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邪馬台国畿内説 Part291
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0001◆q8leUXpsw.
垢版 |
2017/10/23(月) 04:01:45.53
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
 もう確定なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1508602012/

◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0131日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/23(月) 12:32:14.51
もはや九州説には、畿内越に対抗するような力は残されていないようだね
0132日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/23(月) 12:33:16.50
天照だの邇邇芸だの神武東征だの書いてある日本書紀なんて、あとからきた逃亡百済人の作りばなしさ。勿論、対馬海峡から、人の移入なんてそれまで殆どない。箸墓だよ、箸墓。 箸墓が邪馬台国も大和も説明できちゃうキーワードなんだ。
熊野は黒潮のぶつかるところで、縄文時代から揚子江流域からの漂着民が多いんだ。 それで、江南米をたまたま持ち込んだ越人、呉人が米作に適した場所を探したわけさ。
すると、どうだろう、今の奈良盆地に大きな沼地があった。彼らがここで、周辺の縄文人と自然と共生関係を作って、弥生人になったわけ。平和なもんだよ。
後に、瀬戸内、朝鮮半島経由で、先祖の地中国に行けることが分かったそいつらが水銀のことを始皇帝に教えたのさ。 魏志倭人伝がその証拠さ。南越、その後呉のテリトリーとなった地域の風俗が倭人のと一致していると記されているものね。そして丹のことも。
とにかく、それで、ペルシャを経由して、始皇帝の都にたどり着いていたイスラエルの失われた10部族、アンフィクチュオニーが、水銀と奈良の沼地、平原広沢のことを知ったわけ。
アンフィクチュオニーに析出されたのが霊的威力者ジョセフさ。
ジョセフが彼らを率いて奈良にやってきたのだものね。なんのことはない徐福のことだよ。
そのとき、水稲以外の穀物や桃、馬匹文化も伝わって来たのさ。でも、穀物に限って言えば、やっぱり、適所適材、奈良盆地には栄養価の高い水稲だけが残ったんだよ。
キビとかアワとかは、徐福が通った瀬戸内海では根付いたのにね。奈良にそれを売り込みにきた商人は、美しく輝く黄金色の奈良盆地みて青ざめただろうよ。 そして羨み妬んだ。このときの軋轢が倭国乱だろうね。
すったもんだはあったと思うよ。でも、徐福はそれを乗り越えた。そして、奈良の弥生人を指導して通勤王国、咸陽と驪山陵をトポロジー的に想起させる邪馬台国をつくったのだろうね。
そう、弥生人たちは通勤してたのさ。沼地を裸足で。気持ちのいいもんだよ。川船を両岸で引っ張ってくれる男たちだって勿論裸足さ。冬だって裸足だよ、弥生人は丈夫だったのさ。毎日、往復4、5時間かけても構いやしない。
だって、イスラエルから殆ど歩いてきた霊的威力者が付いているんだぜ。文句言う奴なんて一人もいないさ。そしてやっぱり、徐福が、ポピュリズムというものをよくわかっていたのが大きかったのだろうね。(続く)
0133日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/23(月) 12:33:41.34
八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?

元は大阪城の位置にあったとされる生国魂神社と関係あるのかな。
時代を超え、時の権力者が重要視した上町台地の北端。
後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
 ○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば      津守経国

 八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。

 ○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば

   淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ          仁徳天皇


難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、倭人を中心とした大阪湾の営みの話であるのを当たり前のように理解していた。
0134日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/23(月) 12:34:06.04
だからこそ、縄文人、越人、呉人、そして最後にやってきた徐福が率いたアンフィクチュオニーと彼らに一緒についてきた秦人がキマイラ的に連合できたのさ。
でも徐福と卑弥呼にどんな関連があるのか?って、決まっているじゃないか、箸墓だよ、箸墓。日本書紀に霊的威力者徐福のことが書いてあるだろ。勿論、大国主のことさ。わかるだろ。
箸墓に眠ってる卑弥呼の、霊的夫さ。逃亡百済人もここは本当のことを書かざるを得なかったのさ。
それから、投馬国だよ、投馬国。わかってるよね。鞆の浦さ。
投馬国と書かれた鞆の浦が、東とか南を説明しちゃうキーなのさ。
投馬国が面している瀬戸内は東向きの潮が速いところがあって、大和川の河口まであっというまにいけるのさ。そこから川船に乗り換えれば、奈良の沼地までは目と鼻の先さ。
帰路は山陽道を陸路で引き返し投馬国までの往路と復路を作り上げたわけ。
すると、どうだろう、投馬国から奈良まで水行では10日、陸行では1月の魏志倭人伝に書かれている、あの有名な最終行程じゃないか。
彼らがこれを、帯方郡の役人に伝えたわけ。そのときの通訳がいい加減な奴だったのだろうね。だから東が南になったわけ。
単純なもんだよ。
魏志倭人伝がその証拠さ。
だって、九州北部から投馬国と書かれた鞆の浦の方角も東が南になってるじゃないか。通訳がいい加減な奴だったのさ。
投馬国だよ、投馬国。
だから狗奴国は東国だろうね。
なにしろいい加減な通訳は東を南に間違う癖があるものね。
そして、周旋だよ、周旋。
帯方郡の外交官は邪馬台国と狗奴国を周旋しに来たのさ。
つまり、紛争を解決するため、交渉役になってくれたのさ。
ほんの少しだけど、運悪く、殺された兵士や奴隷もいたようだね。
でも、魏の役人のおかげで丸くおさまったのさ。
平和なもんだよ。
五千里は卑弥呼の城と卑弥弓呼の城の往復距離だろうね。
周旋だよ、周旋。
帯方郡の外交官は周旋役になってくれたのさ。(完)
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