木曽義仲と京都幕府の謎 [無断転載禁止]©2ch.net
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1183年11月、木曽義仲は後白河法皇が招集した朝廷軍を急襲し、これを撃滅した。(法住寺殿合戦)
義仲は法皇を幽閉、反義仲派の公卿を一掃する人事を行い、翌1184年1月に
征夷大将軍に任ぜられて京都に幕府を開いた。
だが、歴史家は何故か、義仲の政権を幕府と呼ぶことは無い。これは一体どういうわけだろうか?
京都幕府の存在を認めたがらない闇の勢力でもいるのだろうか? 一応、鎌倉末までは公家は膨大な所領を有する支配階級の最上層部だろ。
中世も南北朝の真ん中あたりで二分化されるんjyないかな。応安の半済令あたりで。
前期中世・後期中世みたいな。 摂家や宮家から将軍を迎えたり協調しつつも、京と鎌倉は隔離してたから
ジレンマを完全に克服したのが室町で単純に権限自体は守護領国制の方が大きいからな > 義仲は、オオカミ数頭相手に一人で立ち向かい斬殺
> 人形劇『平家物語』vol.5 - 22〜24話
> http://kiratemari.exblog.jp/4627472/
> 駒ヶ根の牧が狼の群れに襲われ、愛馬が餌食にされたことに腹を立てた義仲が、
> たった一人で狼数頭に立ち向かい斬殺する光景を目の当たりにして、
> 将来天下にはばたく武将の相を見て取り、その教育係を引き受けた…
木曾義仲の興亡と越中国の伝説
http://ettyuukyoudoshi.seesaa.net/pages/user/m/article?article_id=299381386
> ・平治二(永暦元年、1160)年 7歳 狼退治
えっ・・・義仲が「7歳で」オオカミ退治って、ものすごい武人では? >>182 183
「便女」(びんじょ)
「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女を具せられたり。」平家物語 「狼数頭に立ち向かい」てあるが
それに狼が逃げる気なら人間の脚じゃ追いつけないだろ 大勢の先頭に立って相対したくらいの話じゃないのかね 江戸時代には人食いも多くて駆除用の落とし穴「狼落とし」の遺構も残ってるが
義仲の時代にはどうだったのだろうか
【長野】オオカミ被害防ぐ江戸時代の遺構「狼落とし」発見 富士見町内2例目[11/12]
http://potato.2ch.net/test/read.cgi/femnewsplus/1447944512
>江戸時代、乙事などの村々では畑仕事や草刈り中などに
>大人や子ども、馬がオオカミに襲われて命を落とした記録が古文書に残っている。
>被害に悩んだ村々が藩に駆除を願い出たほか、
>1822(文政5)年には藩の指導を受けて村々で狼落としが造られたという。 うちの御先祖が義仲の討死後に落ち延びた遺児か郎党だったらしい。
自分は関東の山村出身だが、前に自分の姓について調べてたら、三重と岡山という全く縁もゆかりもなさそうな土地に同性が集中してる所があったんだが、
どちらにも義仲絡みの落武者伝承があってビクーリしたよ。 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ >>77
義経と平泉の同盟を警戒した頼朝が義仲を誑かして京に乱入させて概ね同じ筋書きになりそうな気がする
義経と義仲の順番が入れ替わるだけというか 木曽義仲は個人的に好きな武将なのでスレ上げておく。
しかし、 マイナー感は正直あるよね。 歴女とかああいったオタクらはやっぱり戦国武将に行くわな。
南北朝時代や源平の内乱自体がマイナーだし。(奈良・平安前期よりはメジャーだがw)
木曽のど田舎から出てきて世の中変えたんだから、もうちょっと注目してあげてほしい。
俺のこの義仲愛に感じ入った人は、ちょっと↓にコメント書いてみて。 人間ドラマとかそういうの含めて平安末、鎌倉初期が一番好きだわ 今は石ころ程度の武将でも戦国時代ってだけで持て囃されるから 今は石ころ程度の政治家だらけなのに自民党所属というだけで持て囃されるから。 今も昔も石ころ程度の政治家だらけなのに立憲民主党所属というだけで持て囃されるから。 立憲民主って昔からあったっけ?
チョンは日本のこと知らないから適当なことしか言わないのなw 義仲に関係のない自分勝手な不満を吐き出すのは遠慮願いたいものです。
賢しがってるつもりかもしれませんが馬鹿にしか見えません。 自民党=平家だが?
平家に非ずんば人に非ず=自民党に非ずんば政治家に非ず。
安倍ゲリゾーは平家の長州閥。
こうして考えると木曽義仲の源氏は野党だろうな。 >>227
立憲民主党の議員って ほとんど元民主党出身なのを知らないの?w
どうしたら>>226を>>227のように読めるのかね? まあ、スレチだから 中坊へのレクはこの辺で。
>>228>>231
すまん。>>225がうざかった(スレチ)ので ちょっと捻って>>226投げたら文盲から誤爆されちったwww 反省 >>232
わかったから早く北朝鮮に帰れよキチガイ 誤読を指摘されたからといって、そんなに照れるこたあない 安倍のゲリゾーは統一教会だし創価と仲良しだしフジチョンテレビと親しいし
やっぱり自民党は朝鮮人の集まりだったか どうみたって長州閥が支配してる自民党は平家だろ?
実は平家全盛時代の源氏は今の野党勢力と同じく野合の集団だった。
そこに源頼政と木曽義仲が捨て身の攻撃で平家打倒の先駈けになったのだ。 googleMaで見ただけだが
木曽谷ってのも狭いよな とんでもないど田舎だそ(木曽谷住民の方 ごめんちゃい)
あんな山奥から義仲や義仲四天王が生まれ育ち、 短命ではあったが、天下を取り、 歴史を変えた。
上の長州バカではないが、 木曽谷は「平安末期の萩(藩)」だね。 人国記 巻之上
信濃国
百姓・町人の風儀もその律儀なること、伊賀・伊勢・志摩の風俗に五畿内を添へたるよりは猶も上なり。
所以は義理強くして、臆することなく、百人に九十人は律儀なり。
東武士は大方強敵どもなり
筑紫の奥は奥州衆により申候
上方の弓矢すえになりたる国ども、(中略)五畿内中国の町人に相似たる侍ども、(中略)弱敵の国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
上方武士は、歩の頸を一つ取りは、侍の頸を十も取りたるやうに、針ほどの事を棒程に過言を申と、山本勘助が話を聞き候如くあるべきなり。
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
関東の敵馬上の戦ひよくして、馬を入乗きり、足軽上手なれば
三河は武篇の国なる故、五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候。(中略)三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候。
三河国、日本六十余州にて、人のかぞゆる侍の、武篇かせぐ国なれば
たけき武篇の家、和朝に上杉謙信・徳川家康なり。
(『甲陽軍鑑』)
内村鑑三
私は幸いにも、未だかつて信州人に奸物を見ない。長州人の場合は、奸物でない者は稀であることに較べて、信州人の場合は、奸物である者は稀であるようである。
これが、私がこの明治の偽善政府の治下にあって、望みを信州人に託す所以(ゆえん)である。
それにもかかわらず、信州人が伊藤侯を戴き、大隈伯を仰ぐに至っては、言語道断である。私は信じて疑わない。浅間山麓は、狐狸族が繁殖すべき所ではないと。 >>238
木曽義仲は源氏だぞ
なんで源氏の徳川を打倒した平氏の長州と一緒にするんだよ? 自民党を平家だと意地でも認めたがらないバカがいるんだよな 勢いだけは日本史上最強だったが政治力が欠如して消えていった木曽義仲。
選挙で史上最多議席獲得という爆勝して政権を取ったが政治力が欠如して消えていった民主党。
皇室をも恐れなかったあたりも含めて小沢一郎が木曽義仲ですかね?
源氏=旧民主党系
平氏=自民党 朝廷と全面戦争になった木曽義仲末期の暴走グダグダ感と民主党政権末期の暴走グダグダ感は似てるわな どうせ若いやつのレスだと思うが、自分ではオモロイと思ってるんやろな
連投自演してガッツポーズしてるんやろうなあ どうでもいいが木曽義仲は源氏やぞ。
平氏の長州閥の安倍ゲリゾーと一緒にすんなよ。 スレタイも読めないんだから仕方がないが
お前ら底無しに頭悪そうだな 朝廷 vs 武家 というと大抵は承久の乱や延元の乱を想起するが、その嚆矢は法住寺合戦である。
義仲は数倍の法皇軍を破り、政局の主導権を手にした。
義仲は法皇派の公卿を朝廷から一掃し、親義仲派の松殿師家を関白にし、事実上の義仲政権を築いた。
やがて、征東大将軍に任ぜられ京都幕府を開いた。
鎌倉軍の上洛、攻撃によって京都幕府は短命に終わったが、 この政権は鎌倉幕府のような緩やかな封建制度ではなく、
非常にドラスティックな転換を志向していたかもしれない。
清盛 頼朝 北条氏が出来なかった王家・公家・大寺社などの旧支配勢力の一掃である。
義仲は「未完の革命家」と考えてよい。 たしかに日本史上初を達成する行動は勇気がいるよな。 スレ違いだからこれで最後レスにするが
あの短命の民主党政権もやがて未来の自民党消滅のためには必要悪だったのかもしれないねえ 今井四郎兼平の末裔の者です
平家物語を書斎に置き臥薪嘗胆しております 薪の上で寝て胆をつるして舐め、
会う人会う人に屈辱を忘れたか!
と言われるようになってから言え 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
Z94C5 頼朝より先に幕府を開いた義仲は過小評価だよな。
教科書では扱い小さいし。 >>252
樋口次郎兼光、落合五郎兼行の末裔の方は知りませんか? 義仲とフン族のアッティラってそっくりだな
田舎から出てきて大軍となり、ヒャッハーって都会を荒らしまわった
もちろん、後白河法皇に相当するのが法王レオ1世 清盛の「脱・京都」志向と頼朝の「親・京都」志向も考える必要がある。
京都を離れたかったが完全には離れられなかった清盛
京都に還りたかったが鎌倉を捨てるわけにはいかない頼朝
それぞれ政権の成立過程と権力構造が違うので優劣を論ずるのは無意味。
ただ、この「六波羅モデル」と「鎌倉モデル」の内 長期政権として成功したのが後者であり、
後世 このモデルを採用した徳川幕府も成功したもんだから、頼朝>清盛に見られてしまうのは清盛の不幸ではあるな。
承久の乱で鎌倉方が負けておれば頼朝も北条も一発屋扱いであったろうし、
石橋山の合戦後、梶原景時が「頼朝、ハケーン!!」と叫んでいたら頼朝は源三位頼政以下の扱いであったろう。 義仲と義経が目指したのは京での軍事貴族だったけど、頼朝だけは完全に違ったな
平家の畿内惣官職を幕府とする見方もある 頼朝はかなりの強運の持ち主だが、北条時政も運が良い。娘の結婚も政子にせがまれて仕方なく許したらしいからな 「武士の世の中」を作ったのは、実は以仁王だということを
忘れてはいけない。 以仁王の存在が鎌倉の政権のきっかけになったのは認めよう。
しかし以仁王が作ったと言うのは語弊があるぞ。 令旨がなかったら頼朝は動かなかっただろうからな
流人生活自体は平穏無事だったらしいが 行家は兵法のオタク的な知識は豊富にあったが、実践となると百戦百敗という
ダメダメっぷりだった
今の世のオタクにも通じるものがある 山伏に変装して苦労して各地を廻り、源氏の決起に貢献したのにね・・・悲 烏合の衆というか、源氏は各々が目指す方向が全く異なっていたからな 武田兄弟や新田義重は何を目指していたのだろうか?
少なくとも頼朝の配下というのは本意ではないだろう、 武田は複数の分家で親鎌倉派と反鎌倉派で分かれていたからな >>278
甥っ子どもも、行家おじさんには冷たかったな 墨俣川では義円がかなり無茶な作戦に出て戦死してるね 叔父といっても義朝の末弟の行家は頼朝とあまり年は違わず、義平より年下だったな
昔の武将は子だくさんだったから、まだ父が種付け終わらないうちに長男が長子を設けることも珍しくなかった
平家でも忠度(清盛の末弟)も重盛より年下だった >>285
そら昔は一夫多妻で金持ちの男は自分は爺になっても
いくらでも若い側室を娶ることができたから
徳川家康なんて72歳の大坂の役に曾孫より若い
18歳の側室お六を同伴して楽しんでるし
家康の初孫の登久姫は1576年生まれ、初曾孫の万姫が1592年生まれ
家康の未子・市姫は1607年生まれ
曾孫よりも子のほうが年下 >>786
スレチだが、登久姫って、16歳で万姫産んで、6男2女も産んでるのね。
ほんで31歳で亡くなってる。 なにげに凄い女性。 父親(信康)の成せなかったことを
別の形でやり遂げたといえるかも。
しかし、登久姫もそうだが、家康は孫の奥平家昌 奥平忠政より長生きしてるというのが凄い。 >>288
登久姫の母は織田信長の長女・徳姫だから複雑だ
信康の血を残すために多産したわけでもないだろうが
短期間に大勢の子を産んだので母体ボロボロで早世したんだろう
珠姫(徳川秀忠と江の次女、2歳で前田利常に嫁ぐ)なんかも
15歳から産み始めて三男四女、24歳で亡くなっている >>6
新宮行家の大河ドラマも希望w
あの、しくじりっぷりと波乱万丈さはなかなかないw 近年は、さほど大ヒーローでない人にもスポットライトが当たるようになってるよね、大河ドラマ もし何かの気まぐれで義仲の大河があって、
行家の出番があったらラッキーくらいのものでしょう
行朝ならまだチャンスが多いけど 普通に行家出るだろ 砺波山倶利伽羅峠戦だって副将扱いなんだし 京都幕府が永く存続したのなら、執権は中原氏一族でお願いします。 今井四郎兼平、樋口次郎兼光に比べ、落合五郎兼行ってイマイチ地味? とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
GP3 >>250
政権交代を実現可能にするという目標を達成できただけでも価値はあったかもしれない。
木曽義仲の三日天下=3年間の民主党政権 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています