邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part10
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水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りとするだけで、魏志倭人伝は全て矛盾なく解読することができます。
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の治世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の治世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1509714142/ 世有王
@ 三国志魏書后妃傳第五
>自夫人以下、世有搗ケ。
夫人以下の妃の扱いについては、「それぞれの帝によって」増減があった。(以下、各帝ごとの変化について記載) 魏の世には増減があったの意味
A 三国志魏書任蘇杜鄭倉傳第十六
>語曰「世有亂人而無亂法」
「世の中に、世を乱す人はいても、世を乱す法律はない」と言います。
B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人、世有冠冕、
現在、貴方たちの先祖は、「代々」冠をつける役職についている、つまりこれも魏の世には冠をつける役職についているの意味
C 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十
>而公孫淵、仍父祖三世有遼東。
父祖三代に渡って遼東を領有した。(189〜238)
D 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三
>當世有聲名
当時は名声が高かった。
C は三世(三代)の意味、Dは当世(当時)の意味で、世有の用例ではない。
@ は代々の意だが、魏代ではある。Bも代々の意だが、魏代ではある。Aは一般的な言葉を引用しているのでこの世の中の意、用例としては不適切
以上からは、世有王は、特別な使用でない限り魏の世の王が、と訳すのが適当。 2か所目は「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」の文である。
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐してる監察官
「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた 。
つまり
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」では、「女王国の北の各諸国には、特別に一大率を配置して検察させており、畏れ憚られている。
常に一大率は伊都国で統率されている。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で統率しているのと同じようだ。」の意味となる。
全て伊都国についての説明だから「皆統屬女王國」も伊都国についての説明
伊都国を首都とする女王國は倭の国々を統屬していた。
皆とは倭の国々を指しているのであって、皆が絶対に伊都国を指さなければならない理由はない。
だいたい皆と呼べるほど多くの王が魏代に伊都国にいたとは考えられないし、伊都国に付いては特に詳しく説明されているにも関わらずそれらし記述も一人の王名ない。
伊都国は郡使が滞在するところで、伊都国に付いては特に詳しく記されている
「官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と官、副官の名前は記されているのに、伊都国の王の名前は一人も記されていない
また倭人伝は張政が持ち帰った情報を最新として張政が帰国した時点で書かれていて
既に倭王が魏より任命されているのに、伊都国の首長を王と呼ぶこと事態がおかしい
伊都国の王は伊都国には居なかった、伊都国に居た王は伊都国の王ではなく、倭王の卑弥呼や壹與としか考えられない。 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼である。
それ以外が主語の場合には「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、自女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率を使い支配したのである。
女王国が伊都国より東にあったら、この文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
即ち自女王国以北は奴国から北であり、自女王国とは女王国の中で最大の国邑の奴国を指している。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「奴国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い奴国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。 奴国までの行程を合計すると12000里となり女王国までの12000里と同じであるので奴国が女王国の中心国邑である
(古田氏の説に基づき對馬國の方可四百餘里と一大國の方可三百里を距離とし従来の説に1400里加える)
女王国までが12000里と書いてあるので各行程距離を合計したものが12000里に達しない読み方は誤読である
奴国までで女王国に着いているので里数での行程の説明は不弥国で終了する
次の日数の行程は里数の行程と同じ行程を時間で再度説明したもので
郡の中心地から女王国の中心地まで何里であり、日数だと何日掛かると説明している
続けて読むから意味不明の文章になっていたのである
報告者は軍人であり、正確に報告している
水行二十日は郡から狗邪韓國までに掛かる日数に当たり
水行十日は狗邪韓國から末盧國に当たる
すると陸行一月は末盧國から奴國までに当たることとなる
しかし末盧國から奴國までは陸行一月は掛からない
陸行一日あれば十分なので、陸行一月は陸行一日の誤記だと判明する。 「周旋可五千餘里」奴國から奴まで國までの倭地一周の推定距離である
周旋とは次の経路
奴國→不彌國→斯馬國→已百支國→伊邪國→都支國→彌奴國→好古都國→不呼國→姐奴國→對蘇國→蘇奴國→ 呼邑國→華奴蘇奴國→
鬼國→爲吾國→鬼奴國→ 邪馬國→躬臣國→巴利國→支惟國→烏奴國→奴国
参問とは問を集めることで、倭人から聞いた情報に基づくもの
実際には周旋してないので五千餘里は魏使が倭人の話を基に計算した推定の距離
五千餘里の計算方法は
末廬國→伊都國→奴国→不彌國までの各距離 500里、100里、100里で平均距離700/3里を出し
遠回りの不彌國〜奴國の国の間数である21倍し(4900里)
最後に奴国〜不彌國100里を足したもの。 福岡市の仲島遺跡から、割れていない状態で発掘された銅鏡(同市提供)
http://www.sankei.com/images/news/171209/wst1712090051-p1.jpg
福岡市博多区の仲島遺跡で、2世紀前半(弥生時代後期)に中国・後漢で製作されたとみられる銅鏡が完全な形で見つかった。市によると、弥生後期の銅鏡が割れていない状態で発掘されるのは珍しく、福岡平野では初めてという。
銅鏡は直径11・3センチで「内行花文鏡(ないこうかもんきょう)」と呼ばれるタイプ。コウモリのような文様に、子孫繁栄を意味する「長宜子孫」の4文字が施されている。さびもなく、鏡面に物がかすかに映るほど状態が良かった。
中国の歴史書「後漢書」には、107年に倭国(日本)が奴隷を献上したとの記述があり、市は銅鏡と時期が重なることから「大陸との交流を考える上で貴重な資料だ」としている。
今年4月、弥生時代後期の土器と一緒に捨てられたような状態で出土した。
出土した銅鏡は12日から来年4月1日まで福岡市博物館(同市)で展示される。
産経WEST 2017.12.9 14:54
http://www.sankei.com/west/news/171209/wst1712090051-n1.html
西日本新聞 2017年12月09日 07時46分
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/culture/article/379077 蝙蝠は捨てられるほどの価値しかなかったんですね。
しかも完全形で捨てて、どこかの誰かが拾っても問題ない。
なぜなら
四葉のが既に超大型まで国産発展していたから。
四葉のを誰かが拾うと権威があるから悪用される。
だから破鏡にしておかなくてはいけない。
ますます平原女王墓が卑弥呼墓ですね。 >高祖宮の祭神は彦火火出見だが、これは個人の名前ではない。
>その孫の神武天皇の諡にも彦火火出見の名が含まれている。
>つまり彦火火出見とは伊都の日向王家(天孫族)の称号である。
>伊都の高祖宮は日向峠があるクジフル山の麓にある。
>これこそ筑紫の日向のクジフル岳にある高千穂宮そのものだろう。
いい着眼点ですね。
じつは、ニニギよりもホオリのほうが
広範囲に分布しているんですよね。
鎌倉室町江戸幕府に言えることですが、
創始者よりも、二代三代のほうが、国が栄えて讃えられやすい。
だから、ホオリの分布域が、日向三代の絶頂期なのかもしれませんね。 右手には破邪の鉄剣
左手には太陽の巴型銅器付き盾
背には鉄鏃骨鏃の矢と弓
いざ!征かん! 九州の古代首長は出てくる首長の半分くらいが女性首長で、
なるほど卑弥呼や台与の地元なのだろうと思わせるが、
九州外の地域ではどうなの?
女性「首長」は >>13
>九州の古代首長は出てくる首長の半分くらいが女性首長で、
根拠無し @阿波
徳島市・犬山天神山古墳 石棺から水銀朱で彩色された女性埋葬骨を発見
http://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/f617dcd9430bb88875f8dfd27726cb09
「古墳の石室には人骨が残ることが少ないので、赤く染まった人骨は甕棺(かめかん)などから出土した弥生時代のものが多く知られていますが、
徳島市の鶴島山2号墳からは辰砂で顔面が朱に染まった人骨が出土しています
徳島では、鶴島山古墳群(徳島市)、犬山天神山古墳群(同)、カンゾウ山古墳群(板野町)から出土した人骨が朱染めであった。 後漢書
自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國
ですから
当時の中国人の読み方では「世有王皆統屬女王國」のひと文節であって
世 が魏の時勢=当時 でもいいけど、魏や漢の世に30国の王、30国全部自称王は居ないわけで
「この当時の邪馬台国30国の王は皆すべからく女王国に属する」
という日本語訳で良いかと思います。
この後漢書の課題は
丗丗傳統が(丗丗傳統での自称王)なのか(丗丗傳統で其大倭王居邪馬臺國)
なのかであって、
後者だと、邪馬台国に30国の王の中の大王の王宮が伝統的に有ることになります。
つまり、漢の委奴国王も邪馬台国の王ということになります。
倭国の30国を統括する女王国の王宮の地名が邪馬台国であると首都が伊都というのが怪しくなりますが
村だの郡だの都市だの何でも国で全部に王が居て、それでも、わけわかんなくならないのが中国語かw
まあ、ローマ帝国とかの命名みたいな?
ただし、統一国としての統治が成熟していないことは間違いないです。 なれば卑弥呼が共立される前までは
例えば北部九州の広い範囲を統一した大王は存在しなかったということか? 男王の時代→大いに乱れる→卑弥呼共立
だから男王の時代はまとまってたんじゃないの? 大王の配下に王がいっぱいいるのと王がいっぱいいる中に持ち回りのボス王がいるのとではだいぶちがうがな 伊都の王墓だけが突出していて他に独立した王墓があまりない
甕棺墓の広がりに文化の共有もあるから考古学的には大王がいたっぽいけど 邪馬台国は奈良な
卑弥呼の遺体は福岡に移されて埋められた
デカイ墓ってのは外国に国力を示すためのものだからな
そりゃ外国人が上陸してすぐ見える場所にするよ
大阪湾に巨大古墳が多いのと同じ理由だな 卑弥呼が亡くなったら
戦乱が始まるような状況だからな。
小国を抑えられるような
中央軍はなかったと考えて良い。
小国領主同士の話し合いレベルだろ。 隋書「倭国の首とはヤマト、魏志の言う邪馬台なり」
これだけで九州説は詰んでるんだよなあ
まさか隋の時代にもヤマトは奈良じゃない場所にあったと?w 中央軍があれば戦乱が起きないのなら一度国が統一されたら戦乱が起きないだろが
遅くとも107年に倭国王が出現している ×ヤマトは奈良じゃない場所にあった
〇ヤマトは奈良じゃない場所にもあった 帥升等が朝貢に行ってて
「等」も名前の可能性もあるが、
複数の小国領主の御一行様が
物見遊山に言ったように見える。 >>27
107年に漢へ物見遊山に行けるほど倭国の海運力はすさまじかったのか
てことは東征なんて物見遊山のついでくらい朝飯前なのかな? 律令ができる前は「先代の王様の言うことなら聞くけど、代替わりしたのなら聞かない」
ってことが普通にあったんだろうよ
逆に言えば、それを防ぐために「律令」という概念が出来たわけで
だから古代史の流れが「小国分裂→だんだん統一」という一方通行的な流れだとは思わないほうがいいよ
律令がない以上、各小国の王様が替わる度に分裂したりまとまったりの繰り返しにならざるを得ない 古代においては律令の代わりに「神話体系」を構築することでヒエラルキーの固定化(秩序の安定化)を図ったんだろうけどな >>30
「芝遺跡」
古墳時代初期(約1800年前)の遺構から、出土した土器は概ね、弥生時代終わり頃〜古墳時代初め頃に製作されたと考えられ、徳島(東阿波型土器)、香川(下川津B型土器)、高知(ヒビノキ式土器)、岡山、関西地域(布留式土器)と、他地域で製作された土器が多く出土。
特に、「布留式土器」と呼ばれている関西地域で製作された土器となると、他地域での出土点数は限られてくる。
ところが、芝遺跡では、頻繁な交流が行われた結果として、各地の多くの土器が出土している。
おそらく港的な役割を果たしていたと考えられ、寄港地、宿場地として盛況していたと思われる。
芝遺跡では弥生時代前期後半頃には吉野川下流域や紀伊からの搬入品が認められ、
弥生時代終末頃になると吉野川下流域の他に、畿内・讃岐・土佐・吉備からの搬入品が認められるようになる。
古墳時代前期前半頃になると吉野川下流域時が主体であることに変わりはないが、一定量の畿内系土器の搬入が認められるようになる。
この在地土器と外来系土器の混在する状況が、本地域の特徴であると意義付け、「海人」の存在が想定されている。
この他、吉野川下流域地域で畿内系土器が出土しているのは黒谷川郡頭遺跡(菅原1989)や石井城ノ内遺跡(日下1999)などに限られ、出土点数も数点しかない現状では、阿波南部地域の特異性が窺える。 @阿波 >>29
律令が導入されたのは7世紀だろ
それに7世紀まで各小国の王様しかいなかったのなら邪馬台国はますます北部九州 「ホケノ山古墳」
昨年徳島県海陽町で開催された「古代阿波の海洋民と大和」と題した石野博信氏(ホケノ山古墳発掘に携わった)の講演時の資料を見てみると、
この中にwikipediaには記されていない鉄製品の「ヤス」がある。
やす【 簎 ・ 矠 】
長い柄の先に数本に分かれた尖った鉄の金具を付けた漁具。魚介類を刺して捕らえる。銛(もり)に比べて小形で,普通,手に持って刺して捕らえる。(Weblio 辞書 歴史民俗用語)
簎/矠 ヤス
漁具の一。長い柄の先に数本に分かれた鋭い鉄をつけ、魚介を突いて捕らえるもの。(コトバンク)
要するに、奈良県の山に囲まれた所の古墳から、海人の遺物が出土したということ。
皆さんもご存知の通り、奈良県には海がない。
これは「海人」の入植を意味示すと捉えた方が自然ではないだろうか?
他の出土物から見ても、先進技術を持った祭祀集団であったことがわかる。
これは、海を駆け巡った長國の海人族を通じて、阿波から畿内域(この場合丹波・奈良)へと進出した痕跡を標すものではないだろうか。
そして更には、阿波から大陸に、阿波から全国にと進出したのであろう。 @阿波 >>33
いや、だから三世紀において広範囲にまとまってたけど
5世紀には分裂してる、
なんてことは普通にありえるっていってるわけ >>36
なるほど
王の力量に左右されやすいわけですな さすが九州説は深いな
朝貢が代々じゃなくて飛び飛びだったことが初めて腑に落ちた 朝貢といえばイヨさんは親魏倭王なん?
五王は各自が毎回任命されてたみたいだが かなり後世になるが
白村江で48000人の兵士を輸送できたんだから
玄界灘周辺の小国なら
かなりの航海術は持ってただろうな。
帥升等も160人連れて行ったわけだし。むしろ漕ぎ手要員だったのかも。 たとえばチンギス・ハンみたいな強大な征服王が、西日本を一代でガーっと征服していったとして
自分は福岡で政務を執り、長男には奈良を支配させ、次男には出雲を統治させ、三男を宮崎に派遣し、
そうやって父である大王が息子たちに指示を出して西日本全域を治めたとして
父が死んだらどうなるかって話だよ 漕ぎ手要因を献じたら帰れないだろwそう考えると大規模な船団だったのだな 王権成立は古墳時代と見て良いと思うが
倭人伝の当時の邪馬台国は
帯方郡役人に熊本との紛争を委ねる
チンカス地方国家だぞ。
それ以前に帯方郡の魏自体が
無力の公孫氏だったろ?
こんなの倭人が中原の皇帝になるぜwww
邪馬台国はカス杉 行程論が北部九州説論者のものとちがうようだが
(月を日、は入れてるから知っててずらしとるなあ まだ謎のまま、じゃねえよ。
平原遺跡で決まりだよ。 >>45
周溝でつながった2号はやっぱ唯有男子一人の人なん? 王権の象徴である八咫の鏡が出たからな。
伊都国が倭国の都である証拠だろ。 倭人伝には殉葬についても書かれているんだから大きさはその全体のこと
1号+2号+殉葬者たちの土壙墓で周溝が楕円形に囲んでおり
方可では表現できず径で表すしかないな 古墳から出ているのだから
埋葬するのが当たり前。
天皇家が代々伝えるのはむしろ特殊例。
容易に入手できなくなる時代があったのでは? 王権の象徴を埋めるってのは王権の終焉を意味することになると思うんだが 皇室の三種の神器を埋めますか?埋めないでしょ って話 アキヒトの墓には三種の神器が埋められて天皇家もおしまいだろ 平原の主卑弥呼の鏡の一枚を形見としてもらったのが現皇室なんじゃないの
福岡でも奈良でも、1世紀の銅鏡が3世紀の墓から出てくる、なんて例はたくさんあるわけで
つまり200年は銅鏡を王権の象徴として代々受け継いでたけど、王権が断絶したときに最後の王とともに埋められた、ということだと思う それ以外に1世紀の銅鏡が3世紀の墓から出る理由がないし >>58
その前の三雲南小路遺跡も須玖岡本遺跡も、王権の象徴を大量に副葬している。
そういうものなんだよ。
いちゃもんつけている奴は倭国の伝統を理解していない。 >>59
九州時代にたくさん埋めて手元に少ししか残っていなくなったので、火事で焼けて燃えかすになっても大事に保管して継承しているんだろ。 奈良の天皇家は筑紫のお下がりしかなかったから、鏡を副葬できずに伝世した。 >>61
断絶したら、次の王は王権の象徴を奪うだろうね。 【八咫鏡】
平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
記紀神話によれば、八咫鏡は天照大神の岩戸隠れの際に石凝姥命が作った。
天孫降臨の際、天照大神から瓊瓊杵尊に授けられ、この鏡を天照大神自身だと思って祀るようにとの神勅(宝鏡奉斎の神勅)が下されたという。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。
内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていた。
3世紀には平原遺跡に王権の象徴である八咫鏡があったことで、伊都が倭国の王都であったことがわかる。
伊勢内宮に3回ほど火災があり神鏡が焼失し、作り直された鏡は元の大きさではなくなっているという。
宮中賢所(内侍所)の神鏡も火災に遭い灰となり、安徳天皇とともに壇ノ浦に沈み、それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したものが、今も賢所に置かれている。
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口に対して、日前は西の出口にあるため、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、伊都平原に5枚で、最低でも9枚は存在していたことになる。 >>63
違うよ。 魏使を返した後、実際に九州系王族は大和朝廷に平定された。
王権の象徴が王の副葬品になっているのはその王家が滅びているから。
なぜ、朝廷が三種の神器なのかは不明だが、この時世(漢〜魏)の皇帝に配慮したのかもね。
漢の倭奴国は魏の邪馬台国と同じで王宮は領土の南限の倭奴国または邪馬台国だ。
漢以降、卑弥呼の時世で帯方郡は公孫氏による半独立国。朝貢は止まり、印綬もない。
238年になって、魏がやっと遼東から四郡の公孫氏を倒した。
たまたま帯方郡を訪れた邪馬台国使を公孫戦勝祝いとして喜んで洛陽に案内した。
ただし、曹魏ではなくすでに司馬氏の治世。
きわめて不安定で倭国は取り込んでおきたかった。
卑弥呼が倭王としての力量を付けて朝貢に及んだから印綬を受けたわけではない。
邪馬台国もカスなら魏もカス。
魏使は皇帝のメンツの為、倭奴国を買いかぶってる。
帯方郡太守は百済を直接統治しようとして反乱で殺された。
250〜400年の東アジア情勢の中で台頭したのは九州や半島を抑えた畿内朝廷だ。 王家が滅びたなら王墓も残らんだろう
お宝は全部奪われて見世物にされるか改鋳されるか
後世の国産銅鏡が景初三年を称えている
八咫鏡が7世紀の書に登場する
そもそも三種の神器セットが同じなのだから王家が滅びていない >たまたま帯方郡を訪れた邪馬台国使を公孫戦勝祝いとして喜んで洛陽に案内した
硯が出土しまくって
いよいよ後が無くなったキナイコシ乙w
国書でやり取りしてたんだよ
それくらいじゃなくちゃ「金印」は貰えない 国書には公印が必要で、漢委奴国王印が使われただろう。
魏は漢の外交関係を禅譲により継承しているので、倭としては漢委奴国王印を対外的に用いることが可能である。 >>74
それしか言えない能無し。
反論になってないよ。 >>74
根拠を説明している文章にその返しをするということは、私は日本語が理解できませんと言っているようなものだ。 弥生時代の硯
島根県松江市田和山遺跡:硯片2つ
福岡県糸島市三雲遺跡:硯片2つ
福岡県筑前町中原遺跡:硯片
福岡県筑前町薬師ノ上遺跡:完全な形の硯、墨付着
2世紀に共立された卑弥呼がいたのはどこよ? 筑前町は都置くにはいい場所だよな
海沿いは外敵の侵略を受けやすいけど筑前町なら太宰府通りすぎた山の奥側だから 伊都は都置くにはいい場所だよな
街道がなくて海上交通メインの弥生時代、伊都なら東西にも北へも自由自在 弥生時代の硯
島根県松江市田和山遺跡:硯片2つ
福岡県糸島市三雲遺跡:硯片2つ
福岡県筑前町中原遺跡:硯片
福岡県筑前町薬師ノ上遺跡:完全な形の硯、墨付着
2世紀に共立された卑弥呼がいたのはどこよ? >>87
海沿いは外敵に弱いからNG
一回Googleマップで「地形」のボタンを押して福岡を見てみるといいよ
太宰府の両側が山で、天然の関所みたいになってる
太宰府の奥側に都を置けば、太宰府両側の山に弓矢兵を置くことで都を容易に守ることができる >>89
そりゃお前らキナイコシは攻め込まれる弱小国だから
そういう思考だろうけど
伊都倭国邪馬台国は攻撃する側だからな
海に面してるのが楽ジャン 出撃 武器型祭祀品である銅矛も銅戈も海に面した場所に集積しておるな >>90
なぜ俺が畿内説派に見えたんだ?
俺は筑前町が都に適してるって言ってるんだぞ?
統合失調症かよ >>91
それは外敵を威嚇するためだから海沿いでいいんだよ
王が前線基地にいたらおかしいだろ アラスカに対ロシアミサイルを配備してるアメリカの首都はアラスカか?
違うだろ >>94
現代のしかもアメリカを持ち出しても意味がない >>92
で、倭人伝に書かれたどの勢力が邪馬台国の首都に攻めてくるんだ? 筑前町で政務を執り、死後は平原に埋められたんだよ
墓は「見せびらかすもの」だから海沿いのほうが適してる
倭人は海沿いに墓を作る文化なんだよ
日本最大の前方後円墳があるのも奈良じゃなくて大阪湾沿岸だから >>96
あらゆる勢力だよ
中国、朝鮮半島含めて
邪馬台国連合の構成国だって下克上狙って来るだろうし >>97
敵が攻めてくる場所を避けて都をおくんだろ?
王墓だけ危険な場所に作るのか?
王墓を最前線に作るのか?
銅矛だけに九州説は矛盾だらけwww >>98
あらゆる勢力が攻めてくるんなら
どこにいようが危険だ
倭人伝で最低限卑弥呼の勢力圏なのは
壱岐対馬〜伊都〜奴国不弥国だから
ど真ん中の伊都が一番安全じゃないのかね >>99
そうだよ
日本最大の仁徳天皇陵だって大阪湾岸に作られたんだよ、奈良ではなく
「海から見える位置に墓を作る」ってのは倭人の伝統
朝鮮半島にある前方後円墳も海沿いに作られた >>98
具体的にはどの勢力が攻めてくる候補なのだ? 巨大墓ってのは外国からの使者に自分達の国の国力を見せつける「威信物」なんだよ
「こんなデカい墓を作っちゃうような国は国力もデカいし王の権力も大きくて安定してるんだろうな、丁重に外交しないと」と思わせるわけ 仁徳天皇の宮は難波
王都も王墓も自勢力の勢力圏内に作るのが当たり前 >>104
墓は堺市にある
難波宮からさらに海側にわざわざ遺体を運んで墓を作った >>101
あららキナイコシが馬脚をあらわしたw
じゃなくて、馬具があらわれちゃった、かな?w
>>103
ふーん。
日本でしか巨大古墳作ってないみたいだけど。
アジア世界でそのような効果はあったのかな? >>105
堺も海沿いだな
内陸のヤマトじゃないじゃーんw 魏志倭人伝によると
邪馬台国は南の狗奴国と戦争状態にあった
よって
都は安全な伊都が最適。
以上。 がんばれキナイコシ
>倭人伝で最低限卑弥呼の勢力圏なのは
>壱岐対馬〜伊都〜奴国不弥国だから
>ど真ん中の伊都が一番安全じゃないのかね 弥生時代の硯
島根県松江市田和山遺跡:硯片2つ
福岡県糸島市三雲遺跡:硯片2つ
福岡県筑前町中原遺跡:硯片
福岡県筑前町薬師ノ上遺跡:完全な形の硯、墨付着
2世紀に共立された卑弥呼がいたのはどこよ? 卑弥呼は筑前町で執務を取って平原に埋葬された
城柵のある宮もあるし
殉葬や魏からの贈物のある墓もある 三雲は楽浪土器も出てるから、帯方郡使の滞在所だろうな。
あとは倭人が楽浪文物を搬入しただけだろうな。 伊都から北の対馬海峡に睨みをきかせていたんだよ。
魏志倭人伝に書いてあるだろ。 【卑弥呼の王宮の候補】
・高祖宮
魏志に伊都国と記された糸島市にある。
糸島平野と福岡平野の間にあるクシフル山があり、福岡に通じる峠を日向峠と呼ぶことから、高祖宮は記紀にある筑紫の日向の高千穂宮に比定できる。
高千穂宮は天孫ニニギが八咫の鏡を伴って筑紫の王として即位した宮であり、神武天皇が東征に出発した宮でもある。
後にこの地に建設される怡土城、高祖城はクシフル山の山頂を含む中国式山城であり、高千穂宮の名にふさわしい。
糸島平野にある三雲南小路遺跡はニニギと木花咲耶姫の墓と伝えられる。
高祖宮の目の前の平原遺跡からは、ニニギ王家の家宝である神宝八咫の鏡が出土している。
伊都高祖宮こそ倭国の王都であり、平原遺跡は倭国女王卑弥呼が被葬者の最有力候補である。
・橿日宮
現在の香椎神宮。
卑弥呼の後継者となる筑紫の女王の一人として、景行天皇の時代に筑紫の梟帥の称号と八咫の鏡を持つ神夏磯姫(神橿日姫)がいて、その名からはおそらく橿日宮に住んでいたと思われる。
景行天皇の孫の仲哀天皇も橿日宮を拠点としており、代々の筑紫の王宮として用いられていたと考えられる。
魏志では不弥国に比定されることが多く、ここまでは距離が明記されているので郡使が往復したことは確実である。何のために往復したのかと言えば、卑弥呼に会いに行った可能性がある。
・高良宮
筑後一宮。高良大社や高良玉垂宮などからなる複合施設だが、後世の仏教との習合や神仏分離などの影響による。
近隣には卑弥呼もしくはそれに近い人物の墓と言われる祇園山古墳がある。
卑弥呼が筑後出身ならば、高良宮が元宮だったかもしれない。
郡使が滞在した伊都国までやや遠いのと、魏志倭人伝に該当する記事もないのが不利。
すると祇園山は壹與の墓か?
いずれの宮も聖地である山の西の麓にあり、王は太陽を背にして君臨したと考えられる。
これは倭国が太陽信仰をもとにした祭政一致体制であったためである。
その象徴となるのが王位の証である八咫の鏡などの内行花文鏡である。
平原遺跡に見られる鳥居や御柱などは、3世紀において神道が成立していたことを示す。
卑弥呼が用いたと記録された鬼道も、三種の神器や榊を用いた神道の儀式であったはずである。 筑前町が都の理由が安全だから
南の狗奴国と戦争しているのなら
筑前町よりも伊都のほうが安全
説明できるのかね? Googleマップの「地形」ボタンを押して福岡を見てみるといいよ、とにかく
福岡平野と筑紫平野がちょうど太宰府のところで山に挟まれた細い平野で繋がってるだろ?
糸島〜博多湾を上陸して福岡平野から筑紫平野に入るとき、太宰府を通らないと行けないようになってるってわけ >>115
かんちがいしてるひとがおおいけど
たいほうぐんのぎのひとはらくろうどきがしゅつどするほどたいざいしてないぞ
らくろうどきはかんのらくろうぐんのひとたち >>119
なるほどね
南の狗奴国と戦っているのなら、大宰府が最前線になるわけだ
その北の奴国からさらに山を隔てた
伊都こそが安全な都にふさわしいわけだな 狗奴国の場所でまた論争しなきゃ行けないのか
俺は狗奴国は九州内ではないと思うぞ
「その南に」の「その」は二個目の奴国をさしてるだろ
原文もっかい読んできなよ 弥生時代の硯
島根県松江市田和山遺跡:硯片2つ
福岡県糸島市三雲遺跡:硯片2つ
福岡県筑前町中原遺跡:硯片
福岡県筑前町薬師ノ上遺跡:完全な形の硯、墨付着
2世紀に共立された卑弥呼がいたのはどこよ? 「その南に狗奴国がある」の「その」の解釈だよ
30ヵ国からなる邪馬台国連合とタメを張る国が狗奴国だからな
狗奴国もまた、複数の島にまたがった数十ヵ国の連合であってもおかしくない
四国〜南近畿までが狗奴国連合で、
南朝鮮半島〜対馬〜北部九州〜中国地方〜北近畿が邪馬台国連合 久留米説かと思ったが、前方後円墳を持ち出したり狗奴国が南じゃないと言い出した次点でキナイコシだと判明
>>126-127
正体がばれてキナイコシ特攻www >>128
いや?
南朝鮮半島〜対馬〜北部九州〜中国地方〜北近畿にまたがる連合の都が福岡にあったんだろ
別におかしくないじゃん
古典的九州派がバカなのは、邪馬台国連合が北部九州だけの小地域の連合だと思ってることだよ
畿内含む広域連合の首都が福岡似合ったという発想に至らない 伊勢遺跡や唐古鍵遺跡も邪馬台国連合の範囲だしな当然
国名だけが記載された「30ヵ国中、後半21ヵ国」の範囲だよ >>128
狗奴国は「二個目の奴国の」南
いいから倭人伝読み直してこい 倭人伝に載ってる邪馬台国連合構成国は
3つのグループに分けられるんだよ
ひとつは「距離が里数で記載された国」=魏の使者が実際に行った国
もうひとつは「距離がおおまかな日数で記載された国」=九州内の国
最後が「名前だけが記載された国」=九州外の国
わかります? >>133
読み直してきた
筑前町で検索したけど書かれてなかた 首都の名前はさすがに強調して書かれるだろうな
魏の歴史書に伊「都」と書いたみたいに 弥生時代の硯
島根県松江市田和山遺跡:硯片2つ
福岡県糸島市三雲遺跡:硯片2つ
福岡県筑前町中原遺跡:硯片
福岡県筑前町薬師ノ上遺跡:完全な形の硯、墨付着
2世紀に共立された卑弥呼がいたのはどこよ? >>86
>筑前町は都置くにはいい場所だよな
>海沿いは外敵の侵略を受けやすいけど筑前町なら太宰府通りすぎた山の奥側だから
>>89
>海沿いは外敵に弱いからNG
>一回Googleマップで「地形」のボタンを押して福岡を見てみるといいよ
>太宰府の両側が山で、天然の関所みたいになってる
>太宰府の奥側に都を置けば、太宰府両側の山に弓矢兵を置くことで都を容易に守ることができる
>>108
>魏志倭人伝によると
>邪馬台国は南の狗奴国と戦争状態にあった
>よって
>都は安全な伊都が最適。
>以上。
>>138
>どんだけ同じ事書きこんでんだよ、ボケ 硯はもーえーよ
北部九州には文字が普及してたんだろ
徴税してたって倭人伝にも書かれとる 本州は倭地、つまり卑弥呼により統一されていない地域。
30カ国は福岡県、長崎県、佐賀県にある(郡使は足を運ばなかった)。
狗奴国は熊本県。
投馬国は宮崎県。 報告者は軍人であり、正確に報告している
水行二十日は郡から狗邪韓國までに掛かる日数に当たり
水行十日は狗邪韓國から末盧國に当たる
すると陸行一月は末盧國から奴國までに当たることとなる
しかし末盧國から奴國までは陸行一月は掛からない
陸行一日あれば十分なので、陸行一月は陸行一日の誤記だと判明する。
のっけからすごいねw 正確に報告?w
ならなぜ十日とか一月とか全部きりのいい数字なの?w
実際にかかった日数を正確に書くなら11日、とか一月と2日、とかになるはずだろ
「○日くらい」っていう伝聞情報を記載したからきりのいい数字になった 結論ありきで文献を無理矢理ねじ曲げて読んでるだけだからな
そういうの心理学で確証バイアスって言うんだよ
スレ主は自分がバカだと認めろ >>148
帯方郡から松浦までが
実距離の5倍で書いてあるからね。 不思議なことに
日数も里と同様に1/5して
帥行30里で換算すると
水行のときにちゃんと有明海に出て
合計すると12400里と
万二千余里に合うんだよ。 それぐらいしかネタがないだろ 永遠に続けられるネタって 女王国の南4000里に侏儒国=種子島
その東南遠くに裸国、歯黒国=小笠原諸島
(小笠原諸島は16世紀に無人島として発見されたが、1世紀の遺跡が見つかっている=古代には海洋民の拠点があった)
女王国は北部九州しかありえない 古代の海洋民のネットワークはものすごく広かった
農業が普及し陸地に定住するようになった弥生以降、それらの海洋ネットワークは縮小し、一部は失われたんだろう 北部九州の遺跡から南洋でしか取れない美しい貝の装飾品が見付かってる
海幸彦と山幸彦の神話も南洋のもの
沖縄の建国神話の神は「アマミキヨ」
アマテラスと同じ「アマ」の名を持つ 肥前肥後は九州二型と呼ばれるアクセント地域
熊襲や肥人と呼ばれた部族の末裔だろう
例え言語が変わってもアクセントは後々まで変わらないからな
邪馬台国が有明海沿岸にあったのなら邪馬台国は熊襲文化圏だった可能性が高い
しかしそれは考え難いな 景行天皇が制圧した熊襲国は
日向、大隅ですね。
記紀によれば中津あたりから
侵攻を始めてるので
豊前、豊後も入るかな。 【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 【壹與と與止日女】
肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。
この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。 >>161
>アマとは具体的に韓半島の故地を指している
アマ=海人=天=阿波 >>130
>古典的九州派がバカなのは、邪馬台国連合が北部九州だけの小地域の連合だと思ってることだよ
若いお人は知らんじゃろうが
大型建物が見つかったばかりで血気盛んな頃に
九州に分布する庄内式が征服の証拠だとして防戦一方だった時代があっての
その頃の戦いの名残りじゃて
じつは年貢の流れだったと判明したのじゃが
前言撤回とはなかなか難しいものでなあ 福岡市と糸島市だけで奴国と伊都国と不弥国が入るんだろ?
福岡県、佐賀県、長崎県で30カ国でいいじゃないか。 >>166
>じつは年貢の流れだったと判明したのじゃが
そんなアホなw 【邪馬台国の周辺の国】
1番目の斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番目の己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番目の伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番目の都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番目の彌奴国は嶺(佐賀県神埼郡三根村)の吉野ヶ里遺跡
6番目の好古都国は?
7番目の不呼国は?
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番目の蘇奴国は?
11番目の呼邑国は?
12番目の華奴蘇奴国は?
13番目の鬼国は?
14番目の爲吾国は?
15番目の鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番目の邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲である。
半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。 >>168
博多には西日本中からの産物が集まる。
奈良盆地からの産物も集まる。
一方、纒向には九州のものはおこぼれ程も入ってこない。
つまりは、奈良盆地は搾取されるだけのクソ田舎。 >>169
>女王国東渡海千余里 復有国
宗像や北九州市などは女王国に含まれるのか
含まれるとしたらどの国に該当するのか
含まれないとしたら
不弥国から千余里東で山口県ということなのか >>171
>不弥国から千余里東
そんな記述はない @阿波 >>170
国内の産物もそうだし海外からのも圧倒的だね >>171
中国地方は確実で
たぶん山口県でしょうね。 不弥国が福岡市に含まれるのなら宗像や北九州市に相当する国が30国の中にあるはず 北九州市は文化が違う。
でも宗像は含まれている可能性がある。 同じ福岡県でも少し郊外にでると方言違うからなぁ
筑豊は博多とは違う文化圏
往古の昔からそうだったと思う >>178
統一されていないからこそ、魏志倭人伝のような状況が生まれる。
統一にこだわるのは、広域勢力を夢想しないと説が成立しない畿内説だけ。 >>180
初期型前方後円墳の分布は南九州から千葉まで広がってるんだがな
広域にわたるゆるやかな連合は3世紀からあったのは間違いない 一番古い方形周溝墓が唐津にあるが
唐津が日本を支配した連合国家
だったとは言えまいて。 >>181
>広域にわたるゆるやかな連合は3世紀からあったのは間違いない
その「広域にわたるゆるやかな連合」って言ってるものは、倭国(阿波)から進出した忌部一族の繋がりの事。 @阿波 >>184
魏志倭人伝や邪馬台国と関係ないけどな。
あるというなら、それを証明しろよ。 >>183
倭国王権が対馬海峡に成立したのなら、初期において唐津を本拠地にした可能性はある。 日本の王権は大陸発祥でしょうな
韓半島からやって来たのでしょう >>189
それは旧王家だな
奴国の住吉一族
住吉族の神に「中筒男」がいるが
まったく同じ名の新羅王(南解次次雄)がいる
そしてその二代後の新羅王は「倭奴国の北東のタバナ国から船で来た」とある
旧倭奴国(新羅〜博多湾〜本州日本海側が領地)の王族、住吉氏が
邪馬台国に覇権を奪われたときに
住吉氏の王子の一人が本州日本海側のタバナ国に亡命し、さらに新羅に亡命して新羅王となったんだろう 倭人伝解釈では南韓と九州は異国の関係じゃないよ。
国家概念が不確実な当時に韓は倭人が自由に帯方郡へと通行してた地域だよ。
九州が日本に組み込まれたのは白村江以降だな。
白村江海戦で百済王と百済兵を送還して九州を日本に編入した。
朝廷が九州発祥というインチキ歴史を作ったのは
白村江敗戦で九州が半島同様の中国領になる危機感があったからだ。
な、だから記紀w 丹波国=タンバの国=タバノ国=タバナ国
新羅は旧倭奴国の亡命政権
九州&新羅 vs 畿内&百済
という関係は6世紀の磐井の乱まで続く いや、9世紀まで続いたんだよ
統一新羅は執拗に九州に出兵した
これは倭が兄弟国である百済の滅亡後、百済の旧領を回復しようと半島に出兵したのと同じだよ
新羅は兄弟国である九州王朝が滅亡したのを受けて
旧領回復のために出兵した 中国と筑紫が交易するには百済を通過する必要があったからね 違うだろ
磐井の乱の構図のまんまだよ
筑紫+新羅 vs 近畿+百済 >統一新羅は執拗に九州に出兵した
そりゃそーだ
それまで倭が新羅を攻めまくってたんだからやり返したんだろ
半島最古の史書にこれでもかと書かれている
筑紫を通らないと新羅には攻め込めないんだから
新羅に何度も攻め込んだということは
筑紫+百済
磐井は筑紫有力豪族の一人が新羅にそそのかされただけ 百済と結んだのは近畿継体天皇だろ
それを筑紫王磐井が新羅と結んで邪魔しようとしたから戦争になった 磐井はどっちかっつーと石文化だから
熊本のが北に勢力のばして調子に乗った一発屋なきがするけどな
それこそ奈良の石文化と同じで日本歴史上は独特の文化じゃねーの?
筑紫倭国の本家とはちと毛並みがちがうしょ どっちかっつーとじゃねーだろ
磐井=阿蘇出身=たまたま北へ勢力拡大
畿内とピンクで交易してしこたま儲けたんだろ >>206
時代的に伊都はもういいとして
古代から現代まで筑紫の中枢である福岡市を全く押さえていない 筑紫の君だぞ?
筑紫の中心がどんどん内陸に移動していったんだろ。
ある時点で筑紫の中心は太宰府になっていたはず。 筑紫の君 ってのが、大和朝廷の王が筑紫の国造としての磐井に与えた姓だろ? 九州倭国は韓倭にまたがる交易国家
支配階級は新羅人です >>213
筑紫倭国の王を後世から振り返って格下げして筑紫の君と呼んだんだよ。 >>215
もともと対馬海峡が本貫地なんだよ。
韓人ではない。 女王国の中心地を奴国としていましたが
伊都国と奴国の国境線付近が女王国の中心地と変更いたします。 「女王国」までが12000里(伊都国と奴国の国境線付近まで)
(1)+(2)=女王国の勢力範囲(倭国)
(1)+(2)+(3)+(4)=倭人が住む地域
(1)+(2)+(4)=倭の今使譯所通の30か国
(1)邪馬台国
対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、
好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、
鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国 26国
(2)投馬国
邪狗韓国
(3)女王国と対立してる国
狗奴国
(4)倭国に含まれないが倭人が住む地域
女王国の東側の海から1000里の倭種の国
侏儒国、裸国、K歯国 >>218
福岡平野から糸島平野に抜ける、高祖山を越える峠を日向峠という。
そこが筑紫の日向といい、倭国の王宮である高千穂宮が置かれていたところである。
出雲の大国主をたおした天照は、孫のニニギを王として筑紫の日向に派遣して、伊都国が成立した。
高千穂宮は現在の高祖宮(高祖神社)である。 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
始度一海千餘里 至對馬國
方可四百餘里
又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國
方可三百里
又渡一海千餘里 至末廬國到伊都國
至奴國
至不彌國 >>220
なんで出雲を倒すと史実にある九州北部の邪馬台国の筑紫が手に入るんですか?
であれば、九州から東遷しないで最初から出雲からで良いんですけど?
内陸の大和朝廷が出雲の海運力と結託して九州平定に向かった。
じゃないと、軍事侵攻の時系列が頓珍漢ですが?
まあ、記紀が頓珍漢なのは説明要りませんけど・・・ 記紀神話?何なのかわからないけど
197□年頃のものだよw
と言っている人もいなかった?
ために用意されたものとか 気付いたこと
「到其北岸狗邪韓國 七千餘里」・・・郡の海岸から狗邪韓國の海岸までが7000里
「始度一海千餘里 至對馬國」・・・狗邪韓國の海岸から對馬國の北の海岸までが1000里
「方可四百餘里」・・・對馬國の北の海岸から對馬國の南の海岸までが800里
「又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國」・・・對馬國の南の海岸から一大國の北の海岸までが1000里
「方可三百里」・・・一大國の北の海岸から一大國の南の海岸までが600里
「又渡一海千餘里 至末廬國」・・・一大國の南の海岸から末廬國の北の海岸までが1000里
☆「東南陸行五百里 到伊都國」・・・末廬國の北の海岸から末廬國と伊都國の国境線までが500里
☆「東南至奴國百里」・・・末廬國と伊都國の国境線から伊都國と奴國の国境線までが100里
☆「東行至不彌國百里」・・・伊都國と奴國の国境線から奴國と不彌國までが100里
里による行程は全部国の端から端までで、中心地から中心地までじゃないんだ。
なので、女王国の中心地を奴国としていましたが
伊都国と奴国の国境線付近が女王国の中心地と変更いたします。 ウマヤド(仮)?
辺りの時代まで記載されているとか >>222
>であれば、九州から東遷しないで最初から出雲からで良いんですけど?
何が言いたいのかよくわからん。
倭国の中心が出雲から筑紫に移動したと書いてあるんだが。
>内陸の大和朝廷が出雲の海運力と結託して九州平定に向かった。
畿内なんぞなんの関係もない。
イミフ >>224
>伊都国と奴国の国境線付近が女王国の中心地と変更いたします。
国境というより、合わせて広域の文化圏だったのだろう。
伊都国がワシントン、奴国がニューヨークのように。 『倭猿』
倭(ヤマト)タケルなどの系統の事でしょ、
出雲は? >>228
本気であなたの精神状態が心配です。
何年もずっと呟き続けていますよね。 △スレにも書いたんだけど、
どこで何を習っているんだ? 悪く言うわけではないけど、
力夫という名前の親戚はいない もう何も問題ないと思っていたがまだ気づいていない事がありそうだな
畿内説の人とかドンドン批判してくれ。 騙り・・・新興宗教とか、
いろいろあると思う
そろそろアタマのビョーインに行け あえて不審な点を述べると、なんで出雲の大国主を倒したらニニギが筑紫伊都に降臨するのか。
実は出雲というのも福岡のどこかではないか。
そんな疑念はくすぶっている。
記紀が筑紫の日向がどこかぼかしていたため、長年にわたって宮崎県だと思い込んでいたように、出雲もはっきりとは明示されていないから、実は島根県ではないのかもしれない。
九州北部の地名を宮崎県や島根県にばら撒いて倭国を西日本全域の大きな国であったように見せかけていただけで、実は神代の巻の全てが博多湾沿岸の話だったのかもしれない。
そう考えると、博多か筑紫野あたりの大国主を倒して伊都から福岡県西部と対馬海峡を支配したのが倭国であり、卑弥呼はその女王ということでスッキリした話になる。
まあ、仮説だけどね。 >>237
対馬がアマテラス=ニニギ王家の本拠地だからだろ
出雲〜北部九州を支配する大国主がいて
アマテラス=ニニギ王家は大国主から北部九州をぶんどったわけだ >>224この判明した書き方だから
朝鮮半島内陸行だと
郡から狗邪韓國の国境まで○○里
狗邪韓國の国境からその北岸まで○○里
のような記述が必要になるから古田氏の朝鮮半島内陸行はやはり誤りだな。 不彌國は方向や距離から見て那珂川町か春日市付近みたいだな。 我田引水も終わりにしろ
出雲というのは、
いまの朝鮮〜中国〜ロシア、モンゴルとか、
そういう話になる わかった?
わかったのなら、刑務所に行くか、自殺をしろ 島じゃなきゃ国境線無いし、
方可四百餘里や三百里は島の大きさで移動距離じゃないよ。
伊都は糸島半島上陸で那珂川町か春日市付近。
江戸期以降も現状で存続してる市街地には神社保存でもなきゃ遺跡は出ない。 出雲?鬼と言われていたみたいなので
英国、米国とも言える 倭人伝の倭国=九州は確定だし、記紀の九州天孫降臨は神話だろ。
神話の成立要因として、663年白村江敗戦。日本は敗戦処理で半島利権から手を引いた。
国境の設定で記紀によって九州を日本国開国からの歴史的固有領土であると宣言した。
倭人伝を読めば、九州と半島に明確な国境が無いのは理解可能。
人質の百済皇太子や半島移民勢力は消えたし、敗戦後の九州を守れなかった可能性はある。
これが歴史的に日本国最初の国境成立だろ? 歴史上の事実ってもんだよ。 九州倭国なる新羅の分国がもしあったのなら
なんで新羅に神社が無いんだ? >>238
そう
だから出雲の大王を脅迫して、出雲以外の国譲りを迫ったってことだよね
天孫降臨神話があるのも「出雲以外」の福岡(ニニギ)、宮崎(もう一人のニニギ)、近畿(ニギハヤヒ) >>61
筑紫では三種の神器のような宝物でも容易に手に入るため
王と一緒に埋葬したが、大和では入手が困難だったから
引き継ぐようになったのだろうな >>243
方可四百餘里や三百里を移動距離に入れないと内訳の合計が女王国までの総合計の12000里にならないから
入れるべきでしょうね、でないと陳寿は頭の可笑しな人だったことになる。 >>248
それって、近畿にいたのは倭王ではなく地方豪族っていうことじゃ 出雲の大王なんぞおらん
出雲からは古代大王の存在を示すなんの遺跡も見つかってない 出雲文化圏の中心地は出雲じゃなくて元出雲だから
出雲に古代大王がいたはずがない 伊都国と奴国の国境付近が女王国の中心地だから自女王国以北も伊都国から北の意味だな。 投馬国の首長のミミやミミナリという宗教性の強い名称からするに、投馬国は強い宗教性のある土地の首長でしょうな
恐らく出雲。ミミは遠い昔の祭政一致時代の出雲首長の称号。
投馬国はツモで出雲のイが落ちたものか古語で出雲がツモだったかどちらか >>251
荒神谷遺跡
大量の銅剣が出土
まさに王都が征服され、大量の威信財を「強制的に捨てさせられた」ということだろう >>256
大国主が矛を用いて全国を平定したことと、
荒神谷から北九州製の矛が出土したことは関係あるだろう。 補足すると
「銅剣」「銅矛」という分別は、単に木にくくりつける部分の形状の違いによるもので
両者とも長い木の先端にくくりつけて使用され、完成品の見た目的にはどちらも「矛」だった >>255
宮崎にいた神武の息子が耳とつく名前なんだよ。
投馬国は宮崎県の都万。 >>249
伊都国までは半島西岸水行20日の7千里と島領部渡海水行十日の3千里と
陸行、南東500里で1万500里です。
壱岐からの千里は糸島半島内湾上陸で南東500里が博多の平の西山麓〜那珂川あたり。
一万二千里は女王国の南限にある邪馬台国または倭奴国の狗奴国との国境までです。
邪馬台国を大和=倭と混同する異説のため、地名の混同もあり国名とする傾向が有りますが、
これは、女王の処都=王宮砦の場所の地名、後漢書との読み合わせで理解できます。
一月行は隋唐書当時に知った倭国の範囲、南北3月行、東西5月行(奈良付近まで)から
九州島の南北6千里、奈良まで1万里で、一月行は2千里と定義されていると考えます。
使用例が少ない1月行という単位ですが、30日行=1月行という例も無いかと思います。
領土の大きさなどで使われるようなので、徒歩と馬や水行で変わるものでは無い単位と考えます。 >>256
土中に埋められた器物が見つかっただけ
王墓もなければ
王都を示す集落跡もない 【平原遺跡】
福岡県糸島市にある平原遺跡は大量の中国朱が外に流れ出したことで発見された。
1号墓は東西径13m、南北径9.5mの方形周溝墓。
割竹形木棺は長さ3m。棺底に厚さ4cmの青粘土。その上に朱を敷く。槨なし。
出土物は瑪瑙管玉12個、ガラス管玉30個以上、ガラス小玉約500個、ガラス連玉約886個。
ガラス勾玉とガラス丸玉約500個、方格規矩四神鏡32枚、内行花文鏡2枚、超大型内行花文八葉鏡5枚、虺龍紋鏡(きりゅうもんきょう)1枚(舶載鏡は前漢鏡1後漢鏡1だけ=籠神社の伝世鏡と同じ組み合わせ)。
耳璫(じとう)片3個。
長さ5尺(80.6cm)の素環頭大刀1本(卑弥呼が魏からもらった5尺刀か)。
隣接する2号墓と周溝を共有し、周溝の一部からは10名の土壙墓が見つかり、全体では約100名の殉葬があったと推定されている。
周囲に18本の柱穴があり、うち2本は日向峠に向かう鳥居と推定されている。
超大型内行花文鏡が後漢との交流が途絶えた後に独自進化したものであることから、平原遺跡が作られたのは倭国大乱後と考えられ、卑弥呼の治世である。
超大型内行花文鏡は直径が漢代の二尺(直径46.5cm)であり、円周はちょうど八咫(あた)であることから、王権の象徴である八咫の鏡(やたのかがみ)と考えられる。
伊都が文字通り倭国の都であったであったことがわかる。
女性用の耳璫があったので、被葬者は女王である。
つまり、平原遺跡は卑弥呼の墓であると考えられる。
・柳田康雄「九州弥生文化の研究2002」
(糸島地域p178)
「二世紀前半ともいわれている平原遺跡は、その年代に科学的な根拠は全くない。
瑪瑙や琥珀の玉類は別にしても、四二面のうち最も多い方格規矩鏡の中に、方格内の銘や小乳もなく、八像も簡略化され、玄武が釣針状の蛇だけになったものがある。
このように簡略化された方格規矩鏡は三世紀代に下がるものと思われ、鏡からでも三世紀前半まで下げて考えなければならない。
周溝から鉢形の土器が出土しているが公表されていない。」
・柳田康雄「弥生時代王権論」2013
(p317)
「拙稿のように32面の方格規矩四神鏡を含めて38面の製造技術が164年(『延喜七年』銘獣首鏡)以後、235年(「青龍三年」)銘方格規矩四神鏡)以前に見られる鋳造・研磨技術である」 【倭と日本の歴史】
1世紀
倭奴国(後の伊都国)漢と通じ金印を貰う
倭国=朝鮮半島南岸〜対馬〜壱岐〜九州北岸
後漢書「倭奴国は倭の極南界」
海洋民(天津神)による海洋国家が出雲を征服
近畿に饒速日が基盤を築く
2世紀前半
九州銅矛圏vs近畿銅鐸圏
筑紫倭国の王、帥升が後漢に朝貢
北宋通典「倭面土国(ヤマト国)王帥升」
2世紀後半
筑紫倭国の内乱で天孫族が伊都を離れる→倭国大乱
筑後(後の肥国)の卑弥呼即位により内乱が終結したか、肥後は従わず(狗奴国)
魏志倭人伝「邪馬台国(ヤマト国)女王卑弥呼」「伊都国、世有王」
3世紀前半
邪馬台国連合=筑紫、肥国、豊国
畿内では神武らが前方後円墳を作り始めた饒速日王権の元で葛城鴨王のもとに居候
3世紀後半
壹與の元で肥後も含めた九州北部が発展
神武らにより開拓された瀬戸内海ルートが定着
4世紀前半
筑紫倭国の女王神夏磯姫が景行とともに九州北部を制圧し、筑紫倭国の実権を掌握
4世紀後半
神功皇后と武内宿禰が、景行の孫の仲哀一家と羽白熊鷲、田油津姫らを倒して筑紫倭国の王へ 倭国の都は筑紫の伊都だよ。
魏志には帯方郡から12000里で女王国とされ、10000里で九州北岸に到着している(対馬海峡の幅が3000里とされている)。
福岡県を出ることはまずない。
狭い糸島水道と日向峠以外には進入路がない一方、クシフル山からは糸島平野も博多湾も一望できた。
伊都の東側にクシフル山があり、その日向峠に山城を築き、高千穂宮と呼ばれた。
邇邇芸が、ここは日の出も夕日も照って、朝鮮半島にもまっすぐ道が続く良いところだと評した。
防衛にも外交にも非常に有利だった。
奈良時代には怡土城、戦国時代には高祖城と呼ばれた。
伊都国の東にそびえる王宮は太陽信仰や神仙思想といった初期の神道の舞台でもあり、魏志には日本独自の神道が鬼道の呼称で記された。
魏志には、伊都には代々王がいて、女王が治めていると書かれている。
伊都より北には一大卒を置き検察し、南は狗奴国(熊本)、東には海を渡ってやはり倭人の住む倭地(本州)があるとされている。
伊都は王権の象徴である金印や八咫の鏡が継承されてきた倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は死後に伊都の平原遺跡に埋葬され、八咫の鏡を含む三種の神器が副葬され、鳥居が建てられた。 >>258
つまり銅剣文化圏と銅矛文化圏とは
同じ北部九州倭人の中での有力部族2つを見ているにすぎない
勢力圏の比重がより東にあった銅剣部族をある時に銅矛部族が打ち負かしたのが
荒神谷だろう >>255
官有 の官は首長じゃないでしょ。
30国は皆王称する だから王 副王なんてない。
国司だったら律令制成立してるしw
官は魏使が雇って任命した魏の現地職員、まあ案内人だろね。
会計報告してたりナw >>266
皆王を称していたのは少し前のこと。
卑弥呼の時代には卑弥呼と卑弥弓呼だけ。 卑弥呼の治世に相当する2世紀末以降から、九州北部は急速に権力の集中が進んだと言われている。
王を名乗ることができるのは伊都国の王、すなわち卑弥呼しかいなくなる。 >>261
出雲大社掘り返すべきだな
あるとしたら出雲大社の下だろう >>269
出雲大社の周囲は観光業で賑わっているが、古代王都を示す何らかの弥生前中期遺跡が見つかったのか? 弥生中期よりは後だけど、今より大きな神殿の柱がすでに見つかっている。
現在の出雲大社の本殿は、神社の建物としては最大の高さ24メートルあるが、発掘された柱は48メートルの高さの宮のものだったと考えられている。
そして、記紀に記された高さは96メートルであった。
度々自然倒壊したと伝えられているので、少しづつ低くして来たのだろう。 オラが町になにがなんでも邪馬台国を持ってこようとするから
矛盾が生じることになる。
古代出雲に繁栄を示す遺跡は皆無。
肥国なるものも存在しない。
肥国と思っているものとは、
先々代の広域支配王つまり大国主の痕跡であり、
大国主の本来の本拠地であった筑紫が天孫族によって占拠上書きされたため、
大国主にとっては周辺地域であった肥前や出雲などにその痕跡が残っているのを
間違って解釈しているだけ。 つまり大国主も筑紫の王か。
最初からずっと倭国の都は筑紫と。 考えてみれば当たり前だ。
威信材だけならともかく
鉄材や青銅など重要物資が全て壱岐対馬を通して運ばれてくるのだから
筑紫を制する者が全てを制する。
それ以外の地域は逆立ちしたって勝てないし
事実考古学的にも筑紫以外にまともな王はいない。
文献を参考にするならば大国主とは広矛であるから
中広型銅矛こそが大国主の活動痕跡。 >>275
倭国(阿波)では、大陸から鍛冶素材を入手して鉄鍛冶を実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。
魏使が九州で留まっていようがいまいが、「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは紛れもない事実である。
延々と無意味な論争は時間の無駄。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>273
>肥国なるものも存在しない。
地域としては存在する。
しかしそこを支配するのも倭王。 3世紀までに栄えていたのは筑前と筑後までであって
肥後はギリ3世紀のうちに耕作面積が急成長
肥前は4世紀から
そう考えると大国主の時代と考えられる紀元前1,2世紀〜紀元前後には
肥前はほぼ存在しないし肥後も倭国に編入されたばかり
よって肥国という概念そのものが4世紀以降に成立したわけであり、
倭国の中では古豪ではなく
むしろ新規開拓地域であるわけだ 耕地と言う面では
最初は扇状地や丘陵地での陸稲や雑穀。
低湿地の感慨ができるようになって
水稲へと移る。
比較的標高がある熊本平野が先に発達して
筑後川流域の低湿地である
筑紫平野へ進出するが筑紫と激突。
4世紀まで続く長い戦いが始まる。 無いな
熊本平野の開発は鉄器を伴っていることから
筑紫王が開発に関与していることは明白
集落遺跡からの人口推定
銅矛など各種出土品の量
から考えても、筑後川流域のほうが熊本平野より先に開発されている
筑前の王の権力の元に
筑後そして肥後へと開発が進められていったことは明白 >>278
>肥後はギリ3世紀のうちに耕作面積が急成長
卑弥呼の時代に卑弥弓呼が独立を目指して開拓したんだろう。
誰も肥国が古くまで遡るとは言っていない。
分家としての肥国が3世紀に成立して筑紫と微妙な力関係になった。 方形周溝墓も円形周溝墓も円墳も前方後方墳も前方後円墳もあるのは倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>281
なっとらん
卑弥弓呼は卑弥呼と敵対していたのだから鉄器なし
それに熊本平野が鉄器で開拓されたのは卑弥弓呼より前だ 細かいなあ。
独立の拠点にはなるでしょ。
否定する根拠ではないよ。 《南海經》にある、
「曰:南倭、北倭屬倭國,在帶方東大海中,以女為王。其俗零結衣服,無針功,以丹朱?身,不?忌,一男子數十婦。」
南倭、北倭ってどこですかね 原文は
蓋國在鉅燕南倭北倭屬燕
南倭、北倭ではなく
蓋國は鉅燕の南、倭の北に在り、倭は燕に属している
と読むらしいぞ 蓋國=韓国だろうね
当時は半島南岸に倭地があったから
燕と倭の間にあったのは韓国 いや昔から「三韓」っていってたように朝鮮半島の国々のことを韓と言ってたでしょ そのへんは邪馬台国以前、倭国は100以上に分かれてたのにまとめて「倭国」と呼ばれてたのと同じ それ言い出したらこのスレ全部勝手に言ってるだけだろ キナイコシがごっそり敗走したからお前一人だけのアホ踊りで目立つんだよ 方格規矩鏡も内行花文鏡も洛陽晋墓から出土している。
方格規矩鏡は青龍三年銘鏡(235)が存在していることからも
まさに洛陽の地で卑弥呼時代に作られていたわけだ。 同じ平原遺跡から
世界最大まで「進化した」大型内行花文鏡と、
後漢鏡よりも「退化した」方格規矩鏡が
同時出土。
どっちも国産にすると、技術が上がったのか下がったのか意味不明だろw
大型内行花文鏡は北部九州伊都で発達して、
それが日本国内で東方にも拡散した。←畿内説ガチギレやばー
方格規矩鏡は董卓が焼き払った洛陽に魏が都を戻して
生産再開されて間もない頃のまさに魏鏡。 平原から出た尚方作の方格規矩鏡は朝鮮銅製なんだよね
当時の魏では国内で銅が産出されないので朝鮮銅を使ってたんじゃないかと思うんだけど
本当の中国出土の魏製銅鏡の成分分析やってくんないかなあ >>300
魏が楽浪どころか帯方郡まで進出したのは朝鮮銅も目的の一つだったのかもね 九州倭国が台頭したのは中国の漢王朝の崩壊によるものだろう
韓人が東アジアで活躍していたのだ
韓人が最先端文明を日本の倭奴に与えたのだ
倭奴国という金印が博多市から出土している
これは韓人支配層が倭奴国を治めていた物理的証拠である >>301
領土拡張というよりは、帯方と楽浪を分割しただけだろ。 >>299
違わないよ
馬韓、辰韓、弁韓って紀元前だぞ >>289
蓋国は蓋馬高原にあった「穢」の前身という説が有力じゃないかな
場所は平城あたりか
韓国ならちゃんと「韓」と書くだろ 倭国までの行程について、
なぜ翰苑は魏志じゃなくて魏略を採用したのか
魏志の行程は後の史家にも信用されていなかったんだろうな 殆ど100%リサイクルされる青銅鏡を成分分析したところで
何が解るっていうのだろうか >>279
最初の稲作は陸稲中粒種を丘陵でBC2000頃 東北地方
最初の水稲短粒種は扇状地でBC1000頃 菜畑遺跡等
大規模栽培水稲短粒種は低地三日月型水田で弥生中期頃
大量栽培水稲短粒種低湿地栽培はAD300頃 灌漑土木工事可能になってから >>310
で、BC2000頃の東北地方の最初の稲作を証明する証拠遺跡と、
その中粒種のイネの現物証拠は?
. >>309
リサイクルされたのか、新品かなんて
解らないんだから、現になんて言えるわけない 青銅鏡は、他の青銅器に比べてスズが多いから
同じ青銅鏡にリサイクルされる
どうやって、成分比較するんだ 女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國 黒齒國 復在其東南 船行一年可至
この文は何処で切るべきかな?
女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺
去女王四千餘里 又有裸國 黒齒國 復在其東南 船行一年可至
かな? 女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種
又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國 黒齒國 復在其東南 船行一年可至 >>318
「また」と「あり」が多すぎて何が書いてあるか意味が分からない文章だな。 >>306
翰苑を読む限り、やはり倭国の都は筑紫国の
伊都国付近にあったみたいだね。
九州王の伊都国説がやはり正しい。
>邪届伊都傍連斯馬
「倭国の都は、ななめに伊都(いと)国に直接届き、
その向こうに斯馬(しま)国が連なる」 倭国の都は、筑紫の日向と呼ばれた高祖宮(高千穂宮)。
伊奘諾が禊をし、邇邇芸が即位し、卑弥呼が埋葬された高祖山の麓。
八咫の鏡を抱く女王の墓は平原遺跡。 九州は「卑弥呼の時代」丹が採れていなかったから、最初っから邪馬台国と関係なし。 @阿波 北部九州は最も豊富に丹があるところですよ。
出土量は他の地方の何倍も多いですね。 >>322-324
九州の「丹」は、鉄丹(ベンガラ・リモナイト)です。
中北部九州の広い範囲で産出します。 >>323,325,326
阿波が泡吹いて倒れたぞ 徳島県阿南市水井町若杉山遺跡・丹波坑口・長生町奥ノ谷遺跡
出土遺物
@石器(石臼・石杵)
A土器
甕・広口壺・二重口縁壺、小型丸底鉢、鉢、高杯、器台=生活用具のほとんどがそろっている
小型丸底坩(弥生X様式後半〜布留式まで)庄内式並行期がほとんど
土器胎土(結晶片岩・石英・雲母)
B玉類
蛇紋岩製勾玉
C鉄製品
刀子・不明鉄製品(やりかんな?)
D自然遺物
貝片・獣魚骨・人骨片
想定される生産形態
・土器以外の生活用具が少ないが、生活用具のほとんどが揃っている
・籾痕の付いた土器や鹿・猪・貝類=一定期間生活
・岩盤直上に営まれる→近くの集落の人間が農閑期に行う特産的生産レベルのものではなく、
分業化された専門工人集団の生産
・ハマグリ・オキアサリの成長線分析→採取時期は夏期後半から秋期後半
若杉山遺跡の採掘作業は、夏季後半から秋季後半に行われていた可能性
(徳島県立博物館1997・岡山1998)
朱の近畿や吉備への移出
集落の水銀朱精製遺跡、水銀朱を多用する墳墓、古墳の時期および集落の同一遺構における石臼、石杵、朱容器のセットでの出土確認により、
若杉山遺跡(阿南市)で辰砂採掘→鮎喰川下流域(徳島市)で叩き潰し・すり潰し→黒谷川郡頭遺跡(板野町)で叩き潰し・すり潰し→近畿や吉備 精製跡なら吉野ヶ里にだってあるからな。
北部九州は豊富に丹が使用されているので
そのための精製痕跡も各地にある。
佐賀、熊本、大分には水銀鉱山があり
丹生神社もあって、河原で流れてきた水銀鉱石を採取する話が伝えられている。
三重や阿波にも水銀鉱山があるが
なぜか弥生期の畿内で使用された例は
二箇所のみ。
うち一箇所は棺に詰めるという
塗料としての使い方がわからなかった
ような状況である。
むしろ三重や阿波の水銀は九州に運ばれて
豊富に使われていたと考えて良い。。
それ以前から朝鮮半島まで鉄を摂りに
行っていたのだから、
三重や阿波なら容易いことだろう。 >>329
>北部九州は豊富に丹が使用されているので
九州産の丹が全然無いのが如何ともし難い。
>そのための精製痕跡も各地にある。
精製はどこでも出来る。 丹が採れなくとも。
>佐賀、熊本、大分には水銀鉱山があり
卑弥呼の時代に辰砂採掘していなければ意味なし
>丹生神社もあって、河原で流れてきた水銀鉱石を採取する話が伝えられている。
卑弥呼の時代に辰砂採掘していなければ意味なし
>なぜか弥生期の畿内で使用された例は二箇所のみ。
阿波では至る所で使用されている。
>むしろ三重や阿波の水銀は九州に運ばれて豊富に使われていたと考えて良い。。
九州で阿波産の水銀朱が使われた痕跡は確認されていない。 @阿波
それ以前から朝鮮半島まで鉄を摂りに
行っていたのだから、
三重や阿波なら容易いことだろう。 >>329
>北部九州は豊富に丹が使用されているので
九州産の丹が全然無いのが如何ともし難い。
>そのための精製痕跡も各地にある。
精製はどこでも出来る。 丹が採れなくとも。
>佐賀、熊本、大分には水銀鉱山があり
卑弥呼の時代に辰砂採掘していなければ意味なし
>丹生神社もあって、河原で流れてきた水銀鉱石を採取する話が伝えられている。
卑弥呼の時代に辰砂採掘していなければ意味なし
>なぜか弥生期の畿内で使用された例は二箇所のみ。
阿波では至る所で使用されている。
>むしろ三重や阿波の水銀は九州に運ばれて豊富に使われていたと考えて良い。。
九州で阿波産の水銀朱が使われた痕跡は確認されていない。 @阿波 以上により、弥生期にもっとも
「丹が有る」のは北部九州なのである。 >>332
九州産の丹が全然無いのが如何ともし難い。 @阿波 諦めろ泡じいさん。
倭人伝の「山に丹有り」は九州説の弱点ではない。
無駄なことに老い先短い人生を費やすな。 >>334
九州は「卑弥呼の時代」丹が採れていなかったから、最初っから邪馬台国と関係なし。 @阿波 >>335
倭人伝には丹があるとしか書かれていない。 >>336
九州には、その丹がないというw @阿波 >>336
九州は「卑弥呼の時代」丹が採れていなかったから、最初っから邪馬台国と関係なし。 @阿波 >>339
そんなチャチャ入れる前に小マシな反論しなくちゃw @阿波 どこか九州の遺跡で国内産水銀朱使ってるとこないの?
どこかあればまた、九州説の展開も考えられるだろうに・・・ @阿波 丹が尊ばれたのは中国から伝来した錬金術の影響
ちなみに丹薬を飲むと疲労が消えて身体が軽くなる
疲労の激しかった古代の中国の皇帝たちは丹薬を飲んでいた
鉱物性の麻薬なので連用で発狂する人が多かった 水銀を使った丹薬の代表が五石散
極めて強烈な効能で後漢末から唐代末まで中国の上流階級で流行した
朱全忠の貴族皆殺しで廃れた
西洋では水銀の代わりに阿片が用いられた
テリアカが万能薬として有名だな
こらも阿片の使用が禁止されてテリアカの効き目が無くなり19世紀末に廃れた 水銀は表向きは不老長寿の錬金術の為の材料とされていたが、本音は丹薬の精製が目的
ヒ素とあわせて鉱物性の薬に用いられた
恐らく古墳時代の上流階級も飲んでいたのだろう
藤原不比等の遺体からヒ素反応が出ている話は有名だ >>341
泡じいさん無駄だ、連投しても真実は覆らない。倭人伝には丹を産出していたとは書かれていない。丹山があることがわかっていただけ。丹は中国産を使っていた。 >>345
もう、そんな駄々をこねて通用する時代じゃないでしょ? 大麻を日本の伝統のようにいう人間がいるようだが
古代貴族はそんな低級で粗悪なものではなく
もっと上級の洗練された丹薬を服用していた
大麻を吸う伝統なと日本には無かった >>347
天皇陛下即位式である大嘗祭に、麁服を調進する大役を太古から担う御衣御殿人(みぞみあらかんど)の家柄である三木家は、
木屋平村の三木山山頂に居を構える。
貢、あるいは三ッ木とも呼ばれる地名は、深く調進に関わる為でもあろう。南北朝時代にあっては、山岳武士の頭目として南朝に関わった。
さて、この三木山こそは、太古の高天原であると同時に、天皇家の故郷でもある。このお山から御霊を大嘗宮へ運ぶ為には何か媒体が必要である。
つまり、依り代に付いて初めて示現されるのが神霊であるなら、「麻」こそ媒体であると云える。古来より伊勢神宮の神札は神宮大麻と呼ばれ、御師が領布した御祓大麻を指すからだ。
後世、大麻(おおぬさ)は紙に変わってしまい、現代人は麻の持つ意味を忘れようとしている。 @阿波 >>346
駄々をこねてるのは泡じいさん。
九州には丹がある。 >>349
時間をかけて反論を考えた結果がそれ? @阿波 平原遺跡などは、丹が棺の中に敷き詰められており、それが流出して発見された。
九州の墳墓は丹が大量に用いられていることが多い。
一方、畿内では丹はないか、あってもわずかに副葬品として使われている程度に過ぎない。 >>351
>平原遺跡などは、丹が棺の中に敷き詰められており、それが流出して発見された。
その丹が九州産でないのは、如何ともしがたい。 @阿波 >>351
>一方、畿内では丹はないか、あってもわずかに副葬品として使われている程度に過ぎない。
倭国(阿波)を避けて畿内へ逃げてはいけない。 @阿波 方格規矩鏡も内行花文鏡も洛陽晋墓から出土している。
方格規矩鏡は青龍三年銘鏡(235)が存在していることからも
まさに洛陽の地で卑弥呼時代に作られていたわけだ。 同じ平原遺跡から
世界最大まで「進化した」大型内行花文鏡と、
後漢鏡よりも「退化した」方格規矩鏡が
同時出土。
どっちも国産にすると、技術が上がったのか下がったのか意味不明だろw
大型内行花文鏡は北部九州伊都で発達して、
それが日本国内で東方にも拡散した。←畿内説ガチギレやばー
方格規矩鏡は董卓が焼き払った洛陽に魏が都を戻して
生産再開されて間もない頃のまさに魏鏡。 >>355
丹を避けて鏡へ逃げてはいけない。 @阿波 時代が違うけど
神功皇后なんぞそれこそ北部九州だろ。
卑弥呼伊都→壹與支惟→神功皇后不彌(宮地嶽) 北部九州説の唱える伊都高祖宮は日の出の方角を向いているのだろ?
そして
宮地嶽神社も同じく日の出の方角を向いている。
ふむ。よかろう。
高良大社も日の出の方角を向いているぞ。
では、香椎宮はどうなのだ? 倭国乱=邪馬台国女王と狗奴国王の倭国王争奪戦なのだから
筑前高祖宮は邪馬台国女王の宮
筑後高良宮は狗奴国王の宮 仲哀天皇の眠る香椎廟か。
内部の御神体と拝殿の方向が違うとか聞いたな。 姑壹與と夫仲哀を香椎廟に沈めて
オラオラの神功皇后は宮地嶽w >>350
>>345への反論が
>もう、そんな駄々をこねて通用する時代じゃないでしょ?
の泡じいさんに言われたくない。
どうして>>346には@阿波つけないんだ? 高祖宮も高良宮も香椎宮も宮地嶽(宮の名前がわからないのだが?)も、東側に神奈備である山を控えて、王は太陽を背に君臨できる。
すべて、畿内説の孝霊厨が言うところの神仙思想、平原遺跡の内行花文鏡に従うならば太陽信仰が影響した日御子の宮だね。 【卑弥呼の王宮の候補】
・高祖宮
魏志に伊都国と記された糸島市にある。
糸島平野と福岡平野の間にあるクシフル山があり、福岡に通じる峠を日向峠と呼ぶことから、高祖宮は記紀にある筑紫の日向の高千穂宮に比定できる。
高千穂宮は天孫ニニギが八咫の鏡を伴って筑紫の王として即位した宮であり、神武天皇が東征に出発した宮でもある。
後にこの地に建設される怡土城、高祖城はクシフル山の山頂を含む中国式山城であり、高千穂宮の名にふさわしい。
糸島平野にある三雲南小路遺跡はニニギと木花咲耶姫の墓と伝えられる。
高祖宮の目の前の平原遺跡からは、ニニギ王家の家宝である神宝八咫の鏡が出土している。
伊都高祖宮こそ倭国の王都であり、平原遺跡は倭国女王卑弥呼が被葬者の最有力候補である。
・橿日宮
現在の香椎神宮。
卑弥呼の後継者となる筑紫の女王の一人として、景行天皇の時代に筑紫の梟帥の称号と八咫の鏡を持つ神夏磯姫(神橿日姫)がいて、その名からはおそらく橿日宮に住んでいたと思われる。
景行天皇の孫の仲哀天皇も橿日宮を拠点としており、代々の筑紫の王宮として用いられていたと考えられる。
魏志では不弥国に比定されることが多く、ここまでは距離が明記されているので郡使が往復したことは確実である。何のために往復したのかと言えば、卑弥呼に会いに行った可能性がある。
・高良宮
筑後一宮。高良大社や高良玉垂宮などからなる複合施設だが、後世の仏教との習合や神仏分離などの影響による。
近隣には卑弥呼もしくはそれに近い人物の墓と言われる祇園山古墳がある。
卑弥呼が筑後出身ならば、高良宮が元宮だったかもしれない。
郡使が滞在した伊都国までやや遠いのと、魏志倭人伝に該当する記事もないのが不利。
すると祇園山は壹與の墓か?
いずれの宮も聖地である山の西の麓にあり、王は太陽を背にして君臨したと考えられる。
これは倭国が太陽信仰をもとにした祭政一致体制であったためである。
その象徴となるのが王位の証である八咫の鏡などの内行花文鏡である。
平原遺跡に見られる鳥居や御柱などは、3世紀において神道が成立していたことを示す。
卑弥呼が用いたと記録された鬼道も、三種の神器や榊を用いた神道の儀式であったはずである。 >>365
よくできてる。
が。
宮地嶽を精査したら100%になる。
他の要所はなにかと西面していない。
宮地嶽は意味があるはず。 >>366
ありがとう。
あそこは誰のどんな宮だったんだろう?
教えてはくれまいか? 目が覚めたついでに自分で調べてみた。
最大級の石室を持つ円墳で、副葬品は馬具が特徴だね。
馬具が出ている以上、おそらく4世紀以降のものであり、卑弥呼の墓ではない。
しかも被葬者は男性と思われる。
記紀では神功皇后に関する逸話が残されているが、神功皇后関係の記事は眉唾なものも多いので保留。
そもそも神功皇后の実年代も4世紀だしね。 >>345
>倭人伝には丹を産出していたとは書かれていない。丹山があることがわかっていただけ。
丹を産出していないのに、なんで丹山があるとわかったの??? @阿波 >>371
言い張るだけで通用する時代じゃないでしょ。 根拠を出さなきゃ。 @阿波 >>371
どこか九州の遺跡で九州産水銀朱使ってるとこないの?
どこかあればまた、九州説の展開も考えられるだろうに・・・ @阿波 >>370
丹砂の比重は約8で岩石の2.5倍重い、
錫石と同様に河川に流された丹砂は集中して堆積する。
古代においては丹砂の鉱脈を山中で探すより、
河川で丹砂を採取する方が簡単だった。 >>374
その河川で採取した丹砂を使った遺跡はどこにあるの? @阿波 >>375
>逆に阿波の丹はどこで使われていたの?
鶴島山古墳群(徳島市)、犬山天神山古墳群(同)、カンゾウ山古墳群(板野町) @阿波 >>376
波佐見や嬉野あたりの鉱山の数値との比較が必要だろうね。鹿児島や大分とは違い、唐津や糸島に近い波佐見鉱山はプラス値みたいだからね。 >>379
>波佐見や嬉野あたりの鉱山の数値との比較が必要だろうね。
結論から言うと、波佐見や嬉野あたりの波佐見鉱山産の丹はどこにも使っていないってことでしょ? @阿波 魏志倭人伝には倭で丹が産出するなんて一言も書いてないんだがな。 卑弥呼は真朱(水銀朱)50斤を魏から貰ってるってのが定説。 倭で水銀朱が取れるなら魏から水銀朱が贈られはずがない。 >>384
>倭で水銀朱が取れるなら魏から水銀朱が贈られはずがない。
倭国(阿波)では水銀朱が採れるのにも関わらず、魏から水銀朱が贈られているんですがw @阿波
>>385
阿波で水銀朱が取れてたなら阿波は邪馬台国とは無関係だな。 >>373
倭人伝には
其山有丹
「その山には丹有り。」
とあるが、同じく
有薑橘椒襄荷 不知以為滋味
「薑、橘、椒、襄荷有り。以って滋味と為すを知らず。」
ともある。
有〜の用法はその物があるかどうかだけを記していることがわかる。 >>388
逆だな
「以って滋味と為すを知らず」
と特記したということは
とくに注記がなければ、その資源を普通に倭人が利用してるということだ >>386と >>388 は、九州説の生死に関わってるから必死の足掻き >>391
せっかく資源があるのに利用していないから >>389
>>388と同じ其〜有〜の文法。
其木有枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香
「その木には枏、杼、橡、樟、楺櫪、投橿、烏號、楓香有り。」
どう考えても有無を記録しているだけ。 >>394
じゃ、なんで
「以って滋味と為すを知らず」
と特記したの? >>389
>とくに注記がなければ、その資源を普通に倭人が利用してるということだ
利用とは何?
ここは、「しょうが、たちばな、さんしょ、みょうがなどが生えているが、それらが美味であることを知らない。」
というのが通説だよね
有るけど食してない、という意味だね 九州邪馬台国には丹もあるけど、倭人は掘っていなくて、中国から輸入していただけだったんだね。 採掘技術や精製技術がなかったんだろ。
食材はあっても調理技術がないのと同じ。 >>404
北部九州の大量の水銀朱使用を鑑みれば全てが中国産と考えるのはどうか?と思う。
当然国産も考え検討すべきだよなぁ >>407
思うだけ?
やらないの?
なら、根拠ナシだな >>407
国産は畿内系の入植地からしか見つかってない 少なくとも>>404は
空想だけで言っていいセリフじゃない そういえば楠の自然林の北限は
福岡市東区でそれより北は、
人工的に植えたものだそうな。
神社にありがちな楠だが
九州から広がって来たんだね。 >>409
>国産は畿内系の入植地からしか見つかってない
具体的に語れ 倭人伝に書いてあるのは
倭国に丹山が有る、ということだけ
倭国で丹を取っているとは一言も書いてない
考古学的には
鉄器も威信物も中国丹もなにもかもが
北部九州を中心とする地域に集中
その他の地域には無しかもしくはほんのわずかだけ 平原遺跡が卑弥呼の墓と書かれて
冷や汗流して必死のスレ流しwww 平原遺跡が卑弥呼の墓と書かれて
冷や汗流して必死のスレ流しwww そもそも、卑弥呼のような大王墓は平原遺跡のような平地なんぞに築かない。 神は神聖な山稜に宿るもの。
ましてや、方墳など何をか言わんや 無礼極まる話です。 @阿波 >>426
平原は平地じゃないよ。
2つの川に挟まれた丘陵地帯で
弥生期の竪穴式住居に多い微高地だ。 微高地に神は宿らない。 ましてや、方墳など何をか言わんや 無礼極まる話です。 @阿波 丹を精製せずに丹山かどうかどうやってわかるんだよば〜か
精製してたから丹山があるって言ったんだろば〜か 倭人伝に邪馬台国に丹山有り ってあれば
九州に丹山が有ったんだろ。 大分とか今でもあるし。
生成する技術が無いなら、九州は鉄や青銅みたいにもらってくるだだろうが
阿波や奈良でできる事は対馬航路確定してる九州の方が先に伝播するんじゃね?
無い、と子供みたいに言い張っても意味が無い。 >>432
>九州に丹山が有ったんだろ。 大分とか今でもあるし。
九州で丹が採れたかどうかが問題。 @阿波 3世紀の日本の何処に丹があると分かっていたかなんて知る術も無い
倭人伝に丹山有ってのが本当なら九州に丹があったってことだよな
阿波の丹にしても何時発見されたかも分からんしな。 卑弥呼の墓は魏から貰った中国丹が大量に出土した平原1号だしどうでもいい 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方可四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方可三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余 卑弥呼の墓は魏から貰った方格規矩鏡百枚のうち32枚が大量に出土した平原1号だしどうでもいい 里程
帯方郡から邪馬台国まで一万二千里
日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1日
帯方郡から投馬国まで水行20日 >>445
里程
帯方郡から女王国まで一万二千里
帯方郡から伊都国・奴国まで一万二千里
∴女王国=伊都国・奴国
日程
帯方郡から投馬国まで水行20日
投馬国から邪馬台国まで水行10日、陸行1日
女王之所都・・・投馬国ではなく邪馬台国の中に女王の都がある
邪馬台国の中に伊都国がある。 里程
帯方郡から女王国まで一万二千里
帯方郡から不彌国・奴国まで一万二千里
∴女王国=不彌国・奴国
不彌国は吉野ヶ里遺跡 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方可四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方可三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余 >>454
里程はあっている。
ただし不弥国は香椎宮。 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方可四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方可三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧 唐津中原遺跡 ※11400余
伊都(五百)佐賀平野惣座遺跡 ※11900余 末盧の東南500
不彌(百)吉野ヶ里遺跡 ※12000余 >>458
だから行程論と考古学論をまとめて
佐賀説でテンプレ作ってスレ立ててみろってば 魏志倭人伝の内容、方角、距離、時間、戸数を全て矛盾無く説明できる説はここの説しかありませんね。 >>442
大きな鏡、青いガラス勾玉、首飾りの多くの管、
多数の鏡など、女性向けの副葬品だな。 伊都国についてだが、糸島半島のあたりにあるのではないかという
推測はあるが、
糸島という地名は、これは、合併に伴って近代に作られた地名だからな。
もとは、怡土郡(いとぐん)と志摩郡で、これを合成して糸島という地名を作った。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/f/fd/Fukuoka_Ito-gun.png 怡土志摩(いとしま)では書くのが大変だから、糸島という
漢字に充て代えただけ。 >>468 金印の奴国についても
「倭奴」で九州の奴国じゃないからな。
本来はな
あれは中国の慣習で
「匈奴」のように「奴」をつけるんだよ。
まぎらわしいが、文字をかけたのかもしれない。 >>461 なんといっても、魏志倭人伝で詳細を述べているのは
役人が常駐していた伊都国だからな。倭人について詳細を
述べているのは、まさに伊都国の風景。
卑弥呼はここにいたが、何しろ多数の国をたばねる女王だ。
人口の多い国へ引き抜かれて遠くの国に長期駐在していただろうよ。
南だか東だけとにかく10日以上かかる地域だ。どうせ占いだから
居なくても日常の業務には差し支えない。 >>471 高麗奴がある。
他サイトのパクリだけどな。
印字
新 匈奴 単于章
漢 委奴 國王
印字の内容に不満を持った匈奴は
中国領内に攻め入って滅ぼそうとまで事は拡大してしまい、
匈奴は倭よりもはるかに脅威だったわな。
https://blogs.yahoo.co.jp/jiitanio/10639336.html >>473
高麗奴w
国名と関係ない、単なるヘイトスピーチじゃん >>474 そのとおりだな。
蔑視表現は当時の中国文化そのもの。
ソースはここから。
http://www.lun.ac/history/wa/wado.php
匈奴だが、その後、卑字から善字に変更されることになった。
手に負えない強敵だったためもある。
「匈奴」を「恭奴」、「単于」を「善于」に改名。
奴という表現を再び用いるところをみると、
本来は悪い意味ではないようだ。
委奴については、倭は匈奴と違って、律儀に貢ぎ物をもってくる
従順な国だから、これまたその後、表現を変えるようになった。
委奴(わの人)を、にんべんつけて、倭とする。倭人という表現も
あるから、重複していて、ちょっと説得力が弱いけどな。
ソースは
https://books.google.co.jp/books?id=dopwDgAAQBAJ
43ページ。プレピューで見れる。 中国で付ける当て字は通常は韻書によるもの
「奴」も韻書の筆頭字 倭はそうかもしれないが、匈奴と倭奴がセットなら、音韻ではないな。 音韻ルール通りではあるわけで
違うというなら根拠が必要だな >>479 よくわかんね。
日本人にはわかりづらいよな 海外と比べるのもいいが倭の国々にも「〇奴國」の名称は数多くあるのだから
単に当時の倭の一般的國名だったのかもな。〇奴國 イタリ「ア」とかクロアチ「ア」、アルバニ「ア」、セルビ「ア」
などと同じようなものか?。末尾の「ア」は、○○○の土地 という意味。
戦国時代でいえば、○○衆、○○衆などの「衆」という意味か。
もしくは、、信長公」、義元公、とか、先公、ワン公 のように蔑視に変化したとか。 >>482
遠くに在って国名だけしか分からない国として
斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、●彌奴国、 好古都国、不呼国、
●姐奴国、對蘇国、●蘇奴国、 呼邑国、●華奴蘇奴国、鬼国、
爲吾国、●鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、●烏奴国、
●奴国←2度目の登場
奴国を除けば、奴を含む国は6つもある。これは多い!。 硯から文字を扱っていたことが明らかなわけだからな
「奴」をこれだけ使ってるなら当時の名詞における一般的な語句だったのだろう 確かに中国王朝が九州の國の一つ一つをわざわざ命名していたとは思えないな 奴=「の」または「つ」にあてはると考えられる国名を探してみたよ。
紀伊国(紀ノ国) 陸奥(みちのく=道の奥) 上毛・下毛(元は、毛の国)
近江・遠江(近くの琵琶湖、遠くの浜名湖)
他にもあると思うが、●の○(例 風の谷)という国名の表現は、昔からよくあることだろう。
元は、●の○として、●○であっても、奥州、上州、江州など、実質1文字に切り詰めることも
あるから、倭奴国も、倭国か? 伊都が、実質的に倭の国の窓口であり、諸国を統率して国全体の代表でもあるとして
>>1スレの意見に賛同である。魏使がきたとき卑弥呼は居なかったんじゃないかな。
近くにいれば魏の役人が詳しく答えられたはず。弟がいて部屋にいるとか、まだ少しは
様子について詳しいが。 倭奴はウェノムと言って野蛮な日本人を指す隠語です。 夫がいなくて年増で引きこもり。
十分な情報だよ。
卑弥呼は伊都かその近くにいた。
少なくともすぐに面会できる程度には。
畿内と九州では、会うこともままならない。 >>494
>近江・遠江(近くの琵琶湖、遠くの浜名湖)
? >>494
もともと一文字だった地名を、奈良時代だったかな、二文字の地名が好ましいと言って変えたんだよ。
漢字一文字で国を表すのは古い中国式の表記。
漢とか魏とか倭とか。 >>499
おうみ と とうとうみ
近くの海 遠くの海
(この場合の海は、湖を指す) >>500 ふむふむ。親魏倭王
とすれば、倭の一文字だな。
親魏倭邪馬台国王ではながすぐる。
(親しい魏の倭の邪馬台国の王) 「陛下が皇位継承の証として、三種の神器のうち剣や璽(勾玉)を新天皇に引き継ぐ」
鏡は「引き継ぎ」に不必要なんだね。 @阿波 >>504 紀ノ国や毛の国なら、
紀奴や毛奴と書くこともできるが
道の奥の国だの近くの湖の国だの遠くの湖の国
では修飾の「ノ」が多すぎるし、道奴だの近奴や遠奴では
意味もわかりにくい。
一文字で書き易い国には奴を付け易いのだろう。
とすると
●彌奴国●姐奴国●蘇奴国●華奴蘇奴国●鬼奴国●烏奴国
ということになる。
というか一文字などの発音が短過ぎる国には、「ノ」をつけるんじゃないかな。
紀ノ国とか。倭では一文字だけなのでワド?か。 なるほど。
一文字の国には奴が入るというルールかもしれないと。 発音のし易さのためにノをつけるというのは納得だが
鬼国や奴国があるからルールというほどでもなさそう。
あくまで現地倭国での呼称に漢字を当てただけなのだろうね。 >>507
漢委奴国王印についてだが、
類似品1として、「滇王之印」。異民族の王に与えられた金印。
漢滇王とは書かれてないな。中国皇帝と同等の立場の相手に送った模様。
類似品2として、「廣陵王璽」。これは漢委奴国王印と同じ彫り師が作った
らしい金印。後漢の光武帝の子である廣陵王の印。皇帝の一族なので同等扱い。
類似品3として、「匈奴単于璽」および「新匈奴単于章」。
「漢」王朝が倒れて「新」という国号の王朝が成立にともない、匈奴に渡して
いた金印を交換したときのもの。これは日本の金印「漢委奴国王印」と
「新匈奴単于章」の文字配列が酷似している。
匈奴が大事に持っていた印は、以前は「匈奴単于璽」=匈奴の単于の璽 という
印字だったのに、「新匈奴単于章」=新の匈奴の単于の章(印) という
文字配列に変えられた。
匈奴は人口も少ない異民族だったが、中国皇帝と「同格の」扱いを受けていて
それを、「新の匈奴の単于」として「新」王朝の格下にしたので、匈奴の単于は
激怒。中国本土に侵攻して荒らしまくる事態になったので、皇帝は「匈奴」を
「降奴」とさらに悪字に改変。騎馬民族の侵入がどうしても防げなくなり
解決しなかったので和平策に変えて、「恭奴」と善字に変えるありさま。
上記の例などから、
倭は「倭奴」ぐらいが妥当な表現だろう。「奴」には悪字の意味はないらしい。
なお、委奴を伊都(いと)と呼ぶのは無理があるかも。 卑弥呼への金印は、「親魏倭王」。
「漢委奴国王印」に比べれば格が上がっていて、大サービスだな。
伊都国で受け取ったのだとは思うが。 >「奴」には悪字の意味はないらしい。
なるほど納得。
>委奴を伊都(いと)と呼ぶのは無理があるかも。
なるほどそう思う。
弥生も現代も福岡県の経済中心は奴国福岡市。
伊都が首都なのは倭国の歴史の中でも限定期間だったのでは。 >>510 ヤマト政権ができるまでの間は、
福岡付近の北九州は日本歴史上で、燦然と
輝く栄光の時代だな。 委奴は倭奴とも言います。
日本人を白丁として呼ぶ時に用いる言葉です。
これはウェノムと発音します。 >>511
東夷世界で唯一の金印を2回も入手していますからね。
海を利用した攻防一体ですし、
地理的にも絶海のどん詰まりで圧倒的に有利だったのですね。
アメリカに動力船で東方から攻められるまでは無敗だったわけです。 >>514
>アメリカに動力船で東方から攻められるまでは無敗だったわけです。
7世紀に、対唐敗戦があり博多は一時占領されています。 八幡愚童訓にあるけど、実は倭国には朝鮮からかなり襲来されていた。
開化天皇48年 33000人
仲哀天皇 203000人
神功天皇 308500人
応神天皇 250000人
欽明天皇 300400人
敏達天皇 明石浦までやってきた
推古天皇 8年 430000人 八幡愚童訓にあるけど、実は倭国には朝鮮からかなり襲来されていたが、
全て追い払っていた。
3世紀までは
壱岐対馬の航海術を身につけた倭人が一方的に攻めていたけど
4世紀からは
ようやく朝鮮も海を渡って挑戦してきたんだね。
けれども全て追い払った八幡神=応神天皇。
あるいは神功皇后の三韓征伐を称えたのが
八幡愚童訓。 >>510
商都が博多奴国、王都が伊都国。
ニューヨークとワシントンの関係だろ。 >>521
邪馬台国の時代はね。
けどそれ以外の時代だと博多奴国のほうが遥かに発展しているんじゃない? >>521
「陛下が皇位継承の証として、三種の神器のうち剣や璽(勾玉)を新天皇に引き継ぐ」
鏡(内行花文鏡?)は「引き継ぎ」に不必要なんだね。 @阿波 >>525
追い払わなかったら北部九州に小国家ができてるっしょ
追い払って逆に、倭の五王は何に任ぜられた? >>521
いい着眼点ですね。
日本史上では鎌倉幕府での鎌倉=王都、京都=商都や、
江戸幕府初期も江戸=王都、京都大阪=商都、などの例がありますね。 >>526
いやいや
倭国内で起きた王朝の断絶にいろいろ絡んでくると思うな 八幡愚童訓の成立はいつよ?
朝鮮から度々数万単位で襲来していた記録が八幡愚童訓の成立まで残ってたなら
他の史料にも記録があるだろうけど、どこよ? >八幡愚童訓にあるけど、実は倭国には朝鮮からかなり襲来されていた。
>開化天皇48年 33000人
>仲哀天皇 203000人
>神功天皇 308500人
>応神天皇 250000人
>欽明天皇 300400人
>敏達天皇 明石浦までやってきた
>推古天皇 8年 430000人
7世紀における東アジアの国家総力戦「白村江の戦」ですら
倭国軍 5万
新羅軍 5万
唐群 13万
八幡愚童訓はあくまで元寇を追い払った御利益のある八幡神を称えるために
敵を誇大表現しただけ。 以前このスレだったかで年表が示されてたけど
白村江直後に唐は高句麗と戦争を起こし、
続けざま西方で戦争が起きて朝鮮半島どころじゃなくなり、
その隙に新羅が朝鮮半島統一している。
また、白村江の戦は、あくまでも滅亡した百済の弔い合戦であって、
倭国にとっては遠征に過ぎない。
遠征で敗戦してなんで本国まで占領されるのか意味不明。
しかも倭国を占領統治した文献が勝者である唐の記録に皆無。
敗戦した辺境の九州倭国が勝手に大騒ぎしただけ。 倭国のトップが捕まっちゃったからぐだぐだになったんだろう 白村江海戦後に新羅は唐を押し返している。
この背後に日本があるのは遣唐使を見ても明らか。
日本は高句麗以降、唐の滅亡まで
半島国家を日本防衛の緩衝材として利用している。
900年以降のコリアは大韓帝国成立まで中国貴族の収奪地。 >>512
ウェノムと発音するわりには、漢字と全然合ってないな。
当て字も無理じゃないかなあ。朝鮮半島の文化については
日本人はどうしても理解が浅いわな。 >>534
>この背後に日本があるのは遣唐使を見ても明らか
根拠は? 北部九州伊都説が完璧すぎて、必死に悔し紛れの妨害電波?
見ててかわいそうだなw 九州北部説はその前後の倭国の歴史もあわせて合理的だから。 >>540
九州には、全国に進出した「阿波の忌部一族」のようなものが存在しない。
そんな力の無いところに邪馬台国など、有り得ない。 @阿波 中広型銅矛<祭祀型銅戈の時系列だろ。
同時埋納銅鐸から、銅鐸消滅が出雲<兵庫長野の時系列。東進している。
でもって大型内行花文鏡が東征してだいぶ後に鉄器文化圏がついてくる。
わかりやすい考古学的事実。 >>542
>でもって大型内行花文鏡が東征して
「陛下が皇位継承の証として、三種の神器のうち剣や璽(勾玉)を新天皇に引き継ぐ」
鏡(内行花文鏡?)は「引き継ぎ」に不必要なんだね。 @阿波 >でもって大型内行花文鏡が東征してだいぶ後に鉄器文化圏がついてくる。
鉄剣は鉄で出来ている。
鉄入手の唯一の手段が壱岐対馬ルートなのだから
北部九州伊都王を通さないと鉄剣を作れない。
でもって大型内行花文鏡が東征してだいぶ後に鉄器文化圏がついてくる。
わかりやすい考古学的事実。 >>544
倭国(阿波)では、大陸から鍛冶素材を入手して鉄鍛冶を実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。
魏使が九州で留まっていようがいまいが、「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは紛れもない事実である。
延々と無意味な論争は時間の無駄。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 銅鐸が便利な利器であれば当然九州でも利用していたわけで、
そう考えるとやはり祭祀用具なのだろうね >>540
ご賛同ありがとうございます。
>>547
銅鐸の鋳型が九州北部で出土してますから
祭祀用具として輸出してたんでしょうかね。 >>547
鏡文化だろ。
現代まで天皇家が継承する八咫の鏡を用いた祭祀。
畿内の銅鐸は廃れ、九州北部の文化が西日本から東日本までを席巻した。 >>549
「陛下が皇位継承の証として、三種の神器のうち剣や璽(勾玉)を新天皇に引き継ぐ」
鏡(内行花文鏡?)は「引き継ぎ」に不必要なんだね。 @阿波 >中広型銅矛<祭祀型銅戈の時系列だろ。
>同時埋納銅鐸から、銅鐸消滅が出雲<兵庫長野の時系列。東進している。
銅戈の時期にようやく兵庫で銅鐸終了。銅戈は大阪湾沿岸まで。
てことは、大阪湾沿岸より内陸の銅鐸が廃れるのは銅戈より後。
倭国乱にまにあわねー。 >>549
九州は天皇家・宮内庁と今も昔も縁が無く、古代から続く天皇家祭祀(践祚大嘗祭等)において蚊帳の外。
推して知るべし。 @阿波 【剣璽等承継の儀】
「皇位継承の証として、三種の神器のうち剣や璽(勾玉)を新天皇に引き継ぐ」
【賢所の儀】
「賢所に御神体として奉られている神器である、八咫鏡を新天皇に承継する」
「この儀式によって、皇位の証である三種の神器を継承した天皇は正統な皇位継承者となる」
「三種の神器」による皇位継承について正しく理解しましょうね。 >>551
>倭国乱にまにあわねー。
倭国大乱は九州北部の政権争いだから、銅鐸は関係ない。 >>553
さて、九州は天皇家・宮内庁と今も昔も縁が無く、古代から続く天皇家祭祀(践祚大嘗祭等)において蚊帳の外。
推して知るべし。 @阿波 >>555
銅鐸祭祀をわざわざやめさせる必要性とはなんだったのだろう?
銅鐸は王権祭祀じゃないから、原始民間宗教であればほっといてもよかったはずだよね。 >>557
>銅鐸祭祀をわざわざやめさせる必要性
「やめさせた」という理由は? @阿波 九州北部では紀元前から王墓に三種の神器を副葬していた。
その中の鏡や剣は漢から倭王の冊封の証としてもたらされたものだった。
特に内行花文鏡は王位の証であった。
漢の滅亡と倭国大乱を経て、内行花文鏡は国産化されて独自の八咫の鏡が製作された。
そのうち数枚は卑弥呼の墓である平原遺跡に埋葬され、残りは倭国の中枢とともに畿内に移動した。 >>557
王権祭祀ではないという根拠は?
まあ、九州倭国の王以外は漢から冊封されていないから、正式には王ではなく豪族だけど。 >>559
にもかかわらず、九州は天皇家・宮内庁と今も昔も縁が無く、古代から続く天皇家祭祀(践祚大嘗祭等)において蚊帳の外。
推して知るべし。 @阿波 >>560
銅鐸は王墓に副葬されたものではないしそもそもの王墓もない。
銅鏡祭祀とは根本的にかち合わないから住み分けも可能だったはずだけど。 新羅と唐が一時九州を占領した史実は巧妙に隠されている。
日本政府の隠蔽体質は古代から変わらない。 まあ、畿内には王権がなかったという話なら、その通りかもね。 >>560
狗奴国の王みたいに自称王は日本の奥地に沢山いたんだろうね。 >>561
古来、天皇が新しく即位すると、宇佐八幡宮に勅使を立てて祖先に報告をすることになっていた。
これは、天皇家の祖先神が応神だったからである。
先代王朝の仲哀とその皇子たちは、次に倭国王となる武内宿禰と愛人の神功皇后によって殺されている。 >>559
四葉の内行花文鏡が贈られたところで漢との「国交」が終了したのでしょうな。
伊都王主導にて国産八葉へと発展。
蝙蝠のは民間レベルで入手されたので王権の庇護がないのでしょう。
大事じゃないから破鏡にする必要も無い。>>7 >>565
漢の頃には九州北部の30か国の代表がそれぞれ王だったんだろ?
その中で対馬海峡出身の伊都国の天津神だけが中国との外交を独占して倭王として冊封された。
卑弥呼もその流れで魏から倭王に冊封されたが、王統は女系の国津神に入れ替わっていたと思われる。 >>563
唐が一時九州を占領したは間違いでしょうね
倭の遠征軍が白村江の戦いで大打撃を受けたには事実だけど全滅したのではないし
大半の部隊は百済の残存兵や貴族を伴って帰国してる
倭王が敵の捕虜になったんで兵を引き上げたんですよ
唐は占領する力なんてありませんよ
講和の交渉に来ただけですよ。 ちなみに伊都国の男王である瓊々杵の兄は、畿内に行ったきりとなった饒速日だが、彼は天照から十種の神宝を授かっており、そのうちの鏡2枚が京都の籠神社に伝わっており、前漢鏡と後漢鏡の内行花文鏡である。
九州筑紫の勢力は内行花文鏡とともに東へ進出した。 >>568
30ヶ国のは自称王であって実力は豪族程度でしょう。
たまに有力な王が立つと北部九州を束ねて、国力が増して朝貢した。
その王が亡くなるとまたバラバラ好き勝手。
東アジアで唯一金印を貰っているわけですから、
北部九州くらいは束ねていないと、東アジアの他地域とのバランスが取れませぬ。 >>569
二千人の人員が送り込まれており、彼らが無人でなかったとしても、GHQのように倭国の実権を掌握したであろうことは間違いない。 >>572
倭国軍は5万人を百済に遠征させた。
まさか他国のために全軍率いて渡海しないっしょ。
二千人じゃ無理無理w
漕ぎ手とか考えたら実質数百人の護衛でしょ。終戦交渉役を警護しただけ。 >>569
>唐は占領する力なんてありませんよ
>講和の交渉に来ただけですよ。
白村江における敗戦国である倭国には筑紫都督府が、百済には熊津都督府が設置され、中国の支配下となった。 >>574
倭の五王が代々都督に任命されていたのだから、(使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事)
白村江のずっと前から、若干自慢げに筑紫都督府を置いていたのでしょうな。
ていうか、邪馬台国と関係ないから他のスレでどうぞ。 >>573
当時の朝廷の規模を考えると、太宰府の中央官庁の業務の肩代わりは可能だったろう。 >>570
十種神宝は内容明細も残っていますからね。
洛陽でも重宝されていた
>内行花文鏡の重要性は動かしがたいところです。 >中広型銅矛<祭祀型銅戈の時系列だろ。
>同時埋納銅鐸から、銅鐸消滅が出雲<兵庫長野の時系列。東進している。
>でもって大型内行花文鏡が東征してだいぶ後に鉄器文化圏がついてくる。
>わかりやすい考古学的事実。 電話もインターネットも車も電車も飛行機もない時代なのだから、遠隔地支配に太宰府のような出先機関が必要なのは仕方がない。
倭人伝の時代にはそれが伊都国だっただけ。
伊都国から離れた遠方に中央政府があったんだろ。
中央政府が伊都国の近くなら一大卒置く必要ないもんな。 新羅と唐が日本の西半分に近い領域を支配したの歴史を消そうとするネトウヨ思想の持ち主がいるようだな。 東日流外三郡誌(笑)の古田先生ファンのスレはここですか? >>579
王墓があるのが伊都国なのだから、中央政府があるのが伊都国。
一大卒は最重要地域である対馬海峡を統括する役職だったのでしょう。 >>582
一大卒は、倭国(阿波)から派遣された筑紫忌部。 @阿波 >>582
硯が伊都と筑前町から出土しているから、
倭人伝にあるように伊都の一大卒が倭国の主に北部を
筑前町にも同様の組織があって倭国の主に南部の行政を受け持っていた >中広型銅矛<祭祀型銅戈の時系列だろ。
>同時埋納銅鐸から、銅鐸消滅が出雲<兵庫長野の時系列。東進している。
銅戈の時期にようやく兵庫で銅鐸終了。銅戈は大阪湾沿岸まで。
てことは、大阪湾沿岸より内陸の銅鐸が廃れるのは銅戈より後。
倭国乱にまにあわねー。 >>584
一大卒は、倭国(阿波)から派遣された筑紫忌部。 @阿波 >>584
九州には、全国に進出した「阿波の忌部一族」のようなものが存在しない。
そんな力の無いところに邪馬台国など、有り得ない。 @阿波 女王国より北っていうのは朝鮮半島南部まで含むのでは 昔日本書紀読んだ記憶では 磐井と揉めてたやつが半島政策ミスったのを書紀で責任の所在を誤魔化してる印象
半島重視思想の磐井を失脚させたせいで大和朝廷は半島の足場を欠損してしまったような
中央が畿内に移ったせいで卑弥呼時代にあった半島南部の土地を失ったのでは >>549
鏡というのは、当時の鏡でもくっきり
顔が写るんだぞ。
女性なら、大きな鏡を欲しがるわな。女王なら
入手も可能。つまり、卑弥呼やトヨが使った可能性が高い。 >>557
銅鐸祭祀をわざわざやめさせたんじゃなくて、
ブームが終わってしまった模様。
新しい流行は、大きく立派な墓を作ること。そういう
流れに変わってしまったので、銅鐸はお蔵入りに。 >>571
倭奴王の「奴」は、「共和国」や「連立政権」という
意味じゃないかな。
倭共和国国王、倭連立政権国王といったあたりで、
絶対的権力を持っているわけではない。首相みたいなもの。
匈奴は部族が多数集まっていてその比較的有力な代表が
国王になっているから、倭も30カ国がばらばらでその象徴的代表の
女王だから、倭奴国王としたんじゃないかと。 >>576
太宰府が邪馬台国だという説もあるわな。
太宰府の位置は、古代から何かあった地域らしい。 >>579 ごもっとも。
伊都=卑弥呼の居た場所 という説の弱点だな。 >>594
福岡県内のどこかであることは確かなので候補にはなるでしょう。
でも伊都に平原遺跡というめちゃくちゃ強力な候補がありますからねえ。 >>597
他に中央政府のあった場所の候補がほとんどない。
まあ太宰府だとか高良宮だの香椎宮だのならありえなくはないかも。 >>588
朝鮮半島南部まで含む。対馬国は
朝鮮半島南部まで出掛けた方が近いからな。
また、魏志倭人伝では、至と到の使い分けが
あって、至は経由地点に過ぎず、至は到着の意味。
倭に行くときに、至を使った表示したのは、狗邪韓国
と伊都国。どちらも倭の領域とみなされているよ。 >>600 書き間違えたわ・・・。
朝鮮半島南部まで含む。対馬国の住人は食べ物を買うのに
九州よりも朝鮮半島南部まで出掛けた方が近いからな。
また、魏志倭人伝では、至と到の使い分けが
あって、至は経由地点に過ぎず、到は到着の意味。
倭に行くときに、到を使って表示したのは、狗邪韓国
と伊都国。どちらも倭の領域とみなされているよ。 >>598
平原遺跡は砂取りの工事現場にあって
根元まで削られまくって消滅しそうになっている、
とブログにあったな。地元ではあまり大事にされてない。
卑弥呼の墓かもしれないというのに。 >>602
そもそも、卑弥呼のような大王墓は平原遺跡のような平地なんぞに築かない。神は山に宿るもの。
ましてや、方墳など何をか言わんや 無礼極まる話です。 @阿波 >>602
観光でたくさんの人が見に行くようになれば地元も見直したりしませんかねえ。 >>603>>604
平原の一号墳は整備されているが、
その他の古墳の根元すぐまで削り取ってあった
写真を2、3日前に見たけど、今ぐぐったがどうしても
見つからなかった。
観光で訪れたアマ歴史家が、タクシーの中で
運転手が「こんな遺跡に金をかけるのは無駄だ」と言ったので
口論となって、タクシーを途中で降りて、
タクシーの運転手は数千円の手取りを失ったろう、と
八つ当たり的にブログに書いてあった。そして
古墳の周囲が砂取りされていて、その破壊の様子が
見てて情けない、ということを書いてあった。
なお、古墳は平野ではなく、やや起伏のある高台にある模様。
観光客は来るが、その施設に大金を投じたことが
地元民から反感をかったらしい(=遺跡の価値を認めてなく
どうでもいいと思っている運転手) >>605
その運転士の認識も「そもそも、卑弥呼のような大王墓は平原遺跡のような平地なんぞに築かない。神は山に宿るもの」なんだろう。 @阿波 >>606
倭国内の○奴国も、それらもさらに細かい土豪集団の
上に立つ王国ではないかと。○奴国については
中国語の古典の用例をあたってみんとわからん。 >>599
太宰府 はるか後世の都市
高良宮 狗奴国王
香椎宮 台与 >>601
>至と到の使い分け
なるほど
>>605
>なお、古墳は平野ではなく、やや起伏のある高台にある模様。
重要施設は高台に作る。
弥生時代なら当然ですな。 >>601
中国人が「到」は出発点にはならないって言ってた。 >>605
なぜ福岡県民は福岡県の遺跡を誇りに思わないのか。
遺跡に金をかけられないほど余裕がないわけでもないだろうし。
大変残念なことだ。 >>613
福岡県民の認識も「そもそも、九州には全国に進出した「阿波の忌部一族」のようなものが存在しない。
そんな力の無いところに邪馬台国など、有り得ない」なんだろう。 @阿波 >>612 根拠もなく、否定かよ。
現代の辞典にすでに
奴(ヤツ)とは、日本語での三人称の一つである
とあるわ。連立的なんだよ。古典では身分が低い意を
示すが卑字でないことはすでに判明。 >>611 根拠もなく、否定かよ。
現代の辞典にすでに
奴(ヤツ)とは、日本語での三人称の一つである
とあるわ。連立的なんだよ。古典では身分が低い意を
示すが卑字でないことはすでに判明。
カッとなったので、リンクを間違えてしまったわ >>613
勿体ないねえ
せっかく卑弥呼の墓があるのに
福岡は弥生時代からずっと満たされてるから欲が無いんだね
ハングリー精神が足りない >>612
さて、どうかな。その中国人の言うことに
もとづくなら
魏志倭人伝の水行10日、陸行1ヶ月というのは、
帯方郡から出発させなきゃならないわな。
里で書いてきたのに、日数表示になる場面だから、
それは情報源が2通りあったわけだし。 中広型銅矛<祭祀型銅戈の時系列だろ。
同時埋納銅鐸から、銅鐸消滅が出雲<兵庫長野の時系列。東進している。
でもって大型内行花文鏡が東征してだいぶ後に鉄器文化圏がついてくる。
わかりやすい考古学的事実。 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余 >「到」は出発点にはならない
ダウト
帯方郡から伊都や不弥国までの一連の里行程の中で、
狗邪韓国や伊都に「到」が使われているのだから、
「到」=狗邪韓国や伊都、は実際に出発点として使われている。
出発点にならないというのは嘘だな。 倭人伝が綺麗に解読された今となっては、
平原女王墓が卑弥呼の墓ってのは考古学関係者の間ではもはや共通認識? >>622 馬鹿はひっこんでろ。
わからないなら前後から自分で判断しろよ。
言ってることが理解できない、
ともし言うなら、それ、発達障害者の特徴だから。 從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
「郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、たちまち南し、
たちまち東し、その北岸、狗邪韓国に【到着】する。七千余里。」
終わり。
狗邪韓国(釜山周辺)は倭国なので、帯方郡から倭に至るには
狗邪韓国に到着でもいったんは目的を達成したことになる。
つづき。
始度一海 千餘里 至對海國
「始めて一海を度る。千余里。対海国に至る(経由する)。」
>>中国人が「到」は出発点にはならないって言ってた。
「到」は出発点にはならない、と言っておきながら、次の文章は
始めて一海を度る。
だぜ。まさか帯方郡に戻って「初めて海を渡る」のか?
その現代中国人が「到」は出発点にはならない、というのは
この時点で間違っているわな。スタート点ではないが、この場合は経由地の意味が強い。
「到」ではなく「至」でもよかったはずだわな。 つづき
東南陸行 五百里 到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸
丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
「東南陸行。五百里。伊都国に【到着】する。官は爾支といい、副は泄謨觚、柄渠觚という。
千余戸有り。世、王有り。皆、女王国に統属す。郡使往来し常に駐する所。」
伊都に【到着】した。ここでいったん終わりのはずだが・・
ここからまた出発する。
東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
「東行、不弥国に至る。百里。官は多摸と曰い、副は卑奴母離と曰う。千余家有り。」
不彌國に到着するわけではない。経由地である。
このあとが有名な文
南至投馬國 水行二十日
となる。 >>624はインテリだと思うが、
それと似た文体で別人のアホが混じってきた。
邪馬台国スレで常駐している荒らしだわ。 邪馬台国スレ常駐の荒らし
・ザラコク
・キウス
・岡上
・物部葛城厨
・泡バカ
・呟きアスペ >>628
「到」で伊都に到着したのに、さらに奴国や不弥国に至る。
倭人伝には奴国の描写は無いし、考古学的にも楽浪土器は伊都までしか来ていない。
なのになぜ不弥国までが描写されているのか?
その意味としては・・・
奴国は考古学的に弥生銀座とも呼ばれる経済中心であり、最も発展した大都会。
金印が見つかったのも奴国沖の志賀島であり、
倭国といえば奴国の繁栄に触れなければならない重要地域だったのだろう。
不弥国は・・・台与がいた場所であろう。
外交官の滞在施設は、伊都にある漢代からの施設を使ったから
張政は伊都に滞在した。
奴国以東には入ってないから倭人伝に記載はない。
ただ、台与はその時期には不弥国にいたから、伝聞だけでも記載した。
不弥国=香椎なのか、
あるいは張政が帰国した後に支惟國=香椎に本格的に宮を築いたのか。 至だから不弥国は狗奴国との戦時中の一時的な総司令部であって
首都はあくまでも伊都だったのだな。
張政が帰国した後に支惟國=香椎に本格的に宮を築いたのだろう。 つまり、卑弥呼は卑弥弓呼と戦争していたが、勝ったともなんとも書かれず、
死去している。
次に男王。
さらにその次に、台与が立ち、張政が伊都で檄告喩。
狗奴国の滅亡を見届けて、張政等は帰国する。
(>送政等還 とあることから、倭船で送迎していたことが明らか)
その後に、支惟國=香椎に遷都して宮を作ったので、
後世の我々から見た台与の名は・・・ >>633
記紀の解釈云々以前に、丹の採れない九州が倭国のはずもなし。 @阿波 >>633
倭人伝の解釈云々以前に、丹の採れない九州が倭国のはずもなし。 @阿波 >>631
>あるいは張政が帰国した後に支惟國=香椎に本格的に宮を築いたのか。
支惟國は基肄城。
セットで大野城も記載されている。
狗奴国側の菊池城と合わせて古代九州北部の三大城の揃い踏みだ。
当時の国とは、国邑、城柵、環濠集落を含む表現なのだろう。
狗邪韓国でいったん女王の領域、つまり倭人の地に到るというのは新解釈だが、筋が通っているように思うね。
ナイス。 >>597
一大率は女王卑弥呼が大陸との交易路上の諸国を監視する為に
伊都国の北の諸国に置いていたものですから
全く弱点とかなりません。 >>624
ですね「到」は到着地点をさしますが
到着地点から次の目的地に出発していけないなんて馬鹿な話ですね。 >>631
奴国や不弥国まで実際に行ったかも定かではないですね
伊都国に滞在して奴国や不弥国から来た人に話を聴いただけかも
行ったとしても奴国と不弥国の国境までですね。 >>642
最終目的地が伊都であっても、長い滞在期間にあっては博多、香椎くらいなら足を伸ばしただろう。
大野城もそれほど遠くはないのに傍国扱いであるのに対して、不弥国は里程が記載されているので、実際に郡使が行ったのだろう。 >>642
定かではない、ではなくて、まず確実に奴国には行っていませんよ。
考古学的に奴国には広大な集落群ととてつもない工房群が確認されており、
東夷伝で各地の産業を事細かに報告している魏使であれば、
奴国を一目でも見ていれば、絶対に記録しています。
一目見ていたら、
広大な福岡平野に立ち並ぶ住居や倉庫、大型建物の数々(現在の福岡市の古の姿
盛んに煙を吐く各所の工房群の壮大な稼働風景
を記録しますから。 あと、当時の国邑の考え方としては、協会という認識はあまりなかったはず。
奴国ほど大きいとエリアとしてとらえることもできたかもしれないが、それは例外であって、中国人の発想では国邑の入り口の門から門までのイメージだろう。
国と国との境界は魏志倭人伝には用いるべきではない。 >>643
壱岐対馬の島嶼についてはその大きさが記載され、
伊都までの行程はそれなりに精密な里程が記されていますが、
奴国や不弥国までは突然百里百里で視界がぼやけます。
まず確実に魏使自身は行っていなくて、
里程を使わない倭人に聞いたあやふやな情報を伝聞記載したのでしょう。 工房を記載していなくても、非常に大きな都市であることは戸数で表記している。
工房なら伊都国側にも多くあったし、特記すべき内容だとは思わなかったのだろう。
特産品そのほかは他の部分で説明しているし。
ただ、奴国は倭で最大の国邑だから物見遊山に行っただろうが、不弥国にわざわざ行った理由がよくわからない。 百里は非常に短い距離であり、壱岐対馬の千里と比べて視界がボケているとは思わない。
倭人は里程を知らないから、実際に行ったとしか思えない。 >>647
伊都にあった工房は、
魏使が滞在したであろう三雲地域とは離れた、川下ですね。
しかも炉を使わない玉造公房などが主です。
また、伊都における養蚕機織産業はしっかりと記載されています。 中広型銅矛<祭祀型銅戈の時系列だろ。
同時埋納銅鐸から、銅鐸消滅が出雲<兵庫長野の時系列。東進している。
でもって大型内行花文鏡が東征してだいぶ後に鉄器文化圏がついてくる。
わかりやすい考古学的事実。 平原遺跡は1年に1度祭りもあり、神楽とか奉納されてる。今は大事にされてるよ。 そもそも、卑弥呼のような大王墓は平原遺跡のような平地なんぞに築かない。神は山に宿るもの。
ましてや、方墳など何をか言わんや 無礼極まる話です。 @阿波 そもそも、卑弥呼のような大王墓は平原遺跡のような丘陵地なんぞに築かない。神は山に宿るもの。
ましてや、方墳など何をか言わんや 無礼極まる話です。 @阿波 丘陵地に築かれる古墳は多いよ。
弥生時代の主な生活領域だからね。
後に平地や低湿地地帯で大型化するね。 そもそも、卑弥呼のような大王墓は丘陵地や平地や低湿地地帯なんぞに築かない。神は山に宿るもの。
丘陵地や平地や低湿地地帯なんぞに築く墓は臣下の墓。 @阿波 古墳時代に人格神は無いんじゃない?
死んだ王は埴輪が蠢く黄泉の国で永遠に生きる。穢れだよ。
縄文〜弥生の自然神は山や岩や大木に宿り冬は山、春に田に下ったりする。
神社時代になっても人格神は祟り神だったりするよね。
古墳時代ってのは土器区分じゃなくて墓制、信仰区分でしょ?
墓制の変化は政治であって現代の方が明瞭だけど人的変化なんて無いでしょ。
日本の古代史は稲作導入にこだわりすぎて弥生渡来人という観念を強調しすぎてるよ。 後世の概念をこねくり回した頭でっかちな説だな。
渡来人が来た、稲作を持ち込んだ。
この簡単な事実に対してグジグジ言ってどうする。 >>643 大野城 魏志倭人伝
の2つのキーワードでググったが
特に何もでなかったが、大野城って
魏志倭人伝と何か関係が? >>169 からか。
>18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
>19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
>20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
巴利国は「はり国」=播磨かな。
支惟國は「きび国」=吉備
烏奴國は「うの国」=宇野港のある玉野市(岡山県)
鬼國=紀の国(なお、鬼奴國は、毛の国=栃木) 女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、
其の他の傍国は遠く絶(へだ)たっていて、詳(つまびらか)に得ることができない。
とのことで、ずらずらと載っている国名は、九州内よりも瀬戸内海沿岸の地名から
参照した方が妥当だと考える。魏志倭人伝の中心は伊都だし。 >>658
後世の概念をこねくり回した頭でっかちな説
そりゃ、畿内説の事か?
弥生渡来人の卑弥呼が九州北部で繁栄して王族を騙り帯方郡と交流してた。
半島にも倭人国が有って、沿岸を20泊で通行する。
で、漢四郡が韓と倭人を区別しているなら半島人起源の弥生渡来人とは違うな。
南韓人が日本に移民してわざわざ半島経由で半島より密に冊封を受けるか?
倭人伝で明らかに九州にすら進出できていない時代の畿内王朝が邪馬台国???
畿内説にとって邪馬台国論争は古代史をぐじぐじにする為だけのもんだろwww >>662
本州と四国は別に裸国や黒歯国などの名前で記載されている。
傍国30カ国は、伊都国を起点に九州北部を一周でいい。 >>664
>島にも倭人国が有って、沿岸を20泊で通行する。
>倭人伝で明らかに九州にすら進出できていない時代の畿内王朝
上記2点、グサッときたわ >島にも倭人国が有って、沿岸を20泊で通行する。
↓
>半島にも倭人国が有って、沿岸を20泊で通行する。 >>665 の文章は一理あるな。
だから否定するわけにもいかんな・・ >>665
倭人伝の解釈云々以前に、丹の採れない九州が倭国のはずもなし。 @阿波 >>664
どっちの立場なのかわかりにくい文章だったよ。
王族を騙る、と書いてあるけれど、稲作を持ち込んだ主役が弥生人なら、九州北部こそその拠点であり、その支配者が倭王に他ならない。
中国から見た倭人は、今で言う弥生人と縄文人を合わせたものだろうが、倭国とは九州北部を中心とする弥生人の政権であり、
弥生時代とは筑紫倭国が勢力を列島に拡大した王朝創世記の時代のこと。 卑弥呼は卑弥弓呼と戦争していたが、邪馬台国は家屋数が7万だったかな。
奴国の3倍以上もある大国が、いったいどこと五分に争ってるのよ・・・
遠くの国や敵は、数が多く見えるものなのか。 >>671
倭国(阿波)乱とは阿波国の北と南の争乱。
旧吉野川流域北岸勢力内での争乱・旧吉野川流域南岸勢力内での争乱・鮎喰川下流域勢力内での争乱および各地域間の争乱。
北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)は粟国(旧吉野川流域北岸勢力と旧吉野川流域南岸勢力と鮎喰川下流域勢力)
南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)は長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力) @阿波 >>662
>女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能
女王国が奈良なら、以北は津軽海峡まで陸路だろ?
歩けないもんは略載できない。
其の他の傍国が遠く隔たっているけど陸行1月までして通過してきた国ってこと、だろ?
南=東は論外 >>672 阿波国の北と南の争乱
って、そんなローカルな話じゃないでしょう。
戦国時代のときでさえ三好衆は1万人ぐらいがせいぜいだったし。
石山本願寺や京都周辺の兵力は4、5万はいた。
阿波国に巨大な前方後円墳をいくつも作れるほどの
人口が居たなら、阿波説も考えるけどね。 >>671
戸数が問題じゃなく、卑弥弓呼の出自が卑弥呼と同等であることが問題であったのではないだろうか。
別の部族なら蛮族として制圧して終わりだっただろうが、そうはできない事情があったのだろう。
つまりは倭国内の正統争いだね。 >>674
>阿波国の北と南の争乱って、そんなローカルな話じゃないでしょう。
誇大妄想。 卑弥呼の時代に大軍を率いて西日本を戦い歩くことなど不可能。 あまりにも兵站を無視しすぎ。 @阿波 >>673
>女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能
対馬などから壱岐、末浦、伊都、奴、不弥
など、まさに「戸数・道里を略載することが可能」であるわけで、
それらは女王国の以北とあるから、女王国は
筑紫平野とも思えるが、人口がいるのか?と定番の追求になる。
伊都は戸数・道里を略載できているから、
伊都は女王国ではない、という説にもつながってしまうんだよなあ。
一大卒を置いて、伊都および周辺国を威圧、さらに
魏との交渉までやっているから、卑弥呼は
30数カ国を点々と派遣されて順繰りに回っていたんじゃなかろうか
と妄想してみる。今の天皇陛下もしょっちゅうあちこちへ
お出かけされているね。 女王国の以北は、女王国を含むよ。
あと、邪馬台国(=筑紫倭国)の人口は伊都国や奴国の人口を含むんだろう。 >>672
>阿波国に巨大な前方後円墳をいくつも作れるほどの
>人口が居たなら、阿波説も考えるけどね。
弥生時代の集落遺跡、阿波国に及ぶ? @阿波 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大
無夫婿 有男弟 佐治國
自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人
給飲食傳辭出入居處
宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛
訳文
名は卑弥呼という。鬼道の能力で人々を惑わせた。非常に高齢。
夫はいないが、弟がいて、国を治めるのを助けている。
王となってから、まみえた者はわずかしかいない。侍女千人をはべり、ただ男子一人がいて
飲食物を運んだり言葉を伝えたりするため、女王の住んでいる所に出入りしている。
宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に人がいて、武器を持ち守衛している。
女王は高齢のババアだ
ということを魏の役人(または使節)は、顔を直接見ている。
そして、女王周辺の人の動きを観察している。
ただ、卑弥呼が魏の役人(または使節)に直接話し掛けてはいないようだ。 >>681にとって都合が悪かったので、
「違うよ」と全否定。 伊都国に滞在した魏の使いが直接面会することができた卑弥呼は、伊都国もしくは伊都国からそう遠くないところにいたはずである。 >>683
倭国(阿波)では、大陸から鍛冶素材を入手して鉄鍛冶を実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。
魏使が九州で留まっていようがいまいが、「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは紛れもない事実である。
延々と無意味な論争は時間の無駄。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>677
>伊都は女王国ではない、という説にもつながってしまうんだよなあ。
伊都は女王国ではない。
何故なら、伊都は帯方郡から11900余里であるから。
帯方郡から12000余里は、奴国と不彌国で女王国となる。
投馬国と邪馬台国は、帯方郡から12000余里以遠になるから女王国となる。
>女王国は筑紫平野とも思えるが、人口がいるのか?
伊都は、唐津(末蘆国)の東南500里(40km)であるから筑紫平野(佐賀平野)になる。
筑紫平野にある国は、奴国(佐賀平野)、不彌国(佐賀平野)、投馬国(筑後平野沿岸部)、
邪馬台国(筑後平野内陸部と北野平野)であるから、
筑紫平野の総人口は14万2千戸となる。 >>686
>伊都は、唐津(末蘆国)の東南500里(40km)であるから筑紫平野(佐賀平野)になる。
対馬海流に流されて「唐津(末蘆国)」は有り得ない。
もし古代より、唐津やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、
宗像地方に替わって唐津周辺が世界文化遺産になっている。 @阿波 軍事板に載っていた話。偉大なる漢の皇帝が貢ぎ物を出す国、それが匈奴だ。
↓
981名無しさん@1周年2017/12/31(日) 09:56:07.46ID:34xQmuaf0
むかし、匈奴の族長だった冒頓単于は、西はイラン系の大月氏、東は東胡王(モンゴル)
という2大国に囲まれた小国でした
東胡王の使者はいいました「家畜を全部もらっていく」
モンゴル人はますます舐めて
「単于様は若い娘を奥様にもらったと伺いました。その美女を抱きたいので頂きたい」
「さすがに女をよこせとは」と若い衆は怒りました。冒頓単于はおさえ
「東胡は兄弟のようなものだから、女はあげます」
そして「お前たちの怒りは分かるが女はいくらでもいる。」と諭す
さらにモンゴルは要求しました「おたくの土地はあまってる。千里ばかり譲って欲しい」
匈奴たちは「この程度の願いなら、許すでしょう」と言い合いました
冒頓単于はいきなり激怒しました
「土地をぬすむとはゆるせぬ」そしてモンゴルにせめいって東胡王を殺し頭蓋骨で祝杯を上げました
冒頓単于ひきいる匈奴40万騎は中国に攻め入り、漢の皇帝は降伏しました
「匈奴と漢は兄弟とする」「まいとし年貢を出すように」「漢の王女を献上する」
という約束を交わしました。この条件は匈奴が弱小であった頃、隣国に出していた物でした。
しかし冒頓単于は土地は要求しませんでした。
ロシアがなぜ寸土も譲らないのか、アジア遊牧民にとって土地の権利は生命線だからだよ >>687
対馬海流は左から右へ流れているとは限らない。
http://www-ocea.kugi.kyoto-u.ac.jp/yosikawa/Research/tusima.img/estedy.jpg
しかも風向きが海流とは別方向に吹いたら、舟はどちらに流されていくかわからない。
東南とか南とか太陽や星を見るのではなく、陸地目指してその方向へまっしぐらに漕いで進む。 >>690 そや。
だから釜山から対馬北端の岬めざして漕いだら、
もし流された場合は日本海中部にまで流されて遭難死する。
だから釜山出発じゃなくて、巨済島から
対馬の中央めざして漕ぐ。少し流されても、対馬には
たどりつけるからな。また帯方郡から釜山に
行くと遠回りだから、巨済島から出発だ。
対馬の陸地は見えるので、東南ではあるが、
南といえば対馬しかない。夕方までに辿り着かなかった場合は
死の恐れが高い。8時間ぐらいかかる模様。
http://www2.u-netsurf.ne.jp/~kojin/kuya-kankoku.gif >>692 12時間か!
4月ごろ渡るのが多いから、朝は暗いうちに出ても、
夕方ぎりぎりだな。というか暗いわ。 間に合わなかったときは、じさい を殺せば済む。解決。
危険な難所である。 >>691
だから、逆に半島へ帰る場合は、対馬海流を利用して、名護屋以西の平戸周辺からの出航。 @阿波 また、平戸周辺を出航して、壱岐を飛ばして対馬へ直行したのだろう。
そうしないと、壱岐から対馬へは、対馬海流に流されて辿り着けないから。 @阿波 ま、いずれにせよ、対馬海流に流されて「末蘆国が呼子や唐津」は有り得ない。 @阿波 >>696 暑い時期になると、南風が吹くようになって
海流の流れ加わっても、かなりのスピードで
横に流されていってしまう。
でも、冬の北西風があれば、その風を利用して、南下しやすい。
強すぎても困るから、冬と夏の中間の季節、とくに4月5月が最適となる。
6月ごろだと九州は梅雨入りしてしまって、雨や雲で島が見えなくなる可能性が高い。
太陽も見えず陸地も見えなければどの方向へ漕いでいるかわからず大変危険である。
9月は台風が頻繁に来襲するのでひとたまりもない。 http://29.pro.tok2.com/~kyokutan/public/next/a02_kuna_tushima/photo/r1ooshio_kan.jpg
対馬海流に流されてといっても、それこそどっちから
流れているかわかりにくい。 対馬海峡の千里を一回横断だけならともかく、
帯方郡から舟で延々と航海をつづけるので、(じつに一万里以上)
10日以上も良い天候がつづく季節であることが望ましい。
遅くとも6月までには対馬海峡を横断しておきたいね。
ただし、
「古代における対外遣使の航海季節」
というpdf資料によれば、むしろ8月上旬である。
草も充分茂っていることだろう。
2)魏・倭王卑弥呼時代の遣使: 景初 2 年(238)8
月遼東の公孫氏は魏に滅ぼされ、それに前後して帯
方郡も魏の支配下に入った.倭は冬になる前に情報
を得て、翌 239 年夏の遣使を決めたはずである.
239 年の 5 月「中」夏至は庚申 c56、遣使が帯方郡
到着の 6 月朔は甲申である.6 月朔は夏至の 24 日後、
太陽暦の 7 月 15 日ごろとなる.6 月(7 月 15 日〜8
月 15 日)つまり梅雨明けを待って、北九州から対馬
海峡を渡海し帯方郡に到着したこになる.正始元年
(240 年)の(おそらく答礼という名目で倭を査察
に来た)魏使は、同じ季節に逆の経路をとっている. じさい は何のために乗せると思う?。大変危険な航海だからだよ。
ふだんから半島だの九州だのに南北に交易しているベテランの対馬や壱岐の
住民でさえもだよ。
でも、政治的な理由で、季節を無視した時期やルートで航海することもあるわな。
そんなことすらも
「言い張る理由が良く分からん」
なんて言うようでは恥ずかしいことだよ。 もちろん「言い張る理由」は、九州説の根幹「行程」が崩壊するから。 @阿波 邪馬台国卑弥呼ラウンジに
最初から寄ってないのに阿波なんて所は@ 九州といっても海に潜るのは、
真夏の季節だろうから、魏の使節が見た時期は、夏だろう。 >>707
邪馬台国まで一万二千里と書いたのに
九州北部までで一万里を使ってしまった。
そのあとも何日も航海や陸行をしなくちゃ
ならないから、里では破綻するから
(つまり一万二千里以上ある。)
○日と書いてごまかした可能性があるわな。
そもそも陳寿は、海を見たことがないらしい。 >>710
>○日と書いてごまかした可能性があるわな。
ごまかしたとか考える事が幼稚だな
伊都国付近で一万二千里を使ってしまったから目的地まで到着済み
○日は時間での説明だよ。 >>711
>伊都国付近で一万二千里を使ってしまったから目的地まで到着済み
九州説の根幹「行程」は崩壊している。
対馬海流に流されて「末蘆国が呼子や唐津」は有り得ない。 @阿波 >>712
九州の岬や港を目指して、人力で漕ぐのだから
呼子や唐津が目標の港だったら、流されていくらか遠回りしても
呼子や唐津にはちゃんと着くだろ。 >>713
もし古代より、呼子やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、
宗像地方に替わって呼子周辺が世界文化遺産になっている。
大陸からの玄関口「末羅國」は福津市( 万津浦)宗像方面。
だから世界文化遺産に選ばれたのも当然と言えば当然。 @阿波 >>712
昔から壱岐から呼子や唐津へ自由に往来していた事実を無視して言い張っても無駄
事実は変わらない。 >>718
もし古代より、呼子やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、
宗像地方に替わって呼子周辺が世界文化遺産になっている。
大陸からの玄関口「末羅國」は福津市( 万津浦)宗像方面。
だから世界文化遺産に選ばれたのも当然と言えば当然。
子供みたいに何時までも駄々を繰り返してるんじゃないの。 @阿波 渡海の天候が良ければ、壱岐から伊都方面まで直行だろうよ。
壱岐から九州本土までは近いのだから。
天候があまり良くなければ最短距離である呼子や名古屋浦に入港だろ。 >>720
どうしても諦めきれないんだね。 @阿波
もし古代より、呼子やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、
宗像地方に替わって呼子周辺が世界文化遺産になっている。 海を知らないやつがなんで海流の事を言い張ってるんだ?
対馬海峡の流れは海流だけじゃなくて太平洋と日本海の干満の時間差で逆流もするよ。
壱岐からで湾内に入れば糸島や博多なんて呼子みたいな僻地から陸路で行かないけど
壱岐渡るのに風向きや潮待ちするなら呼子周辺でもいい。 >>721
宗像が世界文化遺産になったのは沖ノ島のおまけ
宗像が大陸との文化流入の玄関口だったからじゃないよ。 >>722 生口を多数連れていったときは(30人)
壱岐へ渡るのには呼子からがいいだろうな。
舟が足りなくなる。
このときは、生口は伊都から松浦まで
陸路で歩いていったと思われる。舟1隻では
乗り切れないからだ。呼子から出発。 >>723
>宗像が世界文化遺産になったのは沖ノ島のおまけ
>宗像が大陸との文化流入の玄関口だったからじゃないよ。
どうしても諦めきれないんだね。
少なくとも、呼子や唐津周辺はその「沖ノ島のおまけ」のようなものさえもない。 推して知るべし。
もし古代より、呼子やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、
宗像地方に替わって呼子周辺が世界文化遺産になっている。 @阿波 >>725
宗像大社は沖ノ島との関連は不明なんだけどごり押しで登録されたんだよ
何言ってるか意味が分かりません
末廬國は松浦地方ですよ
宗像とは方向違い。 >>726
>末廬國は松浦地方ですよ
>宗像とは方向違い。
何言ってるか意味が分かりません @阿波 >>726
松浦地方は半島への出航地であって、
半島からの到着地ではないんですよ @阿波 弥生時代の大国なら今に続く巨体神殿があった筈だが
志賀島と宗像以外に何かあるのかね?
恐らく志賀島と宗像は奴国の氏神
出雲は投馬国の氏神、三輪と伊勢は大和の氏神
北九州には奴国以外の大国は無かっただろう
ちなみに宇佐の八幡神は隋使が中華系と書き記した秦王国の神ではないか?
伝承でも元は大陸の神とあるからな
諏訪は謎だが、非常に興味深い。
独自の文化をもっている
ここにも文書に残っていないが何かしらのクニがあった筈だ。
諏訪盆地の生産力では大和の国力には全く対抗できないので古くから従属を強いられていたのかもしれない。 倭の奴国の氏神なら天照。
弥生時代に巨大神殿とは何を狂ったことを言っているのかわからないが、沖ノ島全体が磐座であり、高天原を模したもの。
諏訪は高天原に滅ぼされた出雲の残党。
伝承がいくらでもあるのに勝手な妄想を巡らせるな。 >>730
今度は諏訪ですね。
長野県諏訪市にある「諏訪大社」は光仁帝の宝亀10年(779年)に阿波國名方郡「多祁御奈刀弥神社」 「御祭神 建御名方命」
から移遷された、と社伝にあるそうだ。その頃、現在の長野県にある諏訪大社は「南方刀美(みなとみ)神社」と言われており、阿波からご祭神が移されてきたことが伝えられている。
つまり大国主命の息子神である建御名方神はここ徳島県石井町諏訪に祀られ、ここから各地に広がっていった、ということである。
それにしても観光地として多くの参拝者が訪れる諏訪大社のご祭神が阿波から移遷された神様だと知っているひとはどれだけいるだろうか。 @阿波 >>687
>対馬海流に流されて「唐津(末蘆国)」は有り得ない。
海流と潮流と表層流の違いが解からぬ者は、自分の無知を晒すのではない。
下記は、無知でなくなる為の参考資料。
>>http://le-web.riam.kyushu-u.ac.jp/radar/current-map/ >>732
どうしても諦めきれないんだね。
少なくとも、呼子や唐津周辺はその「沖ノ島のおまけ」のようなものさえもない。 推して知るべし。
もし古代より、呼子やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、
宗像地方に替わって呼子周辺が世界文化遺産になっている。 @阿波 >>728
『八幡ノ蒙古記』
「同十四日申時に壱岐嶋の西おもてに蒙古の兵船つく、其中に二艘より四百人はかりおりて、赤旗をさして東の方を三度、敵の方を三度拜す、」
「同十六□(日カ)、十七日の間、平戸、能古、鷹嶋の男女多く捕らる、松浦黨敗す。」
元寇は壱岐に襲来の2日後には松浦地方に来襲してますけど
馬鹿なことを言い張って無駄ですよ。 >>734
>元寇は壱岐に襲来の2日後には松浦地方に来襲してますけど
それ、別の元寇軍ですよ。 @阿波 >>734
その松浦地方へ到着した江南軍も、対馬海流を利用していますね。 @阿波 NHKBSプレミアム(BS Digital)
2018/01/03(水) 13:00:00 〜 2018/01/03(水) 15:00:00
ザ・プレミアム 英雄たちの選択新春SP▽ニッポン 古代人のこころと文明に迫る[字][再]
弥生の先進集落の実像とは?人が銅鐸に求めた神秘のパワーとは?女王・卑弥呼の出身地はどこ?
磯田道史が大興奮の古墳とは?古代人のこころと文明の成り立ちに迫ります。 >>736 倭の国内の小国については
A奴国とあればAの国として
「の」で訳しておけばいいようだ。
倭人が「'&()のくに」と発音すれば、
'&()奴国と漢字をあてたのだろう。
というのは、下記のうち「奴」の出現率が高いため、
「の」を充てるのが自然だから。
斯馬國、已百支國、 伊邪國、都支國、
1彌奴國、 好古都國、不呼國、
2姐奴國、對蘇國、
3蘇奴國、 呼邑國、
4華奴蘇奴國、 鬼國、爲吾國、
5鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、
6烏奴國 沖ノ島を経由(上陸は難しい)すると、壱岐を経由するよりも
近道だが、12時間以上かかって夜間航行しなくてはならなくなる。
だから古代の早いうちは無理で、沖ノ島から出土する遺跡は
4世紀後半以後になってしまう。卑弥呼の時代は終わっている。 >>733
沖ノ島ルートは航海技術の発達した4世紀後半以降である。
沖ノ島ルートは、壱岐表ルートに対しての裏ルート(秘密ルート)である。 仮に沖ノ島が卑弥呼の時代からなんらかの拠点であったとしても、魏の使いに見せることはできず、むしろ隠していたのだろう。
上陸地点にしても、那の津(奴国)は当時から整備されていたはずで、それをはじめは見せずに末盧国に上陸したように見える。 >>728
必死だなw
王の船の母港は海流の都合で変わらん。
時の繁栄地に造る 阿波は所詮、東=南なんで
機内以下の頓珍漢スレ違い。
宗像から南二千里でも邪馬台国は九州。 倭奴国はウェノム国でしょう
狗邪韓国の殖民地なのでウェノム地区という扱いだったのではないでしょうか? 王都は伊都。
狗邪韓国が植民地。
本州と四国は属州。 一大率が派遣されて伊都国にいたわけだが、もし何か本国の卑弥呼に伺いたい
ことがあると、返事を聞くのに往復で一ヶ月以上もかかる。
現代でも大使館は東京に集中しているのは、首脳部が近くにいないと連絡が
とりづらいからだ。
卑弥呼はせいぜい筑紫平野か大分県にいたんじゃないか?。魏志倭人伝の方角の
記述ともあう。日数は長過ぎるが、面会まで待たされて現地では待機させられて
日数がかかってしまったのだろう。 >>742
>上陸地点にしても、那の津(奴国)は・・・・
那の津は好古都國だろ。
上陸地点は唐津中原遺跡(末蘆國の津)だ。
唐津中原遺跡は、古松浦湾(古松浦湖)の南岸で現松浦川東岸
古松浦湖は元寇の頃まであった汽水湖 もちろんその通り。
ここは北部九州スレなので、それは前提といってもいい。
邪馬台国は福岡佐賀大分のどこか。
熊本とか言う人いたかな? 伊都國は帥升倭國の王都である。
女王國の立場から見ると女王國成立前の旧倭國の倭都。 好古都国が博多?
一人だけそんなことを言ってる変なブロガー見つけたが
あんたその人? >>751
倭国の都が変わったと言う記述はどこにもないので、帥升の頃も卑弥呼の頃も伊都国が倭国の都。後漢書の倭奴国は奴国ではなく伊都国のこと。
倭国側が前漢の頃の奴国から後漢の頃の伊都国(倭奴国)へ遷都をごまかして、最終的に伊都国にすり替えっているっぽい。 東日流外三郡誌に出てくる火を操るヒミコと水を操るミミコwwwが九州にいたんですか!? 東日流外三郡誌によると、倭の五王は津軽丸wwwという人物だそうですが、津軽丸は九州王だったのですか!? 東日流外三郡誌によると、火を操るヒミコと水を操るミミコと地を操るチミコが居たそうです!!
なお同書によるとヒミコは九州の女王でアリアン族という一族の出身だったそうです!
古田センセーのお墨付きです! 東日流外三郡誌によると、ヤマイチ国だけてなく、ヤマニ国とヤマサン国があったそうなのですが、全部九州なのでしょうか?
古田センセーがおっしゃられるに正当な歴史書みたいなので知りたいです! 古田さんは何で和田家文書なんて信じたのかね〜
あれで皆んなから馬鹿にされるようになってしまった。 >>753
古代の博多湾はもっと奥まで海が入り込んでいたので
(埋め立てが進んでいない)
壱岐方面から来た舟や陸路を進んできた人は
伊都国でチェックを受けてから
奴国(2万人)に入るというのが合理的だな。 それに遠浅の海というのは、港には使いづらい。
(一例 幕末に浦賀よりも横浜で開港)
山で囲まれた内湾状が望ましい。 >>761
>壱岐方面から来た舟や陸路を進んできた人は
>伊都国でチェックを受けてから
>奴国(2万人)に入るというのが合理的だな。
壱岐➡末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)
↓【東南】陸行500里 福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里
奴国(二万戸)(田川辺り)
るというのが合理的だな。 @阿波 住吉神社があるところは、港なんですよ。
全国どこもそうなので、海の神様。
筑紫を頂点とする支配機構の一部であり、水先案内の標でもあった。
だから那の津も港であったはず。
伊都国はあくまでも女王への献上品のチェックポイントであり、民間の利用は各地からの物資が集まる那の津だったのでは。 >>748
魏志倭人伝読んだことないのか?
一大率が置かれたのは「自女王国以北」
「自女王国以北」とは狗邪韓國、對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴國、不彌國の各国だと書かれている。 >>765
伊都国に港なんてないよ
伊都国は国々を治める場所。 >>765
伊都国(直方)に一大率が置かれた理由を教えて進ぜよう。
大陸からの往路 玄関口(福津市周辺 万津浦)
大陸への復路 出航地(平戸周辺)
伊都国(直方)は大陸往復路の分岐点である。
だからそこに一大率が置かれたんですよ。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 相手を小馬鹿にして自己の精神の優位性を保とう
というお方がやってきました。自信と余裕があるなら
そんな態度はとらないものだが。 >>766
伊都国以北とは伊都国を含みますよ。
実質的には伊都国に置かれた一大卒が対馬海峡を支配していたと言うことです。
対馬海峡の交易を独占することで筑紫に成立したのが倭国です。 めんどくさいお方だと思いつつも、検証してやるよ。
自女王国以北とは、狗邪韓國、對馬國、一大國、および末廬國、伊都國、奴國、不彌國。
当然だわな。女王国はその南側にある。
南か東かの問題はあるが、
女王国は、これらの国の向こう側にある、と陳寿は認識している。
一大率を置いているが、卑弥呼のいる邪馬台国と一大率は、近距離または遠距離にある
と、2説に分かれている。
遠距離説は、遠いからこそ権限を大きくもたせた役人をその地に駐在させている
というもの。太宰府や多賀城などが一例。
近距離説は、首脳部と外交官は近くにいないと対応できない
というもの。東京の大使館などが一例。
伊都國に一大率を置いているが、本国の邪馬台国は近畿であるとも、筑紫平野や大分県
にあるとも、どちらにもとれる。 自女王國以北 特置一大率檢察
女王国より以北には、特に一人の大率を置いて検察している。
諸國畏憚之 常治伊都國
諸国はこれを恐れはばかっている。常に伊都国で政務を執っている。
於國中有如刺史
(魏)国中における刺史の如きものである。
王遣使詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使倭國
(邪馬壱国の)王が使者を派遣し、魏の都や帯方郡、諸韓国に行くとき、及び帯方郡の使者が倭国へやって来たとき
皆臨津捜露
いつも(この大率が伊都国から)港に出向いて調査、確認する。
自女王國以北 其戸數道里可得略載
女王国より以北は、その戸数や距離のだいたいのところを記載出来る >>767 もろに港(津)があると明記されてるわ。
「魏志倭人伝読んだことないのか? 」とか言わなきゃいいのに。 伊都国が伊都国以北の海を支配していたのなら
当然博多湾入り口も支配していたことになる。
博多の奴国とは別の国だとしても
非常に関係が深い国であるのは必然と言えよう。 陳寿が邪馬台国について得た情報源は、3通りある。
ひとつは、魏使である「梯儁」および「張政」。
あと、魏に献上された生口だ。
伊都国周辺の見聞については、上記3つ以外にも様々な情報源があったから、
それらを参照して陳寿は書いてる。しかし、遠い邪馬台国そのものとなると、
3つしかない。
正始元年の使者・梯儁は、首都・邪馬台国で卑弥呼に会見したと考える。
宮殿の様子がリアル。
しかし、正始八年の張政は倭が戦争状態になっていたので、邪馬台国本国までは辿りつけず、
伊都国で難升米に渡して、帰国。
台与が献上した生口は、陳寿が書いた時期まで数人は生存していただろう期間にあたる。
邪馬台国まで水行10日で陸行一月などの倭の行程は、この生口が自分で
しゃべった可能性が高い。 >>771
近畿のことなんて魏志倭人伝にこれっぽっちも出ていないのに。
くだらん。 >>775
>しかし、正始八年の張政は倭が戦争状態になっていたので、邪馬台国本国までは辿りつけず、
>伊都国で難升米に渡して、帰国。
そんなわけあるか。
勝手な創作で歴史をねじ曲げるな。 >>771
「以って」はその対象を含む語ですよ。
500円以下と500円未満で、500円以下は500円を含みます。
女王国以北は女王国から北であって、女王国より北とは区別されます。 和田某はソ連のスパイ。彼は陸軍中野学校出身。
米国立文書館の国防省文書でKihachiro Wadaの
名が発見されている。
恐らく彼は戦後ソ連の手先になって北海道を東側に
売り渡す為に中野学校仕込みのテクニックで古文書を
偽造した。
古田氏は荒唐無稽でも本物の古文書と考えて
信じ込んだか、もしくはコミンテルンの支持で
東日流外三郡誌のプロパガンダに協力させられた
のだろう。 >>779
正始八年の張政は、邪馬台国が戦争状態になっていたので、
要請されて来たんだよ。
卑弥呼に届けるために来たのに、卑弥呼の弟に渡すこともせずに
難升米に渡している。まして邪馬台国への距離(里)は再び判明も
していない。
>>779は知識が不足しているし文句しか言えないみたいだね。 >>773
ハア?伊都国に港なんて無いよw
ホントに魏志倭人伝読んだことないんですね。 >>780 邪馬台国は伊都国、
と、言いたいけどね。スレどうりでもある。
ともあれその説にあてはめて、訳してみる。
自女王國以北 特置一大率檢察
女王国からの北は、特に一人の大率を置いて検察している。
諸國畏憚之 常治伊都國
諸国はこれを恐れはばかっている。常に伊都国で政務を執っている。
自女王國以北 其戸數道里可得略載
女王国からの北は、その戸数や距離のだいたいのところを記載出来る
自女王國以北という表現が2カ所ある。
が、1番目はともかく2番目は説明が苦しい。
伊都国=邪馬台国 という説は無理があるだろう。 >>785 じゃあ、これは何という意味なんだい?
諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使倭國
皆臨津捜露 苦しくないよ。
例外的に奴国と不弥国が里程付きで書いてあることを指摘しているの?
女王国が伊都国と奴国、不弥国を合わせてそう呼んでいるのなら、問題ないよ。
島嶼部を除けば、魏の使いが目にした倭国とはそれだけだからね。 >>771
点としての女王国は伊都國、奴國付近で
面としての女王国は北部九州及び朝鮮半島南岸
自女王国以北の場合は点としての女王国(伊都國、奴國)以北のこと
一大率は点としてのだから自女王国以北
狗邪韓國、對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴國、不彌國
邪馬台国とは北部九州地域の呼び名で国家の名前ではない
伊都國は治めるところとあり一大率の置かれた自女王国以北の範囲になるが
卑弥呼が居て統治したばしょです
一大率は重要地区である首都圏と大陸との交易路を監視する機関です。 >>771
点としての女王国は伊都國、奴國付近で
面としての女王国は北部九州及び朝鮮半島南岸
自女王国以北の場合は点としての女王国(伊都國、奴國)以北のこと
一大率は 点としての自女王国以北に置かれていたから
狗邪韓國、對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴國、不彌國
邪馬台国とは北部九州地域の呼び名で国家の名前ではない
伊都國は治めるところとあり一大率の置かれた自女王国以北の範囲になるが
卑弥呼が居て統治したばしょです
一大率は重要地区である首都圏と大陸との交易路を監視する機関です。 >>776 それがあったか!
魏の宮殿内で、倭の使節を中国の役人が
「どこから来たのか? どれくらいの距離か?
方角はどちらだね?」と質問攻めにしている様子が
目にうかぶわ。
「水行十日、陸行一月」は、舟で10日進んで降りてから歩いて一ヶ月
という意味で答えたか、舟なら10日かかるが歩けば一ヶ月かかる
と答えたのか、どちらだろうか。 >>789 言い回しを代えて、もっと詳しくよろしく 実に合理的だな。
後漢書でも倭奴国は倭国の南の端だからね。
倭奴国が奴国のことか伊都国のことか議論の余地はあるけど、両者は筑紫の日向として一体で女王国として機能していたのだろう。 >>794
>>786
>自女王國以北 其戸數道里可得略載
>女王国からの北は、その戸数や距離のだいたいのところを記載出来る
が理解できないと言うことでしょ?
奴国の伊都国(合わせて女王国)より北は概ね戸数や距離を記載できる(だって通過して来たから)。 >>787
魏の使者は末廬國から陸行してますから「皆臨津捜露」の港(津)は当然、末廬國の港ですよね
「郡使倭國」ともありますから。 >>796
少し書き間違えた。
奴国と伊都国(合わせて女王国)から北は概ね戸数や距離を記載できる。
ここが後漢の頃には倭国の南の端でもあった(後漢書)。
つまり倭国とは、対馬海峡と、奴国と伊都国(あわせて女王国)。 あちらを立てればこちらが立たず。
邪馬台国の延々々と続くループ議論だな。 わざわざ朝鮮半島内陸を時間かけて縦断する理由がないですね。
水行1月は帯方郡から南に4千里、東に3千里、南に渡海3千里のことでしょう。
陸行1月は1日の誤り。 >>801 陸行1月は1日の誤り
って、それはさすがにひどいから。 >>803
畿内説だろうが九州説だろうが、ここは共通認識だと思っていました。 >>800
ループ議論してるのは畿内説の人達だな
結論はここに出てる。 >>797
「皆臨津捜露」ここで謂う皆とは卑弥呼の家臣団のことで
「王遣使詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使倭國 皆臨津捜露」は一大率の説明ではないな
一大率の説明は前の文でもう終わってる。 >>803
陸行1月なんてしたら山口県からでも関東に着くな。 >>807
>陸行1月なんてしたら山口県からでも関東に着くな。
陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道) 河川は川船で渡船
投馬国(土佐国宿毛) ➡ 魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察 ➡ 女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)
距離約350km 歩行速度11.7km/日 @阿波 >>88
いい加減こういう不毛な奴がうざい
九州王も外交関係に配慮して妥協に入ったし
バシッとしたスレ立てるか? >九州王も外交関係に配慮して妥協に入ったし
なんじゃそれ? 百済→済州島 「南海行三月」 240km 隋書百済伝
船で海を行く時
海行1月≒80km≒1000余里
徒歩で陸を行く時
陸行1月=海行1月≒80km≒1000余里
水行十日 帯方郡→末蘆國(唐津) 10000余里
陸行1月 末蘆國(唐津)→邪馬台国(八女) 80km≒1000余里 >>813
百済から済州島へ3か月もは掛からない
これも明らかに3日の間違いだな >>813
この頃には百済は朝鮮半島南岸まで達していたから百済から済州島へは100kmも無いよ。 今日は河尻神宮と日吉神社、近見神社に三社参りしてきた
初詣した? >>801
どういう計算?
漢から唐代の定義では一月行は二千里程度。
半島人水行七千里 渡海三千里 陸行二千里
韓の国土南北七千里 女王国は >>819
魏志倭人伝に書かれてる距離に掛かる日数でしょね
帯方郡から狗邪韓国までの7000里が20日(1日350里)
狗邪韓国から末廬國までの4400里が10日(1日440里)
末廬国から伊都国までの500里が1日(1日500里) 1月行という単位は
主に国土や島の大きさに使われる。
三十日行ではない。
中国皇帝の都合でほぼ二千里とされたwww
それが文献。 魏志倭人伝でわざわざ里数と日数で行程を書いてるのは
通常の里と東夷伝の里の長さが違うから
日数を書くことで里が通常の里とは違うことを陳寿は示している。 南は南
帯方郡から九州上陸は一万里
邪馬台国までは二千里
九州島上陸から1月行は二千里である。
あたりまえ 東夷伝の里の長さは魏国内で使われている里とは5倍程度違う
これは魏志倭人伝に先行する魏略にも用いられており公孫氏が使用した里だと思われる
陳寿は実際に東夷伝で使われてる里を知らないが
張政の書いた日報で東夷伝で使われてる里が魏国内で使われている里とは違うことを知り
二重に書くことで東夷伝の里の長さは魏国内で使われている里とは違うことを教えているのである。 隋唐の日本認識は
南北三月行東西五月行
これは九州島の南北と
斑鳩宮、奈良付近から見える範囲。 >>825
帯方郡から狗邪韓国までが七千餘里・・・3月半(100日以上)ですかw
各海峡が1000里ですけど海峡こえるのに15日ですかw
末廬国から伊都国まで500里ですけど1週間もかかるんですかw
馬鹿じゃないのwww >>827
これも明らかに南北三日行東西五日行の誤りですね 南は南
帯方郡から九州上陸は一万里
九州上陸から邪馬台国までは一千里
九州島上陸から1月行は一千里である。
あたりまえ 九州の妄想説がいくら里程でゴネても無駄ですよ。 九州に邪馬台国など有り得ない。 @阿波 >>828
822で説明してる、
20日行は3月半かは不明。
多分根拠が月の天文系と太陽の1日
三国志で定義した皇帝が馬鹿。 隋書の日本認識は
南北三月行東西五月行
これは九州島の東西幅と対馬から大隅半島の距離
「南北三月行」 南北にある国境線の長さがそれぞれ三月行(240km)
「東西五月行」 東西にある国境線の長さがそれぞれ五月行(400km) 「1月行」 月が地球を一周する時間(24h50min)に外洋船が進む距離(80km=1000余里)
「1日行」 太陽が地球を一周する時間(24h)に内水船沿岸船が進む距離(76km=1000里) 上記は隋代までの里
唐代の里は、400km=1000里 しかしさ、平原古墳とかから年代測定できないのかな
古墳は土で埋めているんだから古墳の中の方の土のサンプルを取って調べれば
中に木片とか草片がないわけがないのだから
それを年代測定すれば簡単に判ると思うのだが
古墳を作った時に盛った土を調べる考古学とかないの?
何でいつも土器なんだ そうか?
版築なら粘土質の土を固めるからカプセル化して外部の変化の影響が低くなるし
補強材で藁使うから同時代の炭素ばっちり残ると思うんだが
早くボーリングやってサンプル取って調べればいいとやっぱり思う 誤差も50年くらいあるしね。
190年か247年かと聞かれると完全に区別するのは難しいだろうね。 >>809
投馬国、、、都萬国(宮崎、西都原。九州場所をほぼ征した崇神(物部王家)が建てた)
北の宇佐に都した豊国(女王国/元は出雲国の分家、宗像家)と対峙。
宇佐の女王、豊玉媛(宇佐津媛)が大倭国の女王だと潜称して魏の使節らを(本当の大倭=畿内/葛城、磯城に往かないように)足止め。
結果、無知な魏の使節から女王と認められて、、、 >>842
都万国が宇佐(豊国)を併呑して、女王の豊玉媛は崇神と婚姻。(この一連の話が、イザナギ(崇神)の筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で御祓して神生みする話に反映)
都万(物部)、宇佐連合王国を形成。
この勢力(崇神は西都原で崩御。嫁と成った豊玉媛が遺志を継いで出師するも安芸の宮島で崩御。
崇神の三人の遺児らが体勢を立て直して改めて出師)が中津国=畿内を窺い平定した話が神武の東征神話 >>813
隋の時、百済の西岸が三月行 6000里
基本的データは帯方郡、ソウル辺り?から。
済州島から東1000里から対馬航路3000里
ルートの違い。
1月行は2000里 定義は同じ。 >>822
月の満ち欠けを見て、同じ形になるまでの期間
のことを一月だろ。29日ぐらいだね。 >>826 張政が見た資料は、複数あった
ことは間違いない。両方を合わせれば
つじつまの合わない内容だったが、
とりあえずそのまま書き写したのだろう。 >>835
舟が1000里というのは、1日行程
の表現でもあるね。同意。
半島から対馬まで1000里=1日。
対馬から壱岐まで1000里=1日。
壱岐から九州まで700里ぐらいだが博多湾直行
の可能性も含めてこれも1日行程。1000里と
表現してしまって問題なかろう。 >>840
版築の技術は仏教とともに伝来したもの
当然、それ以前にはない 対馬は本来の呼びは
「対の島」で、(上と下で同じような島がある)
「對奴島」と書いても良さそうだったが、
つしまを対馬と当てたから、対馬島と書くと「つしましま」で二重の表現になってしまう。
倭についても「お前の国は何というのか?」と倭人に尋ねて
「わのくに」と答えれば、書記は「倭奴国」とでも書くしかないだろう。
「お前の国は何というのか?」と倭人に尋ねて、「わっ!」とか言ったらギャグになる。 >>842
>宇佐の女王、豊玉媛(宇佐津媛)が大倭国の女王だと潜称して魏の使節らを(本当の大倭=畿内/葛城、磯城に往かないように)足止め。
>結果、無知な魏の使節から女王と認められて、、、
畿内には女王をいただく風習というか歴史的記録に乏しい。
魏と交流してたのは北部九州。
以上 >>850
倭は中国名で、倭人は筑紫を指してヤマト(邪馬台)と呼んでいたのだろうね。 >>852
「やまと」と倭人が発音すれば、
「邪馬台」と当て字をするのは充分考えられる。
なお、対馬は、古代の日本では「津島」と充てることも
あった。「つしま」の当て字で「つ島」だが、
肝心の中国では対馬と字を当てたから、日本も
それにひきずられて結局、対馬島でシマが2重表記に。 >>849
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%88%E7%AF%89
>墳墓に版築を用いる例としては、吉野ヶ里遺跡の墳墓群や纒向型前方後円墳に確認することができ、多くの古墳で用いられている。近年、高松塚古墳においても版築の利用が確 >>851
魏と交流してたのは倭国(阿波)。
以上 >>852
倭は中国名で、倭人は阿波を指してヤマト(邪馬台)と呼んでいたのだろうね。 @阿波 >>855
今使譯所通三十國
今の時点では30箇国が使者を通わせている。
ということだから、阿波もあることだろう 倭国(阿波)では、大陸から鍛冶素材を入手して鉄鍛冶を実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。
魏使が九州で留まっていようがいまいが、「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは紛れもない事実である。
延々と無意味な論争は時間の無駄。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>854
それ、版築が何かわかってない人が書いてる >>848
>半島から対馬まで1000里=1日。
>対馬から壱岐まで1000里=1日。
>壱岐から九州まで700里ぐらいだが博多湾直行の可能性
壱岐水道は呼子までではなく、目的地に近い糸島半島西岸が良港、王の母港迄で1000里=一日
したがって、南東500里の伊都国は糸島の遺跡ではなく博多の西山麓寄り。
一大卒はこれを管理する峠に布陣するはず。
ただし行程上での記載として、末羅国は港町<伊都は首都圏<奴国は行政区=国
で、女王国に属する列記される一国として同一国内である可能性は否定しない。
半島から末羅国は水行10日であるが、対馬、朝鮮海峡、壱岐水道は当然1日で渡っている。
つまり一日行という単位は距離に比例しないので定義不能。
20日行七千里、10日行三千里という比率で問題なしである。
間違っても?皇帝による正史での一日行の使用は無い。
時程なら所要時間を記す。 >>860
20日や10日は張政等が報告した実際に掛かった日数でしょうね
里数は魏略にも同じ里数が使われてますから
張政等が倭に行く前から別資料に書かれてたものですね
一日が何里とか決まってたんじゃないですね。 >>860 中国では「千里」というのは
大変よくある表現だよ。
「一日千里を走る馬(赤兎馬)」とか
千里眼、千里の道も一歩から、虎は千里往って千里還る、
などなどね。三千里なんてのもそう。(母を尋ねて・・)。
遠さや、早さを強調する表現であって、実際に千里あるわけじゃない。
また海の上では、千里ごとに区切る。7000里など単位は1000里ずつ区切る。
それは海の上での一日ごとの単位でもある。夜間航行はまだ難しい時代で、
夜には港に入るからだ。その港の間隔は1000里ごと・・・というよりも
実際は1日ごと単位になる。駅伝か宿場町みたいに等間隔のような並びになる。 >>844
隋の時、百済南西端の海(群山群島)から済州島までが海上距離で3月行 3000里 240km 3000里=240km じゃくなくて、三千里(すっごく遠い)という慣用表現
をしただけ。240kmは遠いね。 >>860
>半島(巨斉島南岸)から対馬まで1000里=1日。
>対馬から壱岐まで1000里=1日。
>壱岐から唐津古松浦湾南岸(中原遺跡)まで1000里=1日。 狗邪韓国から対馬まで1000里=すっごく遠い。 (慣用表現)
対馬から壱岐まで1000里=すっごく遠い。 (慣用表現)
壱岐から唐津古松浦湾南岸(中原遺跡)まで1000里=すっごく遠い。(慣用表現)
>>869
>壱岐から唐津古松浦湾南岸(中原遺跡)まで1000里=すっごく遠い。(慣用表現)
対馬海流に流されて、末羅國(唐津古松浦湾南岸)は有り得ない。
もし古代より、唐津やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、
宗像地方に替わって唐津周辺が世界文化遺産になっている。
大陸からの玄関口「末羅國」は福津市( 万津浦)宗像方面。
だから世界文化遺産に選ばれたのも当然と言えば当然。 @阿波
各海峡は測量困難だから1000里=すっごく遠い
かもしれないが、帯方郡から狗邪韓国までの7000里は陸上でも測れるし
韓が方四千里と書かれてるから実測に近いものだろうな。 >>866
壱岐から呼子まで1000里すっごく遠い。 (慣用表現)
1000里を1日は超馬ですよ、白髪三千丈と同じ。 >>872
伊都国(直方)に一大率が置かれた理由を教えて進ぜよう。
大陸からの往路 玄関口(福津市周辺 万津浦)
大陸への復路 出航地(平戸周辺)
伊都国(直方)は大陸往復路の分岐点である。
だからそこに一大率が置かれたんですよ。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 対馬海峡の幅は、直線でざっと60km前後ある。
http://www.historyjp.com/images/1107_2.jpg
1000里だから、1里あたり60m。
>>864 >>3000里 240km
1000里あたり80km=1里あたり80m。
大雑把にすごく遠いといっても、当時にしては
意外と近似値で想定の範囲内と思われる。 現代だが呼子から壱岐みたいのはカヌーで日帰り可能。
エイトなら何時間かな? まあ船と積み荷は違う。
ただし、10時間以上かけると漂流しちゃう可能性は高い。
千里の渡海三回、3日が水行十日。 潮待ち休養も行程だろ? 推して知るべし。
千里は平均値で、朝鮮海峡、対馬海峡、壱岐水道の糸島迄をならせば定義できる。
すごく遠くないしw 地図上でほぼ、同じだろが? >>877
>壱岐水道の糸島迄をならせば定義できる。
まだ、諦められないんだね。 @阿波 >>878
お前がもボートで壱岐まで行って来いよ。
海を知らないとはそういうことだ。
潮時読めない爺なら呼子から糸島でもいいぞ。 >>879
>お前がもボートで壱岐まで行って来いよ。
「まあ船と積み荷は違う。」 これに尽きる。 @阿波 >>880
潮待も必要な時間だから入れないといかんだろ
潮に逆らっては前へ進めん
潮流を読めば楽に自由に渡れる。 ダメだよ
タイミングによって潮待ち期間がバラバラじゃん >>883
だから魏使の張政等が実際に掛かった日数なんでしょう。 潮待ちなんか入れたら、次の人の何の参考にもならないだろ
潮待ちなしの正味の日数じゃなきゃ 末廬國から伊都國へは陸上の500里を1日
つまり1里80mとして時速5qで歩いたとして8時間で着く。 >>886
だから10日とだいたいの日数なんだよ。 >>888
10日って?
対馬海峡なら正味3日だし >>887
道路なんかないんだから時速5kmで歩けるわけなかろう >>890
末廬國から伊都國へは人道はあったでしょ
「王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津捜露」とありますから
末廬國の港へは伊都國から往来の度に大勢の役人が派遣されてたようですし。 >>892
各島間1日だろ
休憩、潮待ちはノーカウント >>893
下賜品は末廬國の港で降して「皆臨津捜露」して、後は倭人が伊都國まで運ぶ
「傳送文書 賜遣之物詣女王 不得差錯」ですからね
手ぶらですよ。 >>895
強行軍で40km/日ですね
魏使の場合は1日歩くだけで手ぶらですから40km/日ですね >>894
だから実際に掛かった日数だってば
休憩、潮待も必要な日数なんだよ
張政等の報告を基に日数を書いたんだよ。 >>898
ダメだよ
休憩、潮待ちはバラつくから
正味日数にしないと意味が無い >>896
>>「傳送文書 賜遣之物詣女王 不得差錯」ですからね
>>手ぶらですよ。
手ぶら?。魏志倭人伝の一文だな。
皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
港に出向いて調査、確認する。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らす
(文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届ける)
差錯するを得ず。
(数の違いや間違いは許されない。)
手ぶらではなさそうだ。 伊都国(直方)に一大率が置かれた理由を教えて進ぜよう。
大陸からの往路 玄関口(福津市周辺 万津浦)
大陸への復路 出航地(平戸周辺)
伊都国(直方)は大陸往復路の分岐点である。
だからそこに一大率が置かれたんですよ。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>877
ググってみた
韓国のカヤック愛好家ら、釜山−対馬横断に挑戦 2016/01/18 11:00
30人のカヤック愛好家グループが1人乗りのカヤックで大韓海峡(対馬海峡)の
横断にチャレンジする。
釜山市西区と韓国海洋少年団連盟は2016年1月17日、釜山市の松島海水浴場から
日本の対馬北端の井口浜海水浴場まで、1人乗りのカヤックを使った横断に
チャレンジする「第1回松島カヤック大航海」を5月22日に開催すると発表した。
松島海水浴場から井口浜海水浴場までは直線距離49.5キロだ。
今回の大航海には未成年者15人を含むカヤック愛好家30人が参加する。使用する
カヤックは全長4.40メートル、幅0.63メートルの1人乗りのシットインカヤックで、
5月22日午前5時に松島海水浴場を出発し、1列縦隊で進んで午後6時に井口浜海水浴場
に到着する13時間の大航海だ。
大韓海峡をカヤックで横断するケースは過去にもカヤック選手によって1回行われた
ことはあるが、一般人や未成年者がチャレンジするのは今回が初めてだ。
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
13時間の大航海になってしまって、こんな強行軍で7000里なら7日で行けるとか
計算する現代人が恐ろしいわ。疲労で死ぬ。 >>903
伊都国の一大率は、諸国の見張りというだけでなく、
外交もやったみたいだな。魏使節が往来する国だし。
関東管領とか多賀城のような僻地の監視役ではなさそうだ。 >>894 同意である。韓国→対馬
対馬→壱岐 の2カ所が特に難関だね。
各島間は1日。というか海の上で一泊は不可能。 >>899
張政等の限られた報告を基にしてるからバラツキとかないよ
現実に掛かった旅の報告書を基にしてるから正味日数にするなんて難しいことしてないよ
日数も切りよく10日とか20日に数字を丸めてる。
>>900
倭人が一緒に案内して荷物は倭人が担いて後から持ってくる
何か問題でも?
>>901
24km/日は重武装で連続行軍の場合で
40〜50sの武器や食料を担いで数百km進撃する場合を想定した速さ
40km/日は軽装備で数日てい程度の作戦行動の場合
魏使が強行軍したって話じゃないよ
40km/日は普通に歩いた場合に楽に到達できる速さです。
>>902
荷物は末廬國の港で倭側に引き渡し
魏使は荷物の目録だけを携えての旅ですよ。
>>904
20日ぐらいが現実的でしょうね
>>905
伊都国は諸国を統治する場所と書かれており
一大率は狗邪韓国から不弥国の各諸国の検察と書かれてます
一大率は検察監であり外交なんてしませんよ。 魏志倭人伝を書いた陳寿は、どこか間違えて書いたな。
議論のループが酷いので、他の資料はないのか?とググったら、
大宰府天満宮蔵の国宝『翰苑』として、ものの見事に現存してたわ。
これに女王国のことが載ってる。陳寿が書いた魏志倭人伝とは別系統。
対馬などを渡って、伊都に着く。伊都国はやはり最重要地点だ。
伊都国は女王国に属す。女王国は南にある。女王国の北の方は家の戸数や
距離(里)は記せる。女王国のさらに南には狗奴国がある。女王国は
一万二千里である。(←壱岐から末盧国に上陸した時点ですでに一万里だから
あと二千里というのは、そこから対馬までの距離でしかない。モロ九州説)
水行十日陸行一月というのは、明らかに陳寿が記載の間に
追加で突っ込んだ別資料データ。 >>908のソースは
http://www.eonet.ne.jp/~yamataikoku/2300.html >>907
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
一大率(いちだいそつ)
3世紀後半の北九州の伊都(いと)国に置かれた官名。『魏志(ぎし)』倭人伝(わじんでん)に
みえる。一大率の官名は『晋書(しんじょ)』にみえ、中国の剌史(しし)に比定されるが、
常駐して女王国(邪馬台国(やまたいこく))以北の周辺諸国の検察を行い諸国に畏憚(い
たん)されたという。女王より京都(魏)・帯方郡(たいほうぐん)・韓(かん)諸国への使者、
および帯方郡より倭国への使者を取り調べ、その文書・賜物(たまもの)を錯(あやま)りな
く女王に伝送する機能も果たした。一大率の設置主体が、魏か女王国かいずれであったか
については説が分かれる。 >>910補足 別ソースから。
一大卒のところの文章はつながっているが、
区切れば、一大卒は外交とは無関係。つなげれば
外交も担当する。どちらの意味にもとれる。
自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史
(女王国の北には、特に「一大率」を設置し、諸国を検察させ、国々は畏れ憚っている。常に伊都国に置かれており、中国の「刺史」のようである。)
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
(王が使節を、洛陽や帯方郡または諸韓国に派遣する場合や、帯方郡の使節が来た場合は、それらの使節は港で文書や賜物をあらため、女王への錯綜が起らないようにする。) >>910
「伊都(いと)国に置かれた官名」や「女王より京都(魏)・帯方郡(たいほうぐん)・韓(かん)諸国への使者、
および帯方郡より倭国への使者を取り調べ、その文書・賜物(たまもの)を錯(あやま)りな
く女王に伝送する機能も果たした。」は明らかな誤訳だな
一大率の設置主体は女王国に決まってるし
どうしたら魏が設置主体とか読めるんだろうかw >>911
一大率の仕事は諸国の検察と明記されてるんだから
外交の話は一大率とは完全に別だよな
区切って読むのが常識。 >>908
魏略の方が魏志倭人伝に数十年先行してるから
里数は張政等が行前から知られていたんだろうな
でのこの里は魏で使用されてたのとは違う里だったんだ
5倍くらいの違いだが陳寿は違うことは分かっても
実際にどのくらい違うかは分からなかった
張政等が持ち帰った報告の日数で気付いたんだろ
で日数も記載した。 >>906
>各島間は1日。というか海の上で一泊は不可能。
一昼夜漕いで、翌日は休み
島の裏側に回航、潮流待ち
一昼夜漕いで、翌日は休み
島の裏側に回航、潮流待ち
一昼夜漕いで、翌日は休み
10日の日程はこんなものかな。 >島の裏側に回航、潮流待ち
簡単に係留できるところがあると思っている浅はかさ >>916
壱岐対馬に行ったことないの?
係留できそうな自然の入江とか多いよ
魏志倭人伝によると壱岐は3世紀当時から人口は多かった(今の半分くらい?)ようだし
南北に交易してたってあるから簡単な桟橋くらいは造ってあったろうしな。 >係留できそうな自然の入江とか多いよ
お前がそう思うだけ あんぽんたん >>918
学生の頃、壱岐とかキャンプして周辺の海を泳いで回ったんだけど
砂浜もあったけど陸の近くでも急に深くなってる場所も多かったよ
魏志倭人伝でも南北に交易してると記述されてるのに君は馬鹿じゃない。 >魏志倭人伝でも南北に交易してると記述されてるのに君は馬鹿じゃない。
南北に交易してるのは国と国のことだよ あんぽんたん >>920
對馬國と一大國ですね。
「始度一海千餘里 至對馬國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險 多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴」
「又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴」
對馬國と一大國は朝鮮半島や九州本土と交易をしていたんです。 >魏志倭人伝でも南北に交易してると記述されてるのに君は馬鹿じゃない。
南北に交易してるのは国と国のことだよ
島民が日常飯事的に行き来してたんじゃないんだよ あんぽんたん 対馬(=津島=入り江多い)
ttp://www.historyjp.com/images/1107_2.jpg
暗くなるころまで漕いで、翌日は休み
または島の裏側(対馬の南側)へ回航。
そこから壱岐へ出発。というルートだろうね。
岬から岬まで横断するだけで13時間もかかるようでは到着時点でもう夜。 倭人の舟は手漕ぎだろうけど、
魏の使節一行は中国で作られた大型の帆船だったと考えられるから
(下賜品も乗せた大型船)、
対馬には一泊だけして、壱岐まで向かったとも判断できるな。
(対馬や壱岐の住人は手漕ぎの小舟でジサイ乗せて必死で漕いで横断してる) >暗くなるころまで漕いで、翌日は休み
暗くなるころまで漕いだ所がまだ海の上だったとさ。 >>922
この文によると食料品調達の為に島民が日常的に行き来してたんだよ
国と国のことだなんて何を言ってんだ?
こんな昔から国が食料を配給してくれるとでもw
島民が自分達で調達しないと餓死するな。
>>924
3世紀の中国船は河川で使われていた手漕ぎの着いた帆船の改良版で
倭人の船よりは大型だけど性能は良くない
外洋航海には厳しい。
>>925
一昼夜漕ぎ続けたんだろうな
夜になっても目的地に着くまでは休めない
休んだら潮に流される。 >島民が自分達で調達しないと餓死するな。
あほか スーパーに買い物にいくんじゃねーぞ 島内で自給自足にきまってんだろが >>926
三国志の「赤壁の戦い」は、
卑弥呼の時代とは、わずか30年しか
違わない。
河川や運河で使われていた手漕ぎの着いた帆船の改良版
は、倭の一行は見ただろう。 三国志
魏書 明帝紀
詔青・兗・幽・冀四州大作海船
(青・兗・幽・冀の四州に大いに海船を作るよう詔す)
同じく三國志
魏書 卷三十 東夷伝 韓
景初中 明帝密遣 帶方太守劉マ 樂浪太守鮮于嗣 越海定二郡
『景初中、明帝、密かに帯方太守劉マと楽浪太守の鮮于嗣を遣わし、
海を越えて2つの郡(帯方郡・楽浪郡)を平定した。』
というわけで、渡海作戦によって、朝鮮半島の公孫淵は魏によって滅亡した。
(この事件がきっかけで、卑弥呼の使節派遣は、翌年おこなわれる)
このとき魏の軍事作戦は、海を越えて軍勢を送り込んだわけであるから、
大型船は多数作られたわけで、しかも作られてからわずか数年内であり、
倭への下賜品を送る使節のときは、さぞ立派な船が使われただろうことは
想像できる。 >>917
>>918
取り急ぎ
宮本常一か網野のどっちかの本に出来ると書いてあった >>922
>南北に交易してるのは国と国のことだよ
>島民が日常飯事的に行き来してたんじゃないんだよ あんぽんたん
国と国ってどことどこのことだよ。
対馬海峡は北から南まで全て倭人の地だぞ。
島民が行き来していたに決まっているだろ。 >>927
>あほか スーパーに買い物にいくんじゃねーぞ 島内で自給自足にきまってんだろが
魏志倭人伝でも読めよ。
耕地が少ないから南北に交易していたんだよ。
そもそも壱岐や対馬なら漁業が主力だろう。
倭人は、海で漁業や交易を行う海洋民族だったんだよ。 >>915
だから、10日の日程ってなんだよw
魏使の行程は全部里数ですけど >>933
里数は魏略と同じだから張政等の魏使が倭に派遣される前から知られていたんだよ
日数が魏使の行程なんだよ。>>927
>>932
>>927は魏志倭人伝を全然読んでませんね。 >>929
公孫淵攻撃に使われた船が
河川や運河で使われていた手漕ぎの着いた帆船の改良版なんだよ
渡海作戦って言っても実際には大陸の沿岸を航行して帯方郡・楽浪郡を平定したものと考えられ
渤海湾を越えて軍勢を送り込んだわけではない
朝鮮海峡を越えのは冒険だったと思うよ。 >>934
ウソつくな
魏使の日数の(海峡の)行程なんて出てこないだろ >>936
「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日」
この水行十日が海峡の渡海行程ですね。 >>934
>>里数は魏略と同じだから張政等の魏使が倭に派遣される前から知られていたんだよ
>>日数が魏使の行程なんだよ
これが本当なら、
魏略と同じ里数を、水行10日陸行一ヶ月で
たどりついたことになる。まさかね。
確認してみるよ。そんなことは書いてなかったはず。 魏略は、切れ端しか残ってないから、
このスレに1コメントで記入できるくらいの文量しかない。
邪馬台国への道のりのところは。 >>939
伊都国までの行程は全部あるからね
邪馬台国は行程に入れる必要がなかっただけだね 【重要!】
(魏略云)
倭在帯方東南大海中 依山島為国
度海千里復有国 皆倭種
(魏略いわく)
倭は帯方東南の大海中に在り、山島に依って国を為している。
海千里を渡るとまた国があり、みな倭種である。
======================
従帯方至倭 循海岸水行
歴韓国 到拘邪韓国 七千里
帯方より倭に至るには、海岸に沿って水行し
韓国を経由して拘邪韓国に到る。七千里
======================
始度一海 千余里 至対馬国
其大官卑狗 副曰卑奴
無良田 南北市糴
始めて一海を渡る。千余里。対馬国に至る。
その大官は卑狗で、副は卑奴という。
良田なく、南北で交易して穀物を買い入れている。
======================
南度海 至一支国 置官 与対(馬)
同地方三百里
南、海を渡り、一支国に至る。官を置く、対馬と同じ。
地は三百里四方 =つづき==================
又度海 千余里 至末盧国
人善捕魚 能浮没水 取之
また、海を渡る。千余里。末盧国に至る。
人は魚捕りが上手で、水に浮き沈みすることができ、これを取る。
======================
東南五百里 到伊都国 戸万余
置 曰爾支 副曰 洩渓觚 柄渠觚
国王皆属女王也
東南五百里。伊都国に到る。一万余りの戸数である。
(官を)置く。爾支といい、副は洩渓觚・柄渠觚という。
国王はみな女王に属す也。
======================
女王之南 又有狗奴国 以男子為王
其官曰 拘右智卑狗 不属女王也
女王の南、また狗奴国があり、男子をもって王としている。
その官はコウチヒコという。女王には属さない。
======================
自帯方 至女国 万二千余里
帯方から女王国に至るには、一万二千余里である。
======================
以上、魏略による記述である。
「水行10日陸行一ヶ月」は、陳寿による追記であり、上記による
一万二千余里の行程に関して、水行10日陸行一ヶ月かかると
いう意味で付記したと思われる! 魏志倭人伝の女王国に行くルートは、太宰府に置いてある
古文献にちゃんとそのまま載ってました。チャンチャン。 >>940
日数の行程や邪馬台国、投馬国の名称は張政等の魏使が新たに持ち帰った情報だな。 http://www.eonet.ne.jp/~yamataikoku/2400.html
というサイトによると(これがよみづらい)、
女王国卑弥呼は九州にいたが、2代目女王の台与は畿内で擁立されたのだという。
台与が送った魏への使節は、魏にて「水行10日、陸行一月」と喋ったものだから、
陳寿がそれを追記した。東(畿内)から来たのに元の資料には女王国は南とあったから
陳寿は南に女王国があるという資料にもとづいて追記した。また台与は
卑弥呼の正当な後継者である、という立場をとっていた。ただ、居場所が違う
(出身地が違う)。
という意味らしい。よくわかんね。 台与の朝貢品(大勾玉)は、平原から出土したソレだろ >>948
張政等の魏使は、帰路のとき台与が
送った一行と一緒に魏へ向かっている。
(台与が即位したとき、勅諭してる)
張政等の魏使が新たに持ち帰った情報にしては
距離が、日数表示だ。陳寿は台与が即位した後のこと
まで記述しているから、それらを魏略の情報に
付け加えたのではないかと。
台与一行は、伊都までやってきて張政等と合流かな。
ともあれ、新たに持ち帰った情報は、倭人が
言ったことが原因。 次スレタイは
「『九州説はなぜ滅んだか』が良くわかるスレ」
を提案したいな >>958
要約すると、
魏志倭人伝には伊都までの見聞録しか記載されていないので、
卑弥呼も台与も伊都もしくはその近所にいた >>959
さらに要約すると
「ぼくちゃん発狂したったぁ。ぷぴょ〜ぉぉぉん」 >>956
日数表示は倭人が言ったことじゃなくて
張政等が掛かった日数を報告したからでしょ
これを古い記録にあった里数の記録に追加した
北部九州の呼び名の邪馬台国や朝鮮半島南岸の呼び名の投馬国も張政等の報告で新たに追加した。 >>959 卑弥呼死んでたろ?
10日行、20日行は時程 経過時間だが
1月行は領土の広さを表す物理的な、ほぼ2千里なんで実際の移動時間ではない。 罵倒で相手を屈服させるやり方になってきました。
こんなことをやるからかえって信頼をなくす。 陳寿は、魏略の元になった資料を参照して、魏志倭人伝を書いた。
魏略はほんの少し前に書かれた本だったが、そのときすでに女王国は
伊南国の南にあることが知られていた。
(このときは邪馬台国とはいわず単に女王国)
卑弥呼の在位期間は大変長かったが、魏と通交がなされたころはすでに高齢
になっていた。(年己長大)
狗奴国との交戦が激しくなり、張政らが派遣されたころ卑弥呼が亡くなり、
倭は大乱に突入する。このあたりの前後の経緯を、陳寿は新たに追記した。
その和平にあたって、
邪馬台国という、かなり遠くにあるが人口の多い国が、和平と新女王擁立に
参加して、再び治まる。魏志倭人伝に追記。
このとき狗奴国も和平に参加して、真珠5000孔を提供して、魏への朝貢品に使われる。
新女王である台与は、卑弥呼の後継者として金印も受け取る。魏の使節も認める。
女王之所都←女王国という表現が慣例だったのに唐突で変である。卑弥呼に
子はないので、台与は卑弥呼の子でもない。
つまり、台与に代替わりしたときに、大乱もあり、大人口のある邪馬台国も関与したので
女王の「都」は邪馬台国(近畿)に遷都してしまった。魏もこのころ滅んでしまうので
詳しくは魏志倭人伝に書けなかったが、魏志倭人伝に追記して、台与を後継として
認め、その後、大和政権として継続される。 >>971 書き直した。↓
陳寿は、魏略の元になった資料を参照して、魏志倭人伝を書いた。
魏略はほんの少し前に書かれた本だったが、そのときすでに女王国は
伊南国の南にあることが知られていた(このときは邪馬台国とはいわず
単に女王国)。卑弥呼の在位期間は大変長かったが、魏と通交がなされ
たころはすでに高齢になっていた。(年己長大)
狗奴国との交戦が激しくなり、張政らが派遣されたころ卑弥呼が亡くなり、
倭は大乱に突入する。このあたりの前後の経緯を、陳寿は特に新たに追記
した。
その和平にあたって、邪馬台国という、かなり遠くにあるが人口の多い国が、
和平と新女王擁立に参加して、再び治まる。このとき女王国の南にあった
狗奴国は真珠5000孔を提供して、魏への朝貢品に使われる。
遠くの邪馬台国(畿内)および、卑弥呼女王国の南にあった狗奴国も和平に
参加して、近畿から南九州まで一気にまとまった新政権が誕生。
新女王である台与は、卑弥呼の後継者として金印も受け取る。魏の使節も認める。
女王之所都←女王国という表現が慣例だったのに唐突で変である。卑弥呼に
子はないので、台与は卑弥呼の子でもない。台与に代替わりしたときに、
大乱もあり、大人口のある邪馬台国も関与したので、女王の「都」は
事実上、邪馬台国(近畿)に遷都してしまった。魏も台与を後継として
認め、陳寿は魏志倭人伝に書いて、その後、大和政権として継続される。
というストーリーで良さそうである。 よくないよ。
壹與の年代とかずれまくっている。
ラノベみたいに創作のレベルだよ。 >>972
つまらん妄想だな
張政等が伊都国までしか来ていないんだから壱与も伊都国在住ですよ。 >>961
里程は東夷伝里で統一されているので、漢代の楽浪郡の役人達が収集した情報なのでしょう。
朝鮮半島の統一は7世紀の新羅が初なので、東夷伝里が改定されるとすれば7世紀以降であり、
だから一万二千里はそれまで各史書で使われ続けたわけです。
対馬海峡の方角がずれている、
持衰の詳細が記されている、
台与が魏使を送ったことが記されている、
などの点からは魏使は倭船で来たと考えるのが自然ですね。
里程は漢代からの東夷伝里データ。
日程と方角(太陽を見た無修正のナマ方角)は魏使が加えた新たなデータでしょう。 >>975
張政等が伊都国までしか来ていなくて
卑弥呼の代にやってきて台与の代に帰国したのだから
卑弥呼の墓も当然伊都で見たわけだな。 >>976
一万二千里の初出は淮南子
>対馬海峡の方角がずれている、
>持衰の詳細が記されている、
>台与が魏使を送ったことが記されている、
なぜこれが倭船を使った理由になるの? >対馬海峡の方角がずれている
魏船で来たのなら、たとえ倭船に先導してもらったとしても
魏の航海士、またせめて遠距離航海に慣れた船乗りが同乗したはずであり、
季節による太陽方角の変化を計算に入れて正確な方角を記録できたはずだから。
同じ行程記録の中で、東、南、南東、を使い分けていることから、
もし方位に詳しいものが魏使一行にいたのであれば、
対馬海峡渡海の部分は、正確に「南東行」と書かれていたはず。 >>981
少しも根拠になってないじゃんw
反論しようもない >送政等還
張政らを送ってるじゃん。
また傍証としては、
難升米(率善中老将=銀印)には、黄幢を授けた上で、檄告喩しているのに、
台与(親魏倭王=金印)には、黄幢なしで、檄告喩のみ。
張政が自分では行き来できなかったから、黄幢を取り寄せることが出来ず、
言葉もしくは書面での檄告喩のみしか行えなかった。 >>982
方角が全部ずれていることが根拠と言っている。
そちらの反論なし。 >>984
まず倭人が季節によって太陽の出る方向が変動するのを知っていたことを立証してね 難升米が洛陽で受け取った下賜品のうち、
親魏倭王金印のみが帯方太守預かりとなっている。
他の全ての下賜品は装封して難升米の預かりとする、と「明記」されている。
魏船で来るのであれば、当然のことながら
下賜品を一括して帯方太守の預かりとして、
一括して倭へ輸送し、現地で一括して卑弥呼へ渡すはず。
だが、帯方太守が派遣した梯儁らは、外交文書と金印のみを奉じて来倭した。
つまり全て倭船による輸送であって、
大量の品々は難升米が託されて輸送。
梯儁らは軽い金印と外交文書のみ持参して、同じく倭船にのって来倭。 >>976は賢い。それに言い掛かりをつけてる奴の
言い分は馬鹿っぽい >>988 そんなこと書いてあったか?。
これも魏志倭人伝の原文みれば判明するはず。
確認してみよう。 自分の意見を言わずに妄想妄想しか言えない=畿内説スレ主だろw >>988
【今以汝為 親魏倭王 假金印紫綬 装封付 帶方太守 假綬】
いま汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し(与え)、装封して帯方太守に付すことで仮に授けておく。
これは魏皇帝じきじきの言葉を、魏志倭人伝に載せてある箇所だ。
卑弥呼に下賜品をあげたが、まだ輸送途中なので、帶方太守が持っているだけ。
帯方太守が派遣した梯儁らは、外交文書と金印のみを奉じて来倭した
というのは誤訳だな。 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余 >今以汝為親魏倭王 假金印紫綬
>【装封付帶方太守假綬】
>今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直 又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠チ丹各五十斤
>【皆装封付難升米牛利】
難升米が洛陽で受け取った下賜品のうち、
親魏倭王金印のみが帯方太守預かりとなっている。
他の全ての下賜品は装封して難升米の預かりとする、と「明記」されている。
魏船で来るのであれば、当然のことながら
下賜品を一括して帯方太守の預かりとして、
一括して倭へ輸送し、現地で一括して卑弥呼へ渡すはず。
だが、帯方太守が派遣した梯儁らは、外交文書と金印のみを奉じて来倭した。
つまり全て倭船による輸送であって、
大量の品々は難升米が託されて輸送。
梯儁らは軽い金印と外交文書のみ持参して、同じく倭船にのって来倭。
>魏皇帝→難升米が帰還するとき:【還到 録受】
難升米は、自らの倭船で帰還するから自力で「到る」
>台与→張政が帰還するとき:【送政等還】
張政は、倭船で帰還するから他力で「送られる」 このスレッドは1000を超えました。
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