なぜ日本の建築は発展することができなかったのか?
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天皇ですら江戸時代まで木小屋に毛の生えた程度の建物に住んでいた 日光月光菩薩像・四天王像はハリボテ 東大寺の。
乾漆像だから、中身カスカスやん
尚、罰当たりが怖い人は信じないようにしましょう 諸行無常盛者必衰の理り あり 日本史を勉強してて>>1みたいな事をいうって 中身ないんやろな 日本ももっといろいろな歴史的建築物があればな(´・ω・`) 石造は地震もだが意外にも砲弾に対しても一旦崩れ始めると内部機能が一気に損なわれて脆弱だったからw 日本もピラミッドくらい作っとけよ、後年子孫のための観光資源になっただろうに(´・ω・`) 皇居でやってる大嘗宮の一般公開は明日12/8まで!
これ逃すと次の代替わりまで待たないといけない。
まだの人は早めに行って! 大飯原発1号機が稼働式典である大阪万博EXPO’70以降にエアコンが普及するまで、日本の夏は耐えがたい高温多湿の東岸性気候だった。
梅雨(降雨)時、日差しの強い日にもフル換気できるよう、軒の出を限界まで大きくし、(土)壁なんて北側にしか作らなかった(柱だけ)。
その代償として、冬の寒さで震えるわけだが、耐え難い夏の暑さには代えられなかった。 オールコック(山口光朔訳)『大君の都』岩波文庫,1962. [初出=1863年]
かれらには建築と呼びうるようなものはない。……したがって、世界最大の都市のひとつである江戸の街路ほど、むさくるしくみすぼらしいものはない。大名の屋敷でさえ、同じような建て方の低い一列のバラックにすぎず、ただ屋根が高いだけだ。(下巻, p. 176)
グスタフ・クライトナー(小谷裕幸・森田明)『東洋紀行』平凡社東洋文庫,1992-93. [初出=1881年]
実際に眺めてみると、期待した程のものではなかった。東京は大きな村という感じだった。そして、町の無数の貧弱な木造家屋の中に高々と聳え立っている帝の居城さえも、宮殿というよりもむしろバラックといった趣であった。(1巻, p. 289) 日本では斗組建築を住宅に用いなかったので
簡素に見えても仕方がない 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html 石派の人は地震で倒壊した石の下敷きになって絶滅したからじゃね? 歴史のある石造建築にあこがれる。
木造はすぐ燃えて無くなる。 もっと歴背的書物も残してほしかったね、まあ肝心の文字がないからな(-_-) 『鳳輿』に聞けば良いだろう、
本や書なんかも持っていたと言っているし、
たしか・・・かなり最近(明治時代〜戦前、戦後?)の話。 大阪城の石垣は大坂城の石垣をそのまま(改修して)使ってるの? 今も金持ちも貧乏人も木造(笑)の家に住んでる倭人たち >>633
太閤さんの築いた石垣が立派に残っていると、それを見て民衆に豊臣への思慕が募るだろうからマズい
それで徳川が築いた新大坂城が旧を覆いつくしてしまった
それでもそのことがまた忘れられて、豊臣の石垣が残っているのだと昭和の前半まで思われていたけど ガースー「恵方巻きの馬鹿喰い大会でアベコロナが大爆発や
よっしゃ、よっしゃあ」 猪豚「ワイロ、ポッケナイナイ
よっしゃ、よっしゃあ」 無能ヒトモドキも松傾も普段は他の在日チョンコ同様日本人のフリして暮らしてるはず
何故か?
それはチョンコであることが恥ずかしいからに他ならない
そして日本人のルーツにチョンコが無関係だと理解してるからに他ならない
自ら恥ずかしい存在だという自覚があり
何一つ自信を持つことが出来ない惨めさから
朝鮮起源説や反日活動で精神勝利するしかない
チョンコとはそういう存在
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; ∧,_∧: 悔しいニダァァアーーッ!!!
:<;l|l;`田´>;
;(6 9):
:ム__)__) ええ⁉メチャクチャ発展したと思うけど、木と紙しか材料が無い状況で、何百年 下手すりゃ1000年もビクともしない建築物なんて、日本にしか無いんじゃない❓まあ西洋には石と鉄と言う素材があったから西洋式の建物を造ったけど。
西洋スタイルの建物が 過去200年くらいの世界の主流
だけど、それは技術者の力とは関係無い話。それとて日本の技術者はいとも簡単に模倣し、発展させたでしょ。 オールヒノキで作ったらええんちゃう
法隆寺やら長持ちしてるし 日本人が3階建て以上の住宅で生活するようになったのはここ数十年。
ヨーロッパでは古代ローマ時代から3階建て以上の集合住宅が普通にあった。
その差は数千年。 庶民はその集合住宅を賃貸で借りていた
住居に関して日本では近代に属することがヨーロッパでは古代からあった
その差は数千年 出島とかを西洋人に作らせなかったので西洋建築術を知らなかった エアコンが普及するまでは温帯モンスーンのこの地ではそれは正解だったでしょうけど、今は違う 中国大陸は8000年前から土壁の住居だからね
住居だけ見ても日本列島には中国大陸からなんて渡来入植してない事が分かるの
よろしいか中卒クンたち 朝鮮系大壁建物だろ
半島から東漢氏が帰化したときに伝わったもので中国大陸から伝わったものではありません
残念 現代数寄屋作りなんて、金持ちしか住めないな。
外国の住宅よりも風情があっていいと思うなあ。 東漢氏が伝えた朝鮮大壁建物、百済から取り入れた寺院建築が
全ての日本建築のベースとなっている
寝殿造も数寄屋造も 住宅に関していえば、日本のハウスメーカーというのは独特の存在らしい
海外に日本のハウスメーカーに相当するのはあるんだろうか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています