なぜ日本の建築は発展することができなかったのか?
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天皇ですら江戸時代まで木小屋に毛の生えた程度の建物に住んでいた 高さのある高欄を設置するとバランスが悪くて建物の小ささを暴露してしまう
五重塔や平等院鳳凰堂の小さな高欄は建造物全体を大きく見せて景気が良い
犬山城や丸岡城の天主に登ったが、傍目には立派な高欄に見えても、実際は一尺程度の手すりだった 茅葺は優秀。台風でも飛ばされない。
まあ、「建築」は屋根だけの事じゃないわな。
>>1は、本来の日本の江戸時代に作られた農家の建物を見たことがないんだろうな。
庶民以外じゃ、京都御所の建物、姫路城、日光東照宮、知恩院の門、その他多数の
お寺やお城。 >>565
あれは路肩の崩れた道路にカラーコーンを設置するようなもんで落ちるようなヘリに近づく奴がマヌケなの。 平安時代に野屋根が発生して割と自由がきくようになってしまったからね
その後は鎌倉時代に新しく入ってきた宋様式のいいとこどりをしておしまい
もっと貪欲だったらよかったのに 確かに日本の建築技術は遅れ過ぎ
竪穴式住居から抜け出すのが4世紀に入ってから
お隣中国では紀元前3000年には竪穴式住居
止めてる
日本が高床式の時代に中国は土壁に瓦屋ねに既に移行し戸建住居に住んでる
その事から中国から日本に渡ってくる人が居なかったと推察される >>568
そんなことだから発展しない。
間抜けな殿様が転落。転落防止にもっと頑丈に高く作れと職人に命令。
のち家臣がマネをしていっせいに広まる。 現時点だとかなり高いレベルだと思うけどどの辺りの年代の話してんの? 中国から日本に渡ってくる人がいても
土壌が悪いから
すぐには中国式の建築をできなかったんでしょ。
中国から日本に渡ってくる人がいたから
土壌改良して
日本全国に一気に平野ができたんでしょ。 4C後半の奈良盆地に新羅系の朝鮮陶質土器=須恵器や韓服を着た埴輪が登場するとともに
韓竈や土壁の住居跡が現れる。
これらは最初の朝鮮帰化人である新羅から来た秦氏がもたらしたものだと考えられている。
中国から日本に渡ってくる人がいたなら、その当時の中国系陶磁器や中国系竈や
瓦屋根の中国系住居や漢服や木沓がもたらされているはずである。 >>575
中国人だろおまえ。
必要がないと、どうして分かったの?
何で分かったの?
実際に作って、しばらく使ってみなきゃ分からないじゃないの。
それで必要がなければ、取捨選択されて徐々に表舞台から消えていくというのが筋だろ。
詭弁を言うんじゃないよ。 木造建築でもトラス構造の発想がなかったりヨーロッパより遅れていたからな
まぁ高度経済成長期ぐらいじゃないかな
日本の建築技術が世界有数になったのは 日本は剛構造より柔構造の技術のほうが発展してる気がするわ地震が多い性か
縦穴式住居も地震と台風には強そうだよね 中国朝鮮からパクってきた寺院建築はわりと頑丈だが
日本オリジナルである天守はかなりの数が倒壊してるし幕末には大半の天守が傾いていたり結構脆い
というか日本は伝統的に高層建築に弱い 岩国市のアーチ式の錦帯橋
明の坊さんのお蔭で作れたけど、日本各地に広まる様子もない 石橋が広まったのがやっと江戸末期だよね。
しかも、九州地方限定。 >>581
寺の構造からみると城はプレハブみたいなもんなんだろうな 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 プレハブの意味が分からんけど城は外壁が重いから地震に弱いんじゃないかな 壁に限らず普通はお寺のほうが厚く頑丈に出来てるものだけどな
寺の場合は円柱を使ってるのに対して城は角柱を使ってるから負荷のかかり方が不均等で構造的に脆いんだよ 城は構造の強度に対してデカすぎるんだろう
地盤も関係なく建ててるだろうし全体的に雑だろうし
寺院は大きくするならそれなりの方法を取ってる >>583
いだてんの金栗四三の家の前に石橋があるね。 >>517
昔はエアコン無かったんだぞ
日本で石組の家なんかに住めるかよw
>>560
材料がススキだから集めるだけで大変。 エジプトのカイロやインドのバラナシとか多分いまでもエアコン普及してないと
思うけど普通に昔から石やレンガの家に住んでるけどな
仏塔や天守と言った居住を前提としてない建物も燃えやすい木で出来ているのだから普通に技術がなかっただけ 今現在石の家建てる人はほとんど居ないけど木の家は建ててる所を見ると日本が進みすぎてたんだろうね 伝統的な純木造の古民家とか冬寒くて夏は暑く
地震にも火事にも弱いから現代人からしたらすめたもんじゃないよ 鉄筋コンクリートの戸建てなんて殆どないし(新築戸建ての70%が木造残り30%も鉄筋コンクリートでは無い)
古民家は火事には弱いが地震には弱くないし暑さ寒さに関しては現代の方が進歩してるんだから当たり前でしょ
それでも石積みの家よりはましだよ日本だと湿気多くて黴が生える上に地震で崩れるからね
現代の建築事情を説明できない限り木造が劣っていたと言う主張は間違いと言わざるを得ないね
ちなみに鉄筋コンクリートと石積みは工法が全然違うからね 建築に住むと地震でくたばるよ。経済的にも身体的にも。夜空で寝れたらなあ。人目をはばからず。 いいねそれwすごくいいけど春まで待った方がいいね
土地買って塀替わりに木を植えれば視線遮れるし風にもある程度耐えられそうだね
宅地買う必要ないからすごく安く買えると思うよ 「日本の民家」で今和次郎が書いてたけど
耐久性や耐火性は分らんでもないが耐震性も欧米の古民家のほうが優れてるからな
トラス構造とか普通は地震国の日本のほうが思いつきそうなものだが
明治になって欧米から伝わるまでなかった それは明らかに古い情報だね今の時代には地震に対して「耐震」「制震」「免振」と3つのアプローチが有って
欧米の古民家は「耐震」構造、日本の古民家は「免振」構造で耐震性のアプローチが違うよ耐震と免振の違いは自分で調べてね
そもそも建物は土地の風土に合わせて発展してるから一概にどちらが優れているというのは間違いだね
欧州は地震と湿気が少ないので倒壊した時に致命傷になったり湿気に対する対策をしなければならない石造りでも問題無いけど
日本は地震で倒壊した時に致命傷になったり湿気で黴が生える石造りが発展しないのなんて当たり前だからね
ちなみにトラス構造は石積みの橋からの進化らしいよ 姫路城は建ててまもなく傾きだしたとかって話だね
一方、五重塔は地震で倒れた記録がほとんどないそうだ >>601
「古民家再生」って言葉しってる?
今文化財に指定されてる古民家は改修工事の際に洋小屋組に改変されていて実質的に古材を利用した新築と言ってもいい
民家だけではなく唐招提寺や東大寺の大仏殿ですらトラス構造や鉄骨まで入れられて伝統建築と言っていいかよくわからないものになってる
これは何としても後世に遺すための苦肉の策だけどその是非はわからない
>欧州は地震と湿気が少ないので倒壊した時に致命傷になったり湿気に対する対策をしなければならない石造りでも問題無いけど
地震は日本以外ではほとんど起きないとでも思ってるのかな?
イタリアやギリシャとかユーラシアプレートとアフリカプレートの境界に位置していて日本以上に地震大国なのに
https://www.data.jma.go.jp/svd/eqev/data/jishin/about_eq.html >>603
木自体の耐久性も有るから新しい物に変わるのは仕方ないんじゃないの?現代技術の方が優れてるんだし
地震頻度はどう考えても日本の方が多いけどね(日本はプレート4枚)画像見てると石造りの建物は倒壊した時助からないから木造の方が良くない?
逆に言えば湿度が低くて地震が少ない所なら燃えにくくて建物自体の耐久年数が高い石造りの方が優れてるだろうね
実際そういう地域では石造りの建物多いんだし、まあ意図的に木造下げをしたいなら知らんけど
ttps://goo.gl/dxkMy6.info
ttps://goo.gl/DFSeqP
ttps://goo.gl/jCughA
ttps://goo.gl/p2Lx9n 中国が石造に切り替えたのは木材の不足によるもの
日本も奈良時代には太い木材の調達が難しくなっていたが
贅沢な木材の使い方を改めてないところを見ると
石造に切り替えるほどは不足していなかったと推測される 唐招提寺の金堂は「天平の甍」と呼ばれて奈良時代からそのままの姿と思われていたのが平成の大修理で
バラしてみると明治の修理で鉄骨によるトラス構造が入っていた。もともとは低かった屋根を元禄の修理で
高くしたツケで部材に無理な力が掛かっていてその対策としてトラス構造が用いられた。平成の大修理で
オリジナルの姿に戻すか現状を維持するか検討した結果トラスを残して現状のままとすることになった。
やっぱりあの急勾配な屋根が「天平の甍」だと信じられていてそれが魅力だからオリジナルに戻して観光客が
離れることを恐れたからだけどね。 >>606
軒から下は当初の姿をよく残しているけど
軒から上の部分、特に屋根部分は後世に改造されてるみたいだね
でも興福寺東金堂みたいに浮き上がって見える屋根にはなってないのでセーフなんだろう 日光月光菩薩像・四天王像はハリボテ 東大寺の。
乾漆像だから、中身カスカスやん
尚、罰当たりが怖い人は信じないようにしましょう 諸行無常盛者必衰の理り あり 日本史を勉強してて>>1みたいな事をいうって 中身ないんやろな 日本ももっといろいろな歴史的建築物があればな(´・ω・`) 石造は地震もだが意外にも砲弾に対しても一旦崩れ始めると内部機能が一気に損なわれて脆弱だったからw 日本もピラミッドくらい作っとけよ、後年子孫のための観光資源になっただろうに(´・ω・`) 皇居でやってる大嘗宮の一般公開は明日12/8まで!
これ逃すと次の代替わりまで待たないといけない。
まだの人は早めに行って! 大飯原発1号機が稼働式典である大阪万博EXPO’70以降にエアコンが普及するまで、日本の夏は耐えがたい高温多湿の東岸性気候だった。
梅雨(降雨)時、日差しの強い日にもフル換気できるよう、軒の出を限界まで大きくし、(土)壁なんて北側にしか作らなかった(柱だけ)。
その代償として、冬の寒さで震えるわけだが、耐え難い夏の暑さには代えられなかった。 オールコック(山口光朔訳)『大君の都』岩波文庫,1962. [初出=1863年]
かれらには建築と呼びうるようなものはない。……したがって、世界最大の都市のひとつである江戸の街路ほど、むさくるしくみすぼらしいものはない。大名の屋敷でさえ、同じような建て方の低い一列のバラックにすぎず、ただ屋根が高いだけだ。(下巻, p. 176)
グスタフ・クライトナー(小谷裕幸・森田明)『東洋紀行』平凡社東洋文庫,1992-93. [初出=1881年]
実際に眺めてみると、期待した程のものではなかった。東京は大きな村という感じだった。そして、町の無数の貧弱な木造家屋の中に高々と聳え立っている帝の居城さえも、宮殿というよりもむしろバラックといった趣であった。(1巻, p. 289) 日本では斗組建築を住宅に用いなかったので
簡素に見えても仕方がない 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html 石派の人は地震で倒壊した石の下敷きになって絶滅したからじゃね? 歴史のある石造建築にあこがれる。
木造はすぐ燃えて無くなる。 もっと歴背的書物も残してほしかったね、まあ肝心の文字がないからな(-_-) 『鳳輿』に聞けば良いだろう、
本や書なんかも持っていたと言っているし、
たしか・・・かなり最近(明治時代〜戦前、戦後?)の話。 大阪城の石垣は大坂城の石垣をそのまま(改修して)使ってるの? 今も金持ちも貧乏人も木造(笑)の家に住んでる倭人たち >>633
太閤さんの築いた石垣が立派に残っていると、それを見て民衆に豊臣への思慕が募るだろうからマズい
それで徳川が築いた新大坂城が旧を覆いつくしてしまった
それでもそのことがまた忘れられて、豊臣の石垣が残っているのだと昭和の前半まで思われていたけど ガースー「恵方巻きの馬鹿喰い大会でアベコロナが大爆発や
よっしゃ、よっしゃあ」 猪豚「ワイロ、ポッケナイナイ
よっしゃ、よっしゃあ」 無能ヒトモドキも松傾も普段は他の在日チョンコ同様日本人のフリして暮らしてるはず
何故か?
それはチョンコであることが恥ずかしいからに他ならない
そして日本人のルーツにチョンコが無関係だと理解してるからに他ならない
自ら恥ずかしい存在だという自覚があり
何一つ自信を持つことが出来ない惨めさから
朝鮮起源説や反日活動で精神勝利するしかない
チョンコとはそういう存在
:_ ..、 ..__ 、___
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`il|l' il|l `'ill||lll''~ ~~ ` -‐'~~ ..l广 .`'' ゙''′
; ∧,_∧: 悔しいニダァァアーーッ!!!
:<;l|l;`田´>;
;(6 9):
:ム__)__) ええ⁉メチャクチャ発展したと思うけど、木と紙しか材料が無い状況で、何百年 下手すりゃ1000年もビクともしない建築物なんて、日本にしか無いんじゃない❓まあ西洋には石と鉄と言う素材があったから西洋式の建物を造ったけど。
西洋スタイルの建物が 過去200年くらいの世界の主流
だけど、それは技術者の力とは関係無い話。それとて日本の技術者はいとも簡単に模倣し、発展させたでしょ。 オールヒノキで作ったらええんちゃう
法隆寺やら長持ちしてるし 日本人が3階建て以上の住宅で生活するようになったのはここ数十年。
ヨーロッパでは古代ローマ時代から3階建て以上の集合住宅が普通にあった。
その差は数千年。 庶民はその集合住宅を賃貸で借りていた
住居に関して日本では近代に属することがヨーロッパでは古代からあった
その差は数千年 出島とかを西洋人に作らせなかったので西洋建築術を知らなかった エアコンが普及するまでは温帯モンスーンのこの地ではそれは正解だったでしょうけど、今は違う 中国大陸は8000年前から土壁の住居だからね
住居だけ見ても日本列島には中国大陸からなんて渡来入植してない事が分かるの
よろしいか中卒クンたち 朝鮮系大壁建物だろ
半島から東漢氏が帰化したときに伝わったもので中国大陸から伝わったものではありません
残念 現代数寄屋作りなんて、金持ちしか住めないな。
外国の住宅よりも風情があっていいと思うなあ。 東漢氏が伝えた朝鮮大壁建物、百済から取り入れた寺院建築が
全ての日本建築のベースとなっている
寝殿造も数寄屋造も 住宅に関していえば、日本のハウスメーカーというのは独特の存在らしい
海外に日本のハウスメーカーに相当するのはあるんだろうか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています