邪馬台国畿内説 Part286
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1507486523/
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。 ◆6−3
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。 ◆7−2
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−3
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8−1(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。 ◆8−2
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9−1 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pd ◆9−2 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11 本文のサマリー
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纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法より、筆者は里程から如何程に南方であるか具体的に推計して倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことは、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。 ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。 ◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。 ◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。 ◆FAQ 23−2
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26-1
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか! ◆FAQ 26-2
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。 ◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 (・_・D フムフム
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陸行一月はスレ主に説明してもらうしかないな
知らん顔して次スレ立てちゃうかな
また、誤情報で逃げまくるかもな Wwwww ◆FAQ 41−1
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。 ◆FAQ 41−2
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BV型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BW型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され(金原2011)ていること、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される。
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 「北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され」
畿内産の水銀朱は阿波産の水銀朱ですから。 @阿波 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓X期の文化圏である。
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考事例として博多港より三輪神社鳥居前まで現代の道路とフェリー航路上の距離を得ると概ね620kmとなり、妥当な範囲に収まる。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程実例と照合し、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例はカローシュティ文書(楼蘭ー精絶)等に見出せる。
以上、検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆FAQ45,49に加筆、◆FAQ58を追加 (・_・D フムフム
瀬戸内海航路で南を東に誤認
四国に太陽が有るのにな
(・_・D フムフム >纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。
飛鳥までの王都は
いきなり山間部の飛鳥に宮を移したのかねーーー 藤原京に醍醐池があるが、どぶさらいぐらい宮内庁許してくれんえーかな?
鴨君小学校が強制的に移転させられたが、1キロ以内ぐらいだから掘らせてくれるだろうな 藤原京は八木中学の学区だが校長に頼んでもほらせてくれないな おきてんだろ
卑怯だろー
恥をかきたくないから匿名だよなWww 藤原京の近くに飛鳥川が流れてるが小さい
大和川ルートはあきらめたでいいかな? >>76
はい バカです オタクです 無職です 国保です 倭国の交易は海運が基本だよ。
後のヤマト王権に引きずられてうっかり奈良盆地ありきで畿内説を組み立ててしまったけれど、何も出なくてかわいそうに。 >>85
キウスが1に反論の一つもできてない件について テンプレまだよく読んで無いのですが、
陸行一月は触れてますか?
加筆箇所だけ読んでみます。誤情報でいいのか、楽しみ。 テンプレは根拠のない可笑しなとこは多々あるが、
卑弥呼がいたのは纒向で間違いない。
九州説はすれ違いだから、いい加減に出ていけ。
ヤマトは畿内(河内、和泉、摂津、山城、ヤマト)のごく一部。
邪馬台国畿内説のタイトルも可笑しい。
邪馬台国ヤマト説でいいだろ。 いい加減、瀬戸内海ルートを見直さないといけない。矛盾だらけ。 >>90
また矛盾って言葉を知らない国籍不明男が書き込んでるな FAQ45
>卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
これわかりづらいよ、新宗教?どういう宗教? 新が有れば旧があるが旧宗教もどういう宗教?
これ、反論でも疑義でもありません。意味が良くわかりませんので解説ください FAQ58
陸行と水行の連続性、はぁーー
ご都合主義だねーーーーーーー
水行と陸行の区分地域も煙に巻く荒行
これじゃ、畿内説バカにされるよ >>94
ほら、キウスは無能だから反論一つできない へーーー航海技術も船も進歩してるのに
推古記を持ちだすの
へーーーーーーーーーーーーーーーーーー本当に恥知らずだね
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程実例と照合し、陸行日程が妥当である。 推古の時代、河内湖が3世紀と比べどうなったかも知らないのかねーーーー >>98
陸路の話に航海技術だってさ
絶望的に頭悪いな テンプレ1,000まで続けたが良し
すべて埋めた方が良い
テンプレ長くなればなるほど支離滅裂だから1,000まで埋めた方が良い >>100
湖で航海だってさ
こいつマジ頭弱いだろ >>88
昔はヤマト説とも言ったらしいが、ヤマトでなあんにも見つからなかったので、苦し紛れに畿内説と名称変更したらしいよ。 3世紀から、推古迄 航海術も船も道も進歩してないんだ
ヤマト王権、古墳づくりばかりでインフラ整備してなかったんだ
へーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー >>95
>鏡を使う鬼道じゃねぇの
>古いのは銅鐸
その通り。
それを日本では神道と呼ぶよ。
3世紀の中心地は筑紫の伊都平原遺跡だよ。 六拾弐病
六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化する、というのがその典型的例。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。
似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。 全1病
全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する九州説論者のみが発症する、心の病。
畿内説側の書き込み全てが>>1◆q8leUXpswによる物であると信じ込む、一種の脅迫観念である。
学問の世界ではすでに追い詰められている、という事実を認めたくない九州説論者が、
畿内説に多くの賛同者などいるわけがないのだと自分自身を騙すことが、発症のトリガーになると考えられている。
>>1◆q8leUXpswが自演により多数派を装っているのだ、と言う発想は、実は、自身が自演を頻繁に行っているという事実の裏返しにほかならない。
現時点では治療法は発見されておらず、一度発症すると死ぬまで治ることはない。 >>105
またデマで中傷か。
よっぽど畿内説に歯が立たないのが悔しんだね。 キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるようになった
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度
>>1のトリに似せた英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうともする最低のクズである
自分に否定的なカキコはすべて畿内説スレの>>1によるものだと思い込む、「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者
環境依存の絵文字や、「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、など特徴的な言い回しを多用すること、
2ちゃんでは一般的ではない「スレ主」の頻発、名前欄への書き込み多用、ageなどの特徴ですぐに判別できる
勝手に「本日のMVP」を決め、自身を認定するなど、能力もないのにやたらと仕切りたがる、実生活では決して身近にいて欲しくないタイプ
トリとハンネの区別がついていないことも特徴のひとつ
これまでに使用が確認されているトリは以下の通り
◆TJ9qoWuqvA ◆zDcsAEpKdA ◆TbjlUtTwCg ◆DTCBtArI/s ◆cmsiBNFbAs ◆.jMGTy6iYI ◆PyuQX798ps
◆CXD1.68m1w ◆10cK4OrL3E ◆P5DBe7oqOQ
キウスの書き込みを褒めたり、「ワロタ」と応じたり、キウスに対して礼を言ったりする書き込みは、すべてキウス自身の自演である
「キウス扱いされた」などと他人を装う書き込みもするが、バレバレ
自らキウスを名乗り>>1にトリを要求するが、自分はすぐに名無しに戻るダブスタ、トリスタ上等の卑怯者
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊
日本語の読み書きが満足にできないほか、日本史や日本の地理に関する基礎知識も持ち合わせていないこと、
マスメディアで散々取り上げられる土用の丑の日の日付けを間違っていることなどから、
日本国内在住ではなく、日本の義務教育を受けていないのではないかと推測されている ザラコク
邪馬台国関連スレに出没して異常行為をする者のひとり
九州王朝説と古田武彦を盲目的に支持し、偽書『東日流外三郡誌』を未だに真書であると主張する
高校生程度の知識もなく、自らも「素人おじん」と称するが、そのわりに人類の常識とやら大上段に構えて専門の研究者を偉そうにこき下ろす
あまり相手にされていないので、他人の会話に割り込んで片端から周回遅れのレスを付けまくる
全レスバカとも呼ばれる
その結果、投稿数が異常に多く、コピペ連投と同じくらいスレを荒らし、他人に迷惑をかけている
レスをつけるということ自体に異常に執着しており、他人の発言を長々と全文引用したあげく、賛成!とか間違いだ!とか数文字書き足すという無内容のものも多い
平気で嘘をつき、「超」のつく非常識人物として有名
脳を使用しないオウム返しを多用する
ネットリテラシーが皆無で、マナー違反を繰り返す傍若無人ぶりが周囲から嫌悪される原因のひとつだが、本人には自覚がない
理解力も皆無で、自分の主張を否定する情報も正反対に脳内変換することが多い
以前はYahoo掲示板に常駐していたが、倫理規定に触れて出禁になったらしく、最近5ちゃんに居付いてしまった
生きる独善75歳 いやいや
FAQ58より、誤認の方が良かったんじゃないの? >>106
キウスの頭がここまでトンチンカンだとは・・・ 岡上
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張するウソつき
コテ+トリと、別コテ、名無しを使い分け、自説を関連スレで書き込みまくるがバレバレ
糸クズ、八咫バカとも
「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読んだり、
伊都国を女王国であると漢文の用例を無視して誤読したり、
八咫鏡の文様には八咫烏があると現物を知らないで主張したり、
お笑いエピソードには事欠かない
未確定な事項であっても、自分に都合がよければ勝手に確定事項であると脳内変換し、
それを根拠として立論してしまうチェリーピッカー
日本史の方法論をまるで理解していない、自分偉い教の教祖である 連続句読点自演キチ対策
日本経済新聞(2013/2/20)
卑弥呼の墓?初の立ち入り調査 奈良・箸墓古墳
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1905C_Q3A220C1CR0000/
研究進展に期待
日本考古学協会など考古学、歴史学の15の研究者団体は20日午前、宮内庁が陵墓として管理している奈良県桜井市の箸墓古墳を立ち入り調査した。
宮内庁が研究者側からの要望に応じて立ち入りを認めるのは初めて。
同古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とする説もあり、陵墓の公開や研究の進展につながると期待されている。
立ち入り調査をしたのは研究者16人。
約1時間半をかけて墳丘の最下段を一周し、地表に見える葺(ふ)き石や土器などの遺物の状態、墳丘の形などを観察した。
参加した日本考古学協会の森岡秀人理事によると墳丘表面で、築造以前の様子を示す弥生最末期の土器などが見えたという。
森岡理事は「古墳の詳しい状況を実感できた。今回得た知見や印象によって研究が加速するのでは」と話し、
今後の陵墓公開に向け「国民の文化遺産として大切に守るべきもの。宮内庁とさらなる協力体制を目指したい」と強調した。
研究者らは午後、宮内庁が管理する西殿塚古墳(同県天理市)も調査する。 スレ主さんよ
記紀は参考までにとどめるには賛同してましたが
ここで推古紀だすの?????????????
狂ったのな?????????????????
それも推古天皇なんて3世紀から・・あんぐり
遣隋使・聖徳太子・・・・アングリ
あんたもう、スレ立てない方がいいよ >>123
記紀を参考までにとどめる理由とか
全く読んでないだろ
あんたば口を開く回数だけ恥をかいてるから自覚しろよ >>123
1は「記紀は参考までにとどめる」とか言ってなくね? >>127
よお、スレ主。
お前、前言を取り消すのが好きだよな。 4レスもつけて、よっぽど痛いとこ突かれた自覚があるんだな 惨敗して全一病発症したキウスが2レスもつけてる
よっぽど悔しかったんだな >>441
◆FAQ 32 ◆q8leUXpsw.
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
↓
691 ◆q8leUXpsw.
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:・・・・略
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程実例と照合し、陸行日程が妥当である。
この展開妥当とおもわれますか?・・・記紀の悪用だと思います
3世紀からいきない608年ですよ
608年の行程を・・・3世紀に持ち込むのですか? 以下から良く日本書紀/卷第廿二を引用したのは感心しません
あなたも、以下認めてますよね・・また部分的引用はご都合主義では?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、
考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。 また以下も、前後をよく理解したうえで抜粋しましたか?
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
遣隋使でしょうが、3世紀の交通網と7世紀初頭の交通もは同じだと思いますか?
貴君の得意な馬匹文化も考慮してますか?
畿内に3世紀に貴君は馬が居たとおっしゃいましたが魏の使者は確実に利用していないでしょう(馬は居ないと言及)
◆FAQ 58
で陸行一月を解説したつもりでしょうが、説得力にかけますね
今一度、考察して見てはいかがでしょうか? >>133
はい私はキウスです
意味が通じていなかったら、私の日本語が不自由さと貴君の読解力の無さがあいまってるかも
なお、私にたいしてキウスと言うのは良いですが四六時中 誰彼構わずキウスと言うのは、スレを進めるだけで
なんの意味もありません。私は仕事もあり、あなたのように常に貼りついていませんので、ここぞと思うときにキウスと書き込んでください
以上です >>135
意味が通じていないんじゃなくて、あんたの言ってることが支離滅裂だと指摘されてるんだが、日本語が理解できないのかな。 >>132
言ってることがトンチンカンでしょ
1は3世紀の史実を7世紀の史料事実で読み解こうとしても史料批判が重すぎてダメだと言ってるわけでしょ
7世紀の史実を8世紀の史料で読み解くのは構わないじゃないの あいかわらずキウスは
感心しませんとか
説得力にかけますとか
個人的な主観を言ってるだけだなあ
主観じゃ反論にならないのに >>131
所要日数の比較のどこが記紀の悪用なんですかね。 箸が出てくる伝承を女性墓の根拠に使う方が悪用だよな
しかも王ではない墓であるという部分は隠してるし スレ主?暴れるな メッ!
俺はキウスの言う事理解できたぞ
人格的にもあんたは負けてるよWww (・_・D フムフム
>いかなる史料も史料批判が欠かせない
三世紀の史実解明にとって、
原史料すら成立が六世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、
考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い <
(・_・D フムフム >>141
>しかも王ではない墓であるという部分は隠してるし
キウスはいつも嘘ばかりついてるな
テンプレ>・・・箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。 (・_・D フムフム
>3世紀からいきない608年ですよ
608年の行程を・・・3世紀に持ち込むのですか?
>3世紀の交通網と7世紀初頭の交通網は同じだと思いますか?
>馬匹文化
(・_・D フムフム (・_・D フムフム
四六時中 誰彼構わずキウスと言うのは、スレを進めるだけで
なんの意味もありません。
(・_・D フムフム キウスは多分ほとんど知能がないんだと思うよ
菅ゲレば簡単に分かる話なのに 馬がいるのといないのと、どっちが旅が早いかとか
まるで思考が回ってないんだろうな FAQ58
>参考事例として博多港より三輪神社鳥居前まで現代の道路と
フェリー航路上の距離を得ると概ね620kmとなり、妥当な範囲に収まる。<
☝
詭弁・駄弁・・笑われてんぞ
現代の道路を使者が通ってねーよ
フェリーと魏船の馬力が相当違うよ
魏船の航路はフェリーの航路より相当長くなるよ・・ FAQ58
>博多港より三輪神社鳥居前まで現代の道路<
トンネルもあるし、橋もあるし・・頓珍漢なこと書くなよ 数年前の話になるんだけど
猿しか寄ってこないと言っている人がいたよ
たしかKPOPのスレだったかな 大爆笑
倭人伝よりテンプレのほうが誤情報、誤認が多い ニコニコ >>158
大爆笑
>倭人伝よりテンプレのほうが誤情報、誤認が多い<
☝
そのまま 大爆賞 さるでも何でも良いけど、
漫画とかアニメの話なのかな
工作員のような人々がいたりするとか? >>156
スマン 奈良の三輪神社と思ったよ
ところで、橋は無いの? 三輪神社鳥居前って何処?
住所書いてくれないか?
俺 福岡の道路詳しくないから スターウォーズ、
あのような感じの画像が貼り付けられたり、
ルパン三世の画?とか >>165
はい、誤認識だから直ぐに訂正しました
素直でしよ、間違えた場合は意地はってもしょうがない >>159
だよな、テンプレ支離滅裂
スレ主、休養 して立て直したら良い
論文なら単位とれない 285の>>706
>とんでも九州説はまたウソついてる <
とんでも大和説は、まだ細かい事に口先イチャモンのダマシのウソをついてる。
文献では、始めから筑紫である事は確定しているが、
考古でも、祇園山の「殉葬奴婢100余人」や、
平原の「明帝からの下賜の21枚の尚方作鏡」の存在で、
筑紫説が確定している。 >>167
156で、不十分なら今訂正するよ
間違えました、すいません 畿内説がテンプレを皆支持するなら、
このスレ無用じゃ無いの?
畿内説どうしで、議論した形跡無し >>172
お前らトンデモが消えればマターリ議論が始まるだろうさ >>708
>半島の西側と南岸を循海岸水行しながら寄航すれば歴韓國になるだろ <
「循海岸水行」は、波打ち際に近いところの水行であるから、小舟であり、
歴韓國は出来ても、西岸南岸の巨大なリアス式では無理。
また、京畿湾のような干満差が巨大で遠浅海岸では、大型船は無理であり、
大型船での西岸南岸の巨大なリアス式では、直行的な洋上航海になるから、
歴韓國も乍南乍東も無理。 285の>>715
>循海岸水行は渡海に対し陸地の目標物に従って移動する事だろ。
おそらく島の方がたどりやすそうだけど、補給寄港地は確保してたんだろ。<
陸地の目標物に従って移動する時は、普通は(大型船での)沖合洋上航海であり、
「循」という文言を付ける必要がなく、「海岸水行」で十分な筈。
それを敢えて陳寿らが「循」という文言を付けなければならなかったのは、
「波打ち際に近い海岸沿いの小型船での水行」であったから。 285の>>748
>狗邪まで 7000 対馬まで 1000 一支まで 1000 末盧まで 1000 伊都まで 500
奴国まで 100 不弥まで 100 合計が 10700
対馬半周 800 一支半周 600
総計が 12100 帳尻合わないじゃねーか<
奴國の説明も、「東南出発と到着の至」だけであり、
「途中の移動を示す動詞の記載がない」から、
伊都國からの、「主線行程」ではなく、
魏使らが通っていない「側副傍線行程」である事になり、
「萬二千余里」には含まれない。 285の>>756
>大陸との国交は途絶えていない 纏向以降の古墳や遺跡の発掘物で明らかだ <
筑紫倭國から別れた別種の旧小国の「地方の市」を監督する国であった事と、
ホケノに、楽浪画文帯人や、285年頃の扶余や東沃沮の「槨」部族の流民が入って来たからだ。 推古紀出したらいかんわ
推古紀ムッチャ支離滅裂なのに。 285の>>757
>テンプレ読め<
嫌だ。
「南→東」などの嘘つきダマシである事がはっきりしている・・・・春成?の文など、
全く価値がないし、
始めに2回、全面的な反論済みだし、
残り人生暇もないし、
読まない。 数年前の、やまたいスレを読んだことがあるでしょ?
このスレではなったのかな、
でも、たしか、やまたい関係のスレだったよ
「そのとおりでございます」
「私が間違っていました」
このような謎の書き込みがあったり 285の>>766
>つまり纒向は魏と直接国交があったってことだな <
ないね。
筑紫倭國の東征や市を介しても間接的であり、
後代の(285年頃以降の)ホケノの、楽浪画文帯にしても、扶余や東沃沮の「槨」にしても、
間接的。 285の>>769
>時代が魏なんだが <
布目氏の話でも、3世紀末であったから、魏ではない。 285の>>782
>纒向は柵で囲まれた居館エリア以外は、掘立柱建物や高床建物が立ち並び民の居住空間と考えられる。首長達が居住していたと考えられる館は見つかっていない。
発掘した考古学者の言葉を借りると、2世紀末に突然現れ4世紀に突然消失した【大集落】。<
「2世紀末」は×。
大和の庄内は、筑紫の三雲や卑弥呼の祇園山の庄内よりも、50年位遅れるから、
3世紀末。
>魏志倭人伝においても、卑弥呼は鬼道を行い衆を惑わすとあり、民に向けて祭祀を行っていたと考えられる。
今で言う祭りに近い。<
「南≠東」であるから、×。 >>183
布目氏はそんな話はしてないが?
九州説はまた捏造? >>182
証拠でもあるの?
また出所不明の怪情報かな? >>176
1万2千里が邪馬台国を指すとして
そんなひねくった計算が必要になるような書き方をする陳寿はバカなのか? 285の>>789
>倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃、吉備中心。<
中心は、九州。
東方は、「自昔・・・東征毛人55国」地域。
>倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、大阪湾を中心とした畿内が中心だろうね。<
「南≠東」であるから、×。 >>176
狗邪まで 7000
対馬まで 1000
一支まで 1000
末盧まで 1000
伊都まで 500
合計が 10500
対馬半周 800
一支半周 600
総計が 11900
帳尻合わないじゃねーか >>181
解離ってなに?
トンデモ説はいつも具体的なことを言わない 285の>>790
>そのへん一番踏み込んで語ってるの、1じゃね?<
「1」は、
始めから「南→東」の嘘つきダマシの・・・・サギシである事がはっきりしているから、
×ね。 つまるところザラコクはこう言ってるわけだね
畿内説の人間はみんな嘘つきの詐欺師である
よってその言うことは全て間違いである
ただし、うっかり本当のことを言ってしまったのだとザラコクが認定したことだけは本当である
と テンプレ加筆したのはいいが
傷口を広げてしまったな >>200
いくら手も足も出なからって
いくら悔しいからって
嘘をついたり中傷したりするのは
よくないと思う 285の>>291
>淡路島の鉄器製造跡(舟木、五斗長垣内遺跡)。 淡路島で利用された鉄は、
出雲→播磨東部、摂津西部→淡路島のルートで運ばれたことが分かっている。
製鉄跡は見つかっていないので、インゴットの形態で淡路島に運ばれたのだろう。<
ふーん?、出雲系であった可能性があるのか。
>淡路島の鉄器製造は、2世紀末、卑弥呼の共立、纒向建設開始と時期を同じくして行われなくなる。<
播磨の大中遺跡に卑弥呼の下賜鏡と思われる鏡の鏡片が出土しているから、
3世紀前半だな、
>広島の小丸遺跡。2世紀末〜3世紀の製鉄跡が見つかっている。たたら製鉄の始まりの可能性がある。
重要なのは、吉備ではインゴットからの鉄器製造ではなく、砂鉄からの製鉄が始まったこと。
ひょっとしたら、吉備はインゴットの入手ができない状況にあった可能性がある。<
遺跡と高地性集落との関係が知りたいね。 フェリーのスピードどのくらい?
どのくらいの波風なら、真っ直ぐ進める?
同じく魏船は? 285の>>793
>果たして、日本海ルートや瀬戸内海ルートで魏の使者を
安全にすなわち戦闘に巻き込まれるリスクなく迎えることが可能性だったのか?<
「南≠東」だから、始めから×ね。 285の>>794
>卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、
吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。これが2世紀後半。<
「南≠東」であるから、×であり、カスね。 畿内説にかなわないのが解ってるから
イヤガラセにログ流ししてるんだろう 285の>>798
大和説になる資格は、
生まれつき知能が低いこととか老人ボケになったことだけではない。
学ぶ気がないことや、
皇国史観国家権力学者の「南→東」などの嘘つきダマシに隷従するチホウである事や、
倭人伝なんて読まないこと。
でないと、大和説者にはなれない 。 >>205
通常のフェリーで20ノット(40km/h弱)
ジェットフォイルは40ノット
朝鮮通信使船の記録から推定すると櫂走の速力は2.5〜3.5ノット
魏船もそのくらいだろう(野性号は1.67ノット、なみはやは2ノットらしい)
ちなみに海流が1〜1.5ノット
櫂走でまっすぐ進むのはムリ、流されながら目標に漕ぎ続ける
釜山→鰐浦は推定11〜13時間だったらしい 285の>>801
>倭人伝には邪馬台国は會稽東冶の東にあると書かれているが <
「邪馬台国」ではなく「邪馬壹國」であるし、
「東冶」ではなく「東治」。
>會稽東冶(呉の中心地)の東っていうのは実際には海がある場所だよ<
会稽郡の東の治所は揚子江河口の南北両側であり、
その東とは、東シナ海の東向こうの九州の事だよ。 285の>>812
>呉の北 → 魏 呉の東 → 倭国(魏の同盟国) 呉の西 → クシャーナ朝(魏の同盟国)
魏は、魏の連合国で呉を取り囲んでるってことにしたかったんだろうね。
なので邪馬台国の場所わざと間違った可能性がある。<
可能性はない。
魏使らや陳寿には、そんな権限もないし、必要もないし、
嘘ダマシがバレれば、首が飛ぶ可能性もある。 285の>>817
>「會稽東冶の東」というのは、
帯方郡から女王国までの距離を計ると、
洛陽から會稽東冶の東の距離と同等だ、と言ってる <
陳寿が、そんな不要な事を、
書く必要もなければ、書く理由もない。 285の>>829
>ほーベニバナの花粉が3世紀ごろの畿内の遺跡から見つかってるのか
それまでの日本にない中国のものだから 3世紀には畿内と中国で交流があったんだな<
大和のベニバナの話は、3世紀末だから、
筑紫倭國経由か?浪扶余東沃沮経由か?の、間接的。 539 : 1 ◆q8leUXpsw. 2017/04/23(日) 07:20:24.84
>>538
つまり短里とか帰納は精度的に無理な
↓
スレッドの真ん中辺りで、唐突に、スレ主登場。
本当は、名無し投稿したつもりで、口調も普段のまま。
6分考えた後・・・・
↓
540 : 1 ◆q8leUXpsw. 2017/04/23(日) 07:26:26.44
のです 285の>>830
>陸行一月は誤情報 九州説こそどこを陸行1月もすんの?<
韓国と二島と九州北岸。 285の>>831
>當在會稽東冶之東<
「東冶」ではなく「東治」。 285の>>833
>当時はそういう地理的世界観だったから 実際の地理とは矛盾する<
現在の大和説者らのように、
「南→東」などの史料事実の否定曲解する嘘つきダマシの地理感や世界観であったから、
実際の記載や地理と矛盾する。 >>213
でっち上げもたいがいに
そんなところに会稽郡の東の治所など、有ったという記録は無い 285の>>835
>九州説でも陸行一月は誤情報だよ。
上陸してから伊都までだからね。<
韓国は、陸行だよ。 285の>>841
>おかしかないだろ
埼玉の南、神奈川の東って言ったっていい <
「南≠東」だから、×。 285の>>843
その割に、大和説者で、魏志や史書を、まともに読んでる奴いないな。 285の>>845
>ほー 後漢書を書いたのも隋書を書いたのも 大和説なのか<
筑紫説者だよ。 285の>>850
>うん。 だから陸行一月は1日の誤り。 それはどの説でも共通。<
「陸行一月は1日の誤り」説者は、
その根拠を、(結論先にありきの循環論法以外に)説明していないから、
分裂幻覚の妄想患者。 >>218
じゃあ投馬国にはどこを20日も水行するの? 285の>>851
いやいや。
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者は、
始め方常におかしいぞ 。 285の>>852
>九州まで、帯方郡から半島に沿って海を南また東に、
その後はじめて海を南に渡るので、九州は帯方郡から南東ということになる。<
「歴韓國乍南乍東」と書かれているんだから、×。 要するに古田説は島巡りで1400里サバ読んだため
陸行1月の処置に困って帯方起点説をデッチあげ
なんとか半島内で日数を消化したいから
わけのわからない理由を付けて
韓地陸行説を言い張った
ところが投馬国は同じ構文なのに
水行のみだから帯方起点にできず
古田性全体が破綻した 285の>>859
>那珂八幡より畿内のホケノはもっと古くからある前方後円墳 <
那珂八幡など筑紫が「無槨」で最も古く、
ホケノは、吉備と同じく「有槨」であるから、那珂八幡より新しい。
>さらに畿内の椿井大塚山と同笵の三角縁が出てるから
時期は同じとしても椿井大塚の方が規模が倍ぐらい大きい <
椿井は、(槨とは言わず)石室の筈だから、ホケノよりも更に新しい。
>津古生掛も同時期の畿内の古墳に比べて 2分の1〜3分の1程度の規模である<
同じ天孫族や阿毎氏系のように、同族の中では、
後に成る程「更に大きく」というセレモニーの拡大に拠って、
(出来なくなるまで)大きくなるもの。 >>235
とうとう自家製考古学を作り始めるザラコク 285の>>860
>那珂八幡なら植民地にやってきた畿内人の墓だからね<
大和は、筑紫倭國から別れた別種の旧小国の附庸國で、
「自昔・・・東征毛人55国」の地であったんだから、
筑紫に搬入上納する関係であったんだからね。 285の>>863
>テンプレ
「北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より
畿内産の水銀朱が発見され」<
「畿内産の水銀朱」という断定根拠は知らんし、信用も出来ないが、
地方の市を監督する「大倭」職の国からの搬入上納であった、
という事で、説明が付いてしまう。 >>866
>逆だろ 戦前の戦争国家の天皇支配体制礼賛者はたいてい九州説だ <
天皇支配教の原点は、
「大和天皇家が天地開闢以来列島の支配者たるべく約束された」という、
「大和天皇家一元列島支配」教であり、
大和説そのものだ。 285の>>881
現代文でも古文でも、
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説の珍読は、
「都合の悪いものは何でも間違いだ」とする、史料事実の否定の、
分裂幻覚の妄想から出来ている。 >>241
とうとうヤマトセツというものを創作しちゃったんだね
でも、それは爺さんの脳内にしか無いよ
その証拠に爺さん、そんな説を唱えてた学者の名前を言えないだろ? 285の>>884
>◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成) ・・・FAQ31
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、
博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸
→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている<
「南≠東」であるし、
「大和は筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」であった事を書いていないから、
この男も、嘘つきダマシの・・・・大和説者であり、
始めから×。 畿内説って、根拠のない創作でしょ?
ここまで誰もまともに畿内説について話をしていないし。
テンプレが邪魔なだけの雑談スレ。 魏志倭人伝当時、河内、和泉が女王国の支配下にあったのかは検証が必要。
邪馬台国はあくまで女王国の中で卑弥呼が都を置いたところ。
畿内みたいな広域を指していた根拠はない。
邪馬台国は大和盆地+宇陀くらいだろ。 285の>>898
>当時日本国内に陸行一月も出来る道路とか整備されてないし
目的地の近くまで船で乗り付けるのが普通だからな <
「其行來渡海詣中國、恆使一人、
不梳頭、不去虫幾蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰」
だから、
持衰は、倭船に「使」として乗船して「行來渡海詣中國」しており、
それを魏使らが同乗して目撃した事になり、
倭船だから、狗邪韓國〜末盧國の間に同乗した事になるんだよ。
だから、循海岸水行は郡か韓国の小船で、
歴韓國乍南乍東は韓国陸行であり、
大型中国船での半島西岸や南岸や九州までの洋上航海はしておらず、
勿論中国船での大和までの水行もしていない。
陸行一月は1日の誤りだよな。 >>247
テンプレに書いてある畿内説に反論できなくて
そんな悪口を言ってるのは
敗者の証明 そろそろテンプレのフェリーを
論破したいが、他の方が畿内説ボロボロにしてるので、
後ほど😇 285の>>929
大和説の人が言う理由は、始めから「南→東」などの嘘つきダマシの上で言っているから、
本人や大和説者ら以外理解できない。 285の>>931
さすがに1万2千里は大和を指すはずなんだからと言って、
不彌国までの記載上の里数の合計1万6百里に
対馬一支の島の国内見聞移動分を足さないで、
不彌國から大和までが千四百里だ、と言って辻褄を合わせよう、って言うのは、
強引な帳尻合わせ、と誰もが思う。 テンプレなんて中二病の妄想だよ。
コメントする価値もない。 >>255
対馬海峡の幅の半分にも満たない千四百里が不弥国から大和に相当するだなんて、畿内説はデタラメなご都合主義だな。 >>253
誰がいつ、何と言って畿内説ボロボロにしたの?
見てみたいな。 285の>>953
>1万2千里が九州北部を指しているとは限らないだろ
1万2千里が九州北部を指しているはずだから それに合うように島の大きさ足すべきだとするのは
これはれっきとした循環論法 <
古田さんは、北部九州だとは決めず、
史料事実を分析してそれから「足りない1400里」を、(帰納的に)推論されたんだから、
循環論法になっていない。 >>256
ほら、あなたは現実から逃げてばかりだ
よほど葡萄が酸っぱいんですか? >>259
「足りない」と言ってる
ということは
部分里程の合計と総計が、合うという
予断があるわけだが? >>262
対馬海峡の幅の半分以下しかないのに?
ナンセンスだね。 >>263
部分を積み上げて合計になるんだから、当然だろ?
ただ、途中の余りも考えるべきだよ。 だいたい、古田氏は伊都国説ですらない。
伊都国までで数字を帳尻合わせしているわけではない。
ザラコクもそのアンチも、何を目指して論議しているのかわけわからん。 >>265
その「合計である」というのが、予断です。 >>266
古田は不弥国で帳尻合わせをしてるよ
つまり単なるバリエーションで、根幹は同じ いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 >>270
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 千里単位の群と百里単位の群があったら
まず合計であることを疑うべきだね >>88
>テンプレは根拠のない可笑しなとこは多々あるが、
卑弥呼がいたのは纒向で間違いない。<
「南→東」などの嘘つきダマシになるから、×。 >>267
郡使が距離を測って歩いたから、その合計が魏志倭人伝に書いてあったわけだよ。
郡使が行かなかった国は、よくわからんと正直に書いてある。
彼らは物見遊山で歩き回っていたわけではない。 >>283
郡使が距離を測って歩いたからその合計が魏志倭人伝に書いてあったわけだ
という根拠 >>284
それはウソだな
ザラコクと区別されてら >>285
常識と呼んだら、それは予断ってことなんだよ >>111
またデマで中傷か。
よっぽど頭と顔が醜いんだね。
祇園山の「殉葬奴婢百余人」と、平原の「21枚の尚方作鏡」だけでも、
筑紫説の勝ちが確定だよ。 >>119
言動に、
「南→東」などの嘘つきダマシの史料事実の否定曲解や、
理由説明がないのが大和説。 >>188
>1万2千里が邪馬台国を指すとして
そんなひねくった計算が必要になるような書き方をする陳寿はバカなのか?<
違うね。
魏使らが「自郡至女王國萬二千餘里」という合計里数を書いているから、
間違いなく、「途中の移動里数の合計」は「萬二千餘里」になっている筈であり、
それが判らなかった現代人がアホであっただけ。 どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったなどと、考えているのかな、、、 >>192
トンデモ大和説者は、
幾ら具体的根拠を書いて上げても、知らん振りして、
いつも「具体的なことを言わない」と言い張り続ける。 >>298
それはザラコクが嘘をついているんじゃないのか? 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 >>196
つまるところは、こう言う事だね。
大和説の人間は、みんな、
大半は史料事実に沿った説明をしておいて、信用させて、
その中にこっそり判らないように、
「南→東」などの嘘つきダマシの史料事実の否定曲解する詐欺である部分を挿入して、
いつの間にか、全体を酷いトンデモな話に摩り替えてしまう詐欺師である、
という事。
これは、街頭サギシや、やくざ暴力団の脅迫や、宣教師や坊主の説法や、
キョクウのヘイトスピーチや、政治家がよく使う手法。
よってその言うことは全て間違いである
ただし、うっかり本当のことを言ってしまったのだとザラコクが認定したことだけは本当である
と >>203
いくら手も足も出なからって、いくら悔しいからって、
完全な嘘をついたり、
「半分〇で残りは×」の事を言ったりダマしたりするのは、
よくないと思うよ。 >>296
「自郡至女王國萬二千餘里」という合計里数を書いていてて
行程距離の合計が10700里しかないなんて変だよな
足し損ねた行程距離があることは明白で
それが古田の指摘した對馬國の方可四百餘里と一大國の方可三百里なんだ
他にはないからな。 >>205
>フェリーのスピードどのくらい? どのくらいの波風なら、真っ直ぐ進める?
同じく魏船は?<
魏使らが乗った船には、持衰が「使」として乗っていた事になるから、
魏使らが乗ったのは、「倭船」であり、「中国の大型船」ではないよ。 >>306
だから、合計だというのが予断なのであろう 推古の時代www
これこのスレでは間違いを認めず次スレでしれっと削除するパターンだろw
このスレ主せこいからなw >>206
>それの畿内説と、何か関係が?<
大和説は、魏使らは大型中国船で、
郡から狗邪韓国や筑紫などに寄港しながら吉備や難波や出雲や若狭まで行った、
という説であったから、
(中国船ではなく)持衰のいる倭船に同乗していた、という事は、
大和説の否定になるんだよ。 >>272
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 間違いを自覚してるから削除するんだろ?w
どうせ削除するわなこのセコセコスレ主は 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 安全最短とか言いながら島を歩いて半周て
ホラ吹き古田も実は加古川出身だろw 削除したら「ほら言った通りw」と笑われる
削除しなければ「推古の時代が根拠w」と笑われる
どうころんでも笑われるテンプレくんw
また畿内説が自爆www >>317
それが本当なら
間違いを指摘できなかった九州説爺さんって
無能ずぎないか? >>314
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 >>321
2013年のあの大規模調査よりも、数年後のあれのせいでしょ。
勿論、2013年のあの調査が畿内説破綻の発端となったことには変わりないけど、、、
やっぱりとどめになったのはあれだね。。。 テンプレートが推古時代についても、論破されているね、、、 推古紀w
数百年間交通路が整備されない前提なのかw
どういう知能してたらそんなこと言い出すんだよw こんだけバカにされて、次スレで削除するんだろうなあw
削除したら笑ってやろうwww >>337
でも、結構な数の研究者の目に留まっちゃったんだよね。。。 >>338
そういえば、この畿内スレpart1が立てられたのもその頃だったね。。。 >>229
>じゃあ投馬国にはどこを20日も水行するの?<
「南至投馬國」には、途中移動の動詞がないから、
不彌國からの側副傍線行程記載であり、
だから「南至」は「南へ行けば至る」という位置を示す「四至表現」になり、
だから、一旦玄界灘に出て、海岸沿いに東周りか?西周りか?で、
「水行二十日」で着くところだろう、という事になり、
大体鹿児島になり、
有名な(東テイ人時代からの?)上野原遺跡がある。 >>323
でも、インタ−ネット工作が、観光客の対応に、猫の手も借りたい筈の、黄金週間もやまなかったね。 結局・・・余りにもアホな間違いをする人間はアホさでアイデンティファイされちゃうんだよな >>318
信仰すること自体に喜びを見出した、畿内説が破綻していることを認めたくない、頑固な老人信者たちにも、畿内説以外の信仰対象がたくさんあることを、教えてあげられるっていうメリットもありそう。 >>328
しっ。だめだよ、それだけは。。。
発狂者が増えてしまうもの。 >>233
>要するに古田説は島巡りで1400里サバ読んだため <
いや史料実態。
>陸行1月の処置に困って帯方起点説をデッチあげ <
いや、郡起点は、循海岸水行。
>なんとか半島内で日数を消化したいから わけのわからない理由を付けて 韓地陸行説を言い張った <
いや、史料事実や史料実態そのものであっただけ。
>ところが投馬国は同じ構文なのに<
同じ構文ではない。移動の動詞がないから、側副傍線行程の記載。
>水行のみだから帯方起点にできず<
不彌國が起点。
>古田性全体が破綻した<
こういう・・・・嘘つきには、
何を説明しても曲解捏造して、同じような事をしゃべり続ける脳の病気だろうから、
放置しておいた方がいいんでしょうね。 >>348
>不彌國が起点。
なら邪馬台国の起点も同じだよな 九州説がありえない理由その1
魏志倭人伝には邪馬台国の場所は
「帯方郡の南東」
「會稽東冶の東」とはっきり書いてありますが
そこには九州はありません。
九州の場所を間違えるわけないので九州はありえない。 >「水行二十日」で着くところだろう、という事になり、
大体鹿児島になり
薩摩地域の弥生終末〜古墳は地域色の強い成川式土器だから
北部九州〜畿内とは別の文化圏 >>297
あの、鍵型の墓のせいじゃないかな。。。
魏志倭人伝に書かれているものとは形が違うけどね。。。 >>238
>>大和は、筑紫倭國から別れた別種の旧小国の附庸國で、
「自昔・・・東征毛人55国」の地であったんだから、
筑紫に搬入上納する関係であったんだからね。<
>そんなことを書いた文献は無いな<
史料事実であり、史料実態だな。 >>342
ここで騙しの宣伝しているのは、
奈良の観光関係の組合員や、公務員じゃないのかもね。
ひょっとすると、専門の下請け業者なのかな、、 >>234
>>天皇支配教の原点は、
「大和天皇家が天地開闢以来列島の支配者たるべく約束された」という、
「大和天皇家一元列島支配」教であり、
大和説そのものだ。<
>とうとうヤマトセツというものを創作しちゃったんだね
でも、それは爺さんの脳内にしか無いよ
その証拠に爺さん、そんな説を唱えてた学者の名前を言えないだろ?<
Yahooでの議論で、「天誅」というネームの「東大を出て京大に移った教授クラス」の人物が、
しゃべった内容だ。 >>248
>邪馬台国は大和盆地+宇陀くらいだろ。<
「南≠東」だから、×ね。 Yahooの議論の方が質が高いな
九州説者のレベルはここと変わらんが、畿内説者が知識もIQも九州説と互角の切れ者が多い >>249
また訂正。
だから「陸行一月は1日の誤りだよな。」も×。 >>332
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 日本古代史最大のミステリー 邪馬台国と三国志の関係に迫る
https://www.youtube.com/watch?v=oGGOqfeg8-s
既に答えは出てるんだよなぁ 九州のお爺ちゃんたちのメルヘンチック九州説はどこにでもある郷土愛
反社会的偽書店末席の加古川のは九州説に便乗した抗日運動 >>252
>港に倭人の船が着いたら見ればわかるよ<
何だ?。
魏使らが、「倭人の船が着いた」のを見て、一々近づいて行って、聞いて、
「其行來渡海詣中國、恆使一人、
不梳頭、不去[虫幾]蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰。
若行者吉善、共顧其生口財物;
若有疾病、遭暴害、便欲殺之。
謂其持衰不謹」
などと」言う事まで聞いて記録出来、記録する、
という事が有り得る、とでも思うんかい?、・・・・。 >>261
>どんなデータから帰納したの?<
魏志倭人伝の行程記載事実や実態から。 >>262
>千四百里あれば畿内に着くのだが。<
魏志や倭人伝で使用された「里」の記載からの帰納では、
千四百里海峡距離の半分以下であり、
大和には全く着かないよ。 畿内説以前に倭人伝には大和朝廷による九州平定が250年以降
であることが記されてるんだが、畿内説学者は日本の古代史を直視する気が無いのか?
明治や戦前の皇国教かい? 神功応神紀には
神功応神が九州を平定して畿内に帰ろうとしたら畿内王権に「帰ってくるな、畿内にお前の居場所はない」と追い返されて戦争になったって書かれてるからな
つまり畿内には別の王がちゃんと畿内に残って統治してたと書かれてる
その王の名前は当然残ってない
応神は当然その畿内王の男系とは違うわけで
易姓革命が起きてるわけだよな 畿内説派ってのは記紀史観以上に皇国主義的だよな
畿内以外の王権を認めず、卑弥呼以来万世一系だと信じてる
記紀にさえ複数の王権を認める記述があるのに
神功が畿内入りしようとしたときに追い出そうとした畿内の王は誰だよ >>340
確かに、、、、
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている >>357
2013年以前から、桜井市のは、卑弥呼の古墳ではなく、天皇の妹の古墳だと認定されているのにね、、、
しかも、天皇家直近の国家機関からなのに。。。 >>359
そんな、組織だった工作ではないと思うよ。
書いている内容が、狂人のように錯乱しているからね、、、、 >>344
なるほど、畿内説信者さんたちに、次の信仰の対象を選んでもらうわけね。
でも、選ばれた説の論者には、負け組や、疫病神に取りつかれたようで、かえって不気味、、、 >>379
卑弥呼は天皇の姉妹だから問題ない。
倭人伝にも弟(崇神天皇)が卑弥呼の政治を助けていると書かれている >>346
そうだね。。。。
ただでさえ閑散とした桜井市周辺に、ブツブツつぶやく発狂者が徘徊するさまはおぞましすぎるね。。。
二度と訪れる予定はないけど、、、 >>263
>「足りない」と言ってる ということは 部分里程の合計と総計が、合うという
予断があるわけだが?<
総合計を「自郡至女王國萬二千餘里」と書いておいて、
部分行程記載の「里」の合計と違っていたら、
そりゃ、一種の欠陥文書になってしまって、
ライバルに指摘されてしまう可能性があるのであり、
(嘘つきダマシのサギシの大和説者は知らんが)、
陳寿は、そんな事をしないよ。 >>364
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 >>267
>その「合計である」というのが、予断です。<
いや、普通の人類や学者にとっては、ごく常識的な事であり、人類の常識です。
「部分距離記載の合計と総距離が合わなくても構わない」という大和説者の方が、
「変な予断を持っている異常な人間」です。 >>273
>千里単位の群と百里単位の群があったら
まず合計であることを疑うべきだね <
魏使らの計測記録が有効数字1桁概数であったらしい、
という事をこっそり隠した話をするこの投稿子は、
まず、自分の脳神経の病気を疑うべきだね。 普通の人類や学者は加古川のように非常識ではない
一般の日本人と一緒にされたら迷惑 >>278
>「南→東」が嘘だって根拠は?<
意味も字形も全く違う文字であるし、
周髀算経や礼記の「東西南北」の計測法を見て知っている筈の魏の役人たちが、
「南と東」とを間違える筈が全くないから。 足し算もできない
距離とみちのりのちがいもわからない
もお小学生以下だな >>282
>海の上は歩けないよ<
見えていなくても、一寸千里の法と大体の方向で概算が出来るし、
見えていれば、三角測量で距離を概算出来る。 1万2千里は一寸千里の法 それは距離であって、みちのりではない。 三角測量するなら棒っきれ法などいらない
三角測量したような精度でもない 三角測量できるところは棒っきれ法などしないわな。 あほ >>288
>常識と呼んだら、それは予断ってことなんだよ<
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
一個人の「予断だ」という「断定」そのものが全く確率が低くて無価値なのであり、
「人類の常識」という多数の人間の承認内容の方が、確率が高い。 >>303
また訂正。
「よってその言うことは全て間違いである
ただし、うっかり本当のことを言ってしまったのだとザラコクが認定したことだけは本当である
と 」
は、消し忘れ、であり、削除。 >>304
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説の狂人らの、悪夢の?競演。 >>308
>だから、合計だというのが予断なのであろう <
いや、普通の人間であった場合の「人類の常識」からの確率の高い推論であり、
「予断」という「結論先にありき」からの循環論法ではない。 魏志のヤマトの記述は、司馬仲達の「市役所の方から来ました」詐欺芝居そのものなのに
未だに距離だの方角だのをぐだぐだ垂れてるのは文字通りの池沼さん
司馬仲達が公孫淵を滅ぼし朝鮮半島やその遠方にある倭人の一部をも魏の影響下に置いた。
この成り行きを最大限に膨らますために、呉の後背を襲うインド亜大陸並の巨大国家群
倭の中心国家が朝貢したという大ボラに仕立てた。
魏志の邪馬台国云々は当時朝鮮半島にあった倭人小国家邪馬国周辺の事情を適当に
脚色したもの。つまりただのフィクションだ。
このフィクションにより司馬仲達は魏王朝での覇権を確立した。
実際に魏と交渉があった(魏から見て)最遠の倭人小国家が伊都。
魏王朝のみならず二千年後のあんたらも司馬仲達に誑かされているんだよ。
死せる仲達畏るべしw 反社会的偽書専門古田書店の主要商品は偽書である評価が定着している
日本国民の常識によって承認されていない >>316
>残念だったね、妄想で。<
Yahooでの議論でも、大和説者は、殆ど皆、
「魏の大型船で、郡から大和へ向かって乗って行った」説であったし、
このスレでも、何人か?は、「魏船」と書いていたよ。
しかし、持衰の記載や、倭王武の「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」の記録は、
韓国が陸行であった事を示している。 >>400
人類の常識なら
移動途中に通過した島の大きさが書かれてたとして
それを足したりはしないぞ >>333
まともな史料事実や史料実態の、中身がないのが大和説。 >>349
大和説者って、なんか始めから「結論先にありき」の循環論法の、
変な皇国史観宗教団体になっちゃってたの??。 「呉の後背にあり挟撃できる巨大国家群が魏の冊封体制に入った」という
仲達の描いたフィクションから逆算して、距離だの方向だのが創作されてるんだから、
んなもん(仮に実在するとして)位置比定に使えるわけねぇだろ >>350
>>不彌國が起点。<
>なら邪馬台国の起点も同じだよな <
投馬國へは、水行二十日の起点だから、不彌國から一旦玄界灘の北へ出港するが、
邪馬壹國へは、萬二千余里が不彌國でほぼ消化されて殆ど残っていないから、
「南へほぼ0里」で邪馬壹國の入り口に着く事になる。 >>408
万二千里が循環論法に基づくって畿内説に言われて口惜しいもんだから
そのまま言い返してやがんの
ダッサ 曹真は太和三年十二月に諸葛亮に敗戦したが、翌年大司馬に昇進している
魏志では曹真が太和三年十二月に大月氏を朝貢させた功績を隠している 九州説は何でも強引に自説で説明しようとし過ぎなんだよ
それが返って何か必死に言い訳してるように見える
何だよ行程に対馬と一支の島の半周を足すって
強引にこじつけし過ぎ >>351
>九州説がありえない理由その1
魏志倭人伝には邪馬台国の場所は 「帯方郡の南東」<
帯方郡の南東は、大体関門海峡付近であり、釜山付近の真南は平戸と五島列島の間付近であり、
行程の記載でも、大体東南より僅かに南寄りであるだけですから、
筑紫で十分です。
>「會稽東冶の東」とはっきり書いてありますが
「會稽東冶の東」とは書いてありません。
「計其道里、當在會稽東治之東」と書いてあるのであり、
「会稽郡の東の治所の東」ですから、大体九州です。
>九州の場所を間違えるわけないので九州はありえない。<
どちらも九州を指しているので、間違いになっていない。 痴呆が進んでいるあんたらでも孔明やら曹操やら仲達やらが権謀術数を懲らしまくる
お話くらい覚えてるだろ
魏志はその後継王朝晋の司馬仲達の孫が書かせた公式史書
魏で覇権を握った司馬仲達こそ魏志全体の主人公なんだよ >>352
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説は、始めから破綻していたんだよねー。 >>414
そうだね。
島の半周を足すのはやり過ぎだね。
はじめから港のところを目指すからね。
でも、伊都国が倭国の都という結論は変わらないけどね。 >>353
「南→東」などの嘘つきダマシがバレても、
集団自殺なんかされたら後始末に金がかかって大変だから、やめといてくれ。
せめて仲間同士で子供を作って、その子らには、嘘つきダマシをしないように教育して、
さっさと死んで、子らに面倒を見て貰ってくれ。 北部九州説なのに會稽東冶の東のときだけ九州と言う反社会的偽書専門サギ書店 >>411
万二千里は循環論法にはなってないしな。 >>354
>「水行二十日」で着くところだろう、という事になり、 大体鹿児島になり <
>薩摩地域の弥生終末〜古墳は地域色の強い成川式土器だから 北部九州〜畿内とは別の文化圏<
元々、薩摩地方は、東テイ人の根拠地であったようで、
東テイ人は、海賦の記載に拠れば、
後漢最末に後漢に「序に就いている」から国が存在していたのに、
魏志には東テイ人の記載が無くなって投馬國になっており、
という事は、卑弥呼の共立前頃に東テイ人という国?の消失があって、
その後に投馬國が出来た、という事になる。 >>424
投馬國には行っても無いといいながら
偽書を売るための辻褄あわせの作り話をする反社会的偽書専門サギ書店のサギ商法 >>362
>Yahooの議論の方が質が高いな
九州説者のレベルはここと変わらんが、
畿内説者が知識もIQも九州説と互角の切れ者が多い <
Yahooでの大和説者のレベルは、
皆、「南→東」などの嘘つきダマシのアホであった事がバレバレであったのであり、
私がいた間にも、大和説の主要メンバーの殆どがいなくなり、
残ったのは、2chに残った大和説者と同じように、
・・・・アホのレベルの人間ばかりであったよ。 アホほど人がアホに見えるというのは
本当の事だったんだなぁ 魏志倭人伝当時の九州状況
女王国とは、卑弥呼を共立した30ヶ国の総称。卑弥呼を王としているので、30ヶ国には王はいない。よって投馬国には、王の記述はない。
王がいる伊都国、狗奴国は女王国ではない。
狗奴国は邪馬台国と敵対する国、伊都国は服属する国属国である。
ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。
奴国や不弥国、末盧国などにも王はいないが、同じ官が置かれている。これらの国々は、博多に置かれた一大率の管轄下にある国々である。
もちろんこれらの国々は女王国(卑弥呼を共立した30ヶ国)ではなく、女王国の管轄下にある属領である。
九州における女王国メンバーは、九州南部を中心とする五万戸を擁する投馬国で、九州一の大国である。投馬国は神武の本貫。 女王国まで12,000里、つまり不弥国と投馬国の境界まで12,000里である。
女王国の北、つまり投馬国より北は、一大率の管轄エリア。
一大率は、吉備と神武の本貫投馬国の兵団である。
一大率を統率したことが、天皇家が筑紫を支配下に置いた始まりである。 宮崎、大淀川流域、生目古墳群。
円形周溝墓、前方後円墳、三世紀後半〜。
魏志倭人伝と近い時代に、宮崎にかなりの労働力(人口集積)があったことが分かる。
畿内、ヤマトの旗を同じくする勢力。
女王国メンバーの投馬国だね。 >>370
>不近婦人だから持衰は船上ではなく陸にいる <
関係がない。
「男生口四人、女生口六人」を船に乗せた事になるから、船上にも婦人がいた。 魏志倭人伝には、伊都国が千戸しか人がいないと書かれている。漢数字で千と万は間違えるはずはないので、実際千戸程度しかいなかったんだろうね。
もう一つ魏志倭人伝には、一大率が伊都国に置かれているとある。
3世紀半ばに大兵団が置かれていた場所の候補地は博多那珂地区しかない。
博多も区域としては伊都国に含まれるが、一大率が支配していたのだろう。
つまり伊都国は、平原周辺(王とその取り巻き)以外の大部分を一大率に召し取られたと考えると矛盾がない。
魏志倭人伝によると、
伊都国から奴国までは百里、奴国から不弥国まで百里とある。また不弥国からは南へ船で20日進むとある。
不弥国は周防灘に面した国と考えるのが妥当。
奴国は不弥国と伊都国の中間にある。地図を見ると遠賀川がその辺りにある。
遠賀川流域は、縄文時代〜弥生時代にかけての石器の一大製造拠点。その石器は九州全土に広がり、特に九州北部に強い影響力を持っていた。
また遠賀川流域の飯塚市から、行橋市には古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路であった。
奴国は2万戸の大国であり、遠賀川流域一帯の国であったと考えられる。
問題は不弥国である。
魏志倭人伝によると伊都国と同じように千戸しかないとある。壱岐ですら三千戸であることを考えるとかなり不自然。
行橋市の北は京都郡、苅田。
石塚山古墳など早期の前方後円墳がある。
巨大古墳のあるところは、労働力の集積地(非農業人口集積地)。つまり拠点地域。
不弥国も伊都国と同じように、大部分の領地を女王国に召し取られた可能性がある。
その地域支配の拠点が苅田辺りに作られていた可能性がある。
九州北部支配の拠点、博多那珂地区の一大率と苅田の駐屯兵団。少なくとも二ヶ所は魏志倭人伝の時代から存在。 北部九州で水稲栽培が始まるのが、BC1000年頃。
呉の末裔を名乗る倭人が淡路島や畿内に渡来したのが、BC4〜5世紀。春秋時代末期。
その畿内中心に広がったのが、方形周溝墓。
天孫降臨は記紀にも書かれている通り、ニニギの婿入り。
伊都国への婿入りだろう。
博多平野で、婿入りを示唆する考古学的所見は、1世紀中頃の方形周溝墓の受け入れ。(三雲南小路遺跡)
畿内にあった倭人によるクニ(倭国)からの婚姻を伴った天下り(地方官の派遣)が天孫降臨だろう。
元々伊都は倭人ではない人々の国であったが、1世紀中頃畿内の倭国から伊都国の王として、倭人を迎え入れたんだろうね。 邪馬台国へのルートである。
魏志倭人伝において、ます到着するのは末盧国である。500里をはるばる歩き、伊都国(博多湾一帯)に至る。
伊都国から奴国(飯塚市を中心とした遠賀川流域一帯)へ。さらに東に進み、周防灘に面する不弥国(行橋市から宇佐)に至る。飯塚市から行橋市に古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時、玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路だった。
そこから船で南へ沿岸を航行し、20日かけ大隅半島を抑えている投馬国へ着く。
大隅半島を南へ漕ぎ出し黒潮に乗る。黒潮は時速7Kmであり、何もせずとも1日に150Km進む。黒潮は自然と潮岬に接岸する。(現代において観測され証明されている)つまり10日で潮岬に流れ着く。
熊野に上陸し、陸行1ヶ月でヤマトに至る。
これが魏志倭人伝当時の邪馬台国へ至るルートである。 >>374
>畿内説以前に倭人伝には大和朝廷による九州平定が250年以降
であることが記されてるんだが、<
そんな事が倭人伝に記載されてないよ。
ちょっとおかしいんではないんかい?。
>畿内説学者は日本の古代史を直視する気が無いのか? 明治や戦前の皇国教かい?<
そりゃ当然だ。明治や戦前の皇国史観教と同じだ。 陶塤面白いねぇ。
宗像以東、出雲や丹後半島など日本海側に分布。
博多が含まれないのはどういうことなのかな?
弥生時代前期。銅鐸より時代は古く、水稲が広がっていく時期と被る。
長江河口辺りから、大陸で大きな戦乱がある度に渡来があったんだろうね。 >>429、>>432、>>433
妄想家ですなw
キチガイみたいだwww >>382
>卑弥呼は天皇の姉妹だから問題ない。
倭人伝にも弟(崇神天皇)が卑弥呼の政治を助けていると書かれている<
何だか、また、史料事実を無茶苦茶に曲解断定する大和説者が、
何人も?出て来たようなムードだなあ。 >>431
倭船だと主張していながら
女生口が船に乗ってるなら船の乗組員も持衰も婦人も皆近づいている
持衰以外の乗組員と女生口が小さな船で何かしていたとでも想像しているのか 畿内の王を迎え入れたのなら、銅鐸が九州上陸するだろw
畿内の王が九州を支配したのなら、鉄器も中国朱も畿内に献上されるだろw >>401
>魏志のヤマトの記述は、司馬仲達の「市役所の方から来ました」詐欺芝居そのものなのに
未だに距離だの方角だのをぐだぐだ垂れてるのは文字通りの池沼さん <
なんだか、また変な大和説者が現れたようだな。
まるで、分裂幻覚の妄想を読まされているような感じ。 >>413
循環論法のわかりやすい例えは
もしかして九州説は循環論法の意味がわかってないの? 畿内説はまず奈良湖を埋め立てなくちゃ
倭人伝には書かれていないみたいだけど >>402
大和説は、国民の過半数に否定されている偽説。 後漢書記載の会稽郡の海外には東鯷人の二十餘國がある
倭國之極南界の倭奴国とは別の国々
女王に属さない倭人伝の狗奴國(=拘奴國)も女王國の東に改めている
つまり前史倭人伝の行程記事の方位道里を否定している アンケート投票の九州説を選択している数のなかには
偽書販売を目的としたサギグループの数が含まれてしまっている >>405
「南→東」などのような嘘つきダマシの・・・・大和説者らの常識なら、
魏使らの「安全最短の原則」という人類の常識を破ってまでして、
移動途中に通過した島の大きさが書かれてたとしても、
それを足したりはしないぞ。 北部九州邪馬台国に敗れた狗奴国残党が南九州を追い出されて東へ落ち延びたんだろ スター・ウォーズは日本の話だよ
と言っている人々がいるみたいなんだけど
本当なのかな、少し調べてみて
日本の話ではないとしても、
日本文化の影響を受けているのかな? 倭国大乱で負けて逃げ出した筑紫天孫族が神武らだよ。
大乱前の男王70〜80年が天孫ニニギらの日向三代だよ。 最短なら島の中を北から南まで半周歩いたりしないw
島の中心地には船着場がある >>409
魏使らの記録や陳寿や魏略は、司馬懿の意向など関係なく、記録し引用しているだけなのに、
クルった大和説者は、魏使らの記録や陳寿や魏略を嘘つきダマシをしたかのように捏造して、
大和説にとっては都合の悪い記録抹殺曲解してしまおう、とするらしい。 正史とはそういうもの
嘘つきダマシというわけではない >>414
大和説は、「都合の悪い史料事実や史料実態」を、
何でも強引に否定抹殺しようとし過ぎなんだよ 。
それが返って、何か必死に言い訳してるように見える。
何だよ、
行程記載の「對海國と一大國の国内見聞移動をした記録」を、
総距離に算定しないで抹殺する、 なんて、
強引で悪質なこじつけのし過ぎだよ。 女王国までの行程の説明があった後に
「自郡至女王國 萬二千餘里」とある
ところが行程距離を合計すると10700里しかない
12000里の説明に10700里分の説明しかない
しかし、よく読むと對馬國が方可四百餘里、一大國が方可三百里とある
これを行程距離に加えれば12100里となる
12000里のところには奴国があるので
奴国が目的地の女王国の中心地だと分かる
循環論法とかには全くなってない。 >>417
>魏志はその後継王朝晋の司馬仲達の孫が書かせた公式史書<
いや、陳寿は、晋朝とは直接関係がなく、勝手に三国志を書き上げ、
その評価が晋帝まで伝わって、家来に写本を求めさせたもの。 本物だと言張る、これが押売り偽書訪問販売の手口だな >>455
倭国に行くに対馬内を500里陸行するとか
魏志倭人伝に書いてたらそりゃ足してもいいよ
けど島の大きさが方(一辺)400里と書いてるだけだから
移動距離に足しようがないだろ常識的には >>457
10700里に對馬國、一大國の島の大きさ
方可四百餘里、方可三百里を足せば
12100里になるというのが
やはり結論先にありきの循環論法的手法 何々というのも日本の話なんですよ
という書き込みがあったり
もしかして『でっどえんど』?
が言っているのかな
すべて、かすめとられる、かすめとられた
と言っている曲でしょ
それとも。よくある陰謀説?
工作員のような人々がいて、
様々な情報を他の国に渡していたり、売ったりでもしているのかな >>462
12000里の説明が10700里しかないなんて有り得ないだろ
陳寿は頭が狂っていたとでも言うのか? >>419
>そうだね。 島の半周を足すのはやり過ぎだね。 はじめから港のところを目指すからね。
でも、伊都国が倭国の都という結論は変わらないけどね。<
いや、魏使らは安全最短の原則であり、
危険な渡海は出来るだけ最小限であり、
最近接港に上陸して陸行し、次の国への最近接港から渡海して行った。
それは、3渡海でも、
「最近接外縁部からの出発説明+途中説明+最近接外縁部での到着説明」の、
順次式に書かれている事からも判る。 >>461
1000里×3は海峡の幅
島の横を通過する距離が方可四百餘里、方可三百里
と考えれば何の問題もない。 >>464
水行20日陸行1月の部分が1400里に相当すると考えれば
別におかしkはないが?
まあそもそも畿内説は行程論を重視はしないから
別に適当だったんだろうで終わりだけど >>466
狂人はには正常な人が狂ってるように見えるらしいな。 >>429
>ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。<
この男も、「南→東」の嘘つきダマシの大和説者であるようだから、
×ね。 >>467
えーとそうなると合計700里?
とすると10700里に700里足して
不彌国まででまだ11400里だ >>436
とうけんはそのあと竹笛になったから
出土しなくなるらしいよ。 >>469
なら陳寿が狂って見える九州説は頭が狂ってるんだな >>468
>水行20日陸行1月の部分が1400里に相当すると考えれば
日(時間)と里(距離)は別の概念だから一つの説明文に混じることはないよ。 >>472
12000里にするために2辺分歩いたと言張っておられる >>472
方可四百餘里、方可三百里だから
400里×2+300里×2=1400里
10700里+1400里=12100里です
不彌国まででまだ12100里となります。 >>472
方可四百餘里、方可三百里だから
400里×2+300里×2=1400里
10700里+1400里=12100里です
不彌国までで12100里となります。 >>475
不彌国の次に水行で投馬国に着く事になってるから
それは魏志倭人伝の記述と違うな >>476
歩いてはいないな
船で島の横を通過したんだ。 >>480
行程の説明は不彌国で終わってるから
水行で投馬国に行くのはまた帯方郡からのスタートですね。 >>478
>>479
その一辺を×2した距離を移動するというのは
何か魏志倭人伝的な根拠でもあるんですかいの >>430
>宮崎、大淀川流域、生目古墳群。 円形周溝墓、前方後円墳、三世紀後半〜。
魏志倭人伝と近い時代に、宮崎にかなりの労働力(人口集積)があったことが分かる。
畿内、ヤマトの旗を同じくする勢力。 女王国メンバーの投馬国だね。<
ちょっと違う。
宮崎は、元は東テイ人系20国の一つであったが、
ウガヤフキアエズ以来の「(伊都国の)天孫族の阿毎氏系」の国になり、
だから、伊都国や、伊都国の阿毎氏系の大和とも、文化的に近縁であった。 >>482
再スタートと言うなら
それまで出てこなかった投馬国が突然出てくる事になるんだけど? 島の横を通過して原の辻の船着場のようなところまでで1000里 >>483
女王国までの行程の説明があった後に
「自郡至女王國 萬二千餘里」とある
行程距離の合計が12000里ないと話が繋がらない。 >>485
投馬國は狗邪韓國を含む朝鮮半島南岸の地域のこと
女王国の北側が投馬國え南側(北部九州)が邪馬壹國
女王の都は邪馬壹國の方に在った。 >>487
1万2千里が北九州を指しているとする方が
よっぽど話がつながらない 魏志倭人伝的というより方可なんだから1辺×2
渡海→島の大きさ→渡海→島の大きさ→渡海 >>489
狗邪韓國は弁韓に属する国だそうだけど
投馬国と弁韓は同じ国なの?
まるっきり違うようだけど 最初に行程を里(距離)で説明して次に行程を日(時間)で説明
最後に総距離が12000里だと書いてるの。 >>434
>熊野に上陸し、陸行1ヶ月でヤマトに至る。
これが魏志倭人伝当時の邪馬台国へ至るルートである。<
元々「南≠東」であるから大和は×であり、
「安全最短の原則」の魏使らは、そんな遠回りをしたり、
黒潮に乗るという「生死に関わる大冒険ルート」を選択する筈もなく、
熊野から紀伊山地横断のような難路を選択する筈もない。 >>493
狗邪韓國が弁韓に属する国邑は間違い
狗邪韓國は投馬国に属する国邑 >>492
方可なんだから1辺×2の意味が不明
少なくても島の中の道を
どこそこからどこそこまで何里移動したという記述がなければ
島の大きさを足す根拠にはならない
恣意的であり循環論法的 >>496
弁辰12カ国の中の内に
狗邪韓國(弁辰狗邪国)の記述が魏志韓伝にある
これを見る限り狗邪韓國は弁韓の中の国のようだ
また投馬国の中に狗邪韓國以外にどのような国が存在したのか
まさか投馬国の中に狗邪韓國だけというのは不自然極まりない >>484
ニニギに繋がるのは神武。
伊都国を支配下に置き、神武の系統が伊都国の血統と神話を奪っただけだろ。 >>494
そうだとすると色々不自然すぎるから違うよ >>497
船で渡海してきて、島を通過して、船で渡海していく。
島に上陸したのだから、船は島を迂回するわけだ。
正方形を書いてごらん。
例えば左上の頂点に到着して、右下の頂点へ抜けるなら、
左上→右上、右上→右下、と抜けるから、1辺×2で2辺。
上の辺の中央に到着して、下の辺の中央から去っていくなら、
時計回り(もしくは反時計回り)で、
上の辺の中央→右上(左上) 1/2辺
右上(左上)→右下(左下) 1辺
右下(左下)→下の辺の中央 1/2辺
で、合計2辺。
陳寿倭人伝の計算はこれ。 >>502
島に上陸したのだから、船は島を迂回するわけだ
↑
これの意味が不明
上陸した魏史は歩き?それで船が迂回?
迂回した船の距離をなぜ足さなくてはいけないのか? >>499
>投馬国の中に狗邪韓國以外にどのような国が存在したのか
倭人伝に三十国と交流があると書いてあるが、
壱岐対馬、九州部分の国だけでは全然足りない。
残りの二十数カ国が投馬国所属だろう。
おそらく任那の前身であり、
後漢末期からの東アジア動乱期に
公孫氏が帯方郡を我が物にしたのと同様、
倭国は投馬国を占領した。
占領したばかりで国名が魏使に全て入手できなかったり、
あるいは国名を入手できたが、半島領土まで倭人領として記録に残して認めるかどうか
判断を保留したかった、
などの理由で記載されたなかったんだろう。 >>503
島に上陸していない
→ 島の形状には沿わず、沖合を通過しただけの可能性あり=1辺のみ
島に上陸している(島についての記載があるから)
→ 島に近接して接触しているので、島の形状に沿って移動した=2辺を通過 記紀神話は結局、王位にあるものはイザナギの血を引いているていう話。大国主、アマテラス、天孫降臨etc。
記紀でもう一つ重要なのは、イザナギから渡来人の要素を取り除くこと。
渡来人の要素だけ集めたのが、スクナヒコナやニギハヤヒ。
イザナギ、国生み、宮があるとされる淡路島。
倭人にまつわるもの。
古代に於いては、倭人の血を引いているということがかなり重要視されたんだろう。
そういう事実を記紀編纂時には、隠したかったが全く無視するわけにはいかなかったんだろうね。 中国江南から広がった下戸遺伝子。
中国南部の文化である銅鐸。
島生み神話は、中国南部に多い神話のモチーフ。
日本に於ける下戸遺伝子分布の中心は、大阪湾と伊勢湾。
淡路島から紀元前4世紀の銅鐸が出土。
国生み神話で最初に生まれる淡路島。
イザナギの宮があったとされる淡路島。
唐古鍵遺跡の弥生時代中期の木棺墓から出土した頭蓋骨は大陸系の特徴が強かった。
呉の末裔を名乗る倭人とは、中国南部から渡来した人々、下戸遺伝子をもたらした人々と考えるのが妥当。
中国南部から銅鐸文化をもたらした人々(倭人)が渡来したのは、紀元前4〜5世紀。春秋時代末期。
弥生時代中期には、ヤマトで拠点集落を作れるぐらいに勢力を拡大していた。
倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃、吉備中心。
倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、大阪湾を中心とした畿内が中心だろうね。 >>504
占領したばかりで国名が魏使に全て入手できなかった割には
馬韓、弁韓、辰韓内の50ヶ国ほどの国名が書いてある
そして魏志倭人伝が成立したのは魏が韓地を占拠した
50年ほど後なので情報が不明だったというのは
実情にそぐわない
そもそも狗邪韓國は弁韓の中の国と
魏志韓伝にあるので
結局弁韓=投馬国とでもしない限り辻褄が合わない 八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の話であるのを当たり前のように理解していた。 ウォーズ・・・・調べてみると
某が発見、考案したものを誰々が盗んで・・・▢賞を受賞
という陰謀のような話も出てくる >>505
話が変わってきたな
魏使が島内の陸地を歩いて移動するから
島内の距離を加えるという事だったのでは?
それに船で通り過ぎるなら日数表記の陸行1月…の部分は
九州説でどう辻褄合わせをすると言うのか
そもそも対馬は南北に大きく
計算上2辺を移動したとしても400×2にはならない 半島南部に広大な倭地があったら倭人在帶方東南大海之中とは書かない
岡上家の願望でしかない 魏志倭人伝にも書いてある。
倭国大乱まで80年倭国は男王の時代であったと。
当時の体制が倭国大乱で、卑弥呼を共立した国々に取って代わられたんだろう。
卑弥呼と不和だった卑弥弓呼、狗奴国。
倭国の旧体制の中心的な国だったんだろうね。 むかーしの何々の設計図?などの話もあったような、
城なのか建造物なのか、その他の技術的なものなのか
そういったものを発見、
考案した人々の家から盗み・・・ 記紀にも書いてある。
ヤマトの地が外部勢力に制圧され、ヤマトの地に新たに政権ができると。
纒向の考古学的所見とも矛盾しない。
◎纒向は、2世紀末に突然現れ、4世紀に突然消失した大集落。また発掘に携わった考古学者は、外部勢力の侵入を考えざる得ないとも言っている。 倭国大乱の前は倭国は分かれてそれぞれの国に王がいたんだよ しかし少し不思議なんだけど
なぜザラコクは投馬国=弁韓と強弁しないんだろうか
当時の朝鮮半島に馬韓、弁韓、辰韓以外に
狗邪韓國擁する投馬国があったとするよりは不自然じゃないのに >>515
古墳作り作業員の宿舎があっただけだからな
そりゃ最低限の農具と土器と簡素な家と簡素な祭祀場しか必要ないわな 巻向には古墳作り作業員の宿舎があっただけだからな
そりゃ最低限の農具と土器と簡素な祭祀場しか必要ないわな
各地の土器が出てくるのも全国各地から作業員を集めたから全国の土器が出てくるってだけだしな
遺跡なんて案外そんなもんよ これを調べてみて、本当の話なのかな
『【書評】盗まれたノーベル賞。日本人の発明を横取りしてきた』 >>517
面白いのは邪馬台国連合で、「王」と名乗れるのが卑弥呼だけという
つまり各国の王から王号を除去できたわけだ
これは結構大変なことだぞ 簡単にできることではない
よく邪馬台国は寄り合い所帯だという人もいるが、中央集権的な所も考えるべきだ >>522
中国が勝手に卑弥呼を女王と呼んでるだけの可能性もあるから微妙 >>517
男の王がいたとは書いてあるけど
各国に王がいたとは書いてない。
倭国大乱は、王の後継者争いやクーデターの可能性もあるし。 >>518
弁韓は三国志東夷伝韓条に記載されているので韓人の国。
基本的に北部九州説は月→日という非常に書き間違えやすい文字の一点のみで、
あとは文献を忠実に解読している。 >>515
奈良湖の南東の丘陵地ですな。
唐古鍵が奈良湖の東岸。 卑弥呼は王になってからは見る人が少ないと書いてあるから
宮の周りには民は住んでいない >>525
解読しようとし過ぎて
逆に不自然なつじつま合わせだらけなんだよ 魏は卑弥呼に親魏倭王の称号を与えているからな。
卑弥呼の方からも使者を送っているしね。
卑弥呼が王の地位にいたのは、間違いないだろうね。 >>524
倭国全体を統治している王がいたら
倭國之極南界の倭奴国が勝手に朝賀しない >>508
>そもそも狗邪韓國は弁韓の中の国と
>魏志韓伝にあるので
その様記述はありませんよ。 権力は兵の動員力。
巨大古墳のあるところは(非農業)の集積地。
3世紀のヤマト盆地は、かなりの権力があったのは明白。 纒向は、卑弥呼がいた大集落。
邪馬台国はヤマト国、大和盆地一帯だな。
狗奴国から奪った地であり、対狗奴国の一時的な前線基地。
元々はそれだけの意味しかない。
民を教化し、王に忠誠を誓うようにするのが卑弥呼の役割。
纒向は、巨大な兵の駐屯地であり、民が住む大集落であり、教化システムでもある。
古墳時代にこの兵を使い全国平定を進めるんだな。(四道将軍)纒向が4世紀に突然消失し、武器が殆どでないのも説明がつく。もぬけの殻。 >>535
漢委奴国王だった奴国王は、邪馬台国に服属し、王号を除去されて「官」にされた
本来なら「奴公」にしてあげるべきだと思うが
(漢の最後の皇帝が魏帝曹丕から山陽公に任じられた事例から)
やっぱり当時の倭国は大陸の官制に精通していなかったのだろう >>533
狗邪韓國=弁辰狗邪国
弁辰十二国の中の国の1つとして魏書東夷伝韓条にある
弁辰狗邪国=加羅=狗邪韓國は通説ね >>511
魏使が島内の陸地を歩いて移動するはずなかろ
魏使は島の横を通過しただけ
対馬に上陸したら400里×2にはならないですね
対馬はもっと広いですね
方可四百餘里は対馬の横を通過した距離ですね。 >>540
三国志東夷伝韓条:韓人の領土についての記録
弁韓>弁辰狗邪国
三国志東夷伝倭人条:倭人の領土についての記録
投馬国>狗邪韓國 >>534
いや、必ずしもそうは言えない
例えば源頼朝が挙兵した時、
頼朝より何倍も私兵を持つ在地豪族たちが次々と頭を下げて味方した
上総介平広常がよい例だ
つまり当時は家柄の権威が大なんだよ
だから天皇には何らかの権威(宗教的権威か?)があり、
それで軍事力を持つ豪族たちも次々と戦わずに頭を下げに集まったのではないか 島に上陸していない
→ 島の形状には沿わず、沖合を通過しただけの可能性あり=1辺のみ
島に上陸している(島についての記載があるから)
→ 島に近接して接触しているので、島の形状に沿って移動した=2辺を通過
船で渡海してきて、島を通過して、船で渡海していく。
島に上陸したのだから、船は島を迂回するわけだ。
正方形を書いてごらん。
例えば左上の頂点に到着して、右下の頂点へ抜けるなら、
左上→右上、右上→右下、と抜けるから、1辺×2で2辺。
上の辺の中央に到着して、下の辺の中央から去っていくなら、
時計回り(もしくは反時計回り)で、
上の辺の中央→右上(左上) 1/2辺
右上(左上)→右下(左下) 1辺
右下(左下)→下の辺の中央 1/2辺
で、合計2辺。
陳寿倭人伝の計算はこれ。 >纒向が4世紀に突然消失し、武器が殆どでないのも説明がつく。
>もぬけの殻。
>もぬけの殻。
>もぬけの殻。
>もぬけの殻。 狗邪韓國=弁辰狗邪国なんて証拠は何もありません
名前が似てるから同じだろう程度のこと。
倭の5王も「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」であり
任那(投馬国)は加羅・秦韓・慕韓とは別に存在していた。 >>546
漢代は国では皆王を称し、代々受け継いでいた
大乱後、漢末に卑弥呼が共立されて
魏代には各国に王はなく官がいる >>541
何だかどんどん話が変わってくな
横を通過したとするなら行程にプラス400里程度となり
九州北部で万二千里の辻褄が合わなくなるが >>551
>横を通過したとするなら行程にプラス400里程度となり
島の北側に着いたとして
南側に回れば400里×2=800里ですよ。 >>543
卑弥呼の共立についてかな?
卑弥呼の出自が分からないと何とも言えない。
卑弥呼と卑弥弓呼の関係もまだ謎だし。
政治の場を思わせる1世紀後半〜2世紀の伊勢遺跡。
巫女が兵団に同行する埴輪。
纒向の状況、魏志倭人伝の記述。
政治を行う男王(卑弥弓呼)、祭祀で民や兵を纏める巫女的存在(卑弥呼)。
元々倭国の体制に役割分担があった可能性も考えられるかな。
敵の敵は味方で、対狗奴国(旧倭国体制)で30ヶ国が纏まり、卑弥呼を共立した可能性もある。 >>542
狗邪韓國は金官国とも呼ばれ
韓国の中の国である事がはっきりしてるんだけど >>556
これも確たる証拠はない
狗邪韓國が金官国だろう程度のこと。 >>554
方(一辺)400里だから島の南北に移動したとするなら
400里だろ >>557
投馬国が韓国にあって
その中に狗邪韓國があったという事こそまるで証拠がない 投馬国が朝鮮半島にあるとかバカかな。朝鮮半島にミミとかの官があるのか?
投馬国は神武の本貫、九州南東部。 >>559
任那がどこかの時点で成立する必要があるんだけど >>545
これが妥当ですね
わかりやすい説明ありがとうございます 壱岐は海岸線長が167.5 kmだから
実際に半周歩いたら距離は80km近くなるかな 奈良湖は何里になるんだろう?
水行一日だろうけど。 >>561
4世紀頃じゃないの
魏志倭人伝に記述はないし
そもそも任那と狗邪韓國(加羅)は後の史書で一まとめにされるらしいけど
厳密に言うと少々場所が違うそうだ
しかし狗邪韓國=投馬国、
または狗邪韓國の中に投馬国が存在するというのは
裏付けが全くないね >>555
伊勢遺跡や巻向に楽浪土器が大量に出土する北部九州との関連が説明できる物は何かあるのかい?
まずは、中国からみた倭国はどの範囲だったか?の問題なんだが、ここを説明する必要がある 横からスイマセン
島を迂回したとかしないとかで盛りあがっているようですが
迂回した場合としない場合といかほどの里数の差が出るのですか?
その差から計算することによって、纏向に到着したり、しなかったりするのですか? 魏志倭人伝には「迂回した距離も含めて」なんて一言も書いてないのにwww 渡海 方可 渡海 方可 渡海
わざわざ分類して記載されている
そして渡海千里に対して、島の一辺が三百里や四百余里なのだから、
島の大きさは渡海部分に対して無視できない大きさ。 >>570
書かないよ。
100里単位でしか距離は書いてないから
そもそも正確に距離を測ってたとは思えない。 狗邪韓国〜末盧國
倭人伝では「渡」です
千餘里は海峡の幅でも問題ないですね 大陸から見た倭の範囲は
その時代に認識出来ている日本列島全てだろうねえ >>568
到着しない
畿内説が破たんしたから
九州説(北部)にいちゃもんをつけてるだけ
九州説のスレでやればいい事
しばし、静観でいいと思うよ >>577さん
ありがとうございました 静観という事ですね、
では失礼します >>574
「正確に」測ったなんて誰も言っていない。
おおよそに決まっている。
でもそれは里程を否定する根拠にはならない。
東京駅から新大阪駅までの所要時間を分単位で特定できなかったからと言って、およその数字が間違っていることにはならない。 >>568
伊都に着くか奴国に着くか筑後に着くかの違いかな?
畿内や論外。 >>517
>倭国大乱の前は倭国は分かれてそれぞれの国に王がいたんだよ
男王60〜70年だから、王家は一つだけ。 伊都に着くか筑後に着くかの違いは
5万戸の投馬国が半島か九州かの違いだろ
まあ筑後でも水行二十日陸行一月は誤情報にしなければならないが
伊都説=倭人は非日本人説と筑後説=倭人は肥人系の違いだな まあ島の大きさを足して距離を考えるなんて一般読者が受け入れるわけないから
言い張れば言い張るほど九州説がジリ貧になっていくだけだね >>581
それが没落して新たに卑弥呼が王になったわけだ 九州説は、あらゆる分野のマイナー説や泡沫説を寄せ集めて出来ている感があるな。 倭人の伝だから、伊都説は単なる行程の解釈じゃなくて
糸島を王都とした国は、日本の九州中南部や本州とは異なる民族で
半島南部と同じ民族という説
というか連呼 >>583
万2千里は、1寸千里法による距離
万2千里は、帯方郡と女王国との直線距離
途中の里程は考慮しない そして糸島説を連呼している人は糸島の地理をよく知らない >>587
そんな変な法を使ったら「会稽東冶の東」と矛盾するからダメ 島の迂回について
>>568キウス ◆PyuQX798ps
>島を迂回したとかしないとかで盛りあがっているようですが
迂回した場合としない場合といかほどの里数の差が出るのですか?
その差から計算することによって、纏向に到着したり、しなかったりするのですか?
☝
変化球で賞 >>558
方(一辺)が400里だから島の裏に回るには
南北と東西に移動する必要があるから
400里+400里で800里になる。 >>566
4世紀頃にそんな記録はない
3世紀時点で既に存在していたと考えるべき
魏志倭人伝の投馬国が任那のこと
後世に突然任那が出現するのは不自然。 >>589
奈良だって糸島に劣らない田舎じゃないか。 >>592
>>595
スレ違い 九州説のスレでやれ
ここは、畿内説のスレだ
以下でやれバカモン
>邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part8 [無断転載禁止]©5ch.net< >>596
奈良県全体で糸島市一つ市の二倍しか遺跡がないんだから
糸島市の凄さが分かるな。 【 警告 ★ 】
1里=約75m
の根拠が消失したので、謹んでお知らせ致します >>583
一般の人に邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)を説明したら
間違いなく畿内説よりも受け入れられるよ。 >>442
>循環論法のわかりやすい例えは もしかして九州説は循環論法の意味がわかってないの?<
循環論法は、
「結論先にありき」で論じ、論の結果も「だからその同じ結論で正しい」とした場合に、
循環して起きるのであり、
結論には関係なく、
自然や歴史における観察実験計測事実からの帰納的な確率的推論をした場合には、
(循環せずに)一方通行をしただけであるから、循環論法にならない。
だから、大和説者は、思想宗教的な皇国史観の大和説先にありきで論じ、
だから大和説で正しい、とするから、循環論法。 ↓悔しがりながら相手の悪口しか書けない畿内説↓
((、´゛))
||||||| ファッッッビョーーーーーン!!!!!!!!!
____
/ ´A型`\
/ (;\);lll(;/)\
/ ⌒(__人__)⌒ \
\ ノ( |r┬- | u / ________ ファファファ…ファファファ…ファッビョ…ファッビョ…ファッファファ…ファッファファ…
\⌒ |r l | / .| | | ファッビョファッビョ…ファッビョファビョ…ファッファファファ…ファッビョーーーーン!!
ノ u `ー' \ | | |
/´ .| | |
| l プルプル u | | |
ヽ u -一ー_~、⌒)^),-、 | |____LG__|
ヽ ____,ノγ⌒ヽ)ニニ-___| | |_
え?今日もただ荒すだけなの? >>445
>後漢書記載の会稽郡の海外には東鯷人の二十餘國がある <
漢書にも書かれて、
後漢最末期に、後漢に朝貢して「序に就いた」という記録があったから。
しかし、三国志には記載されていないから、消失したらしい、と言う事になる。
>倭國之極南界の倭奴国とは別の国々
女王に属さない倭人伝の狗奴國(=拘奴國)も女王國の東に改めている<
後漢書は、5世紀の知見も含めての「前史の誇大表現的な書き換えでの内容説明」文が多いから、
「半分×」と見て置くべし。
>つまり前史倭人伝の行程記事の方位道里を否定している<
大きくは否定していない。
「拘奴國」も、「狗奴國」と同じであったのか?も決められない。 >>446
それなら、
アンケート投票で大和説を選択している3割の中には、
皇国史観の右翼の・・・・組織からの、「大量動員での投票」を目的とした、
サギグループの数が含まれてしまっている可能性がある。 >>603
やるせない敗北感が嵩じて
AA嵐にまで身を落とす九州説
惨め 島を半周する帳尻合わせをすると
対馬南端〜壱岐北端 約50km
壱岐南端〜唐津城 約40km
になるな ウヨサヨで言うんなら
京大系の畿内説はサヨク側で
戦前東大閥の官学史学だった九州説がウヨだな
w >>454
>正史とはそういうもの 嘘つきダマシというわけではない <
魏使らや陳寿は、別に「正史」を意識したものではない。
彼らは、記録を残し、それに拠っての歴史を記録するが目的。 >>583
万2千里は、1寸千里法による距離
万2千里は、帯方郡と女王国との直線距離
途中の里程は考慮しない >>460
>陳寿は晋朝からお給金頂いているんだよ <
陳寿は、三国志を書いた時には、晋朝から離れて逼塞していた筈だよ。 印通寺港〜呼子港間は約26qしかないから
マツロ国呼子説はダメダメだな 島巡り水増し距離説を採用したので
短里説は崩壊しました >>618
エブリデイ・キウス、オールナイト&デイ >>461
>倭国に行くに対馬内を500里陸行するとか
魏志倭人伝に書いてたらそりゃ足してもいいよ
けど島の大きさが方(一辺)400里と書いてるだけだから
移動距離に足しようがないだろ常識的には<
魏使らの記録も、陳寿の記載も、
有効数字1桁の概数であり、「余」を付けたりもしている概数であり、
だから始めから概数であり、
だから、「最大で二辺長」位だろう、と言っておいたんだよ。 >>615
洋上は誤差が大きいのはしょうがない
印通寺港〜呼子港間は対馬海流を横切るから
実際よりも遠く感じても可笑しくは無い。 >>615
大陸からの玄関口 末羅國は福津市( 万津浦)宗像方面
だから世界文化遺産に選ばれたのも当然と言えば当然。
もし古代より、呼子やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、
宗像地方に替わって呼子周辺が世界文化遺産になっている。
魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも呼子に上陸していない。推して知るべし。 @阿波 >>613
直線距離を測る測量術を魏使は持っていたのだろうか? >>612
お脳に血液があまり循環してない九州説じいさんは
循環することに憧れがあるんでないの >>619
以前は方可○○里を島の面積とか言ってた人がいたが
流石に実測値と違い過ぎていなくなったな。 >>622
印通寺港からは加唐島が見えるし、島からな呼子が見えるんだよ
どうして間違うの? >>624
12000里もの離れた地点の直線距離を測る術は魏使にはないな。 >>462
>10700里に對馬國、一大國の島の大きさ 方可四百餘里、方可三百里を足せば
12100里になるというのが やはり結論先にありきの循環論法的手法 <
「10700里」や「方可四百餘里、方可三百里」には、
「萬二千余里」という結論文言が存在しないから、循環論法ではなく、
史料事実からの帰納的な推論。 >>622
実際かかる時間が他の2海峡よりずっと短いので
同じだと思うのは異常だ >>627
見えても距離を測る方法を知らないなら測れない。 >>630
この人って間違いなく
帰納という言葉の意味を知らないだろ >>466
狂ってるのは文部省や大和説学者や、
彼らに騙されて、唯我独尊的国粋主義の狂暴な頭になった3割の国民だよ。 >>636
とにかくスゴくてエライ
という意味だと思ってる
に3000ザラ >>638
その発言を見て他人がなんと思うと・・・ >陳寿は、三国志を書いた時には、晋朝から離れて逼塞していた筈だよ。
荀勗は陳寿の記した『魏志』に対して不満を抱いていたため
吏部に諷して中央から遠ざけ郡太守に左遷させた
陳寿は継母の病気で赴任しなかったが、
その経緯を知った杜預が陳寿のことを司馬炎に推薦したので、
中央の官職にとどまることが出来た 「証拠は太陽だ。太陽が見ていたのだ。」
みたいな感じ >>645
測ってなかったら倭人伝に記載できないやんか >>646
夏至・冬至の陰を測るので、長期滞在が必要 >>628
>>>624
>12000里もの離れた地点の直線距離を測る術は魏使にはないな。
だから、途中の里程を合計して一万二千里と書いたはずなんだ。 >>647
遠く離れた場所の直線距離は測れなかったが
尺取り虫のように各国邑間の距離を測り合計した
12000里は各国邑間の距離を測り合計したもの。 葛城スレが面白い方向になった。
瀬戸内から畿内に入って王権を立てたのは饒速日ということでまとまりそう。
ここのスレ主が主張していた流れに近いけど、その主役は饒速日と物部氏だった。 >>649
伊能忠敬じゃあるまいし
そんな天文観測器具なんて魏使は持ってないよ。 >>647
どうして、測ってないと倭人伝に記載できないの? 1行レスで埋めてテンプレの頻度を上げる作戦なのだろうか? >>656
それ以外に方法があるかい?
君もザラコクみたいに測量したと主張するつもりか? >>650
12000里と明言してるから12000里の途中の行程距離は一応全部把握していたんだよな
それを10700里分しか倭人伝に記載しないなんて有り得ないな。 >>468
>水行20日陸行1月の部分が1400里に相当すると考えれば
別におかしkはないが? <
大和説者は、始めから「南→東」などの嘘つきダマシの・・・・だから、
「おかしkはない」と思うだけであり、
普通の人は、7000里と海峡の3000里との比較で、
「水行20日陸行1月」と「1400里」とは同じでない、と考えるから、
「おかしい」と思うんだよ。
>まあそもそも畿内説は行程論を重視はしないから
別に適当だったんだろうで終わりだけど <
このように、「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者は、
都合の悪い記載は、
「重視しない」とか「適当だったんだろう」というような、
「匂わせ否定」という誤魔化し宣伝で、
否定抹殺しようとする・・・・サギシ。 >>670
12000里が仮に作り数字だとしても
辻褄が合うように12000里に合わせた内訳を作るよ。 >>669
引き算すれば差分がわかるんだから
全部書く必要ないんじゃないの? >>669
万2千里は、1寸千里法による距離
万2千里は、帯方郡と女王国との直線距離
途中の里程は考慮しない >>459
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説の・・・・狂人には、
正常な人が狂ってるように見えるらしいな。 >>471
>対馬なんか船下りて賜り物抱えて歩くやつはおらん <
「土地山險、多深林、道路如禽鹿徑」だったんだから、歩いた。 >>473
>とうけんはそのあと竹笛になったから 出土しなくなるらしいよ。<
成程。 >>474
なら「陳寿が狂って見える」という大和説者らの方の、
頭が狂ってるんだな。 >>672
いや、そういう場合は簿妙にぼやかした数字を使うね
倭人伝がそうだ >>674
1寸千里法なんて使ってないことは確定済みだよ
テンプレで論破されてる >>460
>不彌国の次に水行で投馬国に着く事になってるから
それは魏志倭人伝の記述と違うな<
投馬國への記載は、途中移動の動詞の記載がないから、
魏使らは通っておらず、主線行程れはなく、
側副傍線行程の記載。 >>678
畿内説の人間は「陳寿が狂って見える」とか言ってないから >>680
>テンプレで論破されてる
1個人の妄想テンプレなど、参考にすらならん ザラコクは一寸千里法を理解していないから
論破されたことも理解できないし反論もできない いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 まあアレだよね
「帰納」にしても「一寸千里」にしても
ザラコクはキメ台詞として使ってるだけで
内容をぜんぜん理解してないのは丸バレだからな
どうせこれもオウム返しするだろうけど どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったなどと、考えているのかな、、、 >>687
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。これが2世紀後半。記紀でいう神武東征の話。 神武は吉備軍に同伴しただけ。
結果卑弥呼側の勝利で終わり、大和の地は卑弥呼の支配下になる。この時に吉備の勢力が大和入りしたんだね。
吉備の兵は他の国々の兵と共に纒向に駐屯。
これが纒向で伊勢尾張、吉備、丹波近江、大分の土器が出土する理由。
在来系の土器も勿論多数出土している。
纒向の南の芝遺跡は纒向と入れ替わるように弥生時代後期に消退するし、芝遺跡からも人々が纒向の営みに動員されたんだろうね。 >>481
>歩いてはいないな 船で島の横を通過したんだ。<
それでは、
「土地山險、多深林、道路如禽鹿徑」や、
「無良田」や「多竹木叢林」や「差有田地」なんて事が書けないよ。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 >>483
>その一辺を×2した距離を移動するというのは
何か魏志倭人伝的な根拠でもあるんですかいの <
「依山島爲國邑」ですから、どうしても中央部では山越えになるので、
海岸沿いの平坦地を多く通る事になるから。 >>485
>再スタートと言うなら
それまで出てこなかった投馬国が突然出てくる事になるんだけど?<
再スタートではない。
不彌國からの側副傍線行程。 >>693
上陸して国邑で宿泊したんだから
島の首長にも会ってインタビューもしたろうし
島内観光くらいしてるさ 不弥国まで10700里
不弥国から邪馬台国まで約60日
邪馬台国まで12000余里
魏志倭人伝の著者である陳寿は、実際に邪馬台国のある場所を知らなかった。
そのため舎(1日30里)という当時、歴史書などでも使用されていた数式を利用して計算した。
30×60=1800
10700+1800=12500(12000余里)
※当時、歴史書などでも使用されていた数式で12000余里を導き出せるのでこれで間違いなさそう >>486
>島の横を通過して原の辻の船着場のようなところまでで1000里<
国内見聞記録が出来ないし、
中央部は山越えになるから、海岸沿いの出来るだけ平坦な道を移動した。 >>691
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 >>490
>1万2千里が北九州を指しているとする方が
よっぽど話がつながらない <
1万2千里が大和を指しているとするのは、
半島や海峡の里数との比も全く合わず、
「南≠東」もあって、
よっぽど話がつながらない >>702
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 >>705
魏にとって「九州の位置がわからない」というのはありえないから
邪馬台国が北九州にあったとしたらもっと正確に書かれているはずだよ。
※実際に不弥国(北九州)まではけっこう正確に書かれている。要するに邪馬台国は北九州にはなかった。 >>709
2013年のあの大規模調査よりも、数年後のあれのせいでしょ。
勿論、2013年のあの調査が畿内説破綻の発端となったことには変わりないけど、、、
やっぱりとどめになったのはあれだね。。。 >>494
>最初に行程を里(距離)で説明して次に行程を日(時間)で説明
最後に総距離が12000里だと書いてるの<
魏使らや陳寿は、
一部を里を計測して書いて、一部を日数で書く、というような変てこな事はしないし、
「水行二十日」は投馬國への、(魏使らが通る主線行程ではなく)傍線行程の日数説明であり、
「水行十日陸行一月」は、その前の「女王之所都」という文言の説明であるから、
「從郡至倭〜女王之所都}の日数説明。 松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として5倍誇張説を仮定する。一里あたり87mである。
5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所
帯方郡の場所
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b2/Ancient_Korea_Taihougun.png
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。
帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州―釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津―小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城―佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀―大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川―玉名 47q
水行10日、陸行1月の邪馬台国
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名―緑川 26q
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川―人吉 86q
侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域―屋久島 315km
裸国、K歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km
おまけ
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2
wikipediaより、
韓国 面積 100,210km^2 陳寿が「里」と「日数」の両方使用した理由
それは魏の使節団は伊都国までしか来てないからだよ。
なので不弥国以降は、実際には行ってないので日数で書かれている。
※魏志倭人伝にも最終目的地に到着したという意味の「到」は伊都国に対してのみ使用されている。 >>497
>方可なんだから1辺×2の意味が不明 <
「山島」の海岸沿いの出来るだけ平坦路を通った、という推定であり、
「1辺×2」は、最大の場合の近似。
>少なくても島の中の道を どこそこからどこそこまで何里移動したという記述がなければ
島の大きさを足す根拠にはならない <
「山島」である事や、国内見聞移動記録がある事や、
「方四百余里」や「方三百里」の記録からの推定。
>恣意的であり循環論法的<
いや、史料事実からの推定であるから、循環論法にならず、
この・・・・男の否定の仕方が、大和説という「結論先にありき」であり、循環論法。 >>715
君の場合、まず日本語を勉強したほうが良さそうだな
日本語が下手すぎる >>710
でも、結構な数の研究者の目に留まっちゃったんだよね。。。 >>717
それはザラコクには難しい
それでも彼はキウスより日本語が上手い >>689
あの、鍵型の墓のせいじゃないかな。。。
魏志倭人伝に書かれているものとは形が違うけどね。。。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 >>507
>倭国とは倭人の国であるから、
倭国の版図も、大阪湾を中心とした畿内が中心だろうね<
「南≠東」であるから、×。 >>515
>記紀にも書いてある。 ヤマトの地が外部勢力に制圧され、ヤマトの地に新たに政権ができると。
纒向の考古学的所見とも矛盾しない。<
どうやら、「南→東」のウソ付きダマシの大和説の ようであるから、
×。 >>704
でも、インタ−ネット工作が、観光客の対応に、猫の手も借りたい筈の、黄金週間もやまなかったね。 >>718
そういえば、この畿内スレpart1が立てられたのもその頃だったね。。。 >>527
>卑弥呼は王になってからは見る人が少ないと書いてあるから
宮の周りには民は住んでいない<
でも、「以婢千人自侍 が出来ない。 >>534
>権力は兵の動員力。 巨大古墳のあるところは(非農業)の集積地。
3世紀のヤマト盆地は、かなりの権力があったのは明白。<
でも「南≠東」だから卑弥呼ではないし、
「大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」であったんだし、
弥生銀座にも全く負けている。 >>537
>纒向は、卑弥呼がいた大集落。 邪馬台国はヤマト国、大和盆地一帯だな。<
「南≠東」だから、×。 ザラコクは焼芋屋のラウドスピーカから流れるテープ音声より騒音公害 八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
元は大阪城の位置にあったとされる生国魂神社と関係あるのかな。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 >>721
2013年以前から、桜井市のは、卑弥呼の古墳ではなく、天皇の妹の古墳だと認定されているのにね、、、
しかも、天皇家直近の国家機関からなのに。。。 >>727
ここで騙しの宣伝しているのは、
奈良の観光関係の組合員や、公務員じゃないのかもね。
ひょっとすると、専門の下請け業者なのかな、、 >>541
>魏使が島内の陸地を歩いて移動するはずなかろ 魏使は島の横を通過しただけ<
国内見聞や移動があった事が書かれている。
>対馬に上陸したら400里×2にはならないですね 対馬はもっと広いですね
方可四百餘里は対馬の横を通過した距離ですね<
對海國は、浅茅湾を中心として南北両側の南対馬寄りの地域であったようで、
魏使らもその地域としての大きさを書いたようだ。 >>711
しっ。だめだよ、それだけは。。。
発狂者が増えてしまうもの。 >>696
信仰すること自体に喜びを見出した、畿内説が破綻していることを認めたくない、頑固な老人信者たちにも、畿内説以外の信仰対象がたくさんあることを、教えてあげられるっていうメリットもありそう。 >>555
>巫女が兵団に同行する埴輪。 纒向の状況、魏志倭人伝の記述。<
どうやら、「南→東」の嘘つきダマシをするつもりらしいから、
×。 >>628
すると、倭人伝の行程が大事だな
畿内説は無理 >>583
まあ、
島の大きさを足して距離を考えない、なんての魏志の記載の無視は、
一般読者が受け入れるわけないから 、
言い張れば言い張るほど、大和説がジリ貧になっていくだけだね。 >>728
確かに、、、、
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている >>707
>魏にとって「九州の位置がわからない」というのはありえないから
>邪馬台国が北九州にあったとしたらもっと正確に書かれているはずだよ。
伊都国について、最も多くの文字数を割いているから、まさにその通りなんだが。 魏の使節団は伊都国までしか来てない。
なので不弥国以降は、実際には行ってないので日数で書かれている。
※魏志倭人伝にも最終目的地に到着したという意味の「到」は伊都国に対してのみ使用されている。
つまり、伊都国が女王国。 間違えた。
魏の使節団は伊都国までしか来てない。
魏志倭人伝にも最終目的地に到着したという意味の「到」は伊都国に対してのみ使用されている。
つまり、伊都国が女王国。 >>749
丹山が無くて、その地産の丹を使っていないところは邪馬台国論争の資格無し。 @阿波 >>749
前段と結論がつながってないぞ
魏の使者が伊都国までしか行ってなかったとして、どうしてそこが女王国ということになるんだよアホ はあ?
引きこもり女王の卑弥呼に面会して印綬を渡しているのに、伊都国までしか来てないんだぞ。
卑弥呼が伊都国かその付近にいたに決まっているだろ。 >>753
丹山が無くて、その地産の丹を使っていないところは邪馬台国論争の資格無し。 @阿波 三年目だぜ、、、残念なだけ、、、懺悔はもういらねえ!
裂 固 恐 ろ し い >>739
そうだね。。。。
ただでさえ閑散とした桜井市周辺に、ブツブツつぶやく発狂者が徘徊するさまはおぞましすぎるね。。。
二度と訪れる予定はないけど、、、 >>737
そんな、組織だった工作ではないと思うよ。
書いている内容が、狂人のように錯乱しているからね、、、、 >>740
なるほど、畿内説信者さんたちに、次の信仰の対象を選んでもらうわけね。
でも、選ばれた説の論者には、負け組や、疫病神に取りつかれたようで、かえって不気味、、、 丹は舶来品が上等品
下司な列島産使うと死者を冒涜したことになる
舶来品が入手できない時には列島産で我慢せにゃならんが
舶来のと列島産のとを使い分けている発掘例があるそうだ
卑弥呼に関しては父親のひとにちょっといってやれば
阿波だろうが丹波だろうがシマの一部だからすぐに調達してくれるよ テンプレートを論破され続けている、小汚い老人が、岡上という謎の人物に、八つ当たりしているようだね。。。。
岡上という人はどんな人なのだろうか、、、、 >>764
必死に言い訳しても
自給できてない事実は
ごまかせない >>735
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 >>765
ほお
いつ誰が、なんと言って論破したのかな? 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 >>765
その人なら、このスレッドに投稿する人の中でも、相当頭の良い人だよ。。。
八つ当たりだけではなく、恐らく頭の良さに嫉妬しているのもあるのだろうね。。。。 何やらの本物、本物の家の人は学校などには行っていない
という話
有名な話なのかな
とある忍者アニメの曲でも
勉強よりも〜このような事を言っていたり、
学校に行く必要がない、もともと頭が良いという話なのかな いまやってない猿の惑星?
人間の博士?が積み木のようなものを持ってきて、
〇 △ ▢? この人物の話のような気がするんだけど
『聖化 日神 日霊 津』 >>776
まいど荒らしてるのは、あんた
自覚症状無いのか
いいから論じろよ 岡上は漢文も読めない、英語力も低いことが判明してるからな >>735
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったなどと、考えているのかな、、、 テンプレートを論破され続けている、小汚い老人が、岡上という謎の人物に、八つ当たりしているようだね。。。。
岡上という人はどんな人なのだろうか、、、、 >>781
でも、インタ−ネット工作が、観光客の対応に、猫の手も借りたい筈の、黄金週間もやまなかったね。 >>791
論破され続けて、八つ当たりに荒らしばかりしている
小汚い老人が、岡上という人物 >>791
その人なら、このスレッドに投稿する人の中でも、相当頭の良い人だよ。。。
八つ当たりだけではなく、恐らく頭の良さに嫉妬しているのもあるのだろうね。。。。 >>787
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 >>773
信仰すること自体に喜びを見出した、畿内説が破綻していることを認めたくない、頑固な老人信者たちにも、畿内説以外の信仰対象がたくさんあることを、教えてあげられるっていうメリットもありそう。 >>584
>それが没落して新たに卑弥呼が王になったわけだ<
いや、「没落」ではなく、100国が30国に統合され、
それらの30国は、共立國として残存している事になる。 >>585
>九州説は、あらゆる分野のマイナー説や泡沫説を寄せ集めて出来ている感があるな<
九州説は、筑紫かその周辺説で、ほぼ纏まって来ているが、
大和説は、始めから殆ど全員が、
「南→東」などの嘘つきダマシの学者らの・・・・説に隷従盲従する事しか脳のない、
アホ説のままであったようだな。 >>588
そして大和説を連呼している人種は、
祇園山の「殉葬奴婢百余人」の存在や、平原の「21枚の尚方作鏡」の存在を、
よく知っていて、
大和説にとっては致命的であるから、
「知らない振り」して隠して逃げている。
をよく知らない >>589
>糸島は評価に値しない田舎<
纏向は、弥生銀座や糸島に比べて、評価に値しない田舎。 >>590
「計其道里當在會稽東治之東」→「計其道里當在會稽東冶之東」
などの嘘つきダマシのサギをしてはダメ。 >>805
古田説はそういう史料事実の否定抹殺をするインチキをするから困るな >>596
>奈良県の弥生遺跡数は 糸島市の二倍である。<
何だ?、奈良県全体でも糸島市の二倍しかないのか?。
そしたら、弥生銀座や筑紫平野などを入れたら、
奈良は全くの「田舎」だったんだわ。 >>600
>【 警告 ★ 】 1里=約75m の根拠が消失したので、謹んでお知らせ致します <
【 警告 ★ 】 魏志における1里=約434m の根拠が、殆ど消失したので、
謹んでお知らせ致します >>759
到は目的地を指す
狗邪韓國と伊都國が魏使の目的地であり
その他は通過地点
狗邪韓國は投馬國の中心地で伊都國は邪馬壹國の首都。 >>809
なんで狗邪韓國が魏使の目的地なんだ
作り話もたいがいにしろ
怒 >>606
「南≠東」や、
祇園山の「殉葬奴婢100余人」や、
平原の「21枚の尚方作鏡」や、
「何回国民投票をしても全て九州説が過半数」などに、
やるせない敗北感が嵩じて、
口先ダマシのヘイトスピーチにまで身を落とす大和説者、
惨め。 >>810
九州説は、また理由もなしに言い張ってたのか
ゴミすぎる >>811
朝鮮海峡を渡るには一旦、狗邪韓國に寄って渡航に適した潮流を待つ必要があるからだ。 >>607
右翼の天皇支配国家国粋主義の右翼や、キョクウの・・・・なら、
アホを除いて、ほぼ全員が大和説だから 。 >>789
あの、鍵型の墓のせいじゃないかな。。。
魏志倭人伝に書かれているものとは形が違うけどね。。。 >>793
ここで騙しの宣伝しているのは、
奈良の観光関係の組合員や、公務員じゃないのかもね。
ひょっとすると、専門の下請け業者なのかな、、 >>796
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 >>609
>ウヨサヨで言うんなら 京大系の畿内説はサヨク側で
戦前東大閥の官学史学だった九州説がウヨだな w<
東大も京大も、教授クラスは皆大和説であり、右翼だろうなあ。 >>823
2013年以前から、桜井市のは、卑弥呼の古墳ではなく、天皇の妹の古墳だと認定されているのにね、、、
しかも、天皇家直近の国家機関からなのに。。。 >>610
>短里説の崩壊さらに進む<
「南≠東」や、
祇園山の「殉葬奴婢100余人」や、
平原の「21枚の尚方作鏡」や、
「何回国民投票をしても全て九州説が過半数」や、
「持衰」の記録などで、
大和説の崩壊さらに進む。 畿内説がほとんど絶滅危惧種なのに、その自覚がないんだね。
それはそれで幸せかもしれないな。 >>619
島巡り距離説を採用したので、
邪馬壹國は不彌國の南にくっついている事になり、
大和説は崩壊しました。 >>830
そんなのを根拠と言い張るしかない
九州説の崩壊ぶりがますますあらわに >>624
>直線距離を測る測量術を魏使は持っていたのだろうか?<
目視出来る近距離であれば、三角測量で測定できる。
目視出来ない位の遠距離では、大体の方向を知っていれば、
一寸千里に拠って南北間距離を求めて、それからの方向の作図をすれば、三角測量の応用になって測定出来る。 >>835
3世紀の中国で三角測量知られていたの? >>835
それなら魏志倭人伝に書かれてる里を
現在のメートル法に直した時に
それなりに正確であるはずだけど
場所によって3倍以上の開きがあるのは何故?
三角測量の技術がもしあったとしても
まるで役に立ってないようですなぁ >>821
言葉はどうでもいい
要は狗邪韓國と伊都國を魏使が目指して
その他は通過しただけ。 >>640
>測ったって証拠は?<
夷人が知らない「里」での記録があるから。 しょうもないてきとうな比定やらかしてからに
そいつをベースにして
場所によっては3倍以上の開きがある
もないだろ 恥 >>648
>夏至・冬至の陰を測るので、長期滞在が必要 <
必要ない。
周髀算経には、年を24季に分けての、8尺棒の正午の影長の表が出来ているので、
大体いつでも計測して、概算出来る。 >>840
実際そうなんだけれど
一例
一支(壱岐)〜末盧(松浦)千里
30〜55km
1里30〜55m
伊都国(三雲)〜奴国(博多)百里
18〜20km
1里180〜200m
九州説顔面水銀朱 >九州説は、筑紫かその周辺説で、ほぼ纏まって来ているが
九州説は各県地元説
福岡市は行政も学者も奴国に比定しているので
関西の反社会的偽書専門サギ組織の末端構成員加古川は
福岡市民を詐欺師と罵倒している >>680
>1寸千里法なんて使ってないことは確定済みだよ テンプレで論破されてる<
スレ主の「南→東」などの嘘つきダマシの・・・・性は、もう十分に判ったから、
テンプレなんて、もう読まないよ。
読んで欲しけりゃ、ここに書き出しな。 >>824
そんな、組織だった工作ではないと思うよ。
書いている内容が、狂人のように錯乱しているからね、、、、 >>798
なるほど、畿内説信者さんたちに、次の信仰の対象を選んでもらうわけね。
でも、選ばれた説の論者には、負け組や、疫病神に取りつかれたようで、かえって不気味、、、 伊都国(三雲) / 奴国(博多)
しょうもないてきとうな比定の代表例だね
道里というのは海上では航路の延長を里を単位であらわしたもの >>692
>卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、
吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。
これが2世紀後半。記紀でいう神武東征の話。 神武は吉備軍に同伴しただけ。
結果卑弥呼側の勝利で終わり、大和の地は卑弥呼の支配下になる。
この時に吉備の勢力が大和入りしたんだね。<
「南≠東」だから×であり、
この投稿子も、分裂幻覚の妄想患者ね。 >>700
>不弥国まで10700里 不弥国から邪馬台国まで約60日 <
約60日では、5万戸の投馬國が途中にある事になり、入らなくなるよ。
>邪馬台国まで12000余里
魏志倭人伝の著者である陳寿は、実際に邪馬台国のある場所を知らなかった。
そのため舎(1日30里)という当時、歴史書などでも使用されていた数式を利用して計算した。
30×60=1800 <
陳寿は、三国志に、1日「車駕300里」や歩行「1日200里」を記載しているから、
これも×。
>10700+1800=12500(12000余里)
※当時、歴史書などでも使用されていた数式で12000余里を導き出せるので
これで間違いなさそう <
結局×。 >>707
>魏にとって「九州の位置がわからない」というのはありえないから<
「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑」と、判っていた。
>邪馬台国が北九州にあったとしたらもっと正確に書かれているはずだよ。<
行程は、正確に書いてある。
それに、「邪馬台国」なんて存在しないし、
それは、大和説者が大和に持って行くためにでっちあげた捏造文言だよ。
>※実際に不弥国(北九州)まではけっこう正確に書かれている。
要するに邪馬台国は北九州にはなかった。<
不彌國で萬二千余里がほぼ消化されているから、邪馬壹國は不彌國の南で、筑紫にある。 弥生銀座と呼ばれている春日市の須玖タカウタ遺跡で
銅剣装飾鋳型、国内初の出土
https://mainichi.jp/articles/20170726/k00/00m/040/158000c
タカウタ遺跡ではこれまでにも遼寧地方起源の多鈕粗文鏡の鋳型が出土している
卜骨は1つも出ていないので、倭人ではなくて
燕からの戦乱を避けてきた朝鮮系の人達の移住地だろうね 春日・須玖岡本遺跡群
出土の青銅器土製鋳型を分析 銅戈鋳造の再現実験に成功 朝鮮半島の工人が指導?
遠藤さんは「鋳造工学の理論的理解は相当高いと思う。朝鮮半島から工人が来て指導し、
最初から高いレベルで青銅器生産が始まったのではないか。
難しい実験だったが、少なくとも当時、青銅器製造ができたことは確認できた」と話した。
https://mainichi.jp/articles/20170324/ddl/k40/040/380000c >>813
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説は、
また理由もなしに「都合の悪い史料事実や史料実態の否定曲解」言い張ってたのか?。
ゴミすぎる 。 >>838
九州説ではまた説明がつかなくなって遁走か
論破されました平伏って素直に言えよ >>816
>国民投票とか ねつ造やりすぎ九州説<
投票で全敗した大和説者のヒガミね。 倭人の風習である卜骨がたくさん出るのが本州
朝鮮系遺物がたくさん出るのが筑紫朝鮮銀座で、一大率が檢察している諸國 >>859
あいたたた
この老人は本気で
なんと
国民投票で九州説が勝利した
とか
思ってるのか
明らかにボケ老人 >>833
>そんなのを根拠と言い張るしかない 九州説の崩壊ぶりがますますあらわに <
大和説者は、
「南≠東」や、
祇園山の「殉葬奴婢100余人」や、
平原の「21枚の尚方作鏡」や、
「何回国民投票をしても全て九州説が過半数」や、
「持衰」の記録などへの、
史料事実や史料実態での反論を、全く出せない。
大和説の崩壊ぶりが、ますますあらわに。 本州って、そんな大雑把な書き方があるかよ。
日本海沿岸と瀬戸内海沿岸は筑紫倭国の交易圏だからな。 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。 >>836
>3世紀の中国で三角測量知られていたの? <
Yahooでは、大和説者側からも、何度も提示していたよ。
だから、東大か京大の大和説の先生にでも聞いてごらん?。 弥生時代の青銅器の分布です。
https://goo.gl/m2KfqU
対馬・北部九州や瀬戸内に「武力」が展開されてます。
大乱を経験して戦時体制を取り続けた筑紫を中心とする倭国の領域がわかります。
魏の使いが滞在した外交の舞台である伊都を含む北部九州と、瀬戸内や関西は別の領域であり、奈良盆地は邪馬台国とは関係ない地方であることがわかります。 筑紫朝鮮銀座では出ない卜骨は本州の関東まで広範囲に出る >>754
丹山が無くて、その地産の丹を使っていないところは邪馬台国論争の資格無し。 @阿波
ザラコク ↑ これ、しれっとスルーしたの? @阿波 壱岐に住んでいたのは古代より倭人だけ
壱岐に韓人や楽浪人なんていない。 原の辻は中継地だから倭人も韓人も楽浪人も住むよ
土器が証明している >>837
>それなら魏志倭人伝に書かれてる里を 現在のメートル法に直した時に
それなりに正確であるはずだけど <
有効数字1桁の概数として、ほぼ皆正確だよ。
>場所によって3倍以上の開きがあるのは何故?<
例えば「千里」であれば「0.5千里〜1.5千里」の間だから、3倍「以内」であり、
3倍「以上」は、なかった筈だよ。
おそらくこの男は、計測地を都合がよいように選択した。
>三角測量の技術がもしあったとしても まるで役に立ってないようですなぁ<
有効数字1桁の概数で、十分だったんだろう。 島を半周する帳尻合わせをすると
対馬南端〜壱岐北端 約50km
壱岐南端〜唐津城 約40km
10m誤差で12,000里は120kmの誤差
20mで240kmの誤差
30mで360kmの誤差 魏志倭人伝に書いてある。
九州北部の国々は女王国(親魏倭王卑弥呼が治める国、倭国)ではないと。
女王国の属国や属領であると。
事実だから仕方ない。
明治まで北海道や沖縄が日本でなかったのと同じこと。 >>754
丹山が無くて、その地産の丹を使っていないところは邪馬台国論争の資格無し。 @阿波
ザラコク ↑ これ、しれっとスルーしたの? @阿波 邪馬台国=ヤマトの地も女王国に征服されたんだよ。
統一に向かう過程で仕方がないこと。 一女子が共立されて女王国になったので
女王国はどこも征服していません >>842
>実際そうなんだけれど 一例
一支(壱岐)〜末盧(松浦)千里 30〜55km 1里30〜55m <
これは、末盧國の比定地の問題だな。
唐津は、その名の通りに「韓国や中国へ行く時の港町」なんだから、
唐津であれば55〜60kmであった筈であり、
千里(≒76.5km)の有効数字1桁の38.25kmと114.75kmの範囲に入っている。
>伊都国(三雲)〜奴国(博多)百里 18〜20km 1里180〜200m<
これも比定地のインチキだな。
伊都国は糸島水道付近で、その出発地は周船寺付近。
(奴國は魏使らは通っていなくて)、
不彌國の入り口は、東の小戸や西新町付近で、その距離は7km位で、百里でほぼ丁度。
奴國は、糸島水道付近から東南の日向峠付近で7km位で百里。
>九州説顔面水銀朱<
この男も、顔面真っ青。 至ナントカ国とあれば
前の国の中心地から次の国の中心地
までの距離だとしながら
しれっと島だけでは
特別に
島の端っこまでの距離だとする
統一性のなさ
というか恣意性
これが九州説の非学問性だね 奴國は、糸島水道付近から東南の日向峠付近で2万戸w
旧前原市の面積は104.50km²
韓国の約1000分の1、九州の425分の1 >>885
まあ行程について具体的なことをなにも言えない
畿内説がなんか言ってるな。 >>884
これこそ短里ありきで
自説に合うように恣意的に比定地を決めてる
典型例だな >>888
つまり、行程をいくら捏ねくり回しても邪馬台国がどこだかは判らない、という畿内説の結論どおりなのだな。 学>>845
>福岡市は行政も学者も奴国に比定しているので <
「南→東」などの嘘つきダマシの国家権力側学者や、それにべったりの行政など、
そんなものの比定は、根拠には全くならないよ。
奴國は、
伊都國から「東南百里(7.65km位)では、奴國の入り口は日向峠付近にしかならず、
不彌國の南に邪馬壹國の入り口が殆どくっついているんだから、
奴國は室見川中流域付近の早良区位までしか広く出来ないんだよ。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 対馬の西北端に着いて東南端から出発したと言えば800里、対馬の東北端に着いて東南端から出発したと言えば400里。
自由に調節できて便利な説だな。
好きなところを邪馬台国にできるわ。 >>891
それこそ先に結論ありきの循環論法じゃないか どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったなどと、考えているのかな、、、 >>891
その一里はどうやって出した?
w
w
w 日向峠とか舗装してなかったらマタギくらいしか使えない
糸島平野から早良平野に行くには長垂山の一番低いところ
今宿五郎江遺跡の東の県道561号ラインを使う >>844
でも、結構な数の研究者の目に留まっちゃったんだよね。。。 >>892
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 島巡りトンデモを採用したから1里が何メートルか根拠が無くなっちったよ。
さあ、九州説さん困ったね。
どうする? 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 テンプレートを論破され続けている、小汚い老人が、岡上という謎の人物に、八つ当たりしているようだね。。。。
岡上という人はどんな人なのだろうか、、、、 >>871
>丹山が無くて、その地産の丹を使っていないところは邪馬台国論争の資格無し。 @阿波
ザラコク ↑ これ、しれっとスルーしたの? @阿波 <
松浦川上流に水銀丹山があるから「其山有丹」だし、
鯨面文身が「以朱丹塗其身體、如中國用粉也」のようだし、
明帝からは「鉛丹五十斤」を貰ったし、
卑弥呼は「丹木」を魏に贈っている。
また、「南→東」などの史料事実の否定をする・・・・阿波の話など、
何の価値も関心もないから、放置している。 >>903
ウソつくな
現在も新しく出る本、講演会、どれも学者は畿内説一辺倒だ 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 >>875
>卑弥呼は倭人の女王、女王国は卜骨が出る本州にある<
「南≠東」だから×。
一大國にト骨があるから、魏使らは見た事になる。 >>906
当時に水銀朱を採掘してたのは西日本では近畿と四国だけ
九州は、絶望 >>912
で?
倭国の都には無いの?
なら、倭国全体の風習のようには書かないよ
九州説は倭人伝を無視するな >>905
その人なら、このスレッドに投稿する人の中でも、相当頭の良い人だよ。。。
八つ当たりだけではなく、恐らく頭の良さに嫉妬しているのもあるのだろうね。。。。 >>878
>島を半周する帳尻合わせをすると 対馬南端〜壱岐北端 約50km<
對海國は、おそらく浅茅湾の南北の「方四百余里」の地であり、
出発港は、おそらく巌原。
>壱岐南端〜唐津城 約40km <
一大國出発地は、おそらく郷ノ浦。
>10m誤差で12,000里は120kmの誤差 20mで240kmの誤差 30mで360kmの誤差<
全部が「全て同じ誤差」で ある筈がない。 >>906
>松浦川上流に水銀丹山があるから「其山有丹」だし、
松浦川上流の水銀丹山で採れた丹はどこに使われているの?
その地産の丹を使っていないところは邪馬台国論争の資格無し。 @阿波 >>879
>魏志倭人伝に書いてある。 九州北部の国々は女王国(親魏倭王卑弥呼が治める国、倭国)ではないと。
女王国の属国や属領であると。明治まで北海道や沖縄が日本でなかったのと同じこと。<
大和説者らしいが、
「南≠東」でも×だし、
「南至邪馬壹國、女王之所都」でも×。 >>919
はい、こんどは渡海の距離で九州説が死にました >>881
>邪馬台国=ヤマトの地も女王国に征服されたんだよ。
統一に向かう過程で仕方がないこと。<
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた分家の旧小国で、倭國の附庸国。 >>921
南とひとこと言うだけで畿内説が崩壊すると妄想してる夢見爺 高木の方に向かって奴國の中心域見つけようとしたって無駄
高木のなかのひとが三雲主導で福岡圏を二萬戸の奴國連邦に仕立てた
那珂は奴のグループの別れの意味
須玖はスサノヲ・オオ穴モチの世代に繁栄期を迎えた出店のの奴國 郷ノ浦を出発港にして渡海距離を伸ばしても唐津城まで1000里で約44km
壱岐は縦横最長のところで17.5km×14.5kmくらい
最長で方300里の半周は1里約53.3m
島の西側の郷ノ浦を出発港にすると島内の1里は短くなる ばかだなあ
道里の説明の要があるから
わざわざ里を単位とする数値を掲載している
足さないほうがあたまおかしいといわざるをえない >>929
数字があったらとにかく足しちゃおうって
食べ物見たら落ちてるものでも食っちゃう
浮浪者みたいだね >>915
倭国の都は、他より一足先に鏡などの神道の時代に突入してしまったんだよ。
現実に平原遺跡に三種の神器と鳥居があったわけだからね。 倭人伝を歪め、考古学を歪め
九州説はどんどん隘路に入って行く
そこは袋小路 三種の神器も鳥居も仮説のひとつ
確定事項でもなんでもない 五尺刀の上町向原が伊都國王墓
玉作工房の準構造船の部材の出ている潤地頭給あたりが伊都國中心域
伊都國王の住まうところや臨津搜露するところは防衛上有利な向こう岸のほう
ここから東南100里で奴國中心地の三雲地区 イタリアから地中海を航海してギリシャに行きます
途中キプロス島を経由します
行程はイタリアからキプロス島まで約50km
キプロス島からギリシャまで約100kmです
途中立ち寄るキプロス島は40平方kmの面積を持つ島です
こうある場合に島の大きさをわざわざ足さないだろ?
島の大きさ書いてるからって
それを行程に足すのは明らかにおかしいよ 三雲は潤地頭給遺跡のほぼ南
三雲が奴國中心地ならせいぜい2千戸に修正したほうがいい >>776
まいど荒らしてるのは、あんた
自覚症状無いのか
いいから論じろよ >>940
この人です。
この人が自覚症状のないKTです。
いつもコピペで荒らしてます。 陸行1月の解明も出来なくて纒向を言い張る畿内説
テンプレに追加したが、馬鹿にされ九州説に八つ当たり
いかなる反論しても、いつもこのパターン、畿内説の終焉だな >>935
出土品も、都合が悪いと無視する。
それが畿内説のご都合主義。 >>942
潤地頭給遺跡は志登支石墓のすぐ近くだぞ
対馬ー壱岐よりもっと南の方角 天皇家は、どうも、神道と仏教を神仏習合したみたいに、神道と仏教とキリスト教の習合を目指しているみたいだ。
それが文系への課題ってことになるな。
おれは、ヤハウェは天候神の系譜だと考えていて、だから、風神雷神が全知全能のヤハウェに相当すると考えているが。
ちなみに、自然の光ってのがキリスト教の神を表すっぽいが、
これは仏教でも光は尊いものだし、もっと古くへ光への信仰はさかのぼれる。
知恵の神:エル(メソポタミア神話)、アフラマズダ(ゾロアスター教)、日本でいうと何になるかわからない。
ダークソウルの「薪の王」 に相当するギリシャ神話ではプロメテウス。
光の神:アフラマズダ(ゾロアスター教)の有翼光輪。キリスト教では天使。
善:ラテン語では幸せと同じ単語。 プラトン哲学は「最後は善のイデアに至る」。
幸せ:ラテン語で善と同じ単語。
快楽:プラトンの「ヒレポス」に、宇宙の支配者は快楽主義より知性主義であるべきとある。
日本での知恵の神がわからないが、学問の神菅原道真と文武両道のスサノオらしい。
闇は、相対性理論にとらわれず光速より速い。 自分が認定すれば、全て正しい
それがご都合主義の九州説 >>942
誰か地図を書いて説明して。
それで奴国二万戸は収まるの? おれの考えているのは、
・神社の本体は、杜であり、つまり、やしろではなく森である
・神道は、有史以前の卑弥呼(日巫女)までさかのぼるアフリカ起源のアミニズムである。
・鳥居は飛鳥時代から始まった。鳥居は朱色で、中華思想で南を示す赤徳であるとともに太陽を示す。
・比売比古(ひめひこ)関係については詳しく調べたい。
・和魂(にぎたま)、荒魂(あらたま)、幸魂(さちたま)、奇魂(くしたま)については深く考察したい。
・まつろわぬ民、荒振神は、日本神道で悪魔を表す。まつろわぬ民は反体制を示す。悪魔は仏教用語。
・出雲系が夜の神で、天孫系が昼の神。
・三種の神器(みくさのたから)について詳しく考察したい。
・結婚(むすび)と遊女の関係。古代ギリシャでは、巫女が神託を受け、遊女をやっていた。アフリカ起源か?
・神道が保守で好戦的、九条改正だってのは、要は荒魂なんだよ。
・和魂の「和を以て尊しと為す」であれば、非暴力でリベラルになるんだよ。
・商売の神稲荷神社系と、武士の神八幡系の神社が渡来系だと確定したので、神社本庁は皇室系の神社を推している。
・出雲系の神社が確定しない。 奴国をどこに移動しようが、伊都国が倭国の都という事実は変わらない。 >>945
全然反論できなくて暴言吐いてただけだろ
そして、理由を聞かれたら逃げてたし
実に九州説はミットモナイ存在だわ >>956
トンデモに染まった脳は治癒しない
ということか 神社、神宮は本質的には王宮だよ。
昔は本殿に王が居たんだよ。
平民は竪穴式、王族は高床式に住んでいた。
それが王を象徴する鏡が置かれるだけになった。
鏡文化の成立は、紀元前まで遡る。
王宮と宗教施設が分離したのは、おそらく仏教伝来のため。 >>962
糞に糞認定されたってことは畿内説は普通だな >>968
糞以下ってことは>>962は糞だと認めるんだよな >>969
百済が亡んだとき遺民をごっそり受け容れたから当然なんだが >>969
先進技術者を好待遇でどんどん雇うのも都ならでは 安羅が滅んだときは、その軍隊だか戦闘集団だかを亡命うけいれて丸抱えで雇ってたな >>968
一回まわってキミらの食うごはんになります。 >>972
その前に任那滅亡時に朝鮮半島から倭人が引き揚げて来て
朝鮮系の人も着いて来たんだろう
その後に百済の遺民も来た。 大阪とか秀吉のときにもたくさん各地から人集まってるよ 伊都はもともと韓人が入植した土地らしい
王家も渡来系だね キウスは寝たんじゃないか?
1がスレ立てするころ荒らすために >>851
>陳寿は、三国志に、1日「車駕300里」や歩行「1日200里」を記載してる。
貴重な情報ありがとう。
陳寿が「車駕1日300里」「歩行1日200里」などの数式を好んで使う人だってことがはっきりしたわ。
これなら陳寿が「舎1日30里」を利用しても不思議ではないね。
「舎1日30里」は「車駕1日300里」「歩行1日200里」よりもメジャーな数式だからね。
あなたのおかげ自説の正しさが強化されたわw しかし九州説も、情けないなー
テンプレに噛み付いて、カラ回り自滅して、沈黙
というパターンがこのところ続いてる >>851
>約60日では、5万戸の投馬國が途中にある事になり、入らなくなるよ。
これに関しては意味がわからない。
約60日なら投馬國は、不弥国と邪馬台国の間に入るよ。 そもそも魏志倭人伝に約60日(水行30日+陸行1ヶ月)って書いてあるんだが 万ニ千余里に関してはテレボート氏の説が合ってそう。 お、そろそろ次スレだなw
推古紀については削除するのかな?www もう一度言おう
削除したら「敗けを認めて削除したw」と笑われる
削除しなければ「推古紀が根拠w」と笑われる
どう転んでも笑われるテンプレくんw >>851 >>983
>陳寿は、三国志に、1日「車駕300里」や歩行「1日200里」を記載してる。
検索したけど、ないね >>983
>陳寿が「舎1日30里」を利用しても不思議ではないね。
これも三国志になし >>991
なんで「推古紀が根拠w」と笑われるの? 理由もなくヘラヘラ笑ってる人は
足りない人に見えて笑われるね。 理由のない反論なんちゅーモノは無いからな
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