>>484
>皇帝名は当然変わったとあるがその根拠は何だろうか<

明帝は、景初三年の元旦頃に亡くなったので、倭の遣使が景初三年の6月に来たのでは、明帝は対応出来ないんだから。

>明帝の後継ぎは詞だそうだが、<

当然 詞が皇帝になる。

>景初三年を詞 景初三年、等と表記した史料は存在するのだろうか?<

おそらく起居注があれば、(明帝ではなく) 詞の記録になっている。
念のためだが、後代史書の「自己解釈での矛盾した書き換え」など、根拠にはならないよ。

>なければやはり景初三年は明帝 景初三年という表記は
当時そう呼び慣わされていて不自然ではなかったんだろうし <

詞の存在を否定するような表記は、不自然であり、詞や宮中が許す筈もない。

>皇帝が亡くなってから1年は喪に服し年号はそのまま使用したという 当時の習慣とも合う<

年号はそのまま使用しても、皇帝の名前を前代のままにする、という事が許される筈がない。

>その他の複数史書にも景初三年とあるし 魏志倭人伝の後世の写本の卑弥呼が魏に使いを送った年 <

後代史書の「自己解釈での矛盾した書き換え記載」など、根拠にならないし、
通典は、「魏明帝景初二年、司馬宣王之平公孫氏也、倭女王始遣大夫詣京都貢獻」であった、と、
魏志の通りに記載している。

だから、景初二年六月は景初三年六月の誤まりではない。