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穢多・非人について語りましょう [無断転載禁止]©2ch.net
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0001日本@名無史さん
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2016/10/29(土) 01:36:37.29
穢多・非人(えた・ひにん)とは江戸時代の身分制度で士・農・工・商の下に置かれた身分の人たちです。
江戸幕府は農民や町人に「自分たちよりも、もっとみじめな人間がいる」と思わせて、武士に対する不満を和らげました。
彼らは町外れや荒れ地に住まわされ、人の嫌がる仕事をさせられ、人間外の人間のような扱いを受けて差別されました。
「穢多は人にして人に非ず」という言葉もあります。
0058日本@名無史さん
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2016/11/15(火) 19:17:49.99
明確に述べてはいないものの,このとき坪井が被差別部落民にむけた〈眼差し〉には,
日本先住民であるコロボックルの末裔の姿が投影されていたと見ることも強ち無理で
はないように思われる。鳥居らに「むろや」調査を命じたのも,自身の先行調査をさらに
掘 り下げ,その学説を補強する材料を探す目的があったと考えられないだろうか。いず
れに せよ,鳥居らによる調査そのものが,当時の人類学界の論争との関連で実施された
こと, そこから被差別部落民のルーツが北方民族に求められたことは間違いなさそう
である。
そして同調査において示された見解は,後に坪井や鳥居とも学問的親交のあった
民間史家・菊池山哉へと引き継がれることとなる。菊池は 1923 年の『穢多族に関
する研究』で先住民族起源説を説き,発禁処分を受けたことで知られる[前田 2004][礫川 2006]。
同書において菊池は被差別部落民を北方のウィルタ族と同系統の人種とし,彼らこそ先
住民論争におけるコロボックルの末裔であると唱えている。その際,菊池が根拠の一つ
と してあげたのも,各地の被差別部落のフィールドワークで見聞した「室」である。
菊池は これを先住民族であるウィルタ族の竪穴式住居と同様の習俗とみなし,同族が北
方に追 われた後も内地にとどまった被差別部落民が今日に受け継いだものとしたので
ある。菊池はかつて坪井や鳥居,大野らが唱えた説をさらに発展させることにより,「異
端の学説」 を打ち立てたのだといえよう。
0059日本@名無史さん
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2016/11/15(火) 19:18:15.17
形質人類学のデータ
http://ryuchan56.269g.net/article/17864123.html

第1章で説明したように、エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、
東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、
全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、

部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。

とし、

頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。
したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。
しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。

と書き、さらに、

大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。
おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。

と述べている(図2参照)。

http://ryuchan56.up.269g.net/image/ryuchan56-2013-07-12T11:25:23-1.jpg

重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、
中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。

つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。
0060日本@名無史さん
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2016/11/16(水) 05:20:21.15
知らないでください
0061日本@名無史さん
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2016/11/16(水) 09:10:15.53
一部の部落の話を
恰も全ての部落の話のように
捏造する話は嫌い
0062日本@名無史さん
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2016/11/16(水) 10:07:59.45
一部の部落の話をしてるのに
恰も全ての部落の話のように
勘違いして解釈する奴は嫌い
0063日本@名無史さん
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2016/11/16(水) 10:19:20.74
既にないリンクを貼ってる時点でお察しください
0064日本@名無史さん
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2016/11/16(水) 15:12:28.65
>>55
中世非人と近世非人は別物
中世非人宿は近世では夙村になった
制度上は平民
0065日本@名無史さん
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2016/11/16(水) 16:20:32.06
小浜基次「形質人類学から見た日本の東と西」
『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号

畿内型は西日本の畿内を中心として、瀬戸内海沿岸を経て、朝鮮につらなり、
東北・裏日本型は東日本より裏日本に広がり、西日本では、畿内型の周辺を
とりかこんでいる。西日本の離島には代表的な東日本型形質が残されている。
このような両型の地理的分布によつて、集団の移動を推定すると、はじめに、
東北・裏日本型集団が広く日本全土に先住し、のちに、畿内型集団が朝鮮半
島より渡来し、瀬戸内海沿岸を通つて、畿内に集中し、その一部はさらに、
東進したものであろう。古代の高い文化が、畿内を中心として栄えた史実に
一致することは興味深い(以上、75頁)

(追加)形質人類学的にみた未解放部落
われわれの全国的な日本人調査のうちには、未開放部落もふくまれ、その調
査地区は近畿、山陽、九州、四国に散在する四七部落にわたつている。
(中略)
身長は一般に低身であるが、部落の生活環境によつては、長身の集団もある。
頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅
は小さい。したがつて、畿内のような高度の短頭地区内にはさまつた部落は、
一般集団との間に明らかな差異が認められる。しかし、山陰、北九州、四国
東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。
畿内地区における両集団の差異は畿内人と山陰人とのちがいにすぎないので
ある。そのほかの形質、たとえば、頭頂高指数や頭部の測度、指数などにつ
いても、部落はまつたく東北・裏日本型に類似している。
大陸朝鮮型形質のもつとも濃厚な畿内地区に、もつとも非朝鮮的な形質を持
つ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値する。おそ
らくは、婚姻と住居の制限によつて内婚率が高く、特異の形質がよく保たれ
ているものと思われる。このような部落の成因については、文化史その他の
分野より検討せらるべき課題であろう。(成績はいずれも男子資料による)
(大阪大学医学部教授)
0066日本@名無史さん
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2016/11/16(水) 20:35:55.94
>>50
族譜を調べれば簡単に分かってしまうのでは?
0067日本@名無史さん
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2016/11/16(水) 23:42:09.34
>>55 と言うか、楠木正成が賤民臭いんだが明治に子孫が出てきたらどうだつたであろうか?
0070日本@名無史さん
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2016/11/17(木) 00:37:57.12
『河原ノ者・非人・秀吉』服部英雄 (著)

という本を読んでみてください
0071日本@名無史さん
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2016/11/17(木) 04:14:12.72
>>69 信長だけ良民か?
0072日本@名無史さん
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2016/11/18(金) 00:44:39.46
部落の人は優しい。
関東大震災の時、朝鮮人が部落に逃げてきたのをかくまってあげたという温かいエピソードがある。
0073日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/18(金) 07:00:10.79
糾弾闘争のときは、殴る蹴るの凄惨なリンチをやってそうだが。
0074日本@名無史さん
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2016/11/18(金) 12:53:51.16
部落民の暴力団員は驚く程に多い
0075日本@名無史さん
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2016/11/18(金) 13:27:41.42
>>74 893の脳にGPSを埋め込め。
0076日本@名無史さん
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2016/11/18(金) 15:27:02.16
>>56
そうでしたか。大変参考になりました。ありがとうございます。

>>64
もありがとうございました。同じく参考になりましたが、これは資料をあげている>>57にも共通
する事ですが、大切なのは関西では有力寺社の周辺に非人村が集まっている事例が非常に多いという
部分をもう少し重視した方が良いのではないか? と思っております。

民族性や制度史の観点で見る事も大切では有りますが、何故宗教と密接になったのか? 宗教の
門徒といった人達が何故この身分に甘んじたのか? が非常に興味深いところであります。

例えば少し話は違いますが、辻占い・民間陰陽師も非人の部類に入りますよね?明治維新で朝廷や
志士側が攘夷を主張した主な原因の一つである公卿利権、その中の一つに辻占いや民間陰陽師が
土御門家の教えを受け認可を得る必要があるという利権ですが、これはもう門徒と同義語だと思います。

この様に、穢多が皮革産業という立場から軍事に密接なのに対して、宗教に密接という点が興味
深いと思っております。

>>67
私は逆に楠木正成はヤンゴトなきお方だと思っております。ですから同時に夫人の一人であり、
正行兄弟の母であるとの説もある滋子についても信憑性が高いと思っております。

例えば重要な盟友である平野将監入道が、実は『宝珠院文書』によると持明院統有力公卿
西園寺家の家人であるとの記述があり、さらに正成とは以前から赤松円心と共に繋がりがある
とも書かれております。

もちろんヤンゴトなきと言っても色々ですが、例えば時代は違いますが江戸時代の寛文九年
に「長谷三位殿嫡子」が「なはや十右衛門」の家へ強盗に入ったという事件があります。

もちろんこの一事件をもってどうこうは言えませんが、禁裏の方というのも決して「おほほ」
と上品ぶっているわけでなく、凶悪なやり手の方も存在していても不思議ではありません。
そして先述の繋がりと関連すると、むしろ禁裏関係の方では無いか? と思っております。
0077日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/20(日) 21:19:41.96
京都の古地図を見ていると、
エタ村というのがよく出てくる。
0078日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/21(月) 07:13:55.89
>>77
在ります。
今も語り継がれています。洛外に多いです。
松尾の江田溜、山崎の毛雁など在ります。
0079日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/21(月) 13:05:44.96
『被差別部落一千年史』(岩波文庫/高橋貞樹著/大分県出身)
P39
特殊部落の起源については、人種起源説と職業起源説の二種があるが、おそらくは古代の
被征服民族にして賤業を課せられた奴隷が、時代の経過とともに一定特殊の社会群に変じ、
さらに賤業を営むものが穢多族であるという観念に変わったものであろうと思惟する。
この推定には、最も多くの真理を包摂する。部落の遠き祖先は、原始の時代に遡る。特殊
部落の起源を考えるには、上代日本の被征服種族たる奴隷、不自由民、従って賎民について
見なければならぬ。しかしながら、当時における被征服種族が、穢多なる名をもって呼ばれ
ていたのではない。当時の奴隷群、賎民のすべてが、後代の穢多となったのでもない。ただ
特殊部落民大多数の起源は、遠く古代日本の奴隷群にまで遡り得るのであって、穢多族とい
う明白なる階級的存在を有するに至ったのは、遥かに下がって後代のことである。
0080日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/21(月) 18:59:52.89
>>51
逆です。
知っておくべきです。
0082日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/22(火) 22:31:36.94
隠しておいた方が都合が良い勢力がいます
0084日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/22(火) 22:43:44.93
こどもは知らなくていい
0085日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/23(水) 05:00:56.19
形質人類学のデータ
http://ryuchan56.269g.net/article/17864123.html

第1章で説明したように、エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、
東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、
全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、

部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。

とし、

頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。
したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。
しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。

と書き、さらに、

大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。
おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。

と述べている(図2参照)。

http://ryuchan56.up.269g.net/image/ryuchan56-2013-07-12T11:25:23-1.jpg

重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、
中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。

つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。
0086日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/24(木) 02:14:07.14
部落問題はオナニーと同じで子供は知らないほうがいいと思う
0087日本@名無史さん
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2016/11/24(木) 11:36:31.83
高校くらいで学べば十分だね
小中だといじめに繋がる可能性が高いしね
0088日本@名無史さん
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2016/11/25(金) 02:45:16.43
高校でもまだ早い。
俺は高校の修学旅行で広島の原爆資料館行ったけど全く意味わからなかった。
写真がグロかったことしか記憶にない。
0089日本@名無史さん
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2016/11/25(金) 21:53:09.57
穢多はずっと穢多のままだが
非人は善行があれば平民になれる、と聞いたことがある
穢多・非人の双方を分断していたらしい
0090日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/25(金) 22:31:54.41
非人にも非人頭、非人小屋頭、非人手下と序列がある
罪人である非人手下を管理する非人頭と非人小屋頭は基本的に世襲制
身分を管理する者がいなければ非人という身分自体が成り立たなくなる
0091日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/26(土) 02:05:49.21
非人の足洗いについて弾左衛門が
出した上申書によると

非人素性(非人として生まれた者)の
平人身分への復帰は不可で、
非人手下は非人に落とされてから
原則として10年以内に、縁者から願い上げが
あった場合に、復帰が認められることが
あったらしい

エタの足抜けは不可
有名な例では、腕がいいと評判の
エタ医者がいて、近隣の村から調法してるので
平人に引き上げてやってくれと嘆願が
出たが、幕府が認めなかったてのがある

逆に、エタと密通してた娘が咎められ
家族含めてエタ身分に落とされた例も
あるし、藩によっては罪人が身分を
落とされる先が、非人ではなくエタと
いうところもあった
0092日本@名無史さん
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2016/11/26(土) 06:57:48.94
近世賤民制解体過程の研究−畿内・近国を中心に−
http://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-22520671/22520671seika.pdf

無宿の増加と身分−近代の見通し−

城付かわた村では、19世紀半ば頃人口は約700軒・3000人という大規模な都市的密集性をともなった集住形態となった。
嘉永5年(1852)の洪水や、慶応4年(1868)の諸物価高騰という自然災害、社会変動、経済変動によって、
同村の労働販売層や、経済基盤の弱い小商品生産者は大きな打撃を受けた。
19世紀には生計困難、経営困難にあった人達が無宿として析出され、
また例えば幼少期両親病死等の理由で家出−非人化−人別除帳−無宿というようなサイクルが進行した。
19世紀には把握された人口の拡大も多かったが、人別改めから脱落する傾向も顕著となった。
例えば嘉永7年(1854)「岡嶋皮田瀬蔵倅追放立帰無宿捨松」と「同村追放無宿善之助」は
「悪事之品」嫌疑で大坂京町堀五丁目の借家へ出入りしたところを召し捕られた。
両者はともに岡嶋村出身で(追放の上)無宿であった。
善之助は紀州安藤家家来岩瀬善十郎の娘で、嘉永5年に善之助と夫婦となっている。
追放された後は無宿となる以外なかったが、領外で身分違いの結婚を実現している。
要するに無宿化=身分社会から脱落を通じて従来の身分社会からの解放を実現している。

なお、無宿の増大化は、例えば文政11年(1828)〜同14年の入牢者の4割は無宿(かわた村出身の無宿を含む)であり、
天保飢饉時を挟む天保3年(1832)〜同9年の溜収容者の約半分は無宿・無宿非人であった(内4分の1はかわた村出身)。
このように無宿化は城下町・領内、百姓・町人身分の区別なく進展していた。
新たなる貧困層=無宿において身分区別は意味を持たない。かかる状況が大きく進展しつつあった。
0093日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/26(土) 11:15:43.20
>>86
>>87
今でも、うかつに関われば命が危ない世界だからな。
現実に東のほうの人が、興味本位で関わって
やけどする事例が多いから。
網野義彦の本を読んでも、それとなく慎重な物の言い方をしているし
0094日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/26(土) 11:34:53.79
在日韓国・朝鮮人問題は危なくないのですか?
0095日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/26(土) 12:23:57.65
元特捜検事で、ヤクザの守護神になった田中森一と言う人の本では、
検察の中では、在日までは話が通じる、
○○(著書の中ではきちんと書いていた、想像に任せる)
は日本語が通じないとボロカスに書かれていた。
よくまあ、差別者認定されて糾弾されなかったものだと
感心するが、連中も田中森一には頭が上がらなかったのかねぇ
0097日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/26(土) 14:34:09.49
>>95 田中は許永中のことを似非同和って書いていたけど、同和利権を得るためにわざわざBを名乗るのも少なからずいると言うから誰がガチで誰が似非でを見極める必要あると思う。
0098日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/26(土) 15:04:40.55
田中森一:同和、在日、ヤクザ……みんな出てくるわね。
大阪は、ヤクザと同和と在日をのけたら、誰もいなくなるっていうのよ(笑)。
地上げとかなんとか言ったら、みんな絡んでくるから。
よく警察が言ってたのは、1番話をしやすいのがヤクザで、次は在日だと。どうにもならんのが同和だと。
なぜかと言うと、在日までは日本語が通じるって言うわけよ。
同和の連中は日本語、つまり理屈が通じない。それぐらい言われてた。

夏原武:当時よくありましたよね、農地に同和団体のビルを建てて、役所から「だめです」って言われたら、
「差別だ」と騒いで、農地から宅地に無理矢理変えさせるというのが。

田中森一:ワシもそういう事件を大阪でやったんだよ。
市役所に「俺は同和だから、生活保護を出せ」って来るわけ。
窓口で「あなたは同和と違います」と言うと、「なんでお前がわかるんや?」と。
「ワシが同和じゃないと、どうやってわかるんや?」と。
「お前ら、何かわかる資料があるんやな」と。それが事件に発展した。

夏原武:『部落地名総監』のようなものがあるんじゃないかと言って、難くせをつける……。
0099日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/26(土) 16:43:21.27
>>98 同和ではなく同和紛いと田中氏も言ったらよかったんじゃない。
0100日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/26(土) 17:09:09.90
>>97
許永中も在日のはずなのに、なぜか同和団体の幹部になって
いたのだよな。
0101日本@名無史さん
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2016/11/26(土) 22:16:13.36
日本史板なのに現代厨が沸いてくるんだよな
育ちの悪さか
0102日本@名無史さん
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2016/11/27(日) 11:27:42.10
>>101
現代は過去とつながっているしなぁ
どうしてもこのネタはこういったヤバい話、タブー話、政治ネタに
つながってくるしな。
いくら民俗学的な話で研究している、純粋に学問として研究していると言っても、
すぐに差別だと言い出して、糾弾会に呼びつけられてしまうしな。
網野義彦の本を読んでも、その種の関係で相当気を使っているのだろうなとの
書き方をしているし。

>>98
マジでここまで書いていて、よく糾弾会に呼びつけられなかったものだと
感心しているよ。
出版社もここまで書けたものだと感心している。
0103日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/27(日) 13:39:10.20
穢多非人は江戸幕府よりもはるかに歴史が古いはずですがね
0104日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/27(日) 14:31:49.67
>>103
昭和の間は、徳川幕府起源説が半ば公式見解となっていたな。
それに対して、疑義を申し立てた研究をしていたら
糾弾会に呼びつけられる騒ぎになっていたな。
0105日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/27(日) 16:29:24.08
もう糾弾会とかいいって
現代の同和問題なら人権板でやってよ
0106日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/27(日) 17:54:22.29
戦前・戦中期の水平運動における部落民アイデンティティと融和政策の相関に関する研究
http://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-21720247/21720247seika.pdf

1920年代をつうじて展開されたアナ・ボル論争をつうじて、水平運動内部で被差別部落民が「身分」的存在であるという理解が定着すると同時に、
その過程について以下のことが明らかにしえた。

アナ・ボル論争の性格に関しては、これまでの研究では指摘されてこなかった側面が浮かび上がってきた。
例えば、近年公開されたモスクワのコミンテルン資料の解析をつうじて、水平運動と第一次共産党の関係が判明した。
全国水平社内部のボルシェビズム派である全水青年同盟は、
当初、日本共産党内で直接行動による社会革命を目指していた佐野学らの影響を強く受けて結成された。
その後、ボル派が議会政治への進出容認へと転じると、彼らとアナキズム派との間で激しい内部抗争が開始された。
このアナ・ボル論争のなかで争点化したのが、被差別部落民の社会的定義をめぐるアイデンティティ論争であった。

被差別部落民の性格規定をめぐり、それまで被差別部落民の間では「民族」や「階級」という概念の間で揺らいでいた。
しかしこの論争をつうじて被差別民の自己理解は次第に「身分」へと収斂していった。
その背景として、1920年代半ば、福本和夫らによって本格的に日本に紹介・導入された史的唯物論の影響があった。
これ以後、全国水平社は被差別部落民が「身分」集団であるとして主張して社会と対峙し、様々な活動を展開してゆく。

この主張は融和運動の側にも積極的に受容され、これに呼応する形で融和運動からも水平運動との対話や提携が呼びかけられた。
その顕著な事例は有馬頼寧らによって起こされた同愛会および全国融和連盟の活動である。
有馬は被差別部落外の「一般国民」を、部落民に対する身分差別を行ってきた加害者であると規定し、
融和運動を加害者自身の「反省懺悔」の活動、水平運動の「姉妹運動」と位置づけた。
有馬は、それまで政府や部落外の人びとによって担われた部落改善運動が、差別の原因を被差別民に求めてきたことを強く批判した。
彼は明確に被差別民が日本人社会の構成員であり、部落差別を日本社会に残存する封建遺制の問題として位置付け、社会運動を繰り広げた。
0107日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/27(日) 22:35:56.30
融和運動に水平運動が与えた影響と政策への反映

有馬が率いる同愛会が中心となって1925年に結成された全国融和連盟の活動は、
1920年代後半には被差別部落に対する社会政策を求める国策樹立運動を展開する。
有馬らの活動の結果、昭和恐慌を経て1930年代には、大規模な予算措置を伴う融和事業が実現されることとなる。
1935年に策定された融和事業完成十カ年計画は、戦前期の融和行政の一つの到達点ともいいうる内容であった。
この計画には、融和運動・融和行政における上述した部落問題認識が色濃く反映されている。
これに対しては全国水平社も一定の肯定的な評価を下した。
そして日中戦争下になると、水平運動と融和運動の合同が画策されるようになる。
この運動は1940年には大和報国運動として具体化され、全国水平社と中央融和事業協会の合同案として浮上する。
しかし結果的には、この計画は実現に至らず、大和報国運動は空中分解する形で収束してしまう。
従来、この経緯については全国水平社の融和運動に対する抵抗の「敗北」や、
後者による前者の「統合」として否定的に評価されてきた。
確かに、それまで反戦を唱えてきた全国水平社の活動に引きつけてみれば、
戦時下の活動には戦争協力という顕著な負の側面が存在することは否めない。
だが皮肉にも1920年代いらい部落解放運動が求めてきた問題理解や施策が
そこで一定程度実現されていたことも見逃すことが出来ない。
0108日本@名無史さん
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2016/11/27(日) 22:46:33.41
戦後長らく部落史研究をリードしたのはマルクス主義であった。
部落解放運動史研究は1950年代に本格化したが、当時、現実の部落解放運動は、部落民の解放を社会主義的変革過程のなかに展望していた。
これと同様の観点から、部落史研究においても研究の中心は水平運動の左派(共産党)グループの活動に向けられ、
国家や政府との対決の度合いをもって運動を評価する視点が支配的であった(当該期の最大の研究成果として、
部落問題研究所『水平運動史の研究』全6巻、1971-73年をあげることができよう)。
しかし80年代に入ると、左派に偏重した感のあるそれまでの研究にたいする批判や見直しの必要が唱えられるようになる(代表的な研究としては、
藤野豊『水平運動の社会思想史的研究』1989年など)。
こうした傾向は、80年代末から90年代初頭のソ連・東欧の社会主義圏の崩壊を受け、いっそう顕著になった。
そしてこの間、水平運動史研究は左派のみならずアナキストや社会民主主義者、さらに右派グループの活動にまで光が当てられるようになってきた。
また従来、官製運動として水平運動とは対立的に捉えられてきた融和運動についても見直しが進められてきた。
その結果、水平運動と融和運動の両方にまたがって活動が展開された事例や、両者間で行われた相互協力などの事例が発掘され、
単純に対抗関係だけで説明することには無理があると言われるようになり、従来とは異なる史観が求められてきた。
0109日本@名無史さん
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2016/11/28(月) 04:41:41.03
穢多・非人のような存在は安土桃山時代以前からあった。
江戸時代以後に制度化されただけ。
0110日本@名無史さん
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2016/11/28(月) 05:31:43.35
歌舞伎の中村家とか能の観世家は未だ賤民扱いなんですかねー?
0111日本@名無史さん
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2016/11/28(月) 07:13:19.79
芸能のような観念的な賤民と穢多・非人のような制度的な賤民は別でしょ
0114日本@名無史さん
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2016/11/29(火) 11:36:30.87
非人は犯罪者だから、身分が低かったり、差別されたりしても、ある程度、自業自得の面がある。
穢多は墓掘りなどの職業に関連した差別で、表向きは質素にしていた。しかし、墓掘りなどの誰もが嫌がる、かつ、差別された職業というのは、社会においては必要な職業だったので、実入りも多かった。
従って、小金を貯めていたものが多く、昼間、差別されて質素に暮らしていたが、夜は吉原などに繰り出して大尽遊びをしていた。
0115日本@名無史さん
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2016/12/04(日) 01:45:06.88
江戸時代は穢多・非人の中から障害者が産まれたらその家族と当事者はどうなったのですか?
0116日本@名無史さん
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2016/12/04(日) 03:36:33.99
障害者は神隠しに遭う。
何故か忽然といなくなる。
0118日本@名無史さん
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2016/12/05(月) 00:11:20.62
穢多・非人に限らず、普通に
新生児を間引いてた江戸時代
ましてや障害があるとなると・・・
推して知るべしだな
0120日本@名無史さん
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2016/12/06(火) 14:53:37.81
神隠し恐っ
0121日本@名無史さん
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2016/12/06(火) 15:32:42.83
似非B層多いからな。
0122日本@名無史さん
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2016/12/07(水) 12:54:09.65
江戸時代当時、穢多や非人が住んでる地域はどういう名称で呼ばれていたのですか?
近現代なら被差別部落ですが
0125日本@名無史さん
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2016/12/08(木) 21:48:03.62
古地図には単にエタ村と書かれてるな
0127日本@名無史さん
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2016/12/09(金) 11:50:14.03
明確に述べてはいないものの,このとき坪井が被差別部落民にむけた〈眼差し〉には,
日本先住民であるコロボックルの末裔の姿が投影されていたと見ることも強ち無理で
はないように思われる。鳥居らに「むろや」調査を命じたのも,自身の先行調査をさらに
掘 り下げ,その学説を補強する材料を探す目的があったと考えられないだろうか。いず
れに せよ,鳥居らによる調査そのものが,当時の人類学界の論争との関連で実施された
こと, そこから被差別部落民のルーツが北方民族に求められたことは間違いなさそう
である。
そして同調査において示された見解は,後に坪井や鳥居とも学問的親交のあった
民間史家・菊池山哉へと引き継がれることとなる。菊池は 1923 年の『穢多族に関
する研究』で先住民族起源説を説き,発禁処分を受けたことで知られる[前田 2004][礫川 2006]。
同書において菊池は被差別部落民を北方のウィルタ族と同系統の人種とし,彼らこそ先
住民論争におけるコロボックルの末裔であると唱えている。その際,菊池が根拠の一つ
と してあげたのも,各地の被差別部落のフィールドワークで見聞した「室」である。
菊池は これを先住民族であるウィルタ族の竪穴式住居と同様の習俗とみなし,同族が北
方に追 われた後も内地にとどまった被差別部落民が今日に受け継いだものとしたので
ある。菊池はかつて坪井や鳥居,大野らが唱えた説をさらに発展させることにより,「異
端の学説」 を打ち立てたのだといえよう。
0128日本@名無史さん
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2016/12/15(木) 19:22:25.26
せんみん
0129名無しさん@1周年
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2016/12/17(土) 13:15:34.95
うち、エタだろうなぁって思う。
0130日本@名無史さん
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2016/12/17(土) 16:26:19.91
エタ長者とエタの違いをエロイ人教えてください。
0132日本@名無史さん
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2016/12/21(水) 11:04:44.24
京都発見(三)―洛北の夢―
http://www.shinchosha.co.jp/books/html/303015.html

 京の都の近くに鬼の子孫の住む里があるという。このおぞましい話を語るのは日本民俗学
の創始者・柳田國男である。柳田が言うからには、この話もまんざら根拠のない話ではある
まい。
 事実、八瀬童子と称する八瀬の人々は代々鬼の子孫であるということを自らはっきりと
公言して来た。
(中略)
 八瀬の人たちが八瀬童子と呼ばれるのは、髪が総髪、ざんばら髪であったからである。
江戸時代の末まで八瀬の人たちはざんばら髪であり、普通の人たちと明らかに異なることを
自ら示していたが、この総髪、ざんばら髪というのは、いかなる風習であろうか。この総髪、
ざんばら髪は、古くは日本に土着していた縄文人の頭髪であり、明治までアイヌの人も総髪
であった。とすれば、アイヌの人たちが縄文の遺民であったように、八瀬の人たちもまた縄
文の遺民であったのではなかろうか。
0133日本@名無史さん
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2016/12/24(土) 04:45:20.46
ハンナン浅田、やっと収監
0134日本@名無史さん
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2016/12/24(土) 14:45:22.02
先祖さがししてたら、部落にたどり着きました。悲しいです。
0135日本@名無史さん
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2016/12/24(土) 21:03:51.85
特権階級だろうが
0136日本@名無史さん
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2016/12/24(土) 21:52:02.38
>>134
まあよくあることだ。そうがっかりするな。
0137日本@名無史さん
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2016/12/25(日) 09:33:32.99
うちは母の実家が、6000石以上の大身旗本の出身。おやじのほうは、爺さんも
曽祖父も公務員だが、どうも部落地域の出身ぽい。地域の人たちからは差別された
ことはないけど、どうも調べると部落地域らしい。つまり、おれはハイブットです。
0138日本@名無史さん
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2016/12/25(日) 16:23:23.17
糞ジャップ共は全員津波に飲み込まれて死ね!!!!!!!!!!!!!!
ジャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアップwwwwwwwwwwwwwwwwww

劣等人種ジャップについて語りたい場合は

http://hanabi.2ch.net/ogame/
0139日本@名無史さん
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2016/12/25(日) 18:23:30.68
と、9mmちんぽの万年奴隷チョンが、いきがってますw
0142日本@名無史さん
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2016/12/29(木) 22:12:40.13
この地区から、嫁に行って混血が生まれて、ハイブリッドだらけだねw
0144日本@名無史さん
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2016/12/30(金) 22:55:53.22
http://www.kyy.saitama-u.ac.jp/~fukuoka/image.html

独身者の場合にとりわけ,女性のほうが男性よりも、同和地区出身者との結婚を忌避しようとする傾向があることがうかがわれる。
これは、日本社会がいまだに男性優位社会であるために、女性の社会的地位が結婚相手の男性の社会的地位によって
規定されがちであるという社会現象を、女性たちがみずからの意識に内面化していることの反映ではないかと、私は解釈している。
0145日本@名無史さん
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2016/12/31(土) 14:14:31.35
未だに部落や同和とか言ってるのは、
高齢者だけになったなあ。
今は土地開発が進んで、昔の地域の歴史なんて関係無くなってるし。
京都とかも、昔はヤバいと言われてた地域に、
新しいマンションが増えてきてるし。
0147日本@名無史さん
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2017/01/07(土) 20:57:12.24
>>143
日本の男系主義の表れだね
0148日本@名無史さん
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2017/01/08(日) 09:32:30.90
武士は藩や旗本に属し、武家屋敷に定住し二人扶持とか石を貰っているし、
農民だけではなく商工民も店や工房をもって定住して、寺に籍あるのです。
しかし、大工や建設業者、飛脚や馬引、船頭などの流通関係、漁民はどうなんだろう?
農民、商人でも小作人や丁稚はどうなんだ?武士の家の小者はどうなんだ?
長屋住まいの仕官できない浪人はどうなんだ?
江戸時代は複雑な社会だったんじゃないのか?
0150日本@名無史さん
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2017/01/08(日) 14:08:26.84
海の民と家船
http://sites.google.com/site/tadanoumis/107

沖浦和光著『瀬戸内の民俗誌』(岩波書店)は次のように述べている。「能地のすぐ裏山に善行寺がある。
家船漁民は年中〈船住居〉だったが、年に二回、 正月と盆には必ずこの能地に帰ってこなければならなかった。
能地に帰ってきてもそこに家があるわけではないので、大半の漁民は船に寝泊まりした。
旅先の海 で死んでも、そのむくろは塩漬けにされてここまで帰ってくる習わしだった。
葬式や追善供養もこの寺で行われたが、貧しい家船漁民のむくろは寺の墓地ではな くて浜辺に埋められたと言われている。

こういう方式は、檀家の数を減らさないために、善行寺が漁民たちに義務づけたのだが、
正月と盆に帰ってこなければならぬ最大の理由は、檀那寺の宗門改帳に登録されないと「帳はずれの無宿」と見なされたからだ。(中略)

臨済宗の善行寺は、1469(文明元)年に、土地の豪族〈浦〉氏によって建立されたと伝えられている。
浦氏は沼田小早川家の庶家(分家)で、小早川家の 有力な一族だった。
〈浦〉を名乗ったその姓からも分かるように、小早川勢の瀬戸内海進出の先駆けとなったが、
特に水軍史上で名を残したのは浦宗勝で、1576(天正4)年の木津川口海戦では毛利方水軍勢の総帥をつとめた。
能地と二窓の海民がこの浦氏が建立した寺の檀家になったのは、
瀬戸内海を縦横に駆 け巡って奮戦した浦氏の直属水軍として働いたからである。」(沖浦和光『瀬戸内の民俗誌』P180〜181)
0152日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/14(土) 15:44:32.42
 ___ _
  ヽo,´-'─ 、 ♪
   r, "~~~~"ヽ
   i. ,'ノレノレ!レ〉 ☆ 衆議院と参議院のそれぞれで、改憲議員が3分の2を超えております。☆
 __ '!从.゚ ヮ゚ノル  総務省の、『憲法改正国民投票法』、でググって見てください。
 ゝン〈(つY_i(つ 日本国憲法改正の国民投票を実施しましょう。お願い致します。☆
  `,.く,§_,_,ゝ,
   ~i_ンイノ
0153日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/20(金) 13:14:18.13
特権階級で全員リッチな暮らしをしていたに違いないウヨ
0154日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/28(土) 21:28:49.80
そういう単純なものではない。
歴史とは、人それぞれに起こった事象を複合的に捉える能力がないと理解はできないものだ。
一括りにしないと理解できない人間に歴史を語る資格はない。
0155日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/28(土) 22:07:30.30
非差別民のうち、あるものは特権を与えられて大名並の生活をしていた。
そしてあるものは、社会の片隅で極貧生活を送っていた。
しかしあるものは、幸せな瀬ぶり生活を送っていたのだ。
定住を好まない非差別民でも、それぞれ異なる生活をしていたのだ。
0156日本@名無史さん
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2017/02/10(金) 08:20:17.64
部落も何種類かあるよね
体の一部にそれとわかる刺青を彫られて放り込まれた前科者の集落が代表的なのかな
それも、刺青の種類も額に「悪」という字を彫られたり、腕に二本の線を彫られたりと
バリエーションがあるようだけど
0157日本@名無史さん
垢版 |
2017/02/10(金) 21:42:46.84
えたとは何か?ひにんとは何か?ぶらくとは何か?どうわとは何か?
諸説入り乱れており、こんなもの歴史と言えるのだろうか?
論説者自身が歴史とやらに思い想いの絵を描くお絵書き教室じゃないのか?
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