邪馬台国畿内説 Part273 [無断転載禁止]©2ch.net
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◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
(この項続く) ◆6−2(続き)
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
(この項続く) ◆7−2(続き)
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(この項続く) ◆7−3(続き)
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
(この項続く) ◆8−2(続き)
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9−1 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf ◆9−2 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11 本文のサマリー
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纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の値を示し(南2008)、桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南,今津ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法より、筆者は里程から如何程に南方であるか具体的に推計して倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことは、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。 ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。 ◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。 ◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など、遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に短里があったであろうか? 否、間違った情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される。
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 キチガイスレ主の根拠なしテンプレをいくら貼ろうが無駄 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
(この項続く) (続き)
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 家族に相手にされない認知症老人スレ主の唯一の居場所がこのスレ ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培と染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 勝手にストーリー作ったって何の説明にもならない
アホじじいの自己満足テンプレ ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。 ◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 ◆FAQ 41
Q:平原1号
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。
平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
(この項続く) (続き)
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉)
→1BV型式(3世紀中葉)
→1BW型式(3世紀後葉以降)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、三世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され(金原2011)ていること、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される。
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に語義を含意せずに用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、三世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、弁辰韓X期の文化圏である。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の時代」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間では…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の時代」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・烈曰:「 世有仁人,吾未之見。」(先賢行状王烈)
・発怒曰:「世有思婦病母者,豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
※これらは不特定者を指す例で、否定的文脈である。
「代々…」の用例:
世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
袁氏子孫世有名位、貴達至今。(袁氏世紀渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 まだがんばってるよw
こういう気持ち悪いアホのせいで畿内説=キチガイって思われるんだろうに
w 以上テンプレ ( >>30,34,37,39,43,67を除く )
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆FAQ50,56に追記 14年の歴史を閉じたイトーヨーカドー奈良店=10日、奈良市
http://www.nara-np.co.jp/photo/9dc9fac6277d6b59976d85628aacdb90.jpg
平成15年に開業、14年間にわたって地域に親しまれた大型ショッピングセンター、奈良市二条大路南1の「イトーヨーカドー奈良店」が10日、閉店した。
店内は終日、にぎわいを見せ、訪れた客からは「よくお世話になった店だから寂しい」と最後を惜しむ声が聞かれた。
閉店は通常より2時間早い午後8時。入り口付近で行われたセレモニーでは、吉川広店長が「再びにこの地に戻れるよう頑張る。
その際は温かい声で出迎えていただきたい」と感謝の思いを伝えた…
配信2017年9月12日
奈良新聞
http://www.nara-np.co.jp/20170912102952.html
どんどん寂れていく奈良市・・ヤマタイコクで村興し 頑張らなくちゃ! 6421 ◆q8leUXpsw. 2017/09/12(火) 06:05:40.18
> 3世紀に畿内に馬はいたと解釈してよいか。
可です。 炭素年代法
誤差と較正
年代測定を行う方は、試験所の結果に系統誤差やランダム誤差がないか確認しておくこと・
また、使用される暦年代較正プログラムについての確認も必要です。
これらについて一切公表が無いのが現状。 272の>>664
>>そして、一つの写本版本の差異発生率は、全写本版本数で割り算すればよいんだから、
もしも仮に100種類あったとすれば、「差異発生」率は、100で割って、0.005%位。<
>まず、この部分がおかしい。
全写本版本数で差異発生率が変動するのは明らかにおかしい。
つまり、どの版本においても差異発生率は0.5%だ。<
関係がない。
最初の話は、一人の人が見た一冊の魏志倭人伝本の中に「間違いがいくらでもある」、
という話であった筈だ。
そして、全写本版本での差異発生数が4000文字余りであるんだから、
仮に写本版本が全部で100種類あったとすれば、一冊の目の前の三国志には、平均して、
4000文字余りの100分の1(40文字余り)になるんであり、
だから、私の計算は、その40文字余りを総文字数の80万字で割り算して、
0.005%位とする事と同じ事をしている事になる。 >>75
全写本版本での差異発生数
というのがウソだね 「漢の委の奴の国王」
な わ
↑3段細切れ読み 根本的にまちがい!! イトまたはイドと読みます
金印は当然、政庁におかれた
皇帝の金印が地方の首長に下賜されるわけがない
印文のルールとは、二段国名が取られていたこと
三段国名の例があったら教えてもらいたい
ないだろ?? 畿内厨… 369 返信:日本@名無史さん[] 投稿日:2017/09/11(月) 10:20:16.26
>>326
「奴」の音読み「ド」は漢音(唐代の長安付近の言語由来)だから有り得ない。
時代錯誤も甚だしいわ。
時代としては中古音の「ノ」または上古音の「ナ」と読むほうが実情に即している。
↑詭弁!!
この問題、古代のシナ人が我が国をどう呼んでいたかに尽きる
リーベン(北京官話の現代シナ語の日本)
イ、イ、委だよ ポイントは
2000年前から、共通している そこがすごい魏志倭人伝
地名の7割が一致している そこがすごい魏志倭人伝
繰り返す
「漢の委の奴の国王」
な わ
↑3段細切れ読み 根本的にまちがい!! イトまたはイドと読みます
金印は当然、政庁におかれた
皇帝の金印が地方の首長に下賜されるわけがない
印文のルールとは、二段国名が取られていたこと
三段国名の例があったら教えてもらいたい
ないだろ?? 畿内厨… スレ主の推理はいいから学術書を示すべきである
👇
前スレ>>642 1 ◆q8leUXpsw. 2017/09/12(火) 06:05:40.18
Q 3世紀に畿内に馬はいたと解釈してよいか。
A 可です。 >>73=スレ主
公表されているなら、公表に基づき以下回答ください
Qランダムに選んだサンプル数はいくつ?
Qまた、暦年代較正は何に基いたか?
1、INTCAL データベース、
2、確率法(High-Probability Density Range Method)
3、交点法 (Intercept Method)
次に
Q古木効果(old wood effect)の可能性が考慮されているか? 272の673
>>そして、一つの写本版本の差異発生率は、全写本版本数で割り算すればよいんだから、 もしも仮に100種類あったとすれば、(一人の人の眼前の三国志での)「差異発生」率は、100で割って、0.005%位。<
>率直に言って少なくとも高校数学からやり直したほうがいい。版本数に関わらず差異発生率は一定である。
この場合、1版本あたりの差異発生率は
(4000/100)/(80万/100)×100=40/8000×100=0.5[%] <
上で「一人の人の眼前の三国志」という注釈を入れたように、
4000個余り、というのは、宋明清代に三国志の「全ての写本版本」において校勘になった差異文字数であり、
反論対象になった投稿は、その投稿子が眼前に見ている三国志の中に「間違いが多い」と言っていた事になるので、
写本版本総数を100冊と仮定して、
一冊の三国志内の「差異発生件確率」を概算して上げたんですよ。
と表記したほうがわかりやすいかな?あとソース。 272の>>673での忘れ物で、追記。
>と表記したほうがわかりやすいかな?あとソース。<
ソースは、Yahooでのhynna no papa(ハイエナとも自称)した人物で、
長崎人で、私より2歳年下で、若くは安本と親交?があって、強烈な反古田人間で、
後半生は、大和説に転向し、一室全部を文献収集の倉庫にしたらしく、
特に、三国志などの写本版本における校勘状況や反古田資料収集や偽書説にのめりこんで、
ホームページでも膨大な反古田キャンペーンを掲載し、
ここ数年は行方不明であり、かなりのアル中になっていたので、
現在まだ生存しているのか?も不明な人物。 272の>>675
>なお「奴」の上古音(漢頃の発音)は「ナ」と推定されている。よって
「委奴」は「ワナ」あるいは「ヰナ」である可能性が高い。<
古代中国でも(日本でも?)「漢字使用や文字選択の原則」は、
古田さんが当初から指摘された事だが、
「高句麗→下句麗」などの書き換えに象徴されるように、
相手側や対象の使用文字などを踏襲してそのままの記載をする場合と、
中国側での類似音韻文字や類似意味文字の選択に拠っての書き換えをしている場合があり、
その選択も、個人や時代や環境に拠って、いろんな選択をしている場合もあり、
だから、「音韻ルール」や「使用文字の差異」などには、絶対的な規定などなく、
確率的な論拠にしかならない。 272の>>718
>「南≠東」だから邪馬台国畿内説は"有り得ないと強く主張している人に聞くけど、
「東南≠東北」だから弥生銀座などの遺跡は奴國や伊都國ではないという主張には
どう反論するの? <
もう何十回も説明してあることだけども、
陳寿の行程記載方法の「出発+途中移動説明+到着」の(人類の常識的な)順次式の記載原則に拠って、
末盧國からの「東南」は(東北ではなく)出発方向説明であり、
奴國は、途中移動の動詞の記載がないから、側副傍線行程説明であり、
百里は短里であるから、二万戸の奴國の入り口まで(伊都國の東南)7〜8kmで、
日向峠の西の麓〜室見川の吉竹高木付近になり、
不彌國は、伊都国の東百里で藤崎西新町付近になり、
邪馬壹國は、不彌國のすぐ南であるから、
福岡平野中央部〜筑紫平野及びその周辺丘陵地付近になり、
だから、弥生銀座が邪馬壹國になり、
女王の都は、大野付近の安徳台になる。 >>73
このレスで一行罵倒荒らししてるのテンプレくんって証明しちゃったねw
コテ外し忘れたのかな?w 272の>>791
>隋書・北史「倭国の都はヤマト 魏志の邪馬台と同じ」 奈良なんだよなあ<
嘘を付くな。
「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」
どこにも「ヤマト」なんて書かれていないし、
「邪馬台」なんても書かれていない。 272の>>793
>皇国史観だからこそ「魏に朝貢してたのは九州の地方の王にすぎない!」と九州説をとる人もいれば
皇国史観だから「倭国を仕切って中国と交易した国は奈良の大和朝廷以外にはありえない!」と畿内説になる人もいる
まあどっちもアホだけどね<
卑弥呼を、「筑紫だ」、とする九州説は、
皇国史観の「大和天皇家が太古以来列島の盟主であった」という事に否定だから、
皇国史観の否定になる。
まあ、この男も、「南→東」の嘘つきダマシのサギシの仲間のアホなんだろうね。 272の>>799
>九州などあり得ない理由・・・<
また「南→東」の嘘つきダマシの・・・・大和説者の貼り付け宣伝ね。 >>89
神様が天皇家の祖先で、天孫降臨が史実で神武東征が史実で、ぜーんぶ実在の歴史だって
皇国史観そのものだよ
九州説・・・ 272の>>813
「南→東」などの嘘つきダマシのヤマトセツ者のバカ読みは、
見てるだけで笑いしか出ない。 272の>>818
>魏志倭人伝抜粋
又渡一海千餘里、至末廬國。有四千餘戸、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之。
東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
末廬國から東南陸行五百里に伊都國、そこから東南百里に奴國がある。
なお九州上陸して東南に進むと弥生銀座、伊都國比定地などから遠ざかってしまう模様。
「南≠東」を念仏のように唱え続けるのに、「東南≠東北」を無視するのはいかがなものか。<
もう何度も何度も説明済みの事を無視して、
同じ事を繰り返し書き続けるこの男の人間性は、いかがなものか。 272の>>823
飲尿説とかは、右翼皇国史観のインチキサギシの安本や桐原の・・・・偽書説スレでやれ 。 >>92
ヤマトも奈良もまったく関係無いじゃんww 272の>>831
「ぼくちゃんのつごうのわるいことはりゆうなんてないけどみとめない」
これが「南→東」などの嘘つきダマシの・・・・ヤマトセツだから、仕方ない 。 まず崇神が4世紀前半だと認めるか否か。
認めたなら、
@その60年ほど前にトヨという最高位の女性がいることに気づく。
Aその少し前に歴史上ヒミコという名前に最も近い最高位の女性がいることに気づく。
B神武東征とは女王国であったことをごまかすための大袈裟な記述だと気づく。
Cその「ヒミコ」の100年前がスサノオの時代であり帥升だと気づく。
D記紀は中華皇帝への朝貢を隠すため大幅に時代を古く変更したと気づく。
Eその「ヒミコ」の住んだのは葛城であり高天原があることに気づく。
F纏向遺跡はもう一つの天孫降臨ニギハヤヒの物部遺跡だと気づく。
G本居宣長は記紀がなぜとんでもない時代設定にしたのかとっくに気づいていたと気づく。
Hだからあえてヒミコは神功皇后であり朝貢したのは熊襲の女酋長という奇説をのべたのだと気付く。
I九州説自体が古代天皇の朝貢をあえて決定させないための虚構であると気づく。
また追加します。 272の>>838
>唐津や呼子に上陸して糸島に歩く訳がない。 南東× 湾内を横断するだけの事。
南東に佐賀を目的地にするなら伊万里に入るのが航海。<
詔書や金印や大量の魏帝の下賜品を持った魏使らの行程選択は、
安全最短が、絶対的な原則であり、
半島も對海國も一大國も国内陸行を選択しており、
渡海は、(循海岸水行のように)最小限であるから、
一大國からも島伝いの東松浦半島に向かう筈。 いいねぇ…
Q:神武は実在か否か。
A:神武は実在だがその時代が女王国であった。
これは古代史における地動説だ。
天才だね。 272の>>845
>記紀の3分の1が出雲関連で占める異常事態! やはり投馬は中古音「duma」だし。
上代日本語は特徴的に語頭に濁音がこないし。 投馬「*ヅマ」は出雲(いづも)やな。<
「南≠東北」であるから、×。 272の>>845
>記紀の3分の1が出雲関連で占める異常事態! やはり投馬は中古音「duma」だし。
上代日本語は特徴的に語頭に濁音がこないし。 投馬「*ヅマ」は出雲(いづも)やな。<
「南≠東北」であるから、×。 ほんと氏ねばいいのに。
しつこ過ぎ。
加古川在住、哀れな75歳。 272の>>846
>出雲の土器は主に九州の東部に広がってる
伊都国周辺にまでは来てない <
出雲の楽器である「陶塤」が、宗像付近からも出土している。 272の>>873
>だからなんで「捏造本」というゼロサム論になるんだよ。
書いてあることが1つでも間違ってるとすぐに「捏造本」になるおまえの頭が問題。
信憑性が何パーセントかで考えればいいのだ。 例えば、
魏志80% 記紀70% こんな風に考えれないのか。<
信頼性は、
魏志99%、
記紀半分以下。 >魏志99%
いやいや、方向なんて実にいい加減。
東を南と間違えてるしw 272の>>903
まぁ、「南→東」の嘘つきダマシのアホだからヤマト説なので、
やいやい言ってるな。 272の>>918
「南→東」などのような、嘘つきダマシの屁理屈言いが、皇国史観のヤクザヤマト説者。
対応してた読者も、教師も、大変だったであろう。
なぁ文部省よw。 >>81
1. そもそも1冊あたりの文字の平均差異発生率は版本数で変動しない。
よって一律に平均0.5%。
よって(「三国志の約80万字の内、文字の差異の存在が指摘されたのは、4000字余り。」が正しければ)倭人伝(約2000字)の中での差異発生文字数の平均は10字ということになる。 2世紀末、ヤマトの地が卑弥呼率いる女王国勢力に征圧された後、葛城、御所は誰の支配下に入ったかだな。 272の>>929
「南→東」などの嘘つきダマシの、
根拠のないオレ様説を考案しては さも事実であるかのように言って ドヤ顔 。
それが右翼皇国史観サギシのヤマト説 。 272の>>930
まぁ,ヤマトセツは、飲尿一升瓶造りに毒された皇国史観の・・・・右翼か病人だからな。
可哀想な生き物だと思ってみてやれ 。 272の>>934
「南→東」などの嘘つきダマシの、
根拠が無いことを平気で言うのが 、
ヤマト説。 272の>>950
>これがアリなら中国で見つかった三角縁も全部アリになる<
三角縁神獣鏡は、魏の都の洛陽から出土しないから、全部、
魏帝からの下賜鏡ではない事になる。
まあ、ヤマトセツは、「南→東」などの嘘つきダマシの自分にだけは、
異様に甘いから笑わせてくれる 。 272の>>956
>誰一人見たことない卑弥呼の墓、、、<
祇園山。
>誰一人見たことない卑弥呼の国内史書・・・<
松野氏姫氏系図。 >>106
魏志の信憑性は5%以下。
誰一人卑弥呼の墓を見た事はなく、誰一人日本史書上に卑弥呼の名を見た事さえもない。
記紀に載っている史実は間違いなく信憑性は高い。限りなく100%側に近い。 「邪馬台国畿内説 Part272」より
>660日本@名無史さん2017/09/12(火) 06:46:41.93
>>>173
>>魏志倭人伝にも間違いは多々見受けられるんだが <
>
>宋明清での三国志の写本版本群の考証校勘で、
>三国志の約80万字の内、文字の差異の存在が指摘されたのは、4000字余り。
>という事は、全写本版本の文字での「差異発生」率は、0.5%位。
>そして、一つの写本版本の差異発生率は、全写本版本数で割り算すればよいんだから、
>もしも仮に100種類あったとすれば、「差異発生」率は、100で割って、0.005%位。
>魏志倭人伝は約2000字であるから、倭人伝の中の間違いは0.1字、といういう事になる。
・これが本当だとしても、「全写本版本数で割り算すればよい」が誤り。全写本版本数で1写本版本あたりの差異発生率の平均は変動せず、当然約0.5%。
⇒よって魏志倭人伝(2000文字)において推定される差異発生文字数はその0.5%の10字、ということになる。数学的思考力に問題あり。
・原本に完全に忠実であったとしても信憑性は完全な史料は存在しないにもかかわらず、史料批判を完全に放棄している。 272の>>958
>金印はまぁ参考資料と言う程度だな <
国宝。
>それこそ全然無関係の所で見つかって運ばれてきましたとか言われても仕方ないわけだし<
細石神社の、現在の神職さんの「お父さん」まで伝えらえていた。
これで、全てを否定した!、とか喚き散らしてるヤマトセツのバカさ加減よ。 >>119
>祇園山。
勝手にテメーの中で確定するなよ。
松野氏姫氏系図っていつ書かれたのよ? 陶塤は、大規模な水稲栽培が行われていた河姆渡遺跡などの長江下流域由来だな
出雲、綾羅木郷周辺(下関)、丹後に集中的に出ている
富山の縄文時代中期の桜町遺跡は河姆渡遺跡の建築技法と共通性がある 「委の奴国王」読みは、倭人伝により否定される。倭人伝には
女王
伊都国王
狗奴国王
の三人の王しか記されていない。「奴国王」など存在しないのである。
以上によって得られる帰結は以下である。
金印の印文は「漢の委奴の国王」という二段読みしかない。 272の>>960
>新唐書が参考になる 600年の遣隋使のアマタラシヒコは用明天皇だと書いている <
書紀は、「600年の遣隋使」があったなんて書いていないし、
用明が遣隋使だとも書いていないし、
「アマタラシヒコ」ではなく、「曰目多利思比孤」だし、
ようするに、書紀もこの投稿子も、「南→東」などの嘘つきダマシと同じく、嘘つきダマシのサギシ。
>用明は直前に死んでるので、ワカミタフリ(わかんどおり=皇太子)である聖徳太子が
父の名で書いたのだろう
この時点で朝廷が分裂してる(聖徳太子は用明の後の天皇を認めていない)ことがわかる <
史料事実とは全く合わないから、この投稿子の分裂幻覚の妄想にしかならない。
>>7世紀の倭は混乱の時代<
この投稿子の頭の中は、分裂幻覚の妄想の時代。 「邪馬台国畿内説 Part272」より
>629日本@名無史さん2017/09/12(火) 05:05:12.39>>646
>>>139
>>「畿内は沼地」は唐古鍵遺跡、纏向遺跡、東奈良遺跡など国内最大規模の遺跡が出土しており成り立たない。
>もし畿内も沼地とするならば出雲も筑紫も沼地になってしまう。
>なぜここまで「畿内僻地説」に固執するのだろうね? <
>
>この大和説の男も、「奈良盆地内の大和側流域は沼地だった」説を、
>「畿内は沼地」説に摩り替える嘘付きダマシをして、
>反大和説者を誹謗しているね。
>
>「南→東」と同じパターンだね。
ワイが投稿した「邪馬台国畿内説 Part272」の139の元の文は
「>>89
「畿内は沼地」は唐古鍵遺跡、纏向遺跡、東奈良遺跡など国内最大規模の遺跡が出土しており成り立たない。
もし畿内も沼地とするならば出雲も筑紫も沼地になってしまう。
なぜここまで「畿内僻地説」に固執するのだろうね?
少なくとも畿内全体が沼地だということは考古学的に有り得ない。もし沼地ならば唐古・鍵遺跡、纏向遺跡、東奈良遺跡などの
調査結果は捏造ということになってしまう。」である。
このとき89は最終行において、「畿内は京都も大阪も奈良も、沼地であった。」とはっきり投稿しており、139の俺は纏向・唐古鍵やその他の巨大な遺跡の例を提示して「畿内は沼地ではない」と反論しただけであり、
正しく引用できていない。仮に「奈良盆地内の大和側流域は沼地だった」説だったとしても纏向遺跡・唐古鍵遺跡・坪井遺跡によって否定される。
また誹謗と指摘しているようだが、どこにも反邪馬台国大和説を誹謗するような文言は見当たらない。もしこの反論を誹謗と解釈しているのなら、これは「言論統制」に他ならない。 272の>>961
>毎年のように帯方郡と行き来しているのに張政が魏が滅びてる266年まで滞在し、
これを送ったのが諸問題解決で繁栄した、壱與だというのは信じられない。<
陳寿は、卑弥呼亡き後、
「更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。
復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。
政等以檄告喩壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。
因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。<
の記録を見た事になるから、
張政は、266年まで滞在していた。
>狗奴国との紛争も解決とは言っていないし、張政は嘘つきである。<
この投稿子は、嘘つきである。
>266年以前に1〜2年の滞在で張政は帰国し、壱與は滅びている。 晋への朝貢は別国。<
晋書にも梁書にも、壹與の後も、倭國の遣使がすっと続いていた事を記載している。 >>71
>> 3世紀に畿内に馬はいたと解釈してよいか。
>
>可です。
スレ主の非常識な狂気! >>112
>2世紀末、ヤマトの地が卑弥呼率いる女王国勢力に征圧された後、葛城、御所は誰の支配下に入ったかだな。
2世紀前半頃から葛城、御所に王がいた。
この王権を制圧したは4世紀初頭の崇神天皇。
この制圧された側の王権、神々は「大物主」と呼ばれるようになった。 >>100
>A:神武は実在だがその時代が女王国であった。
卑弥呼共立の直前、倭国大乱で神武は筑紫邪馬台国を出た。
だから神武の視点から描かれている記紀には卑弥呼が登場しない。
記紀の舞台は、しばらくの間は奈良盆地の狭い地方勢力の描写になる。 馬の初現と崇神時代のソナカシチの来日の時期が合う。
天皇へのプレゼントとして連れて来たのだろう。
ずばり高句麗が楽浪を滅ぼしたAD313年であろう。
記紀にはそれが書けなかった。
崇神の時代を特定されてしまうからだ。
崇神の時代が4世紀前半と特定されてしまえばトヨやヒミコがばれてしまう。
そして帥升=スサノオという一番隠したかったことがばれてしまう。 >>122
細石神社の、現在の神職さんの「お父さん」から古田さんが
金印は江戸時代までは細石神社の宝物だったと聞いたの? >>134
>卑弥呼共立の直前、倭国大乱で神武は筑紫邪馬台国を出た。
それ自体が間違い。
神武の先妻、アヒラツヒメの痕跡が宮崎県日南市にしかない。
筑紫なんて何も関係ない、出しゃばるな。
>神武の視点から描かれている記紀には卑弥呼が登場しない。
登場してるのにお前が気付いてないだけ、出しゃばるな。 本居宣長、鶴峰戊申、那珂通世が真剣に卑弥呼は誰か考えたあげく、
神功皇后だとするわけがない。
神功皇后の時代が大きく引き伸ばされトンデモない時代設定であることは誰でも分る。
彼らは記紀編纂者が時代を大きくずらしたその意図を見抜き、
その心理を理解し、なおかつ自分たちもそれに同調した。
真実を知らない方がよほど幸せなこともある。
しかし現代の日本人は中国へのコンプレックスなど微塵も持ってない。
明治人が日清戦争で取っ払ってくれた。
だからかつて日本が中国に朝貢してたことも余裕で受け止めれる。
そういう時代だからあえて言おう。
帥升とはスサノオだ。
つまり日本の歴史は後漢・安帝への土下座から始まった。
卑弥呼とはヒメ踏鞴だ。神武は大王ではない。
邪馬台国は葛城だ。
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
崇神(4世紀初〜前) 272の>>964
>キュウシュウセツ「中国で見つかった三角縁?出所も何にもわからない物なんて成分が中国製だと判明しても参考にもならねー!」
畿内説「そうだな」 <
洛陽からの出土は0で、魏の敵国の呉こ付近に沢山見られるものだから。
>キュウシュウセツ「金印は絶対にキュウシュウの物で!(?)伊都国の印綬で!(??)卑弥呼の持ち物だ!(???)だからキュウシュウがヤマタイコクダァアア!(????)」<
金印は一つだけのもので、大和からは発見されたのではなく、筑紫で発見された事が殆ど100%であり。
国宝にもなったから。
まぁ、金印を見ても、「南→東」の嘘つきダマシの資料事実の改竄を見ても、
ヤマトセツのバカぶりが浮き彫りになって、大変面白いなw 。 「ヒコ」系国家・・・対馬、壱岐、狗奴国(以上倭人伝より)、秦王国(隋書アマタラシヒコ)
対馬、壱岐と連携した狗奴国が邪馬台国を倒し、後に秦王国を作り隋と結んだ
「ヒコ」を尊称とする秦王国は「スメラミコト」を大王号とする「日本」に倒され、「ヒコ」系国の歴史を奪われた
「スメラミコト」はまったくそれまでの倭王家のネーミングセンスとは別モノ
旧唐書「日本は倭の別種」の通り
使用言語からして違う民族 272の>>965
>ザラコクが魏から鏡を貰ったのは景初二年だから景初三年記銘の 三角縁は下賜鏡ではない
卑弥呼の下賜された鏡を見た呉の鏡師が作ったなんて抜かしているが
それなら何で三年四年記銘の鏡がある?<
渡来の呉系の楽浪鏡師たちが、「三年四年記銘の鏡」を造ったから。
>ザラコクの言い分だと二年記銘じゃなきゃおかしいだろ<
渡来の呉系の楽浪鏡師が卑弥呼への鏡を知ったのは、景初3年以後であった事になるから。
>そもそもザラコクの言うように尚方作の方格規矩鏡を見たんなら
それで何で三角縁神獣鏡を作り出すんだ?<
魏帝からの鏡を卑弥呼から分けて貰えない地方の豪族には、
「景初」記名鏡を造って上げた方が喜ぶだろう、と考えたから。
>日本に来た呉の鏡師なんていなかったんだろ<
呉からの東である事を示す「海東」鏡がある事や、
魏の敵の公孫氏の楽浪にも呉の鏡師が沢山来ていて、戦乱で逃げなければならなかった事や、
列島に「呉の年号」鏡や、呉の神獣鏡や三角縁が沢山があったから。
>魏の年号のある三角縁は卑弥呼が魏から貰った鏡でスッキリ説明つくだろ<
三角縁神獣鏡は、洛陽から出土せず、魏の敵国であった呉付近ばかりから出土するから。 覇権の流れ
邪馬台国→ヒコ・オオキミ系国家(=前方後円墳勢力)→スメラミコト国家(=アンチ前方後円墳勢力)
ワカタケルはオオキミを名乗っていたのでヒコ系国家の流れ 倭人伝で「ヒコ」を官とする国は対馬、壱岐、狗奴国
ヒコはヒク=船を引くから来たと思われる
つまり海洋民族
だとすれば狗奴国は熊本だ
熊本から西に直接中国南朝へいくルートがあった
これは朝鮮半島ルートよりも高度な海洋技術がないと行けない
倭の五王も南朝と交流
=狗奴国の後継国家
国内外の「オオキミ」号を調べれば同一王統の継続が見える
ワカタケルの鉄剣にも「オオキミ」
隋書の記述にも「オオキミ」
ワカタケル〜アマタラシヒコまで同一王統は確定
ヒコ・オオキミ系国家はスメラミコト系国家に壬申の乱で負けて国号まで「日本」に変わる
ここで完全に王統が変わってる >>144
>ヒコはヒク=船を引くから来たと思われる
>つまり海洋民族
>だとすれば狗奴国は熊本だ
なんでいきなり熊本やねんw >>108
その動画の考え方好きだけど、伊都国その位置だときっと海の中になるぞ。伊万里湾上陸から無理やり当てはめただけ。 >>145
狗奴国=河内でもいいよ
ただしだとすると倭人伝の魏の使者は大阪湾を通らずに奈良に入ったということになる
日本海ルートか? 272の>>978
まぁ、「南→東」などの嘘つきダマシの妄想を並べ立ててると、
それだけでヤマトに邪馬台国が現れるという謎のカルト教団だから仕方ない 。 272の>>977
>その後は、 拝仮倭王 并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 答謝詔恩 と続く
240年にも鏡をもらってることがわかる 鏡は238年に百枚 240年に何枚か貰ってたということだね<
ならんよ。
景初三年は、喪に服すから慶賀行事を1年間避け、
翌年の正始元年に 、「太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國」を実行したんだよ。 272の>>989
>いや違う 238年には238年でいくつかの品を渡してる その中に銅鏡も入ってる
240年に改めて金印を渡すときにいっしょに鏡も渡してる
つまり鏡は二度に渡って渡してる <
いや違う。
明帝の詔書の後での最初の記載が、正始元年の記載であり、
其四年の時も、「
「倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口、倭錦、絳青糸兼、緜衣、帛布、丹木、hu、短弓矢。
掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬」
のように、遣使の記録に引き続いて印綬の記載がある。
だから、正始元年は、景初二年の遣使の対しての「印綬」や「下賜」の実行であり、
銅鏡の下賜も一回。 『じゃん』
神奈川辺りの方言だよ、ちなみに、もれ(仮)は川崎に住んでいる
『神奈川 方言 じゃん』 >>150
>>151
だからそういうのは中国史書の専門家に聞けってw
その辺の中国人の論文も探せばあるだろ さらに詳しく説明すると
川崎市の川崎区というところ ウラシマン、どこかの国の王子となっていない?
『松傾』? 侍女なのか、何なのかわからないけど、
・・・三人いるような設定? >>82
訂正。hyena no papaの間違い。 『竹生嶋』
と書かれたモノの画像が貼り付けられたことがあったでしょ?
偶然? キュウリのような葉、葱の華・・・その他
家の先祖の写真みたいなんだけど、
子供?制服のようなものを着ているけど、
軍人だったわけでもないみたいだし この辺り、関係の話だと思うんだけど
『イチキシマヒメ』 >>154
>>150,151 で正解
by中国史書の専門家 あの写真も松の木?モミの木?
それとオジギソウ、シダ類、アイリス・・・笹・・・
そのような植物が写っていたり
説明不要みたいな話なのかな テンプレートを考えた狂人は、ただ、狂っているだけではなくて、知識が、幼児並だね。。。。 >>108
>>(信頼性)魏志99% 、ヤマト説半分以下<
>いやいや、方向なんて実にいい加減。 東を南と間違えてるしw<
いやいや、
魏使らは、当然漢代末に再収集注釈を入れられた周髀算経を知っているし、だから、
「日の入り日の出の8尺棒などの影端同士を結んで東西を決め、
それに直交する方向で南北を決める」
事を知っており、「南を東」に間違える筈がない。 別に関西弁でも何でも良いんだけど
もしかして本物だった?
伊達郡川俣町・・・というところがあって
むかーし、その周辺に住んでいた?
山があって >>170
>「日の入り日の出の8尺棒などの影端同士を結んで東西を決め、
そんな面倒臭い事するわけないだろド阿保。 上の名前は、わかっていると思うから書かないけど
▢▢力夫氏 画像
棒のようなものを持っているでしょ
『ひのきのぼう』? >>168
時系列に整理すると
>>150,>>151が正解でしょうね。
都まで行かずに帯方郡で処理されてますしね。 後漢書では印かんもらったことしか書いてないけど
交流を通じて金具とかもらったと推測されてるからね
倭人伝の制詔の他にも後でもらってるだろう 推測も何も、後漢からもらったものの一部は伊都国の王墓から出土しているよ。
三雲南小路遺跡の出土品リストでも眺めると良い。 家には凄い刀があったと言っていたんだけど、
何の刀だったんだろう >>180
うーん、これは日本語能力が足りてない人だね 応神が5世紀前後は定点、おそらく元年が390年。
そして崇神は4世紀前半、これもほぼ定点。
アマテラス、スサノオは崇神の15代前なので計算上は2世紀。
文字がすでにあったし、原の辻遺跡で楽浪の文物と出雲土器が同時に出てる状況は、
出雲人が積極的に大陸文化を摂取しようとした証拠だし、
干支、歴も知ってた可能性が高い。
アマテラス、スサノオは実在の人物が神話にされたのでしょう。
スサノオの実像は迦毛大御神(かものおおみかみ)だと思われます。
古事記で大御神とつく人物は3人。
伊邪那岐大御神、天照大御神、迦毛大御神です。
迦毛大御神ことアジスキタカヒコネは高天原で剣を持って暴れてます。
スサノオですね。
そして住んでいたのは葛城の高天原です。
日本最古の高鴨神社で迦毛大御神とともに「対」で祀られてるのがシタテルヒメ(高姫)。
この女性がアマテラスの原像。
実際には迦毛大御神=スサノオの「妹」でアメノワカヒコという夫がいたことになります。
アマテラスが独身で弟があり別名オオヒルメという設定は卑弥呼を意識して作られたことが分かります。
大和朝廷の前身の最高神が自ら渡海して安帝に朝貢した事を潤色する為です。 「神様の真似なんてしているから、こんな事になってしまった」
あらひとがみ?このような書き込みがあったでしょ、数年前の△スレ >>11
>1. そもそも1冊あたりの文字の平均差異発生率は版本数で変動しない。 よって一律に平均0.5%。
よって(「三国志の約80万字の内、文字の差異の存在が指摘されたのは、4000字余り。」が正しければ)
倭人伝(約2000字)の中での差異発生文字数の平均は10字ということになる。<
何アホ言ってんだい?。
「4000字余り」というのは、宋明清代の校勘学者が、
宋明清代に存在した三国志の「全写本版本」で調べて、「差異」の存在を認めて校勘した文字数であり、
一冊の三国志本ではないんだよ。
だから、1冊の写本版本での差異発生平均数は、存在確認した写本版本数で割り算をしなければならない訳で、
もしも、存在確認した写本版本数が100冊であったんなら、
1冊の本での差異発生文字数は、4000字余りを100冊で割り算をしなければならないのであり、
三国志一冊当たりでは、40字になり、
80万字の40字は0.005%になり、
魏志倭人伝の2000字の中では、写本版本での差異や過誤発生文字数は、0.1文字になってしまう事になる。 >>185
で、そいつは何冊何文字調べたんだ?
証拠付きでどうぞ >>112
>2世紀末、ヤマトの地が卑弥呼率いる女王国勢力に征圧された後、
葛城、御所は誰の支配下に入ったかだな。<
「南≠東」に拠って×。 >>187
又聞きをトンデモ我流解釈するのがザラコクの常 卑弥呼って姫巫女の侮蔑名でしょう?
本当に一人の事を指すの? >>185
もし三国志約80万字中、約4000字もの差異発生文字数があるのが正しかったとしても、
1版本数あたりの差異発生率が0.05%は数学的に誤り。
特に難しいことは言っていない。
前提条件:三国志の総文字数:約80万文字、三国志の総差異発生文字数:約4000文字
仮定条件:写本版本数:約100冊。
三国志(約80万字)は仮定条件下での
一冊あたりの平均文字数は
800000[字]/100[種類]=約8000字。
三国志(約80万字)の総差異発生文字数は約4000字だから
仮定条件下での一冊あたりの平均差異発生文字数は
4000[字]/100[種類]=40[字]
∴版本数一冊あたりの差異発生率は40[字]/8000[字]×100=0.5[%]
まあこんなことしなくても写本版本数の大小で1版本数あたりの文字差異発生率が変動しないというのは、自明だと思うけどね。 >>120
>魏志の信憑性は5%以下。<
魏志の信頼性は99.5%以上。
>誰一人卑弥呼の墓を見た事はなく、誰一人日本史書上に卑弥呼の名を見た事さえもない。<
世界史上でまれに見る漢字記録国家の中国の
、同時代の魏使らの実地での見聞計測の記録が元になっており、
客観性と信頼性が非常に高い。
>記紀に載っている史実は間違いなく信憑性は高い。限りなく100%側に近い。<
はるか後代に、倭國の存在や歴史を抹殺盗用造作を意図した主観的な記紀は、
小説と同じく半分×書であり、信頼性は、半分以下である。 私が編纂、書いた本や書を読んで勉強したの?
と思っている人もいるだろう
私が持ってきた書でも可
日本に持ち帰った、持ってきた本や書 >>197
だから中国人は南蛮の女帝を卑弥呼(卑しき広く知られた子)と呼んだんだろう?
であれば、それは一人の事を指すのかという話 >>197
だから耳で聞いて何とか漢字にしたんだろ ゆるがない九州説、吹けば飛ぶような大和説
勝負あったなw 天照様は言うに及ばず豊玉姫の伝承など日本には姫巫女伝承が数多く残っている
卑弥呼が一人の人物を指したものに思えないんだけれど 数年前の、とあるスレ
ワニさん?が〜と言っている人がいたけど、
何だったんだろう
ワニさんだったのか!とか 「どうした聖人でも殺したのかw」
「親戚でも殺されたのか」と言っている人もいた なぜ知っているのか?なんだよ
もれ(仮)が書き込みをした後
「これからは武道だからな」
「ウダウダ、ウダウダしている」このような書き込み 王仁 和邇 ワニ?
確か、そのようなことを言っていた、どれなんだろう >>121
>・これが本当だとしても、「全写本版本数で割り算すればよい」が誤り。<
何を考えてんだい?。
始めに「三国志や倭人伝には間違いが沢山ある」と言った投稿子は、
当然、自分の見ている版本の倭人伝の中に「間違いが沢山ある」と言っているのであり、
見てもいない他の版本に「間違いがどれ位あるのか?」など、全く知らんし判らんではないか。
しかし、私が挙げた4000字余りという数字は、
宋明清代に校勘に上がった全写本版本での差異文字の総数であり、
だから、一つの版本内での平均差異発生は、
写本版本数で割り算しなければならないんだよ。
>全写本版本数で1写本版本あたりの差異発生率の平均は変動せず、当然約0.5%。<
判っていないアホだねえ。
写本版本が違えば、差異があったとしても、別の文字であった、という事は、
幾らでも起こり得るんだよ。
>⇒よって魏志倭人伝(2000文字)において推定される差異発生文字数はその0.5%の10字、ということになる。
数学的思考力に問題あり。<
この男の思考力に問題あり。
例えば、10冊の版本全部で合計5個の文字差異があったとしても、その中の一冊に、文字差異が5個ある事にはならない。
>・原本に完全に忠実であったとしても信憑性は完全な史料は存在しないにもかかわらず、史料批判を完全に放棄している。<
史料の信頼性の確認の史料批判は、古田さんや古賀さんらが、常々おっしゃっておられた事であり、
皇国史観という思想宗教的な結論先にありきの「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者が、
全く実行しない事。 >>195 は撤回する。
80万字を全版本数総文字数だと誤解していた。 >>209
[https://blogs.yahoo.co.jp/longwestlonghigh/65967556.html]
1.「三国志のおよそ80万字」ですが、これは百衲本『三国志』の本
の厚さから極めて乱暴に弾き出した数字で、どれくらい正鵠を得てい
るのか、出した私にも確としたことは言えません。40万文字かも知れ
ないし、160万文字かも知れません。兎に角何らかの数字を持ちだし
て話をしたかったので、こういう数字の出し方をしてみたまでです。
2.「宋代〜清代の校勘に置いて」という表現は正しくありません。校勘
をしたのは張元濟という清末から中華民国にかけての人です。
3.「沢山の写本版本間で差異があった文字例数が4000字余りであっ
たのであり」というのも正しくありません。張元濟が行った校勘は自身
が編纂した「百衲本」(宋代の紹煕刊本・紹興刊本)と、清代の「武英殿
版」との間での校勘です。私は最初、諸版本間の校勘がなされたものだ
と理解していたのですが、数年前の寝太郎(?)さんとの議論の中で調べ直
しましたら、確かに張元濟は何種類かの版本を用いているのですが、約4
600箇所(ザラさんが4000字余りと言った数字)という異同の数は、あ
くまでも「宋本=百衲本」と「武英殿版」との間のものであり、その他の
刊本間に見える異同を含めると、もっと多くなります。
4.「元になったのは、宋代〜清代に残っていた写本や版本群だよ」の「写
本」というのも間違いで、張元濟が『百衲本校勘記』に用いたもので版本
以外のものは、中国西域から出土した「晉抄本」と言われる古写本ですが
、ザラさんはこれを『三国志』の写本とは認めていません。 >>124
>>祇園山。<
>勝手にテメーの中で確定するなよ。<
「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」の説明を満たせる列島唯一の墓。
>松野氏姫氏系図っていつ書かれたのよ?<
当然、断続しながら、呉王夫差の後から、(関ケ原で負けた宇喜多家の家来であったようだから)江戸時代の初期まで。 >>125
>陶塤は、大規模な水稲栽培が行われていた河姆渡遺跡などの長江下流域由来だな
出雲、綾羅木郷周辺(下関)、丹後に集中的に出ている
富山の縄文時代中期の桜町遺跡は河姆渡遺跡の建築技法と共通性がある <
情報提供、有難うございます。 >>77
後漢書に
建武中元二年倭奴國奉貢朝賀…(建武中元二年倭奴国が朝貢し…)
とあるから金印は少なくても倭奴国に対して与えられたんじゃないの
委奴国じゃなくて
それに倭の中に奴国があるなら
漢の倭の奴の国王という表記になっても別に不思議じゃないと思うけどな
使人自稱大夫倭國之…(倭国の使いは自ら倭国の大夫と自称し…)
とあるから漢は日本のことを倭国と認識していたわけだし >>129
>ワイが投稿した「邪馬台国畿内説 Part272」の139の元の文は 「>>89・・・<
私は、「邪馬台国畿内説 Part272の139」の投稿文を読んで、それに対する感想を書いているのであり、
「>>89」の投稿は、見ておりません。
>仮に「奈良盆地内の大和側流域は沼地だった」説だったとしても纏向遺跡・唐古鍵遺跡・坪井遺跡によって否定される。
また誹謗と指摘しているようだが、どこにも反邪馬台国大和説を誹謗するような文言は見当たらない。
もしこの反論を誹謗と解釈しているのなら、これは「言論統制」に他ならない。<
「なぜここまで「畿内僻地説」に固執するのだろうね?」という文言が、
「畿内は僻地ではなく首都圏である」という(嘘つきダマシの)大和説を、
肯定宣伝する発言になっているからです。 >>200
卑弥呼の発音はピミカだったらしいじゃないか。
日向だったんじゃないか?
王宮が筑紫の日向の伊都国高祖宮ならピッタリだよ。
やはり伊都国が卑弥呼の都だな。 >>134
>>A:神武は実在だがその時代が女王国であった。<
>卑弥呼共立の直前、倭国大乱で神武は筑紫邪馬台国を出た。<
神武の大和での即位は、
二中歴の説明での、517−39−569×2=−660の計算に拠って逆算すれば、
紀元前91年頃になる。 >>136
>細石神社の、現在の神職さんの「お父さん」から古田さんが
金印は江戸時代までは細石神社の宝物だったと聞いたの?<
いや、
現在の神職さんが、現在の神職さんの「お父さん」から聞かれた話を、
古田さんらのグループのどなたか?が、現在の神職さんから聞かれた、
という話であった、と思うよ。 口伝は眉唾?
稗田阿礼の口伝が基の古事記は眉唾?
日本書紀は眉唾?
1784年に金印は見つかったとされるから220年くらい前の出来事
一世25年として計算して7〜8代前の出来事だからな
細石神社にあったものが無くなったとすると当神社では大事件
伝承されててもおかしくないな。 >>134
>神武の先妻、アヒラツヒメの痕跡が宮崎県日南市にしかない。
筑紫なんて何も関係ない、出しゃばるな。<
五瀬や神武らは、筑紫の「岡田宮」に立ち寄るルートを採っており、
宮崎からの東征では起こり得ない立ち寄りであり。
新唐書は、筑紫城→大和州の移動を主張しており、
宮崎出発であれば、一旦宇佐まで一旦「北上」していているから「東征」にはならないし、
大和へも「東北征」になってしまい、
五瀬やナルタ姫や他の神武ら兄弟らの神社が糸島付近に沢山ある事が説明が付かず、
だから、五瀬や神武らは、生まれ故郷の宮崎から一旦筑紫城に移っていて、
その筑紫城でうだつが上がらずで、「猶東に行かむ」として、
東征したんだろう、という事になる。 >>215
「僻地ではない」は「首都圏である」の十分条件であり、必要条件ではない。
よって
「首都圏である」⇒「僻地ではない」は成り立つが、
「僻地ではない」⇒「首都圏である」は成り立たない。
確かに「僻地」の対義語は「都会」だが、「僻地でない」からといって必ずしも「首都圏になる」わけではない。 >>224を訂正
誤)「僻地ではない」は「首都圏である」の十分条件であり、必要条件ではない。
正)「僻地ではない」は「首都圏である」の必要条件であり、十分条件ではない。 >>148
>狗奴国=河内でもいいよ
ただしだとすると倭人伝の魏の使者は大阪湾を通らずに奈良に入ったということになる
日本海ルートか?<
「南≠東」だから×だよ。 >>123 >>126 >>196
>誰一人卑弥呼の墓を見た事はなく、誰一人日本史書上に卑弥呼の名を見た事さえもない。
これなのに魏志は99.5%事実とか馬鹿かと。
幽霊を信じるレベル。 >>172
>>「日の入り日の出の8尺棒などの影端同士を結んで東西を決め、<
>そんな面倒臭い事するわけないだろド阿保<
そりゃ、大体でも判れば、その判断で記録に記載してもよいが、
もしも、大きく間違えた事が、上司や皇帝にバレれば、当然処罰されるよ。 >>228
人にレスして誤魔化さなくていいから下に答えてみろよ。
>誰一人卑弥呼の墓を見た事はなく、誰一人日本史書上に卑弥呼の名を見た事さえもない。
これなのに魏志は99.5%事実とか馬鹿かと。
幽霊を信じるレベル。 「これからは武道だからな」
銃や刀など、
武器を持たない桃太郎に通じるものがある 畿内説 ボロ ボロ
九州説の論客どもが痛めつけてるな
記紀で逃げるしかないが、記紀にも精通した九州説の奴いるし
困ったもんだ 「ウダウダ、ウダウダ」
なぜか忍者漫画と同じような話
荒・・・ナギ?海の話? 老婆談・・・、
詳しいことはわからないけど、本物だったのかな
親戚のおばさんなんかも同じような事を言っているよ
と言っているし、何だったんだろう
家に凄い刀があっんだけど・・・
畳や床下の土まで掘り起こされていて 詳しいことは、わからないけど、
デスラー?と同じようなキャラでしょ 金印細石神社原所有者説は古田説にかぶれた現代人によるデマ 邪馬台国の話ではないとしても、
何の話なんだろう
りゅーま、りょーま?
いたような・・・という事を言っていたり
老婆は二本松のほうの生まれ、家は少し違うところ むかし住んでいたというところ
川俣町でしょ?
奈良の大和、高市郡?に、
ちなむと書いてあったり >>235
細石神社に金印があった謂われが説明できなかったからじゃない
何で細石神社に金印があったんだよと聞かれても答えられなかった
自分家のものだと説明できなかった。 東、西福沢・・・
たしか、そこの周辺に住んでいたんだけど どのような刀なのかはわからないけど、
凄い刀があった >>242
なんで神主は学会でも記者会でもなく、知り合いに伝えるだけなんだw
こんなヨタ信じるのはバカだけだろ >>187
>で、そいつは何冊何文字調べたんだ? 証拠付きでどうぞ<
ハイエナの説明では、
清代の校勘学者の校勘一覧のようなものがあって、それに合計4000余りが書かれてあって、
ハイエナも、それを数えたような話であったぞ。
また、三国志全体での80万字は、
ページ数の判った巻の1頁の文字数を数えて、
「その巻の頁数」や厚みを測って」、
三国志の全巻の厚みを測って、それが、「その巻」の何倍か?で 概算したような話であったぞ。
ハイエナは、ホームページを造っていて、
自分の説に不利になるのか?には関係なく、何でも書き込む癖があり、
「乍A乍B」の構文例、という大和説に不利になる表や、
「安本の電話受けのお嬢さんの応答記録」のメモを提示してしまったりして、
古田さんを騙した桐原詐欺師と安本が、既に打ち合わせが出来ていた、
という事になるメモまでバラしてしまっていたよ。
だから、ハイエナのホームページを探したら、載っているだろう、と思うよ。 >>242
さらに盗んでおいて志賀島に埋めたのは何でだろう >>245
誰にも信じて貰えなかったからだろ、証拠もないし
じゃあ何で細石神社に金印があったんだよと聞かれても答えられないからな。 『松傾』
龍宮が何やら〜というような事が書いてない?
そういうところに住んでいたのかな? >>248
志賀島では埋まっていた場所が見つかっていない
埋まっていたとの話は作り話だな。 細石神社に金印があったのなら、日本書紀書いてる時に言えよw 小手姫の像
その周辺に住んでいたと言っているw
蚕を飼い機織りをしていて >>252
朝廷で日本書紀書が作られてるときに庶民が知るはずもないし
細石神社に金印があるなんて教えたら朝廷に取り上げられるなw >>194
>卑弥呼って姫巫女の侮蔑名でしょう? 本当に一人の事を指すの?<
松野氏姫氏系図では、「卑弥呼」というのは、(名前が別にある)「称号」であるような説明であり、
「委奴国王印を貰った」人物も「「姓姫氏 称卑弥子、熊津彦」と書かれているが、
狗奴國の卑弥弓呼の名前はない。 よくわからないことを言っていた
家の家族の人たちは、みんな川崎に来ていたんだけど、
親だったか、誰かは、そっちの家に残っていたんだよ
その親が死んだという連絡が来たから、
荷物などを引き取りに行ったんだけど・・・そのときには泥棒のようなものに 岡上、キウス、ザラコク来たら
お手上げだな、畿内説 >>142
さらにザラコクが卑弥呼の鏡と主張する
尚方作方格規矩鏡だけれどこれにこそ年号が刻まれていない
景初二年に貰った下賜鏡であることを証するものは何もない テレビを観ていても、
ウラシマ・・・龍宮とか、そのような話ばかりみたいだよ
ほとんど、もれ(仮)の書き込み? >>195
>前提条件:三国志の総文字数:約80万文字、三国志の総差異発生文字数:約4000文字
仮定条件:写本版本数:約100冊。・・・
まあこんなことしなくても写本版本数の大小で1版本数あたりの文字差異発生率が変動しないというのは、
自明だと思うけどね。<
この男は、まだ判っていないんだな。
上を訂正して上げよう。
前提条件:三国志の総文字数:約80万文字、三国志の写本版本全体での差異発生文字の数:約4000文字
仮定条件:写本版本数:約100冊。
どこが違うのか?、皆さまにも判りますよね。
だから、この投稿子は、アホなんですよ。 >>263
入手方法に疚しいことがあったんだろうな。 >>251
埋まっていた場所が見つかってないって
畑掘ったら出てきたんだからその後その場所は畑になったんだろ
見つかってないから何だ >>266
発見者の名前はしっかり記録されている
さらに発見されて噂になった当時の細石神社の人は
何も言わなかったのか >>265
ただし下記のような問題がある。
1.「三国志のおよそ80万字」ですが、これは百衲本『三国志』の本
の厚さから極めて乱暴に弾き出した数字で、どれくらい正鵠を得てい
るのか、出した私にも確としたことは言えません。40万文字かも知れ
ないし、160万文字かも知れません。兎に角何らかの数字を持ちだし
て話をしたかったので、こういう数字の出し方をしてみたまでです。
2.「宋代〜清代の校勘に置いて」という表現は正しくありません。校勘
をしたのは張元濟という清末から中華民国にかけての人です。
3.「沢山の写本版本間で差異があった文字例数が4000字余りであっ
たのであり」というのも正しくありません。張元濟が行った校勘は自身
が編纂した「百衲本」(宋代の紹煕刊本・紹興刊本)と、清代の「武英殿
版」との間での校勘です。私は最初、諸版本間の校勘がなされたものだ
と理解していたのですが、数年前の寝太郎(?)さんとの議論の中で調べ直
しましたら、確かに張元濟は何種類かの版本を用いているのですが、約4
600箇所(ザラさんが4000字余りと言った数字)という異同の数は、あ
くまでも「宋本=百衲本」と「武英殿版」との間のものであり、その他の
刊本間に見える異同を含めると、もっと多くなります。
4.「元になったのは、宋代〜清代に残っていた写本や版本群だよ」の「写
本」というのも間違いで、張元濟が『百衲本校勘記』に用いたもので版本
以外のものは、中国西域から出土した「晉抄本」と言われる古写本ですが
、ザラさんはこれを『三国志』の写本とは認めていません。
[https://blogs.yahoo.co.jp/longwestlonghigh/65967556.html] 金印の出土地点を特定しようとして志賀島中を調査したけどそれらしい場所が一つもなかったんだよ。 昔の話、
龍宮城には恐ろしい人が住んでいたとか
いなかったとか
ムー帝国、太陽の紋章、ラー(デスラー) 『ザ・モモタロウ』
しゅてんどるふ?サンゴのような飾りが付いているでしょ >>271
だから畑の石どかしたら出てきたんだから
その後畑になるだろ
江戸時代のことだし今その場所がわからないのが何か問題なのか >>224
>「僻地ではない」は「首都圏である」の十分条件であり、必要条件ではない。
よって
「首都圏である」⇒「僻地ではない」は成り立つが、
「僻地ではない」⇒「首都圏である」は成り立たない。
確かに「僻地」の対義語は「都会」だが、「僻地でない」からといって必ずしも「首都圏になる」わけではない。<
了解です。 >>269
献上されてしまったものを御上に返せとは確たる証拠もなしには訴えられないだろ
1500年以上前のものの謂れとか忘れられてるよな。 >>276
献上されたのならなぜそう記録に残っていないのか
黒田藩の記録では畑から出た事になっているけど それと信onというスレだよ
遺骸、骨がゴロゴロ出てくるんじゃないのか
と言っている人がいたり
▢▢力夫氏の写真参照
何か知っている人か、親戚でもいたのかな? 親魏倭王の金印も実は見つかってて
一時期 国立博物館に所蔵されてたって読んだけどな。
今は近畿の某社家にあるとか。 >>277
不正な手段によって入手したものを黒田藩に献上したんだろ。 卑弥呼さんの都は九州北部沿岸やなー
ただし邪馬壹とは関係ないぞなもし >>279
これじゃね
国立博物館にある「親魏倭王」の印影 ザ・モモタロウを読んでみると、
東京湾の話をしていたり
セメント、コンクリの話
何の話なんだろう >>142
魏の年号もあるし師出洛陽とあるから
呉の鏡氏は三角縁を魏鏡に見せかけたかったんだよな?
それにザラコクが鏡を下賜されたと主張する
景初二年ではなく景初三年と刻むのは国産品と
宣伝してるような物じゃないのか
下賜鏡に見せかけたかったら三角縁には景初二年と刻まれる筈だろ
そもそも尚方作方格規矩鏡のコピーじゃいかんのか >>262
>さらにザラコクが卑弥呼の鏡と主張する
尚方作方格規矩鏡だけれどこれにこそ年号が刻まれていない
景初二年に貰った下賜鏡であることを証するものは何もない <
いや、「尚方作」と刻めるのは、東アジアでは、
魏の工房と、呉朝の工房と、
呉系楽浪鏡師の一部が「呉の工房作である事を称した」場合位しかない。
そして、倭國が、遣使を派遣もしていない呉から「尚方作」鏡を貰う理由がなく、
遣使を派遣した魏朝からなら、貰う可能性があるし、
平原の21枚の方格規矩鏡は、普通は魏帝の下賜鏡の破鏡だが、
倭國側のホウ製化した後での破鏡であったんなら、
魏の臣下になった?倭國側が、「尚方作」と刻むダマシなど出来る筈もなく、
呉系楽浪鏡師なら、頼まれれば仕事だから、「尚方作」鏡を造って上げた可能性もある。 >>288
不正入手して献上した犯人は打ち首なんだが >>>279
>これじゃね
>
>国立博物館にある「親魏倭王」の印影
>>283
あらっ こんなのあるのか知らなかった。
いや、その時読んだのは印の実物が無造作に展示されることもあったとかで
個人作成のホームページで不気味な雰囲気の暴露話の1つだったけど。
出雲で見つかった358本の銅剣は斉の国から持ってきた。とか。真偽不明。 >>289
尚方さんが作ったから尚方作なんだろ
それにそれだからって三角縁が下賜鏡ではない理由にはならないね >>270
>1.「三国志のおよそ80万字」ですが、これは百衲本『三国志』の本
の厚さから極めて乱暴に弾き出した数字で、どれくらい正鵠を得てい
るのか、出した私にも確としたことは言えません。40万文字かも知れ
ないし、160万文字かも知れません。兎に角何らかの数字を持ちだし
て話をしたかったので、こういう数字の出し方をしてみたまでです。<
そんな事は、始めから知っていましたし、
どっちにしても、有効数字1桁程度の概数としての計算であり、話です。 『東京湾 セメント』
画像を調べてみるとリューマ、リョーマが出てくる、
ザ・モモタロウにも池田屋〜という台詞が出てきたり
どうなっているのかな >>295
成分分析では三国・西晋時代のものとしか判明してないんだけど
呉産なんてどうやって分析したの? >>270
>2.「宋代〜清代の校勘に置いて」という表現は正しくありません。校勘
をしたのは張元濟という清末から中華民国にかけての人です。<
張元濟は、宋代の紹煕刊本・紹興刊本と、清代の「武英殿版」との間での校勘であり、
宋代の紹煕刊本・紹興刊本は、宋代残存写本を底本にし、
武英殿版も、残存写本を校勘しているんですから、
「宋代〜清代」の写本版本群での差異の文字の校勘であったのです。 金印細石神社説は陰謀論と構造が一緒
こう考えればこう解釈できる、と延々と妄想を積み上げるけど、
根拠をはじめとして、確かな事は何一つ提示されない
しかし、その賛同者は一人で確信して愉悦に浸るという 畿内説の言いがかり、イチャモンが多くなってきた
ダウン寸前!畿内説!!!! 材料が呉産なんて細かい推定は
見たことないから、あったとすれば
相当荒っぽい主張なんだろうなあ 今日
宝賀寿男 古代氏族の研究9 吉備氏
を読んでたら ちょうど三角縁神獣鏡の同笵鏡分布について記述があったから紹介する。
備前車塚古墳の同笵鏡は近畿以東にあり
ヤマトタケルの東征路に分布が重なる。
したがって備前車塚古墳の被葬者はヤマトタケルに随伴した吉備武彦類縁であろう。
ヤマトタケルは四世紀末の応神世代の前だからせいぜい4世紀中で3世紀にはならんだろう。やはり下賜鏡とするには年代が合わない。 魏志倭人伝の景初二年六月に卑弥呼が使いを送ったとあるのは
景初三年の誤まりだな
晋書、梁書、翰苑、日本書紀には景初三年六月とある
三角縁の景初三年とピッタリ一致する >>302
スプリング8という分析器で分析したら
そういう結果が出ました >>270
>3.「沢山の写本版本間で差異があった文字例数が4000字余りであったのであり」というのも正しくありません。張元濟が行った校勘は自身
が編纂した「百衲本」(宋代の紹煕刊本・紹興刊本)と、清代の「武英殿版」との間での校勘です。私は最初、諸版本間の校勘がなされたものだ
と理解していたのですが、<
私は、ハイエナは、始めの説明を覚えていたのであり、
それは古田説明とも大体一致しており、
後から言い換えても、ハイエナの性格から、信用していません、
>数年前の寝太郎(?)さんとの議論の中で調べ直しましたら、確かに張元濟は何種類かの版本を用いているのですが、
約4600箇所(ザラさんが4000字余りと言った数字)という異同の数は、
あくまでも「宋本=百衲本」」との間のものであり、
その他の 刊本間に見える異同を含めると、もっと多くなります。<
清の武英殿版は、それまでの殆どの校勘も網羅したものですから、
「多くなる」と言っても、せいぜい1〜2割であり、
有効数字1桁概数計算には何らの問題もありません。 景初三年は明帝死去で喪中だから外交はストップしてるよ スプリング8という分析器で分析したら 産地じゃなくて、時代が判るのか >>306
三角縁と前漢、後漢、三国・西晋時代、国産それぞれの鏡の成分を分析
三角縁は三国・西晋時代のものと一致 >>309
二年が間違いだから外交がストップしたのは四年になるんじゃね >>299
民俗学的な口承という意味で尊重はされても
考古学的、歴史学的には細石神社のものだったとはとうていみなせんだろ。普通の感覚だと。 >>270
>4.「元になったのは、宋代〜清代に残っていた写本や版本群だよ」の「写
本」というのも間違いで、<
当然、紹煕本・紹興本の底本写本や、武英殿版が校勘した写本も含めています。
>張元濟が『百衲本校勘記』に用いたもので版本以外のものは、
中国西域から出土した「晉抄本」と言われる古写本ですが
、ザラさんはこれを『三国志』の写本とは認めていません。<
呉志残巻は、始めから、
「内容説明的な書き換えを含むものだから、写本ではなく、一種の後代文書だろう」
としておりましたよ。 以前書いたけど
どこから書き込みをしているのか?
川崎区の南部のほう、道路(産業道路。横羽線。)を渡ると浅野町 漢代の鉛鉱山は枯渇したから、それ以降のものと成分は異なる 前漢、後漢、三国・西晋時代それぞれ、銅の産地がちがうってこと? 松傾?
松の木が立てられていた写真があったでしょ、あの家だよ >>320
多分そうだろうね
成分分析の結果だとそれぞれの時代の
鏡の成分は違うと言う結果が出ただけだけれど 「本人だよ」
「本物です」という謎の書き込みを見たことがあるでしょ >>313
それを自分達に都合がいいという理由だけで盲信するのが古田信者や岡上 以前から書いているけど、
もれ(仮)以外の他の書き込みは相手にされていないよ
テレビなどを観ていてもわかるはず >>333
ニブいやっちゃな
卑弥呼が使者を送った二年は三年の間違い
明帝が亡くなって外交がストップするなら
三年に亡くなったんじゃなくて四年の可能性があるだろう
それか外交は別にストップしてなかったかのどっちかだ >>336
とことんオツムが弱いんじゃね
三国志本紀を否定するのか
こんなバカ見たことないわw 謎の311などがあったでしょ
太平洋 太平洋言っていたり、
津波に何やら・・・うらしまん? このクダリ前にもあったな
本紀とか読んだことないんだろな >>337
ああはいはい
どうせそれには明帝が三年に亡くなったとでも書いてあるんだろ
なら明帝が亡くなったから外交がストップしたというのは大ホラ
いずれにしても卑弥呼が魏に使いを送ったのは景初三年
三角縁の記年と一致する 中国の史書についても九州説が圧倒してる。
この構図は変わらない
何故なら、畿内説は中国の史書(倭人伝含む)を曲解しないと成り立たないから 数年前のKPOPスレ
・マジだったのか
・実在してたのか!
・生きてたのか、よかった
このような、よくわからないことを
言っている人がいたり
漫画やアニメ、ゲームの話? >>342
なんで三角縁の全部に景初三年の紀年がないの? >>342
呉の材料を使ってるのになんで魏鏡だと言い張るの? >>346
国産もあるし1つの鋳型から作れる鏡はそう多くないそうだ >>347
魏の年号が入ってるし師出洛陽(鏡師は洛陽)とあるから
銅出徐州とあり徐州は当時魏の支配下だった
これをどうして呉鏡と言い張るの? >>348
少なくとも100枚は景初三年が出ないおかしいんじゃないの? >>349
成分分析で呉の鉱山産だと確定したから
何で知りもしないのに言い張ってるの? >>350
さぁ古墳はまだ全部発掘されてないからな
まとめて見つかるかも知れん >>352
じゃあすでに見つかっている数百枚の三角縁は全部偽物だね >>351
どうやって分析したのかな?
銅の成分から産地を特定するやり方は確立されてなかった筈だが テレビなどを観て気づいていると思うけど、
神戸・・・福岡?暴力団関係の話じゃなかった? >>354
論文読めば分かるよ
キミの情報は古すぎるのよ >>353
国産コピー品も相当ある
あと魏には4回ぐらい使者を送ったから400枚は本物 >>354
考古学の雑誌に載った査読済論文
考古学の分野ではもう周知の事実だよ >>356
いやいいや
仮に銅が呉産だったとしても
三角縁が魏で作られた鏡なのは間違いないし >>357
毎回鏡が送られたとする根拠は?
呉の原材料をどうやって手に入れたの? >>359
まぁ仮に産地分析したって当時の徐州産と出るだけだろうけど
それともどっか別の場所だったの? >>361
三角縁はデザイン等から5期に分けられていて
1〜4期が中国製
5期から国産
4回使者を送ったという魏志倭人伝の記述に一致 畿内説と九州説、どうして差がついたのか…慢心、環境の違い >>286
>魏の年号もあるし師出洛陽とあるから 呉の鏡氏は三角縁を魏鏡に見せかけたかったんだよな?<
いや、倭人の上層部は漢字の読み書きがある程度出来るから、余り露骨な事は書けないよ。
せいぜい、魏に関係がある事を匂わせたり、類似文言を使用する程度だな。
>それにザラコクが鏡を下賜されたと主張する景初二年ではなく、
景初三年と刻むのは国産品と 宣伝してるような物じゃないのか
下賜鏡に見せかけたかったら三角縁には景初二年と刻まれる筈だろ <
いや、始めから「景初三年」に造った、というだけだろう。
>そもそも尚方作方格規矩鏡のコピーじゃいかんのか <
平原の尚方作方格規矩鏡が国産模倣である、という事の根拠は知らんが、
呉系の鏡師が「尚方作」鏡を造って地方の豪族に示したら、やはり変に思われるんだろうねえ。 陶塤面白いねぇ。
宗像以東、出雲や丹後半島など日本海側に分布。
弥生時代前期。銅鐸より時代は古く、水稲が広がっていく時期と被る。
長江河口辺りから、大陸で大きな戦乱がある度に渡来があったんだろうね。 親の話
暴力団ではないと思うけど、
あそこに山川という子がいなかった?と言っていたり
川崎区の話、〜興業のような仕事をしていて >>365
呉系の鏡氏が魏の年号刻んで師出洛陽と書いているんだが もれ(仮)「いたような?」
その家の近所のパチスロ店に
銃弾が飛んできた話があったり
その家の親戚なのかな たしか、むこうの国(不明)の人じゃなかった?
とか、なぜか詳しい >>362
別の場所だね、銅も鉛も長江中流域の湖北省鄂州の鉱山
ちなみに、
「三角縁神獣鏡の原材料産地に関する考察(馬淵久夫)
考古学雑誌98-1:日本考古学会平成25年11月」 >>290
その前に証拠も無しに訴え出ると打ち首になる。 >>363
すごいね、1〜2年でデザインが替わるんだねw >>360 今さら何を言うの、
▲は国産だから畿内説は✖
千枚に届くほど全国各地で発掘されてる▲を魏鏡かどうか判別できないし
中国の学者も▲は中国の物で無いと言っているし
倭人伝では銅鏡百枚だし、文様まで明らかじゃないし、
特別に作らせたなんて、極端な推理だし
*特に
畿内説の現学者すら▲は説の主流じゃない >>363
景初二年(238)・・・・・・難升米を都(洛陽)派遣、仮の金印(親魏倭王)及び100枚の鏡などを貰う
正始元年(240)・・・・・・郡から倭に梯儁が来て金印(親魏倭王)及び鏡などを与える
正始四年(243)・・・・・・郡に伊聲耆、掖邪拘を派遣、銀印を受け取る
正始六年(245)・・・・・・難升米が郡へ行き仮の黄色い軍旗を貰う
正始八年(247)・・・・・・郡から張政が来て黄色い軍旗を与える
魏の都に使者を送ったのは1回限り。 むこうの人(不明)は、
また別の人の話なのかな
たしかに、いるよ、山川?
まさか・・・?
エイトマンの話? 景初二年(238)・・・・・・難升米を都(洛陽)派遣、仮の金印(親魏倭王)及び100枚の鏡などを貰う
正始元年(240)・・・・・・郡から倭に梯儁が来て金印(親魏倭王)及び鏡などを与える、お礼の上表を(郡へ)送る
正始四年(243)・・・・・・郡に伊聲耆、掖邪拘を派遣、銀印を受け取る
正始六年(245)・・・・・・難升米が郡へ行き仮の黄色い軍旗を貰う
正始八年(247)・・・・・・郡から張政が来て黄色い軍旗を与える
魏の都に使者を送ったのは1回限り。
郡にまでが2回。
郡使が2回来た。 >>371
湖北省鄂州は三国時代魏・呉・蜀の三勢力が分割支配していたそうだから
三角縁の銅がそこ産でも不思議ではないかも知れないが
ただ銅と鉛ってちょっと引っ掛かるな
分析方法って鉛同位体を分析する金属考古学じゃないだろうな? 細石神社の件は、歴史学的に有効な証拠は何もない
それを自説の根拠にしようとする奴の脳ミソが腐ってるだけ >>373
1年経てば変わっても不思議じゃないな
>>374
40年前の見解か?
魏に使者は4回送られている
洛陽でも1面見つかり研究者は中国製だと言っている
全唐文という書に魏は倭に鏡を送るときそれまでの形式を止め…とある
>>375
景初三年、四年、正始元年鏡が存在するから
それぞれ使者を送ったのだろうと思われる
景初四年鏡の存在は正直謎だが
台与の代もも使いを送っているから数は合うんじゃね 三角縁神獣鏡に関する 泉屋博古館の発表に重大な誤り
• 2004.5.15 泉屋博古館はスプリング8の分析によっ て、舶載三角縁神獣鏡が中国鏡であると発表、新 聞に大きく報道された
• 論拠としては、鏡の微量成分のSb/SnとAg/Snを比 較する方法をとった
• しかし、金属考古学的に見ると、Sb/Snの比率を用 いることには全く意味がない
• しかも泉屋の発表は過去の研究を十分に踏まえて いない点に問題がある。
とか言われとるぞ。物理学者から。 >>382
一面みつかったっていっても
発掘品じゃない来歴不明のものでしょ?
細石神社の金印でしたって話と全く同じ構図じゃない。そんなの真に受けるのどうかしてるぞ。 >>383
金属「考古学的」にと言っとるじゃんか
物理学者じゃなくて金属考古学の新井宏センセだろ
金属考古学なぁ… 細石神社金印の話しは発見直後から史料に残されてる内容を、史料なしに完全に覆そうというのだから段違いに酷いレベル >>384
しかしモノは現にあるからなぁ
社伝と違って 近いのは古田信者が持ち出してくる「須玖岡本の」キホウ鏡だな 町工場の親父が古代史に興味もってくちばしをはさみ
とうとう韓国の大学の先生まで上り詰めましたとさ
なんで国内でなく韓国なんだろうねぇ 市場でたった1枚見つかっただけ。
学問的には全く意味が無いし、
その1枚にこだわるのならむしろ根拠の怪しさ倍増するだけ。
<無意味>
それまでの形式を止め、というは訳の一つに過ぎないし、
鏡の形式という意味なのか
銅鏡(銅資源)を国外に輸出しないという慣習を止め(魏は銅不足で困っていた)という意味なのか
はたまた他の意味なのか、判然としない。
<根拠なし>
酢8については
理系学者であれば取り下げしたいくらいの無意味内容。
・Sb/Sn比に意味が無い
・対象資料が舶載である保証が無い
・蛍光強度と濃度の対比図なし(蛍光分析の基本すら押さえていない)
<無意味>
以上を持ち出す輩は、説得力がないどころか信用度を下げている。 紀年鏡を鉛同位体ぶんせきしたら
Aグループ
正始元年森尾鏡
景初四年辰馬鏡
青龍三年大田鏡
青龍三年個人蔵鏡
Bグループ
正始元年柴崎鏡
景初四年広峯鏡
となることがわかりました。Aグループは、正始・景初・青龍という異なった年号の鏡が同一材料で、同
じ時に同じ場所で作られたことになります。またBグループでも正始・景初が同じ材料、同じ時に作られ
たことになります。AとBは別々に作られたことになります。
異なった年号鏡が中国の王朝下で一括して作られることは考えられず、中国以外の地で作られたことにな
ります。また異なる年号鏡が一度に作られるということは、刻まれた年号以降に作られたことを示してお
り、そこには複製鏡、わかりやすく言えばコピー鏡の製作が行われていたことを示しています。さらには
復古鏡、リバイバル鏡が作られていた可能性
とか言われとるぞ。 金印は中国側の記録にも残っているから中国製の裏付けがある。 都合の悪い話には全て捏造のレッテルを貼ってあるかないと対面を保てなくなった畿内説。
しまいには魏志倭人伝も間違いだらけと否定してかかる始末。
お前ら、もう邪馬台国論争に関わるな。 >>392
「鉛同位体比から見た三角縁神獣鏡の製作地(2005)」だね 細石神社の件は、そこが倭奴国であったと考えられること、神社が伊都国王墓の祭殿であったことなどから、そこにあってもおかしくはないという妥当性が認められる。
このスレのテンプレはもっとひどい決めつけをたくさんしているしな。 ちなみに新井は分析を行っているのではなく、
馬淵らが行った分析結果を用いている >>383
>• しかし、金属考古学的に見ると、Sb/Snの比率を用 いることには全く意味がない
意味がないという理由がわからない、 >>398
妄想の上に妄想を重ねても妄想度合いが高まるだけだよ糸クズさん >>397
ここね
arai-hist.jp/thesis/archeaology/johokouko/sankaku.doc >>390
1面見つかったから三角縁は中国産確定なんて
誰も主張してないよ
限りなく本物であろう三角縁が中国で1面見つかったねってだけの話
それまでの形式を止めが訳文として間違いではないなら
三角縁は特注品だった可能性があるなぁって事だろ?
スプリング8については
前漢・、漢、三国・西晋、国産鏡で明らかなグループができた点に
意義がある
これこそ分析方法に不備や間違いのなかった証拠と思える >>400
そりゃ物理学の素養がない人には意味がわからんだろう。 岡上って既に妄想と現実の区別がつかなくなってるのか… >>400
過去の青銅器からの直接試料を用いた実験によって、
その対比に意味が無いことがとっくに共通認識となっている。 >>400
これ
arai-hist.jp/thesis/archeaology/yamataikoku/87.doc BC1000年頃長江河口辺りから渡来した人々。ある集団は内陸へ広がり稲作が広がっていく。ある集団は海人族として、日本海を中心に交易を担ったんだろう。
BC5世紀に渡来し、大阪湾や伊勢湾を中心に勢力を拡大した倭人。
大雑把に言えば、この二つの海人族が手を結んだのが、紀元前後〜AD1世紀。その頃には、大陸との交流が活発となり、日本海側から淡路島に鉄がもたらされるようになる。
倭国大乱前は、血縁で結ばれ西日本の国々は結構纏まっていたんじゃないかな。
倭国大乱でそれがどう分裂したかが問題だな。 じゃ、馬淵が呉の鉱山だって言ったという件もチャラになったんだな A井氏は自らの検証はもちろん他の研究室も交えた検証実験も行っており
データの信頼度は世界レベルをクリアしている。
それに対する反論で出土不明1枚や訴訟レベルの実験結果を持ち出すことは失礼にすらあたる。 酢8の結果から、グループを作ることすらできない、ということもわかっていないようだな。 >>408
どうもこの倭人は日本で
いう和邇氏のようなんだよね。海民じゃな。
東シナ海や対馬海峡の航路を抑えてた
江南起源の。 >>391
国内でコピーした品があるんだねって分析結果にしか見えないが?
しかし中国以外の地で作ったっていうなら
銅は呉産とする九州説にも不利ではないか
まぁ鉛同位体を分析する金属考古学って
同じ時期同じ場所で作られた鏡でも
バラバラの解析結果が出たりするからあんまアテにならない >>414
自分の論理が倒錯してると自覚できるまで
発言しないほうがいいよ。
素材の産出地と
鏡の製作地は絶対一致してると思ってるのはあなただけだからね。 狗奴国は韓半島にあったんだろうね
当時の倭人は新羅や百済の属民 >>417
となると結局三角縁は国産なん?
そんで銅は呉産?
九州説の言い分はよくわかんねー >>420
九州説とか以前の話やぞ
分析結果を積み上げていったら
文学的にも
物理的にも
工学的にも
意匠デザイン的にも
政治力学的にも
流通経済的にも
これが作れたのは呉の工人で日本に来て作った可能性が
魏で作られたと考えられるよりも極めて高い
という話。 崇神が4世紀初頭の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するかのように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
もちろん彼らには正后(奥さん)はいる。
しかし彼らが大王ならその血を残すために複数の妃がいて当たり前。ところがいない。
つまり彼らは大王ではなかったのだ。
この時代が女王国であった。
では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。
それがいるのだ。
@神武→ヒメタタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマトヨツヒメノミコト
D孝昭→ヨソタラシヒメノミコト 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
見事にヒメとトヨの時代。 魏志の【年已長大 無夫壻】とは神武の死後にヒメ踏鞴が寡婦であった状況であろう。
そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。
邪馬台国の都とは「ヒメ」タタラが住まわれた葛城、奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。
これが私=天才のHPだ。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite/home 文学的× 魏の年号使用
意匠的× 最近の研究では江南の呉の系統ではなく徐州の系統に近い 楽浪で造ったんなら朝鮮銅を使うだろうしなあ
まあ国産でFAですな デザインの一部は燕〜楽浪周辺出土鏡と共通してたはず 三角縁神獣鏡と魏の国に関連があるのは事実だよね。そして三角縁神獣鏡は大和が全国に配布していた鏡 国産だとすると三角縁作ってた工人は三角縁だけ作って忽然と姿を消すことになるんだけど、
国産説ってそこまで見通してる人が皆無なんだよな 鏡の成分などどうでもいい。
そんな事よりなぜ記紀が古代天皇の年齢を100歳超えるほど大きくずらしてるのか、
それを考えろ。
武内宿祢が300歳になり、子供にも笑われる。
しかしながら、それでもなぜ大きくずらしたのかを考えろ。
何か隠したい、知られてはいけない史実があったのだ。
それはスサノオ=帥升の朝貢だ。
彼は107年中華皇帝・安帝に土下座した。
これを隠したかったのだ。
ならばそこから100年後の女性で最高位の人物が分かるだろ。
つまりヒミコは分かるだろ。
ヒメ踏鞴五十鈴だ。
神武東征紀は実際は女王国であったことをごまかすために大げさに書かれた。
ヒメ踏鞴五十鈴が住んだのは葛城、奈良県御所市だ。
九州でも纏向でもない、葛城だ。
まだ分からないのか、馬鹿が。 パトラ・・・ファラオというのは王家という意味でしょ?
なぜ知っているんだろう、家の裏の建物の話
エンバーミング施設に、
なるならないという話とか
1990年代の中期の話 死んだ人を保存したり、そういうやつみたいだよ、
気持ち悪いね
という話をしていた事もあった
結局そういう施設には、
ならなかったんだけど
かなり経ってから、あのパトラ(ファラオ??)でしょ 三国志の時代、徐州の銅産地は呉の領土だった
まずこの基本からして理解してない奴がいるっぽいよな >>305
>魏志倭人伝の景初二年六月に卑弥呼が使いを送ったとあるのは 景初三年の誤まりだな
晋書、梁書、翰苑、日本書紀には景初三年六月とある
三角縁の景初三年とピッタリ一致する <
根本的には、後代史書の、前代史書内容の紹介においては、
後代史家が「後代時点での自己流解釈に拠って、前代史書内容の書き変え」をしてしまう事があり、
前代史書の記載事実の根拠にはならない、
という事だな。
そして、問題の原点は、
通典や日本書紀は明確に「遣使が来たのは明帝の時だった」という記載をしてしまっており、
明帝は、景初二年の大晦日〜景三年元日に亡くなったので、
景初二年の遣使は受けられるが、景初三年の遣使は受けられず、
だから、梁書や太平御覧や翰苑の「景初3年」記載は、始めから「明帝」情報と矛盾しており、
晋書は、「宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見」として「景初三年」とは書いておらず、
日本書紀は、「魏志云:明帝景初三年,六月,倭女王遣大夫難斗米等,詣郡」というように、
「明帝景初三年」の矛盾を書いている事になった。 >>311
>三角縁と前漢、後漢、三国・西晋時代、国産それぞれの鏡の成分を分析
三角縁は三国・西晋時代のものと一致<
成程。
情報提供、有難う御座います。 >>312
>二年が間違いだから外交がストップしたのは四年になるんじゃね <
根本的には、起居注だったか?で「遣使は明帝の時に来た」という記録情報が存在していた、という事であり、
だから、景初二年で正しい、という事になるんだよ。 >>313
>民俗学的な口承という意味で尊重はされても
考古学的、歴史学的には細石神社のものだったとはとうていみなせんだろ。
普通の感覚だと。<
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
条件設定下での数学や論理学などのような「絶対断定の演繹的論理」は全く不適切であるのであり、
全て、僅かに知り得て、存在確認や史料批判に拠って、
一部分ではあっても信頼性の存在を確認出来たものは、証拠採用すべきである、
という事だな。
だから、神社伝承や、記紀などの後代史書や、家系図などの情報も、
その全部を絶対否定や絶対肯定をしてしまうのではなく、
真偽未確定部分あり、とか、半分×情報だ、とかして、
それを含めた帰納的な確率的な推論をすべきなんですよ。
そして、何らかの思想や宗教に拠っての「絶対的結論先にありき」の人種は、
「〜のものだったとはとうていみなせんだろ。普通の感覚だと。」と絶対断定をしてしまい、
それが学問的科学的アカデミー的である、と勘違いしてしまう事が多く、
それで、秋葉原やオームやキョクウテロリストや戦前日本やヒトラーらのように、
大量殺戮や戦争を起こしてしまう事になる。 >>342
>ああはいはい どうせそれには明帝が三年に亡くなったとでも書いてあるんだろ
なら明帝が亡くなったから外交がストップしたというのは大ホラ
いずれにしても卑弥呼が魏に使いを送ったのは景初三年 三角縁の記年と一致する<
魏志と日本書紀と通典が、
卑弥呼の遣使は「明帝」の時にやって来た、という情報を記載してしまった、
という事が史料実態。 >>395
「ピラミッドの目的は完成後の『用途』にあるのではなく、造るという『製作』そのものにあるのである」
『ピラミッドの謎』1975 メンデルスゾーン博士
あるいはかなりの地方に高地性集落があらわれる。
弥生中期。あらわれかたも1回ではないのです。
同じ集落をまた修復して使ったりしていますが、しかし古墳が
できるようになるとそういうものはほとんどなくなっていく。
なくなるばかりか、ここがまたおもしろいのですが、
かつての高地性集落のあったうえに、あるいはすぐ付近に、その地方でもっとも古い前方後円墳が
突如として築かれる場合がある。
いまのところこの謎はちょっと解けない。
森浩一「考古学の模索」1978 学生社
銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 単行本 ? 2010/12/27
臼田 篤伸 (著)
巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に
象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの
労働力とされた
巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった
古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。 >>403
ダメ
<限りなく本物であろう三角縁>
これが勝手な決めつけ・・「あろう」で逃げ道は作ってあるが幼稚な手法 理解が遅れてるのは特定の1人
>>427 ←こいつ >>441
なにかすごい根拠を秘めているのかと思ったら例の研究者失格セットを持ち出してきて脱力なうw ▲は畿内説はまだ諦めていないの?
変人が一人飛び出してきた程度かな? >>349
>魏の年号が入ってるし<
その年号では明帝への遣使や明帝の詔書に合わないし、
洛陽から三角縁神獣鏡の出土がないから。
>師出洛陽(鏡師は洛陽)とあるから<
その鏡師が自分の事を「師匠だ」、と刻む筈もないし、
魏帝の下賜鏡に、自分の師匠の出が洛陽だった、なんて書くことは、全く関係もないし、
魏帝よりも、自分の師匠の方が大事であるかのようになってしまうから。
>銅出徐州とあり徐州は当時魏の支配下だった<
鉱山地域は呉の領土だったらしい。
>これをどうして呉鏡と言い張るの?<
三角縁も神獣鏡も呉の付近で流行っている鏡であり、
魏帝の下賜鏡だとしては、全く適切ではないから。 >>357
>国産コピー品も相当ある
あと魏には4回ぐらい使者を送ったから400枚は本物<
魏が銅鏡100枚をくれたのは1回きりのよう。 >>360
>いやいいや 仮に銅が呉産だったとしても 三角縁が魏で作られた鏡なのは間違いないし <
魏で造られた、という証拠は一つもない。 >>447
あんた偉いよ。素人相手に丁寧に説明してやってる。
俺なら無視するけど。 >>432
これってあの編年の岡村の著作にもあやしい記述があるんだよな
考古しか見えてないんだろうな 同笵鏡ってのも最近の三次元解析で見てみると、製造地がばらばらでどこかから配ったっていうのも怪しいらしいし >>436
アホか
学問的な態度を真摯に保ていうとんじゃ。
文字での証拠がない以上、歴史学として
それ相応の手続きと対応をせいや。
発掘状況の記述にあった土地が志賀島には
見当たらんのじゃろ?
だったらものの真贋ぐらいしか
言及できることはない。
後段の観念的で教条的なものいいをする奴の方がすかんわ変な思想を押し付けんなや。 『川崎区 山川』
山川工業、グーグルで検索してみて、
家の横のほうにベンツ?のようなものが止まっているから
その家のものなのかは、わからないけど、まさか? >>391
>AとBは別々に作られたことになります。
どうして? それにしても、まさかだよ・・・
家の近所でしょ?
同じ学校だったような気もする >>80
サンプルは87点、INTCAL09とJCALを併用して較正値を示しています。
草本が主たる対象なので、古木効果の考慮は不必要です。 >>451
あんた本当は良い人でしょ
無理して、荒い言葉使わなくてもいいよ >>446
魏は100枚も鏡を一度に与えたんだから何度もはくれないよな。 >>458
鉛同位体比は、同一時期、同一場所で製作された鏡間では類似の値を示す傾向がある。
それは同一系の原料を使用するからである。 倭国内でスクラップ原料を使用して造っているから、ブレンド具合が変わってくるんだろな >>398
証拠や根拠にはならなくとも
こんな話もあるって参考程度にはなる話ですよね。 >>464
そうね。根拠や理由には足りないけど
そういう参考情報から、新たな遺跡が発見されるかもしれない。 >>471
200年くらい前の話だから伝承で残っててもおかしくない。 >>363
>三角縁はデザイン等から5期に分けられていて 1〜4期が中国製 5期から国産
4回使者を送ったという魏志倭人伝の記述に一致 <
4回の使者で、鏡を貰った記載があるのは一回だけ。」 >>474
元禄時代に書かれたとかいう縁起があるのにね 神職が手記を発表したでも古田史学会で口頭発表したでもなく人伝とかw 口伝を信じたいアホはドゴン族神話の顛末をググってお勉強するように 波の影響を受けるはずだ、とか相変わらず勝手に前提条件を決めてるな 土の中に置かれてるだけじゃ傷なんてつかないんだがな 偽物の金印は何処から出たことにしていいか分からないので志賀島にしたwww 中国製の小札革綴冑が3世紀後半から4世紀の畿内の古墳から出る。
十数点の出土のうち九州はわずか1点、残りはすべて畿内。
当時の日本にこんな精巧な冑は作れない。
おそらくトヨの朝貢時に入手したのだろう。
この時点で中国と通交してた主体は畿内であり邪馬台国論争は決着する。
この小札革綴冑は山城の椿井大塚山古墳から出る。
崇神に反乱を起こした武埴安彦命が挙兵した場所であり、
椿井大塚山被葬者が武埴安彦である可能性が高い。
もう一つ面白いところから出る
大阪柏原の玉手山6号墳だ。
この時代に河内の首長が中国製の小札革綴冑というお宝を手に入れていた。
被葬者の該当人物がいる。
孝元天皇の妃・埴安媛の父、河内青玉繋だ。
武埴安彦の祖父になる。
河内青玉繋→埴安媛 →武埴安彦(崇神時代)
祖父と孫、つまり同じ一族が小札革綴冑を手に入れてたのではないか。
ということは河内青玉繋はトヨの時代を生きていた。
トヨの朝貢団の一人ではないのか。
どちらにしても「欠史」などと言われてきた初期8代天皇は確実に実在した、
そして魏志の台与と大和朝廷がこの冑によって結びつくのだ。 >>380
>景初二年にはもらってないぞ<
だから、
12月に詔書が出されて大晦日〜元日に明帝が無くなったので、
景初三年の一年喪に服す事になって、慶賀の行事が一年延期され、
翌年の正始元年に、詔書や金印や下賜が実施されたんだよ。 >>381
>細石神社の件は、歴史学的に有効な証拠は何もない
それを自説の根拠にしようとする奴の脳ミソが腐ってるだけ<
神主さん一族に、金印を持っていた、という伝承があった、
という事実だけで十分。 みんな一度は思うことだけど前方後円墳の形って「チンコ」だよね。
「稲妻」という言葉があることからわかるように雷を妻と考える風習が日本にはある。
つまり、「稲妻」を前方後円墳「チンコ」に落として蘇りを願う儀式をおこなっていたと考えられる。 >>382
>魏に使者は4回送られている<
銅鏡100枚の話は一回だけ。
>洛陽でも1面見つかり<
出土ではない。
>研究者は中国製だと言っている<
中国学者は、中国の鏡ではない、と言っている。
>全唐文という書に魏は倭に鏡を送るときそれまでの形式を止め…とある <
後代文書では、確実な論拠にならないし、内容も不明。 >>486
景初三年の一月一日に明帝が亡くなってるのに
下賜品に喪に服してる期間の景初三年の年号とか入れるかな? >>487
東遷なんてしてないよ。
ヒミコやトヨを生んだ王権は2世紀から葛城に実在した。
高天原のある葛城だ。
記紀にも神武が事代主神の娘、「神の娘」と結婚したことが書かれてるだろ。
神がいた場所こそ王の居場所。
筑紫ごときが自惚れるな。 弥生時代の青銅器の分布。
https://goo.gl/m2KfqU
対馬や筑紫にこれだけ武力が展開してるのは防人以外に説明がつかない。
筑紫は畿内にあった都を守る防人さんたちの土地だ。
同じ九州でも奥津城の熊本、宮崎ならまだわかる。
が筑紫は邪馬台国の可能性が日本で最も低い所なのだ。 >>497
武力に勝る九州が黙って畿内の言うことを聞くと思うか? 武力に勝る九州が黙って畿内の言うことを聞くとは思えないわな
畿内が九州を支配してたなんてのは無茶な仮定 >>488
古田は先代神主に何度か会ってるが生前そんな話は聞いてない
先代が死んだ途端に息子が言い出した
怪しいわな >>497
白村江の敗戦後と同じ様相なのでそれは無理。 >>498
>武力に勝る九州が黙って畿内の言うことを聞くと思うか?
武力に勝る自衛隊は天皇の下だが? >>388
>近いのは古田信者が持ち出してくる「須玖岡本の」キホウ鏡だな <
偉い考古学者の発掘だけが価値があり、
百姓や一般人の発見や伝承には、価値を認めない、
とする大和説者の精神構造が、
そもそも異常なんだよ。
不可知部分が殆どである自然や歴史の事実情報は、
どんな事実情報であっても、きちんと史料批判をして、信頼性や確率を判断して、
それからそれなりの処理をすべき。 >>489
前方後円墳の形はマナの壷である(何回もいわせるな >>414
>銅は呉産とする九州説にも不利ではないか <
「呉産」だけとはしないね。
材料銅としては、古い漢鏡や半島鏡もあるし、
呉系楽浪鏡師の手持ちの材料銅もあるし、
列島の銅鐸や銅矛もあるし、
半島や列島の銅山のものもあるし・・・。 >>427
>三角縁神獣鏡と魏の国に関連があるのは事実だよね。<
三角縁神獣鏡は、洛陽から全く出土しないから、
魏の国に関連が殆どない。というのが事実だよね。
>そして三角縁神獣鏡は大和が全国に配布していた鏡<
そして三角縁神獣鏡は、
列島の筑紫で造られ始めて、
列島各地にばらばらに広がり、
大和が何だか粗悪な副葬用の三角縁神獣鏡を大量に副葬していた鏡。 >>428
>国産だとすると三角縁作ってた工人は三角縁だけ作って忽然と姿を消すことになるんだけど、
国産説ってそこまで見通してる人が皆無なんだよな <
そりゃ、240年頃から列島へ来たら、30年も経ったら歳とって死んでしまっていなくなってしまうから、
子弟が鏡造りを教わった大和だけが、一杯作り出す事にもなったんだろうなあ。 平原が最初に魔改造してるから
その頃には量産技術はマスターしてただろうな。 中国の三角縁神獣鏡は2015年に
骨董市で入手した物。 卑弥呼が誰であり、どこに住んだか、その根拠さえ言えないのは「説」ですらないのだ。
したがって九州説の最有力「卑弥呼はアマテラスである」は説ですらない。
畿内説の最有力「卑弥呼はモモソ媛である」は一応、箸墓が墳墓だという説ではある。
しかしモモソ媛は4世紀初頭から前半の可能性が極めて高い崇神天皇の治世まで生きている。
したがってヒミコに比定するのは無理なのだ。
また箸墓を248年建造開始はかなりキツい。
そういうわけで1つの説に絞られる。
ヒミコはヒメ踏鞴五十鈴媛である。
根拠はまず名前が歴史上ヒミコに最も近い。
そして崇神の6世代前、応神の15代前であり、
父の事代主は記紀で神と明記され、兄のクシヒガタは王(鴨王)と明記されている。
したがってこの一族こそヒミコの時代の真の王権である。
住んだ場所は葛城である。
墳墓は高天原(御所市高天)の高鴨神社御神域の塚々であろう。
ヒミコの宮は御所市名柄の「姫の宮」こと長柄神社であろう。
当時は母方の実家で子供が育てられたことを考慮すれば、
2代綏靖天皇の宮、御所市森脇に近い。
ピンポイントでヒミコの宮が絞られた。
私は天才だ。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite >>490
の解説程度
で▲はもういいんじゃないか?国産だよ、
紀年鏡だつて、もし魏のものとしても、機内では1枚しか出土してない。(いちおう、豊岡市を畿内に入れて)
致命的なのは、数が多過ぎなのと、中国の学者が中国のものでないと言っている事、
他説に振らないで、中国の学者を説得してきた方が早い( ^∀^) >>515
御所市高天の高鴨神は、阿波国加茂の鴨神社からの勧請である。 頭が高い。 @阿波
「延喜式式内社 阿波國美馬郡 十二座 鴨神社」
鎮座地 徳島県三好郡東みよし(旧三加茂)町加茂字山ノ上3650
御祭神 別雷命(わけいかづちのみこと)・市杵島姫命・品陀和気命・天照皇大神
「郷社 下加茂神社」
鎮座地 徳島県三好市三野町加茂野宮492−2
御祭神 玉依姫命
※玉依姫は、鴨神社の御祭神「 別雷神 」の母にあたる。 >>518
>御所市高天の高鴨神は、阿波国加茂の鴨神社からの勧請である。 頭が高い。
あ、あのなぁ…
とにかく君は頭が高い。
ところでそのあたりに銅鐸が出てるはず。
徳島はかなり多い。 >>516
賛同
方位しかり、倭人伝の曲解もはなはだしい畿内説、
中国の学者を説得した方が早い。
国際摩擦?中国の史書にイチャモンてつけるなら、どうぞ中国の学者と議論してきて下さい。
日本で主張しても駄目だよ、日本の文献じゃないから! >>513
骨董市じゃ何処で仕入れたか分からないからな
現状では日本からの輸入品の可能性が高いな
何処にあったかの由来でも分かってれば少しは価値が有るんだが。 >>523
知らんよ、王なんとかなんて、
中国で史書の第一人者? >>522
日本で600枚近く、発掘されてるんだから
1枚ぐらい中国に渡っていてもおかしくないよね、
進駐軍だって内緒で持ってるかも
未発掘のものを含めると1000枚以上あるという学者もいる >>525
中国の考古学者の組織調べるぐらいしろよ
畿内説の問題なんだから >>525
日本中国考古学会を通じて、できる可能性があると思います、 >>527
日本産だと言ってる中国の学者という話がアイマイなら無視するだけだ
畿内説は痛くも痒くもない 357 日本@名無史さん[sage] 2017/09/13(水) 22:51:54.37 ID:
>>353
国産コピー品も相当ある
あと魏には4回ぐらい使者を送ったから400枚は本物
これを見て畿内説が信用出来なくなりました。 2世紀前半の男王から3世紀後半のトヨまで続いた王権を、日本人が忘れているわけはない。
忘れるどころか今も神々として信仰している。
ヒミコは記紀に登場しないなどと言う人は単に見つけられないだけ。
現天皇家の前王朝、出雲系大物主、事代主。
彼らこそがその王権。
ヒミコとはエベッさん(事代主)の娘。
この単純明快な話が分からないと来た。
現代人の余りの馬鹿さ加減に本居もあの世で嘆いているだろう。 >>534です
すまん、出てきた。
王は鹿児島付近が邪馬台国と想定してるね 福岡は防人の土地。
邪馬台国の可能性が日本で一番低い。
だいたい畿内説なら古代天皇の朝貢を認めざるを得なくなる、
それは困るというので新井や本居が窮余の一策と創作したのが九州説。
本音では彼らはこれっぽっちも九州だなんて思ってない。
いい加減、カッペはあきらめろ、おうおう原田大六の銅像まで建てて恥ずかしいw
ふるさと創生お国自慢演歌手の世界ではないか、みっともないw
氏ね。 >>540
>邪馬台国の可能性が日本で一番低い。
間違ってる
邪馬台国の可能性が無い 新井や本居が窮余の一策と創作したのが九州説。
同時に江戸幕府が偽造したのが金印。
まぁあんな物、一私人ができるわけない。
つまり「邪馬台国は九州なのかも??」のイメージ作り。
金印の出所には困っただろう。
古墳から出たことにもできない、嘘がばれる。
困ったあげく、志賀島www >>544
邪馬台国=ヤマト王権と考えたらね!
別の国とすれば、なんら問題ないよね、 >>545
それは無理だな。
北部九州は畿内の影響下にあるもの。 >>546
古代天皇は朝貢してたでいいよね!
記紀はやはり嘘だらけだね! 邪馬台国=ヤマト王権=畿内説
としたら、記紀神話を畿内説は持ち出したらいけないね、
日本で唯一無二の王権で魏や中国なんて屁だもんな >>556
もともと大和説なんて無い
ここは畿内説スレ 記紀神話は実話でなく古代の人達の心象世界
それで史実と記紀神話の矛盾なんて神道信者でも問題ないはずなのに、大和説だと自分達の信仰が崩れると思ってる連中が必死なんだよね >>561
そういう畿内説の人はいないな。
だから九州説は大和説という架空の存在を作るわけだ。 >>560
東征といいたいの?
記紀神話の東征関係無く、
九州勢力が畿内に勢力拡大し、東遷した、
記紀とからめる九州説の方もいますが
基本は、上記 >>565
九州勢力が畿内に勢力拡大し、東遷した、
という根拠は? >>558
畿内第五様式圏=東阿波型土器圏のこと @阿波 多様性の共存状態こそが発展の原動力。
逆に斉一化とは外部から支配されたことの証。
そして最初にその兆候が表れ始めるのが阿波瀬戸内。 >>575
知らないなら、礼節を持って聞くべき
例えば
「根拠が分らないのですがお教えいただけませんか」とか
「もう少し詳しく教えてください」とか
根拠は証拠はなんて聞きだしたらテンプレの妄想に戻るよ >>577
理由を言えない説は
成り立ってない説
失格確定 >>574
畿内説は一本化されていないのですよ
纏向で一本化しようとしてますが、異論も内部で有るのですよ。
石野さん、関さん・・・それぞれれ意見はわかれますよ。
一本化する事態が愚かです、文献・物証の解釈が違うのですから。
正論はまだまだ先・・学者なら、意地を張らず、事実を探求し論を変えるのも誠実な考古学者と言えるでしょう。 >>577
「根拠が分らないのですがお教えいただけませんか >>579
内部の異論って何?
具体的にはなんのこと? >>577
「根拠が分らないのですがお教えいただけませんか 」
「もう少し詳しく教えてください」 九州説には理由を言うという習慣が無い
つまり、学説ではない >>550
筑紫倭国王と、辺境の自称王に差がないわけがない。 >>581
妄想は言いすぎたかも、推理に変えましょう
しかし、推理にしては私見が多く、文献、物証の裏付け
数理、科学的な無さ・・自分で数学、科学を学ばないので検証もせず
参考文献と言いながら鵜呑みにする
考古学はまず、過去の説や参考文献に疑いを持ち自分なりに勉強して自分なりの結論を出し
またそれが正しいか新たな事実が出たら検証する、確定の無い世界です。 スレ主 匿名であらすなよーーー
まずテンプレの反論に答えろよ・・・いつも見てるらしいから反論ぐらいわかってるだろ >>487
>トヨ東遷説を裏付ける物証ですね <
ダメだよ。
列島の小札革綴冑は、
中国のものとは大分形が違うし、中国が夷蛮に実践武具を渡す筈もないし、
どちらかと言えば半島の小札革綴冑の方が似ているし、
だから、倭國が、「渡平海北九十五國」の時に見覚えて模倣して造った可能性が高く、
それを、「東征毛人五十五國」に使ったから、
東征将軍がいた豊前や河内や山城に存在していたんだろう、という事になる。 考古学の蘊蓄を披露したいなら考古学板へどうぞ
興味ないので >>593
邪馬台国を議論するのに、考古学に興味ないとはwww ここに来る価値なし >>539
昔から、「南→東」の嘘つきダマシの大和説者は、頑迷だから。 1、3世紀に畿内に馬はいたとスレ主が言っているが、
倭人伝との矛盾および馬匹文化のが年代の学説相違
2、炭素年代法
Qランダムに選んだサンプル数はいくつ?
Qまた、暦年代較正は何に基いたか?
1、INTCAL データベース、
2、確率法(High-Probability Density Range Method)
3、交点法 (Intercept Method)
次に
Q古木効果(old wood effect)の可能性が考慮されているか?
・・・・・・自分で確かめ書きこんだらいかがか
3、海遊録の確率論的に方位の誤認に引用できるかの数理的検証
4、纏向の次の王都は藤原は推理だが根拠うすい。藤原京以降の王都は?
言い出したら切りがない >>546
>それは無理だな。 北部九州は畿内の影響下にあるもの。<
それは無理だな。
大和は、筑紫倭國の倭奴國から別れた別種の旧小国の、倭國の附
庸国であり、筑紫の影響下にあるもの。 >>597
>4、纏向の次の王都は藤原は推理だが根拠うすい。藤原京以降の王都は?
藤原京以降の王都は平城京 畿内説の特徴は
中国の史書にいちゃもん付けること・・・これは中国と議論すべきこと
大陸との交易を示す物証が少ない事・・時代考証を変える強引さ
記紀神話の都合よい使い分け・・倭人伝と関係無いよ記紀は参考的にはいいが
文明の流れが西から東を理解してない事
纏向に頼りすぎだが、たんなる遺跡でもいいのに邪馬台国の所都としたがる。
テンプレ同様いかにも正論的な文書表現するが、詭弁に徹してる
一番の問題は、テンプレに反論述べる畿内説のやつがいない事
スレ主と仲間2人ぐらいじゃこの程度かも
新しい風が吹いてこない >>580
過去スレ読むといいよ
畿内説でも孝霊雁さんは纏向否定してますよ >>550
>九州と奈良は同盟であって上下はない<
大和は、
筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国で、
倭國の附庸國で、
倭國の地方の市を監督する「大倭」職であったから、
倭國の「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」では、
倭國の命令で、倭國の部下将軍して出兵応援をしなければならず、
対等同盟ではなく、上下関係があり、
大和は「下」であった。 畿内説も九州説もだけど
わからないことを「わからない」と言わないやつは嘘つきだよ
「わからない」と言えずにこじつけで無理矢理自説に持っていこうとする
それは全部妄想だよね?っていう
だから毎回根拠のないテンプレを貼り付けても畿内説=嘘つきってレッテルを自分で自分に貼ってるだけなんだよね >>601
むしろ九州説の方がイチャモンつけまくりに思う
短里とか水行20日は帯方郡からのスタートだとか >>604
ワカタケルの鉄剣が埼玉から出てる
戦争の定石は遠交近攻なんだよ
地域ごとに連合があったというのは間違い
九州内での争いを有利に進めるためにある勢力が奈良と結ぶ、とか
畿内での勢力争いを有利にするために北部九州と結ぶ、とか
そっちのほうが戦略としては定石
九州vs畿内じゃないんだよね >>605
言い分は良くわかるが
ここは畿内説のスレだから他説批判は????
テンプレ見てよ
>>68 1 ◆q8leUXpsw
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。 >>595
考古厨は何でここにいるの?
考古学板で相手にされないの?
バカなの? >>433
今の魏志倭人伝は12世紀の写本なんだろ
それより古い魏志倭人伝の引用のある史書は景初三年表記だから
現在散逸している魏志原本には景初三年とあった事になる 改めてテンプレ読んだら考古学的な説明に終始してるだけだった。薄い。
九州説側からは、なぜヤマトに移る必要があったのか
そして実際移ったのか?(筑紫から畿内へ何らかの影響が見られる痕跡)を説明できればいいんだね。 >>604
日本は倭の別種・・・近江王朝のこと
天智天皇は、白村江の戦いでボロボロになった大倭国政権(河内)の混乱に乗じて
百済残党将軍を集めて北部九州から近江までの広範囲を支配し
近江で大王に即位した
このとき、白村江の敗戦により倭国は唐の属国となっていたため
属国としての地位をリセットするために「日本」を名乗り、
「俺たちは倭国ではなく日本だから白村江は関係ないよ」ということにした
壬申の乱で近江王朝は滅びるが、対外的には日本を名乗ったほうが都合がいいのでそれの政権も日本を名乗り続けることにした これ意図的に外したなら、最後に削除と理由書かないと
↓
Part272まで
1日本@名無史さん2017/09/10(日) 18:57:17.26
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう Part272まで
1日本@名無史さん2017/09/10(日) 18:57:17.26
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう 614:おーーいスレ主2017/09/14(木) 19:49:18.62
これ意図的に外したなら、最後に削除と理由書かないと
↓
Part272まで
1日本@名無史さん2017/09/10(日) 18:57:17.26
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう >>613のつづき
ここで謎が生じる
「なぜ百済将軍は天智天皇に従ったのか?」という
大化の改新のとき、ある皇子がこんなセリフを残している
「韓人が蘇我を殺した!胸が張り裂けそうだ!」
天智天皇は百済王家の血を引いていた
天智天皇の父か母は百済王家の人間だろう
だから奈良や河内の大王家主流派には認められず、近江で即位せざるを得なかった >>608
>ワカタケルの鉄剣が埼玉から出てる
>戦争の定石は遠交近攻なんだよ
埼玉も阿波から黒潮の乗って関東に進出した、関東忌部の痕跡ですね。
戦争なんてしていませんよ。 拓殖して、今までにない文化・技術を伝授していますから。
今でも地元で忌部の神を御祀りしてくれています。 @阿波 その後大王となる天武は
記紀では天智天皇の同母弟とされているが捏造だろう
天武は天智派と旧倭王家派のバランスを取るように、
都の位置や皇后の出自をうまく選択している テンプレしかり畿内説は終焉に近い
九州にに邪馬台国があり、 倭国で無いが同じ倭種の国が畿内にあった方がいいんでねーの 行程外の後半20ヵ国が「東の海の先の倭種の国」だよ
倭種の国も倭国(邪馬台国連合)の領域 >>445
師出洛陽は鏡を作った人は洛陽出身の意
作った人の師匠が洛陽出身て意味じゃない
徐州は三国時代支配をめぐって激しい争いがあった地だが、
最終的には曹操が制圧して魏の支配地になった
景初三年は魏志曰く…と魏志の原本を引用している書には
景初三年表記なのでこちらの方が原文 邪馬台国=九州の東沿岸のどこか
邪馬台国の東の海を渡った先の倭種の国=中国、四国、畿内
狗奴国=南九州
水行は川
海を渡るときは海と書くからね
投馬=出雲も間違い
出雲にいくなら船から降りる必要がない 魏の使者の邪馬台国までの行程
日本海ルートはありえない
日本海ルートなら船から降りる必要がない
瀬戸内海ルートはやや可能性がある
しかし「東の海の先の倭種の国」が説明できない
やはり九州内にあったとするのが最有力
九州東沿岸に邪馬台国があれば「東の海の先の倭種の国」が説明できるだけでなく
「行程外の後半20ヵ国」を瀬戸内海の国々とすれば
土器などから見られる九州と奈良の政治的なつながりについても説明できる まだ後世の創作、作り話を信じているのか?
と言っている人がいなかった?
それと書いてあるでしょ、
渡来?そもそも日本人ではない >>552
>九州なんてマトマリはないでしょ <
畿内なんてマトマリはなく、
大和は、
倭國の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国の、
倭國の地方の市を監督する大倭職で、倭國の附庸國であり、
周りの河内や摂津や山城などは、
倭國の別勢力下であり、
出雲系銅鐸部族や、毛人や、半島渡来流民らの、
混合地域であった。 >>597
>4、纏向の次の王都は藤原は推理だが根拠うすい。藤原京以降の王都は?
こいつ、明らかにテンプレ読まずにいい加減なイチャモン付けてるだろ 「三国志」の著者は、葬式には、関心をもっていた。 たとえば、
「韓伝」「夫余伝」では、それぞれ、「槨あって棺なし」、
「高句麗伝」では、「石を積みて封となす」、
「東沃沮伝」では、「大木の槨を作る、長さ十余丈」
などと、いちいち書きわけている。 外見や容姿
縄文系、弥生系に見える・・・とか
そういう話も関係ない >>633
NO1からスレ読んだ方がいいよ
スレ主は指摘されて、苦し紛れでいろいろテンプレに盛り込んでます
纏向の後の王都は現藤原京の奥深く眠ってると言ったりしてるし
藤原から飛鳥、また藤原とも述べてるよ >>563
>そういう畿内説の人はいないな。 だから九州説は大和説という架空の存在を作るわけだ。<
いや、大和説というものは、明治時代からあったんだよ。
私の小学校時代では、「大和」時代という時代区分があったし、
学生の頃も、九州説と大和説の論争であったし、
40年位前から、大和説者は、
人口問題に困って、いつの間にか?、
「大和説→畿内説」の摩り替え、というインチキをやったらしいが、
現在でもマスコミは、「九州説と大和説」を対比させて、
記事を書いたり、アンケートをしたりしている。 従来の九州説の誤りは、邪馬台国連合を九州内のみに収まる小連合だとした点
それだと考古学的に明らかな九州と瀬戸内海、畿内とのつながりを説明できない
行程外の後半20ヵ国を瀬戸内海、畿内の国々とすればその問題も解決する
邪馬台国の時代から九州と奈良にまたがる国家連合があり
その都は九州東沿岸にあった >>565
>東征といいたいの? 記紀神話の東征関係無く、 九州勢力が畿内に勢力拡大し、東遷した、
記紀とからめる九州説の方もいますが 基本は、上記<
東遷ではなく、東征。
証拠は、「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」。 >>639
それは埼玉への東征
埼玉からワカタケルの鉄剣が出てるだろ >>638
>九州と瀬戸内海、畿内とのつながり
何のこと? >>576
>九州説に理由なし<
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説に、理由なし。 ワカタケル=雄略大王=倭王武
ここは間違いない
埼玉と熊本からワカタケルの鉄剣が出てくる
「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國」の通り
倭王武は中国南朝の臣下
隋が南朝を滅ぼし、後ろ楯を失った倭王権は弱体化
九州豪族が独自に外交を行うようになる
これが九州王朝の幻だよ >>578
>理由を言えない説は 成り立ってない説 失格確定<
出発点の「南→東」などの、
史料根拠や理由を言えない大和説は、成り立ってない説。
失格確定。 >>640
>ワカタケルの鉄剣が埼玉から出てる
>戦争の定石は遠交近攻なんだよ
埼玉も阿波から黒潮の乗って関東に進出した、関東忌部の痕跡ですね。
戦争なんてしていませんよ。 拓殖して、今までにない文化・技術を伝授していますから。
今でも地元で忌部の神を御祀りしてくれています。
こういう事を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 隋代に大和王権は弱体化し九州豪族は独自外交を開始
それが継体大王前後の政治的混乱や九州の磐井の乱につながる 九州王朝なんてものはない
ただ隋代に九州の豪族は独自に外交を行った
このとき豪族の中には「倭王」を名乗るものもいたかもしれない
幻の九州王朝のできあがり >>579
>畿内説は一本化されていないのですよ<
大和説は、出発点の始めから「南→東」などの嘘つきダマシの同じ穴の貉であり、
一本化など関係がなく、する必要もありません。
>纏向で一本化しようとしてますが、異論も内部で有るのですよ。 石野さん、関さん・・・それぞれれ意見はわかれますよ。
一本化する事態が愚かです、文献・物証の解釈が違うのですから。
正論はまだまだ先・・学者なら、意地を張らず、事実を探求し論を変えるのも誠実な考古学者と言えるでしょう。<
「正論」を望むのなら、「南→東」の嘘つきダマシを捨てて下さい。
学者なら、意地を張ってはいけません。
事実を探求して論を変えるのが、誠実な考古学者と言えるでしょう。 >>607
それがいちゃもんに見えるなんて、どうかしている。 >>612
>そして実際移ったのか?(筑紫から畿内へ何らかの影響が見られる痕跡)を説明できればいいんだね。
鏡を含む三種の神器を用いた神道の祭祀が畿内に波及したよ。
記紀も筑紫から大和に移動したと書いているよ。 >>647
その豪族とは筑紫忌部ですが、本国倭国(阿波)を差し置いて「倭王」を名乗るほど
愚かじゃありません。 @阿波 >>633
>こいつ、明らかにテンプレ読まずにいい加減なイチャモン付けてるだろ
グダグダ言わずに、答えればいいだけなのに、答えられないだろ。
畿内説は矛盾だらけ。 >>637
>>そういう畿内説の人はいないな。 だから九州説は大和説という架空の存在を作るわけだ。<
>いや、大和説というものは、明治時代からあったんだよ。
>私の小学校時代では、「大和」時代という時代区分があったし、
>学生の頃も、九州説と大和説の論争であったし、
なるほど。
大和説を名乗っていたのに、その大和から何も出土しないから窮して範囲を畿内説と広げたわけですね。 >>585
大和説者には、史料事実の理由を言うという習慣が無い。
つまり、大和説は、学説ではない。 >>638
>それだと考古学的に明らかな九州と瀬戸内海、畿内とのつながりを説明できない
瀬戸内海には明らかに別の部族、たぶん吉備、がいたよ。
考古学的にはね。 >>643
>隋が南朝を滅ぼし、後ろ楯を失った倭王権は弱体化
>九州豪族が独自に外交を行うようになる
中国からはずっと九州北部しか視野に入ってない。 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 弥生時代の青銅器の分布です。
https://goo.gl/m2KfqU
対馬・北部九州や瀬戸内に「武力」が展開されてます。
大乱を経験して戦時体制を取り続けた筑紫を中心とする倭国の領域がわかります。
魏の使いが滞在した外交の舞台である伊都を含む北部九州と、瀬戸内や関西は別の領域であり、奈良盆地は邪馬台国とは関係ない地方であることがわかります。 >>650
神道? 神道と言えばやっぱり「忌部の郷」でしょう。
忌部の郷 忌部山黒岩 忌部神社旧社地 真立石(上古神社鳥居)
http://i.imgur.com/aaVKHYN.jpg @阿波 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。 >>617
百済の天智が新羅の蘇我氏を殺したと言うことだよ 天武は倭國の王というのがまだわからん奴がいるのか、ばかもん >>661
完璧な訳ですねw
これなら全ての問題が解決してますね。 ほんとだ
テンプレから消えた
ー邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう しでん・かい、
かい・しでん?
コードネーム:ジョージ
・黄色と黒のストライプ
・おれがプリンスだ
・母親、母ちゃんが何やら >>656
それは北部九州の豪族が倭王を名乗ったから >>665
>ドルイドがどうした?
まさに、倭国(阿波)における ドルイド >>658
真っ当に文献の解釈をしたら叩かれるなんて、どうかしているよ。 >>667
読んでなかったから気がつきもしなかった。
畿内説が勝利宣言を取り下げたなら、敗北したということ? >>669
つまり倭国は九州北部のこと。
倭国女王である卑弥呼も九州北部にいた。
邪馬台国論争は九州説で決まりだよ。 >>607
むしろ大和説の方がイチャモンつけまくりに思う 。
「南→東」とか、全部長里とか、水行10日陸行1月は不彌國からのスタートだとか ・・・。 鷹 鷲の像?
電電太鼓の人形・・・笠の人形・・・など
同じ家だと思うんだけど、あの写真も、かなり詳しくない?
名前の読み方が・・・と言っているんだけど 川崎に来る前まで住んでいたところは、
伊達郡というところだと言っていたり >>608
>九州vs畿内じゃないんだよね<
大和は、九州倭國の別種分家の旧小国なんだもんね。 >>672
スレ主が、徐々に間違いに気づいたのチガウ
これだけ、反論に対応できなければ、王者の看板下げるしかないだろ
弱っちーーーーーーーー
次、あいつのことだら、意地で復活させるかもね きたーーーー
スレ主の一行オウム返し
なんの意味も無い
何の意味も無い このスレ暫く閉めて
貴君が学を積んでから又 立てるのも手ですよ >>611
>今の魏志倭人伝は12世紀の写本なんだろ<
写本においても、文字の間違いがあった確率は、0.5%よりはるかに小さいし、
魏志に限らず、古代文書は、全部、ほぼ12世紀の「底本写本版本」だよ。
>それより古い魏志倭人伝の引用のある史書は景初三年表記だから <
3世紀の魏志原本の後のはるか後代で、魏志を引用したように見える後代史書は、
全て「筆者の理解や解釈に拠る内容説明的な書き換え」になっているから、
信頼性が大幅に低下した半分×引用であり、
「景初3年」も、
魏志は景初2年であって明帝の時であり、
日本書紀と通典がはっきり「明帝」の時だった、と書いているから、
「景初2年の明帝の時」であった事は確実であり、
景初3年の間違い説は、×。
>現在散逸している魏志原本には景初三年とあった事になる<
はっきり明帝の時であった、と書いてある文書があるから、×ね、 紛いものには、何を言っても、わからないようだ
寺院に通っていたと言っているのに >>677
違う
大和王権(河内)の別種が近江王朝(天智天皇)で、これが日本を名乗った >>612
>九州説側からは、なぜヤマトに移る必要があったのか そして実際移ったのか?(筑紫から畿内へ何らかの影響が見られる痕跡)を説明できればいいんだね。<
盟主が、九州から大和に移ったのは、白村江の後の701年だよ。
武徳中に大和の日本国号を承認して、大和日本国の存在を知っている唐は、
白村江の対戦相手を「倭國」た「倭衆」や「倭賊」などと呼んでいたから、
大和日本國は、白村江の対戦相手ではなかった。 >>682
最近ザラコク、岡上、キウス以外の論客も来てます。
僕じゃないよ、僕はキウスの末端
>>638 この人だと思います。
。基本は九州説ですが。一利あると思います >>678
魏志倭人伝の記事と実際の地理を比較したら、一里が75メートルくらいの尺度で書いてありました。
それのどこがおかしいのか。
勝手に太平洋上に飛び出るとか騒ぐ方がおかしい。
伊都国や奴国までの里程は皆ほぼ一致しているはずなのに。 >>684
言ってる事が支離滅裂だなぁ
もし原本が景初二年でそれを引用した梁書、晋書、日本書紀等が
それぞれ景初三年と記したならその時点で誤記を犯している事になるんだが
どっちが正しくても誤記は普通に起こり得るありふれた物って事になる
そもそも日本書紀の記述には
明帝の景初三年六月、倭の女王、太夫難斗米を遣して…
と明帝の景初三年六月に使いを送ったとはっきり書いてある ワカタケルが熊本から埼玉までを制覇し中国南朝を後ろ楯につけるが
隋が南朝を滅ぼしたことで大和王権中央政府が弱体化
地方分権を許し九州が独自外交
磐井の乱を起こすが中央政府に敗北
中央政府は博多湾利権を回復
博多湾を回復した中央政府は積極外交によりどんどん渡来人を畿内に連れてくる
新羅系渡来人と百済系渡来人が中央政府内で勢力争い
これが大化の改新、壬申の乱にまでつながる >>688
https://goo.gl/m2KfqU
魏の使いが滞在した倭国の外交の舞台である伊都を含む北部九州と、瀬戸内や関西は別の文化圏であり、倭国や邪馬台国とは関係ない地域であることがわかります。 >>691
もともと筑紫が中国との交流の主役だよ。 >世有王、皆統属女王国。郡使往来常所駐。
魏の時代には伊都国に(女)王がいて、周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
伊都国は郡使が往き来して常にとどまるところでもある。
漢委奴国王印は倭奴国に下賜されたが、考古学的には伊都国の歴代王墓の時代なので、伊都国と倭奴国は同じ国であり、表記が違うだけである。
伊都国が、王権の所在地であり、外交の舞台でもあった倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は、伊都国にいたと書いてあることになる。 >>689
実際当てはめてみたら40m〜150mになると
判明しているから1短里75mは違う事がわかっている
そもそも短里を証明する中国の書とかモノサシ等の証拠品がない >>688
九州説には理が無いということ
お後がよろしいようで >>695
1里=40〜150mでいいじゃない
400mじゃないことを理解できてれば上等だよ >>698
記録した人は1里400mの積りで書いたはずだよ
当時の中国に普通の里以外なかったんだから 僕なりに分類すると
岡上さん・・伊都国中心の九州説で物証に強い、倭人伝の解釈に長ける
ザラコクさん・・はば広い知識あり、細部に畿内説を崩す
キウスさん(数多い)・・・理系的謎解きでテンプレ崩し、推理は嫌いたまに冗談を言う
他・・・やたら記紀に強く畿内説を退治する
他・・・思い付きでカキコム人(石ころが多いが、たまに宝石を見つける) 詳しいことはわからないけど、
王族の軍人?などがいたのかな
王や王子などは戦闘しないような、
イメージがあるんだけど
家も行っていないと言っているし、
そのような制服は来ている 短里ってトンドモ説だろ。
当時の公式である「1日=30里」で計算すると1万2千余里になるので短里なんて珍説を使う必要なし。 >>701
記録した人はそうかもしれないけど、陳寿に政治バイアスがかかってると思うね >>702
見事なまでに事実と逆で
じつに九州説らしいや >>700
倭人伝を書いた陳寿は当たり前だが
実際に邪馬台国のある場所を知らなくて「1日=30里」で計算しただけだよ 葱の華・・・とか、
軍の人のような制服を着ている子供、
親も写っているでしょ
そういう家ではないと言っている >>707
計算なんてしてない
実際に20日かかったからその通り記しただけ
なぜ実際に日数をかけて旅行してるのに、計算しなおす必要があるのか >>473
実際鏡には景初三年、四年、正始元年とそれぞれ年号入りだから
四年はともかくこれは複数年に渡って鏡の下賜があった可能性を示している もう一度貼り付けてみるから、
しっかりと調べてみて
子供の通っていた
学校の制服でもないと言っている 当時の公式「1日=30里」
水行30日、陸行一ヶ月、合計60日
30×60=1800
不弥国まで10700里
1800+10700=12500(1万2千余里)
※倭人伝を書いた陳寿は邪馬台国の場所を知らなくて
当時使われていた公式「1日=30里」で計算した。これでまったく疑問はない >>690
日本書紀の記述が明らかに間違ってるなw
記紀は500年後に書かれたものだから間違っててもしかたがない。 >>509
しかしそれだと三角縁の銅素材は三国・西晋時代のものという
解析結果と矛盾が >>692
畿内説の得意とする人文を崩しますか。
彼ら畿内説は人文が強いからヨロシク
・・・・・多分に皇国史観が入りますが文明より文化に強いから >>715
博多湾岸の国が100里(40キロくらい)間隔ってのはリアルじゃない? >>716
陸行も水行も同じかい、ザル計算ですなw http://iup.2ch-library.com/i/i1850032-1505396589.jpg
左のほうにキュウリのような葉、
右のほうに葱の華が写っている
実際の写真は、もう少し銀色、灰色のような色 >>720
なにも崩せない
じっさいテンプレにも反論してない
九州説は何もできない
逃げてるだけ >>661
常治伊都國の主語は一大率ではあり得ない
一大率は刺史のようなものであり監察機関であるから
治めるなんてことはしない
自女王國以北を治めるのは女王しかいない。 >>722
ザル計算だけど、公式を使った計算だからな
短里とかの珍説とは次元が違う >>709
岡上さんとザラコクさんは明らかに違う
私はキウスと何度か呼ばれた、岡上さんやザラコクさんの真似はできない
だから3人とも違う人物 >>727
なんだい公式っていうのは
どこかに載ってるの? >>726
治するっていうのは事務所を置くって意味なんだが >>724
初めてここに来た人は、まず過去スレ読むこと
たぶんあんたスレ主でしょ >>717
魏書に曰く、とあるから魏志倭人伝を引用した
そこには景初三年とあったんだろ
日本書紀だけじゃなく原本魏志を引用した晋書、梁書、北史、翰苑も三年
二年でも四年でもなく
揃って一致しているという事は原本の古い魏志にはそうあったんだろう >>650
その祭祀は、
鏡を使った祭祀は、物部ニギハヤヒの祭祀だけど
今宮中祭祀は八神を祀るという。どのような経緯で八神に至ったのか説明できねば。
宇佐古伝によれば、大和に王朝を建てたのは
皇別宇佐族の宇佐稚屋だそうです。
王都 厳島から東征。 ザラコクさん、岡上さん、キウス(これは本物の人として)さんの
共通点を見つけた、九州説に間違いないが
3者とも冷静だし、荒い汚い言葉はめったに使わない 老婆の話からいっても、
確実に大正時代よりも前の写真だと思う >>740
これほど事実と反対のことを言うのは誰かな? >>732
事務所を置くなんて独自の意味を創作したらいかんよw
馬鹿なこと言って恥ずかしいくないのwww >>718
魏の年号が書いてあるから国産って
そんな理屈まかり通ったら世の中のもの全て信用できなくなるわ
三角縁を国産としたいなら鏡に銅出不彌国 師出奴国とでも書いてなければ
証明にならんから なぜか伊達郡、川俣町の話をしていたり
東だったかな西福沢? >>734
梁書も北史も「至魏景初三年,公孫淵誅後」と作者の主観で書き換えてるのが明らか 734
むしろ日本書紀に明帝の名前が出てくるのだから、景初三年はあり得ない >>740
努力家であると思うPART273までスレを維持してきたのですから。
喜怒哀楽は激しい方で一途な方・・頑固な面もあれば、素直に修正、加筆もする
総じて感謝はしてます
ここまで遊ばせてくれてるのですから 当時?住んでいた家、
本や書なんかが、ずらーっと沢山あったと言っている >>750
それで証明になるのか?
>>752
魏書曰くと書かれてあり、つまり魏志倭人伝を引用したとある 九州説者が入り浸ってるのに誰も畿内説に反論しない
不思議なスレ 失礼しました
>>744でした
スレ主の評価ですか、僕的には
努力家であると思うPART273までスレを維持してきたのですから。
喜怒哀楽は激しい方で一途な方・・頑固な面もあれば、素直に修正、加筆もする
総じて感謝はしてます
ここまで遊ばせてくれてるのですから >>757
遊び遊ばれ 楽しいじゃないですか。
遊ばれるのも良い事です。感謝、感謝 結局、邪馬台国は九州に、、、、
それだけのこと。。。。。 今夜のキウスは何時もにも増してブッ飛んでるな
家族はこんなアブナイ奴を野放しにしてていいのか? >>765
>>756 で何を言いたいのかさっぱり分からん ウソをつくと信用をなくすって、これまでの人生で教えてくれるひとはいなかったのかねぇ >>769
そっから説明しなきゃイカンの?
面倒だからいいや 学校?
嘘の話を教えていたりするのかな、
専門的に教えていないとか
例えば誰々の家の三男は出家して、
どこそこへ行き、地元の家の・・・と結婚して・・・とか 日本書紀に明帝の名前が出てくるのだから、景初三年はあり得ないも
大概意味がわからんな このような話とか
出家した後に、地方へ行き・・・
そこの地元の人と結婚して・・・子孫も むかーし住んでいたことがあるんだよ
というところ
周辺に在家?そのような地名があったり、
凄い土地を持っていたとか
寺院に通っていたとも言っている >>770
経験から学べないから九州説をしていると >>773
そりゃお前が歴史を知らないからだろ
死んだ皇帝が出てくるのか なぜか詳しいんだよな〜
在家という地名、
お前の家(もれの家)は山の上のほうに住んでいて、
凄い土地を・・・とか 老婆の言う、
おまえの家=その写真の家
家の先祖なんだけど・・・何か知っている人はいないのかな 筋肉少女帯の曲と同じような事を言っている
むかし住んでいるところから、
こっちへ出てくる時も挨拶に回ったんだよ。
本や書なんかも、あげたのか・・・
近所の人が持って行っちゃったのか・・・。 ありがとう、ありがとう、いままで、お世話になりました
と
近所の人たちに挨拶して回ったんだよ
筋肉少女帯の曲? >>700
>>>698
>記録した人は1里400mの積りで書いたはずだよ
>当時の中国に普通の里以外なかったんだから
根拠なし。 >>724
何も証明できていない畿内説はどうなのか。 >>753
妄想家だよ。
テンプレを事実だけに絞って論点を明確にするべきだね。
現状では議論のたたき台にすらならない。 ザラコク…すでにアレ過ぎて自分がウソをついていることすら認識できない
岡上…自分に酔いしれて自らのウソが現実だと信じ込みさらにウソを重ねる
キウス…ウソをつくことは悪いこと、恥ずかしいことだとは全く思わない環境で生長 >>778
だから魏志曰くとあるように
原本の魏志倭人伝にそう書いてあったんだろ
今目にする魏志倭人伝の訳文は原本ではなく
紹熙本、紹興本等12世紀の写本
原本よりおよそ1000年後のものになるから
説明端折るけれどこれには間違いが多いから >>791
原本に明帝の名前が出てたというのか
書写ミスじゃなくて明らかな書き換えだな >>792
さあ何の積りだったのかは知らんけれど
景初の年号の積りで書いたのかもな
とにかく景初三年はそれ以外の文献にも出てくるから
紹熙本、紹興本の二年は間違いの可能性がある 何の話なのかわからないけど、
あるでしょ
『伊達郡 川俣町 在家』
蚕を飼っていて、機織りの話もしていた 伊達郡の▢在家という地名があるでしょ
そこに住んでいた人と結婚したんだよ
と言っている
蚕を飼っていて、機織りなんかをしていた家
かなり詳しくない?
植松という地名もあったり、家は福沢町? >>793
何も理解してないね。
梁書で「公孫淵誅後」と魏志にない注釈をわざわざ入れてるだろ
それは梁書の作者が原本を「二年→三年」に修正した理由を付けて転記ミスじゃないと言いたいから。
つまり、逆に魏志の原本は「二年」だったことを証明しているんだよ。
>さあ何の積りだったのかは知らんけれど
>景初の年号の積りで書いたのかもな
何を言いたいのかさっぱり分からない。
日本書紀の場合、「明帝の景初三年」とあるけど、これは歴史的にあり得ない。
つまり、「明帝」か「景初三年」のどちらかの情報がおかしいわけだ。
とすると、違う皇帝名が伝達されたと考えるよりは、年号がどこかでミスがあったと考える方が合理性があるだろ。 >>796
明帝の時に朝貢したという伝承があったのかもしれんね たしか福沢町というところだったような
羽山の森美術館?その周辺? むかーし、そこに住んでいた事があるんだよ
と言っているけど
ストーカーがいるのかな? 614:おーーいスレ主2017/09/14(木) 19:49:18.62
これ意図的に外したなら、最後に削除と理由書かないと
↓
Part272まで
1日本@名無史さん2017/09/10(日) 18:57:17.26
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう >>694
魏志倭人伝には明確に伊都国が卑弥呼の都だと書かれているよなw
明治以後の学者の学力が低くて誤読してただけで元々論争する余地とかなかったんだ。 >>749
流石に通説では治を事務所を置くなんて訳してないよ
通説まで捏造ですかw >>621
>行程外の後半20ヵ国が「東の海の先の倭種の国」だよ
倭種の国も倭国(邪馬台国連合)の領域 <
ダメだよ。
倭人伝では、
「行程外の後半20ヵ国」と、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」とを、
はっきりと書き分けているから、
「違うものだ」という認識だ。 >>624
>師出洛陽は鏡を作った人は洛陽出身の意
作った人の師匠が洛陽出身て意味じゃない<
ダメだ。三角縁などの作者は、
自分の紹介では、「〜氏作」などと書いており、時には「尚方作」と書き、
自分を「師」という尊称で書いている例がない。
>徐州は三国時代支配をめぐって激しい争いがあった地だが、
最終的には曹操が制圧して魏の支配地になった <
そんな事は、何の論点にもならない。
作者は、自分が所有して鏡製作に使った銅が、「有名な徐州の銅だ」と持ち上げているだけだ。
作者は、自分の持っている銅や自分の師匠を持ち上げて、自分の作る鏡の価値を上げよう、としただけだ。
彼は、「そうしなければならない境遇や地位のあった」という事を示すだけだ。
>景初三年は魏志曰く…と魏志の原本を引用している書には
景初三年表記なのでこちらの方が原文 <
後代史書説明情報は、当然「自己解釈による書き換えでの内容説明を」をする半分×情報だ。
そして、それらの中で、時の皇帝は明帝であった、という情報は、
宮中記録などを見ていなければ書けない情報だ。
だから、卑弥呼の遣使が面会したのは、明帝が存命中であった景初二年であったのだ。 >>627
>投馬=出雲も間違い
出雲にいくなら船から降りる必要がない <
「南≠東」だから、×だ。 >>629
>九州東沿岸に邪馬台国があれば「東の海の先の倭種の国」が説明できるだけでなく
「行程外の後半20ヵ国」を瀬戸内海の国々とすれば
土器などから見られる九州と奈良の政治的なつながりについても説明できる<
ダメだ。
倭人伝は、
「行程外の後半20ヵ国」記載と、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」記載とを、
「復有國」として、はっきり「違うものだ」として、書き分けている。 >>803
傍国は女王国内で自女王国以北外の地域
つまり女王国の南側の国々ですね
倭種は女王國の東ですから女王国に含まれない東方の国々ですね。 >>632
>>(大和の)周りの河内や摂津や山城などは、 倭國の別勢力下であり、
出雲系銅鐸部族や、毛人や、半島渡来流民らとの、 混合地域であった。<
>九州の出身でもない <
「東征毛人五十五國」であるから、支配層は確実に九州倭國の人々だ。 >>802
通説だよね
佐伯有伯「常に伊都国に駐屯していて」「いつも伊都国で政務を執り」「いつも伊都国に役所を置き」
松尾光「いつも伊都国に駐在していて」
藤堂・竹田「駐屯して統治の任にあたり」
田中俊明「いつも伊都国を治所にしている」
誰でも主語は一大率 >>634
>「三国志」の著者は、葬式には、関心をもっていた。 たとえば、
「韓伝」「夫余伝」では、それぞれ、「槨あって棺なし」、
「高句麗伝」では、「石を積みて封となす」、
「東沃沮伝」では、「大木の槨を作る、長さ十余丈」 などと、いちいち書きわけている。<
だから、ホケノや吉備の「有槨」は、
扶余や 東沃沮の流民の渡来を示している事になる、
と言っているのだ。 魏志倭人伝には、伊都国が千戸しか人がいないと書かれている。漢数字で千と万は間違えるはずはないので、実際千戸程度しかいなかったんだろうね。
もう一つ魏志倭人伝には、一大率が伊都国に置かれているとある。
3世紀半ばに大兵団が置かれていた場所の候補地は博多那珂地区しかない。
博多も区域としては伊都国に含まれるが、一大率が支配していたのだろう。
つまり伊都国は、平原周辺(王とその取り巻き)以外の大部分を一大率に召し取られたと考えると矛盾がない。
魏志倭人伝によると、
伊都国から奴国までは百里、奴国から不弥国まで百里とある。また不弥国からは南へ船で20日進むとある。
不弥国は周防灘に面した国と考えるのが妥当。
奴国は不弥国と伊都国の中間にある。地図を見ると遠賀川がその辺りにある。
遠賀川流域は、縄文時代〜弥生時代にかけての石器の一大製造拠点。その石器は九州全土に広がり、特に九州北部に強い影響力を持っていた。
また遠賀川流域の飯塚市から、行橋市には古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路であった。
奴国は2万戸の大国であり、遠賀川流域一帯の国であったと考えられる。
問題は不弥国である。
魏志倭人伝によると伊都国と同じように千戸しかないとある。壱岐ですら三千戸であることを考えるとかなり不自然。
行橋市の北は京都郡、苅田。
石塚山古墳など早期の前方後円墳がある。
巨大古墳のあるところは、労働力の集積地(非農業人口集積地)。つまり拠点地域。
不弥国も伊都国と同じように、大部分の領地を女王国に召し取られた可能性がある。
その地域支配の拠点が苅田辺りに作られていた可能性がある。
九州北部支配の拠点、博多那珂地区の一大率と苅田の駐屯兵団。少なくとも二ヶ所は魏志倭人伝の時代から存在。 女王国とは、卑弥呼を共立した30ヶ国の総称。卑弥呼を王としているので、30ヶ国には王はいない。よって投馬国には、王の記述はない。
王がいる伊都国、狗奴国は女王国ではない。
狗奴国は邪馬台国と敵対する国、伊都国は服属する国属国である。
ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。
奴国や不弥国、末盧国などにも王はいないが、同じ官が置かれている。これらの国々は、博多に置かれた一大率の管轄下にある国々である。
もちろんこれらの国々は女王国(卑弥呼を共立した30ヶ国)ではなく、女王国の管轄下にある属領である。
九州における女王国メンバーは、九州南部を中心とする五万戸を擁する投馬国で、九州一の大国である。投馬国は神武の本貫。 女王国まで12,000里、つまり不弥国と投馬国の境界まで12,000里である。
女王国の北、つまり投馬国より北は、一大率の管轄エリア。
一大率は、吉備と神武の本貫投馬国の兵団である。
一大率を統率したことが、天皇家が筑紫を支配下に置いた始まりである。 >>638
>従来の九州説の誤りは、邪馬台国連合を九州内のみに収まる小連合だとした点
それだと考古学的に明らかな九州と瀬戸内海、畿内とのつながりを説明できない <
出来る。「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」と書き分けられている。
>行程外の後半20ヵ国を瀬戸内海、畿内の国々とすればその問題も解決する <
「南≠東」であるから、×だ。
>邪馬台国の時代から九州と奈良にまたがる国家連合があり<
嘘を付くな、大和説者。
奈良は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国の、倭國の附庸國だ。
>その都は九州東沿岸にあった<
卑弥呼の頃の倭國の都は、弥生銀座だ。 >>805
景初二年だか三年だからでいろいろいうてるけど
二年だったら下賜鏡と言えるの?
紀年が入ってないものはどうなるの?自動的に下賜鏡になるの? >>807
発言を否定するだけの書き込みなら
書き込まないでくれる?読んでて不愉快だから。
否定するのが反論だと思ってるようなら議論にならんから。そこまで否定するなら否定できるだけの根拠を示してくれな。考古学的な。 >>813
これはかなり説得力ある。
>>815
話が噛み合ってないから。 >>809
ワカタケルの鉄剣が熊本と埼玉から出てる
東征は埼玉 >>810
君は幼稚すぎるなw通説じゃないよ。
伯有伯なら「常に伊都国に駐屯していて治めている」「いつも伊都国に役所を置き治めている」ですから「駐屯していて」「役所を置き」は「常〇伊都國」を意訳したものです、治に「駐屯していて」「役所を置き」なんて意味はありませんよ。
>藤堂・竹田「駐屯して統治の任にあたり」
>田中俊明「いつも伊都国を治所にしている」
これは「統治の任にあたり」「治」が治をさいてますね
監察官の一大率は統治したり治したりしないですから
主語を一大率にする訳は変てこりんですね。 >>640
>(自昔・・・東征毛人五十五國)それは埼玉への東征<
稲荷山は、倭國とはまだ独立的な毛人蝦夷の国だ。
>埼玉からワカタケルの鉄剣が出てるだろ<
稲荷山の鉄剣は、
中心線上の主葬の粘土槨の若様王の 横の、礫床での「(若様を)左治した部下」が所持していたものであり、
「ヲフヒキ」の子孫であって、「大彦」の子孫でもなく、
倭國や、その別種の部下の大和とは、直接的な関係がない。 >>815
「倭の別種の旧小国の日本」という記述が出てくるのは邪馬台国の時代よりずっと後の旧唐書 >>821
ワカタケル=雄略大王=倭王武
ここは間違いない
埼玉と熊本からワカタケルの鉄剣が出てくる
「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國」の通り
倭王武は中国南朝の臣下
隋が南朝を滅ぼし、後ろ楯を失った倭王権は弱体化
九州豪族が独自に外交を行うようになる
これが九州王朝の幻だよ 七支刀の「倭王旨」の記述をもって九州王朝うんぬんを言うならわかるけどね >>814
狗奴国の王は女王卑弥呼と敵対してたから王を自称してたのは分かるが
伊都国の王は何だ?
倭王卑弥呼がいるのに伊都国に別の王がいるはずないだろw
伊都国の王=倭王卑弥呼だよw >>823
ワカタケル=雄略大王=倭王武は何の根拠もないし
妄想だからw あの字をどう読めばワカタケルと読めるんだろうか
まともな説明を見た事がないんだが >>801
お前、馬鹿なのか。
倭人伝には伊都国には一大率がいたと書いてあるんだよ。
女王がいるのは邪馬台国と書いてある。 魏に属してる女王国にも王がいるのに女王国に属してる伊都国に王がいるのはおかしいってどういう理屈だよ >>826
お前馬鹿なのか。
中国や日本の歴史書と年代などが合うからワカタケルは雄略天皇と言われているんだろ。
それを無根拠あつかいするとは >>829
伊都国の王は邪馬台国に支配されていたってことでしょ。なにがおかしいの 年代が合うからというだけの理由で当て嵌めるのを無根拠のこじつけといいます >>827
お前馬鹿なのか。
普通に読んだらワカタケルだよ >>825
王は各地にいたんだよ
それぞれが王を名乗った
だから王をまとめる王として「大王」という称号が出てきたんじゃん >>643
>ワカタケル=雄略大王=倭王武 ここは間違いない<
「雄略大王=倭王武」が間違い。
「大王」も間違い。
大和の雄略は、倭國の別種の旧小国の附庸國の王。
>埼玉と熊本からワカタケルの鉄剣が出てくる <
稲荷山の(鉄剣所持の左治の)の陪葬のヲフヒキは、
中心線上の主葬の粘土槨の若殿の「カタシロ大王」の左治の地位だから金象眼。
江田船山の王は、筑紫倭國の肥後の武将クラスだから、銀象眼。
>「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國」の通り 倭王武は中国南朝の臣下
隋が南朝を滅ぼし、後ろ楯を失った倭王権は弱体化 <
逆。
倭王武らは、倭武天皇や百済本気の「日本国天皇」の記録のように、
天子のNo.1臣下の「天皇」を自称したようだが、
タリシホコの時には、隋と対等のつもりでの「天子」を名乗っている。
九州豪族が独自に外交を行うようになる
>これが九州王朝の幻だよ<
「これが九州王朝の幻」が、幻だよ。 で、九州豪族が王を名乗り外交、貿易をすれば
海外資料には「倭王」として記される
しかしその倭王は大王ではない
九州王朝の幻 倭王旨の名前が入った百済からの七支刀が奈良の物部の神社から出てくる
物部の祖先はウマシマジ
ウマシマジ=旨
ある時期において大和王権の王統は物部だった
多元王朝説は九州vs畿内ではなく、
畿内vs畿内なんだよ
正確には
畿内〜九州にまたがる連合vs畿内〜九州にまたがる別連合 >>646
>隋代に大和王権は弱体化し九州豪族は独自外交を開始<
関係なし。
九州倭國は、白村江の大敗まで列島の盟主であり、大和の併合吸収継承されて、
701年に大和が列島盟主になった。
>それが継体大王前後の政治的混乱や九州の磐井の乱につながる <
越の出身で大和を支配したらしいヲホドに、一旦磐井が倒され、
大和が秦王國として倭國の王家の一員に参画出来たようだが、
それでも倭國は、タリシホコが出て、尚も列島の盟主であり続けた。
大和が日本國として独立的になったのは、
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」の時であり、
「日本國」名を認められたのは、ようやく唐の武徳中になってから。 >>820
それは無知による誤解だな。
後漢末〜魏の刺史は行政官化している。 >>825
没落して女王の子分に身を落とした小国の王だよ >>647
>九州王朝なんてものはない<
701年まで、列島盟主として存続し、その後も「残影」が残り続けた。
>ただ隋代に九州の豪族は独自に外交を行った<
大和は、小野妹子が隋文帝に日本国を名乗って認められず、
唐の武徳中になってようやく日本国名を認められた。
>このとき豪族の中には「倭王」を名乗るものもいたかもしれない 幻の九州王朝のできあがり <
白村江の後の701年までは、「幻の大和王朝」。 4世紀中盤の倭王旨の時代は物部政権だった
崇神が物部の本拠地である三輪山に入り婿してることからも明らか
4世紀において天孫と物部は対等な同盟で、倭王を輩出しあってたんだろう
3世紀〜5世紀は
葛城、物部、天孫が三大勢力
6世紀から渡来系が勢力を伸ばすようになる
これはやはり磐井の乱の鎮圧により大和王権が玄海灘航路を確保して朝鮮半島との関係が密になったからに違いない 神功皇后は嘘
実際に朝鮮半島出兵したのは倭王旨の軍
つまり物部
百済から七支刀を送られたのは倭王旨=物部王ウマシマジ 獲加多支鹵、装飾古墳のタイプ、後の防人等から
北部九州グループ(+関東)
vs
南部九州グループ(+瀬戸内、畿内) 倭の五王は研究するのに倭王旨についての研究は薄すぎる
海外文献に残された史上四人目の倭王なのに >>847
北部九州グループに河内を入れるべき
ワカタケル=雄略の墓は河内にある 畿内での勢力争いのために畿内のあるグループは九州のあるグループを抑え
畿内の別のグループは九州の別のグループを抑える
こういう構図が正しい
畿内vs九州ではなく、畿内+九州のグループvs別の畿内+九州のグループ 河内と大和は一枚岩じゃない
大和は大和で葛城と三輪で勢力争い
畿内でひとくくりする歴史観がそもそもの間違い ぼくちゃんの脳内こだいしとかチラシの裏にでも書いてろ >>847
詳しく。
北部とは筑前+豊
南部とは肥+日向ということ?
大分にも装飾古墳があるから
筑前 豊前
肥 日向豊後
と考えれば良い? >>690
>言ってる事が支離滅裂だなぁ
もし原本が景初二年でそれを引用した梁書、晋書、日本書紀等が
それぞれ景初三年と記したならその時点で誤記を犯している事になるんだが <
何にも判っていないようだなあ。
それが、「写本版本での誤記」にはなっておらず、
後代史書における「前代史書記載の自己解釈による書き換えの内容説明」になっている、
という事だよ。
>どっちが正しくても誤記は普通に起こり得るありふれた物って事になる<
後代史書の「前代文書の内容説明」文は、「書き換え」であって、
写本や版本のような「転写」ではないよ。
>そもそも日本書紀の記述には
明帝の景初三年六月、倭の女王、太夫難斗米を遣して…
と明帝の景初三年六月に使いを送ったとはっきり書いてある<
書紀は、
魏志には「明帝」なんて書かれておらず、景初二年としか書かれていないのに、
(おそらく起居注などの記録を知って)「明帝であった」事を知って「明帝」と書いたが、
おそらく、
梁書などの「至魏景初三年、公孫淵誅後、卑彌呼始遺使朝貢」を見て、
「景初三年と書き換えたアホで」あったんだよ。 >>691
>ワカタケルが熊本から埼玉までを制覇し<
雄略は制覇していないし、倭国も埼玉を制覇していない。
>中国南朝を後ろ楯につけるが <
倭國は、始めから南朝の臣下。
>隋が南朝を滅ぼしたことで大和王権中央政府が弱体化 <
大和王権は、始めから筑紫倭國の別種の旧小国の附庸国であった。
>地方分権を許し九州が独自外交 <
筑紫倭國は、始めから、中国の臣下の地位。
>磐井の乱を起こすが中央政府に敗北<
磐井の乱は、実態は筑紫倭國に対する物部と越のヲホドの、クーデター的反乱。
>中央政府は博多湾利権を回復 <
この中央政府という表現は、大和が列島盟主であった、という嘘つきダマシを隠すための詐欺文言、
史料事実は、大和は倭國の別種の旧小国。
>博多湾を回復した中央政府は積極外交によりどんどん渡来人を畿内に連れてくる 新羅系渡来人と百済系渡来人が中央政府内で勢力争い
これが大化の改新、壬申の乱にまでつながる <
これも、史料実態を曲解捏造する分裂幻覚の妄想の一種。 獲加多支鹵はワカタケルとは読めないはカクカタシロでしょ? 那珂八幡を3世紀中とか言い張って古墳の発展史もしらんで神武東征の謎を解いたとかわめいてたバカもいたし
「ぼくののうないこうだし」とかイチイチここに書くなよ鬱陶しい 布留式が出てるのに3世紀だと言い張るキュウシュウセツ
ほかで布留が出ると4世紀だ!と発狂するのにこれだからバカは >>695
>実際当てはめてみたら40m〜150mになると 判明しているから<
これも、大和説者?に特有の史料実態の曲解データ。
実際には、有効数字1桁程度の近似値になる記載で、50〜90m位(平均70〜80m位)の記載。
>短里75mは違う事がわかっている <
長里の435m位は、全く違っており、嘘つきダマシである事が判っている。
>そもそも短里を証明する中国の書とかモノサシ等の証拠品がない <
周髀算経の「一寸千里の法」が、
「尺寸系モノサシと里歩系モノサシとの換算規定の定規」になっている。 公式資料だと全部4世紀と書いてるな那珂八幡
卑弥呼の墓だとか言い張ってるやつらはこれだけはいつも古くしたがる >>696
大和説には、「史料事実の理」が無いということ。
お後がよろしいようで 。 >>700
>記録した人は1里400mの積りで書いたはずだよ
当時の中国に普通の里以外なかったんだから<
後漢末に再収集注釈をされた周髀算経の「一寸千里の法」の規定は、
始皇帝の「1歩=6尺」の里歩系と尺寸系との換算命令や、1里≒400mを否定し、
1里≒76〜77mの、周代からの普通の里が公用されていたことになっていたんだから。 布留というか布留と同じような時期の土器だな
まぁ300年ごろだろう >>704
>短里ってトンドモ説だろ。 当時の公式である「1日=30里」で<
嘘を付くな。
三国志では、陸行では、「昼夜三百里」や、「能く歩行す、一日二百里なるべし」であり、
長里ではなく、明らかに短里だよ。
>計算すると1万2千余里になるので<
何を計算したのか?知らんが、1万2千余里は陸行と水行の合計だよ。
>短里なんて珍説を使う必要なし。<
長里では、全く合わない。 >>865
それは精神の特殊な現代人のトンデモ読み 経歴詐称ジジイの小便着色捏造本を経典として崇め奉るキュウシュウセツだからな
まぁ院尿カルト信者に何言っても無駄 >>705
>記録した人はそうかもしれないけど、陳寿に政治バイアスがかかってると思うね <
陳寿は、記録を転写的引用をしただけだけども、
この男は、
皇国史観大和説でなければならない、という思想宗教政治的なバイアスがかかっていて、
三国志の記載を、どうしても抹殺しなければならない、
という・・・・であった、と思うよ。 >>>865
>それは精神の特殊な現代人のトンデモ読み
今時
周髀算経
知らんのはいかんよ。 物部系 大王ニギハヤヒ→有力豪族→大王ウマシマジ(倭王旨)→有力豪族→物部守屋死亡で政府中枢から脱落
葛城系 大王事代主→最有力豪族→孝霊〜崇神の出雲討伐により政府中枢から脱落→鴨氏として神職に転向
天孫 神武→有力豪族(欠史八代)→大王崇神→その後も継続して大王を輩出 >>706
見事なまでに事実と逆やで。
じつに「南→東」などの、史料事実を否定曲解する嘘つきダマシの、
大和説者らしいや。 >>707
>倭人伝を書いた陳寿は当たり前だが
実際に邪馬台国のある場所を知らなくて「1日=30里」で計算しただけだよ <
嘘を付くな、サギシ。
三国志では、「駑牛」や「昼夜」で一日300里と書かれており、
「歩行」では一日200里だと書かれているんだよ。 いつのぞいても、根拠薄弱のテンプレートが、論破されているね。。。。 >>877
いつのぞいても、キウスが、嘘ばかりついているね。 >>713
>実際鏡には景初三年、四年、正始元年とそれぞれ年号入りだから
四年はともかくこれは複数年に渡って鏡の下賜があった可能性を示している<
ウソを付くな。
明帝の下賜品の確定詔書は景初二年で、景初三年は、喪に服して慶賀は無くして、
次の正始元年に詔書の実行をしたんだから、
「景初三年、四年、正始元年」鏡が下賜鏡では有り得ず、
下賜も1回だけ。 獲・・・・・・呉音 : ワク、漢音 : カク(クヮク)
加・・・・・・呉音 : ケ、漢音 : カ
多・・・・・・呉音 : タ、漢音 : タ
支・・・・・・呉音 : シ、漢音 : シ
鹵・・・・・・呉音 : ロ、漢音 : ロ
呉音で読んでワクケタシロ
漢音で読んでカクカタシロ
ワカタケルとは読めないなw >>715
>里数は過去文献からパクってるだけだぞ<
また、大和説者が、
三国志では陸行については、
「駑牛」や「昼夜」では一日300里と書かれており、
「歩行」では一日200里だと書かれている、という事を隠して、
「里数は過去文献からパクってるだけだぞ」という嘘つきダマシの宣伝をしている。
まるで、「南→東」などの嘘つきダマシとそっくり。 >>880
知ってるか?
漢音も 呉音も 所詮は日本語なんだぞ >>716
>当時の公式「1日=30里」 <
三国志では、陸行については、 「駑牛」や「昼夜」では一日300里と書かれており、 「歩行」では一日200里だと書かれている。
そして、古田さんの計算では、水行は「1日450里」。
>水行30日、陸行一ヶ月、<
投馬國へは、移動の動詞が記載されていないから不彌國からの側副傍線行程記載であり、
「女王之所都、水行十日陸行一月は、不彌國からではなく、「從郡至倭」の日数説明。
>合計60日<
魏使らが実際に通った「自郡至女王國萬二千餘里」は、不彌國でほぼ終わっている。
>30×60=1800 <
一日30里ではないし、水行の記載はないから×。
>不弥国まで10700里、<
對海國と一大國の国内見聞移動の里数が算定されていないから、インチキ数字。
>1800+10700=12500(1万2千余里) <
對海國と一大國の国内見聞移動の里数も算定すれば、13400里になり、1万2千余里にならない。
>※倭人伝を書いた陳寿は邪馬台国の場所を知らなくて 当時使われていた公式「1日=30里」で計算した。これでまったく疑問はない<
1日=30里が、全くの史料根拠のない嘘つきダマシの分裂幻覚の妄想。 那珂八幡は1号主体は未発掘だからね
鏡が出土したのは2号主体
先行して構築された1号主体と2号主体は軸がずれている
つまり、那珂八幡の築造は1号主体の時だな
1号主体の上に神社があるため仕方ないが、未発掘なのは残念 >>719
>しかしそれだと三角縁の銅素材は三国・西晋時代のものという 解析結果と矛盾が <
「海東」鏡などがあって、呉系の鏡師らが楽浪や列島に来ていた事が確定しているから、
古い漢鏡のスクラップ銅や、手元に持ち運びの銅を使った可能性があるから、
矛盾など存在しない。 ザラコクを見てると古田が隠そうとした九州王朝説の欠陥が浮き出してくるようで、ある意味面白いよ >>884
漢音は隋唐時代に遣唐使や留学僧などにより日本に伝えられたもの。
それ以前は呉音だったらしいな。
当時はワクケタシロと読んでたみたいだ
ワカタケルとは読めないな。 それまでに全くなかった畿内の墓制が表れて喜んでるキュウシュウセツってやっぱり頭おかしいな
鏡の副葬も年代も畿内の大古墳に追従する形なのに >>721
>博多湾岸の国が100里(40キロくらい)間隔ってのはリアルじゃない?<
吉竹高木や、藤崎西新町や、弥生銀座内にも、
幾つもの遺跡の部族集団の存在が見られるから、
リアルではない。 >>887
現実的、常識的に考えれば、魏に亡命した呉系の鏡師らが楽浪や列島に来ているわけだから、結局は魏鏡説に行き着く。 >>724
実際にも、大和説は、なにも反論出来ておらず、何も崩せておない。
じっさい、テンプレも反論してない。
大和説者は何もできない 。
史料事実の提示が出来ず、逃げてるだけ。 >>880
支は
t
c
k
の間の音だからチかキかシ >>893
つまり北部九州にはちっさいムラがあるばかりで
広域を統一した大国はなかったんだね >>897
上古音とか中古音とかそう言う言葉じゃなくて
日本語とか言うからこいつ先行研究なんも知らんやつだなって思ったんだよ。 >>727
大和説者のは、史料事実根拠がなく、分裂幻覚の嘘つきダマシの妄想のザル計算であり、
史料記載を使った計算ではないからな。
長里だけとかの珍説は、始めから次元が違う。 >>896
つか日本漢字音な
推古朝タイプよりも新しい時代のもの >>898
こんな鸚鵡返しをしてるのは敗残者の証拠 土器も墓制も今までになかった畿内のものが突然広まっている
自分たちの中心もまとまりもなく小集落の分立する雑多な村の集まり
それが九州の現実だな
畿内に吸収されてるってか >>730
>ザル以前に二重帳簿サギでは?<
三国志の陸行の、
「駑牛」や「昼夜」では一日300里と書かれており、
「歩行」では一日200里だと書かれている、
事を紹介しており、
水行の関しても、古田さんの「一日450里」の史料実態計算も提示してある、
だから、この投稿子が、二十帳簿のサギ。
だから、長里説が完璧に敗北した瞬間を見た。 >>903
常識がないなー
かん じおん 【漢字音】
中国における発音に基づいて,日本で行われている漢字の読み方。日本語の音韻体系にとり入れるため原音を変えたものがあり,中国での発音と同一ではない。伝来の時期などにより,呉音・漢音・唐音などに区別される。字音。音。
日本語における漢字の字音による読み方である。 >>909
迂遠な指摘で遊ぶのは性に合わんのでつい横からね。 キュウシュウセツは無学ってレベルじゃないからな
つか倭人伝すら読んだことないで古代史の謎を解明した!とか変な妄想喚いて乗り込んでくる異常者の集まりだからな >>650
亀レスでごめんよ。
じゃあ、基本は九州説が妥当ってことだね。よくわかったよ。ありがとう。 >>734
>魏書に曰く、とあるから魏志倭人伝を引用した<
書紀は、魏志倭人伝の本文に書かれていない「明帝」という文言を記載したから、
魏志倭人伝を引用した事にはなっていない。
おそらく明帝の起居注に記載されていた事を見たから。
>そこには景初三年とあったんだろ<
魏志倭人伝を引用したんなら、「明帝」とは書けず、「景初二年」と書く。
>日本書紀だけじゃなく原本魏志を引用した晋書、梁書、北史、翰苑も三年 二年でも四年でもなく 揃って一致しているという事は原本の古い魏志にはそうあったんだろう<
いずれも(写本とは違って)内容説明的な書き換えの多い後代史書の記載であり、
魏志原本を引用した事にはなっていない。
晋書は、「景初三年」とは書いていない。
北史は、「魏景初五年」と書いて滅茶滅茶。
翰苑は、始めから注書きでの「槐志曰」という滅茶滅茶な文であり、論拠にならない。
そして、通典は、はっきり景初二年生存の「明帝」の名前を出したから、
「明帝」であった事を、おそらく起居注などで確認している。 >>737
>その祭祀は、 鏡を使った祭祀は、物部ニギハヤヒの祭祀だけど
今宮中祭祀は八神を祀るという。どのような経緯で八神に至ったのか説明できねば。
宇佐古伝によれば、大和に王朝を建てたのは 皇別宇佐族の宇佐稚屋だそうです。 王都 厳島から東征。<
この情報の出典は、何ですか?。 >>914
故郷が国を割って独立するなんてときは
民衆が一番不安になる亡命のし時でしょ >>747
>魏の年号が書いてあるから国産って そんな理屈まかり通ったら世の中のもの全て信用できなくなるわ
三角縁を国産としたいなら鏡に銅出不彌国 師出奴国とでも書いてなければ 証明にならんから <
三角縁国産説の根拠は、当然洛陽に三角縁神獣鏡が出土しない事と、
「海東鏡」などのように、呉付近から楽浪ら列島に来た事が書かれた鏡がある事だよ。 >>758
大和説者が入り浸ってるのに、誰も、史料事実に拠って九州説に反論出来ない。
不思議なスレ。 >>777
経験から学べないから、「南→東」などの嘘つきダマシの大和説をやっていると?。 自分の意見に賛同したレスをつけて賛美するとか見てるだけで哀れになるな
本人バレてないと本気で思ってるからまた >>781
>12月8日から危篤<
明帝は、景初二年12月に詔書を出して、下賜鏡も確定してしまっているから、
どっちみち、「景初三年」鏡は無理なんですよね。 >>791
>だから魏志曰くとあるように 原本の魏志倭人伝にそう書いてあったんだろ<
記紀は、倭國の存在や歴史を抹殺盗用しようとした半分インチキ書だから、殆ど根拠にならないんだよ。
>今目にする魏志倭人伝の訳文は原本ではなく 紹熙本、紹興本等12世紀の写本 原本よりおよそ1000年後のものになるから
説明端折るけれどこれには間違いが多いから <
写本版本は、
後代史書の「内容説明的な書き換え」文書のインチキに比べて、
過誤を起こす確率が、0.5%よりもはるかに少なく、
「二年」に対してもその後の校勘考証が全くないから、「三年」の間違いにはならないんだよ。 >>793
>さあ何の積りだったのかは知らんけれど 景初の年号の積りで書いたのかもな <
「明帝」の名前を出した限りは、景初三年にはならないんだよ。
そして、魏志にはきちんと「景初二年」と書かれている。
という事は、書紀は、「アレ」だったんですよ。
>とにかく景初三年はそれ以外の文献にも出てくるから<
書紀は、「根拠にならない他の後代史書」に騙されたアホ?であった。
>紹熙本、紹興本の二年は間違いの可能性がある <
99.5%以上「ない」。 >>927
明帝かどうか疑わしい。
倭人伝のどこにも遺詔とは書かれてないもの。 >>816
>景初二年だか三年だからでいろいろいうてるけど 二年だったら下賜鏡と言えるの?<
いや、確率が僅かに出て来た、という程度。
洛陽の古道具市に三角縁が1個見つかった、というのと同じような、確率の低さ。
>紀年が入ってないものはどうなるの?自動的に下賜鏡になるの?<
始めからほぼ全く権利もない、という状態のままなの。 で、ザラコクが言ってることの正しい確率はほぼゼロなんだろ? >>819
>ワカタケルの鉄剣が熊本と埼玉から出てる<
熊本は銀象眼だし、埼玉も陪葬の礫床だし、
どちらも、「大王」の鉄剣になっていない。
>東征は埼玉<
倭武天皇は常陸は征服出来たようだが、埼玉は、支配した形跡がない。
だから、埼玉は、毛人蝦夷。 >>877
仕方ないよ、、、、
狂人がつくった妄想なのだからね。。。。。 >>822
>「倭の別種の旧小国の日本」という記述が出てくるのは邪馬台国の時代よりずっと後の旧唐書<
倭国が、倭奴國の後裔である事は、後漢書以来の中国に認識。
大和が、倭國の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であった事は、
旧唐書と唐会要と新唐書の合同的認識。 >>823
また、・・・・大和説者の、同じ事の貼り付け宣伝のようだから、
時間がないから、パスね。 >>939
それを常習してるのはザラコクだろう
耳タコだ >>936
つまり古田の「関東に大王あり」はトンデモだね。
結構結構 >>830
>お前馬鹿なのか。
中国や日本の歴史書と年代などが合うからワカタケルは雄略天皇と言われているんだろ。
それを無根拠あつかいするとは<
「 ワカタケル=雄略の幼名」位なら、少しは確率があっても、
江田船山は、銀象眼だから「大王」その人ではないし、
稲荷山も、主葬の横の陪葬の臣下の鉄剣だから、「大王」その人ではないんだよ。 >>833
>お前馬鹿なのか。 普通に読んだらワカタケルだよ <
「ワカタケル」と読めても、それだけでは、「若い武将」という意味しかないよ。 >>834
>王は各地にいたんだよ それぞれが王を名乗った
だから王をまとめる王として「大王」という称号が出てきたんじゃん <
そうだよ。
だから、倭の五王や倭王武は大王であり、
倭国の別種分家の旧小国の当時附庸国の大和王は、大王にはならないんだよ。 また透明の中で喚いてる馬鹿がいるみたいだな
見えないけどレスが飛びまくってるから笑えるw 獲加多支鹵大王なら固有名詞やろ
若い武将王とか意味不明
獲加多支鹵ちゅう名前のお人がおったということ >>837
>で、九州豪族が王を名乗り外交、貿易をすれば 海外資料には「倭王」として記される
しかしその倭王は大王ではない 九州王朝の幻<
倭王武は、「自昔祖禰・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」であったから、大王、
大和大王は、幻。、 >>943
だれも幼名だなんて言ってない
妄想が過ぎる >>538
>倭王旨の名前が入った百済からの七支刀が奈良の物部の神社から出てくる 物部の祖先はウマシマジ <
磐井を倒した大和の(高良大社の神職家の縁者であった)物部が、
久留米付近の「こうやの宮」にあった七支刀を奪い取って、石上神宮に持ち去ったから。
>ウマシマジ=旨 ある時期において大和王権の王統は物部だった 多元王朝説は九州vs畿内ではなく、
畿内vs畿内なんだよ
正確には 畿内〜九州にまたがる連合vs畿内〜九州にまたがる別連合<
こうやの宮の七支刀人形の贈呈相手の「こうやの宮」の主は、桐の御紋であったから、
おそらく、倭王旨かその縁者。 >>903
過去の研究でも獲加多支鹵をワカタケルと読める根拠なんて誰も示していない
思い付きで誰かが適当に読んだものが独り歩きしてるな
通説なんて超レベルが低い。 雄略天皇って名前が奈良時代からの諡号であることを知らないとか言わないよな >>952
この刀は若い武将王ならの下賜品であるとか変やろ?
お前レスを読まへんで証拠は?を連呼しとるんとちゃうか
全く高卒はこれだから困るわぁ >>932
景初二年十二月のことだから遺詔にはならないでしょ >>943
雄略天皇の名前の大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)に合わせて呉音、漢音混ぜて無理やりワカタケルと読んだだけで
獲加多支鹵はワカタケルとも読めない
獲加多支鹵=雄略天皇説は破綻してる。 >>956
お前獲加多支鹵は若い武将と言うてへんかったか?
獲加多支鹵=ワカタケルがなりたんなら、若い武将とも読めへんやろ
支離滅裂やの高卒は まぁ別に若い武将王とかいうバカ丸出しの珍解釈でも構わんが?
九州から関東に至る古墳被葬者がもっと上の権力に従ってるということに関して何の問題にもならない
そして古墳の400年の変わらぬ畿内中心の構造から九州にそんな権力はなく九州が属領であるということにも何の変りもない
バカが珍解釈すればキュウシュウ王朝とやらが成り立つと思ってるから笑いしか出ないわ >>959
妄想に妄想を重ねてるだけと気づかないの? >>956
無学じじがまだ呉音、漢音とか言ってるわ
笑える >>948
倭王武は畿内の大王
九州なら西に66ヵ国もないだろ 確かに中古音では「ヱカタシロ」だしワカタケルと読めないかもしれないけど、
それは九州説を補強するものではない。 バカは古墳はただの流行だ!とかあほ丸出しの珍説を喚くだけだからなw
考古学のいろはも知らんから呆れる >>965
つか、奴ら基礎語彙を知らんからハナから話が通じない
そのうえ、やけに日本語タドタドしいし 都合が悪くなると「こふんはキュウシュウはっしょうだ!」とか言い出したり「こふんはただのりゅうこうだ!」とか言い出す
脳みその足りないバカがその場その場で何も知らずに言葉をごまかせばキュウシュウセツとやらが成り立つと思ってるんだから哀れになるな
こんなバカしかいないからな 流行だのなんだのいうなら弥生時代みたいに墓制なんて好き勝手なものができる
大きさも形も何もかも勝手な形になる
各地に独立的な王権があった時代がそうだったからな
それこそ九州には九州の500年からの墓制があったんだからな
それが400年変わらぬ形で畿内を中心とした秩序に統合されて維持されているという意味が理解できないバカが珍説を喚き散らして醜態をさらす >>970
大事なのは
2世紀後半から3世紀前半にかけてどうだったか、だよ
前方後円墳なんて3世紀中盤以降なんだから卑弥呼に関係ない これいうとキナイセツくんが発狂するんだよな
倭奴国〜帥升の時代には九州が倭の盟主だったわけじゃん
じゃあいつどういう経緯で畿内に覇権が移ったの?って聞くとキナイセツは発狂することしかできなくなる 心の中では「どこかのタイミングで東遷したとしか考えられない」とわかってるからこそ発狂するしかなくなるんだろうな 古墳の発生と発展は弥生時代後期から始まってる
そしてのその流れは一貫した流れの中で古墳時代につながっている
その中心が畿内であり吉備だ
さらにその淵源は中期の出雲に発する大型墳墓祭祀にまで至る
古墳時代に突然発生したんじゃない
これも畿内、吉備から発展した庄内土器とともにそれまでの各地の個性を突き破って急激に広まっている
だから重視されてるんだろうが
もの知らんサルはこれだから
適当なことを言えばごまかせると思って >>973
なーんて妄想するアナタは・・・気が狂っている可能性が極めて高い 「ぼくちゃんはしらない」
「ぼくちゃんはみとめない」
これが反論だと思ってるようなバカの集まりがキュウシュウセツだからな
こいつらは何故か対等に会話してるつもりだから笑わせてくれる >>974
理由もなく「東遷したとしか考えられない」
という結論が出てるあたりが
じつに九州説 >>976
本当に答えられずに発狂するだけなんだなw 筑紫の極み 陸の奧
海山遠く 隔つとも
その眞心は 隔て無く
一つに盡くせ 國の爲 >>973
理由や根拠を聞かれるとキミは発狂するんだよな 何度も繰り返し言うが弥生時代から続く流れの上に古墳時代が現れている
突然古墳が現れたとか思ってるならそもそも話にもなってない
連続してつながる流れの上で時代を追うごとに影響が強くなっている
時代をどこに逃がそうが変わらんということがわからないバカが珍説喚き散らして何とかなると思ってるんだろうよ
アホが >>861
>布留式が出てるのに3世紀だと言い張るキュウシュウセツ
ほかで布留が出ると4世紀だ!と発狂するのにこれだからバカは<
伽耶の陶質土器との共存と三雲の庄内に拠って、
筑紫の庄内は、大和や河内の庄内と比べて、50年位古く、
河内や大和の布留が4世紀であって、
筑紫の布留が285年頃という事が、十分有り得るんだよ。 なにも証拠が出せない
だから九州説は当然いつも負ける >>863
>公式資料だと全部4世紀と書いてるな那珂八幡<
相当以前から、3世紀末説であった。
>卑弥呼の墓だとか言い張ってるやつらはこれだけはいつも古くしたがる<
那珂八幡古墳は布留だそうだが、
その周辺では、伽耶の陶質土器と庄内とが混在しているために、
伽耶の陶質土器との混在で、那珂八幡古墳は、285年頃過ぎになる。 大型墳墓や特殊な土器器台の祭祀など九州には存在しない
この発展の流れの上に古墳と埴輪がある
弥生時代中期から始まる各地域の統合と王権の誕生の動きとも連動している
九州はこの流れに一切関与してない
そして弥生時代後期になると九州に「今までの系譜に全くなかった畿内の土器が大量に出土し」「今まで全くなかった系譜の畿内の墓が突如として広まるようになる」
これを見て「キュウシュウ王朝だ」とか脳みそ沸いてるとしか思えんわ
低能が >>991
鎌倉時代の陶磁器もあるけど、どうして十二世紀にならないんだ? >>796
魏志倭人伝に筆者自身の考えを載せる時は、後漢書にあるように
案今名邪摩惟音之訛也
(注…今名を案ずるに邪摩惟音の訛なり)
と言ったようにはっきりそう書く
隋書にも似たような記述がある
勝手に数字のみ書き換える事はない
公孫淵誅後とあるだけではただ事実を載せただけ
皇帝が亡くなってから1年は喪に服し元号はそのままだそうだから
景初三年中の出来事は明帝と記述されていても不自然はない
やはり景初二年は三年 >>991
同じ地域にいろいろな時代の遺跡があるという話が
いつしか同じ遺跡の話になり変わる
ザラコク・コンフュージョン 九州説はあらゆる通説に反抗するハメになったからな
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