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邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part7 [無断転載禁止]©2ch.net
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0001九州王
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2017/07/31(月) 09:41:05.55
水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りとするだけで、魏志倭人伝を全て矛盾なく解読する説を提案します。

邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國に都して邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の治世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の治世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」ことを指すと結論される。
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1497059251/
0002九州王
垢版 |
2017/07/31(月) 09:43:43.35
里数の行程と日数の行程は同じ行程を距離と時間で説明したもの
郡の中心地から女王国の中心地まで何里であり、日数だと何日掛かると説明している
続けて読むから意味不明の文章になる
報告者は軍人であり、正確に報告している
水行二十日は郡から狗邪韓國までに掛かる日数に当たり
水行十日は狗邪韓國から末盧國に当たる
すると陸行一月は末盧國から奴國までに当たることとなる
しかし末盧國から奴國までは陸行一月は掛からない
陸行一日あれば十分なので、陸行一月は陸行一日の誤記。

「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐してる監察官
「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた 。
つまり
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」では、「女王国の北の各諸国には、特別に一大率を配置して検察させており、畏れ憚られている。
常に一大率は伊都国で統率されている。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で統率しているのと同じようだ。」の意味となる。

全て伊都国についての説明だから「皆統屬女王國」も伊都国についての説明
伊都国を首都とする女王國は倭の国々を統屬していた。
皆とは倭の国々を指しているのであって、皆が絶対に伊都国を指さなければならない理由はない。
だいたい皆と呼べるほど多くの王が魏代に伊都国にいたとは考えられないし、伊都国に付いては特に詳しく説明されているにも関わらずそれらし記述も一人の王名ない。

伊都国は郡使が滞在するところで、伊都国に付いては特に詳しく記されている
「官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と官、副官の名前は記されているのに、伊都国の王の名前は一人も記されていない
また倭人伝は張政が持ち帰った情報を最新として張政が帰国した時点で書かれていて
既に倭王が魏より任命されているのに、伊都国の首長を王と呼ぶこと事態がおかしい
伊都国の王は伊都国には居なかった、伊都国に居た王は伊都国の王ではなく、倭王の卑弥呼や壹與としか考えられない。
0003九州王
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2017/07/31(月) 09:44:51.51
帯方郡〜倭の世界

帶方郡         郡 治
 ↓
-↓--水行7,000里----↓---------------------水行20日---
 萬                                    投
          到 狗邪韓國                    馬
 二                               水     國
-  ----------------↓----------------------  --------
 千  度海1,000里                     行
             對馬國  方可400里(800里)
 餘  渡海1,000里  ↓                  10
             一大國  方可300里(600里)          女
 里  海渡1,000里  ↓                   日   邪
 ↓           末盧國
 ↓  陸行  500里  ↓              陸行1日(1月) 王
 ↓        到 伊都國(女王の都)             馬
 ↓      100里  ↓ 100里
自女王國       奴  國→不彌國→斯馬國           國
               ↑            ↓          壹
             烏奴國   周   已百支國
               ↑     旋     ↓
             支惟國   可   伊邪國         國
               ↑     五     ↓
             巴利國   千   都支國
               ↑     里     ↓
               ・・・・・・・・・・・・・・・・・
-------------------------------------------------------
              狗 奴 國
0004九州王
垢版 |
2017/07/31(月) 09:45:57.74
「周旋可五千餘里」奴國から奴まで國までの倭地一周の推定距離である
周旋とは次の経路
奴國→不彌國→斯馬國→已百支國→伊邪國→都支國→彌奴國→好古都國→不呼國→姐奴國→對蘇國→蘇奴國→ 呼邑國→華奴蘇奴國→
鬼國→爲吾國→鬼奴國→ 邪馬國→躬臣國→巴利國→支惟國→烏奴國→奴国
参問とは問を集めることで、倭人から聞いた情報に基づくもの
実際には周旋してないので五千餘里は魏使が倭人の話を基に計算した推定の距離
五千餘里の計算方法は
末廬國→伊都國→奴国→不彌國までの各距離 500里、100里、100里で平均距離700/3里を出し
遠回りの不彌國〜奴國の国の間数である21倍し(4900里)
最後に奴国〜不彌國100里を足したもの。
0005日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/02(水) 01:09:19.37
九州王さんいつも乙です。
北部九州説内では安定しているので頻繁にはカキコしませんが
常に応援しておりますです。
貴重なスレ立てありがとうございます!
0006日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/02(水) 08:06:26.67
乙です
ほぼ同意なのですが、卑弥呼は伊都国にいたでしょうが、邪馬台国の範囲や意味に関してはフラフラしてます
0007九州王
垢版 |
2017/08/02(水) 08:48:33.72
>>6
邪馬壹國の意味は女王の支配する北部九州の国邑の連合体の国家です
邪馬壹國の南限は熊本県
狗奴國を鹿児島、宮崎県及び熊本県南部球磨地方としてます
熊本県を狗奴國とする人もいますね
倭地は「参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里」と書かれているので
邪馬壹國を一回りするには海を越える場所が在ると考え
熊本県の三角、天草から長崎県の島原へ渡るルートがこの文章に一番合致すると思います
邪馬壹國を構成する国邑は現在の郡市くらいの大きさか郡市を2〜3合わせたくらいの大きさでしょう。
0008日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/02(水) 09:08:55.35
倭人伝において、張政の旅行記は九州を出ていない。
九州北部が女王卑弥呼を共立した二十数国の連邦国家だった事は間違いない。

だがしかし、
倭人伝の『邪馬台国』という名の国は
不彌國を出港して、南へ水行20日の投馬国に至り
『南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月』
としてしか、説明されていない。

『邪馬台国』には女王の都が有るが
卑弥呼を女王とする、倭国=九州北部連邦ではない。
つまり、『邪馬台国』の女王は卑弥呼では有り得ない。

>>1 の御都合主義解釈は 南=東の畿内説と大差ない愚説。

倭人伝は『倭国』を説明しているが、『邪馬台国』を
『女王之所都 水行十日(+20日行)陸行一月』 
世界一周できんじゃねwww としてしか知らない。

九州を説明している倭人伝で邪馬台国の論争は無理筋である。
0009九州王
垢版 |
2017/08/02(水) 11:18:46.79
>>8
>倭人伝の『邪馬台国』という名の国は
>不彌國を出港して、南へ水行20日の投馬国に至り
>『南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月』
>としてしか、説明されていない。

不彌國を出港して、南へ水行20日の投馬国に至りじゃなくて
帯方郡を出港して、南へ水行20日の投馬国に至りです
不彌國を出港して、南へ水行20日もしたら沖縄に付いてしまうw
0010日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/02(水) 13:20:32.60
>>7
>邪馬壹國の意味は女王の支配する北部九州の国邑の連合体の国家です

ほぼ倭国=邪馬台国ですね。
倭と書いてヤマトと読め、と古事記に注がありますし。
0011日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/02(水) 17:36:41.53
伊都の2つだけでなく内陸の筑前町でも硯が見つかりましたね。
これで北部九州には文字が普及していたことが確実になりました。

日本海沿岸にも松江の硯や小松市の鉄製ヤリガンナなどが出土していますから、
弥生時代の日本海沿岸は思っていたよりも先進的だったことになり、
そうでない地域との対比が一層鮮明。
0012日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/02(水) 20:52:44.33
伊都国跡や筑前町、小松市で硯が見つかるのに関西では見つかりませんね
考古学的にも北部九州が有力ですね。
0013日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/03(木) 10:01:43.58
船酔いでしょうなあ。

大陸出身の魏使が慣れない船に乗って来日するのだから、
半島沿岸航行はまだ耐えられても、
対馬海峡の荒波を渡海したら船酔いでゲーゲー掃きまくったのでしょうw

漢代からの習わしで、
大陸からの使者ご一行は、唐津で一刻も早く下船させて、
あとは陸行で伊都を目指したのでしょうな。
ちょうど三百里=21kmくらい。
0014日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/03(木) 10:03:32.93
>>12
今のワシントンとニューヨークを考えれば良いと思うよ
0015日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/03(木) 10:19:27.74
奴国がニューヨーク、伊都国がワシントンDC。
0016日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/03(木) 13:39:29.12
東夷伝全体でも、鉄について書かれてるのって、
鉄産地についてと鉄がお金の代わりに使われているのと、あとは倭人の鉄鏃についてだけ。
3世紀なんて鉄器文化があるのが当たり前だからね。
現代で言うなら、電力が普及しているのが当たり前で、
電力が無い場合だけ驚きをもって記載されることになる。
0017日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/03(木) 18:02:52.03
×ちょうど三百里=21kmくらい。

○ちょうど三百里=21km=陸行一日。
0018日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/04(金) 00:57:00.45
>>17
×ちょうど三百里=21q=陸行一日。

○ちょうど三百里=23q
○陸行一月=海行1月≒1000里=76.5q

参考:陸行1日=水行1日≒1000里=76.5q、 陸行≠歩行、陸行≠馬行

1日=24時間 日が地球を一周する時間
1月=24時間50分 月が地球を一周する時間
0020漢文天文学数学に長けた爺
垢版 |
2017/08/04(金) 09:17:38.74
陸行1月=海行1月=1000餘里=80q〜90q

陸行1日=水行1日=1000餘里=80q〜90q

水行:水域行程 - 河川湖沼海洋沿岸航行
海行:海洋行程 - 渡海航行
船行:渡洋行程 - 渡洋航行
陸行:陸域行程 - 歩行馬行等
0021九州王
垢版 |
2017/08/04(金) 19:47:58.80
水行二十日=7000里・・・1日350里(1日約26q)
水行十日=4400里・・・1日440里(1日33q)
陸行一日=600里・・・1日600里(1日45q)

1日当たりの行程は26q〜45qで旧日本軍の行軍速度と同じくらい。
0022日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/04(金) 23:06:05.12
水行10日=帯方郡〜末盧國=11400里
水行1日=1140里=87.21q 水行は87.21q/日の速度

水行20日=帯方郡〜投馬國
=(帯方郡〜末盧國)+(末盧國〜九州西沿岸〜島原湾〜有明海東岸(投馬國))
=水行10日+水行10日=11400里+11400里=22800里=1744.2q
投馬國は不彌國の南

陸行1月=海行1月=水行1日=1140里=87.21q
陸行1月=1140里=末盧國〜邪馬壹國
=(末盧國〜伊都國〜不彌國)+(不彌國〜邪馬壹國)
=600里+540里=51.9q+41.31q
邪馬壹國は不彌國の南41.31q

因に、不彌國は吉野ヶ里遺跡である。(別途証明済み)
0023日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/05(土) 15:09:54.79
帶方郡〜投馬國(帶方郡郡治〜狗邪韓國) 水行二十日=7000里・・・1日350里(1日約26q)

投馬國〜(狗邪韓國〜末盧國) 水行十日=4400里・・・1日440里(1日33q)
※末盧國から陸行
〜邪馬壹國(末盧國〜伊都國、奴國)陸行一日=600里・・・1日600里(1日45q)

1里≒75m
狗邪韓國は投馬國の中の国邑
0024日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/06(日) 17:41:49.07
>>9
水行10日と言うのは↑みたいな距離×日数ではなく日程であって
航路に約束された停泊地が有る行程だろうと思います。
それが再訪可能な航路であって、徒歩の参勤交代の東海道は53次行とか。

沿岸の目視航行で20日で鹿児島に着いたとして
さらに南に水行は渡海になってしまうのでどこに漂着するか判らない
この手の水と飯の無い漂流10日と言う航海の表現は無意味かと?
紀伊半島や関東伊豆に着くw ジョン万次郎かいwww

帯方郡からの旅程は渡海を含んでいるので水行〇日はNGかというと
狗奴韓国〜対馬1日、対馬〜壱岐1日、壱岐〜唐津1日が水行3日とできるかどうか?

20日とか30日って言うのは潮や風待ちの停滞を含みそうだがそれもおかしい。
人夫の賃金計算用の行程か?
0025日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/06(日) 19:20:00.84
不彌國は北九州東岸の小倉として地図上を辿る。
水行20日の投馬国は鹿児島南端から島々をも辿り、沖縄。

さらに10日の上陸地は台湾を越えた福州。
南行するなら船でいいわけで、
大陸では馬で陸行1月で長安でも成都でも洛陽にでも着く。 

邪馬台国は洛陽である。
ちゃんと読めば倭人伝は九州女王卑弥呼伝であって、
邪馬台国については行程以外何も説明していない。

張政はわざわざ沖縄南西航路で洛陽に帰ったwww
0026日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/09(水) 08:55:50.99
>>24
>>25
何言ってんだ?分かり安く説明すると
帶方郡〜投馬國と帶方郡郡治〜狗邪韓國が同じ行程で
時間で水行二十日掛かり、その距離は7000里ある
計算すると1日350里(約26q)進んだことになる。
以下同じ。

鹿児島とか沖縄とか意味不明???
0027日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/09(水) 09:16:18.99
勝手に帶方郡〜投馬國とか都合のいいようにやっちゃ話にならん
0028日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/09(水) 09:33:00.30
>>27
スレの冒頭に説明を書いてるだろ
帶方郡〜投馬國が前提ですw
0030日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/09(水) 10:39:33.50
>>1 間違いを正すなら
前後の文脈と、脈略が無い

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸
と 投馬国のくだりを削除しろよ。

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
って、
言っておきながら、なんで南に遠絶した国行って詳細説明してんだよ?
この女王国以北デカすぎだし、略載してないし、言行不一致で間違ってるだろ。

するってーと
邪馬台国 って国が倭人伝から無くなって
普通に女王卑弥呼の国=九州北部の説明だけになるんだよ。
なんで、倭人伝でムー大陸行かにゃならんのよwww
0031日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/09(水) 13:02:07.19
>>4
参問倭地
は、魏使が実際に参じ訪問した倭地 であって、
伝聞を集める の意味じゃないです。

まあ、全村自分で訪問はしていないだろうし、
結果は同じなんで計算乙ですw

大事なのは、参問という動詞であって
主語となる自分が参じ訪問した倭地は
徒歩5千里で周旋可能で水行は含まれず
周囲を海で囲まれた島州の中に有ります。

つまり、九州北部しか訪問してません。
と証言していると言う事。
0032日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/09(水) 14:10:09.68
>>2
南至投馬國水行二十日官日彌彌副日彌彌那利可五萬餘戸
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
官有伊支馬次日彌馬升次日彌馬獲支次日奴佳可七萬餘戸

この一文が邪馬台国問題の全てですが

投馬国、水行20日
狗邪韓國=投馬国 は無理 五萬餘戸  は人口だと20万人位?
帯方郡の南の投馬国の全長、おそらく馬韓全部 か弁韓、辰韓も含むかも。

同様に
南、水行十日陸行一月
邪馬台国=伊都は無理 可七萬餘戸 は人口だと28万人?
おそらく、九州倭国全土か九州全部であって、
狗邪韓國〜島領が水行十日と九州上陸後に陸行するなら南北1月行の国家
の意味かと思います。

いずれにしても、魏使の説明とは別の史料からの引用とおもわれ
写本への挿入位地もおかしいと思います。

この怪文を削除すると、邪馬台国と言う国名が無くなります
が、倭人伝=九州北部の説明 で スッキリです。

『韓』を『投馬国』 『倭』を『邪馬台国』 
と名付けた史書が有ったかもね?という説。 
所詮中国語の命名や分節や主語が不明なのが原因なんですが、
バカンでもトンマでも一緒だし、ワでもヤマトでも良さそう。
0033日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/09(水) 18:34:10.09
>>30
>言っておきながら、なんで南に遠絶した国行って詳細説明してんだよ?

国名しか記されてませんけど。

>この女王国以北デカすぎだし、略載してないし、言行不一致で間違ってるだろ

女王国以北は狗邪韓國、對馬國、一大國、末廬國

>>31
参は集める、集まるの意味しかない
訪れるなんて意味は無いので
参問に訪問の意味は無い
参問倭地は電文であり実際に訪れたのではない

>>32
狗邪韓國=投馬国ではなく
狗邪韓國は投馬国の中の国邑
投馬国全体が五萬餘戸

邪馬台国=伊都国でなく
伊都国は邪馬台国の中の国邑
伊都国は有千餘戸ですよ
0034日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/09(水) 19:05:43.53
平原
国宝指定名称は以下のとおり。

福岡県平原方形周溝墓出土品
銅鏡 40面分
玉類 一括
鉄素環頭大刀 1口
附:土器残欠、ガラス小玉、鉄鏃等 一括

弥生期で鉄や大陸からの貴重なものがあります。
畿内はどうですか?
高床式住居も吉野ケ里しかりですが、纏向はいかがですか?
0035日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/09(水) 19:12:48.11
>>7
訓読みは日本独自の物です
倭を使者はヤマトと発声してないでしょう
0036日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/09(水) 19:28:54.29
平原 卑弥呼の墓について、少しご質問よろしいでしょうか。稚拙ですが。

短里はわかりますが、
徑百餘歩は実際に歩いた距離では無いでしょうか
1歩が25センチだと使者は相当小さい方だと思います。
また当時の歩数計算は今でいう2歩だから、小人の集団が魏の使者になります。
例えば身長170センチの成人男性の一歩(現2歩換算)は140センチ
これを25センチに当てはめると使者の身長は30センチとななります。

間違いでしょうか
0037日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/09(水) 19:48:06.98
尺貫法では歩みは無いのでは?
尺はありますが
0038日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/09(水) 19:50:54.08
1畝
= 30坪(歩)
 
 
 
≒99.173 554m2
 
 
 
1坪(歩)
= 10合
 
= 400/121平米[12]
≒3.305 785m2
0039日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/09(水) 19:59:28.63
>>33
女王国以北
奴国の東100里の不彌國から水行30日、陸行1月が邪馬台国=女王国
これより北の国々は人口と官を記せる。 と言っている。
これは、對馬國、一大國、末廬國、奴国、不彌國よりはるかにでかい。 

出発地は帯方郡から南
『投馬国』は『韓』 水行20日の大きさで5万戸

『邪馬台国』は『倭』 水行10日の狗邪韓國〜末廬國 と 
陸行1月圏内の九州北部で7万戸である、と書いてある。

これは重複記載されている。

参は参じる、問は訪問、
主語が魏使で参問したという動詞が倭地に係るだけで、
記載の二十数国を訪問ではなく、訪問した倭地であって
本人が二十数諸国を訪れる必要は無い。

伝聞であれば主語が無い 曰 であり、全文が主語不明になっている原因である。
0040日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/09(水) 20:30:46.27
>>36
足のサイズが25センチというのは、それほど小さいとは思いません。
通常の単位と違うのはわかりますが、里も違うのですから、歩も違う可能性は大いにあります。
0041日本@名無史さん
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2017/08/09(水) 20:48:07.70
>>40
足のサイズですか、短里だと足のサイズが25センチ????
それって短里じゃ無いのでは????????????
0042日本@名無史さん
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2017/08/09(水) 20:50:55.80
歩=足 無理がありませんか?
0043日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/09(水) 20:53:14.23
>>42です
歩=足サイズの他例があればお示しいただけませんか
0044日本@名無史さん
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2017/08/09(水) 21:07:48.11
九州王さん出番です
0045日本@名無史さん
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2017/08/09(水) 21:12:01.24
>>39
>奴国の東100里の不彌國から水行30日、陸行1月が邪馬台国=女王国

不彌國の南は陸地だから水行なんてできません
説明が里(距離)から日(時間)に変わったってことは
同じ行程を再度説明しているの、だから帯方郡から
帯方郡からなら南に水行が可能だろ。

>参は参じる、問は訪問
参はいいけど、訪なら訪れるだけど問は訪問ではない
問は問うの意味
問を参ずる、つまり情報を取集したんだよ。
参問倭地・・・倭の地に付いて情報を集めると
主語は省略されてるが倭を訪れた魏使だよな。
0046日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/09(水) 21:17:53.42
徑百餘歩は古墳本体の大きさだけでなく
古墳の在る丘陵全体の大きさ?
0047日本@名無史さん
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2017/08/09(水) 21:19:27.53
>>46さん
歩の定義は何ですか?
0048日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/09(水) 21:23:38.37
浅学でスイマセン
径百歩は誤記の方が分かりやすのですが・・
0049日本@名無史さん
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2017/08/09(水) 21:26:31.56
連投失礼
私は邪馬台国の王都は吉野ケ里で卑弥呼の墓は今のところ不明です
0050日本@名無史さん
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2017/08/09(水) 21:33:05.03
>>48
なんの誤記ですか?
0051日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/09(水) 21:34:16.12
短里は理解できますが、足のサイズだけ現代に当てはめるのは?????
0052日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/09(水) 22:04:10.77
当時の人はもっと足が大きかったのでしょうか?
0053日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/09(水) 22:15:37.44
当時に人が指を広げた時の親指と人差し指との距離はどうだったのかも知りたいところだ
0054日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/09(水) 22:22:23.38
距離がわかる松浦までの里程は
当時の里の1/5程度の実距離になっている。

この比率で日数相当距離も1/5すれば
水行すべきところに有明海があり
陸行すべき位置に拠点集落がある。

倭人伝の行程が全く矛盾しなくなる。
0055日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/10(木) 00:52:57.64
1里=300歩=25.5p×300=76.5m
1歩は、踵から爪先までの足の長さで、モンゴロイド成人男子では25p〜26pである。

1尺は15p〜16p(殷商代、親指と人差し指で尺取りをしたときの長さ。)
周公の改革で、1尺は22p〜23pとなる(周尺)

「歩」と「尺」は、全く別の単位体系。
「歩」は土地の大きさを測る単位。1里=300歩
「尺」は身の回りの物の大きさを測る単位。1丈=10尺=100寸=1000分

100歩方形の土地9個で1里方形の土地になる。
100歩方形の土地は100畝。1畝は100歩長の畝100本の土地面積。
0056日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/10(木) 01:13:46.17
道程がわかる帯方郡から末盧國までの海路(循海岸水行・渡海)の里程は、
10000餘里である。(7000+1000×3=10000)

その海路里程をを水行10日で移動したから、
水行1日=1000餘里となる。水行1日=80q〜90q
0057日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/10(木) 01:26:44.52
歩=足のサイズという文献有るのでしょうか?
他例を出さなと、コジツケとならないでしょうか?
0058日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/10(木) 01:35:02.05
1里=300歩=25.5p×300=76.5m
歩幅じゃ短い、足のサイズにしようぐらいかな
0059日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/10(木) 01:44:43.31
常識的に考えて
足のサイズで距離を表すのはせいぜい5m以内かな
10mこえると足巾じゃないかな。
サッカーでも足のサイズで審判が計測してるの見たこと無い。
ペナルティエリア、審判歩測でやってるし
0060日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/10(木) 02:40:29.65
>>57-59

足サイズの1歩(25p〜26p)は、1950年頃までは、
奈良盆地や筑紫平野の農家の作業広場で未だ日常的に使われていた。
0061日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/10(木) 02:49:33.13
どの説も長所・短所はある

正解は可能性はある
>>40日本@名無史さん2017/08/09(水) 20:30:46.27>>41

足のサイズが25センチというのは、それほど小さいとは思いません。
通常の単位と違うのはわかりますが、里も違うのですから、歩も違う可能性は大いにあります。
0062日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/10(木) 03:01:24.79
>>60
問題は魏国が1歩(25p〜26p)を日常的に使っていたかでは?
0063日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/10(木) 03:06:42.20
失礼
計測のと魏国(中国でも可)が足のサイズで使用していたという証拠が必用です。
数mでなく10m以上の計測
0064日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/10(木) 03:20:11.77
おしまい
足のサイズで計測した可能性はあると言う事で
0065日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/10(木) 03:50:16.81
一歩=6尺(又は六 尺四 方)というのは日中古今変わらないのですが、一尺あたりの距離が変わっています。
漢のころの一尺は23cm、魏は24cm、現代中国では33cm、日本では30cmです。
曹操の身長は7尺あまりと言われてますのでおよそ160センチ
一歩=6尺=24センチ×6=144センチ
成人男性の歩数(現2歩換算)に近くなります。
0066日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/10(木) 03:55:51.70
一応 出典
^ 『周礼』王制「古者以周尺八尺為歩。今以周尺六尺四寸為歩。」
^ a b c 「度量衡表」、小川環樹・西田太一郎・赤塚忠 編『角川新字源』角川書店
^ 『旧唐書』食貨志「武徳七年、始定律令。以度田之制、五尺為歩、歩二百四十為畝、畝百為頃。」
^ 「歩」、二村隆夫 監修『丸善 単位の辞典』2002年 丸善
^ 国立民俗博物館 『한극의 도량형 (韓国の度量衡)』(pdf)、1997年。 (朝鮮語)
0067日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/10(木) 05:16:33.60
短里から尺貫法への切り替えは難
短里から推理してい一歩を25センチとしたにすぎない。
一歩=足のサイズなる文献は何処にもない所以である
0068日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/10(木) 06:23:39.03
博多などは環濠も無く広大な遺跡が広がっているのだが、
吉野ヶ里は何に対して防御陣形をとっていたのだろう?
0069日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/10(木) 06:34:34.24
都は安全なところに作る
そして、防備も固めるのではないだろうか
最前線に都をおくのは????????
0070日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/10(木) 08:24:08.29
伊都なら日向峠を封鎖すれば攻められにくい。
平原遺跡の周溝は約100歩くらいか。
0071日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/10(木) 08:25:58.86
【邪馬台国の周辺の国】

1番目の斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番目の己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番目の伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番目の都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番目の彌奴国は嶺(佐賀県神埼郡三根村)の吉野ヶ里遺跡
6番目の好古都国は?
7番目の不呼国は?
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番目の蘇奴国は?
11番目の呼邑国は?
12番目の華奴蘇奴国は?
13番目の鬼国は?
14番目の爲吾国は?
15番目の鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番目の邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲である。
半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
肥後狗奴国との前線基地は末尾にある基肄城と大野城。狗奴国側は菊池城。
0072日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/10(木) 08:27:20.61
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)

宇野とも読めるけれど、意味が通りにくくなる。
0073日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/10(木) 08:36:56.34
>>71
規模からすると、平塚川添遺跡もこの中にあるはずだけれど、どれなのかわからないな。
0074添削
垢版 |
2017/08/10(木) 17:11:28.02
>>56
道程がわかる帯方郡から末盧國までの海路(循海岸水行・渡海)の里程は、
11400餘里である。(7000+1000×3+400×2+300×2=11400)

その海路里程を水行20日と水行10日で移動したから、
水行1日=380餘里となる。水行1日=28.5q
0075日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/10(木) 17:28:33.43
>>all
今日も台湾ブタチックニグロピーデが湧いてたぞ。

下戸遺伝子だの長江だの江南だの呉越だの、全部、奴の捏造、詐欺ですんで。


「縄文弥生を通して中国人が定着した証拠遺構もないし、その生活痕たる中国系土器も
中国系農具も一切伝わっておりません。」


つか、おまえら中卒か?

少しは反撃のカウンターパンチくらい浴びせたらどうなんだ?

情けなさすぎ。
0076日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/10(木) 18:17:31.24
>>73
平塚川添はわかりやすい
邪馬台国時代に環濠があって鉄器が無い
つまり狗奴国側の集落

だが、吉野ヶ里はもっと前の時代に環濠で防御しているのに鉄器がある
鉄器がある=三雲南小路+宇木汲田の王と親しかったわけであって、
同じく倭国大乱前の室岡・亀ノ甲にも環濠があるし 何と戦っていたのか
0077日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/10(木) 18:52:18.90
>>76
平塚川添遺跡はこのリストになくても良いと。
なるほど。
0078日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/10(木) 19:59:17.21
>>45
>不彌國の南は陸地だから水行なんてできません
説明が里(距離)から日(時間)に変わったってことは
同じ行程を再度説明しているの、だから帯方郡から
帯方郡からなら南に水行が可能だろ。

その通り。 だから
南至投馬國水行二十日官日彌彌副日彌彌那利可五萬餘戸
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次日彌馬升次日彌馬獲支次日奴佳可七萬餘戸
の文は、ここには有ってはいけない。 そもそも、不彌國は邪馬台国=倭国の中の村。
削除して読みましょう。 九州説スッキリです。 ただし邪馬台国が消滅www

訳=帯刀郡の南は投馬国。水行20日である。 五万戸=人口で20万人?
その南は邪馬台国。 南に水行10日の島領と上陸後は陸行1月の領土が有る。 人口28万人位?
投馬国=韓 邪馬台国=卑弥呼の倭国 です。
この百文字程度以外に倭人伝の中には邪馬台国は有りません。 
張政と別のソースからコピペとしても貼る場所間違いで国名が違う。 削除だなwww
ちなみに、一日行や一月行は 倭人の伝聞ではなく 三月行五月行 問題のように
史記には旅程としてではなく島全体の大きさ等を示す用例が有ります。

>参はいいけど、訪なら訪れるだけど問は訪問ではない
問は問うの意味
問を参ずる、つまり情報を取集したんだよ。
参問倭地・・・倭の地に付いて情報を集めると
主語は省略されてるが倭を訪れた魏使だよな。

問 は質問であり、集めれば試験問題。
聞、が調査結果であって、主語を付ければ我聞。
自分で伝聞って書いてるしw
参問倭地は自分が参問した倭地について、であり、
周旋可五千餘里が九州北部であり、20数か国については名前を聞いただけでも良い。
倭人伝の中に畿内は出てこないよ?
0079添削
垢版 |
2017/08/10(木) 22:07:29.53
>>78
帯方郡の南は投馬国。水行20日である。 五万戸=人口で25万人?
その南は邪馬台国。 南に水行10日の島領と上陸後は周旋五千里の領土が有る。 人口35万人位?
投馬国=韓 邪馬台国=卑弥呼の倭国 です。

三月行五月行も三日行五日行の誤記

問は筆問と回答
参問倭地は倭地についての疑問と答えを集めた 

倭人伝の中に畿内は出てきませんOK
0080日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/11(金) 01:48:18.89
己百支はイブキ、都支はトキ、彌奴はミノ、以上、美濃国。華奴蘇奴は金鑚神社。
呼邑はコユ、鬼国はキ、邪馬はヤマ。日向国児湯郡、紀伊国。
0081日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/11(金) 02:44:43.41
近畿と九州がごっちゃだなあ。

以下引用

宮崎県(日向国)と、大和、伊勢、紀伊地方に共通、又は相似の地名

宮崎県(日向国)
二上山、天香具山、三輪、吉野、五十鈴川、日向、伊勢ヶ浜、清水岳、大森岳、高原、高岡、木崎、熊野、大野、鵜戸、市木、笠祇岳、串間

大和、伊勢、紀伊
二上山、天香久山、三輪、吉野、伊勢、日向、五十鈴川、清水、大森山、三木崎、熊野、市木、高岡、鵜殿、高原、大野、笠置山、串本

引用終わり

でもこれ、ほとんどが筑紫の中にオリジナルがありそう。
0082日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/11(金) 03:46:10.67
これを正解としてよいですか径百歩の件

>>67日本@名無史さん2017/08/10(木) 05:16:33.60
短里から尺貫法への切り替えは難
短里から推理してい一歩を25センチとしたにすぎない。
一歩=足のサイズなる文献は何処にもない所以である
0083日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/11(金) 06:02:40.89
>>79
>三月行五月行も三日行五日行の誤記

「東西五月行、南北三月行」旧唐書
「其南海行三月、有聃[身冉]牟羅國、南北千餘里、東西數百里」隋書
「其國境東西五月行、南北三月行」隋書

上記全ては「三日」「五日」の誤記か?

「南北」と「東西」も誤記か?

漢籍は誤記だらけ?

南北東西の誤記はこれもかな?
「筑後國風土記曰上妻縣南二里有筑紫君磐井之墓
墳高七丈周六丈墓田南北各六十丈東西各卌丈石人石□」釈日本紀巻第十三第十七
0084日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/11(金) 07:53:46.12
魏志東夷伝の中の韓条や倭人条なわけだが
領土問題に絡まないように結果ありきの誘導乙
0085日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/11(金) 20:06:58.00
>>83
月と日はもともと似ており
竹簡や木簡に書かれていたから
滲むと見間違いやすい
牟羅國は済州島のことだから海行三月は明らかな誤記
東西五月行、南北三月行もデカすぎだろ。
0087日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/11(金) 22:59:07.26
>>85
>月と日はもともと似ており

1日=太陽に対して地球が1周りする時間=24時間(昼夜の1サイクル時間)
1月=月に対して地球が1周りする時間=24時間50分(干潮満潮の1サイクル時間)


>>86に同意
墨が滲んでも南北と東西は間違えない。

済州島[聃[身冉]牟羅國]は、1里=76.5qとして、
東西方向に千里、南北方向に数百里の島。

磐井之墓[岩戸山古墳]の敷地は、東西方向に60丈、南北方向に40丈である。
0088日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/12(土) 06:34:05.35
東西五月行は長城以東の高句麗地を含み
南北三月は隋唐当初の韓域

海行三月行は沈羅?への距離
南北東西は地籍だが、南北千里に離島あるか?
0089日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/12(土) 13:29:44.30
>>88
>東西五月行は長城以東の高句麗地を含み

高句麗の西の端から日本の東の端まででも二月は掛からないな。

>南北三月は隋唐当初の韓域

一月も掛かるまい。

>海行三月行は沈羅?への距離

海行三月行も行けばインドネシア辺りに着いてしまう
0090日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/12(土) 14:35:15.65
高句麗によって漢4群を失っている時代
唐の起点は遼島半島の西側か東側
南北はまあ同じでw沈羅までが南三月行

古代韓は半島南部だが
高句麗滅亡で半島全土だけが朝鮮となった。

一月行は約90kmの試算があるが、
旅程ではなく、島や国の長さの単位だな。
0091日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/12(土) 16:59:50.48
>>90
>唐の起点は遼島半島の西側か東側
>南北はまあ同じでw沈羅までが南三月行

原文を読め
済州島は百済の「南海行三月」と書いてある。

「其南海行三月、有聃[身冉]牟羅國、南北千餘里、東西數百里、
土多[冠鹿脚章]鹿、附庸於百濟。」 隋書東夷伝百済条のラスト
「其」は百濟(錦江河口付近郡山市)を指す。
聃[身冉]牟羅國の記述の次は 隋書東夷伝新羅國条が記載されている。
0092日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/12(土) 20:13:06.61
倭人ってどこから来たの?
0093日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/12(土) 21:14:40.98
江南
呉の太伯の末裔
0094日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/12(土) 23:57:50.64
>>90
>一月行は約90kmの試算があるが、
>旅程ではなく、島や国の長さの単位だな。

旅程の場合の距離単位は、
「海行一月」「陸行一月」や
「水行一日」「陸行一日」「馬行一日」「(歩)行一日」

地形を示す距離単位は、
「一月行」「五月行」や「一日行」
0095日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/13(日) 14:04:39.55
>>92
>倭人ってどこから来たの?

江南から来た人々
特徴・環境
@大きな蒙古斑がある小柄な海洋沿岸民(非現シナ人)
A呉人に追い出された越地方からの難民
B江南種カササギと海鵜を伴って九州西岸に到着した。
C江南から九州への東シナ海渡海は、気象的に簡単であるが、逆方向は非常に困難である。

とりあえず、ココで中断。
0096日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/13(日) 17:51:31.94
>>92

銅鐸で良く使われる紋様
http://www.kunakoku.info/sub-04/img/img4-5.jpg
http://www.geocities.jp/yamauo1945/img157C.jpg
http://iwiz-chie.c.yimg.jp/im_siggnds8jiXbQYPZQ0_406IyuA---x320-y320-exp5m-n1/d/iwiz-chie/ans-247320330

雲南省三苗枝族の民族衣装(長江中流域から上流部に追われた民族)
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/7d/ff03bd94b3f93b5f125b3dbf4631d547.jpg
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/b8/7b679ca1be195337f6c75912bd38ec8a.jpg
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/68/4b1057c0d6d6b2f2f2319a06ca6cf830.jpg
0097日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/13(日) 17:53:27.54
>>92

中ほどの青銅提桶是「越式」青銅器に掘られた羽飾り人物
http://www.thenewslens.com/article/66840

雲南省滇王国と鳥取県淀江角田の羽飾り人物
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/50747458.html

http://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1585292/58/50747458/img_0
 http://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/2/313f3e5f9acdd2d6c71aa99e10a9b64ddfb32bac.20.2.2.2.jpg
0099日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/13(日) 18:12:06.52
ちなみに越人=ウォじん=Woじん=ワじん
越南=ウォナム=ベトナム
0100日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/13(日) 21:26:01.27
邪馬台国なんてどこにもねぇよ。支那と共産党の捏造
0101日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/13(日) 21:50:53.57
>邪馬台国なんてどこにもねぇよ

そうだな。あったのは邪馬壹国だから
0102日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/13(日) 22:48:31.00
92ですが、勉強になるお返事ありがとうございます。
言語の文法構成など日本語とベトナム語はどうなのでしょうね。
0103日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/13(日) 23:03:59.55
このスレ的には、伊都が首都で、
高祖宮の西に王墓群の配置なんでしょ?。

けれども倭人伝によると、伊都に卑弥呼以前の男王達がいたのは7,80年とあるから、
伊都だと57年金印にどうしても届かない。

てことは、伊都の前身の委奴国は、別の場所にあったわけで、
考古学的には、高祖山や日向峠を挟んだ山向こうの、吉武遺跡群が最有力だよね。
山を挟んだ同じ勢力範囲内。

吉武高木王宮の西に、吉武高木や吉武樋渡の王墓。
祭祀上も同じ配置だよね。
0104日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/13(日) 23:05:58.38
吉武高木の回廊付き大型高床建物は何度も建て直して維持されているし、
それがちょうど伊都が開始する頃に無くなってるし。
0105日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/13(日) 23:35:27.87
>>103
>けれども倭人伝によると、伊都に卑弥呼以前の男王達がいたのは7,80年とあるから、
>伊都だと57年金印にどうしても届かない。

ふむふむ。
高祖山の東側から西側に王都が移動したのは確かだけれど、この問題は三雲南小路の年代比定に影響するね。
57年より前に移動していれば解決してしまう。
根拠は倭人伝の70〜80年だけだけれども、それ以前については何も言及されていない。
0106日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/14(月) 06:38:46.27
>>105
>依山島為国邑 旧百余國 漢時有朝見者 今使譯所通三十国

一応それ以前のことも言及されています。
伊都と同じと書かれていないので、一見すると漢の時代には別の場所から朝見してきたように思えますが、積極的にそうでないとも書かれていないですね。
0107日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/14(月) 23:05:46.14
完全なミスリードです。

>依山島為国邑 旧百余國漢時有朝見者今使譯所通三十国

依山島為国邑、(つまり軍事力や政治力はとるに足りない)
漢時代には100余国有ったが、今は統合が進み30国を有する。

邪馬台国論争って
漢文読めない奴が日本の古代朝鮮開拓史
無かった事にする為にやってるだろ?

なんで、高句麗馬の移入の歴史消すよ?
意味判らん?
0109日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/15(火) 02:01:52.60
>>10

ミスリードかも
0110日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/15(火) 06:23:55.66
>>108
無かった牛馬が国内生産されて証拠が無い?
火病と向き合うのがめんどくさいんじゃね?
考古学はうんこ。
0111日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/15(火) 07:15:17.85
これいかにも素人ヲタクがいいそうなことでこれだから邪馬台国はキモヲタの巣窟だと嫌がられる。
0112日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/15(火) 18:05:47.45
>依山島為国邑 旧百余國 漢時有朝見者 今使譯所通三十国

倭人の中で、邪馬台国より以前、つまり漢代に朝貢してきた者がいた。

その漢代に朝貢してきた連中は、「九州島」の国邑の人々だったと明記されている。

考古学的にも、
紀元前から筑紫は燕と交流しているし、
須玖岡本からは古代唯一の中国絹が出土しており、
金印も志賀島から出土した。
0113日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/15(火) 19:10:14.82
これもいかにも素人ヲタクがいいそうなこと
0114日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/15(火) 19:55:32.90
お前もだろw
0116日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/15(火) 21:00:49.94
素人ヲタクが常に間違うわけじゃないからね
0118日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/19(土) 10:32:44.51
>>39
>参は参じる、問は訪問

1.ある目的を持って集う。 ・・・参集、参加
2.集める。 ・・・参考、参問
3.貴人の傍に控える。・・・参乗、参内、参上
4.漢数字「三」の大字。
5.唐鋤星、三つ星。しん。
6.「人参(薬用のもの)」の略。

参じる・・・集まる、控える
参に行くとかの意味無いな。
0119日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/19(土) 11:30:35.57
>水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りとするだけで、魏志倭人伝を全て矛盾なく解読する説を提案します。

全て矛盾なく解読されて考古学の裏付けもあるから平和だなあ。
0120日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/19(土) 12:29:15.26
先代男王の墓も女王の墓もあるからねえ
近年相次ぐ新発見も北部九州説を裏付けているし
まあ決まりでしょう
0121日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/19(土) 12:45:21.84
>依山島為国邑 旧百余國 漢時有朝見者 今使譯所通三十国

紀元前からの多数の王墓
金印を頂点とする、海外交流を示す莫大な量の威信材

魏代に認識されていた、依山島為国邑の「山島」とは、九州島であるわけですな

鉄器や中国朱の流通範囲=邪馬台国の活動範囲
0122日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/19(土) 12:46:27.03
春日市須玖遺跡で把頭飾の鋳型が見つかったね
海外から贈られたものとばかり思っていたから驚き
0123日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/19(土) 13:03:18.38
<島根県松江市田和山で硯片2つ発見>
楽浪土器を伴っていないから、ペンダントとして使っていたのだろう

<糸島市三雲南小路で硯片発見>
楽浪土器と一緒に出土しているから、中国からの外交官が使っていたのだろう

<糸島市三雲南小路で硯片2つめ発見>
倭人は文字を使っていた?官僚がいた?

<福岡県筑前町中原遺跡からも硯片発見>
北部九州倭人は文字を使っていたんだね
官僚がいたから国家運営もしていたんだ

当時は竹簡木簡に墨書
消しゴム=鉄製刀子は昔から北部九州を中心に多数出土していた
書くほう=硯の裏付けが取れただけ

鉄製刀子を副葬されている王や貴人は文字を読み書きしていたわけですな
0124日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/19(土) 13:07:08.19
王が必ずしも自身で筆をふるうとは限らんぞ
文書作成などは書記がやって、王は決裁の印を押すだけかもしれん
印を押すのも担当の大臣がやるのだろうし
平原も墓の中には刀子はなくて、墓の外に埋められていた
0125日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/19(土) 13:28:14.54
5世紀の銘入りの鉄刀は
原稿を書く人と彫る職人が別であるらしく
職人自身は文字の知識がなく
書のルールとかなり外れた彫り方をしていた。

文字自体は隷書体を使用している。
0126日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/19(土) 14:16:32.22
識字率は高くなかったということか。
文字だけじゃなくて、文法も漢文で書いていたわけだから
ハードルは高かったろうな。

だがしかし王を始めとする高位の者は文字知識が必須だったろう。
じゃないと、不届き者がいて、
「皇帝ちゃーん、卑弥呼だヨーン、特別にあんたを皇帝に任命してあげちゃいます」
とか勝手に書かれてもチェックできん。
0127日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/19(土) 14:33:15.82
硯までとは言わないが
鉄製刀子が普及しているのが
魏と外交した邪馬台国の絶対条件だな。
0128日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/19(土) 16:01:08.04
>>124
その印だが、親魏倭王印は見つかっていないものの、先代の漢委奴国王印は福岡で見つかっているわけだ。
決まりだな。

未開の地であった大和の連中は魏まで使いを送れなかっただろう。
0129日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/19(土) 16:03:37.32
>>126
>だがしかし王を始めとする高位の者は文字知識が必須だったろう。
>とか勝手に書かれてもチェックできん。

それも含めて、国書の真性性と王統の正統性をあわせて保証するのが金印であっただろう。
卑弥呼が倭奴国の後継として同じ倭国の王として承認されているのだから、卑弥呼が畿内にいたらおかしなことになる。
0130日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/19(土) 16:13:53.91
そういや公孫氏へ朝貢しようとして難升米が現地に着いてみたら
公孫氏が滅亡していて
急遽魏への朝貢に切り替えたと畿内説が主張していた時代もあったなあ。

あの頃はさんざん言い合ったけど
文字を使っていたのだから国書を携えていたわけであり
現地で急遽外交相手を変えることなどありえないことも確定して
そうなると往復の時間的地理的制約から
やっぱり北部九州しかありえないわけだな。
この問題についても考古学的に結果が出た。
0131日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/19(土) 19:08:46.03
文字の無い所に国家なんて成立しないですもんね。
0132日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/19(土) 20:14:41.76
まして遠く中国と正式な国交を結ぶほどの国ですから。
手紙を書き、金印で御名御璽を明らかにしなくてはいけないわけですよ。
それができる文明社会は福岡だけです。
0133日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/19(土) 22:30:04.56
文字が東方倭種に広く伝播していたのなら逆転の目もあるけど
福岡がほとんどで
あとは日本海沿岸に分布しているのみなんだから
記紀の通りにたかだか「東征」程度だったのでしょう。
0134日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/19(土) 23:33:04.05
邪馬台国があった根拠って魏志倭人伝だろ?

そこには北部九州とも畿内とも書いてないのになんで北部九州だと思うの?
普通に呼んだら南部九州とかだろ

南と東間違えたとかあるけど、古代は今よりずっと方角とかを大事にする時代、そこを見失ったらカーナビもないし、暦も作れないし死活問題だからな
0135日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/19(土) 23:38:26.59
自女王國以北については戸數とか道里は略載できると書いてあって
郡から女王國まで12000里でおしまいだからな
足し算くらいはできるんだろ
0136日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/19(土) 23:50:35.97
里程表記
日数表記
総里程表記

これだけわかりやすい邪馬台国ウォーカーを作ってくれた陳寿に感謝だろ
香辛料の使い方を知らなくて薄味だけど
女は貞淑で酒が美味しいらしいぜ
0137日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/19(土) 23:54:53.16
距離とか日程はどのみち使うか、山道使うかで全然変わる

例えば今でも山道登る時道クネクネ登るから直線距離と進む距離は何倍も違う
道が整備されてない時代なんて言わずもがな

途中に危険な動物が出る森は避けるだろうし、神聖な場所も避けるかもしれない
0138日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/19(土) 23:57:04.26
自女王國以北 其戸數道里可得略載
遂周觀諸國 采其法俗 小大區別 各有名號 可得詳紀

略載できる
詳しく書ける

来たことの無いひとが書いた文章ではないよね
0139日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 00:10:01.27
銅鏡百枚持って山道なんぞ使わんでしょ
0140日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 00:37:25.34
固形の銅鏡ならともかく水銀五十斤で山道越えは拷問だな
どう考えても海路
陸行一月なんてありえなくて、一日が妥当
0141日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 00:38:50.00
真面目な話、小さい国々がいっぱいあったのなら、途中途中でいろんな集落よるだろうし、1番近道を通ってるとは考えづらくね?

田舎民ならわかるが、どこは寄ったのにどこは寄ってないとか角が立つし、大国の使者が来るならそれをほうぼうで見せびらかしたほうが金印よりよっぽど影響力拡大に使える
0142日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 00:40:57.58
>小さい国々がいっぱいあった

魏志倭人伝には、各国に王ではなく、官がいる

繰り返すが
「官」がいるだけ


考古学的には
王墓は筑紫のみ
0143日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 02:08:38.62
伊都が首都
0144日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 02:09:20.19
>>141
伊都からさらに奴国と不弥国には行っている。
0145日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 02:09:53.40
>水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りとするだけで、魏志倭人伝を全て矛盾なく解読する説を提案します。

全て矛盾なく解読されて考古学の裏付けもあるから平和だなあ。
0146日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 02:11:00.12
漢字の扱いに長けたものが、倭奴国を伊都国に書き改めたんだろうなあ。
倭奴は匈奴と対だったのだろうけれど。
0147日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 02:11:01.37
>>144
行ってない

奴国にあった青銅器工房の記載が一切ない
0148日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 02:12:20.01
>>147
里程が書いてあるから、行ったと思われる。
最大の国邑だし、魏の使いも視察したがったろう。
0149日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 02:13:36.88
>>148
奴国は邪馬台国の経済中心であり、
視察したなら絶対に記載されている筈です。

しかし記載がない。

よって、行っていない。
0150日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 02:17:51.36
>>149
工房は伊都にもあったし、そこらじゅうにあったんだろう。
里程が書いてあるのは、魏の使いが行ったから。
倭人は里程を知らないから、里程が書かれているところまでは行っていることになる。
だいたい、日向峠を越えて数キロしかないのだから。
0151日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 02:20:08.46
>>150
喧嘩するつもりはありませんが、
伊都の硝子工房は川の河口付近にあって、
三雲南小路周辺に駐在した魏使は見ていないかもしれません。

里程については、周旋五千里など、
明らかに行っていない領域についても記載があります。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 02:22:08.79
検討課題

甕棺墓はなぜ北部九州のしかも限定領域にしか分布していないのか
0153日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 02:24:15.81
三雲ではなく、前原あたりに滞在していたかもしれない。
奴国に向かうのに南東の日向峠に向かうことになるし。
で、最大の国邑を見ないことには、視察として不十分かと。
0154日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 02:25:46.73
>>152
そこが本来の倭国。
もっとも、王墓以外では昭和の初めまでは甕棺が使われていたとのことですが。
0155日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 02:29:21.02
>>153
くれぐれも喧嘩するつもりはありませんが、
魏使が奴国の弥生銀座を見たなら、
やっぱり記録に残すと思うんですよね
3世紀東夷世界では随一の各種工房が立ち並んで
婢ではなく、奴が汗を流している姿

記録に残ってないことが、やはり魏使が見ていない証拠と思えます
0156日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 02:29:54.29
甕棺墓の被葬部族が九州外の石剣地域と戦っていたことは考古学的に明らか

九州外の地域を武力制圧したにもかかわらず
九州外に甕棺墓が出ていかない

それどころか豊国など文化的に密接な関係が伺われる近隣地域にも
甕棺墓が分布しない地域がある

皇族だって藤原氏だって一族の中には地方に天下って文化をもたらしたわけで
なぜに甕棺墓は北武九州限定地域から出ていかなかったのか
0157日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 02:33:04.49
王墓の形式についても甕棺墓の謎が影を落とす

吉武高木は木棺墓の王を囲んで甕棺墓戦士達が取り囲む

それが春日の須久岡本は甕棺墓になり、
伊都に遷都した三雲南小路そして井原鑓溝も甕棺墓

なのに平原は方形周溝墓の木棺墓に戻る

なんなんだこれは?
0158日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 02:35:01.61
大国主は投降する条件として、自らの祭祀をしてくれることを願った

畿内で客死した饒速日を憐れんで、北部九州に遺体を引き取って供養した

これらは甕棺墓の謎を解明する手掛かりなのか?
0159日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 02:38:33.14
文化は高所から低所へ伝播していく

だったら甕棺墓も
北部九州の甕棺墓一族が九州外で客死したら現地で甕棺墓埋葬されてしかるべきはず

圧倒的な征服側にもかかわらず
ある一定地域でしか認められない墓制

そのような例が世界的に他に認められるだろうか?
0160日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 02:38:56.37
>>158
>畿内で客死した饒速日を憐れんで、北部九州に遺体を引き取って供養した

そんな話、あったっけ?
0161日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 02:43:41.20
>>160
すみません
飛躍しすぎました

先代旧事本紀での記載を意訳しすぎしました

が、
北部九州説スレなのでそう考えてみてください
タカムスビのいる天を北部九州と意訳した場合です
0162日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 02:49:28.71
甕棺墓の分布の謎は
おそらく北部九州倭国の謎の鍵

三百年の時を経て魏志倭人伝を解読した北部九州説なら
解けるはずだと思うのだが
0163日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 03:08:43.39
甕棺墓人と石棺墓人の相互依存関係
邪馬の人と投馬の人の関係
女國王女と多婆那國王のご子息が夫婦であったようにね
陸棲の倭人と親水性の倭人との共同作業
陸棲の倭人は狗とか熊とか隈とかの筋の楚系の御先祖をもち
親水性の倭人は越系の御先祖をもち海が活動フィールド
多婆那國の位置はわかるだろうから書かね
唯一無動力で半島に行けるところだけどさ
0164日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 04:17:10.69
奴国は今の博多で最大の経済都市
魏使は糸島に留められて博多市にすら入れていない

邪馬台国は魏を信用していなかった
倭国の地理を知られたくなかったのだろう
魏の侵略を恐れていたと思われる

倭人伝の方角も嘘っぱちだろう
0165日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 08:26:34.33
>>140
50斤はどれくらい?
0166日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 08:29:46.12
古代の神、すなわち王家には大きく分けて天つ神(天神)と国つ神(地祇)の分類がある。
天つ神はアマテラス(天照大神)の家系の神であり、海を越えてやってくる渡来人系の人々である。
天つ神のアマは、本来は海人の意味であったという説があり、確かにそのような読み替えは古事記などの記事を、超越的な存在を用いることなく、うまく説明することができる。
国つ神は天つ神以外の神々のことであるが、古来からの縄文系の人々や、アマテラスの直系ではない神々である。
国つ神を代表するのは全国のクニをまとめていた大国主であり、スサノヲの末裔であるといわれる。
稲の収穫を終えた神無月には神々が出雲の大国主のもとに集ったとされており、部族長が集まり祭祀を行っていたことを意味していると考えられる。
マテラスの名前は、天上を照らす太陽神の意味ではなく、本来は海洋を支配する王「海照らす」の意味であり、対馬海峡の漁撈と交易により成立した海洋国である倭国の王にふさわしい諡である。

倭国は海洋部(アマ)と陸上部(クニ)がしばしば分割統治されていたが、出雲の大国主を倒した後に海上と陸上をあわせた王となったのは、アマテラスから十種の神宝を継承した孫のニギハヤヒである。
ニギハヤヒの末裔である物部氏の伝記である先代旧事本紀における名は天照国照彦天火明櫛玉饒速日(アマテルクニテルヒコ アマノホアカリ クシタマ ニギハヤヒ)とあり、海洋と陸上を統治する王である。
その弟のニニギは古事記では天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(アメニギシクニニギシ アマツヒコヒコ ホノニニギノミコト)と表記され、やはり倭国の陸海にまたがって君臨する王である。
ニニギの称号はアマテラスから海上部、オオクニヌシまたはヤマツミから陸上部の支配権を継承したことによるものである。
0167日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 08:30:11.13
古代においては兄弟相続が一般的であり、ニギハヤヒの後をニニギが継いだが、ニニギの王統が最終的に天皇家につながると考えられたために後世ではニギハヤヒが重要視されなくなったのかもしれない。
サルタヒコは海上と陸上を支配する(照らす)神として紹介されており、博多湾岸を支配者していたが、イザナギとイザナミの子の一人であるヤマツミ(山祇、大山津見神)の下の官であったため、争うこと無く協力関係が成立したのだろう。
高祖山の麓にある高祖神社の祭神はニニギの子であるヒコホホデミである。
ニニギのもう一人の子であるホオリ(火遠理命)はワダツミ(海神、綿津見神)の娘である豊玉姫を后とし、その子のウガヤフキアエズ(鵜草葺不合命)は豊玉姫の妹の玉依姫を后としている。
ヤマツミとワダツミは九州北部の二大勢力であったが、天孫族がその間を取り持つ形で早くから姻戚関係を結び、長らく倭国王家として栄えたと考えられる。
オオヤマツミには和多志大神の別名もあり、海神としての性格も併せ持つため、ニニギより前に海洋と陸上をあわせて支配した王であるが、男系では王位を継承しなかったために歴史上はニギハヤヒやスサノヲと同様に傍系として忘れ去られようとしてしまっている。
海神と山祇の関係は、天神と地祇の関係の類型でもある。
0168日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 10:26:03.47
A、又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸
濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆?没取之
東南陸行五百里到伊都國有千餘戸
丗有王皆統屬女王國郡使往來常所駐東行至不彌國百里有千餘家

B、南至投馬國水行二十日 可五萬餘戸
南至投馬國水行二十日水行十日陸行一月 可七萬餘戸

C、自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳 
次有斯馬國 次有(二十数国)

倭人伝における、A〜Cの文脈において、
Bの部分が前後の文と繋がらない事を理解する必要が有る。
女王国以北が膨大になり、距離、方角、戸数規模に無理がある。

邪馬台国、投馬国と言う国名は、倭人伝のこの一文のみに登場するが
明らかに魏使の報告とは別のソースからのコピペであり
陳寿がペーストすべき場所を間違えているから、前後no
文脈が接続しない。
陳寿はソースを出せwww

このB文を和約すると、
(帯方郡の)南水行20日が投馬国の領土で5万戸。 つまり、馬韓、弁韓、辰韓
その南水行10日(の島領)と(九州の)陸行1月部分が邪馬台国の領土で7万戸。
その部分が、邪馬台国(=女王の倭国)である。 と書いてある。
南=南、一月行=一月行であり、倭人伝をちゃんと理解すれば当たり前のことだ。

後述される、 参問倭地絶在海中洲之上或絶或連周旋可五千餘里
が、魏使の知る女王の倭国であり、これは九州北部の南北一月行の領土である。
陸行水行は中国語であり、倭人の弁ではなく国土や島領の範囲を示している。
0169日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 10:40:42.29
>>168
理路整然とした見事な説明ですな。

ソースは
ACは職務を終えて帰国した張政らが職場に提出した報告書
Bは彼らのプライベートな旅行日誌
といったところでしょう。

最近の話では、
倭の音読み=倭国
倭の訓読み=邪馬台国
というのが面白いと思いましたが、原本では邪馬一国なのですな。

>>166
>オオクニヌシまたはヤマツミから陸上部の支配権を
興味深い一節ですな。
同族でしょうか。
0170日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 13:10:50.62
>>169
見事なソースからのコピペ間違いが有りました。
コピペ失敗の陳寿を罵倒できませんw

問題の倭人伝原文
B、南至投馬國水行二十日(官略) 可五萬餘戸
南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月(官略) 可七萬餘戸
です。

国名について、投馬国、邪馬台国は中国人による中国語名ですが、
この後すぐに、日本への馬の移入が始まりますから
対馬に対し、投げ馬の国、馬泥棒の国みたいな表意名の可能性を捜索中です。
0171日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 13:14:54.51
やまいちは無いやろ
aとiで母音が連続しとるやん

日本語は母音が連続するとき融合するので
母音が連続する単語は存在せえへん

やまいち、なら、やめち、になるはず
日本語の法則からみておかしいわ
0172日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 13:56:04.98
壹にも豆と同じトの音はある。
つまり、壹でも臺でもヤマトと読めるということ。
0173日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 16:01:57.92
魏使は梯儁等と張政等の2グループが来日しているからそれぞれのもたらした情報をコピペしたのだろうね。
彼らの旅行日誌の現物を見てみたいなあ。
0174九州王
垢版 |
2017/08/20(日) 20:16:33.26
>>155
奴国については「官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸」と記されており
戸数が有と書かれてますから魏使が直接確認してますので
魏使は伊都国に滞在してる間に奴国にも足を延ばして訪れてる
伊都国とは違い王都でないので詳しくは書かれてないのでしょう。

>魏使が奴国の弥生銀座を見たなら、
>やっぱり記録に残すと思うんですよね
>3世紀東夷世界では随一の各種工房が立ち並んで
>婢ではなく、奴が汗を流している姿

別に特記するほどのものではないですよ。
0175九州王
垢版 |
2017/08/20(日) 20:22:02.42
>>165
50斤は11kgくらいだろ
水銀朱と鉛丹をそれぞれ11kgづつだな。
0176九州王
垢版 |
2017/08/20(日) 20:27:01.44
>>168
以前にも書きましたが私の考えでは
Bの部分は公孫氏の残した資料を押収したもの
A、Cは張政らが職場に提出した報告書
0177日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 22:36:07.03
>>175
なんだ、背負って運ぶことも可能だな。
0178日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 22:41:29.62
3世紀の日本には1月も歩ける道は整備されてなかったけどね
0180日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 22:54:34.09
そんなにかかる場所はない。
奈良でさえもっと早く着く。
0181日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 23:08:17.02
魏代の軍隊で15km/日でしょ
魏使は下賜品が一杯あったから同じようなものだろう
30日で450km
福岡→奈良は現代の道路で643.2kmだね
幾内なら1月以上かかるから途中までは海路だろうけど
0182日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 23:10:17.37
魏の軍隊の15km/日って中国の平野の話だから
倭国の道なき道だとさらにかかるだろうな
0183日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 23:22:14.48
大阪上陸から奈良盆地はそれほどかからない。
0185日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/21(月) 09:11:33.42
一月行については、これも悩ましいが、隋書の
『其國境東西五月行南北三月行各至於海』 琵琶湖を海と見てたら楽しいけどねw
を基準に考察(辻褄を合わすw)すべきかと思う。

隋使は600年斑鳩で天皇に謁見しているが日本列島についての土地勘は無い。
南北3月行は領土の範囲なら九州島の南北。 東西五月行は奈良の東の山までと考える。
あるいは、行程の単位として
楽浪=平壌付近から九州が三月行、九州から瀬戸内海航路が五月行ということかも。

邪馬台国の領土は九州島の北部の一月行、三分の一と言う事だ。
0186日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/21(月) 09:52:51.52
>>182
何処の国の軍隊も道なき道を進む
魏の軍隊の15km/日も道路関係なし
軍隊は道か無くとも道路を建設し川には橋を架ける

個人的な旅では道の無い所は進めない。
0187日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/21(月) 10:18:26.11
魏使は軍隊だね、民間の商人じゃない
それに縄文時代から交易のための道らしきものはあっただろうね
0188日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/21(月) 10:36:25.06
塞曹掾史の張政は文官ですよね
東夷に赴くから武官も何人か付いてきたかもしれないけど
魏使は工兵部隊もいないし軍隊ではなく道なき道は進めない
縄文時代から交易のための道らしきものはあっただろうけど
近くと近くを結ぶだけで袋小路だらけで広域的な道は無く遠くまでは行けない。
0189日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/21(月) 10:38:45.70
道なき道を進むために来たんだから工兵も一緒にきただろ
0191日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/21(月) 11:05:19.41
>>189
そんな形跡ないし
わざわざ工兵連れて来るくらいなら
目的地の近くの海岸まで船で行く
道案内のために倭の使者達も同行したはずだしな。
0192日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/21(月) 11:19:26.54
普通に考えて軍人相手に正直に自国の地理を教えるかね?
邪馬台国の役人は魏の役人に嘘の方角を教えているだろう

そもそも魏の役人は伊都国までしか入れてもらっていない
あとは伝聞だ
邪馬台国は魏に朝貢はしても信用はしていなかったと思われる
0193日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/21(月) 11:47:32.94
>>192
伊都国に長期間滞在してたから
近所の奴国、不彌国までは行ってるね。
0194日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/21(月) 11:53:12.92
>>191
倭の使者と同行したんだから道がどうのこうの言う必要はない
間違いなく目的地にたどり着いたわけだから
0195日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/21(月) 12:20:45.66
魏の使者は邪馬台国まで行ってないのでは?
卑弥呼にも当然会っていない
0197日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/21(月) 13:26:37.77
張政は帯方郡の武官で卑弥呼に狗奴国との紛争の調停を頼まれて皇帝の命を受けて来た。
つまり、邪馬台国は完全に魏の冊封国。 畿内説なんて有り得ない。

そもそも畿内朝廷が九州を平定する以前に九州勢が瀬戸内海航路を抜けるなんて事は不可能。
邪馬台国時代中に、一大率による大倭の九州支配統治の可能性は否定しないが、
記紀により九州が日本固有の領土とされる要因の663年以降まで、筑紫の君に自治を許したとしても
朝貢、徴税は百済同様、傀儡国である九州から畿内へであり、九州が日本に文明を伝えたw、である。
260年時点で田舎武官の張政ごときに軍事援助されて治まってる九州はヘタレもいいとこなのである。

300年辺りからの百済新羅建国に繋がる半島進出は
九州平定の後、対馬航路が畿内朝廷の支配を受けてから始まった。
これによって400年位までに高句麗馬の移入や製鉄の国内化を果たした訳で、
古代東亜の歴史の必然と言うものである。
 
邪馬台国論争は日本の古代『韓』=半島支配の歴史をうやむやにする
大韓帝国建国、日韓併合以降の戦前戦後の半島配慮の御用学者の仕事である。

>>168 の B、南至投馬國水行二十日(官略) 可五萬餘戸は韓であり
南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月(官略) 可七萬餘戸 が邪馬台国
参問倭地絶在海中洲之上或絶或連周旋可五千餘里
つまり、魏が倭地の一部であるとする、九州北部が魏の冊封国 邪馬台国である。
倭人伝は記紀とは違い、時系列を偽らない正史。
0198日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/21(月) 13:31:45.23
>>195
そんな勅使がいたらもし通りクビが飛ぶよ。
目的地が伊都国そのもので、そこで卑弥呼に謁見したんだよ。
0199日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/21(月) 14:11:32.60
魏使自身が卑弥呼は女給1000人の砦に籠って人と会わないと書いてある。
政治向きは弟に任せている、とも有るが実効支配は謎の一大率。 
魏使は相当無能
0200日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/21(月) 14:34:15.19
>>197
塞曹掾史は文官です武官ではありません
張政は軍人ではなく事務方です。
一大率は女王国以北(狗邪韓國、對馬國、一大國、末盧國)に置かれていまし>>195
た。
>>198
ですよねw
>>199
一大率は卑弥呼に従い、目となり手足となって国を治める機関。
0201日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/21(月) 15:21:22.23
>>197
張政は武官じゃなくて政治職員だね

>西漢官制表
>塞曹掾史, 掌辺塞之職。 (国境の要塞の職を司る政治職員)
>→塞曹掾史は政治職員であって軍人ではない。しかも掾史だから長じゃなくて副官。
0202日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/21(月) 17:06:58.27
要塞そのものが軍事施設だから、その文章では武官か文官かわからないな。
0203日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/21(月) 17:09:51.94
>>202
1行抜けてたわ

>西漢官制表
>政法官員:   ←これ
>塞曹掾史, 掌辺塞之職。 (国境の要塞の職を司る政治職員)
>→塞曹掾史は政治職員であって軍人ではない。しかも掾史だから長じゃなくて副官。
http://baike.baidu.com/view/1769475.htm
0204日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/21(月) 17:40:26.74
文官だな。
多分、自分では歩かずに、輿に乗って移動させられたぞ。
御輿はそもそも貴人を乗せるためのものだからな。
0205日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/21(月) 19:53:59.48
張政は文官→軍隊が道なき道理論敗退w
0207日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/21(月) 20:04:35.91
歩けないし、輿に乗せずに歩かせたら、担当者のクビが飛ぶ。
0208日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/21(月) 20:04:57.21
>>168
で問題ないからなあ

街道なき弥生時代に1か月も歩いたというなら
どこからどこまで歩いたのか
そして何のために乗ってきた船を降りてまでわざわざ歩く必要があったのか。
せめてそれくらいは必然性の伴う説明が出来んとスレ汚しにすらならんなあ。
0210日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/21(月) 20:52:04.16
船旅の方が楽なのに何で1月も歩く必要があったのか?
道なき道を1月も旅なんてできるのか?
どう考えても陸行一月は陸行一日の誤記だよな。
0211日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/21(月) 21:01:34.33
>>209
皇帝からの詔書を携えた勅使であり、格は卑弥呼と同格かそれ以上のはず。
卑弥呼が地面を歩いたとは思わないし、郡使もまた輿に乗っただろう。
0212日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/21(月) 21:20:02.02
>>210
日日ときて、弥生時代の地勢的に不可能と思われる一月ですからな。
陸行一日の誤記でズバリでしょう。
0214日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/21(月) 23:08:53.78
唐津から三雲は1日で移動できるの?
0215日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 06:29:14.82
不動産広告の駅から徒歩〇〇分というのは、
歩行速度時速4.8kmだから、

魏の使節が6月頃に来たとして、 唐津で一泊して体調を整えて翌朝出発とする。
もしくは輿に載せて運ぶとする。

朝8時に起床して、午前に12時まで4時間陸行。
1時間昼休みをとって、午後に13時から17時まで4時間陸行。

途中休憩計1時間で夕方5時まで歩いたとして
8時間×4.8=38.4kmで、唐津から三雲まで1日で移動することは可能。

・末廬國こそ道が悪かったが、伊都近辺は普通の道だったと記録されている
・道案内や護衛がつくので迷ったりの時間ロスは無い
・魏使をはじめ弥生時代はみな歩き慣れている
・そもそも一里=約77メートル=一日の陸行距離
・自領での陸行なので、多少遅れて日が暮れても安全に進行できる

結論としては、
晴れた日の朝に唐津を出発すれば、夕方には伊都三雲の迎賓館で風呂に入れた。
0216日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 06:46:27.01
不動産広告の駅から徒歩〇〇分というのは、
歩行速度時速4.8kmだから、

魏の使節が6月頃に来たとして、 唐津で一泊して体調を整えて翌朝出発とする。
もしくは輿に載せて運ぶとする。

朝6時起床で8時に出発して、午前に12時まで4時間陸行。
1時間昼休みをとって、午後に13時から17時まで4時間陸行。

途中休憩計1時間で夕方5時まで歩いたとして
8時間×4.8=38.4kmで、唐津から三雲まで1日で移動することは可能。

・末廬國こそ道が悪かったが、伊都近辺は普通の道だったと記録されている
・道案内や護衛がつくので迷ったりの時間ロスは無い
・魏使をはじめ弥生時代はみな歩き慣れている
・輿に載せて専門の担ぎ職人が交代しながら担ぐのなら更に速度は速くなる
・自領での陸行なので、多少遅れて日が暮れても安全に進行できる

結論としては、
晴れた日の朝に唐津を出発すれば、夕方には伊都三雲の迎賓館で風呂に入れた。
0219日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 07:20:52.23
下賜品を背負うのは奴婢だから。
0221日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 08:06:55.81
>>217
下賜品は出迎えの倭人が港から都まで運んでくれるよ
魏の使節は手ぶらで移動。
0222日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 08:27:48.80
使節団は皇帝の代理だからな。
今だって、外交使節団は赤いカーペットで出迎えて車で迎賓館まで送るだろう。
彼らが土を踏むようなことがあってはならないんだよ。
それがルール。
0223日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 08:29:08.64
>>218
陸行一月が一日の間違いであったことは確かとして、なぜ唐津に上陸したんだ?
0224日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 08:38:15.11
上陸したのは唐津じゃなくて呼子だろ
大陸に一番近いし呼子は天然の良港で整備しなくても比較的大きな船も入港できたからな
呼子から糸島までが一日だな。
0226日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 09:42:17.64
(帯方郡の)南水行20日が投馬国の領土で5万戸。 つまり、馬韓、弁韓、辰韓
その南水行10日(の島領)と(九州の)陸行1月部分が邪馬台国で7万戸。
その部分が、邪馬台国(=女王の倭国)の領土である。 と 倭人伝には書いてある。 
一戸を4〜8人とすると30万〜人60万人、
都市の場所への旅行行程ではなく国土全体でなければならない。

陸行水行は中国語であり国土や島領を俯瞰的に見た範囲を示している。
南=国土の南端に至る南北の全長 であり、一月行=一月行である。
参問倭地絶在海中洲之上或絶或連周旋可五千餘里
九州のこの範囲が南北一月行である。

隋書の日本は 「其國境東西五月行、南北三月行」
隋使の日本地理は九州が南北三月行、
東西が瀬戸内海航路からの斑鳩の東の山までの五月行であり
九州三月行の三分の一は、倭人伝の邪馬台国の範囲一月行に一致する。
隋書の記録は実際に3か月、5か月をかけた旅行記録では無い。
0227日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 09:51:58.07
>>225
荷物を運ぶには人間だけの移動より時間が掛かる
魏使の場合は荷物は別に後から着いても構わんわけだ。
0230日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 11:27:02.98
末廬國の一大率が警備するから安全だろw
0231九州王
垢版 |
2017/08/22(火) 12:05:05.51
>>226
>(帯方郡の)南水行20日が投馬国の領土で5万戸。 つまり、馬韓、弁韓、辰韓

前半はいいけど、つまりの意味が分からんな
投馬国=馬韓、弁韓、辰韓ってこと?
馬韓だけで10万戸あるからこれは可笑しいでしょ。

>その南水行10日(の島領)と(九州の)陸行1月部分が邪馬台国で7万戸。

水行や陸行は旅の行程に掛かる時間であり
邪馬台国の大きさではない。

>その部分が、邪馬台国(=女王の倭国)の領土である。 と 倭人伝には書いてある。
この解釈は無理でしょ。

>一戸を4〜8人とすると30万〜人60万人、
> 都市の場所への旅行行程ではなく国土全体でなければならない。

旅の行程を説明してますから国土全体じゃないですね。
0232九州王
垢版 |
2017/08/22(火) 12:06:23.68
>陸行水行は中国語であり国土や島領を俯瞰的に見た範囲を示している。
>南=国土の南端に至る南北の全長 であり、一月行=一月行である。

根拠は???

>参問倭地絶在海中洲之上或絶或連周旋可五千餘里
>九州のこの範囲が南北一月行である。

7000里を20日ですから5000里に1月は計算に合わない
残念でした。

>隋書の日本は 「其國境東西五月行、南北三月行」

この月だと其國は大陸級の大きさが必要となる
これも月は日の誤記でしょうね
九州倭国の大きさを示したもの。
0233日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 16:16:30.81
>7000里を20日ですから5000里に1月は計算に合わない

九州北部の南北一月行に有る二重数国が 周旋可五千餘里 であって 
九州北部の南北一月行の範囲の国々を徒歩で廻り辿れて5千里くらいと言っている。 理解できてるか?

>根拠は???
根拠として、裴世清が隋書で日本の国土を
九州の南北三月行、九州から奈良の東までの五月行と認識していた。とする。

隋使は実際に来日して見た範囲の日本国土を南北三月行、東西五月行と言っている
それが、根拠であり、文献検証を提示している。

>其國は大陸級の大きさが必要となる
それこそ、中国文献が示す一月行を理解するための根拠がない。

隋の済州島への行程も南三月行である。
隋の起点は平壌付近か遼東か不明だが、一致はする。

これによって、日本の範囲も対馬海域を含む可能性は有る。
一月行は水行、陸行で里程が変わる性質の単位ではなく、
国土や海域について直線距離の南北、東西を示していると考え得る。
0234日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 17:04:23.44
そもそも日本ではなく、倭国なんだが。
0235日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 17:17:16.35
>>233
帯方郡から狗邪韓國までが7000里
ここが水行20日ですから5000里だと14日程度でしょ
1月が掛かりすぎ計算が全然合わないwww
君の考えが誤っている証拠。

>隋使は実際に来日して見た範囲の日本国土を南北三月行、東西五月行と言っている
>それが、根拠であり、文献検証を提示している。

君が好きなように解釈してるだけで根拠じゃないですねw

>隋の済州島への行程も南三月行である。

百済から済州島への行程が南三月行でしょ
この場合も南三日行の誤記ですね。
0236日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 18:27:59.29
>後の奈良、平安の都と九州北部、大宰府の関係に近いな。傍国は畿内の国名に近い。

斯馬國 (伊勢志摩の志摩国)
已百支國 (後の五百木 三重県堺)
伊邪國 (伊勢志摩の伊勢イゼ)、
都支國 (美濃国土岐郡)、彌奴國(美濃国)
好古都國 (大阪,高津の宮は官営港が有った所、東成、西成)
不呼國 (深野池ふこのいけ大阪東部寝屋川市に有った大池、歴史的にも有名)
姐奴國 蘇奴國、對蘇國 (不明)
呼邑國 (甲賀こうかの国)
華奴蘇奴國 (添上郡(そえかみぐん)添下郡(そえじもぐん)は、奈良県(大和国)にあった郡)
鬼國 (紀国、和歌山?)(「紀伊国」になったのは紀氏が開拓してから)
爲吾國 (伊賀の国)
鬼奴國 (三重の桑名、くな、きな?)
邪馬國 (後の京都盆地、山背国、山城国だと思う)
躬臣國 (櫛田神社,櫛田川 三重松阪市)
巴利國 (播磨の国)
支惟國 (吉備「キビ」か?)(紀伊/きい(旧紀伊郡、京都市南区?)
烏奴國 (宇陀郡(奈良県)うの国)
0237日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 18:39:09.53
水行十日、陸行一月は
ちょうど九州北部から奈良盆地までの距離に近い。
藪深い古代の道なら一月くらい掛かるかも。
0238日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 18:55:35.64
>>232
>隋書の日本は 「其國境東西五月行、南北三月行」

これは九州北部から今の関東まで東西五月行
で東北地方が南北三月行で大体合う、
東北地方は縄文時代より行き来が盛んで関東までの距離と一致する。
0239日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 19:12:33.70
>>238

これは倭国(阿波)から今の関東まで東西五月行
で東北地方が南北三月行で大体合う、
東北地方は縄文時代より行き来が盛んで関東までの距離と一致する。   @阿波
0240日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 19:17:04.16
>>236は意味が無いな
名前なんて語呂合わせで何とでもなるからな。

>>237
陸行一月だけで九州北部から関東くらいに付くよw

>>238
一月行が1000q近い
五月行では5000q大陸級の大きさ
関東までの距離となんて一致しない。
0241日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 19:29:15.68
>>240
後の時代へと続く地名じゃないと、ただ語呂合わせ地名では意味ないよ
7世紀後半からの日本国内の地方行政区分、国(令制国)の一覧に出て来る
国名や郡名に近い音で合してる。
0242日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 19:31:25.31
>>236
考えても 考えても なお 自説地点に着かざり じっと地図を見る
0243日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 19:56:16.88
>>241
律令制は、倭国からの地名の移転が完了しているから意味がない。
0244日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 19:56:55.13
少なくとも陸行一月は畿内ではない。
0245日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 20:27:46.60
邪馬台国が機内にあったらネトウヨが大はしゃぎするだろう
俺は機内説大嫌い
0247日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 22:56:21.52
大人の歩行速度=5km/時

3時間しか歩かないのかな?

まさか船を降りて藪道を一ヵ月漕ぎ続けるのか?

鉄器の無い未開の土人集落に辿り着くため?
0248日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 22:58:55.93
人食い人種の倭人を支那糞の施設が恐れたのかもしれないな
0249日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 23:07:15.69
4〜5km/hはちゃんとした道のある平地の話
軍隊は荷物が重い、食料も必要だし、そんなに早くは歩けない
また、15km/日は大陸の平原の話だから、倭国の道なき道ならもっとかかっただろう
藪漕ぎもあり、稜線歩きもあり
0250日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 23:10:53.01
軍隊を輸送したのならそのまま目的地まで海上輸送する
0251subo
垢版 |
2017/08/22(火) 23:30:06.22
>>238
九州本島の東西南北の陸行なんだ
0252日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 23:41:51.85
>馬韓だけで10万戸あるからこれは可笑しいでしょ。
スゴイ情報だけどソースは? 
北部九州七万が全員半島に移民すりゃ10万は超えるなw
いつの話だよ?
0253日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 23:50:37.92
帯方郡から半島南端が20日行であることが明らかなのに
一月行が15日行であることに気付かない奴は多分馬鹿だぞ?
0254日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/23(水) 06:28:23.38
今さら議論する問題じゃなくって、
固定座標が決まっているから、結果も最初から決まっているでしょ。

対馬・壱岐は固定
伊都の三雲南小路遺跡も考古学的に固定

壱岐から千里という条件と
三雲南小路から五百里という条件
これも固定

地図を見たら、唐津を直角点とした、
壱岐・三雲・唐津を頂点とする、辺が2対1の直角三角形なわけで、
その固定条件を満たす場所は、唐津になる。

なんのことはない、単純明快な解答だよ。


漢と伊都の交流が密だったことは三雲の楽浪土器や硯が証明しているのだから、
三雲南小路や井原鑓溝の縮小版王墓である
宇木汲田や桜馬場の被葬者は、
漢代における唐津国際港の長官だったわけだ。

東アジアが動乱期に入ると唐津長官がいなくなるということは、
公孫氏との交流も
魏との交流も
晋との交流も
「漢代に比べると」疎だったことも考古学的にわかる。
0255日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/23(水) 06:47:19.79
>>252
三国志魏書東夷伝韓
0256日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/23(水) 06:49:09.94
>>253
一月行が15日行であるとする理由が分かりませんが?
0257日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/23(水) 07:03:41.70
>>254
>漢代における唐津国際港


対馬海流に流されて、「唐津国際港」は有り得ない。  @阿波
0258日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/23(水) 08:55:36.58
>>255
ありがとうございます。
同、韓伝によって、当事の辰韓は馬韓に属していた事
魏が楽浪郡帯方郡を正始七年(246)に設置した事が判りますので
266年時点での馬韓の10万戸〜7万戸の人口や面積の変化は
時系列での想定の範囲内に有ることが判ります。
0259日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/23(水) 09:27:28.10
>>256
短絡的に1月を月齢の15夜としたと思うけど
帯方郡ソウル?から半島南端が20日行なら
現実的に邪馬台国の範囲である一月行は10日行程度かも?

もう一つ例示可能な10日行の対馬航路から鹿児島南端が30日行位で
倭国は南北3月行(月齢根拠だと45日行?)の国なら辻褄は合うか?
魏の里程と隋唐の里程も違うけど、3世紀文献は少ない。
0261日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/23(水) 11:28:38.03
>>257
唐津の人にどやされるよw
>>258
君は勉強不足過ぎるよ。
>>259
1月を月齢の15夜・・・そんな例ないでしょ
一月行は邪馬台国の範囲ではなく行程

変てこな意見が多いなw
0262日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/23(水) 12:15:50.83
>>254
邪馬台国当事の対馬貿易に係わったと思われる九州都市遺跡について
特徴的なのは、その当時のままて都市が継続発展していないという事がある。
ポンペイかw 墳墓、古墳であれば王朝や豪族が継続する限りにおいて残る。
都市が新規造営されず遺跡になるのはそのまま滅びているからだ。

266年に張政を送還して以降、これらの九州勢力が畿内朝廷に平定され、廃嫡または臣下として
この後本格化する半島や安曇氏のように地方開拓に配流されていると見るべきではないか?
後世において氏神が全国に広がるのはその故地で栄えた氏族ではないからだろう。

畿内朝廷の銅鐸祭祀による縄文人との融和、自然崇拝からの就農誘致政策は、
九州の先行弥生文化と大陸外交の存在を知って、古墳、富国強兵政策に切り替えられた。
3〜400年の百済新羅建国、高句麗戦争と高句麗馬の移入、4〜500年の南朝との半島利権交渉。
貿易の唐津長官じゃなくて、半島に進攻して皇子を人質に取って保護国にしてる軍事帝国化してるんだけどね。
傀儡国百済が朝貢すると、七支刀や五経博士や仏教が下寵されて、それを日本に献上させてるw
大昔の中国のエロい人曰く、隣国に文明を与える国は亡びる。

記紀がこれらを伏せるのは、単に皇国史観の徹底の為か?
1900年以降なら、半島配慮で邪馬台国論争盛上げる御用学者の存在も判るけど、
まあ、水戸光圀も弥生渡来豪族の歴史は糞面白くなかったらしいからそんなモンだろな。

魏志倭人伝当時の中国人が
日本については九州までしか知らなかったのは
倭人伝によって明らかだ。
0263日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/23(水) 12:35:21.69
>>261
>唐津の人にどやされるよw


魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。   推して知るべし  @阿波
0264日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/23(水) 12:36:55.54
>>254
>漢代における唐津国際港


対馬海流に流されて、「唐津国際港」は有り得ない。  @阿波
0265日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/23(水) 12:39:10.54
>>261


よって、対馬海流に流されて、スレタイ「邪馬台国は北部九州に在った」は有り得ない。  @阿波
0266日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/23(水) 13:11:20.45
>>261
水行10日陸行一月に、対馬〜壱岐〜末露 のような
宿泊地や経過都市の行程が示されていないから
倭国の南北は三月行と言う文献が示す例を示して、
南1月行は九州島の北部三分の一だとしている。

そもそも1日ってのは経過時間だけど、行程としての用法に有り得ないだろ?
徒歩一日と言いたいなら徒歩何時間、刻でなければ何も表現していない。
三千里を10日とする例が有れば1日は三百里になるけど
これは里程、尺度であって行程とは言わない。 

一日説は文献的に無理筋。
もういいです。
0267日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/23(水) 19:43:09.35
>>266
あんたがもういいからw
さいなら
0268日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/23(水) 20:10:44.75
>不動産広告の駅から徒歩〇〇分というのは、
>歩行速度時速4.8kmだから、

>魏の使節が6月頃に来たとして、 唐津で一泊して体調を整えて翌朝出発とする。
>もしくは輿に載せて運ぶとする。

>朝6時起床で8時に出発して、午前に12時まで4時間陸行。
>1時間昼休みをとって、午後に13時から17時まで4時間陸行。

>途中休憩計1時間で夕方5時まで歩いたとして
>8時間×4.8=38.4kmで、唐津から三雲まで1日で移動することは可能。

>・末廬國こそ道が悪かったが、伊都近辺は普通の道だったと記録されている
>・道案内や護衛がつくので迷ったりの時間ロスは無い
>・魏使をはじめ弥生時代はみな歩き慣れている
>・輿に載せて専門の担ぎ職人が交代しながら担ぐのなら更に速度は速くなる
>・自領での陸行なので、多少遅れて日が暮れても安全に進行できる

>結論としては、
>晴れた日の朝に唐津を出発すれば、夕方には伊都三雲の迎賓館で風呂に入れた。

水行二十日・水行十日・陸行一日で文献的にも筋が通る。
0270日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/23(水) 22:07:10.56
>>261
>>261
水行十日陸行一月に、対馬〜壱岐〜末盧のような
宿泊地や経過都市の行程が示されていない、
倭国の南北は五月行と言う文献が示す例があり、
南一月行は九州島の北部五分の一だとしている。

そもそも1日ってのは経過時間だけど、行程としての用法に有り得ないだろ?
歩行一日と言いたいなら徒歩何時間、刻でなければ何も表現していない。
帯方郡〜末盧國間11400里を10日とする例が有るので1日は1140里になるが、
これは里程、尺度であって行程とは言わない。 

一日説は文献的に無理筋。
もういいです。
0271日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/23(水) 23:00:20.28
>>268
>魏の使節が6月頃に来たとして、 唐津で一泊して体調を整えて翌朝出発とする。


対馬海流に流されて、末羅國(呼子・唐津)は有り得ない。

魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。   推して知るべし  

よって、対馬海流に流されて、スレタイ「邪馬台国は北部九州に在った」は有り得ない。  @阿波
0272日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/23(水) 23:09:29.40
対馬海流
以下の点から、末盧國側の到着地点は呼子だと確定する。

・壱岐〜呼子は23kmと短距離な上に、間に馬渡島や加唐島があって安全性が高い。
・壱岐〜呼子の潮流は、日によって方向が変わる。(下記参照)
・楽浪土器など海外土器は伊都(沿岸〜三雲)に、日本国内各地からの土器は奴国に集中。
(国内船で混雑する博多湾と、朝鮮半島からの国際線を別々に管理)

☆潮流の向きは変化する。
対馬海峡:朝鮮半島〜対馬〜壱岐〜九州北岸 は以下の部分に分けられる。

対馬海峡西水道(朝鮮海峡):朝鮮半島〜対馬、60km
対馬海峡東水道(狭義の対馬海峡):対馬〜壱岐、55km
(壱岐から九州までは近距離にて水道外:壱岐〜呼子、23km)

潮流の向きは、海底地形や気象、潮の干満によって影響されて日々変化する。

壱岐〜呼子の表層流(海洋レーダーシステム)
<2011年6月> 北東・東:3 南西・南・南東11 北8 西3 乱流4 (日)
<2012年6月> 北東・東:3 南西・南・南東10 北7 西9 乱流1 (日)
<2013年6月> 北東・東:4 南西・南・南東6 北8 西10 乱流2 (日)
<2014年6月> 北東・東:2 南西・南・南東7 北9 西10 乱流2 (日)
<2015年6月> 北東・東:1 南西・南・南東6 北19 西3 乱流1 (日)

極端に北向きの流れが多い2015年を除いて、2011年から2014年までを平均すると、
南向き34(壱岐→呼子:28.6%) 東向き12(10.1%) 
北向き32(呼子→壱岐:26.9%) 西向き32(26.9%) 乱流9(7.6%)
0273日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/23(水) 23:17:30.95
>>270
>水行十日陸行一月に、対馬〜壱岐〜末盧のような
>宿泊地や経過都市の行程が示されていない、

詳細な里程と、大まかな日程の二段構えと解釈する
>>168に対する反論になっていない。

>倭国の南北は五月行と言う文献が示す例があり、
>南一月行は九州島の北部五分の一だとしている。

別の文献を持ち出しても、五月行が水行なのか陸行なのかもわからないし、
同じ陸行だとしても時代が異なれば道路状況や勢力分布が全く異なるので
比較対象として不適切。

>そもそも1日ってのは経過時間だけど、行程としての用法に有り得ないだろ?

倭人伝において、水行二十日、水行十日と、2回も用例として用いられている。
よって有り得る。

>帯方郡〜末盧國間11400里を10日とする例が有るので1日は1140里になるが、

そのような例は無い。

反論のつもりかもしれないが、
非常に説得力の無い内容であり、スレ汚しにしかならないから、
よく再考してから出直してくることをお勧めする。
0274日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/23(水) 23:20:23.72
文永の役(1274)
10月5日 対馬に襲来
10月14日 壱岐に上陸
10月16日 肥前沿岸の松浦郡・平戸(長崎県)・鷹島(伊万里)に襲来

松浦党一族が防戦するも全員戦死

呼子どころか
平戸や伊万里へ襲来している。
0275日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 00:06:00.03
全く対馬海流に流されてないなw
0276日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 00:25:00.56
対馬海流よか表層流のほうが強い
阿珂馬ヶ関からの吐出流のやつね
対馬北部・金海まで、漕がなくても無動力で流れ着けちゃう
0277日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 00:30:32.68
帶那珂卑狗は那珂を治める卑狗なんだけど
「坐 穴門之豐浦宮 及筑紫 訶志比宮 治天下也」
「帶」というのはもれなく「那珂の外から入り婿して」の意味ぢゃろ
0278日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 01:29:07.28
>>277
なんでそうなるんだよ
0280日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 05:22:02.10
>>274
>呼子どころか
>平戸や伊万里へ襲来している。

「相島経由」で襲来ですね。  襲来されて喜んでいてもだめですよ。

対馬海流に流されて、末羅國(呼子・唐津)は有り得ない。

魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。   推して知るべし  

よって、対馬海流に流されて、スレタイ「邪馬台国は北部九州に在った」は有り得ない。  @阿波
0281日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 06:09:58.27
文永の役(1274)
10月5日 対馬に襲来
10月14日 壱岐に上陸
10月16日 肥前沿岸の松浦郡・平戸(長崎県)・鷹島(伊万里)に襲来
10月20日 博多へ襲来

松浦党一族が防戦するも全員戦死

呼子どころか
平戸や伊万里へ襲来している。
0282日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 06:10:25.70
「対馬海流が壱岐九州間では日によって向きが変わる事実」から逃げ続ける阿波説

「楽浪土器が伊都までしか来ていない事実」から逃げ続ける阿波説

元寇や朝鮮通信使を持ち出して誤魔化してもだめですよ。

阿波説=事実と向き合えない嘘つき 確定
0283日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 06:13:28.11
>>平戸や伊万里へ襲来している。
>「相島経由」で襲来ですね。

相島経由で平戸や伊万里へ襲来できるならまさに西向きに進めてるじゃんw
バカじゃね?w
0284日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 06:42:46.77
>>283
>相島経由で平戸や伊万里へ襲来できるならまさに西向きに進めてるじゃんw
バカじゃね?w


対馬海流に乗って相島まで来れば、あとは沿岸航行で平戸や伊万里へ襲来。 
バカじゃね?w

魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。   推して知るべし  

対馬海流に流されて、末羅國(呼子・唐津)は有り得ない。

よって、対馬海流に流されて、スレタイ「邪馬台国は北部九州に在った」は有り得ない。  @阿波
0285日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 06:43:12.88
>>280
元寇は相島に襲来してないwww
0286日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 06:50:03.48
>>285
>元寇は相島に襲来してないwww


相島を襲来してどうすんの?

バカじゃね?w   @阿波
0287日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 07:05:10.65
>>286
相島は博多湾を越えた東側

そこを足場にして
16日に平戸攻略
20日に博多攻略
と阿波説は言ったわけだ。

そもそも相島に元寇は襲来していないし、
完全なる阿波説のミスリード。

阿波説=事実と向き合えない嘘つき 確定


文永の役(1274)
10月5日 対馬に襲来
10月14日 壱岐に上陸
10月16日 肥前沿岸の松浦郡・平戸(長崎県)・鷹島(伊万里)に襲来
10月20日 博多へ襲来
0288日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 07:07:29.01
@そもそも相島に元寇は襲来していない

A相島は博多湾を越えた東側

そこを足場にして沿岸航行で
16日に平戸攻略
20日に博多攻略
ということは全くありえない。

完全なる阿波説のミスリード。
適当に口から出まかせの阿波説。

阿波説=事実と向き合えない嘘つき 確定


文永の役(1274)
10月5日 対馬に襲来
10月14日 壱岐に上陸
10月16日 肥前沿岸の松浦郡・平戸(長崎県)・鷹島(伊万里)に襲来
10月20日 博多へ襲来
0289日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 07:08:32.58
対馬海流
以下の点から、末盧國側の到着地点は呼子だと確定する。

・壱岐〜呼子は23kmと短距離な上に、間に馬渡島や加唐島があって安全性が高い。
・壱岐〜呼子の潮流は、日によって方向が変わる。(下記参照)
・楽浪土器など海外土器は伊都(沿岸〜三雲)に、日本国内各地からの土器は奴国に集中。
(国内船で混雑する博多湾と、朝鮮半島からの国際線を別々に管理)

☆潮流の向きは変化する。
対馬海峡:朝鮮半島〜対馬〜壱岐〜九州北岸 は以下の部分に分けられる。

対馬海峡西水道(朝鮮海峡):朝鮮半島〜対馬、60km
対馬海峡東水道(狭義の対馬海峡):対馬〜壱岐、55km
(壱岐から九州までは近距離にて水道外:壱岐〜呼子、23km)

潮流の向きは、海底地形や気象、潮の干満によって影響されて日々変化する。

壱岐〜呼子の表層流(海洋レーダーシステム)
<2011年6月> 北東・東:3 南西・南・南東11 北8 西3 乱流4 (日)
<2012年6月> 北東・東:3 南西・南・南東10 北7 西9 乱流1 (日)
<2013年6月> 北東・東:4 南西・南・南東6 北8 西10 乱流2 (日)
<2014年6月> 北東・東:2 南西・南・南東7 北9 西10 乱流2 (日)
<2015年6月> 北東・東:1 南西・南・南東6 北19 西3 乱流1 (日)

極端に北向きの流れが多い2015年を除いて、2011年から2014年までを平均すると、
南向き34(壱岐→呼子:28.6%) 東向き12(10.1%) 
北向き32(呼子→壱岐:26.9%) 西向き32(26.9%) 乱流9(7.6%)
0290日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 07:09:16.07
今さら議論する問題じゃなくって、
固定座標が決まっているから、結果も最初から決まっているでしょ。

対馬・壱岐は固定
伊都の三雲南小路遺跡も考古学的に固定

壱岐から千里という条件と
三雲南小路から五百里という条件
これも固定

地図を見たら、唐津を直角点とした、
壱岐・三雲・唐津を頂点とする、辺が2対1の直角三角形なわけで、
その固定条件を満たす場所は、唐津になる。

なんのことはない、単純明快な解答だよ。


漢と伊都の交流が密だったことは三雲の楽浪土器や硯が証明しているのだから、
三雲南小路や井原鑓溝の縮小版王墓である
宇木汲田や桜馬場の被葬者は、
漢代における唐津国際港の長官だったわけだ。

東アジアが動乱期に入ると唐津長官がいなくなるということは、
公孫氏との交流も
魏との交流も
晋との交流も
「漢代に比べると」疎だったことも考古学的にわかる。
0291日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 07:12:15.36
「対馬海流が壱岐九州間では日によって向きが変わる事実」から逃げ続ける阿波説

「楽浪土器が伊都までしか本格分布していない事実」から逃げ続ける阿波説

元寇も壱岐から松浦平戸伊万里へ襲来。

阿波説=事実と向き合えない嘘つき 確定
0292日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 07:55:22.71
海上の流れには海流以外に潮流もある
海流は日によって流れ変わり、潮流に至っては日によって向きまで変わる
倭人は古来よりこれを利用し九州と半島の間を自由自在に往来していた
泡君の言ってることは事実に反するね
基本がなってない。
0293日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 08:19:59.68
そもそも倭国は天津神こと海の神とも呼ばれるほど、海上交易を得意とした国で、対馬海峡の交易の利益が成長の源泉であったと考えられる。
それゆえ、都は長らく博多湾沿岸に置かれており、邪馬台国も同様であった。と考えられる。
0294日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 08:33:41.63
>>273
>>266 = >>168 なんだが、もうよくないしwww どうしてこうなる?
>>270 は私のレスの引用元、倭国は南北三月行、東西五月行の文献の南北を東西に偽証している。
どこの畿内説だよwww また、
>帯方郡〜末盧國間11400里を10日とする例  それって投馬国の20日+対馬航路の10日だし。
ではなく、水行十日は狗邪韓國から末盧國であってこれに3千里の例が有るから一日が3百里にならなる。
270は、なんで、他人のレスを破滅偽装するんだ? もうよくないw だろ?

ちな、隋唐書では陸行1月と水行、海行1月は里程としては同じみたいだよ。 
里程の違いも有るが、漢、魏、唐のそれぞれで同じかは検証してない。

文献に倭国の南北3月行の例が有るから、倭人伝の陸行1月は徒歩1日に修正する必要は無い。
0295日本@名無史さん
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2017/08/24(木) 08:40:06.18
>>293

魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。   推して知るべし  

対馬海流に流されて、末羅國(呼子・唐津)は有り得ない。

よって、対馬海流に流されて、スレタイ「邪馬台国は北部九州に在った」は有り得ない。  @阿波
0296日本@名無史さん
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2017/08/24(木) 09:22:15.32
天津神が海津神なら伊勢は龍神でないとおかしい
天照大神は昼を治め、海原を治ろとされたのは須佐男尊のはず

それに海人族の氏神は天照大神でなく綿津見命で、安曇氏の本貫は金印の出た志賀島

天津神は海神ではなかろう
0297日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 09:40:39.63
>>295
其行來渡海詣中國恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人
名之爲持衰若行者吉善共顧其生口財物若有疾病遭暴害便欲殺之謂其持衰不謹

海流や潮の干満、風向きを見極めるのは航海の基本だが古代ゆえ占いと人柱は有ったようだ。
対馬航路が渡れないなら邪馬台国どころか、古代史に青銅、鉄、馬の移入が成立しない。
「邪馬台国は北部九州に在った」 がおかしい件については 
「倭人伝に一度だけ出てくる邪馬台国と表記される国=九州北部の女王国」
でいいけれども 倭人伝が読めてない@阿波は死刑ぁww

君の言いたいように直に唐津に上陸する必要は無いが、船舶は一大率の検察を受けるから
合理的な荷揚げ人夫のいる港なり上陸地へ海流の影響を受けない沿岸を航行できる。

時代がくだった北前船ですら、風待ち潮待ちで年一就航でも濡れ手に阿波である。それが航海。 
古代船が運次第でどこへ接岸してもいいが、荷主同然である一大卒は九州北部に有った。 
↓一大率は阿波の出先機関なんですよ。 禁止ァww
0298日本@名無史さん
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2017/08/24(木) 09:48:17.38
>>297
>↓一大率は阿波の出先機関なんですよ。 禁止ァww


一大率は倭国(阿波)の出先機関なんですよ。  筑紫忌部ですね。  @阿波
0299日本@名無史さん
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2017/08/24(木) 09:51:24.16
>>297

魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。   推して知るべし  

対馬海流に流されて、末羅國(呼子・唐津)は有り得ない。

よって、対馬海流に流されて、スレタイ「邪馬台国は北部九州に在った」は有り得ない。  @阿波
0300日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 10:00:47.34
>>296
記紀での役割はそうだが、その後の経過を見ると、アマテラス(海を照らす=支配する)王は高天原(海の王宮?)にいて、スサノオの家系は陸上で国津神になる。
どこでなぜ入れ替わったのかは不明。
また、志賀島の綿津見神も、イザナギイザナミの末裔の一つであったから、天津神とは近親者だ。

記紀神話は、すごく狭い世界の狭い家系の中で、アマテラスの家系から見た視点で歴史を記録している。
そしてその舞台は主に博多湾沿岸であった。
当時の倭国とは、博多湾沿岸から対馬海峡までの非常に狭い国だった。
0301日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 10:26:57.04
>>296
安曇氏が漢委奴国で九州平定で朝廷の臣下に下って信州に配流された。
白村江海戦に総力狩り出されて、消えた信州の安曇族。 
で、また一つ古代史の謎が消えますね。 

白村江は無かったとか言う奴現代にはいないから、そもそも謎でも無いけどw
海神族、安曇氏の氏神、綿津見命としても神話成立以前の660年までに
安曇野穂高神社が創建できたかどうかはアヤシイな。
多分、天満宮みたいに、滅びたついでで朝廷が鎮魂で創ったな。菊紋だし・・・

日本の古代史の謎って、記紀神話の都合で
300年付近の九州平定と半島開拓の歴史消してるだけだろwww
0302日本@名無史さん
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2017/08/24(木) 10:37:02.15
>>301
>安曇氏が漢委奴国で九州平定で朝廷の臣下に下って信州に配流された。

誰が平定したんだよ。
アホか。
記紀神話は最終的に九州勢力が全国を平定したことを前提に、その中でもアマテラスの家系の視点から書かれているんだよ。
0303日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 10:58:02.02
安曇氏と金印はあまり議論されてなかったよな
奴国王が倭王としての主権を失った後、金印を志賀島に埋めて一族が全国に散らばったとかなのかねぇ

何故、志賀島から穂高などという内陸に本拠地を移したんだろうか
国替えだったのかな
0304日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 11:02:03.70
出雲との関係が気になる。
出雲って、本当に島根県だったのかな?
福岡県だったりしない?
長野県と言えば諏訪大社があるしね。
国譲りで出雲が負けたのに、天孫が降臨するのが筑紫というのもおかしい。
すべては博多湾沿岸における出来事だったのではないか?
0305日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 11:05:00.55
>>300
>そしてその舞台は主に博多湾沿岸であった。
>当時の倭国とは、博多湾沿岸から対馬海峡までの非常に狭い国だった。


魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。   推して知るべし  

対馬海流に流されて、末羅國(呼子・唐津)は有り得ない。

よって、対馬海流に流されて、スレタイ「邪馬台国は北部九州に在った」は有り得ない。  @阿波
0306日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 11:05:23.52
>>299
>推して知るべし じゃなくて、邪馬台国の話なんだから倭人伝読めよ。

半島から対馬、壱岐に渡れれば
壱岐から平戸だろうが糸島だろうが博多湾だろうがどこの港だって入れるだろ。
対馬の島民は南北自由に渡って市場で農作物買ってるんだぞ。
倭人伝に対馬航路が成立しないなら畿内説も九州説も阿保説もね〜よ。
0307日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 11:16:55.39
>>296
奴国なんて大和朝廷の前では一介の海人族に過ぎなかったという事だね
王族は今の安曇氏でほぼ確定だろう
0308日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 11:19:42.90
>>304
>長野県と言えば諏訪大社があるしね。

長野県諏訪市にある「諏訪大社」は光仁帝の宝亀10年(779年)に阿波國名方郡「多祁御奈刀弥神社」 「御祭神 建御名方命」から移遷された、と社伝にあるそうだ。

その頃、現在の長野県にある諏訪大社は「南方刀美(みなとみ)神社」と言われており、阿波からご祭神が移されてきたことが伝えられている。

つまり大国主命の息子神である建御名方神はここ徳島県石井町諏訪に祀られ、ここから各地に広がっていった、ということである。

それにしても観光地として多くの参拝者が訪れる諏訪大社のご祭神が阿波から移遷された神様だと知っているひとはどれだけいるだろうか。   @阿波
0309日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 11:24:11.09
>>306
>壱岐から平戸だろうが糸島だろうが博多湾だろうがどこの港だって入れるだろ。


対馬海流に流されて、平戸だろうが糸島だろうが、行き着けない。   @阿波
0310日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 11:25:16.84
>>307
出雲の大国主を倒して筑紫に入り、綿津見の神と姻戚関係となった天津神が、天皇家の祖先となった。
0311日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 11:28:10.30
>>306
>倭人伝に対馬航路が成立しないなら畿内説も九州説も阿保説もね〜よ。

当然、対馬航路は有りますよ。

対馬→壱岐→対馬海流に乗って末羅國(福津近辺)   @阿波
0312日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 11:34:47.51
>>307
ヤマトの大王は日本最初の官僚制度と常備軍を創設した超絶チート的存在
奴国どころかヤマト以外の国が連合して逆立ちしてもヤマトには敵わないよ

日本では関西を抑えればもう天下人
関西を支配しながら天下を失った無能は平家と豊臣秀頼だけ
平家は後白河法王が裏で暗躍したから
秀頼は豊臣家が関西を支配しきれていなかったから

奴国ごときが倭国王なんて笑えるような話
0313日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 11:41:26.29
>>312
>ヤマトの大王は日本最初の官僚制度と常備軍を創設した超絶チート的存在
>奴国どころかヤマト以外の国が連合して逆立ちしてもヤマトには敵わないよ


その「ヤマト」とは、倭国(阿波)のことね。   @阿波
0314日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 11:52:39.48
>>312
時代錯誤も甚だしい。
ただの煽りか。
0315日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 11:55:52.71
>>302
かつて金印を持っていたであろうという前提の糸島起源の古代豪族安曇氏をだ、
九州の海神族なのに300〜600年当時に内陸の信州に配流したのが誰か?
安曇氏は信州からも呼び戻され、白村江海戦にも使われて滅びた氏族。

九州が東征したという記紀のデタラメなら配流じゃなくて安曇氏の進攻だが
なんで中国地方や北陸すっ飛ばして細々と内陸で縄文人と安曇野開拓だけやってたんだ?

400年当時に朝廷が高句麗馬繁殖のため高句麗牧童を使って
甲斐信州に御牧経営を成功させている考古学的痕跡が有る。
縄文王国の信州諏訪に建御名方神入るのはこの頃になるが
関東がすでに平定されてるのに神話かよ? それで記紀は成立可能か?
2600年前の別の話にしとけよ、それでも九州に開拓民居たけど・・・

古墳時代初期の250年に九州勢力が関東付近まで平定してる可能性でも有るのか?
考古学で検証可能な250年辺りから支配勢力を全国に広げた前方後円墳の主は九州の誰かか?
倭人伝の九州王伝にはそんな事書いてないな。
0316日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 12:02:28.67
>>315
>古墳時代初期の250年に九州勢力が関東付近まで平定してる可能性でも有るのか?

有る訳ないでしょ。 それは、阿波から黒潮の乗って関東に進出した、関東忌部が開拓したんですよ。  @阿波
0317日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 12:05:09.12
>>315
>縄文王国の信州諏訪に建御名方神入るのはこの頃になるが

長野県諏訪市にある「諏訪大社」は光仁帝の宝亀10年(779年)に阿波國名方郡「多祁御奈刀弥神社」 「御祭神 建御名方命」から移遷された、と社伝にあるそうだ。

その頃、現在の長野県にある諏訪大社は「南方刀美(みなとみ)神社」と言われており、阿波からご祭神が移されてきたことが伝えられている。

つまり大国主命の息子神である建御名方神はここ徳島県石井町諏訪に祀られ、ここから各地に広がっていった、ということである。

それにしても観光地として多くの参拝者が訪れる諏訪大社のご祭神が阿波から移遷された神様だと知っているひとはどれだけいるだろうか。   @阿波
0318日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 12:34:25.64
>>304
古代氏族研究してる宝賀氏はその説よね
葦原の中つ国は筑前
筑後の邪馬台国系が筑前に移遷
0319日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 12:36:10.43
>>315
>九州の海神族なのに300〜600年当時に内陸の信州に配流したのが誰か?

筑紫の天孫族の王だろう。
海神は天孫族とは区別されている。

>縄文王国の信州諏訪に建御名方神入るのはこの頃になるが
>関東がすでに平定されてるのに神話かよ? それで記紀は成立可能か?

建御名方は出雲の国譲り、伊都での天孫族の政権獲得の頃なので、1世紀くらいだろう。

>古墳時代初期の250年に九州勢力が関東付近まで平定してる可能性でも有るのか?

関東に最初に進出したのは出雲。
鷲宮神社や大宮神社など、出雲系の神社が多い。
その後に出雲が筑紫の傘下となったので、関東も筑紫の傘下となっただろう。

>考古学で検証可能な250年辺りから支配勢力を全国に広げた前方後円墳の主は九州の誰かか?

そのように思われる。
ただし関東の前方後円墳はやや遅いと思う。
0320日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 12:37:04.87
>>308
へー
初めて知りました。阿波は古代のキーとなる地なんですね。
0321日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 12:38:36.87
>>318
博多湾沿岸の王族は、志賀島の綿津見安曇氏、天津国の天孫族、筑後山門から来た姫氏と入れ替わるのだな。
0322日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 12:44:17.33
>>320
>へー
>初めて知りました。阿波は古代のキーとなる地なんですね。


社伝に「阿波から勧請された」とあるんですよね。  不思議ですね。

他にも阿波国だけにしかない神社が多数あるのも不思議ですね。   @阿波
0323日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 13:06:42.72
>>312
>ヤマトの大王は日本最初の官僚制度と常備軍を創設した超絶チート的存在
>奴国どころかヤマト以外の国が連合して逆立ちしてもヤマトには敵わないよ


その「ヤマト」とは、倭国(阿波)のことね。   @阿波

全国、広しと言えども

「倭」と明記された「物証」があるのは、唯一「阿波」だけなんですね。

当然、倭国でない、九州にも畿内にも有りません。  @阿波
0324日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 13:12:38.18
鷲宮は土師の宮で関東土師氏の拠点の一つでないの?
古代の南関東は湿原地帯で無人の荒野

物流拠点だった隅田川上流の鷲宮と隅田川下流の
港町浅草に土師氏がいてヤマトに税を送っていた
0325日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 13:13:45.75
古代は今と川の流れが違っていて
鷲宮から浅草まで船でいけた

今の隅田川は荒川と呼ばれていた
0326日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 13:13:55.18
>>316

関東を平定したじゃなくて
先にヤマトから追い出された
出雲人たち賀茂氏や忌部氏が東海や房総を開拓してたところを

後からヤマトタケルにやられたり
豊城入彦の後裔が被さったり
新田別巫別を輩出したりじゃろ。

物語としては平定したような印象だけど
実効支配としてはどうなんかな。

古墳と言う
墓制の受け入れをもってその地の服属とするなら
支配と言えるが

ヤマト王権がなぜそう言う墓制にしたかは
説明に腑に落ちたことない
0327日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 13:18:54.28
土師氏は天穂日尊の子孫だから天孫系だね
0328日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 13:19:08.34
>全国、広しと言えども
>
>「倭」と明記された「物証」があるのは、唯一「阿波」だけなんですね。
>
>当然、倭国でない、九州にも畿内にも有りません。  @阿波


これ気になる。
物証ってなんですか。
0329日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 13:24:21.95
>>304
肥前国風土記に出雲から来た人の話があるんだっけ。確か。

出雲のアタカタスが宗像氏の祖らしいから
出雲と北九州が密接だと言うのはわかる。
0330日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 13:24:37.72
>>326
>ヤマト王権がなぜそう言う墓制にしたかは
>説明に腑に落ちたことない

倭国(阿波)には、有り余る緑色片岩・青色片岩(青石)があるんですね。
古代より、石積技術が発達していました。
自然、積石塚が発展していった訳です。  @阿波
0331日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 13:31:11.42
>>328
阿波国美馬(ミマ)郡美馬(ミマ)町には、延喜式内社の「倭大国魂神社」が鎮座する。
この事実は、阿波国が、かつて倭の国であり、歴代天皇が営んだ王都の地であったことを表す。
これは、「王都の地 倭」の決定的証跡である。
通説の「古代の王都は奈良盆地に営われた」とする確定解釈は、工作物(奈良盆地の巨大古墳)に惑わされた錯覚と言えるだろう。
延喜式内社に採択された国魂神社は、都合20社を数える。
うち「倭大国魂神社」については、その由来が日本書紀に納められている。
第10代崇神天皇(ミマキイリヒコ)は、疫病が流行し、民心が乱れた為、神祭りによって地勢の安泰を図ろうと、天神地祇のほか、倭の地主神である倭大国魂神を祀ったという。
まさに「倭大国魂神社」の鎮座地は、倭の地(国)の証明になる。
そして、その倭大国魂神社が、奈良大倭国ではなく、唯一阿波国に鎮座するのである。   @阿波

「倭大国魂神社」http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2015/01/18/223725
0332日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 13:54:22.02
>>319
水稲弥生時代が来なかった縄文時代の諏訪に建御名方さん来ても居場所なかっただろうに・・・
神社が無い古墳時代に出雲の神々も関東に出て来て何がしたかったんだろうか?

時系列が破綻してて銅鐸祭祀も知らない、記紀神話は日本古代史には、もはや無益かもw
0333日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 16:27:00.29
鷲宮は天穂日と出雲の従人たちが建てたので、弥生時代に入ってから、出雲の国譲りの直前ですね。
筑紫より先に出雲が関東に進出していたことが記録としてはっきり残っています。
穂日は記紀では出雲に寝返ったことになっていますので。
土師氏はもっと後の話です。

鷲宮だけでなく、群馬県桐生天満宮にも伝承があるそうなので、南関東ではなく、北関東としてでしょう。
諏訪が出雲の支配下だったので、今の中央道に沿った内陸ルートで進出したものと思われます。
本家の出雲が筑紫に倒されたので、長続きはしなかったようです。
0334日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 16:28:53.07
天穂日のルートもちゃんと書き込んである。

【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓     近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→淡路島→阿波・吉備→摂津住吉
0335日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 16:37:55.92
>>334

【筑紫を「素通り」する倭国の交易路】

末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)

↓【東南】陸行500里  福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)→直方

伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)

↓【東南】100里

奴国(二万戸)(田川辺り)

↓【東】100里

不弥国(千戸)(築上町辺り)

↓【南】 豊後水道 水行20日

投馬国(五万戸)(宿毛)

↓【南】水行10日(太平洋ルート)又は陸行1月(旧土佐街道) 途中、阿南の若杉山辰砂採掘現場視察

女王・卑弥呼のおわす《邪馬台国 阿波》到着(七万戸
0336日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 17:23:28.70
>>331
あれまぁ

全く知りませんでした。

ミマキイリヒコの段を踏まえて
これは決定的な物証だと言えます。

参りました。
0337日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 17:36:35.78
>>336
自演乙
0338日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 17:39:16.35
>>308
建御名方富命はいわゆる大国主命(ヤチホコ/神門臣家当主)の御子ではありません。
それは御名に「富」が付与されている事からも明らかです。(決して国譲り神話のような逃避して命乞いするような惨めな事は一切なかった。)
本当はいわゆる事代主命(出雲の東の王家、富王家当主)と越の国の沼名川媛命との御子。
お二方の間にはもう1人御女、三保須須美命がいらっしゃって、
父親が渡来人らの賊に殺害されて母と御子のミナカタは母の実家に避難。長じて信濃、諏訪方面に進出して分家独立したのが諏訪家(出雲第二王朝)
前後しますがまた、事代主命もいわゆる大国主命(ヤチホコ)の御子ではありません。
当時、出雲帝国で対等な立場の副王、役職名は少彦(スクナヒコ)
いわゆるこの事代主命の父親が先代のいわゆる大国主で在られた天冬衣命(富家当主)。

いわゆる大国主(ヤチホコ/神門臣家)の祖父が国引神話の八束水臣津野命で
八束水臣津野命の御子にアタカタス命が九州の統治を委任される形で分家独立したのが
宗像王家。
当初、豊国の宇佐に都したという。

このカタアタス命の三人の御女が所謂、宗像三女神。(決してスサノオの女ではありません。)
0339日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 17:49:46.09
>>338
出雲、宗方、豊国、諏訪の関係が明示されていて、大変興味深いのですが、よろしければ出展を教えていただけませんでしょうか。
0340日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 17:52:20.75
>>333
関東から中央道=甲州街道だけど江戸幕府が開発するまで藪で馬も越えんよ。
中山道は利根川筋高崎碓氷峠からだし、和田峠の黒曜石街道で長野上越に向かう。
鎌倉街道は甲斐から富士川美延や富士山麓、木曽街道は美濃から塩尻に入った。

糸魚川経路で古代安曇族は安曇野入ってるけど諏訪が出雲の支配下って神話だろw 
海洋族ったって出雲が関ケ原越えて関東や諏訪支配するなら京都の立場有るか?
仏教伝来以前の古墳時代に神社なんて無いし。 諏訪信仰の本質はシャーマンだよ。

高地の諏訪にゃ馬が入る400年近い遅くまで、採集狩猟民の縄文人しか居ないしw
朝廷は御牧でいきなり古墳もってきて弥生時代無いんよ? 出雲イラネwww
0341日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 17:54:58.80
>>336
延喜式神名帳。
淡路国二宮。三原郡筆頭。名神大社。大和大国魂神社。

社伝では大和坐大国魂神社の分霊を奉迎創建した分社で
また、創建に当たり倭宿祢命や磯城長尾市命の御名が伝わります。

明治以前、一千数百年の永きに渡り社名にも関わらずご祭神はイザナミ大神であると深く信奉されており、
踊り念仏の時宗の開祖、一遍上人は晩年にこちら様に至り、里人から祭神はイザナミ大神であると聞いて深い祈りを捧げ奉り、社前に廬を営んで布教の拠点となさったと伝わります。

因みに、いわゆる盆踊り(祖先への鎮魂慰霊。昨今の観光化したばか騒ぎは本儀ではない)はこの時宗の踊り念仏が端緒であるとの説があります。
0342日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 18:09:48.81
天津国の天孫族はひたすら海沿いにいたけれど、国津神の出雲族はわりと内陸に進出したイメージがありますね。
皆イザナギの家系のような書かれ方をしていますが、それは本当ではないかもしれませんね。
0344日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 18:29:42.98
>高地の諏訪にゃ馬が入る400年近い遅くまで、採集狩猟民の縄文人しか居ないしw
>朝廷は御牧でいきなり古墳もってきて弥生時代無いんよ? 出雲イラネwww

これは貴重な証言ですね。弥生時代がないということ。

あと
たぶん伊勢尾張経由で信濃に行く方向もあると思います。

諏訪は新しいんじゃなぁ。
0345日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 18:33:26.44
>>341
たぶんそこは3つ目ですね。言い伝え通りでしょう。

最初
倭大国魂神社は阿波にあって、
奈良に移って、ここと。
0346日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 18:34:54.49
>>338
宗像のカタアタス命の長女、田心媛命が天冬衣命(第7代オオナモチ。/富家)に嫁ぎ、生まれたのが八重波津身命(いわゆる事代主/少彦名/アワシマ/大物主(≒金比羅神)。
事代主は大王に代わる(次ぐ)主、王≒副王(スクナヒコ)で有った事を言っているかと思っ。

都美波八重事代主の神名は八重波津身命を反転した一種の呪詛だと分かります。都美をトミと読めばそのまま富家の方だと暗喩)

八重波津身命の御霊を最初に祭祀したのが三保須須美命で
母や兄が越国に行った後も富家の別邸で有った三保神社(屋敷)に留まり父親の御霊を鎮魂慰霊した故に事代主エビスの総本宮と言われる。

また、摂津の三島(大阪府高槻市あたり)から八重波津身命のもとに嫁いだ三島、生玉依媛命の御子らが我が国の歴史上最も重要な役回りを為さった。
御子、天日方奇日方命は葛城に移住して登美家(富家ゆえ)を号して分家独立。
父親の御霊を神祠に祀り氏神とした。また、後に三輪山/御諸山にも祀り大物主神と奉った。
併せて出雲族の信仰、太陽の女神をも祀った(天照大神に改変横領された。)
初代祭主は天日方奇日方命の御妹君で天村雲命(大倭国初代大王。(神武の1人目のモデルで欠史8代は天村雲命王朝(海部)の系譜。故に詳細はわかって居ても書けなかった))の大后と成られた媛タタラ五十鈴姫命。

二代祭主も天日方奇日方命の末の妹君の五十鈴依媛命(伊須気依媛命)。
0347日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 18:36:10.30
>>339
横からですが
大元出版の
出雲と大和のあけぼの
他ですね。
0348日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 18:59:18.15
>>342
イザナギとイザナミは元々、出雲の最高神であるクナト大神(神奈備は伯耆大山)と后神のサビメ大神(幸(サイ(狭井))媛/神奈備は三瓶山(元々はサビメ山と言った))を改変 創作横領したもの。

キキ神話ではのみならずイザナギは天津神(渡来人系)の祖、
またイザナミは国津神/出雲の神、出雲系の姫命/出雲の代表。

また、スサノオ(本当の皇祖)も実は同じ渡来人らの形代
0349日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 19:03:38.97
>>345
>最初
>倭大国魂神社は阿波にあって、
>奈良に移って、ここと。


奈良に移ったのは、8世紀持統朝からでしょう。

伊勢神宮も同じ時期に倭国(阿波)から奈良に移っています。   @阿波
0350日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 19:04:57.40
>>344
諏訪は稲作に適していないから稲作をしなかっただけで、出雲の進出を否定する根拠にならないですよ。
0351日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 20:20:16.59
>>294->>350は荒らし?
0352日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 20:24:28.92
>>350はマジレス
0353日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 21:15:18.17
>>331

阿波さん阿波さん
さらっと他の記事も読みました。

味鉏高日子根命ハ阿波女神ノ御夫ニテ粟国造粟直凡等之父神也

ここが私の琴線にビンときました。

奈良盆地がなぜ選ばれたのか、出雲や奈良現地の言い伝えからはよくわからないんです。
いきなり出雲から葛城に入殖する話になってる。
実年としては50年程度だと思われますが、、、

出雲口承では、葛城に登美家、その後
アジスキタカヒコネの高鴨家が来たと。
途中の中継地に阿波があったならよくわかる。
四国は銅剣圏の繋がりがあったし、讃岐でなく阿波なら、三島との関係もスッキリする。
0354日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 22:18:27.65
神武の出発地は筑紫じゃん。
0355日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 22:34:06.62
【神武天皇の出生地】

天孫三代目、彦穂々出見命(=山幸彦)の后・豊玉比売命を祀る二社が  阿波国にのみ  配祀されている。

豊玉比売命は海神(わだつみのかみ)の娘で、神武天皇の祖母(または母)にあたるが、

当該二社の式内社は、神武天皇の出生地が阿波であることを強く伝えようとしたものといえる。

一社は「和多都美豊玉比売神社」で、夫となる天孫彦穂々出見命と出逢った和多都美宮の井の上(いのえ)の地(旧井上郷・現徳島県国府町和田)が鎮座地。

もう一社は徳島城城山の東斜面に鎮座する姫の葬場「天石門別豊玉比売神社」である。   @阿波
0356日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 23:24:51.12
>>346
何という書物に書いてあるのでしょうか?
興味があるのでお願い致します
0357日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 23:25:54.15
改変説って何でもこじつけられるんじゃね

それじゃ俺も聖徳太子はムハンマドだったという説を立ててみようかな?
0358日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/25(金) 00:07:13.92
私は改変説は取っていないですよ。
ただ、各地の伝承には記紀で削除された記録があるというだけです。
0359日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/25(金) 00:49:03.56
延喜式とか三代実録とか遡っても、火山や風神雷神海神地縁系以外の自然崇拝でもなきゃ 
氏神とか正規の神話の神社って古墳以降、当然だけど記紀の700年以降にしか出て来んよ。
所詮記紀だから、出雲神話も時系列デタラメだし。 これで古代を語られると嫌気がさす。

卑弥呼とか諏訪とか古墳以前のシャーマンや海神山神農政ト占銅鐸系祭祀は神社じゃ無いし。
最も古くなら仏教伝来で国分寺とか作ったから600年位に反仏系豪族が神社で対抗したんだろ。
古墳終って皇室、豪族専用の氏神で始まって、一般の神社では原始形態が修験とか神宮寺で習合神だし。
九州王朝で、なんで日本の成立が600年だよ? 役の小角がスサノオに屁をかますぜw
0360日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/25(金) 08:27:04.43
そりゃ畿内勢力が政権を取ったのが700年頃だからだろ。
畿内においては、神道も仏教も外来の宗教なんだよ。
だから神社も新しいものしかない。

九州においては、三種の神器は、紀元前から続く風習の一部だし、神宮は本質的には王族の住まいだよ。
吉野ヶ里を見てもわかるように、平民は竪穴、王族は回廊付き高床建物に住んでいた。
これが後の神社建築の基礎となり、鳥居、拝殿、本殿といった様式もその頃に確立されたのだろう。

今でこそ神社の中には鏡が置かれているだけだが、昔は実際に王が鎮座していたんだよ。
九州の歴史を紐解けば、現在神社となっているところを誰それが宮としていたような話がたくさんある。
そして宮とは神社と王族の両方を指す語である。
畿内に流入した時にはすでに仏教が伝来していたので、宗教施設と王宮が分離していたんだよ。
0361日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/25(金) 09:09:50.52
>>360
>そりゃ畿内勢力が政権を取ったのが700年頃だからだろ。


「畿内勢力」なんて存在しないし、「政権を取った」事実も無い。

700年頃に倭国(阿波)から、奈良大和へ遷都しただけのことなんです。   @阿波
0362日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/25(金) 09:15:54.67
香椎神宮だって宇佐神宮だって、本来は誰かの王宮。
じゃあ誰の?という話になる。
はるか後世に畿内で編纂された記紀では抜け落ちている記録がたくさんあるということ。
その中に卑弥呼が含まれている可能性もある。
墓は平原遺跡のように埋もれていても、宮は現在も神社として祭られている可能性がある。
高祖宮、香椎宮、高良宮、宇佐宮などが候補になるかもしれない。
本州の出雲大社を含め、独特の建築様式を持つ宮は弥生時代からの王宮の姿を今に伝えているので、おそらく卑弥呼もそのような形の王宮に住んでいただろう。
0363日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/25(金) 10:03:55.77
>>362
>香椎神宮だって宇佐神宮だって、本来は誰かの王宮。

香椎神宮の勧請元は
徳島市南佐古七番町の椎宮八幡神社
寛文年間(1661〜73)名東郡矢三村(古八幡)より当地へ遷座と伝わる。

宇佐神宮の勧請元は
神山町宇狭の「宇佐八幡宮」(辰の宮) 

国府町井戸 八幡神社
「是社ノ奥深ク厳シク鎮守シ給フ当八幡宮(古称 井上八幡宮)ハ奉勧請白鳳二年
宇佐八幡宮ヨリ御分遷誉田別命 仲哀天皇 三女命ヲ奉斎爾来惟神ノ誠を捧ゲ今ニ至
迄幾度改修....」
以下略

御祭神 誉田別命、仲哀天皇、三女命(いわゆる宗像三神)

※国府町井戸 八幡神社は、大分宇佐神宮より遡る白鳳二年(674年)に「宇佐八幡宮ヨリ御分遷」とある。
※宇佐八幡宮(宇佐神宮)の開基は725年。

※宇佐八幡宮(宇佐神宮)は、国府町の八幡神社より後に勧請されたことになります。   @阿波
0364日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/25(金) 10:17:23.79
※宇佐八幡宮(宇佐神宮)は、国府町の八幡神社より後に

※神山町宇狭の「宇佐八幡宮」(辰の宮) から勧請されたことになります。   @阿波
0365日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/25(金) 10:27:24.28
>>363
全部逆だろw
宇佐も香椎も記紀に登場するからね。
君の言っていることが間違いであることはすぐわかる。
0366日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/25(金) 10:46:44.26
>>365
>全部逆だろw
>宇佐も香椎も記紀に登場するからね。

そりゃ、当然登場するでしょ。
記紀は倭国(阿波)の出来事を記しているんだから。  

九州なんて論外ですよ。   @阿波
0367日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/25(金) 11:33:38.86
宇佐も香椎も記紀に登場?
てか、記紀のデタラメ顕現させるために
朝廷が応神天皇、仲哀天皇、神功皇后祀らせて
700年代に創建してんだろが?

九州が卑弥呼時代の独立国時代の歴史を放棄して
天孫九州起源で抱き込まれて畿内朝廷の犬になったんだよ。
まあ、朝廷の保護が無きゃ、新羅同様になってたけどな。

それ記紀以前の古代史の修正だから・・・ 
歴史の真実に、恥ずかしくないか。
0368日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/25(金) 11:38:00.10
記紀が歴史修正主義なのはそのとおりだが、九州北部に宮があった記事まで否定する必要はないだろ。
むしろ畿内説にとっては不利な話しであり、そんなものを捏造する意味もない。
仲哀も応神も、畿内と関係ない筑紫倭国の王として読めばいいだけ。
0369日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/25(金) 19:53:14.88
>>368
>仲哀も応神も、畿内と関係ない筑紫倭国の王として読めばいいだけ。


筑紫も倭国(阿波)の一員ではある。 筑紫忌部だから。   @阿波
0370日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/25(金) 22:59:29.83
伊都国が卑弥呼の都で決着が着きましたねw
0371日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/25(金) 23:15:08.57
平原遺跡が見つかった時点で、本来ならば決着がついていたはずのものだな。
0372日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/25(金) 23:23:02.46
平原遺跡が決定的証拠だし、その後もずっと伊都を支持する発見が毎年のように続いているからね。
0373日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/25(金) 23:40:08.61
邪馬台国論争もオワコンですね
0374日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/25(金) 23:44:34.26
一方的なハンティングゲームとしては機能してるけど
狩られる側は当然激減してるからね
0376日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 07:47:27.58
破綻した畿内説は最近は街宣活動に力をいれて活路を見つけようとしているようだな。
0377日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 08:14:54.31
>>71
これがいままでで一番しっくりきた。

不彌に引きずられて時計回りの説が多いけど
肥筑の地勢を踏まえるとやはり筑後川流域で連合してると考える方が妥当か@九州出身
0378日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 08:34:20.29
>>93
呉が滅んだのは 紀元前 五世紀
秦の統一の200年も前

肥には呉人がさきに入植していて鉄器文化で優位だったのではないか?
干将莫耶も呉の産だ。

一方で肥前は徐福がきたのでは。
佐賀吉野ヶ里の位置からは筑前移遷はこの勢力か?

熊本市以北や久留米佐賀は
現代方言でもほぼ同じ。

むしろ熊本は南北で違う。


呉は滅んでのち徐州山東半島に移って
倭地に来ている。徐福も山東半島の出。同じ航路が使えたであろう。
0379日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 08:49:21.91
>>159

甕棺が戦士なら王族でない?

縄文人は母系社会だろうから
渡来の弥生人が嫁貰うなら現地人に妻どい?
するとハーフの子供は現地人側の墓制にならったとは考えられないだろうか?
0380日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 10:46:02.12
>>378
縄文時代に破局噴火で一旦焼き払われてますからね。
ようやく自然が回復した過疎九州に
海流に乗って漂着してきた人々が定着したと考えても無理はありません。

言語的には呉が先にきて社会を形成して、
徐福は後から入ってきて当時は湿地帯だった佐賀平野に入植した。
という感じでしょうか。

海流に乗って一発勝負で漂着するのは可能ですが、
海外と双方向で交易するなら壱岐対馬に面した博多湾しかないので、
博多湾が栄えたのでしょう。
0381日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 11:03:44.48
>>379
墓制は母系のものを採用している可能性が高いですよね。

むしろ王墓のほうが、その時々に権勢をふるった外戚母系の墓制で変遷してゆき、
王以外の部族のほうが、自らの墓制を守り続けたというモデルはどうでしょうか。
0382日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 11:20:41.88
九州説は朝鮮人が多いから信用ならん
0383日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 11:21:56.38
沿海州から大量の女性が渡来してる事を考えると
黒曜石あたりと交換で女を買ったと考えるべきだよなあ
0384日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 11:45:29.26
>>382
それ畿内説のスレ主だろ
つか、隔離スレから出てきてこっちまで汚さないでね
0385日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 11:47:28.89
甕棺が戦士階級限定なのは初期だけであとは王も甕棺になるし女性被葬者もいるし
0386日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 11:55:01.25
九州説の朝鮮人は伊勢神道が嫌い
被差別階級の特色だね
0387日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 11:58:35.99
>>386
私は九州説で日本が大好きだ

で、畿内説の君は日本のことは好きですか?
即答してね
0388日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 12:03:43.91
>>387
被差別部落の人たちが同じこと言ってたな
浄土真宗の日本が好きだそうだ
0390日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 12:10:08.09
浄土真宗?京都では部落の本山やわ
東も西も本願寺みれば分かるけどあれは要塞やで
京都駅からバスで烏丸通り通ればすぐわかる

京都の文化は世界レベル
日本は好きやし邪馬台国は奈良県やろ
昔から文化の中心に変わりはあらへん
0391日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 12:14:47.25
俺からすると九州説は武内文書が好きなイメージがあるな
古神道を名乗る戦前の新興宗教の系譜
平田篤胤かぶれとかね
0392日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 12:18:35.77
3世紀の東夷世界には広く鉄器が普及していたから
鉄器はあるのが当たり前。

三国志東夷伝には鉄は採取地のことしか言及されていない。
あとは倭人条で鉄鏃骨鏃を使っていたという兵器情報でちょっと出てくるだけ。

>3世紀の鉄材は全て朝鮮半島からの輸入に頼っていた
これ古代史の常識だね。

>3世紀の鉄鏃は9割以上が九州出土
これも古代史の常識だね。

3世紀に鉄器が普及していない倉庫エリアがあったら陳寿もビックリしただろうな
0393日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 12:19:04.30
魏志倭人伝でもそうだが中国古典の南は中華から遠ざかった奥地という意味
九州よりも中国から遠いから南と書いてあるのだよ

少なくとも邪馬台国は九州ではない
0394日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 12:26:39.74
>>393
畿内説らしいマイルールですなあ

>四夷=東夷南蛮西戎北狄
中華思想において、南だけが特別扱いではありませんな

>当在会稽東治之東
東であるとも記載されておりますな

>>393
恥ずかしい書き込みですなw
0395日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 12:39:48.36
>>390
なんで京都人が奈良の田舎者の援護をするんだ?
0396日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 12:40:40.73
>>393
朝鮮半島を南下したからそう思ったのかもよ。
0397日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 13:17:42.85
>>393
中華でなくても倭人伝は誰が読んでも邪馬台国は九州ではありません。
九州北部女王国の首都伊都の南東百里の奴国の東百里の不彌国から出航して
南に水行20日、南に水行10日、さらに陸行1月です。

これは帯方郡から久留米平野の南端と一致しますので
不彌国からだと距離的にたどれば沖縄以遠になります。
上陸後で陸行一月が必要ですから幻の邪馬台国があるなら
ムー大陸に有ったと言えます。

卑弥呼が琉球女王で台湾王と不仲だったなら、ロマンだけど
魏使は朝鮮経由の帯方郡から来るかね? 長江以南じゃ呉だし。
0398日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 13:23:43.30
>>397
〜です。と言っている根拠がない。

>>2>>3>>168で見事に説明がつく。
そして平原を頂点とする考古学的データとも符合する。

単に北部九州説で決まりなのが悔しくて駄々をこねているだけ。
0399日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 13:41:20.77
>>380
そのように想像してますね〜。

博多湾は常に単一の勢力圏となっていた
宗像氏安曇氏一緒にですね。そう思ってます。

するとかなり盤石に見えて隙がないように見えるんです。

一方で筑後平野にはおそらく二つの勢力があって、壱岐対馬航路が博多湾を使ったように
五島列島を使って有明海から筑後川周辺を中心に勢力を蓄えていたのではないかと。

最近のニュースで石室墓は山東半島の墓制とか
中国では板石墓呼ぶらしいですが、
それが肥後のものとそっくりだとか。

南九州も
薩摩半島と大隅半島で古墳以前の墓制が明らかに違うらしいです。
この辺の辻褄が合って欲しい。
0400日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 13:55:27.80
>>381
>>>379
>墓制は母系のものを採用している可能性が高いですよね。

甕棺が短期間で途絶えることは、
なるほどその可能性が高い気がします。

>むしろ王墓のほうが、その時々に権勢をふるった外戚母系の墓制で変遷してゆき、
>王以外の部族のほうが、自らの墓制を守り続けたというモデルはどうでしょうか。

ここでいう王以外の部族とは、外戚母系ということですよね、、、
なるほど王族から出た女性は当然王族ですし
王族の女性から生まれた子は王族なので
王族の墓に葬られる。世代を通じて増えていくと。いい気がしますね。

違う墓制になった時はどう考えますか。
0401日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 13:58:59.46
>違う墓制になった時

外戚母系が別の部族に代わったのでしょう。
0402日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 14:23:33.42
方角原理主義者は邪馬台国をムー大陸にするべきだろう

方角を信じるならば九州説すら成り立たない
九州説の矛盾はひどい
0404日本@名無史さん
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2017/08/26(土) 14:30:16.41
甕棺については短期で途絶えることから
短期の大決戦つまり倭国大乱で敗北したのでしょう。
出雲へ行かず南へと敗走していくことから
狗奴国王の撤退経路を示していると思います。
0405日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 15:33:59.76
3世紀出土物からのイメージ図

伊都:竪穴住居群が広がり、王墓群が輝き、鉄器が普及している。

奴国:現代の福岡市の建物群をそっくりそのまま竪穴住居や工房群におきかえた巨大工業都市。鉄器が普及している。

纏○:無人の湿地帯を未治水の川が気ままに流れる。川と川の間に年貢保管用の倉庫数棟。銅鐸祭祀。木器で労働。
0406日本@名無史さん
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2017/08/26(土) 16:29:54.98
>>404
熊本って甕棺あったっけ?
0408日本@名無史さん
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2017/08/26(土) 16:57:15.66
>>406
早期に一時期だけ。

筑前での衰退に合わせて筑後へ移り、
最終期に八女の曲松遺跡や日田に現れたのが
倭国大乱に敗れて南下した甕棺文化の最終地点でしょう。
(狗奴国自体はもっと南下して抵抗したかもですが)
0409日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 17:08:40.73
甕棺は天孫族だと思っていたけど、少し違うかもしれないな。
親戚だろうけど。
大山祇とか高木の神とか、そのあたり。
0411日本@名無史さん
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2017/08/26(土) 17:21:56.66
大山祇も九州外で活動しているし甕棺の源流ではない
(甕棺最盛期には頭領は筑紫で甕棺埋葬された可能性が高いけど)
0412日本@名無史さん
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2017/08/26(土) 17:47:55.55
大山祇って、そんなにたくさん資料があったっけ?
0414日本@名無史さん
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2017/08/26(土) 18:09:37.15
博多湾沿岸の王族をあげただけなので、根拠はないです。
こんなに有用なレスが来るとは思わなかった。
0415日本@名無史さん
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2017/08/26(土) 18:12:41.89
どのスレッドで見たのか、覚えていないんだけど

「俺は高木ブーだ まるで高木ブーだ」
と言っている人がいたよ、そういう曲の話

どういう業界なんだろう。
神 仏・・・その他

派閥のようなものがあるのかな
0416日本@名無史さん
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2017/08/26(土) 18:13:51.01
伊都説がニニギに比定する三雲南小路が甕棺墓だからね。
それに続く井原鑓溝も甕棺墓。

となると、母系墓制が重要と考えるなら
大山祇は確実に甕棺墓。
0417日本@名無史さん
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2017/08/26(土) 18:22:19.57
妻と夫 高木?

この話じゃないの?
0418日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 18:23:27.95
悪く言うと作られた存在、
何かの誰かの宣伝をしているの?
0419日本@名無史さん
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2017/08/26(土) 18:27:13.35
大山祇は王ではないですよ。
木の有力な配下の一人でしょう。

紀元前から紀元後しばらくは東方倭種全域の「流通」を受け持ち、
倭国大乱では他の多くの部族と同じく一族が邪馬台国側と狗奴国側に真っ二つに分かれた。

邪馬台国側について勝者となった大山祇一族の後継が倉稲魂命

つまり、北部九州倭国への年貢=稲荷を「輸送」する機関へと発展していくわけですね。
0420日本@名無史さん
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2017/08/26(土) 18:36:35.35
同じような話があったはず、日本の神話

なぎ なみ 夫妻
0421日本@名無史さん
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2017/08/26(土) 18:56:28.04
神話に登場する神?

実在しているのか、していないのか

研究していた人がいたとか
0422日本@名無史さん
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2017/08/26(土) 20:32:16.37
歴史を神話化しているのが古事記
後の国学者の阿呆どもが神話読みを加速させた
古事記を史料として利用するみぎりには
古事記の登場人物に関する記述から
その登場人物のモデルとなったであろう首長たちの姿を透かして眺める必要がある
高木神を吉武高木の標石木棺墓の被葬者とリンクさせて考えてみるのも
ひとつのおもしろい試み
0423日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 21:36:38.38
>>419
大山祇は綿津見神と対になる神、すなわち王の称号。
天津神と国津神、海幸山幸など、しばしば海と山が対になって登場する。
倭国が対馬海峡と博多湾沿岸に分かれて統治されていた時代の名残だろう。
饒速日のように、両方を支配する称号も登場する。
0424日本@名無史さん
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2017/08/26(土) 21:52:52.68
日本書紀の『大山祇神』の表記より
古音を温存している可能性の高い古事記の『大山津見神』で論を進めるべき
0425日本@名無史さん
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2017/08/26(土) 22:39:29.84
>>424

安曇は
アマズミ=海アマ住スミが約まったものという。

すると
大山津見は
山に住んでる偉大な人になったり?

古代人がヤマという音で何を表したか?

港は津でツ
0426日本@名無史さん
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2017/08/26(土) 22:55:14.26
>>424
読みは おおやまつみ だろ?
iPhoneでも大山祇と変換される。
0427日本@名無史さん
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2017/08/26(土) 22:57:52.08
>>402
>>403
ここの伊都国説だと方向も距離も矛盾がないですけど。
0428日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 23:11:56.55
>>427
それなら末盧国でも問題なくなるな
0429日本@名無史さん
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2017/08/27(日) 00:08:58.61
>>425
津は接続詞ですよ。
天津神(海の王)、国津神(陸の王)のように。
海の王であるアマテラスが陸の王である大国主を倒し、孫のニギハヤヒやニニギが天照国照の称号で統一倭国の王となり、兄弟相続したのですが、天皇家の祖となったのが末弟の方のニニギなわけです。
ニギハヤヒは出雲を含む日本海側全域の覇者となるわけですが、ニニギは元々の陸の王の一人である博多の大山積のところに船で婿入りします。
そうして成立したのが伊都国で、三雲南小路がニニギとコノハナサクヤ姫の墓です。
0430日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 00:13:55.61
ここから日向三代、魏志倭人伝では男王70〜80年があり、倭国大乱でニニギの末裔がニギハヤヒの末裔を頼って博多を脱出し、代わりに肥国から卑弥呼が筑紫に入ります。
しかしお膝元の火の国では別の親族が王を名乗り狗奴国が分裂し、日御子と同じ名を名乗ったわけです。

このあたりは筑紫を追い出された天孫族の末裔の天皇家にとっては黒歴史なので記紀には記されていません。
しかし記紀の神代の巻が筑紫を舞台としている以上、その動きは中国の耳に入るので、魏志倭人伝などにも記録が残ったわけです。
0431日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 00:17:27.95
そう考えると、日本側の記録と中国側の記録はどちらも不完全な情報ですが、補完することで1〜3世紀の筑紫倭国の歴史が復元できるのです。
邪馬台国を奈良に、筑紫の日向を宮崎に読み替えてしまうと、まったくわけがわからなくなりますが、王墓と呼べる遺跡があるのは、倭国の中でも博多湾沿岸しかないのです。
0432日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 00:22:27.76
>>428
末盧国だと計算があわないだろ?
何言ってんの???
0433日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 00:24:26.87
ニニギとかニギハヤヒとか後世に創られたものだから邪馬壹國とは何の関係もないよ。
0434日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 00:36:47.12
>>433
伊都国とはどのように成り立ったのか、倭国とはどのような国であるか。
それは倭国女王卑弥呼を考える上で大事です。
特に、卑弥呼の治世に伊都国で建造された女王墓である平原遺跡にニニギ王家の神宝八咫の鏡があったのですから、無関係なわけがないのです。
ニニギも卑弥呼も、世代こそ違えども、同じ倭国王なのですから。
0435日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 00:39:27.01
関係があったとしても今となっては繋がりを見出すことは不可能。
0436日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 00:44:01.62
記紀をタブーにすると古代史は解明できなくなる。
邪馬台国も然り。
0437日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 00:47:47.44
倭国の都は、奴国と伊都国の他には考えられない。
もちろんこれが女王国の正体。
奴国と伊都国の間にあるのが、筑紫の日向のクジフル山と高祖宮。
0438日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 00:52:42.40
記紀は順序や場所を自由自在に変えてあるから古代史の解明には余り使えない
記紀の研究するなら元の順序や、場所の特定だな
そのまま信じてると今まで発表されてるような滅茶苦茶な研究になる。
0439日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 00:54:41.77
>>437
そうだな、奴国と伊都国が女王国の首都圏だな
女王国の範囲についてはどこまでか未確定だな。
0440日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 01:40:57.86
投馬国、宮崎県妻が含まれるのかどうか。
含まれないなら、筑紫、豊国、肥国(ただし肥後熊本を除く)くらいかと。
0441日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 06:55:37.45
>>439

それこそ>>71でわかる。
0442日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 14:06:19.61
孫栄健の邪馬台国の全解決で1982年に結論は出ていたよ。
0443日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 15:41:25.12
邪馬台国が北九州にあったなら
その言語は何だったのかね?
太宰府の南と北で方言が全く違うんだけど?
佐賀弁だったのかな

佐賀系の方言なんてマイナーで大国だった
形跡など微塵も無いのだが?
0444日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 15:47:18.26
太宰府の北は福岡弁(博多弁)地域で、
福岡弁の使用範囲は見事に過去の
奴国文化圏と一致している

邪馬台国7万戸の言語圏はどこか
考えられるのは関西弁地域しか無いだろう
0445日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 15:57:27.00
>>444
邪馬台国は奴国を含む倭国の言い換え(陳寿のお気に入りの叙述法)だから、7万戸は奴国の3万戸を含むんだよ。
佐賀も邪馬台国に含むだろうけど、言語は伊都国と奴国を含む福岡弁だったろう。

言語がそのように分かれているということは、筑紫と肥国で文化圏が違うけれど、倭国大乱の後の卑弥呼共立の時に倭国は博多湾沿岸のみから肥国を合併した大倭国になったんだな。
それまでの天孫族にかわり、肥国姫氏王家から卑弥呼が立ったという仮説を支持することができる。
0446日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 15:59:10.20
>>444
福岡と関西の間にいくつの文化圏があると思っている?
それらを通り越してなんの根拠もなく畿内説を主張するのは馬鹿げている。
0447日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 16:33:10.57
>>440
投馬国は朝鮮半島南岸、宮崎県は狗奴国の一部。
>>442
クズ説の一つだな。
>>443->>445
3世紀の日本の言語とか記録された文献も残ってないのに分かるはずなかろw
0448日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 16:37:53.85
>>441
>>71は当たってるかもしれないし、全然見当外れかもしれない
>>1の範囲が正しいかもしれないし、そうでないかもしれない
当時の日本の文字が出ないので分からん。
0449日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 16:48:51.23
>>443
もと福岡市住み10年の実感からすると正しい。

博多は先生をシェンシェーと呼ぶ
さ行がsでなくsh

長崎熊北久留米の知り合いは大体一緒。

博多の人は博多で十分儲かっているからわざわざ
南の山を越えようとは思われない。

肥前肥後間の
長崎熊本北久留米筑後を仮にまとめて肥中と呼ぶとすると

肥中の中で戦乱が起きて、山を越えて博多に逃げたという方が自然に思う。
吉野ヶ里八女で睨み合って対陣、って構図が似合う。
0450日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 17:43:20.88
今の方言の雛形は奈良時代には既に出来上がっている
恐らく筑後弁と博多弁の違いも上代からのもの

方言というのは起源が深いんだよ
0451日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 17:43:53.09
>>448
文明世界から中国人が来て詳細な記録を残しているのだから、間違いだを連呼して史料を無視するのは止めようよ。
0452日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 17:57:34.39
昔の日本語の古文って関西人の方が理解しやすいらしいね
東京の人だとちんぷんかんぷんとか

やはり近畿方言こそ日本語の中の日本語
邪馬台国も近畿にあったんでしょ
近畿は大昔から文化の中心だったから言葉が田舎と違うんだよ
0453日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 18:13:42.96
>>452
古文って、奈良京都で書かれた文章だからでしょ。
でも魏志倭人伝に出てくる日本語は全くかけ離れているよ。
それどころか、7世紀以前の上古文は関西の古文と異なっているよ。
どういうことだろうね?
0454日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 18:40:43.13
きさんの国はどこにあっとやー?
やまたい。

うん、九州やな
0455日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 19:23:18.55
九州方言は関東方言と同じく子音終わりが多い
例えば関西だと靴をkutsuと発音するが、関東だとkutsで子音終わりになる

魏志倭人伝に出てくる倭人語は開音節つまり母音終わり
これは関西方言の特徴といえる
0456日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 19:58:10.56
九州などと一括りにできないことはすぐ上の方の話でわからないかな。
筑紫から畿内大和に進出した一団があれば、なんの縁もない関東より近いのは当たり前だし、それは九州説を否定する根拠にはならないよ。

関西だって、奈良と大阪と神戸では違うだろ?
九州だって同じ。
0457日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 20:10:09.90
455
>魏志倭人伝に出てくる倭人語は

それ何!?
大発見www
0458日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 20:12:06.33
まずヒミコがだれなのか考えろ。
それからだ。

スサノオ(帥升)107年




ヒメ踏鞴  (3世紀初)神武 
ヒメ踏鞴        綏靖  
ヒメ踏鞴        安寧  
トヨ津         懿徳 孝昭 
トヨ津         孝安    ​     
     磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
    (4世紀初〜前)崇神


最初に気付いたのは俺ではない。

本居宣長、鶴峰戊申、那珂通世らだ。

ところが発表できない。日本の歴史が中華皇帝への土下座から始まることになりショックが大きい。

彼らは記紀編纂者の心情を汲み取り、その意図を理解し、自分たちもそれに同調する。
そして卑弥呼は神功皇后、朝貢してたのは熊襲であるという訳の分からない説でごまかした。

今の日本人は中国人に劣等感など微塵もない。むしろ小馬鹿にしている。
明治人が日清戦争に勝ってくれたからだ。

本居の時代はそうではない。
当時は封印する以外なかったのだ。
0459日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 20:13:11.11
>>457
人名、地名がたくさん出てくるよ。
関西語で解釈できるものは少ない。
0461日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 20:28:38.66
もしかして、
熊襲と隼人の反乱でムー大陸が沈んだんじゃねえだろうな
0462日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 20:45:26.12
>>459
発音までは分からんでしょw
0463日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 20:52:10.51
懿っていう字、
邪馬台国の「い」っていう字に
ほしいままにするっていう漢字の作りだな
0464日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 21:03:10.46


字源
壺中にあるものが発酵して、中にみちる状態をいう。


意義
1.ひとつ
2.もっぱら(一つの事に集中する。一つの事を主とする。)
3.数字「一」の大字。

https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A3%B9
0465日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/28(月) 01:40:34.24
この前春日市の資料館に行ってきたのだが
あれはどうも違う
糸島と比べてあんちょこすぎる
0466日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/28(月) 08:28:10.28
伊都國が女王卑弥呼の都で北部九州全体が邪馬壹國
投馬國が朝鮮半島南岸、狗奴国は南部九州で全ての問題解決
最終的不可逆的に解決だな。
0467日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/28(月) 11:52:55.26
>>464
投馬国=馬韓、対馬国=経由地、邪馬壹国=馬泥棒大国
この国名を表意文字的国名とすると
邪馬壹国時代からすでに高句麗馬の移入が始まっていた可能性が示唆される。

一大卒は畿内朝廷が置いた筑紫日本府、大倭は畿内朝廷の徴税機関。
親魏倭王の卑弥呼は既に滅び、張政は間抜け、壹輿は傀儡王であった。
0468日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/28(月) 12:09:35.39
対馬は投馬国に対面する島の意味
馬韓は投馬国の北側の韓
弁韓、辰韓は投馬国の属領の韓
投馬国は女王国の領土で朝鮮半島南岸
女王卑弥呼は伊都国で朝鮮半島南岸と北部九州を支配
一大卒は女王卑弥呼が置いた機関で朝鮮半島と九州を結ぶ地域を管理
当時の関西地域は未だ大陸との交流はしていない。
0470日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/28(月) 13:34:45.46
>>467
根拠なし
0471日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/28(月) 20:04:04.19
なんで九州説って何も根拠を言わないんだろうね

そういう生活習慣の人たちなの?
0472日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/28(月) 20:30:22.40
言わずとお互い知っているからじゃない?
ああ、あの遺跡、あの文献の話かと。
疑問があったら聞くと誰か教えてくれるよ。
0473日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/28(月) 21:39:03.37
>>471
根拠はちゃんと書いてあるじゃん
文字が読めないのwww
0476日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/29(火) 01:47:22.28
あと四国が邪馬台国と言っているバカがいるが
米の獲れない四国でどうやって民を養うのか不思議
柑橘系で生き延びたのかww
0477日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/29(火) 02:08:59.02
九州説は国家主義の捏造学説
0480日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/29(火) 08:50:25.84
>>474
>>1から読め
0482日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/29(火) 12:11:43.89
倭人伝を読む限りでは
女王卑弥呼の国は完全に魏の冊封国で軍事的にも張政を招請して介入させている。
張政は帯方郡の小役人であり、これで理解できるのは女王国が相当な弱小国である事。

4世紀には、日本は半島に進出して400年には南朝と半島利権外交を始める。
魏の冊封を受けていた九州の弱小国、邪馬台国が継続している可能性はゼロである。

白村江戦後の隋唐軍の武官ですら、防人の九州上陸を躊躇し、畿内へは入れていない。
畿内説も九州説も古代の日本を邪馬台国並みに矮小化して半島史に配慮してるだけの事だ。
0483日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/29(火) 12:14:50.53
>>482
魏や唐と比べたら弱小であることに変わりはない。
そうやって自国を誇大妄想的に捉えて戦争に突き進んだ結果が、白村江の敗戦や太平洋戦争の敗戦なんだろうが。
まだ歴史から学んでいないのか。
0484日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/29(火) 12:35:12.04
>>482
自虐史観の為に東亜の古代史を粉飾してどうするwww

白村江は半島利権に関する解決法として政治的に決着している。
唐の軍事力、海軍では日本本土との戦争は維持できない事も理解されて
敗戦処理後も敵に文化や技術を教える事になる遣唐使外交は900年まで継続している。

日清戦争、日露戦争は大国相手の戦争だがいずれも政治的解決を導いた。
お前たちの歴史から学ぶと言う事は、歴史を捏造、粉飾すると言う事かwww
0485日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/29(火) 12:45:47.16
>>476
>米の獲れない四国でどうやって民を養うのか不思議

邪馬台国時代の自然環境を知らないバカがいるが

「当時」の自然環境を軽視しすぎ。  @阿波

・奈良盆地は海に面さず、発展する余地なし。
・纏向は湿地帯で王都に不適。
・対馬海流に流されて、末羅國=呼子・唐津は有り得ない。
・瀬戸内海航路は潮流対策施設不備につき、「通し航行」不可能。
・弥生の大洪水で稲作壊滅状態。

大宜都比売神(オオゲツヒメ)は、『古事記』に云う粟国(阿波国)の国神となる女神であり、日本の養蚕・五穀の起源神、日本の偉大なる食物の女神、かつ日本最古の農業神である。

また、焼畑農業神、稲作・畑作農業神としての顔をもつ。『古事記』にあるオオゲツヒメの死は、死と再生という自然循環思想を表す。

穀物名を国名とするのも、農業神が国神となるのも日本で阿波国のみである。
0486日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/29(火) 18:43:12.76
>>484
>白村江は半島利権に関する解決法として政治的に決着している。

バカじゃないか?
戦争は政治的解決が破綻したからだ。
そして筑紫倭国は滅亡した。
傀儡政権である畿内政権は、唐に媚びへつらう朝貢外交に徹した。
0487日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 08:39:57.12
>>486
根拠なし
0488日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 09:25:46.39
>>485
>対馬海流に流されて、末羅國=呼子・唐津は有り得ない。

この点については泡君の誤りであり
対馬海峡には対馬海流以外にも色々な向きの潮流がり
潮流の流れを心得ている地元の人々は自由自在に対馬海峡を往来していたことが証明されている
「対馬海流に流されて」・・・は基礎的な知識が不足している初心者の発言
考古学的な資料からも末羅國=呼子・唐津は定説です
何で誤りを素直に認められないのかな?
0489日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 09:54:02.56
>>488

末盧は本当に通説通り松浦なのだろうか

というのは日本語の音韻と転写を考えると
国の名前は一音一字で一貫している。だから、
末盧=ムロ=室見川周辺を提案する!

末は上古音でも中古音でもm音なのは違いない
もし、ラなら羅の字を使ったのではないか?

そこからの行程は油山を迂回する形で
奴国は博多平野でそこの20000戸を見ながら
伊都は筑紫野のやはり 今の太宰府あたり。
宝満山と高雄山の間くらいか。
そこから東ではないが北東不彌国=宇美町は通説通り

南に水行は宝満川から筑後川へ
邪馬台国は 陸行 が入るから筑後川を遡上した内陸の気がする。
方位は南は東南 東南は東 東は北東の方位ズレと見る。
0490日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 10:08:20.97
御笠川(宝満川)から筑後川へは水行では抜けられませんから
大野城市付近でも御笠川の水量は非常に少ないし
筑紫野市付近になると流れもない、堰を作って水を溜めてある
御笠川と筑後川も繋がっていませんし
船での往来は古来から不可能だったって話ですから。
0491日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 10:38:05.98
>>490
ありがとう

筑紫野には土地勘がないので助かります。

宝満川と筑後川は繋がってないんだ
そうなんだ。

不彌のことを考えると
御笠川上流
筑紫神社がある方の
筑後川上流右岸 あたりか。としておきたい。
0492日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 10:45:05.86
>>488
>考古学的な資料からも末羅國=呼子・唐津は定説です

対馬海流に流されて、末羅國=呼子・唐津は有り得ない。

魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも呼子・唐津に上陸していない。 推して知るべし  @阿波
0493日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 10:56:40.65
>>489
>末盧は本当に通説通り松浦なのだろうか


福津市( 万津浦)   @阿波
0494日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 11:39:52.62
松浦党が後から松浦に移住したのかもしれないからね
末盧と松浦が同じ語源だとしても場所も同じとは限らないよね
0495日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 11:46:09.28
女王國(14万戸56.5万人)は筑紫平野に在った(王都は久留米)

女王國構成4国
邪馬壹國(7万戸28万人)は筑後内陸部(城柵は八女室岡)
投馬國(5万戸20万人)は筑後海岸部(城柵は瀬高山門?)
奴國(2万戸8万人)は肥前佐賀平野(城柵は佐賀城)
不彌國(1千家5千人)は肥前吉野ヶ里(城柵は吉野ヶ里遺跡)

非女王國である伊都國につて
伊都國(1千戸4千人)は肥前大和(城柵は惣座遺跡肥前国庁跡付近)
伊都國は帯方郡からの道程が11900餘里なので女王國には含まれない。
伊都國は旧倭都國(吉野ヶ里遺跡を王都とする米多(米田)國・倭面土國)
伊都國の王は旧倭國王帥升王統の末裔
0496日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 11:54:33.77
>>492>>493
根拠の無い話しても無駄w

>>494
呼子や唐津も旧松浦郡の一部ですよ
松浦郡
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E9%83%A1

魏志倭人伝に記された末盧國も呼子や唐津だけでなく西の方まで広がってた可能性が高く、呼子や唐津は魏使が実際に通っただけですね。
0497日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 13:03:20.94
目的地が伊都なのに唐津に上陸したらアホだろ?
糸島西岸なら船越湾、東岸なら今津浜界隈に母港が有るはず。
元寇防塁ってのが見たくなった。

船は目的地近辺に上陸点を求めるか、母港に帰るんだよ。
卑弥呼の外洋貿易船っていう設定だろ? 

呼子の漁船かよw
縄文土人の先入観が抜けてないだろ?
0498日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 13:06:03.17
>>496
>根拠の無い話しても無駄w


根拠: 魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも呼子・唐津に上陸していない。 推して知るべし  @阿波
0499日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 13:31:09.35
>>496
松浦郡って広い(小並感)

どちらかというと
こちらを使う人は佐賀平野に出たい人が使うルートのような気がする。
0500日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 14:16:37.66
元は何を戦略目標にしてたの?
本気なら本州上陸が最優先なのに
0501日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 15:04:11.85
>>498
魏使が何処に上陸したかを論じてるのに
魏使を根拠に揚げるとかキチガイだなw
朝鮮通信使は江戸に向かうんだから方向違いの呼子や唐津に上陸してないことは根拠にならんし
元寇は唐津付近にも上陸してるし
嘘ばっかりだな。
0502日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 15:21:38.33
>>495
久留米は傍らの国のどれかで王都ではありませんよ
女王國=邪馬壹國+投馬國で
伊都國が女王國の王都です。
0503日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 15:31:29.71
魏使は目的地が伊都国(糸島市)なので呼子付近に上陸したのです
当時は港湾が未整備だったので魏使の乗ってきた大型の外洋船が入港出来る港が呼子付近にしかなかったのと
魏使は帯方郡から船での長旅を送って来たので早く上陸したかったので呼子付近に上陸した
呼子付近から南に進み、唐津付近で東に向きを変え伊都国へ
この距離が500里、時間では1日(これを書き間違え1月)。
0504日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 16:22:04.65
大型船でも海上に停泊、小型船で陸地とピストンすればいいだけなので呼子上陸の意味はないよ
呼子→伊都は50kmくらいか、当時の道なき道を1日じゃあ無理
0505日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 17:29:06.37
魏使上陸の「末羅國」を呼子だ唐津だ言ってるような頓珍漢じゃ、そりゃ世界遺産登録も外される訳だ。
0507日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 17:53:31.92
>>504
張政とか倭に長居してるみたいだし
外海に長期間停泊とか危ないろ
乗船してきた船は呼子湾に入れとかないとな
50qくらいは歩兵の急いだ場合の1日の行程だ
道だって末羅國と伊都國の間は大陸との交易路だから
最低でも人道は在ったはずだ。

>>505
魏使上陸の「末羅國」を呼子ではないなんて頓珍漢言っちゃダメw
世界遺産って何処のことだ?
0508日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 17:59:06.39
>>502
B>久留米は傍らの国のどれかで王都ではありませんよ
A>女王國=邪馬壹國+投馬國で
@>伊都國が女王國の王都です。

@伊都國は帯方郡からの道程が11900餘里なので女王國には含まれない。
帯方郡から女王國までの道程は12000餘里なので、
伊都國は女王國の100里手前の国である。

A女王國=邪馬壹國+投馬國+不彌國+奴國
不彌國と奴國は帯方郡からの里程が12000餘里であるからどちらも女王國に含まれる。
邪馬壹國には女王が居しているから女王國である。
投馬國は、女王國である不彌國と邪馬壹國の間に記述されているから女王國である。

B久留米は、女王國である筑紫平野のほぼ中心地にあるから女王の居所(王都)として相応しい。
又、筑紫平野東部内陸部(筑後平野内陸部+北野地域)にある邪馬壹國のほぼ中心地でもある。
投馬國は筑後平野の有明海沿いの地域。
奴國は佐賀平野。不彌國は吉野ヶ里。伊都國は肥前国庁跡付近の地域。
0509日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 18:00:03.16
長期間停泊とかアタマ悪いのー
乗客を船から降ろして入れる港で待機すると考えるだろ、フツーのオツムなら
歩兵で15km/日だろ、下賜品があるから急げないよ、魏使だけ走ったとかバカな事言うなよw
それに当時は峠越えだから
0510日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 19:05:09.93
>>509
アタマ悪いのは君だよ
小舟に乗り換えるより直接上陸する方が安全で下賜品も確実に陸揚げできる
下賜品なんて倭人が港から王都まで運べば言い訳だし急ぐ必要もない
魏使だって倭人が大勢で輿で運ぶさ
輿で運ばれたんで「其地無牛馬虎豹羊鵲」と書いたんだろ
末羅國から伊都國の間の峠は大したことない
なだらかな丘程度だよ。
0511日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 19:26:53.73
>>508
@帯方郡から女王國までの道程12000餘里は
帯方郡の中心地から女王國の中心地までの距離であり
「到其北岸狗邪韓國」と書かれている狗邪韓國に着いた時点で女王国には入っている
伊都國は女王國中心地の100里手前の国邑である。

A奴國は帯方郡からの里程が12000餘里であり、戸数2万戸と邪馬壹國中最大の国邑であるから女王國の中心地である
不彌國は帯方郡からの里程が12100餘里の場所にあり女王國の中心地ではなく邪馬壹國を構成する国邑の一つである。
不彌國までで行程記事の里数(距離)での説明は完全に終了し邪馬壹國には到着している
投馬國からは行程記事の日(時間)での説明で邪馬壹國の都とは伊都国のこと

B7万戸もの邪馬壹國は筑紫平野だけでは収まらない
まして5万戸の投馬國も入れるとか絶対に不可能w
邪馬壹國は北部九州一帯で投馬國は朝鮮半島南岸
奴國は筑前の殆どの地域

女王国⊃邪馬壹國+投馬國
投馬國⊃狗邪韓國
邪馬壹國⊃對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
0512日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 19:27:50.47
大陸からの玄関口 末羅國は福津市( 万津浦)宗像方面

だから世界遺産に選ばれたのも当然と言えば当然  @阿波

魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも呼子・唐津に上陸していない。 推して知るべし  @阿波
0513日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 19:29:37.01
>>512
嘘は何回吐いても嘘だよ
事実を基に説を作らないと
根拠が嘘じゃ話にならない。
0514日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 19:37:58.50
チンパンジーが邪馬台国ごっこして喜んでるだけだから相手しちゃダメw
0515日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 19:42:48.14
>>510
直接上陸できないケースを言ってるんだよ、オツム腐ってるノー
下賜品途中でなくなっちゃうよ、アホやのー
輿が通れる道なんかないよ
0516日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 19:49:09.36
倭人伝は解読されて考古学で裏付けも取れて首都は伊都で決着がついたんだから喧嘩するな
0517日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 20:04:34.86
>>516
>倭人伝は解読されて考古学で裏付けも取れて首都は伊都で決着がついたんだから喧嘩するな

「考古学で裏付けが取れてない説」なんだから「喧嘩するな」は、そりゃ無理でしょ、百家争鳴で。   @阿波
0518日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 20:06:32.58
>>515
何で直接上陸できないケースを考える必要があるんだよ
直接上陸できる場所に上陸すればいいだろw
何で下賜品が途中でなくなるんだよw
「皆臨津捜露 傳送文書 賜遣之物詣女王 不得差錯」ってあるだろwww
輿が通れる道がないなんてなんで分かるの?
0520日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 20:43:17.87
>>519
何にこだわってるのかよくわからんのだが、だったら上陸地点はどこだと言いたいの?
0522日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 20:51:58.46
>>520

福津市( 万津浦)   @阿波
0523日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 20:52:37.67
>>519
分からんけど???
0524日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 20:54:41.83
>>521
だからスレ見てて、なんで食いついてるのかがよくわからん

呼子じゃないというのなら、唐津って言いたいの?
伊都より東だと楽浪土器の分布から厳しくなってくるけど
0526日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 21:29:36.82
呼子の大友は継続的に営まれた甕棺墓遺跡で有名
弥生前期の大型甕棺分布図を眺めていると
甕棺墓が伝来した時の上陸地に見えたりする
2萬戸の奴國の成立過程に思いを致す時
甕棺墓を営むグループの関与を考えざるを得ない
それと武器型青銅器の埋葬を持ち込んだ木棺墓人のグループ
そして甕棺墓の領域に隣接するところの石棺墓人のグループとね
0527日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 21:32:51.79
>>519
何が言いたいのやら?
0528日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 21:38:46.03
>>526
>そして甕棺墓の領域に隣接するところの石棺墓人のグループとね


石棺墓は倭国(阿波)の墓制なんですよ。   

筑紫忌部の影響ですね。   @阿波
0529日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 21:46:05.74
忌部もまた北部九州発祥なのだがな。
主要ルートから取り残された阿波に多く残ったのを後世から見て誤認しているだけで。
0530日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 21:46:11.32
高木(木棺王墓)→梶栗浜(石棺王墓)→稗田地蔵堂(石棺王墓)
高木(木棺王墓)       →      南小路(甕棺王墓)
0531日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 22:00:43.04
>>530
>高木(木棺王墓)→梶栗浜(石棺王墓)→稗田地蔵堂(石棺王墓)


筑紫忌部の影響ですね。   @阿波
0532日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 22:05:30.92
宗像に至るともう甕棺墓は無いのね
0533日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 22:07:51.64
>>529
>忌部もまた北部九州発祥なのだがな。

北部九州にも、忌部はんみたいな一族がいたら北部九州説で決まりだったのにね。  残念。

あっ、でも丹山がないからやっぱりだめだわ。   @阿波
0534日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 22:20:55.91
元祖阿波は魏志に出てくる不彌國にある汽水湖とか磯場とか
伊邪那岐が行水して子を成した[竺紫日向之橘小門之阿波岐原]
淡海 あふみ おうみ の音が大御神の名に読み込まれる
0535日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 22:25:32.79
後の世の阿波の民は先祖想いで祭祀を絶やさず
なんて偉かったのだろうかと感心する
0536日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 23:12:23.91
魏使は伊都国までしか言っていない
もし邪馬台国まで行くなら、そのまま船で邪馬台国の近くの港まで行ったろう
奴国の港(奴の津=那津=博多港)という最高の港湾施設があったのに何でわざわざ末盧国なのか?
魏使の目的地が伊都国だったからだ
0537日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/30(水) 23:12:48.32
>>535
やることがなかったんだろ
0538日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/31(木) 00:11:17.72
阿波のおかげで徳島県まで嫌いになった、一生行かん。
0539日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/31(木) 00:31:06.11
阿波も土佐も5万戸の投馬國の内数で倭國内にある
投馬國は石棺墓人のグループがコアになって各地にコロニーを形成
0540日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/31(木) 00:47:24.59
石棺墓は

山東半島や遼河流域遼東半島と
相関があるから両方を考えてないとダメよ
0541日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/31(木) 00:53:22.88
投馬國の石棺墓人のグループのベースは
あちこちと流浪してしまいには列島に辿り着いた越系の海洋民族
0542日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/31(木) 01:28:40.67
>>511
>@帯方郡から女王國までの道程12000餘里は
>帯方郡の中心地から女王國の中心地までの距離

原文を読め。中心地から中心地までの距離とは書いていない。
「中心地」は君の単なる妄想である。
12000餘里は、帯方郡から女王國までの単なる距離である。

>A不彌國は帯方郡からの里程が12100餘里の場所にあり

伊都國は帯方郡からの行程が11900餘里であると書いてある。
行程里とは、「移動動詞+至(到)+里数」と「国の大きさ」の総和である。
伊都國と奴國は2点間の距離100里を表しているだけなので行程100里ではない。
伊都國から不彌國は、「移動動詞+至(到)+里数」の文で、行程里が100里とある。
よって、不彌國は帯方郡からの行程が12000餘里の場所にある。

>B7万戸もの邪馬壹國は筑紫平野だけでは収まらない

筑紫平野には14万2千戸(57万人)は収まる。
筑紫平野=佐賀平野+白石平野+筑後平野+北野地域(1200q²)
農業扶養人口は、5人/ha(0.5人/反)。有明海の漁業扶養人口もあり。
0543日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/31(木) 04:22:54.04
日本と皇統の歴史のまとめ

@高天原=四国
A大国主時代(出雲の国譲り)
Bナガスネヒコ討伐(神武東征=大和討伐)
C邪馬台国の存在
D大和朝廷勃興時代(崇神天皇)
0544日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/31(木) 04:36:25.20
>>543の続き

〇大国主時代
・スサノオの別系統(アマテラスを嫁(誓約)とする子供以外)

〇ナガスネヒコ討伐
・先に畿内を統治していたニギハヤヒ系を傀儡として権勢があったナガスネヒコを討伐
0545日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/31(木) 06:35:06.58
>>538
>阿波のおかげで徳島県まで嫌いになった、一生行かん。


罰当たりなことを言ってはいけません。

一度はあなたのご先祖の地、忌部の郷を訪ねなさい。

あなたの荒んだ心が洗われますよ。

倭人伝・記紀そのままの景色が倭国(阿波)国内いたるところで見ることが出来ます。   @阿波
0546日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/31(木) 07:35:35.66
途中の距離には余の字があるんだよね。
だからおおよそ伊都国で一万二千里なんだよ。
後漢書でもそうなっている。
0547日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/31(木) 11:49:39.31
>>542
@
>原文を読め。中心地から中心地までの距離とは書いていない。

原文では「自郡至女王國 萬二千餘里」とあり自(から)が使われてるが
君の説だと郡と女王國の間の距離だから「郡至女王國 萬二千餘里」でもいいですよね。
自は元々鼻を指す漢字だったものが自分を指すようになり鼻には別に漢字が作られたもので自を(から)の意味に用いる場合でも中心地から中心地までの意味だった
現代中国語ではこの意味は失われているようですけどね。
また大韓民国から日本へは約800qと書いた場合この距離はソウルから東京距離ですね
つまり「自郡至女王國 萬二千餘里」とは帯方郡の中心地から女王國の中心地までが道程12000餘里の意味です。
0548日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/31(木) 12:06:03.58
>>542
A
漢文では行程の枝分かれなんて例はありません
帯方郡から不彌國までは一本道。
0550日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/31(木) 12:28:31.33
>>543>>544
チンケな説だなw
0551日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/31(木) 18:32:02.50
>>548
それは書き方が変わらない場合ね

伊都国で「到」と「駐」が使われている
何らかの区切りが内容的にも認められる

そして、奴国から表現が変わっている
この語順は他文献で放射的に説明する時に用いられる表現の仕方であるから、ここは放射読みの可能性が高い
0552日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/31(木) 18:58:16.88
>>551
「到」は狗邪韓國と伊都國に使われ
其々が投馬國と邪馬壹國に対応し
魏使が目標として旅した場所だ
「駐」は伊都國が王都であったからです。

>この語順は他文献で放射的に説明する時に用いられる
その文献と用例を示してください。
0553日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/31(木) 19:50:23.57
例えば、

漢書 西域伝 (大宛国が放射式記述の起点)

大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…
東   至 都護治所   四千三十一里
北   至 康居卑闐城 千五百一十里
西南 至 大月氏     六百九十里
北与 康居
南与 大月氏接

※女王国=伊都国だと内容的に尚更当てはまる

投馬国からは同じ放射説だけど、日程表現になるため別に事柄の説明であり、起点は変わります
不弥国の「行」の字で行程説明は終了

あくまで可能性が高い説として、自分的に納得してるだけですので、ご了承下さい
0554日本@名無史さん
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2017/08/31(木) 21:58:14.25
>>553
ありがとうございました
この記述は移動を伴わない方向と距離を示したもののようですね。
0555日本@名無史さん
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2017/08/31(木) 22:16:50.73
倭人伝の場合は行程を説明してますから
伊都国以後に語順が変わるのは伊都国で目的地に着き、そこに留まって
この先は方向を示すだけで移動してないからでしょうね
>>553の場合は起点が決まっていてそこからの説明ですが
倭人伝だと起点が移動してますから分岐は考えられないと思いますよ
分岐するならもっと明確分岐すると書くはずです。
0556日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/31(木) 23:19:17.65
伊都王都平原女王墓で確定

倭人伝も説明できるし
考古学的にも全てが説明できるし
記紀も説明できる

考古学ファンはもう騙せない
権威で頷かせても、若い連中だけの集まりでは伊都決定

せめて一般人の印象を操作しようと必死の抵抗
0557日本@名無史さん
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2017/08/31(木) 23:52:47.29
>>553
常治伊都国

王の居場所を示す用語なのかな?
0558日本@名無史さん
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2017/09/01(金) 09:30:13.42
魏の使節は伊都国が目的地だったと考えられる
なぜ末盧国なのか?
せっかくなら奴国の港(奴の津=那津=博多港)に停泊すれば楽なのにな

伊都国までしか入国出来ていないからだよ
0559日本@名無史さん
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2017/09/01(金) 09:30:37.00
魏の使節は伊都国が目的地だったと考えられる
なぜ上陸が末盧国なのか?
せっかくなら奴国の港(奴の津=那津=博多港)に停泊すれば楽なのにな

伊都国までしか入国出来ていないからだよ
0560日本@名無史さん
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2017/09/01(金) 09:32:01.87
>>558
遠回りになるからじゃないの?
0561日本@名無史さん
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2017/09/01(金) 12:23:09.13
「從郡至倭」の行程(道程) 移動動詞+距離+至(到)の文
 「從郡」であるから郡は経由地の起点(筆者読者の視点は洛陽に有り)

@循海岸水行 到其北岸狗邪韓國 七千餘里(韓地の倭に到着) 移動距離計7000餘里

A始度一海千餘里 至對海國 方可四百餘里(経由国) 移動距離計8800餘里

B又南渡一海千餘里 至一大國 方可三百里(経由国) 移動距離計10400餘里

C又渡一海千餘里 至末盧國(経由国) 移動距離計11400餘里

D東南陸行五百里 到伊都國(倭地の旧倭都に到着) 移動距離計11900餘里
移動の動詞が無い行程外の国についての挿入文 「東南至奴國百里」 距離計12000餘里
奴國は距離12000餘里にある女王國であるが、魏使は奴國に訪れていない

E東行至不彌國百里 移動距離計12000餘里 女王國に到着(魏使はこの国まで来た)
0562561
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2017/09/01(金) 12:36:40.73
>>559
>魏の使節は伊都国が目的地だったと考えられる
>なぜ上陸が末盧国なのか?

伊都國は末盧國(唐津中原)の東南の陸路500里にある。
伊都國、奴國、不彌國は佐賀平野にある。
0563日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 12:45:48.82
>>561

倭国(阿波)では、鉄鍛冶を実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。

魏使が九州で留まっていようがいまいが、「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは確実である。

延々と無意味は論争は時間の無駄。   @阿波
0564日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 12:48:31.54
>>562
>伊都國は末盧國(唐津中原)

対馬海流に流されて、末盧國(唐津中原)は有り得ない。

魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。推して知るべし  @阿波
0565日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 13:07:21.15
>>560
いとこくにいくのなら、那の津に上陸すると遠回りになる。
つまり、最終目的地が伊都だった。
帯方郡から一万二千里、伊都国が魏の使いの目的としていた女王国。
0566日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 13:15:12.83
>>564
>対馬海流に流されて、末盧國(唐津中原)は有り得ない。

刻々変化する潮流に船を乗せれば、其北岸狗邪韓國(巨斉島南岸)から
末盧國(唐津中原松浦川河口)まで高速で簡単に運んでくれる。
0567日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 13:15:59.05
>>565
意味わからん 分かり易く解説してくれ
0568日本@名無史さん
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2017/09/01(金) 13:17:54.69
阿波氏の郷土愛に関しては感心させられるけど
萩原の尾根先端のピーク上の2号墓の鏡は中国鏡ではなくて楽浪鏡
この吾作画文帯同行式神獣鏡は平壌富田晋二氏旧蔵の複製鏡
阿波からは上方作系の楽浪鏡の良いやつも出ているなあ
中国鏡が出ているのは不勉強にして知らない
ぜひ教えてくださいな
0569日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 13:19:52.01
>>566
>刻々変化する潮流に船を乗せれば、


そんな博打航行、大事な魏使にする? 常識ないの?

魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。推して知るべし  @阿波
0570日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 13:20:15.44
>>568
萩原の尾根先端のピーク上のは1号墓でんな
0572日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 13:25:24.00
>>564
>元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。

元寇に対応したのは、古松浦湖にあった中原の津である。
中原遺跡から元寇対策の遺物が出土している。

朝鮮通信使は目的方向が違う。
0573日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 13:30:36.11
>>572
>元寇に対応したのは、古松浦湖にあった中原の津である。
>中原遺跡から元寇対策の遺物が出土している。

だ・か・ら、魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。  推して知るべし   @阿波  


> 朝鮮通信使は目的方向が違う。

「最短・安全の法則」じゃなかったの?   @阿波
0574日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 13:31:40.68
>>561
なんで
7000の次が8800なん

海を1000里渡るて書いてあるのに。
0575日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 13:32:17.11
末盧国には豊富ヒデヨシの半島侵略基地になった那古野城の跡地がある
近世にいたるまで倭人は半島から文明を学ぶ入り口にしたのは松浦半島だったのだろう
0577日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 13:36:07.08
>>575
>近世にいたるまで倭人は半島から文明を学ぶ入り口にしたのは松浦半島だったのだろう

近世にいたるまで倭人は半島へ進出・侵略する「出航地」にしたのは松浦半島以西だったのだろう
0578日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 13:38:18.42
>>575
>近世にいたるまで倭人は半島から文明を学ぶ入り口にしたのは松浦半島だったのだろう

近世にいたるまで倭人は半島へ進出・侵略する「出航地」にしたのは松浦半島以西だったのだろう    @阿波
0579日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 13:42:14.18
>>578
これは同意。
0580日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 13:45:56.48
>>579
>>578
>これは同意。

ならば、末羅國は福津市(万津浦)近辺でしょ?   @阿波
0581日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 13:45:57.77
7世紀にいたるまでは列島側にも半島側にも倭人が涌いていたというだけのはなし
進出だの侵略だのといわないで徂徠していたというべき
0582日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 13:48:04.09
と言うか、対馬海峡勢力が倭国の主流に成長したんじゃないかね。
天津国(海の国)と言う言葉もあるくらいだし。
ニニギは福岡に船で上陸しているし。
0583日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 13:48:20.05
>>581
>進出だの侵略だのといわないで徂徠していたというべき

白村江の戦も「徂徠」?   @阿波
0584日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 13:49:24.31
>>580
いや
私は
末盧國は
マツラの松浦郡ではなく室見川周辺だと思ってます。
0585日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 13:51:12.82
>>582
>天津国(海の国)と言う言葉もあるくらいだし。

天津国(海の国)とは、阿波国になる以前の「長国」なんですよ。   @阿波
0586日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 13:57:10.60
>>584
>私は
>末盧國は
>マツラの松浦郡ではなく室見川周辺だと思ってます。

末盧國が福津市近辺で、博多湾沿岸航行による「室見川周辺」上陸なら分かりますが、

末盧國(室見川周辺)は有り得ない。   @阿波
0587日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 14:02:45.36
>>574
>なんで7000の次が8800なん
>海を1000里渡るて書いてあるのに。

方可四百餘里を1000餘里に加えると1800餘里となる。
0588日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 14:03:45.01
呼子どころか唐津でも貿易港的に田舎杉だろ? 
徒歩の陸路で佐賀平野出れるか? 
菜畑遺跡は漂流者の遺跡としても、他、何も無くネ?
田んぼ放棄して、引っ越してるから遺跡だろw

地勢的には糸島半島から博多と思うぞ。
糸島が末露で博多西部内陸に伊都探せよ。

女王国は佐賀、久留米の連なる国々の南端で八女で良い。
隔絶国が、唐津、佐世保、宇佐、別府、日田、小倉だろ?
0589日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 14:05:54.15
>>587

倭国(阿波)では、鉄鍛冶を実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。

魏使が九州で留まっていようがいまいが、「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは確実である。

延々と無意味は論争は時間の無駄。   @阿波
0590日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 14:26:01.93
阿波は投馬國の分国で5万戸の内数だから
大陸との流通ルートが確立されているのは当然である
投馬國の別名は阿那(穴)でこいつこそが元祖ヤマト
0591日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 16:27:32.96
>>588
>徒歩の陸路で佐賀平野出れるか? 
国道203号線ルートで出られます。
唐津市と多久市の市境である笹原峠(標高104m・比高20m)が一番の難所です。

>菜畑遺跡は漂流者の遺跡としても、他、何も無くネ?
菜畑遺跡ではありません。
唐津伊万里道路唐津インター傍の中原遺跡です。現在は高速道路敷地の下。
弥生早期から元寇の頃まで湖岸(古松浦湖・現松浦川)にあった遺跡です。
付近には弥生遺跡や古墳が数多くあります。
0592日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 16:54:02.62
>>588
>女王国は佐賀、久留米の連なる国々の南端で八女で良い。
>隔絶国が、唐津、佐世保、宇佐、別府、日田、小倉だろ?

餘旁國は、福岡平野、糸島、遠賀川流域、筑紫平野周辺盆地、佐世保、宇佐、別府、日田、小倉
0593日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 17:07:33.63
だから、どーでもいいから
0594日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 17:07:56.61
>>588
>呼子どころか唐津でも貿易港的に田舎杉だろ?

港として最適かどうかが問題であり呼子の場合天然の良港で
古代に大型船が入港するには持ってつけ
呼子からは唐津を通り糸島市(伊都国)へ 
0595日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 17:09:59.30
>>594
うそこけ  荒磯が天然の良港かよ
0596日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 17:14:27.09
うそこき糸厨
0597日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 17:56:47.54
>>595
呼子に行ったことないの?
ヤリイカの刺身が旨いぞw
0598日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 18:01:17.30
>邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)

議論じゃなくって、もう結論が出たから。
倭人伝は解読されて、考古学の裏付けもある。

伊都じゃないと言いたいのなら、わけのわからん結果連呼じゃなくて、
その根拠をテンプレにまとめたスレを立ててくれ。
0600日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 18:15:20.70
伊都国歴史博物館の看板にころっと騙されちゃってるひと大杉
南小路の侯王墓は委な奴國の王墓で三雲は奴國の中心部
須玖岡本のほうがほんとは出店みたいなものくせして
奴國の看板とられちゃって残念なことでした
伊都国東南100里で奴國の奴國は三雲
三雲のことを怡土郡といわせたのも
混乱させる目的でしでかしたあるの種破壊工作みたいなものなのでしょ
0601フィクション大魔王
垢版 |
2017/09/01(金) 18:43:35.88
三雲遺跡       緯度  33度 32分 00.24秒 
須玖岡本遺跡     緯度  33度 31′ 57.05
吉武高木遺跡     緯度  33度 32分 02.54秒 

宝満山        緯度  33度 32’ 23”
飯盛神社       緯度  33度 32分 05.77秒
一貴山銚子塚古墳      33度 31分 58.79秒

同じ信仰を持った人達の遺跡である。
東は宝満山、西は飯盛山である。

糸島三雲遺跡は、伊都国ではない。
委奴国である。
0602日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 19:22:40.99
>糸島三雲遺跡は、伊都国ではない。
>委奴国である。

糸島三雲遺跡は、委奴國である。
伊都國は、佐賀惣座遺跡である。
0603日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 19:30:46.41
女王国は?
0604日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 19:54:01.95
>>601
倭奴国と伊都国が同じもので、時代により表記を変えただけ。
0605日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 19:55:33.73
女王國は、佐賀惣座遺跡近辺を除く筑紫平野のほぼ全域である。
0606日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 19:56:24.32
佐賀惣座遺跡は狗奴國界ですねえ
2万戸の奴國の南にあるでしょ
0607日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 19:59:52.83
>>605
奴国は?
0608日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 20:00:23.08
>>603
女王国は伊都国と奴国をまとめた言い換え。
邪馬台国は倭の言い換え。
0609日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 20:09:49.31
一貴山銚子塚の一と
邪馬壹國の壹はコモン
当時の壱岐は一大國と呼ばれたがここのの壱もコモン
当時の糸島市には[yi-qi]と呼ばれた領域があった
これは一の分国だろう
当時の伊都の発音はたぶん[yi-tu]か[yi-du]
これは[yi]のバウンダリーを統べ纏める拠点の称ではあろう
伊=壹=壱=一
壹與は壹の血筋を受け継いだ者の意になる
たぶん難升米の娘なのだろう
そうでないと素直にゆうこと聞いて男王やめましたということにはならんだろ
0610日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 20:16:49.02
委奴・倭奴(イト)は、倭都(イト)を卑しめた名称である。

倭都國(イト国)は、倭の都でなくなったので、伊都國(イト国)となった。
女王國が成立する前の倭の都であった倭都國(イト国)が、
女王國成立により伊都國(イト国)と改変されたのである。
0611日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 20:26:25.16
もちろん一大率の一もこれコモン
一大率は伊大帥と書くも壹大率と書くも可なるべし
邪馬壹國女王は壹與のニックネーム
邪馬のバウンダリーと壹のバウンダリーを統べ纏める女王だからだ
不彌國の名は生の松原地名で現在に伝わる
直南にはヤマト地名が残りその南は壱岐地名で溢れかえっておる
邪馬壹國の官の長は壹與本人の名義だろう
官は魏帝晋帝からいっての官だから現地の首長名があてられる
魏書には「伊支馬」ってあったっけな
0612日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 20:45:42.80
>>602
佐賀とかお呼びでないw
惣座遺跡は傍らの国
0613日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 20:47:43.28
>>606-608
>佐賀惣座遺跡は狗奴國界ですねえ
>2万戸の奴國の南にあるでしょ

奴國の領域は佐賀平野南部と西部。
伊都國は佐賀市大和町、不彌國は吉野ヶ里町近辺。
狗奴國は矢部川南岸内陸地域と緑川以北の熊本県北部地域。
0614日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 21:01:23.39
>>613
それはないなw
0615日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 21:02:55.75
糸厨がぼこられたら今度は佐賀厨が出てきた
0616日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 21:04:32.32
>>612
>佐賀とかお呼びでないw
>惣座遺跡は傍らの国

末盧國(唐津)の東南500里(40q)は、佐賀市大和町(惣座遺跡)になる。
玄界灘岸で4000戸(1.6万〜2万人)収容できる平地は唐津平野。
0617日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 21:05:32.44
佐賀の次は日向厨? それとも熊厨? お好きな物をどうぞ
0618日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 21:10:32.07
卑弥呼の宮殿は高祖山にあって
そこは奴国の範囲内であり
一万二千里は高祖山までの距離だよ
0619日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 21:11:08.04
卑彌呼は熊襲の女大酋長というのは大当たりだとはおもうよ
0620日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 21:13:13.64
熊厨登場
0621日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 21:15:40.65
日向厨、さぼるな おいてかれてるぞ
0623日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 21:32:08.95
>>619

【肥国】

倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫(天津国) が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫(天津国)が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。

筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
おそらくその過程には、本来は肥国の中心の一つであったであろう筑後山門の出身の卑弥呼が筑紫も含めた倭国女王になったことが関係しているだろう。

卑弥呼は肥国の山門の出身で、後に山門は有明海に向かって拡大する筑紫に飲み込まれて筑後となる。
これにより肥国は肥前と肥後に分裂する。
卑弥呼はそれまでの伊都国王統を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治した。
特に敵対的だった伊都より北の天津国は一大卒を任命して監視した。
卑弥呼は死後に倭国の都である伊都の平原遺跡に葬られた。

肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
ただし肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は必ずしも良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。
0624日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 21:47:47.22
>>616
末盧國は唐津平野だけでなく旧松浦郡全体です
とても唐津平野だけで4000戸(1.6万〜2万人)は収容できない。
0625日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 22:00:11.16
その末盧國の港はどこ?
0626日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 22:21:06.90
呼子
0627日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 22:23:33.63
荒磯の呼子
0628日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 22:24:10.74
>>625

末盧國の港は、現松浦川(古松浦潟湖)東岸の中原遺跡である。
中原遺跡付近は、掘れば何所からでも弥生遺跡が出てくる地域。
0629日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 22:25:06.72
どっちやねん
0631日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 22:26:18.20
どの道トンデモだから、どっちでもよい
0632日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 22:33:58.74
>>629
末盧國から伊都国へは「東南陸行五百里」
呼子からなら南へ向かい唐津で東に向かうと糸島市
唐津からだとあらぬ方向へ向かう。 
0633日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 22:48:25.16
>>639
>>629
末盧國から伊都国へは「東南陸行五百里」
唐津中原からなら松浦川沿いに南へ向かい多久で東に向かうと佐賀大和町(伊都國)
唐津中原からだと伊都國にピッタリ着きます。
0634日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 22:56:24.06
佐賀大和町(伊都國) ・・・死んだ方がいいよw
賛同者誰もいないだろwww
0635日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 23:06:34.81
原文を短里で素直に読めば、
末盧國(唐津中原)から伊都国(佐賀大和惣座)へは、「東南陸行五百里」で必ず着きます。
0636日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 23:31:27.01
誰か賛同してくれた人いる?
ネット上なら何とでも言えるけど
他の人に直に話したら馬鹿にされるよ。
0637日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 00:03:59.44
>>636
ではもう一つ周髀算經に書いてあることを教えよう。
科学的論理が理解できるかな?

周髀算經には、河北省石家庄(北緯37.8度)付近で観測した
BC1120頃の北極星観測データが書かれている。

と云うことは、周髀算經に書かれている内容の成立は、殷商代であるということだ。
通説の前漢頃ではないと云うことだ。
0639日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 00:24:06.36
もう一つ

BC1120頃
北極星は天の北極点の回りを、5.4度の半径で回っていた。
その当時の北極星は、こぐま座ベータ星であった。
(現在の北極星は、こぐま座アルファ星)
0640日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 00:30:57.77
原文を素直に読めば、
末盧國が唐津中原ではないことがはっきりとわかる
潜水してアワビとか採る模様見物とか出来ないよ
あそこぢゃね
0641日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 00:33:32.73
もう一つ

BC1120頃
「黄道の北極点」と「こぐま座ベータ星」と「赤道の北極点」が一直線に並んでいた。
0642日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 00:36:21.61
BC1120頃の北極星の位置とかホラもいい所
少なくても10年オーダーだと見た目の位置はほぼ変わらない
1000年〜1200年ごろとかそういう表記でないと怪しい
0643日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 00:49:22.78
>>640
そうですね、唐津中原付近ではアワビとかいませんね
唐津中原付近からそのまま内陸に向かったらアワビとか採る様子なんかお目にかかりませんね。
やはり上陸地点は呼子がふさわしいですね、あの辺はアワビが採れますから。
0644日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 01:12:21.08
今と当時の地形を同じと考えるのがおかしい
遺跡の位置からすると、当時は砂丘もなく松浦川も幅広く、鏡山が海岸線だっただろう
倭人伝は正確に描写されていると思うぞ
0645日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 01:17:34.23
>>640

唐津中原は古松浦汽水湖(湾)の東岸にありました。

付近の貝塚では大量のシジミ、アサリや蛤(二枚貝)の殻が発見されています。

当然シナ人にとっての高級貝である鰒・アワビ(巻貝・一枚貝)も採れたでしょう。
0646日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 01:45:34.96
>>642

>>637>>639>>641 の記事内容について、

地球の歳差運動について知れば、10年位の誤差で計算できます。
私は10位の誤差で計算できました。
地球の歳差運動について計算方法が公認されたのは2001年です。
私とどちらが先かわかりませんが、どこかの大学の天文学の研究者が、
BC1114と計算されたと聞きました。
0647日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 02:53:57.00
伊都王都平原女王墓で確定

倭人伝も説明できるし
考古学的にも全てが説明できるし
記紀も説明できる

考古学ファンはもう騙せない
権威で頷かせても、若い連中だけの集まりでは伊都決定

せめて一般人の印象を操作しようと必死の抵抗
0648日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 03:45:53.39
邪馬台国の位置論争は昔から山ほどあるがまだ結論が出ない。出せないといったほうがいいかもしれない。

それよりも、歴史のプロセス、すなわち文化の中心が九州(たぶん奴国)から1、2世紀後に畿内に移った
そのプロセス(の仮説)を解説して欲しい。いわば「空白の4世紀」の解明だ。
文献はないから考古資料が手がかり。出雲や吉備もメインプレーヤーだろう。
この頃、突然現われた四隅突出型墳丘墓なんて良くわからないし、銅鐸が土中に埋められるのもまた、この頃だ。
解明は難しいのだろうか? この手の解説本はあまり出ていないんだよな。
0649日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 05:50:26.82
>>634
>>635

いや これは 私は支持するね!
有明海勢力にとって重要な寄港地は唐津だったはずだ。
0650日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 06:53:36.94
>>649
>有明海勢力にとって重要な寄港地は唐津だったはずだ。

大陸からの玄関口 末羅國は福津市( 万津浦)宗像方面

だから世界遺産に選ばれたのも当然と言えば当然 

魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。推して知るべし 

対馬海流に流されて、末羅國(呼子・唐津)は有り得ない。   @阿波
0651日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 07:20:04.36
小城は北は唐津、南は長崎
西は佐世保、東は佐賀、鳥栖と
肥前国の要衝である。

肥前国風土記によると、
佐賀市大和町の肥前国庁以前は
小城国府があったと書かれている。
0652日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 07:39:59.27
>>648
ここの頭に書いてあるように結論は出てるんだが
畿内説を始めおらが村が邪馬台国説が認めないだけ。
0653日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 07:50:11.12
>>651
>有明海勢力にとって重要な寄港地は唐津だったはずだ。


大陸からの玄関口 末羅國は福津市( 万津浦)宗像方面

だから世界遺産に選ばれたのも当然と言えば当然 

魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。推して知るべし 

対馬海流に流されて、末羅國(呼子・唐津)は有り得ない。   @阿波
0654日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 08:05:26.77
>>653
有明海にとって
て条件つけとるやん

志賀島 奴国 安曇族にとっては 福津市 宗像が重要だけどね。
要するに 対馬海峡の渡海は 2ルートあった。

宗像が重要性を持つのは出雲と連携できる場合よ。
0655日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 08:15:33.86
>>654
>要するに 対馬海峡の渡海は 2ルートあった。

着港が福津市宗像方面

出港が名護屋方面の2ルートですね。   @阿波
0656日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 08:20:08.58
>>654
>宗像が重要性を持つのは出雲と連携できる場合よ。

宗像と出雲の連携は、

宗像経由で出雲を開拓した、阿波の海人(出雲忌部の人たち)なんですよ。   @阿波
0657日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 08:46:11.38
>>648
激しく同意

一世紀と二世紀を語ってほしい。
0658日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 09:09:15.77
@阿波・・・典型的なおらが村説
0659日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 09:10:16.19
@阿波・・・典型的なおらが祖国説
0660日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 09:11:19.77
>>658

@阿波・・・典型的なおらが本貫地説   @阿波
0661日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 09:39:43.48
>>646
別に計算はできるだろ
ただ1120年なんて端数が10年単位の細かい表記は不自然
何せ10年で0,15度しか動かないんだから
100年でも1.5度
古代ならだいたい1100年ごろとかの表記の方が自然
そもそもそんな細かい位置をどうやって示せたの?
赤緯+89° 15′ 38.90″とか書いているのか?
0662日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 11:42:29.77
>>657
三世紀には伊都国に倭王卑弥呼がいたことは確定だから
七世紀にヤマト政権が誕生するまでの四〜六世紀が謎の世紀なんだよ。
0663日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 12:40:27.25
>>662
>三世紀には伊都国に倭王卑弥呼がいたことは確定だから

倭王卑弥呼がいたのは倭国(阿波)で確定だから

>七世紀にヤマト政権が誕生するまで

大和政権誕生は八世紀持統朝から   @阿波
0664日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 12:45:46.98
>>662

伊都には女王はいないよ
女王がいるのは邪馬台だから。
0665日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 12:51:28.52
>>663
桓霊の間のあとの共立卑弥呼は190で
親魏倭王の卑弥呼は景初2年だから239
ほとんど 50年だよ。別人じゃない。
0667日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 12:55:39.26
桓霊の間の「あと」の共立卑弥呼は190とは限らんだろ?
0668日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 13:20:05.74
>>666
計算は不要。誤りですブブー。
0669日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 13:22:13.82
>>667
限らないですね。

ただ10年ズレてても40年も違う。
0670日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 13:30:06.83
>>669
50年ずれたんだよ
0671日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 13:37:35.80
>>664
邪馬台国はヤマトと読むから、倭国と同じ。
0672日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 13:38:29.36
>>665
二十歳頃に即位したなら70代、ありえなくはない。
0673日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 13:46:37.07
【宮内庁が隠し続ける日本の本当の歴史】大和王権は百済王族の分家だった

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7458700.html

皇室関連の質問をここでしたりすると、
「皇室は千年の歴史があり、
最も由緒ある皇帝でありそれは世界的に認められていて
世界で唯一イギリス王室と並立する歴史的権威が云々・・・」という人たちが必ず現れます。

そういう保守的な人たちはもちろん、現皇室は基本的にそういう立場というかそういう建前があって成立しているのですね。
これは明治維新以降の皇室の歴史的かつ政治的な立場です。そして宮内庁はそれを「守る」立場にいるわけであります。
それを否定してしまったら皇室の存在意義そのものが問われてしまいます。

で、そういう立場からすると、過去の「作られた歴史」が暴かれてしまうことは権威の根拠に関わってしまいます。
例えば、天皇家というのは実は朝鮮半島から渡ってきた騎馬民族の末裔ではないかという話があります。
倭国(日本)は百済の支援をして当時の倭国としては大軍事力を半島に派遣して白村江の戦いで敗れてしまいます。
なぜ倭国が百済に過大なまでの支援をしたのか、単なる同盟関係であっただけではなく、
実は百済が天皇家からみると「本家」で、倭国は百済の分家ではないのかという話があります。

(中略)

もし仮に
「皇室はかつて朝鮮半島からやってきた渡来一族の末裔である」ということが明らかになってしまったらどうなるでしょうか。
嫌韓のネット右翼がなんと言い出すかどうか考えただけでも恐ろしいですね。
今のところ皇室半島渡来説は荒唐無稽で根拠のない話ということになっています。
なぜなら、日本書紀にも古事記にもそんなことは書いていないからです。
しかし、日本書紀も古事記も時の権力者にとっての「大本営発表」なので歴史の削除、捏造、針小棒大などは当然あるわけです。
あるけど、ないことになっている。
それが我が国の古代史に対する学会の立場です。古代史は天皇家についてはアンタッチャブルの領域なのです。
0674日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 13:52:05.39
>>672
確かに

するとですよ
歴年 乱になってた 倭国を 共立することでしのいだ。
その人が 生きてる間は なんとか 平和になっていたけど 親魏倭王の卑弥呼は 魏と交渉しに行こうと思うくらい どこかと緊張状態にあったと。

機内では環濠がなくなるというような緊張状態が明らかに解けたのがわかるですが
九州の考古遺跡ではどういう変化があってるかご存知でしょうか?
やっぱり九州でも環濠がなくなってるのでしょうか?
0675日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 13:54:36.34
意味不明

記紀に書かれている通りの筑紫の日向からの東征だったのだから
権威は増しこそすれ問題など何もない。

北部九州説によって、北部九州の王墓群もフラグ回収されたわけだ。
0676日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 13:58:35.41
倭人伝に倭人は長寿って書かれてるだろが。
筆頭の卑弥呼が長寿じゃないと文脈が成り立たん。
0677日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 14:03:17.05
>>673
ヒロヒト自らが天皇家の起源は半島だと思うと言ってるからな
高い文明を持った韓人が卑弥呼の九州王朝を征服して倭人を奴隷にしたのが大和王権だろう
0678日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 14:08:35.56
そんなことは言っていないな。

捏造情報を元に自分の希望する歴史を捏造して書きこんでいるわけか。
0679日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 14:15:42.02
三国志東夷伝における最大戸数の王国はどの国でしょうか?
0680日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 14:16:25.09
文化が自然発生するわけはない。
畿内も九州も同じ。
畿内の勢力は明らかに九州から来た。
では、その九州北部に上陸した弥生文化がどこから来たかといえば、朝鮮半島ではなく中国大陸だろう。
伝承としては呉の太伯、徐福などがある。
朝鮮半島からは、何もない。
百済と縁があったのは確かだが、やはり別の国。
0682日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 14:52:25.79
百済は扶余から来たことが明確だから、別だよ。
姓がずっと扶余だったし。
0683日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 15:56:46.07
扶余族は韓族でも白頭山の神の末裔とされる超名門の一族
百済人が扶余姓を名乗ったのは変な事でも何でもない

大和のテンコロは扶余族から下賜された嫁を名誉として皇后に迎えた事だろう
日本文化は韓国発祥
0684日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 16:30:32.98
>>679
挹婁???戸
馬韓10万戸
夫餘8万戸
邪馬壹國7万戸
投馬國5万戸
弁韓、辰韓4〜5万戸
高句麗3万戸
濊2万戸
東沃沮5千戸
0685日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 16:59:06.22
>>683は妄想基地外族
0686日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 17:22:42.06
>>680
百済も高句麗も太伯の子孫という伝承だぞ
0687日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 17:32:40.01
>>684
三国志東夷伝における最大戸数の領民を持つ王は誰でしょうか?
0688日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 17:55:17.52
邪馬壹國7万戸と投馬國5万戸を治める倭王の卑弥呼だろうな。
0689日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 18:49:58.43
>>686
百済の東明王が水神の卵から生まれたのでは?
太伯の末だと全く倭と同じになってしまう。
0690日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 18:51:52.17
妹の生まれた日でしょ

5月15日生まれ
0691日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 18:53:28.38
『伊達の桃太郎』

門人?書いてある人物と同じような名前、
先祖の写真・・・葱の華・・・などの写っている写真
0692日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 18:59:57.37
>>688
なるほど東夷伝の中で唯一金印を授与されるわけですね
0693日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 19:02:11.20
『天子神璽』

同じような名前の人物?が登場するでしょ
0694日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 19:06:22.45
松(モミ?)・・・オジギソウ ネムノキ?
などの写っているもの

あれも同じ家、もれ(仮)の家の写真
0696日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 19:23:52.20
『葱坊主 ロシア』

このような事が書いてあるでしょ?

ほとんど偶然かもしれないけど、
あの写真の人物の名前『市』という名前、下の名前
0697日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 19:31:26.61
動画を観て気づいた人もいると思う、
ゴールドセイントのような存在が出てきたり
0698日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 20:16:26.03
凄い話

むかーし住んでいた家には、
本や書が沢山並んでいたと言っている

働くようになってから、
体系が変化したのかな
0699日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 20:17:30.06
他の家もそうだと思うけど、
家は肉体?労働者ではなかったと言っている
0700日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 20:19:38.66
または・・・純日本人ではないとか?
0701日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 20:21:14.50
腕の筋肉とか・・・日本人ではない?
0702日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 20:28:47.11
オジギソウ・・・の写真、
70歳くらいには、なっていたと思う

もともと日本人ではないのかな
0703九州王
垢版 |
2017/09/02(土) 21:21:24.00
>>692
言われてみればそうだな。
ネットで討論すると色々な発見があるね。
0704日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 00:52:28.32
>>703
12万戸を擁する倭王卑弥呼が東夷伝で最大の女王である。
だからこそ東夷伝で唯一金印を授与された。
と言うのは古代からわかっていたことです。
本居宣長だってそう思ったでしょう。
0705日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 01:07:59.26
東夷伝の中の最強女王が倭王卑弥呼=7万戸+2万戸=9万戸 金印ゲット
倭國を構成するサポーター勢力として2つの連合勢力
 1万戸弱の勢力と5万戸の勢力 それぞれが銀印ゲット
0706日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 01:42:24.46
某徳永英明氏の『NEWS』という曲

それと

筋肉少女帯「風車男」?同じでしょ
0707日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 01:44:45.21
「バスに飛び乗りなさい」と言っている曲と『サイバーパンクSPECIAL』

 これもほとんど同じ
0708日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 09:02:42.68
>>704
倭人伝行程を解読していない段階では、12万戸どころか

千+三千+四千+千+二万+千+五万+七万+さらに二十余国
=15万〜20万戸

東夷伝では圧倒的最強女王だったのだな。
12万戸でも十分ダントツだが。
0709日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 10:17:29.67
その中でも、一国邑として最大の奴国と、そこを統括する伊都国が倭国の王都であることは極めて自然だ。
0710日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 12:24:39.40
>>709
王墓もありますからね。

となると、対馬海峡を挟んだ広域国家が成立していたことになり、
同時期にまだ・・・の国の人にとっては洒落にならない話なわけで、
だから投馬国に必死になるわけです。
0711日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 12:37:06.17
記紀の中でも、
北部九州の王墓群と畿内大和朝廷を繋ぐ「神武東征」というイベントや、
三韓征伐の「神功皇后」という人物ならびにイベントなどは、
特にその実在を強く否定する勢力が存在しますが、
否定する根拠と言うのがはっきりしません。
0713日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 12:43:31.08
かの国では任那日本府も否定するのに必死ですからな。
0714日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 12:55:09.91
>>711
>否定する根拠と言うのがはっきりしません。

「神武東征」 畿内奈良へ東征したの?  なんで奈良なの?  説明してくれる?   @阿波
0715日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 12:57:57.72
嘘つき@阿波
0716日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 12:59:48.54
>>714
記紀にそうあるからだろ。
0717日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 13:17:12.31
>>716
>記紀にそうあるからだろ。

記紀の読み間違いじゃないの?  畿内大和へ東征したと書いてある?   @阿波
0718日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 13:19:31.11
それでも九州説かよ?
奴国は志賀島金印の委奴国で海洋系の大国で博多二万戸だろ。
伊都は上陸から500里(対馬〜壱岐の半分)で、
佐賀、久留米方面の数万戸都市、筑紫中心地も含めた
首都だけど1000戸の小地域で大宰府近辺だろ。
女王の居所は南に狗奴国だから八女辺りだろ。

末羅は500里で帰結的に糸島だろ。
呼子や唐津みたいな僻地がなんで頓珍漢に出て来るんだよ?

邪馬台国はこれら全部を指して、引用ソース不明だけど7万戸(投馬の5万も)なわけで
この中にある国内の不彌国から出航したらダメってのが九州説の基本だろ。

基本は考古学じゃなくて、
邪馬台国って国名は倭人伝にも一箇所しか出てこないって事だよ。
0719日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 13:45:52.57
>>718
基本は考古学でしょ。
考古学の裏付けが無いと畿内説でもなんでも成り立つ。
0720日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 14:06:23.45
投馬国の人口を邪馬台国に含めるのはやはり無理がないか?
奴国は含むだろうけど、投馬国は宮崎にやってしまった方がいい。
狗邪韓国は倭の土地だろうが、対馬ほどの人口もなかったのではないか。
本当に海岸線だけだったのだろう。
0721日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 14:09:53.06
>>719
考古学も倭人伝・記紀も神社伝承も成り立つのは「倭国(阿波)」だけ。

他説はデタラメ。   @阿波
0722日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 14:13:20.02
>>720
祖国防衛おつかれさまです
0723日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 14:38:50.93
>>720
既に船で航行していて対馬に渡る対岸だから巨済島で良いと思う。
帯方郡から水行20日で狗邪韓国は陸行しない倭国の出発点。
帯方郡の役人の認識として
巨済島〜対馬〜壱岐〜末羅の水行10日が九州倭国に含まれている。
0724日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 14:48:48.45
奴国までは考古学的に確定している。
不弥国であちこち論ずるのなら許容範囲内。

奴国までのルートでトンデモ論を展開したいのなら、
その考古学的な根拠が必要。
0725日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 14:58:10.85
奴国は博多。儺の県
上古からの港湾都市
0726日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 15:05:21.19
サカキバラ事件?

被害者、土師氏、そのような名前だったでしょ

それとも被害者の氏名自体、間違えている、間違えていたとか
0727日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 15:07:42.76
スクールキル、スフールキル・・・
何なのか、よくわからないけど

間違えていたという報道がなかった?
0728日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 15:10:04.04
『土師』と『士師』とか?
0729日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 17:18:09.60
>>724
奴国は2万戸だから糸島市を除く筑前地域の殆どを占めるんじゃないかな。
0730日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 17:35:00.62
動詞が伊都国までしかないんだから
魏使は伊都国までしか着てないな
伊都国が目的地の卑弥呼の都は明らかだな

從郡至倭 循海岸水行 歷韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國・・・・・・行
始度一海千餘里 至對馬國・・・・・・度
又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國・・・・・・渡
又渡一海千餘里 至末廬國・・・・・・渡
東南陸行五百里 到伊都國・・・・・・行

東南至奴國・・・・・・動詞無し
東行至不彌國・・・・・・動詞無し

南至投馬國・・・・・・動詞無し
南至邪馬壹國・・・・・・動詞無し
0731日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 17:37:46.56
東行至不彌國・・・・・・行
があるな
0732日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 18:09:24.50
奴国は東夷最大の国邑だから視察したけど、不弥国はなぜ出て来るのか。
不弥国は香椎宮だろう。
東側には神奈備を備えており、神仙思想好きの孝霊厨も納得の王宮だよ。
0733日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 18:11:06.54
>>732
>神仙思想好きの孝霊厨も納得の王宮だよ。

ふむふむ間違ったトンデモ説であるか
0734日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 18:18:59.39
【卑弥呼の王宮】
候補はいくつかあるが、いずれも魏の郡使が駐在する伊都国から遠くないことが条件となる。

・高祖宮
魏志に伊都国と記された糸島市の高祖神社が掲げる宮号。
糸島平野と福岡平野の間にある高祖山の南の峰をクシフル山と呼び、福岡に通じる峠を日向峠と呼ぶことから、高祖宮が記紀にある筑紫の日向の高千穂宮に比定できる。
高千穂宮は天孫ニニギが八咫の鏡を伴って筑紫の王として即位した宮であり、神武天皇が東征に出発した宮でもある。
後にこの地に建設される怡土城、高祖城は高祖山・クシフル山の山頂を含む中国式山城であり、高千穂の名にふさわしい。
糸島平野にある三雲南小路遺跡はニニギと木花咲耶姫の墓と伝えられ、平原遺跡からはニニギ王家の家宝である八咫の鏡が出土している。
平原遺跡は卑弥呼がいた3世紀の女王墓であり、卑弥呼が被葬者の最有力候補である。

・橿日宮
現在の香椎神宮。
卑弥呼の後継者となる筑紫の女王の一人として、景行天皇の時代に筑紫の梟帥の称号と八咫の鏡を持つ神夏磯姫(神橿日姫)がいて、その名からはおそらく橿日宮に住んでいたと思われる。
景行天皇の孫の仲哀天皇も橿日宮を拠点としており、代々の筑紫の王宮として用いられていたと考えられる。
魏志では不弥国に比定されることが多く、ここまでは距離が明記されているので郡使が往復したことは確実である。何のために往復したのかと言えば、卑弥呼に会いに行った可能性がある。

・高良宮
筑後一宮。高良大社や高良玉垂宮などからなる複合施設だが、後世の仏教との習合や神仏分離などの影響による。
近隣には卑弥呼もしくはそれに近い人物の墓と言われる祇園山古墳がある。
卑弥呼が筑後出身ならば、高良宮が元宮だったかもしれない。
伊都国までの移動は日帰りではやや厳しいか。

いずれの宮も聖地である神奈備の西の麓にあり、王は太陽を背にして君臨したと考えられる。
これは倭国が太陽信仰をもとにした祭政一致体制であったためである。
その象徴となるのが王位の証である八咫の鏡などの内行花文鏡であり、平原遺跡に見られる鳥居や御柱などと合わせて、3世紀においてすでに神道が成立していたことをうかがわせる。
魏志において卑弥呼が用いたと記録された鬼道も、三種の神器や榊を用いた神道の儀式であったはずである。
0735日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 18:23:42.10
>>730-731
行程は動詞のある文だけで、
動詞が不彌國まであるから
魏使は不彌國まで着ている
不彌國が行程の最後の国であることは明らかだな

從郡至倭・・・・・動詞無し(介詞「前置詞」+至 の文節)郡を過ぎて倭に至には 
循海岸水行 歷韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國・・・行(到があるから倭の目的地)
始度一海千餘里 至對馬國・・・・・・度
又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國・・・・・・渡
又渡一海千餘里 至末廬國・・・・・・渡
東南陸行五百里 到伊都國・・・・・・行(到があるから倭の目的地)

東南至奴國・・・・・・動詞無し(動詞がないから行程ではない・2地点間の距離を示すだけ)
東行至不彌國・・・・・・行

南至投馬國・・・・・動詞無し(動詞がないから行程ではない)至の起点は郡
南至邪馬壹國・・・・動詞無し(動詞がないから行程ではない)至の起点は郡

郡から奴國までの距離は12000餘里
郡から不彌國までの行程は12000餘里

「郡から奴國」と「郡から不彌國」までの距離は各々12000餘里
0736日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 18:29:28.71
>>735
横だけど、言いたいことはわかった。
けど、各国の産業について詳しく記述した陳寿が
奴国の工房群について記述してないので、
君が最初に言った通り、魏使は伊都までしか来ていない。
0737日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 18:38:49.49
>>735
良く書けている添削を入れる余地がない 
0738日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 18:44:33.93
最終行の >「郡から奴國」と「郡から不彌國」までの距離は各々12000餘里
俗っぽいタームの[距離]を使用するより
ずばり陳壽の文中に出現する[道里]に差し替えるともっと良いかもしれない
0739735
垢版 |
2017/09/03(日) 18:47:54.40
>>736
陳寿が奴国の工房群について記述してないは、
奴國に工房がなかっただけだ。

それに、奴國は魏使の行程から離れた行程脇にある国だし。
0740日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 18:48:23.68
>>735
736だが、言いたいことを理解した。

里数では、
目的地の伊都に到った時点で目的地に到着して、そこからは伊都が起点になっているのだな。

伊都からそれぞれ奴國も不彌國も別個の方角に百里ずつ。

だとすると、奴國の記述が無くて、
より田舎であろう不彌國の記述も無くても説明がつく。

日数では、
投馬国と邪馬台国はまた郡からで計算し直し。
総距離もまた郡からで計算し直し。

完璧ですな。
0741日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 19:12:14.70
類は友を呼ぶ
0742日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 19:15:38.54
東南至奴國前は後の文に動詞があるから単純な書き漏れかもな。
0743日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 19:19:45.36
じゃなくて、加筆だよ
0744日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 19:30:11.42
>>740
ほぼ同意の解釈です

投馬国は島根あたりの日本海側か?宮崎か?どちらかで考えています
中国から認識のあった国で、考古学的に筑紫と関係が深いなら出雲あたりかもしれません

>>742
語順も伊都国までと違います
やはり放射的に読むのが妥当では?
0745日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 19:34:36.29
>>743
陸行か水行もないから
行が誤って加筆?
0746日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 19:40:36.57
>>745
群から邪馬壹國までの行路から外れているんだよ
だから後世の編纂者は、奴国3国を引用していないのさ
0747日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 19:54:16.51
>>735
邪馬壹國への行程を説明してるのに投馬國を傍線行程にするのはいかがなものかと
南至邪馬壹國は投馬國からでしょ。
0748日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 20:03:18.41
>>747
對馬國
一大國
末廬國
伊都國 〜 奴國ー不彌國ー投馬國
邪馬壹國

「自女王國以北 其戸數道里可得略載」

何故「奴國ー不彌國ー投馬國」は略載されていないんだ?
なぜ、三国志以外の書に記載がないんだ?
0749日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 20:21:58.09
>>748
図と質問の意味が分かりません?
実際に行った 帯方郡 〜 狗邪韓國 〜 對馬國 〜 一大國 〜 末廬國 〜 伊都國
その先 〜 奴國 〜 不彌國
同じ行程を時間で説明 帯方郡 〜 投馬國 〜 邪馬壹國
古田さんは投馬國をサツマとか言ってたけど邪馬壹國への行程を説明するのにサツマは必要ないだろ。
0750日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 20:32:51.98
>>749
対馬
壱岐
唐津
糸島  〜 福岡県春日市ー福岡市東区ー宮崎
邪馬壹國

奴國ー不彌國ー投馬國 が以北にあるのなら、對馬國 、一大國 、末廬國 と
同じように国情記事があるはずだろ? 二万、五万もいた大国なのだからね。
0751日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 20:43:25.55
「遂周觀諸國 采其法俗 小大區別 各有名號 可得詳紀」で
「自女王國以北 其戸數道里可得略載」だから
脇目もふらず[道里]に関して集中して嫁
[道日]は付録みたいなもの
[道里]に関しては[女王國]起点でもう1ヶ所のおまけ付き
0752日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 20:46:44.21
對馬國→対馬で確定
一大國→壱岐で確定、遺跡あり
末廬國→唐津and東松浦半島で確定、遺跡あり(上陸地点のみ論争対象)
伊都國→糸島で確定、遺跡あり
奴國→福岡平野で確定、遺跡&膨大な居住区あり


これを意図的にずらす奴は、考古学的根拠を示さなければトンデモです。
0753日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 20:47:56.43
>>751
>脇目もふらず[道里]に関して集中して嫁

對馬國 、一大國 、末廬國は、脇目のふり杉だな!
0754日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 20:57:32.00
>>750
「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳」この記事は行程記事の後にあるよね。
つまり行程記事に書いてある戸数や里数が略載できたってことだろ
行程記事に出てくる奴國、不彌國、投馬國は女王國と同じかそれよりも北に在るってことだよ。
0755日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 20:58:07.47
奴国に工房なんてあったのかね?
海人族の交易国家だろ

例えば、治金・鍛鉄・高層建築・陶器・漆塗、こういうのは大和の職人達のところまで行かないと無理
はるか後の平安時代ですら無理

まぁ平安時代なら辛うじて陶器・鍛鉄くらいまでは地方でもいけたけど
0756日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 21:01:16.29
あったのかね?ってあっただろ。
0757日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 21:02:43.80
日本は中世まで近畿が全てのテクノロジーを独占していて地方なんてあって無きが如しだったんだよ
九州は太宰府だけが人間世界であとは土人の世界
0758日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 21:03:09.81
對馬國→対馬で確定 (対馬中部)(北部は投馬勢力圏)
一大國→壱岐で確定、遺跡あり
末廬國→唐津and東松浦半島で確定、遺跡あり(上陸地点は大友=登望=艫→盧)
伊都國→糸島水道沿岸域と一貴山地区で確定、遺跡あり
奴國→三雲地区を中心して福岡平野を占める血縁連合 遺跡&膨大な居住区あり
0759日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 21:05:24.69
>>755
弥生時代の鉄剣の出土数福岡県107本、奈良県1本w
0760日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 21:07:12.73
文明の進んだ半島や中国と違って日本島では土人が縦穴式住居に鎌倉時代まで住んでいたからな
半島ではオンドルという床暖房まであったのに日本島では縦穴式住居(笑)

渡来人のいた近畿だけが文明世界
0761日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 21:07:25.34
>>755
畿内説。根拠なし。

>>757
畿内説。根拠なし。

>>758
根拠を呈示した説。論争対象。

>>759
実データを呈示。説得力あり。
0762日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 21:08:28.38
>>760
東夷伝韓条だけじゃなくて、
東夷伝倭人条も読んでくださいね。

倭地は温暖で、冬でも野菜が育っていたんですよ。
0763日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 21:08:33.40
>>759
半島の技術者が作ったものを買ってきたんだろう
どうせ大量生産の粗悪品だろうけど
0764日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 21:10:36.45
>>763
1本は1本w
0765日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 21:11:09.47
大和朝廷を開始するならせめて2本=ニッポンは欲しかったなw
0766日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 21:12:07.85
なるほど必要は発明の母とも言うからな。

豊かな地域は縦穴式住居で十分快適だったわけだ。
0767日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 21:14:36.79
半島からの渡来人がヤマトに定住して天皇になったのですよ
卑弥呼は古代韓語でピミフォ、蛇神の巫女という意味
九州はシュードラの国ですから邪馬台国など有りません
0768日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 21:16:00.44
>>766
日本国内でも北と南では豊かさが違う
九州の雑煮は野菜や肉、海産物が豊富に入ってるが
東北とかの雑煮は餅しか入っていない。
0769日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 21:17:28.14
>>763
>>767
他国の方のご意見ありがとうございます。
できれば妄想だけでなく、根拠も呈示してくださいね。
0770日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 21:18:20.54
朝鮮半島の気候は韓国で日本の東北、北朝鮮で北海道、樺太だからな。
0771日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 21:19:13.29
>>754
翰苑  「分職命官統女王而列部 」  

魏略曰從帶方至倭循海岸水行歷韓國到狗耶韓國七千餘里始度一海千餘里至對馬國
其大官曰卑狗副曰卑奴無良田乘船南北市糴南度海至一支國置官及副同地方三百里
又度海千餘里至末盧國人善捕魚能浮沒水取之東南五百里到伊都國戶萬餘置官曰爾支
副曰洩謨觚柄渠觚其國王皆屬女王國也  

奴國、不彌國、投馬國 にも、官も副もいますけど
記載がありませんね。
0772日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 21:21:18.87
>>770
性格には、南岸のごく一部ですが西日本と同じ気候の部分があります。
0773日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 21:26:12.35
>>771
邪馬壹國もありませんよね
奴國、不彌國は張政が取材してきて魏略には間に合わなかったかな?
投馬國、邪馬壹國は魏略とは別の資料があったのかな?
分かりませんね。
0774日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 21:28:49.40
>>772
全体的にはおしんか、それ以上に厳しい生活だよな。
0775日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 21:34:13.63
倭国=邪馬台国+投馬国(+狗奴国)

『三国志東夷伝・倭人条』
まさに卑弥呼が魏と外交していた時代の記述であり、
倭国が混乱しているので、邪馬台国や投馬国、狗奴国と分裂した状況を詳述。

『翰苑・倭国条』
倭国を統一国家として捉えているので、邪馬台国や投馬国という括りは無くなる。
奴國不彌國は魏使が直接行っていないので載せなかっただけ。
0776日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 21:36:55.02
>>754
「自女王國以北」は女王が「特置」した[一大率]が「常治」するところの倭國内の特別区

[對馬國][一大國][末盧國の一部][伊都國][不彌國]がその構成の内訳で治所が[伊都國]

別ないいまわしをすれば
[伊都國]は[壹都國]
[一大率]は[壹大率]
[一大國]は[壹大國]
[邪馬伊]が[邪馬壹]

[邪馬壹]は[邪馬]+[壹]
0777日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/03(日) 21:39:28.24
出雲ってのはもともと今の宗像市あたりのことで、
沖ノ島→隠岐の島と名前をずらしただけってのはダメ?
(九州説の人に聞いてます
0778日本@名無史さん
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2017/09/03(日) 21:39:37.05
>>773
奴國、不彌國については張政が取材してきたとすると
張政は魏の人間だから短里なんて使うとは考えられないから奴國と不彌國の100里だけは長里かもしてんな
国邑の間隔が近すぎる気がする。
魏略でも使われてる短里は公孫氏あたりが使ってたんじゃないかな。
0779日本@名無史さん
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2017/09/03(日) 21:42:11.36
>>773
私は、晋書「泰始初、遣使重譯入貢」の時の新情報と思っています。
0780日本@名無史さん
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2017/09/03(日) 21:47:41.03
>>755
徐福(紀元前3世紀)が始皇帝をマンマと騙して2度目の渡来を果たした際に引率してきた3000人の中にはあらゆる職能(当時)の工人(身内親戚を紛れ込ませた)がいたそうなので
その子孫らに技能が引き継がれていたと考えて差し支えはないでしょう。

因みに、上陸からの拠点は佐賀。その時の子孫らは物部王家(徐福(イザナギ、スサノオ、ホアカリ/ニギハヤヒ(ニニギ))と市杵島媛命(出雲王家の分家、宗像家初代の末娘。(イザナミ、豊玉媛、、、))の子孫(〜天皇家))。
0781日本@名無史さん
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2017/09/03(日) 22:16:17.89
>>748
>何故「奴國ー不彌國ー投馬國」は略載されていないんだ?

「奴國ー不彌國ー投馬國」は女王國内の国々だから。

郡〜伊都國〜奴國・・・・12000餘里
郡〜伊都國〜不彌國 ・・12000餘里

郡〜女王國・・・・・・・12000餘里

故に奴國と不彌國は郡から12000餘里にある女王國内の国に含まれる
耶馬壹國は女王がいるから女王國内の国に含まれる
投馬國は不彌國と耶馬壹國に挟まれて書かれているから女王國内の国に含まれる
0782日本@名無史さん
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2017/09/03(日) 22:22:36.66
>>781
なーんだw
投馬國を逃がすために一生懸命考えただけかw
0783日本@名無史さん
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2017/09/03(日) 22:35:00.15
工作員ってのは凄いな。

複数人で24時間稼働してるのか。

もう畿内の倉庫には見切りをつけちゃったの?

九州説で確定だからって

あっさり見捨てちゃったらかわいそうじゃない?

邪馬台国を九州に置いて、投馬国も日本のどこかに置く戦略にシフトしたんだね

ところでそろそろ畿内説スレを更新したら?
0784日本@名無史さん
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2017/09/03(日) 22:42:42.12
>>748
>何故「奴國ー不彌國ー投馬國」は略載されていないんだ?

奴國、不彌國、投馬國は戸数も道里も略載されてるよな。
0785日本@名無史さん
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2017/09/03(日) 22:44:16.13
いつも思うのだが、ダントツ一級資料の三国志を分析するのに
二流三流以下の文献を持ち出す輩ってなんなのよ?
0786日本@名無史さん
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2017/09/03(日) 22:44:33.97
投馬国はどこにあったの?
0787日本@名無史さん
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2017/09/03(日) 22:44:46.70
投馬国は「自女王國以北 其戸數道里可得略載」の中に入ってるから
女王國の北側にあるからサツマではあり得ないな。
0788日本@名無史さん
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2017/09/03(日) 22:47:20.48
>>786
女王國の北側だから狗邪韓國を中心とした朝鮮半島南岸の地域
0789日本@名無史さん
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2017/09/03(日) 22:52:11.42
日本人じゃない人が発狂w

↓ ↓ ↓
0790日本@名無史さん
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2017/09/03(日) 23:21:52.09
陳壽のタームで[道里]とはみちのりを里を単位にして述べたもの
みちのりを日を単位にして述べたものを[道日]とする
と陳壽にお助け舟を出してあげると
投馬國へは[道日]での叙述であるから
[自女王國以北]は投馬國には不対応
0791日本@名無史さん
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2017/09/04(月) 06:42:56.67
>>790
投馬國の中心国邑が狗邪韓國であるので道里は略載されていることになりる
投馬國が略載できない国邑ならの「自女王國以北」文の前の行程文ではなく
傍らの国として「自女王國以北」文の後に記載される。
0792日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 09:55:54.18
帯方郡からの行程説明として、目的地の伊都国には着いた。
隣りに奴国や不彌国が有る。
「自女王國以北」
は、
帯方郡の南、至投馬國水行二十日(官略) 可五萬餘戸
南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月(官略) 可七萬餘戸
であるが、以下の諸国については詳細説明しない。
次有・・・・・ 二十数国
という構文だよ。

南=南、一月=一月、ちゃんと読め。

九州島の南北は三月行って文例が有るんだから
北部三分の一の熊本以北が邪馬台国であり上陸から南一月行で問題有るか?

南東陸行五百里(対馬〜壱岐は千里)の首都が目的地なら
壱岐から合理的に糸島に上陸後五百里の博多西辺で大宰府筑紫野北が伊都国だろ?
ちゃんと読め。

邪馬台国は完全に魏の冊封国、属国であって官ってのは魏が任命した役人だぞ。
九州北部に決まってんだろ。 なんで畿内だよ。 ちゃんと読め。
0793日本@名無史さん
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2017/09/04(月) 10:09:14.95
>>792
>壱岐から合理的に糸島に上陸

対馬海流に流されて、「壱岐から合理的に糸島に上陸」は有り得ない。
大陸からの玄関口 末羅國は福津市( 万津浦)宗像方面
だから世界遺産に選ばれたのも当然と言えば当然  @阿波
魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。推して知るべし  @阿波
0794日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 10:34:22.26
>>792
伊都国は糸島付近です
壱岐から合理的に上陸するなら目の前の呼子付近です。

>>793
子供みたいに何時までも空言を繰り返してるんじゃないの。
0795日本@名無史さん
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2017/09/04(月) 10:43:13.38
>>794
だから糸島が伊都なら糸島に上陸しないと合理的じゃないでしょw
湾内船で行けるのに呼子から歩いたら馬鹿って話だよ?
0796日本@名無史さん
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2017/09/04(月) 10:44:16.80
>>794
>壱岐から合理的に上陸するなら目の前の呼子付近です。


対馬海流に流されて、「壱岐から合理的に上陸するなら目の前の呼子」は有り得ない。
大陸からの玄関口 末羅國は福津市( 万津浦)宗像方面
だから世界遺産に選ばれたのも当然と言えば当然  @阿波
魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも呼子に上陸していない。推して知るべし  @阿波

子供みたいに何時までも空言を繰り返してるんじゃないの。
0797日本@名無史さん
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2017/09/04(月) 10:45:37.70
>>795
だから、トンデモ説なんでしょ。   @阿波
0798日本@名無史さん
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2017/09/04(月) 10:48:45.44
>>795さんもいっそ、末羅國を福津市( 万津浦)宗像方面に切り替えてみては?
すっきりしますよ。   @阿波
0799日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 11:04:42.79
>>798
お前は海流の話してんのに湾内から出たら海流に流されちゃうだろ?
宗像の方が外洋で海流ぶち当たって港にならんわ。
博多側なら志賀島対岸で今津、上陸適地だから元寇防塁有るんだぞ。
0800日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 11:06:16.78
>>795
当時は糸島付近の海は浅く船で海岸に近づけないから
海が深く海岸に船が直接付ける呼子付近に上陸したんだよ。
0801日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 11:11:09.77
>>799
>宗像の方が外洋で海流ぶち当たって港にならんわ。

大陸からの玄関口 末羅國は福津市( 万津浦)宗像方面。   だから世界遺産に選ばれたのも当然と言えば当然。 

>博多側なら志賀島対岸で今津、上陸適地だから元寇防塁有るんだぞ。

魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも呼子に上陸していない。推して知るべし  

子供みたいに何時までも空言を繰り返してるんじゃないの。    @阿波
0802日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 11:13:43.54
>>800
>海が深く海岸に船が直接付ける呼子付近に上陸したんだよ。

荒磯で難破する所が呼子だね。   @阿波
0803日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 11:48:02.34
>>802
湾内は静かですよ
君の言ってること根拠が全部妄想ですよ。
0804日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 12:27:42.83
>>803
>湾内は静かですよ

残念ながら、その湾内に辿り着けないんですよ。

魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも呼子に上陸していない。推して知るべし  

子供みたいに何時までも空言を繰り返してるんじゃないの。    @阿波
0805日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 12:57:13.00
呼子って行ったことある?
ほとんど岸壁だぞ
港に整備されたのは近世以降だろう
0806日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 13:23:40.93
>>805
岸壁の方が港には向いているんだよ。
0807日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 13:31:01.35
岸壁の糸厨
0808日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 13:37:50.32
>>806
そうそう。大型船になるほど 岸壁の方が都合がよい。丸木舟なら浜でもよかろうけど
0809日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 13:47:22.02
東松浦半島は、玄武岩質溶岩に厚く覆われた広大な台地であり、
東は唐津市、南は伊万里市の一部まで含み、「上場台地jと呼ばれている。
この半島の西及び北側は突出した岬と複雑な湾入をもっリアス式海岸であり、天然の良港となっている。
また、この地は壱岐・対馬を経て朝鮮半島に近く、一衣帯水をへだてて古代より文化流入の玄関口となった。
                           --- (1990 某発掘調査概報)
0811日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 14:07:58.65
にわかなこといってないですこしはぐぐっておべんきょおとかしてみてわ
大友遺跡発掘調査概報
佐賀県大友遺跡出土人骨のAMS14C年代測定海洋リザーバー効果
登望駅
0813日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 14:43:18.34
>>809
>また、この地は壱岐・対馬を経て朝鮮半島に近く、一衣帯水をへだてて古代より文化流入の玄関口となった。


大陸からの玄関口 末羅國は福津市( 万津浦)宗像方面

だから世界遺産に選ばれたのも当然と言えば当然  @阿波
0814日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 14:55:08.45
呼子に着いても良いけど呼子から糸島はどう見ても水行だぞ
壱岐から呼子だと千里には若干足りないというか500里に近くないか?
唐津にしても田舎杉だし。

古代船の港ってのは入り江の浜だろ? 
王の船なんだから専用桟橋出したり石積堤とかで母港有るに決まってる。
造船所やドックも必要。糸島だよ。南東500里福岡南西に伊都。奴国は博多。
0815日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 15:26:59.09
奴國は高木の木棺墓王を取り込んで一体化してしまった三雲が中心
委な奴國王は三雲に涌いた
須玖方面は王家の枝
0816日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 16:06:50.98
浜だと大型船は座礁する危険性が高くなる
港にするには海を掘るか桟橋を沖まで長く造る必要がある
岸壁の方が港造るには簡単でいい。
0817日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 16:08:58.70
壱岐から呼子は海上だから距離の誤差は大きい
0819日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 16:12:45.55
岸壁には操船ミスでぶっかたりするが
座礁は浅瀬でするもんだ
0820日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 16:27:10.69
>>819
>岸壁には操船ミスでぶっかたりするが

ぶつかって、古代木造船木っ端微塵  大事な魏の使者が土左衛門   @阿波
0822日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 16:29:12.10
>>820
泡名物妄想爆発だなw
0823日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 16:35:55.92
もし古代より、呼子やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、

宗像地方に替わって呼子周辺が世界遺産になっている。

子供みたいに何時までも空言を繰り返してるんじゃないの。    @阿波
0824日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 17:02:18.41
>>823
世界遺産は沖ノ島
宗像はおまけ。
0825日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 17:10:13.81
石棺墓人の宗像は穴門のおまけ
0826日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 17:17:22.61
穴門王で著名なのが
大穴持とか大帶日子淤斯呂和氣とか帶中日子
太子ではヤマトタケル
穴門女王で著名なのが
意富夜麻登久邇阿禮比賣とか夜麻登登母母曾毘賣
0827日本@名無史さん
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2017/09/04(月) 17:19:04.39
>>824
>世界遺産は沖ノ島
>宗像はおまけ。

呼子周辺はおまけすらなれない。

子供みたいに何時までも空言を繰り返してるんじゃないの。    @阿波
0828日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 17:20:18.65
>>825

石棺墓も、阿波から進出した、筑紫忌部がもたらしたもの。   @阿波
0829日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 19:42:14.71
>>825
時代が違うよ。
0830日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 19:43:36.49
>>826
>意富夜麻登久邇阿禮比賣とか夜麻登登母母曾毘賣

穴門にいたのか?
0831日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 20:04:33.74
>>830
「倭迹迹日百襲姫命」は徳島市国府町(旧黒田村)の第七代孝霊天皇「黒田廬戸宮跡」で幼少期を過ごし、
阿波市市場町「箸供養」からほど近い「奈良坂」より阿讃山脈を越え、讃岐地方に移動した。

そして、その類い稀な能力を駆使して水を利用した農業の神として祭祀されている。
阿讃山脈を越えて留まった地域が「水主神社(香川県東かがわ市水主1418)」付近。
「水主神社」から北上すると倭迹迹日百襲姫命が海岸に舟を留めて休息したとき、船人が舟の艪を海岸の松にたて掛けたとの伝承がある「鱸懸神社(東かがわ市馬篠440番443番)」。
「鱸懸神社」を少し北上すれば「袖掛神社(東かがわ市小磯)」。そして西へ移動して高松市内に鎮座する「船山神社(高松市仏生山町大字百相神宮寺)」。
船岡山は倭迹迹日百襲姫命が水主神社からこの周辺に移動して来て住んでいた地。 船岡山は古く百相(もまい)郷に属し船山と称し、地名の百相(ももそ)は倭迹迹日百襲姫命の名に由来すると伝わる。
当地は田村神社の別当寺であった神宮寺(百相廃寺)のあった場所である。
次は讃岐一宮の「田村神社(高松市一宮町286)」。倭迹迹日百襲姫命、五十狭芹彦命(別名 吉備津彦命)・猿田彦大神・天隠山命・天五田根命を祭神とし、これを「田村大神」と総称する。

阿波の一宮神社の社家、大宮司家を世襲した一宮長宗の流れを汲む一宮氏(分家)が「水主神社」の宮司として祭祀を行っていた時期があり、
この部分についても「大宜都比売命」と「倭迹迹日百襲姫命」に何らかの繋がりがあったと考えられる。
0832日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 22:01:32.68
南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸 
自女王國以北 其戸數道里可得略載

投馬國はここで書かれてる自女王國以北の国だから女王國である邪馬壹國の南にはない
古田さんは見落としてるな。
0833日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/05(火) 09:26:07.71
倭人伝の從郡至倭〜自女王國以北其戸數道里可得略載
は、魏使がその行程、道里、人口、及び宗主国である魏の任命した役人名を示している。

伊都に到り、近隣の奴国と不彌國についても説明したが、
投馬国=歴韓国=南水行20日であり、倭=邪馬台国=南水行十日と九州の陸行一月
これは、魏の冊封国である韓及び邪馬台国の全体説明であり、南=南、一月=一月。
これ以外は有り得ない。

これ以降に記す、女王国=別名邪馬台国の其餘旁國については詳細を書かない。
が、次有〇〇国・・・・・・ である。

倭人伝を ちゃんと読め。
参問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里 であって
邪馬台国は九州の北部三分の一を支配する魏が冊封した女王国である。
0834日本@名無史さん
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2017/09/05(火) 10:10:18.91
>>833

「参問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里」

女王国はまさに四国。  これ以外は読みようがない。   @阿波
0835日本@名無史さん
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2017/09/05(火) 10:22:36.80
>>834
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種 
又有侏儒國在其南人長三四尺 ←四国
なんども言わすな、小人w
倭人伝を ちゃんと読め。
0836日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/05(火) 11:42:44.69
>>835
阿波丹山だけで十分証明されているが、以下は補足。

@倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑
  四国東部は帯方の東南に当たり、四周が海 山や島に人が居住し国を為している
A今倭水人好沈没捕魚蛤
  徳島県南部海部地方などに古くから見られる漁法(海人の素潜り漁)
B文身亦以厭大魚水禽
  入墨(文身)を表した土製仮面(顔面全体に丸い道具で突き刺した模様がある)が        出土している
C種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜
  吉野川中流域(旧麻植郡)は古来より麻や桑を栽培し、古来より大嘗祭で麁布を調進している
D倭地温暖
  徳島は黒潮が近くを流れ、温暖な地である
E其木有{木冉}杼豫樟楺櫪投橿烏號楓香其竹篠幹桃支有薑橘椒襄荷不知以爲滋味有爾猴黒雉
  特に、橘は徳島県南部が古くからの産地である
F女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
  徳島の東の海(紀伊水道)を渡る千余里で倭種国(紀伊半島)が位置する
G問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里
  徳島は離れた海中の洲島の上を、あるいは隔絶し、あるいは陸続きに、ひとまわりすると、五千里あまりになる
H直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華ケイ五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛 丹各五十斤
  鳴門の萩原墳墓群などに中国産の真朱が使われている
I女王国への行程記述

女王国はまさに四国。  これ以外は読みようがない。  倭人伝を ちゃんと読め。  @阿波
0837日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/05(火) 13:23:32.19
>>836
じゃあ、女王の墓は??
0838日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/05(火) 13:42:37.82
>>837
天照大神伝説の地は徳島市国府町「天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」です。

御祭神は大日孁女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神です。

また、大宜都比売命(おおげつひめのみこと)が祀られているのが徳島の神山町にある上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)です。

大宜都比売命の別名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)と言われています。

※「大宜都比売命」=「天石門別八倉比売命」=「大日孁女命」=「天照大神」   @阿波

「八倉比賣神社」
http://kamnavi.jp/en/awa/yakura.htm

「矢野神山 天石門別八倉比賣神社記 寫」
http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2016/09/27/213429
0839日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/05(火) 13:47:06.89
泡は四国説に書き込めよ
邪魔なんだけど。
0840日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/05(火) 17:18:26.90
>>838
残念。
おおげつひめは、
シバの女王でしたw
エチオピアからだったかな?
日本にやって来たんだってさ。
0841日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/06(水) 10:25:03.54
>>800
呼子は奥地過ぎて、都市を目的とする水行の上陸点にはならない。
博多が遠浅なのは判るが湾内を糸島に渡れるのに山間を歩くわけがない。
糸島西岸の引津湾は申し分のない良港が作れる。
現代でも石積提は多い。 壱岐に向かうなら風や潮で加唐島経由は有ろうが呼子は奥地。
潮見、潮待ちにも呼子より、糸島先端の芥屋浜近辺が好適。
0842日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/06(水) 14:47:30.03
https://goo.gl/9EHsKn
末盧國 大友(登望駅)・湊(逢鹿) 陸行分の徒歩ルート 5km弱
0843日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/06(水) 15:59:19.63
ピア(PIA)、サントロペ(PIA系)、楽園(北朝鮮系)、マルハン、キコーナ(北朝鮮系の可能性が高い)の大当たりはすべて遠隔大当たりです

今のパチンコ、スロットの大当たりはすべて遠隔大当たりです

パチンコ店の幹部がパソコンを1〜3回クリックして大当たりさせた大当たりしかないです

だから確率、設定は関係ないです

ピア、サントロペは神奈川県のJR川崎駅前にパチンコ台1800台、スロット1000台くらいあり、そこで大勝ちしてるのは店に雇われた内ち子と呼ばれる集団です

ピア、サントロペは内ち子の台に遠隔大当たりさせて裏金(年間1億以上)を作ってる詐欺犯罪組織です

ピア、サントロペは打ち子の人数が日本で一番多いと思う

上にも書いたがピア、サントロペの大当たりはすべて遠隔大当たりです

幹部店員がパソコンを1〜3回クリックして大当たりさせています

この金が北朝鮮に流れているのかもしれない


グアム攻撃で北朝鮮が受ける最大報復
2017年8月16日
なぜ大阪・神戸地区が狙われないかというと、この地域に住む朝鮮民族のほとんどが北朝鮮系でパチンコ業で年間800憶円の献金を
キム将軍に密送しており、それがミサイル製造の資金源になっているから。
http://www.excite.co.jp/News/society_clm/20170816/TokyoSports_733545.html
http://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/733545/
0844日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/06(水) 19:03:24.40
>>841
大陸からの玄関口 末羅國は福津市( 万津浦)宗像方面
だから世界遺産に選ばれたのも当然と言えば当然  @阿波
もし古代より、芥屋浜やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、
宗像地方に替わって芥屋浜近辺が世界遺産になっている。

子供みたいに何時までも空言を繰り返してるんじゃないの。    @阿波
0845日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/06(水) 20:31:27.34
@ お前も同じ
0846日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/06(水) 20:39:22.71
>>845

>>844に反論すればいいのに。  まことに残念。   @阿波
0847subo
垢版 |
2017/09/06(水) 22:13:40.93
>>844
末羅國が福津市なわけないだろ、対馬海流に流されたとか言うなよ
0848日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/06(水) 22:48:13.06
>>847
>対馬海流に流されたとか言うなよ

流されたとか言わない。
対馬海流を「利用して」、大陸からの玄関口 末羅國は福津市( 万津浦)宗像方面
だから世界遺産に選ばれたのも当然と言えば当然  @阿波
もし古代より、芥屋浜やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、
宗像地方に替わって芥屋浜近辺が世界遺産になっている。

子供みたいに何時までも空言を繰り返してるんじゃないの。    @阿波
0849日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 00:49:39.12
宗像の繁栄は邪馬台国が消えた4世紀以降だな。
奴国の安曇族が地方に配流されたあとだ。
0850日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 06:03:03.58
阿波っていうやつ、おかしいな。
なんで九州スレで阿波押しか謎だし、
だれもやまたいが阿波にあったなんて思ってないぞ?
たぶん、なんかの工作員。
宗教とか。
0851日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 06:59:41.32
>>849
>宗像の繁栄は邪馬台国が消えた4世紀以降だな。


邪馬台国は消えていない。 7世紀末まで、倭国(阿波)で存続している。   @阿波
0852日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 14:21:52.04
邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)で決着してるから
泡君が妄想を述べても意味がない。
0853日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 15:13:40.87
邪馬壹國が「山一國」、若しくは「山居國」、「山入國」の意味ならば、

>出真珠青玉其山有丹

の山は邪馬壹國を指し、

「真珠翡翠を産出し、その国には水銀(中国産)がある」

という解釈でいいのでしょうか
0854日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 16:07:36.53
阿波に聞くけど、
そういろいろおっしゃる根拠は何?
文献?霊智霊能?
0855日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 16:51:00.90
>>853ですが、私は北部九州説です
0856日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 17:19:18.76
[邪馬壹國] = ([邪馬]+[壹])[國]
[邪馬壹國女王] = [壹與](壹の血筋をひく子孫)
           (邪馬と壹をまとめてドン)
[邪馬壹國] の長官=[伊支馬]
   = [壱岐]+[馬] = [壱岐]+[媽]←[壹與]の別称
  ([媽媽]というのは歴史物の韓ドラでもよく耳にする)

倭國の3勢力
[彌馬]+[邪馬]+[阿馬]
これに[ひぼこ]の割り込みが3世紀のあたまに起こる
[ひぼこ]に纏わるイベントが記紀では天孫降臨に化ける
[伊都]=[壱都]=[壹都]の主の難升米は[ひぼこ]の直系
卑彌呼は奴國三雲にいた
0857日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 18:11:12.71
>>854
>阿波に聞くけど、
>そういろいろおっしゃる根拠は何?

いろいろ?  たとえばなに?  @阿波
0858日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 19:11:08.71
>>851
邪馬台国が阿波に配流されても世襲制ですら無い豪族では先が無い。 滅びる。
阿波は大和王朝の原型からの傍流だろ? 
畿内防衛の重鎮であって、えらいやっちゃ。よいよい。
2〜3世紀の対馬朝貢冊封外交なんてお呼びで無いぞ。

倭人伝を読む限りでは
女王卑弥呼の国は完全に魏の冊封国で軍事的にも張政を招請して介入させている。
張政は帯方郡の小役人であり、これで理解できるのは女王国が相当な弱小国である事。
畿内の現在でも継続している皇族の王墓に100年も続かなかったであろう、
文献に明らかな九州女王の痕跡を求めるとか、考古学者の発想は異常である。

4世紀には、日本は半島に進出して400年には南朝と半島利権外交を始める。
この時点で魏の冊封を受けていた九州の弱小国邪馬台国が継続している可能性はゼロである。
さらに弱小九州女王が3世紀に瀬戸内海航路に通過可能な寄港地を開拓していた可能性は無い。

畿内説も九州説も戦前戦後の御用学者が古代の日本を邪馬台国並みに矮小化して
記紀神話の九州起源説と半島史に配慮して無意味な論争にしただけの事だ。
0859日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 19:22:25.55
>>858
意味不明だな。
持論を展開するのはいいが、その根拠が示されていない。

邪馬壹國7万戸と投馬國5万戸を治める「東夷世界最強」の倭王が卑弥呼

東夷世界で唯一金印を得ている。

邪馬台国が弱小で、消滅した根拠はなに?
0860日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 19:24:29.80
じゃあ、
大和朝廷って何者ですか?
2650年以上、武家にも滅ぼされなかったということは、
相当な有力な出自だったんでしょうか?
0861日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 19:34:06.67
王家とその家臣団だろ。

家臣団にとっても、自分たちの特権の源泉が王家なんだから、
根源的に守る。
0862日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 19:38:21.31
>>860
>相当な有力な出自だったんでしょうか?

大和朝廷を興した
忌部氏とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。   @阿波
0864日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 20:25:38.37
>>860
ヤマト政権は1300年でしょうね。
2650年以上の半分以上のは神話の世界。
0865日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 20:33:16.45
>>863
そうなのか。
鹿島の正体がわからなかったんだ。
忌部氏がそうなんだ。
0866日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 20:35:06.41
>>863
根拠なし
0867日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 20:39:50.94
>>864
でも、その神ってのも肉体をもって生まれてきてたわけなんでしょう?
凄い出自だな・・・
0868日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 20:41:47.69
>>865
ごめん、ちょっと書き方が浅かった。
ちょっと秘密にしておきたいことが山ほどあるので、
あまり書きにくいが、
鹿嶋大神を祭るのが忌部→卜部→藤原氏となった、だったかな。
0869日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 20:53:52.82
>>868
神が全然違う
0870日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 21:04:18.89
そう、全然違う
0871日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 21:24:36.36
>>868
千葉県成田市台方の式内社「麻賀多神社」は麻が社紋。

印旛(いんば)郡栄町の 大鷲神社 天乃日鷲尊を祀り、社殿天井に「金の鷲」が取り付けられている。社伝によると「天乃日鷲尊はその子孫代々麻植の神として神功があり,麻に係りのある当地においても祭神となっております」という。

『安房志』によると「天日鷲尊の神霊が,天下に異変がある時は,金色の鷲となって現れるので,その霊験を畏敬して小鷹の神と称した」とあり、印旛沼の由来は「忌部沼」が訛ったもの。   @阿波
0872日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 21:27:34.29
勝浦市浜勝浦の 遠見岬神社 の宮司歴代の墓碑には「勝占忌部」と書かれている、阿波忌部の後裔。   @阿波
0873日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 21:29:41.36
安房郡白浜町の式内社 下立松原神社 の由緒には 「天富命が天日鷲命の孫由布津主命,その他の神々と当地方開拓に上陸し,のち由布津主命が祖神の天日鷲命を祀った社」 と記されている。   @阿波
0874日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 21:31:32.78
館山市相浜にある 楫取(かんどり)神社 の祭神は 宇豆彦命(ウズヒコノミコト)で天富命に従ってこの地に渡り,漁業を主として指導したといわれる。

この楫取名は徳島県の吉野川で使用された川舟である楫取舟と関係すると思われる。   @阿波
0875日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 21:33:36.32
阿波忌部が上陸した地・館山市布良の 布良崎神社 (祭神:天富命)周辺に「神余」(かなまる)という地名があり,これは安房神社に奉仕する忌部神戸が増えてあふれた人達が新しく開拓したことに由来する。「安房神戸(あわかんべ))という地名もある。   @阿波
0876日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 21:35:12.10
館山市大神宮の式内大社 安房神社 は天富命が祖父・天太玉命を祀った神社。

宮司の安房忌部系図には,天富命の娘の飯長媛(イイナガヒメ)と天日鷲命の孫である由布津主命(ユフツヌシノミコト)とが結婚して,堅田主命(訶多多主命)を生んで安房忌部の祖としている。

神社境内には「忌部塚」と呼ばれる弥生以前の洞窟遺跡もあり,阿波忌部の先遣隊の塚かもしれない。   @阿波
0877日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 21:35:14.94
>安房神戸(あわかんべ)

神戸ってのは神部なの?
それとも金部なの?
0878日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 21:37:01.12
茨城県新治(にいはり)郡新治村の 鷲神社 は社殿が平成7年に焼失したが氏子の寄付により平成11年に社殿を復興。ご神体に徳島の忌部神社から分祀を依頼。

鷲神社再建竣工記念碑には「本宮四国徳島市忌部神社」とある。   @阿波
0879日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 21:39:17.63
結城(ゆうき)市小森の 大桑神社 の社伝には「古代、東国に養蚕・織物を伝えたとされる阿波斎部が、稚産霊尊(ワカムスビノミコト)を祭神として、北方の大水河原に創建。

この辺り一帯を大桑郷と名付けた」とある。   @阿波
0880日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 21:40:21.47
栃木県小山市栗宮の式内社 安房神社 の祭神は天太玉命。   @阿波
0881日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 21:41:00.24
小山市萓橋の 日鷲神社 の祭神は天日鷲命。   @阿波
0882日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 21:42:41.83
下都賀郡石橋町橋本の 鷲宮神社 は天日鷲命。   @阿波
0883日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 22:06:33.89
>>868
中臣の後
不比等の子孫が藤原やで。

いうても藤原北家の不比等の次男の房前は
忌部の出らしいで
0884日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 22:17:12.46
これまで「忌部」の研究が不足していたため、歴史の中で有名なその他の氏族のみで仮説・ストーリーが立てられてきた側面がある。

今後の研究が進み関係が明らかになることを期待する。   @阿波
0885日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/08(金) 06:37:43.10
根拠のない言いっぱなし同士
0886日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/08(金) 08:24:08.41
>>859
金印が何?
魏が滅びるのと邪馬台国が消えたのと
どっちが早いか、だな。
帳政送って行ったら国がないwww
0887日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/08(金) 08:24:53.08
後の倭国だから、ずっと邪馬台国は残ったよ。
0888日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/08(金) 08:38:00.22
後の倭国?
古の倭人国のひとつが邪馬台国だ。
0889日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/08(金) 08:59:58.14
だが、倭人を代表していた。
それが冊封制度というものだよ。
0890日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/08(金) 09:56:29.17
倭人伝には九州島の南北一月行が
二十数ヵ国が共立した親魏倭王の
女王国 邪馬台国と、書いてある。
0891日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/08(金) 10:26:46.82
つまり筑紫倭国だよ。
0892日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/08(金) 10:45:19.19
>>885
じゃあお前が根拠のあるセンテンス書いてみろよ!!
できないだろ?!!
0893日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/08(金) 21:43:06.84
>>890
>倭人伝には九州島の南北一月行が
>二十数ヵ国が共立した親魏倭王の
>女王国 邪馬台国と、書いてある。

修正しますね。

倭人伝には九州北部の
29ヶ国(對馬國〜有奴國)が
親魏倭王の倭國と、書いてある。

倭國>女王國>邪馬壹國
邪馬壹國(女王國の南端国)の南にある国は狗奴國のみ。
筑後平野矢部川南岸以南は、築肥山地の崖に掘られた
横穴墓文化地域(狗奴國文化圏・旧東鯷人文化圏)・非女王國文化圏

景初二年(238年)以前
女王國は、九州島北部の末盧國600里以遠から南北間1月行(1000餘里)の
範囲(不彌國城柵と邪馬壹國城柵の間隔)にあると倭人伝には書いてある。
即ち、女王國は、奴國と不彌國以遠の4ヶ国(奴國、不彌國、投馬國、邪馬壹國)である。
郡から末盧國までの道里は水行10日(11400餘里)。循海岸水行7日渡海水行3日。

景初二年(238年)以降
倭國=元女王國の4ヶ国+北部4ヶ国(對馬國〜伊都國)+遠絶不可得詳21ヶ国の計29ヶ国である。
狗奴國と狗邪韓國は倭國に含まれない。狗奴國と狗邪韓國は倭人の国である。
0894日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 06:52:03.51
王都?
イトのイは尊称で良いとして「ト」は門の意味合いで良いでしょ。
セフリ山脈が眼前にあって、域内から出さない入管に適した地形になってる。
0896日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 10:41:31.23
そうだなあ、
邪馬台国や奴国の、
都市そのものが発掘されたわけではないと思うから、
まだまだ議論の余地ありですね。
0899日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 12:01:40.32
倭人伝の行程と人口を養う生産力
からすれば熊本は有力。

同じく有力の福岡勢力とどのような
関係にあったかを考慮する必要がある。
0900日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 12:10:08.10
>>899
どうぞ存分に考慮してみせてくださいませ(かしこ

・行程論
・邪馬台国と狗奴国の位置関係
・考古学証拠
・卑弥呼の墓
0901日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 12:10:20.23
>>899
だよね。
現代で言えばお隣の県だし、
同盟国、もしくは同一国の可能性あるよね。
0902日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 12:14:12.54
元から合わせて倭国だったものが、熊本だけ反旗を翻して王を名乗った。
しかし大陸との交渉は、博多を抑えている福岡側がずっと担ってきたため、そのまま卑弥呼も倭王として任じられた。

そんなところかな。
0903日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 12:15:47.27
これは気づかなかった。
諸外国との外交港って、
福岡でも佐賀でも長崎でもなく、
熊本なんじゃないのか?
九州の中心点だから、
外国としても貿易しやすいんじゃないだろうか?
問題は、
熊本と福岡が当時
往来しやすい地理だったかどうかだが。
0904日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 12:19:45.71
しゃーねえ、
熊襲と隼人がいるからそんなの無理だろという
意見出るだろうから、
熊襲隼人ムー大陸反乱説をあげとくか。
0905日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 12:24:50.79
福岡の筑前と筑後を合わせた筑紫国。
その貿易港の博多湾。

佐賀長崎の肥前と熊本の肥後を合わせた肥国(ひのくに)。
海外との交易や遣唐使、朝鮮出兵で
度々名前が出ている唐津松浦。

ここが肥前国なのは把握しておくべきであろう。
0906日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 12:35:13.16
>>903
熊本と福岡の間の筑肥山脈なんてたいした山も無いし
熊本と福岡の往来を妨げるようなものは今も昔も無い
熊本まで邪馬壹國でしょうね。
0907日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 12:39:30.74
>>906
だから、それが分裂したんだよ。
そもそも狗奴国は異国ではない。
王の名前が卑弥呼そっくりだからね。
0908日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 12:53:55.14
狗奴国はもっと南の鹿児島、宮崎じゃねえ?
0910日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 12:55:39.85
熊本説ってロマンあるよな。
福岡説だと、
そりゃあ韓半島に面してるんだから当たり前だろうだけど、
例えば、
外国に侵入されないように、
人工的、自然的な要塞を築き上げようとすれば、
熊本はうってつけ。
0911日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 13:01:10.33
「参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連」これって熊本県も入れないと倭地のイメージに合わないんだよな。
0912日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 13:06:05.91
確か、
熊本の何宮だったか忘れたけど、
天照大神を祭る神社があるんだよな。
あまてらす=日御子とすれば、はたして?
0913日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 13:18:01.09
アマテラスは明治になってから日本中で祭ったから当てにならない。
それにアマテラスは天孫族の祖先だが、肥国は天孫族とは別系統の可能性がある。
0914日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 13:18:37.09
>>911
だから、もともと倭だったけど分裂したんじゃない?
0915日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 13:21:16.92
>>913
いや、
肥国の人物をアマテラスとして祭ったんじゃなくて、
卑弥呼自体を祭った可能性があるわけだから、
一応可能性としてさ。
0916日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 13:29:26.94
そもそも昔はアマテラスは男と考えられていたんだよ。
スサノオとは兄弟王。
天孫族には兄弟王が多い。
多分、騎馬民族などと同じように兄弟相続だったものが、後年にそのことを忘れられ、性別も転換してしまった。
0917日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 13:36:22.91
一応、
日本国は女神国ということになってるね。
伊勢然り白山然り。
0918日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 13:36:28.39
>>914
分裂したとする根拠が薄弱。
0919日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 13:40:30.06
北部九州スレで狗奴国が熊本で異論が出るとは思わなかったよ。
0920日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 13:40:56.35
天照大神を祀って九州の伊勢と呼ばれている天照皇大神宮は福岡県糟屋郡久山町猪野に在り
神功皇后が仲哀天皇に祟った神を祀ったとされてる。
近くには、神功皇后が建てたとされる斎宮もある。
0921日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 13:50:17.69
まあ、
旧邪馬台国の各地に
天照大神を祭る神社があるのは、
もし卑弥呼が天照と仮定するなら当然だろう。
眼目は、卑弥呼の墓だな。
宗像?
0922日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 14:00:23.66
平原遺跡でしょ。
倭国大乱の後の最初の女王墓。
0924日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 14:51:17.92
このスレの捏造説論法からいくと
聖徳太子がムハンマドだったとか
義経がジンギスカンだったとか
神武天皇が秦の始皇帝だったとか
何でも説明出来そうだな
0925日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 14:53:48.70
◯◯は捏造の可能性がある→△△の方が信憑性がある高い→△△が真実である

これは詭弁の最たるもの
応用すると孔子が韓国人だった理論も構築可能だ
0926日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 15:45:30.88
>>919
邪馬壹國の範囲が未確定なので狗奴國が何処かも未確定だよ。
0927日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 15:52:40.77
例えば

金氏、中国の人ではないの?
半島に住んでいるというだけの話
0928日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 15:52:48.91
卑弥呼が糸島市付近の伊都国を都とし邪馬壹國(北部九州)を支配していたことは確定だが
奴國、不彌國の位置も特定されていない
奴國、不彌國への百里は短里ではなく長里ではないかと考えています
即ち糸島市付近から40qで奴國、80qで不彌國
奴國、不彌國への百里は魏の軍官僚の張政らの報告によるもので当時魏で使われていたものではないか
その前の里は公孫氏の使っていた短里の記録によるものではかいかと。
0929日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 15:55:23.57
家の近所には『田』という人が住んでいる、
小学生の頃『郭』というのもいたよ
0930日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 16:14:37.00
>>911
>「参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連」これって熊本県も入れないと倭地のイメージに合わないんだよな。

「參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里」

倭地の北端を對馬(對海國)の北端とすれば、
そこから南へ周旋可五千餘里(400q)は、
熊本平野南端の緑川北岸(狗奴國南端)になる。

即ち、倭地は対馬北端から熊本平野南端の緑川北岸までである。
自然境界となる緑川の大湿原や河口湾以南は狗奴國では無かった。
0931日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 16:26:49.22
緑川の大湿原は、正確には緑川、加勢川、秋津川、木山川、矢方川に広がる大湿原の事である。
0932日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 16:43:00.95
古代の日本って湿原だらけだったのか
0934日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 17:15:43.11
>>930
熊本平野南端は球磨川河口の北岸くらいまでじゃないの?
八代平野も広義には熊本平野に入れていいんじゃない
途中に障害物とかないし。
0935日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 17:45:57.52
球磨地方、人吉盆地までが肥後国。
ここから南と東は日向国や薩摩国。

古事記にある熊襲国の境界はこのあたり。

人吉盆地は良い稲作地域なので
ここを奪い合っていた可能性が高く
後世では肥後国に入っているが

日向とつながりが深い免田式土器も
出てくるので、熊襲国に属していた
時代もあったと思われる。
0936日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 17:59:20.13
>>932
>古代の日本って湿原だらけだったのか

湿原が河川改修で本格的に田畑になったのは、江戸時代になってから。
利根川、荒川(関東平野)、木曽川、長良川、揖斐川(濃尾平野)、
淀川、大和川(大阪平野)、加瀬川、筑後川、矢部川(筑紫平野)、緑川等(熊本平野)、等
もっとあるが、十分に調べていない。
0937日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 18:03:18.13
>>934
>八代平野も広義には熊本平野に入れていいんじゃない
>途中に障害物とかないし。

緑川河口湿原がその障害物です。
0938日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 18:09:53.84
>>932
畿内が湿原だらけだったんだよ。
0939日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 18:11:34.09
>>935
>日向とつながりが深い免田式土器も
>出てくるので、熊襲国に属していた
>時代もあったと思われる。

ていうか、免田式を持つ阿蘇周辺の国が狗奴国だろ。
0940日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 18:13:13.31
熊襲国・・・・・・鹿児島、宮崎が狗奴国だろ。
0941日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 19:00:22.62
筑紫には四面あるという

筑紫國を白日別
豐國 を豐日別
肥國を建日向豐久士比泥別
熊曾國を建日別

ところが先代旧事本紀では
筑紫國を白日別
豐國 を豐日別
肥国 建日別
日向 豊久士日泥別
熊襲 建日別

古事記伝では
筑紫國を白日別
豐國 を豐日別
肥国 速日別
日向 豊久士日泥別
熊襲 建日別

と説明する。

これは、もともと肥国の豊久士日泥別が日向へ移り建日別が肥国の王に
その建日別が速日別に肥国を追われ熊襲の王となったと見る。
つまり筑紫に四面あるとは筑紫を中心に

肥筑豊
熊日
襲向
0942日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 19:13:41.74
>>941
>肥筑豊 → 邪馬台国=倭国
>熊日 → 倭国から分裂した狗奴国
>襲向

時系列がはっきりしないのですよ。
ただ、4面と言いながら、その中の肥国と熊襲は被る部分が多い。
そこで出した結論が、熊襲というのは肥国の王家の名前なんじゃないかということ。

日向は筑紫の日向にあやかって遅れて名がついただけ。
0943日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 19:15:20.34
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は必ずしも良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。
0944日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 19:56:57.88
>>937
緑川河口に湿原なんてあったの?
0945日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 20:53:39.65
>>942
肥国王家 が 熊襲 というのは なるほど整合するように思います。
するとヤマトタケルに征伐された
イチフカヤはその後火の国国造に任命され
そのあとは
松野連につながり
その家系図を参照すると、祖先は東海姫氏である
これが肥国王家としての候補になります。

興味深いのは
イチフカヤの後は倭の五王が現れることです。
真偽不明ですが。

個人的にはこれが本当なら
肥国 特に 熊本平野や阿蘇に
鉄器製造の痕跡が濃厚ということについて
呉王闔閭の時代に干将・莫耶という名刀があり
金属器の技術が 呉の技術なのではないかと疑っています。
0946日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 21:08:22.35
>>941
この場合の建日別は
球磨人吉盆地に押し込まれたのであろう。

免田式土器の上限は佐賀だし
最期は人吉盆地や山間地に散らばり
熊本平野には庄内式に置き換わる。
0947日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 21:49:44.61
日本国内の文献は400年後のものだからな
色々想像するのは楽しいいだろうが
何も分からんが本当のとこだな。
0948日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 22:18:13.22
>>945
>これが肥国王家としての候補になります。
>イチフカヤの後は倭の五王が現れることです。

つまり、卑弥呼の後もしばらく肥国王家から倭王が出ていたということになるわけです。
博多天孫族が記紀から卑弥呼も倭の五王も消したわけですよ。

>呉王闔閭の時代に干将・莫耶という名刀があり
>金属器の技術が 呉の技術なのではないかと疑っています。

なるほど。
肥国はかつての呉の製鉄技術を持っていたと。
0949日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 22:19:38.87
>>946
>免田式土器の上限は佐賀だし
>最期は人吉盆地や山間地に散らばり

肥国だから、ちょうど分布としては合っているわけです。
流行り廃りはあるから、新しいものに変わるのは当たり前。
0950日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 22:24:32.74
【壹與と與止日女】

肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣秀吉の淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の辺縁であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。

この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。
0951日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 23:14:11.24
九州こそは父祖伝来の、という言葉を聞いたことがある。
女神国であり父祖国でもあるわけか。
しかも九州は人類発祥とされるアフリカのえな。
大和朝廷以後は文化の中心は近畿に移ったが、
太古は九州が中心地だったんだなあ。
いやあ、ロマンロマン。
0952日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 23:15:53.19
ちなみに、豊前とは、
古代ユダヤ人ルペンから来てるお。
ということは?
卑弥呼もユダヤ人??
大いに議論してくれ。
0953日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 23:16:34.31
九州北部の玄界灘沿岸が、弥生時代の稲作伝来の地、三種の神器を持つ倭国王権の発祥の地、朝鮮半島を経由した国際交流、日本海ルートによる国内貿易の中心地。
0954日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 23:35:46.62
一つ聞くけど、
宮下文書に霧島の名が出てくるのはなぜ?
0955日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/10(日) 02:26:15.32
『大国主の国造り』?

調べてみたところ、
このような話が書いてあったんだけど

>赤く焼けた岩を落としたり、
>板で挟んだり
0956日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/10(日) 02:28:16.53
蛾・・・何やらの服を纏っている?とか
蚕?
0957日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/10(日) 02:31:12.79
上のほうに書いてある

まいく・おー

というキャラの曲?日本の曲だったの?
0958日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/10(日) 02:45:47.31
『蛾の衣』

グーグルで調べてみたところ、
たしかに恐ろしいような?画像が出てきた

どこかの国の映画にも、あったような気がする

蛾だか蝶を採集していたり
0959日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/13(水) 22:54:19.55
初参加
倭奴国を伊都国と読む奴おるんや!?

なら
倭面土国は大和(ヤマト・ワミャト)と呼んでええんか
0960日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/13(水) 22:57:27.38
>>959
数年前の話になるけど

なんで倭が和になるんだよ
というレスが来たことがあった
0961日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/13(水) 23:08:06.85
>>959
倭ヰ
面メン
土ト
国コク

ヰメントコク
ヰトコクにメンが付いただけ
ヰトコクの一部?
0962日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/14(木) 00:12:14.28
>>959-961

倭面奴國=倭米多國
ヰメト国=ヰメタ國

倭奴國=倭都國=伊都國
ヰト国=ヰト国=イト国
0963日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/14(木) 00:35:29.82
古代中国の書籍には倭国に関してやまとと読める単語が沢山出てきすぎる
もう反論せず素直に大和と呼んだらどうかね?
何でそんなに大和と認めたくないんだ?

その理由が知りたいわ
0964日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/14(木) 00:36:43.28
>>963
>古代中国の書籍には倭国に関してやまとと読める単語が沢山出てきすぎる

たとえば何?
0965日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/16(土) 17:08:40.59
土壙墓とは単なる穴だけの墓穴のこと。
100人の奴婢が殉葬されたのなら、その痕跡があるとしたら単なる墓穴=土壙墓だよな。
しかも周溝など墳丘周囲に存在する土壙墓こそが殉葬の証拠としてふさわしい。
平原遺跡や祇園山古墳にあるような。

それに類するものがない他説は根拠もなくそれを否定するだけで
じゃあなにが殉葬の痕跡かというとそれを説明できない。
0966日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/17(日) 12:49:19.94
畿内説が面白い指摘をしてるぞ。

伊都國のところで、なんで漢代からずっと倭王が伊都にいたと書かずに、
魏代に倭王がいると書いて、
漢代のことをわざわざ分けて後に書いているのか、とさ。
これは面白い指摘だ。

ひょっとしたら、三雲南小路〜井原鑓の男王は伊都にいたわけだが、
卑弥呼は最初は伊都以外の場所で即位して、
途中から伊都入りしたのかもしれないが、

どうかね北部九州説諸君?
0967日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/17(日) 13:00:01.90
卑弥呼と卑弥弓呼の名が似ていることから
倭国乱とは邪馬台国と狗奴国の同族対決だというのはよく言われることだから
狗奴国が最初は優勢でそれを邪馬台国が奪い返したという仮定は成り立つな。
0968日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/17(日) 13:37:05.59
>卑弥呼と卑弥弓呼の名が似ていることから
ここ笑いどころだな
0969日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/17(日) 13:39:21.48
倭国大乱に介入した肥国から卑弥呼が共立されて伊都で倭国王に即位したが、出身地の肥国の一部が反抗して狗奴国王が即位した。
卑弥呼は自身の倭国王としての地位の承認を魏に求め、金印を以って冊封を受けた。
0970日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/17(日) 14:02:03.70
210年代の倭國大乱によって伊都國に爾支という王が新規に発生した
伊都國は海の民の渡来系倭人 天の日矛の直系が降臨設立した
これは後に一貴とも呼ばれる地域及び西区も含む糸島水道沿岸域を中心域とし
壹のバウンダリーを所都なわけで
邪馬のバウンダリーのコアになった2万戸の奴國のそのまた中心域の三雲は
奴國の王都でもありけっして伊都國ではありえない
0971日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/17(日) 14:04:07.62
>倭国大乱に介入した肥国から卑弥呼が共立されて
ここも笑いどころ
0972日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/17(日) 14:15:47.43
>>970
カタカナはよくわからないな。
つまり天津国(海の国)から天孫族の瓊々杵がやってきて伊都国を立て、倭国大乱で卑弥呼に政権委譲したんだろう。
0973日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/17(日) 14:44:43.80
3世紀前半から中ごろに築造と言われるホケノ山古墳ですが、
その土手には6世紀末頃の14mの横穴式石室があります。
不思議なことに300年以上も経過してから突然、横穴式石室が作られたことになります。
14mというのは、あの石舞台古墳の倍ですから、相当力のある豪族が造ったのでしょう。

6世紀後半、桜井を支配したのは物部守屋です。

「日本書紀585年、物部守屋は3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、
海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。」

守屋は海石榴市が自分の領地だから連れてきたのであり、14mの横穴式石室を作ったのは物部氏という事になります。
造った理由はホケノ山古墳が物部の氏神墓だからでしょう。(被葬者はウマシマジまたはヒコユキか)

つまり纏向古墳群、纏向遺跡とは物部の遺跡なのです。
ここにヒミコはいません。
0975日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/17(日) 15:17:13.73
瓊々杵は爾支からの後代の造作
爾支は爾の子孫の意味
爾は賦斗邇の[ni] 支は[qi]
爾支は[にき]~[にち]の音
「賦斗邇」は「太玉」で 日矛渡来以前の海峡域を統べる覇者
[穴]も彼のシマの重要拠点
0976日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/17(日) 17:49:18.82
2017年になっても
いまだに畿内説を掲げている学者さんっていますか?
郷土史家じゃなくて、大学に在籍する本物の教職員です。

その著作を読んでみたいです。
0978日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/17(日) 18:15:26.56
トレンドっていうのはそう簡単には覆らないよ。
簡単にコロコロ覆ったら、信用ゼロだからな。
九州説があれこれ頑張っているが、じゃあ決定的なのはなに?
って話になる。

鉄器の分布。
銅鏡と銅鐸。
硯。

どれも北部九州説を推しているが、まだ突っ込む余地はある。

あと一押しが出土したら雪崩をうつだろうけど。
0980日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/17(日) 19:09:49.21
なにが出ることを期待しているの?
親魏倭王の金印?
0981日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/17(日) 19:13:47.94
>>978
既に魏志倭人伝の正しい読み方をここに書いてあるんだけどなw
0983日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/17(日) 19:17:46.91
>>981
私は九州説だけど、学説をひっくり返すってのはそう簡単なものではない、ということ。

往々にして、科学的な根拠ではなく
人間関係だとか
好き嫌いだとか
自らにとっての利害関係だとかが
最重要なファクターになる。

たぶん今度ひっくり返ったら、もうそれで永久に決定なのだろうけど
そのための根拠としては全てがまだ微妙に足りない。
畿内スレの狂人が言い逃れをできるあいだは無理。

だからこそ強者に立ち向かう弱者で楽しいのではあるがw
0984日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/17(日) 19:48:22.31
>>982
何も出ないことを予言する。
0986日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/17(日) 20:05:15.90
学者としての両親があるのなら
稲部遺跡の放置という破壊は止めてほしい
0988日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/17(日) 20:22:48.34
日本の古代史の学者は良心のない者が多い
0989日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/17(日) 20:29:29.15
日巫女の末裔っていないのかな?
皇室がそうか?
学者ではわからないことも当人なら色々わかるんじゃないかと思って。
仏教学者にわからないことでも僧侶なら仏道がわかるみたいに。
0990日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/17(日) 20:45:03.59
末裔なら日巫女を自慢するだろが
0991日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/20(水) 21:43:10.36
ヒミコは未婚じゃない?
0992日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/22(金) 00:41:39.12
世有

@ 三国志魏書后妃傳第五
>自夫人以下、世有搗ケ。
夫人以下の妃の扱いについては、「それぞれの帝によって」増減があった。(以下、各帝ごとの変化について記載)

A 三国志魏書任蘇杜鄭倉傳第十六
>語曰「世有亂人而無亂法」
「世の中に、世を乱す人はいても、世を乱す法律はない」と言います。

B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人、世有冠冕、
貴方たちの先祖は、「代々」冠をつける役職についていて、

C 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十
>而公孫淵、仍父祖三世有遼東。
父祖三代に渡って遼東を領有した。(189〜238)

D 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三
>當世有聲名
当時は名声が高かった。

C は三世、Dは当世で、純粋な世有ではない。
@ は代々の意だが、魏代ではある。Bは代々の意、Aは今の世の中の意。

以上からは、世有王は、代々の王が、と訳すのが適当。

>世有王 皆統屬女王國
倭国王は代々伊都にいる。
倭国の皆は、現在の王である女王の統べる邪馬台国に統属している。

で、伊都が卑弥呼首都で同じく意味が通る。
0996日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/22(金) 01:01:50.24
倭人伝だから世有王は倭国王だな

畿内説敗北
0998日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/22(金) 01:12:17.78
>>997
では、否定する根拠は?

他の国に王はいない。

狗奴国王を除けば
王は伊都王のみ。

つまり、伊都王=倭国王。

>世有王 皆統屬女王國
倭国王は代々伊都にいる。
倭国の皆は、現在の王である女王の統べる邪馬台国に統属している。
0999日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/22(金) 01:12:47.66
倭人伝は北部九州説によって解読された。
1000日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/22(金) 01:13:16.45
世有

@ 三国志魏書后妃傳第五
>自夫人以下、世有搗ケ。
夫人以下の妃の扱いについては、「それぞれの帝によって」増減があった。(以下、各帝ごとの変化について記載)

A 三国志魏書任蘇杜鄭倉傳第十六
>語曰「世有亂人而無亂法」
「世の中に、世を乱す人はいても、世を乱す法律はない」と言います。

B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人、世有冠冕、
貴方たちの先祖は、「代々」冠をつける役職についていて、

C 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十
>而公孫淵、仍父祖三世有遼東。
父祖三代に渡って遼東を領有した。(189〜238)

D 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三
>當世有聲名
当時は名声が高かった。

C は三世、Dは当世で、純粋な世有ではない。
@ は代々の意だが、魏代ではある。Bは代々の意、Aは今の世の中の意。

以上からは、世有王は、代々の王が、と訳すのが適当。

>世有王 皆統屬女王國
倭国王は代々伊都にいる。
倭国の皆は、現在の王である女王の統べる邪馬台国に統属している。

で、伊都が卑弥呼首都で同じく意味が通る。
10011001
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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