>>954
何のことかとググってみたが、これのことか
http://www.fukuoka-pu.ac.jp/kiyou/kiyo17_2/1702_okamoto.pdf

> 明治18年6月30日の「自由燈」社説、朝寝坊「東京語の通用」は、「昔し諸大名が參勤交代の
>世界に、西國の大名と東國の大名と縁組の相談ある節には、互の言葉が分らぬので、必ず謠本 の候言葉を使ふて用を辨じた」と記している1)。

>幕末から明治初年にかけても、その状態は基本的に変わりなかった。小林存は「明治維新当時
>薩長の官軍と東北六藩の佐幕軍との間の開城談判は、相互の国言葉が通ぜぬため、
>謡曲の文句に節をつけて行ったものだとこゝらの老人達 は語ってゐる」と記す3)。
> これを具体的に示すのが、『明治豪傑譚』(明 治24年)所収の「黒田了介謡調を以て応答す」と題する以下の文章である。
>「戊辰の役、黒田了介参謀を以て羽州軍中に在り、秋田藩士添田清右衛門監軍たり、屡々(しばしば)陣中に相見る、
>清右衛門弁論朴訥加ふるに土音を以てす。了介も亦た純然たる薩語なり。奥羽辨と薩摩辨と談論日を終るも互に意味を
>通解せず。二人之を患ひ、終に謡曲の調子を以て相応答し、纔 (わずか)に其意を通ず」 4)。

>注
>1)山本正秀編『近代文体形成史料集成 発生編』桜楓社、昭和53年、224頁。
>3)小林存「方言交流論」(日本方言学会編輯『方言研究』4輯、1941年10月)72頁。
>4)鈴木光次郎編『明治豪傑譚』東京堂書店、1891年、巻之二、34-35頁。