食物と酒、嗜好品の歴史@日本史板 3皿目 [無断転載禁止]©2ch.net
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味噌を摺る必要ってあるのだろうか?
味噌殻ないほうが非日常を味わえるのかもしれないけど、味噌濾し使えばすむ話にも思える
人件費かけてでも味噌殼ごと摺った方がコスパいいんだろうか 殻ではなくて豆や麦の本体を擦りつぶすのが目的なんだろう
濾してしまうんではもったいない >>675さん
669です。
私は新潟の農村部在住ですが、年寄りは擂り粉木を味噌擂り棒、擂り鉢を金鉢と呼びます。
昔の自家製味噌は味噌玉を軒先に干してから、それを包丁で刻み、大豆の煮汁と混ぜて味噌桶に保存したそうです。
ですので、擂り鉢で擂らないと硬い部分が残って味噌汁にならないのだそうです。
私はその事を知っていたので、そのような日常作業を専業にするような商売が有るのか?と思ったのです。
でも、考えてみたら、そのような手間賃稼ぎでやっと生活しているような老婆の事を語ったものだったのかも知れません。 落語で、ケチな旦那の商家での手代と旦那の会話。
手代「朝の味噌汁が具なしなのは何とかなりませんか?」
旦那「そんなことはない。擂粉木が10年でこんなに短くなってるんだから、具なしじゃないだろう」
ってのがある。 >>678さん
>>675ですが、うちの味噌は味噌玉の過程がなく、なおかつ搗いた大豆を使うのでそれが標準イメージで書き込んでいました
自省します
普段の味噌汁はダシ殻の煮干しと共に大豆ノ薄皮や米麹が椀底に残ってはいましたが、量はそれ程でもなかった記憶があります 前後によっては、一膳飯屋やゴマすり屋って可能性もあって難しいな >>678
>日常作業を専業にするような商売が有るのか?と思ったのです。
江戸時代には貧困層の商売で、洗濯屋だってあったからね 考えてみれば、昔は家庭に冷蔵庫もなかったのだから
朝食に鮭を焼くなんて無理だったろう。
味噌汁の具に何を入れられるかが朝食の楽しみ。
自分の祖父の里の山奥では魚の塩干品も贅沢品だったと聞く。 鮭はキツめの塩鮭が基本。
焼いたら白く塩を吹く。
熟成したものをカラカラに焼いてほぐして
茶漬けが至高。 細川忠興が息子の忠利に手紙で、
「鮎はパリッと焼けって言ってるだろ!」
的に叱ってるんだが、当時は焼き魚は水分が無くなるように焼くのが普通だったのかな? アユに限らず川魚の焼き方は
遠火で水分を飛ばすように焼くのが良いそうだよ 水分が多いのに冷えちゃったら
食えたもんじゃない。 戦場を駆け巡っていた奴らは熱々で食っていたんじゃないかな 月曜日22日に放送されたBSTBSにっぽん!歴史鑑定・吉宗の女性スキャンダルで
米の話のところ、そこに使われた映像は小麦!それも2箇所!
スタッフは稲と小麦の区別がつかないのだろうか 江戸時代とかに日本の将軍や天皇はコーヒーを飲んだことあったの? 九州のナンチャラ貝塚だっけ?
その蔦のDNAでも残ってたんだろか >>702
ない
太田蜀山人が「焦げ臭うて味うるに堪えず」とか
長崎では少しは飲まれていたらしい。
オランダ人の使用人の間で。 今でこそ紅茶の島みたいになってるけど、19世紀前半までセイロンはコーヒーの大産地だった。
17世紀から19世紀の頭までオランダ領、19世紀にウィーン条約でイギリス領に。 少子化対策しなくても
生活保護も年金も国保も保育所もなくて国民の大部分が栄養不良だった時代のほうが
はるかに出生率が高かったとは何たる皮肉www
国民は殆ど皆、小学校を卒業したら働いたんだよ。 満州先生の新刊「馬韓も百済も満州にあった」が限定100部で発売中ですよ。
Amazonのみの発売なので、売り切れる前に君も買おう! スレチだけど、昔は健康的な食事だったのは幻想だよ。
塩が貴重品だったのは、江戸の前期のことであって後期は
時代劇にも出てくるけど、塩売りがどこの長屋も回ってた時代。
塩も味噌も醤油もふつうにあって、当時は冷蔵庫がないから、
月に数回しか食べられない魚も濃い塩漬けだし。
それに、当時の食事の基本はしょっぱいいおかずで、ご飯を
1日10膳食べるっていう、ものすごい栄養が偏った食事。
だから、江戸ではみんな栄養が悪く、平均身長は156センチっていう、
今の時代の小学5ー6年生と同じ体格で、当時の人骨を調査すると
圧倒的に栄養失調で病気持ち。
食べ物もしょっぱいたくあんや味噌汁、たまに塩で保存したメザシや
佃煮が出ればごちそう。魚類は月に数回。
当時の食べ物番付に出てくるのは、たくあん」「梅干し」「茎菜の漬
「座禅豆」「味噌漬け」で、食べたいものが塩辛いメザシ。
夜ご飯は大量の漬物だけってのもあたりまえ。
だからビタミン不足で脚気の人がすさまじく多くて江戸患いって
言われたくらい。体力がなくて、脚気で、足元がフラフラして
伝染病の感染も多かった。だから平均寿命も30代。 >>675
自家製味噌作ってるけど、実際に味噌は使う前にすり鉢で当たらなければ使えないよ。
味噌を仕込むには、まず柔らかく煮込んだ大豆を潰して、塩、麹と混ぜる。
だが豆を潰すといっても、昔は臼で搗き潰すか、新品の藁沓を履いた足で踏みつけるのがせいぜい
どうしても潰しきらない豆が出る。
だから、使う時にすり鉢であたる。 江戸時代って納豆が味噌汁の具だったんでしょ?
味噌すって更に粒状の豆を入れる・・・
賽の河原だな 令和元年(2019年)、悪質な掲示板荒らしとして幕閣と江戸庶民らを怒らせた >>661 に対して
南町奉行吉田安房介は磔刑に処す旨、また獄門としその死骸を晒す旨申し渡した。
処刑当日、伝馬町の牢から引きずり出された >>661 は裸馬に乗せられて、江戸市中を引き回された。
牢内での度重なるリンチのためか、彼の鼻骨は折れ潰れ、全身は青アザまみれだ。
便所から汲んだ人糞を無理矢理 喰わされたゆえか、全身が青黒く膨れむくんでいた。
たとえ今回の処刑が無くとも、ほどなく苦悶の中で絶命することは明らかだ。
周囲で罵声を上げる見物人らも、スレ荒らし厨房の末路に身震いが止まらなかった。
程なくして鈴ヶ森刑場に到着。刑場ではすでに非人らが弾左衛門の号令下、処刑の準備を進めていた。
礎石の裏に倒されていた磔柱を検分し、刑場の中央に引き出していた。
刑場に土下座させられた罪人を前に幕府検使前田帯刀が懐から奉書紙を取り出して改めて罪状を 読み上げた。
江戸庶民の鼻つまみ者 >>661 の最期を見ようと見物人が大勢囲いの外に集まり、 喧噪は収まらない。
しかし「掲示板荒らしは不届き千万、従って磔獄門に処す」との声に、誰もが唾を飲み込んだ。 非人らが >>661の衣服を剥ぎ取ると、引きこもりと牢内生活で醜くむくんだ体が露わとなった。
竹矢来の外では、母親が子供に
「お前たち、よく見なさい、スレを荒らしたら、あんな姿になるんだよ」と教え諭している。
子どもらは、嘲笑を止めて泣き顔になった。
磔柱へ大の字状に荒縄で 661を縛り、罪人を東に向わしめて 磔柱を立てた。
槍を取る非人(即ち突手)二人が、荒縄の襷を十文字に掛けて、罪人の左右に分かれ、
各々槍の穂より三尺ばかり下の所を荒縄にて縛る。
これは 罪人661 の血が手元に流れ来るを防ぎ止める用意である。
一人の非人は磔柱の下に水を入れたる桶を据え、雑巾様のぼろきれを持ち、うずくまる。
これ罪人661を突きたる槍に付着せる血を一度ごとに拭い去るためである。
左右の突手非人が槍を構え、左右から槍を差し出し 661の胸元で会わせて「見せ槍」を行なう。
そしてまず右の者が「アリャ、アリャ、リャー」のかけ声で >>661の腹へ槍を突き込み、肩まで突き抜けさせる。
661の絶叫が刑場に響き渡る。右の者が槍を抜くと、左の者が同じように661 の腹へ槍を突き込み、肩まで突き抜けさせる。
刑場は >>661のどす黒い鮮血でとても見られたものではない惨状であった。
交互に刺すこと8回に及び合計16回槍に突かれた 661は、わき腹からどす黒い血を流し続けている。
肉片でささくれた傷からは、新鮮な腸がぬるりとはみ出している。
敏感なハエが死臭を察知して、すでにわんわんと寄りたかりはじめている。
彼の正面から喉元に「止めの槍」が刺されて、 処刑は終了した。
そして処刑後の死骸は磔柱に架けられたまま、三日三晩晒し者にされ、
その後はウジが湧き出すまま 野犬の餌になった。
少ない財産は闕所とされた。 江南豚鼻ニガー支那マンセーピーデのマイケルジャクソン射精エベンキガイジこっちも荒らしてて草
もしかして山野野衾ジッジの気を引くために荒らしてる老け専ホモけ? ストーカーエベンキ「頼むっ!!山野天皇俺を見てくれえええええええ!!!!!」 支那ガイジってよっぽど暇らしい
被害妄想が激しくて友達もおらず
誰からも相手にされず可哀想… ええこと教えたろか?
規制の判定は鯖単位で行われるんやで
例えばここはlavender鯖やから違う板でも同じlavender鯖にある板を荒らすと日本史板も規制されるんや
まっ回避する方法もあるにはあるんやが、親の回線つことる子供部屋から荒らしおじさんの知能では不可能やろなあ(しみじみ >>717
一日中部屋から出ないんだね?
人生つまんなくない?
もう老い先短いから関係ないかw てかこないだから粘着されてるけど
荒らし違う奴なのにやたら絡んでくるし
本当に馬鹿なんじゃないかと思う そもそも荒らし本人じゃなかったら反応するメリットないからな〜
せいぜいお父さんに始末されない様にちゃんと働いて家に金入れるんだゾ〜(おせっかい) 射精エベンキくん分かりやすすぎるタイミングで荒らしてて草 NHKでやってたが、徳川家康は浜松の名産・浜納豆が好物でよく食べていたらしい
家康が浜松とか駿府とかに居を置きたがっていたのは、浜納豆を食べたかったせいかもww
https://kotobank.jp/word/浜納豆-116251 日本人って、豆をいかに加工して米のおかずにするか?に命かけてるな >>724
納豆は日持ちしそうだから、城がどこであれ持ってこさせれば良かったのではと思っちゃうけど 射精エベンキ「山野にあいたい!山野きてくれええええええええええ!!!」
草 間違えた
これは元来草食ですわ
魚三匹とか贅沢過ぎやろ
https://i.imgur.com/OxVhzrJ.jpg
これで戦争はできません
江戸の街だと庶民クラスまで三食白米を食べてた、
というのは有名な話。
*もっとも、脚気が「江戸患い」と称されるほど蔓延したのも有名
但し、日本全国で白米が日常食になったのは大正時代なんだとか
米は一旦江戸や大阪に入ってくるから
江戸や大阪は米の供給過多で
江戸中期以降になると米かなり安くて庶民も白米ばっか食って脚気が増えた
ただ貧しい田舎は明治時代になっても白米なんて滅多に食えなくて
三食銀シャリ食えるぞ!!東北などで言って昭和くらいまで兵隊集めてたらしい 庶民なら魚なんか10日に1回ぐらいだろ。
京都みたいな内陸だと冷蔵庫がない時代だから
月に1匹塩干魚食えれば満足。 魚が食べたいのなら、煮干しを汁の具として楽しめばいいじゃない >>731
自分でとらない限り、生産流通機構がない。 イスラム教を国教にして一夫多妻を認めたら人口は増えるが、それはもう日本じゃない。 >>735
自家消費だけ、そんなことないか。
余剰品を市いちに持っていって他の生活必需品と交換していたか。 タイよりもコイのほうが食材として格が上っていう時代が長かったし
自分で食うとかじゃなくて(食う分もあるだろうけど)普通に流通させてるんじゃない コイなんか濡らしたムシロにでも包んどけば
半日くらい平気で生きてる 柚木学『酒造りの歴史』って本で、律令時代の朝廷において、造酒司のもとで酒造りを担った酒部のほとんどは朝廷半島からの渡来系だったとあるけど、やっぱりこれは正しいの?
そうだすると、酒部を使った酒造りって平安時代のいつまで続いたんだろうか?
次第に酒造りは寺社に移っていくわけだし、渡来系言うても平安時代には日本人とほとんど同化してそうだしなぁ >>688
越後・出羽から塩鮭を都まで運んでたけど。調で、租庸調の調な、品目が指定されていた。 味噌汁の具と言えばスリ棒ってな落語があったけど
アレは味噌を摺るための棒なのかな 落語で食い物と言えば、酢豆腐、
夏場の千両蜜柑
1合を半分に分けて飲む居酒屋のツマミはショウガに塩ラッキョウ
焼けた味噌蔵
毒入りの卵酒
ズロロロロとすする饂飩
極めつけは、遊女をズンドウ切りして食う、タクアンとインゲン豆のお茶漬け! まずは目黒産のサンマの塩焼き
三毛のニャアに、サブロクではなくてダリ
時そばのしっぽくも忘れちゃなんめぇ 鍋焼うどんは明治に入ってからのものみたいだな
落語自体最盛期は明治期らしいし 屋台のそば屋がズラリと鍋焼きうどん屋に変わってしまい、「時そば」の舞台は過去のものになった お江戸の屋台店は車輪がついてなかった
移動するには、天秤のようにかついで運んだ。
そんな構造で、鍋焼きの土鍋を積んだ屋台店は重すぎて人力で運べないわなぁ
明治以降の屋台店には、車輪がついて移動も楽になった。
鍋焼きの土鍋を積んでいても、わりあい楽に運べるだろう。 >>756
何で車輪をつけなかったんだろう?
車輪自体は古代からあったのにな >>758
江戸時代の道路状況だと担ぎ屋台のほうがなにかと都合がよかったんだろう 日本で車輪のついた乗物がながらく発展しなかったのは、山岳地帯が多く
道も整備されていなかったから?
車輪だとガタガタが体に伝わって乗り心地が悪いし、轍にはまりこんだら最悪。
馬の背や駕籠、輿だったらそんな問題はない。 丹沢 鍋割山荘の名物は鍋焼きうどんだったな
材料はあの馬鹿尾根を人力で担いで上げている 明治13年の讀賣新聞記事
「近頃は鍋焼きうどんが大流行で、夜鷹蕎麦を食べる人は少なくなった。
東京府下に鍋焼きうどんを売る者は863人いるが、夜鷹そば屋は11人にまで減ってしまった。」
屋台に車が付くのは明治も中頃を待たねばならなかった >>760
屋台なんて街中の商いだぞ。住居兼仕込み場も、出商いする先も、同じ町の別の街区くらいのもので、
山越えなんてしねーよ。 >>758
所謂「勤勉革命」
車輪を作る初期投資よりも、人間の労力を浪費する方に、技術的逆行。
貴人の乗り物が牛車から人の担ぐ駕籠に、灌漑水車が水野流力を利用する自動式から足踏み水車に後退したように、
荷役も車すら使わず人の肩を利用する方に後退。
鉄・刃物の産地を近隣に持ち商業都市の大坂は資本効率重視で大八車・丁稚車が盛んに利用されたが、
どうせ抜かない刀ばかり鍛ってた江戸では刃物の供給のおぼつかないので、木製の車輪がなかなか作れなかった。 760は屋台ということではなく車輪付き乗り物一般についてだな
まぁ、大八車とかあったけど道狭くて事故が起きた
その場合、歩行者が被害者で車は加害者として罰せられた
江戸幕府は荷車については総数制限と厳しい
普通の大八車は全国で江戸だけ許可
京・大坂はもうちょっと小さなべか車を許可 >>763
蕎麦は徐々に高級路線にシフトして屋台じゃなくて店舗になっていったからねえ そばが好まれる東都では関東大震災の前に各町内に一軒もしくは二軒のそば屋があるのが普通だった
日常の食べ物であったわけで、決して高級な食べ物というわけではなかった 衛生面で問題があるのは解るけど、屋台も少しは残して欲しい 公衆用道路を占用するのは基本的に駄目
博多など例外的に認めているが縮小している 道路ではないが大阪城の敷地で格安地代で既得権的にずっと売店を営んできたおばちゃんが、高額の脱税で摘発されたな
最近、外国人観光客の増加で、もう見過ごせないほど繁盛していた >>768
江戸初期にはうどんの三分の一ほどの価格だったわけですが 江戸後期でも江戸っ子と言やぁ、そばでぃ
う〜ど〜ん、なんだか上方者みてぇでイライラすらぁい
ってやんでえ、ちくしょうめっ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています