邪馬台国畿内説を批判するスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。 「大和において、大型内行花文鏡が尊重されていると、何か不都合でもあるのですか?」
この程度の質問にも答えないで、絵に書いたような卑怯さですね。
>>709
全岡上病の方は、書き込みをお控え、まずはご家族に相談ください。 >>708
思考停止ぶりを指摘されて悔しかったから意味もなくそのまま言い返しただけでそ >>711
>あと、下の質問からもいつも逃げ回っていますね(笑)。
>「畿内説における卑弥呼の墓の比定地はどの墳墓ですか??」
なんてセリフは
その愚問してる奴しか言わんよ >>710
「都合に悪いことは答えないことは畿内説は答えない」と他説に思わるからです。
「大和において、大型内行花文鏡が尊重されていると、何か不都合でもあるのですか?」
そんなに答えられない質問ですかねぇ(笑) おっと訂正です。
>「都合に悪いことは畿内説は答えない、困っている」と他説に思われるからです。
それに、卑弥呼の墓の比定地を質問されただけで、困ってしまうというは、
説としてどうなんでしょう?
本当に一緒にされたく無い(笑) ないけど
畿内説論者の信頼性がなくなるけどね。
主張が一貫してないってことだから。 >>718
何で「主張が一貫してないってこと」になるの?
理由は? >>717
困ってしまうっと理由は?
妄想がすぎないか? >>721
困ってないなら、さっさと答えてください
「大和において、大型内行花文鏡が尊重されていると、何か不都合でもあるのですか?」 畿内説を批判できない岡上がゴミ
無理やりイチャモンを考えてるね >>723
困ってないと、何で意味もない質問に答えなきゃイカンのだ? >>723
何でそんなこと思いつくのか
想像もつかない >>717
「お前は安倍政権を支持するか?」とか
突然質問しても答えてもらえないのと一緒でしょ
脈絡がない 不都合とか言っちゃう発想が非学問的なのだよな
都合の良い情報だけ集めたがるチェリーピッカー体質が良く出てる 畿内で最も尊重されていた鏡は内行花文鏡。
九州で最も尊重されていた鏡も内行花文鏡。
銅鐸を用いた畿内独自の祭祀は打ち捨てられ、九州の銅鏡銅矛文化が西日本と東日本を席巻する。
その内行花文鏡の中でも最大となるのが平原遺跡の超大型内行花文鏡である。
畿内説はその鏡が持つ意味について何も答えられない。 チェリーピッカー連呼厨は何回も自己紹介しなくていいって。 「尊重されていた」っていうのが根拠のない主観に過ぎないことに気が付かない時点で岡上に学問は無理 理由はないが、とにかく「ピントが外れた」t言いたかった岡上 >>732
質問もしてないことを
相手が「何も答えられない」と
決めつける根拠は? >>737
なら質問させて頂きますよ。はいどうぞ
大和において、大型内行花文鏡が尊重されていると、何か不都合でもあるのですか? まあ>>732みたいな思い込みと独善が、東遷説を学問の世界にいられなくしたんだろうなあ >>697
>1八咫の周長を持つ大鏡
お鏡さん、あんたすげぇなww
これまで「咫」という単位があるっていう主張をしてるんだとばかり思っていたんだが
「八咫」が単位だと思ってるんだな
想像を超えていたわ
さすが、来る日も来る日もありもしない「円周を測ったら八咫」を主張してるだけあるわww
「円周は測らない」し、「漢尺に咫はない」
面径が尺の整数倍ちょうどでない限り、使い道がないんだから
「円周長を測るための単位などあり得ない」 >>692
>短里と同じだよ。
この時点で妄想確定
短里があるとしないと、九州説が成り立たないから言い張ってるだけ
魏志倭人伝の里程は、比定地がほぼ異論のない末慮国、伊都国、奴国の
3国の間の現実の距離で換算すると3倍の開きがある
測定によって、3倍も長さの異なる「単位」などない
短里なんてないんだよ
ただ、魏志倭人伝の里程標記が不正確であてにならないことが分かるだけ
>倭では倭なりの単位系を用いていた。
短里と同じってことは、「咫で計った」としないと、
九州説が成り立たないから言い張ってるだけってことだね
分かりやすいわな 三種の神器の組合せは、そこらの古墳の副葬品として普通に見られる
事実 山口県の赤妻古墳、山梨県の笛吹市平林2号墳 など
八咫鏡という名称は、皇統のレガリア以外の大鏡にも普通名詞として使われている
事実 雄略紀「別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、
使倭子連連、未詳何姓人奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請」
おまけ 皇統と無関係の「八尺瓊勾玉」も日本書紀にある
垂仁紀「是犬、咋山獸名牟士那而殺之、則獸腹有「八尺瓊勾玉」」
本物の「八咫鏡」である伊勢の御神鏡は、面径が漢尺の二尺ではない
これは推測
八咫鏡を入れる入れ物の実見記録として口径九寸の黄金鑵が記載されている
その外側の御樋代は内径が一尺六寸三分で、49センチで
面径46.5センチの鏡を入れるにはぎりぎりすぎるのも状況証拠といえる
つまり、面径二尺と主張することは、皇統のレガリアとのつながりにおいて意味がないし
三種の神器の組合せも「倭王の墓」を意味しない
そして、「八咫鏡」という名称も、皇統の皇位の証をそのままで意味するものではない
その上で、円形の鏡の周囲を「計ったら」というのが、
可能性すらほぼない恣意的すぎる「仮定」だし、
漢尺の体系にない「咫」を、「漢尺の八寸」として計算するのもご都合主義
結局は「だったらいいな」の結論ありきの数合わせなんだよ 平原1号墓が径百歩には小さすぎて、卑弥呼の墓ではあり得ないのに、
平原1号墓出土鏡が円周長を「計ったら八咫」で「八咫鏡」だから卑弥呼の墓っていうのに
どうしてこだわるの?
そうじゃないと困るから?ww >>738
>大和において、大型内行花文鏡が尊重されていると、何か不都合でもあるのですか?
???
世間では、畿内では画文帯神獣鏡が尊重されてるって言われてないか?
何をもって、大型内向花文鏡が尊重されているとか言い出してるの? >>748
>世間では、畿内では画文帯神獣鏡が尊重されてるって言われてないか?
根拠は? ごめん(>_<) 計算間違ってた
691の修正
周歩が身体尺で、135センチ程度とされている
清代の注釈 清代 段玉裁《說文解字注》から引用すると
王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。
となっていて、
周代でも古い時代は、周尺の八尺を歩としてたが、
今は周尺の六尺四分を歩としている
と書かれている
これで、歩=135センチから換算すると
八尺=歩=135センチなら 一尺=16.9センチ
六尺四分=135センチなら 一尺=21.1センチ
どちらにしても、漢尺の23センチとは異なるし、
咫が周尺である以上、平原1号墓出土鏡は、面径二尺にはならない
したがって、円周も八咫にはならないんだよ
>>690で書いたとおり、九州説のいう「咫」の長さが異なっていたってことだ
この数値から計算すると、咫=16.9センチ
八咫=135センチで、平原1号墓の146センチとは合わない
146センチは、「8.63咫」だね
都合のいい数字を恣意的に持ってくるのでなければ、こんなものだよ >>750の補足
黒塚古墳は、盗掘なく埋葬時の設置場所で鏡の発掘が行われた数少ない例だが
棺内の被葬者の枕頭に画文帯神獣鏡が置かれ、三角縁神獣鏡は棺外に置かれていた >>752
修正Thanks
石槨が地震で崩れて木棺の上を覆ってて、その下で頭の位置に画文帯神獣鏡があった、
でいいんだよね >>719
>何でそんな質問するのか意味がわからない
>>714のお鏡さんの
>そんなに答えられない質問ですかねぇ(笑)
っていうのは、
誰かさんの立てた乱立荒らしスレ
「邪馬台国纏向説破綻の理由を初心者に。。。」ってところで
「逃げてないでこれに答えてごらん
ということで、日本でも大陸でもよいので、過去から現在までの、
逸話や挿話、伝承などで、鏡に限らず丸いものを計るのに径ではなく
円周(周長)で示している例があれば、できるだけ多く挙げてみてくれ」
に答えられずに逃げたことをごまかすための、オウム返しなんだよww >>755
>鏡に限らず丸いものを計るのに径ではなく
円周(周長)で示している例があれば、できるだけ多く挙げてみてくれ
横からごめん。
丸いものを計るのに径ではなく円周(周長)で示している例: 「立木」の太さ
でも、鏡は径だよ。 @阿波 黒塚の画文と三角の置き方の違いはよく知られているけど
置き方の違いには、期待された効果(機能)が違う、っていう想定もできるわけで
置き方の違い=重要度の違い、とは断言できないんだよ
岡上はそういう考古学的な思考にまったく明るくない >>756
>丸いものを計るのに径ではなく円周(周長)で示している例: 「立木」の太さ
円筒(円柱)状のものは確かにそうだね
その方が計りやすいし
でも、円盤状となると周りに紐を張るのも難しい >>751
恣意的な計算とは、お前さんの計算のようなものだよ。
キリの良い数字を使っているに決まっているから、ほぼぴったりの漢尺における径二尺が基本なんだろう。
尺度の基準としても使っていたのかもしれない。
いずれにしても、倭人には倭人なりの尺度があったのだろう。 >>757
>置き方の違いには、期待された効果(機能)が違う、っていう想定もできるわけで
>置き方の違い=重要度の違い、とは断言できないんだよ
虚しい言い訳だな。
見苦しい。 >>759
>でも、円盤状となると周りに紐を張るのも難しい
銅鏡の縁に沿って紐を張るのが難しい?
幼稚園児かよ。 >>762
そこまでして測らんでも、径でよろしいかと。 どうでもいいんだけど。 @阿波 アタ なんだから、手で測ったんだろ。あほじゃねーの >>760
>キリの良い数字を使っているに決まっているから、ほぼぴったりの漢尺における径二尺が基本なんだろう。
「決まっているから」というところが、都合のいい憶測or妄想
例えば、「主要紀年・銘文鏡 一覧」っていうページで鏡の面径見てごらん
http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
面径が、きりのいい数字になってる鏡なんてないだろ?
>恣意的な計算とは、お前さんの計算のようなものだよ。
恣意的な数値の採り方をしているのが、八咫厨の人たちだよ
周尺の咫の値としては、「咫=16.9センチ」
これが一番、根拠がしっかりしてる
>倭人には倭人なりの尺度があったのだろう。
>>744から一部を再掲
短里と同じってことは、「咫で計った」としないと、
九州説が成り立たないから言い張ってるだけってことだね
分かりやすいわな >>764
>アタ なんだから、手で測ったんだろ。あほじゃねーの
で、その手は誰の手なんだ?
自分の手で、アタが何センチになるか、計ってみたら?ww アタは、中指と親指を広げた間の距離。
俺は18.5cmだな。ちなみに170センチ。 アタは半尺15cmと言われるが、これはちょっと本来的なものじゃなくて、
もとが身体尺なんだから、もうちょい大きいだろうな。
ちなみに嫁は18cmだった 身長155cm 直径一尺の円の円周を四咫と定義すると、一咫は約八寸になる。
つまり、男子の手よりやや小さい女子の手の尺のような大きさになる。
でもそれが定義なのではなく、あくまでも最初の定義は円周のはず。 >>772
恣意的に定義すれば
な ん で も o k で、皆さん、うまく釣られてくれたけれど、手を当てて(アタて)計る場合は、
八咫=円周長ではなく、八角形の八辺の和で計ることになるのは気づいたかい?
そうなると、半径23.1の円だとすると、八角形の一辺は
=23.1×sin(22.5×π/180)×2=17.7センチだ
一咫=17.7センチなら、八咫になるけれど、
これまで八咫厨の連中が主張していたのは
漢尺の八寸で、18.5センチだよな
いろいろ、合わないんだよ
まあ、計算しただけの机上の空論だからな
円周長が八咫って言うのは >>775
だいたいあってるじゃねーか。
計算ご苦労様 >>772
>でもそれが定義なのではなく、あくまでも最初の定義は円周のはず
何度も何度も書くけれど、半径が一尺、あるいは二尺ちょうどじゃないと
使い道がない単位が、単位として成立する余地はないっての
それに、円周長が最初の定義だったら、何をさておき
「円周長を咫で示した例」が多数あるはずだが、
「一例たりともない」
この、不整合を説明できない限り、
「咫の最初の定義は円周長」という主張の「説得力はゼロ」だよ 半径一尺の鏡を手でアテて図ると
八アタになると。。。
なるほど >>776
>だいたいあってる
ということは、これまで平原1号墓出土鏡の面径が二尺「ちょうど」だから
意識して作ったはず
ってのは、いみがないってことだよな?
大体合ってる、でいいんだったら、二尺ちょうどにする理由はない訳だ
つまりは、ただの偶然ってことだろ?
まったく他の事例が出せないし、
実際、鏡の面径を、尺ちょうどにするような例はないしw
>>765の部分を再掲
例えば、「主要紀年・銘文鏡 一覧」っていうページで鏡の面径見てごらん
http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
面径が、きりのいい数字になってる鏡なんてないだろ?
「偶然じゃない」といえるだけの、「根拠」を状況証拠でもいいから、
そろえてから出直しておいで
こっちは、丸い円盤状のものを円周長で計った例はないっていうのと
「咫」で長さを計った例はない、というのを根拠として出してるよ
さあ、がんばれ! ちなみに、八咫厨の人たちの主張する
漢尺の八寸で18.5センチを「咫」として計算すると、
当てて計っていくと、8回で378度分になるね
18度も余分になる >>780
だからこういうこと。
平原の鏡は、当時、漢の二尺の鏡として作られた。
それを後世、倭人がアタで測ると8アタぐらいだった。
だからやっぱり八咫鏡であってるな つまり、八咫厨の人たちの言い分はこうなる訳か
平原1号墓出土鏡は、「漢尺で二尺」「ちょうど」になるようにきちんと計って作った
でも、円周は、親指から中指まで手を広げた長さがたまたま「17.5センチになる人」が
「漢尺とは関係なく」、「手を当てて計った」から、八咫になる
だから「八咫の鏡」だ
面径二尺は「きちんと測った」けど、八咫は「大体あってる」
こういうことかな?ww >>782
これ、前にも書いたんだけれどさ
>それを後世、倭人がアタで測ると8アタぐらいだった。
「後世」っていつだよ?
平原1号墓出土鏡は、「破鏡」供献されて、「埋められてる」から、
昭和になって発掘されて、復元されるまでは「計れない」んだってば!
誰が計って、誰が八咫だって、判断するんだ? 「八咫ちょうど」だから八咫の鏡に決まってるって言ってたのに、
合わないとなったら、「大体合ってる」とか言い出すww >>784
全数破砕したって、何でわかるんだ?www 古代人が1センチ一ミリ気にしてものつくってたのか? 質問スレで勝利宣言するようなみっともないマネは止めてください。
他スレにめいわくかけるな
さらしあげ 人々がこれは八咫と思うこと。
それが重要。
そしてそれが基準となる。
八咫の大きさの鏡があったと。
それを持っていたのは神にも等しい権力を持つ女王であったと。 >>789
あんたなあ
宗教を学問することはできるが
宗教じゃ学問はできないよ >>787
はい
「ぴったりだから八咫だ」説が死亡 落ち着けよ。
魏から下賜されたはずの卑弥呼の鏡はたった100枚しかない。
卑弥呼の死後に副葬品として埋葬されたのか、権威の象徴して後世まで伝来したのかさえわからない。
魏晋の消滅によって象徴的な意味は失われ、ゴミ扱いになったかも知れない。
逆に倭側の政情変化によって陳腐化した可能性もある。
永続的に大事にされたかどうかなど、誰にもわからない。
半世紀前に300台余り生産された2000GTですら、現存は約100台と言われてる。
わずか半世紀で3分の1だぞ。
2000年前の100枚なんか、1枚も残ってない可能性の方がずっと高い。
三角縁神獣鏡は出土枚数の多さから考えてイコール卑弥呼の鏡では無いだろう。
ただ、三角縁神獣鏡・その他の形式の鏡に見られる景初、正始などの紀年銘は無視してはならない。
型取り・模造コピー品であれ、国産オリジナル鏡に記銘したものであれ
「景初・正始年間の紀年銘鏡に権威があると考えた国内勢力の作」
であることは間違いない。
結論をいうと、邪馬台国だな。
真贋問わず景初・正始の紀年銘鏡が出土されれば、その場所は少なくとも邪馬台国の支配地域だった可能性が高い。
2000年後ぐらいに現代の遺跡が発掘され、「ガルダン」や「ザ・アニメージ」のプラモが発掘されたら、そこは1980〜90年代の日本である可能性が高いだろう?
本物のガンプラじゃない!パチモノだから日本じゃない!って事にはなるまい。 >>793
>魏晋の消滅によって象徴的な意味は失われ、ゴミ扱いになったかも知れない。
これは後漢鏡の話がそのまま当てはまる。
邪馬台国においてはすでに後漢鏡に漢の皇帝の権威はなく、国産の鏡の方が重要だったのである。
その中で最高峰が平原の鏡だ。
>「景初・正始年間の紀年銘鏡に権威があると考えた国内勢力の作」
>であることは間違いない。
>結論をいうと、邪馬台国だな。
飛躍している。
本来の持ち主以外が、権威づけのために複製したのだろう。
邪馬台国であれば、本物を配るだけで良い。
複製したのは、コピーブランドの構造そのものだ。
畿内は邪馬台国ではない。 >>793
邪馬台国時代の倭国には文字がないんだよ
卑弥呼が倭王になったことを諸国に知らしめるにはどうすればいい?
使者が口頭で伝えるにしても、諸国の豪族らは疑うだろうし、
あまりピンと来ないだろう
詔書の写しを作って配っても、諸国の豪族らほぼ読めない
だから魏の精巧な鏡を配れば、諸国の豪族も実感しやすい
おそらく邪馬台国は複製品を大量に作って、
傘下の国々だけでなく、中立国や敵国、遠国にも配りまくって、
卑弥呼が倭王になったことを宣伝して知らしめたと思われる >>796
そもそもそんな広域国家じゃないんだって。
鏡を持ってこられても、その意味すらわからないよ。 >>797
邪馬台国の使者が口頭で「わが邪馬台国女王殿下が、大魏の天子より倭王に任ぜられ
ましてございます その際に鏡を下賜されまして、貴国にも1枚差し上げますので、
大切になされよ」と言えば、遠い国の豪族でも驚いて邪馬台国の威光にひれ伏すだろう
戦国時代に豊臣秀吉が「余は天子様より関白に任ぜられた。遠国の大小名は戦を停止して上洛せよ」と命じたことと似ているかもしれん
戦国時代は文字があったし古代よりも情報網は発達していたから、モノを配る必要はないとは思うが >>786
>全数破砕したって、何でわかるんだ?www
破砕してないのは、「どこ」にあるんだい?ww
空想でものを言っても、無・意・味!w >>798
>邪馬台国の使者が口頭で「わが邪馬台国女王殿下が、大魏の天子より倭王に任ぜられ
>ましてございます その際に鏡を下賜されまして、貴国にも1枚差し上げますので、
>大切になされよ」と言えば、遠い国の豪族でも驚いて邪馬台国の威光にひれ伏すだろう
田舎豪族はそんなの知るか!と追い返すだろうね。
実際問題、当時ののろまな補給路では遠征は困難であり、本州の豪族が筑紫倭王家に従う理由は必ずしもない。
例外は筑紫と出雲であり、半島大陸への交易路をかけて覇を争ったかもしれない。
筑紫から出雲へは海流を利用すれば数日で着けるので、列島の代表権をかけた争いがあったのだろう。 >>784
>昭和になって発掘されて、復元されるまでは「計れない」んだってば!
>誰が計って、誰が八咫だって、判断するんだ?
副葬されるまでの間に何年間も卑弥呼が祭祀で用いていたわけだから、誰の目にも巨大でおよそ八咫の鏡であることがわかっただろうよ。 うーん、鏡ね、お前に、あげた覚えはない
これで終わりだろう 青谷上寺地遺跡は、高天原が出雲への見せしめのために滅ぼしたんだろうなあ。
だからこそ、稲佐の浜での恫喝が効いたんだよ。
大国主は自分の命を差し出す代わりに民の命を救い、社に隠れた(亡くなって祀られた)のだろう。
そして筑紫の日向の伊都国に天孫族の倭国王権が確立された。 >>797
>そもそもそんな広域国家じゃないんだって。
>鏡を持ってこられても、その意味すらわからないよ。
例えば、壱岐国の原の辻遺跡でも、畿内第V様式の影響受けた土器が出ているし、
縄文時代から広域の交流・流通があったんだよ
https://www.city.iki.nagasaki.jp/material/files/group/27/1222c2c16dd1ab975c162c72c821f1b4.pdf
四隅突出型墳丘墓の範囲も広域だし、大型銅鐸の出る範囲も広域だよ
古来そういう広域交流の中で、倭人の領域=倭国がまとまりを持って存在している
九州説の連中だけ、倭国を小さくしたがるのは何なんだ? >>800
当時の倭国なんて統一もされていない
少し後の倭の中の大国たるヤマト出雲吉備熊襲にせよ、
魏の大兵力数十万には遠く及ばない圧倒的な兵力差がある
だから当時の倭国内の国々はかなり魏に恐れをなしていたと思われる
もし本気で魏が遠征してきたら、兵力差が段違いどころか次元違いで防げないからだ
(実際は魏の水軍は対呉方面が主で、日本を遠征することはないと思うが、
当時の倭国で、そこまで楽観してわかっていたとは思えん)
だから邪馬台国のバックに魏がいるという衝撃は、現代の想像以上に大きかったと思われる >>801
>誰の目にも巨大でおよそ八咫の鏡
誰の目にも、「デカい鏡」なのは分かるだろうが、「八咫」ってのはどこから来るんだ?
>>782で「それを後世、倭人がアタで測ると」って言ってたのは、矛楯を指摘されたらもう撤回するのかい
本当にその場の思いつきだけだな!
それに、八咫ちょうどだから八咫鏡、ってのは完全に撤回するんだな?
自分でも「およそ八咫の」って書いてるぐらいだから
それより、九州説は「魏晋里が伝わってないから短里」って主張してるのに
平原1号墓出土鏡は「漢魏尺」で二尺でいいのか?
尺が正しい長さで伝わっていたら、6尺=歩で、300歩=里なんだから、魏晋里が
使えないっていうのと矛盾するんだぞ?
まあ、九州説がまともに考えてるとは思ってないけどさ >>805
>だから邪馬台国のバックに魏がいるという衝撃は、現代の想像以上に大きかったと思われる
これは九州が倭国だから成り立つ話だ。
魏の使いも伊都に滞在したからな。
卑弥呼が畿内にいたら、九州勢力がブロックしてしまうだろう。
九州からの畿内まで水行陸行が続くなら、とてもじゃないが九州など支配できず、魏は九州と手を結んだだろう。
いやむしろ実際に九州が魏と結んでいたのだろうね。 >>804
>縄文時代から広域の交流・流通があったんだよ
>古来そういう広域交流の中で、倭人の領域=倭国がまとまりを持って存在している
交易をするのと、国としてまとまるのは、ワケが違う。
交易だけなら縄文時代から列島全体で交易していたが、その時代には倭国を想定しないんだろう?
完全に矛盾している。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています