邪馬台国畿内説 Part273 [無断転載禁止]©2ch.net
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◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 >>880
支は
t
c
k
の間の音だからチかキかシ >>893
つまり北部九州にはちっさいムラがあるばかりで
広域を統一した大国はなかったんだね >>897
上古音とか中古音とかそう言う言葉じゃなくて
日本語とか言うからこいつ先行研究なんも知らんやつだなって思ったんだよ。 >>727
大和説者のは、史料事実根拠がなく、分裂幻覚の嘘つきダマシの妄想のザル計算であり、
史料記載を使った計算ではないからな。
長里だけとかの珍説は、始めから次元が違う。 >>896
つか日本漢字音な
推古朝タイプよりも新しい時代のもの >>898
こんな鸚鵡返しをしてるのは敗残者の証拠 土器も墓制も今までになかった畿内のものが突然広まっている
自分たちの中心もまとまりもなく小集落の分立する雑多な村の集まり
それが九州の現実だな
畿内に吸収されてるってか >>730
>ザル以前に二重帳簿サギでは?<
三国志の陸行の、
「駑牛」や「昼夜」では一日300里と書かれており、
「歩行」では一日200里だと書かれている、
事を紹介しており、
水行の関しても、古田さんの「一日450里」の史料実態計算も提示してある、
だから、この投稿子が、二十帳簿のサギ。
だから、長里説が完璧に敗北した瞬間を見た。 >>903
常識がないなー
かん じおん 【漢字音】
中国における発音に基づいて,日本で行われている漢字の読み方。日本語の音韻体系にとり入れるため原音を変えたものがあり,中国での発音と同一ではない。伝来の時期などにより,呉音・漢音・唐音などに区別される。字音。音。
日本語における漢字の字音による読み方である。 >>909
迂遠な指摘で遊ぶのは性に合わんのでつい横からね。 キュウシュウセツは無学ってレベルじゃないからな
つか倭人伝すら読んだことないで古代史の謎を解明した!とか変な妄想喚いて乗り込んでくる異常者の集まりだからな >>650
亀レスでごめんよ。
じゃあ、基本は九州説が妥当ってことだね。よくわかったよ。ありがとう。 >>734
>魏書に曰く、とあるから魏志倭人伝を引用した<
書紀は、魏志倭人伝の本文に書かれていない「明帝」という文言を記載したから、
魏志倭人伝を引用した事にはなっていない。
おそらく明帝の起居注に記載されていた事を見たから。
>そこには景初三年とあったんだろ<
魏志倭人伝を引用したんなら、「明帝」とは書けず、「景初二年」と書く。
>日本書紀だけじゃなく原本魏志を引用した晋書、梁書、北史、翰苑も三年 二年でも四年でもなく 揃って一致しているという事は原本の古い魏志にはそうあったんだろう<
いずれも(写本とは違って)内容説明的な書き換えの多い後代史書の記載であり、
魏志原本を引用した事にはなっていない。
晋書は、「景初三年」とは書いていない。
北史は、「魏景初五年」と書いて滅茶滅茶。
翰苑は、始めから注書きでの「槐志曰」という滅茶滅茶な文であり、論拠にならない。
そして、通典は、はっきり景初二年生存の「明帝」の名前を出したから、
「明帝」であった事を、おそらく起居注などで確認している。 >>737
>その祭祀は、 鏡を使った祭祀は、物部ニギハヤヒの祭祀だけど
今宮中祭祀は八神を祀るという。どのような経緯で八神に至ったのか説明できねば。
宇佐古伝によれば、大和に王朝を建てたのは 皇別宇佐族の宇佐稚屋だそうです。 王都 厳島から東征。<
この情報の出典は、何ですか?。 >>914
故郷が国を割って独立するなんてときは
民衆が一番不安になる亡命のし時でしょ >>747
>魏の年号が書いてあるから国産って そんな理屈まかり通ったら世の中のもの全て信用できなくなるわ
三角縁を国産としたいなら鏡に銅出不彌国 師出奴国とでも書いてなければ 証明にならんから <
三角縁国産説の根拠は、当然洛陽に三角縁神獣鏡が出土しない事と、
「海東鏡」などのように、呉付近から楽浪ら列島に来た事が書かれた鏡がある事だよ。 >>758
大和説者が入り浸ってるのに、誰も、史料事実に拠って九州説に反論出来ない。
不思議なスレ。 >>777
経験から学べないから、「南→東」などの嘘つきダマシの大和説をやっていると?。 自分の意見に賛同したレスをつけて賛美するとか見てるだけで哀れになるな
本人バレてないと本気で思ってるからまた >>781
>12月8日から危篤<
明帝は、景初二年12月に詔書を出して、下賜鏡も確定してしまっているから、
どっちみち、「景初三年」鏡は無理なんですよね。 >>791
>だから魏志曰くとあるように 原本の魏志倭人伝にそう書いてあったんだろ<
記紀は、倭國の存在や歴史を抹殺盗用しようとした半分インチキ書だから、殆ど根拠にならないんだよ。
>今目にする魏志倭人伝の訳文は原本ではなく 紹熙本、紹興本等12世紀の写本 原本よりおよそ1000年後のものになるから
説明端折るけれどこれには間違いが多いから <
写本版本は、
後代史書の「内容説明的な書き換え」文書のインチキに比べて、
過誤を起こす確率が、0.5%よりもはるかに少なく、
「二年」に対してもその後の校勘考証が全くないから、「三年」の間違いにはならないんだよ。 >>793
>さあ何の積りだったのかは知らんけれど 景初の年号の積りで書いたのかもな <
「明帝」の名前を出した限りは、景初三年にはならないんだよ。
そして、魏志にはきちんと「景初二年」と書かれている。
という事は、書紀は、「アレ」だったんですよ。
>とにかく景初三年はそれ以外の文献にも出てくるから<
書紀は、「根拠にならない他の後代史書」に騙されたアホ?であった。
>紹熙本、紹興本の二年は間違いの可能性がある <
99.5%以上「ない」。 >>927
明帝かどうか疑わしい。
倭人伝のどこにも遺詔とは書かれてないもの。 >>816
>景初二年だか三年だからでいろいろいうてるけど 二年だったら下賜鏡と言えるの?<
いや、確率が僅かに出て来た、という程度。
洛陽の古道具市に三角縁が1個見つかった、というのと同じような、確率の低さ。
>紀年が入ってないものはどうなるの?自動的に下賜鏡になるの?<
始めからほぼ全く権利もない、という状態のままなの。 で、ザラコクが言ってることの正しい確率はほぼゼロなんだろ? >>819
>ワカタケルの鉄剣が熊本と埼玉から出てる<
熊本は銀象眼だし、埼玉も陪葬の礫床だし、
どちらも、「大王」の鉄剣になっていない。
>東征は埼玉<
倭武天皇は常陸は征服出来たようだが、埼玉は、支配した形跡がない。
だから、埼玉は、毛人蝦夷。 >>877
仕方ないよ、、、、
狂人がつくった妄想なのだからね。。。。。 >>822
>「倭の別種の旧小国の日本」という記述が出てくるのは邪馬台国の時代よりずっと後の旧唐書<
倭国が、倭奴國の後裔である事は、後漢書以来の中国に認識。
大和が、倭國の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であった事は、
旧唐書と唐会要と新唐書の合同的認識。 >>823
また、・・・・大和説者の、同じ事の貼り付け宣伝のようだから、
時間がないから、パスね。 >>939
それを常習してるのはザラコクだろう
耳タコだ >>936
つまり古田の「関東に大王あり」はトンデモだね。
結構結構 >>830
>お前馬鹿なのか。
中国や日本の歴史書と年代などが合うからワカタケルは雄略天皇と言われているんだろ。
それを無根拠あつかいするとは<
「 ワカタケル=雄略の幼名」位なら、少しは確率があっても、
江田船山は、銀象眼だから「大王」その人ではないし、
稲荷山も、主葬の横の陪葬の臣下の鉄剣だから、「大王」その人ではないんだよ。 >>833
>お前馬鹿なのか。 普通に読んだらワカタケルだよ <
「ワカタケル」と読めても、それだけでは、「若い武将」という意味しかないよ。 >>834
>王は各地にいたんだよ それぞれが王を名乗った
だから王をまとめる王として「大王」という称号が出てきたんじゃん <
そうだよ。
だから、倭の五王や倭王武は大王であり、
倭国の別種分家の旧小国の当時附庸国の大和王は、大王にはならないんだよ。 また透明の中で喚いてる馬鹿がいるみたいだな
見えないけどレスが飛びまくってるから笑えるw 獲加多支鹵大王なら固有名詞やろ
若い武将王とか意味不明
獲加多支鹵ちゅう名前のお人がおったということ >>837
>で、九州豪族が王を名乗り外交、貿易をすれば 海外資料には「倭王」として記される
しかしその倭王は大王ではない 九州王朝の幻<
倭王武は、「自昔祖禰・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」であったから、大王、
大和大王は、幻。、 >>943
だれも幼名だなんて言ってない
妄想が過ぎる >>538
>倭王旨の名前が入った百済からの七支刀が奈良の物部の神社から出てくる 物部の祖先はウマシマジ <
磐井を倒した大和の(高良大社の神職家の縁者であった)物部が、
久留米付近の「こうやの宮」にあった七支刀を奪い取って、石上神宮に持ち去ったから。
>ウマシマジ=旨 ある時期において大和王権の王統は物部だった 多元王朝説は九州vs畿内ではなく、
畿内vs畿内なんだよ
正確には 畿内〜九州にまたがる連合vs畿内〜九州にまたがる別連合<
こうやの宮の七支刀人形の贈呈相手の「こうやの宮」の主は、桐の御紋であったから、
おそらく、倭王旨かその縁者。 >>903
過去の研究でも獲加多支鹵をワカタケルと読める根拠なんて誰も示していない
思い付きで誰かが適当に読んだものが独り歩きしてるな
通説なんて超レベルが低い。 雄略天皇って名前が奈良時代からの諡号であることを知らないとか言わないよな >>952
この刀は若い武将王ならの下賜品であるとか変やろ?
お前レスを読まへんで証拠は?を連呼しとるんとちゃうか
全く高卒はこれだから困るわぁ >>932
景初二年十二月のことだから遺詔にはならないでしょ >>943
雄略天皇の名前の大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)に合わせて呉音、漢音混ぜて無理やりワカタケルと読んだだけで
獲加多支鹵はワカタケルとも読めない
獲加多支鹵=雄略天皇説は破綻してる。 >>956
お前獲加多支鹵は若い武将と言うてへんかったか?
獲加多支鹵=ワカタケルがなりたんなら、若い武将とも読めへんやろ
支離滅裂やの高卒は まぁ別に若い武将王とかいうバカ丸出しの珍解釈でも構わんが?
九州から関東に至る古墳被葬者がもっと上の権力に従ってるということに関して何の問題にもならない
そして古墳の400年の変わらぬ畿内中心の構造から九州にそんな権力はなく九州が属領であるということにも何の変りもない
バカが珍解釈すればキュウシュウ王朝とやらが成り立つと思ってるから笑いしか出ないわ >>959
妄想に妄想を重ねてるだけと気づかないの? >>956
無学じじがまだ呉音、漢音とか言ってるわ
笑える >>948
倭王武は畿内の大王
九州なら西に66ヵ国もないだろ 確かに中古音では「ヱカタシロ」だしワカタケルと読めないかもしれないけど、
それは九州説を補強するものではない。 バカは古墳はただの流行だ!とかあほ丸出しの珍説を喚くだけだからなw
考古学のいろはも知らんから呆れる >>965
つか、奴ら基礎語彙を知らんからハナから話が通じない
そのうえ、やけに日本語タドタドしいし 都合が悪くなると「こふんはキュウシュウはっしょうだ!」とか言い出したり「こふんはただのりゅうこうだ!」とか言い出す
脳みその足りないバカがその場その場で何も知らずに言葉をごまかせばキュウシュウセツとやらが成り立つと思ってるんだから哀れになるな
こんなバカしかいないからな 流行だのなんだのいうなら弥生時代みたいに墓制なんて好き勝手なものができる
大きさも形も何もかも勝手な形になる
各地に独立的な王権があった時代がそうだったからな
それこそ九州には九州の500年からの墓制があったんだからな
それが400年変わらぬ形で畿内を中心とした秩序に統合されて維持されているという意味が理解できないバカが珍説を喚き散らして醜態をさらす >>970
大事なのは
2世紀後半から3世紀前半にかけてどうだったか、だよ
前方後円墳なんて3世紀中盤以降なんだから卑弥呼に関係ない これいうとキナイセツくんが発狂するんだよな
倭奴国〜帥升の時代には九州が倭の盟主だったわけじゃん
じゃあいつどういう経緯で畿内に覇権が移ったの?って聞くとキナイセツは発狂することしかできなくなる 心の中では「どこかのタイミングで東遷したとしか考えられない」とわかってるからこそ発狂するしかなくなるんだろうな 古墳の発生と発展は弥生時代後期から始まってる
そしてのその流れは一貫した流れの中で古墳時代につながっている
その中心が畿内であり吉備だ
さらにその淵源は中期の出雲に発する大型墳墓祭祀にまで至る
古墳時代に突然発生したんじゃない
これも畿内、吉備から発展した庄内土器とともにそれまでの各地の個性を突き破って急激に広まっている
だから重視されてるんだろうが
もの知らんサルはこれだから
適当なことを言えばごまかせると思って >>973
なーんて妄想するアナタは・・・気が狂っている可能性が極めて高い 「ぼくちゃんはしらない」
「ぼくちゃんはみとめない」
これが反論だと思ってるようなバカの集まりがキュウシュウセツだからな
こいつらは何故か対等に会話してるつもりだから笑わせてくれる >>974
理由もなく「東遷したとしか考えられない」
という結論が出てるあたりが
じつに九州説 >>976
本当に答えられずに発狂するだけなんだなw 筑紫の極み 陸の奧
海山遠く 隔つとも
その眞心は 隔て無く
一つに盡くせ 國の爲 >>973
理由や根拠を聞かれるとキミは発狂するんだよな 何度も繰り返し言うが弥生時代から続く流れの上に古墳時代が現れている
突然古墳が現れたとか思ってるならそもそも話にもなってない
連続してつながる流れの上で時代を追うごとに影響が強くなっている
時代をどこに逃がそうが変わらんということがわからないバカが珍説喚き散らして何とかなると思ってるんだろうよ
アホが >>861
>布留式が出てるのに3世紀だと言い張るキュウシュウセツ
ほかで布留が出ると4世紀だ!と発狂するのにこれだからバカは<
伽耶の陶質土器との共存と三雲の庄内に拠って、
筑紫の庄内は、大和や河内の庄内と比べて、50年位古く、
河内や大和の布留が4世紀であって、
筑紫の布留が285年頃という事が、十分有り得るんだよ。 なにも証拠が出せない
だから九州説は当然いつも負ける >>863
>公式資料だと全部4世紀と書いてるな那珂八幡<
相当以前から、3世紀末説であった。
>卑弥呼の墓だとか言い張ってるやつらはこれだけはいつも古くしたがる<
那珂八幡古墳は布留だそうだが、
その周辺では、伽耶の陶質土器と庄内とが混在しているために、
伽耶の陶質土器との混在で、那珂八幡古墳は、285年頃過ぎになる。 大型墳墓や特殊な土器器台の祭祀など九州には存在しない
この発展の流れの上に古墳と埴輪がある
弥生時代中期から始まる各地域の統合と王権の誕生の動きとも連動している
九州はこの流れに一切関与してない
そして弥生時代後期になると九州に「今までの系譜に全くなかった畿内の土器が大量に出土し」「今まで全くなかった系譜の畿内の墓が突如として広まるようになる」
これを見て「キュウシュウ王朝だ」とか脳みそ沸いてるとしか思えんわ
低能が >>991
鎌倉時代の陶磁器もあるけど、どうして十二世紀にならないんだ? >>796
魏志倭人伝に筆者自身の考えを載せる時は、後漢書にあるように
案今名邪摩惟音之訛也
(注…今名を案ずるに邪摩惟音の訛なり)
と言ったようにはっきりそう書く
隋書にも似たような記述がある
勝手に数字のみ書き換える事はない
公孫淵誅後とあるだけではただ事実を載せただけ
皇帝が亡くなってから1年は喪に服し元号はそのままだそうだから
景初三年中の出来事は明帝と記述されていても不自然はない
やはり景初二年は三年 >>991
同じ地域にいろいろな時代の遺跡があるという話が
いつしか同じ遺跡の話になり変わる
ザラコク・コンフュージョン 九州説はあらゆる通説に反抗するハメになったからな
もう先がない レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。