光秀=天海だけはガチだと思うのだが。part3
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歴史小説家が自分の小説を売れるようにするために、歴史を面白おかしくいじくり回し、様々な新説が誕生してきた。
どれもこれも小説ネタとしては面白いが、荒唐無稽なものばかり。簡単に反証されてしまうようなものばかり。
けれど、
「惟任光秀が小栗栖で命を落としておらず、後に天海大僧正になって徳川幕府を支えた」
という説だけは、真実の気がする。
当時知っていたのは、禁裏と家康側近。
そして光秀と共に戦ったことのある徳川家武将の一部のみ。
箝口令が敷かれていたと思うし、書面に残してもいないだろう。
ただ、徳川宗家や各武将の直系の末裔は、口伝で伝え聞いていると思うのだが。。
江戸末期には、噂されていた「光秀=天海 説」…。
筆跡鑑定の結果は、
TV東京 → 光秀もしくはごく近い近親者
NHK → 本人ではないが、ごく似ている字があり、親戚縁者の可能性あり
ということだった。
さて、3スレ目。
引き続き、妄想を語れ。 ガチだよ、
陸奥?むかーし伊達郡のほうに住んでいたという伝承でしょ
『山王院 山王宮』
寺院に通っていたとか 『竹生島 能』?
家に謎の鋳造?レリーフがあったりw >>47
信長が生きていたら朝鮮出兵の先頭部隊として送り込まれたのが
後に朝鮮出兵をした秀吉自身だったろうと思う
朝鮮では、戦で死ぬより病気で死ぬ人が多かった
兵士は死ぬまで戦に出される
信長が死んで本当に秀吉は得したと思う じゃ、信長は大阪商人になったの?秀吉の茶坊主になったの?
信雄が容姿がそっくりとかいってたから、あれが信長? ちなみに信忠や信孝や光慶やガラシャやなどの子供達も死んだふりして親父達と合流したよ
信雄だけは日本から出たくないからって留守番してたけど 天海の弟子たちの中に、明智ゆかりの者はいましたか?
福島正則が改易され流されたとき、天海が手を差し伸べた話しがあったと思うのですが、その経緯をご存じの方がいたら教えてください このように、天海が光秀じゃ困る人が存在するのはなぜですか? >>61
光秀が天海だという証拠が一つも上がっていないのはなぜですか? そりゃあ、筆跡鑑定で別人と出たんだもの証拠なんてあるわけない 筆跡鑑定で本人もしくは親戚という結果だったんだっけ? 親戚だ いとこだ 天海は明智秀満だ
という奴がいるが、
そもそもおまえらの筆跡といとこの筆跡って、「近い」か? >>67
そんな単純じゃない
昔なら寺子屋 今なら小学校低学年でクラスメイトが、
同じ先生で同じ教科書でひらがなカタカナを学んだからといって、成人して近い筆跡になるのか疑問
兄弟ですら近い筆跡になるかどうか 自分自身に照らせばわかるかもしれんが、
親子兄弟ですら筆跡が近いとか同じとか、そんな単純なものじゃない >>68
自分が見たテレビでは光秀と天海の書は別人だという鑑定が出ていた 筆跡鑑定家も言っている
筆跡は血縁関係で似ると
俺は父の顔を知らないが、
父の筆跡によく似てるよ
人間って不思議だぜ だな。
教育環境で、読み書きも教えられなかったらアウトだなw
でも、光秀=天海はガチだろ。 >>75
筆跡が違うという鑑定は出来るが
筆跡が同じという鑑定は難しい、という話だぞ
今回は天海と光秀の筆跡が違うという話だから信憑性は下がらない >>76
いや筆跡鑑定で天海は光秀の親戚の可能性があるとされているそうだが、
そもそも筆跡で親戚か否かなんてわかるのか疑問だということ すでに書の名跡というものが確立していて
名跡の筆跡を誰もが真似して小さい頃から手習いするのだから
赤の他人でも筆跡は似そうだね しかもこの時代はくずし字だ
古文書見てもだいたい字が崩れている 要は、金ヶ崎のときに家康に付き従っていた武将たちが、天海を見てどう思ったかというところだな。 >>77
筆跡で親戚か否かなんてわかるわけがない
情報が錯綜してるようだね
鑑定の結果は「似てるが他人」
なぜ似てるのかの理由として
1、血縁で似たようなクセがでた
2、光秀の書を手本に練習した
のどちらかもしくは両方だろうという事
鑑定士は血縁の可能性は上げたが血縁と断定してるわけじゃない >>84
面白いだけで信憑性がない
いや、信憑性に欠けすぎて、楽しめない 天海は諸侯と会いまくってるから、光秀だと無理があるなあ。 織田信雄と天海が江戸城の廊下ですれ違って、
信雄が「あーーーーー!!!!!」と叫んだという逸話はないかね? 信雄は信長に生き写しだから、天海のほうがビビって、ションベンちびってたりして ガラシャの細川家や、土岐家は、それなりに幕府から優遇されたんだろうけど…
大名家で明智という家名は再興されてないね
やはり今川、武田、真田などと違い、逆臣のイメージが強いのかな
とにかく徳川家は織田の盟友を貫いたということにしたいからねえ 光秀(天海)としては、土岐家・明智家再興よりも、幕府・将軍を牛耳ったほうがいいからね。
細川家がこれと言って優遇されなかったのは、光秀とバレたくなかったからだな。
でも九州で堅実に幕末まで残ったところをみると、やはり幕府から優遇されたんだろうね。
それよりも天海が大阪の陣に同道したことが絵に描かれてるけど…。
どのような軍略に関わったか知りたい。
どうせ、家康が信繁に突き崩されて切腹した場合、秀頼の方に行って織田信雄に成り代わり大阪城を仕切る腹積もりだったんだろうけどwww >>92
天海ってたいして牛耳ってないだろ
将軍は家臣に若い娘をどんどん献上させて
大勢側室侍らせてやりたい放題なのに自分は禁欲生活だし
一度は天下をねらった光秀が
やりたい放題の家康・家光の天下のために
自分は禁欲して尽くすとか無理ゲ >>93
濃姫との初恋を引きずってたりとか妻は煕子のみで側室を持たなかったりとか
色恋に関しては非常にピュアな人だったんだよ きっと結論はこうだな↓
明智光秀「これってもしかして」
天海「私たち・・・」
明智光秀&天海「入れ替わってる〜!!」 >>94
濃姫との初恋はファンタジーだが
諸伝があるが光秀には子が7〜11人おり
煕子の子だと確定しているのはガラシャと十五郎のみ
側室は当然いた
織田信澄室、荒木村安室など大名に嫁いだ娘たちもいる
(ガラシャの異母姉に当たる) >>96
その子たちの母親が煕子だと確定もしてないぞ
光秀の親族関係はほとんどが謎だし 千草とか言う謎の女性
結局この人は光秀の嫁なのか否か >>97
「明智軍記」だと光秀は煕子一人を妻として守り側室を持たず
光秀の三男四女、7人の子は全部煕子が産んだ子となっている
「明智系図」(鈴木叢書)では光秀には六男七女、13人の子がいたことになっており
光秀の妻の名や子供の母親の名前は一切書かれていない
(煕子の名前すらどこにもない)
光秀の妻の名が煕子ということすら「明智軍記」の創作の可能性があり
名前不詳が正しい なにかの大河ドラマで金田龍之介が天海を演じたことがあった
光秀があんなにデブのわけがないなあと思った 家康だって糞漏らした19歳の頃はたいして太ってなかったのに
年取ってきたらえらいデブだっただろ 太って、みんな光秀だとわからなかったのかな
知ってるのは家康と本多正信とお福くらいかな 徳川家臣団は結束力が強いからな。
石川数正あたりが天海を見かけりゃあ、言いふらしてくれたのに 家康は天海の顔を他に晒してないからな。
小姓共は光秀の顔さえ知らない。
知ってるのは、本多平八や榊原くらいだろ この説は日本史上、一番まともで信憑性があるんじゃね? >>106
天海は色んな所へ行って顔晒してるじゃんw
関ケ原後は信長の焼き討ち以来荒廃していた延暦寺の再興を命じられ
自ら延暦寺の塔頭に住んで延暦寺の僧たちに顔晒してるし
小田原やら大阪の役でも家康の陣中にあって諸大名に顔を晒している
日光山を任されたため日光東照宮造営に当たっても
工事を担当する日本各地の諸大名たちと会っている 顔晒しても大丈夫なんだよ。
あの太閤殿下が、首実検をしたと宣言したんだから。
まさかキンカ頭だとわかっても、みんな光秀とは言えなかったんだろうな。 最初に天海は明智光秀じゃないかと考えた人は
何を根拠にそう思ったんだろう?
単に天海ほど抜擢された大僧正の前半生や出自が不明になってることに疑問を感じて
実は表の歴史では正体を明かせないような人物だったのではないか?と探したら光秀が浮かんできただけかな?
それとも何か重要な手掛かりがあったのかなぁ 影武者徳川家康をはじめ、近年になってこういった説が出てきたのかと思いきや、
天海=光秀説は、江戸時代からあったという…
天海が亡くなったあとから、囁かれ始めたのかな…
生きてるときは、言うことが憚られたのかな…
バレたら、本能寺の黒幕が家康だと誹りを受けるからねえ
まあ、そうだとしたら、光秀が生きてることを知ってる藤吉郎も同罪だけど 江戸時代から、天海って光秀だと思われてたのかよっ!!! 天海のお弟子さんたちは羨ましいなあ。
信長に従軍していたときの戦物語をさんざん聞かせてもらえたんだから。 天海は、金ヶ崎の殿軍が、すべて秀吉の手柄になってることを悔しがっていたんだろうなあ 秀吉は金ヶ崎の手柄を独り占めしようとして文書を焼いたが
一通だけ残ってしまったのだ 信長が家康を殺そうとしていたという説と、光秀=天海説を合わせると、かなり納得できるんだが 光秀の首は百姓に拾われたといってるが
大将首を落として放置する兵なんているかな? 信長が西洋文明を取り入れ脱亜入欧が16世紀に起き、
日本は東洋の西洋として近代化を迎えていた 天皇制が終わり、英国のように王室制になっていたな。 >>121
光秀は百姓に竹槍で致命傷を負わされて家来に介錯させたんだろ
家来はそれを見つからないように土に埋めたが百姓たちに掘り返された
家来が死んだ光秀の首を抱えて何キロも逃走するのは無理だし見つかる 光秀は百姓に竹槍で致命傷を負わされて家来に介錯させたというのは軍記物が根拠
秀吉のリアルタイムの手紙では百姓が拾ったと書かれている。手紙のほうが信憑性が
高いと思う 秀吉が滝川一益に宛てた手紙によれば
光秀は百姓に殺され首は溝に捨てられていたと書かれてある
しかし秀吉が主君討ちをした光秀を故意に貶めた可能性もなくはない
そもそも光秀はただ一騎になって逃げていたわけではないのに
それこそ家臣はどうしてたんだという話 なんで首切って溝に捨ててたん。
首が価値アリはわかってそうだしとわけわからんかな…深い理由があるか… 打ち取った人と届けた人が別なのはちょっと怪しいよね
裏切りがあったのかな?
天海になっていてほしいと思うけど可能性は低い…
兼見卿記によると
届けられた光秀の頚は村井貞勝の親戚の村井清三と織田信孝の検証で確認されてるんだよね
どちらも一族の主人を本能寺や二条城で殺されてるから嘘は無いと思う
ただ、当代記では光秀は67歳だけど
光秀の年齢はもっと若かったのではないかと思う
明智秀満は47と俗書にあるけど、子孫に伝わる享年は26歳だそう
子供達が若いので光秀も20歳若くてもおかしくないなとは思う だが、江戸時代の天海周辺の事柄から、天海=光秀の可能性が強く感じられることも事実 村井清三と織田信孝は頻繁に光秀と会っていたわけじゃない
秀吉が、腐敗しかかった光秀に似た首を見せれば騙すことができたかもしらん >>131
年齢と筆跡が合わないんだから本人ではないよ
部下か血縁かでしょ 光秀の年齢は確たるものがないし、同一人物という鑑定結果もある 同一という鑑定結果は一度たりとも出てないよ
似てるが別人という鑑定結果をTV局が曲解しただけ 似てるという部分をやたらと番組が強調してただけで
同一人物という鑑定結果は出てないんだぜ 大阪夏の陣での、天海の活躍ぶりや、家康への献策を聞きたいな。
結局それが、真田の本陣急襲を許していたら、お笑いだなw 天海って豊臣を滅ぼすために開戦させる口実をつくるための難癖付けたり
江戸幕府の法を整備したりということには長けていたが
軍師としての功績ってあったっけ 光秀って秀吉には負けたが
金ヶ崎の退き口で絶体絶命の信長を救うべく殿を勤めたり比叡山焼き討ちを実行したり
信長配下の命令で丹波・丹後平定を行ったり
優れた武功があったから信長家臣では最初に城持ち大名に取り立てられたはず >>141
秀吉より出世が早いというのは驚嘆に値するが、
まあ織田家中の重臣は父祖の城を私有して織田家に仕えていたからな つか、なんで春日の局が天海に会った時に
お久しぶりですなんて言うたんや?
明智(元主君)の関係者で顔見知りじゃないと
いうわんでしよ 春日局は京にいたことがあるから
そのころ、比叡山にいた光秀と
会ってたのかもな 斉藤と光秀で新幕府を牛耳ることができたんだから、御の字だなw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています