なぜ日本の建築は発展することができなかったのか?
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天皇ですら江戸時代まで木小屋に毛の生えた程度の建物に住んでいた >>262
言ってるだろが、>>226で。
>中国文化圏、東アジア文化圏と言い換えてもいいが
東アジア文化圏は建築や美術関係の技術がほかの文明圏と比べて著しく低かった
あのさあ、組積技術をモノにしなかった訳じゃなく、それで事足りたってことだろ。
別に是が非でも組積みで作らなきゃならないわけでもあるまいし。
そんなこと言えば、日本だって明治維新後現在に至るまで、上屋自身を組積みだけで作った建物なんて殆ど見当たらないわけで。
だいたい木骨との組み合わせが殆どだろ。
まあ、日本が地震国だというのはあるけれど、
ほんとの組積み構造だと 手間ヒマ・コスト がかかるわけで、それよりも手っ取り早く安く作れるのは木骨造なわけで。
骨組み付の建物の方が地震にも強いわけで、それらが広まるのはあたりまえ。
組積み技術が上級建築技術と錯覚していること自体が×だろw
はっきり言って西洋かぶれだねw 日本の建築技術は世界一。地震で瓦が吹飛ぶようになっているドヤ モルタルで瓦を固めて飛ばないようにする工法もあるけど
柱にかかる負荷が大きくなるから一長一短なんだよね マンセーしろなんて言ってはいない。
そもそも建築に関する知識自体なかった人間が、
一概に日本建築は遅れていると言い切ってることが間違いだと言ってるわけ。
その地域の気候、風土、歴史などがからみあって、その地域にあった建築が出来上がっているわけで、
それらを無視して外国がなんでも良いというのはカブレていると思われてもしょうがないw 西洋建築が入ってきた幕末明治には台場とか海堡とか要塞とかアホみたいに作ってるんだから
単純に技術がなかっただけだよ このアホは世界史の建築スレでファビョってたアホと同一人物だろうな
日本の家は冬は寒いと書かれたのを貶められたと勘違いして暴れてた馬鹿な
枕草子に「夏をむねとすべし」と書いてるのを知らないのかーとか
いや夏をむねとしてるんだから、寒くて当然だろとたしなめられたけど >>273
>西洋建築が入ってきた幕末明治には台場とか
海堡とか要塞とかアホみたいに作ってるんだから
単純に技術がなかっただけだよ
一時期はね。
でも技術が無かったというより、発想が無かったと言うのが正解だろ。
上屋の壁を組積みでつくるという。
石組みアーチは中国の技術で江戸初期に眼鏡橋で伝わってるから。 >>274
また、自分の知ってる範囲の知見で勝手に認定ですかあ?w
おい、おまえ はだか踊りだべ?w
勝手に的外れな予想してホルホルしてるとことか、発想の仕方がよく似てるわw 建築もそうだけど、電柱と電線をどうにかすべきだと思う
海外旅行から帰国して帰宅中、車窓を見て感じること
先進国だというのに、景観が残念すぎる
建築も家具もだね 世界遺産レベルの歴史的建造物は世界に誇れる美しさだと思います
一般の街並みや住宅がもうちょっとどうにかならないのかと残念に思う
アジアだから仕方ないのかね ワビサビ文化自体が後世の後付け
そもそも日本には豪華と呼べる文化財がない
せいぜい木に金箔を張り付ける程度w >>279
アジア諸国は西洋から直接建築を学んだだけあって日本よりはるかにましだろ
日本の建築や街並みのひどさはアジア諸国の中でも最底辺 明治期に作られた要塞って当時来日してた欧米諸国の軍人から見ても評価高かったからな
技術力は相当なものがあったわけで
不謹慎ながら島原の乱の後も内乱が続いていれば、と思ってしまうよ >>281
日本の街が電線だらけで、欧米の街が電線が少ないのはなぜかと言うと、
欧米では電気が普及する前にガス灯が発達していて、
電気が普及するときに地下の埋設ガス管施設をそのまま電気のケーブルを通す施設として
利用できたからだよ。
地下鉄や地下トンネルもそうだけど、なんでも埋設施設にすると偉く金がかかるのが、
埋設施設の難点。
特に日本は地権だのなんだのうるさいし、現代の東京などのように、家が密集した地帯が多いと、
住宅のケーブル地下化が困難になってしまうのも仕方がない話。
街の再開発のついでに地下化するとか、新たに住宅地域を作るときに埋設化するなどしか無いのが現状だろ。 >>281
あと、アジアの国々、特にフィリピンなどが西洋的なのは、学んだというより、
植民地としてインフラが整備されたからだよ。
負の遺産でもあるわけよ、悲しい話ながら。
韓国などは、朝鮮戦争で国土が焼け野原になった跡に街が再整備されたからああいう街並みなわけ。
それも悲しい話なわけだよ。
君、隣の芝は青く見えると言う言葉、知ってる? ついでに書いとくと、
タイは日本と同じく独立を保った国だけど、高層建築多いのは、一言、地盤が違うからだよ。
なんてったって、RCで高層ビルを作る国だからねw 日本では考えられないw
でも、交通インフラはかなり無茶苦茶だし、治安も非常に良くない。
おれは日本に生まれて本当によかったと思っているw >>1
出島を日本人が作ってしまったから。
西洋人に作らせておけば西洋建築の勉強になった。 日本の歴史の中での石造建築の少なさは確かに異常だな。
東南アジアの寺院なんて密林でもアンコールワットだからな。
ほんと、なんでだろう。
石橋も江戸時代になってから九州の一部で眼鏡橋とかようやくだよな。
アーチ構造もずっと知らなかったのかな。
アーチ工法の門て日本にないよね。
中国には紀元前に来てるよね。
沖縄にはアーチ工法の門やグスクがあるのにね。 中国って中心地の黄河辺りは砂漠化が問題になるくらいなのになんで石造建築が発達しなかったんだろうね。
不思議だなあ。 >>230
でも稲作が沿海州からというのはありえないよねえ。
沿海州から来た初期弥生人が出雲、越あたりに定着して。
そのあとに中国の南部から稲作民族が北部九州に来て稲作の生産力で徐々に初期沿海弥生人を圧倒したという感じなのかな。 >>234
中国は住居は万里の長城にある砦ようなレンガ建築ではなく、あくまで木造の宮殿にこだわったんだね。
なんでだろう。 >>291
木造にこだわったというより木造でしか作れなかったというのが実態だろ
砦や城の石垣のようなものは大した技術が要らないが
建物になると相当な技術とセンスが必要 唐の大雁塔とか今は壊されてないけど北魏の永寧寺仏塔は高さ150mに達するレンガの塔とか
インドと張り合ってた頃はそれなりのものを作ってる
アーチ構造も朱然墓とか、少なくとも後漢末期の墳墓には使われているけど、住居には使ってないな >>289
版築(土を突き固めて壁を作る技法。三和土もその技術の延長。)が発達したから。
気候が乾燥してるのも影響してるだろうね。
>>293
>砦や城の石垣のようなものは大した技術が要らないが
だから自分で作ってみろよw
おまえ馬鹿なんじゃないの?w なんか、どうしても日本の技術が劣ってるということに話を持っていこうとしている人がいるなw
(まあ、スレ立てたやつがそう思いたい人みたいだからね)
技術ってなんでもだけど、発想と環境がマッチして初めて起こるわけで、
そこに能力の優劣はあまり関係ない。
石積み技術だって、木材の少ない地域(エジプトや中東など)で、必要に迫られて、
比較的身近な素材で構造物を作った事から起こったものだろう。
エジプトなどは大河があり、水運が発達していたから、奴隷など労役者を使い、
巨石を調達・運搬出来たわけだし。
ギリシャ建築も、エジプト・地中海文明の流れから、
当初木造主流だったのを”身近な”大理石造に切り替えたわけで、
西洋の石積み建築文化の直接の源流になった。
歴史の流れなんだよ、すべて。 木造は燃えちゃうからねえ。
東大寺の80m以上あった七重の塔とか残っていたら壮大だったろうなあ。 未だにピラミッドが奴隷によってつくられたとか迷信信じてる奴いるんだな
そもそもエジプトの奴隷は家内労働中心で数も少ない
労役は農閑期に配給品目当てに集まった農耕民を利用して負担させてた
これも強制でなくて監督官に申し出ればいつでも辞めれて、いつでも雇用されたことがパピルスからわかってる 明治時代に日本を訪れた西洋人がみな日本の建築技術の低さに驚いたのは有名な話
日本の建築技術がすごいというのはさすがに無理がある 神社が機能ごとにちっこい建物を造るのは大きな建物を造る事が出来なかった時代の影響? >>301
長崎の眼鏡橋は中国の技術で作られてるから、それを模したと思われる早鐘眼鏡橋は中国の技術ということになるのかな? 瓦、礎石、土壁もすべて中国の技術だよ
これらが最初に取り入れられたのが法隆寺 >>307
日本建築の独自性は、それらの中国技術が入ってから”国風化”してなりたったわけで。
衣類に関しては、着物だってそうだろさ。
中国の服が日本の気候に合わせて変化して、今の着物になったわけだし。
だから ”呉服” というわけでw >>304
古代の出雲大社はその名前の通りデカかったようだよ。 基本的に朝鮮やベトナム、日本、モンゴルの建築物は中国建築からのマイナーチェンジだよ >>310
ベトナムは周囲の東南アジア諸国からの影響もあるよ。
チャンパーはヒンドゥー教じゃなかったっけ?
誰かの好きな石積み文化だよw
マイナーチェンジではなく、地方化したのだと思うがw
どうしても、日本の文化は劣ったことにしたいのだねw
ほんと価値観の貧しい人だわw ベトナムは漢代から北宋に至るまで長らく北部が中国の直轄地だったこともあって基本的には中国建築を基にしている
タンロン遺跡、胡朝城塞、フエ王宮に至るまで中国の皇城に範をとっている
寺院と併設して作られた神社は差異化のたまにあえて日本在来工法のみで作らているとされているが
建築史学上では日本建築は独立したジャンルではなくあくまで中国建築に分類されている
https://kotobank.jp/word/日本建築-110146
>日本建築は伝統的には中国建築の一支流として位置づけられ、木造建築が主流を占める。 シナの亜種だもの、和風建築であって和式建築ではない 「中国の建築」竹島卓一
中国の建築の大きな特徴の一つである斗栱(ときょう)(斗組(ますぐみ)、あるいは組物ともいう。
柱の上に四角い斗形のものや、肘木といって腕木のようなものを封雑に組んで深い簷(のき)や梁(はり)をうける構造体で、装飾の意味も兼ねる)の制度についてみると、
中国の影響をうけた日本の建築にそれがとりいれられていることはいうまでもない。
・・・平安時代に入って中国との交通が疎遠になると、たちまち停滞し、簡素化して日本固有の神社建築に応用することはあっても、それを発展させて、
いっそう複雑なものを作り出すというようなことは全然おこなわれていない。 >>29
稲作は沿海州から渡来定着して50年以上経ってから、朝鮮南部からパクってきただけの話。
最古水田菜畑から出土する短粒種オンリーの炭化米、木製農具、大陸系磨製石器、
それら全て朝鮮南部と一致し、中国とは一致しない。
それらは全て朝鮮南部から入ってきた事が分かる。
ところが、最古水田の弥生人たちが朝鮮土器をさーっぱり作っていない。
搬入した朝鮮無文土器の壺が一基出土しただけ。
彼らが朝鮮半島から渡来した人たちに見えるか?
彼らがもっぱら作っていたのは、50年以上前に山陰に伝わった
沿海州南部と文様が一致する山ノ寺式刻目突帯文土器だけ。
つまり稲作は彼ら自身の手で朝鮮南部からパクってきただけだと
いう事が分かる。
中国南部??
2兆%ないね。
伝わっているイネの粒種、伝わっている農具、出土した土器、
どれも中国とはさーっぱり一致していません。 国分寺・国分尼寺の影響で地方の建築様式が淘汰されたんじゃないか?
このため全国画一化(北海道と沖縄以外)に向かった。 日本が1000年前の平安期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約7000年。
その後、中国では6000年前には木骨泥墻が登場し、すでに土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
3500年前の商周代よりも前の王朝から宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、すでに瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
日本には縄文弥生を通して、これら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>309
出雲大社なんか、超高床式で階段が長いだけで、技術力が低い事を物語っている 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
ZEOIY >>314
斗栱って、あれ以上複雑にしても意味ないと思うがw
中国建築が、色合いとかは派手であっても、構造的に、それほど複雑なものとはあまり思わないけど。
日本の建築が簡素なのは、民族的な趣向の問題が大きいと思うけど。
基本、日本人はゴテゴテした人工的な物は好まないから。
それは現代の日本人の感覚にも受け継がれていると思うけれど。
そういう意味で、日光は異例と言えるかも知れないが、中国なんかのものとは色使いなんかは違うよね。
鮮やかな原色系を中国人は好むようだが、日本人はやや渋い色を好む。
神社の色も赤ではなく、朱色だしね。鮮やかな色ではあるけど、やや渋い。 >>315
基本、インディカ米は古代日本には来てないんだろうね。
中国南部ばかり、あなたは異常にこだわるけれど、
別に華中も華北もあるわけで、ジャポニカ米の源流は中国中部だと言われているのだから、
中国直接渡来説もあり得ないとは言えない。
なんでそうあなたは、朝鮮からパクった(盗んだ)と言う言葉に拘るのだろうか?w
稲作ってさあ、パクることって不可能だと思うんだがw
種籾だけもて来て、”さあ米作ろう”ということにはならないと思うんだがw
”稲作経験者”がセットで来て初めて成り立つものだと思うんだよね。
そんなに米作りは甘いもんじゃないと思うよw >>324
超カンタンだったはずだよ。
そんな栽培に困難を極める複数難解な栽培植物なら、原始時代にわずか1000年で
日本中を席巻する訳がないだろ。
馬鹿なのそちら?
それにジャポニカはかつて長粒種だった事も知らない無知無知クンなようで。
日本に最古水田が登場した当時の長江下流域のイネは中粒種が約半割を占めるジャポニカだぞ。
ところが日本の最古水田から出土した日本最古のイネは短粒種だけ。
それにおまえは当時の中国の耕作用農具も知らないウルトラ無知なようで。
当時の中国の耕作用農具は石耜と石鋤。
前者は石刃のスキ、後者は石刃の除草用農具で日本には伝わっていない。
ところが日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は木製のクワとエブリだけ。
石刃の耕作用農具がないどころか、当時の中国のメイン耕作用農具だったスキがない!
それどころかクワとエブリという当時の中国には無い耕作用農具が伝わってしまっている!
この日本最古の稲作遺構が中国から直伝した遺構である可能性など2兆%ない!
ちなみにスキという農具が伝わったのはそれから200年以上経った弥生前期からで、やはり木製であった。
当時の中国の中粒種のイネも、メイン耕作用農具だった石耜や石鋤も、日本に伝わる事は永遠になかったのである。 >>1
パクり限界に到達したから、改良にも限度がある
新たなるステージに進むには、新しいパクリ元が必要だった
中華パクリー>地震ー>改良
西洋パクリー>地震ー>改良 >>325
>超カンタンだったはずだよ。
そんな栽培に困難を極める複数難解な栽培植物なら、原始時代にわずか1000年で
日本中を席巻する訳がないだろ。
だから馬鹿なのそっちだろってw
人も一緒について行ったから広まったんだろがw
あのさあ、おまえ自己流で種籾から育ててみろよw
手順ふまなきゃうまくいかないからw
稲作が裏日本で早く広まったということは、気候があってたことと。
人間同士の交流、あるいは進出・侵略があったということだろっつのw
ほんとおまえ、単純馬鹿だよね。
>それにジャポニカはかつて長粒種だった事も知らない無知無知クンなようで。
はあ?
それはいったいいつの時代の話なの?w
日本でインディカがジャポニカになったとでも?ww
おまえさあ、日本に米がどのように伝わってきたのかという話題なのに、
なんでジャポニカ米の由来の話に話題をすり替えようとするの?w
自分が不利だからって、ムリクリ誤魔化すのやめたほうがいいよw >>328
おまえチョンだろ。
しかも、文章の知的水準から見て高卒だよな。
じゃあ何で最古水田菜畑の弥生人たちは一番肝心な生活痕たる朝鮮土器を一つも
作ってないんだよ?
搬入した朝鮮無文土器の壺が一基出土しただけだぞ。
これが半島人が渡来定着した遺構に見えるか?
それに日本に稲作が拡散していくとき、いちいち隣村から隣村へと人が
引っ越していくのかよカス。
隣村の人が隣村の人の稲作をパクりながら拡散していっただけの話だろうがカス。
それと、7000年前のカボト遺跡から出土したジャポニカが長粒種、中粒種、短粒種が
三分の一ずつ混交したジャポニカ。
そして日本で稲作が始まった3000年前の長江下流域の遺構から出土したジャポニカが
中粒種、短粒種が約半々の割合で混交したジャポニカ。
そして8Cに鑑真が長江下流域から持ってきた正倉院に納められているジャポニカが
中粒種が14%、短粒種が86%の割合で混交したジャポニカ。
日本には日本最古の出土イネから中粒種がありませんのでね。
そもそも朝鮮半島で交配された寒さに強い品種が年間平均気温が4℃以上も高い
日本で栽培する事が難しい訳がないんだわ。
高卒の無知無知チョンセン人。 高卒って言うかこの子10代か20前後ぐらいの男の子でしょ
世界史板でも教科書に載ってる徒然草を得意満面で書いて恥晒してたし
この年頃の男の子は熱くなりやすいから何言っても聞かないよ >>323
はぁ?なら竪穴式住居にでも住んでれば?
日本の伝統建築とか全部中国の模倣だぞ
中国に教わるまで礎石も瓦も土壁も何もなかったんだから >>331
半島経由だけどね。
古墳期の4C後半に秦氏が最初に土壁の戸建てをもたらして、
6C末に聖徳太子が百済から技術者を招来して瓦屋根の寺院建築がもたらされた。
ただ、これらはまだ貴族階級のもので、民間人が竪穴式住居から抜け出したのは
平安期後半以降。 >>329
>>330
>一番肝心な生活痕たる朝鮮土器を一つも 作ってないんだよ?
作る必要が無かったからじゃないの?既にその地域に土器があったからそれを使えば良いわけだから。
農業の技術を伝えた人々は少数な訳で、その地域の文化全部を変える勢力ではなかったと考えればいいじゃん。
それってパクった(盗んだ)とは言わないよねw
で、君たち はだか踊りの成りすましだろ?w
なんでも机上の単純化思考で考えようとするところがそっくりなんだけどw
物事って、特に歴史って、白か黒かだけで割り切れるほど単純じゃないんだわw
色んな事象が複雑に重なり合って歴史は織り成されるわけで、一つの法則があてはまらないから、
それはありえないという思考法で全部通用するなら、
古代日本史が、こんなに多数の議論の起こる場にはなって無いんだわw どこの朝鮮人なんだ、
そろそろ頭の病院に行ったほうが良いぞ 自分の考え方と違うと、すぐ朝鮮人よばわりするとか子供ですか?w
そんなに朝鮮が嫌いなら、日本史板に来なけりゃいいのにw
古代日本と朝鮮半島や中国は切っても切り離せないのにねw
まあ、俺は日本の文化と朝鮮の文化は共通点はあっても、
違うところもたくさんあると考える方だけどね。
そういう人間を意味不明に朝鮮人呼ばわりするとか、全く根拠がわからないんだけどw やりすぎ防犯パトロール、特定人物を尾行監視 2009年3月19日19時7分配信 ツカサネット新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090319-00000026-tsuka-soci
この記事で問題になった通称やりすぎ防パトは、創価学会と警察署が引き起こしていたようです
掻い摘んで説明すると
・創価学会は、町内会や老人会、PTA、商店会等の住民組織に関し、学会員が役員になるよう積極的に働きかける運動を
90年代末から開始し、結果、多くの住民組織で役員が学会員という状況が生まれた
・防犯パトロールの担い手は地域の住民と住民組織で、防犯活動に関する会議や協議会には、住民組織の代表に役員が出席する為
防犯活動や防パトに、創価学会が間接的に影響力を行使可能となった
・防パトは住民が行う為、住民が不審者や要注意人物にでっち上げられるトラブルが起きていたが
創価学会はその緩さに目をつけ、住民組織を握っている状況を利用し、嫌がらせ対象者を不審者や要注意人物にでっち上げ
防パトに尾行や監視、付き纏いをさせるようになった
・防パトは地元警察署との緊密な連携により行われる為、創価学会は警察署幹部を懐柔して取り込んでしまい
不審者にでっち上げた住民への嫌がらせに署幹部を経由して警察署を加担させるようになった
・主に当該警察署勤務と考えられる創価学会員警察官を動かし、恐らく非番の日に、職権自体ないにもかかわらず
私服警官を偽装させて管轄内を歩いて回らせ、防犯協力をお願いしますと住民に協力を求めて回り
防犯とは名ばかりの、単なる嫌がらせを住民らに行わせた(防犯協力と称し依頼して回っていた警察官らの正体は恐らく所轄勤務の学会員警察官)
※これに加えて防犯要員が同様のお願いをして回る
・こうして防犯パトロールを悪用し、住民を欺いて嫌がらせをさせつつ、創価学会自体も会員らを動員し、組織的な嫌がらせを連動して行った
つまり警察署に勤務する学会員警察官、警察署幹部、創価学会が通称やりすぎ防犯パトロールの黒幕
詳細は下記スレをご覧下さい
やりすぎ防犯パトロールは創価学会と警察署の仕業だった
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/bouhan/1516500769/ >>333
菜畑遺跡に稲作を伝えた渡来人はな、既にその地域にあった土器を使わず、
新しい土器も稲作と同時に菜畑遺跡に伝えてるんだが。
ところが、その土器が朝鮮土器ではなかったのである。
言ってる事が分かるか?
既にその地域にあった土器とは黒川式縄文土器の事だ。
渡来人が稲作と同時に菜畑遺跡に伝えた土器とは山ノ寺式刻目突帯文土器の事だ。
なぜ菜畑遺跡に稲作を伝えた渡来人は朝鮮土器を伝えず、
全く別の土器なんか伝えてるのかね? >>338
刻目突帯文土器の日本での発祥は中国地方じゃなかったっけ?
それも稲作とは関係無さそうだし。 >>339
島根あたりの山陰な。
ただ338は菜畑遺跡で起きた出来事だけに限定してお話しております。
>>340
だろうねえw
でも、そこには中国土器には9000年前からある壺という器種も、
7000年前からある鬲や鼎などの三足器種も、単耳、双耳、直耳などの
耳付き器形も、高坏も蓋も、5500年前からある中国灰陶もないぞ。
さて、大陸のどこから来たんだろうねえw そんな専門用語ぱんぱん出してもコイツは何も知らないガキなんだから
キャパ足りなくて何言ってるか理解できてないと思うぞ 大陸が統一されたのは始皇帝による紀元前221年が最初だよ
それまでは諸国が存在して少数民族もそれなりに独自性を持っていただろうから
中国のなにもかもを持って渡来するという前提が間違っている 始皇帝が統一したからと言って文化的に均一になったわけでもないし
考え方としては、
刻目突帯文土器があるけど
三足器種も耳付き器形も高坏も蓋も中国灰陶も無い
そういう場所から渡来した
ということだ
ただ、
>三足器種も耳付き器形も高坏も蓋も中国灰陶も
の中に、高級品があるとしたら、
渡来したばかりの状況であれば、高級品まで作る余裕が無かった、
ということも加味する必要があるな 渡来人は朝鮮系でも中国系でもない事さえ分かればイイんだよw
でも稲作は当時、朝鮮南部と中国しかない訳で。
さて、渡来人は稲作をどうやって入手したんでしょうか?
という問題を出そうと思ったが、高卒には無理だろうから、もう答えを書いとくわw
答え
最寄りの朝鮮南部からパクった。 なに結論してんの?
広大な大陸が文化的に均一だったわけじゃないんだから
大陸文化の全てがもたらされてなくても
大陸からの渡来人を否定できないわけでしょ?
あんた高卒以下 >>344
壺や鬲や鼎は奢侈品でも何でもない、鬲や鼎は奴隷も使っていた
単なる普及した日常土器の炊飯器なんだが。
壺には単耳か双耳が、鼎には直耳と蓋が自動的に付いてくるがなw 遺跡全体でも出土品が単品なんてのはよくあること
出土品なんてのはたまたま捨てられたものを見てるだけの可能性もあり
出てないからといって無かったと決めつけられるわけでもない
それをセットであることに意味を付けるなどというのが無理スジ >>348
中国 出土 壺
中国 出土 鼎
で画像検索してみな。
単耳や双耳が付いている壺と直耳が付いた鼎がほとんどだぞ。
根拠ありまくりなんだがw なーんもない辺境の島で
なーんもない状態から稲作を立ち上げるのに精いっぱいで
鼎を作るゆとりがなかったわけだなあ >>351
だから、最古水田菜畑に中国土器を伝えず、全く別の土器を伝えちまったってか?
中卒だろおまえw >>352
お前の言う中国土器一式をセットで伝える義務なんぞないってこった
学歴コンプか消えろクズw >>353
で、菜畑遺跡のどこに中国系土器があるの?
で、菜畑遺跡のどこに中国系耕作用農具があるの?
で、菜畑遺跡のどこに土壁の戸建ての中国系住居があるの?
. >>354
で、菜畑遺跡のどこに当時の中国の中粒種のイネがあるの?
. >>353
で、菜畑遺跡のどこに当時の中国の中粒種のイネがあるの?
. >>342
君のほうが遥かに年下に思えるんだけどw
君、発言も完全ゆとり世代だしw
そうやってわかりもしないのに、すぐに結論づけるとことかほんと浅はかだわw
で、中国土器の名前ごときで頭が爆発指定しまうという根拠は?
w >>354
鼎土器とか足や取っ手のついた土器は中国の領域なら全土で使われてなきゃいけないの?
中国も広いのだから地域により文化の程度の差はあったと思うのだが。
まして、素人が自分で作れる程度の技術だったら弥生土器程度だと思うのだが。
鼎土器くらいなら、技術もいるだろうし、強度的に土の質もあるだろう。 >>358
サギうるせえサギサギ華南ブタ広鼻半ニグロが祖先のサギサギ台湾ブタ広鼻半ニガーだなあ。
じゃあ、3000年前に壺という器種を持っていなかった中国の少数民族の証拠は?
菜畑遺跡に稲作をもたらした渡来人が伝えた土器には当初、壺も高坏もなかった。
壺と高坏は菜畑に稲作が伝わった少し後に朝鮮南部からパクった器種だぞ。
中国には9000年前から壺という器種がある。
で、3000年前に壺という器種を持っていなかった中国の少数民族の確証は?
. >>359
君、完全に壊れたよw
その自覚あるだろw
誰も少数民族の話はしてないよw
地域差の話は触れてるけど。
だって現在でさえ、都市部と地方の文化差があるのが中国だろ。
古代なら尚更だべさw >>361
で、3000年前に壺という器種を持っていなかった集団が
9000年前から壺がある中国のどこにいたの?
. >>349
>出てないからといって無かったと決めつけられるわけでもない
悪魔の証明って知ってる?
その理屈だとオーパーツだろうがUFOだろうが何だってあったこにできるな
あっという主張する側が出せないならそれはなかったという証明になるんだよ
高度な土器文化や建築文化を持っていた漢人が何で糞ショボい素人でも作れるような土器や竪穴式住居に住んでる弥生人なんてことがあり得るの?
日本列島に到着した途端に知能が原始人並みに退化でもしたんですか? >>363
その通り。
縄文晩期に渡来した我々日本人の祖先の北方モンゴロイド形質の人骨の人々は
同期する中国の中粒種のイネも、中国の土器も、中国の耕作用農具も、中国の住居も、
中国の服飾も、中国の龍信仰も、同期する中国系生活文物を何も伝えなかった。
朝鮮土器さえ伝えなかった。
中国と朝鮮半島以外の、まだ未開で原始的な場所から渡来した事が伺える。 全部倭人が自分で航海して支那まで行って取って来たんやろが
なにジャップsageでホルホルしてんねん
我々日本人の北方モンゴロイド形質は半島から貢がれてきた慰安婦や奴隷の由来やぞ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています