邪馬台国畿内説 Part280 [無断転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1506369138/
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 キュウシュウセツの反論
「ぼくちゃんがりかいできないからぼくちゃんのかちだ」
「ぼくちゃんがしらないことだからぼくちゃんのかちだ」
「ぼくちゃんがみとめないからぼくちゃんのかちだ」
「りゆうはないけどぼくちゃんがおもったんだからぼくちゃんのかちだ」
これがキュウシュウセツのすべて >>850
>邪馬台国連合の圧力に負けて勢力を東に移動させた
違うよ。
高天原にあった大物主を頂点とする出雲系王朝の力が弱くなり、
軍事クーデターでも起こしてやろうと乗り込んだのだろう。
あるいはヒメ様(ヒミコ)の婿候補にウマシマジや天香久山を押そうとしたのかもしれない。
結果的にヒメ様(ヒミコ)はイワレヒコという日向から来た男を選ぶ。 キュウシュウセツの主張
「ぼくのせつはかのうせいがあるからぜったいただしい」 知識も何もない「ぼくちゃんがおもったから」がキュウシュウセツの中身の全部
だから見てるだけで恥ずかしくなるようなことを平気で延々と喚き散らせる
まぁチンパンジーの醜態見てるのも笑えていいけどなw 男王は中国の皇帝のように後宮に美女3千人を置く。
しかし女王は違う。
数多い男の中から一人の婿を選ぶ。
それが女王の特権だ。
卑弥呼の時代、やはり数多い男がヤマトに集まってきている。
ウマシマジ、天香久山(物部)天富(忌部)天種子(中臣)彦伊賀都(三上)、
そしてイワレヒコとタギシミミ。
これは偶然ではない。
やはりこの時代に女王がいた。
ヒミコとはヒメ踏鞴五十鈴しかいない。 >>818
記紀史観かよw
じゃあ神武東征も史実だな
畿内は九州に征服されたんだな >>385
>有効数字1桁のデータの平均は有効数字1桁になります <
必ずしもそうはなりません。
元々、有効数字1桁と言っても、
2であれば1.5〜2.5であり、
9であれば8.5〜9.5になるように、
範囲の比率に大小があるものの平均であり、
計測数が多くなれば、平均値の有効範囲が小さくなる可能性も十分にあります。
また、陳寿らは、有効数字1桁計測値の合計として、
「萬二千余里」という有効数字2桁の数値を記載していますから、
その有効範囲は、「萬千五百余〜萬二千五百余」里です。
谷本氏の「76〜77」は、
1寸と千里という計測値と、大地平面近似を地球球面とした場合からの計算値であり、
「76〜77」の5割〜1.5倍の範囲内位の近似値、という事になります。 >>858
>卑弥呼におらんだろ・・婿。
それは歳がすでに長大であった時点での話。
おまえみたいなアホが古代史に興味持つ時点でヒミコがみつからないはずだw >>416
>阿波説が畿内説より行程を除けば厄介です
畿内説のスレですの阿波説との論戦は回避しますが・・・<
阿波説も、大和と同じく、「南≠東」に拠って×です。
記紀神話関係情報も、8世紀以後の大和政権に拠る造作である可能性が十分にあるし、
倭国関係情報も、東征毛人55国の例であったんだな、という事で説明が付きます。
ただ、徳島には、(鮮卑とも碧眼紅毛ともされる)紅山遺跡などのY-Nが入って来ており、
それが何時の頃なのか?がはっきりせず、
楽浪の画文帯や、モンゴル〜高句麗の前方後円墳の伝来が、
285年の扶余や東沃沮の「有槨」部族の流民が吉備やホケノへの流入と関係があるのか?、
という事などの情報待ちです。 >>864
みつけるって、何すること?ってどういう事? 狂い咲く奈良の老人の妄想が、日本の古代の歴史を歪めようとしているね。。。
でも、ほとんどの日本人は惑わされないのだけれども。。。 >>481
>残り70ケ国が畿内の国だな<
そりゃ無理だ。
「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國 」
だから。 スレの8割くらいの書き込みがキュウシュウセツの異常者が張り付いて妄想喚き散らしてるだけで笑える
こいつらは人のスレを荒らすと九州に邪馬台国が湧いてくると思ってる馬鹿だから仕方ないが
アホすぎていつも笑わせてもらってるわ >>482
>それは九州が畿内の影響を受けてるって事実で論破されてるよ。<
筑紫倭国が、
「「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國 」
したんだよ。 >>875
>キュウシュウセツの異常者が張り付いて
いや張り付いてるこいつ、九州王朝説者だからw
輪をかけてヒドイからw >>581
>遠隔地の伊都に派遣したんだよ <
魏志に拠れば、伊都国は、
女王の都する所がある邪馬壹國から百里余りであり、
遠隔地ではない。 まともな畿内説論者は寄り付かないからなこんなスレに >>589
>畿内説はもともと方位が間違ってるって説なんだけど <
魏使らは「方位を殆ど間違えなかった」から、
「南→東」とした大和説は×。 >>880
じゃあお前はどこが邪馬台国だと思うんだ? >>593
>前も書きましたが、共立によって時代的に誕生した国(纏向)が、<
「南≠東」だから、纏向も×。 >>602
>共立によって時代的に誕生した国(纏向)が、
それより歴史の古い国の王を代々統属させていた、というと、
何が何と矛盾するの?<
纏向が「南」と矛盾するの。 >>607
>ま、私は投馬国は出雲国論者ですので、旅程の読みをしっかり提示できない限りは、
伊都国説に完全に鞍替えすることはありませんが。 <
「南≠東」ですから、「出雲国」も×です。
「旅程の読みをしっかり提示」出来たのは、古田さんだけです。 >>643
>どこも苦しくない 倭国乱があって、平原1号と2号がある そのあと箸墓 <
箸墓は布留だから4世紀。
>となれば卑弥呼の治世に伊都国の王は三代替わったことになる
考古学的な痕跡とよく一致している<
箸墓を卑弥呼の墓とした所が、文献とも考古とも、一致しないし、 >>817
阿保か、一例がすべて支配すると考える脳味噌が、悪い >>673
>伊都国は王家だけは倭人の血が入っていると思うけどね。
天孫降臨の逸話。1世紀、三雲南小路遺跡に突然方形周溝墓が出現するしね。
合わせたら、畿内の倭国から婿入りがあったんじゃないかな。<
大和の方が、
筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国、
という血が入っていたんだよ。 もう、邪馬台国が九州にあったことで決着しているね。。。
あとは、卑弥呼の都がピンポイントで、どこなのか、、、だけだね。。。 >>814
筑紫天孫族、肥国姫氏、豊国安曇氏、宗方氏など 質問が出ないからFAQが増えないな
まだ936も余白がある >>818
>ならば2世紀末に卑弥呼を共立した人たちは、
>崇神の時代にも普通に豪族として存在したであろう。
100年以上の隔たりがあるから、根拠が希薄です。 >>836
じゃあ、スレ主の総花的な説明は嘘だな。 >>857
>数多い男の中から一人の婿を選ぶ。
>それが女王の特権だ。
>ヒミコとはヒメ踏鞴五十鈴しかいない。
数多い女性の中から、神武天皇が
「とりあえずはまあ、あの年長の娘さんにしようか」
と言って選んだのがイスケヨリ姫
古事記より 筑紫と肥国は民族が違う
最近まで会話ができなかった >>861
>じゃあ卑弥呼は神功皇后だな
>畿内説乙
神功皇后と仲哀天皇は、宮が筑紫の香椎宮と穴門の豊浦宮だから、九州北部勢力だね。
これこそ筑紫の倭国王だ。 >>878
>魏志に拠れば、伊都国は、
>女王の都する所がある邪馬壹國から百里余りであり、
>遠隔地ではない。
7.5キロメートル。
日向峠を越えるのがやったかな。 >>895
だから、肥国出身の女王は天孫族の歴史書である記紀には記載されなかった。 >>892
>100年以上の隔たりがあるから、根拠が希薄です。
それは違う。
大きな変革があったのは2世紀末、畿内では土師器と古墳時代が始まる。
九州でも畿内系土師器が流入する。
それ以降は畿内でも九州でも100年の間に文化的断絶はない。
つまり卑弥呼を共立した豪族は普通に存在した。
九州説ではその豪族を説明できない。 >>894
実際は神武の鴨王朝への婿入り。
その証拠に宮崎に残してきた妻と子をヤマトに呼び寄せていない。
彼が大王ではなかった証拠。 伊都国=イツツヒコのいた山口
イツツヒコは漢字で伊都津日子 >>675
>平原王墓は何も北部九州に影響を与えてない
規模は小さいが持物だけ贅沢な華僑のような王だろう <
誤魔化すな。
21個の「尚方作」の方格規矩鏡を副葬される身分だし、
大量の玉を副葬して貰えた女性なんだから、
広範囲の支配地があった女王、という事にしかならんよ。 >>903
つまり魏の使者のルートははじめから九州を避けてるんだよな >>900
何でいちいち「ない」といけないのだ。
おまえには
>>阿毎氏、姫氏
>両氏族の崇神時代の人物を述べよ。
と質問してたハズだ。
早く答えろ。 >>677
>>逆に、「伊都国の女王に周辺国が統属していた」という読みに適合的な考古学的な証拠は、
平原王墓という素晴らしい考古学的発見がありますからね。<
>平原がいつ王墓に昇格したんだ?<
大和説考古学者が、発掘して、
21個の「尚方作」の方格規矩鏡を副葬された事を示し、
大量の玉を副葬して貰えた女性である事を示した時点で。
広範囲の支配地があった女王、という >>904
平原にはワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳という4〜5世紀の小さな古墳がある。
2世紀の平原墳墓から含め、その程度の小さな一族でしかなかったという事。
間違いなく哀しい防人さんたちの墓。
ここからヒミコを連想するなどとは片腹痛いwww
わかったか加古川の75歳のハゲ。www >>687
>(平原)銅鏡は自分ばっかり持っててもだめだ しかも偽物だし <
「偽物」なんて、誰が何を根拠に決めたんだい?。 >>688
>(平原の鏡)自分で作っちゃって自分のものにたんでしょ?
どこが権力なの?<
何だ?、平原の女性は、
大量の巨大な内行花文鏡や「尚方作」の方格規矩鏡や、大量の玉を、
一人でこっそり造った鏡師兼玉造師だったのだ、
とでもいうのか?。 >>897
怡土小学校前から日向峠越えて矢倉橋まででで12km超えちゃう。
つまり到底室見川も渡れない。
百里じゃ日向峠を越えるか越えないかだね。 肥人は何か勘違いしているが、大陸にもっとも近い筑紫の中心地現福岡市に住むような人は
情報感度が高く、いつの時代も国内では中央を向いている
奈良時代までは大和、天皇が御所にいる間は京都、明治以降は東京
隣の肥国と仲間意識などはない また、イトコク談義かい
畿内説は、論破されたからか >>690
>あほか なら、日本全国、「三種の神器」がごろごろじゃい
>三種の神器って下層兵士が使う刀じゃん <
三種の神器を所持出来るのは、一応最低、天孫族系の阿毎氏などの部族王であった、
という事の印だ。 >>392
>「三種の神器」って当時けっこう一般的に普及してた組み合わせなんでは?
つまり首長権グッズではあっても王権まで行かない代物<
天孫族系の部族王の印であったのであり、
大和は、それすら満足に持てなかったような「別種の旧小国」であった、
という事の証拠になるものだ。 >>906
あるかないか聞いてるだけだぞ素直に答えろ >>697
>伊都国の問題は、楽浪とのコネに特化して壱岐を除く近隣諸国とのコニュニケーションがどんどん細くなってることじゃない?
とても諸国を治めてた王のいる場所ではない <
伊都国の阿毎氏は、ずっと東海姫氏國の倭国内の権力構造の一角を占め続け、
継体の反乱の後は、倭国王に戻って、タリシホコ、を輩出した位、繁栄した。 >>910
あの墓?
金貸しやってシコタマ儲けてたゴウツク婆さんが
厳しい取り立て追い込みで死なせた伊都村の衆の祟りを恐れて
死後にオマジナイをさせた跡だろ >>698
>1曰く 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、
系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。
同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、
基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、 系譜的に平原と断絶している。
平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう<
ふーん?、これはスレ主の話なのかね?。
いずれにしても、
平原に関与した鏡師と、古墳時代の大和などの内行花文鏡の鏡師とは違う、
という事になるようだな。 >>911
高祖山の高祖宮、後の怡土城しかないな。
筑紫の日向の伊都の高千穂宮だ。
記紀でも神代の都だしな。 >>912
だから肥国出身の卑弥呼が黒歴史なんだよ。 >>922
文章のクセはスレ主だな。
中二病が丸出しだ。 ・高祖宮
魏志に伊都国と記された糸島市の高祖神社が掲げる宮号。
糸島平野と福岡平野の間にある高祖山の南の峰をクシフル山と呼び、福岡に通じる峠を日向峠と呼ぶことから、高祖宮が記紀にある筑紫の日向の高千穂宮に比定できる。
高千穂宮は天孫ニニギが八咫の鏡を伴って筑紫の王として即位した宮であり、神武天皇が東征に出発した宮でもある。
後にこの地に建設される怡土城、高祖城は高祖山・クシフル山の山頂を含む中国式山城であり、高千穂の名にふさわしい。
糸島平野にある三雲南小路遺跡はニニギと木花咲耶姫の墓と伝えられ、平原遺跡からはニニギ王家の家宝である八咫の鏡が出土している。
平原遺跡は卑弥呼がいた3世紀の女王墓であり、卑弥呼が被葬者の最有力候補である。 >>924
肥国出身の女子なんか筑紫では共立されない >>769
>地面に棒を垂直に立て、それを中心に円を描く(全周させなくても可)
午前と午後の2回、棒の影の先端が円周上にくるときがあるが、
その2点を結べば、ほぼ正確に真東西となる。
この方法は、古くから『周礼』をはじめとする中国の書物に記され、
簡単なうえに精度もよいことが実験でも確かめられている。<
成程。周髀算経の方法と似ているが、それよりも少し簡便。 >>770
>嘘つきダマシじゃん九州説<
周礼にも書かれていたんなら、
周髀算経も周礼も読んでいなかったらしい海遊録を「間違い根拠」にした大和説者が、
嘘つきダマシのサギシになってしまうじゃん。 >>775
>畿内説では短里を否定し 南にいけば、はるか南方の海上に邪馬台国がなってしまうという
ならば、吉備から南に行ったら水行10日もかからず、1日で四国に着いてしまう。
南を東に変えたいが山口から大阪まで南を東と誤認するのは至難の業。
太陽は四国方面に見えるから <
成程。 >>922
鏡師は違うが、大型内行花文鏡の文化を受け入れている状態 >>781
>このスレを見て九州説やめました<
このスレを見て大和説を止めない人は、やっぱり、
始めから皇国史観思想の・・・・だったんでしょうね。 >>793
大和説者に・・・・は、やっぱりいかん。
直接的すぎる。
頭の不自由なアホと言え。 >>814
>卑弥呼を共立した豪族名を言えない九州説www <
また、この男、アホを晒したな?。
そんなもの、倭人伝に30か国位の部族国名が書かれているよ。 >>931
平原からの直接的な影響ではないでしょう >>815
>だから邪馬壹国は誤りで邪馬臺国だといってるのだが 何か悪いか?<
邪馬壹国は、写本版本での間違いの確率はほぼ0%であり、
後代後漢書の邪馬臺國は、魏志の邪馬壹國とは違った國の名称になっているんだから、
悪い。 >>817
>確率計算はする気がないが確率が低いという 理由もなくありえないと言い張る<
大和説者のハイエナという人物の「写本版本での校勘の対象数」からの確率計算は、
もう何度も書いて示してある。
>それが九州説です<
「南→東」などの嘘つきダマシのように、
何事においても「都合の悪い事実や史料実態」を否定曲解する嘘つきダマシをする・・・・サギシ、
それが大和説です。 >>818
>ならば2世紀末に卑弥呼を共立した人たちは、
崇神の時代にも普通に豪族として存在したであろう。<
「南≠東」だから、大和の崇神は、始めから関係がない。
>畿内説ではその豪族名を言える。 中臣、物部、三上、忌部、大伴、久米、倭などなど。
え〜っと、九州説の皆さん(頭の不自由な方)に九州にいたその豪族名を言ってもらおうか。
(以前、蘇我とか秦とか言ってたバカがいたがそれは話にならないと先に言っておく)<
倭人伝には、30国の共立部族の名称が書かれているし、
卑弥呼の部下の豪族としても、
難升米、都市牛利、伊聲耆、掖邪狗、倭載斯、烏越らの名前が書かれている。 加古川のような土地に住んでると大和を妬むぐらいしかやることがないが
博多のような古代からの交易都市に住む人はそんな暇はない 瀬戸内海ルートで
なぜ、方位を間違えるのか皆目わからん。
投馬国まで(あり得ないが)東に向かってるのに南と思いこみ舵を切ったとしよう。
当然間違いに気づくが,(太陽の方角は四国だから)そのまま進む。
ならば、投馬国(岡山当たり)から南に向かうとは到底考えられない。
東に向かうと記述されているはずだ。
南至投馬國水行二十日 ・・・・ここは大目にに見てやることとする・・畿内説への温情
さてさて、南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月・・・・これは温情も出せない
>>820
>中臣、物部、三上、忌部、大伴、久米、倭などなど。
倭人伝にこれらの豪族は出てきましたか?<
筑紫城の倭奴國の阿毎氏の別種の旧小国の大和への東征、
について行ったり、後から関係した豪族名など、
魏志にとっては、何の関係もない部族名だよ。 2ヶ月間も方位を間違たままのわけがなかろうが
史書に書かれた時点に決まってるだろ >>826
>卑弥呼を共立した豪族がいない九州説www <
30の共立豪族国家名を言っているのに、知らん振りして、
ssnらは、まるで・・・・そのものだね。 >>946
誤認でも誤記でもいいのが畿内説
とにかく邪馬台国が畿内にあるように解釈するのが畿内説 >>831
>九州は共立に参加できなくて属国になったりしたわけだね <
この男は、一体何を言っているのか?も判っていない・・・・かも知れないねえ。
對海國や一大國や末盧國や伊都国や奴國や不彌國や投馬國や邪馬壹國が、共立に参加した事も否定する気、
なんだろうか?。 南に100mくらい進んで、あとは東へ行ったんだろ
古田説ならそれでいいんだよな
藁 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。