邪馬台国畿内説 Part279 [無断転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1506242508/
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。 ◆6−3
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。 ◆7−2
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−3
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8−1(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。 ◆8−2
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9−1 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf ◆9−2 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11 本文のサマリー
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纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法より、筆者は里程から如何程に南方であるか具体的に推計して倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことは、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。 ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。 ◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。 ◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など、遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に短里があったであろうか? 否、間違った情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される。
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26-1
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか! ◆FAQ 26-2
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培と染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。 ◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉)
→1BV型式(3世紀中葉)
→1BW型式(3世紀後葉以降)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され(金原2011)ていること、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される。
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に語義を含意せずに用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓X期の文化圏である。
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の時代」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間では…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の時代」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・烈曰:「 世有仁人,吾未之見。」(先賢行状王烈)
・発怒曰:「世有思婦病母者,豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
※これらは不特定者を指す例で、否定的文脈である。
「代々…」の用例:
世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
今汝先人世有冠冕(王昶)
※漢魏に仕えた王昶が子と甥に語る訓戒
臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】なし テンプレは、意図的に纒向遺跡に関する重要な事実を無視している。
◎纒向は、2世紀末に突然現れ、4世紀に突然消失した大集落。また発掘に携わった考古学者は、外部勢力の侵入を考えざる得ないとも言っている。
卑弥呼の居館域と推定される大型建物のある柵で囲まれたエリアだけでも、1.5haある。運動場を含めた一つの中学校位の広さはある。1000人の下女が勤めるには、十分なスペースはあるわな。
纒向遺跡全体でも3キロ平米、後世の京に匹敵する巨大さ。
湧水土壌であることを考えれば、民の住居は竪穴式住居の採用は難しかったんだろう。
高床式建物や掘立柱建物が延々と連なって建っており、住居や食糧庫だったんだろうね。
巨大古墳が幾つもあり掘りが巡らされており、鋤が沢山出土してることからも、多くの民が土木作業に従事していたのが分かる。
農業中心の集落跡とは違い、かなり特殊。いざ戦になれば、兵として駆り出される人々だったんじゃないかな。
◎纒向には、万単位の人々が暮らし、土木作業を行っていた。纒向集落は、ヤマトの地が外部勢力に征圧され、その結果できた集落。
纒向は、ヤマトの地を征圧した兵と徴用された地元民が万単位で土木作業に従事した大集落。
卑弥呼は鬼道で民を纏める役割を担っていた。
さらに4世紀に突然消失し武器などの遺留物が無いこと(もぬけの殻)を考えると、記紀の四道将軍の記述と合致する。
◎纒向は、4世紀に意図的に解散し、民は兵として全国平定に駆り出されたと推測できる。 >>1早いね。立てるの。
少しは休養した方がいいよ。
寝ずの番もいいが、考える時間が、必要だと思う。
いろいろ反論も出てる。
畿内説の学者本をつなげてテンプレ作ると矛盾が出るのは当たり前。
自分なりの、説が確立してないから反論も多く出る。 魏志倭人伝に倭地には、100余国あると書いてある。
また卑弥呼を王として共立した国々は30ヶ国とも書いてある。
当時の日本列島は、統一までに程遠い状況なのが分かる。
言い換えると、女王国の周辺は敵対勢力、中立勢力だらけということ。統一国家へ向けての極々初期段階だということ。
全国平定に向け大きく動き出すのが古墳時代。
その先駆けが四道将軍。
四道将軍の主な派遣先、北陸、丹後半島、瀬戸内海。
それを考えると、卑弥呼の時代、日本海、瀬戸内海には敵対勢力と卑弥呼を共立した勢力が混在していた可能性が高いと思われる。
魏の使者を迎えるには、女王国ではない国々の影響を受けないルートを選ばないといけない。
果たして、日本海ルートや瀬戸内海ルートで魏の使者を安全にすなわち戦闘に巻き込まれるリスクなく迎えることが可能性だったのか? 畿内説は思考に柔軟さが無い、
ベニバナ花粉が3世紀と言われる土壌から出た
思考1、ベニバナ栽培は3世紀前半までには渡来した
思考2、ベニバナが出たという事はこの土壌は3世紀のものでない
思考3、矛盾が生じた、しばらく探求してみよう ベニバナ花粉を炭素年代で測定するのも手かな 九州説はまともな人間が多い
昔の俺だったら
畿内説が方位は誤情報ウンヌンなら
丹は誤情報だと言い返す
このスレでは、それができない、九州説の皆に申し訳ないから・・ グーグル地図で写真版 纏向あたりを見たら田畑が多い
発掘調査ができやすい環境にある。
なぜ、いっこうに発掘調査が進まないのか疑問である。
田んぼ一反で年収は20万も無い、調査中に収入保障してやればいいだけだが・・・・ グーグル地図で写真版 纏向あたりを見たら田畑が多い
発掘調査ができやすい環境にある。
なぜ、いっこうに発掘調査が進まないのか疑問である。
田んぼ一反で年収は20万も無い、調査中に収入保障してやればいいだけだが・・・・
纏向は3km平米
農家が500万の実収入を上げるには最低10Km平米必用
そんなに金をかけなくても、発掘調査可能・・・ FAQ13
> 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、
考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。<
中国の考古学者が言ってるのか?日本の考古学者が言っているのか?が問題である。
いっそ、得意の誤情報にしたほうが良いのでは? トビ主の原文無視
一大率は自女王国以北に置かれ諸国を監察していると明記されているのに
伊都国に常駐して治めていると一大率の所在地や業務を改竄している
>◆7−2
>2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
>◆FAQ 53
>Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
> A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。
>当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。 FAQ39
すごいコジツケと言うかナンセンス
理由を後ほど書き込んでおきます 女王国は九州北部説で魏志倭人伝の内容に対して全て矛盾無く説明完了
畿内説とか矛盾だらけ
どちらが正しいか一目瞭然。 用例は三国志内からしろよな。
>◆FAQ 56
>Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の時代」という意味だ! 前スレからの宿題
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國」
自女王國以北に特置に一大率を置く、一大率は諸国を検察し諸国は畏憚している、伊都国で常に治める
治めるのは自女王國以北の地域
一大率は自女王國以北の地域にいて検察している
伊都国で常に治めているのは誰か?
一大率は自女王國以北の地域にいて検察しているから該当しない
国を治めるのは王である、つまり女王卑弥呼が伊都国で治めているのである。 畿内説論者のみ纏向で盛り上がっているが
纏向以降に畿内説から離れていった人も多い。
纏向で何が起こったのだろう? >>66
>魏の使者を迎えるには、女王国ではない国々の影響を受けないルートを選ばないといけない。
> 果たして、日本海ルートや瀬戸内海ルートで魏の使者を安全にすなわち戦闘に巻き込まれるリスクなく迎えることが可能性だったのか?
「倭国(阿波)へのルート」
末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)
↓【東南】陸行500里 福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】 豊後水道 水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日(太平洋ルート)又は陸行1月(旧土佐街道) 途中、阿南の若杉山辰砂採掘現場視察
女王・卑弥呼のおわす《邪馬台国 阿波》到着(七万戸)
↓【東】海渡1000里 (阿波から東へ1000里渡海)
女王国(阿波)の東、海(紀伊水道)を渡る千余里、復(ま)た国(畿内)有り、皆倭種なり。
こういう具体的な行程を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 あれだけいた畿内説コテハンがほんと消えたなあ。
高齢さんとかも最近見なくなったし。
あの人の世界観は好きだったけど、考古学的証拠が出そろった最近はやっぱり反論できずに言い張るだけになってちょっとかわいそうだったよね。
ジョーカーもあれはあれで頑張っていたけど意外と判断思考は科学的だったから
議論が煮詰まってくると九州説そのまんまの発言をし始めてそれは九州説じゃんと指摘されて本人絶句したり相当悩んでるっぽかったよね。
ここでまだ頑張ってるのはスレ主と根拠厨くらいで科学的議論を放棄してのテンプレ死守の印象操作作戦に徹底してもはや議論が成り立たない。
岡上は東遷説とはいえ畿内説なわけで真っ向から取り組んでなんとか畿内説に持っていこうとしているのだけど、
もう味方であるはずの岡上程度の東遷説議論ですら許容できないほど畿内説は追いつめられているのだな。 三角縁神獣鏡の同型鏡を分析すると鏡径に大小があり、小さくなるほど文様が不鮮明になる。
これは母鏡から鋳型を作りできた子鏡をまた同じように鋳型にとって順次コピーしていったとみられる。
踏み返しされた三角縁神獣鏡の母鏡とみられるもっとも大きな径となるものが出土した古墳をみると、北九州と吉備に片寄っていることがわかる。
これは三角縁神獣鏡の流通の起点が畿内ではないことを示しており、たとえ下賜と仮定しても
北九州から畿内にもたらされた蓋然性が高く畿内説にとって非常に不利な結果となっている。
母鏡の出土例
>藤崎方形周溝墓
>天神森古墳
>原口古墳
>名島古墳
>香椎ヶ丘古墳
>
>以上福岡
>
>湯迫車塚古墳 岡山
>赤塚古墳 大分
>造山1号噴 島根
>椿井大塚山古墳 奈良 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。 278の>>613
「南→東」の嘘つきダマシのサギシの大和説者は、
都合わるい情報は必死で無視。 278の>>623
>邪馬台国を纒向遺跡と考える、なんて誰も言ってない。
逆に、テンプレで1はそれを否定して 繰り返し、「纏向は卑弥呼の都である」と言っている。
あなたは、おばかさんですね。<
あなたも、スレ主らの大和説者らと同じく、
「南→東」などの嘘つきダマシの犯罪者的・・・・サギシ仲間ですね。 278の>>627
大和説者の脳内神経細胞を研究すると面白いかな。
ヤクザ暴力団やトランプやヒトラーや北朝鮮や安部らと同じ、
唯我独尊の排他的殺戮戦争願望の神経組織幹細胞が見つかったりして・・・。 278の>>628
まともな学者で大和説者、なんて皆無に等しいのにな。
「南→東」とjかインチキ統計学とか、
訳のわからん嘘つきダマシのサギシしか残ってないのにw。 邪馬台国畿内説とは
1)邪馬台国を畿内と考える。
- ここでいう畿内とは令制国でいう大和山城河内摂津和泉の五国で構成される範囲である。
- 時代によって若干範囲の変化がある
2)女王の所都は纒向と考える。
3)魏志倭人伝の邪馬台国への行程記述のうち方角には誤情報が記載されていると考える。 278の>>630
「南→東」などの嘘つきダマシの皇国史観の大和説教的にはそうなんだろうけど、
世間のやつはみなアホな異教徒だから。 278の>>636
国民に見放された、
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者や学界やの酸っぱい葡萄。 278の>>638
ちゃんとした学者が殆どいないから、
「南→東」などの嘘つきダマシのサギシの・・・・大和説が、死んでいないわけで。 世有の三国志内での用例
@ 三国志魏書后妃傳第五
>魏因漢法 母后之號 皆如舊制 自夫人以下 世有搗ケ。
[魏代の後宮制度について]魏は漢の法制度を踏襲したため、皇太后らの称号は全て元の制度と同じであったが、夫人より下の妃は魏の時代には人数の増減があった。
A 三国志魏書任蘇杜鄭倉傳第十六
>語曰「世有亂人而無亂法」
「世の中に世を乱す人はいるが、世を乱す法は無い」と成語でもうします。
B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人世有冠冕
さて貴方たちの先祖は、「魏の治世には」冠をつける役職についていたが、
C 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十
>而公孫淵、仍父祖三世有遼東。
公孫淵は父祖三代に渡って遼東を領有した。(189〜238)
D 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三
>當世有聲名
当時は名声が高かった。
C は三世(三代)の意味、Dは当世(当時)の意味で、世有の用例ではない。
@ は漢の時代との対比だから魏の治世のことではある。Bも漢代末から魏の治世に掛けて冠をつける役職についていたが、この場合は魏の治世に限ってのことだけある。Aは一般的な言葉を引用しているのでこの世の中の意、用例としては不適切
以上からは、世有王は、特別な使用でない限り「魏の治世の王」が、と訳すのが適当。 畿内説は実は東遷説だな。
【畿内説の主張のまとめ】
(>>1の発言をまとめたもの)
「瀬戸内海勢力が枢軸となって、総花的に纏向で田舎娘を共立した」
「首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した」
「弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した」
【畿内説(主にスレ主)が主張する東遷】
@弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した
A首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した
B結果的に伊都国の太陽祭祀を継いだ卑弥呼が、瀬戸内海勢力の実力を背景として、総花的に纏向で共立された 278の>>639
もはや「南→東」などの嘘つきダマシの大和説は、
ガリレオや進化論やシュリーマンらを否定する、中世キリスト教らのよう。 278の>>642
大和説を唱える人間には、いわゆるまともな歴史学者、考古学者はほぼ居なくなって、
「裸の王様」のように、
子供や分野違いの学者から、「南≠東」などのような当たり前の間違いを指摘されて、
時々、国民の中で大恥をかいたりする。
大抵、基本的な事カン違いしてたりして、とんでもない結論になって、バカにされたりする。 「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の治世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の治世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」ことを指すと結論される。 278の>>643
「南→東」・・・などの嘘つきダマシの妄想をしたい負け犬大和説。 278の>>645
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説に、邪悪な顔つきは有っても、良心なし。 278の>>647
いくら大和説に、まともな顔の学者がいないからって、
「南→東」などのような、嘘つきダマシの非良心的な説を捏造すんなよ 。 278の>>648
「南→東」などの史料事実の歪曲は、醜い顔の・・・・大和説者の基本戦法。 278の>>650
国民の過半数に否定され、国民の3割の賛成しか得られない大和説は、終わってる。
ちなみに、3割賛成は、皇国史観の戦争狂で、格好いい言葉で国民を騙す安部自民と同じ。 278の>>654
>寺澤先生は随分昔からこんな感じですね
九州説の人間にとっても納得できる立場だと思います ・・・<
寺澤がいくらもっともらしい事をのたまわっても、
「南→東」の嘘つきダマシの大和説は、反省して放棄せずに、むしろ宣伝しているんだから、
そりゃ「衣の下から鎧」の怖いサギシなのであり、
人間としての良心は感じられず、信頼性が全くない。
これは、スレ主も同じ。 いつ覗いても、テンプレートが論破されているね。。。。 278の>>658
「南→東」の嘘つきダマシの大和説者って、
説そのものを批判や議論をするより、
鵜呑みだの、決め付けだのの、言葉尻を捕らえての曲解捏造の人格攻撃が多いな。
まあ、人間の良心がない、怖い醜い願望の人種なんだろうなあ。 w
w
w
オレ様の考えた新説が正しくて定説は間違いだ
だから定説に基づくテンプレも間違いなのだ
・・・って理屈で畿内説を論破できたと思ってる
おめでたい爺さんが常駐してるスレは
ここですか
w
w
w 278の>>659
まあ、大和説者って、人間ではない非良心的な怖い醜い顔貌、という、そういう連中だよ。 278の>>662
「南→東」などの嘘つきダマシをしておいて、
更に「畿内説には欠点ないけどね」というウソまで言えるサギシが、大和説者。 278の>>666
日本の古代史学会も、「南→東」などのウソ付きダマシのサギシである、
という事は、もう国民の間では定説ですが。 278の>>667
>指摘できなければ欠点はないよ <
「南→東」などの欠点は、ずっと指摘してあるよ。 >>112
じいさんアホですか?
魏志倭人伝にはみなみと書いてあるのぢゃーー
東にある大和は邪馬台国では無いんぢゃーー
なんて理屈で邪馬台国畿内説を論破できると思ってるなら
千回わめけば千回一同の失笑を買うよ >>112
古田説の「南→東」などの欠点も、ずっと指摘されてるよな。
w >>104
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 >97
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 同じところを堂々巡り。 江戸時代からちっとも進歩が無い畿内説と九州説。 @阿波 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 ともに致命的な欠陥だらけで、互いに破綻してるのを解かってて、意地でやっている畿内説と九州説。 @阿波 278の>>700
>九州説はなぜ邪馬台国を九州と思うのか?<
文献考古共に、筑紫付近だから。
>文献のみなら九州南部に見えない事もないが<
いや、古田分析での「三国志の陳寿の行程記載原則」からは、筑紫にしかならない。
>様々な考古学的物証で見れば畿内である事はほぼ確実<
様々な考古学的物証も、いくら見ても、筑紫である事はほぼ確実。
>文献と考古的証拠の二つがそろって初めて
それは邪馬台国の実際をほぼ確実に表すものとして扱える<
「邪馬台国」という存在しない文言を使用するこの人間も、
始めから「ヤマトありき」の、「南→東」の嘘つきダマシの大和説人種であった、
という事であったらしい。 A、又渡海一千餘里至末盧國(官略)有四千餘戸
濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆没取之
東南陸行五百里到伊都國(官略)有千餘戸
丗有王皆統屬女王國郡使往來常駐所
東南至奴國百里(官略)有二萬餘戸 東行至不彌國百里(官略)有千餘家
B、南至投馬國水行二十日(官略) 可五萬餘戸
南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月(官略) 可七萬餘戸
C、自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
次有斯馬國 次有(二十数国)
倭人伝におけるA〜Cの文脈において、投馬国、邪馬台国と言う国名が唯一示されるBの部分が前後のA、Cの文と直接繋がらない事を理解する必要が有る。
Aは目的地、卑弥呼の女王国の首都と2万戸の奴国及び内陸と思える隣接村の不彌國でありここから出航して延々南に水行30日と陸行1月の南海上の邪馬台国に行く理由が無い。
Cの女王国以北が膨大になり、距離、方角、戸数規模に無理が生じる。
このB文を和約すると、
(帯方郡の)南水行20日が投馬国の領土で5万戸。 つまり、後の馬韓地域。
その南水行10日(の島領)と(九州の)陸行1月部分が邪馬台国で7万戸。
この文の示す部分が、邪馬台国(=女王国)の領土である。 と書いてある。
南=南、一月行=一月行であり、倭人伝をちゃんと理解すれば当たり前のことだ。
中国では漢の代から投馬国=馬韓地域、邪馬台国=九州北部の倭人国と理解されていたという前提に立てば、この文の意味する処は明確に理解可能。
後述される、 参問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里 が、魏使の紹介した女王の倭国であり九州の北一月行(三分の一)の範囲の国々と一致する。
女王の居所は国土の南限に有り女王国に属する女王国以北のその他二十数国名を列記する前置きとして既知の経路の馬韓域と女王国全体の概要を記したのである。 根本的に間違っていることに背を向けて、ひたすら相手を誹る畿内説と九州説。 @阿波 おっと、九州説は罵倒の輪廻まきこまれた被害者ですよ >>116
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の治世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の治世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」ことを指すと結論される。 世有の三国志内での用例
@ 三国志魏書后妃傳第五
>魏因漢法 母后之號 皆如舊制 自夫人以下 世有搗ケ。
[魏代の後宮制度について]魏は漢の法制度を踏襲したため、皇太后らの称号は全て元の制度と同じであったが、夫人より下の妃は魏の時代には人数の増減があった。
A 三国志魏書任蘇杜鄭倉傳第十六
>語曰「世有亂人而無亂法」
「世の中に世を乱す人はいるが、世を乱す法は無い」と成語でもうします。
B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人世有冠冕
さて貴方たちの先祖は、「魏の治世には」冠をつける役職についていたが、
C 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十
>而公孫淵、仍父祖三世有遼東。
公孫淵は父祖三代に渡って遼東を領有した。(189〜238)
D 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三
>當世有聲名
当時は名声が高かった。
C は三世(三代)の意味、Dは当世(当時)の意味で、世有の用例ではない。
@ は漢の時代との対比だから魏の治世のことではある。Bも漢代末から魏の治世に掛けて冠をつける役職についていたが、この場合は魏の治世に限ってのことだけある。Aは一般的な言葉を引用しているのでこの世の中の意、用例としては不適切
以上からは、世有王は、特別な使用でない限り「魏の治世の王」が、と訳すのが適当。 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國」
自女王國以北に特置に一大率を置く、一大率は諸国を検察し諸国は畏憚している、伊都国で常に治める
治めるのは自女王國以北の地域
一大率は自女王國以北の地域にいて検察している
伊都国で常に治めているのは誰か?
一大率は自女王國以北の地域にいて検察しているから該当しない
国を治めるのは王である、つまり女王卑弥呼が伊都国で治めているのである。 伊都国に卑弥呼がいたんだから
邪馬台国論争は終了でしょう。 >>117
畿内説は行き詰ってますが
九州説では伊都国に卑弥呼がいたと結論がでました
伊都国が在ったと考えられる糸島市では多くの遺跡が存在しますから
発掘された資料を分析すればいいだけです。 どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったなどと、考えているのかな、、、 >>129
ウソばっかり
>@ は漢の時代との対比だから魏の治世のことではある。
ハイ、ウソ
魏王の、ころから書いてあるので魏の治世じゃない
>Bも漢代末から魏の治世に掛けて冠をつける役職についていたが、この場合は魏の治世に限ってのことだけある。
ハイ、ウソ
魏の治世に限る理由ゼロ
>Aは一般的な言葉を引用しているのでこの世の中の意、用例としては不適切
これも除外する理由ゼロ
この世全般の話して、魏の治世じゃない 九州説って馬鹿の世界だよね
今まで誰も知らなかった倭人伝の新しい読み方を発見しましたぁぁぁ
ってワンパターンを永遠に続けてる 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國自武帝滅朝鮮
使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國
楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里
倭に有る三十余国には皆世襲王が有るが、その代表の大倭王は邪馬台国に居る。
(だから皇帝が印綬した。 中国の史書は皇帝の威厳と正統性を記録する為の史書である)
その国土の南北は楽浪郡から七千里の(北西境界の)狗邪韓國から1万2千里までである。
(ちなみに対馬渡海は合計三千里、邪馬台国の領土は南北で九州北部の二千里しかない。)
倭人伝の
世有王皆統属女王国 は、世有王/で、文節を造ったらこの位置に必要な文じゃなくなる。
(伊都国にも王が有るが)世に有る(当時の三十国の)王は皆すべからく女王国に属する。 だよ。 >>124
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 >>136
あの、鍵型の墓のせいじゃないかな。。。
魏志倭人伝に書かれているものとは形が違うけどね。。。 倭人伝の女王国という文言に違和感を抱く。
倭国≠邪馬台国=女王国=九州北部の30国連合
魏は皇帝の名において、女王卑弥呼に親魏倭王を印綬した。
しかし、倭人伝に示される通りの共立王であり卑弥呼は倭王ではない。
張政が邪馬台国王が倭国王で無い事を憚り、女王国と表記している。針小棒大w
魏によって印綬したあくまでも倭王としての女王国としていると思われる。 死んでるしw
だからと言って、100年も続かない九州北部の南北2千里(三分の一)の領土の国の王墓を
畿内に求めるというのは頓珍漢にもほどがあるし、日本の皇統に不敬だろ。
東遷説並みの阿保。 >>137
@魏因漢法・・・・・・これが見えないのか?
Bウソの言い切る理由?
Aはこの世全般の話してるから用例にもならない。 すげぇな
50個くらいレスが消えてるw
バカがまた妄想を延々と喚き続けてるんだなw >>126
信仰すること自体に喜びを見出した、畿内説が破綻していることを認めたくない、頑固な老人信者たちにも、畿内説以外の信仰対象がたくさんあることを、教えてあげられるっていうメリットもありそう。 このおばかさんに自分のレスにレスつけて一人で会話してるの見えてるよって誰か教えてあげて >>147
でも、結構な数の研究者の目に留まっちゃったんだよね。。。 >>148
>@魏因漢法・・・・・・これが見えないのか?
それがなんだ?
魏王のころは魏の治世じゃないよ
>Bウソの言い切る理由?
理由もなく魏の治世に限定したでしょ?
つまり、サギ
>Aはこの世全般の話してるから用例にもならない。
世有というのはこの世全般だ
という用例だな 中国の史書には、倭人の特徴として、
とてもおだやかで物靜かで訴えごとも少ないと書かれている
倭人とは非常に異なった民族性を持った人たちは元々九州にいたと、
ここの荒らしたちは主張している 新発明読みに定説を間違いだと証明する力があるわけなし >>138
でも、インタ−ネット工作が、観光客の対応に、猫の手も借りたい筈の、黄金週間もやまなかったね。 またこのおばかさんは自分で自分のレスにレスして一人で会話してる >>143
2013年のあの大規模調査よりも、数年後のあれね。
勿論、2013年のあの調査が畿内説破綻の発端となったことには変わりないけど、、、
やっぱりとどめになったのはあれだね。。。 バレてないとおもってるんだろうなぁ
まぁ裸踊りが面白いからそれでいいけど >>153
そういえばこの畿内スレpart1が立てられたのもその頃だったね 本当にわかってないんだなこいつw
バカの裸踊りは本当に笑えるわ >>160
しっ。だめだよ、それだけは。。。
発狂者が増えてしまうもの。 >>145
2013年以前から、桜井市のは、卑弥呼の古墳ではなく、天皇の妹の古墳だと認定されているのにね、、、
しかも、天皇家直近の国家機関からなのに。。。 怒られるwwww
バカが笑わせてくれるわwww
バカは本当にバカだからバカなんだなぁ >>163
確かに、、、、
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている >>157
今まで内容が不明確だったことが明確になるし
矛盾してると思えたことが矛盾じゃなくなることが
今までの読みが誤訳だった証明だよ。 >>170
あたまが岡しい上に自意識過剰で
無能なのに上から目線する馬鹿の代名詞だっほ〜 無名だと罵る相手がいないので
仮想敵を作ったってところかね? >>158 >>161
ここで騙しの宣伝しているのは、
奈良の観光関係の組合員や、公務員じゃないのかもね。
ひょっとすると、専門の下請け業者なのかな、、 >>177
恥かきは学者を自称してた人達じゃないですかね。 >>151
なるほど、畿内説信者さんたちに、次の信仰の対象を選んでもらうわけね。
でも、選ばれた説の論者には、負け組や、疫病神に取りつかれたようで、かえって不気味、、、 >>179
そんな、組織だった工作ではないと思うよ。
書いている内容が、狂人のように錯乱しているからね、、、、 >>167
そうだね。。。。
ただでさえ閑散とした桜井市周辺に、ブツブツつぶやく発狂者が徘徊するさまはおぞましすぎるね。。。
二度と訪れる予定はないけど、、、 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 >>187
ここでもブツブツつぶやく発狂者が徘徊するさまはおぞましすぎるから
できれば二度と訪れないで欲しいけど >>175
こういうのが九州説の典型なんだよね
オレ様の説だと説明がつくからオレ様説は正しい
オレ様が説明つくとジャッジしたんだから間違いなしだ
・・・脳内循環老人 自分のレスにレスし続けて虚しくならないのかねぇ
あ、バカだからそんな感性あるわけないか
気が付いてないの本人だけなのに >>193
畿内説症候群、トビ主病、キウス連呼病、岡本連呼病、質問に質問で返す病etc. 278の>>709
>理由があって、そこから結論を出すから、確からしさを第三者が評価できるのが畿内説<
「南→東」などのような史料事実に対する嘘つきダマシをし、
文献考古ともに、史料事実に対する恣意的曲解をした事がバレて、
国民の過半数から否定された大和説。
>理由なく、ただフと結論があるから、第三者は何がなんだか解らないのが九州説<
文献考古ともに、史料事実に拠った確率の高い帰納的推論をしたから、
国民の過半数に支持された九州説。 278の>>711
>理由を聞かれると必ず答えるのが畿内説<
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
無限に、「何故か?」と言い合いしても、最後は不可知になる事は当たり前であるのに、
都合の悪い「史料からの推論論理」を言われると、
必ず「何故か?」という質問を浴びせ続けて、
「言った言わなかった」の話に摩り替えて、
議論がなかったかのように、誤魔化して逃げて姿を消すのが、
大和説者。
>理由を聞かれると慌てて姿を消すのが九州説<
「何故か?」と聞かれたら、常に、最も関係が深い史料事実で説明しているのが、
九州説者。 278の>>715
>計画的新都市<
地方の市の祭祀建築の纏向は、筑紫の広大で豪華な弥生銀座に完全に負けている。 278の>>717
>3世紀中ごろの椿井大塚山の副葬品は豪勢だぞ
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本などなど<
椿井大塚山は、木津川だから大和ではなく、
竪穴式石室であるから当然ホケノよりも新しく、割竹形木棺もあるから「槨」にもなり、
ホケノが3世紀末以後であるから、椿井大塚山は4世紀以後になる。
また、三角縁神獣鏡32面、内行花文鏡2面、方格規矩鏡1面、画文帯神獣鏡1面など計36面以上であるから、
筑紫の影響と、扶余東沃沮の流民や楽浪流民の影響のいずれも可能性がある事になる。
ホケノ 相変わらずレスが消えまくってるな
基地外が相変わらず透明の中で大演説かw 278の>>732
嘘つきダマシの証拠で、曲解するのが大和説。
史料事実からの帰納的な確率の高い推論をするのが九州説。 278の>>736
>それ、歴史研究する機関じゃないからな<
「南→東」の嘘つきダマシをした機関は、どんな立派そうな名称であっても、
そんな・・・・サギシは始めから信用出来ず、
何をのたまわっても、根拠にはならんからな。 278の>>737
「南→東」の嘘つきダマシは学説でもなく、大和説も学説ではない。
史料事実を変更せずに帰納的な確率的推論をする、良心的なのが九州説。 今日は大和説の書き込みが多いなあ
相当暇だったんだろうなあ 荒らしは大和、大和民族、大和魂という語に異常に反応する 278の>>742
こんなふうに、自力で思考する能力を失って、
「南→東」の嘘つきダマシの学者らを妄信隷従して、」
大和説は、国民の過半数の信を失った。 >>129
Bの王昶の父王沢及び叔父王柔は、後漢の郭泰(郭林宗)に認められ出世した人物
魏代の人ではないよ 278の>>744
>ほんじゃ銅出徐州 師出洛陽の三角縁は 魏鏡で間違い無いんだな<
洛陽から出土しないから、魏鏡ではない。
「師出洛陽」は、師匠の話であり、その鏡の作者の話ではなく、
作者は、自分の宣伝に「銅出徐州 師出洛陽」を書き込んだ。
また、神獣鏡は呉系で楽浪にもあり、三角縁も呉系で楽浪にもあり、
そして、その合体になる「三角縁神獣鏡」は列島にしか出土しないから、
楽浪鏡師の一部が、列島で、三角縁神獣鏡を造ったらしい、という事になる。、 >>207
王沢、王柔が後漢時代に出世して
その次が王昶世代
冠を付ける先人とは王沢、王柔、王昶で
王昶は魏代末に死亡
代々なんて何代も続いてたのではない
魏の治世には確実には先人(王沢、王柔、王昶)は冠を被る身分にあった。 >>205
大和、大和と連呼してるのは荒らしのザラコク 278の>>747
>ウソをついてるのが平原のバチモン鏡だろ<
バチモン鏡か?なら、
その根拠を柳田に聞いてみろ。 名無しが
>>51
---その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。---
Q 3世紀に畿内に馬はいたと解釈してよいか。使者が来た時期だけ馬が断片的に居なかったと解釈してよいか
↓
スレ主の回答
1 ◆q8leUXpsw. 2017/09/12(火) 06:05:40.18
Q 3世紀に畿内に馬はいたと解釈してよいか。
A 可です。 >>212
柳田が詳しくバチモンだって説明してるな。 9月21日の出来事
名無しが 6時
---その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。---
Q 3世紀に畿内に馬はいたと解釈してよいか。使者が来た時期だけ馬が断片的に居なかったと解釈してよいか
↓
スレ主の回答
1 ◆q8leUXpsw. 2017/09/12(火) 6時
Q 3世紀に畿内に馬はいたと解釈してよいか。 >>218
3世紀に馬が畿内に居たという根拠は?
縄文期に馬の骨、希には発見されてるようだが、それ以降馬の形跡なし。 >>188
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 ベニバナも輸入品と言われている
馬もその時だけの輸入品でも何の問題もない
バカはその程度もわからない脳みそだからなぁ >>210
これを魏の治世の話だなんていうのは
相当アホか狂人
ってことね >>215
仮に代々とした場合でも2代程度だろ
世有王で皆が2人の王を指す? ガラス工芸品が見つかったからって日本にガラス工芸が始まったわけでもない
時計が見つかったからって別に時計が制作され始めたわけでもない
アホはどうしようもないな >>224
世有王も同じ程度の意味なら二代の王だからな
二代の王には皆は使わないよな >>220
壊れてから三世紀末〜四世紀初頭に捨てられた国産の馬具 >>224
二代でも三代でもいいだろ
要するに一代きりでないってこと。 278の>>751
>九州に先進的な物が何かあるのかね?<
水田や、吉竹高木の宮殿や、弥生銀座のハイテク工業や、
庄内や、陶器や、前方後円墳や、大道など。 >>224
もっと先祖もえらい人だったんだろ
いずれにしろ魏代の人の話じゃないから >>225
例えは分からんでもないが
すれ主は ベニバナ栽培が3世紀にあったと言ってるよ 馬ははいたかいなかったかが問題なんじゃない
倭国内では馬が移動手段として使われていないことを報告したんだよ FAQ29のAだな
>正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、
当時の纒向遺跡でベニバナの栽培と染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。>
これ、どこから引っ張ってきたのか知らんが、畿内説の恥4 >>234
すると、倭人伝の馬が居ないというのも
誤情報でいいですね? >>224
王柔王沢兄弟、王機王昶兄弟、代々高官だよな。 魏使は自分の見聞したことを報告しているだけでしょう 見つかるのも纏向だけでしかも限定的
ベニバナは溝に大量に見つかるがやはりここだけ
馬にしてもベニバナにしても繁殖や栽培をしてるならもっと多くの痕跡が出てくるはず
馬の歴史、ベニバナの歴史ともにこの時期に日本への定着などないとわかっている
そして倭人伝に馬はいないと書いてる
そうなれば自然、この時だけの特別な輸入品と考えるのが当然だろう
なにを鬼の首をとったみたいに喚いてるのか
アホはこれだから 畿内説のバカの一人がは馬が畿内に3世紀いたという
すると、そのバカは馬以外に下記倭人伝記述の誤情報はどれ???
種禾稻紵麻 蠶桑 緝績出細紵縑緜 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛盾木弓
木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同 スレ主の回答
1 ◆q8leUXpsw. 2017/09/12(火) 06:05:40.18
Q 3世紀に畿内に馬はいたと解釈してよいか。
A 可です。 >>244
方位攻撃
海遊録攻撃
も明確な回答無い 九州説じじいは頭が悪いから
三世紀前半に馬がいなかったという話を聞くと
三世紀後半も絶対に馬がいないと言い張る
ほとんど白雉だな
笑笑 >>244
テンプレに何も付け加えること無いだろ
トンデモ質問は自滅してるし 古墳攻撃
箸墓が最古の前方後円墳だと、
モモソ以前の(前方後円墳)の 天皇陵の築年代も考察し
天皇陵の比定地の入れ替えを畿内説は声高く言及すべき 名無しが
>>51
---その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。---
Q 3世紀に畿内に馬はいたと解釈してよいか。使者が来た時期だけ馬が断片的に居なかったと解釈してよいか
↓
スレ主の回答
1 ◆q8leUXpsw. 2017/09/12(火) 06:05:40.18
Q 3世紀に畿内に馬はいたと解釈してよいか。
A 可です。
だって 3世紀に畿内に馬はいたは通説だ
倭人伝には聞いた話が多い
馬は居ないは誤情報だ >>245
ベニバナ攻撃
馬攻撃
方位攻撃
海遊録攻撃
キウスのイチャモンがあんまり稚拙だから
俺たちが完全に論破した
1が出てくる必要がない
ok? >>251
倭人伝に畿内のことは書かれてないからな >>252
プッ
言ってて恥ずかしくない?
キウスは俺たちが論破した キリッ
w 箸墓の鐙は周溝の上層(布留1)だから3世紀に馬(寿命2-30年)がいたとしてもぎりぎり末だろ 貢物を見ると最初の使節と次の使節では内容に格段の進歩がみられる
つまり、卑弥呼の直後から一気に畿内が中心地として大量の文物が集まる中心地となったことを示している
馬やベニバナのようなそれまでにないその時だけの貴重な文物が入り込んでいることもその一つの証左と言える
また二回目の使節が献上したものの中に赤く染めた絹がある事も、特別な染料として輸入されたと考えられるベニバナの痕跡との関連性が想像できる
この遣使の献上品の向上からも
「何もなかった場所に」「卑弥呼の時代の直後に」「急激に発展する」
という邪馬台国の条件に合致するのは畿内だけというのが分かる >>241
馬が纒向にいたのなら、纒向が邪馬台国ではないか、纒向の年代が邪馬台国より後世なんだろ。 >>251
>3世紀に畿内に馬はいたは通説だ
じゃあ、機内は邪馬台国ではないということで。 >>258
>「何もなかった場所に」「卑弥呼の時代の直後に」「急激に発展する」
卑弥呼の後に発展するなら、卑弥呼の都じゃないだろ。
アホか。 >>222
ベニバナも輸入品と言われている
馬もその時だけの輸入品でも何の問題もない
バカはその程度もわからない脳みそだからなぁ
⤴
畿内説を貶めようとしてるで賞 成りすましで賞 >>256
アホ九州説は完膚なきまでに論破されてますが
まだ反論ありますか?
はじかくだけですの キュウシュウセツは今日も馬鹿をさらして遁走するのか ワロタ
倭人伝の都合の悪い部分は誤情報とする畿内説 >>267
テンプレしかり、畿内説しかり鐙は後で捨てられたです 自分でレスして自分で叩いてるのがバレてないと思ってるんだろうなぁ
さっきからどうしてこうパーなんだろうな
見えてるって教えてやれよ 知能のほとんど無い九州説老人にには理解できないかもしれないけど
西暦290年の日本列島に馬がいても倭人伝には何の責任もないからな >>273
君が無残に論破されたのに
どうして私が悔しいの? >>278
世有王も親子二代程度とすると
皆の対象にはならないってこと
親子二人を皆とは言わない。 九州説は
ベニバナで論破され
馬で論破され
方位で論破され
海遊録で論破され
今夜もまた手も足も出ない >>278
皆の対象として相応しいのは今使譯所通三十國でしょう。 >>283
何で二人を皆と言わない?
知能がないの? >>287
三十國なら皆の対象としていいでしょう。 >>294-295
悪口しか言えなくなるのは
議論に負けた証拠 >>292
30なら皆の対象として十分な数ですね。 >>264
魏志倭人伝の全てを誤情報としないと成り立たない畿内説とは >>275
>>>228
>皆と呼べる程の人数じゃないってこと。
言い訳こじつけてようやく成り立つ畿内説 九州説の幅の広さには舌を巻くね
厚い支持層がいてのこの論理の深さと分かる どうも気になるが、「東遷」という造語は、王が国ごと引き連れて移住するって
事だよな?
神武記にみる一行の勢力は、せいぜいが大隊クラスで、それも各地を流浪の旅w
客分として屯田でもしながら移動した風情でしかない。如何に長髄彦がエリアの
王として強力であっても、九州勢力を挙げての攻撃なら流石にひとたまりもない。
鉄器の優勢だけでも、圧勝するよ。
それが、実際は兄二人を失い遙か僻遠の熊野まで落ち延びたんだよ。
統一国家で例えばレコンキスタの後カルロスが首都を移すってのとは訳が違う、
弥生の王=大稲作地帯をそのまま残して攻め取りで敵地に遷都するなんて、あり得ない。
当然鉄やその他の資産設備や人口も残していくわけだろ?後は誰が支配するんだい?
実際は、王族の一部か、九州で芽が出ない一族が新天地「うまし国」を求めて出ていった
って程度の話だよ。 >>284
畿内説がゴニョゴニョと魏志倭人伝に合致しない言い訳をしているようだが、全て詭弁にきこえる。 >>303
いくつならいいんだ?
無意味な批判だな。 今日も畿内説が言い逃れできずに荒らして終わります。 >>304
じゃ、検証してね
どっちにしても畿内説は痛くも痒くもないから 鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
奈良なんて東京や千葉の10分の1だもんね
発掘なんて東京に比べりゃはるかに恵まれた環境なのに
九州に比べれば2桁違う
農具は木製や石器なんて西日本の盟主だの王都だのってどんな妄想だよ
吉備や尾張の方が全然上
ちなみに湖沼、沼地の干拓ってのは水を抜くのに苦労をする
治水のために水路を掘ると結構な残土が出るんだな
奈良盆地に3世紀以降古墳が出来たっつのはまあそういう事だ
摂津河内も無理当時は河内湖が汽水から淡水に移行する頃で農地に出来るのはまだまだ後 >>308
そんな事実がどこに有る
捏造好きな東遷説 >>310
今夜も負けた九州説
はなし反らして荒らし逃げ まだ、世有 でもめてるんですか?
解釈の問題なんだから、決定は無理でしょ。つまり、伊都国説の方は、
「世有」と読んでも一向にかません。
畿内厨の人がそれをに不満ということなら、
■「世有」は、「必ず 世(世)有」 と読まなければならない
ということを証明しないと。
現時点では、畿内厨のほうに立証の責任があると思いますが。
私には、1のFAQを含めてそれに失敗していると思いますがね。 >>309
悔しかったら2人でも皆と使った用例出したら?
2人に皆なんて用例ありませんから。 それから、もし畿内厨の人が、
■「世有」は、必ず 「世(世)有」 と読まなければならない
ということを立証したとおっしゃるんでしたら、
代々続く伊都国王が、それより「時代的に新たに共立された」女王国に
どうやって統属されていたのかも説明頂かないとね。
纏向の発生より、伊都国のほうが随分古いわけですから。 >>313-314,316-317
ずっと岡上
w >>313
何を言ってるのかわからない
「世有」で普通に「代々」という意味に使うだろ?? >>320
そうですよ、世有は、世(世)有と解釈して「代々に」とも使いますね。
同時に、世有として、「(その当時の)世の中に」ともつかいますね。
解釈は文脈に依るのであって、どっちで解釈しても不正解とは言い切れませんね。 >>320
陳寿が「世有」を「代々」という意味に使うことが証明されてない
三国志内の「世有」は「代々」という意味に訳さなくとも全て意味が通じる。 >>320
また仮に三国志内の「世有」を「代々」という意味に訳したとしても親子二代。 「世有」には
「世の中には・・・がある」という意味と
「代々・・・だ」という意味がある
「世有王」は後者だ
だからみんなそう読んできたんだが
一体何が不満なんだ? >>321
後者で「世有王」を訳してごらん。
意味が通らない。 代々には「世世」と「世」がある
「世世」なら数代で長い、「世」なら2代ていどで短い。 >>330
世世」を「世」と略すから差はないけどね >>327
私は、別にどっちでも解釈できるという立場ですから。
あなたは、「代々に」としか読めないとおっしゃるのでしたら、どうぞ、
>>316 に明確な回答をお願いしますね。 >>334
意味が通らないという意志的に反論できないなら
どっちでも解釈できるという立場は撤回してもらわないとな >>333
健忘症さんへ、記憶力無さすぎ、3歩いたら忘れるタイプw
世有の三国志内での用例
@ 三国志魏書后妃傳第五
>魏因漢法 母后之號 皆如舊制 自夫人以下 世有搗ケ。
[魏代の後宮制度について]魏は漢の法制度を踏襲したため、皇太后らの称号は全て元の制度と同じであったが、夫人より下の妃は魏の時代には人数の増減があった。
A 三国志魏書任蘇杜鄭倉傳第十六
>語曰「世有亂人而無亂法」
「世の中に世を乱す人はいるが、世を乱す法は無い」と成語でもうします。
B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人世有冠冕
さて貴方たちの先祖は、「魏の治世には」冠をつける役職についていたが、
C 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十
>而公孫淵、仍父祖三世有遼東。
公孫淵は父祖三代に渡って遼東を領有した。(189〜238)
D 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三
>當世有聲名
当時は名声が高かった。
C は三世(三代)の意味、Dは当世(当時)の意味で、世有の用例ではない。
@ は漢の時代との対比だから魏の治世のことではある。Bも漢代末から魏の治世に掛けて冠をつける役職についていたが、この場合は魏の治世に限ってのことだけある。Aは一般的な言葉を引用しているのでこの世の中の意、用例としては不適切
以上からは、世有王は、特別な使用でない限り「魏の治世の王」が、と訳すのが適当。 >>334
あれ? >>316は馬鹿みたいだから反論いらないでしょ
>>336
「世に王が有り(その当時の世に王がいた)」でしょ。
ごく普通に読み下せると私は考えますよ。
では、あなたの番です。
>>316 にお答えくださいね。 >>340
中国全土、いっぱいいるよね
意味が通らないなあ >>340
「世に王が有り(世に王がいた)」でもいいですよ。
では、あなたの番です。
>>316 にお答えくださいね。 >>340
なんでそんなこと質問するのか意味わかんない
代々続こうがポッと出だろうが伊都国王は伊都国王でしょ?
共立された倭国の女王に従うのは当然だし >>344
まだ問題点に気づいてないですね。
「伊都国王が「代々」おり、皆、女王国に統属していた」と
あなたは読んだんですよ。
女王国は共立によって纏向の地に新しくできた国なんでしょ??
伊都国より歴史が浅いのにおかしくないですか?? >>349
「新しくできた国(纏向)に、古い国王(伊都)が代々統属されていた」
というのが完全におかしいですね。 >>354
ご自分で考えてください。
アホらしくなってきたので、落ちます。
ではおやすみなさい。 負けては逃げるウソツキ男
恥かくために生まれてきた男
それが岡上 まぁアレですな
先入観だけで突然結論だけ出しちゃってて、理路が無いんですよ
だから自分の考えを他人に説明できない
無学な九州説老人によくいるタイプですわ 世王有のあとの皆は記載された国の事を指してる
だから
「代々の王がいる伊都国」と「記載された以上の国々」は「女王国に統属」している
と書いてる
別に伊都国王が最初から最後まで女王国に従ってるんじゃない
この「この時代の王」が他の国々と同じくくりで従ってると書いてある
ちなにこの読み方は藤堂明保、竹田晃、影山輝国氏らの「倭国伝」の読みな
だから仮にそこを代々だろうがその時だけと読もうが何も変わらん 勝手なバカ読みして訳の分からん事喚ているだけのキュウシュウセツ
毎日毎日よくこんだけバカ晒せる
俺なら一日でも恥ずかしくて死ぬわ 岡上珍説
略して岡チン
いつも赤恥かいて逃げるくせ
決して撤回しないで後で何もなかったような顔して蒸し返すんだよな >>362
ちょっとまともな意見がやっと来ましたね。
その読み
【世有王とよんでも世(世)有王と読んでもどちらでもいい。皆は周辺国を指す】
でOKなら、伊都厨の皆さんは力づよい味方を得たことになりますね。
必死になって世有の読みは間違いだ、といってるFAQと正反対の意見ですね。
本気でもう落ちます。では >>366
なんで岡上に負けた腹いせに俺に八つ当たりするんだ で、散々無駄にスレ消化した挙句、伊都国の王が倭国(阿波)から進出した筑紫忌部だったって落ち? @阿波 >>373
惨めに負けて逃げた岡上を勝ってたとか言うばかだからだろう >>374
殉葬は筑紫忌部氏の祭祀だといいたいのか? >>378
どっちにしろ卑弥呼の部下してる小国の王だ >>379
伊都国は国内有数の国際貿易都市だったんだ 国際交易都市は博多奴国の方だな。
伊都国は政治や外交の都市。
ニューヨークとワシントンDCのような分担だね。
あわせて女王国だよ。
日本語だと筑紫の日向。
筑紫城とか高千穂宮ともいう。 >>368
世有王だけでは、王が一人なのか複数なのかも判別出来ない
単に王が世に居たとの意味しかない
世有王を代々と読むのは皆が世有王を指しているとの決めつけてるから いずれにせよ畿内説が死んでることは確実で将来は消えてなくなる。 どう読もうとも、卑弥呼が伊都にいたことに変わりないんだよ。
魏志倭人伝に纒向なんて出てこないし。 追い詰められて、テンプレート制作者が、なりふり構わず、発狂同然の喚き散らしの敢行をやっているね、、、
白旗の印象しか与えないのがわからないのかなw >>374
倭国大乱は、阿波内の出来事と言ってたな。
阿波のどの地域とどの地域が争ってたんだね? >>382
相手に気付かれないよに、こっそり勝利宣言w 馬は誤情報ね。
馬はいたけど使者は馬を見なかったと。おっけい。 >>380
それ奴国のことでしょう
2万戸の人口を養うには貿易しかないでしょうね 倭人伝には牛馬はいないと書いてあるのに
畿内説が馬がいることを主張している
理由がよくわからない。 追い詰められて、テンプレート制作者が、なりふり構わず、発狂同然の喚き散らしの敢行をやっているね、、、
白旗の印象しか与えないのがわからないのかなw 馬については馬具だけの輸入品の可能性も、混入の可能性もある、ベニバナのような一時的な輸入品の可能性もある
ただ馬がこの時期にこの場所にあったとしても後の歴史との整合性から定着したものではないのは言うまでもない
魏の使節がその時だけで飼育を始めたものでもない輸入品を見て「牛馬はない」と記載されることに何の不自然さもない
こんな物で浮かれあがるキュウシュウセツのバカぶりに哀れみさえ感じる >>401
創作に創作を重ねて、そんなならなんでも言えてしまって、魏志倭人伝の意味がなくなるな。 >>403
キュウシュウセツのバカぶりwww
290年に馬がいたとして、倭人伝のドコを間違いだと言うんだ、? 278の>>752
ほら、反論できなくて悪口専門。
これって明らかに、大和説の負けだよね。 278の>>753
「南→東」などの嘘吐きダマシなどの、
そういう史料事実の否定抹殺や、史料批判の拒否姿勢で、
大和説学者は、学問や科学の世界にいられなくなって、
国民の過半数に見捨てられた。 反論できなくて悪口専門になるのは
常に脳なし九州説 278の>>754
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説は、終わってる。 馬を導入する前に九州から連れて来たおじいさんに着ぐるみと
鐙をつけさせて乗馬の練習をしたということも十分考えられる ベニバナのように一時的な輸入品がありその後の歴史からも定着したなどとは認識されてない
その時だけの外来品があったからと言って何の不思議もない
むしろ馬のような特別な輸入品なりが見つかるこの場所が日本のどの場所よりも意味のある場所であるということが分かる証と言える >>406
>>154は気付かんかったw言い張って論破したつもりねwww
@魏王のころは魏の治世じゃないよ ・・・そうです
曹氏が帝位に付いた以降のことです
A王氏が冠を被る地位にあった世は魏の治世だからです
漢代(漢の世)は少しだけ
Bですから代々にもならないし魏の治世にも該当しない
用例にもならない。 「畿内に九州にもない珍しい特別な輸入品がたくさん見つかった!」
とか喚いて何故か喜んでるキュウシュウセツのアホっぷり
畿内が時代の最先端として珍しい文物が他と類を見ないレベルで集積していると一生懸命叫んでる
笑いしか出ないわ 278の>>757
つまるところ、根拠も理由もなしに、
「皇国史観的な結論先にありき」になる「南→東」の嘘吐きダマシをし、
口先言葉尻でのレッテルを脈絡もなく貼るだけで、
何か相手を批判したような気になってる大和説者は、
紛うことなき思考停止だ。
無教養なやくざ暴力団やキョクウのような人間のカスが、
とにかく「反皇国史観を否定したい」という欲望だけで、
「南=東」と吐き捨てるのと同じ。
知性の放棄ということさ。 自称先進国のキュウシュウ様は最盛期の時でさえも中国に献上するものがなくて奴隷を送ってただけだからな
ご自慢の絹だの鉄だの鏡だの質が悪くて皇帝に捧げられるようなもんでもないと
邪馬台国の時代になってようやく「畿内から」まともなものが作られるようになりましたよと
大陸に近いのだけが取り柄なのに何百年も馬一つ輸入できない
程度が知れるな >>417
@はウソ
Aもウソ
Bはいつの世でもだって用例
アホが論破されてます 278の>>760
こういう口先だけの悪口専門になり、
「南→東」の嘘吐きダマシに反省もない大和説は 、
学説としても、死んだってことさ。 魏使は牛馬がいなかったと報告しているのだから
一時的にせよ馬が輸入されていたと
すれば、その時期には畿内には
来ていないということだね 278の>>765
>伊都国の王家ね。
天孫降臨とか重視されるのはね、畿内にあった倭国大乱以前の倭国の王家の血を引いているからだよ。
1世紀に畿内の倭国から伊都国に婿入りしたんだね。・・・<
「1世紀に畿内の倭国」なんて存在しない。
倭奴國は「畿内の倭国」ではないし、伊都国の名前が見られたのは3世紀。 278の>>766
>しっくりとか、感覚論に逃げるのは 負け組だな <
「しっくり」という文言を言い出したのは、大和説者の方だったな。 278の>>775
>平原の尚方作鏡が国産なら、同時に出た民間人作鏡と同じ雑多なスクラップ原料を用いただろう。
純粋な朝鮮銅を使っているのは国産じゃない証拠だろうな <
あれ?、という事は、「平原の尚方作鏡の成分分析がされた」?、って事だな?。
また、柳田らは、平原の尚方作鏡はホウ製であって破砕された、と言っていたのではなかったのか?。 >>430
ほら
反論できなくて悪口専門になるのは
常に脳なし九州説 278の>>779
>サイギバいつものイタコ芸
九州説の恥だな <
また、意味不明な日本語の羅列で、何の事か?全く判らない投稿を書く大和説者は、
日本の恥だな。 278の>>780>考霊の間(140年頃)倭国に大乱あったそうだから
その頃がいわゆる神武東征じゃないの <
神武東征は、二中歴の記載などに拠って、紀元前1世紀。 結局、問い詰められると九州説は逃げる
ってことでしょ
チキンだよな 278の>>787
>普通に確定してるのは確定していると言うよ
三角縁は魏鏡とか <
三角縁は洛陽から出土しないから、魏鏡ではない。 出てる出てないは偶然に左右されるから、絶対的な根拠にはなり得ません
あしからず 278の>>793
>そりゃ九州説だろ
九州に邪馬台国がないとなると何も自慢する物が無くなるからな <
倭奴國の金印からタリシホコや白村江まで、筑紫が盟主。 278の>>796
よっぽどスレ主が困っているんだな 。
大和説が、「南≠東」で論破されてるからだろ。 278の>>798
罵倒しか出来なくなって、大和説は消滅した。 >>417
王沢と王柔を認めた郭泰(郭林宗)は128-169年の人
どうみても後漢時代の話 九州説さんよ 少しは手加減してやれよ
畿内説さんよ 歯ごたえのある友達連れて来いよ
馬もベニバナも輸入品なんて言う妄想じゃすぐに論破されちゃうよ 失礼
卑弥呼の時代に馬もベニバナも輸入されていた言う妄想じゃすぐに論破されちゃうよ 続けるよ
3世紀に馬が畿内に居たという、畿内説の学者がいるのかねぇ
ベニバナは邪馬台国と関係無い、無理やり結びつけようとするから可笑しなことになる ベニバナは、陳寿を推挙した張華が著した博物誌には
前漢の張騫が西域より持ち帰り中原において栽培したことが書かれている
また博物誌には、三国志東沃沮伝の東方の大海の中にある島に関する記述と全く同じことも書かれており
その記事は東夷伝序文の長老「異面の人、日の出所の近くに有り」と対応している 『三国志』東夷伝東沃沮の条に、日本人(倭人)とみられる記述がある。
王頎が毌丘倹の命令で高句麗王を追撃し、北沃沮の東方の境界まで至った際、
そこの老人に「この海の東にも人は住んでいるだろうか。」と尋ねると、
「昔、ここの者が漁にでたまま暴風雨にあい、10日間も漂流し、
東方のある島に漂着したことがあります。その島には人がいましたが、言葉は通じません。
その地の風俗では毎年7月に童女を選んで海に沈めます。」と答えた。
また、「海の彼方に、女ばかりで男のいない国もあります。」や、
「一枚の布製の着物が海から流れ着いたことがあります。
その身ごろは普通の人と変わりませんが、両袖は三丈もの長さがありました。
また、難破船が海岸に流れ着いたことがあり、その船にはうなじのところにもう一つの顔のある人間がいて、
生け捕りにされました。しかし、話しかけても言葉が通じず、食物をとらぬまま死にました。」などとも答えた。
だって、邪馬台国との関連性を解くにはなにがなんだか 景初中、大いに師旅を興し、淵を誅し、又軍を潜ませ海に浮かび、樂浪・帶方の郡を収め、しかして後海表謐然、東夷屈服す。
其後高句麗背叛し、又、偏師を遣わし到討し、窮追すること極遠にして、
烏丸・骨都を踰(こ)え、沃沮を過ぎ、肅愼の庭を踐(ふ)み、東に大海を臨む。
長老「異面の人、日の出所の近くに有り」と説く。
遂に諸國を周觀し、其法俗、小大區別を采る。各に名號あり、詳紀するを得る。
夷狄の邦といえども、俎豆の象存り。中國礼を失し、これを四夷に求む、猶お信あり。
故に其國を撰次し、其同異を列し、以って前史の未だ備わざる所を接ぐ。 倭王卑弥呼も239年(魏景初2年)に魏明帝へ男生口4人、女生口6人を、
243年(魏正始4年)に魏少帝へ生口を献じ、その後継者の台与も248年に生口30人を魏へ献じている(『魏志倭人伝』)。 >>418
そうかそうか、それは良かったな
つまり邪馬台国と関係ない珍しい特別な輸入品がたくさんあるって事は、畿内に邪馬台国は無かったって事だな 無知でスイマセン教えてください
纏向で見つかったベニバナの花粉ですが、
土壌の中にベニバナの花粉が含まれてると一目でわかったのですか?
ベニバナの花粉がまざると土壌に色とか異変がおきるとか、オカシイと思い分析したらベニバナの花粉が混ざっていたのですか?
もしくは纏向の溝の土壌は全て分析した結果、一部の土壌から見つかったのですか? >>455
ゴッドハンドかもな、今反省してるよ裏目に出た?
もしくは纏向の年代比定が間違ってるかだな。 ところでこの板って、ワッチョイとかIPは出せないのか? 2ちゃんでは無理
参考
IPひろばは、当社が調査したデータベースをもとにIPアドレスやドメイン名から地域や
企業・組織名、Whois情報、接続回線を誰でも調査できるサイトです。
ウィルスの発信元 調査や、増え続けるネット犯罪の初期捜査に活用できるサービスです。 >>445
話を聴いてる方が魏の世しか知らない世代なんだから
世有と言われても後漢時代の時代なんて知らないよ
明治なってからお前先人は世に有って偉い役人だったと言って
世に江戸時代まで入れる? >>460
代々と言えば、前の世代まで入るだろ、国語を勉強し直せ 畿内説のスレなんだから、世有なんてどうでもいじゃん >>221
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 278の>>802
>東遷なんかないからね。 あるのは伊勢尾張の勢力の西征、吉備の東征。・・・<
あったのは筑紫倭国の、「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」。
この投稿の後半は、いつもの「南→東」などの、史料事実の曲解捏造の分裂幻覚の妄想。 278の>>804
「南≠東」などへの史料事実での反論ひとつ出来なくて、ただ悪口を言う。
大和説が敗北した証拠だな。 278の>>809
>記紀にも書いてあるだろ。・・・<
記紀は、倭国の存在や歴史を抹殺盗用した半分×書であるから、
史料批判無しには論拠には使えないんだよ。 278の>>814
>南に1万2千里をkmに直すと約5000kmになって 赤道近くを指す事になるんだが<
陳寿は、地の文で「計其道里、當在會稽東治之東」と書いているから、
「赤道近く」を否定しているんだし、
「 1万2千里をkmに直すと約5000km」という計算も、陳寿の計算とは違っている、
という事だよ。 10代崇神天皇がいつごろの人物なのか。
これで邪馬台国論争は終了する。
行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭から前半。
2015久住編年でもこれが最有力。
そして卑弥呼の時代=庄内0式まで文化断絶がない。
という事は崇神から卑弥呼の時代までを遡れるのだ。
にもかかわらず古代史家、考古学者の誰一人ヒミコを探そうとしない。
驚くべき怠慢、惰弱。
わしは探した。
ほらトヨもヒミコもいた。
I崇神(310年)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安
トヨ津 D孝昭
トヨ津 (250年)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年) @神武
神武から6代孝安まで宮は葛城である。
つまり魏志に書かれた王朝は葛城王朝であった。 >>393
>倭国大乱は、阿波内の出来事と言ってたな。
>阿波のどの地域とどの地域が争ってたんだね?
倭国(阿波)大乱とは
旧吉野川流域北岸勢力内での争乱・旧吉野川流域南岸勢力内での争乱・鮎喰川下流域勢力内での争乱および各地域間の争乱。
邪馬台国(卑弥呼側勢力)は粟国(旧吉野川流域北岸勢力と旧吉野川流域南岸勢力と鮎喰川下流域勢力)
狗奴国(卑弥弓呼勢力)は長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力)
「旧吉野川流域北岸勢力」
東州津遺跡・大柿遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・吉水遺跡・拝原東遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡カネガ谷遺跡勢合銅鐸出土地
「旧吉野川流域南岸勢力」
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡
「鮎喰川下流域勢力」
樋口遺跡延命遺跡矢野遺跡名東遺跡鮎喰遺跡庄遺跡庄・蔵本遺跡
「勝浦川流域勢力」
桧銅鐸出土地
「那賀川流域勢力」
若杉山遺跡正福寺山遺跡 278の>>819
「南→東」などの、こういう簡単なウソが平気でつけるほど 、
大和説は堕落した。 >>461
代々と訳したのは日本人であり原文は世有とあるだけ
世有を代々との訳が正しいかの議論をしてるんだよ。
今汝先人世有冠冕
現在、貴方たちの先人(自分など)は、「魏の治世」にあって冠をつける役職についてるが 278の>>820
大和説がとうとう、「南→東」などの、あからさまな嘘をつき始めたぞ。 >>473
で、
卑弥呼は何処にいたのかな?
倭国大乱前の男王がいた場所は? >>393
>倭国大乱は、阿波内の出来事と言ってたな。
>阿波のどの地域とどの地域が争ってたんだね?
倭国(阿波)大乱とは
旧吉野川流域北岸勢力内での争乱・旧吉野川流域南岸勢力内での争乱・鮎喰川下流域勢力内での争乱および各地域間の争乱。
邪馬台国(卑弥呼側勢力)は粟国(旧吉野川流域北岸勢力と旧吉野川流域南岸勢力と鮎喰川下流域勢力)
狗奴国(卑弥弓呼勢力)は長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力)
「旧吉野川流域北岸勢力」
東州津遺跡・大柿遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・吉水遺跡・拝原東遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡カネガ谷遺跡勢合銅鐸出土地
「旧吉野川流域南岸勢力」
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡
「鮎喰川下流域勢力」
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄・蔵本遺跡
「勝浦川流域勢力」
桧銅鐸出土地
「那賀川流域勢力」
若杉山遺跡・正福寺山遺跡 >>477
>卑弥呼は何処にいたのかな?
粟国
>倭国大乱前の男王がいた場所は?
長国 278の>>821
>4世紀には畿内王権は博多湾の支配権を失ってるけどな<
「南→東」だし、
「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」 だし、
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種分家の附庸国の旧小国であったんだから、
「4世紀には畿内王権は博多湾の支配権を失った」って事が、
始めから有り得ないんだがな。
>だから沖ノ島ルートを必要とした<
大和は、倭奴國や伊都国の阿毎氏だから、
大和にとっても沖の島は、一応倭国の配下の国として、祭祀島であったんだよ。
しかし、半島へのルートとしては、母国の伊都国の対馬壱岐ルートがあるから、必要がなく、
ルートとして使われたとすれば、
半島からの緊急流民が、倭国や伊都国を避ける必要があった場合の、
緊急避難的渡来の場合位なら、 可能性がある、という程度。 >>472
行燈山
崇神ではないという風向きになりつつあります 278の>>824
大和説は、「南≠東」などに拠って、始めから終わってるよ。 >>475
今(現在)の貴方たちの先人の話をしてるんだから
世有を代々と訳すと意味が通らないな
今を見落としてた! 278の>>826
大和説=「南→東」などのウソつき、
という事で、国民の過半数や世間的評価が固定した。 >>478
この場合は自分も先人=祖先だし
話をしてる今(現在)の時点で他にも爺さんとか生きてるかもしれんね 278の>>829
大和説は、「南→東」などの嘘つきダマシに拠って、始めから自滅している。
国民は、もう殆ど死ん死にかけている犬を、蹴ってはならない。 278の>>839
「南→東」などの嘘つきダマシをして、学問に背を向ける大和説 。
終わりが近い。 >>488
過去の話じゃなくて今の話をしてるんだからね。 >>484
その前に伯夷叔斉の話をしてるから
「今」ってのは現代のことだろ
現時点で生きてる祖先(王昶ただ一人)と言う意味じゃない 278の>>844
>邪馬台国の位置論争はとっくに決着がついている。<
「邪馬台国」なんて、史料事実に存在しない。
>邪馬台国はヤマト国。<
これも大和説者のサギ。
「邪馬壹國→邪馬臺國→邪馬台国→ヤマト国→大和」という嘘つき誤魔化しの積み重ね。
>問題はヤマトの範囲。少なくとも大和盆地や宇陀は含まれると思うが。<
「南→東」などの嘘つきダマシに拠って、始めから×。 >>475
魏代に冠を受けたのは王昶だけ、王柔も王沢も後漢代に冠を受けてる。
代々としないと意味が通らない トンデモ読みで三国志を書き換えて邪馬台国を九州に持っていくのは
九州説の宿痾だね
救い難い 278の>>852
>魏志倭人伝当時の状況を解明するには日本海側の状況の解明も重要だな。
丹後半島周辺、吉備と出雲の境界、若狭湾〜琵琶湖北部、加賀辺り、<
関係がない。
魏使らは、倭人伝では、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
であるから、
山口〜足摺岬付近までしか見聞していない。 >>494
一族だから先人じゃないのかな、先人と先祖とは意味が全く同じなの?
先人が先祖の意味としても甥の父のいとこはいるだろうし話としての問題は無いな。 >>495
今の話ですから過去の後漢代のことは関係ないですね。
魏代に役職に付いてるって話
訳本とか「今」を意識的に訳してないな
今を訳したら世有が代々の意味じゃなくなるからだろうな
畿内説の工作が徹底してるな
気づかせてくれてありがとう。 278の>>856
大和説、終わってるよね。
国民の過半数は九州説だし、
2chでも、私が参加してからも、かなりの大和説者が消えてしまい、
騒いでいるのは、スレ主とその取り巻きの2〜3人だけであり、
支持者は殆どいなくなってしまったでしょ?。 >>500
トンデモすぎる
自分のことを先人とは言わないよ 278の>>864
国民の投票でも判るが、
ここ2chでも分かるように、大和説の人とかは、春成?やその取り巻きが少しいるだけで、
殆どいなくなってしまったからね。 >>502
「甥の父」は自分にとっては「いとこ」だって!!!!!!
日本語知らないの?
甥ってのは兄弟の子のことだよ
驚いたわ
マジ日本語知らんのか で、散々無駄にスレ消化した挙句、伊都国の王が倭国(阿波)から進出した筑紫忌部だったって落ち? @阿波 >>505
そうですね
失礼しました
兄弟ですね。 >>509
先人とは、祖先または亡き父のことだから >>510
そういうの、素直に「我」って言わない? 今汝先人世有冠冕
現在、貴方たちの先人(王沢)は、「魏の治世」に冠をつける役職についているが
この当時王沢はまだ生きてるのかな。 >>510
誰かがもう書いてる
殷周の故事の話をしてて現代の話に話題を変えたって意味だ >>513
王沢なら甥にとって祖先だし
自分にとっても祖先 >>515
>「魏の治世」に
って役が狂ってるだけだ 王沢、王柔は幼少の頃郭泰(郭林宗128-169)に会ってるよね
それが15才の頃で会ったのが165年と仮定してみると、150年生まれ
魏の世には70代になっていて死んでるか引退してるのは確実 >>516
漢の将軍なら帝位が魏に禅譲されたんだから
魏の将軍になったんじゃないの 278の>>873
>朝鮮半島南部の沿岸部の島々は、元々倭の領域だったのかもね。卜骨も出てるし、倭人の活動範囲だろうね。
さらに洛東江付近にある2世紀の鉄鉱石採掘跡。 日本列島の土器しか出ない採掘跡が見つかっている。
弥生時代後期には、鉄を求めかなり活発に半島に進出し、日本列島に鉄をもたらしていたと考えられる。
どのような勢力がこの役割を担い、日本列島のどの地域、勢力と結びつきが強かったか解明しないといけない<
弥生後期に、列島のどの地域から「鉄」が出土するのか?、を見ればよい。 >>521
「今汝先人世有冠冕」に続く文を読むと
王沢のことみたいだな。 >>521
引退してまだ生きてたんだろうな
身分を剝奪されたのでもないから
引退してても冠を被る身分には変わりない。 >>523
>弥生後期に、列島のどの地域から「鉄」が出土するのか?、を見ればよい。
倭国(阿波) @阿波 息子と甥に語りきかせてるんだから、共通の先人は彼らの祖父だね >山門郡
幸い、日本にはこのような名前の場所が複数あるようで、
古代天皇の朝貢という耐え難い問題を回避するために、
九州説を「創作」しなければいけなかった新井白石や本居宣長にはうってつけであっただろう。 王昶伝dには出てこないけど、おそらく王家は名門で、じいさん、ひいじいさんも冠を付ける身分だったんだろうな。」 論理的に考えて、魏の世に限定するのは意味が通じない 278の>>953
>これは現実 学者の99%は畿内説<
これは現実。
日本の公的古代史学者の99%は、「南→東」の嘘つきダマシの・・・・大和説。
>九州説で頑張ってるのは韓国籍の学者とか韓国の大学の学者が多い。<
しかし、国民の過半数は九州説であり、
大和説は3割で、何故かしら?安部自民の得票率とほぼ同じ。
という事は、嘘つきダマシの大和説者≒嘘つきダマシの安部自民支持者。 278の>>964
>テレビで学者さんが99%の学者は畿内説って言ってたよ
九州説の人もそれを否定してなかった <
その「99%の学者」は、国民の過半数から支持されておらず、
嘘つきだ、と思われている、
という事だな。 王昶は先祖の心得、行いについて話した後自分のことは吾はと続けている 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 278の>>968
>そもそもずっろ前から九州説って死んでるよ。<
そもそもずっと前から、大和説学者は、
「南→東」などの嘘つきダマシの・・・・であるだけであり、
国民の過半数から否定され、死んでいたよ。
>朝鮮系の学者が九州説を主張し続けててほとんどの学者から相手されてないのが現状だし<
大和説者は、国民の3割位であり、人種差別的皇国史観の戦争好き安部自民やキョクウ者の割合と、同じ位。 >>466
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 >>536
まだまだトンデモ本で飯の種を貪るアコギ商売人九州説がいて、犠牲者がたくさんいるんだなあ >>537
「今汝先人世有冠冕」に続く文を読むと先人は王沢個人のことですね
具体的行動まで記載されてる。 邪馬台国(九州中心)が狗奴国(畿内中心)と同盟し大和王権が成立
卑弥呼の鏡が畿内に多いのは、同盟の印として配ったからでしょ
畿内に邪馬台国があるとしたら、畿内に配る意味がないし どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったなどと、考えているのかな、、、 278の>>969
>九州説はヒネクった読み方しかしないだろ
どうせ日数表記の部分は帯方郡から再スタートとか言うんだろ<
魏使らの記録は、
「從郡至倭〜女王之所都」に関しては、
行程移動里数とその合計の「自郡至女王國萬二千餘里」と、
「從郡至倭〜女王之所都」の日数説明の「水行十日陸行一月」の両方で示し、
陳寿は、「計其道里、當在會稽東治之東」と推定している。 南九州(王子神武を擁する)が畿内狗奴国側についたことで倭国大乱が起きたんだよ
吉備、出雲なんかも生き延びるために立ち位置を探りながら両国と交渉 崇神天皇がいつ頃の人物か。
これ1点で邪馬台国論争は終わり。
これを避けてるのは九州説者。
崇神=行燈山古墳=4世紀初頭〜前半
これでヒミコもトヨも決まり。
2人が住んでたのは葛城。
はい終わり。 >>548
悪口しか言えなくなったキナイセツは終わり >>549
邪馬台国以上の国(=狗奴国)が畿内にあったというだけ
だから邪馬台国は「魏との関係」をアピールすることで勢力図をひっくり返そうとしたんじゃん >>542
でも、インタ−ネット工作が、観光客の対応に、猫の手も借りたい筈の、黄金週間もやまなかったね。 >>549
崇神天皇285〜318
葛城は出雲の分家、ヒミコ、トヨは関係ない
はい終わり。 >>547のような状況下において
邪馬台国は「魏との関係」をアピールすることで、倭国内の覇権を取り戻そうとした
だから銅鏡100枚なんだよ
当然、配布対象は「中立勢力(中国、四国、近畿北部)」が中心になる
寝返りそうな「敵対勢力(畿内)」にも当然配る 親魏倭王の金印を見せながら、魏の鏡を配布する
中立国は「やっぱり狗奴国よりも邪馬台国だな」となる
そういう狙いだよね >>554
285年なんてあるかいアホ。
それはともかく崇神が4世紀初頭なら、
崇神以前の女性の中からトヨとヒミコを探せばいいだけ。
最高位の女性だ。
ほらいた。
逃げるな糞九州説。 >>559
「ヒメ」がつく皇族なんていっぱいいる
「トヨ」がつく皇族も多い
なんの根拠にもならない >>545
あの、鍵型の墓のせいじゃないかな。。。
魏志倭人伝に書かれているものとは形が違うけどね。。。 >>561
外人が珍しい形の墓を作ってたら
絶対にそう書くよな
書いてないということは普通の形の墓だったってことだ >>560
>「ヒメ」がつく皇族なんていっぱいいる
>「トヨ」がつく皇族も多い
だから崇神の数十年前の女性を出せと言ってる。
はやく出せ、クズ。
ただし最高位の女性だぞ。 >>566
たとえいたとしても何の根拠にもならないって言ってんだよ
「ヒメ」なんてありふれすぎてる >>567
だな
テンプレバカにされてよっぽど(×よっぽっど)悔しいんだろう >>568
>たとえいたとしても何の根拠にもならないって言ってんだよ
崇神の数十年前の最高位のトヨという名前の女性を出し、
その前にヒミコという発音に近い最高位がいればそれでいいだろ。
出せないおまえが何を偉そうに言ってるのか。
早く出せ。
>「ヒメ」なんてありふれすぎてる
名前の初めにヒメがつく最高位の女性は一人しかいない。
たくさんいるなら早く出せ。 キナイセツは「畿内はでかい遺跡がある!でかい墓がある!各地の土器が出てる!」だけだもん
それは認めるよぜんぜ?
邪馬台国よりもでかい国(狗奴国)が畿内にあった
ってことだろ?何も矛盾しない >>532
根拠のない妄想
>>533
「今汝先人世有冠冕」
「現在、貴方たちの先人(王沢)は、「魏の治世」に冠をつける役職についているが」
「今」と書かれてるのに代々では過去のことになり意味不明な文章になるな。 >名前の初めにヒメがつく最高位の女性は一人しかいない。
関係ねー 278の>>982
>魏志倭人伝の行程でも いずれにせよ九州北部に邪馬台国があった事を示さない<
陳寿の行程記載の原則に従って、邪馬壹國は筑紫にあった事になる。
>不彌国まで1万700里<
方四百余里の對海國と、方三百里の一大國の、どちらもの国内見聞移動を記録しているんだから、
不彌國で「自郡至女王國萬二千餘里」はほぼ使い切ってしまった、という事になる。
>残り1300里を<
そんなに残っていない。
>南へ水行するんだから <
投馬國への「途中の移動を示す動詞」の記載がないから、「南へ水行」していない。
>水行千里は狗邪韓国〜対馬の例によれば約100キロちょい
それに水行30日陸行1月かかるかは怪しいけれど<
「水行30日陸行1月」は、その直前の文言の「女王之所都」の数量説明になるから、
「從郡至倭〜女王之所都」の日数説明になる。
>まあ九州説が邪馬台国の場所を主張するなら西都原辺りが妥当<
まあ似非九州説者が、邪馬台国の場所を「西都原辺りが妥当」だと騙そうとしても、無駄。 >>575
だから、そういうトンデモ訳が通じる時代じゃないんだよ >>575
「今」は「さて」と訳して意味が通じてますが、何か? >>579
じゃあそれでいいよ
で、そいつがいたところで何の根拠にもならないって言ってんだよ >>581
卑弥呼の時代にヒミコと言う名前に近く、
魏志の描写した様相とも合う最高位の女性がいるのに、
「何の根拠にもならない」というのは逃げ。
論外。
君は逃げてる。 >>584
だから、そういうトンデモ訳が通じる時代じゃないんだよ >>579
「六代目天皇までは嫁のほうが真の倭国王だった」
っていう君の意見は理解できた
疑問なんだが、なぜ「葛城がその都だ」ってなるんだ?
そこの論拠がなかったが
別に「葛城が都だ」じゃなくても「吉備が都だ」でも「福岡が都だ」でも成立しちゃう気がするが 278の>>985
>「南→東」はわざと間違えたんだろ。<
魏使らやと陳寿に、「わざと間違える」理由の必要もない。
>わざと間違えると魏の連合国で呉を取り囲む形になるからね。<
そんな事は、魏使らやと陳寿の記録や記載に、何の関係もない。
>呉の西 クシャーナ朝(魏の同盟国) 呉の北 魏 呉の東 倭国(魏の同盟国)<
魏使らや陳寿は、単なる記録者や記載者。 >>585
どこがトンデモ訳なんだボケ。
調子に乗るな。 >>584
「ヒメ」がつく皇族はたくさんいるから理由にならない >>586
>疑問なんだが、なぜ「葛城がその都だ」ってなるんだ?
簡単。
神武から6代孝安まで宮が葛城。
当然、その時代の正后も葛城。
まぁ正后という言い方もおかしいので実際には女王だね。 >>590
だから念仏唱えてないで具体的な名前を出せよ。 >>592
日本書紀にそう書いてあるのか?
二代目天皇は新潟に飛ばされてたと思うが 祖父王柔は漢匈奴中郎将、王機は魏東郡太守、もちろん王昶も魏の高官
彼が自分の息子と王機の息子王沈に教え諭してる
お前たちの祖先は代々貴人だったが云々
「世有」が「魏の治世」だなんてトンデモ説はお笑いすぎるです 278の>>989
>・・・投馬国から更に船で南に10日。 どうなるか試したらいい。<
太平洋の藻屑になって、魚のえさ。
>大隅半島沖は黒潮が流れている。1日150キロ流される。10日で何処に着くかな?<
南に向かって黒潮に流されても、太平洋の藻屑になって、魚のえさ。 「今」は言って聞かせている「汝」にとっての「今」だろ 南と東を取り違えてるなら狗奴国があるのも「東」ってことだろ
北中部九州〜吉備までを領域とする「邪馬台国連合」の東にある狗奴国は畿内に決まってる 278の>>989
「女王国=大和」説は、悪い事言わないからやめようって。
「南→東」だけではなく、魏志倭人伝の内容に対して矛盾が出まくり過ぎる。 >>596
>二代目天皇は新潟に飛ばされてたと思うが
何を言ってるんだおまえは。
単 な る ア ホ な の か。 しかし吉備は裏切り者だからな
邪馬台国から狗奴国に鞍替えしたのが吉備
特殊器台や墓制を畿内に伝えてる >>606
二代目天皇の名前読んでみろよ
「糸魚川の主」って書いてあるだろ
地方支社長として飛ばされてる 二代目天皇は新潟に飛ばされてたとかいうアホが唱えてるのが九州説www >>609
勝 手 に 話 を 創 作 す る な 278の>>991
>そりゃ邪馬台国は実際は東だけど 南にあると思い込んでいたからさ<
「東」に関しては、魏使らも陳寿も、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
と、はっきり別モノとして、書き分けているんだし、
魏使らは、周髀算経の東西南北の決め方もしっているんだから、
「東」は×。 >>604
「今」に「さて」なんて意味はない
「さて」は全くの創作だよ。 二代目天皇は次男だから地方に飛ばされてたんだよ
兄弟を殺そうとしたタギシミミを殺したのが次男だったからそのまま皇位についた >>616
名前にヌナカワがあるからと言って新潟に飛ばされたという発想になるこのバカwww
こいつ多分、日ユ同祖論とかUFOとかマジで信じてるのだろうなwww >>618
名前に「ヒメ」があるから卑弥呼だ!っていってるのと同レベルだよな 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 話を切り替えてるから「さて」でもいいんだけど
殷代の伯夷、叔斉の話に対して、「今」の「汝」らの先祖の話と「吾」の話を続けてるんだよ >>619
名前も時代も様相も合うのならヒミコ最有力だろうが。 278の>>992
>だから「南→東」はわざと間違えたんだよ。 わざと間違えると魏の連合国で呉を取り囲む形になるから。
呉の西 クシャーナ朝(魏の同盟国)
呉の北 魏
呉の東 倭国(魏の同盟国)<
魏使らは、見聞計測記録事実を書くのが仕事。
陳寿は、それを説明するのが仕事。
わざと嘘つきダマシを書いてバレたら、首が飛ぶ、」
>その証拠に、魏志倭人伝にも倭国は、會稽・東冶(呉の中心地)の真東にあるとわざわざ書いてある<
中国側からは、どの位置になるのか?を、
陳寿が計算して説明しただけ。 >>617
>兄弟を殺そうとしたタギシミミを殺したのが次男だったからそのまま皇位についた
いやそれがヌナカワなんだがw >>602
「さて、お前たちの先祖は代々冠をつける身分だったが、ひたすら仁義を名誉と心得て、慎みを守ることを称賛すべき美徳と考え、家にあっては孝悌を尽くし、師友に学ぶ努力をし的た。私は以下略 >>625
社長の息子が若手時代に有力な地方支社に飛ばされて経験積むってよくあるだろ >山門郡
幸い、日本にはこのような名前の場所が複数あるようで、
古代天皇の朝貢という耐え難い問題を回避するために、
九州説を「創作」しなければいけなかった新井白石や本居宣長にはうってつけであっただろう。 神武の嫁は古事記では大物主の娘ってことになってるけどな
つまり三輪だろ 南至投馬國水行二十日(官略)可五萬餘戸
南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月(官略) 可七萬餘
自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳 次有・・・
ちなみに、帯方郡の南の投馬国は水行20日で5万戸。 邪馬台国は水行十日の島領と陸行1月で7万戸。
女王国以北は(魏の冊封国で)調査、魏使に説明可能だがだがそれ以外の倭人国は隔絶し調査不能。
だが、次有以下に女王国に属する国名を記す。
其南有狗奴國男子為王其官有狗古智卑狗不屬女王 自郡至女王國萬二千餘里
=女王国の南に男子王の女王国に属さない国が有る。帯方郡から女王国は1万2千里。
(帯方郡から狗奴韓国7千里、海峡3千里)九州上陸から南2千里が女王国の南限
女王國東渡海千餘里復有國 皆倭種
=南北2千里の女王国から東へ千里程海を渡るとまた別の倭人国が有る。
女王国は九州北部であり、九州南部も本州四国も女王国には属していない。
卑弥呼は倭王じゃないし、邪馬台国は倭国の中の筑紫程度の小国だろ?
これで判るのはこれが大和朝廷の九州平定以前の話って事だ。
親魏倭王印綬のメンツ丸潰れだからクソな文なんだよ。
方角や里程に誤記は無い。 倭人伝をそのまま普通に読めば、邪馬台国は九州北部。 >>622
自分で立ち上げた隔離スレに帰れ ドン・キホーテ鴨厨 >>631
おまえこそ九州王朝説=アホのスレに帰れ。 先人という説明の後の「世」の意味なんて検証してどうするんだ?
時系列の説明がない時の「世」が問題だろうに >>632
>神武の嫁は古事記では大物主の娘ってことになってるけどな
>つまり三輪だろ
産まれは三輪山の率川(いざかわ)だったようだが、
事代主とともに葛城に来たようだ。
だから夫の神武も葛城に宮を構えた。 >>637
時系列の説明がないなら全世界・全時代だ
つまり「魏の治世」なんて意味はない >>580
「今」に「さて」と意味はありません
「今」を「さて」と訳してあるのではなく
「今」を訳さない代わりに「さて」が何処からか湧いてる。 >>641
岡上は漢文が読めないだけじゃなく、英語もダメなのか >>626
誤魔化しだな
「今」を訳してない
「今」を訳に入れると代々では意味が通じなくなるからな
>ひたすら仁義を名誉と心得て、慎みを守ることを称賛すべき美徳と考え、家にあっては孝悌を尽くし、師友に学ぶ努力をし的た。
これは先人と記された王沢のことだ。
代々の先祖がみんなこうだったなんてあり得ないな。 >>597
祖先代々じゃなくて爺さんの話をして聞かせてるんだな
爺さん以前は大して偉くなかった。 >>643
意味の通じないのは、お前のトンデモ訳の方だよ
その証拠に詳しく訳せないだろ >>614
でも、結構な数の研究者の目に留まっちゃったんだよね。。 >>645
「現在、貴方たちの先人(王沢)は、「魏の治世」に冠をつける役職についているが、ひたすら仁義を名誉と心得て、慎みを守ることを称賛すべき美徳と考え、家にあっては孝悌を尽くし、師友に学ぶ努力をし的た。私は以下略
王沢と王昶の2代に渡る話をして聞かせているんだよ。
王昶は王沢以前の先祖の話なんて知らないよ。 >(王沢)は、「魏の治世」に冠をつける役職についている
これが大ウソ、70才のじじいだぞ >>561
2013年以前から、桜井市のは、卑弥呼の古墳ではなく、天皇の妹の古墳だと認定されているのにね、、、
しかも、天皇家直近の国家機関からなのに。。。 >>64
>テンプレは、意図的に纒向遺跡に関する重要な事実を無視している。・・・<
スレ主の論理で一番欠落している事は、筑紫の遺跡との比較。
弥生銀座や平原との差異を確認しなくては、何の意味もない。 >>650
少し訂正しよう
現在、貴方たちの先人(王沢)は、「魏の治世」に冠をつける身分にあるが、ひたすら仁義を名誉と心得て、慎みを守ることを称賛すべき美徳と考え、家にあっては孝悌を尽くし、師友に学ぶ努力をし的た。私は以下略 >>66
>それを考えると、卑弥呼の時代、日本海、瀬戸内海には敵対勢力と卑弥呼を共立した勢力が混在していた可能性が高いと思われる。<
ダメだな。
魏志倭人伝は、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
として、
「今使譯所通三十國」と、倭種とは」はっきり区別する書き方をしている。 本居が名前の似ている帥升をスサノオではないかと仮定してみることは簡単だっただろう。
今でも帥升=スサノオ説は一定の支持者がいる。
2ちゃんにもスレが立ったことがある。
しかしその後を誰も考えない。
帥升=スサノオなら帥升の約100年後にヒミコがいてトヨもいるはず。
いるではないか。
ヒメ踏鞴も天トヨ津も。
つまり邪馬台国論争とは、邪馬台国はどこなのか、ヒミコは誰なのかを1分で解いていた男(本居)が、
その答えがショッキングで発表できない故、わざと九州説という虚構を創り、
そして3百年間論争になってきたと言える。
実に馬鹿馬鹿しい話だw >>653
王沢が「魏の治世」に冠をつける身分にあったって根拠は? >>657
官職を辞しても身分は変わらない
元将軍なら命令があれば何時でも現役復帰する。 >>659
漢で将軍なら帝位を禅譲された魏でも将軍だろ
上が変わっただけ。 >>659
「魏の治世」って、これまで誰もやったことのない訳を考案したはいいが
そう訳す理由が何もないという
トンデモ >>661
魏の時代には引退してるから
身分も退役軍人だ >>72
>FAQ13 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、
考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。<
槨の原点は、
「棺」を土中に直葬にするか?、
棺直葬ではなく、棺の周りに空間を造って棺を容れる構造物(=槨)を造ったのか?、
の違いであり、そういう意味で、石室も槨の一種。
春成?や大和説者は、その「棺の周りに空間を造って棺を容れる構造物」の形状が、いろいろである事で、
ホケノを槨ではない、と言いくるめて、騙そうとしている。 >>664
王沢は太守だから厳密には軍人じゃないけどな
似たようなものだ 郭泰(128〜169)は、兄の王柔に軍人になれ、弟の王沢に政治家になれってアドバイスしたんだろ
で、兄弟揃って漢朝に使えて出世した >>89
>3)魏志倭人伝の邪馬台国への行程記述のうち方角には誤情報が記載されていると考える<
「行程記述のうち方角には誤情報」は、
字形と意味が全く違うから、間違える確率がないし、
周髀算経の再収集注釈があって、東西南北の決め方が書かれているから、
魏使らも群役人らも東西南北を間違う確率がないし、
魏志に書かれた沢山の方向記載の中で、不彌國の南の「南」だけを間違えた、という確率もない。
「 仮に郭泰の最晩年に出会って当時20歳くらいだとしても
魏建国時点で70歳だな
「魏の治世」に冠をつける身分にあるってダメでしょ >>669
それは退役軍人という制度がある現代の話だろ >>94
>B結果的に伊都国の太陽祭祀を継いだ卑弥呼が、
瀬戸内海勢力の実力を背景として、総花的に纏向で共立された<
「南≠東」だから、✖だな。 >>668
王沢のことだよな
ひたすら仁義を名誉と心得て、慎みを守ることを称賛すべき美徳と考え、家にあっては孝悌を尽くし、師友に学ぶ努力をした
そのあとが、吾與時人從事・・・。
自分は新興の時の人に従った・・・。 >>670
およそ実用的じゃないことが書いてあるね >>672
どっちにせよ「魏の治世」に限定する根拠なしだな ひたすら仁義を名誉と心得て、慎みを守ることを称賛すべき美徳と考え、家にあっては孝悌を尽くし、師友に学ぶ努力をした
これは王沢の生き方を記したもの
その後の、吾與時人從事・・・が自分の生き方
その後も色々な人の生き方を語っている
後の文からして王家の代々の家訓じゃないな。 >>679
なんで王沢の生き方を記したものなの?
理由は? >>678
王沢一人の話だか代々じゃないのは確定。 >>680
各個人の生き方の説明が続くのに
冒頭に王さんちの代々の家訓とかこない。 >>113
>じいさんアホですか?
魏志倭人伝にはみなみと書いてあるのぢゃーー
東にある大和は邪馬台国では無いんぢゃーー
なんて理屈で邪馬台国畿内説を論破できると思ってるなら
千回わめけば千回一同の失笑を買うよ <
だから、それなら、「南→東」が正しい、という証拠を示してくれればよいんですよ。
しかし、誰もそれをしないし、出来ない。 >>680
吾與時人從事・・・。だから王昶は
「ひたすら仁義を名誉と心得て、慎みを守ることを称賛すべき美徳と考え、家にあっては孝悌を尽くし、師友に学ぶ努力をした。」
とは別の生き方をしたんだよ
守らなければならない代々の家訓じゃないのは明白
王沢の個人の生き方を記したものだな。 >>114
>古田説の「南→東」などの欠点も、ずっと指摘されてるよな。 w <
全部反論済みだよ。 >>139
「南→東」の嘘つきダマシの大和説って、目の吊り上がった・・・・の世界だよね。
大和説という「結論先にありき」に合わない「南」は、
自分らの倭人伝の読み方への反省をせずに、
「東」の間違いだぁぁぁ 、
ってワンパターンを、永遠に続けてる。 >>680
この付近の文は
父の王沢の生き方
自分(王昶)の生き方
その他の人の生き方を語り
こんな風に生きて欲しいと
息子と甥に言ってるんだ。 >>688
文の流れが>>687のようになってるね。 >>684
王昶が父と違う生き方をしたって理由はなんだ? >>685
反論?
ダメだ、古田さんはこう言っている!!とか言い張ったり
「南→東」の嘘つきダマシ!!って罵っただけじゃないの? >>691
そこに王昶が父と違う生き方をしたって書いてあるという証拠は? >>691
ウソだろ
友人知人から学ぶことも多かったが
息子に見習って欲しい人もいるしまねしないで欲しい人もいるって書いてある
自分は父のようには生きなかったとか全く書いてない
王昶は仁義を名誉と思わないのか?
王昶は慎みを守る気がないのか?
王昶は孝悌しないのか?
王昶は師友に学ぶ努力をしないのか?
>>691の言ってることはデタラメだ >>695は岡上じゃねーの?
嘘ついて逃げるやり口がいつもと同じだ 「世有」は「魏の治世」じゃないってことは確定でいいね?
>>696
王昶は曹丕と共に漢王室を裏切ったからな
王沢とは違うだろ。 >>553
ここで騙しの宣伝しているのは、
奈良の観光関係の組合員や、公務員じゃないのかもね。
それとも、専門の下請け業者なのかな、、 >>230
>畿内説の福永伸哉本を読むといいよ<
「南→東」などの嘘つきダマシである事がバレてしまっている・・・・アホの福永の本など、
時間の無駄 だから、
読まない。 >>691
王昶が息子や甥に、謙虚であれという願いを込めた名前をつけてることは有名
彼は先人の生き方を守って、息子たちにもそうあれと教えている
別の生き方をしたなんて妄想でしょ >>700
王澤が漢王室を裏切らないと思う理由は? >>646
そういえばこの畿内スレpart1が立てられたのもその頃だったね >>703
王昶の思いは最後の方に語っている
冒頭の部分はこう生きろみたいな代々の王さんちの家訓じゃないから。 >>620
信仰すること自体に喜びを見出した、畿内説が破綻していることを認めたくない、頑固な老人信者たちにも、畿内説以外の信仰対象がたくさんあることを、教えてあげられるっていうメリットもありそう。 >>251
>3世紀に畿内に馬はいたは通説だ 倭人伝には聞いた話が多い 馬は居ないは誤情報だ<
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説人種は、
何でも誤情報、
の、何でもありの・・・・人種だね。 王昶の先人訓には帝室への忠義とかの要素が無いんだよね
彼は漢を見捨ててるし、王機は陳思王を弾劾してる
王沈は司馬氏に付いて魏を裏切ってる >>258
>つまり、卑弥呼の直後から一気に畿内が中心地として大量の文物が集まる中心地となったことを示している<
ダメだな。
「大量の文物が集まる中心地」は、弥生銀座の方だよ。 >>264
>チガウ 馬が居ないは誤情報<
魏使らが馬を見たのなら、「其地無牛馬虎豹羊鵲」とは書けないから、
魏使らは、倭地で馬を見なかった。 >>265
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説は、完膚なきまでに論破されてますが、
まだ反論ありますか?。
はじかくだけですよ。 >>266
「南→東」などの嘘つきダマシのヤマトセツは、
今日も馬鹿をさらして遁走するのか。 >>267
>三世紀で問題なし<
三世紀末は、
卑弥呼の時代でもないし、壹與の時代でもないし、
それを「三世紀で問題なし」なんて言ったら、
そりゃ誤魔化しだよ。 >>712
3世紀末の日本列島に馬がいてもなんの問題もない >>713
畿内説も九州説もいい勝負。 ともに致命的な欠陥だらけで、 なかよく引き分け。 @阿波 今汝先人世有冠冕
今、汝の先人は世に冠を冕する
現在、貴方がたの先人は魏の治世にあって冠を冕する身分にある
代々だと
現在、貴方がたの先人は代々冠を冕する身分にある
今現在なのに代々冠を冕する身分にある
は変。 >>280
知能のほとんど無い「南→東」などの、
嘘つきダマシの大和説の・・・・ガキには理解できないかもしれないけど、
西暦290年頃の日本列島の話を、卑弥呼や壹與の頃のように匂わせたら、
そりゃ、インチキだからな 。 >>284
大和説は、
ベニバナで論破され 、
馬で論破され 、
方位で論破され 、
海遊録で論破され、
今夜もまた手も足も出ない。 >>312
今夜も負けた「南→東」の嘘つきダマシの大和説 。
話を逸らして、荒らして逃げ。 >>719
伯夷叔斉は周を批判して意地はってなんたらかんたらダメぽ、今のお前たちの先祖は代々地位を得ても慎み深く家内安全地道にベンキョー。
なんも問題ないおー >>721
九州説は
ベニバナで科学と考古学に徒手空拳で抵抗し
馬で文献を理解してなくて赤恥かき
方位で意味不明なこと言って完封され
海遊録で読んでないのを読んだと嘘ついたのがバレて逃亡論破
ダメダメですな >>361
まぁアレですな。
皇国史観で「大和説という結論先にありき」の先入観で、
「南→東」などの嘘つきダマシの通説学者の話を無批判で信用したアホなだけで、
突然、結論だけ出しちゃってて、史料事実からの理路が無いんですよ。
だから自分の考えを他人に説明できない。
無学なヤクザ暴力団やオーム信者らのようなキョクウの、
大和説のガキによくいるタイプですわ。 古事記 神武の嫁は大物主の娘
日本書紀 神武の嫁は事代主の娘
これが両方正しいっていうのが古代史の面白さなんだよ
つまり実父と義父だよね
実父と義父が、大物主と事代主だった
つまり神武は東征なんかしてなくて、神武の父が事代主または大物主なんだよ
初期畿内倭王権ってのは大物主=三輪=物部に事代主=葛城=鴨=出雲が協力する形で成立した
「九州からやってきた天孫族」なんていなかった チョンビィ岡上は先人(=自分など)を主張してたんじゃないのか なぜならば、
4世紀の物部の遺跡から「倭王旨」の七支刀が出てくるから
ウマシマジのことだよねこれ
倭王とは物部であって
天孫族なんてのは出てこない
天孫族なんてのは王権を後から権威付けするためのストーリーにすぎないわけだ >>395
>馬は誤情報ね。 馬はいたけど使者は馬を見なかったと。おっけい<
そりゃ×ね。
誤情報だ、とは言えない。
魏使らの見聞での事実情報だ。
ときっちり言っておかないと、「南→東」などの嘘つきダマシの・・・・大和説者は、
都合の悪い記載を全て「誤情報だ」と言って、自由自在に改竄して、
大和説の根拠にしてしまう。 >>735
関係あるよ
畿内倭王権ってのは自生であって
九州は(深くは)関係ないということ
だから邪馬台国は九州前提だよね 邪馬台国と関係のない大国が畿内にできた
それは物部と葛城の連帯による倭王権(狗奴国)って話 >>739
畿内の狗奴国に対抗するために魏に使者を出したんだろ邪馬台国は 王沢や王柔以前に冠を被るくらいの身分の高い先祖がいないから
今汝先人世有冠冕
の世有は代々ではないに異論はないな。
先人とは王沢でOKね >>731
>初期畿内倭王権ってのは大物主=三輪=物部に事代主=葛城=鴨=出雲が協力する形で成立した
初期畿内倭王権なんて存在しない。
大物主 物部 事代主 葛城 鴨 出雲 それ、全部 阿波由来 @阿波 >>734
葛城スレでフルネームで変な投稿してるのは鴨厨か? >>656
2013年のあの大規模調査よりも、数年後のあれね。
勿論、2013年のあの調査が畿内説破綻の発端となったことには変わりないけど、、、
やっぱりとどめになったのはあれだね。。。 >>701
そんな、組織だった工作ではないと思うよ。
書いている内容が、狂人のように錯乱しているからね、、、、 >>705
確かに、、、、
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている >>746
しっ。だめだよ、それだけは。。。
発狂者が増えてしまうもの。 >>401
>馬については馬具だけの輸入品の可能性も、混入の可能性もある、<
吉備やホケノに、3世紀末に扶余や東沃沮の「槨」の騎馬民族が渡来して来た可能性が出て来たから、
少量の馬も搬入されて来た可能性はある。
しかし、馬は、長距離航行は無理であるようなので、沖の島経由や竹島経由は無理だから、
搬入があった、とすれば、対馬壱岐筑紫ルート。
>ベニバナのような一時的な輸入品の可能性もある<
これも、3世紀末であった筈。
>ただ馬がこの時期にこの場所にあったとしても
後の歴史との整合性から定着したものではないのは言うまでもない
魏の使節がその時だけで飼育を始めたものでもない
輸入品を見て「牛馬はない」と記載されることに何の不自然さもない<
3世紀末は、卑弥呼や壹與の時代ではない。
>こんな物で浮かれあがるキュウシュウセツのバカぶりに哀れみさえ感じる<
3世紀末を、卑弥呼や壹與の時代だ、とするヤマト説者のアホぶりには、
哀れみさえ感じる。 >>707
なるほど、畿内説信者さんたちに、次の信仰の対象を選んでもらうわけね。
でも、選ばれた説の論者には、負け組や、疫病神に取りつかれたようで、かえって不気味、、、 >>670
そんなこと言っても
畿内説の方主張はそうなんですもの。
使者は邪馬台国まで到達しておらず
行程方角は伝聞、倭国側が嘘を教えた、とかそういうことでしょう。 >>751
そうだね。。。。
ただでさえ閑散とした桜井市周辺に、ブツブツつぶやく発狂者が徘徊するさまはおぞましすぎるね。。。
二度と訪れる予定はないけど、、、 >>407
まぁ、「南→東」などの嘘つきダマシの、ヤマトセツ者のアホガキなんて、こんなもんだ。 >>408
>キュウシュウセツのバカぶりwww
290年に馬がいたとして、倭人伝のドコを間違いだと言うんだ、?<
また変な事を言ってる。
「其地無牛馬虎豹羊鵲」の「馬」が誤情報だ、と言ったのは、大和説者だった筈だよ。 3年ぶりにスレッドを覗いたのだけれでも、今夜もテンプレートが、
、論破されているね。。。。 >>409
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者には、知能も良心も無い 。 >>413
反論できなくて悪口専門になるのは、 常に、
「南→東」などの嘘つきダマシの、
脳なし良心なしの、大和説者。 >>742
中国じゃよっぽど下層階級でなきゃ冠かぶるよ >>748
王沢や王柔以前の冠を被るくらい身分の高い先祖の名は? >>759
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 >>744
古代中国の役人社会で仕官してても名前の残ってない人間なんて掃いて捨てるほどいるんだよ
理屈になってないね 冠を冕
でなく
冕を冠す
だよ。細かいことだけど。冕って種類の被り物があるのよ。 >>416
>ベニバナのように一時的な輸入品があり
その後の歴史からも定着したなどとは認識されてない
その時だけの外来品があったからと言って何の不思議もない
むしろ馬のような特別な輸入品なりが見つかるこの場所が
日本のどの場所よりも意味のある場所であるということが分かる証と言える<
おそらく、たまたま3世紀末に、扶余や東沃沮の騎馬民族流民の一部が、
対馬壱岐筑紫経由で、馬を連れて、突然渡来して来たんだろう、と思うよ。 >>737
>畿内倭王権ってのは自生であって
そんなものがあった根拠がない。
倭というのは中国から見た呼称であり、それは九州北部を指している。
畿内にどんな勢力がいても、倭国女王である卑弥呼とは関係ない。 >>770
反論もなにも中国の一般人は冠なんてかぶらないよ
アホとしか >>738
>それは物部と葛城の連帯による倭王権(狗奴国)って話
そもそも狗奴国は倭王権とは認められていないし、畿内の葛城とも関係がない。 >>734
>ウマシマジのことだよねこれ
ウマシマジは畿内に行ったきりだから、九州北部の倭国王権からは脱落した。 >>734
>天孫族なんてのは出てこない
>天孫族なんてのは王権を後から権威付けするためのストーリーにすぎないわけだ
都合のいいところだけ取り上げて、都合の悪いところは無視するのが畿内説の常套手段だね。
天皇家の祖先である天孫族は筑紫にいたと記録されているし、中国から見た倭国王権も九州北部に存在していた。
考古学的にも九州北部に倭国の王墓ご集中する。
卑弥呼が女王を務めていた倭国とは九州北部のことだ。
疑いようがない。 >>418
>「畿内に九州にもない珍しい特別な輸入品がたくさん見つかった!」
とか喚いて何故か喜んでるキュウシュウセツのアホっぷり
畿内が時代の最先端として珍しい文物が他と類を見ないレベルで集積していると一生懸命叫んでる
笑いしか出ないわ <
3世紀末の騎馬民族流民の、対馬壱岐筑紫ルートでの渡来は、
筑紫は半島に馬がいた事は当然知っていたので、
騎馬民族は警戒されて、筑紫には定住出来なかったから、
更に、田舎の大和まで流浪して行ったんだろう、と思うよ。 >>765
中国じゃマゲを露出するのは下賤の印
つまり下級役人でも冠をかぶる
冠冕といえばそこそこの身分だろうが歴史に名を残すほどとは限らない
兄弟揃って有名人の推薦をもらえて先々二千石になるんだから、親も名士階級だろうさ
むしろ成り上がり者ならそう書かれる可能性の方が高い >>665
>槨の原点は、
>「棺」を土中に直葬にするか?、
>棺直葬ではなく、棺の周りに空間を造って棺を容れる構造物(=槨)を造ったのか?、
>の違いであり、そういう意味で、石室も槨の一種。
>春成?や大和説者は、その「棺の周りに空間を造って棺を容れる構造物」の形状が、いろいろである事で、
>ホケノを槨ではない、と言いくるめて、騙そうとしている。
その通りだ。
同意する。 いつ見ても短里とかの九州説のテンプレが論破されてるね 「畿内に九州にもない珍しい特別な輸入品がたくさん見つかった!」
とか喚いて何故か喜んでる畿内説のアホっぷり
畿内が時代の最先端として珍しい文物が他と類を見ないレベルで集積していると一生懸命叫んでる
笑いしか出ないわ >>782
いや、ここに九州説のテンプレなんかないからw >>776
じゃあ孔融の祖父の名前はわかるか?
名門だぞ。 「先人」は代々だな
名前がわかるのは叔父の王柔に父の王澤、兄の王機だ
謙遜して自分は含めない >>789
短里は、魏志倭人伝に使われている里を実際の距離と比較したら一里が75メートルくらいだったよということ。
壱は知らんよ。
臺でも壱でも、トと読めるらしいから、どうでもいい。
壱だと母音が重なるから、可能性が低いと思うけどね。 「畿内に九州にもない珍しい特別な輸入品がたくさん見つかった!」
とか喚いて何故か喜んでる畿内説のアホっぷり
畿内が時代の最先端として珍しい文物が他と類を見ないレベルで集積していると一生懸命叫んでる
笑いしか出ないわ 中央政府の高官ならともかく、郡太守くらいだと名前の残ってない人の方が圧倒的に多いね 中国から見た倭国王権とは、筑紫の王権のこと。
これが基本。 >>790
魏志倭人伝に使われている里を実際の距離と比較したら一里が75メートルくらいだった
なんて計算をした人はいないのにね
結論だけが一人歩きしてる >>421
>自称先進国のキュウシュウ様は最盛期の時でさえも中国に献上するものがなくて奴隷を送ってただけだからな<
「生口」は、
「奴婢」の「奴」とは書き分けられているから、「奴隷」ではなく、
「有能で役立つ若者」という意味であった、と思うよ。
でなければ、「男生口四人、女生口六人」とか、「男女生口三十人」とか、「生口百六十人」とかの人数を、
(鎖に繋いでも)連れて行けるものではない。
>ご自慢の絹だの鉄だの鏡だの質が悪くて皇帝に捧げられるようなもんでもないと <
倭絹は、「班布二匹二丈」とか、「倭錦、絳青糸兼、緜衣、帛布」とか「異文雜錦二十匹」とか書かれているから、
献上した中にあった、と思うよ。
しかし、「鉄だの鏡」は、むしろ下賜して貰う方だったんだろう、と思うよ。
>邪馬台国の時代になってようやく「畿内から」まともなものが作られるようになりましたよと<
そりゃ無理。大和は3世紀末以後の、筑紫からの伝搬模倣。
>大陸に近いのだけが取り柄なのに何百年も馬一つ輸入できない 程度が知れるな<
扶余や東沃沮の騎馬民族の渡来に拠って、筑紫も騎馬を持つようになったんだろう、と思うよ。 どうでもいいけど
3世紀のベニバナや馬は畿内説に不利の情勢だったが、カタつけたか
畿内説はカタつけたなら、つけたカキコミNo紹介してくれ
スレが速すぎ、過去スレ読む暇ない どうでもいいけど
3世紀のベニバナや馬は畿内説に不利の情勢だったが、カタつけたか
畿内説はカタつけたなら、つけたカキコミNo紹介してくれ
スレが速すぎ、過去スレ読む暇ない どうでもいいけど
3世紀のベニバナや馬は畿内説に不利の情勢だったが、カタつけたか
畿内説はカタつけたなら、つけたカキコミNo紹介してくれ
スレが速すぎ、過去スレ読む暇ない >>796
どっちも邪馬台国とは関係ないというのが結論だったと思う どうでもいいけど
3世紀のベニバナや馬は畿内説に不利の情勢だったが、カタつけたか
畿内説がカタつけたなら、カキコミNo紹介してくれ
スレが速すぎ、過去スレ読む暇ない どうでもいいけど
3世紀のベニバナや馬は畿内説に不利の情勢だったが、カタつけたか
畿内説がカタつけたなら、カキコミNo紹介してくれ
スレが速すぎ、過去スレ読む暇ない どうでもいいけど
3世紀のベニバナや馬は畿内説に不利の情勢だったが、カタつけたか
畿内説がカタつけたなら、カキコミNo紹介してくれ
スレが速すぎ、過去スレ読む暇ない >>432
>ほら 反論できなくて悪口専門になるのは 常に脳なし九州説<
ほら、反論できなくて悪口専門になるのは、
この投稿のように、
常に「南→東」などの嘘つきダマシの、
史料事実に拠る反論が出来ない、脳なしサギシの大和説。 ザラコクも参戦?
似非岡上は邪馬台国は畿内、王都は平原らしいから✖ >>439
>結局、問い詰められると九州説は逃げる ってことでしょ チキンだよな <
結局、「南→東」などの嘘つきダマシを問い詰められると、大和説者は逃げる、
ってことでしょ ?。
思想宗教的な詐欺師の手口なんだよな 。 >>796
いや、畿内説圧倒的有利の物証として確定してるのだが 3世紀のベニバナや馬は畿内説に不利の情勢だったが、カタつけたか
畿内説がカタつけたなら、カキコミNo紹介してくれ
スレが速すぎ、過去スレ読む暇ない >>441
>(洛陽から三角縁神獣鏡が出土しない件)出てる出てないは偶然に左右されるから、
絶対的な根拠にはなり得ません あしからず<
洛陽漢墓だけではなく、洛陽晋墓からも出土しないんだから、
三角縁神獣鏡は、魏鏡ではない。 邪馬台国がどこか、以前に >>810が発狂してることは確定 今汝先人世有冠冕 惟仁義為名 守慎為稱 孝悌於閨門 務學於師友
×現在、貴方たちの先祖は代々、冕を冠る身分にあるが、ひたすら仁義を名誉と心得て、慎みを守ることを称賛すべき美徳と考え、家にあっては孝悌を尽くし、師友に学ぶ努力をした。
今現在の話であるのに先祖代々と訳すと過去と今が一緒になり意味が通じなくなる。
〇現在、貴方たちの先人(王澤)は、「魏の治世」で冕を冠る身分にあるが、ひたすら仁義を名誉と心得て、慎みを守ることを称賛すべき美徳と考え、家にあっては孝悌を尽くし、師友に学ぶ努力をした。
今現在の「魏の治世」時点での話となり理解できる。 洛陽で1枚見つかってるから
出土した場所もわかっている
九州説によほど都合が悪いのか 俺が正しいと思うから正しいんだ!
としか言わない岡上 >>819
だめ、0点
生きてる人は先人と言わない >>824
またあからさまな嘘をついているな
これが九州説 >>819
理解不足だな
周代の話と対比して「いま」と言ってるのだから
定説どおり代々と訳して何の矛盾もない >>828
洛陽の三角縁は白馬寺周辺の畑で地元の農民が掘り起こしたものなんだけど >>819
王澤って漢代の人でしょ
根本のところで矛盾した珍説だよ >>1
は隠れ九州説だな
スレタイ・テンプレで畿内説を解きつつ、畿内説の弱点を点在させ、
九州説に導こうとしてる
{隠れ九州説のスレ主は策士} >>833
あれ
骨董屋からてにいれたって聞いたけど。 >>825
決定打が出ました。
せん じん [0] 【先人】
@
昔の人。前人。 ? 後人 「 −の教え」
A
亡父。また,祖先。 >>835
骨董市に売った人に聞き取り調査したんだと >>813
イミフ
過去のカキコミ張り付けてください どうでもいいけど
魏の治世とかいう変な言葉は使うなよ。
世を治めるのは天子であって国じゃねぇ。
国を治めるのは王であって天子じゃねぇ。
日本でも治天下大王いうだろ。 九州説があくまで三角縁を中国から1枚も見つかってない事にしたいのは
九州説にとってものすごく都合が悪いから ▲は結論出てる
▲多すぎ、国産
▲多いから、一枚ぐらい中国に行ってるよ 洛陽で出た三角縁って
日本でも希少なデザインのものって聞いたけど。 >>844
たった1枚かケチ臭いな
20枚くらいあげたらいいのに >>767
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 >>847
景初年号 銅出徐州 師出洛陽の記銘
スプリング8で中国製と確認
100枚を4回くらいもらった可能性
国産コピー品もある どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったなどと、考えているのかな、、、 >>854
あのね 君ねーーーーー!
君の責任じゃないけどーーーーーーー! >>496
「南→東」などの嘘つきダマシのトンデモ読みで三国志を書き換えて、
邪馬壹國を大和に持っていくのは、
大和説の宿痾だね。
救い難い。 >>851
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 >>859
何か?
誰でも調べたらすぐわかる事実を列挙したまでなんだけど >>541
まだまだ、トンデモ本で飯の種を貪るアコギ商売人の、
「南→東」などの嘘つきダマシの公的大和説学者がいて、
騙された犠牲者がたくさんいるんだなあ。 >>872
でも、結構な数の研究者の目に留まっちゃったんだよね。。。 >>544
>邪馬台国(九州中心)が狗奴国(畿内中心)と同盟し大和王権が成立<
狗奴國も、女王國や奴國の「南」であるから、 畿内説や大和説は、×。
>卑弥呼の鏡が畿内に多いのは、同盟の印として配ったからでしょ<
卑弥呼の鏡は、内行花文鏡や方格規矩鏡などであり、
三角縁神獣鏡ではないし、
大和に多いのは、渡来して来た呉系楽浪鏡師の一部が、
大和の鏡造り神社で大和の子弟に教えて、子弟らが「副葬用の粗悪な鏡」を一杯造ったから。
>畿内に邪馬台国があるとしたら、畿内に配る意味がないし <
筑紫では、内行花文鏡や方格規矩鏡が沢山出ているし、
それらの鏡片の殆ども、筑紫から出土している。 いつ見ても三角縁神獣鏡は国産との
九州説のテンプレが論破されてるね >>867
あの、鍵型の墓のせいじゃないかな。。。
魏志倭人伝に書かれているものとは形が違うけどね。。。 >>547
>南九州(王子神武を擁する)が畿内狗奴国側についたことで倭国大乱が起きたんだよ<
「畿内狗奴国」と書いた時点で、この投稿子も、「南→東」などの嘘つきダマシの、
分裂幻覚の妄想の・・・・サギシ。
>吉備、出雲なんかも生き延びるために立ち位置を探りながら両国と交渉<
「倭国乱」に、出雲も吉備も関係なし。 >>548
「南→東」などの、なんでも嘘つきダマシのドロボーの大和説。 >>878
そういえばこの畿内スレpart1が立てられたのもその頃だったね 三角縁は国産だよ
だって中国から出ないじゃん
中国にないものを貰ったって威信財としての意味がないんだよね
威信財ってのは「俺は中国の王族と同じものを持ってる、だから俺は偉い」
っていう論法で、自分の権威を示すものじゃん
古墳から見つかる環頭太刀や金の耳飾りなんかがそうでしょ
だとすると、三角縁ってのは中国とは関係なく国内の王権が国内の豪族に威信財として配ったとしか思えない
年号が入ってるのは、単に九州では中国の年号を使ってたってことでしょ >>877
2013年のあの大規模調査よりも、数年後のあれね。
勿論、2013年のあの調査が畿内説破綻の発端となったことには変わりないけど、、、
やっぱりとどめになったのはあれだね。。。 自説を擁護するためならウソをつく
これ、事実の探究を目指す学問とは
対極に位置する行いだからな >>551
>邪馬台国以上の国(=狗奴国)が畿内にあったというだけ<
「南≠東」だから、狗奴國は、畿内や大和ではない。
>だから邪馬台国は「魏との関係」をアピールすることで勢力図をひっくり返そうとしたんじゃん <
狗奴國は畿内や大和ではないから、
この投稿も、分裂幻覚の妄想。 >>879
三角縁神獣鏡に使われている銅は当時の倭国内のものではなく
魏晋時代の中国の銅鏡と同じ物 たとえば前方後円墳を作ること自体が「威信財」と同じ役割を果たしてたわけじゃん
前方後円墳を作る=俺の後ろ楯は倭王権だぞ
と
地方豪族にとってはそれが自分の権威を示すものだった
「倭王権本部の大王墓と同じ形の墓」じゃないと威信財として成立しないわけじゃん
それでいうなら、中国にはない形の鏡を貰ったって威信財にならないわけで
三角縁が中国産だとすると意味がわからなくなる
当然国産鏡ということ >>875
でも、インタ−ネット工作が、観光客の対応に、猫の手も借りたい筈の、黄金週間もやまなかったね。 >>892
そりゃそうだ
当時の倭国には銅鉱山は発見されてなかったんだから
銅原料はすべて輸入に頼ってた >>864
信仰すること自体に喜びを見出した、畿内説が破綻していることを認めたくない、頑固な老人信者たちにも、畿内説以外の信仰対象がたくさんあることを、教えてあげられるっていうメリットもありそう。 >>894
三角縁が国産でも畿内説は痛くも痒くもないけど
三角縁が魏鏡だと九州説は、即死
それだけのこと >>900
どちらでもいいよ
三角縁にこだわってるのはキナイセツ派のほうだと思うけど >>889
しっ。だめだよ、それだけは。。。
発狂者が増えてしまうもの。 >>897
なので 国内産の鏡は色んな産地の銅を溶かし合わせたらしきデータが出る
しかし三角縁は中国の魏・晋時代の銅鏡と同じ成分と出る >>895
ここで騙しの宣伝しているのは、
奈良の観光関係の組合員や、公務員じゃないのかもね。
それとも、専門の下請け業者なのかな、、 >>898
あれは三角縁の区分でいうとちゃんと第4期のものに分類されるんだと >>882
2013年以前から、桜井市のは、卑弥呼の古墳ではなく、天皇の妹の古墳だと認定されているのにね、、、
しかも、天皇家直近の国家機関からなのに。。。 >>903
そうだね。。。。
ただでさえ閑散とした桜井市周辺に、ブツブツつぶやく発狂者が徘徊するさまはおぞましすぎるね。。。
二度と訪れる予定はないけど、、、 >>886
確かに、、、、
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている 岡上はいずれ犯罪をお越しそうなほど狂気じみているな 岡上はいずれ犯罪をおこしそうなほど狂気じみているな >>556
>邪馬台国は「魏との関係」をアピールすることで、倭国内の覇権を取り戻そうとした
だから銅鏡100枚なんだよ <
「倭国内の覇権を取り戻し」など、関係がない。
「悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜汝好物也」であったんだから、
原則として共立諸国などへの下賜であり、
「倭種」には直接関係がない。
>当然、配布対象は「中立勢力(中国、四国、近畿北部)」が中心になる
寝返りそうな「敵対勢力(畿内)」にも当然配る<
倭種は、共立諸国よりも下位。 >>559
>285年なんてあるかいアホ・・・<
晋書扶余伝の「太康六年」だよ。 >>573
>邪馬台国よりもでかい国(狗奴国)が畿内にあった ってことだろ?何も矛盾しない <
「狗奴国が畿内にあった」は、「南→東」だから、×だよ。 >>920
調査した8枚のうち1枚だけが中国のものと同じ成分を示したって書いてあるぞ
つまり7枚は国産だってことじゃんやっぱ
三角縁の大半は国産
つまり中国のなかのあるグループが気まぐれて少数だけ作った鏡が日本に輸入され
それをお手本に国内で複製された
ってことだろ
中国の王権が倭の王権に威信財として渡したものとはぜんぜん違う >>922
嘘だ嘘だと言い張って現実から逃げることしかできないキナイセツ >>603
>南と東を取り違えてるなら狗奴国があるのも「東」ってことだろ
北中部九州〜吉備までを領域とする「邪馬台国連合」の東にある狗奴国は畿内に決まってる<
「南≠東」であり、「取り違えていない」から×。 >>923
そんな事書いてたか?
三角縁8枚のうち6枚が中国西晋時代の鏡と成分が一致したと
そうあるんだけど >>899
なるほど、畿内説信者さんたちに、次の信仰の対象を選んでもらうわけね。
でも、選ばれた説の論者には、負け組や、疫病神に取りつかれたようで、かえって不気味、、、 >>929
まあどっちが本当かリンク先見てみれば
すぐ判明するんだけどさ >>825
先人は先祖だから
生きてる爺さんも先人
>>831
漢代生まれでも魏のこの頃まで生きてても不思議ではない >>906
そんな、組織だった工作ではないと思うよ。
書いている内容が、狂人のように錯乱しているからね、、、、 自意識過剰も恐ろしいな、とキウスを見てつくづく思う 信仰というより願望だろ?
岡山に旧帝大があったら吉備説が盛り上がったんだろうよ
願望ありきで論を立てるからおかしくなる >>608
>しかし吉備は裏切り者だからな<
いや、別に裏切者ではない。元は出雲系で、天孫族の「国生み植民」と共存し、
五瀬命らの東征を何年も保護援助し、
3世紀末に扶余や東沃沮の「槨」流民部族が出雲経由で?流入して来た。
>邪馬台国から狗奴国に鞍替えしたのが吉備<
「南≠東」だから、×。
>特殊器台や墓制を畿内に伝えてる <
出雲経由?の扶余や東沃沮の「槨」部族流民の流入。 自分がこう思うから、それが正しい!
としか言わない岡上 >>939
いまだに九州説なんかを信じている時点で頭の中身はお察しだから いつ覗いても、テンプレートが論破されているね。。。。 単に近畿に京大と阪大っていう2つの旧帝大があるから畿内説が盛り上がってるだけだからな
九州には九大があるから、九州説もまあそこそこ研究予算もつくし盛り上がると
単にそれだけの話だよ
岡山に旧帝大があったら吉備説が有力説として盛り上がったんだろうし
徳島に旧帝大があれば阿波説が有力になってたんだろう
残念だけど、学会なんてそんなもん いつ覗いても九州説がウソをついたあげくに自演しているな でも畿内説も限界だけどな
巻向が期待はずれに終わってもう打つ手がない バカが知ったかぶりで恥を晒す
九州説にまともな人間はいない 畿内派のが集団的な書き込みだろ
畿内は産経が押してるから
スタップ騒動と同じ構造だと睨んでる 巻向なんて数%しか発掘されてないし
畿内の地面の下にはまだまだ遺跡が埋まっている 三角縁神獣鏡の同型鏡を分析すると鏡径に大小があり、小さくなるほど文様が不鮮明になる。
これは母鏡から鋳型を作りできた子鏡をまた同じように鋳型にとって順次コピーしていったとみられる。
踏み返しされた三角縁神獣鏡の母鏡とみられるもっとも大きな径となるものが出土した古墳をみると、北九州と吉備に片寄っていることがわかる。
これは三角縁神獣鏡の流通の起点が畿内ではないことを示しており、たとえ下賜と仮定しても
北九州から畿内にもたらされた蓋然性が高く畿内説にとって非常に不利な結果となっている。
母鏡の出土例
>藤崎方形周溝墓
>天神森古墳
>原口古墳
>名島古墳
>香椎ヶ丘古墳
>
>以上福岡
>
>湯迫車塚古墳 岡山
>赤塚古墳 大分
>造山1号噴 島根
>椿井大塚山古墳 奈良 集団的書き込みって
それだけ多く支持してる人がいるって事だろ >>948
実は今ある分で全て。
だって、奈良盆地だってあちらこちら既に掘っていたし、その時には見つかっていないでしょ? あれだけいた畿内説コテハンがほんと消えたなあ。
高齢さんとかも最近見なくなったし。
あの人の世界観は好きだったけど、考古学的証拠が出そろった最近はやっぱり反論できずに言い張るだけになってちょっとかわいそうだったよね。
ジョーカーもあれはあれで頑張っていたけど意外と判断思考は科学的だったから
議論が煮詰まってくると九州説そのまんまの発言をし始めてそれは九州説じゃんと指摘されて本人絶句したり相当悩んでるっぽかったよね。
ここでまだ頑張ってるのはスレ主と根拠厨くらいで科学的議論を放棄してのテンプレ死守の印象操作作戦に徹底してもはや議論が成り立たない。
岡上は東遷説とはいえ畿内説なわけで真っ向から取り組んでなんとか畿内説に持っていこうとしているのだけど、
もう味方であるはずの岡上程度の東遷説議論ですら許容できないほど畿内説は追いつめられているのだな。 纒向みたいな耕地と密接した中核はせいぜい在地領主館
中世の武士の館に似ている
一方、都というのは耕地を持たない
地方から運上させた税を消費するのが都であり機能は政治や経済に特化したもので良い(伊都)
或いは経済の中心も他所でよく(博多)
王の住まいと儀式などを行う施設だけでも都は成り立つのかも知れない(伊都)
生産は地方
それを消費するのが都
平安京でも耕地は禁止されたのだ
経済も五条の市に限定されたのだ
王と官人と労役に集められた徴用民
初期の平安京はそれだけが住む街だったのだ
いわんや伊都をや 畿内派のは粘着系の集団的書き込みなんだから組織的な工作だな
スタップの時みたいに、どっかのカルトくさいよ 鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
奈良なんて東京や千葉の10分の1だもんね
発掘なんて東京に比べりゃはるかに恵まれた環境なのに
九州に比べれば2桁違う
農具は木製や石器なんて西日本の盟主だの王都だのってどんな妄想だよ
吉備や尾張の方が全然上
ちなみに湖沼、沼地の干拓ってのは水を抜くのに苦労をする
治水のために水路を掘ると結構な残土が出るんだな
奈良盆地に3世紀以降古墳が出来たっつのはまあそういう事だ
摂津河内も無理当時は河内湖が汽水から淡水に移行する頃で農地に出来るのはまだまだ後 >>951
今ある分で全てって
すごいピンポイントに掘り当てたもんだな >>957
江戸時代から説があっていろいろ掘って、ようやく最近建物が出て来たからこじつけているだけ。 >>952
カルトに応援されたら、まともな連中は絶望すんだよ
スタップの笹井とかも、それなんだよ
粘着潰しとかして貰っても
ああ自分も落ちるとこまで落ちたなと >>954
あまりに九州説がメタメタにされて
ついに妄想の世界へ逃避したか >>666
>石室と槨は全然違うものだよ<
「石室」とは、どこの誰の命名であったのか?は知らんが、
魏志東夷伝には「石室」なんて文言がなく、「棺と槨」で統一されている、
という事は、3世紀の魏代では、
「石室も槨」であったんだろう、と言える。 >>958
少ししか掘ってないのに、これだけ学界に話題を提供してます 別に教科書にも載ってるような事を話してるだけなんだけど >>959
鼻くそで思い出したけど、鼻ホジとか末尾につけるキチがいたなw 畿内説が学説で定説なのは
長年議論と研究が何重にも重ねられた結果ぞ 定説です
こういうカルト教祖居たな
でもあの循環詭弁をスタップ騒動の時に目の当たりしたのは驚いたな
ハーバードのバカンティとキャッチボールしてたよなぁ 超賤塵が新羅、百済が倭国の支配下にあった事を認めたくないから
倭国の統一時期を遅らせる目的で九州説に拘る >>964
大したものが出ていないのに、マッチポンプで騒いでいます。 誰々がどうした
自分の意見に対立するのが朝鮮人だとか
スタップ時から、これが末期症状 >>970
何年も嘘を重ねて来たけれど、考古学的に何も出ないから破綻しかけている。 >>976
畿内からは中国製の鏡と思われる三角縁神獣鏡が多数出土するから
邪馬台国の有力候補です 三角縁神獣鏡の同型鏡を分析すると鏡径に大小があり、小さくなるほど文様が不鮮明になる。
これは母鏡から鋳型を作りできた子鏡をまた同じように鋳型にとって順次コピーしていったとみられる。
踏み返しされた三角縁神獣鏡の母鏡とみられるもっとも大きな径となるものが出土した古墳をみると、北九州と吉備に片寄っていることがわかる。
これは三角縁神獣鏡の流通の起点が畿内ではないことを示しており、たとえ下賜と仮定しても
北九州から畿内にもたらされた蓋然性が高く畿内説にとって非常に不利な結果となっている。
母鏡の出土例
>藤崎方形周溝墓
>天神森古墳
>原口古墳
>名島古墳
>香椎ヶ丘古墳
>
>以上福岡
>
>湯迫車塚古墳 岡山
>赤塚古墳 大分
>造山1号噴 島根
>椿井大塚山古墳 奈良 >>981
伊勢遺跡は日本海側、筑紫倭国の文化圏ですよ。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→淡路島→阿波・吉備→摂津住吉
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 >>970
本気で研究に取り組むなら、研究史・先行研究の把握が必須なんだけど、
九州脳だと、そんなものはおかまいなしで自分の意見だけが全て、だもんな
俺が気が付いた読み方が正解だ、とか客観性もクソもなく、学問以前の戯言だ >>979
前方後円墳
三角縁神獣鏡
>>982
コピーした銅鏡は熱膨張で少し大きくなるらしいぞ 九州説じいさんは5年くらいで死ぬかボケて認識不能になるだろうから
九州説が公式に否定されるのを見なくて済むかもね >>975
たいした知識もないのに、俺様が気が付いたんだ、と大騒ぎしてます >>985
全体的に思うjけど九州説の言う事って本当思いつきを適当に言ってみただけ
って感じで薄っぺらすぎるよな >>727
大和説は、
ベニバナで「3世紀末→卑弥呼や壹與の時代」で論破され 、
馬でも「3世紀末→卑弥呼や壹與の時代」で論破され 、
方位でも「周髀算経」で論破され 、
海遊録でも「時代や人物が全く別で根拠にならない」で論破され、
今夜もまた手も足も出ない。 >>949
正解
九州が畿内他地域に贈ったのが三角縁
九州倭国への服属の印としてね このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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