とうとう、畿内説が破綻したね。。。。 [無断転載禁止]©2ch.net
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キナイコシは構成の誤謬を理解してない論理オンチだからしゃーない。 それにしても、キナイコシはなぜ必死なのだろうか、、、 はい、では平原1号墓出土鏡が八咫鏡ではないことを、きちんと論証しましょう
史記、漢書、三国志、後漢書での「咫」の字の使用例を全例検索
史記9件、漢書12件、三国志3件、後漢書13件 の、全37件
うち、咫尺 で使われているのが23件
尺有咫 で使われているのが 7件
八寸曰咫 で使われているのが 6件
「咫尺」は三国志の「未能進咫尺之地」(未だ咫尺の地を進むに能わず)のように、「一咫あるいは一尺程度のわずかな(距離)」程度の意味で、慣用句的に使われている
「尺有咫」は、矢の長さなどを表すのに用いられ、史記では「矢長尺有咫」(矢の長さ、尺あまり咫(=18寸))のような使われ方になる
「八寸曰咫」は、「咫」の長さの説明、つまり 咫=八寸
ここまでで、全37件中36件
残りの1件は「咫尺」の説明中に使われているもので、漢書の「咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺、喩輕率也。」
咫尺は「あるいは長さが咫あるいは長さが尺」を簡単に言うもので、軽率の喩えなり
というものだ
要するに「咫」は、
「尺とあまり変わらないわずかな長さ」 咫尺という熟語として使う
「具体的な八寸という長さ」 長さの単位として使う
という二つの意味での使い方しかない
そして、円形のものの周囲を測るために使われている用例は「一つもない」
咫を丸いものを計る単位に使った例は、邪馬台国前後にはない
咫を使っていたとされる周代を記録した大陸史書は史記しかないが、もちろん、史記にも咫を丸いものを計る単位に使った例はない
これによって、「咫は、円周率を3.2で近似するための便利な単位」という平原出土鏡を「八咫鏡」に『する』ための戯れ言は、完全に否定されたね
つまり、平原出土鏡は「八咫鏡」ではない >>853
>キナイコシは構成の誤謬を理解してない論理オンチだからしゃーない。
その「構成の誤謬」とやらを、具体的に示してみてはどうか?
できなければ、ただの負け犬の遠吠え >>857
>実際に径二尺の大鏡が出土してしまったからね。
それの円周を測るという道理がないんだが?
「咫」で円周を計っている例がないのは、>>855で全例確認してあるだろ?
径二尺の大鏡は径二尺の大鏡であって、「八咫鏡」ではないし、
天照大神とも卑弥呼ともつながらない はい、では平原1号墓出土鏡が八咫鏡ではないことを、きちんと論証しましょう
史記、漢書、三国志、後漢書での「咫」の字の使用例を全例検索
史記9件、漢書12件、三国志3件、後漢書13件 の、全37件
うち、咫尺 で使われているのが23件
尺有咫 で使われているのが 7件
八寸曰咫 で使われているのが 6件
「咫尺」は三国志の「未能進咫尺之地」(未だ咫尺の地を進むに能わず)のように、「一咫あるいは一尺程度のわずかな(距離)」程度の意味で、慣用句的に使われている
「尺有咫」は、矢の長さなどを表すのに用いられ、史記では「矢長尺有咫」(矢の長さ、尺あまり咫(=18寸))のような使われ方になる
「八寸曰咫」は、「咫」の長さの説明、つまり 咫=八寸
ここまでで、全37件中36件
残りの1件は「咫尺」の説明中に使われているもので、漢書の「咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺、喩輕率也。」
咫尺は「あるいは長さが咫あるいは長さが尺」を簡単に言うもので、軽率の喩えなり
というものだ
要するに「咫」は、
「尺とあまり変わらないわずかな長さ」 咫尺という熟語として使う
「具体的な八寸という長さ」 長さの単位として使う
という二つの意味での使い方しかない
そして、円形のものの周囲を測るために使われている用例は「一つもない」
咫を丸いものを計る単位に使った例は、邪馬台国前後にはない
咫を使っていたとされる周代を記録した大陸史書は史記しかないが、もちろん、史記にも咫を丸いものを計る単位に使った例はない
これによって、「咫は、円周率を3.2で近似するための便利な単位」という平原出土鏡を「八咫鏡」に『する』ための戯れ言は、完全に否定されたね
つまり、平原出土鏡は「八咫鏡」ではない 倭人は呉の太伯を知っていたくらいだから、中国の古典に通じていた。
史記よりもっと古い、現存しない文献で鏡の大きさを径二尺に決めたのかもしれないね。
径二尺、周八咫の鏡が存在したことは事実だよ。
周を表すという説明が嫌いならそれでもいいが、咫は八寸という定義でも、平原の鏡は八咫の大きさになる。
伊勢の鏡がそれより小さいなら、焼けて灰になったからではないか? 八咫にするために平原鏡を作ったんじゃなくて
平原鏡を後世に測定したら八咫だから八咫鏡と呼ばれるようになったんだr。 >>862
>平原鏡を後世に測定したら八咫だから八咫鏡と呼ばれるようになったんだr。
語るに落ちたね?
「後世に測定したら」って、その後世はいつの時代なんだい?
平原鏡は、破砕供献で埋能されてるから、昭和の時代まで周囲を測られることはないよ?
そもそも、「咫」で円周を測った記録はないし、使われ方もかなり特異な使われ方に
限られている
後世に計ったなら、尺と寸で示されるのが当然で
「咫」の出る余地はない
伊勢の本物の「八咫鏡」から考えるに、「八咫」は大きいことを示す「八」と使った
単に大鏡であることを示す修辞と見るのが妥当だろう
「八咫」は実際の大きさを示しているのではなく、
単に「大きい(多い)」という意味と捉えるのが通説のはず
類例
八百万 八百八町 八百八橋 八尺瓊勾玉 八百屋 八千矛 八尋
表す八を使った 伊勢の鏡は焼け落ちたあとの
模造品じゃなかったか? >>864
>伊勢の鏡は焼け落ちたあとの
>模造品じゃなかったか?
宮中賢所の神鏡は、何度か焼損の記録がある(3回だったかな?)が
伊勢の神宮の方はなかったはずだよ キナイコシが必死で否定する八咫鏡の大きさは、邪馬台国とどう関係するのだろうか、、、 大きな流れとして鏡の祭祀が伊都から伊勢に来たことは変わらん。 岡上ではなくても、そう思う。
九州北部が銅鏡文化の発祥地であることは間違いない。 銅鏡文化って何?
倭国には、青銅器と鉄器がほぼ同時に入ってきたから、実用器は鉄で作っていて、
青銅器時代っていうのがないんだよね
で、実用の器物は鉄で、祭祀用の器物は青銅器っていう使い分けをしていた
で、最近は言わなくなって来ているけれど、近畿を中心に祭祀用銅鐸が
大型化し、北部九州では銅矛が巨大化している
北部九州は銅矛文化だろ?
それとは別に、大陸からの舶載鏡が威信材になった時代があって、それから
三角縁神獣鏡とかの仿製鏡を副葬する文化が出てくる訳だ
こういう形で整理すると、平原のは青銅器を巨大化する時代遅れの方針と、
仿製鏡を副葬する文化の接点で作られたあだ花っぽいね 完璧ww
>平原鏡を後世に測定したら八咫だから八咫鏡と呼ばれるようになったんだr。
語るに落ちたね?
「後世に測定したら」って、その後世はいつの時代なんだい?
平原鏡は、破砕供献で埋能されてるから、昭和の時代まで周囲を測られることはないよ?
そもそも、「咫」で円周を測った記録はないし、使われ方もかなり特異な使われ方に
限られている
後世に計ったなら、尺と寸で示されるのが当然で
「咫」の出る余地はない
伊勢の本物の「八咫鏡」から考えるに、「八咫」は大きいことを示す「八」と使った
単に大鏡であることを示す修辞と見るのが妥当だろう
「八咫」は実際の大きさを示しているのではなく、
単に「大きい(多い)」という意味と捉えるのが通説のはず
類例
八百万 八百八町 八百八橋 八尺瓊勾玉 八百屋 八千矛 八尋
表す八を使った >>872
>で、実用の器物は鉄で、祭祀用の器物は青銅器っていう使い分けをしていた
青銅器とかぼかして誤魔化すなよ。
九州北部は紀元前から銅鏡が威信財。
畿内は銅鐸文化を捨て、数百年遅れで銅鏡文化を受け入れる。
矛も畿内に持ち込まれ、畿内の文化は九州北部のものに塗り替えられた。
鉄器についても、畿内、特に大和では普及が九州北部よりも相当遅れた。
>>872
>それとは別に、大陸からの舶載鏡が威信材になった時代があって、それから
>三角縁神獣鏡とかの仿製鏡を副葬する文化が出てくる訳だ
九州で銅鏡が威信財となってから、畿内で三角縁が作られるようになるまで数百年の差がある。
しかも仿製鏡も平原遺跡に代表される九州北部の方が畿内よりずっと早くに高度な技術を確立した(畿内説では平原は2世紀なんでしょw)。
畿内は最後まで追いつけない(伊勢の鏡は平原の鏡よりずっと小さいんだよねw)。 >>873
>伊勢の本物の「八咫鏡」から考えるに、「八咫」は大きいことを示す「八」と使った
伊勢の鏡が八咫よりずっと小さいなら、偽物か、焼けたため灰だけ保管されているんだろうね。 >>875
>伊勢の鏡が八咫よりずっと小さいなら、偽物か、焼けたため灰だけ保管されているんだろうね。
焼けたというなら、その記録を教えてくれ >>874
>九州北部は紀元前から銅鏡が威信財。
それ、舶載鏡だから
それと、874本人ではないのだろうけれど、3世紀の北部九州には
まともな遺跡もめぼしい遺物も出ていないと言われて、大型銅矛の分布が
3世紀の邪馬台国の範囲だって言ってるやつがいたぞ
北部九州の「地場」の威信材は、銅矛だろ?
そいつは、矛は九州にしかないから、邪馬台国は九州だとも言ってた
兵用「矛」、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。 >>877
>それ、舶載鏡だから
内行花文鏡はそもそも漢から諸侯に与えられた威信財だから、それで正しい。
漢が滅んで国産になった。 あと、矛はあまり威信財ではないだろうね。
兵の持ち物だから。
威信財となる武器は剣だ。 九州北部説論者によって畿内説を鮮やかに論破されてしまったキナイコシが、九州北部説と対等に渡り合うためには熊本説に転向するしか無いのではないのかな。。。 >>879
>あと、矛はあまり威信財ではないだろうね。
でもね、銅の大型の矛なんて、実用にはまったく使えないよ?
百科事典的(平凡社 世界大百科事典)には以下のとおり
日本の銅矛は武器としての機能から離れる方向で変化し,
弥生時代後期に至るまで用いられた。すなわち中広形銅矛では
刃部に刃をつけなくなり,柄も着装しなくなった。そして広形
銅矛は大型化が頂点に達する一方,節帯がなくなり耳が扁平
板状化するなど細部の退化が著しい。
また、分布はこんな感じ
http://www001.upp.so-net.ne.jp/wi12000/forGmap/html/hoko_nakahiro_type.htm では何に使ったのかという問題はあるが、矛を威信財とした例はほとんどないだろうね。 >>882
まんま言葉を返すけどさ、武器として使えない(武器には鉄を使う、大きすぎて使えない)ものを、
威信材でもなければ何のために作るんだよ?
反論するにしても、せめて意味を持たせてくれよ 副葬されるのはもっぱら剣なのだから、
威信材といえば剣。
威信材という言葉の定義にもよるけど、
銅矛を威信材でない別の表現で表すなら、
祭器でしょうな。 矛を持ち出したくせにそれが威信財であると説明できないマヌケのために説明しよう。
実はごく初期の倭国王墓では、矛も副葬されていた。
それが須玖岡本遺跡だ。
文献でいうと、イザナギが天沼矛で能古島(おのころ島)の国産みをしている。
つまり、紀元前においては、博多湾沿岸にいた倭国王は、矛も威信財的なものと捉えていた可能性がある。
ただし漢に倣ってすぐに剣だけになったけどね。 >>878
なるほど。
大きくして家臣に配ったわけですな。 >>885
>副葬されるのはもっぱら剣なのだから、
>威信材といえば剣。
あのお、甕棺墓時代より後の、箱式石棺墓から平型銅矛が
たくさん出ているんですが? >>889
>王ではなく将軍の墓?
そもそも、北部九州では、甕棺墓時代以降、明確な王墓がない
平原1号墓は副葬品から言えば王墓級だが、墳丘の大きさが
200年も前の三雲南小路遺跡よりも劣るし、同時代の吉備や出雲や丹波にも劣る
さらに、伊都国王墓の立地である三雲遺跡群の外にあるのも、伊都国王墓と見るのを
ためらわせる
平原1号墓以外、北部九州の三世紀の王墓候補はない 平原一号が(女)王墓だと認めるんだね。
卑弥呼政権は長かったから、前後に他の王墓がないのはむしろ当然だよ。
壹與は筑後か肥前の方にいたんだろうね。
だから糸島における王墓は平原ご最後。
ぴったりだな。 対してキナイコシは、ホケノ山がネック。
ホケノ山が存在する時点で、
長期政権の卑弥呼(に比定される箸墓)の治世中に
男将軍の墓があってアウト。
だからといって、
ホケノ山やら古い纏向古墳群を卑弥呼に比定すると、
海外交流遺物が皆無でアウト。
鉄器や海外土器やら舶載銅鏡など
海外交流物が乏しいことをカバーするために
三角縁が魏からの特注鏡と主張するなら、
その三角縁がホケノ山にすらない。
箸墓にあるはずと妄想するしかない。
ホケノ山が存在する時点で、
長期政権の卑弥呼(に比定される箸墓)の治世中に
男将軍の墓があって、やっぱりアウト。 対してキナイコシは、ホケノ山がネック。
ホケノ山には鉄鏃がある。
鉄鏃があるのだが、
その外の3世紀領土には、
なんと木鏃しか出ていない。
いくら地球温暖化対策のためのリサイクルシステムがあるといっても、
練習で試射する鉄鏃までは回収できない。
つまり
ホケノ山とは、外に鉄鏃が出る時代の古墳。
4世紀。
そのホケノ山に三角縁が無い。
だからそういうこと。 鉄鏃どころか骨鏃も無くて、
木鏃
木鏃
木鏃
木鏃
って、実用に耐えうるの?
答えてキナイコシ!!! 邪馬台国論争もそろそろ詰めなんじゃないか?
筑紫が弥生時代を通じて倭の王都であり、後に八咫の鏡などの文化とともに畿内に勢力を拡大した。
ならば、卑弥呼のいた弥生時代末期においても、倭の王都である邪馬台国は筑紫に決まっている。
掘っても掘っても何も出ない纒向、歴代王墓の中でもとびきりの豪華な副葬品の女王墓がある伊都。
結論は目に見えている。 >>892
>長期政権の卑弥呼(に比定される箸墓)の治世中に
>男将軍の墓があってアウト。
王の下に将軍がいることの何が問題なのかよく分からないんだが?
ホケノ山は小さくて、宮内庁も陵墓参考地にすらしてない
まあ、ケチを付けたい人なんだろうなとしか >>894
>って、実用に耐えうるの?
何が言いたいのかさっぱり分からないんだが?
実用に耐えないもの、つまり儀礼用だろ?
王の下には儀仗兵などの、儀礼用の人材、道具があるのが当然だと思うが?
その木の鏃、実測図見たことあるのか? 3世紀にまともな王墓もなく、14メートルを必死に一歩が36センチとかあり得ない設定をしてまで
径百歩と言わざるを得ない惨めで哀れな九州説がなんだって?
そもそも、伊都国も奴国も、邪馬台国とは別に書いてあるのに重ねて読むとか、どんだけ無理筋を
恥ずかしげもなく言い張ってるか、自説を客観視できないから本当に腹筋クラッシャーだわ! >>898
伊都国や奴国は国邑
投馬國や邪馬壹國は国邑の連合体で韓での馬韓、辰韓、弁韓のようなもの
これを理解出来ないと倭人伝は読み解けない。 >>896
で、キナイコシの想定する卑弥呼の墓は何処かな?
逃げてばかりで恥ずかしくないの? >>896
で、キナイコシの想定する卑弥呼の墓は何処かな?
逃げてばかりで恥ずかしくないの? 九州北部から水行二十日、水行十日、陸行一月までしておきながら、
まーだ九州北部にいるなんて、
ち ょ ー ウ ケ る w w w w >>902
で、キナイコシの想定する卑弥呼の墓は何処かな?
逃げてばかりで恥ずかしくないの 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方可四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方可三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日) >>899
>投馬國や邪馬壹國は国邑の連合体で韓での馬韓、辰韓、弁韓のようなもの
>これを理解出来ないと倭人伝は読み解けない。
何か根拠でもあって言ってるの? 九州説は、ただその場の思いつきで書いてるだけだから、
訊いても無駄だよ
そうじゃないというなら、ちゃんと根拠を示してね! >>906
考古学の限界だな
文字資料が全くなくて考古学だけなら、
宇治の平等院と似た寺が奥州平泉に出てきたから、
きっと平泉は宇治の支配下にあったと言いそうだww >>911
実際に平泉で平等院に似た寺院が発掘されてるが、そんなこと言ってる考古学者はいない >>909
>キナイコシ、必死w
この「キナイコシ」とか言ってるバカは誰? >>902
まず、文献学から入りましょうか
邪馬台国論争はここからです 平原は大きさよりも、盛大な祭祀跡の方が重要ですね
この時代の墓は大きさで比べるのは意味が無いですよ
それぞれの国々で様々な様相なのですから
ただ、墓が大きいとそれだけ人員や労力、財力もいるので、権力者ではあるのは間違いない
しかし、他の地域の権力者よりどちらが強いか?というのは単純に墓の大きさでは比べられない
そもそも"文化や思想"が違うからね
つまり、平原で比べるなら同じ銅鏡副葬文化圏内の墓とでなら話がわかる
ただ、大きさだけではなく、副葬品や祭祀状況等を鑑みなければならないが
北部九州説では倭国自体の範囲が狭いので、この弥生終末期には平原以上の墓は無い、となる
畿内説では、平原は伊都国王とするしかないでしょうから、卑弥呼の墓や存在の比定地には平原以上または同等の威信財の出土が必要となるでしょうね >>918
逃げ?
読み方は様々な説があり、どれも可能性は0ではないからね
通常の読み方ではたどり着けないから邪馬台国論争があるのだよ
ここが第一歩
行程論はすでに出尽くしてる状況
正解は誰にもわからん
つまり、考古学的状況を下地に置いていない行程論は意味が無い >>920
私は岡上さんではないですよ
知識量は彼みたいに豊富はありません
まだまだ若輩者なので
間違えられるのは嬉しいですが >>921
>読み方は様々な説があり、どれも可能性は0ではないからね
あんまり何度も同じこと書かせるなよ
9回2アウトランナーなし10点リードされてる状況で
「まだ勝負は決まってない」←まあね笑
「つまり同点だ」←は?
「今のはボールだろ!」←わかる
「つ誤審だからオレの勝ちだ」←は?
九州説はこんなのばっか >>924、>>925
>そんな文句前にも何度か見た
ていうか、九州説お得意の「コピペ」だから
というか、九州説って説を展開するってことができずに、
延々と同じことをコピペしてるだけだよな >>927
>該当しない例え話は詐欺の手口と一緒。
その前に、
確率「0.003%」と「87%」をともに「可能性は0ではない」と
同一視させようとする方が、詐話師のやり口だよ 確率のかの字もわかってない阿呆が
また愚にもつかない例え話をしてるな。 >>918
邪馬台国は魏志倭人伝というぶんけんからはじまっているのに、その文献を信頼できないと言って妄想に走ったのが畿内説。 >>931
伊都国と邪馬台国が別の国として書いてあるのに、
それを無視して
重ねて読むという「アクロバット」を主張している人間が何をいうかww 文献は何とでも読めて「可能性はゼロではない」と言い張れるもんね 考古学遺物、というか大規模遺跡という点で、3世紀の北部九州には見るべきものがない
まあ、比恵・那珂遺跡が当時の奴国の中心で栄えていたのは確かだが、
畿内様式の庄内式甕を作るなど、畿内の出先としての正確がはっきりしている
だから、考古学には頼らずに文献で、って言い出すんだよな どうやっても径百歩に足りず、
大きな鏡は出たけれど、それが「八咫鏡」とは無縁であることが
このスレで確認された平原1号墓がなんだって?
一歩36センチとか、バカすぎることを書いてたやつもいたなぁww 平原がなんだって?
3世紀にもなって鉄器ゼロの地域は
ムダ毛を処理できなくて
ムダ毛ぼうぼうの毛人の地
朝鮮半島で鉄を採掘してる
3世紀東夷伝世界で標準的な文明人である
倭人とは無関係 ひょっとして「毛人」連呼の人は、
頭髪の不自由な人で、髪の毛の多い人に含むところがあるのかな?
これからは、「頭髪の不自由な人」って読んであげるね! もう平原1号墓が卑弥呼の墓だっていう根拠がないじゃんw >>943
>もう平原1号墓が卑弥呼の墓だっていう根拠がないじゃんw
「もう」じゃなくて、「最初から」ないんだよ >>945
このスレも、もう少しで終わりだから、もっと積極的に書き込みに来てよ 平原1号墓は、大型内向花文鏡=八咫鏡説が否定されたら、
ただの地方有力者の墓だよな そもそも、ウィキペディアにまで間違いが書かれている勘違いが元凶なんだから >>834
外周を測るならまだ分かるけど、そもそも一々本当に計測するものなのか怪しいと思うんだけど。
外国の貴人の墓地を一々測定してるの? >>841
まあ要するに九州北部で良いんじゃない。
畿内であるとするなら、その時点で既に九州から畿内まで席巻している強国があったことになって、状況と矛盾するし。 >>950
>外周を測るならまだ分かるけど、そもそも一々本当に計測するものなのか怪しいと思うんだけど。
王を葬ったばかりの墓を一周してたらおかしいだろうに
遠めで見て、これくらいあるだろう、くらいの数値だと思うよ
径百歩が正確な実測値だとは思わない
ただ、それだけ大きなものを見渡せば、周りにあるものや人の大きさと比べて
これくらいだろうってのは見当がつくだろう
一周歩いて回って計ったなんていうのは、むしろトンデモだと思うぞ
>外国の貴人の墓地を一々測定してるの?
でかい墓だから、大きさまで特記されたってことだろ >>951
>まあ要するに九州北部で良いんじゃない。
九州っぽく見える情報は全部古いんだよ
後漢の光武帝への遣使や、倭国王帥升等の遣使のときの情報が書かれていると見ていい
書かれていないほうがおかしいし
>畿内であるとするなら、その時点で既に九州から畿内まで席巻している強国があったことになって、状況と矛盾するし。
「席巻している強国」
九州説の人は、征服、とか、支配、とかいう用語が好きなようだけれど、そんな状況だったら
「共立」ではなく、武力支配すればいい
そして、そのような状況はないんだから、矛盾はないんだよ
倭国乱に対応する考古学的事象は、高地性集落の消長というのは問題ないと思う
高地性集落の見られる範囲が「倭国乱」の範囲であり、「倭国の領域」を見積もる目安になる
北部九州から、中国、四国、近畿まで、高地性集落は見られるだろ?
この範囲が、乱のあとの収拾のために、宗教的権威を共立したのが卑弥呼なのだから、
この高地性集落の見られる「北部九州から、中国、四国、近畿」までの範囲内で、
王の都にふさわしい場所を探せばよいことになる
九州限定にする理由はないだろ? レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。