邪馬台国畿内説 Part291
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1508602012/
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。 ◆7−2
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−3
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11 本文のサマリー
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纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法より、筆者は里程から如何程に南方であるか具体的に推計して倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことは、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。 ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。 ◆FAQ 12−2
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。 ◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26-1
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか! ◆FAQ 26-2
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BV型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BW型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され(金原2011)ていること、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される。
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓X期の文化圏である。
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。この特性により、
奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかであるが、
河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)西北至都護治所二千二百五十八里、北接尉犂、南至小宛可三日行、
…西通精絕二千里。
(精絕國)北至都護治所二千七百二十三里、南至戎盧國四日行、
…西通扜彌四百六十里。
(罽賓國)東北至都護治所六千八百四十里、東至烏秅國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)東北至都護治所六十日行、
東與罽賓、北與撲挑、西與犂靬・條支接。
(大月氏國)東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行,
南與罽賓接。
(以上、漢書西域上)
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏蝉県が温泉郡城峴里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】なし
(>>56-62はトリップを要略しました) いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 畿内説には、旧石器捏造に関わった国立民俗歴史博物館とか、年輪年代法を捏造した国立奈良文化材研究所など胡散臭いのが絡んでいる
歴博は炭素年代法を使って箸墓の年代を3世紀中頃と断じたが、実は土器のAMS法による年代測定では2割ほど古い値が出る。
箸墓出土の土器の年代は二世紀後半というデータになってしまったんだ。
そこで歴博は世界基準の校正は日本では使えないから日本独自の校正をしなければならないなんてインチキをやって箸墓の築造は3世紀中頃とした。
奈良文研の年輪年代法も詳細を明らかにしないまま勝山古墳の年代を3世紀初頭と断定しているが、根拠が示されていないため、信用する学者は畿内説の学者でさえ殆どいない。
このように胡散臭い連中が畿内説の中にいると言う事自体が、畿内説の胡散臭さを証明する物だ。 >>63-67
ウソと中傷だけの九州説って
みじめな存在だね w
w
で、>>63-67が荒らしと決まったわけだが
w
w
w
w 68 名前:日本@名無史さん 2017/10/23(月) 08:32:02.98
>>63-67
ウソと中傷だけの九州説って
みじめな存在だね
69 名前:日本@名無史さん 2017/10/23(月) 08:34:31.91
w
w
で、>>63-67が荒らしと決まったわけだが
w
w
w
w
☝
あらし 71 名前:日本@名無史さん 2017/10/23(月) 08:44:00.96
>>70
その中傷、根拠ないな
☝
あらし 九州説はウソや中傷と
荒らしばっかりだね
困ったお爺さんだ 290の>>596
>尚方作だって個人だろ<
いや、魏朝のお雇い工人が造った、という事を示すんだよ。
>それに魏に使いを送った年号が三角縁に入ってる以上 <
嘘を付くな。
「魏に使いを送った年号」は、明帝の「景初二年」であり、
三角縁には入っていないよ。
>年代の記銘のない尚方作鏡より
魏の年号の記年のある三角縁の方が下賜鏡の可能性が高いだろ<
明帝の詔書は、景初二年12月に出されて、
その時点で銅鏡100枚は準備用意されて梱包待ちになっているんだから、
景初3年以後の鏡は、下賜鏡では有り得ない。 >>65
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき。
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるようになった。
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも。
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度。
>>1のトリと同じ英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうとしたこともある、最低のクズである。
「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者。
環境依存の絵文字や、「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、など特徴的な言い回しを多用すること、
5ちゃんでは一般的ではない「スレ主」の頻発、名前欄への書き込み多用、ageなどの特徴ですぐに判別できる。
「本日のMVP」として自身を認定するなど、能力もないのにやたらと仕切りたがる、実生活では決して身近にいて欲しくないタイプ。
「畿内説への助け船」は全く助け船になっていないばかりか、意味不明な泥船であることが多い。
トリとハンネの区別がついていないことも特徴のひとつ。
これまでに使用が確認されているトリは以下の通り。
◆TJ9qoWuqvA ◆zDcsAEpKdA ◆TbjlUtTwCg ◆DTCBtArI/s ◆cmsiBNFbAs ◆.jMGTy6iYI ◆PyuQX798ps
◆CXD1.68m1w ◆10cK4OrL3E ◆P5DBe7oqOQ
キウスの書き込みを褒めたり、「ワロタ」と応じたり、キウスに対して礼を言ったりする書き込みは、すべてキウス自身の自演である。
「キウス扱いされた」などと、自演がバレたとに他人を装う書き込みをすることがあるが、周囲にはバレバレである。
自らキウスを名乗り>>1にトリを要求することもあるが、自分はすぐに名無しに戻るというダブスタ、トリスタ上等の卑怯者。
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊である。
日本語の読み書きが満足にできないほか、日本史や日本の地理に関する基礎知識も持ち合わせていないこと、
マスメディアで散々取り上げられる「土用の丑の日」を間違っていたことなどから、
日本の義務教育を受けていないどころか日本国内に居住していないのではないかと推測されている。 73日本@名無史さん2017/10/23(月) 08:46:30.41
九州説はウソや中傷と
荒らしばっかりだね
困ったお爺さんだ
74日本@名無史さん2017/10/23(月) 08:46:53.32
>>72
理由もなく言い張るだけ
それが九州説
☝
あらし >>75
景初二年12月時点で銅鏡100枚が準備用意されて梱包待ちになっている
っていう根拠は?
???? 77日本@名無史さん2017/10/23(月) 08:48:34.60
>>76
岡上、荒らすなよ
☝
あらし 77日本@名無史さん2017/10/23(月) 08:48:34.60
>>76
岡上、荒らすなよ
☝
あらし >>79
九州説はもう畿内説に反論することも諦めてしまったのか 78日本@名無史さん2017/10/23(月) 08:48:45.21
キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき。
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度。
>>1のトリと同じ英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうとしたこともある、最低のクズである。
「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者。
環境依存の絵文字や、「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、など特徴的な言い回しを多用すること、
5ちゃんでは一般的ではない「スレ主」の頻発、名前欄への書き込み多用、ageなどの特徴ですぐに判別できる。
「本日のMVP」として自身を認定するなど、能力もないのにやたらと仕切りたがる、実生活では決して身近にいて欲しくないタイプ。
「畿内説への助け船」は全く助け船になっていないばかりか、意味不明な泥船であることが多い。
トリとハンネの区別がついていないことも特徴のひとつ。
これまでに使用が確認されているトリは以下の通り。
◆TJ9qoWuqvA ◆zDcsAEpKdA ◆TbjlUtTwCg ◆DTCBtArI/s ◆cmsiBNFbAs ◆.jMGTy6iYI ◆PyuQX798ps
◆CXD1.68m1w ◆10cK4OrL3E ◆P5DBe7oqOQ
キウスの書き込みを褒めたり、「ワロタ」と応じたり、キウスに対して礼を言ったりする書き込みは、すべてキウス自身の自演である。
「キウス扱いされた」などと、自演がバレたとに他人を装う書き込みをすることがあるが、周囲にはバレバレである。
自らキウスを名乗り>>1にトリを要求することもあるが、自分はすぐに名無しに戻るというダブスタ、トリスタ上等の卑怯者。
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊である。
日本語の読み書きが満足にできないほか、日本史や日本の地理に関する基礎知識も持ち合わせていないこと、
マスメディアで散々取り上げられる「土用の丑の日」を間違っていたことなどから、
日本の義務教育を受けていないどころか日本国内に居住していないのではないかと推測されている。
☝
あらし 78日本@名無史さん2017/10/23(月) 08:48:45.21
キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき。
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度。
>>1のトリと同じ英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうとしたこともある、最低のクズである。
「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者。
環境依存の絵文字や、「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、など特徴的な言い回しを多用すること、
5ちゃんでは一般的ではない「スレ主」の頻発、名前欄への書き込み多用、ageなどの特徴ですぐに判別できる。
「本日のMVP」として自身を認定するなど、能力もないのにやたらと仕切りたがる、実生活では決して身近にいて欲しくないタイプ。
「畿内説への助け船」は全く助け船になっていないばかりか、意味不明な泥船であることが多い。
トリとハンネの区別がついていないことも特徴のひとつ。
これまでに使用が確認されているトリは以下の通り。
◆TJ9qoWuqvA ◆zDcsAEpKdA ◆TbjlUtTwCg ◆DTCBtArI/s ◆cmsiBNFbAs ◆.jMGTy6iYI ◆PyuQX798ps
◆CXD1.68m1w ◆10cK4OrL3E ◆P5DBe7oqOQ
キウスの書き込みを褒めたり、「ワロタ」と応じたり、キウスに対して礼を言ったりする書き込みは、すべてキウス自身の自演である。
「キウス扱いされた」などと、自演がバレたとに他人を装う書き込みをすることがあるが、周囲にはバレバレである。
自らキウスを名乗り>>1にトリを要求することもあるが、自分はすぐに名無しに戻るというダブスタ、トリスタ上等の卑怯者。
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊である。
日本語の読み書きが満足にできないほか、日本史や日本の地理に関する基礎知識も持ち合わせていないこと、
マスメディアで散々取り上げられる「土用の丑の日」を間違っていたことなどから、
日本の義務教育を受けていないどころか日本国内に居住していないのではないかと推測されている。
☝
あらし 82日本@名無史さん2017/10/23(月) 08:50:42.94
>>79
この指差し厨が嵐の典型です。
☝
あらし 84日本@名無史さん2017/10/23(月) 08:51:09.15
>>79
九州説はもう畿内説に反論することも諦めてしまったのか
85日本@名無史さん2017/10/23(月) 08:51:42.71
キウスが朝から・・・してるな
☝
あらし 指差し厨キウスが、自分は荒らしだと告白しています。 90日本@名無史さん2017/10/23(月) 08:53:42.30
指差し厨キウスが、自分は荒らしだと告白しています。
91日本@名無史さん2017/10/23(月) 08:54:10.18
キウスが思考停止してる
☝
あらし 93日本@名無史さん2017/10/23(月) 08:55:41.99
キウス岡上、荒らすなよ
☝
あらし 94日本@名無史さん2017/10/23(月) 08:56:14.44
なんで九州説はウソをつくの?
☝
あらし 290の>>608
>箸墓に眠ってる卑弥呼の、霊的夫さ<
「南≠東」だから、×。 97日本@名無史さん2017/10/23(月) 09:02:44.30
論破されすぎて
キウスが人間捨てたぞ
終わってる
☝
あらし 80日本@名無史さん2017/10/23(月) 08:50:09.69
>>75
景初二年12月時点で銅鏡100枚が準備用意されて梱包待ちになっている
っていう根拠は?
????
☝
無学 九州説は荒らし一色になっちゃったね
論争に負けすぎたんだな 101日本@名無史さん2017/10/23(月) 09:13:00.46
九州説は荒らし一色になっちゃったね
論争に負けすぎたんだな
☝
あらし >>76
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったなどと、考えているのかな、、、 どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったなどと、考えているのかな、、、 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 畿内説くんもほんとは畿内説なんて妄想だってわかってるんだろうな
苦しい胸のうちがわかるわ 290の>>634
>景初2年朝貢の卑弥呼に帯方太守が証書金印を届けたのは正始元年だが
その時にも銅鏡はもらっている。<
いや、景初三年は喪に服して、その翌年の正始元年に、
「帯方太守弓遵遣建忠校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、
并齎詔賜金、帛、錦kei、刀、鏡、采物」
を実行し、だから「倭王因使上表答謝恩詔」をした事になっただけだ。
>正始年号は工房は知らないので、景初3年の銅鏡は帯方郡で保存とかもあり得る。<
明帝の詔書の下賜内容を変更するような事は、有り得ない。
>ただし2年下寵の卑弥呼の百枚は使者が持ち帰った以上それ以前に有ったものである。<
使者が持ち帰っていない。
あくまで「帯方太守弓遵遣建忠校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王」して、
「并齎詔賜金、帛、錦kei、刀、鏡、采物」したもの。 >>642
>要するにだ
景初四年鏡があったとしても 景初三年鏡と正始元年鏡が偽物とは言えないという事だ <
要するにだ。
景初四年鏡も景初三年鏡も正始元年鏡も、
景初二年12月に出された明帝の詔書の鏡とは言えない、という事だ 。
>それに記年のない三角縁神獣鏡もたくさんある <
魏の役所の尚方では、敵国の呉系の三角縁神獣鏡など、造る筈もない、という事だし、
実際洛陽で、三角縁人獣鏡が盛行した証拠も全くない、という事だ。
それに記年のない三角縁神獣鏡もたくさんある >>650
>陳さん銘がないのもある
それは魏からの下賜鏡でいいのか? <
年号の有無やどんな鏡なのか?を言って貰わなくっちゃ。 >>650
>成分分析では素材の銅が 当時の国産鏡の物ではなく
三国・晋時代の中国鏡と一致したから国産の可能性は薄い <
国産鏡自体が、それまでの前漢後漢鏡や銅剣銅矛や銅鐸の再溶融の可能性があるし、
呉系の楽浪鏡師らの手持ちの材料銅であった可能性もあるから、
そんな曖昧な話では、論拠にはならんよ。 >>679
>倭国とは倭人の国であるから、
倭国の版図も、大阪湾を中心とした畿内が中心だろうね。<
「南≠東」であるから、×。 290の>>682
>どこが? 景初、正始と魏の年号のある鏡を
呉の職人が倭国内で作ったとする方が無理すぎるだろ <
海東へやって来た呉系鏡師にとっては、明帝→卑弥呼の銅鏡100枚では商売があがったりであったから、
せめて「景初や正始の魏の年号」入り鏡を造って、価値を上げる必要があった。 >>721
新しい発見がことごとく筑紫に邪馬壹國があった事を指すもんだから、
倭国の別種分家の旧小国の大和説者は、それらを取り入れる事ができず時代に取り残されてしまった 。
いまだに、前方後円墳は3世紀半ば、三角縁は魏鏡だといい張ってるんだから 。 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 >>737
>何かうだうだ言っているようだが つまり椿井の副葬品と同じものが
弥生銀座とやらからは出てないという事だな
要するに九州と椿井大山古墳の関連性を示すものは何もないと
そうなると弥生銀座って実は大したことないんじゃね <
何かうだうだ言っているようだが、つまり、
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であった、という事であり、
倭国は「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」であり、
それに西日本全域に、モンゴル〜高句麗や、扶余東沃沮や沿海州や、楽浪や半島や、、
出雲や越などからの沢山の流民の流入があった、という事だな。 >>740
>椿井大山古墳は3世紀後半と言われているよ
なぜならその頃の三角縁神獣鏡が副葬されていたからだ<
ダメだろうな。
石室は、明らかにホケノの「槨」の発展形(つまりより新しい)であり、
ホケノが、庄内〜布留で、
「有槨」のために「太康6年(285年)の扶余や東沃沮からの流民」の流入を想定しなけれんばならないんだから、
どうしても、4世紀初頭以後になってしまう。 テンプレートの嘘が、一つづつ丁寧に、暴かれているね、、、 テンプレートの嘘が、一つづつ丁寧に、暴かれているね、、、 >>744
もうとっくに解説済みなのに、
必死に見なかったフリをする、「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者。 >>750
>書かなければならないの意味がわからん
徐州の銅で洛陽の鏡師が作っても普通にそう書くだろ
だからそうじゃない事を否定する根拠にならん <
洛陽や魏や中国にいる人間にとっては、
鏡の材料銅が徐州であるとか、製作した鏡師の師匠が洛陽の出身であるとか、など、
何の関心もないし知る必要もないし、価値もない。
必要があるのは、異郷の地で自慢宣伝したい場合。 126日本@名無史さん2017/10/23(月) 12:15:24.76
岡上とザラコク、荒らすなよ
↑
荒 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。これが2世紀後半。記紀でいう神武東征の話。 神武は吉備軍に同伴しただけ。
結果卑弥呼側の勝利で終わり、大和の地は卑弥呼の支配下になる。この時に吉備の勢力が大和入りしたんだね。
吉備の兵は他の国々の兵と共に纒向に駐屯。
これが纒向で伊勢尾張、吉備、丹波近江、大分の土器が出土する理由。
在来系の土器も勿論多数出土している。
纒向の南の芝遺跡は纒向と入れ替わるように弥生時代後期に消退するし、芝遺跡からも人々が纒向の営みに動員されたんだろうね。 もはや九州説には、畿内越に対抗するような力は残されていないようだね 天照だの邇邇芸だの神武東征だの書いてある日本書紀なんて、あとからきた逃亡百済人の作りばなしさ。勿論、対馬海峡から、人の移入なんてそれまで殆どない。箸墓だよ、箸墓。 箸墓が邪馬台国も大和も説明できちゃうキーワードなんだ。
熊野は黒潮のぶつかるところで、縄文時代から揚子江流域からの漂着民が多いんだ。 それで、江南米をたまたま持ち込んだ越人、呉人が米作に適した場所を探したわけさ。
すると、どうだろう、今の奈良盆地に大きな沼地があった。彼らがここで、周辺の縄文人と自然と共生関係を作って、弥生人になったわけ。平和なもんだよ。
後に、瀬戸内、朝鮮半島経由で、先祖の地中国に行けることが分かったそいつらが水銀のことを始皇帝に教えたのさ。 魏志倭人伝がその証拠さ。南越、その後呉のテリトリーとなった地域の風俗が倭人のと一致していると記されているものね。そして丹のことも。
とにかく、それで、ペルシャを経由して、始皇帝の都にたどり着いていたイスラエルの失われた10部族、アンフィクチュオニーが、水銀と奈良の沼地、平原広沢のことを知ったわけ。
アンフィクチュオニーに析出されたのが霊的威力者ジョセフさ。
ジョセフが彼らを率いて奈良にやってきたのだものね。なんのことはない徐福のことだよ。
そのとき、水稲以外の穀物や桃、馬匹文化も伝わって来たのさ。でも、穀物に限って言えば、やっぱり、適所適材、奈良盆地には栄養価の高い水稲だけが残ったんだよ。
キビとかアワとかは、徐福が通った瀬戸内海では根付いたのにね。奈良にそれを売り込みにきた商人は、美しく輝く黄金色の奈良盆地みて青ざめただろうよ。 そして羨み妬んだ。このときの軋轢が倭国乱だろうね。
すったもんだはあったと思うよ。でも、徐福はそれを乗り越えた。そして、奈良の弥生人を指導して通勤王国、咸陽と驪山陵をトポロジー的に想起させる邪馬台国をつくったのだろうね。
そう、弥生人たちは通勤してたのさ。沼地を裸足で。気持ちのいいもんだよ。川船を両岸で引っ張ってくれる男たちだって勿論裸足さ。冬だって裸足だよ、弥生人は丈夫だったのさ。毎日、往復4、5時間かけても構いやしない。
だって、イスラエルから殆ど歩いてきた霊的威力者が付いているんだぜ。文句言う奴なんて一人もいないさ。そしてやっぱり、徐福が、ポピュリズムというものをよくわかっていたのが大きかったのだろうね。(続く) 八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
元は大阪城の位置にあったとされる生国魂神社と関係あるのかな。
時代を超え、時の権力者が重要視した上町台地の北端。
後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、倭人を中心とした大阪湾の営みの話であるのを当たり前のように理解していた。 だからこそ、縄文人、越人、呉人、そして最後にやってきた徐福が率いたアンフィクチュオニーと彼らに一緒についてきた秦人がキマイラ的に連合できたのさ。
でも徐福と卑弥呼にどんな関連があるのか?って、決まっているじゃないか、箸墓だよ、箸墓。日本書紀に霊的威力者徐福のことが書いてあるだろ。勿論、大国主のことさ。わかるだろ。
箸墓に眠ってる卑弥呼の、霊的夫さ。逃亡百済人もここは本当のことを書かざるを得なかったのさ。
それから、投馬国だよ、投馬国。わかってるよね。鞆の浦さ。
投馬国と書かれた鞆の浦が、東とか南を説明しちゃうキーなのさ。
投馬国が面している瀬戸内は東向きの潮が速いところがあって、大和川の河口まであっというまにいけるのさ。そこから川船に乗り換えれば、奈良の沼地までは目と鼻の先さ。
帰路は山陽道を陸路で引き返し投馬国までの往路と復路を作り上げたわけ。
すると、どうだろう、投馬国から奈良まで水行では10日、陸行では1月の魏志倭人伝に書かれている、あの有名な最終行程じゃないか。
彼らがこれを、帯方郡の役人に伝えたわけ。そのときの通訳がいい加減な奴だったのだろうね。だから東が南になったわけ。
単純なもんだよ。
魏志倭人伝がその証拠さ。
だって、九州北部から投馬国と書かれた鞆の浦の方角も東が南になってるじゃないか。通訳がいい加減な奴だったのさ。
投馬国だよ、投馬国。
だから狗奴国は東国だろうね。
なにしろいい加減な通訳は東を南に間違う癖があるものね。
そして、周旋だよ、周旋。
帯方郡の外交官は邪馬台国と狗奴国を周旋しに来たのさ。
つまり、紛争を解決するため、交渉役になってくれたのさ。
ほんの少しだけど、運悪く、殺された兵士や奴隷もいたようだね。
でも、魏の役人のおかげで丸くおさまったのさ。
平和なもんだよ。
五千里は卑弥呼の城と卑弥弓呼の城の往復距離だろうね。
周旋だよ、周旋。
帯方郡の外交官は周旋役になってくれたのさ。(完) 131日本@名無史さん2017/10/23(月) 12:32:14.51
もはや九州説には、畿内越に対抗するような力は残されていないようだね
↑
荒 >>135
だな
テンプレに有効な反論もないようだしこのスレ終了でいいな
以後書き込む必要なし >>123-124や>>129を放置して>>135を書く指差し男は
自分が誰だか名乗ってるようなもんだな
>>103
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 >>105
あの、鍵型の墓のせいじゃないかな。。。
魏志倭人伝に書かれているものとは帯方郡からの方角も距離も形も違うけどね。。。 >>106
あの、鍵型の墓のせいじゃないかな。。。
魏志倭人伝に書かれているものとは帯方郡からの方角も距離も形も違うけどね。。。 畿内説が一番スレを汚しているな。
特に連呼厨とスレ主の妄想テンプレ。 >>132-134
なんだ、テンプレの内容は短くまとまるじゃん。
これでいいんだよ。
テンプレが長すぎてもいけないよ。 131日本@名無史さん2017/10/23(月) 12:32:14.51
もはや九州説には、畿内越に対抗するような力は残されていないようだね
↑ 纒向に固執する必要はなかった
結果多くの支持者を失なった 随分範囲を広げたな
7万戸どころじゃなくならないか 邪馬台国論争に敗れ去った九州説は
もう誤変換に揚げ足取るくらいしか打つ手がないという
情けなさ いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 で?
卑弥呼の宮はそのどこにあったんだ?
弥彦宮か?
気多大社か?
気比本宮か? はっきり言って、奈良盆地よりも北陸の方がまだ邪馬台国に近いんだよ。 弥彦神社は饒速日の子の天香具山の宮、その前は素戔嗚の子の五十猛の宮。
気多大社は大己貴命の宮だった。
饒速日の末裔が開拓した奈良盆地よりも早くから開けていた。
弥生時代の交易は基本的に海運で、筑紫、出雲の二大勢力と交易できる越は、非常に有利な位置だった。 テンプレを読んで、解らない語彙がある
↓
1がコピペをミスしたのだ、という妄想に取り憑かれる
↓
他人に解説してもらっても思い込みゆえ理解できない
↓
なんとしてでも1のミスにしたいが理由がない
↓
海上保安庁OBの話とか捏造する
↓
本の表紙がupされウソがバレる
↓
発狂して「日本近海距離表には朝鮮については記載されておりません」
とウソついちゃう
↓
またバレる予感がして不安になり
話題転換で畿内説側の誤変換に異常粘着する
イマココ >>151
>纒向に固執する必要はなかった
>結果多くの支持者を失なった
そうそう。
纒向がいけないよ。
あんな貧相な遺跡を邪馬台国なんて言い出して引っ込みがつかなくなって、畿内説は破綻した。 290の>>751
大和天皇家一元列島支配皇国史観の大和説のひとは思い込みが強い。
どんな証拠を見せられても信じない。
でも思い込みだから自分は証拠を出せない。
そして、ただ言い張り続ける。 畿内越君は思い込みが激しいな、
畿内越は本当に畿内越君の新アイデアだと思ったのだし、それに、海上保安庁だの朝鮮だののことは、いまここに参加している人の誰も関わっていないし、興味もないんじゃないかな。 290の>>753
>倭が魏に使いを送ったのは景初三年6月の事
複数の書物がそう記している<
魏志写本版本では景初二年6月であり、
後代史家の勝手な解釈に拠る書き換えは根拠にならず
逆に通典と書紀が、唐代通説に反してついうっかり、
「(景初二年に在位中の)明帝」と書いてしまっているから、
「景初二年六月」で正しい。
古田さんらは、「起居注」の記録があった、としておられた。
>それと尚方が工房であるという事の根拠は?<
「尚方作・・・」の「作」があるから。
「尚方」は、当然魏朝の役所である事を示す。 >>174
僕たちの越に関するちょっとした会話のせいなのかな。。。
思い込みの激しい、新しく畿内越と名付けられた、奈良の狂った老人に、いわれのない誹謗をされている
本当の岡上という人に、申し訳ないね。。。 290の>>755
>ここで騙しの宣伝しているのは、
奈良の観光関係の組合員や、公務員じゃないのかもね。
それとも、専門の下請け業者なのかな、、 <
いや、やっぱり、人種差別戦争狂的皇国史観の大和天皇家一元列島支配主義の、
政府文部省や学会やマスコミなどの洗脳教育に犯された極右の、
・・・・チンピラなんでしょう。 畿内越は、なぜスレッドに張り付いているのだろうか。。。。 気多大社と吉崎・次場遺跡の合わせ技で巻向を圧倒するのではないかな 290の>>758
人種差別戦争狂的皇国史観の大和天皇家一元列島支配主義の、
政府文部省や学会やマスコミなどの洗脳教育を、
信仰すること自体に喜びを見出してる頑固な・・・・アホのガキらたちは、
大和説が破綻していることを認めたくない。
でも、急に凶暴化したり、日本や家族を殺し合い戦争にのめり込まされる事が、
家族にとっては心配だ。 290の>>764
「南→東」などのような、平気でウソ付き騙しをする大和説の・・・・ガキらの性癖も、
商店街大量殺害事件を起こされるのと同じように、
いずれは匿名掲示板の中から外へ出て来る事に発展してしまうので、
家族は不幸だ。 290の>>765
「死に物狂いで「南→東」などの嘘つき騙しをやっている大和説人種は、
もはや小学生からも笑い者でございます。 まあ、本州のたいていの土地は、奈良盆地よりマシ。
それくらいに、纒向はあり得ない。 290の>>766
>椿井大塚山古墳からは矛も内行花文鏡も出ているから、完全に筑紫の伊都の支配下だよ。<
賛成ですね。
大和の古墳とは、全く別のハイクラスの埋葬形態を持っているみたいですから。 290の>>769
>筑紫の伊都では出ないのに?<
武器武具が大量に必要なのは、都よりも遠征軍の前線。 290の>>772
>あまり畿内説をいじめると彼の書き込みが減ります。
真実の追及はほどほどに <
仕方がありません。
前線のチンピラ・・・・兵士にガードされて、
大和説本部のスレ主(春成?)や政府文部省や学会やマスコミや、彼らに騙された国民には、
全く実態情報が届かず、全く安泰であり、
彼らの大和説を撤回させることは出来ません。 >>145
ありがとう、といいたいところだが、違うよ違うよ、全く違うに決まっているだろう。
亜流のゴミクズテンプレとは比較にならない、洗練された説が、正統派なのさ。 290の>>775
>三角縁神獣鏡も出てるよ だから畿内のものだろ <
他の墓と同じように、内行花文鏡は墓の埋葬中心であり、
三角縁は、墓の末席の副葬用だったんだろ?。 290の>>776
大和説は、「南→東」などの嘘つき騙しと同じように、
ウソばかりになっちゃったね。 290の>>780
>ああ確かに工房は工房なのか 九州説に何のアドバンテージもない事だけれど <
平原の21個の「尚方作」鏡の「尚方」は、公的な役所であり、
その役所が造った鏡だから「尚方作」と記銘されたのであり、
当時、「尚方作」と記銘出来るような役所は、魏朝や蜀朝や呉朝しかなく、
その内で、平原に21個の尚方作鏡を齎す事が出来るのは、魏朝しかなく、
だから、平原の21枚の「尚方作」鏡は、明帝から卑弥呼への下賜鏡が元になっていた事になり、
九州説に対する強烈なアドバンテージになるんだよ。 290の>>792
>別に椿井大山古墳が畿内にある以上 <
大和の中心部では全くないよ。
>畿内に強大な権力があった事を示す証拠であるから <
筑紫倭国が「自昔・・・東征毛人五十五國」をしたんだし、
大和は、倭国から別れた別種の旧小国の、倭国の附庸国でしかなかったんだよ。
>中の被葬者がどこ出身でも構わない上に <
最低、大和中心部の部族の人間ではない。
>内行花文鏡だけではあまりにも根拠が薄弱 <
埋葬の中心に置かれた物が、その生前の地位を最もよく表す。
>おまけに舶載鏡C期までの三角縁が出ているので<
その編年が根本的におかしい。三角縁神獣鏡は、殆ど全部国内鏡。
>造営時期は3世紀後半と推察できる<
ホケノのような「槨」ではなく「石室」であるから、
3世紀末のホケノよりも確実に新しく、4世紀以後。 >>199
編年がおかしいとか、ただの願望でしょ
理由ないから
ホケノが3世紀末だぁとかも、結論を言い張るだけで理由なし 290の>>795
>伊都国が支配した根拠にはならないんじゃないの <
別に伊都国とだけに特定する必要がない。
東征したのは筑紫倭国全体の行為。
伊都国はその軍事中心であり、東方は伊都国から別れた阿毎氏関係の地域であるから、
伊都国が中心的になるだけ。
>伊都から三角縁神獣鏡が大量に見つかってるというならともかく<
列島最古の三角縁神獣鏡は、伊都国の志登であり、
しかし呉系楽浪鏡師らの一部は、明帝の銅鏡100枚を見て、
筑紫での商売を諦めて、大和などの地方で商売をした。
>それに他に副葬されている鉄製品も類似品がなくてはね<
鉄剣も矛も刀も鉄鏃も、伊都国にはある。 290の>>806
>畿内なんか3世紀の古墳1基から300点以上鉄製品が見つかっているよ<
倭国の東征遠征の最前線であった事があるから 、武器や武具が必要であった。 290の>>810
>そうだからって邪馬台国は九州にあった事にはならんだろ?<
不彌國の(すぐ)南だから、邪馬壹國は、九州にあったんだよ。 290の>>834
>楽浪で盛行 とか言う割には 三角縁神獣鏡は楽浪から出土はせんの?<
楽浪では、「三角縁」の鏡と、「神獣鏡」の鏡が別箇に盛行したのであり、
合わさって「三角縁神獣鏡」になったものが 盛行したのではないの。
>そして鏡師が倭にやってきたという根拠は<
誰も来ずに、列島で「三角縁神獣鏡」が大量に出現する筈がないから。
>三角縁神獣鏡は魏の都の洛陽近辺で1枚見つかっているし、<
1枚では、列島の500枚以上の三角縁神獣鏡の根拠にはならないから。
>下賜用の特製だったと考えれば大量に見つかってなくても 不思議ではない <
魏朝の特製なら当然「尚方作」と刻むのであり、
下賜用に(100枚になるように)足されたが鏡であっても、
原則として一般在野の鏡師の個人的な宣伝文言や名前入りの鏡は、排除される。 畿内における倭国大乱。
卑弥呼と卑弥弓呼の争いは、大阪湾一帯の倭人勢力と伊勢湾を拠点とする倭人勢力の争いであった可能性があるな。
倭人は、海洋民族。本拠地は沿岸部だろう。
それに吉備を拠点とする倭人勢力が、卑弥呼側として参戦と。
長江河口から潮岬に渡来した倭人勢力。
下戸遺伝子をもたらした集団。
下戸遺伝子が色濃く分布する、大阪湾、伊勢湾、紀伊、吉備。 290の>>841
「南→東」の嘘吐きダマシの大和説は、ひたすらウソをつく。
それだけ 。 290の>>843
>>(大和付近での矛とは)槍だ、と聞いたぞ <
>誰から聞いたんだよ<
もう5年位以上前のYahooでの議論で、大和説者側が提示した文献での記載だ。 290の>>846
>三角縁が列島製なんて根拠はねーぞ <
「三角縁神獣鏡」は、世界で、殆ど「日本列島でしか発見されていない」だぞ。 290の>>849
>石室だからホケノより新しくて4世紀とか
もう自作の編年でもって畿内説に反論するしか出来ないの? <
木製槨よりも、石室(=石製槨)の方が、
明らかに、発展形なんだよ。 ボケ老人が愚にもつかない独り言つぶやいてるだけになってきたな 290の>>854
>矛でも槍でもどっちだっていいわ
そもそも古墳時代に槍の区分があったとは思えないし <
大和には「魏志記載の矛はなかった」という事実には、変わらんよ。 >>207
下賜鏡に尚方作と刻まれるという根拠は?
三国志のどっかに書いてるか?
あるいは他の国での出土は?
いずれにしても21枚しか見つかってないなら少なすぎないか 290の>>856
「南→東」などの嘘吐きダマシのサギばかりで、
他人と対話ができないのが、
「キョクウの人種差別の殺戮戦争的皇国史観」の大和説の・・・・ガキの常よ。 畿内説いつにも増して発狂&罵倒してるじゃん
敗北宣言はやすぎぃ〜 290の>>859
要するに大和説というのは、
人種差別的タカ派戦争狂の皇国史観の、
政府文部省やマスコミや学会らの、・・・・キョクウらの、
理由のない街宣だってことだよね 。 290の>>865
こんなふうに、「南→東」などの嘘吐きダマシのサギシの大和説派 は、
内容のない嘘ばかり 言い張ります。 290の>>866
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者は、
いつも証拠をひとつも出さないんだよね 。
だから大和説は詐欺と言われる。 >>217
伊都の八咫の鏡のミニチュアである内行花文鏡を下賜された筑紫の将軍だね。 290の>>869
>周髀算経も六尺=一歩で書かれてることは 証明されてるのに<
あれ?、この男は、
「立二十八宿,以周天曆度之法。術曰:倍正南方」であった筈なのに、
二つの殆ど同じサイズの円形を重ねた記載をする失敗をしている、
という 説明をした事を読んでいなかったのかな?。
だから、周代の元の周髀算経には、六尺=一歩で書かれてることはなかったんだよ。 ザラコク完全に開き直って妄想のみ垂れ流す気だな
思った通りの九州説がたどる末路 纒向と伊勢遺跡には、大きな違いがある。
纒向は柵で囲まれた居館エリア以外は、掘立柱建物や高床建物が立ち並び民の居住空間と考えられる。首長達が居住していたと考えられる館は見つかっていない。
発掘した考古学者の言葉を借りると、2世紀末に突然現れ4世紀に突然消失した【大集落】。
魏志倭人伝においても、卑弥呼は鬼道を行い衆を惑わすとあり、民に向けて祭祀を行っていたと考えられる。
今で言う祭りに近い。
一方、伊勢遺跡は30もの首長達が寄り合い、その中心で祭祀を行っていたと考えられる。
今で言う政治に近い。
卑弥呼の役割を考えると、伊勢遺跡が卑弥呼の勢力下にあったとは考えにくくなる。
日と月。
伊勢遺跡の水の祭祀。夜に行われていた説もある。 宮内庁選定じゃなく、高槻のあたりにある「本当の継体天皇陵だろう」と言われる今城塚古墳からは、大量の埴輪が出土しているんだけど
その中に大王と近衛のほかに、何かをかざした巫女の1団らしい像が出てくるんだよね
太陽に向かって鏡をかざしている巫女達だろうと言われている
こういう像は他の古墳からも出土していて、古代の倭国の軍隊には兵の他にこういう巫女の一群が同行していた事が分かる
これが卑弥呼やアマテラスの原型だろうだよ 伊勢神宮などの斎王が女性であるのは、当時の風習と関係あるのかな? 290の>>873
「南→東」などの嘘吐きダマシのように、
とにかく結論だけ連呼しまくり 理由はひとことも言わない 、
ましてや根拠など 絶対言わない。
そんな大和説者の典型だな 。 卑弥呼の発音はピミカであったと推測される。
日御子や日巫女ではなく、卑弥呼がいた筑紫の日向の高千穂宮にちなんだ日向だったのではないか。 290の>>875
>魏代の周尺定規なんか見つかってない サギ専門高校教師古田の嘘つきダマシだな<
古田短里説では、周代から魏代までは、
尺定規寸法は殆ど同じであって大きく変わっていない、
という説であるのに、
この男は、まだ、
「尺定規が変わった」と古田さんが言った、
という嘘を未だに叫んでいる・・・・である訳で。 なぜか、僕たちの台本貼り付け係がミスしているようだね。。。
それとも、だれかが台詞を転用しているのだろうか、、、 >>235
いずれにしろ、対応は、僕たちのあの最終目的への是々非々で決めれば良いんじゃないかな、、、 290の>>876
>いつの時代の律歴志にも載ってなきゃ使われた根拠にならないよ<
律歴志が、全ての国や時代の度量衡を網羅している、
というアホな思い込みが、間違ってるんだよ。
>特に隋の時代の律歴志には歴代の度量衡が載っているが
そこにもいわゆる短里の記載はない <
同じ事だ。
遥か後代の隋唐代の律歴志が、周朝や魏朝の全ての度量衡を網羅していた、
という保証がない。
>一体何を短里の根拠にしたらいいのか <
度量衡が使用された「使用例」から、帰納的推論を根拠にすればよい。
>あと海東へ来ただけじゃ主語がないだろ?
鏡師が倭国へ来た事の根拠にはならないだろ <
「海東へ来た」とは、その鏡を造って自己紹介を刻んだ、列島発掘金石文の証言だ。 290の>>881
>ウソをつけ 洛陽近辺では長里で合致するんだよ<
ウソを付くな。
Yahoo時代の議論でも、魏志では、洛陽付近でも、
長里解釈では、実際の距離よりも大幅にオーバーしてしまって合わず、
居住外縁部間の距離で計算してみると、短里解釈でほぼぴったりであった、
という例が殆どであった筈だよ。 >>236
そうだね、、、
僕たちの最終目的は、ひとえに、あの古墳が、邪馬台国とは、全く無関係だった
ことを、くだらない調査や、宣伝のために納税している国民に、伝えることなのだからね。。。 290の>>883
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者のいうことは、だいたい 、
人種差別殺戮戦争の皇国史観の「結論先にありき」の、
キョクウのやくざ暴力団のような犯罪者人種であり、
彼らのしゃべる事は、殆ど事実を曲解捏造しており、
殆ど全部ウソであり、クソ。 >>234
で、サギ専門高校教師古田は魏代の周尺定規を見つけたのか >>237
実際の使用例なんて証明にならない
間違った計測に元づいた距離が
たまたま1里75mを示す事になったのかも知れないから キナイコシが元気を取り戻したね、、、
何に安心したのだろうね、、 290の>>892
>そんな基本的な事を古墳の調査担当技師は見逃したのか?<
AMS法でのプラズマ化の問題は、「古墳の調査担当技師」レベルの話ではなく、
その器械を設計した技師の、原子核物理と熱力学の素養の問題。
>それが何で修正もされないの<
古墳の調査担当技師は、指摘を受けた時に気付いたかも知れないが、
計測結果が自説の大和説には都合がよい、と考えた発注考古学者は、
当然、物理学者の指摘をなかった事にして無視した。 290の>>895
この通り。
「南」や「AMS」や「祇園山の殉葬100余人」や、
「ホケノの槨」や「平原の尚方作鏡」などのような、
とっくに論破された論拠を、繰り返して持ち出すしかないから、
大和説はいつまで経っても進歩しない。 キナイコシとは何の呪文だ
九州説はとうとう気が触れたのか? >>245
安心しているのではないだろうね、、、、
恐怖出自暴自棄になってしまったのではないのかな。。。
なにしろ、ネットは人数でそうさできてしまうのだものね。。。 >>246
んな学者いるわけないだろ
すぐにクビだクビ
それでデータは即差し替えだろ 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 ウマヤドというのは、
今でいうとアイヌの系統だったの? 290の>>930
>平原当時、21個もの「尚方作」鏡を下賜した記録があるのは、
明帝だけだからというのは何か出典があるのか?
デタラメを言ったらいかんぞ <
明帝以外の魏の皇帝には、下賜した記録がないし、
呉や蜀の尚方にも、列島への下賜の記録も理由もない。 馬の乗り・・・腰に謎の刀・・・
泥棒のようなものに入られたという話
とか 『鬼に横道なし』
この人物の話でしょ
『松傾』
それとも他の系統の家なのかな >>224
周代の元の周髀算経なんて存在しないんだよ
もともと周公のむかし話として書かれてるんだから >>255
明帝が下賜したのは銅鏡百枚とだけ魏志倭人伝に書いてあるから
尚方作銘の銅鏡が下賜鏡であるという事の根拠にはできない
むしろ景初三年の出来事と記録にあるから
景初三年銘をもつ三角縁神獣鏡の方が下賜鏡とする方が適切なのである 290の>>964
>「日本国」の中国史書での初出は旧唐書だろ? <
新唐書「日本伝」に、「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」と書いてあり、
釈日本紀引用の延喜講記には、
大和の小野妹子が開皇末に隋の文帝に「日本国」を名乗ったが認められず、
唐の「武徳」末になって「日本国」の国号を認められた事が記載されている。
>670年以前に「日本国」なんてものはないよ 宋書にも隋書にも日本国なんて出てこない <
同じく釈日本紀には、列島側(倭)が晋の惠帝への遣使が「日本」を名乗った事が書かれており、
梁書には、大和が「扶桑國」と呼ばれていた事が書かれている。
>日本国・九州倭国二朝分裂は無理がある説だね
分裂してたのは670年前後の一時期のみ つまり天智〜天武代<
日本国・九州倭国二朝分裂は、史料事実であるんでしょうね。 >>260
かなり後世の日本の書物群で、当然のように書いてあることがバラバラだ、というだけさ
金石文では日本は唐と戦った敵だ
日本列島に2つの国があったなんて、妄想 新唐書が、日本人僧の持ち込んだ日本書紀亜流本を丸写ししてることは、常識。 >>261
戦ったと記録されているのは日本国ではなく倭国だよ。 魏志倭人伝含め、ありとあらゆる文献を否定しまくらないと成り立たないキナイセツw 中国が周辺民族に使った字を今も国名にしてるのは韓国と北朝鮮くらいじゃね 魏志倭人伝には、伊都国が千戸しか人がいないと書かれている。漢数字で千と万は間違えるはずはないので、実際千戸程度しかいなかったんだろうね。
もう一つ魏志倭人伝には、一大率が伊都国に置かれているとある。
3世紀半ばに大兵団が置かれていた場所の候補地は博多那珂地区しかない。
博多も区域としては伊都国に含まれるが、一大率が支配していたのだろう。
つまり伊都国は、平原周辺(王とその取り巻き)以外の大部分を一大率に召し取られたと考えると矛盾がない。
魏志倭人伝によると、
伊都国から奴国までは百里、奴国から不弥国まで百里とある。また不弥国からは南へ船で20日進むとある。
不弥国は周防灘に面した国と考えるのが妥当。
奴国は不弥国と伊都国の中間にある。地図を見ると遠賀川がその辺りにある。
遠賀川流域は、縄文時代〜弥生時代にかけての石器の一大製造拠点。その石器は九州全土に広がり、特に九州北部に強い影響力を持っていた。
また遠賀川流域の飯塚市から、行橋市には古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路であった。
奴国は2万戸の大国であり、遠賀川流域一帯の国であったと考えられる。
問題は不弥国である。
魏志倭人伝によると伊都国と同じように千戸しかないとある。壱岐ですら三千戸であることを考えるとかなり不自然。
行橋市の北は京都郡、苅田。
石塚山古墳など早期の前方後円墳がある。
巨大古墳のあるところは、労働力の集積地(非農業人口集積地)。つまり拠点地域。
不弥国も伊都国と同じように、大部分の領地を女王国に召し取られた可能性がある。
その地域支配の拠点が苅田辺りに作られていた可能性がある。
九州北部支配の拠点、博多那珂地区の一大率と苅田の駐屯兵団。少なくとも二ヶ所は魏志倭人伝の時代から存在。 >>274
この時代に領地とかの観念は無いだろう
属民を土地ごと奪ったという方がよさそう これは正しいが、これは誤情報、誤認なんて誰が決めるのだろうか 気づいていると思うけど、
家の系図などを捏造している家があるんだよ
良い家に見せかけるためのやり方、
王族、高貴な家を先祖に持ってきたり、繋げたり
本当の末裔の家の人がいなくなっているように、
錯覚しまう
名前なども売ってもらったりとか?
書いてあるでしょ 馬の骨:某王族→某→某→某→某→馬の骨
このように線を引いても、馬の骨は馬の骨
本物:王族→王→王→王→王様→king 数年前の△スレ
「真似なんてしているから、こんな事になってしまった」
とか
「私の家が、あなたの家の系図を盗んだというのですね」
という
謎の書き込みをしている人がいたり 死刑だと思うんだけど、
人工地震などを起こし死刑?
それとも死刑まではいかないのかな 古墳から300点も見つかったのに民衆はゼロ。
しかも巨大銅鐸片。
学問しましょうねw このような話があったり、
死なせるようなことはしなくても
『死刑 威嚇』威嚇攻撃? 「家の系図を盗んだというのですね」
この書き込みをしていた人は死んだのかな?
確実に犯罪でしょ、死んでいないから、威嚇攻撃が続いているのかな 『山王院 山王宮』
後に京都から官職を貰っていると書かれていたり、
新たに貰っていると・・・
もしかして『king』? >>68
「南→東」などの嘘つき騙しのウソと、
史料事実を根拠にできずに口先中傷だけの大和説って、
みじめな存在だね。 >>73
「南→東」などの史料事実の否定曲解の人種差別戦争的皇国史観の大和説は、
ウソや中傷と 荒らしばっかりだね。
困ったやくざ暴力団の・・・・ガキだ 。 kingの家系を盗んだ・・・
ような書き込み
おそらく、確実に?死刑 >>74
「南→東」などの嘘つき騙しを、史料事実根拠も理由もなく言い張るだけ。
それが大和説者。 調べてみればわかるよ、
このような書き込みだった
・生きてたのか!
・何度もいいました、だっつーの!そういう事なんだっつーの!
・真似なんてしているから、こんな事になってしまった 説明しなくても、気づいていると思う
だっ津ーの?という意味 >>80
>景初二年12月時点で銅鏡100枚が準備用意されて梱包待ちになっている
っていう根拠は? ????<
魏朝としては、皇帝が詔書した事は、それは絶対確定事項なんだから、
余程の事情がない限り、その時点からすぐに実行出来なければならないもの。
だから、明帝が亡くなっても、喪明けの正始元年に、
「太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、
并齎詔賜金、帛、錦kei、刀、鏡、采物」を実行した。 >>84
大和説者は、もう九州説に、
「史料事実から論理的に反論」することも諦めてしまったのか ?。 根拠なんてものはない、
あなたも頭のビョーインに行ったほうが良いんじゃないのか?
河童 河伯
いつ頃の時代の人物だと思う? >>94
なんで大和説者は、「南→東」などのウソをつくの?。 >>101
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、荒らし一色になっちゃったね 。
論争に負けすぎたんだな 。 動物の骨などで占いをした、
これは河伯の話だよ
しっかりと調べると
『河伯』の話
『もののけ姫』
などにも出てこなかった? とある忍者漫画
「オレを祀れ」
このような事を言っているキャラクターがいるとか、いないとか
べつに本人は言ってはいないのかな >>292
そういうものだって
ザラコクじいさんが
勝手に思ってるだけでしょ? >>296
荒らしてるの、明らかに九州説のバカじゃん
邪馬台国論争にまけたのが誰かも、明らかじゃん >>282
畿内にあったのは統制のとれた大きな宗教国家だった
ってことだね
九州には無いものだ 以前から書いているはず
あまり偉そうな事は語らないほうが良いぞ
たしか他のスレにも書いた 『聖化 日霊 日神 津』
ここにも『天帝』・・・と書いてない? 次々に出てくるでしょ?
『王家の始祖伝承と亀』・・・『兵主神』・・・このような話 >>303
九州から将軍が持ち込んだだけだよ。
筑紫の倭王が文化を伝えて、未開の地の大和を開拓した。
ヤックデカルチャ! >>309
九州にないものを九州から持ち込めると思うか?
ばかではないのか? 荒らしとゴリ推しが
九州説のすべてだよ
学問の世界からは
九州説はもう消えた
これは、動かしがたい事実
fin 三貴子?
邪馬台国も無かった時代
だと言っている人がいたり
以前、現れなかった?
無かった時代の話だぞwと言っている人 邪馬台国論争に負けたからって
こんな呟き荒らしで迷惑をかけるのが
九州説のやり口かよ
汚いんだよ >>130
>卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、
吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。これが2世紀後半。記紀でいう神武東征の話。
神武は吉備軍に同伴しただけ。<
また「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者の貼り付けが出て来たね。
卑弥呼も狗奴國も「南」だよ。 それよりも「ゆかり発言」
ウラシマン(不明)とユカリ(不明)の関係かな?
ユカリ?むかーし、
いたような気がするんだけど >>131
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者には、
九州説に、「史料事実を根拠」にして反論対抗するような力は、
残されていないようだね 。 亀がいじめられているところに、
もれ(仮名)ウラシマン?松傾?長竿?が現れて
このような台詞「これこれ、何をしているんだ」 >>132
>箸墓だよ、箸墓。 箸墓が邪馬台国も大和も説明できちゃうキーワードなんだ。<
「南≠東」だから、×ね。 0302 日本@名無史さん 2017/10/24 07:33:30
>>296
荒らしてるの、明らかに九州説のバカじゃん
邪馬台国論争にまけたのが誰かも、明らかじゃん
↑
あらし >>134
>でも徐福と卑弥呼にどんな関連があるのか?って、決まっているじゃないか、箸墓だよ、箸墓。日本書紀に霊的威力者徐福のことが書いてあるだろ。勿論、大国主のことさ。わかるだろ。
箸墓に眠ってる卑弥呼の、霊的夫さ。<
これも、「南≠東」だから、×ね。 キュウリの葉、葱の華・・・の写真でしょ
『松傾』と同じ家?家の先祖の写真 >>317
その汚いナスリツケ技は
あきらかにナリスマシ常習物自演爺
こと、キウスだね
w >>159
邪馬壹國論争に敗れ去った「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者は 、
もう、史料事実に拠っての反論をする事が出来ず、
言葉尻に対して口先で揚げ足取る、くらいしか打つ手がない、
という 情けなさ。 数年前の△スレ
偶然見たとき
兵庫、神戸だったか、
どこかの大震災の話もしていなかった? 松(もみ??)の木の立てられている写真があったでしょ、
あれも家の写真
コンクリのブロックのようなものがあって、
オジギソウ・・・シダ類・・・etc コンクリ〜セメント・・・、
調べてみると「川崎区セメント通り」みたいなことが書かれていない? 確かアサノセメント関係の、
どこか・・・で仕事をしていたと言っていたような おかしな話
あの白い服を着て仕事をしていたのかな、
何なんだろう 別に暴力団、ヤクザでもなかったし?
何なんだろう
確か、むかーし伊達郡の
山の上のほうに住んでいたと言っていたり 『白い服 暴力団』
家は暴力団でもヤクザでもない・・・
付き合いもないし・・・??? いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 九州説にも東遷説にも学者がいなくなり
アマチュアも畿内説に反論できない
畿内説の一人勝ちだ
終わったな >>208
>畿内における倭国大乱。<
「倭国大乱」ではない。「倭國亂」ね。
>卑弥呼と卑弥弓呼の争いは、大阪湾一帯の倭人勢力と、
伊勢湾を拠点とする倭人勢力の争いであった可能性があるな。<
「南≠東」であるから、×であり、可能性も全くないね。 >>344
つまりザラコクは
倭人伝に「南」と書いてある、という一点だけで
畿内説はすべて誤りだと
言い張ってるわけね 白い服
神道からきている服なんじゃないのか?
みたいなことが書かれていたり
写真の裏『松傾』のような名前でしょ? 呟キウスは畿内説に邪馬台国の話をされては困るんだな
w >>215
>下賜鏡に尚方作と刻まれるという根拠は?<
100枚の内、魏の工房の「作」の鏡なら「尚方作」と刻むしかない。
買い置きの在庫鏡や新たに購入した鏡であれば、鏡師の個人名などが刻まれる可能性がある。
>三国志のどっかに書いてるか?<
三国志が、100枚の銅鏡の作者名などを書く筈がない。
>あるいは他の国での出土は?<
1枚だけの孤立出土は、楽浪にもあちこちにもある。
>いずれにしても21枚しか見つかってないなら少なすぎないか<
鏡は元々日用品であるから殆ど1個だけの出土であり、
21枚もの「纏まった出土」は平原だけ。
だから、平原の21枚は、明帝の「銅鏡百枚」が元になったもの。 >>340
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 松傾を検索すると菅原道真がヒットしたんだが、何のこと? >>348
成程。理にかなっている。
納得した。有り難う。 数年前、偶然観ていたアニメ
とあるキャラが海底に潜って行き?
サメが出てきたり? >>349
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 >>217
>だから椿井から鉄矛が見つかってるって<
鉄槍であっても鉄矛であっても、
大和には全くなかったものであるんなら、
内行花文鏡と同じように、
椿井には、筑紫倭国齎されたものである、事にしかならないよ。 >>227
>今城塚古墳からは、大量の埴輪が出土しているんだけど
その中に大王と近衛のほかに、何かをかざした巫女の1団らしい像が出てくるんだよね
太陽に向かって鏡をかざしている巫女達だろうと言われている
こういう像は他の古墳からも出土していて、古代の倭国の軍隊には兵の他にこういう巫女の一群が同行していた事が分かる
これが卑弥呼やアマテラスの原型だろうだよ <
違うね。逆なんだろうね。
卑弥呼やアマテラスらが、今城怩フ原型なんだろうね。 363日本@名無史さん2017/10/24(火) 10:43:09.33>>365
>>360
筑紫にあるのか?
w
↑
無学 >>243
>古田は魏代の周尺定規を見つけたのか <
古田さんは、「尺寸法は変化が殆どなかった」説であり、
どうであったか?は知らないが、
私は、Yahooでの議論で、魏晋の頃の尺定規を提示して貰った記憶があるよ。 >>363
これは恥ずかしいね。。。
キナイコシはなぜ日本史板に張り付いてるんだろうか、、、 >>244
>実際の使用例なんて証明にならない 間違った計測に元づいた距離が
たまたま1里75mを示す事になったのかも知れないから<
たまたまの1例だけではなく、
例証が多数あれば、当然その度に確率が上がるのであり、
6倍位も違う長里である確率は、例証が増える度に、確率がますます無くなってしまう事になる。 >>248
>九州説はとうとう気が触れたのか?<
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者は、
「尺定規」でも、
「プラズマ化」でも、
「短里の多数例の存在」でも、
「平原の21枚の尚方作鏡」でも、
「ホケノなどの年代」などでも負けて、
とうとう気が触れたのか?。 なにひとつ具体例が出せない九州説の主張は
すべて空想の産物ということだな
『葱の華』
グーグルで画像を検索すると、同じような植物が出てくるでしょ どのスレだったかな、
その写真、宮様じゃないの?と言っている人もいたよ
山王? >>258
>周代の元の周髀算経なんて存在しないんだよ
もともと周公のむかし話として書かれてるんだから <
前漢初期に(秦代に散逸していた)周髀算経の収集補填がされたんだから、
周代に周髀算経があったんだよ。 >>377
前漢初期に(秦代に散逸していた)周髀算経の収集補填がされた
って根拠は? >>259
>明帝が下賜したのは銅鏡百枚とだけ魏志倭人伝に書いてあるから
尚方作銘の銅鏡が下賜鏡であるという事の根拠にはできない <
平原付近に「21枚の尚方作鏡」を齎す事が出来たのは、明帝しかいない。
>むしろ景初三年の出来事と記録にあるから<
いや、明帝の詔書は、景初二年12月。
>景初三年銘をもつ三角縁神獣鏡の方が下賜鏡とする方が適切なのである <
景初三年銘鏡は、始めから「明帝の詔書に書かれた鏡」にはならないので、×。 他のスレにも書いた
このスレの住人の書き込み、
ほとんど相手にされていないでしょ?
悪く言うと、もれ(仮)と数人以外、相手にされていない? 妹:5月15日生まれ
兄、モレ(弟)がいて・・・その写真の家 スレの早い段階や朝から独り言基地外が暴れてるとか珍しいな
なんか上の方に流したい都合の悪いレスでもあるのかね?w 分かり切ったことをオウム返しで質問の形にしてるだけか
あとは、誹謗中傷と誰かが誰だと当てずっぽうただの
キナイコシはただのレス乞食だよ >>377
周髀算経って本そのものが
「昔者周公問于商高曰」って書き始められてるの。
周代の書物じゃないんだよ。 >>384
答えられなくて論破されてるよな
九州説は情け無い >>261
>かなり後世の日本の書物群で、当然のように書いてあることがバラバラだ、というだけさ
金石文では日本は唐と戦った敵だ<
大和日本国は、筑紫倭国の中の附庸国であったのであり、
白村江にも一部応援出陣や後衛守備に参加したらしい、というだけだ。
半島の金石文は、その人物が大和にも関係があったらしい、という事になるだけ。
>日本列島に2つの国があったなんて、妄想 <
白村江の頃に、列島に大和日本国しかなかったなんて、
分裂幻覚の妄想。 wiki?
家族などは編集したりしていないし、
シルク(絹)が何やらとなっていたり、なっていない?
伊達郡の川俣町というところの話はしている >>386
答えられなくて九州説が論破されてる事実が
流したい都合の悪いレス
そのものだろうね >>387
それ、ぜんぶ史料事実に基づかないザラコクの空想でしょ? 九州説も東遷説も、FAQで根っこからほぼ論破されてる件について FAQはただの妄想だろ。
なんで論破したことになるんだ? アカデミックな研究の場から、ほぼ九州説が消えたのも、事実だな。 >>396
キウスが、顔真っ赤にして屈辱に震えてら 漢字の誤変換にカラむくらいの抵抗しか
出来なくなってる東遷説も
終わってるよね 九州説は世間的にもう負け組になってる関係上、なんか曲芸やらんとイカン立場なのが大きなハンデ。
つまりダウンのスパイラルが運命づけられちゃってる。 いまだに「ぼくちゃんのかんがえたすごい行程」の話とか喚き散らしてる馬鹿の集まりだからな 馬の骨というのは嘘だよ、
モレも、アナタも、キミもオマエも、人間の骨
普通の話だろ、
と思うかもしれないけど、人間宣言、人権宣言でしょ
子供でも、わかるような気がするんだけど、
学校に通い、下手(おかしな)に勉強などをすると、おかしな考えが生まれてくる?
逆にそうなってしまう
とか 天照大神は伊勢神宮に祀られていて、同じく祀られているのが豊受大神。
伊勢と丹後半島。
どちらも海人の拠点地域。
卑弥呼の出自は何処なんだろうか?
卑弥呼を共立した30ヶ国の中の2つの有力な国の間に出来たヒメと推測出来るが。
台与は卑弥呼の宗女。どういう関係か?
同じ二国間のヒメ?それとも片親が同じ勢力の出なのか? 天照だの邇邇芸だの神武東征だの書いてある日本書紀なんて、あとからきた逃亡百済人の作りばなしさ。勿論、対馬海峡から、人の移入なんてそれまで殆どない。箸墓だよ、箸墓。 箸墓が邪馬台国も大和も説明できちゃうキーワードなんだ。
熊野は黒潮のぶつかるところで、縄文時代から揚子江流域からの漂着民が多いんだ。 それで、江南米をたまたま持ち込んだ越人、呉人が米作に適した場所を探したわけさ。
すると、どうだろう、今の奈良盆地に大きな沼地があった。彼らがここで、周辺の縄文人と自然と共生関係を作って、弥生人になったわけ。平和なもんだよ。
後に、瀬戸内、朝鮮半島経由で、先祖の地中国に行けることが分かったそいつらが水銀のことを始皇帝に教えたのさ。 魏志倭人伝がその証拠さ。南越、その後呉のテリトリーとなった地域の風俗が倭人のと一致していると記されているものね。そして丹のことも。
とにかく、それで、ペルシャを経由して、始皇帝の都にたどり着いていたイスラエルの失われた10部族、アンフィクチュオニーが、水銀と奈良の沼地、平原広沢のことを知ったわけ。
アンフィクチュオニーに析出されたのが霊的威力者ジョセフさ。
ジョセフが彼らを率いて奈良にやってきたのだものね。なんのことはない徐福のことだよ。
そのとき、水稲以外の穀物や桃、馬匹文化も伝わって来たのさ。でも、穀物に限って言えば、やっぱり、適所適材、奈良盆地には栄養価の高い水稲だけが残ったんだよ。
キビとかアワとかは、徐福が通った瀬戸内海では根付いたのにね。奈良にそれを売り込みにきた商人は、美しく輝く黄金色の奈良盆地みて青ざめただろうよ。 そして羨み妬んだ。このときの軋轢が倭国乱だろうね。
すったもんだはあったと思うよ。でも、徐福はそれを乗り越えた。そして、奈良の弥生人を指導して通勤王国、咸陽と驪山陵をトポロジー的に想起させる邪馬台国をつくったのだろうね。
そう、弥生人たちは通勤してたのさ。沼地を裸足で。気持ちのいいもんだよ。川船を両岸で引っ張ってくれる男たちだって勿論裸足さ。冬だって裸足だよ、弥生人は丈夫だったのさ。毎日、往復4、5時間かけても構いやしない。
だって、イスラエルから殆ど歩いてきた霊的威力者が付いているんだぜ。文句言う奴なんて一人もいないさ。そしてやっぱり、徐福が、ポピュリズムというものをよくわかっていたのが大きかったのだろうね。(続く) だからこそ、縄文人、越人、呉人、そして最後にやってきた徐福が率いたアンフィクチュオニーと彼らに一緒についてきた秦人がキマイラ的に連合できたのさ。
でも徐福と卑弥呼にどんな関連があるのか?って、決まっているじゃないか、箸墓だよ、箸墓。日本書紀に霊的威力者徐福のことが書いてあるだろ。勿論、大国主のことさ。わかるだろ。
箸墓に眠ってる卑弥呼の、霊的夫さ。逃亡百済人もここは本当のことを書かざるを得なかったのさ。
それから、投馬国だよ、投馬国。わかってるよね。鞆の浦さ。
投馬国と書かれた鞆の浦が、東とか南を説明しちゃうキーなのさ。
投馬国が面している瀬戸内は東向きの潮が速いところがあって、大和川の河口まであっというまにいけるのさ。そこから川船に乗り換えれば、奈良の沼地までは目と鼻の先さ。
帰路は山陽道を陸路で引き返し投馬国までの往路と復路を作り上げたわけ。
すると、どうだろう、投馬国から奈良まで水行では10日、陸行では1月の魏志倭人伝に書かれている、あの有名な最終行程じゃないか。
彼らがこれを、帯方郡の役人に伝えたわけ。そのときの通訳がいい加減な奴だったのだろうね。だから東が南になったわけ。
単純なもんだよ。
魏志倭人伝がその証拠さ。
だって、九州北部から投馬国と書かれた鞆の浦の方角も東が南になってるじゃないか。通訳がいい加減な奴だったのさ。
投馬国だよ、投馬国。
だから狗奴国は東国だろうね。
なにしろいい加減な通訳は東を南に間違う癖があるものね。
そして、周旋だよ、周旋。
帯方郡の外交官は邪馬台国と狗奴国を周旋しに来たのさ。
つまり、紛争を解決するため、交渉役になってくれたのさ。
ほんの少しだけど、運悪く、殺された兵士や奴隷もいたようだね。
でも、魏の役人のおかげで丸くおさまったのさ。
平和なもんだよ。
五千里は卑弥呼の城と卑弥弓呼の城の往復距離だろうね。
周旋だよ、周旋。
帯方郡の外交官は周旋役になってくれたのさ。(完) 完璧な説だよ、完璧な説。
徐福の通勤王国、咸陽と驪山陵をトポロジー的に想起させる邪馬台国説。
論破なんて、絶対に無理さ。 完璧な説だよ、完璧な説。何の根拠を知りたいんだい。 奈良盆地に大きな沼地があった根拠かい。それなら、主張している地質学者がたくさんいるから、問い合わせてくれないか。
大和湖を検索にかければすぐ出てくるよ。 >>415
ほら、答えられない
だからトンデモ説は駄目なんだよね 細部に関しては、各分野の専門の学者に聞いてくれないかな。
大和湖だったのか、大和湿原だったのかははっきりしないけど、乾地でなかったことは、地質学者には常識なんんだからさ。 でも、よかったじゃないか。
湿地だったおかげで、水稲が育って、邪馬台国ができたのだからね。 君は、ちゃんと自分で調べてみたのかい。
なにしろ、こっちも、あちこち細部まで教えてあげられるほどには、時間が余ってやしないんだよ。
ちょっと、まってね。ええと、もう、しゅっきんしなきゃいけないんだけどなあ。困った。みつからないよ。
あったよ、あったよ。
URL貼るので納得してくれるなら、
http://near.nara-edu.ac.jp/bitstream/10105/355/3/kobunkazai4_15-17.pdf
これ読んでみたらいい。 奈良に昔湖があったからって別にふーんって感じなんだけど >>262
>新唐書が、日本人僧の持ち込んだ日本書紀亜流本を丸写ししてることは、常識。<
新唐書が、宋史引用の王年代紀の丸写しではなく、
中国側の記録などとの対応などの、独自情報含まれてもいる事は、常識。 日本は豊葦原千五百秋水穂国が美称とされる国だからな
乾燥地帯は粟とか黍の雑穀に牧畜だろ >>267
>嘘吐き中国人を信用してる時点でアホ丸出し<
「南→東」などの嘘吐きダマシの、
人種差別殺戮戦争の皇国史観のキョクウの・・・・大和説学者を信用してる時点で、
アホ丸出し。 >>268
>金石文では日本なんだよ <
筑紫倭国も「日本」を名乗っていたんだよ。
その金石文を提示してみろ。 >>418
年中ズブズブでは稲は育たない。
必要な時は水を入れ、必要ない時は水を排出する必要がある。
3世紀の奈良にそんな技術や農具はないが、博多湾沿岸には紀元前からあった。
3世紀の時点で奈良盆地に邪馬台国が成立する余地はない。 >>302
荒らしてるの、明らかに、「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説のバカじゃん。
邪馬壹國論争にまけたのが誰かも、明らかじゃん。 >>303
>畿内にあったのは統制のとれた大きな宗教国家だった ってことだね 九州には無いものだ <
大和や、倭国の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国の、
倭国の附庸国。 纒向は矢板で護岸までした大溝造ってるから
九州は元々満鮮ブタが逃出さないように空環壕が多いな >>310
>九州にないものを九州から持ち込めると思うか? ばかではないのか?<
大和は、倭国の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の附庸国の旧小国であり、
倭国の「東征毛人55国」の一つであり、
文化は倭国からの伝搬と模倣であり(例えば前方後円墳や庄内)、
武器や武具は、最前線の武将や兵士が使った。
しかし、征服吸収された毛人の中には、扶余や東沃沮の「有槨」部族も含まれていた。 >>430
そういうアホなオウム返しやるたびに
九州説のまともな反論ができない現状が明らかになる >>421
どこにもトンデモ東遷説が主張してるようなことは書かれてないな
やはりトンデモ東遷説とかは非科学ということなんだね >>311
「南→東」などの嘘吐きダマシのような史料事実の否定曲解の、荒らしとゴリ推しが人、
人種差別殺戮戦争の皇国史観の・・・・右翼の大和説のすべてだよ。
学問の世界からは大和説はもう消えた。 これは、動かしがたい事実。
fin >邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
>もう確定なのでロマンはありませんが
>勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
大和説を唱えている学者のリストってあるの?
レッドチーム入り確定するの?w >>313
「南→東」などの嘘吐きダマシがバレて邪馬壹國論争に負けたからって、
こんな呟き荒らしで迷惑をかけるのが大和説のやり口かよ?。
汚いんだよ。 将軍様、一つでもいいから鉄器を恵んでくだせえ
たまには田んぼを開墾したいでやんす >>327
大和説者は、
「南」や「祇園山」や「尚方作鏡」や「弥生銀座」や、「明帝の尚書」や、
「大道」や「短里」や「庄内」や「有槨部族」や「倭国の別種の旧小国」などの、
史料事実が、それほどこわいの?。 >>341
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説がバレて、
大和説学者がいなくなり、
アマチュアも九州説に反論できない 。
九州説の一人勝ちだ。
終わったな。 筑紫の武器は朝鮮の武器だから、短弓使ってたんじゃね
菜畑遺跡は半弩弓が出てるな そういやネット記事で国宝金印の出土状況がはっきりしないから云々と
いちゃもんをつけてるのをみて噴いたw江戸時代の出土物で
他のアジア地域出土の金印とも比較検討されて文献にも記載がある金印をつっこむなら現代に畑から農民が見つけたという伝聞しかないたった一枚の銅鏡についてもっとつっこめよとw >>363
>筑紫にあるのか? w <
最新の強力な武器や武具は、東征戦争の戦場で使うもの。 弓は弥生時代〜古墳時代前期はそんなに大きな変化はない
材質もイヌガヤ、カヤ中心の針葉樹
木弓短下長上は銅鐸にも描かれてるな >>273
なにひとつ具体例や史料根拠が出せない「南→東」などの大和説の主張は、
すべて分裂幻覚妄想の産物ということ。 長弓は畿内、近江、東海で出てるな
滋賀の祭祀用の弓は276cm
メスリ山古墳の鉄弓も182cmだな >>447
>筑紫の武器は朝鮮の武器だから、短弓使ってたんじゃね
>菜畑遺跡は半弩弓が出てるな
時代が違いすぎる。
九州北部は倭人伝の時代に銅矛文化圏の中心だよ。
そして魏志倭人伝にも倭国では兵が矛を使っていたとある。
キナイセツ終了。 >>448
>他のアジア地域出土の金印とも比較検討されて文献にも記載がある金印をつっこむなら現代に畑から農民が見つけたという伝聞しかないたった一枚の銅鏡についてもっとつっこめよとw
全く同意だ。
畿内説はダブルスタンダードを駆使しないと成り立つ余地がない。 >>451
>九州説ってナニ言ってるかわからない
日本語が通じないなら、半島にお帰り。 >>460
>椿井大山古墳から鉄矛が出たから
>九州説終了
内行花文鏡と一緒に出ているから、銅鏡文化圏の中心である伊都国から派遣された筑紫倭国の植民部隊の長だね。 椿井から銅鐸が出ていない時点で、畿内が九州北部の勢力により征圧されたことが明らかだね。 九州からあんまり三角縁神獣鏡が出ていない時点で
当時の九州と機内は別勢力だということが明らかだね 椿井大塚山古墳のおかげで、畿内の三角縁エリアが九州北部の傘下であったことがよくわかる。 九州説は椿井古墳が羨ましくてしょうがないんだなwww
畿内にある以上いくら欲しがっても畿内の物だから >>428
博多湾にはないよ
塩水で稲が育つと思ってる? 時代が違いすぎるて、稲作は九州が早いのを根拠にしてるくせに
その遺跡で都合が悪いものが出てたらなかったことにするからなw
矛も朝鮮、鏡も朝鮮、住居も朝鮮だから、弓も
「朝鮮人様の弓が使いやすいですたい」ということだろう >>469
一大率で博多湾各国を監視していたように、
椿井で畿内各国を監視していたんだろうな >>473
そりゃそうだろ
まさか畿内の銅鐸は朝鮮を経由せず、大気中の元素が核融合して自然に銅が出現したとでも? >>461
きっつw
たしかに日本語下手そうだがw 志賀島の金印は出土状況が怪しいから、極南界の国がもらったんだし
一度宮崎県にあたりに聞いてみたらいいんじゃないかな
持ち主が現れるかもしれないし >>473
菜畑遺跡は古すぎだろが。
稲作や鉄器などが遥か古代から博多にあった証拠には使えても、
そこで出た兵装が3世紀まであった証拠には使えんでしょ。
その頃から弓があった、くらいには使えるだろうが。 いやいや、菜畑遺跡の兵装が3世紀まであったということじゃなくて
日本の長弓というのは非常にめずらしいんだよ >>428
正統のテンプレをよく読んでくれないか。
3世紀じゃないよ、違うよ違うよ、もっと前だよ。
呉越が流れ着いたのは、もっと前。
水田なんてありゃしない、適した沼地にもみをぱあっと蒔いて、よく育ったのだけ、刈り取るだけの、単純な作業さ。なにしろ、沼地は、広大だったのだからね。
土地生産性なんて無視できるのだからね。 筑紫は朝鮮の武器が好きだったんじゃないの?
ちなみに日本の縄文時代の弓は短弓だね >>478
いや博多湾が倭奴国の領域の南限だったんだよ
当時の倭国の範囲は南部朝鮮〜対馬〜壱岐〜博多湾(倭奴国) >>437
君は何をいってるんだい。
第一、正統派畿内説は本格的畿内説だぜ。どこかから、邪馬台国がうつってきたわけがないだろ。
それに、きみは、日本語がちゃんと読めるのかい
。
http://near.nara-edu...obunkazai4_15-17.pdf
に、大きな水域があったって、はっきり明記してあるだろ。 南部朝鮮が倭国である根拠はない
福岡でも志賀島の金印は盗まれたという人がいるんだろ
南九州にもいるかもしれない
串間で穀壁出てるし 将軍さま、鉄器を、鉄器を一つでいいから恵んでくさせえ! だから弥生時代になって長弓や稲作が伝わったんだろ?
それと、稲作は沼地にただ撒くだけじゃない。
紀元前10世紀頃の菜畑遺跡ですでに水路や堰、畦などがあった。
稲作は治水技術や農具などと同時に到来したんだよ。
奈良湖にばら撒いていたのだとしたら、九州北部より1000年以上も文明が遅れていたことになる。
いくらなんでもあり得ない。
ただの過疎地域だと考えた方がまだマシだ。 >>489
だから菜畑遺跡の弓は長弓じゃないってw
北部九州はどこの遺跡で長弓が出てるの? 巻向遺跡の発掘で、
奈良湖の沈殿物の痕跡である粘土層(シルト層)
は年代指標になってるからね。 倭国の弓は下が短くて上が長い独特の形だったそうだ
現代の和弓もそうだよな 奈良盆地の表層部に分布する堆積物は、これまでの調査の結果,砂層・シルト層・泥層を主とし、
礫層や泥炭層、ときに火山灰層をはさむ。
また十数点の14C年代の測定値から、これらの堆積物は後期更新世から完新世にかけて形成されたことが明らかになった。
泥炭質シルト層は、深度 460-470cm l4C年代 31,800±1,100〜975(Y.B.P)
「奈良盆地の最上部更新-完新統」 晋書
「266年に倭人が来て、円丘・方丘を南北郊に併せ、二至の祀りを二郊に合わせた」
266年に前方後円祭祀(「墓」とは一言も書いてない)がすでに行われてた
しかも中国まで行ってその場で丘作って出張祭祀を行ってるのも面白い
266年なので台与の使者だろう 長弓は中国南部に発生し、弥生時代に稲作とともに九州北部から山口県にかけて渡来したらしい。
ソースはググって。 >>497
それ安物サイトだろw
北部九州はどこの遺跡で長弓が出てるの? いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 キナイコシはなぜ必死に張り付いているのだろうか。。。 何だ九州から長弓が見つかってないのか
なら邪馬台国は畿内だな 『人間の骨』
画像を検索すると、実在したのか
「ケンタウロス」?
というものが出てくるんだけど
グーグルで検索 ケンタウロス?
人間と馬が繋がっているような
存在じゃなかった? >>499
曲解だね
「十一月己卯,倭人來獻方物。
并圜丘方丘於南北郊,二至之祀合於二郊。罷山陽公國督軍,除其禁制。」
「泰始二年(266年)十一月己卯に倭人が来て方物を献じた。
(武帝は)南北の郊外にある円丘、方丘をあわせ、二至(夏至・冬至)の祀りを(南北)二郊における合祀とした。」
郊祀とは、古代中国の天子が,柴を焚いて,冬至には国都の南郊で天を,夏至には北郊で地を祀った大礼。
天を祀るには円丘の壇を,地を祀るには方形の壇をつくる。帝王の威厳を示すもので,清末まで行われた。 このスレッドはキナイコシが盛り上げているのだから、あまり追いつめない方がよいのではないのかな、、、 >>513
僕たちの最終目的の為には、ある程度、このスレッドの注目度はあった方がよいのかもしれないね。。。 >>501
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 ブったぎって悪いが、おれひらめいた
京都平野がトウマ国だろ!!
詳しい奴、意見くれ >290
>調べてみればわかるよ、 このような書き込みだった
・生きてたのか!
・何度もいいました、だっつーの!そういう事なんだっつーの!
・真似なんてしているから、こんな事になってしまった<
この書き方には記憶があるね。
最近2回返事を書いた記憶がある。
という事は、この「伊達」とか「川崎」とかの意味不明な人種差別的な変な投稿をする変な人間は、
このスレの中の大和説者の誰かだった、という事だな。 >>524
邪馬台国の南にあるんだぞ。
邪馬台国はどこになるんだ? 宮崎、大淀川流域、生目古墳群。
円形周溝墓、前方後円墳、三世紀後半〜。
魏志倭人伝と近い時代に、宮崎にかなりの労働力(人口集積)があったことが分かる。
畿内、ヤマトの旗を同じくする勢力。
女王国メンバーの投馬国だね。 >>527
なに!!
トウマは邪馬台国より南かよ
京都はだめか!? >>385
>周髀算経って本そのものが 「昔者周公問于商高曰」って書き始められてるの。
周代の書物じゃないんだよ。<
Yahooでも、そんな事を言い出した奴がいたなあ。
周初の周公から書き出しているから周代の文書だし、
そもそも「周髀」は、「周代の8尺棒」という意味だから、
周代の算経だ、という意味だよ。 >>386
「南→東」などの嘘つき騙しに全く答えられなくて論破されてるよな。
大和説は情け無い 。 >>530
気にする事はねーよ
魏志倭人伝に書いてる方角は間違ってたりするから >>526
一般的ってなんだそりゃ。
それで納得する奴いんのか
W
W
W
W 銅矛圏と銅鐸圏の戦争があったが、
それを操っていたのは北部九州(銅矛圏でありながら銅鐸の鋳型が出土)と
出雲(銅鐸と銅矛が同時に出土)であったのだよ >>531
それだからって周の時代の文章にならないだろ
現代製の江戸時代を舞台にした時代劇は江戸時代に成立した物か? >>389
>答えられなくて九州説が論破されてる事実が 流したい都合の悪いレス そのものだろうね<
何の話か?が意味不明の質問や、
始めから明らかに事実と異なる事ははっきりしている質問や、
以前にきちんと説明してある事への知らん振りした質問や、
始めから人種差別蔑視的な断定文言で誹謗するだけの、・・・・である事が明確な質問や、
精神的な異常性が明確な質問は、
忙しいし、体力も目も悪いし、返事をする必要がないから、
パスしている。 >>391
スレ主が、私(zarakoku)が挙げた論点に対して殆ど反論が出来ずに、
根っこからほぼ論破されてる件について 。 >>394
スレ主だけではなく、大和説者はだれも反論できないし 。 >>397
「南→東」などの嘘つき騙しの、
政府文部省や、右翼マスコミや、自称「アカデミックな研究の場」の学会から、
まともな学者がほぼ消えたのも、事実だな。 こんな罵詈雑言しか出なくなった九州説はもう終わりだね
引き際が肝心だぞザラコク >>400
大和説は、世間的にはもう3割しかなくて、負け組になってる関係上、
なんか「南→東」などの嘘つき騙しの曲芸やらんとイカン立場なのが、
大きなハンデ。
つまりダウンのスパイラルが運命づけられちゃってる。 >>401
大和説者は、いまだに「南→東」の嘘つき騙しだけではなく、
「魏志の里記載は全て1里≒434m位」の話とかを、
喚き散らしてる人種差別殺戮戦争的皇国史観の・・・・馬鹿の集まりだからな 。 >>403
大和説 「南→東」などの嘘つき騙しで荒らすしか 能がなし >>404
>卑弥呼の出自は何処なんだろうか?
>台与は卑弥呼の宗女。どういう関係か?<
卑弥呼は姫氏。
壹與は、阿毎氏の伊都国の出であるようだが、卑弥呼の宗女で後を継いだから、
松野氏姫氏系図にも載っている。 >>406
>箸墓だよ、箸墓。 箸墓が邪馬台国も大和も説明できちゃうキーワードなんだ。 <
「南≒東」だから、×。 >>407
>だって、九州北部から投馬国と書かれた鞆の浦の方角も東が南になってるじゃないか。通訳がいい加減な奴だったのさ。
投馬国だよ、投馬国。 だから狗奴国は東国だろうね。 <
「南≒東」だから×。 >>409
完璧な「南→東」の嘘つき騙しの説だよ、
完璧な分裂幻覚妄想の・・・・説。 >>534
学問板だからねぇ。理由をかかないと。
昔は天動説が一般的だったよね。けど、それは間違いだった。 >>416
>ほら、答えられない
だからトンデモ説は駄目なんだよね <
あれ?。
「箸墓だよ、箸墓」の分裂幻覚の妄想の連続投稿の主も、
このスレにいた大和説投稿子の一人だったのか。 >>418
>でも、よかったじゃないか。
湿地だったおかげで、水稲が育って、邪馬台国ができたのだからね<
「南≒東」だから、×。 >>435
「南→東」などの嘘つき騙しの、
そういうアホな事を言って、
オウム返しをされるたびに、
大和説が、まともな反論ができない現状が明らかになる 。
ザラコクはただ「南→東」って連呼してるだけじゃん
それって反論でも論点指摘でもない
街宣車と同じ
銅矛圏、銅鐸圏の分断を畿内説の人はどう解釈するわけ?
吉備、出雲が弥生後期に急に銅器空白地帯になったのもどう解釈するわけ?
祭祀が違うのに吉備、出雲も邪馬台国連合だと? 倭人伝に書かれている倭人という民族の特徴である
鯨面、卜骨、木弓短下長上は本州の西日本〜関東くらいまでで出る
九州は倭人である根拠がほとんどない >>560
理解不能
九州の倭国の民が倭人で無いと、どこで学んだ? そのまま計算したら南方の海上になるのは
大月国と邪馬台国で呉蜀を挟む位置に司馬が勝手に距離や方角を捏造した
これが答え 魏が勝利し、最終的に晋が統一して司馬が勝ち組になったのは
司馬家が邪馬台国(日本)と通じてたから
日本のバックアップで三国時代を終わらせて統一して勝ち組になった司馬ちゃんの都合で
邪馬台国(日本)の位置は移動させられた
呉蜀は逆らったら大月国と邪馬台国で挟み撃ちやぞ
って脅すためにね >>449
>筑紫の武器は朝鮮の武器だから、短弓使ってたんじゃね 菜畑遺跡は半弩弓が出てるな
>これが畿内説の年代観 <
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
相変わらず、意味不明な書き方だな。 >>451
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説って、相変わらず、
ナニ言ってるかわからない。 >>460
>椿井大山古墳から鉄矛が出たから 九州説終了 <
Yahooでの紹介史料では、鉄矛ではなく鉄槍だった、と言っているんだよ。
いずれにせよ、筑紫倭國からの東征将軍的身分であったようで、大和説終了。 >>466
>(椿井)三角縁も出ておるよ <
内行花文鏡や方格規矩鏡や画文帯が中心で、三角縁の末席だから、
身分は筑紫倭國で、家来に大和の「別種旧小国」がいた、という構図だな。 >>565
都合がいいようにしか理解できないから非常民なんだよ >>470
>九州説は椿井古墳が羨ましくてしょうがないんだなwww
畿内にある以上いくら欲しがっても畿内の物だから <
大和説は椿井古墳が羨ましくてしょうがないんだなwww 。
京都にある以上、いくら欲しがっても大和の物ではないんだから 。 >>568
内行花文鏡や方格規矩鏡は匈奴の墓で出る
量産鏡種ということもあるが、北方の民族が好むデザインなんだろうな >>570
大和説じゃないので関係なし
ここは畿内説のスレ >>526
>投馬国は畿内説だと広島の鞆の浦に当てる説が一般的 <
「南≒東」だから×。 >>531に追記
>周髀算経って本そのものが 「昔者周公問于商高曰」って書き始められてるの。
周代の書物じゃないんだよ。<
Yahooでも、そんな事を言い出した奴がいたなあ。
周初の周公から書き出しているから周代の文書だし、
そもそも「周髀」は、「周代の8尺棒」という意味だから、
周代の算経だ、という意味だよ。
それに「秦髀算経」でもないし、「漢経算経」でもない。 >>574
>そもそも「周髀」は、「周代の8尺棒」という意味だから、
つまり、そんな名前の本が周代に描かれることはない 「南→東」などの嘘つき騙しの大和説
⤴
これほど、説得力のある論は無いです
畿内説は行程を無視しています
瀬戸内航路(→投馬国→邪馬台国)で、方位は間違えようが無い
太陽は四国に有るのですから
北極星は北の空に輝いているのですから 内行花文鏡はそもそも漢が各地の王にその証としてばら撒いた威信材だよ。
倭国では後漢との交流が途絶えた後に国産化して、平原遺跡の世界最大の内行花文鏡である八咫の鏡を作り上げた。
つまり平原遺跡は倭国大乱後の女王墓、卑弥呼の墓だよ。 >>576
禿同
畿内説の学者はここを素通りする、根拠を示せないから わざわざ中国人が書くかよ。
当たり前の事実なんだよ。
平原遺跡より前の遺跡の鏡は、ほぼ漢鏡だよ。
国内外に無数にある。 内行花文鏡は知識や技術が必要ないから
鋳金師のなかでもヘタクソとか新人がまわされるんじゃないかな
量産のプリント絵付けの陶磁器みたいに 内行花文鏡は紀元前からすでに威信材として国内に入ってきているから。
三角縁みたいなニワカじゃないんだよ。 >>583
だから邪馬台国が呉の背後にあるように場所を捏造したってことだね 邪馬台国の卑弥呼は初めて魏に遣使したから
濊なんかからするとニワカだろうな 倭国としては漢の頃から朝貢しているからニワカではない。
だから漢に習って金印を与えている。
魏は漢から禅譲されたので、漢の外交関係を継承していることになっている。
卑弥呼も、最初の朝貢では漢の時に与えられた漢委奴国王印を国璽として用いたはず。 邪馬台国の女王卑弥呼ではない。
邪馬台国は都があったところ。
称号としては倭国女王卑弥呼だ。
東京都知事と日本国首相を取り違えているようなものだ。
日本国首相にあたるのが倭国女王卑弥呼。
東京都知事にあたるのが一大率や禰宜。 >>587
北九州以外でもいっぱい流通してるからね
内行花文鏡が出たから九州からの東遷だー、なんて言う馬鹿が
もれなく笑い者いになるわけだ 中国から輸入するから九州北部経由しかあり得ない。
平原遺跡より後、卑弥呼より後には国産化されただろうけど。 平原の内行花文鏡はアキラ100%のような宴会芸のために
製作された可能性はある >>590
>魏は漢から禅譲されたので、漢の外交関係を継承していることになっている
根拠は? 委奴国がまた来たじゃあ司馬懿の功績にならないんだよ 畿内の鏡は九州北部のお下がりか、鋳直したスクラップ再生品しかない。
だって材料がないから。
本州での銅の算出は和銅年間を待たなくてはいけない。 >>533
>気にする事はねーよ
魏志倭人伝に書いてる方角は間違ってたりするから<
魏使ら陳寿も写本家らも、「東と南」を間違える理由が全くないし、
「東南」も、「南と東」を間違えなかったから書けたんだし、
実際誰も間違わないよ。 別ルートなんてないよ。
あるなら具体的にしめせよ。 わかった。
京都が邪馬台国で、奈良盆地が狗奴国だ。
どう? >>536
>それだからって周の時代の文章にならないだろ
現代製の江戸時代を舞台にした時代劇は江戸時代に成立した物か?<
周代の話であったんだから「周」髀算経なのであり、
秦代の話であったんなら「秦髀算経」であったんだし、
漢代の話であったんなら「漢髀算経」であったんんだよ。 制詔では卑弥呼に「汝の在る所は遠きを踰える」と言っている
北部九州の国だったら「ああ、郡からちょっと行った所ね、前から来てたよね、今日は何事?」
みたいな感じだな もともと倭国は漢と交流していたが、漢は黄巾の乱、倭は倭国大乱があり、互いに国交が絶えた。
しかも朝鮮半島北部に公孫氏が勢力を張って、その後も国交を回復できなかった。
魏が公孫氏を倒した翌年に、すぐ卑弥呼は魏に朝貢を再開している。
邪馬台国は漢から連続して歴史背景を考えないと。 漢の外交関係を継承することが、魏にとっても大事だったんだよ。
九州北部を帯方郡から一万二千里としているので、当時の感覚としてはすごい遠いところを再び来てくれてありがとう? 57年の委奴国の王の名はないが
107年の倭国王帥升等は名が書いてあるから
委奴国の王は非倭人で、倭人の帥升等のころには委奴国王統は絶えてるんだよ 卵生神話の王様の時代は107年までに終っていたんだよ
そのころ甕棺も衰退し、後は転げ落ちるように没落し
溝に埋められる程度の身分になる 漢委奴国=漢の伊都国 博多湾の国
倭国とは何の関係もない。
伊都国は非倭人の国というのには賛成。
ただ王家だけ、1世紀に畿内の倭国から婿を迎えた可能性がある。
1世紀中頃の三雲南小路遺跡の方形周溝墓の受け入れと天孫降臨神話をどう考えるか? 三雲南小路遺跡は甕棺、井原鑓溝から木棺が中心になる >>581
銅鐸の鋳型は九州から出てたんだから
九州の分国が銅鐸圏だわな >>542
>こんな罵詈雑言しか出なくなった九州説はもう終わりだね<
「南→東」などの嘘つきダマシしか出なくなった大和説は、もう終わりだね。
>引き際が肝心だぞザラコク<
自分の事など、どうでもよい。
倒れるまで、国民や家族のために止めないぞ。 北部九州の王が出雲に分家を作った一方で、
銅鐸圏(近畿)とも銅製品の製造を通じて交易があったんだけど
出雲と近畿が争いだしたから、北部九州の卑弥呼が奈良に派遣されて
戦争の仲裁をして、統治したってことだろ >>543
>畿内説アンチは嘘つきばかりだな <
「南→東」などの嘘つきダマシの、人種差別殺戮戦争の皇国史観の大和説者は、
・・・・ばかりだな。 九州では銅鐸の祭祀は普及してないから
注文受けて作ったんだろ >>618
これはマクモニーグル説だけど、まあ歴史の常道を考えると必然の流れだろう
大王は獲得した領地を子供たちに分割相続させるから、当然分国ができる
(チンギスハンの息子たちの国とかな) マクモニーグルは「ホンモノ」かということは置いといて
歴史の常道としてマクモニーグル説はごもっともだよ
というかそれ以外の流れでは銅矛圏と銅鐸圏の同盟が想定できないもん >>552
学問板だからねぇ。
「南≠東」などの嘘つきダマシをするんでも、理由をかかないと。
昔は天動説が一般的だったよね。けど、それは間違いだった。 >>622
海洋民族も広いぞ
卑弥呼の一族は海洋民族 獲得した領地を子供たちに与えた海洋民族の大王って誰よ? >>557
大和説者って、ただ理由を言わずに、「南≠東」って連呼してるだけじゃん。
それって反論でも論点指摘でもない 。
人種差別殺戮戦争狂の皇国史観の・・・・右翼街宣車と全く同じであり、
人間ではなく、暴力団のような唯我独尊の高慢なケダモノであり、
いずれは、家族にも国民にも、戦争に強制して死なせて、
自分らは、栄耀栄華にふけよう、とするもの。 ザラコクはペクチョン時代の呪縛から脱出できないでいる いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 >>629
なんて嘘を乱発してついて虚勢を張らねばならないくらい
テンプレに歯が立たないでいるのがアンチの惨めさだな
w
w
w >>559
>弥生終末期には銅矛圏、銅鐸圏のような文化圏はない<
筑紫倭國の銅矛は、東征毛人55国の頃は、鉄器主体に変わって行った。
出雲から始まった銅鐸祭祀部族は、
出雲では、四隅突出墓部族の渡来で減少し、
倭國の東征で 、出雲系銅鐸部族が東方へ追いやられが、
近江や東海などでは「見る銅鐸」になって、かなり遅くまで残った。 >>627
「南≠東」って連呼してるのはザラコクなんだが
ザラコクは人種差別殺戮戦争狂の皇国史観の・・・・右翼街宣車ということでいいのか? >>629
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 キナイコシは、なぜスレッドに張り付いているのだろうか。。。。 >>627
ザラコクは
唯我独尊の高慢なケダモノ
ということで
評価が定着いたしました。
よくできてる。 テンプレートの嘘が、一つづつ丁寧に、暴かれているね、、、 僕たちは、なぜか岡上氏だと勘違いされているね。。。
僕たちにとっては、あの博識な岡上氏と間違えられるの光栄なのだけれども、、、、
思い込みの激しい、新しくキナイコシと名付けられた、奈良の狂った老人に、いわれのない誹謗をされている本当の岡上氏に、申し訳ないね。。。 zarakoku、ザラコク、などと呼ばれている論者も岡上氏と同様、テンプレートを貼り付けている狂った奈良の老人には脅威なのだね。。。 >>560
>倭人伝に書かれている倭人という民族の特徴である鯨面、卜骨、木弓短下長上は、
本州の西日本〜関東くらいまでで出る
九州は倭人である根拠がほとんどない <
鯨面は、倭人が燕の南の「中国東海岸地域」にいた頃からの、一般倭人習俗であったようで、
「今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差」
であるから、魏使らは確実に実見しており、
だから筑紫には存続していたのであり、
出雲が、梁書の時代にも「文身國」であったようだから、出雲系で長く存続していた、
という事になる。
卜骨も、壱岐と筑紫や肥前に存在していたようであるから、魏使らは確実に実見しており、
しかし、肥後方面からは出土しないから、卑弥呼らの姫氏はやらなかったようであり、
という事は、天孫族系や、縄文からの在地系の習俗であった可能性が高い。
「木弓短下長上」は、
短弓の方が遊牧騎馬民族の北方大陸系に多いんだから、
列島では、在地の縄文系の毛人蝦夷系の地域に多い、という事なんだろう。 ホケノ山古墳には6世紀末の14mの横穴式石室がある。
3世紀中頃に被葬者を埋葬してから300年以上経過して突然14mの横穴式石室が造られたことになる。
そして300年前の被葬者と添い寝するような形で埋葬されている。
https://textream-cimg.west.edge.storage-yahoo.jp/t/57/73/1835208-e606ba43cbadd4e1e6c925af7d305bf1/0/a514839c4971406ff865a3f340e4ea36.jpg
(画像の青い部分が3世紀の石室、隣が6世紀末の石室)
6世紀後半に桜井を支配してたのは物部守屋。
尼さんを素っ裸にして桜井まで連行してきたと日本書紀にある。
その守屋が587年丁未の乱で蘇我に敗れ物部宗家は滅亡する。
14mの横穴式石室は守屋の次世代の誰かが物部氏再興を願って氏神様と眠ったと考えれば筋が通る。
ならば3世紀中頃の被葬者はウマシマジかヒコユキであろう。
だいたい桜井の纏向周辺の謂れは、
・ニギハヤヒが桜井の外山(とび)で神武に屈した
・ウマシマジゆかりの味間という地名
・新撰姓氏録では磯城の県主の祖先がヒコユキ
・稚桜神社の祭神がイズモシコオ
・水口神社の祭神は大水口宿禰
・イカガノシコメがこの地で崇神を産んで育てた
・トミという山や神社
これで物部でない方がおかしい。
纏向遺跡が物部遺跡であることに気付かない橿原考古研の目は節穴である。
こんな所に卑弥呼なんているものか。 そろそろ、卑弥呼や台与を日本書紀に発見したという論者も、僕たちの脅威になってきたのではないかな。。。。 >>644
どうだろうか。。放置でいいと思うよ、、、
あの桜井の古墳が、邪馬台国とは、全く無関係だったことでは考えが一致しているのだものね。。。。 >>645
そうだね、、、
僕たちの最終目的は、ひとえに、あの桜井の古墳が、邪馬台国とは、全く無関係だったことを、くだらない調査や、宣伝のために納税している国民に、伝えることなのだからね。。。 倭国で考えると、漢代からずっと九州北部しかあり得なくなるから、キナイセツは話題そらしで必死だな。 >>644-646
おまえ何で自演してんだよw
書き方が同じじゃねぇかw >>641
>鯨面は、〜筑紫には存続していたのであり
蛸壺漁が瀬戸内東部から博多湾沿岸に伝わっているから、鯨面土器が出る瀬戸内系の海人
製塩土器も中西部瀬戸内系
>卜骨も、壱岐と筑紫や肥前に存在していたようであるから
有明海沿岸2ヶ所に卜骨が出るのは庄内式を受容製作するようになってから
それ以前の九州島からは1かけらも見つかっていない
>縄文系の毛人蝦夷系の地域に多い
縄文時代は短弓、長弓はおそらく畿内〜瀬戸内で石鏃が大型化したころから >>561
>ヤマトとキビの祭祀が共通化するのは布留0期 <
墓祭祀の突然の変更は、何もなかった平穏な部族においては非常に少ない筈であり、
だから、吉備の突然の「有槨」と、ホケノの突然の「有槨」の変化は、
ほぼ同時期でもあるから、
太康6年(285年)の戦乱に拠る扶余や東沃沮の「有槨部族」流民の渡来があった、
という事が強く疑われる。
また「布留0」は当然布留期であり、ホケノの「庄内〜布留」の時代とも一致する。 楽浪だって南韓だって槨が有るんだよ
ザラコクの妄想に付き合う人なし >>563
>そのまま計算したら南方の海上になるのは<
ならない。
不彌國で萬二千余里がほぼ使い果たされているから、
不彌國の直ぐ南に邪馬壹國がある事になり、
更に、南方海域には東テイ人がいるので、その事からも、ならない。
>大月国と邪馬台国で呉蜀を挟む位置に司馬が勝手に距離や方角を捏造した
これが答え<
魏使らは、皇帝でもない司馬懿なんて問題にする筈もなく、
在野になっていた陳寿も、司馬氏の意向など関係がある筈もなく、
これも、「南→東」などの嘘つきダマシの・・・・大和説者の、
分裂幻覚の妄想の類。 >>653
布留0ってゼロだから布留の前なんだよ
常識なんだけどね >>653
>吉備の突然の「有槨」と、ホケノの突然の「有槨」の変化は、
>ほぼ同時期でもあるから、
2世紀前半の楯築墳丘墓は木槨(外箱)を有する >>655
とってつけた古田トンデモ読みは世間から相手にされてないよ。 新羅は出雲が作り百済は畿内ヤマトが作った
筑紫倭國は当然新羅と友好であり百済と敵対関係なんですね >>564
>魏が勝利し、最終的に晋が統一して司馬が勝ち組になったのは
司馬家が邪馬台国(日本)と通じてたから<
通じていた、という証拠は何もなく、
これも、この大和説者の分裂幻覚の妄想。
>日本のバックアップで<
バックアップなんても、史料事実に存在せず、
これもこの大和説者に特有の、分裂幻覚の小説的な妄想。
>三国時代を終わらせて統一して勝ち組になった司馬ちゃんの都合で
邪馬台国(日本)の位置は移動させられた<
魏使らや陳寿が、「移動させられた」、という証拠もない。
>呉蜀は逆らったら大月国と邪馬台国で挟み撃ちやぞ って脅すためにね <
全くの、・・・・の分裂幻覚の妄想そのものだね。 >>571
>内行花文鏡や方格規矩鏡は匈奴の墓で出る
量産鏡種ということもあるが、北方の民族が好むデザインなんだろうな <
21個の「尚方作」が書かれた方格規矩鏡は、明帝の工房の「尚方」で造られたんだよ。
内行花文鏡には「尚方作」が書かれていなかったから、
魏朝の在庫や、民間からの購入で揃えられた。
近辺の豪族に与えたり、
割って鏡片にして、親愛な部下にペンダントとして与えた。 >>667
アマは海人だな。
空の上に人がいるわけないだろw >>660
岡上も仮定を確定事項であるかのように嘘をついて根拠にしてる >>633
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったなどと、考えているのかな、、、 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 テンプレートを論破され続けている、小汚い老人が、岡上氏という謎の人物に、八つ当たりしているようだね。。。。
岡上という人はどんな人なのだろうか、、、、 台本を複製して貼り付けた投稿と、何度も何度も必死に戦っている、奈良の狂った老人がいるね、、、
なぜだろう、、、 >>670
内行花文鏡は数百年に渡って漢から与えられた王の威信材。
三角縁は一時期の流行り。 【 岡上はsこういう人 】
158 名前:岡上 ◆JN/67qb8kM Mail: 投稿日:2017/08/31(木) 21:18:37.45
>>147, 149
なんですか、大規模工事の女性墓を探すぐらいが、畿内説では突合というのですか???
笑わせないでください。
で、伊都国説への反論では、、、、
ーーーーーーーー
885 名前:真キウス Mail: 投稿日:2017/09/01(金) 22:40:35.55
不弥国まで頭が周りませんでした、、、、、
ーーーーーーーー
492 名前:岡上 ◆JN/67qb8kM Mail: 投稿日:2017/09/04(月) 21:08:59.06
それでも平原一号墓を衰退と言い張るのは流石に無理がありますし、そこまで言う先生もいないと思いますけど。。。
ーーーーーーーー
65 名前:岡上 ◆JN/67qb8kM Mail: 投稿日:2017/09/10(日) 19:37:51.82
景初四年の1月が実在したら、お祝いになっちゃうんじゃないですかね?
後12月であれば、新年のお祝いはせずにすむと思いますけど。。。
ーーーーーーーー
117 名前:岡上 ◆JN/67qb8kM Mail: 投稿日:2017/09/10(日) 20:27:43.84
なんか罵倒ばっかりですね。
世間では景初四年実在説のほうが有力ともおもいませんけど。。。
ーーーーーーーー
234 名前:岡上 ◆JN/67qb8kM Mail: 投稿日:2017/06/09(金) 23:37:22.40
今日は何か盛り下がってますねぇ。。。 ーーーーーーーー
529 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2017/10/21(土) 08:07:45.32
岡上という、その人なら、このスレッドに投稿する人の中では、相当の知識を持ち、とても頭の良い人だよ。。。
テンプレートを張り付けている小汚い老人が、彼に理不尽な中傷をするのは、八つ当たりだけではなく、恐らく、知識の多さと、頭の良さに嫉妬しているのもあるのだろうね。。。。
ーーーーーーーー ?
?
?
キナイコシが妙なものをはりつけたね
?
?
? でも、僕たちは、キナイコシの特徴もまねられるのにね
w
、、、 とか 。。。
インターネット界での流行でしかないのにね、、、 否定すれば否定するほど、思い込みが激しくなっていくのだね
w まあいいんじゃないw
岡上氏にはもうしわけなけど
w そうだね
僕たちの最終目的には支障がないからね
w
台本をキナイコシバージョンに変更しないといけないね
w >>679
岡上氏なら、このスレッドに投稿する人の中では、相当の知識を持ち、とても頭の良い人じゃん
張り付けているテンプレートを論破され続けている小汚い老人が、彼に理不尽な中傷をするのは、八つ当たりだけではなく、恐らく、知識の多さと、頭の良さに嫉妬しているじゃん
w だいたい2世紀前半の男王から3世紀後半の台与まで続いた【王権】の痕跡がないのなら話にならない。
文献、伝承、神社、神社の祭神、何か残っているはずで痕跡が抹消されたなんてバカな話があるはずはない。
2世紀前半の男王から3世紀後半の台与まで続いた【王権】は、
普通に考えて現天皇家の祖先かその前王権であろう。
前王権とは事代主神や大物主だ。
福岡にそんな痕跡は全くない。
日本で痕跡がちゃんと残ってる場所がある。
大和朝廷発祥地・葛城の高天原(御所市高天)だ。
日本最古の神社の径百余歩の御神域。
ヒミコの墓「も」ここにある。
そして宮。
神武の御所市柏原宮、
綏靖の宮は御所市森脇、
ヒミコことヒメ踏鞴の住んだのは御所市名柄、長柄神社(別名姫の宮)であろう。
https://textream-cimg.west.edge.storage-yahoo.jp/d9/8e/1835208-bcygobf9qoc0aha4ac9a5a4ada4jbfmbd8a4dea4la1aa/2378/5b0d2a1d6e7e15293308507f5e1605f1.png 鴨は自分スレに帰れよ。
いくつかのスレ立てたと思っているんだ。 畿内説にゃールールを守ってもらわんといかん
南が南西や南東ぐらいなら大目に見れるが
真東じゃイカン
それも、誤記だとか誤認だとか転写ミスだとか妄想では根拠にならん
なるほどと言わせる根拠を示す必要がある
ZARAKOKU以外の国民も納得させられない >>674
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど
w マクモニーグル説が正解だな
銅鐸銅矛の状況見るにそれしかありえない >>705
同意
畿内説の最大の難関は方位・・・他にもいっぱいあるが
方位については、少し触れるだけの畿内説本
キナイコシも少ししか触れないし、根拠足りえるものも無い 結局のところ九州説に残されてるものは
「南≠東」の連呼しかない
と言う話で w w
w >>704
いや、古代史界の「わかば学級」と言われる古田説のお前こそ九州王朝説スレに帰れ。 テンプレートの嘘が、一つづつ丁寧に、暴かれているじゃん
w >>575
>>そもそも「周髀」は、「周代の8尺棒」という意味だから、<
>つまり、そんな名前の本が周代に描かれることはない <
いや、「周代」とは、
「秦政府支配地の時代」とか「漢政府支配地の時代」とかではなく、
「周政府の支配地時代」という意味。
「 >>576
>「南→東」などの嘘つき騙しの大和説
⤴
これほど、説得力のある論は無いです
畿内説は行程を無視しています
瀬戸内航路(→投馬国→邪馬台国)で、方位は間違えようが無い
太陽は四国に有るのですから
北極星は北の空に輝いているのですから <
有難うございます。 >>588
>だから邪馬台国が呉の背後にあるように場所を捏造したってことだね <
魏使らも、陳寿も、「捏造」などに関係もなく、する必要も理由もない。 >>592
>北九州以外でもいっぱい流通してるからね 内行花文鏡が出たから九州からの東遷だー、なんて言う馬鹿が
もれなく笑い者いになるわけだ<
「被葬者にとっては大事なお宝であった 」のでなければ、
副葬されたり、
他の副葬鏡とは区別して、頭部の大事な位置に副葬されたり、
する事もない。 >>719
あんたが勝手に決めることじゃないだろ
w >>714
「支配地時代」ってなんだ?
また素人おじん75歳ザラコクの新発明か? 畿内でも三角縁より内行花文鏡が珍重されたのは確かだと思うね。 >>595
>平原の内行花文鏡はアキラ100%のような宴会芸のために
製作された可能性はある <
大和の粗悪な三角縁神獣鏡は、場末の田舎の副葬鏡の付けたしのために 、
製作された可能性はある。 >>602
>わかった。 京都が邪馬台国で、奈良盆地が狗奴国だ。 どう?<
南≠東だから×。 >>722
あたりまえだ
くれた魏が滅んだら只の量産品だからな >>724
>南≠東だから×。
という根拠がないね。 >>604
>制詔では卑弥呼に「汝の在る所は遠きを踰える」と言っている
北部九州の国だったら「ああ、郡からちょっと行った所ね、前から来てたよね、今日は何事?」
みたいな感じだな <
難升米らは、郡まででも、「水行十日陸行一月」だったし、
それは結局「萬二千余里」だった。 >>603
現代で作られた話なのに大江戸何々とかあるじゃん
周の時代の話が書かれてるから周に成立とかは言えないのが普通
文章中に漢の時代のものでしかありえない表現も出て来るらしいし >>605
>もともと倭国は漢と交流していたが、漢は黄巾の乱、倭は倭国大乱があり、互いに国交が絶えた。
しかも朝鮮半島北部に公孫氏が勢力を張って、その後も国交を回復できなかった。
魏が公孫氏を倒した翌年に、すぐ卑弥呼は魏に朝貢を再開している。<
ウソを付くな。
魏が公孫氏を倒したのは明帝の景初二年だし、
卑弥呼の朝貢は、明帝の景初二年6月に帯方郡に着いているから、
公孫氏との戦争の「戦中遣使」だ。 内行花文鏡は漢が滅びてからも珍重されていたのにね。 東南問題は単なる陳寿の早とちり。
奴国の南に狗奴国があるという記述から南へ進んだんだと勝手に思い込んだだけ。
ちなみに邪馬台国というのは狗奴国の都な。
当時の情勢を簡単にまとめると、瀬戸内海の北を奴国が、南を狗奴国が支配していて、大陸半島への交易窓口の北部九州は奴国が支配し、呉や公孫氏との独占して狗奴国は劣勢に立たされていた。
ところが大陸半島情勢が激変し、魏という国が半島まで拡大してきたということを察知した狗奴国が、山の中の獣道を通り寒村の寂れた港で船を調達し奴国の監視の眼を掻い潜って帯方郡へ使者を送った。
それに成功したことで狗奴国が形勢逆転に成功した。
邪馬台国の「邪」、卑弥呼の「卑」、狗奴国の「狗」、蔑字が当てられてるのはみんな同じ勢力な。 >>733
帯方郡から一万二千里という遠い道のりをはるばるようこそ、だろ。
大月氏国と対比させているんだよ。
もちろん、一万二千里は福岡までの距離だしね。
キナイセツは近視眼的過ぎるようだね。 卑弥呼は邪馬台国の女王ではなく、倭国女王なんだよ。
漢の時の国交の回復なんだ。
それにより、魏がちゃんと漢からの禅譲を対外的にも承認されていることをアピールできるというわけ。
だから、倭奴国と同じ金印を再び魏の名前で与えたんだよ。
当然、倭国の都は漢の頃と同じという理解だった。 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 >>609
>57年の委奴国の王の名はないが 107年の倭国王帥升等は名が書いてあるから
委奴国の王は非倭人で、倭人の帥升等のころには委奴国王統は絶えてるんだよ<
松野氏姫氏系図には、
57年の委奴国の王の名も107年の倭国王の名も、書かれているよ。 >>736
何百年も違う別の時代の情報をまぜたことで生まれたトンデモ説だね。 禅譲したことを対外的に示すことにどれほどの意味があるの? >>731
三角縁だって魏が晋になって手に入らなくなった後も需要があって
下手糞にマネした国産品が山ほど作られたんだぞ というか畿内の三角縁はほとんどが質の低いコピー品だよ。 >>736
要するに後漢書は魏志のいう南は間違いで
東に訂正してるわけでしょ?
邪馬台国は畿内でよし >>746
だから古田やザラコクは口を極めて後漢書の筆者を罵ってるわけだね。 陳寿は233年の生まれ。
後の時代になって魏呉蜀公孫氏の史書を手に入れ西晋にとって都合の良い歴史を私選しただけだからな。 反論ができないから、ただひたすらケナす
それが九州説
だから支持者がいなくなった >>751
都合の悪い史書は否定して回らないと維持できないキナイセツ。
ついに魏志倭人伝まで否定。
邪馬台国スレに出入りするのやめたら? 陳寿って恐らく奴国と狗奴国のどちらが後に日本の正統政権になったのかも知らなかったんじゃないかな ちなみに奴国と狗奴国は倭国大乱で分裂してただけで元は一緒な 九州説のじいさんは
自分たちがヤラカシて罪悪感あることを
オウム返しの発想で主語だけ入れ替えて
畿内説にしわざと誹謗中傷してるだけ
それで自分自身にいいわけしてる
だから、具体的な畿内説批判ができない >>759
その通り
狗奴国の官は「ヒコ」
奴国の副官は「ヒナモリ」
ヒコとヒナモリはもともとセットだった(壱岐、対馬) >>610
>卵生神話の王様の時代は107年までに終っていたんだよ
そのころ甕棺も衰退し、後は転げ落ちるように没落し 溝に埋められる程度の身分になる <
松野氏姫氏系図では、107年の王の後も、
倭國王としての系図が、倭王武の次の倭國王哲まで続いている。 奴(那)国が分裂した。
双方が正統を主張し、一方から見ると他方は狗野郎どもの国な。 >>764
北部九州銅戈国=倭奴国 と
大阪湾型銅戈国=狗奴国だな >>755
考古学的発掘成果と合致している魏志倭人伝の記述なら肯定します。
例えば地名とかね
考古学的に裏付けられていない魏志倭人伝内の記述は
採用するわけには行かない >>611
>漢委奴国=漢の伊都国 博多湾の国
倭国とは何の関係もない。<
歴代中国史書群は、倭國の元は倭奴國であったように書いている。
>伊都国は非倭人の国というのには賛成。
ただ王家だけ、1世紀に畿内の倭国から婿を迎えた可能性がある。<
「南≠東」ですから、可能性は全くありません。 >>768
銅戈は長野県からも出てる
しかも銅鐸と同時に
北部九州、大阪湾、長野の三つの拠点といえば安曇氏
銅戈をシンボルとする海洋民安曇氏が北部九州から大阪湾、長野に点在的に勢力を広げ
そのうち北部九州の安曇氏は邪馬台国に服属したが大阪湾の安曇氏は拒んだ(=狗奴国)
一方で長野の安曇氏は銅鐸勢力に平和的に組み込まれ共存したと
ということだろうな 倭国大乱前の倭国の都の近江でも倭国大乱後の狗奴国の都(邪馬台国)の濃尾でも、鉄器は出土してるだろ そして銅戈祭祀は朝鮮半島が発祥だから
朝鮮半島から渡来した安曇氏が倭奴国連合を作り中国に朝貢し
それから数十年遅れて卑弥呼の氏族が南洋から沖縄を経由して渡来し倭奴国とも共存(政略結婚)しながら勢力を広げた
ということだろう >>618
>北部九州の王が出雲に分家を作った一方で、
銅鐸圏(近畿)とも銅製品の製造を通じて交易があったんだけど
出雲と近畿が争いだしたから、北部九州の卑弥呼が奈良に派遣されて
戦争の仲裁をして、統治したってことだろ <
「南≠東」だから、×。 >>402
このスレで一番含蓄の深いレスやなあ〜
おじいちゃん等も呟き先生みならわなあきまへんで(マジレス >>623
>マクモニーグルは「ホンモノ」かということは置いといて
歴史の常道としてマクモニーグル説はごもっともだよ
というかそれ以外の流れでは銅矛圏と銅鐸圏の同盟が想定できないもん<
出雲は、縄文から西日本の盟主的であり、
弥生倭人に国譲り戦争で負け、
倭國の東征で、各地の支配地が倭國の支配地に変わって行ったが、
国としては、梁代に「文身國」として存在していた。 中国江南から広がった下戸遺伝子。
中国南部の文化である銅鐸。
島生み神話は、中国南部に多い神話のモチーフ。
日本に於ける下戸遺伝子分布の中心は、大阪湾と伊勢湾。
淡路島から紀元前4世紀の銅鐸が出土。
国生み神話で最初に生まれる淡路島。
イザナギの宮があったとされる淡路島。
唐古鍵遺跡の弥生時代中期の木棺墓から出土した頭蓋骨は大陸系の特徴が強かった。
呉の末裔を名乗る倭人とは、中国南部から渡来した人々、下戸遺伝子をもたらした人々と考えるのが妥当。
中国南部から銅鐸文化をもたらした人々(倭人)が渡来したのは、紀元前4〜5世紀。春秋時代末期。
弥生時代中期には、ヤマトで拠点集落を作れるぐらいに勢力を拡大していた。
倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃、吉備中心。
倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、大阪湾を中心とした畿内が中心だろうね。 八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の話であるのを当たり前のように理解していた。 卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。これが2世紀後半。記紀でいう神武東征の話。 神武は吉備軍に同伴しただけ。
結果卑弥呼側の勝利で終わり、大和の地は卑弥呼の支配下になる。この時に吉備の勢力が大和入りしたんだね。
吉備の兵は他の国々の兵と共に纒向に駐屯。
これが纒向で伊勢尾張、吉備、丹波近江、大分の土器が出土する理由。
在来系の土器も勿論多数出土している。
纒向の南の芝遺跡は纒向と入れ替わるように弥生時代後期に消退するし、芝遺跡からも人々が纒向の営みに動員されたんだろうね。 さざなみの近江…近江が都だった時代に倭国大乱が始まった
つぎのう山背…山背が亡命政権の都になった。山背とは多賀大社及び霊仙の背後にある濃尾のこと。象鼻山は濃尾平野を見渡している。
あをによし奈良…その後、大和に都を遷都して安定した。
「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」
これもそのことを言ってる。 >>780
トンデモ説を演説したかったら
自分で新スレ作れば? >>630
・・・なんて嘘を乱発してまでして、
虚勢を張らねばならないくらい九州説に歯が立たないでいるのが、
スレ主や大和説車の惨めさだなw w w 。 >>636
大和説学者やスレ主や大和説者らは、
唯我独尊の高慢なケダモノ、
ということで 評価が定着いたしました。
よくできてる。 しかし歴史やってるような奴らって学問界の落ちこぼれなんだなぁとつくづく感じる。
簡単な論理パズルも解けないくらい、論理的思考力が欠如してる。 >>738
>松野氏姫氏系図には、
松野は勿吉、モッキツ→モッツ→マツ
松花江あたりで満鮮ブタ飼って犬食って小便で顔洗ってた民族 >>786
自己紹介は要らないよ
皆んな知ってるから >>656
ダウト!
1よりふるい出てきての後付けしたんでしょ?
ちごてたらすまんです(^^ >>790
「どう考えても」は
考えてないという自白 >>704
わじんはたいほーとなんたいかいにあっりー
とーなんほーこでっしゃろ
まみなみだけマークしたらあきまへん(^^
まみなみt >>795
で、九州説は捜査線上から消えたわけだ。 2chのフォーマット半年くらいまえにもどらんかのー >>652
>蛸壺漁が瀬戸内東部から博多湾沿岸に伝わっているから、鯨面土器が出る瀬戸内系の海人
製塩土器も中西部瀬戸内系<
成程。
>有明海沿岸2ヶ所に卜骨が出るのは庄内式を受容製作するようになってから
それ以前の九州島からは1かけらも見つかっていない <
成程。庄内と共存?していたのか。
>縄文時代は短弓、長弓はおそらく畿内〜瀬戸内で石鏃が大型化したころから <
成程。 大国主の国作りって巻向建設以外に該当しそうなのってある? 卑弥呼さんは糸でいよさんがきょーとのやまいでええんちゃう(てきとー >>786
ほ〜そうね
カードの片面にはアルファベット1文字、もう片面には数字1文字が書いてあります
片面の文字がAならば裏面の文字は3であるという規則が守られているかを
確かめるためにひっくり返して裏面を調べる必要のあるカードはどれですか?
A 、K 、 3 、7 衝撃の事実!
ヤマイ国が卑弥呼さんの都だったとは三ごくしにはかかれてない!(マジレス >>805
ちょこちょこレスしとりますがな
スレ立てもしましたがするーこーげきうけました
くなこくきないせつ やまいこくはあくまでいよさんのみやこにしているくにです
それいじょーのことはわからんいうのがちゅーごくのひとのいけんでした(サンプル10にんくらい 最低限という意味です、意味のないカードはひっくり返しません >>812
違うカードの裏に同じ数字が書かれててもいいのかい? とうせいのけっかのたんじょーちゃいますか(ききさんしょーのこと
ps.クナはくに 伊勢西征、吉備東征で畿内のクナはボコられたんだよ。
最初にやられたのが、ヤマトの地。 >>654
>楽浪だって南韓だって槨が有るんだよ <
楽浪は、槨があるかも知れないが、南韓は「有棺無槨」だよ。
そして、問題の原点は、
墓の埋葬形態は、その部族の象徴的な価値があり、保守的であり、
何らかの理由がなければ殆ど変わらない、という事であり、
だから、吉備とホケノの「槨の出現」は、「有槨」部族の渡来を考えなければならない、
という事なんだよ。 盛者必衰。歴史はそれを繰り返す。
でも事実を捻じ曲げたらダメだ。
敗者にも歴史がある。 ありゃ!
796のアンカーミスっとる
どこやったかめんどーなんでほーち(すまぬ その系図を見せてくれ。
そうしないと話にならない。 Aの裏面は3でなければいけないのでひっくり返す必要があります
Kの裏面は別に3であっても規則は守られているのでひっくり返す必要はありません
3の裏面はAに限定されませんのでひっくり返す必要はありません
7の裏面はAであってはいけないのでひっくり返す必要があります >>656
>布留0ってゼロだから布留の前なんだよ 常識なんだけどね <
布留と庄内は、形態的にも製法的にもかなりはっきり区別出来るのであり、
早期の布留だ、と思ったのなら布留1に含めればよい事であり、
それを布留0を造って、境界期間を設定する事自体が、
寺澤のインチキダマシになるんだよ。 出雲は古墳時代まで静穏じゃないかな。
独自の墓制保っているし。
亀岡〜丹波〜三田の辺りの勢力は、卑弥呼側に寝返ったと思われるけど。 やばそろそろ「南≠東」先生に追いつかれてまうな
せんせーどーかおてやわらかに(^^ つまり徐福一族(甕棺墓)と出雲一族の戦いであったわけですね 上御殿にオルドス式を持ち込んだのって青谷上寺地を打ち破って近江に侵入した出雲だよな 倭国大乱
◎吉備が少しずつ瀬戸内海の支配を進める。
2世紀末までに播磨、淡路島と吉備に落とされていく。
◎九州南東部の投馬国。吉備などの西瀬戸内海の海人と手を組み、九州北部を征圧。
伊都国に一大卒、苅田にも拠点を構える。
◎伊勢尾張の勢力
打倒畿内のクナを目指し、西征。
甲賀、伊賀と兵を進め、南近江を征圧。
さらに伊賀→宇陀方面からヤマトに進軍。
大きく分けて、この3つの勢力が卑弥呼共立で手を組んだんだな。 そういうことだ
高校卒業程度の学力があれば
九州説が眉唾と分かるさ >>657
>>吉備の突然の「有槨」と、ホケノの突然の「有槨」の変化は、 ほぼ同時期でもあるから、<
>2世紀前半の楯築墳丘墓は木槨(外箱)を有する <
その「2世紀前半」という事の根拠は何だったんですか?。 >>839
難易度MAXの問題だすぞ(いいのか畿内厨 >>666
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説、じり貧。 答えが有ると最初から解ってる問題を解くのは比較的簡単なんだよ
答えがあるのかどうかわからない状況下で答えが有るのかどうかから見極められる能力が大事 >>710
結局のところ大和説に残されてるものは、
「南→東」などの嘘つきダマシの連呼しかない、
と言う話で w w w 。 >>846
オウム返しってホントに馬鹿みたいな文章が出来上がるね >>711
いや、古代史界の「人種差別的戦争の皇国史観のやくざ暴力団の・・・・学級」、
と言われる大和説のお前らこそ、
病院か刑務所に帰れ。 >>830
>寺澤のインチキダマシになるんだよ。
過渡期の様式を設定してるのは寺澤だけじゃない
布留傾向という言い方をする >>716
>実は南→東で正しいんじゃないの<
実は、「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者は、
人種差別的殺戮戦争狂の皇国史観のキョクウ暴力団の・・・・で正しいじゃないの?。 出雲って奴国でも狗奴国でもない第三国っぽいんだよなぁ
あっ、伊都国か >>845
>「南→東」がなんで嘘なの?<
倭人伝で南と記述されてるから・・・・・倭人伝がウソなら邪馬台国は存在しない >>842
よういうた
部屋に4x4のマスの盤があります、看守はA、Bの死刑囚にこの問題が解けたら即開放
でも解けなかったら即日死刑といい、ルールを説明しました。
看守はA、Bを部屋の外に待機させ、この盤にコインをランダムに(1から16可能)置いていきます
尚、各マスに置けるコインは1つです
コインを配置したあとAを部屋にいれ1以上16以下の整数のどれかを告げます
Aはその整数を聞いた後4X4の盤の上に
@コインが置いてないマスに1つだけコインを置く
Aコインが置いてあるマスから1つだけコインを取り除く
のいずれかの操作を一回だけおこないます
その後Bを部屋に入れBは盤の様子を見てAに告げられた整数をあてます
A、Bはどのような戦略をとればいいでしょうか?
尚A、Bは看守がコインを置いた盤面の配置はわかりません
前提として盤面の向きがどちらが正面かわかるものとします
ルールを知った上で開始前に戦略を打ち合わせることができます >>855
看守がAに告げる整数と盤に置かれたコインの数は一致してるという事でいいのか? >>728
>現代で作られた話なのに大江戸何々とかあるじゃん
周の時代の話が書かれてるから周に成立とかは言えないのが普通
文章中に漢の時代のものでしかありえない表現も出て来るらしいし<
「周髀」とは、8尺棒は「周代にあったものだった」から、
「周髀」と呼んだんであり、
秦朝の時代にあったものなら、「秦髀」であり、
漢朝の時代にあったものなら、「漢髀」と書かれるんだよ。 >>855
正解=俺はCだから、A、Bどちらが死刑になろうと関係ない
そんなこと考える暇があったら自分が解放される方法を考える >>858
「周髀」とは「周代にあったものだった」と認識している人間は
周代にはそう発言しない。
ゆえに「周髀算経」と言う書名の本が書かれたのは周代ではない >>857
一致してるとは限りません、看守がコインを置く組み合わせは2の16乗ありますので
すべてにおいて対応しなければなりません、看守は1から16の任意の整数
つまり、8や11とか
BはAが部屋から出されたあと入るので目で合図とか一切ズルはできません
コインを立てるとか、つばをつけるとかはなしね >>732
>東南問題は単なる陳寿の早とちり。<
「南→東」などは、現代日本人の嘘つき騙しの大和説学者らだけの、曲解捏造。
>奴国の南に狗奴国があるという記述から南へ進んだんだと勝手に思い込んだだけ。<
魏使らは、東西南北間違えないよ。
>ちなみに邪馬台国というのは狗奴国の都な。<
要するにこの男も、史料記載を曲解捏造する・・・・人種ね。 >>859
AかBの死刑囚の立場に立って考えてください コインを全然置かない、すべて置くとかなら簡単ですが
たとえばコイン10個をランダムに置くとか考えてください
短時間で解けたら天才と呼ばせてください >>739
>(松野氏姫氏系図)その系図の内容はどこで見ることができるんだい? <
国立国会図書館と、静嘉堂にあるらしいよ。 >>861
つまり看守の言う数字と盤のコインの数、位置はバラバラってわけね
Aはその盤のコインを置くか取り除くかして
告げられた数字のサインをBにおくらなきゃならないわけか >>865
君は天才だよ
二人とも逃げられるものな >>743
人種差別での殺戮戦争好きのキョクウの皇国史観の大和説者は、
「南→東」などの嘘つき騙しが好き。 八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。
国造りをした大阪湾の倭人、そしてクナ。
歴史の敗者でもあるが、彼らに敬意を表す意味もあったんじゃないかな。
後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の話であるのを当たり前のように理解していた。 宮中式内社も興味深い。
どういうチョイスなんだろうか? >>855
あんた設問の仕方悪すぎ
設問の解説だけで一晩掛かるよW >>746
>要するに後漢書は、魏志のいう南は間違いで東に訂正してるわけでしょ?<
後漢書は、「南は間違いで東に訂正」していない。
>邪馬台国は畿内でよし <
「南≠東」だから、×。
邪馬台国は畿内でよし >>750
古田さんも私も、
「後漢書は半分×書であった」説であり、
前史と同じである箇所もあれば、
前史を「自分の解釈や考えで、少し誇張的に書き換えている」ところもある、
半分×史書だ、という考え。 >>873
後鳥羽院が古代かよ。
日本史板にいる資格ないだろ。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。 魏志倭人伝の南は奥のこと。単純に当時の漢人は日本列島が九州を付け根として南に伸びる列島だと思ってたというだけで奥に奥に進んだことを南に行ったと誤記してただけ。
その場合、邪馬台国はただのヤマト国の音訳に過ぎず大和地域に文字通り存在したことになる、クナ国もその先の関東にあったことになる。
魏志の南=中国から見て奥、って解釈で全て解決できる。 >>862
魏使が日本くんだりまでやって来たと思い込んでるのか… 魏志倭人伝の南を西と読む事自体畿内説は成り立たない。
当時から東西南北は蔓延し太陽による方角概念もあった中間違えようはない。
よって畿内説は終了とさせて頂きます。
>>1の兄より。 南は南。小学生でも間違わない。
変に読みかえようとする輩は意図的に事実を隠蔽したいんだろうね。投馬国とかクナの位置を。
邪馬台国へのルートである。
魏志倭人伝において、ます到着するのは末盧国である。500里をはるばる歩き、伊都国(博多湾一帯)に至る。
伊都国から奴国(飯塚市を中心とした遠賀川流域一帯)へ。さらに東に進み、周防灘に面する不弥国(行橋市から宇佐)に至る。飯塚市から行橋市に古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時、玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路だった。
そこから船で南へ沿岸を航行し、20日かけ大隅半島を抑えている投馬国へ着く。
大隅半島を南へ漕ぎ出し黒潮に乗る。黒潮は時速7Kmであり、何もせずとも1日に150Km進む。黒潮は自然と潮岬に接岸する。(現代において観測され証明されている)つまり10日で潮岬に流れ着く。
熊野に上陸し、陸行1ヶ月でヤマトに至る。
これが魏志倭人伝当時の邪馬台国へ至るルートである。 というか、魏の使いが九州北部までしか来ていないのに卑弥呼に会えている時点で、畿内説は成り立ちようがないんだが。 >>882
>魏志倭人伝の南を西と読む事自体畿内説は成り立たない。
この人の場合は東西を間違えている 八十島祭は践祚大嘗祭の翌年に行われる重要な儀礼で
史料上でも850年9月文徳天皇即位時が初見だから
記紀からは1世紀半くらいしか経っていない
八十島の語は万葉集に4例、風土記に1例あるので大八洲国の語よりも古い そろそろ頭のビョーインに行け。
それと本物と思われる人物の家に行き、
話などを聞いたほうが早い。 ちなみに家は
川崎区の南部のほうだよ
確か他のスレにも書いたはず 騙り、成り済まし・・・寄生・・・その他、
そろそろ終わりにしたほうが良いんじゃないのか?
すべてを失うことになるだろうから >>880
群から乍南乍東して狗邪韓國まで七千餘里
對馬國、一大國を経過して末廬國まで三千餘里
残り二千里足らずで自郡至女王國、萬二千餘里
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳としながらも
女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種と書いてある
群から末廬國までは問題ないだろ
末廬國から女王國まで二千里足らず對馬國から末廬國までに至らぬ距離だ
そこから東に行けば倭種の国がまだまだあるとも書いている
倭国の報告をあげた役人は日本列島の地理を分かってるじゃん ただ、このようなスレなら
詳しい人がいると思ったので、
貼り付けているだけなんだけど
葱の華、白い制服を着ている子供の写っている写真があるでしょ、
それが・・・後に・・・白い服の写真になる
その子供のほうだと言っている、お爺さんの家の・・・・ 『山王院 山王宮』
同じような名前だけど、
上の読み方は「す」のほうだと言っている >>751
記紀以降の日本の皇国史観の御用学者は、後〜現在の時代になって、
中国史書群を皇国史観にとって都合がよくなるように解釈に手に入れ、
皇国史観の歴史を私選しただけだからな。 『伊達郡 菅野氏』
むかーし、この辺りに住んでいた事があるんだよ
と言っているし 確実に大工ではないだろう
その写真の家の兄弟?などがいるでしょ、
大工ではないんだから 中国 「日本国民から奪った税金で日本企業と日本の政治家を買収しよう、中共に忠誠を誓う留学生をどんどん日本の血税で育てさせろ」
韓国 「日本からの支援と通貨スワップで日本企業から人材をどんどん引き抜いて日本企業を潰そう」
北朝鮮 「パチンコマネーを工作活動資金にしてミサイル大量に作って日本を脅そう」
反日活動家 「日本の福祉にたかれば反日活動資金がたっぷり手に入るぞ、極左の医者と組んで医療費を奪える」
政治に無関心だと日本人の血税は外国にばかり使われます。 そうなるだろう
その写真の家の人?だけが、
アサノセメントで仕事をしたというだけ
実家は大工でもないし、
山の上のほうに住んでいて、田や畑が何やらと言っていたり >>880
実正でも根拠でも無く
単なる思い込み
畿内説は思い込みが多く学問と言えない 邪馬台国に学問も何も無いだろう、
と言っている人もいたでしょ
日本に学問なんてものは無かったんだから、
本当に頭のビョーインに行ったほうが良いぞ 〜時代になるまで、
文字の読み書き、計算すら出来ないからな
と言っている人もいたような? 方角、方位なども知らなかったとか。
だから、ほとんど『聖化 日霊 日神 津』が現れてからの話だよ。
日本の神話というのもそう。 >>752
「南→東」などの嘘吐きダマシの指摘に、
反論ができないから、ただひたすらケナす。
それが皇国史観戦争国家教の大和説。
だから支持者がいなくなった 。 魏志倭人伝の南を東と読む事自体畿内説は成り立たない。
当時から東西南北は蔓延し太陽による方角概念もあった中間違えようはない。
よって畿内説は終了とさせて頂きます。
>>1の兄より。 >>756
「南→東」などの嘘吐きダマシの、皇国史観戦争国家主義の大和説者は、
都合が悪くなると、
「陳寿って奴国と狗奴国のどちらが後に日本の正統政権になったのかも知らなかったんじゃないかな」
なんて、陳寿誹謗のヘイトスピーチ宣伝までして、
国民を欺いて戦争に駆り立てよう、とまでする・・・・人種なんだわ。
怖い怖い。 >>909
毎日まいにちザラコク爺さんは
「南→東」などと嘘吐きダマシの指摘をしてるんですね
有名です >>761
「南→東」などの嘘吐きダマシの、
人種差別殺戮戦争の皇国史観国家主義の大和説の・・・・ガキらは、
自分たちがヤラカシて、罪悪感あることを、
主語を入れ替えてのオウム返しの発想で、
「九州説者のしわざ」と誹謗中傷してるだけ。
それで自分自身にいいわけしてる
だから、具体的な畿内説批判ができない >>912
日本語が不自由だから答えられないんだねw >>765
>魏志では南だけど東<
「南→東」などの嘘吐きダマシは、×。 >>899
人前にほとんど姿を見せず、隣国と紛争を抱えた卑弥呼が、纒向から伊都まで郡使を出迎えたと思えない。
郡使が九州北部までしか来ていなかったのなら、卑弥呼もまた九州北部にいなくてはいけない。 >>766
「南→東」などの嘘吐きダマシの、
人種差別的戦争主義の皇国史観の・・・・大和説のガキどもは、
国民を騙すのに便利な曲解し易い「半分×書」が大好き。 >>768
>大阪湾型銅戈国=狗奴国だな <
「南≠東」だから×。 >>917
勅使が纒向まで来れば、卑弥呼が纒向にいていいんだろう? >>769
>考古学的発掘成果と合致している魏志倭人伝の記述なら肯定します。
例えば地名とかね
考古学的に裏付けられていない魏志倭人伝内の記述は
採用するわけには行かない <
不可知部分が殆どである古代史に置いては、文献も考古も、どちらも大事。
しかし、「南→東」などの嘘吐きダマシの、人種差別侵略戦争の皇国史観の大和説者は、
どうしても都合の悪い魏志を抹殺して、
発掘考古事実そのものではなく、
それに対する皇国史観大和説学者の恣意的解釈や説明を絶対視する宣伝をして、
国民を騙して、人種差別的戦争に誘導しようとする。 >>771
>そのうち北部九州の安曇氏は邪馬台国に服属したが大阪湾の安曇氏は拒んだ(=狗奴国)
一方で長野の安曇氏は銅鐸勢力に平和的に組み込まれ共存したと <
「南≠東」だから、狗奴國は、×ね。 >>920
纒向まで来ていないから、纒向までの里程も記録されていない。 >>772
>倭国大乱前の倭国の都の近江でも、倭国大乱後の狗奴国の都(邪馬台国)の濃尾でも、
鉄器は出土してるだろ <
「南≠東」で狗奴國は×だし、「倭国大乱」はないし、「邪馬台国」もない。 >>917
うちの会社の社長も人前にはあまり顔を出さないがしょっちゅう出張してるよ。日本組織のトップってそんなもんじゃないかな。 >>779
>倭国とは倭人の国であるから、
倭国の版図も、大阪湾を中心とした畿内が中心だろうね。だ<
「南≠東」だから、×ね。
宗教説教師や皇国史観政治家は、
事実関係を長々と語って、聴衆が疲れて来た頃に、
こっそり、論理飛躍の嘘吐きダマシの「話の摩り替え」をして、
聴衆を「殺戮戦争的思考」に誘導しよう、とする。 組織のトップって人付き合いが仕事だもんな
各方面の偉い人と顔合わせて仲良くなっていろんなことを根回しするのが仕事 南→東説はダメだなぁ。
連続記述で、なぜ里数から日数記述にしたのか?の理由も必要となるし。
南→東の誤記の可能性は低いだろうしね。
畿内説は日程記述は別ルート、とするしかないんじゃないかな。
すると、使者は北部九州までしか来ていない、との結論になる。
では、卑弥呼は北部九州で代理の役人に相手させたのか?
それとも、卑弥呼は北部九州にいて、邪馬台国は遷都前の都かor女王の故郷だったのか?
さぁ、どれにする?
他の解釈があれば教えてほしいね。 >>929
卑弥呼が北部九州まできて出迎えたってだけだろ wiki
『赤べこ』
「最後まで手伝ってくれたのが赤牛だった」という説明、
確か赤い牛の人形を持った写真、あれも家にあるんだけど
手伝ったと書いてあるはず、本当は何かの家なのかな >>930
卑弥呼は基本、倭人伝記の記述では引きこもりでしょ?
長距離移動は矛盾するのだよ たしか、
むかーし住んでいたところは、
伊達郡だと言っていたような
確か山の上のほう >>932
はいアホ
おつきのものが1000人いるって書いてあるだろ
取り巻きに囲まれて一般人とは接しないってだけだ だから大名行列みたいに1000人連れて奈良から九州まで来て使者を迎えたんだろ
奈良なんて辺境まで魏の使者を呼ばないだろ
奈良なんて遠いし田舎だしな
なぜそんな遠くて田舎の奈良に都を置いたのかって?そう突っ込みたいんだろ?
奈良が「開拓拠点」「前線基地」だからだよ
開拓拠点だからこそ「倭国では妻が2,3人いるのが普通」って書いてあるんじゃん
未開人の男を奴隷にして古墳作らせて、女は妻にする
侵略者ってのはどの国もいつの時代もそうしてるだろ >>779
>八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?<
「天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀」なんて言うのは、
大和が盟主になった701年以後の大和の、
歴史の造作や改竄の宣伝である可能性は非常に高く、信頼性低いんだよ。
元々、大和は、倭国の別種倭種の旧小国として半独立国的であったが、
河内や摂津や紀伊や山城は、倭国からの直接的東征支配地域であって、
大和とは別権力の支配であったんだよ。 >>780
>卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と
狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。
これが2世紀後半。記紀でいう神武東征の話。 神武は吉備軍に同伴しただけ。<
「南≠東」だから、始めから×ね。 >>929
なぜ里数から日数記述にしたのか?の理由が
なぜ必要なんだ? >>781
>さざなみの近江…近江が都だった時代に倭国大乱が始まった <
「南≠東」だから、始めから×ね。
近江は、元々出雲(後の文身國)の銅鐸祭祀地域でありながら、
越(後の大漢國)の影響も受けていて、
そこへ倭国の東征があって、3者の混合的地帯になっていただけ。
そして、倭国の別種倭種の旧小国の大和は、
倭国からは半独立的であり、近江とも独立的になっていた。 >>935
終戦のとき小学生くらいの世代だろ
日本人でも今だにスターリンや毛沢東、金日成信奉者がいても変ではない >>941
理由がないと説明できないでしょ?
その後も里数で普通は説明するはずだし。
"1万2千里"も里数だし。
何故ここだけ?
と普通なるよ。 >>788
>>松野氏姫氏系図には、<
>松野は勿吉、モッキツ→モッツ→マツ
松花江あたりで満鮮ブタ飼って犬食って小便で顔洗ってた民族 <
松野氏は、松野連として新撰姓氏録に載っており、
そこには、呉王夫差の後裔である事も書かれている。 >>790
>どう考えても邪馬台国は濃尾なのになw<
「南≠東」だから×。 >>937
ありえなくはないが、時代錯誤だね。
当時では厳しいと思うが。
まだ代理が対応した、の方が可能性があるだろう。
残念ながら、
大名行列ができるほど、"3世紀前半"に畿内が西日本の広範囲を支配していたと思われる様相が、考古学では何もないからね。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているじゃん
w >>947
ヒスイ(新潟)、ホラ貝(南九州)が西日本各地から出土 倭国ってホラ貝が王権のシンボルなんだからほのぼのしてるよな >>945
松野氏姫氏系図とやらが松野氏の物であるって証拠は? 既に気づいていると思うけど、
同じ家?遠い親戚だとしても家は家、
考えが違う
例えば『菅野 完』という人物のwikiを読んでみて、
何か違うんだよな >>797
>で、九州説は捜査線上から消えたわけだ。<
で、大和説は、「南→東」などの嘘吐きダマシによって、
捜査線上に再浮上したわけだ。 力夫氏のwikiもそうなんだけど、
作られたような人物(キャラ)、人格?コンセプト? >>801
>大国主の国作りって巻向建設以外に該当しそうなのってある?<
大国主は紀元前3世紀頃以前であり、始めから纏向とは年代が違う。 >>802
>卑弥呼さんは糸でいよさんがきょーとのやまいでええんちゃう(てきとー<
「南≠東」で卑弥呼が筑紫なら、壹與も当然筑紫。 >>957
前王朝の王のことを「大国主」と言っただけだぞ
討ち滅ぼされた側の王は個人名はあえて書かないのが原則なんだよ >>958
じゃあ今の日本の首都も当然博多なんだよな >>817
>とうせいのけっかのたんじょーちゃいますか(ききさんしょーのこと
ps.クナはくに <
記紀は半分×書だし、
狗奴國も、「南≠東」に拠って九州。 >>950
行程説明の途中で距離の単位が変わる事がある例があればいいが、通常そうではないから。
例えば、使者が畿内まで行ってないなら、「倭人から聞いたから」、の理由等でわかる。
では、使者が畿内まで行ったなら、なぜ途中表記が日数になり、陸行一月で通ったはずの国々の名前がないのか?、となる。
ここで説明しないといけない物が3つになる。
1,南→東
2,行程途中での単位の変化
3,陸行一月もしたのに、その内容皆無 >>958
そういう学者さんも多いよね。
ちょっと厳しい感じはするけど。 >>818
>伊勢西征、吉備東征で畿内のクナはボコられたんだよ。
最初にやられたのが、ヤマトの地。<
「南≠東」に拠って、「畿内のクナ」が×。 >>819
>最初にヤられたのは青谷上寺地 <
出雲は、梁書でも「文身國」として存続していたから、
「ヤられ」切っていなかった。 >>826
>倭国大乱って出雲の反乱だよな <
「倭国大乱」ではなく「倭國亂」であるし、
出雲までは関係なく、九州と山口県付近位までの「乱」。 ???
キナイコシは、なぜスレッドに張り付いているのだろうか
??? 一度で良いから画像を調べてみてよ
『ポケモン 自転車』
『□□力夫』
伝説の王家の紋章(ロトの紋章)のようなものが写っていたり 奈良の狂った老人の、桜井市に邪馬台国があったって理由は? 王女 女王というロックバンド(英の国)
自転車 自転車 サイクリングという曲があったり >>976
あの、鍵型の墓のせいじゃん
でも魏志倭人伝に書かれているものとは帯方郡からの方角も距離も形も違うじゃん
w パトラ・・・『王家の紋章』?
ムー帝国・・・王家の紋章 🌞の紋章? 『ムー帝国 太陽の紋章』
どこかの国王・・・・王子だったような気がするんだけど、浦島太郎? フミ国までは距離を「里数」、戸数を「有」と書いてる
投馬国からは距離を「日数」、戸数を「可」と書いてる
実際に行って得た情報か、伝聞のみの情報かの違いだよね
北部九州のフミ国までは実際に行ったが、投馬国からは遠くて行けなかったので伝聞のみ記した >>827
>(松野氏姫氏系図)その系図を見せてくれ。 そうしないと話にならない。<
前のPCの「お気に入り」に入れておいたが、
そのPCの調子が悪くなっていて、
先日の台風の翌朝に付けてみたら、画像そのものが全くでなくなってしまっていた。
だから、必要であるんなら、自分で検索して探した方が早い、と思うよ。 弥生中期には銅矛圏が九州から出雲、西四国まで広がってる
それが弥生後期に縮小して九州に収まるようになってる >>983
お前が調べて出せよ
人を納得させたいならな
人を納得させたいと思って書き込んでるんだろ? >>828
>(倭国乱)違う。 天孫族の凋落だ。<
伊都国は凋落していないよ。 >>986
いや?
宗主国から藩王国に成り下がったけど? 伊都国=北部九州の宗主国
↓
倭国大乱、卑弥呼共立
↓
伊都国=邪馬台国政権下の藩王国
凋落してんな明らかに それで
だっ津ーの??
盗まれた物語、神格か何かでしょ >>837
>◎伊勢尾張の勢力 打倒畿内のクナを目指し、西征。
甲賀、伊賀と兵を進め、南近江を征圧。
さらに伊賀→宇陀方面からヤマトに進軍。
大きく分けて、この3つの勢力が卑弥呼共立で手を組んだんだな。<
「南≠東」だから、始めから全部×になってしまうね。 >>839
そういうことだ。
小学校卒業程度の学力があれば 、大和説が眉唾と分かるさ。 同一人物だぞ
と言っている人もいたような
ももたろー、じんたろー、うらしま、かっぱ、てんぐ・・・その他 耄碌爺さんザラコクには「南≠東」連呼とオウム返ししかない >>948
仕方ないじゃん
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だからじゃん。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている
w テンプレートの嘘が、一つづつ丁寧に、暴かれているじゃん
w 岡上氏なら、このスレッドに投稿する人の中では、相当の知識を持ち、とても頭の良い人じゃん このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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