邪馬台国は結局どこにあったか初心者に説明するスレ2 [無断転載禁止]©2ch.net
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当方、魏志倭人伝と日本書紀の仁徳天皇までの現代語訳だけは読んだレベル也。
お互い議論しなくていいから
自分の説の説明だけやってくれ。
投稿が分割するほど長いなら名前欄を使ってくれ。
できれば初心者がググらないでいいようにしてくれ。
全く説明になってなかった前スレ
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1483681465/ 700年の奈良時代以前は殆ど妄想と作文だけの世界・・・聖徳太子も実在の人物かどうかも不明 ピラミッドみたいな大古墳が残ってるという事は何らかの政権が存在したと解るだけ 奈良時代以前は文字を使える人も少数で記録も少ない・・・捏造作文も歴史になってしまう 阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字の練習をしていた。
観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財指定された。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀末頃に奈良へ遷都する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354 >>104
まさかの、邪馬台国が阿波国だった。
決定的証拠が出たということでOK? 「郡里廃寺跡 (白鳳寺院)」
吉野川の北岸、扇状地上に営まれた白鳳時代創立の寺院跡である。
早くから立光寺跡として知られていたものであり、調査の結果「法起寺」式伽藍配置をとるものであることが判明した。
塔跡基壇は各辺12メートルをはかり、塔軸部初重の1辺は中の間が2.3メートル、両脇間はそれぞれ2.08メートルと復原することができる。
塔心礎は旧地表下に据えたものであり、中央に径13センチ、深さ6.5センチの舎利孔が穿たれている。
心礎上に据えた心柱は、南北径1.06メートル、東西径1.08メートルをはかる不整八角形を呈し、心柱四周を根巻板で囲むことが知られた。
金堂跡は東西18メートル、南北15メートル前後と復原される。塔、金堂間の心を東西に47メートルへだてた位置に石敷列が走り、
その下方に土塁を発見しており、また塔、金堂心より南北に60メートルをへだてた位置で同様な遺構を発見し、寺域をほぼ知ることができる。
法隆寺は、徳島県美馬市美馬町郡里廃寺から移築された可能性が高い。
法興寺は、徳島県名西郡石井町城の内廃寺から移築された可能性が高い。
瓦は、内御田窯跡群の中のひとつであり、気延山南の東斜面にある、入田瓦窯跡で焼かれた可能性が高い。
蘇我氏の祖廟「蘇我氏神社」は、徳島県名西郡石井町城ノ内「曾我氏(そがうじ)神社」である可能性が高い。 曽我氏神社古墳群
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C0%D0%B0%E6%C4%AE%2F%C1%BE%B2%E6%BB%E1%BF%C0%BC%D2%B8%C5%CA%AF%B7%B2
入田瓦窯跡
内御田窯跡群の中のひとつであり、気延山南の東斜面にある。奈良時代に屋根瓦を焼いた
窯跡で、外に須恵器も焼かれている。
18段の小さい段状の燃焼部と煙出し部分が確認されているが、燃料を燃やす焚き口部分は
残っていない。全長10m、幅1.3m、勾配45度の瓦窯様式である。
軒丸瓦と軒平瓦が出土しており、阿波国分寺跡・阿波国分尼寺跡・石井廃寺跡などで見つ
かっていることから、瓦を供給されるために作られたことが分かる。
奈良時代から平安時代初頭と案内の看板には記されているが、石井廃寺跡出土瓦
と同形式であるならば白鳳文化と呼ばれる頃と推測される。
「石井廃寺跡」
石井廃寺は、南に緩く傾斜する段丘面上にある古代寺院である。
古くから瓦の出土などにより寺院の存在が推定されていた。
1957年(昭和32年)〜1959年(昭和34年)発掘調査が行われ、東に塔、西に金堂が並ぶ
法起寺式の伽藍配置であることが分かった。
また、明瞭な遺構は確認されないものの、二つの伽藍の北に講堂、南に中門が存在した
と推定されている。
出土遺物には瓦・土師器・須恵器の他に瓦塔などがある。
瓦の文様などから奈良時代前半に建立されたと考えられる。 >>107
魏志倭人伝に書かれていた丹は徳島産の水銀だと主張していたのはあなたか?
科学的な説明が上手だった覚えがあるが、邪馬台国が徳島にあった根拠としては、
それだけでは不十分なのではないか?
魏志倭人伝の他の部分との適合があるなら、是非、説明してくれ。 >>110
徳島産の水銀朱だけで十分証明されているが、以下は補足
@倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑
四国東部は帯方の東南に当たり、四周が海 山や島に人が居住し国を為している
A今倭水人好沈没捕魚蛤
徳島県南部海部地方などに古くから見られる漁法
B文身亦以厭大魚水禽
入墨(文身)を表した土製仮面が出土している
C種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜
吉野川中流域は古来より麻を栽培している
D倭地温暖
徳島は温暖な地である
E其木有{木冉}杼豫樟楺櫪投橿烏號楓香其竹篠幹桃支有薑橘椒襄荷不知以爲滋味有爾猴黒雉
特に、橘は徳島県南部が古くからの産地である
F女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
徳島の東の海(紀伊水道)を渡る千余里で紀伊半島が位置する
G問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里
徳島は離れた海中の洲島の上を、あるいは隔絶し、あるいは陸続きに、ひとまわりすると、五千里あまりになる
H直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華ケイ五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛 丹各五十斤
萩原墳墓群などに中国産の真朱が使われている
I行程 >>111
ありがとう。
確かに納得できる部分が多い。
だが、これは畿内説への質問でもあるのだが、
質問があるのは、
なぜ一回九州の北を歩いてから、
徳島に行ったのか、
それとも、里数で書いてあるところは、
日数で書いてあるところと、
別の目的地への行程を書いたと、
いう考えなのかと、いう質問だ。 >>112
>なぜ一回九州の北を歩いてから、
徳島に行ったのか、
関門海峡・瀬戸内海を避けたため。
不弥国までは陸行だから里数表記、不弥国からは航行なので日数表記 >>113
答えてくれてありがとう。
関門海峡・瀬戸内海を避けたため、ということは
九州の東海岸が不弥国ということか。
理に適っている。
あまり、メジャーな説ではないようだが、
俄然、阿波説の説得力が凄いことに気づけた。 【青戸6丁目住民一同の告発(住民代表・色川高志)】
秋葉原通り魔事件で逮捕された加藤智大氏は、明らかに冤罪
http://youtu.be/gj0X2qLNbUg @喜界カルデラ爆発、中、南九州滅亡後;上野原遺跡等約1000年不毛の同地に、日本建国原点
Aまず、天皇家神代三山陵(支部有);吾平山陵、可愛山陵、高屋山陵(鹿児島、宮崎、熊本)誕生。
B卑弥呼(軽蔑名)登場は、喜界カルデラ後約 5300年後である事を、ご教示下さい。
C邪馬台国(軽蔑名)には 30余国が存在し、卑弥呼(軽蔑名)はその女王である事をご教示下さい。
D日本書紀(数世紀ご編纂)に、倭国等の記載があるが、あまりの軽蔑語の多さに、皇族卑弥呼と記載出来なかった。ご教示下さい。
E偉大人物の墓は、首都、出身地、ゆかりの地等に存在する事について、ご教示下さい。
F邪馬台国(軽蔑名);(30余国;現在の都道府県)首都は畿内。卑弥呼の出身地は九州。ご教示下さい。
G政権維持のためには、近親者、場合によっては、霊能者等の部外者(例;パククネ参照)を養女としたか。ご教示下さい。
H従って、卑弥呼(軽蔑名)の墓は、平原古墳(九州、出身地)、及び箸墓古墳(畿内、首都)である。ご教示下さい。
I卑弥呼(軽蔑名);10代に霊能力により九州平定、天皇の養女、女王となる。中年〜晩年;畿内移動。ご教示下さい。
J優秀者を、恋気塾長とします。 「小学生より学力が足りないで賞」受賞
↓
「テンプレの誤字も直した方が良いで賞」受賞
↓
「まだわからないで賞」受賞
↓
俺は悔しくて泣いた。
↓
だが、ボキャ貧キウスの知らない単語な線もある。
↓
「無教養露見で賞」受賞
↓
❓❓❓
. /テンプレ\ 誤字ったってキウスやサイキバみたいは
/ \ 単なるタッチミスもある
. / (゚) (゚) \ ❓❓❓
| )●( | キウスが笑い者なだけ❓
. \ 廿 / 誤字って何❓
. ノ \ ❓❓❓
👆「自分で発見しないと笑いもので賞」 倭人伝には記紀における同時代の皇室王室のメンバーがそろっている。西暦200年前後
トップは伊支馬(いきま) → 第11代垂仁天皇 「伊久米入日子伊佐知命」
次席は弥馬升(みます) → 垂仁天皇后 「氷羽州比賣命」
三席は弥馬獲支(みまかし) → 皇太子 大帶日子命、後の第12代景行天皇妃 「美波迦斯毘賣命」
四席は奴佳醍(ぬはだい) → 垂仁天皇妃 「沼羽田入毘賣命」
ヤマト (邪馬台国)は
代々男王 → 共立卑弥呼 →男王 →復立卑弥呼宗女
男王女王共立の国(ヒメヒコ制)。 共立を繰り返す(復立)
伊勢神宮の斎王 ←「王」 鏡 太陽 アマテラス 巫女 宗女
崇神 ももそ姫 初代 夜麻登登母母曽毘売 (やまととももそひめ)ヒミコ 崇神
2代目 豊鋤入姫 (とよすきいりひめ)トヨ 崇神・垂仁
3代目 倭姫 垂仁・景行
現今上陛下の姉 天皇
107年 倭国王帥升等 倭のクニオシヒト
第六代 考安天皇 国押人
升は飛の略字。欠史八代は実在。 倭国に来たことが無い陳寿が 倭国をどのような国だと想像していたかを考えるのが
一番早い。東夷伝を呼む当時の高官や知識人達にどういう国だと想像するのか。
九州 あるいは西日本の地形を全く知らないつもりで倭人条を読み未知の倭国を
連想してみる。割合と分かりやすい。 1 ◆q8leUXpsw. こいつが邪馬台国スレを乱立させているのか?
日本史板になんの恨みが???
日本の歴史が嫌い?? 似たようなスレを作りすぎ。
古いのから順番に、使用して、使い切れ。 沖縄説が一番説得力あるね。
九州内陸部や畿内と帯方郡でそんなに往来する人間は限られるわな。
朝鮮半島から沿岸沿い移動がデフォ。 熊本の水俣病は朝鮮チッソの後継会社の社長チョンが、
日本人皆○○し作戦をやった結果だ。
水銀が有れば国ができる訳ではない。
死者のためのもので、死者を作りだすものだ。 >>249
>東南陸行五百里、到伊都国、
>世有王、皆統属女王国。郡使往来常所駐。
魏の時代には伊都国に(女)王がいて、周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
伊都国は郡使が往き来して常にとどまるところでもある。
漢の時代には倭奴国に王がいた事を意識したのかもしれないが、
漢委奴国王印は伊都国に伝えられて来たとの伝承もあるので(細石神社)、倭奴国と伊都国は本質的に同じものだったかもしれない。
それなら、魏がすんなりと卑弥呼を倭奴国の後継と承認したのも理解できる。 >>128
>朝鮮半島から沿岸沿い移動がデフォ。
ですよねー。
中国と交渉していた倭国は、筑紫を中心とした日本海沿岸しかあり得ない。
だから、大和や阿波は邪馬台国ではなかった。 >>1
日本人のDNAを調べたら一発だろね
邪馬台国は海洋国家だからまず海洋遺伝子が残ってる地域
次に卑弥呼がリーダーの女系国家
漢民族は男系社会だから女がリーダーなんてありえないから漢民族はアウト
女系遺伝子が残ってる地域
この二つだけでもだいぶん絞れる かつて倭国の首都は九州にあったが大乱(跡目相続をめぐる皇族の兄弟喧嘩)が収まらず
ヤマト国にいたヒミコに白羽の矢が立った
ヒミコは鬼道(占いではなく兵を動かすこと)を用いて従わない国を潰していき
それが後の大和朝廷へと発展した
・・・というのが俺のイメージ 衆を惑わすって事だから、多くの人をパニックにさせるものだよ。
霊媒師の巫女さんがよくやる降霊だと思うよ。
祈祷しまくって、失神して、別の人が乗り移って語りだすやつ。
あれこそ鬼道だろ。 魏志倭人伝を読めばわかるが北部九州説は「水行10日、陸行1月」以外は全て合致してる
近畿説は逆に言えば「水行10日、陸行1月」以外に根拠がない
これも北九州から見て南にあるという魏志倭人伝の記述を考えれば近畿説にはつながらない
近畿説は最近では箸墓古墳の築造を250年頃と捏造を始めたり必死過ぎる
桜井研の橋本を始め研究費欲しさに何でもかんでも邪馬台国に結びつけてマスコミ発表
考古学者としてあるまじき輩だよこいつらは
ゴッドハンド旧石器捏造事件と本質は一緒 >>135
まだ近畿は考古学的に未開の地だったよ。 >>139
それにも総里程説とか、距離ではなく滞在期間説もなどいろいろあるしな。
都合いい部分だけはやたら細かい(みみっちい)研究をするくせに(箸墓、ホケノ山、纏向、△縁etc)、
都合悪いことは全部無視。
という畿内説のくせに、行程問題だけ無批判手放しにアピールするんだよね畿内説って。
賢い人たちとはとても思えない。 >>139の言う「すべて合致」には、一体どれだけの問題が含まれているか。
古地名、日向地名、女王墓、副葬品、巨大鏡、八咫鏡、三種の神器の生産と埋納、多数氏
族の出身地、稲作の歴史、剣や鍬などの鉄器の量(一家にもれなく一台レベル)、銅矛(非
銅鐸)文化圏、前方後円墳のひな型、先進的な彩色古墳群、半島利権の切実性と民族的
近親性、大陸からの文化的政治的影響、高地性集落の考古学的分布とミニ氷河期と弥生
の人口爆発、南朝に朝貢した歴代王、遣隋使や、倭国代表vs日本国代表の喧嘩問題、倭
の五王、中国文献の記述多数(阿蘇山とか東の付庸国群とか植生とか)、敗戦国のくせに
超大国唐に進駐されたのはなぜか九州、捕縛されたのも筑紫の君、継体天皇は磐井をだ
まし討ちにしてようやく長門まで獲得、しかも磐井の後継者は健在、観世音寺の記録と図面、
法隆寺木材は九州のもの、石棺の石もなぜか九州 考古学者は賢くないからw
考古学は学問でもない、土方に毛が生えたようなもん しかも記紀は卑弥呼不在も含め、以上の問題群をことごとく外してしまっている。
わざとでなければ、これはもう別の歴史を持つ別の国だとしか言いようがない。
豊の国にある神社本庁の別格・宇佐八幡宮のセンターはヒメ大神。左右に応神、
神功皇后とはこれいかに。しかも入口鳥居にわざわざ「皇族下乗」と大書してある。
「皇族」がついてる神社なんてない。拝み方も独自で、そんなところは他に出雲大社
のみ。
また、大宰府天神の位置も、大宰府政庁の跡であり、字は「紫宸殿」。発掘はできない
のだが。同様の地名・長岡の字太極殿は、歴史学者全員が無視したのに実際は長岡
京の太極殿だった。そもそも「天神」とは何か。こんなことすら日本の偉い学者さんたちは
説明してくれない。しかしてその実体は、菅公も合祀されたに過ぎない。旧来の「天神」と
「菅原天神」とは別物なのである。天神様の細道とは何か。
その他いくらでもある。そもそも記紀でも人代の初代・神武天皇は九州の人とちゃんと
書かれてあるではないか。ではなぜそれまでは「神代」なのかも考えさせられる。いずれも
実在の人間の統治者の話なのである。同時期、饒速日や雨の日槍などが「天下って」おり、
大阪には「現天皇家とは別系統の」と大書されている、「天孫降臨神社」があり、饒速日を
祀っている。星田、天の川など、類似地名を伴って。饒速日の物部は、新撰姓氏録では天神
に分類されており、始祖と言いながら一族は九州におり、そこからも「北部九州=高天原」と
容易にうかがうことができる。
また、このことからも奈良の地名に子地名が存在せず、ほとんどが九州由来の理由がわかる。 >>143
最近の一部の考古学者は炭素法とかいかにも科学的根拠のように持ち出すけど
一つのオニグルミを20に分割して炭素法で調べたら数百年のばらつきがあったくらいで
何の証拠にもならないんだよねこれ
弥生時代が数百年繰り上がるとぶち上げた歴博の炭素法に同意してる考古学者ほとんどいないし
やってることがゴッドハンド藤村と大して変わらない
小保方の捏造はあれだけ執拗に批判してた国民も本音では
邪馬台国なんか生活に何の関係もないから深く考えない 記紀が邪馬台国時代を神話にすり替えたのは
やっぱ継体天皇が東遷した邪馬台国系ではないからだろうなぁ >>146
まあそう考えるのが普通だよな
天神様の天下りなんて、土着民にすれば屈辱以外の何物でもないのに、
しかとそう書かれてあるって事だよ そういう民衆の声は取り締まられ弾圧されて、歴史書には美辞麗句しか残されないんだよ。 記紀がなければそれまでの資料は散逸してたかもしれない
かと言って記紀が全て事実を書いてるわけでもない
悩ましいね
史記をまとめた司馬遷みたいな人物がいればね
まぁ史記も過去の歴史書から引っ張ってるからその時代時代の権力に都合よくなってるけど
少なくとも編纂時点で編者が捻じ曲げてはいない とはいえ、天皇の命があれば皆殺しも美談として載せているし、現代だったら載せなかったろうなあと思う内容がたくさんあるな。
天孫降臨だって出雲の国譲りだって、要するに侵略譚だし。 >>145
いつのデータだよ、液体シンチレーション法の時代の測定じゃあるまいな
測定できる最少量より少なくて誤差が大きすぎる事例の話なら、
当たり前の話だから。 >>151
未だに歴博は詳細な資料を出さないよね?
明らかに100年位の幅のある数字を中間値取るわけでも幅を示すわけでもなく
なぜか一番古い部分をピンポイントで「ここだ」と言い張ってるけど
科学的なのは幅の部分であって歴博の言うピンポイントの年代は科学的ではないのだよ
そういうのを恣意的という 歴博の年代データって出版されてなかったっけ?
俺の覚え間違いか? >>151
科学の世界で当たり前でも、畿内説にかかると当たり前ではなくなる不思議。 >>154
おいおい、問題の発言(>>145)はどう見ても九州説の人だろ
お前の目には145が畿内説に見えるのか? いや、攻撃かどうかではなくてな、お前さんの認識能力がおかしいことを問題視してるんだが でも、炭素をもとに箸墓が3世紀とか言っているのは畿内説だろ?
九州説で炭素を持ち出す人はほぼいない。 年代値を出すのは年代学者であって考古学者じゃない
その結果が畿内説を支持してるから、否定される側の一部の人が勝手に畿内説論者の一員呼ばわりしてるだけ 近畿説も炭素持ち出すと一気に胡散臭くなるんだよな
旧石器捏造事件はオッサンが埋めてたけど
こっちは一応数字が出てるから後で違ってても
「炭素法が悪い」で逃げられると思ってんだろうな
やってることの悪質さは同類だよ
考古学者の古ければ古いほうが良い的な発想ってなんなんだろうな? 彼らの粉飾には規則性がある。
畿内のものはなんでも3世紀にして、九州のものはなんでも2世紀か4世紀にしようとする。
明らかに同類の墳墓である平原遺跡と祇園山古墳について、片方は2世紀の弥生墳墓だ、片方は4世紀の古墳だと言い張る。
そもそも前方後円墳があるけれども必ずしも主力ではなかった九州において、弥生時代と古墳時代の区別は意味をなさない。
畿内説ありきの年代観で歴史を歪めている。 マスコミも悪いね
纏向や箸墓絡みの記事って間違いなく
邪馬台国で決まり?
みたいに?つけりゃ何でもOKだと思ってる
東スポレベルなんだよな新聞社の文化部って
とくに朝日新聞はスクープ扱いにしてくれるなら
炭素法でもなんでも良いから記事にすると言って
新聞に何の検証もせずに載せる
普通は反対意見の考古学者の意見も併記するものだがそれもない
考古学って一部なのか全体の風潮なのかわからないけど明らかに成熟度が低い学問だわ >>162
九州説の年代観もその考古学に基づいているだろが
50年前の考古学だけどな これまで「忌部」の研究が不足していたため、歴史の中で有名なその他の氏族のみで仮説・ストーリーが立てられてきた側面がある。
今後の研究が進み関係が明らかになることを期待する。 @阿波 炭素年代法は確率で計算しなければならないところと、
3世紀後半当たりの較正曲線が落ち込んでいるので
そのあたりの範囲が広くなってしまう。
具体的にはこんな感じ
intcal2014による補正結果
東田大古墳(1)桃核 1730±30 西暦243-386年 布留0式古相
東田大古墳(2)土器付着 1860±30 西暦80-231年 布留0式古相
東田大古墳(3)土器付着 1820±30 西暦124-257年 布留0式古相
東田大古墳(4)土器付着 1780±30 西暦137-335年 布留0式古相
矢塚古墳(1)桃核 1790±30 西暦133-264年 庄内3式期
矢塚古墳(2)桃核 1800±30 西暦131-260年 庄内3式期
矢塚古墳(3)土器付着 1820±30 西暦124-257年 庄内3式期 マスコミ各社・各紙の奈良支局は、
大いに、問題ありだな。
何かといえばヘリコプターを飛ばしたりして、先輩のネタを引き継ぎ、擁護に走ってる。
ある種の社内忖度報道か。 朝日の文芸部長が京大卒でバリバリの畿内説。それを引き継いでるから、
必ず「邪馬台国か」「邪馬台国確定へ」などの煽りを入れる。
畿内学者も、「まあ実際はそれもあるという程度」とか「邪馬台国はどうでも
いいんですがね」とか言いながら、実は内心ほくそ笑んでいる。関係ないな
ら訂正させればいいのに。
こういうところがせこいんだよ畿内学者は。 >>163
かつての考古学では、理化学年代を利用するときに、たとえば
1800±100年前と出たら約1700年前という風に新しい方の端に決め打つという、
インチキな方法を採用していて、年代学者の批判を浴び続けていた
90年前後まで続いた誤った年代決定を訂正しようという流れが出始めたのが
90年ごろだったわけだ
そして、この影響で九州王朝説の年代が理化学年代と解離し始めたから、
古田は理化学年代を否定する方向に転じたんだよな
それまではむしろ、理化学年代を積極採用する側だった 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡とは魏の曹操が愛用していた鏡。
その鏡が九州日田で出土。
この鏡は王が持つ鏡だから国際的に認められた王が日田にいた。 日田が倭国邪馬台国の中であることは確かなのだが、誰が被葬者だと考えるべきなのだろうか。
謎だ。 曹操が愛用したという話の論拠が微妙
出典の書名すらも間違ってる怪しいサイトしか出てこない >>165
土器付着物は年代が古く出るってのはもう常識化してるんだよね
歴博はそれを認めない
最初の質問は、福岡市埋文センターの久住 猛雄さんからで
Q: 「土器付着炭化物の由来は燃料の薪であり、土器の年代より古い年代にならないか?」
「古墳祭祀に伴うような木製品の方が試料として適切ではないか?」
A:薪でも大丈夫、大きな誤差はない
次の質問者の方はお名前がわかりませんが、 のっけから激昂されており、
Q: 「ホケノ山はいつ頃なんだ?」
A:3世紀前半、橿考研の木棺片の炭素年代測定データから
Q: 「3世紀前半?…それじゃあ、お話にならない」
「ホケノ山からは銅鏃が出ているんだ!銅鏃(の年代)はどうなるんだ?」
A:……
二番目の質問者の方がしつこく食い下がる中、 事務局の北條芳隆さん(東海大)が「質疑は測定年代のグラフのみにしてください」
と制止して 三番目の方が質問をはじめ…
Q:
「昨年のデータでも指摘したが、較正年代のグラフがかなり太い帯状である」 「箸墓の辺りは急激に谷状になっている」
「ピンポイントで年代は決められないのではないか?」
A:大丈夫
このあと、協会事務局を代表して北條さんが新聞記者を牽制・注意し、「考古学協会は捏造事件を経験していることを充分ご理解い
ただきたい」 と話されていたのが印象的でした。
問題ない、大丈夫
肩書だけでこんなのがまかり通るのが考古学界
ちなみに2003年に歴博が炭素法で主張した弥生時代は500年遡って紀元前10世紀からという主張は
教科書には一切採用されていません 薪に使われる木材って大半は使用前数年程度の新しい時期に光合成された新しい樹木だから、誤差が出る理由の説明になってないな
もっとマトモな理論で否定できないと印象操作にしか見えなくなる >>173
統計的に古く出るのが証明されてるので君みたいな素人の「僕はこう思う」
なんて意見は印象操作にすらならないねw 理屈で説明できないものは検討不足なので採用できないなどと嘯いて通説の多くの要素を却下しようとした古田の弟子とも思えない怠慢ぶりだね ガチの学者が書いてる初学者向けの邪馬台国論の本ってどんなのがあるんだろ?
憲法を勉強する人が右翼でも左翼でもとりあえず芦部の憲法は読んどけみたいなレベルの教科書的なものってある? あらゆる学者のいうことを否定する古田の言説に多少どころではなく配慮してマトモな本を書くことが不可能な以上、古田信者が満足できるマトモな本が実在しえない。
古田信者を切り捨ててもいいならあると思うんだが……
いや、教科書的ってのだと一般人向けじゃないからわからんわ 古田が正しいということか。
古田とかぶらないようにしたら、何もいえなくなった学者たち。 >>176
学者が書いた初心者向けの本って通史みたいなものになってしまい邪馬台国だけではないのでは?
邪馬台国に関してだけ掘り下げたものはそれぞれの学者が自分の説を書いているのが現状
ただし現役の学者で九州説はほとんどいない
本を出版してるとなると東大の文献史学の誰だったか名前は忘れたが1人いるだけ
あとはもう引退した高島氏くらい
現実的には学問の世界では邪馬台国論争はとっくに終わってる >>176
邪馬台国論争は学問の世界では畿内説で決まり
アマチュアは圧倒的に九州説が多い
一般人は30年前のイメージでなんとなく九州だと思ってる
アマチュアの中でも強硬に九州説を主張してるのが安本一派と古田一派といった異端の人たち
ともに邪馬台国とは関係ない古代史全般の通説も全否定してるから折り合うところがない
逆に言えば一般の人たちが抱いている30年前の”ごく普通の”九州説はどうやっても成り立たないことが確実になってしまい
九州説を押し通すためには邪馬台国以外の古代史の通説を含めて全否定するしか道はない 邪馬台国関連スレッドの栄枯盛衰について
この板にも邪馬台国関連のスレッドは山のようにある
以前はドンと来いスレが汎用的というか、どの説でも自由に書けるスレだったが今は廃れてしまっている
その後、畿内説、九州説、四国説などの個別スレに分かれて進行するようになり、畿内説スレと九州説スレの2つがメインのときもあった
畿内説スレにテンプレが貼られるようになると、九州説の人たちでも畿内説がなぜ通説になっているかを理解できるようになった
すると九州説スレのカキコミが徐々に減ってきてついには新スレを立てることも諦めてしまった
もう勝負がついてる状況で消化試合なのに九州説スレの中だけであーだこーだやってもピエロになってしまうからだ
で、結局今でもカキコミがあるのは畿内説スレだけという状況 >>178
古田説は間違ってると考えてる学者と
古田説は学説じゃなくて戯言だと考えてる学者が
合計で大多数になっただけだよ 崇神が4世紀初頭〜前半の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するかのように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
もちろん彼らには正后(奥さん)はいる。
しかし彼らが大王ならその血を残すために複数の妃がいて当たり前。ところがいない。
つまり彼らは大王ではなかったのだ。
この時代が女王国であった。
では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。
それがいるのだ。
@神武→ヒメタタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマトヨツヒメノミコト
D孝昭→ヨソタラシヒメノミコト 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
見事にヒメとトヨの時代。 魏志の【年已長大 無夫壻】とは神武の死後にヒメ踏鞴が寡婦であった状況であろう。
そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。
邪馬台国の都とは「ヒメ」タタラが住まわれた葛城、奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。
これが私=天才のHPだ。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite/home 107年に後漢・安帝に朝貢した帥升を名前の似ているスサノオだと仮定してみる。
間違っててもいいから一度仮定してみろ。魏志の卑弥呼の朝貢が238年。
スサノオから5世代100年後に歴史上ヒミコと言う名前にもっとも近い最高位の女性がいる。
しかも魏志の記述どおり寡婦。
そしてすぐ後にトヨという最高位の女性もいる。
邪馬台国論争なんてあっという間に決着してたのだ。
ところが大和朝廷および古代天皇が朝貢したことになる。
スサノオは安帝の前で土下座したであろう。
神武なんて朝貢してたヒミコの婿。
記紀はそれをごますために時代を大きく引き伸ばした。
今の日本人は天皇が朝貢してたと知っても何とも思わないが江戸時代は違う。ショックが大きい。
だからわざと本居などの国学者は九州説という虚構を創ってごまかしたのだ。
論争が続いてるうちは大和朝廷および古代天皇が朝貢したことが決定しない。
その「決定しない」という状況を永遠に創ろうとしたのだ。
これは天才の所為である。 >>182
古田の説が正しいとすると大多数の学者の説は間違っていたことになるからな
古田を認める訳にはいかないし反対するのも当然だな。 古田が正しいとにするためには考古資料をことごとく否定しなければならない
文献史料も曲芸読みをしなければならない 186
>古田が正しいとにするためには考古資料をことごとく否定しなければならない
こんなことはないな、古田は強引に説を進めるところがあったのでむりなな解釈もあるが、少し手直しすれば済むておだよ。
文献史料については通説のほうが明らかに曲芸読みをしてるよ。 >>187
70年代あたりまでの考古学知見にはそれなりの整合性があったが、
それ以後の新しい知見の大半は古田説と反するものばかりだぞ >>186
むしろ否定する必要が殆ど無いよね、畿内説と違って 古田先生の多元王朝論以外の
細かい部分は古田史学のメンバーでも
色々あるからな。 >>190
そうかな?
伊都平原遺跡の八咫の鏡なんて、記紀神話の舞台が筑紫であった(もともと筑紫と書いてあるけどね)というのを証明しているようなものだよ。 古田説に反する発掘データを巣経て捏造よばわりして、整合的なごく一部のだけ受け入れてるからだろ それは畿内説がやっていること。
考古学的には九州説で決まりだろう。 歴博の年代はデタラメとか年輪年代はデタラメとか散々言ってきた九州信者が何を肯定したんだよ、九州王朝説に都合がいい与太話以外では。 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
−弥生時代の鉄鏃は福岡県から171個出土、奈良県からは2個。
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。 方格規矩四神鏡、内行花文鏡は基本的に2世紀の鏡だから倭国乱より古いシロモノで邪馬台国とは無関係なのが大多数だぞ
青龍三年とかの関係しそうな例外が少しあるだけだろ
奈良県の東大寺山古墳は「中平」[1]の年号を持つ刀を含めて20本の鉄刀と9本の鉄剣が出てるわけだが、
中平が漢末(というか、黄巾の乱が起こってから董卓が相国となるまでの時期)の年号だから、邪馬台国の出現直前か直後ぐらいの時代の年号だな
まあ、弥生時代に含むかどうかは微妙な時期とは言え、1例とか言っちゃうのってどうなんだよ
それに邪馬台国の時代の絹が全部九州から出土というのも嘘デタラメだし、やはり九州王朝信者は半世紀前以前の古い出土品しか受容できないらしいな >>197
邪馬台国が弥生時代の国だとすると、邪馬台国と道中の近隣諸国の人口を合わせると西日本全体の人口を越えてしまう
つまり最低でも中国地方を通り過ぎていかないと記載の人口に足りなくなる
古墳時代の人口ならどうにかなるが、弥生時代ではだめだ >>198
>方格規矩四神鏡、内行花文鏡は基本的に2世紀の鏡だから倭国乱より古いシロモノで邪馬台国とは無関係なのが大多数だ
中国本土では魏晋時代でも主流だね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています