食物と酒、嗜好品の歴史@日本史板 3皿目 [無断転載禁止]©2ch.net
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自分専用の箱膳に食器、箸を格納
昔の人は食器や箸を共用するのは抵抗あっただろうな
現代では、専用・共用は各家庭によって違うんだろ 大家族だと、あんまり個人専用の食器とはならない気がする。
ソースは俺と嫁。
それぞれ10人以上の大家族で育った。 >>765
古代中国の戦闘では馬車が戦いに使われていたけど、日本では導入されなかった
だから車輪の普及が日本では浸透するのが遅れたのだろう
https://youtu.be/6c0SpAU0vHk?t=755
>>932
不老不死の仙薬探しに奔走していた秦の始皇帝に仙人からだという予言書が届き、
その中に「秦を滅ぼすものは胡なり」という文面があったものだから、
始皇帝が蒙恬将軍に命じて北方の異民族の胡(匈奴)を討伐させ、万里の長城を築いた
でも秦を滅ぼしたのは始皇帝の跡を継いだ二世皇帝の胡亥の「胡」だったというオチが有名。 ペルシャの素敵な陶芸品とかシルクロード通って来たんだよね? >>956
西方渡来のクリスタルガラスの鉢などが中国で出土するが、ガラスの成分が溶け出てしまって土と変わらない外観になっている
ただ、日本の正倉院に保管されてきたものだけがクリスタルの輝きを保っている 匈奴の領域が広がって中国大陸の北と西域を支配するにつれ、
胡人の範囲も広がって中国大陸より西の地域に住む人間は概して胡人になったのだろう >>907
日本はなぜか椅子が普及しなかったからなあ
せいぜい床几くらいだ
現在のプロ将棋で、椅子を導入するか座布団に座ったままかで論争になっている え、戦場に出たら基地のような所で折り畳み椅子みたいなのに座ってたじゃん… 奈良時代には中国の真似をしなければと言うので天皇も服装から椅子、寝台まで中国風にしていた
聖武天皇の使った寝台が残っている
けれどのちには皇族、貴族の生活から椅子もベッドもなくなった
中国の宮殿や家屋は今に至るまで床を張っていないが、日本は床にあがって敷物や畳にどっかと座りこむ生活になった >>961
ああいうところは地べただからな
その基地みたいなところは大将が居るまわりに幔幕を張り巡らせる
あれは「幕府」と言うんだよ 日本人も昔っから椅子の生活をするべきだった、なぜしなかったんだぁ
正座やめろぉ
こういう書き込みばかり続いて、引っ込まないからだ https://www.recordchina.co.jp/b35534-s0-c60-d0000.html
この記事では、椅子は唐の時代に伝わり、次第に普及していったとしている
でも三国志の時代から日常生活でも、背もたれはないが椅子に座って談笑する文化はあったことがドラマでもわかる
https://youtu.be/tf4ZEeQ6P1E?t=1250 話し、元に戻すよ。
江戸時代、料理書がたくさん発行されたが、著者はどのようなヒトで、読者はどのようなヒトだったのか?
江戸(京都、大阪)町民という回答にはボクにはモヤモヤして納得していない。
藩や高家旗本などは専門の料理人がいたわけだろ。その人たちが武士階級か町人かボクは知らないが、
著者・読者ってそういう料理人なんじゃないかと想像している。
江戸後期になると著名料亭が現れ、名物料理を供するようになる。そこでの料理人は町人だろうが、
藩や高家旗本は宴会時はそういうところから仕出しをとっていたのかな?
ペリーの饗宴の時は幕府は仕出しを発注していたしね。百川。 『武士の献立』2013年の日本映画
実在の包丁侍、舟木伝内とその家族を描いたヒューマンドラマ
包丁侍とは、剣術ではなく料理で将軍家や大名家に仕える武士を揶揄する呼び名
足軽に近い低い身分であるが、対外的に「饗応料理]をつくり藩の威信を示す重要な働きをする
舟木伝内は幕府料理人に師事したのち加賀藩の料理人となり活躍
優れたレシピ集を著した人物である >>909
チベット人やモンゴル人は、煎って粉にした麦や蕎麦の粉を塩入りミルクティーに振り込んで軽く捏ねて一食としてたりするけどな。 それは主食としてのミルクティーが最初から存在している
日本では主食としてのメシが先ずあるだけで茶が普及していなかった時代
同じようには行かないものだて >>918
浅野内匠頭は松の廊下で長袴でなかったの? >>931
和服で女性が胡坐?
今のと同じ長い裾のヤツだと着崩れてしまうし、大原女や茶摘娘みたいな膝が見えてるような丈だとエッチな部分が丸見えになってしまうし、どうするんよ? >>938
絹や麻を座布団にしてはならない法でもあるんかいな
昔にそういうものがあったかどうか知らんけど、両面が藺草のゴザで中にクッション詰めた座布団、近所のホームセンターで売ってたよ。
瀬戸内海域にいくつもある綱敷天満宮、由緒は、太宰府に赴任する菅公が立ち寄って休憩した際に、船のトモ綱にする綱を巻いて板の間に敷いて畳の代わりにしたというのが多いけど
畳が普及していなくても貴人を板の間に直で座らせるわけにはいかないという発想はあったんだよな? >>975
あの日は天皇からの勅使を迎えるために、饗応役としてあの格好だったんじゃなかったか?
確か綱吉の母親が官位を下される晴れの日だった筈。
そこで一方的な刃傷沙汰とか、そりゃ切腹申し付けられるわな。 >>976
将棋の女流棋士も和服で対局するときは袴だな
タイトル就位式のイベントでは振り袖
振り袖だと胡座しにくいのだろう
囲碁は椅子対局なので、対局でも振り袖着られる www4.plala.or.jp/bakumatsu/kyou/2/022564-katamoribyoki.htm
実は長袴は、一橋慶喜・松平春嶽の文久の幕政改革で服装の簡素化のために一時廃止されたが、
慶喜と春嶽が幕閣から立ち去ると復旧した
慶喜が将軍になって欧米外国公使らと会談する時には、慶喜や幕閣は長袴を着用していたとイギリス人の外交官が述べている
http://gootjapan.miyatohru.com/entry/mitford2 飯のスレで座り方とかどうでもいいだろ!
そんなことより晩飯の話をするんだよ! 明かりがないも同然だからろくな晩飯なんか作れるものか
日の暮れる前に掻き込んで藁にくるまって寝るだけ。 日の出前から起きて日の出とともに野良へ出る
今の午前11時頃に朝昼兼用の食事
午後4時頃には野良を切り上げて夕食
灯りを取ると言っても菜種油が安く手に入るのは江戸の後期になってから
鰯の油で灯りを取ったが、これは臭くてしょうがなかった
早々に寝る 農村では暖かい時期は農作業がいそがしいので
食事はパッと作れる簡単な料理で済ませ
農閑期は比較的ヒマなので料理は多少凝ったものになるそうな 炊事や暖房に薪炭がかなりの量必要ではないか
平野部で都市近郊の農村でも薪を取れるだけの林を抱えていたのだろうか てか、都市部の武家、町人も薪炭が必要だが、そんなに仕入れ先が近郊にあったのだろうか
炭は炭屋があっただろうが、薪を売る店もあったのか
昭和前半でも都市ガスもプロパンガスもないようなところの一般家庭は飯を炊く薪はどうしていた? >>994
江戸だと五日市が炭の供給元として有名
筏で炭を運び幕府にも納税して運んでいた 飯を炊くのが大作業で、総菜を用意する余裕なんてない。 「行徳の俎板」(馬鹿でスレているという意味)
のちのディズンー干潟あたりではバカ貝が沢山とれる
行徳あたりの家の俎板は日々バカ貝をたたき割って調理をする
俎板がバカ貝で擦れている このスレッドは1000を超えました。
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