邪馬台国畿内説 Part286
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1507486523/
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 >>700
>不弥国まで10700里 不弥国から邪馬台国まで約60日 <
約60日では、5万戸の投馬國が途中にある事になり、入らなくなるよ。
>邪馬台国まで12000余里
魏志倭人伝の著者である陳寿は、実際に邪馬台国のある場所を知らなかった。
そのため舎(1日30里)という当時、歴史書などでも使用されていた数式を利用して計算した。
30×60=1800 <
陳寿は、三国志に、1日「車駕300里」や歩行「1日200里」を記載しているから、
これも×。
>10700+1800=12500(12000余里)
※当時、歴史書などでも使用されていた数式で12000余里を導き出せるので
これで間違いなさそう <
結局×。 >>707
>魏にとって「九州の位置がわからない」というのはありえないから<
「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑」と、判っていた。
>邪馬台国が北九州にあったとしたらもっと正確に書かれているはずだよ。<
行程は、正確に書いてある。
それに、「邪馬台国」なんて存在しないし、
それは、大和説者が大和に持って行くためにでっちあげた捏造文言だよ。
>※実際に不弥国(北九州)まではけっこう正確に書かれている。
要するに邪馬台国は北九州にはなかった。<
不彌國で萬二千余里がほぼ消化されているから、邪馬壹國は不彌國の南で、筑紫にある。 弥生銀座と呼ばれている春日市の須玖タカウタ遺跡で
銅剣装飾鋳型、国内初の出土
https://mainichi.jp/articles/20170726/k00/00m/040/158000c
タカウタ遺跡ではこれまでにも遼寧地方起源の多鈕粗文鏡の鋳型が出土している
卜骨は1つも出ていないので、倭人ではなくて
燕からの戦乱を避けてきた朝鮮系の人達の移住地だろうね 春日・須玖岡本遺跡群
出土の青銅器土製鋳型を分析 銅戈鋳造の再現実験に成功 朝鮮半島の工人が指導?
遠藤さんは「鋳造工学の理論的理解は相当高いと思う。朝鮮半島から工人が来て指導し、
最初から高いレベルで青銅器生産が始まったのではないか。
難しい実験だったが、少なくとも当時、青銅器製造ができたことは確認できた」と話した。
https://mainichi.jp/articles/20170324/ddl/k40/040/380000c >>813
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説は、
また理由もなしに「都合の悪い史料事実や史料実態の否定曲解」言い張ってたのか?。
ゴミすぎる 。 >>838
九州説ではまた説明がつかなくなって遁走か
論破されました平伏って素直に言えよ >>816
>国民投票とか ねつ造やりすぎ九州説<
投票で全敗した大和説者のヒガミね。 倭人の風習である卜骨がたくさん出るのが本州
朝鮮系遺物がたくさん出るのが筑紫朝鮮銀座で、一大率が檢察している諸國 >>859
あいたたた
この老人は本気で
なんと
国民投票で九州説が勝利した
とか
思ってるのか
明らかにボケ老人 >>833
>そんなのを根拠と言い張るしかない 九州説の崩壊ぶりがますますあらわに <
大和説者は、
「南≠東」や、
祇園山の「殉葬奴婢100余人」や、
平原の「21枚の尚方作鏡」や、
「何回国民投票をしても全て九州説が過半数」や、
「持衰」の記録などへの、
史料事実や史料実態での反論を、全く出せない。
大和説の崩壊ぶりが、ますますあらわに。 本州って、そんな大雑把な書き方があるかよ。
日本海沿岸と瀬戸内海沿岸は筑紫倭国の交易圏だからな。 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。 >>836
>3世紀の中国で三角測量知られていたの? <
Yahooでは、大和説者側からも、何度も提示していたよ。
だから、東大か京大の大和説の先生にでも聞いてごらん?。 弥生時代の青銅器の分布です。
https://goo.gl/m2KfqU
対馬・北部九州や瀬戸内に「武力」が展開されてます。
大乱を経験して戦時体制を取り続けた筑紫を中心とする倭国の領域がわかります。
魏の使いが滞在した外交の舞台である伊都を含む北部九州と、瀬戸内や関西は別の領域であり、奈良盆地は邪馬台国とは関係ない地方であることがわかります。 筑紫朝鮮銀座では出ない卜骨は本州の関東まで広範囲に出る >>754
丹山が無くて、その地産の丹を使っていないところは邪馬台国論争の資格無し。 @阿波
ザラコク ↑ これ、しれっとスルーしたの? @阿波 壱岐に住んでいたのは古代より倭人だけ
壱岐に韓人や楽浪人なんていない。 原の辻は中継地だから倭人も韓人も楽浪人も住むよ
土器が証明している >>837
>それなら魏志倭人伝に書かれてる里を 現在のメートル法に直した時に
それなりに正確であるはずだけど <
有効数字1桁の概数として、ほぼ皆正確だよ。
>場所によって3倍以上の開きがあるのは何故?<
例えば「千里」であれば「0.5千里〜1.5千里」の間だから、3倍「以内」であり、
3倍「以上」は、なかった筈だよ。
おそらくこの男は、計測地を都合がよいように選択した。
>三角測量の技術がもしあったとしても まるで役に立ってないようですなぁ<
有効数字1桁の概数で、十分だったんだろう。 島を半周する帳尻合わせをすると
対馬南端〜壱岐北端 約50km
壱岐南端〜唐津城 約40km
10m誤差で12,000里は120kmの誤差
20mで240kmの誤差
30mで360kmの誤差 魏志倭人伝に書いてある。
九州北部の国々は女王国(親魏倭王卑弥呼が治める国、倭国)ではないと。
女王国の属国や属領であると。
事実だから仕方ない。
明治まで北海道や沖縄が日本でなかったのと同じこと。 >>754
丹山が無くて、その地産の丹を使っていないところは邪馬台国論争の資格無し。 @阿波
ザラコク ↑ これ、しれっとスルーしたの? @阿波 邪馬台国=ヤマトの地も女王国に征服されたんだよ。
統一に向かう過程で仕方がないこと。 一女子が共立されて女王国になったので
女王国はどこも征服していません >>842
>実際そうなんだけれど 一例
一支(壱岐)〜末盧(松浦)千里 30〜55km 1里30〜55m <
これは、末盧國の比定地の問題だな。
唐津は、その名の通りに「韓国や中国へ行く時の港町」なんだから、
唐津であれば55〜60kmであった筈であり、
千里(≒76.5km)の有効数字1桁の38.25kmと114.75kmの範囲に入っている。
>伊都国(三雲)〜奴国(博多)百里 18〜20km 1里180〜200m<
これも比定地のインチキだな。
伊都国は糸島水道付近で、その出発地は周船寺付近。
(奴國は魏使らは通っていなくて)、
不彌國の入り口は、東の小戸や西新町付近で、その距離は7km位で、百里でほぼ丁度。
奴國は、糸島水道付近から東南の日向峠付近で7km位で百里。
>九州説顔面水銀朱<
この男も、顔面真っ青。 至ナントカ国とあれば
前の国の中心地から次の国の中心地
までの距離だとしながら
しれっと島だけでは
特別に
島の端っこまでの距離だとする
統一性のなさ
というか恣意性
これが九州説の非学問性だね 奴國は、糸島水道付近から東南の日向峠付近で2万戸w
旧前原市の面積は104.50km²
韓国の約1000分の1、九州の425分の1 >>885
まあ行程について具体的なことをなにも言えない
畿内説がなんか言ってるな。 >>884
これこそ短里ありきで
自説に合うように恣意的に比定地を決めてる
典型例だな >>888
つまり、行程をいくら捏ねくり回しても邪馬台国がどこだかは判らない、という畿内説の結論どおりなのだな。 学>>845
>福岡市は行政も学者も奴国に比定しているので <
「南→東」などの嘘つきダマシの国家権力側学者や、それにべったりの行政など、
そんなものの比定は、根拠には全くならないよ。
奴國は、
伊都國から「東南百里(7.65km位)では、奴國の入り口は日向峠付近にしかならず、
不彌國の南に邪馬壹國の入り口が殆どくっついているんだから、
奴國は室見川中流域付近の早良区位までしか広く出来ないんだよ。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 対馬の西北端に着いて東南端から出発したと言えば800里、対馬の東北端に着いて東南端から出発したと言えば400里。
自由に調節できて便利な説だな。
好きなところを邪馬台国にできるわ。 >>891
それこそ先に結論ありきの循環論法じゃないか どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったなどと、考えているのかな、、、 >>891
その一里はどうやって出した?
w
w
w 日向峠とか舗装してなかったらマタギくらいしか使えない
糸島平野から早良平野に行くには長垂山の一番低いところ
今宿五郎江遺跡の東の県道561号ラインを使う >>844
でも、結構な数の研究者の目に留まっちゃったんだよね。。。 >>892
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 島巡りトンデモを採用したから1里が何メートルか根拠が無くなっちったよ。
さあ、九州説さん困ったね。
どうする? 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 テンプレートを論破され続けている、小汚い老人が、岡上という謎の人物に、八つ当たりしているようだね。。。。
岡上という人はどんな人なのだろうか、、、、 >>871
>丹山が無くて、その地産の丹を使っていないところは邪馬台国論争の資格無し。 @阿波
ザラコク ↑ これ、しれっとスルーしたの? @阿波 <
松浦川上流に水銀丹山があるから「其山有丹」だし、
鯨面文身が「以朱丹塗其身體、如中國用粉也」のようだし、
明帝からは「鉛丹五十斤」を貰ったし、
卑弥呼は「丹木」を魏に贈っている。
また、「南→東」などの史料事実の否定をする・・・・阿波の話など、
何の価値も関心もないから、放置している。 >>903
ウソつくな
現在も新しく出る本、講演会、どれも学者は畿内説一辺倒だ 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 >>875
>卑弥呼は倭人の女王、女王国は卜骨が出る本州にある<
「南≠東」だから×。
一大國にト骨があるから、魏使らは見た事になる。 >>906
当時に水銀朱を採掘してたのは西日本では近畿と四国だけ
九州は、絶望 >>912
で?
倭国の都には無いの?
なら、倭国全体の風習のようには書かないよ
九州説は倭人伝を無視するな >>905
その人なら、このスレッドに投稿する人の中でも、相当頭の良い人だよ。。。
八つ当たりだけではなく、恐らく頭の良さに嫉妬しているのもあるのだろうね。。。。 >>878
>島を半周する帳尻合わせをすると 対馬南端〜壱岐北端 約50km<
對海國は、おそらく浅茅湾の南北の「方四百余里」の地であり、
出発港は、おそらく巌原。
>壱岐南端〜唐津城 約40km <
一大國出発地は、おそらく郷ノ浦。
>10m誤差で12,000里は120kmの誤差 20mで240kmの誤差 30mで360kmの誤差<
全部が「全て同じ誤差」で ある筈がない。 >>906
>松浦川上流に水銀丹山があるから「其山有丹」だし、
松浦川上流の水銀丹山で採れた丹はどこに使われているの?
その地産の丹を使っていないところは邪馬台国論争の資格無し。 @阿波 >>879
>魏志倭人伝に書いてある。 九州北部の国々は女王国(親魏倭王卑弥呼が治める国、倭国)ではないと。
女王国の属国や属領であると。明治まで北海道や沖縄が日本でなかったのと同じこと。<
大和説者らしいが、
「南≠東」でも×だし、
「南至邪馬壹國、女王之所都」でも×。 >>919
はい、こんどは渡海の距離で九州説が死にました >>881
>邪馬台国=ヤマトの地も女王国に征服されたんだよ。
統一に向かう過程で仕方がないこと。<
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた分家の旧小国で、倭國の附庸国。 >>921
南とひとこと言うだけで畿内説が崩壊すると妄想してる夢見爺 高木の方に向かって奴國の中心域見つけようとしたって無駄
高木のなかのひとが三雲主導で福岡圏を二萬戸の奴國連邦に仕立てた
那珂は奴のグループの別れの意味
須玖はスサノヲ・オオ穴モチの世代に繁栄期を迎えた出店のの奴國 郷ノ浦を出発港にして渡海距離を伸ばしても唐津城まで1000里で約44km
壱岐は縦横最長のところで17.5km×14.5kmくらい
最長で方300里の半周は1里約53.3m
島の西側の郷ノ浦を出発港にすると島内の1里は短くなる ばかだなあ
道里の説明の要があるから
わざわざ里を単位とする数値を掲載している
足さないほうがあたまおかしいといわざるをえない >>929
数字があったらとにかく足しちゃおうって
食べ物見たら落ちてるものでも食っちゃう
浮浪者みたいだね >>915
倭国の都は、他より一足先に鏡などの神道の時代に突入してしまったんだよ。
現実に平原遺跡に三種の神器と鳥居があったわけだからね。 倭人伝を歪め、考古学を歪め
九州説はどんどん隘路に入って行く
そこは袋小路 三種の神器も鳥居も仮説のひとつ
確定事項でもなんでもない 五尺刀の上町向原が伊都國王墓
玉作工房の準構造船の部材の出ている潤地頭給あたりが伊都國中心域
伊都國王の住まうところや臨津搜露するところは防衛上有利な向こう岸のほう
ここから東南100里で奴國中心地の三雲地区 イタリアから地中海を航海してギリシャに行きます
途中キプロス島を経由します
行程はイタリアからキプロス島まで約50km
キプロス島からギリシャまで約100kmです
途中立ち寄るキプロス島は40平方kmの面積を持つ島です
こうある場合に島の大きさをわざわざ足さないだろ?
島の大きさ書いてるからって
それを行程に足すのは明らかにおかしいよ 三雲は潤地頭給遺跡のほぼ南
三雲が奴國中心地ならせいぜい2千戸に修正したほうがいい >>776
まいど荒らしてるのは、あんた
自覚症状無いのか
いいから論じろよ >>940
この人です。
この人が自覚症状のないKTです。
いつもコピペで荒らしてます。 陸行1月の解明も出来なくて纒向を言い張る畿内説
テンプレに追加したが、馬鹿にされ九州説に八つ当たり
いかなる反論しても、いつもこのパターン、畿内説の終焉だな >>935
出土品も、都合が悪いと無視する。
それが畿内説のご都合主義。 >>942
潤地頭給遺跡は志登支石墓のすぐ近くだぞ
対馬ー壱岐よりもっと南の方角 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。