレから大土地所有が進むから
明治20年頃なら、その過程だろう 大土地所有が進むという言い方よりもっと直接的に。
各地の地主が破産して、破産した地主が持っていた土地を買い集める形で地主の大規模化が進んだんだよ
農業以外の、大資本も土地を買い集めて地主化した。 ファミリーヒストリーでアンダッシュ渡部の母方、吉野の梅本家は寺領代官でいわゆる寺侍みたいだが
やっぱ寺関係って京都奈良が多い?郷士については少し調べたことがあるけど地方に行けば
少しは寺侍っていたのかな? かなり大きな規模の土地を領有する大規模な寺院でないと寺侍を抱えることはないと思う
寺の武力の中心は僧兵であって寺侍(出家ではない世俗の領主)を配下にするとなると、寺自身が大名のような大規模権力として力を振るうほどでないと無理だろう
興福寺とかの特大寺院以外では珍しいのでは? と思う。 >>417レス(*ゝω・)ノ アリガd♪
地元の郷士については結構調べたときに神官の資料は結構見たけど(田舎の神官は農兼帯で農民身分)
寺侍は全然見なかったので不思議に思ったので。
郷士は自称や慣例見たいのが多くてよく分からないんだが寺侍だと所属がはっきりしているだろうが話題にはならんね 明治維新までは神事で刀を排除するような考え方がなかったのでは。 神官って苗字帯刀っていえる?神事の時は差しても普段はどうなんだろうか?
あと、苗字帯刀は藩内に限るって話があったが田舎の某藩(1万数千石)があって
飛び地で陣屋がある領地は半分ぐらいしかないので20村ぐらい。
この藩が幕末に例に漏れず苗字帯刀乱発しまくりだったが近接してる天領に恐らく
行かざるを得ない(物資の集散地だったため)場合も刀は置いて髷も戻していくのかな?? 専業の神官じゃなく、村の有力者が兼業してるのが普通だったからねえ
たいていは名字帯刀の人が兼業してたんじゃないかな。それか、僧侶が兼業してた。
大きな神社だと違ったかもしれないが、小さな神社だと専業ではない。
庄屋とか村方三役ぐらいの有力者が普通だと思う。 >>421
勉強になりました!!!
皆さん詳しいですね。 郷土史調べてると庄屋が有力者なのは分かるが組頭以下全然出てこない 三重県 家計調査の名簿紛失 20世帯の個人情報
http://www.isenp.co.jp/2017/11/22/10519/
三重県は21日、津市内を担当している家計調査員が、20世帯分の姓や住所などを記した名簿を紛失したと発表した。
県は「今のところ個人情報が悪用されたとの情報は入っていない」としている。
県によると、紛失した名簿は、家計調査の対象とする世帯を抽出するために調査員が作成した書類。
うち1世帯については調査員が実際に訪問して聞き取りを済ませ、世帯主の名前や職業を記していた。
今月16日、自宅で作業をしていた調査員が、7枚あった名簿のうち1枚がなくなっているのに気付いた。
調査を始めた6日以降に紛失したとみられる。調査の対象地域を探したが見つからなかったという。
この調査員は県の聞き取りに「調査に慣れて慢心していた。書類の管理が不十分で、申し訳なく思う」と話している。
県統計課は「全ての調査員に書類の管理を徹底するよう文書で喚起する」としている。 除籍謄本を取得したら「明治二十四年■月中逃亡 明治二十五年○月△日届出 明治三十六年▲月○日帰村」
との記載がありました。この「逃亡」「帰村」というのがどういう意味かわかるかたいますか?
戸主以下全員にこの記載があります。
なにかヤバい記載なのだろうか…。ちなみに転籍後の別の自治体で取得した除籍謄本では「逃亡」の箇所
は消されておりました。 夜逃げしたんだろ?
生活困窮か、揉め事か何かで
で、後で戻ってきた 「逃亡」と記載されてるじゃん
理由は不明だが、「逃亡」の中に夜逃げも含まれるから可能性はある。 戸籍に肺結核とか病歴まで載ってる場合もあるし、夜逃げくらいならあるっしょ?
>>428
明治24年10月以降の岐阜、滋賀、福井、愛知のあたりなら別にヤバい事ではない
全壊家屋が15万戸くらいの大地震があって、特に震源地の岐阜で逃亡者が続出した
避難って意味くらいに考えればいいと思うよ 松下さん本格的にルーツ探る 新城/井伊谷七人衆の松下氏との関係
http://www.tonichi.net/news/index.php?id=65022
井伊直虎を支えた重臣井伊谷七人衆の一人・徳川家家臣の松下氏。
その松下氏と自身に関わりがあるのではないかと新城市海老の松下恒雄さん(65)が研究を始めた。
同市海老神社の宮司を務める松下さんは、同神社の歴史を研究。保管されている棟札や祈祷札...
資料や位牌に囲まれる松下さん(新城市海老の松下さん宅で)
http://www.tonichi.net/data/img/news/news/2017/12/news0_5a3ba2663af3c.jpg 除籍簿の叔父の説明欄の文意が分からないので教えてください
東京府・・・區・・・町 亡神田・・・右エ門離別長男
同縣同郡・・・新田中村・・・孫母・・・携帯養子ニ入籍
離別・携帯の字が読みにくいので画像貼ります。違う語かもしれません。
http://up.mugitya.com/img/Lv.1_up115351.jpg >>434
字の読みはそれでいいと思う
「携帯養子」がわからんのでしょう?
普通は妻子を携帯した養子を指すんだけど、これは母を携帯した養子か、母に携帯された養子だろうな
高齢夫婦の家に養子に入ってるね。それは二行目の「孫母」という言葉からわかる
誰から見て孫なんだって話だね
その孫と母が携帯養子になったという事だから、どちらかが養子になって片方を携帯していたという形だわ
まぁ、想像も混ぜて書くと
父の右衛門が死んだか離婚して、母子家庭になり
生活がきつくて再婚相手も探したがなかなか見つからず
子供を老夫婦の家に養子に出そうとしたら、親子まとめて面倒見たるわって言ってくれたとかじゃないの?
全然違ってるかもしれんけど >>435
ありがとうございます。
ご意見をもとにもう一度よく読み込んだ結果、除籍簿全体をおおよそ理にかなった形で解釈できました。
この母というひとの名前が除籍簿にない(没年は墓石の情報から戸籍作成時よりも15年ほど後)のは
養子の携帯した母は転籍しなくても良いからなんでしょうかね・・・ >>436
養子がまだ幼くて、老人が世話するにはきつかったとかで
母は住み込み家政婦として雇われたとか、まぁ、そんな感じだったら転籍してないと思います
携帯養子の事例が少なくて珍しいので何とも言えないんだけど、
似たような用語に携帯分家というのがあって
本家で生まれ育った人が両親や兄弟を引き連れて分家になる場合で、
携帯された親が転籍してない場合があるので、あくまでも類推になります
ただし、「孫」という字が出ている点が少し気になります
母が養子にならないと息子さんは孫になりませんよね? もしくは、もともと孫(外孫だったか勘当で切れてた子供のとこの孫だったか)だったのを養子にしたとか? >>436です
叔父○○は父である神田・・右エ門と離別して、母子家庭となった。(神田から除籍)
母△△は旧姓中村で、母△△の父、中村●●から見れば○○は孫であるから
と解釈しました。
どうも養子先の夫妻(戸主から見て祖父母)は、除籍簿や墓石の年齢から推すに母△△とは同世代のようです。 ああ、亡神田なんて地名があるんだと勝手に思ってた
除籍簿作成時には亡くなってた神田さんという意味か
私には、誰から見ての孫なのか今ひとつわからなかった上に
同世代の夫婦の所に母子で携帯養子になったと・・・予想がハズレました
他の人ならもっと正確に除籍簿を理解、解釈できるかもですね 30分ほどで先祖を江戸時代まで遡ることができたことに驚いてます
もちろん自分で役所を訪ねました
江戸時代より前はどうしたら探せますか? 藩名や身分などを伏せた状態での質問には答えようがありませんが、
大前提として旧字体の崩し字が読めない事にはどうにもなりません
それと地元の地方史も勉強した方がいいです 地方史も文字も理解していない私ですが、なんとか動いてみました
戸籍謄本と除籍謄本を調べると江戸時代までずっとその地域に住んでいたようですぐに遡ることができました
父方の父をずっと辿りました
天保まで遡ることができましたがそれ以前は役所には記録がないということでした
名字は「橋本」で和歌山県のある地域にずっと住んでいるようです 地方史も理解していない私ですが、とにかく動いてみました
戸籍謄本と除籍謄本を調べて江戸時代まで遡ることができました
江戸時代(天保)からはずっと今までその地域に住んでいたようです
橋本権右衛門という人が役所で調べられる一番古いご先祖様でした
この方より前に遡るにはどうしたらいいのでしょうか 江戸以前の橋本という名字はどんな人が名乗っていましたか? >>443
和歌山は丸ごと紀州藩だからいいけど、他の人も見てるから書いておくけど県名じゃなくて藩名で
今の県は複数の藩が合体してたり、大きな藩が分割されて複数の県に跨ってたりとかだから
で、江戸時代に苗字が公式記録に書かれていたとなると武士とかだろう
武士なら紀州藩の資料をあたれば何かが出て来る可能性がある
資料は和歌山市の県立文書館にあるから10年とか20年かけるくらいの覚悟で通う
https://www.lib.wakayama-c.ed.jp/monjyo/shyozou/komonjyo.html
ここを見たらわかるように、和歌山の町単位での資料が保管されているから、関係ある町の資料は全部読む
残念な事に橋本家文書はないようだが、寄託されてないだけかもしれないし、あきらめずに根性出せ
崩し字の勉強から始める事になると思うけどな 先祖代々の菩提寺があり、過去帳が残っていればかなりたどれると思う。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
FW7YH 今は個人情報がなんとかで、先祖の過去帳なんか全く見せてもらえない‥ それは菩提寺と付き合いが浅いから。
うちの菩提寺も時々子孫だと名乗るどこの馬の骨だか解らないのが来るそうだが、住職か塩対応して追い返すよ。
普段付き合いの無い自称子孫なんて相手にしてられないって。 京都、大阪のふぉろわさんはご存知の寺院かもしれないけど、うちは臨済宗妙心寺派の末寺。
過去帳による身元調査には一切応じていないけど、
以前、○○さんの知り合いでお墓参りをしたいからお墓を案内してくださいということがあった。
後でわかったのだが、実は縁談の身元調査だった…
https://twitter.com/passei930/status/533826604594495488 >>450武士なら当然名字が記されてるが
庄屋等の名誉的な苗字帯刀って名字が書かれないこともあるのかな?
尾張藩の中山道沿いの宿場役人からさんざん苗字帯刀を許してほしいという願いが
出されたらしい(ほかの宿場で許されている役人がいるため差が出てしまい業務に
支障が出るとの理由で)が、許されたかどうかは不明だそうで・・・当時の資料に
名字が記されてるかどうか調べれば分かるほど単純なものでもないんだな。 密着!平成のお殿様〜子孫はつらいよ!〜 BS朝日
http://www.bs-asahi.co.jp/heisei/より
【放送日時】
2018年2月22日(木)よる9:00〜10:54放送
番組概要
2018年は明治維新150年という節目の年。歴史の大転換となった明治維新を境に、
お殿様たちは大いなる転換を迫られました。お殿様たちの子孫たちは、今、どこで何をしているのでしょうか。
子孫たちの「現在」を直撃!
●犬山城(愛知県 犬山市)の当主の末裔 成瀬淳子さん
●松代藩 藩祖 真田信之の子孫 14代ご当主 眞田幸俊さん
●板倉家(岡山県高梁市) 19代目板倉重徳さん、20代目勝慶(かつよし)さん親子
●宇和島伊達家 13代当主 伊達宗信さん
●山形米沢藩 17代目当主 上杉邦憲さん 除籍謄本父方母方どっちも遡れるだけ取り寄せた
富山、岐阜、山口、神戸、広島にルーツがあったわ
それぞれ墓参りに行きたいが、いきなり見知らぬ怪しい女から「遠い親戚なんです〜」って連絡あっても相手は困惑するだけだろうし躊躇ってしまう >>457
庄屋の場合は本人の署名に名字が書かれてないという場合はあります。
宿役人の場合、
名字帯刀が許可されていたなら、本陣や脇本陣の主人も兼任していたなどでしょう。
本陣というのは大名や旗本、天皇の勅使などが泊まる宿です。
脇本陣はそれの予備的な宿です。
役人というだけで名字帯刀は珍しいと思います。
先祖が武将だったけど帰農したなどという事情があれば話は違ってくると思います。 明治25年に曾祖父の兄弟が廃絶家再興により除籍になり、廃絶家だったA家の姓を名乗り始めました。
祖父も他界しており自分の家とA家がどのような繋がりがあったのかわかりません。
一般的に廃絶家再興はどのような意味合いがあるのでしょうか? >>461
あくまでも一般論としてですが、家名を維持したり、分家同士を繋げる本家を維持するために本家を再興するといった効果くらいしかないです。
大審院(今の最高裁)の判決で、廃絶家に財産があっても再興者に相続する権利は認められないと判断されたため
金銭的なメリットなどはありません。 >>459
基本は手紙で自己紹介でしょうね。
戸籍謄本同封して、自分とのつながりを家系図で記載。
祖父母や曾祖父母の名前を出していけば、先方の年配の方でしたら、自分の従兄弟か親の従兄弟
位で関係近く分かってくれる場合もあります。
その後、手紙の返信が来ない場合はこちらから電話してみましょう。
相手が年配の場合は返信できない場合も多いです。 >>460
大半の本陣は勿論だが、一介の東日本の庄屋なら大抵武将か地侍だがな。 25 日本@名無史さん[] 2018/02/27(火) 13:58:29.34 ID:
今月、やっとたどり着いた
うちは、大庄屋で苗字帯刀が許されてた
あと、公家だったという記録も出てきた
通常、公家で検索しても絶対に出ない苗字
苗字帯刀されてた時に蜜だった藩が公家絡みだったからなのか
まだまだ調査が必要だ
27 日本@名無史さん[] 2018/02/28(水) 01:38:59.12 ID:
苗字と帯刀、両方与えられてるって事はかなりの優遇措置だよな
それに大庄屋って知らなかったけどウィキペディアで調べたら凄いな
ある意味、下級武士より余裕で上だろ
公家から派生したか、大庄屋クラスだと
その前の戦国時代に大名直下の家臣だった可能性もあるが
公家に苗字があるなら公家派生が有力じゃないのかな
28 日本@名無史さん[] 2018/03/01(木) 14:05:39.51 ID:
公家の○○殿
とかよく古書に載ってる事あるけど
公家の人のことを殿って呼んでたのかな 一般の庄屋だって戦国時代まで領主階級だった元武士の家が普通ですからね
太閤検地を含む秀吉時代の政策で武士ではなく農民と変更された感じ。
ましてや、複数の庄屋たちを束ねる大庄屋なら、
戦国時代までは凡百の武士よりも高い地位だったはずですよ 大庄屋クラスだと、戦国大名だったクラスも結構いるくらいだからな
真田幸村の娘も大庄屋に嫁にやってるくらい、戦国時代から財力や在地権力は相当なもの
逆に江戸中期以降かなりの弱体化させられてもこのレベルだし どんだけ庄屋を持ち上げてるんだよ。
ただの農民より多少マシ程度だよ。
確かに元は地方領主クラスもいるけど往時の勢力そのままではなく、没落して力を失い、庄屋に落ち着いただけ。
先祖が庄屋の奴が妄想書いてるだけだな。 庄屋の成立過程に関する研究を見る限り、庄屋の起源は農民じゃないよ それがどうした。
先祖が庄屋でない者にはどうでも良い事。
庄屋なんて下層に興味ない人が大半なんだから。
農民の親玉くらいにしか思われてない。 >>469
江戸初期の庄屋の実態
http://www.e-obs.com/heo/heodata/n332.htm
↓
〈旧在地領主層を庄屋に任命〉
>>大分県下における近世大名は、すべて他国から入部してきた大名である。この大名が領主として領民を支配し、
>>年貢などを納入させることは、当初かなりの困難が伴った。
>>例えば、 中川氏 は文禄3年(1594)に 岡藩主 として入部したが、
>>入部の行列が 襲われたり(赤岩合戦)、領内の村々に古年貢帳の差し出しを命じた際も、
>>磔(はりつけ)木を持参するという強行手段を構じなければ提出させられなかったりしたのである。
>>このような困難な状況を打開するために近世大名がとった方法は、旧在地領主層を庄屋に登用し、特権を与えるという懐柔策であった。
>>岡藩 の場合、各村に庄屋を任命し、それを統轄し 郡奉行 と庄屋とのパイプ役として千石庄屋を任命している。
>> 千石庄屋 の名称は、1,000〜1,500石を統轄範囲単位として1人ずつ任命されていることによる。そして、これらの庄屋層には在地領主時代からの特権の一部を認めていたのである。
>>>>>>>>>このように諸藩では、旧在地領主層との妥協の上に藩政をスタ−トさせたのである 下級ぷしとか抜かす奴隷民ごとき出自不祥の一族糞貧乏ごときと、
庄屋様を一緒にしないでもらいたいわ まじ、怠慢なら下級藩士ごとき、束んなってかっせんしても、お得意?(笑)の武力でぶっ潰してやりますよ(笑)
庄屋が武力ないとかそれこそ幻想なんですよ、奴隷民が(笑)
★★戦国時代の幸手城主 名門武蔵一色氏
兄弟で、旗本、名主、 に分かれる
兄→旗本5000石
弟→当地に庄屋として帰農
>>幸手城主の一色直朝には、小田原北条氏に属したため領地を失ったが、徳川家康はあらためてその子義直に幸手領5000余石を与えた。
>>その弟政義はこの時渡辺を称し上川崎に土着した。この時に築かれたのが渡辺氏屋敷である。
>>江戸期に入ると、渡辺家はこの地方の名主として栄えた 国時代名門関東の地侍衆の小田原合戦後
その武蔵鴻巣七騎の詳細を紹介します。 ↓
@★深井対馬守 → 名主、家老藩士、 に別れる
【本家】
>>1)土着して中山道鴻巣宿の草分名主となった
【分家】
>>2)藤堂家に仕えて藤堂姓を許された一派 (分家は本姓の深井を名乗る)
>>3)松平伊豆守家に仕えて家老職をつとめた一派
>>4)高崎藩(松平信綱の五男・信興を祖とする)に仕えて家老職をつとめた一派
と分かれた。
>>この戦で後北条氏が滅亡した後、名主となった深井景吉は、忍城主となった松平忠吉(徳川家康四男)に仕えている。足立郡箕田に陣屋を構え、周辺の村落の再開発を行ったという。
(『論集幕藩体制史6巻「藩体制の形成I」』)
http://hp.vector.co....s/roots/roots01.html 庄屋屋敷の基本形態って、中世城郭なんだよね
豊臣期や徳川期の城割り令で城壁(土塀が多い)や濠を半分だけ壊して半周だけ残すようなのが多くある。
まあ、城っつっても一国あたり数百もあった城のうち一形態で近世城郭みたいな大きな建造物じゃないけどさ 館みたいなもんだからな。
確かに下級藩士のような掘っ立て長屋レベルとは訳が違いますからね いちおう、戦国時代頃の領主屋敷って戦時に領民まで避難して立てこもれる程度の規模はあったはず
それゆえ、領民が建築/改修の主体となる風習もあった
普く(あまねく)請ける=普請という語句は、そういう「みんなでたてる」風習からきてると思われ。
元は寺院の建築とかで信仰上の風習から信者動員で建てたあたりからきてんだっけ? 領主もぴんきりだからなあ。
土豪クラスまでは領主になるのか?! 先祖が平民もしくは穢多クラスだった奴らの嫉妬感が凄いのにワロタw
過去のことなんてどうでもいいだろ いや平民じゃなく、ここで荒らす奴らは100%穢多非人の子孫だと思うよ
穢多非人といっても、武士だった奴が大罪犯してそうなった奴も含まれるんだろうけどさ
まあとにかく、そういう奴らがここを荒らすんだろうよ 江戸時代に藩士になったやつらも出自不祥が多く、
特に織田や秀吉は鍛冶屋や甲冑屋まで直属武士団に組み込んでるから、
土地を大量に所有する有力百姓より親和性がもろ近いだろうな
なんせ秀吉みたいなんが大量に武士団に組み込まれてんだから 末端層がなれる職業は傭兵武士か職人
絶対なれなかったのが土地を大量に所有する上層百姓
なに勘違いしてんだこの馬鹿 先祖探しのスレに身分差別持ち込む奴の方が荒らしだろ
ここは先祖探しのスレであって先祖自慢するスレじゃないから 江戸時代ならまだしも戦国時代以前には職人集団は平民じゃないぞ>>484
律令官人の子孫とか国家直属の職能民衆団構成員の子孫とかで、庶民と下級貴族の間あたりにいた
そういうのを武士団に組み込んだから出自不詳でとか言っても、庶民を雇い入れたわけじゃないんだよ >>466
26 日本@名無史さん[] 2018/02/27(火) 16:15:55.93 ID:
公家の三男四男が地方で庄屋をやるのはよくある話
その際、姓を変えるのもありがちだな 庄屋自慢の基地外が暴れているなwwww
庄屋なんて戦国時代に落ちぶれた土豪程度だろ せいぜい 笑わせるなwww >>486
そのとおり。
先祖が庄屋だと自慢している基地外に言ってくれ。 先祖が外様大名の家臣だった俺からすると庄屋なんて糞みたいな存在なんだが。 241 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 2018/03/05(月) 12:50:59.63 ID:HYrca2L9
>>239
アホか?
専業ってのをプロって言うんだよ低能
プロの意味を調べてみろやキチガイ
同意語だろキチガイ低能
日本では専業という言葉をメディアが使ってるだけだろ
プロと専業の違いを詳細に述べてみろや低能
因みにおれは東大卒後、ケンブリッジの某大学に4年在籍しとった
まあ、大昔の話だがな
それともう一つ、かなり遠いが皇室とは親戚筋の家系だ
で、おまえは? >>489
>>490
>>491
穢多非人の子孫認定だな
頑張れよ、自己を卑下するな 庄屋って今で言うセレブより凄かったんだろうな
あの時代だもんな
けどそうなると悪いことはしてなくてもみんなからの
妬み、嫉み、僻みとかの念を被ってそうだな
大庄屋まで行くと完全に雲の上の人だろうから
オラが村の庄屋、ってのに念が行くわな
庄屋の家系が途絶えやすいのは、その念が影響してるのかもしれないね
オカルトとかじゃなくてさ
しかしその大庄屋って、どんな人がなれたのかな
苗字帯刀まで許されて場合によっては藩札の札元や
訴訟の調停までやってたんだよね
―――――-
大庄屋
おおじょうや
割元名主 (わりもとなぬし) ともいう。江戸時代の村役人の一つ。
数ヵ村から十数ヵ村を支配し,法令伝達,管内庄屋の取締り,
訴訟の調停などにあたった。
土豪の系譜をひくものも多く,苗字帯刀を許され,なかには諸士格として知行を給されている例もある。
―――――-
どんな人が大庄屋になれたのか知りたい >>495
だって一村の石高 は300石から七百石が平均
大庄屋クラスだと5から10村のほぼ知行レベル
1500から3000石レベルの領主とかわらないからなあ
ましてや、徴税権の独占のみならず、
村内の
政治執行役
インフラ公共事業
警察権
裁判権
までほぼ独占状態の完全な中世領主型
たんに大名家の奴隷たる藩士になってないだけで、
苗字帯刀は許され、
門構えは家老クラスにしか許されない長屋門、
さらには戒名も家老クラスしか許されない院号まで許されてる
奴隷民の出自不祥の藩士程度と、藩の扱いや優遇性が違いすぎるわ 関東の庄屋屋敷の典型
旧後北条家貴下の土豪だった庄屋屋敷
http://www.youtube.com/watch?v=TmDSqCAxoEk&feature=youtube_gdata_player
藩士と庄屋
どっちを藩政は気を使っての優遇を図ってきたか
元々の出自が、たかが藩士ごときとちゃうねん 大庄屋?
『腹が減っては戦ができぬ』
かなりの土地を有していて、
稲作、田畑などで食べ物を作っている人々がいて、
その上のほうにいる家でしょ?
開墾のプロ、作り手がいなくなると、
飢饉〜餓死のような事になり
大名だろうが、誰だろうが、死んでしまう 開発領主てしらないのか502の馬鹿は。
武家が土地から切り離されたのは戦国後期以降の東海軍団だけだぞ馬鹿が
土地すら持たない武家なんて、戦国時代以前にどこにいたよかすが 何の話なのか、わからないけど、
米(百姓)などを作っている家は、偉そうにしているんだよ
と言う話があったり
かなり大きい家の話、税などの話なのかな >>502
開墾のプロ
幕府や藩からすなわち開発が出来る立場のある家も
中世からの在地有力者、すなわち土豪地侍の家系を選定基準にしてんだが?
歴史にわかは口にチャックしとけ 特別扱いされていたとか、
税金も・・・納めていない?米で払っていた?
テレビなどの報道があるでしょ、
今年は、あまり米が出来なかったとか、豊作だとか
昔の話なのかな 中世の在地領主であり、
江戸初期に水戸藩から開発【開墾】を命ぜられた庄屋屋敷
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/4393/sakanomt.htm
藩士ごときの屋敷や出自と違いすぎるんですよ庄屋は。
開発できる上層百姓は中世の領主階層な >>499
なにそれ?
それが事実なら、武士でも手出しできないじゃん
いわゆる悪代官と密接に繋がってたとかかな たかが下級武士程度じゃ手出しできないどころか接点すらないから。
庄屋が下級藩士にぶち回され、娘をぶんどられるイメージは水戸黄門のテレビドラマの中だけな >>499
それプラス、藩札の札元って記録もある
今で言うと銀行兼造幣局だよな
で、一番の疑問
土豪とかがなれると諸説あるけど
そもそも江戸時代前はどんな身分にあった人間?
戦国時代の大名の家臣系統か?
公家系統か?
もっと他の身分? 因みに水戸藩内では、
生瀬騒動といい、
江戸初期、旧佐竹家貴下の地侍だった家が庄屋になり、
この庄屋が水戸藩の下級藩士を二人叩切って水戸城下に送りかえした事件が起きてんだが?
下級藩士程度じゃ庄屋にぶったぎられる立場な江戸初期は!
この結果は、水戸藩は庄屋の首を差し出すよう要求するも、一切応じなかった庄屋に、
水戸藩は藩兵300で庄屋の村を攻めることを表明
庄屋は村民を武装させ対抗する姿勢を示し、合戦
藩兵はおよそ80人近い死傷者だして三ヶ月に及ぶ包囲戦で勝利した騒動
庄屋なめんなよ?まじ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています