邪馬台国畿内説 Part293
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1508987097/
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。 ◆6−3
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。 ◆7−2
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−3
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11 本文のサマリー
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纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法より、筆者は里程から如何程に南方であるか具体的に推計して倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことは、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。 ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12−1
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。 ◆FAQ 12−2
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26-1
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか! ◆FAQ 26-2
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BV型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BW型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され(金原2011)ていること、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される。
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓X期の文化圏である。(高久1999,久住
2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである.
が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)西北至都護治所二千二百五十八里、北接尉犂、南至小宛可三日行、
…西通精絕二千里。
(精絕國)北至都護治所二千七百二十三里、南至戎盧國四日行、
…西通扜彌四百六十里。
(罽賓國)東北至都護治所六千八百四十里、東至烏秅國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)東北至都護治所六十日行、
東與罽賓、北與撲挑、西與犂靬・條支接。
(大月氏國)東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行,
南與罽賓接。 (以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏蝉県が温泉郡城峴里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆FAQ55に加筆 974日本@名無史さん2017/10/28(土) 18:55:44.45
>>969
そーす
https://imgur.com/bqgTW3c 距離表ならこちらの方が引用するには良かったな
https://www.jha.or.jp/shop/index.php?main_page=product_info_js2&products_id=3466
しかしだな、「距離表S22」=「日本近海距離表昭和22年刊行」とピンと来る奴いるのかな
最初は海保の資料といって、つぎに帝国陸軍の資料といってたどり着いたのが「日本近海距離表昭和22年」
ズレ主、いい加減な奴だなWwww 292の>>991
>オイ人種差別というのはどっから出てきたんだよ <
Yahooでの大和説の・・・・的人種は、ssnを含め、殆ど皆、
朝鮮人や中国人やロシア人などの蔑視する発言をして、
竹島尖閣北方四島での殺戮的戦争を鼓舞する発言をしていた。
2chや5chでも、「伊達川崎」男を含め、大和説者のかなりの男が、
九州が朝鮮と人種的文化的に近縁である事で、九州説や九州説者を罵倒し、
一般ギャラリーを鼓舞扇動して共鳴を得て、議論に勝とうとしていた。 >>66
FAQ61の鎮南浦って今は北朝鮮の平壌の港なんだけど
海上保安庁刊行書誌第405号「距離表」にも
鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路の海上距離って載ってるの? >>67
お前が大和民族をサギ師呼ばわりするからじゃないのか? >>68 知らん距離表S22で畿内のバカが海保の距離表だといっただけ
畿内説のバカに聞いてくれ・・・ちなみに海保は昭和23年創設 >>70
>>66の「距離表」の中味見てないのに
こちらの方が引用するには良かったなって言ってるのか 292の>>993
>遮光器土偶はアラハバキ神なのか? <
詳しい分布は知らないが、
縄文の西日本の盟主であった出雲圏もアラハバキ神のようだが、
遮光器土偶はないようだから、
遮光器土偶は、縄文の毛人蝦夷の中の東日本の部族のお宝であったんでしょうね。 >>66
>最初は海保の資料といって、つぎに帝国陸軍の資料といってたどり着いたのが「日本近海距離表昭和22年」
>ズレ主、いい加減な奴だなWwww
1が言ったわけじゃなかろ
ピンぼけ あの写真?明治頃のモノだと言っているよ、
老婆(大正一桁生まれ?)が産まれていない頃のモノだから
当時の人は河童や河伯の話?
知っていたの?
葱の華なども写っているけど >>69
ごもつとも
俺なら手品師と言うな
どうでもいいけど 畿内説の者が「海保の距離表だといった」事実なし
>>70の捏造 調べたこともないから、
詳しいことは、わからないけど
その写真に映っている親も長男(その親も長男)で・・・、
家も長男・・・...みたいなことを言っている
葱の華? ロンドンのサザビーズ・オークションでは、日本の古美術収集家のコレクションだった
東北地方から出土されたとみられる2800年前の遮光器土偶が
101万3000ポンド(約1億9000万円)で落札された
縄文時代の文化はヨーロッパでは評価が高いな
九州説にはこういうのもいるが↓
996subo2017/10/28(土) 19:49:23.00
遮光器土偶は無脳児だよな(畿内厨も納得であろう >>73
ずれ主は匿名でいつも書きこむし
四六時中、張り付いてるから、まず最初に距離表S22の疑義が時点で答えてるよ
また
畿内説の他者が海保とか帝国陸軍と言ったら・・・ズレ主はあざけ笑っているような根性の曲がった奴じゃない。 >>79
それは全一病気患者のあんた特有の空想だろ >>79
オモロイこと言うね
スレ主があざけ笑っていたら=いい加減な奴で決まり
距離表S22を持ちだし、一か月以上即答が出来なかったスレ主=いい加減な奴で決まり 頭のおかしい嘘つきは、こいつ
651名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2017/10/22(日) 17:10:07.85
残念ですが、日本近海距離表には朝鮮については記載されておりません
今一度、お調べください
652名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2017/10/22(日) 17:10:08.35
無駄なあがきが見苦しいね、、、
653名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2017/10/22(日) 17:10:08.36
残念ですが、日本近海距離表には朝鮮については記載されておりません
今一度、お調べください >>81
「距離表S22を持ちだし、一か月以上即答が出来なかった」
って日本語の意味がわからんな 畿内説の他者が海保とか帝国陸軍と言った事実なし
>>79の捏造 はっきりしてるのは、今日も朝から頭のおかしいアンチが嘘をつきまくってるってことだな。 水路部は、旧日本海軍の組織の一つで、海軍省の外局。
海図製作・海洋測量・海象気象天体観測を所掌した。
現在、その業務は海上保安庁海洋情報部が担当している。
(2002年(平成14年)4月1日:水路部を海洋情報部に改組。) 数年前の△の陰謀スレ
『LEGENDS OF JAPANESE HEAVY METAL 80's 』
という画像が貼り付けられたり、異端審問? いつも常駐してる日本語の下手なアンチ男は
異常な執着心で同じ質問を何度も繰り返す偏執狂だよ
そして平気で嘘をつく >>66
帝国陸軍 ワロタ
キウス、いい加減な奴だなWwww >>69
>お前が大和民族をサギ師呼ばわりするからじゃないのか? <
「大和民族」という特異な文言を使う人種は、それだけで、
大和天皇家の支配に服属して、他民族や他部族に人種的に優越するという、
人種差別を意味するんだろうなあ。
これじゃ、当然、国内の沖縄を「土人」と差別し、
部落民やアイヌや朝鮮人や中国人やロ系人や東南アジア系を差別し、
アメリカ人や黒人も差別敵対殲滅戦争を鼓舞扇動する事になってしまう。
しかし、実態は、列島は元々南洋や大陸からの流民の共存的混在地で平和的あったのであり、
多種の遺伝子能力を持つ事が出来たから、物まね学習工夫の能力を獲得し
島国である事も相まって、美しい文化文明をはぐくむ事が出来た。
しかし、大和民族至上主義陥れば、必然的に他民族部族を蔑視敵対殺戮戦争を志向する事になり、
また侵略戦争を起こして、結局核戦争で全滅してしまう事になる。
何が悪かったんでしょうかねえ。
そりゃ、皇国史観の大和民族至上主義。 >>84
過去のカキコミ読むべし
これだけ話題になってもスレ主の音沙汰なしなわけないだろ
テンプレへの疑義になのだからスレ主自ら解説すべきだろ・・
たぶんどこかから拾ってきたものだろうが考古学で距離表S22なんてオーソライズされていない
拾ってきたものに添付資料があったのだろう。・・・・お粗末なミス
すぐに加筆か拾ってきた文献を明記すればよかったのだろう >>91
沖縄、アイヌを差別視してるのはお前だろ
「大和民族は、日本語を母語とし、日本列島に居住する民族である。」
朝鮮人や中国人やロ系人や東南アジア人やアメリカ人や黒人を
大和民族と呼んだら、違うと言われるぞ >>96
事実は、粘着爺が一人で暴れて傍目にもおかしなことを言ってる 半キチ爺さんが朝から
海保とか帝国陸軍とか
おかしなことをワメいてる >>75
>>お前が大和民族をサギ師呼ばわりするからじゃないのか?<
>ごもつとも<
おや、ここにも、皇国史観大和民族至上主義の人種差別戦争肯定の・・・・?がいた。
>俺なら手品師と言うな どうでもいいけど<
私は、播磨の市井の、戦争が怖くて日本国憲法が大事な、素人オジンだよ。 >>92
昭和22年の距離表があることを
まだ否定してんの? >>100
いや、お前は少額のなら他人のものでも自分の物として使っていいと言張ってる
非常識な人種だ 警備員につかまると
ほんの不注意なのに客に失礼だぞと
偉そうに言い訳する万引き常習犯みたいなもんね 九州説には少なくとも異常なウソツキが2人いるって
どんだけ不幸よ九州説 纒向に卑弥呼の宮殿は、たしかに存在する。
それは、三世紀の奈良県にあったのではなく、
二十一世紀の畿内説の学者たちの、頭の中の、観念の城府として存在する。 >>101 あるに決まってるがね
距離表S22がオーソライズされてるかどうかが問題じゃないの
もっと新しい物でも良かったと思うしね(新し朝鮮のものがよかったかもね)
距離なんてそんなに変わらないが、あえて古いものを持ってくる必用ない
たぶん、古い文献から引っ張ってきたのだろう あくまでも自分の妄想にこだわるとこが
四等じいさんらしくて
藁 >>107
笑えるウソツキ劇場
651名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2017/10/22(日) 17:10:07.85
残念ですが、日本近海距離表には朝鮮については記載されておりません
今一度、お調べください 一番笑えるのはコレだけどな
陸軍!
0066 日本@名無史さん 2017/10/29 04:58:07
最初は海保の資料といって、つぎに帝国陸軍の資料といってたどり着いたのが「日本近海距離表昭和22年」 >>107
1は前からFAQ 19で新しい海保の距離表を使ってるんだから、意図があって古い距離表を使ったと考えるのが普通だろうに
自演じいさんなに妄想してんだか しかしまあ、九州説は次から次へと
よく新しい嘘を思い付くものだと
変に感心した
w >>76
>畿内説の者が「海保の距離表だといった」事実なし
>
>>>70の捏造
ああ言えばこう言う。
畿内説はズルズル言い訳ばかり。 確認できる人が少ない、古い距離表を持ち出して、どうしようというんだ。
3世紀の話をする上では、20世紀の資料でも21世紀の資料でも変わりはないだろう。
わざわざ前世紀の資料を持ち出す意図を訝しがってしまうね。
また何か作為的に捏造をしようとしているのではないか? >>101
その距離表を持ち出す意味は?
現在の距離表や、グーグル様じゃいけないか? >>113
>1は前からFAQ 19で新しい海保の距離表を使ってるんだから、意図があって古い距離表を使ったと考えるのが普通だろうに
作為的であったことをゲロしたな。 >>121
環境が変わってないか時系列でしらべることは
研究者なら普通やる >>123
その嘘とやらは実在するのかな?
それともキウスの捏造かな? >>126
ほら、また九州説は議論で負けて罵り専門になった >>116
でも、>>70が捏造してるのは本当にだよね?
九州説は捏造が好きだなー >>124
そうね
あんまり知能が低いと無理かもね >>124
畿内は古来からヤマトと呼ばれていたし前方後円墳や三角縁神獣鏡などの
考古学的証拠が多数見つかってるから畿内が邪馬台国
これのどこが理解できないの? 九州説は相手の上がってない揚げ足を取ろうとするから
いつもこんなふうに自滅する 正倉院展内覧会に行ってきました
今回目に引いた宝物は「鳥花背八角鏡」と「緑瑠璃十二曲長坏」
また、開会式での西川正倉院事務所長のスピーチはユーモアも含め興味深く聞きました
奈良を散策するとつも思うのは、謎の4,5世紀と言われる宝物が途切れていることです
帰りに久しぶりに中宮寺の菩薩半迦像様を拝顔してきました。広隆寺の弥勒菩薩様より個人的には好きです
中宮寺からインターまで大和川を通過しました。
畿内説でいけば、川幅も広く魏の使者はこのルートを通ったのでしょう
陸行一月は説明がつきませんが・・・・・
あと蛇足ですが、奈良NOの車の運転マナーの悪さと、中国観光客のマナーの悪さが目につきました いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 >>134
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 >>131
前方後円墳も三角縁も魏志倭人伝には出てこないし、奈良が中心というわけではないだろう。
畿内なら摂津や河内でも持ってきた方がまだましなのに。
神武天皇が大和で即位した云々に引きずられているだけ。
畿内説は皇国史観の亡霊だよ。 どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったなどと、考えているのかな、、、 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 >>136
別に摂津でも河内でも構わないんだけどな
そうならそうで文句つけるクセに >>136
大いに塚作り
銅鏡百枚与え
魏志倭人伝に記述が出て来る 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 >>135
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 テンプレートを論破され続けている、小汚い老人が、岡上氏という謎の人物に、八つ当たりしているようだね。。。。 そういえば、岡上氏の高度なレベルの投稿が懐かしいね。。。
このレベルの低いスレッドには、もったいなかったけれども、、、、 そういえば、岡上氏の高度なレベルの投稿が懐かしいね。。。
このレベルの低いスレッドには、もったいなかったけれども、、、、 日本4世紀以降の遺跡から数百枚見つかって、
中国から学術出土ゼロの銅鏡ってどこ製なの? >>144
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 >>144
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったなどと、考えているのかな、、、 時折指摘されてますが
テンプレの海遊録(申維翰)の誤認は
瀬戸内ルートでの誤認では無いです、
問題となっているのは 南至投馬國 南至邪馬壹國であり、
瀬戸内ルートで方位の誤認がおきるかどうかです
太陽は四国、北極星は北と書きこまれた方の言うとおり誤認は起きないでしょう >>149
ほらな九州説が馬脚を現した
三角縁神獣鏡は椿井大塚山、黒塚など3世紀の古墳から見つかっている
学術ではないが中国洛陽で1枚出土している >日本4世紀以降の遺跡から数百枚見つかって、
>中国から学術出土ゼロの銅鏡ってどこ製なの?
どこか間違ってる? >>156
残念だけど
これイロハ
中国洛陽では出土していないよ >>147
仕方ないよ、、、、
囲碁でもよくいわれるけども、名局ができるには二人の天才が要ると、、、
畿内説者のレベルの低いこのスレッドでは、岡上氏の能力の全てを引き出せないからね。。。。
岡上氏が投稿しなくなったのも、そういうことなんじゃないのかな、 >>152
あの、鍵型の墓のせいじゃないかな。。。
魏志倭人伝に書かれているものとは帯方郡からの方角も距離も形も違うけどね。。。 柳澤伊佐男氏曰く
・・・貼り付けです・・・・
論文の執筆者は、「2009年頃、現地の骨董市で農民から入手した」と説明していますが、
正確な出土地点など、詳しい情報はわからないということです。
また、論文を読んだ研究者の多くが「写真を見る限り、三角縁神獣鏡とみて間違えない」としていますが、
実際に目で見て確認したわけではありません。
私見 日本で600枚もの▲が発見されています、未発見を含めれば1,000枚は行くかも
1枚ぐらい中国に渡っていたとしても何ら不思議ではない 洛陽の三角縁の出土地点は確認されていない
志賀島の金印と同じ >>159
出土しているよ
ググればすぐ出て来る
>>164
洛陽の白馬寺付近の畑で出土 中国からも出土しているし
鏡自体に景初、正始と卑弥呼の時代の魏の年号も入っているし
三角縁神獣鏡こそ魏からの下賜鏡で間違いない >>164さん
その通りですが、
千枚近くあるであろう▲の発見地と
1枚しかない金印の発見地との価値観は全然違います。 >>168
価値観ではなくて
出土地点、出土状況がわからないのは同じ 信頼できる情報筋がある金印と
盗掘業者を通じて市場に流された三角とは
同列に扱えない 魏に使者は4回ほど送ったと記録にあるし
国内でコピーした三角縁も相当数あるから
1000枚くらいあっても不思議じゃないよ >>170
畑掘ってたら農民が見つけたんだよ
盗掘とか大ボラもいい所 卑弥呼の時代の頃の魏鏡三角縁神獣鏡が全国のどこよりも
畿内から多数見つかってるから邪馬台国は畿内の可能性が高い 「大都市の江戸が現在の東京に出現して江戸時代が続いたのだから
江戸幕府は東京だった!」
「うん、そうだね」
「じゃあ、江戸を作ったのは誰だったんだろうね」
「江戸に決まっている」
「じゃなくて、江戸はその直前までど田舎だったでしょ?
それまでの関東最大だった小田原城も滅亡してるし
外部から誰かが来て江戸を作ったとかは?」
「ゴミクズ!」
「初代大名の徳川家康はどこ出身だったんだろう?」
「総花的に江戸に決まってるだろゴミクズ」
「岡崎に幼少時の竹千代伝承が集中してるんだけど」
「出た!得意のダニ的解釈www
岡崎城は徳川家臣の城であって徳川家とは無関係
むしろ服従する立場だった
江戸時代を勉強しなおしてこいゴミクズwww」 畿内説は実は東遷説だな。
【畿内説の主張のまとめ】
(>>1の発言をまとめたもの)
「瀬戸内海勢力が枢軸となって、総花的に纏向で田舎娘を共立した」
「首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した」
「弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した」
【東遷説の主張のまとめ】
@弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した
A首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した
B結果的に伊都国の太陽祭祀を継いだ卑弥呼が、瀬戸内海勢力の実力を背景として、総花的に纏向で共立された 盗掘業者の言い訳を真に受ける畿内説、社会を知らないにもほどがある 遮光器土偶に食いつくとは思わんかった
太古の昔は奇形児は神聖の対象だったんですね
双生児の両面埴輪とかもある(無脳児、単眼についての検索は自己責任である 大和民族は後発の民族であり孫呉、騎馬民族のハイブリッドなんですね
なんで運動会で騎馬戦をするのかというと大和民族である騎馬民族の誇りを
忘れないためである
継体天皇は騎馬民族だよな 発掘場所も見つけた人の名前もわかってる三角縁を
必死に見なかった事にしようとする九州説
みじめみじめ 学会では洛陽の魏鏡については、
誇張する学者が少なくなったのに
なぜ、このスレだけ盛り上がるのだろうね? 鉄器は無く、南が東であるという矛盾を抱えたままでは畿内に邪馬台国はなかった事になる。
魚のいない池で釣りを続けても意味はない。
徳川埋蔵金のようなもの。 邪馬台国には馬はなかったんだろ。
騎馬民族は後から来た渡来人で、倭人(大和民族)ではない。 洛陽の三角鏡を根拠として持ち出しているのは畿内説だろ。 だからそう思うなら南を掘ってる学者の報告書読んで
南専門スレで論証すればよかろう >>193
>>149
中国から学術出土ゼロの銅鏡ってどこ製なの?
と九州説が言い出すから誰かが説明してあげてるんだろ ホケノ山 鉄器約70点出土
椿井大塚山 鉄器約300点出土
黒塚 鉄器約200点出土 紀年銘鏡が中国製か日本製かは別にして
纏向どころか奈良県から一枚も出土していないね 各々年代比定してもらえませんか?
>>197
ホケノ山 鉄器約70点出土
椿井大塚山 鉄器約300点出土
黒塚 鉄器約200点出土 ホケノ3世紀中葉
椿井大塚山3世紀後半
黒塚3世紀後半 >>202
じゃあ、三角縁は国産ということで。
畿内はやはり邪馬台国と関係ないな。 >>208
いいや三国時代の魏のもので
邪馬台国はやっぱり畿内 >>154
テンプレで海遊録(申維翰)が誤認した事実が報告されてるよね? >>213
テンプレで海遊録(申維翰)が誤認した事実が報告されてるよね? ホケノ山古墳の築造年代が、「邪馬台国時代に相当する三世紀中頃」という判断を疑わせる。
「魏志倭人伝」には、倭人の葬式は、
「棺あって槨なし。」
と、明記しているのだ。木槨のなかに木棺があったのでは、「魏志倭人伝」の記述に合っていない。 >>218
ホケノ山古墳に槨がある
という理由は? >>216
154キウス ◆PyuQX798ps 2017/10/29(日) 10:31:16.61
時折指摘されてますが
テンプレの海遊録(申維翰)の誤認は
瀬戸内ルートでの誤認では無いです、
問題となっているのは 南至投馬國 南至邪馬壹國であり、
瀬戸内ルートで方位の誤認がおきるかどうかです
太陽は四国、北極星は北と書きこまれた方の言うとおり誤認は起きないでしょう >>223
> >>221
> おまえは必ず死ぬ
キチガイ漢文かよw
もう呪詛すら始めてるから隔離スレだなw >>224
瀬戸内海以外では北極星が見えないのか
ピンボケ >>198
>書き間違いなんてよくある
南の記述は一ヶ所じゃないからそれは通らない >>222
事実をねじ曲げるなよ。
くだらないぞ。 >>218
古墳とそこらの墓の葬儀を一緒にしたらいかん >>227
南の記述は一箇所じゃなくても
そこだけ所間違えたのかもしれない
それだと反論にならない >>229
槨がどうのというのは、一般の墓の話ではなく、王族の墓の話に決まっているだろ。
倭国の王墓は槨がないと書いてあるんだよ。
だからホケノが卑弥呼の時代の墓なら、そこは倭国ではない。
ただの倭地だよ。 中国南部の文化である銅鐸。
島生み神話は、中国南部に多い神話のモチーフ。
日本に於ける下戸遺伝子分布の中心は、大阪湾と伊勢湾。
淡路島から紀元前4世紀の銅鐸が出土。
国生み神話で最初に生まれる淡路島。
イザナギの宮があったとされる淡路島。
唐古鍵遺跡の弥生時代中期の木棺墓から出土した頭蓋骨は大陸系の特徴が強かった。
呉の末裔を名乗る倭人とは、中国南部から渡来した人々、下戸遺伝子をもたらした人々と考えるのが妥当。
中国南部から銅鐸文化をもたらした人々(倭人)が渡来したのは、紀元前4〜5世紀。春秋時代末期。
弥生時代中期には、ヤマトで拠点集落を作れるぐらいに勢力を拡大していた。
倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃、吉備中心。
倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、大阪湾を中心とした畿内が中心だろうね。 陶塤面白いねぇ。
宗像以東、出雲や丹後半島など日本海側に分布。 中心は関門海峡両岸、松江、丹後半島だな。
弥生時代前期。銅鐸より時代は古く(倭人の渡来より古く)、水稲が広がっていく時期と被る。
長江河口辺りから、大陸で大きな戦乱がある度に渡来があったんだろうね。
豊受大神の伝承とも被る。 >>232
魏志倭人伝には倭人の葬儀習慣は棺あって槨なしと書かれてあるだけだ
塚への埋葬方法がそうだなんてどこにも書いてないから
ホケノ山に槨があっても畿内説を否定する材料にはならない >>236
一般人の墓に槨はまずないから、王墓について説明しているんだよ。
そしてホケノに槨があるから、奈良盆地は倭国ではないんだよ。 魏志倭人伝はあくまで倭人について書かれたもの。
当然そこに描かれた風習は、倭人一般のもの。
庶民の墓についてだ。
木棺に土葬。畿内の風習と合致するね。 568日本@名無史さん2017/10/18(水) 09:23:19.39>>576
S-22はたぶんIHO(国際水路機関)が発行している出版物だろ
頭文字にSがつけられているのは特殊書誌(Special(特別))
現行でもっとも古い特殊書誌は、Special Publication No.23(S-23)Limits of Ocean and Seas
S-1から S-22 までの文書は,現代では古くなって
実用的には価値がなくなりカタログから除かれている。
しかし,歴史的な価値があり研究者等にとっては貴重なものである。 >>237
記紀に出てくるし否定出来ない事実だからね。 丹後半島周辺の歴史を考えるには、朝鮮半島との関係も合わせて考えないとな。
弥生時代後期には鉄を求めて、日本列島から朝鮮半島に進出しているからね。
弥生時代後期の日本列島の土器しか出ない鉄鉱石の採掘跡も見つかっている。
倭国大乱で日本列島に戻らず、1世紀あまり半島で過ごした集団もいた可能性があるね。 新羅建国に関わった日本列島出身の集団とかあった可能性もある。 古墳時代の神功皇后の朝鮮半島進出。
半島南西部の前方後円墳群。
百済建国に何らかの影響を与えた可能性もある。 >>238
デタラメ言うな
「韓伝」「夫余伝」では、それぞれ、「槨あって棺なし」
さらに槨ありの古墳がダメなら
槨なしの古墳は九州にあるのか?
そしてその葬儀に魏の使いが立ち会ったという証拠は? 古墳時代までは実は日本列島から朝鮮半島に進出する方が多かった可能性を考えないといけない。 神功皇后の時代に朝鮮渡来人が畿内に入って来てた事は記紀にも記述があるから現代の畿内人は朝鮮渡来人亜種の雑種となる。 関西に在日朝鮮人の人達が一番多いのも朝鮮ゆかりの地が関西だから。 畿内説派はその朝鮮渡来人としてのアイデンティティを保つため畿内に邪馬台国がないと困るという訳だ。 スレ主はこの日本で寂しい思いをしたんだよ。
それで畿内説スレを立てた。
そういう事も考えてあげては? 関西の在日朝鮮人は主に百済だけどな、新羅を自称する連中の赤狩りから
逃れるために関西にきた
ゆえに赤という言葉に興奮する >>240
それ俺が書いたんだけどIHOのS-○○とは違うみたいよ 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 朝鮮半島南西部と九州北部に見られるシスAB型。その頻度から朝鮮半島→九州北部の人の移住があったと推測できる。
朝鮮半島南西部は前方後円墳群が見られるところ。そこから兵として労働力として、九州北部に人々が連れてこられた可能性を考えないといけない。
朝鮮半島と関係の深い地域がもう一つ九州にある。宮崎。
畿内には技術者の移住はあったかもしれないが、それ以上に位置的に朝鮮半島に近い九州に半島から人々の移住?が多いのは当然と言える。 >>239
>庶民の墓についてだ。
庶民の墓の話では槨なんて出てこない。
槨の有無を論じるのは、それが王の墓についてだからだ。 >>245
>槨なしの古墳は九州にあるのか?
そもそも弥生時代だから古墳ではなく墳墓だな。
平原遺跡には槨はない。
朱はたくさん使われていた(朱が流れ出ていたので発見された)。 >>259
伊都国の王墓であるから、伊都国に滞在していた魏の使いは当然目にしていただろうしね。
畿内なんて、魏の使いが足を踏み入れた記事がない。
使いが伊都を最終目的地としている時点で邪馬台国は九州しかありえないのだけれどね。 槨の有無を書いてるのは中国では貧乏人以外は有槨有棺だからだよ >>256
宮崎が朝鮮ゆかりの地にしたい、九州北部を朝鮮ゆかりの地にしたいという畿内説派の願望。
実際神功皇后時代から畿内には朝鮮渡来人が沢山入っている。
現代を考えると関西在住の朝鮮人は日本一。
事実を受け入れる勇気が必要。 >>259
ほんなら結局棺あって槨なしは古墳の事じゃないし
機内説を否定するものでもないって事だろ 畿内の墓に槨があったなら、そこは魏志倭人伝に書かれたところではないよね。 >>251
領土つう単語が適切かはしらんが倭人の集落だらけやったろな
頭の良さげな女子がデーターだしとったで
つうか拠点もなしに鉄よーとらんかったやろなー >>232
で?
ホケノに槨があるという根拠は?
? そもそも古墳のことなんて魏志倭人伝に書いてないし、前方後円墳も書かれていない。
魏志倭人伝に書かれたものがほとんどないくせに、魏志倭人伝に書かれていないものを持ち出して根拠にしようとしているのが畿内説。 >>269
卑弥呼死んだときに大きな墓作ったと出て来るよ 魏志倭人伝の倭人一般の風習についての記述の中で墓について言及している。
庶民の墓についてだ。
木棺に土葬。
この話題はそれで終了。 >>266
古墳の葬儀習慣の事を書いたわけではないから
そうはならないよ 3世紀の畿内の一般人の墓は、木棺に土葬だったのか?
初めて聞いたぞ。 >>274
弥生墳墓に大きな物なんてあるか?
それよりも前方後円墳の方がデカいぞ? 弥生墳墓のことを書いてあるんでしょ。
木棺で槨がない。例えば平原遺跡のような。 100メートル級の前方後円墳なんて、邪馬台国があった弥生時代にあったわけがないだろ。
年代比定を間違えているんだよ。 >>282
なんであったわけがないなんてわかるんだよ
弥生人かてめーは 日本4世紀以降の遺跡から数百枚見つかって、
中国から学術出土ゼロの銅鏡ってどこ製なの? >>287
そんな鏡は聞いたことないなぁ
3世紀の古墳から数百枚見つかって
中国の洛陽から出土した中国製の三角縁神獣鏡の事なら知ってるけど >>288
中国人のやることだから日本で盗掘して中国に持ち帰ったんだろうな。 金メッキも宝石もないような銅鏡は中国に持って行ったほうが値段下がる >>93
>沖縄、アイヌを差別視してるのはお前だろ
「大和民族は、日本語を母語とし、日本列島に居住する民族である。」<
日本国民とは、「日本列島に居住、或いは日本国に所属共存する意図のある人は、全て日本国民である」
ほら、お前は、共存を拒否差別し人種差別して、
天皇支配人種差別の「大和民族」と書いているから、日本民族ではない。
>朝鮮人や中国人やロ系人や東南アジア人やアメリカ人や黒人を 大和民族と呼んだら、
違うと言われるぞ <
大和民族や日本人や朝鮮人や中国人やロ系人や東南アジア人やアメリカ人や黒人も、
ルーツをたどれば皆兄弟であり、親戚だ。 >>102
>素人オジンってとこだけ信用した <
この男も、「皇国史観大和民族至上主義の人種差別戦争肯定の・・・・だった」
という事までは、信じられた。 >>295
中国出土の三角縁神獣鏡なら高額で売れる。 出土地についての証言が弱々しいね
旧石器ゴッドハンドの時は銅だったんだろう? >>103
>いや、お前は少額のなら他人のものでも自分の物として使っていいと言張ってる
非常識な人種だ <
いや、お前は、「人類皆兄弟である」という事実や、「南≠東」の事実を否定して、
「皇国史観大和民族至上主義の人種差別戦争肯定」の、
分裂幻覚妄想の・・・・」の非常識人間だ。 >>296
日本国民であっても大和民族ではない人はいる
親の民族に誇りをもっている人に日本民族を押し付けるということは
民族の誇りを捨てろと言ってるのと同じだ
誰もが日本民族になりたがってると思うな
ためしに近所でアメリカ人観光客見つけてお前は日本民族だと言ってみろ >>104
>警備員につかまると ほんの不注意なのに客に失礼だぞと
偉そうに言い訳する万引き常習犯みたいなもんね<
この男も、沖縄で、住民に「土人」と蔑視して呼んだ大阪府警みたいなもんね。 >>301
ほとんどの人類は、少額のなら他人のものでも自分の物として使っていいと
言張ってる非常識な人種と兄弟などと言われたくない >>105
>九州説には少なくとも異常なウソツキが2人いるって どんだけ不幸よ九州説<
「皇国史観大和民族至上主義の人種差別戦争肯定」の・・・・の、
分裂幻覚妄想の大和説が、少なくとも国民の3割もいるって 、
国民は、どんだけ不幸なのよ。 >>303
沖縄の人は、お前みたいに少額のなら他人のものでも自分の物として使っていい
など言張ったりしておらん >>114
しかしまあ、大和説者は、次から次へと、
よくもまあ、新しい嘘や、
人種差別戦争の皇国史観文言を思い付く分裂幻覚妄想の・・・・だと 、
変に感心した。w >>126
確かに大和説者は、常人とはすこしずれて変わってるな。 >>128
ほら、また大和説者は、議論で負けて、
言葉尻への曲解捏造の嘘つき騙しの、
罵り誹謗宣伝(=ヘイトスピーチ)専門になった 。 >>129
大和説者は、
言葉尻への曲解捏造の嘘つき騙しの、 罵り誹謗宣伝(=ヘイトスピーチ)の、
捏造が好きだなー。 日本史にかかわる重要問題なんだから
見つけた農民を特定して取材するくらいは当然やるべき義務じゃないの? >>130
そうね。
あんまり知能が低い大和説者では、
まともな議論なんて無理かもね 。 >>315
sageてないで、ババーンとその場所を強調したら?
ゴッドハンド 日本史にかかわろうが中国の農民は知ったことじゃないから
あんまり根掘り葉掘り尋問のようなことするわけにもいかんしな もしその農民所有の畑じゃなかったりしたら、聞かれても困るだろ 崇神天皇が纏向に宮を構え、墓は行燈山(4世紀初頭〜前半)はほぼ決まりのようです。
では崇神以前の天皇が例えばホケノ山、東田大塚、勝山など纏向古墳群であったのか?
それならもの凄く話は早いのですが、記紀によれば6代孝安までは葛城地域に宮も墓もある。
では纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は250〜280年くらいでしょう。
つまり崇神時代より少し前ですね。
この森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
そして卑弥呼を物部の系図から探しても該当者はいません。
つまり纏向に卑弥呼はいないという事です。 >>131
>畿内は古来からヤマトと呼ばれていたし<
邪馬壹國は、ヤマトではないの。
>前方後円墳や三角縁神獣鏡などの 考古学的証拠が多数見つかってるから<
前方後円墳や三角縁神獣鏡も、筑紫の方が古いし、
「南≠東」だし、
筑紫倭国から別れた別種の大和は、白村江まで筑紫倭国の附庸國の旧小国であったから。
>畿内が邪馬台国 これのどこが理解できないの?<
大和は「東征毛人55国」の一つだし、半島渡来民や越にも支配されたようだし、
何と言っても筑紫には、
金印も「殉葬奴婢百余人」も「明帝下賜の21枚の尚方作鏡」もある。 >>132
大和説者は、
史料事実からの帰納的推論をせずに、逆に史料事実の否定曲解をするから、
いつもこんなふうに自滅する。 史料事実は盗んだ写真だったんだよな
偽書専門古田の場合 おじいちゃんら鏡談議すきやなー
そんなもんどっから何枚でてもなんの証拠にもなりませんなー
五尺刀ならまだしも >>326
九州説のお前が一番洛陽の三角縁が気になってるな 王趁意の作意も考えられ
今では、洛陽の鏡の話はあまりしない。
2006年末ごろにも王趁意氏が絡む洛陽付近出土という
「三角縁神獣鏡」が問題になったことがある。 >>320
ハイ!せーかいです
かれらがくにをつくるのに力をふるいました
そーしてくにができました
勿論くなのことです ところで新説披露
いよさんの都は出雲のヤマネ=ヤマイ
根拠は俺の霊感(異論は認める >>310,312
それ、 罵り誹謗宣伝ヘイトスピーチだから >>328
将棋に例えると
ほとんど全ての駒を取って勝利確定だけど
残った歩も逃さず竜王で取っている状況 >>139
>別に摂津でも河内でも構わないんだけどな そうならそうで文句つけるクセに<
摂津も河内も、
筑紫倭国の「東征毛人55国」の中の国での、筑紫倭国の直接的支配地だよ。 纒向の土器で注目すべきなのは、纒向編年1類には、外来系土器の中で河内の土器が殆どないこと。
立地的に一番近いのにかなり不自然である。
そして纒向編年3類(台与の時代)以降、急激に河内由来の土器の割合が増える。 >>141
>神武天皇を根拠にしてるのは東遷説<
卑弥呼の東遷説は、「南≠東」で×ね。 >>335
ちーす^^
犬神先生は物部の話好きかー? 逆に持ち運びが簡単な△が最後の砦なんだな畿内説はさw 卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。これが2世紀後半。記紀でいう神武東征の話。 神武は吉備軍に同伴しただけ。
吉備軍は、記紀にあるように狗奴国の本拠地河内を避けて熊野に迂回しヤマトへ進軍したんだろうね。
結果卑弥呼側の勝利で終わり、大和の地は卑弥呼の支配下になる。この時に吉備の勢力が大和入りしたんだね。
吉備の兵は他の国々の兵と共に纒向に駐屯。
これが纒向で伊勢尾張、吉備、丹波近江、大分の土器が出土する理由。
在来系の土器も勿論多数出土している。
纒向の南の芝遺跡は纒向と入れ替わるように弥生時代後期に消退するし、芝遺跡からも人々が纒向の営みに動員されたんだろうね。 >>142
>大いに塚作り 銅鏡百枚与え 魏志倭人伝に記述が出て来る<
これ筑紫の事ね。 >>340
チェスに例えると
全ての駒を取って勝利確定だけど
こちらのポーンを全てクイーンに育てている状況 大和の地が卑弥呼側の勢力に制圧された後(2世紀後半以降)の、
狗奴国の版図は、河内、和泉。
卑弥呼側の勢力と狗奴国の対立はどういう結末を迎えたのか?
孝元天皇は(台与の時代か)、河内青玉繋(河内彦)の娘である埴安媛と血縁を結び、武埴安彦命が生まれる。血縁を結ぶことで、狗奴国と和睦したと考えられる。
問題なのは、この和睦が河内彦中心に行われたと考えられること。
狗奴国王卑弥弓呼&その正統はどうなったのか?
謎だな。
和睦の前に狗奴国内でクーデターがあり、卑弥弓呼の系統は抹殺されたのか追放されたのか、逃亡したのかもしれない。 魏志倭人伝に書いてある。
狗奴国は邪馬台国(ヤマト)の南と。
地図を見れば、ヤマトの南は河内や和泉になるからな。 / ─ ─\ ま、洛陽の一枚があるからね
/ (●) (●)\
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/ ─ ─\ 中国から出土してますよっと
/ (●) (●)\
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/:::::::: ( ○)三(○)\ 農民が畑で見つけたらしい
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ノ:::::::::::: `ー'´ \ | | | >>350
ヤマネ国のが負けて滅びたんちゃう
卑弥弓呼の系統がカコ様やな 畿内民族は朝鮮渡来亜種の雑種。
これは記紀に出てくるし否定出来ない事実。
神功皇后の時代に朝鮮渡来人が畿内に入って来てた事は記紀にも記述があるから現代の畿内民族は朝鮮渡来亜種の雑種となる。
関西に在日朝鮮人が一番多いのも朝鮮ゆかりの地が関西だからである。
畿内説派はその朝鮮渡来人としてのアイデンティティを保つため畿内に邪馬台国がないと困るという訳だ。
スレ主は日本で寂しい思いをしていた。
それで畿内説スレを立てた。
そういう事も考えてあげてはどうだろう? >>363
じんぐーさんで思い出したがちょーせんからの帰りは山陰についたらしーな
どこやったかわすれたが神社のでんしょーにあったど >>368
おお俺もポンシュ中瓶あきそー(もっと買いにいくべきか >>156
>ほらな九州説が馬脚を現した
三角縁神獣鏡は椿井大塚山、黒塚など3世紀の古墳から見つかっている <
ほらな大和説が馬脚を現した。
椿井大塚山と黒塚は竪穴式石室だから、「槨」の発展形であるので、
「木槨」のホケノより新しいから3世紀ではないし、
三角縁神獣鏡は、中心頭部の内行花文や画文帯とは違って、
棺の内外の「末席」にその他大勢で置かれているし・・・。
>学術ではないが中国洛陽で1枚出土している<
一枚では、列島の500枚以上の説明根拠にならない。 >>327
5尺刀こそあっちこっちから見つかってて何の証拠にもならんだろ ホケノには鉄鏃がいっぱいあるのに
地元の兵たちは鉄鏃の射撃訓練とかしてなかったの? >>166
>中国からも出土しているし<
1枚では、列島の500枚以上の根拠にならない。
>鏡自体に景初、正始と卑弥呼の時代の魏の年号も入っているし<
景初三年や正始元年鏡では、
明帝の詔書の景初二年12月の銅鏡100枚には含まれない。
>三角縁神獣鏡こそ魏からの下賜鏡で間違いない<
三角縁は、明帝の下賜鏡ではない。
平原の21枚の「尚方作」鏡は、明帝の鏡が元になった可能性が高い 畿内民族は朝鮮渡来亜種の雑種。
これは記紀に出てくるし否定出来ない事実。
神功皇后の時代に朝鮮渡来人が畿内に入って来てた事は記紀にも記述があるから現代の畿内民族は朝鮮渡来亜種の雑種となる。
関西に在日朝鮮人が一番多いのも朝鮮ゆかりの地が関西だからである。
畿内説派はその朝鮮渡来人としてのアイデンティティを保つため畿内に邪馬台国がないと困るという訳だ。
スレ主は日本で寂しい思いをしていた。
それで畿内説スレを立てた。
スレ主の気持ちも考えてあげてはどうだろう? >>321
邪馬壹國なんぞ12世紀の写本からしか出てこない
邪馬台国の誤表記
筑紫に古い前方後円墳はない
三角縁神獣鏡も
尚方作鏡は記年がないから明帝から下賜されたと証明できるものは何もない >>171
>魏に使者は4回ほど送ったと記録にあるし 国内でコピーした三角縁も相当数あるから
1000枚くらいあっても不思議じゃないよ<
魏の「鏡を下賜」の記録があるのは、明帝の景初2年12月のみ。
平原には21枚の尚方作鏡があるが、
三角縁には「尚方作」鏡がない。 日本4世紀以降の遺跡から数百枚見つかって、
中国から学術出土ゼロの銅鏡ってどこ製なの? >>371
槨があれば3世紀ではないという考古的根拠はない >>175
>卑弥呼の時代の頃の魏鏡三角縁神獣鏡が全国のどこよりも
畿内から多数見つかってるから邪馬台国は畿内の可能性が高い<
大和の三角縁は、
3世紀末以後の「有槨」や「庄内〜布留」のホケノの更に以後だから、4世紀であり、
卑弥呼や壹與の時代ではない。 ホケノさんは鉄器をいっぱいお持ちなのに
領民はなんでゼロなの?
Absolute ZERO
一つくらい恵んであげればよかったのに
ましてや鉄鏃軍隊を擁していたのなら軍事教練で鉄鏃射撃訓練してるはずだよね
ほっほっほー / ─ ─\ ま、洛陽の一枚があるからね
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>畿内説は実は東遷説だな。・・・<
「南≠東」だし、
大和は、筑紫倭国の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国で、
白村江の後でようやく筑紫倭国を併合吸収継承したのであるから、
大和説も東遷説も×ね。 >>376
1枚では根拠にならないという事はない
もっとも出土してなくても三角縁が魏鏡でないことにはならないし
地位語句から出土したのはダメ押しといえよう
卑弥呼が魏に使いを送ったのは景初三年6月と複数の
古文書に記載があり、景初二年は後の世で転写する時に生じた
誤記である
尚方作鏡は年号が記銘されてなく、存在した機関も漢〜晋の間である
魏の下賜鏡であるとするj根拠が何もなく
卑弥呼が魏に使いを送った年号の記銘のある三角縁神獣鏡こそ
下賜鏡の可能性が高いと居えるのである >>384
「尚方作」鏡が下賜鏡と証明するものは何もない >>186
洛陽近辺で1枚しか見つからなかった三角縁で、
明帝の100枚の銅鏡だとか、列島の500枚以上の三角縁の説明になるとか、
必死に曲解捏造説明をしようとする大和説。
みじめみじめ 。 >>394
日本で数百枚出土して
中国で確実に出土したのが0枚なら
たとえ出土可能性が1枚あろうが
日本製でしょ。
わかる?
董卓に焼き払われた洛陽に
魏が都を戻してから
久しぶりに作った銅鏡の出来が今一つなのは銅鏡学者が認めるところ
平原女王墓の21枚の「尚方作」鏡こそが
魏から贈られた鏡として合致するんだよ
関係者はみーんなそう思ってるから
「恥」を感じないのなら
見苦しいタコ踊りを続けてください >>389
有槨である事が古墳が4世紀である事の根拠ではない
それに4世紀に三角縁神獣鏡が国内に発生したとすると
なぜなのか、どこから持ち込まれたのか等の新たな疑問が生まれる >>187
>学会では洛陽の魏鏡については、 誇張する学者が少なくなったのに
なぜ、このスレだけ盛り上がるのだろうね?<
ここにたむろしている大和説者は、皇国史観戦争国家主義にクルった・・・・だから。 お願いします!
研究費が
研究費がおりないんです!
世界遺産が
〇〇〇〇墳を世界遺産に申請して大儲けしないと!!!
私を顧問にぃぃぃ!!! >>400
日本で数百枚出土して
中国で確実に出土したのが0枚なら
たとえ出土可能性が1枚あろうが
日本製でしょ。
わかる?
董卓に焼き払われた洛陽に
魏が都を戻してから
久しぶりに作った銅鏡の出来が今一つなのは銅鏡学者が認めるところ
平原女王墓の21枚の「尚方作」鏡こそが
魏から贈られた鏡として合致するんだよ
関係者はみーんなそう思ってるから
「恥」を感じないのなら
見苦しいタコ踊りを続けてください >>196
>中国から学術出土ゼロの銅鏡ってどこ製なの?<
おそらく、江南か楽浪。 >>197
>ホケノ山 鉄器約70点出土 <
「有槨」で「庄内〜布留」だから、3世紀末以後。
>椿井大塚山 鉄器約300点出土 黒塚 鉄器約200点出土<
石室だから、ホケノより後であるので、4世紀以後。 >>198
>書き間違いなんてよくある<
大和説者は、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシを、
しょっちゅうする。 ホケノには鉄鏃が大量にあるから
鉄鏃軍隊を所有した将軍。
だがお膝元には鉄鏃が一つも出ない。
鉄鏃軍隊を所有していれば日頃の鉄鏃射撃訓練が不可欠。
一斉射撃もそう。
時代劇みたく居館での的射撃もあるだろう。
それを差し引いても、
集落部分から鉄器ゼロなのだから、
ホケノ将軍は外部からの侵略者。
大型建物の跡の時代にやって来たことは確実。
>>404 >>402
平原女王墓の21枚の「尚方作」鏡が
魏から贈られた鏡だとは関係者はみーんな思っていない >>396
洛陽近辺で1枚見つかった三角縁を必死に見ないフリをする九州説
みじめみじめ >>201
>単に奈良県の古墳の発掘があんまされてないだけだろ <
単に、宮内庁が「都合が悪いし、不利」だから許可しないだけだろ?。 みじめな連投w
関係者はみーんな笑ってるw
>平原女王墓の21枚の「尚方作」鏡が魏から贈られた鏡
>洛陽近辺で1枚見つかった
ヒール役はそうこなくっちゃね!! >>410
なんでsageるの?
不安なの?
>>410
mail欄が変だよ〜 >>205
ホケノ:3世紀末以後。
椿井大塚山と黒塚:4世紀以後。 >>410
むしろ発掘されたら九州説が泣きベソをかくハメになるぞ? >>416
いっぱい発掘して
鉄 器
見つけてくださいね! >>210
>副葬品<
ホケノは、三角縁無しで、「有槨」で庄内〜布留で、3世紀末以後。
椿井と黒塚は、「石室」で粗末に扱われた三角縁で4世紀以後。
>炭素14年代測定法<
AMS法では、プラズマ化をするから、50〜100年位古く出る。 >>211
>いいや三国時代の魏のもので 邪馬台国はやっぱり畿内 <
ホケノに三角縁がないから、4世紀以後であり、やっぱり大和説は×。 何で九州説信者はとっくに論破されてる話を何度も持ち出して
また懲りずに論破されるのかねぇ いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 >>423
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 >>230
>南の記述は一箇所じゃなくても そこだけ所間違えたのかもしれない<
東北西とは、字形も意味も全く違うから、
間違える確率は全くない。
>それだと反論にならない<
確率が全くない話は、反論にならない。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 【日本の歴史】
1世紀
倭奴国 漢と通じ金印を貰う
倭国=朝鮮半島南岸〜対馬〜壱岐〜九州北岸
海洋民による海洋国家
後漢書「倭奴国は倭の極南界」
2世紀前半
九州銅矛圏vs近畿銅鐸圏
近畿銅鐸圏の王、帥升が後漢に朝貢
北宋通典「倭面土国(ヤマト国)王帥升」
2世紀後半
銅矛圏の一部勢力(安曇氏)が大阪侵略(大阪湾型銅戈)→倭国大乱
→卑弥呼即位により銅矛圏と銅鐸圏が和睦し同盟
出雲、吉備は従わず(狗奴国)
銅矛圏の王も廃されず伊都国に残る
魏志倭人伝「邪馬台国(ヤマト国)女王卑弥呼」「伊都国、世有王」
旧宗主国倭奴国王族の住吉氏、領地の朝鮮半島南部に亡命、新羅王として即位
(住吉神 中筒男=新羅王2代目 南解次次雄)
3世紀前半
邪馬台国連合=北部九州、近畿
出雲、吉備は銅輸入ルートから締め出され、銅器を使わない独自の祭祀を開始
(出雲=四隅突出墓、吉備=特殊器台)
丹波地方にいた住吉王族残党が新羅合流(丹波〜若狭湾は四隅突出墓の空白地帯)
(住吉神 底筒男=新羅王4代目 昔脱解) >>425
確率が全くないというのは原理的にない
つまりそれを前提にした論は原理的に成り立たない 大和説没落をきっかけとして諸説がもう一度盛り返してきたな 九州説信者どもが現実から目をそらして
妄想の世界に逃げ込んだようだな 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 >>424
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 >>233
>倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、大阪湾を中心とした畿内が中心だろうね。<
「南≠東」であるから、×。 >>235
>陶塤面白いねぇ。
宗像以東、出雲や丹後半島など日本海側に分布。
中心は関門海峡両岸、松江、丹後半島だな。
弥生時代前期。銅鐸より時代は古く(倭人の渡来より古く)、水稲が広がっていく時期と被る。
長江河口辺りから、大陸で大きな戦乱がある度に渡来があったんだろうね。
豊受大神の伝承とも被る。<
成程。 >>236
>魏志倭人伝には倭人の葬儀習慣は棺あって槨なしと書かれてあるだけだ
塚への埋葬方法がそうだなんてどこにも書いてないから
ホケノ山に槨があっても畿内説を否定する材料にはならない<
ホケノは「冢」ではないし、「有棺有槨」だし、「庄内〜布留」だし。 >>370
びーるはさっぽろくろ
しょーちゅーはにかいどー
ポンシュは宗玄かこしのかんばい
うたはふなうたぜよ( >>239
>木棺に土葬。畿内の風習と合致するね<
ホケノは「石囲い木槨」に「刳抜式木棺」。
倭人伝に合わない。 >>439
で?
それが槨だと言い張る理由は?
??? >>374
それぞれのちんぽの長さをcmで答えよ( お!はんしんよりよりよわいとこのがほーむらん
>>377
せえかあーい >>245
>デタラメ言うな 「韓伝」「夫余伝」では、それぞれ、「槨あって棺なし」<
興奮して嘘を付くな。
韓は「有棺無槨」で倭人と同じ。
扶余は「無棺有槨」。
>さらに槨ありの古墳がダメなら 槨なしの古墳は九州にあるのか?<
九州は、支石墓が箱式石棺に発展し、更に有棺石室に発展。
>そしてその葬儀に魏の使いが立ち会ったという証拠は?<
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」の記録。 >>419
amsはとーけーしょりのがでたらめでした
ぷらずまほーかいはどーなんやろ? >>255
>注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。<
掲示板は、自由投稿が原則であり、
制限したいんなら、このスレを止めて、
個人のサイトやホームページを立てなさい。 >>426
わかものにくなこくきないせつとなえているものぞくしゅつでっしゃろ(てきとー >>265
>ほんなら結局棺あって槨なしは古墳の事じゃないし
機内説を否定するものでもないって事だろ<
石室は、槨の発展形。 >>278
>弥生墳墓に大きな物なんてあるか?<
前方後円墳は、那珂八幡や津古生掛などが最も古いぞ。
>それよりも前方後円墳の方がデカいぞ?<
前方後円墳は「冢」ではないぞ。 ちなみにねっとしょーぎはあれから3れんぱいじゃ^^ >>445
「韓伝」「夫余伝」では、それぞれ、「槨あって棺なし」という一文は
他でもない邪馬台国の会のページから引っ張ってきたんだぞ?
ググッたら出てきたから
安本がこう言ってたらしいが
つまり邪馬台国の会、安本が嘘をついていると? >>286
>副葬品 三角縁神獣鏡 画文帯神獣鏡<
何だ?、こりゃ。
黒塚か?。
黒塚なら、石室だし、
「三角縁神獣鏡がないホケノ」よりも後だよ。 九州説っつうかザラコクが前方後円墳を塚じゃなくしようと必死だな >>288
>そんな鏡は聞いたことないなぁ
3世紀の古墳から数百枚見つかって
中国の洛陽から出土した中国製の三角縁神獣鏡の事なら知ってるけど<
洛陽付近から1枚しか見つからなくて、「尚方作」も入っていなければ、
そりゃ、明帝の下賜鏡ではないね。 >>459
ホケノに 画文帯神獣鏡があって三角縁がないなら
239年より前の古墳って事だろ >>448
それでやるとつれしかみにこんからなー
2chで煽りあうのがたのしーんちゃいますか(はなほじ >>457
うおーずでやってそのあとpcでsdinや >>461
尚方作の鏡は漢の時代からある
明帝の下賜鏡であるという証明はない >>465
うおーずは初段ぐらいから急に強くなるだろ、最初から棋神つかわれるとどうもならんしな
SDINは1500以上になると強敵やろ、囲碁も1500超すとなかなか強いしな >>468
うおーずは二段じゃけどsdinはpcのくっきーよめがくりあするよって1300よーこえん
いごはるーるしらん >>445
よこから、
韓も扶余も「槨あって棺なし」だね >>470
ほけのくらいならぜんはんちゃう?(てきとー
箸墓は280+−ちょいと石野君がいうてました(わりと信じてる >>471
鼻ホジはうおーず二段だったか、24の級は辛いよな
将棋クエストは手軽で面白いぞ >>302
>日本国民であっても大和民族ではない人はいる<
「大和民族」という特別な民族など、歴史的にも現在も存在しない。
>親の民族に誇りをもっている人に日本民族を押し付けるということは
民族の誇りを捨てろと言ってるのと同じだ<
日本列島に固有種の「日本民族」など存在しない。
既に、ほぼ全部混血であり、日本国民だ。
>誰もが日本民族になりたがってると思うな
ためしに近所でアメリカ人観光客見つけてお前は日本民族だと言ってみろ<
観光客は、まだ居住する事になっていないから、日本国民にはならない。 >>473
じゃあひみこさんのはかやな(どーでもいいが
問題はいよさんのみやこちゃうんか? アメリカ人にケツが青い騎馬民族の大和民族はそうそういないだろ >>475
24はだんちがいやな2きゅーくらいでやめましたわ^^ >>304
>ほとんどの人類は、少額のなら他人のものでも自分の物として使っていいと
言張ってる非常識な人種と兄弟などと言われたくない <
殆どの人類は、困ったり飢えたりしたら、助け合う人類だ。
唯我独尊の高慢なタカ派の、
何でも一番勝って支配したい、という人種差別殺戮戦争的な、
やくざ暴力団のようなケダモノは、人類ではない。 >>483
根拠なし
九州説に根拠なし
これ、標語 >>306
>沖縄の人は、お前みたいに少額のなら他人のものでも自分の物として使っていい
など言張ったりしておらん <
沖縄の人は、
お前みたいな「米軍基地は嫌だから、〇〇になら一杯置いてもよい」などの差別を、
言張ったりしておらん。 >>485
ザラコクって、ヘイトスピーチばかりしてる
ケダモノだよね
毛 >>323
大和説の言うことは、
「南→東」などのように史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシをするし、
根拠がないので、わけわからん。 >>325
裁判の事実や実態は、
偽書説派にそそのかされて偽書説派に組した野村が、
喜八郎さんの「写真の説明」の不足を訴える、
というアホな事をした、という事だったんだな。 >>476
>「大和民族」という特別な民族など、歴史的にも現在も存在しない。
少額なら盗んでもいいというようなお前の仲間にはいない
>ほぼ全部混血であり、日本国民だ。
民族は言語や生活様式などの文化的特徴を共有する集団だ
遺伝子などの分類ではない
>観光客は、まだ居住する事になっていないから、日本国民にはならない。
お前が言ってるのは国籍だろ >>485
古田の集団は犯罪を正当化する活動なのか
お前らのように他人のものを平気で盗めば争いが起きる
助け合うことと、盗み合うことの違いすらわからんのが古田集団だな >>487
>お前みたいな「米軍基地は嫌だから、〇〇になら一杯置いてもよい」などの差別を、
俺が言っても無いことを平気で作るな古田のパシリ 古田の手先が主張している、どこかの末裔が国会議員の松野氏も
少額であれば盗んでいいという同類の考えの家系なのか ヒミコは天皇系図のイの一番にいます。
トヨもね。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9f/Emperor_family_tree1-10.png
邪馬台国論争終了。
さてヒミコが住んだのは葛城、奈良県御所市。
ヒミコの宮が御所市のどのあたりかというピンポイントの話をしようぜ。
まぁ「姫の宮」こと長柄神社がある名柄だろうね。
ヒミコの息子の綏靖の宮である御所市森脇にも近いし。 毎回思うけど、ここのスレの消費速度はやすぎじゃね? 何度論破されても懲りずにまた論破されに来るドMの九州説信者が居るからな >>328
大和説のお前が一番、
洛陽付近の三角縁が1枚しかなく、列島の三角縁が500枚以上ある、
という事が気になってるな?。 >>330
ハイ!ふせーかいです 。
かれらがくにをつくるのに力をふるいました。
そーしてくにができました 。
勿論「みなみ≠ひがし」なので「くな」のことではありませんでーす 。 >>332
そりゃ本物だっても、1枚位しかなかったら、大和説即死だもんね 。 >>347
>卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、
吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。<
これも、「南≠東」ですから、×。
分裂幻覚の妄想小説は、止めましょうね。 >>350
>大和の地が卑弥呼側の勢力に制圧された後(2世紀後半以降)の、
狗奴国の版図は、河内、和泉。<
これも、「南≠東」だから×ね。
分裂幻覚の妄想物語は、やめましょうね。 >>351
「南→東」などの嘘つき騙しのように、史料事実根拠がないのが大和説 w。 南=東で合ってるんだろ
南≠東なら邪馬台国は九州の南端になるけど
あそこには何もないからな >>506
論破されまくってだいぶ九州説が大人悪しくなったからね >>354
>魏志倭人伝に書いてある。
狗奴国は邪馬台国(ヤマト)の南と。
地図を見れば、ヤマトの南は河内や和泉になるからな。<
魏志倭人伝には、不彌國の直ぐ南が邪馬壹國とかいてあるから、
これも×ね。
分裂幻覚の妄想の嘘つき騙しは、止めましょうね。 >>381
>邪馬壹國なんぞ12世紀の写本からしか出てこない 邪馬台国の誤表記 <
「邪馬台国」なんて、写本版本どころか、半分×書の後代史書にも存在しない。
>筑紫に古い前方後円墳はない <
那珂八幡や津古生掛などが、列島で一番古い。
>三角縁神獣鏡も<
志登が一番古いらしい。
>尚方作鏡は記年がないから明帝から下賜されたと証明できるものは何もない <
「尚方」の工房では、毎年鏡も造っている筈だし、紀年など要らない。 >>386
また、「南→東」などのウソをつく大和説。 >>388
>槨があれば3世紀ではないという考古的根拠はない<
吉備やホケノの槨は、
太康6年(285年)の扶余の戦争での、
扶余と東沃祖の「槨」部族の 渡来しか考えられないから、
3世紀末以後。 毎度
槨があるない言ってるけど、うっとおしい。
畿内での槨のある古墳を挙げろ
その地理分布を示せ。どの順番に
槨部族が畿内に到着して古墳を築造して行ったか説明せい! ザラコクに論理的な対応を求めても無駄だよ
やってる事が学問的議論じゃなくて政治活動だから 畿内民族は朝鮮渡来亜種の雑種。
これは記紀に出てくるし否定出来ない事実。
神功皇后の時代に朝鮮渡来人が畿内に入って来てた事は記紀にも記述があるから現代の畿内民族は朝鮮渡来亜種の雑種となる。
関西に在日朝鮮人が一番多いのも朝鮮ゆかりの地が関西だからである。
畿内説派はその朝鮮渡来人としてのアイデンティティを保つため畿内に邪馬台国がないと困るという訳だ。
スレ主は日本で寂しい思いをしていた。
それで畿内説スレを立てた。
スレ主の気持ちも考えてあげてはどうだろう? >>519
このスレにヘイトスピーチなるものがあるとするなら畿内人の罵倒くらいじゃない? >>520
日本人の遺伝子は驚くほど均一だ
残念ながら日本人全員が朝鮮渡来亜種の雑種だよ >>522
遺伝子では朝鮮では日本特有のYAPハプロD1b系統は僅か2%しか存在しないので全く違う。 それじゃ朝鮮渡来とは言えないな
百済渡来とかの方が正しいんじゃないの >>526
関西は実際在日朝鮮の人達の割合が国内トップクラスなのは事実でそれが昔からだからかなり関西では朝鮮の人たちとDNAが似てくるものだと説明出来る。 >>518
魏志倭人伝に倭人の墓には槨がないと書いてあるのに、畿内説が槨があるホケノを邪馬台国と結びつけるからだろ? ホケノのは現代考古学者が研究の便宜上「槨」と呼んでるだけ
古代中国の槨とは全くの別物 >>530
同じ言葉は同じものを示さないと困るんだけど。
考古学者はバカなのか?それともそんな珍説を誰がゆるしてるんだ? バカなのはそういう事情を調べもせずに難癖つけてる奴らだと思うがな 畿内に邪馬台国と違う大きな集落群があったでいいと思う
畿内の古墳の年代を古くしても構わない。邪馬台国と違うから 基本は倭人伝
倭人伝の記述にいかに近づけるかが邪馬台国論争の根幹
倭人伝が無ければ、邪馬台国も卑弥呼も存在しないのだから
畿内説は
基本である倭人伝の記述をご都合主義で否定・選別しているように思うのは私だけであろうか?
また、倭国以外の国が大陸との交流の証があったとしてもなんら問題ない。
魏の使者が九州の地に着いたのは間違いない。文献は無いが使者以外の者が倭国以外の国と交流が有ってもなんら問題ない。
九州・畿内でも大陸との交易の証拠らしいものも発掘されているし、
邪馬台国と対立していた狗奴国も大陸との交易があったと考える、対立するには大陸の文明は必用であるから 訂正
九州・畿内でも➡阿波しかり、出雲しかり九州・畿内以外でも >>532
中国人がホケノを見たら、やはり槨があると書いただろう。
畿内説の身勝手な言葉遊びには辟易するよ。
ただの歪曲捏造とかわらない。 現在の畿内説論者は倭人伝の曲解を進めているように思える
学生諸氏は
情報化社会もうまく活用し、師事する先生の意見は是々非々で自分なりの邪馬台国論を確立してもらいたい >>538
無知からの決めつけ
こういうのが本当のバカ >>539
洗脳は解けない このスレで実証済みWw >>394
>1枚では根拠にならないという事はない <
(この投稿は、スレ主のような書き方だな?。)
問題は、確率の高さであり、
洛陽では三角縁神獣鏡は「盛行していなかった」のであり、
魏朝が下賜鏡に選択する確率が低い、という事であり、」
明帝下賜数よりもはるかに多い500枚以上もの三角縁が倭地に出土した、
という事は、倭地の鏡は明帝下賜鏡ではなかった、という事だ。
>もっとも出土してなくても三角縁が魏鏡でないことにはならないし<
出土していなければ、確率はますます下がるだけだ。
>地位語句から出土したのはダメ押しといえよう<
明帝下賜に最も確率が高いのは「尚方作」鏡だ。
民間作鏡であっても、地位語句が個人の自慢のやり過ぎな鏡は排除される確率が高い。
>卑弥呼が魏に使いを送ったのは景初三年6月と複数の古文書に記載があり、<
後代史書での「異なる説明」の方が、始めから確率が非常に低い。
>景初二年は後の世で転写する時に生じた 誤記である<
後世の考証校勘もなかったし、起居注が残っていた可能性が高いし、
「誤記」であった、という方が、確率はほとんど0だ。 >>542
なんの根拠もない思い込みだな
テキトーに確率なんたら言ってるが
自分の希望を言ってるだけ >>394
>尚方作鏡は年号が記銘されてなく、<
(平原の)「尚方作」と書かれた鏡の方が、
魏朝の工房での製作である事が明確になり、
与えられた方は、値打も価値もある、と思えるのであり、
年号も不要である。
>存在した機関も漢〜晋の間である<
鏡を下賜した記録が残っているのは、明帝だけだ。
>魏の下賜鏡であるとするj根拠が何もなく<
明帝以外に下賜した記録がないのだから、明帝の下賜鏡であった確率が最も高い。
>卑弥呼が魏に使いを送った年号の記銘のある三角縁神獣鏡こそ<
明帝が景初二年12月に下賜の詔書を出したんだから、景初三年鏡は、明帝の下賜鏡ではない。
>下賜鏡の可能性が高いと居えるのである <
スレ主も、他の大和説者と同じく、
都合の悪い史料記載を「何でも間違いだ」とする・・・・詐欺師だねえ。 >>531
三世紀の中国語と現代の日本語は
違ってて当たり前
なにも考えずに同一視する人のあたまが
どうかしてる >>395
>「尚方作」鏡が下賜鏡と証明するものは何もない <
「尚方作」と書けるのは、漢と魏と呉と蜀と西晋の位しか可能性がなく、
その内、下賜をした記録があるのは、魏の明帝しかなく、
従って、「尚方作」鏡は、ほぼ100%の確率で、明帝の下賜鏡である。 >>544
「何でも間違いだ」とする
って証拠は? >>544
>明帝が景初二年12月に下賜の詔書を出したんだから、景初三年鏡は、明帝の下賜鏡ではない。
なんの理由も、ないよね
思い込みで決めつけてるだけ >>546
>従って、「尚方作」鏡は、ほぼ100%の確率で、明帝の下賜鏡である。
じゃあ三角縁も明帝の下賜鏡だろ
バカじゃないのか >>398
>有槨である事が古墳が4世紀である事の根拠ではない <
魏志に拠って、「卑弥呼や壹與の頃は、無槨であった」、と記録されていた事になるし、
同一部族内であっては、墓の埋葬法に極端に大きな様態変化が起きる可能性は非常に低く、
「無槨→有槨」の変化は、「有槨」部族の渡来があった、という事が最も確率が高く、
だから、太康6年(285年)の扶余の戦乱に拠って、
扶余や東沃祖などの「有槨」部族の渡来が、吉備やホケノに3世紀末にあった、
という確率が非常に高い。
>それに4世紀に三角縁神獣鏡が国内に発生したとすると
なぜなのか、どこから持ち込まれたのか等の新たな疑問が生まれる<
三角縁神獣鏡の国内最古は、志登や祇園山などの筑紫であり、3世紀半ばの卑弥呼の時代であり、
魏では盛行せず、呉からの直接的渡来も考え難く、
楽浪で、呉系の三角縁鏡や神獣鏡鏡が存在していたから、
呉系楽浪鏡師の持参や渡来製造が、最も確率が高い。 >>550
素人おじん75歳の理由もない勝手な決めつけが、確率高いわけないだろ >>407
>平原女王墓の21枚の「尚方作」鏡が
魏から贈られた鏡だとは関係者はみーんな思っていない <
大和説の関係者は、柳田らも含めてみーんな・・・・詐欺師だから、
「魏から贈られた鏡だ」とは絶対に思いたくない。
また、平原では、破鏡されていたらしいが、
明帝の下賜鏡であれば、
本物その物を各地の豪族に下賜した方が、豪族にも有難がって貰えるものであり、
破鏡した、という事は、「元」の方格規矩鏡からの複製鏡を造って、それを破鏡副葬した可能性もある。 >>553
そんなもの一つも見つかってない
ザラコク爺さんの空想 >>550
高良神社蔵の三角縁のこと?
あれを古いものだと言ってる学者は一人もいないだろ 脳の固定した老人はインプットを受け付けない
壊れたデータを吐き出し続けるだけ >>557
ザラコクはザラコクだ
耄碌爺なのも事実 >>557
「おじん」というのはザラコクの自称だから確かだろう >>540
>>>538
>無知からの決めつけ
>こういうのが本当のバカ
言い張るだけで何も根拠を示せない畿内説 >>550
285年に有槨部族が渡来したとしてなぜ畿内に広まったのか
九州には広まらなかったのか
そもそも古墳が無槨だなんて一言も書いてない >>408
追い詰められてついに発狂した大和説者。 大和民族の柳田や裁判官が、倭人伝に「窃盗せず、訴えごとも少ない」
と書かれている倭人の末裔
古田や喜八郎や加古川のような盗賊から安全な交易路を確立したのが
卑弥呼の時代の倭人のネットワーク
畿内〜博多湾岸の倭国
古田のは泥棒部落史 >>409
列島の500枚以上の三角縁や、平原の21枚の「尚方作」鏡を見ない振りして、
洛陽近辺で1枚見つかった三角縁だけを必死に見るフリをする大和説者。
みじめみじめ 。 >>545
槨は現代語ではない。
現代になって勝手な解釈を言い出したアホがいるだけだ。 天皇皇后両陛下 宗像大社参拝
他の神社は無視 価値なし >>411
>>平原女王墓の21枚の「尚方作」鏡が魏から贈られた鏡
>>(列島では500枚以上の三角縁)洛陽近辺で1枚見つかったのみ<
厳しい連投w。
大和説関係者はみーんな困って逃げ回ってるw。
素人オジンはそうでなくっちゃね!!。 >>412
>なんでsageるの? 不安なの?<
sageって、どういう意味なの?。 >>414
>(宮内庁の大和の発掘)むしろ発掘されたら九州説が泣きベソをかくハメになるぞ?<
これまでに発掘された考古と、発見された文献からの、
帰納的な確率の高い推論で出来れば十分なの。
新しい事実が出てくれば、また新しい帰納的推論をすればよいの。
しかし、むしろ筑紫も発掘されたら、大和説者が泣きベソをかくハメになるぞ?。 >>418
>九州説には発掘すべき古墳がないものな 悲しいね<
どなたかの示された表では、筑紫には大和の10倍位以上位の古墳があったらしいよ。
嬉しいねえ。 >>418
>もういっぱい出てるよ<
卑弥呼の頃の鉄器でなくちゃ、×よ。
ホケノや黒塚では×であり、椿井では大和ではないから更に×ね。 捏造でも何でも好きなように
すれば良いと思う
実際は、
誰からも相手にされない
狭い範囲の仲間内で?
これでいいか?くらいの話 世界遺産登録だか何だか知らないけど、
お前?の努力が認められたという話でもないと思う
とくに意味もない >>532
>>545
やれやれ。そういうのは勝手だ好きにせい
恥知らず。そんな事情は事情であって
放置していい理由にはならんよ。
ぼくちゃんは事情を知ってます?(笑
>>570
賛 >>427
>3世紀前半 邪馬台国連合=北部九州、近畿<
「南≠東」だから、「近畿」は×ね。 もういい加減にしろ
邪馬台国が畿内なわけないだろ
九州に決まっている
今からでも遅くはないから九州説に乗り換えろ
後世、邪馬台国が九州にあった証拠が出てきたときに確定したら
恥をかくだけだぞ 誰からも相手にされないと言ってるんだよ
そろそろ頭のビョーインに行ったほうが良いんじゃないのか? >>428
>確率が全くないというのは原理的にない <
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
確率が100%完全に0という事は、
条件設定下の数学や論理学や法学などの場合を除いて、
原理的に有り得ないが、
確率が殆ど0%という事は、有り得る。
>つまりそれを前提にした論は原理的に成り立たない <
「全く」という表現は「殆ど」という意味の内容の強調表現であり、
100%ではないが殆どである、という意味の強調表現であるから、
成り立つ。 ホケノについては
>>529
>>>518
>魏志倭人伝に倭人の墓には槨がないと書いてあるのに、畿内説が槨があるホケノを邪馬台国と結びつけるからだろ?
これだけ指摘すれば良い
槨部族の到来とかわけのわからん話を持ち出すから話がどうでもいい横道にそれる。 他のスレにも書いているんだけど
何を偉そうに語っているんだ? >>431
大和説信者どもが、現実から目をそらして、
言葉尻議論の分裂幻覚の妄想の世界に逃げ込んだようだな。 悪く言うと成り済まし、騙り
ほとんど人から学んだ話だろう、
倣ったもの >>441
>>ホケノは「石囲い木槨」に「刳抜式木棺」。 倭人伝に合わない。<
>で? それが槨だと言い張る理由は? ???<
「槨であっては困る大和説学者」の「報告」だから。 >>560
根拠ならテンプレに書いてあらから問題ない メディア上の情報、報道(マスコミ)などもそう、
いくらでも捏造出来る
実際はどうなんだ? >>589
つまり、九州説にはなんにも理由がないんですな
理由ないことを言い張るだけ、と >>585
ホケノに槨(古代中国語)なんて無いだろ?
槨(現代日本語)があるだけ
つまり畿内説になんの問題もない >>447
>amsはとーけーしょりのがでたらめでした<
統計処理とは別問題。
計測以前の資料処理の問題。
>ぷらずまほーかいはどーなんやろ?<
プラズマ崩壊ではなく、
プラズマ化自体が原子核の崩壊も実行してしまっている、という問題。 >>449
>わかものにくなこくきないせつとなえているものぞくしゅつでっしゃろ(てきとー<
そりゃ若者は興奮し易いから、口先ダマシの街頭サギシに騙され易いが、
「南≠東」で、×は×。 観光客と言われる人々がいたりするでしょ、
日本以外の国、他の国の人々
日本の神話でも寺院でも何でも良いけど、
本当の事を知らないんじゃないの? 「喪主は泣き叫び、他人は歌い踊って酒を飲む。埋葬が終わると一家そろって水の中に入り、
洗ったり浴びたりする。中国の練沐のようである。」
「其死有棺無槨〜」は女王の葬儀の描写ではない
盛大に造る女王の冢には、棺を保護すものは必ずある
無いと封土したらすぐ棺が潰れる >>458
>「韓伝」「夫余伝」では、それぞれ、「槨あって棺なし」という一文は
他でもない邪馬台国の会のページから引っ張ってきたんだぞ?
ググッたら出てきたから 安本がこう言ってたらしいが
つまり邪馬台国の会、安本が嘘をついていると?<
安本も、史料事実を否定して、通説に迎合する嘘つきダマシのサギシ人種であるから、
半分×人種であり、信用していない。 >>460
>九州説っつうかザラコクが前方後円墳を塚じゃなくしようと必死だな<
円錐台や角錐台のように、全体が「尖り状」に見えなければ「冢」とは言わないから、
普通の前方後円墳は、
「尖り状」には見えず、「冢」とは表現しないよ。 311大震災のときも
「天誅だ」
「東日本大震災おめでとう^^^^^」
と言っている人々がいたり・・・
ほとんど正解だと思う
それと数年前のKPOPスレ
「鏡が見ている」
「私の事を悪く言うと天罰がくだる」
と言ってる人がいたとかいないとか >>601
それもザラコクが一人で勝手に決めたんだろ?
素人おじん75歳がさ いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 世界最高ソンゲン・・・!
何やらと怒っている人もいたみたいだよ >>594
>プラズマ化自体が原子核の崩壊も実行してしまっている、という問題。
崩壊しない
>>601
>全体が「尖り状」に見えなければ「冢」とは言わない
根拠無し そういえば、岡上氏の高度なレベルの投稿が懐かしいね。。。
このレベルの低いスレッドには、もったいなかったけれども、、、、 そういえば、岡上氏の高度なレベルの投稿が懐かしいね。。。
このレベルの低いスレッドには、もったいなかったけれども、、、、 >>161
でも、結構な数の研究者の目に留まっちゃったんだよね。。。 炭素年代が何やらという書き込みがあったり
突然、
そのような書き込みをする人々が現れた なぜか、ヘヴィメタルが。。。
という話をしている人たちがいたり 結局つぶやき荒らしをやってるのは
岡上なんだよなぁ >>462
>ホケノに 画文帯神獣鏡があって三角縁がないなら 239年より前の古墳って事だろ<
論理の順番が、少し逆だな。
ホケノは、「庄内〜布留」であり「有槨」であるから、3世紀末以後であり、
ホケノの画文帯は楽浪の画文帯系であり、楽浪の混乱や滅亡近しで齎されたものであり、
三角縁も、大和の黒塚や山城の椿井が「槨よりも新しい石室」だから、
三角縁のないホケノは、黒塚や椿井よりも古くなる、というだけの事。 >>616
それ、なんの理由もなくザラコクが言い張ってるだけだほ >>467
>尚方作の鏡は漢の時代からある 明帝の下賜鏡であるという証明はない<
あちこちや楽浪から、「尚方作」鏡が1個なら出土する事があっても、
平原のように、一カ所から「21個もの尚方作鏡」が出土する、というのは、
明帝の下賜の「銅鏡100枚」事件しかない。 >>619
なんで一カ所から「21個もの尚方作鏡」が出土すると明帝の下賜の「銅鏡100枚」事件しかないってことに、なるの?
理由は? 『セイントセイヤ ソルジャードリーム』
🌞 🌑
(地)
このような動画があったり 上のほうで、北極星が見えるから方角を間違う筈がないって言ってる奴も同じね
自分の中で結論が固定しちゃってて理由が言えない 九州説ってのは、そういう思い込みで出来てるんだよ
理由が無い 例えば『セイントセイヤ』
誰が太陽の神で、誰が月の神なんだ?
うまやどスレなどに貼り付けられている、
よくわからない曲「終わりがあるとしても」と言っていたり
どういう意味だと思う? 別に、セイントセイヤやヒミコ、ヒミオではなくても良い、
家の隣に住んでいる人も同じだと思う
🌞 🌑
地
宇宙 他の惑星・・・ >>472
>>よこから、 韓も扶余も「槨あって棺なし」だね <
変だね。
京大の天誅の「漢籍の書棚」では、
韓は、「有棺無槨」であり、
扶余は「有槨無棺」だよ。 それとテレビなどで言っている
テンノウというのは?
惑星でいうと、どれになるの?
むかーしなら通用した話だろう
「終わりがあるとしても」
既に終わっているとか? >>273
>五尺の刀って、平原遺跡にあったやつな<
古田史学会の正木さんは、会報の最新号で、
筑紫の五尺刀の出土を紹介しておられたな。 >486
>根拠なし 九州説に根拠なし これ、標語<
「南→東」などの史料事実の否定曲解の大和説に、
「史料事実からの根拠」なし。
これ、実態。 >>488
「南→東」などの嘘吐きダマシの、人種差別殺戮戦争の皇国史観の大和説者って、
ヘイトスピーチばかりしてる ケダモノだよね。 銅鏡百枚や五尺刀などは特に卑弥呼に賜うもので
また、汝の国中の人に示し、国家が汝を哀れむを知らしむべしと言っている
下級兵士用の素環頭大刀なんかは弥生中期に半島から持ち込まれてる それで?
ヒミコの何が凄いのか理解できないんだけど >>493
>史料事実を否定したら、何がいかんの?<
不可知部分が殆どである自然や歴史において、
かろうじて知り得た史料事実を史料批判無しに否定したら、
「正しい確率が低くなり過ぎて学問や科学にはならない」
からいかんの。
思想宗教にクルった分裂幻覚の妄想の・・・・と同じになってしまうからいかんの。 ヒミコが凄いというよりも
魏が凄いということを知らしめないと意味がない >>635
そんなザラコク爺さん個人のおかしな思想なんて他人は
知ったことじゃないから >>597
>盛大に造る女王の冢には、棺を保護すものは必ずある
根拠なし。
女王の墓である平原遺跡には槨はない。 >>633
>下級兵士用の素環頭大刀なんかは弥生中期に半島から持ち込まれてる
刀そのものが威信財だよ。
下級兵士が使っていたのは弓矢や矛戈。 >>495
>>「大和民族」という特別な民族など、歴史的にも現在も存在しない。<
>少額なら盗んでもいいというようなお前の仲間にはいない<
勿論、お前は日本国民の仲間ではない嘘吐きだし、
「少額なら盗んでもいい」と言った覚えもないし、
日本国民なら、少額なら分け与えて共存しようとする。
>>ほぼ全部混血であり、日本国民だ。<
>民族は言語や生活様式などの文化的特徴を共有する集団だ<
民族も日本国民も、元々は兄弟であり、バラバラだな。
>遺伝子などの分類ではない <
遺伝子的には、僅かな差異のある「皆、兄弟」だ。
>>観光客は、まだ居住する事になっていないから、日本国民にはならない。<
>お前が言ってるのは国籍だろ<
いや、居住共存だ。 >>610
そういえば、この畿内スレpart1が立てられたのもその頃だったね。。。 >>496
大和説の集団は、
「歴史の抹殺」や「人種差別殺戮戦争」の犯罪行為を正当化する・・・・・活動なのか。
お前らのように、
史料事実を否定し、平気で曲解するから、咎められる。
史料批判をした史料事実からの帰納的な確率的推論をしているのが古田説だな。 >>497
>>お前みたいな「米軍基地は嫌だから、〇〇になら一杯置いてもよい」などの差別を、<
>俺が言っても無いことを平気で作るな古田のパシリ<
お前が、大和民族至上主義を唱えて、人種差別を肯定するから、
沖縄住民への「土人」誹謗事件に例えて、お前を批判した。 董卓傳
葬卓於郿,大風暴雨震卓墓,水流入藏,漂其棺槨。 >>498
>どこかの末裔が国会議員の松野氏も
少額であれば盗んでいいという同類の考えの家系なのか<
同じ苗字なら、可能性があるんだろうが、
「少額であれば盗んでいい」なんて捏造のウソについては、知らんよ。 >>500
>おい、敗訴したくせに <
和田家文書全体の偽書説を、
裁判で認めさせようと訴訟を起こした偽書説者ら側が、
敗訴したんだよ。 >>648
松野氏は、
「少額であれば盗んでいい」と言張っている古田の手先が
火の国に住み着いた王家だと言張っているから
古田の手先と同じ人種かと思ったんだが >>502
何度論破されても懲りずにまた論破されに来るドアホの大和説信者が居るからな 。
私は殆ど、投稿を見て、黙過し難いものに対しての反論を書いているだけだ。 >>645
古田は金欲しさに泥棒から商品を仕入れ
古田の手先は善良で弱い被害者を罵っている
加古川のよごれだな >>646
俺は大和民族に誇りをもっているが大和民族至上主義なんぞ唱えていない
デタラメ言うな泥棒 >>651
おまえ、全レス馬鹿って呼ばれてるの
知ってる? >>643
>日本国民なら、少額なら分け与えて共存しようとする。
喜八郎は金目当てで許可なく他人のものを盗んで虚偽の説明を加えた
被害者の方は虚偽の説明でなければ訴えなかったと話している
お前は古田の仕入先の喜八郎には盗む権利があるかのように
弱い被害者を罵っている
お前が言張ってるのは民族の話じゃない
お前の言い分だとすべての国が単一民族国家になる >>649
よく独裁政権が戦争に負けたのに国民に
勝ったのだ勝ったのたと放送するアレだな >>153
でも、インタ−ネット工作が、観光客の対応に、猫の手も借りたい筈の、黄金週間もやまなかったね。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 >>657
岡上、東遷説がもうダメだからって他所を荒らすなよ >>608
仕方ないよ、、、、
囲碁でもよくいわれるけども、名局ができるには二人の天才が要ると、、、
畿内説者のレベルの低いこのスレッドでは、岡上氏の能力の全てを引き出せないからね。。。。
岡上氏が投稿しなくなったのも、そういうことなんじゃないのかな、 テンプレートを張り付けている小汚い老人は、なぜか、テンプレートの間違いを指摘する人間の多くを、その岡上氏だと勘違いしているふしがあるね。。。
論破され続け、発狂しているからかな。。。。
句読点連続はインターネットの世界ではよく使われることは教えてあげたし、岡上氏とは違って、僕たちは邪馬台国時代について、あまり知識がないから、間違われるわけはないのだがね、、、 それにしても凄い話
だっ津ーの?「聖化 日霊 日神 津」
調べてみると『官僚』と書いてない?
後に官僚になったのかな 土師氏?高野氏と、
だっ津ーの?が同じ一族で・・・出雲で天孫? とにかく、荒らすことが
残り少ない人生の生きがいな男だよ >>670
どこのテイノーなんだ?
と言われたことがない 天津
↓
国津=だっ津ーの:官僚?
同一人物だという説 頭のビョーインに行け
と言われたことがない?
他のスレにも書いた >>678
自分の書いた事くらい覚えておいたほうが良いぞ 誰々(不明)というのは
川崎に住んでいる、住んでいるんじゃないの?
というのも有名な話みたいだよ
家も川崎に住んでいる、川崎区の南部のほう
『サイバーパンクspecial』
というコミックでいうとロトちゃん?の住んでいる付近、
少し離れているのかな、それとも家の話なのかな ロトちゃん?
なぜかポケモソの主人公のようなキャラ お母さん、まま、まむ?
寒い・・・あったかい?
このような事を言っていたり もれ(仮)には兄がいるから、
実際は兄の話なのかもしれない。
名前も「智・・・・」
このような名前だしな・・・。 何の話なんだろう女王 王女?
『菅野力夫』
同じような家だしな〜 >>623
>上のほうで、北極星が見えるから方角を間違う筈がないって言ってる奴も同じね
自分の中で結論が固定しちゃってて理由が言えない <
(・_・D フムフム あんたの住んでるところは北極星は西にあるんだ(・_・D フムフム (・_・D フムフム 畿内説では太陽は西から出て東に沈むんだ(・_・D フムフム
♪西から昇ったおひさまが〜東へし〜ず〜む〜♪(あっ たいへーん!)
♪これでいいのだ これでいいのだ♪
♪ボンボン バカボン バカボンボン♪
♪天才畿内だ バカボンボン♪ >>511
>南=東で合ってるんだろ<
合ってないよ。確率が、ほぼ0%であり、ないんだよ。
>南≠東なら <
「南≠東なら」ではなく、「南≠東である」なんだよ。
>邪馬台国は九州の南端になるけど あそこには何もないからな<
魏志が読めてないんだよ。
不彌國で萬二千余里がほぼ消化されている記載だから、
邪馬壹國は不彌國のすぐ南に入り口がある、
という事になる。 >>644
確かに、、、、
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている >>512
論破されまくった大和説者が、とうとうだいぶ頭が変になり、
大人しくなったり、狂暴になったりしているね 。 >>700
そんな確率、どうやって算出した?
ww >>518
>毎度 槨があるない言ってるけど、うっとおしい。 畿内での槨のある古墳を挙げろ
その地理分布を示せ<
そんな事は、全く関心もないし、知らんよ。
掲示板に大和説者らが紹介した発掘事実や発掘説明で、何故そんな事が起きたのか?を考えているだだけだ。
>どの順番に 槨部族が畿内に到着して古墳を築造して行ったか説明せい!<
筑紫にはなくて?、
吉備とホケノが初めて「槨」を持ったようで、
吉備が大和よりも少し早いようだから、
扶余と東沃沮の「槨」流民は、出雲を経由してまず吉備に植民し、
それから大和へも植民して、ホケノにも埋葬されたらしい、
と考えただけだ。 >>519
ほい、しまった。
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの、
人種差別殺戮戦争の皇国史観の・・・・大和説者に、
論理的な対応をしても無駄であった。
大和説者がやってる事は、学問的議論じゃなくて、
政治的宗教的やくざ暴力団的な・・・・サギ活動だからな。 >>704
つまり、ろくに知りもしないで、いい加減なことを言ってるんだね。 >>704
なぜ、どのようにしてその流れが
発生したのか説明しない限り単なる妄想だからな。
歴史学の方法論に沿って主張したまえ。 平原遺跡の埋葬方式は割竹形木棺に粘土槨だそうだけど
これは平原遺跡には槨があるという事でいいか? >>530
>ホケノのは現代考古学者が研究の便宜上「槨」と呼んでるだけ
古代中国の槨とは全くの別物<
勿論、古代中国の槨と100%完全に一致する形態でなくても、
魏使らが「槨」と認識出来るような「槨に類似し槨に見える形態」であれば十分であり、
だから、各地域や部族の都合に拠っての変位槨であった可能性もあり、
モンゴル〜半島での「槨」も、古代中国の槨と少し形態が違う可能性もある。 >>534
「南≠東」だから、大和には邪馬壹國も邪馬台国もないからw。 >>709
魏使らが「槨」と認識出来るような「槨に類似し槨に見える形態」
だと思う理由は? >>540
>無知からの決めつけ こういうのが本当のバカ <
魏志らは、「槨」(=遺体や棺を包む小部屋状の構造物)を見なかった、
という事が史料実態であり、
ホケノは「刳抜式木棺を納めた割竹形木槨」という形状であるから、
大和は卑弥呼の倭国ではない。4 >>712
無知丸出し
「割竹形木槨」なんて有るか、薄馬鹿 >>712
そもそも
槨=遺体や棺を包む小部屋状の構造物
なんて定義を誰が作ったんだ?
また素人ザラコクの珍発明か? >>712
成程。よく説明されている。納得した。有り難う。 畿内民族は朝鮮渡来亜種の雑種。
これは記紀に出てくるし否定出来ない事実。
神功皇后の時代に朝鮮渡来人が畿内に入って来てた事は記紀にも記述があるから現代の畿内民族は朝鮮渡来亜種の雑種となる。
関西に在日朝鮮人が一番多いのも朝鮮ゆかりの地が関西だからである。
畿内説派はその朝鮮渡来人としてのアイデンティティを保つため畿内に邪馬台国がないと困るという訳だ。
スレ主は日本で寂しい思いをしていた。
それで畿内説スレを立てた。
スレ主の気持ちも考えてあげてはどうだろう? >>555
>高良神社蔵の三角縁のこと? あれを古いものだと言ってる学者は一人もいないだろ <
「南→東」などの嘘吐きダマシの通説学者なんて、全く信頼性がないし、
祇園山の墳裾の62人以上の陪葬が、50年以上に渡っての追葬の集団墓だ、
なんて滅茶滅茶な解釈をする発掘報告学者らの解釈なんて、信頼性が全くなく、
逆に、祇園山が卑弥呼の墓の可能性が非常に高いから、
祇園山出土の三角縁も、非常に古い、という事になるんだよ。 平原遺跡にも槨があるならその辺りは倭国じゃなかった…? >>719
つまりこれも
素人ザラコクが一人で
ただ思い付きを言い張ってるだけ
なんだね 平原遺跡は方形周溝墓だから、普通は槨は無いと思うが。
槨があるのは前方後円墳になってからで
最低でも墳丘墓になってからだろ。 しかし平原遺跡の埋葬方式は割竹形木棺に粘土槨だそうだが? 木槨墓は、新石器時代後期後葉に山東地方に始まり
商・周の貴族の基本的墓葬は竪穴土坑木槨墓
前漢時代後期には、王墓に木槨墓を使わなくなっていた
楽浪漢墓前半期までの下級役人の墓制
日本では嘉麻市馬見の弥生中期の鎌田原弥生墳墓群の中心に木槨墓がある >>723
ざっと遺跡データベースと伊都国歴史博物館の資料を見たけど
槨とは書いてなかったな。
資料があったら、URLを示してください。 >>725
ttps://blogs.yahoo.co.jp/hirotak24/7854898.html 庶民の墓についての記述を、支配層の墳墓で語るのはおかしいよ。 だいたい古墳埋葬時に魏の人間が立ち会ったわけないよな >>726
平原遺跡が3世紀よりもっと新しいと主張しているみたい。
だから卑弥呼の墓ではないと。
斬新だなあ。
古墳の年代比定なんて、こんなものか。 >>719
成程。よく説明されている。理解が深まった。有り難う。 >>725
平原遺跡は土壙墓(土坑墓)とされてますね。
土坑墓(どこうぼ)とは、土を掘りくぼめて穴(土坑)をつくり、そこに人の遺体を納めて葬送した遺構。
土葬にともなう世界的にポピュラーな埋葬に用いられた遺構であるが、日本では縄文時代〜弥生時代に多い墓の形式であり、その場合「土壙」とか「土壙墓」と表記される場合もある。
粘土槨(ねんどかく)とは、古墳の墳丘の上から掘られた土坑内の粘土床上に安置された木棺を、粘土で覆って埋め戻した埋葬施設のことである。
木棺を大量の石材で封じ込めた竪穴式石室の簡略化された形態とも推定される。 魏使のチョンボに期待するしか大和説の勝ちはないもんな >>732
木棺の周りに空間がないから、槨ではないですね。
上にある文献は、槨について思い違いをしていますね。 畿内説は、平原遺跡がよほど怖いんだな。
卑弥呼より後だと言ってみたり、卑弥呼より前だと言ってみたり、工作に余念がない。
平原遺跡の女王墓が、倭国大乱後の最初の女王墓であれば、卑弥呼に他ならないだろ。
ザラコク氏が執着する祇園山は、同じ方形周溝墓とは言え、平原遺跡より新しいだろうから、壹與あたりの墓じゃないかな。 >>736
普通はそれを槨とは呼ばないでしょ。
掘らなきゃ埋められないから、そりゃあ壁みたいになるけど、埋めてしまえば槨ではない。
埋葬したか、空間に納めたかという違いでしょ? 岡上は「2013年の大規模調査」なる存在しないものを捏造してる
自分で「ゴッドフット」とか書きながらやってることはゴッドハンドと同じ >>738
久留米から輿に担がれて、伊都に滞在していた郡使に会いに来た?
奈良から会いに来るよりマシだけど、辛いだろ。 >>738
あと、肥後狗奴国が近すぎて、女王が最前線にいたことになってしまう。 >>739
ホケノの木槨も、その他の古墳の粘土槨も、
近代〜現代の考古学者が研究のためにそう呼んでいるもの
古代中国の、持ち運び可能な槨とは全くの別物 >>742
邪馬台国と狗奴国の境界は矢部川あたりだろう、邪馬台国の王の所都は八女 >>726のブログの人は特に何説ということでもないだろ かなり前から書いているはず、
ヤマタイコクなんてものは相手にされないんだよ
・はじめは「四本足」つぎに「二本足」さいごは「三本足」
さいごは、杖をついた老人(お年寄り)じゃなかった? 聖書、エジプト?
詳しいことは、わからないけど、
同じような話がなかった?
日本昔話 姥清水? 九州スレの九州説同士じゃ素振り状態で会話が続かないみたいだなw 人間の話だろw
と言っている人もいたような
『人権』? >>565
>285年に有槨部族が渡来したとしてなぜ畿内に広まったのか
九州には広まらなかったのか<
おそらく、有槨部族は、強国の筑紫を避けて始めから出雲に一旦上陸して、
出雲にも定着出来ずに 吉備に逃避して地域的支配をし、
それから一部が大和へも移動したんでしょう。
>そもそも古墳が無槨だなんて一言も書いてない <
魏使らが実見した祇園山が無槨。
祇園山が有槨であったんなら、魏使らは「有棺無槨」なんて記載が出来る筈がない。 >>568
>大和民族の柳田や裁判官が、<
何これ?。「柳田や裁判官」が、思想宗教的な大和民族であったのか?なんて、
判る筈がない。
>倭人伝に「窃盗せず、訴えごとも少ない」 と書かれている倭人の末裔 ・・・盗賊から安全な交易路を確立したのが
卑弥呼の時代の倭人のネットワーク 畿内〜博多湾岸の倭国<
「南≠東」だから×。
>古田のは泥棒部落史<
この自称大和民族は、「南→東」などの嘘吐きダマシのサギシ。 姥清水という作品じゃないの?
ヤマビコの爺さんが何やらとか
「歳とって、老け込み」と言っていたり
『松傾』? >>754
写真泥棒を告訴して勝訴した大分の歴史愛好家も大和民族 畿内民族は朝鮮渡来亜種の雑種。
これは記紀に出てくるし否定出来ない事実。
神功皇后の時代に朝鮮渡来人が畿内に入って来てた事は記紀にも記述があるから現代の畿内民族は朝鮮渡来亜種の雑種となる。
関西に在日朝鮮人が一番多いのも朝鮮ゆかりの地が関西だからである。
畿内説派はその朝鮮渡来人としてのアイデンティティを保つため畿内に邪馬台国がないと困るという訳だ。
スレ主は日本で寂しい思いをしていた。
それで畿内説スレを立てた。
スレ主の気持ちも考えてあげてはどうだろう? 「道に迷って」
何やら・・・・・とも言っているし
蛇、テング、カラス?
が出てくる、出てこない、とか
雪小僧に吹雪小僧・・・その他 >>583
>誰からも相手にされないと言ってるんだよ
そろそろ頭のビョーインに行ったほうが良いんじゃないのか?<
政府文部省やマスコミや学会や教科書までもが、大和説を応援宣伝しているのに、
投票でも、九州が過半数で、大和は3割。
大和説者は、誰からも相手にされないと言ってるんだよ。
そろそろ頭のビョーインに行ったほうが良いんじゃないのか?。 邪馬台国、ヤマト国も九州北部も等しく女王国の勢力に征圧され支配下に置かれたエリアだよ。
邪馬台国なんか何も有難くないぞ。
たまたま当時女王卑弥呼がいただけだよ。 よくわからないけど、
松の木(モミの木)?・・・などの立てられている写真があったでしょ
『松傾』と同じ家じゃない?
キュウリの葉、
葱の華などの写っている写真もそう
家の写真なんだけど、
どうなっているんだと思う? >>601
そんな古墳があるのか?
九州にもないだろ >>585
>ホケノについては
>魏志倭人伝に倭人の墓には槨がないと書いてあるのに、畿内説が槨があるホケノを邪馬台国と結びつけるからだろ?<
これだけ指摘すれば良い
槨部族の到来とかわけのわからん話を持ち出すから話がどうでもいい横道にそれる。<
吉備とホケノに突然、新規に渡来部族の「槨」が始まった、という事は、
その後の東瀬戸内〜大和での巨大古墳権力の出現の原因の、
一端を示している可能性があるから。 むかーし住んでいたというところ、
福島のほうにある、山の上のほうだよ
とも言っていた
いつ頃の話なのか知らないけど、
寺院に通っていたとか
川崎に来てからは、
大島のほうにある寺院に通っていた
とか >>616
画文帯神獣鏡は三角縁神獣鏡より昔からあります
三角縁神獣鏡は一番古くて239年のものです
鏡を副葬する習慣が存在する地域にある古墳に
画文帯神獣鏡は出土して三角縁神獣鏡が出土しませんでした
つまりその古墳は239年より前に造営された可能性が高いのです >>590
>根拠ならテンプレに書いてあらから問題ない <
「南→東」などの嘘吐きサギシのテンプレなど、時間の無駄だから、もう読まない。
テンプレが必要であるんなら、その文を引用転写すべし。 白い服の写真も貼り付けたでしょ
暴力団、やくざ?でもないし >>592
つまり、「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説には、史料根拠や理由がなんにもないんですな。
理由ないことを言い張るだけ、と 。 倭人は、「下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入る。
辞を伝え、事を説くには、或いは蹲り、或いは跪き、両手は地に拠る。これが恭敬を為す。」
加古川のジジイはこういうことはしない 謎の311後だったかな
「聖人でも殺したのか」
「親戚でも殺されたのか」と言っている人がいたり 老婆が言うには、
伊達郡の川俣町とか、
そういう話をしている
東だったかな、
西福沢町というところの話 郡使が祇園山まで来たなら、その行程も魏志倭人伝に書かれていなければならない。
書かれていない以上、郡使が見たのは棺あり槨なしの平原遺跡だ。 >>593
>ホケノに槨(古代中国語)なんて無いだろ?<
扶余や東沃沮には独自の槨があったように記載されているから、
魏志が記載した槨が、
「古代中国の槨と絶対100%イコールだ」なんて事は、
始めから有り得ないだろ?。
当然古代中国の槨というものに「類似した構造物」があったら、
それを「槨」と記載するだけだ。
だから、魏使らは、棺と槨を区別し、
「古代中国の槨に類似」したものが「槨」だとして、
そのようなものがなかったから、「有棺無槨」だ、と記録したのだ。
>槨(現代日本語)があるだけ<
現代日本人学者も、「刳抜式木棺」と「割竹形木槨 」とを書き分けた、という事は、
ホケノには「古代中国の槨に類似する構造物があった」という事だ。
>つまり畿内説になんの問題もない<
つまり、大和説は×。 >>767
吉備とホケノに突然、新規に渡来部族の「槨」が始まった、とか
ザラコクの妄想でしょ
誰も相手にしない >>597
>「喪主は泣き叫び、他人は歌い踊って酒を飲む。埋葬が終わると一家そろって水の中に入り、
洗ったり浴びたりする。中国の練沐のようである。」 「其死有棺無槨〜」は女王の葬儀の描写ではない
盛大に造る女王の冢には、棺を保護すものは必ずある 無いと封土したらすぐ棺が潰れる <
卑弥呼の葬儀を実見している魏使らは、
卑弥呼の墓に「槨」があったんなら、倭人の習俗として「有棺無槨」と書ける筈がなく、
「有棺無槨」と書かれていた、という事は、卑弥呼の墓も「有棺無槨」であった、という事だ。 槨あり部族が吉備に発生し、畿内に侵入したんだろ。
スレ主の主張通りじゃないか。
邪馬台国とは関係ないけどね。 畿内説は実は東遷説だな。
【畿内説の主張のまとめ】
(>>1の発言をまとめたもの)
「瀬戸内海勢力が枢軸となって、総花的に纏向で田舎娘を共立した」
「首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した」
「弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した」
【畿内説(主にスレ主)が主張する東遷】
@弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した
A首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した
B結果的に伊都国の太陽祭祀を継いだ卑弥呼が、瀬戸内海勢力の実力を背景として、総花的に纏向で共立された >>598
「南→東」などの嘘吐きダマシのトンデモ擬似大和説では、
九州説は崩せません。 ・誰々って、川崎に住んでいるんでしょ
このような事を言っている人がいるでしょ、
とあるスレを読んでみた? >>779
>盛大に造る女王の冢には、棺を保護すものは必ずある 無いと封土したらすぐ棺が潰れる <
棺を保護する槨がなかったから、平原遺跡は棺の中に塗り込められていた朱が流れ出て、発見に至った。
当然、伊都国にいた郡使は当時の平原遺跡を見ていたはずであり、平原遺跡こそ魏志倭人伝に有棺無槨と書かれた墓だ。 >>612
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説は、
頭のおかしな奴しかいねえ。 何々宮?
一度、見たことがあるんだけど、
たしか、そのようなスレッドだった。
もれ(仮)は、いろいろなスレを見ているから、
よくわからないスレッド、板?なども読んでいたり >>785
畿内説の詐欺師と嘘つきは放っておいて、祇園山が平原遺跡より有利だと考える理由を教えてくれ。 王関係のスレだったかな?
そのような板があるはず
野球の選手の話ではないよ >>620
>ホケノ山古墳は庄内3式期の3世紀中頃 <
ホケノは、
「庄内〜布留」であるから布留期であり、それだけでも3世紀末であり、
卑弥呼や壹與の頃を実見している魏使らが「有棺無槨」と記録しているんだから、
それだけでも「有槨」のホケノは3世紀の第4四半世紀頃以後。 【卑弥呼の王宮の候補】
・高祖宮
魏志に伊都国と記された糸島市にある。
糸島平野と福岡平野の間にあるクシフル山があり、福岡に通じる峠を日向峠と呼ぶことから、高祖宮は記紀にある筑紫の日向の高千穂宮に比定できる。
高千穂宮は天孫ニニギが八咫の鏡を伴って筑紫の王として即位した宮であり、神武天皇が東征に出発した宮でもある。
後にこの地に建設される怡土城、高祖城はクシフル山の山頂を含む中国式山城であり、高千穂宮の名にふさわしい。
糸島平野にある三雲南小路遺跡はニニギと木花咲耶姫の墓と伝えられる。
高祖宮の目の前の平原遺跡からは、ニニギ王家の家宝である神宝八咫の鏡が出土している。
伊都高祖宮こそ倭国の王都であり、平原遺跡は倭国女王卑弥呼が被葬者の最有力候補である。
・橿日宮
現在の香椎神宮。
卑弥呼の後継者となる筑紫の女王の一人として、景行天皇の時代に筑紫の梟帥の称号と八咫の鏡を持つ神夏磯姫(神橿日姫)がいて、その名からはおそらく橿日宮に住んでいたと思われる。
景行天皇の孫の仲哀天皇も橿日宮を拠点としており、代々の筑紫の王宮として用いられていたと考えられる。
魏志では不弥国に比定されることが多く、ここまでは距離が明記されているので郡使が往復したことは確実である。何のために往復したのかと言えば、卑弥呼に会いに行った可能性がある。
・高良宮
筑後一宮。高良大社や高良玉垂宮などからなる複合施設だが、後世の仏教との習合や神仏分離などの影響による。
近隣には卑弥呼もしくはそれに近い人物の墓と言われる祇園山古墳がある。
卑弥呼が筑後出身ならば、高良宮が元宮だったかもしれない。
郡使が滞在した伊都国までやや遠いのと、魏志倭人伝に該当する記事もないのが不利。
すると祇園山は壹與の墓か?
いずれの宮も聖地である山の西の麓にあり、王は太陽を背にして君臨したと考えられる。
これは倭国が太陽信仰をもとにした祭政一致体制であったためである。
その象徴となるのが王位の証である八咫の鏡などの内行花文鏡である。
平原遺跡に見られる鳥居や御柱などは、3世紀において神道が成立していたことを示す。
卑弥呼が用いたと記録された鬼道も、三種の神器や榊を用いた神道の儀式であったはずである。 >>624
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者ってのは、
そういう「理由が無い思い込み」で出来てるんだよ。
そして、九州説者が投稿説明しても知らん振りして、
「同じ事を質問する投稿する・・・・サギシ」で出来ているんだよ。 【八咫鏡】
平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
記紀神話によれば、八咫鏡は天照大神の岩戸隠れの際に石凝姥命が作った。
天孫降臨の際、天照大神から瓊瓊杵尊に授けられ、この鏡を天照大神自身だと思って祀るようにとの神勅(宝鏡奉斎の神勅)が下されたという。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。
内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていた。
3世紀には平原遺跡に王権の象徴である八咫鏡があったことで、伊都が倭国の王都であったことがわかる。
伊勢内宮に3回ほど火災があり神鏡が焼失し、作り直された鏡は元の大きさではなくなっているという。
宮中賢所(内侍所)の神鏡も火災に遭い灰となり、安徳天皇とともに壇ノ浦に沈み、それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したものが、今も賢所に置かれている。
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口に対して、日前は西の出口にあるため、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、伊都平原に5枚で、最低でも9枚は存在していたことになる。 おかしな話だと思わない?
「この写真の母親の家は、
何々様なんて言われて奉られていた」
家の嫁(婚姻関係)の家だからなのかな 『松傾』
の家と結婚した家なのかな?
伊達郡川俣町という掲示板を読んでみて
みんなから何々様なんて言われて
奉られているような家だったよ(老婆談) >>638
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者が信頼していた仕入先は、
人種差別殺戮戦争皇国史観の、暴力団のような・・・・ケダモノの大和説学者だから。 たしか香野とか言ったかな
と言っているし
でも普通の家だよ、
蚕を飼っていて機織りをしていたとか >>779、>>784
倭人伝の元情報が魏使の単一資料とは限らない 飯野という地名が出てきたり、
川崎に住んでいるという人がいたり そもそも棺あって槨なしは倭人の葬儀習慣と書いてるだけで
邪馬台国の葬儀習慣とはどこにも書いてないから
ホケノに木槨があったとしても畿内説を否定する事にならないし
古墳の葬儀方式の事とも限らない上に
魏使が古墳に誰かが埋葬される所を見たとも思えない >>652
野村も、始めは写真が自分の宣伝になると思って出したんだが、
途中で、右翼大和説者や偽書説に入れ知恵されて、金儲けもしようと思って、
偽書説派に転向して、和田家文書を偽書にする裁判の原告になったんだな。 えびせん?(カッパという意味なのかな)
そのような話をしている人がいたり
この掲示板の話だよ
【伊達郡川俣町】
このように検索すると出てくるはず
『伊達郡川俣町 掲示板』 >>653
お前は、日本国民と言えば済むものを、
ありもしない大和民族をでっち上げて、
暴力団のような人種差別殺戮戦争の皇国史観を鼓舞扇動している。
デタラメ言うなケダモノ。 >>805
ホケノに木槨があるから畿内は邪馬台国じゃないって方が屁理屈 河童 河伯 沙悟浄?
でも家は、このような名前なんだけど
『聖化 日神 日霊 津』『松傾』? >>655
>被害者の方は虚偽の説明でなければ訴えなかったと話している <
嘘を付くな。
喜八郎さんは、自説の邪馬台国「大和→津軽」移転説の傍証として、
野村の石垣写真を参考根拠にして貼っただけであったのに、
野村は、偽書説派と組んで、わざと「虚偽使用だ」と訴えた。
>お前が言張ってるのは民族の話じゃない お前の言い分だとすべての国が単一民族国家になる<
人類皆兄弟であるから、全ての国が単一人種でもあり、混在国にもなる。 沙悟浄について調べてみると
天帝が何やら〜と書いてあったりしない?
老婆が言うには
馬に乗り・・・と言っているけど、
母親の家のほうが・・・とか? >>696
今日もまた 理性と知性と人間を捨てて、・・・・ケダモノになる、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者。 あの写真の母親だという人だけ
裸足、素足に下駄
と言っても家の写真なんだけど、
どういう話なんだろう
さざえさん? >>699
「南→東」などの嘘つき騙しのように、
なにも史料証拠を出さないのが大和説者。
ケダモノだからね 。 >>802
仕入先である喜八郎が写真泥棒であったことが裁判で確定してしまったので
盗みを正統な行為だと考える偽書販売組織は、稼業を続けるために
勝訴した弱い個人の被害者を悪人に仕立て上げている >>804
国籍法(昭和25年法律第147号)では「日本国民たる要件」を定めており、
日本国籍を所有する者が、すなわち日本国民であるとみなされる。
泥棒が正統な行為だと考える古田と手先は一応日本国民と推察されるが
大和民族、天皇に強い憎しみを持っている >>708
>平原遺跡の埋葬方式は割竹形木棺に粘土槨だそうだけど
これは平原遺跡には槨があるという事でいいか? <
粘土槨情報は、記憶が少しはっきりしない。
その情報源や根拠を提示して欲しい。 >>720
>平原遺跡にも槨があるならその辺りは倭国じゃなかった…? <
「何を根拠に槨と判断したのか?」を提示してもらわないと、判断のしようがない。
ただ、平原が壹與の墓であれば、魏使らは実見していないから、槨があってもおかしくない。 なぜか数年前の信onというスレ
海神の家の・・・・だったのか?
と言っている人がいたり 確実に人権侵害だと思うんだけど
『ザ・モモタロウ』なんかもそう >>809
被控訴人和田の責任
本件各書籍に掲載されている本件写真の複製は、
被控訴人和田が控訴人から送付を受けた写真を利用して、右写真の被写体が本件石垣であり、
津軽中山に存在したと同被控訴人が言っている耶馬台城跡のそれではないことを知りながら、
その旨の説明を付してこれを掲載したものと推認される。
本件書籍1及び2には、その掲載にかかる写真は昭和三八年頃、
営林署のK氏が届けてくれたスナップである旨の記述があるが、
右記述は前記認定の事実に照らして虚偽というほかなく、
写真泥棒喜八郎は、虚偽の記述をしており
「大和→津軽」移転説の傍証とはしてはいないことは仙台高等裁判所で確定している >>801
そのとおり
倭人(庶民や村の有力者クラス)の墓と倭王の墓をいっしょにしたらダメだよな
庶民は郭なしなだけで倭王は郭ありかもしれない
だって王と庶民が同じ墓制なわけないじゃん 倭人は、「窃盗せず、訴えごとも少ない。その法を犯すと軽いものは妻子を没し、重いものはその一家や一族を没する。」 >>801
>魏使が古墳に誰かが埋葬される所を見たとも思えない
はあ?
卑弥呼の国葬に参加しただろう? >>819
>ただ、平原が壹與の墓であれば、魏使らは実見していないから、槨があってもおかしくない。
平原遺跡に槨はない。 >>825
んな事魏志倭人伝のどこに書いてるんだよ
こっちがハァだわ >>823
>庶民は郭なしなだけで倭王は郭ありかもしれない
庶民の墓には槨など作らない。
槨があるかないかは、王墓の話だよ。 >>804
>日本国民と言えば済むものを、
19世紀当初から20世紀後半まで、日本の中央政権は、アイヌ民族に対し同化政策を押しつけました。
それでも明治期から第二次世界大戦敗戦前まで使用された国定教科書にはアイヌを「土人」と表し(行政用語ではM11から「旧土人」)、
基本的にはアイヌは先住民族との認識 の下で公教育を進めてきました。
戦後は、一転して国籍を持つ者「国民」としてだけで把握し、その民族的属性やそれら集団に対する配慮を欠くこととなりました。
アイヌ民族については、戦後2〜30年、行政サイドでは無施策のまま過ぎ、追って生活格差是正の一環としての施策が現在まで続いています。
わずか20年程前まで、ほとんどの日本国民がアイヌ民族は同化されたあるいはその誤ちにも気づかない、「単一民族国家」幻想を蔓延していました。
和人とアイヌの不幸な過去の歴史を乗り越え、それぞれの民族の歴史や文化を相互に尊重する多文化主義の実践や人種主義の根絶は、
人権思想を根付かせ発展させようとする国連システムの取り組みに符合します。日本のアイヌ民族についてもこれからの取り組みが大切です。
公益社団法人 北海道アイヌ協会
https://www.ainu-assn.or.jp/ainupeople/history.html
泥棒が正統な行為だと考える古田の手先は
民族というものを理解するだけの知性がない 新羅、百済だか高句麗・・・何やら・・・
本当は先住なのでは?と言っている人がいたけど
どの話だったかな 海神、おおわたつみ。
八十島祭でも、海神二座に幣帛を供えられた記録がある。
豊玉と関連づけられることもあるが。
関門海峡辺り、西瀬戸内海の勢力だったのかな?
関門海峡両岸は、陶塤が出土したエリア。
BC1000年頃、中国南部から渡来し、恐らく水稲栽培をもたらした勢力。(BC4〜5世紀、畿内に渡来した倭人より古い。)
陶塤が集中して出土するのは、他に松江と丹後半島周辺。
丹後半島〜豊岡。豊受大神の伝承が残る。
どう関係があるのか‥ ワダツミなんぞ日本中で祀っている。
本貫地は志賀島だ。 スサノオの神話。
元々はイザナギーツクヨミ、アマテラスとは、別系統の神話だった可能性を考えたくなるな。
スサノオの足跡も陶塤の分布に似ている。(日本海側) ・・・・「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者。・・・・・・・
☝
ノーガードで畿内説は打たれすぎです 畿内説本でもこのあたりはウヤムヤ
他・・喜八郎さんの件と邪馬台国論叢といかなる関係があるのか疑問、なぜこのスレに持ちだすのか??
其死有棺無槨ですが、庶民と王族とは埋葬の仕方が違う・・は根拠も無い推論 現在の学生は、畿内説の先生から教えを乞うとき、南➡東をいかなる解説を教授されているのだろうか。
どなたか、お教えいただけませんか。また、南➡東を学生たちはその解説を盲目的に受け入れているのであろうか? >>724
>木槨墓は、新石器時代後期後葉に山東地方に始まり
商・周の貴族の基本的墓葬は竪穴土坑木槨墓 <
こりゃ凄い情報ですね。ありがとうございます。
山東半島という事は、燕の南ですね。
>前漢時代後期には、王墓に木槨墓を使わなくなっていた
楽浪漢墓前半期までの下級役人の墓制 <
成程。楽浪では木槨墓であったんでしたか。
>日本では嘉麻市馬見の弥生中期の鎌田原弥生墳墓群の中心に木槨墓がある <
これも凄い情報ですね。
鎌田原は、山東半島の倭人や姫氏の後裔?、
若しくは、楽浪下級役人の渡来?の可能性があるが、
消失した、という可能性がある。 >>741
>久留米から輿に担がれて、伊都に滞在していた郡使に会いに来た?
奈良から会いに来るよりマシだけど、辛いだろ。<
ちょっと違うね。
古田さんらは、卑弥呼の所都は「安徳台 」説で、甕依姫説で、墓は須玖岡本?説。
また、壹與は與止姫説で、墓は「平原」説。
「卑弥呼の墓=祇園山」説は宝賀氏ら。 >>743
>ホケノの木槨も、その他の古墳の粘土槨も、
近代〜現代の考古学者が研究のためにそう呼んでいるもの
古代中国の、持ち運び可能な槨とは全くの別物 <
槨とは、「持ち運び可能な」なんて言っても、サイズが小さい、というだけで、
「棺や遺体を包むもの」を「覆う小部屋的構造物」である、
という事には変わりがないんでしょ?。 >>756
>写真泥棒を告訴して勝訴した大分の歴史愛好家も大和民族 <
当然、野村は、「大和天皇家が列島支配」絶対信奉の皇国史観の・・・・大和説者であり、
津軽付近に独立王国があった、という伝承の記録の和田家文書を、偽書として禁書抹殺したい・・・・民族。 >>761
>九州に投票した人は泥棒を正当化したりはしないから<
九州に投票した人は、常識があるから、
「たまたま写真の説明不足」をした人を、
野村や偽書説派のように裁判に持ち込んむような非常識な事は、
しないから。 >>766
>>円錐台や角錐台のように、全体が「尖り状」に見えなければ「冢」とは言わないから、
普通の前方後円墳は、 「尖り状」には見えず、「冢」とは表現しないよ。<
>そんな古墳があるのか? 九州にもないだろ <
祇園山だよ。
それまでの「低い墳丘様墳墓」とは違って、
明らかに「高塚的錐体」の墓になったんだよ。 答は簡単
倭人伝を読めば読むほど九州に分がるということ
これが現実 >>843
支離滅裂だな
祇園山を見たことないでしょ >>835
>南➡東を学生たちはその解説を盲目的に受け入れているのであろうか? <
内心 ほとんどが教授を馬鹿にしてる
その中で隷属するものが良い就職先を手に入れる仕組み ほとんどの学生って馬鹿なの?
じゃあロクな就職先がなくて当然だね。 >>847
馬鹿にしてる教授の授業を受けに行ってる学生なら
当然ながら三流大学に通う馬鹿だろう >>838
>古田さんらは、卑弥呼の所都は「安徳台 」説で、甕依姫説で、墓は須玖岡本?説。
>また、壹與は與止姫説で、墓は「平原」説。
>「卑弥呼の墓=祇園山」説は宝賀氏ら。
須玖岡本はさずに年代が違うでしょ。
卑弥呼の都が筑紫伊都、墓が平原。
壹與は與止姫で、都が筑後高良または肥前河上、墓は祇園山。 日本社会は学会に敬意を払い、学会は有能であり間違いは無いと信じ、学会がこの問題を解決してくれる日を心待ちにしています。
しかしそのような日が来る事は永遠にありません。
袋小路に陥った時には、何か大きな間違いをしている事を根本から疑ってブレイクスルーの方法を探すのが学問やビジネスだけでなく人生においても基本的な戦略です。
学会が事態打開の戦略を練って真実を追求する事よりも、100年の思考停止状態に安住し、永遠に畿内説を夢想しながら人身攻撃やネガティブキャンペーンに溢れた
不毛な論争を続けたいのでしょうか。 日本人の創造性がこのような無意味な畿内説論者に翻弄されてきた事は悲しむべき事ではないでしょうか。 嘉麻の馬見あたりは
天押穂耳の降臨地と社伝を持つ神社があるなぁ。 >>769
>画文帯神獣鏡は三角縁神獣鏡より昔からあります
三角縁神獣鏡は一番古くて239年のものです<
糸島の志登の三角縁の方が古いんだろう、と思う。
>鏡を副葬する習慣が存在する地域にある古墳に
画文帯神獣鏡は出土して三角縁神獣鏡が出土しませんでした <
それは、(糸島の話ではなく)大和での3世紀末以後の話です。
>つまりその古墳は239年より前に造営された可能性が高いのです<
つまり、この人は、筑紫の編年と、それより50年位新しい大和の編年とを、
一緒くたにごっちゃにした話をしている。 >>840
>偽書として禁書抹殺したい・・・・民族。
お前経緯を何も知らないのにテキトーなデマばっかり書く奴だな
最初は野村氏が手紙で問合わせたんだよ
喜八郎がドロボウとは知らずに >>841
泥棒正当主義のお前と一緒にしたら
九州に人気投票した人に失礼だぞ
というか大和民族に失礼だ、日本から出て行けドロボウ民族 >>851
今あんたがやってるのが
不毛な人身攻撃やネガティブキャンペーン
だから >>853
>糸島の志登の三角縁の方が古いんだろう、と思う。
根拠無しというか、yahooでのお前の聞き違いだろw >>856
イミフ
畿内説といえば京大で、1は東大だろ >>778
>吉備とホケノに突然、新規に渡来部族の「槨」が始まった、とか
ザラコクの妄想でしょ 誰も相手にしない <
筑紫倭国から別れた別種の旧小国の附庸国だった大和の部族や、
「東征毛人55国」で倭国の支配地になっていた吉備の部族で、
倭国的な墓を突然大変更して、「無槨→有槨」墓に転換するのは、
変な墓を造ったら当然倭国に咎められる事になるから、
「大陸や半島からの有槨部族の渡来参入」があった可能性が非常に高い。 >>847
テメーもばか
南➡東を、誤認・誤記・誤情報・誤写等で納得する頭の中身が見てみたい >>859
1はそんなに頭良くないよ。
少なくともまともな高等教育は受けていない。
せいぜい関関同立かな。 横から失礼
纏向を邪馬台国の所都 箸墓は卑弥呼の墓と
最初に言及した学者はだれですか?もしくはどこの組織が言及したのですか? まともな高等教育は受けていない関関同立って
チョンボをこいてしまわれた森先生の母校のことか >>851
当たりーーーーーーーーー
畿内説は学問から宗教に変貌したんだよ >>851
考古学会は封建的なのだよ
他の文系に関する学会もしかり
理系の学会は分かりやすい、実証・立証が先に来るから 愛知に人面土器が集中。
https://goo.gl/vaV8aa
この鯨面集団は相手を威圧する戦士モノノフ。
なぜ愛知に集中してるか。
静岡にあった狗奴国対策だ。
これらの戦士モノノフの棟梁はウマシマジ。
今も名古屋の味鋺神社に痕跡を残す。
邪馬台国の切れるところにある奴国とは那古つまり名古屋である。 >>780
>槨あり部族が吉備に発生し、畿内に侵入したんだろ。 スレ主の主張通りじゃないか。
邪馬台国とは関係ないけどね。<
そうか、「吉備の槨」の話は、スレ主の話であったのかも知れないのか。
しかし、スレ主は、大和の皇国史観の歴史ばかり考えていて、
天孫族地域における「無槨墓→有槨墓」という変化が、
「有槨」部族の渡来になる、という可能性を、
全く考える事が出来なかったアホであった訳だな。 >>781
>畿内説は実は東遷説だな。・・・<
ダメだ。
「南≠東」だし、
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国で、
倭国の附庸国であって、白村江の後になって、
ようやく筑紫倭国を併合吸収継承しただけであり、
卑弥呼は筑紫の女王であり、大和の王にはなっていない。 >>787
>畿内説の詐欺師と嘘つきは、放っておいて、
祇園山が平原遺跡より有利だ、と考える理由を教えてくれ。<
根本的には、祇園山は、
列島で唯一の「殉葬者奴婢百余人」を満たし得る墓であり、
「大作冢、徑百餘歩」も満たし得る墓である事ですよ。
そして、平原は、魏志に書かれた壹與の説明通りの「玉の女王」である事であり、
最近判った知見の「尚方作」の21枚の鏡が「破鏡?」であった、という事が、
卑弥呼の墓であれば、明帝からの下賜の大事な鏡をぶち壊すような事は考えられず、
戦乱の後で共立された壹與が相続したものであれば、楽浪鏡師らを使って?、
再溶融して造り直して破鏡にして副葬した、という可能性ならある、
という事です。 >>870
「有槨」部族の渡来って?
一体どこから誰がきたと言い張るんだ?
????? で、「ずれた定説」をもとにさらに論理を積み上げて、「新しい定説」を作っていくんだけど
土台がずれてるからその新しい定説はもっとずれたものになるわけで
その大きなずれと現実を擦り合わせるために「ご都合主義的な解釈」「定説に合致する一例のみを取り上げて、合致しない他の百例は無視する(または後代の捏造と認定する)」ということを行うわけじゃん
だから箸墓や巻向の年代はどんどん遡っていくし、筑紫君磐井が武烈天皇だなんてことになる >>872
卑弥呼だと、明帝からの下賜の大事な鏡をぶち壊すような事は考えられず、
壹與だと、平気で溶融しちゃうって
どういう頭の構造? >>872
ってことは「尚方作」鏡は国産だよな
「尚方作」鏡こそが魏から贈られた鏡として合致する
って言ってたのは
やっぱりウソか 中国では伝統的な竪穴木槨墓が後漢期には塼室墓と石室墓に替わった
だから木槨墓はちょっと古いわけだな >>877
論破された九州説が早速罵倒専門に堕落した >>874
「ずれた定説」だとか言い張ってるのが
お前さんの「ご都合主義的な解釈」だろ ホケノで楽浪系の職人あたりが石積を木槨で支える墓を造ってみたら
雨が多い日本ではすぐに崩落してしまうと
「こりゃダメだな」ということになったんだろうな >>799
>倭人伝の元情報が魏使の単一資料とは限らない<
陳寿は、倭地を実見した事がないんだから、記録を見て書くしかなかったのであり、
魏の役人への遣使らの言上記録や、郡役人の記録や、二人の魏使らの見聞記録や、
周代や秦漢代の記載などを元にして、倭人伝を書くしかない。 >>882
陳寿は、倭地を実見した事がないから
魏使の記録に王の墓制が詳しく書かれてなかったら
秦漢代の古い情報で魏代の倭人の一般風習だけを書く >>604
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 >>882
つまり、倭人伝の元情報が魏使の単一資料とは限らない >>146
仕方ないよ。。。
岡上氏なら、このスレッドに投稿する人の中では、相当の知識を持ち、とても頭の良い人だよ。。。
張り付けているテンプレートを論破され続けている小汚い老人が、彼に理不尽な中傷をするのは、八つ当たりだけではなく、恐らく、知識の多さと、頭の良さに嫉妬しているのもあるのだろうね。。。。 そういえば、岡上氏の高度なレベルの投稿が懐かしいね。。。
このレベルの低いスレッドには、もったいなかったけれども、、、、 >>162
2013年以前から、桜井市のは、卑弥呼の古墳ではなく、天皇の妹の古墳だと認定されているのにね、、、
しかも、天皇家直近の国家機関からなのに。。。 >>801
>そもそも棺あって槨なしは倭人の葬儀習慣と書いてるだけで
邪馬台国の葬儀習慣とはどこにも書いてないから<
間違いなく、卑弥呼の葬儀を見た魏使らの「実見記録」だ。
>ホケノに木槨があったとしても畿内説を否定する事にならないし <
木槨があるホケノは、「魏使らが実見した倭国」にならない。
>古墳の葬儀方式の事とも限らない上に<
棺槨の有無は、葬儀方式だ。
>魏使が古墳に誰かが埋葬される所を見たとも思えない<
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」だから、
魏使らは、卑弥呼の埋葬を実見している。 >>813
>敗訴したんだろ? やっぱり泥棒してた<
訴えた野村や偽書説派の方が、
たった20万円位の大した罪にもして貰えず、偽書説は全く拒否されたんだから、
敗訴した方。
おそらく、訴訟費用を考えれば、大幅な赤字であったんではないの?。 慰藉料が40万円だったのは、喜八郎の本があまり売れてなかったので
盗んだ写真を見た人が少なかったことから
控訴人に生じた損害としての額 >>815
喜八郎が、写真泥棒ではなく、
単なる説明記載不足であったことが裁判で確定してしまった、
という事は、
偽書説組織は、稼業を続けるために、
弱い個人の野村をたぶらかしてそそのかして、
(和田キヨエの場合と同じように)、加害者の悪人に仕立て上げている。 民事訴訟における訴訟費用は、最終的には敗訴者が負担するのが原則であるが(民事訴訟法61条)、
一時的には申立人が立替払することになり、本案判決の確定後、
訴訟費用額確定処分を経て、本来支払うべき者が支払うことになる。 >>893
写真ドロボウ喜八郎は説明記載不足ではなく
虚偽の説明を記載していることが裁判で認定されている
古田の手下の泥棒正当主義ジジイはウソを言いふらしてる ザラコクも岡上も、もうひたすら嘘をつき続けるだけになったな >>851
>日本社会は学会に敬意を払い、学会は有能であり間違いは無いと信じ、学会がこの問題を解決してくれる日を心待ちにしています。
>しかしそのような日が来る事は永遠にありません。
>袋小路に陥った時には、何か大きな間違いをしている事を根本から疑ってブレイクスルーの方法を探すのが学問やビジネスだけでなく人生においても基本的な戦略です。
>学会が事態打開の戦略を練って真実を追求する事よりも、100年の思考停止状態に安住し、永遠に畿内説を夢想しながら人身攻撃やネガティブキャンペーンに溢れた
>不毛な論争を続けたいのでしょうか。 日本人の創造性がこのような無意味な畿内説論者に翻弄されてきた事は悲しむべき事ではないでしょうか。
名アピールですね。
同意します。 庶民の墓の話なら、槨なんて出てこない。
王の墓について語っているから、槨や棺の形式を問題としているんだ。 >>816
>国籍法(昭和25年法律第147号)では「日本国民たる要件」を定めており、
日本国籍を所有する者が、すなわち日本国民であるとみなされる。
憲法は、「日本国民」と、「国民」や「全て国民」と、
「何人も」などの人類全体を意味する文言とを、
書き分け使い分けており、
「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない」として、
「居住や国籍選択」は、人類の普遍的な権利である事も記載している。 九州説は歴史学じゃなくて
政治思想だから
しかたない 平原1号墓に槨があった可能性を指摘してるのは
調査した柳田だな
理由は柱穴 畿内民族は朝鮮渡来亜種の雑種。
これは記紀に出てくるし否定出来ない事実。
神功皇后の時代に朝鮮渡来人が畿内に入って来てた事は記紀にも記述があるから現代の畿内民族は朝鮮渡来亜種の雑種となる。
関西に在日朝鮮人が一番多いのも朝鮮ゆかりの地が関西だからである。
畿内説派はその朝鮮渡来人としてのアイデンティティを保つため畿内に邪馬台国がないと困るという訳だ。
スレ主は日本で寂しい思いをしていた。
それで畿内説スレを立てた。
スレ主の気持ちも考えてあげてはどうだろう? >>887
テンプレートを張り付けている小汚い老人は、なぜか、テンプレートの間違いを指摘する人間の多くを、その岡上氏だと勘違いしているふしがあるね。。。
論破され続け、発狂しているからかな。。。。
句読点連続はインターネットの世界ではよく使われることは教えてあげたし、岡上氏とは違って、僕たちは邪馬台国時代について、あまり知識がないから、間違われるわけはないのだがね、、、 >>888
仕方ないよ、、、、
囲碁でもよくいわれるけども、名局ができるには二人の天才が要ると、、、
畿内説者のレベルの低いこのスレッドでは、岡上氏の能力の全てを引き出せないからね。。。。
岡上氏が投稿しなくなったのも、そういうことなんじゃないのかな、 当時縄文時代から続く人々は、どんな役割だったのかな。
既に混血が進んでいたのか?他のエリアに追いやられていったのか‥ 畿内民族は朝鮮渡来亜種の雑種。
これは記紀に出てくるし否定出来ない事実。
神功皇后の時代に朝鮮渡来人が畿内に入って来てた事は記紀にも記述があるから現代の畿内民族は朝鮮渡来亜種の雑種となる。
関西に在日朝鮮人が一番多いのも朝鮮ゆかりの地が関西だからである。
畿内説派はその朝鮮渡来人としてのアイデンティティを保つため畿内に邪馬台国がないと困るという訳だ。
スレ主は日本で寂しい思いをしていた。
それで畿内説スレを立てた。
スレ主の気持ちも考えてあげてはどうだろう? 大和説も焼きが回ったものだな
好き勝手罵倒してきて真摯さを失った報いだよこれは テンプレートを読んでも邪馬台国は分からないよ
倭人伝に直接当たることが肝要 >>918
好き勝手に罵倒だけしているのは
誰のことやら >>915
縄文時代晩期と弥生時代後期で8倍くらいに人口に増えてるが
ハプログループD1bが約32〜39%、O1b2が約26〜36%、O2が約20%
だから混血してるだろ 日本人は、かなり多様性が高く、混血の激しい民族だよね。 まぁそうだけど、どういう形で進んだんかなと。
後、魏志倭人伝の記述が海人の特徴に偏っているから、疑問に思っただけ。 >>920
スレ主あたりだろうな
名無しで好き勝手してるから >>923
魏の使いが海を渡って来訪して、陸地はあまり見なかった。
陸行一月は1日の間違いだというのが畿内説でも九州説でも一般的だからね。 >>923
どういう形って
縄文人の女は優しい、そして縄文人の男はチンコがでかい
そういう形になる 真面目な話、渡来した天津神は男尊女卑の男系相続、国津神は女系相続で、妻問婚が主体なので、お互いの利害は一致するんだよ。
弥生墓に縄文系の骨が入っていたりするし、弥生人の知識は役に立つから、それほど抵抗なく迎え入れたんだろう。 >>927
大阪湾上陸で奈良まで一月はかからない。
遠くに上陸する意味はないし。 >>911
そうなんだよね、、、
ぼくらのような一般人が邪馬台国のことを詳しく知る機会はないものね。。。
僕たちはただ、何人かの考古学者とやらと居合わせた飲食店で、2013年の古墳の調査の話を小耳にはさんだだけの一般人なだけ。。。
岡上氏とは知識の差がありすぎるよ、、、 >>929
こう考えればいい。
未整備の陸路<水路<整備済みの陸路 >>822
>本件各書籍に掲載されている本件写真の複製は、
被控訴人和田が控訴人から送付を受けた写真を利用して、右写真の被写体が本件石垣であり、
津軽中山に存在したと同被控訴人が言っている耶馬台城跡のそれではないことを知りながら、
その旨の説明を付してこれを掲載したものと推認される。<
何だ?、「推認される」でしかないではないか。
高裁は、喜八郎さんの「心の中を勝手に推定」しただけであり、
喜八郎さんが、津軽の邪馬台城の傍証になる、という判断をした事が、全く判っていない。
>本件書籍1及び2には、その掲載にかかる写真は昭和三八年頃、
営林署のK氏が届けてくれたスナップである旨の記述があるが、
右記述は前記認定の事実に照らして虚偽というほかなく<
この高裁の裁判官は、全くの「先入観」を持ったアホでねえの?。
「営林署のK氏が届けてくれたスナップである」というのが「虚偽である」というんなら、
「営林署のK氏」に直接確認しなければならない筈なのに、
この裁判官は、それをやっていない事になるではないか。
という事は、「営林署のK氏」は、この裁判官からの「嘘吐き呼ばわり」で、
この裁判官を訴追をしてもよい事になる。 >>823
>そのとおり 倭人(庶民や村の有力者クラス)の墓と倭王の墓をいっしょにしたらダメだよな
庶民は郭なしなだけで倭王は郭ありかもしれない だって王と庶民が同じ墓制なわけないじゃん <
この男も、全くの・・・・嘘吐きだな。
魏使らは「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」と報告したんだから、
卑弥呼の葬儀の一部始終を見ているんだよ。 >>929
陸行一月だと大阪湾上陸して関東くらいに着いてしまう
常識的に考えて陸行一月は1日の間違いですね。 >>931
整備済みの陸路を一月も進めないし陸路を進む意味がない。 >>827
>んな事魏志倭人伝のどこに書いてるんだよ
こっちがハァだわ <
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」と書かれているんだから、
魏使らは、冢を作る時から、殉葬までの一部始終を見ている。 >>936
整備済みの陸路は駅が置かれているし食料の心配もいらない >>829
[
「アイヌ人や沖縄人」を土人と読んだ事を、正統な行為だ、と考える大和民族主義者の手先は、
民族というものを理解するだけの知性がない 。 >>890
実際見なくても書ける情報ばかり
実際見なければ書けない情報がのってなければ
魏の使いが古墳に卑弥呼が埋葬された所にいたという事にならない >>937
百人殉葬された墓なんて見つかってるのか? >>932
「右各写真には、いずれも津軽中山の耶馬台城跡である旨の説明が付されていることが明らかであるから、
事実と異なる右説明の下に本件写真を掲載した点で同一性保持権をも侵害するというべきである。」
熊野の石垣の写真に津軽中山の耶馬台城跡である旨の説明つけたら傍証にならんだろが
営林署のK氏とやらが昭和三八年頃に喜八郎に津軽中山の石垣の写真を届けたと言ってるなら
連れてきて訴追してみればいいw >>940
>「アイヌ人や沖縄人」を土人と読んだ事を、正統な行為だ、と
誰がそんなことを言ったんだ? >>845
>支離滅裂だな 祇園山を見たことないでしょ<
勿論、播磨の素人オジンでは、図面や写真などでしか見た事がない。 加古川のジジイが実際に自分で確認したものなんて一つもないだろ
古田が言ったか、yahooで聞き間違えただけで >>849
>須玖岡本はさずに年代が違うでしょ。<
通説学者らは、須玖岡本の「伝出土」の「キ鳳鏡」を、年代比定から削除していますが、
古田さんは、史料実態は、否定抹殺されませんから、
根拠に組み入れた推論をしておられます。 >>945
百人が殉葬された跡が見つかったなんてどこも書いてないぞ >>854
>>偽書として禁書抹殺したい・・・・民族。<
>お前経緯を何も知らないのにテキトーなデマばっかり書く奴だな
最初は野村氏が手紙で問合わせたんだよ
喜八郎がドロボウとは知らずに <
最初はどうであれ、結局は嘘吐きダマシの偽書説派に誑し込まれて、
その使い走りの嘘吐きダマシの訴訟を起こして敗退したんだから、
野村の人間性は、元々、嘘つきダマシの偽書説に賛成であったんだよ。 >>950
成程。勉強になる。有り難う。納得した。 >>911
>>930
岡上、一人芝居すなよ
w ww w ww w ww >>953
原告の弁護士は古文書の真偽の判決を裁判所が下さないことは初めから知ってる
古田の取引先のドロボウ喜八郎が写真を盗んで悪用したことは裁判で認定され
古田がドロボウ側で支援することも世間の人は知ることとなった
古文書のような代物はドロボウが持ち込もうが書こうが
法では関与しないことも明確になり
公的団体も、東日流外三郡誌は捏造された偽書であるという評価が
既に定着していると公表するようになった
こうして古田のようなトンデモは学会からもマスコミからも世間からも相手にされなくなった >>935
素直に読むと、畿内ではなくなりますね。 >>938
船に乗らずにそんな快適な陸路を進むなら、邪馬台国は諏訪湖かどこかだったのか?
少なくとも一月も街道を歩けば、畿内は通過してしまう。 >>955
2/3掘って60人分くらいだったかな。
残りは高速道路の下。 >>939
九州説でも陸行1日ですよ。
伊都国は海に近いので。
ていうか、海から歩いて一月かかるところなんて、信州でさえどうかと思う。 >>941
中国人の誰かが見ていなければ、殉葬のこととか、大いに作るとか、書けないだろ。 >>965
大きい墓作って百人殉葬したって聞いただけでも書ける >>960
畿内でもなく、九州でもなければ、残るは・・・ >>967
大きい墓ではなく、大いに墓を作った。
100人埋めて盛大な葬式をやったんだよ。 このスレひらいたときのみHなこーこくでるのはおじーちゃんらのじゅよーやろ(ばれたな^^ >>504
あちゃー「みなみ≠ひがし」せんせーこーさんっす >>971
それなら百人殉葬して盛大に葬式やったって聞いても記録に書ける
なので墓を見たとは限らない >>523
つしまかいきょーできたときとりのこされてもーたひとらやな >>594
プラズマかしたせーで2せーきのでーたもまじったんですな(てきとー
どっちこいてもへーきんしちゃいかんすーちにばらつきありすぎでとーけーてきにははたんしとります(ams >>970
別に無くたって構わない
卑弥呼の墓の実物を魏使が見たわけないだろうから
殉葬あとがなくても別に卑弥呼の墓ではないという事にはならない >>629
ほんまっす?
ならひみこさんのきゅーでんはつくしやな
じゃがいよさんのみやこのジャマイカはどこじゃろな? テンプレ
なにが言いたいのかわからない
纏向が女王の都と言いたいのだけわかったけど >>981
魏志倭人伝の記事を否定し尽くさないと成り立たない畿内説。 >>986
グダグダ誤魔化してばかりで、何もわからない。
相手に理解させようという文章ではない。 >>987
魏志倭人伝にない事をでっち上げないと成り立たない九州説 >>831
くがみみのみかさはよーちぇっく(たんごふーどきざんけつ >>850
まーせーぜーひみこさんやな(もちろんせんせーにはいっしゅんでこーさん おらもそーおもったがこのすれだけじゃ(恥ずかしがるな^^ 993のあんかーは、はずかしがっとる976へでありやんす(よってきた >>995
かわってよこやり
まきむくのぬしがくなをつくったもののべのはかであーることを(ずぼしすまん このスレッドは1000を超えました。
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