邪馬台国畿内説を論理的に潰すスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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憎き畿内説を潰すための有意義な情報を交換しましょう 邪馬台国への道のりは方角と距離とで示される。
畿内へは方角が違う距離が違う。
全くお話になりません。
三国志という高名で重要な歴史書に載っている邪馬台国は
大和朝廷や記紀に載っている日本史と関係してるに決まってるという
権威主義的思い込みによって畿内説が唱えられている。 畿内説で確定してるから。
馬鹿が論理を語るとトンデモになるだけだぞw >>20
脳腫瘍治せよ
ここは論理スレで、キチガイの
一言レスはゴミ
って言うか、畿内説がそういう
池沼ばっかだからこんなスレが
できるんだよ
お前反省しろ馬鹿 邪馬台国の不都合な真実(微修正版)
・日本神話と倭人伝は相いれないという頑固な建前論では未来永劫解けません。
・天照大御神の高天原と、女王卑弥呼の所都は、じつは歴史の表裏一体だったのです!!
先代岩戸隠れ天照大御神(大日孁尊)、(*魏志曰卑弥呼) 阿蘇・高千穂神社本殿裏手の「冢」に葬るも、後に隠蔽さる
↓
↓→ 其弟、月読命 (*魏志曰男弟)
↓
↓←← 思金神 (*魏志曰張政) ← 高御産巣日神 (*魏誌曰帯方太守)
↓
↓→ 天児屋根命 (*魏誌曰難升米、*神功紀曰難斗米、ナートミイ) →中臣の祖 →藤原氏 →現代まで続く
↓
後代岩戸開け天照皇大神、(*魏誌曰宗女台与) 阿蘇・天岩戸神社東本宮の山稜に葬る
(注;卑弥呼は大御神、台与は皇大神)
(別名1) 萬幡豊秋津師比売、天萬栲幡千幡比売命←高木神=高御産巣日神の娘 (*魏誌曰帯方太守)
其の夫は、先代岩戸隠れ天照大神の養子の天之忍穂耳命、(*魏誌曰日向投馬国の官彌彌)
(別名2) 萬幡豊秋津姫命(高御産巣日神の娘、又は孫)、
其の母離役の天手力男命と共に、伊勢神宮内宮相殿に祀る
↓
(其子一男) 天火明命(別名饒速日尊)、天孫邇邇芸命に先立って降る →物部らの祖
(其子二男) 天孫邇邇芸命(日向・西都原に祀る)
↓ ❓❓❓畿内厨
. /テンプレ\ 誤字ったってキウスやサイキバみたいなあれは
/ \ 単なるタッチミスもある
. / (゚) (゚) \ ❓❓❓
| )●( | キウス笑い者❓
. \ 廿 / 誤字って何語❓
. ノ \ ❓❓❓
「自分で発見してこそ大賞で賞」 崇神が4世紀初頭の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するかのように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
もちろん彼らには正后(奥さん)はいる。
しかし彼らが大王ならその血を残すために複数の妃がいて当たり前。ところがいない。
つまり彼らは大王ではなかったのだ。
やはりこの時代は女王国であった。
では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。
それがいるのだ。
@神武→ヒメタタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマトヨツヒメノミコト
D孝昭→ヨソタラシヒメノミコト 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
見事にヒメとトヨの時代。
そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。
邪馬台国の都とは「ヒメ」タタラが住まわれた葛城、奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。
これが私=天才のHPだ。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite/home 「無教養露見で賞」受賞
↓
❓❓❓
. /テンプレ\ 誤字ったってキウスやサイキバみたいは
/ \ 単なるタッチミスもある
. / (゚) (゚) \ ❓❓❓
| )●( | キウスが笑い者なだけ❓
. \ 廿 / 誤字って何❓
. ノ \ ❓❓❓
「トドのつまりは、万事キウスで賞」 畿内説を論理的に潰すっつってもなあ
もう、ぺしゃんこだし。 90 : 日本@名無史さん2017/03/12(日)
>>88
狗邪韓國は何人の領土?
95 : 1 ◆q8leUXpsw. 2017/03/12(日)
>>90
領土といいう観念に語弊があるかとは思いますが韓人の国でしょう
金官国の全身とするのが通説です
↑
この衝撃的な失言を落とすために
スレ乱立して板操作しておりますですよ (1)福岡から広島まで200キロ、広島から大阪まで300キロです。
(2)福岡から大阪まで500キロです。
(3)東に向かって新幹線で3時間です。
(4)福岡から島根まで北東に4時間です。
つまりはこういうことですよね。
(2)+(3)+(4)を全部足すなんて馬鹿かと思いますが、
畿内説は要はこういうことです。
魏志倭人伝をそのまま読み解くと邪馬台国の場所は奄美大島付近になる。
だから魏志倭人伝は不正確だ、だから考古学で判断するんだ、
魏志倭人伝は不正確だけど、「邪馬台国」や「卑弥呼」はいただきます。
馬鹿馬鹿しいというか、なんというか。 新幹線
@東京駅〜名古屋駅は340km、名古屋駅〜新大阪駅は170km、新大阪駅〜博多駅は550km、です。
A愛知県までは1時間40分で、さらにそこから福岡県までは3時間20分です。
B東京駅から博多駅までの総距離は1060kmですよ。
@とAを足す基地外が騒いでいます。
「名古屋は名古屋、愛知は愛知だろ!」「博多は博多、福岡は福岡だ!」
@とBを並べて説明しても理解してくれません。
どうしたらいいでしょうか? 1 ◆q8leUXpsw. こいつが邪馬台国スレを乱立させているのか?
日本史板になんの恨みが???
日本の歴史が嫌い?? 畿内スレ232で畿内説と徳島説が一度に論破されました そりゃそうだ
仮に達成するとしたら発掘によってだろうからな 平原遺跡という、卑弥呼の墓の候補として最強の遺跡が発掘されても、まだ畿内説は認めてないからな。
墓碑でもでないと認めないだろうな。
墓碑が出ても認めないだろうな。
畿内説はバカだな。 はあ?
大部分の国民は九州説を支持しているんですけど。
畿内説がカルトみたいな活動をしているんですけど。 確かにね。畿内説も九州説も両方可能性がある、と言えないのなら
カルトだね >>41
畿内説はただの思いつきみたいなものだからな。
根拠もなく、可能性は低い。 「理論的に」とかいいながら罵倒しかしてないじゃんよこのスレ 畿内説そのものに論じるほどの中身がそもそもないんだもの。
呆れたよ。 畿内説のスレでまともに畿内説を説明しているのを見たことがない。 鉄器もない
青銅器もない
木器だけある
銅鐸片はある
「筑紫式」ふいご1個が転がっているのを、鉄精製遺構と拡大解釈
大型建物は万行遺跡のが大きいし、鉄工房付きの稲部遺跡のがまだ邪馬台国ぽい
住居跡もない
周囲は銅鐸環濠集落で取り囲まれている
そこに突然銅鏡祭祀の古墳が出現して鉄器がなだれ込んでくる
内内尽くしでもはやどこをどうやったら3世紀の都になるのか
ゴッドハンドレベル 箸墓古墳は前方後円墳なのに卑弥呼の陵扱いは些か無理があるんでないの!?
後、随分前に何人かの中国人の学者たちが邪馬台国の位置を推定したけど、
どれも九州の地域を出なかったようだったよ。 畿内説のスレで畿内説の問題点を指摘したらレッドカードなんだとさ。
畿内説は批判に耐えうる説ではないということだ。 スレタイがよくありません
もう、畿内説は潰れていますから、潰す必要はありません
畿内説相手に楽しく書き込めるスレタイが良いと思います >>56さん
>>1の「憎き畿内説」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「憎い」と「称賛」は表裏一体です
では失礼します 論理的にはもう潰れているわけであり
残っているは邪馬台国が飯の種の奴らと
皇国史観のアホウヨだよ >>57
このスレ、畿内説のヤラセで立てたスレだな
>>59が言うように畿内説は飯の種なんだんあ 沖縄では九州人のことも「ヤマトンチュ=大和人」って言うからな
大和って言葉の意味、定義、成り立ちから見直したほうがいい
ヤマトってのは山のふもとという意味だろう
それは海の近く(博多湾など)に住む海洋民族に対して、山の近くに住む農耕民族の国という意味だよ
それ以上でもそれ以下でもない
だから九州にもヤマト、四国にもヤマト、奈良にもヤマトという地名がある
後の大和王権が奈良に都を置いたせいでヤマト=奈良みたいになってるけどそれは違う
単に山のふもとという意味
そして大和王権とは「農耕民族王権」のこと
3世紀まで海洋民族が覇権を握ってたのが、勢力が逆転して農耕民族による覇権に移行したのが3世紀末の奈良
これが大和王権の原型で、九州の海洋民族政権の残党の奈良への服属の完了は6世紀までかかる 湾岸国vs内陸国っていう主導権争いがあって
結局は内陸勢力が勝つっていうのが弥生時代〜古墳・飛鳥時代の流れでしょ
ただし湾岸国もただ黙って負けたわけじゃなくて
海洋技術がないと大陸で先進の農業技術や金属農具の原料が手に入らないから
それを餌に内陸国に移住(=天孫降臨)して
内陸国の政府中枢に食い込みながら海洋政権を延命したと
それが弥生時代後期であり初期大和王権でしょうな 【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。 そしてさらに海洋民族(天津神)さえも筑紫日向から追い出される倭国大乱があり、卑弥呼が火の国から共立されたと。 【肥国】
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫(天津国) が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫(天津国)が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。
筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
おそらくその過程には、本来は肥国の中心の一つであったであろう筑後山門の出身の卑弥呼が筑紫も含めた倭国女王になったことが関係しているだろう。
卑弥呼は肥国の山門の出身で、後に山門は有明海に向かって拡大する筑紫に飲み込まれて筑後となる。
これにより肥国は肥前と肥後に分裂する。
卑弥呼はそれまでの伊都国王統を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治した。
特に敵対的だった伊都より北の天津国は一大卒を任命して監視した。
卑弥呼は死後に倭国の都である伊都の平原遺跡に葬られた。 邪馬台国への方位、南は東の誤りとか。
季節によるもの?もし、南が東の誤りなら、
ほぼ同時期の対馬への南も東にしないといけない。
プザンから東、対馬。さらに東、壱岐。
さらに東、唐津。中略、東、邪馬台国(近畿)。
対馬や九州が朝鮮半島の東でいいのですか?
ここが南なら邪馬台国も南で間違いない。 >>68
スレタイを見直せ。
どこを本と呼ぶつもりだ。 >>67
これが畿内説批判してるやつの知識レベルを表してる
相手にする必要なし 初心者にとっては当然の疑問かもしれんが
少なくとも中級以上にとっては疑問でもなんでもない >>67
まず前提として、倭人伝の記述通りでたどり着く場所はない
何説を取ろうが矛盾は出てくるんだよ
だから「より矛盾が少ない場所」を探すのが正しい態度
完全に当てはまる場所はない前提で、じゃあどこが比較的矛盾が少ないか、という >まず前提として、倭人伝の記述通りでたどり着く場所はない
邪馬台国は存在したという前提でないといけない。
記述が間違ってるのではなく解釈を間違えてる。
陸行1月の距離は本当にあなたの考えで正しいか?
隋書には倭は東西5月行、南北3月行とある。近畿から西が
統一されてるとすると、九州の南北は約300km。福岡から奈良へは
直線で約500km。すると1月行は約100km。これが陸行1月と
同じかは不明ではあるが。
魏志の陸行1月をあるいは式で解釈すると、水行なら10日、陸行なら1月。
方位は南。南に水行も陸行もできるのは海岸が南北になってる。
九州の東海岸で探すと、延岡市から宮崎の日南海岸がある。
この距離を測ると75km。水行10日は陸行1月で75kmとわかる。
1月行は100km。陸行1月は75km。道がよくなったとすれば同じ
ような値。
不彌国から南に水行30日は、225km。九州内におさまる。 >>75
隋書の東西五月行がなんで福岡から奈良までなんだ?
日本史の基礎知識が不足している
高校の教科書読み直して来い >>75
「あるいは式で読む」というイレギュラーな仮定が必要ということだろそれは
それは「東と南を間違えている」というイレギュラーな仮定が必要な畿内説と
『イレギュラーな仮定が必要』という意味では同じことじゃん だからどの説を取っても『イレギュラーな仮定が必要』ということには変わりはないんだから
それを前提として
「じゃあどこがより『イレギュラーな仮定』の数が少ないか」「比較的どこが『イレギュラーな仮定』の程度が小さいか」
を考えなきゃいけないわけじゃん だから○○説を論理的に潰すのは簡単なんだよ
だって完全に当てはまる場所があったら論争になんかならないじゃん
どの説をとっても矛盾が生じるから、場所が確定できずに論争になるわけだろ?
だから「矛盾のない場所はない」「どの説にも矛盾がある」ってのがそもそもの前提だよ
矛盾を突くのは簡単なんだよ 長くなるので細かい説明省いたが、あるいは式を採用した理由はある。
陸行には起点国名がない。方位がない。
何故、ないか、同じとこから同じ方位を行くから。
他は起点国名、方位がある。ここはあるいは式に読まないと
いけない。自説にいいかではない。
これ以上前線拡げると時間ないのでひろげたくないけど。日本書紀による
歴史では近畿でいいと思うが日本書紀そんなに信用していいの?
学校で教える歴史は日本書紀ですが、それは真実ではないですよ。
隋書は600年ごろの推古天皇のころですが、隋書には「王の妻」と
ある。推古女帝の時代。モモセ姫もホトに箸がささって亡くなった。
魏志には「手食」とある。箸はまだない。明らかに作り話。
それを元にでは邪馬台国はみつからないのでは。 >>80
だから結局はそれも「仮定」だろ?
同じことだよ アンド式に読むのも仮定ですね。
東でもどこでもいいけど、自説で読んでみたら。陸行始める場所や陸行の
方位ないとどうなるか。
投馬国から東に水行10日。そして陸行1月でマキムクにつく。
これではマキムクがどこにあるかわからない。 いや「仮定」だってことがわかればいいよ
何説だろうが仮定の積み重ねの産物に過ぎないのが邪馬台国論争なんだよ
それが前提だってわかってる?って言ってるだけ ただ仮定の中でも「もっともな仮定」と「むちゃな仮定」ってのがあるだろ?
だから各説に使われてる仮定がどの程度最もらしいかを計測、比較、検討するってのが邪馬台国論争のあるべき態度だろ?って言ってんだよ
「○○説は○○の部分が矛盾してるから間違い!」とか言い出したらどの説も間違いということになる
矛盾を仮定で埋めてるのはどの説も同じ >>82
それが漢文の普通の読み方
普通の読み方を否定して自分の我流を正当化するために詭弁を言ってるだけ
わけのわからん読み方が正しいと言い張りたいなら三国志の中からその事例を見つけてくればいい >>80
ぼくが作った畿内説は間違っている、と言いたいのか
当たり前だ
おまえが作ったのはデタラメ畿内説だから間違っているのは当然 69さん71さん73さん
ありがとうございます。
ここまでくれば私は必要ないでしょう。
1さんもやっていけると思います。
67より >>18 はいはいw おまえがキウスにボコボコにされて悔しくて悔しくて毎日夜も寝むれず泣いている事だけはよくわかったよwww み
>>18 はいはいw おまえがキウスにボコボコにされて悔しくて悔しくて毎日夜も寝むれず泣いている事だけはよくわかったよwww じ
>>18 はいはいw おまえがキウスにボコボコにされて悔しくて悔しくて毎日夜も寝むれず泣いている事だけはよくわかったよwww め 半年前のレス煽るとかすげーな
いったいなにが悔しかったのか、解せない・・・ >>84
文献での考証は出尽くした感があるな。
後はその時点その時点の考古学の成果を再度再度組み立てていくしかないな。 >>84
最も矛盾が少ない説が最も真実に近い説だと考えるべきだろうな
>>85
用例を基に通説の訳が間違ってないか検証は必要だな
総合すると伊都国が卑弥呼の都説が最も真実に近い説だと考えられるな。 吉武高木遺跡 (弥生中期-前 BC100〜0)
ヤマト王権の三種の神器の原型発見
上記遺跡と対照的な距離を持って2つの遺跡
須玖岡本遺跡 (弥生中期-後 BC 0〜100)
王墓の形成 三種の神器が量として発見 金製品も
三雲・井原遺跡 (弥生中期-後 BC 0〜100)
同上
(注:AC57 漢倭奴国の金印)
筑紫は過酷な王権の健全な発展が見られる w
さて、この筑紫と大和王権の点と線を推理するわけですが、おそらく犯人というか着想の元は病持ちの女性です。我々は時刻表を片手にプラットホームでの出来事を暴かなくてはいけません w >>94 失礼
× (弥生中期-後 BC 0〜100)
○ (弥生中期-後 AC 0〜100) 記紀には邪馬台国も卑弥呼も出てこない。
記紀の箸墓伝承には箸が出てくるので、手掴み食事の倭人伝倭国とは別時代。
モモソ姫は女王ではない。
記紀作者の概念として、前方後円墳の大きさが大王の条件では無かった。
邪馬台国→ヤマト政権については、否定的な材料が多いのに、
なんで前方後円墳の箸墓古墳が卑弥呼の墓になるの?
逆に卑弥呼の墓としては、否定的でしょ。 だから証拠を見せてよ。
現時点では
九州>紀元前からずっと絹製品が出土
畿内>絹ほんのわずか+4世紀ベニバナ花粉だけ
これじゃあ畿内説を応援したくても
3世紀邪馬台国は九州だよね。 畿内説の証拠や根拠は本スレ行けば十分すぎるほど書かれている
そもそもこのスレはアンチが文句つけるためのスレなんだから
否定したければ否定材料を自分で示せっつうの >>102
書いてあるのを理解できないだけ
今の畿内説は初心者には荷が重い >>104
畿内信者には畿内説の矛盾を理解するのが難しい、の間違いだろ 日本語をよく知らない某男のボキャブラリーでは
矛盾とは「俺の意見と合わない」という意味 世有
@ 三国志魏書后妃傳第五
>自夫人以下、世有搗ケ。
夫人以下の妃の扱いについては、「それぞれの帝によって」増減があった。(以下、各帝ごとの変化について記載)
A 三国志魏書任蘇杜鄭倉傳第十六
>語曰「世有亂人而無亂法」
「世の中に、世を乱す人はいても、世を乱す法律はない」と言います。
B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人、世有冠冕、
貴方たちの先祖は、「代々」冠をつける役職についていて、
C 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十
>而公孫淵、仍父祖三世有遼東。
父祖三代に渡って遼東を領有した。(189〜238)
D 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三
>當世有聲名
当時は名声が高かった。
C は三世、Dは当世で、純粋な世有ではない。
@ は代々の意だが、魏代ではある。Bは代々の意、Aは今の世の中の意。
以上からは、世有王は、代々の王が、と訳すのが適当。
>世有王 皆統屬女王國
倭国王は代々伊都にいる。
倭国の皆は、現在の王である女王の統べる邪馬台国に統属している。
で、伊都が卑弥呼首都で同じく意味が通る。 >>108
前段と後段がつながってない
事例と結論があってないよ 861日本@名無史さん2017/09/22(金) 12:58:55.53
九州説はもともと「邪馬台国が九州にあるとはこれっぽっちも思ってない」新井白石や本居宣長が唱えた虚構である。
もはや「説」ですらない。
新井や本居は古代天皇の朝貢という重い課題に直面、
それをごまかすために九州説なる虚構を創った。
論争してくれてるうちは古代天皇の朝貢という重い課題を決着させなくて済む。
すっかりだまされてた馬鹿(九州説)の皆さん、今までご苦労様。 >>108
世有王は、代々の王が、と訳すのが適当。
世有王 皆統屬女王國
(倭国王では)代々の王みな女王国の部下であった 世有は「その時いた」だろ
皆は「倭国の皆」
伊都国にも王はいたが、倭国の皆は邪馬台国の女王に従った
これが正解 >>114
でしょうね
その時、その世に、「世」についての説明がなければ、その当時でいいでしょう
その当時、伊都国には王がいた
皆は女王国に統属していた
書いてある事実はこれだけなんだよなぁ
個人的には「皆」は各国と思うが
女王国がどこかは保留
「女王国」の解釈が難しいね 邪馬台国と狗奴国も九州で勢力争いしてた
こんだけじゃないの? >世有王、皆統属女王国。郡使往来常所駐。
魏の時代には伊都国に(女)王がいて、周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
伊都国は郡使が往き来して常にとどまるところでもある。
漢委奴国王印は倭奴国に下賜されたが、考古学的には伊都国の歴代王墓の時代なので、伊都国と倭奴国は同じ国であり、表記が違うだけである。
伊都国が、王権の所在地であり、外交の舞台でもあった倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は、伊都国にいたと書いてあることになる。 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 >>115
女王国とは女王卑弥呼が治める国のことである
王が一つの王国に何人も居るはずがないので伊都国の王が女王卑弥呼である
伊都国が女王国の都で女王国に統属されている倭の国々を含めて女王国と呼んでいる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています