今だに邪馬台国畿内説を信じてる人っているの?
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
間違えたw
で、倭王武が大和朝廷の雄略天皇だという論証は、お手上げかい?
でも、九州倭国=邪馬台国なら、すぐに古墳時代に入って、
権力中心の移動の形跡は何もないから、結局白村江の敗戦まで九州王朝が続く。
要するに、邪馬台国畿内説が成り立つ余地がどこにもないんだよ。 >>864
阿波國半田町の地名「天皇」 同じ半田町には「京都」「蘇我」「葛城」も。
吉野川対岸の美馬町には「倭大國魂神社」、忌部の聖山「高越山」には「伊射奈美神社」。
今まで何気なしに見過ごしてきていたけど、これって他県には無い、物凄く特異なことじゃないの? @阿波 >>877
ここでも、パクリみんじょくお得意の劣化コピーオウム返しをするんだな、九州説は
>で、倭王武が大和朝廷の雄略天皇だという論証は、お手上げかい?
論証は、こちらが根拠を出して、九州説が反論した内容が見当違いってところで
終わってるんだが?
>でも、九州倭国=邪馬台国なら、すぐに古墳時代に入って、
>権力中心の移動の形跡は何もないから、結局白村江の敗戦まで九州王朝が続く。
結局、こう主張することになるだろ?
でも倭の五王の五世紀は、畿内政権の絶頂期で最大の古墳が
畿内に多数作られる時期だ
この時期の倭国の権力中心が、畿内以外にあると考える人は、
「九州説以外にはいない」し「九州説の研究者もいない」
この時点で、九州王朝説の破綻は明白
>要するに、邪馬台国畿内説が成り立つ余地がどこにもないんだよ。
これが九州説のいつもの「根拠なし」だ
「九州説は日本市民」説がますます妥当性を高くしてるな >>880
もちろん、畿内説批判にマトモな根拠は一つもない >>880
>なんかマトモな根拠あったか?
再掲
1.文献史学
宋書の倭王武の遣使記事と、日本書紀の雄略紀の遣使記事の対応関係が見て取れる
2.考古学的状況
倭の五王の時代は、畿内に巨大古墳が次々に作られる大和朝廷のある意味絶頂期
3.考古学的遺物
獲加多支鹵大王の金錯銘鉄剣が埼玉の稲荷山古墳から銀錯銘鉄剣が熊本の
江田船山古墳から出土している
4、考古学遺物と文献の一致
記紀では、雄略天皇を大泊瀬幼武天皇(雄略紀)、大長谷若建命(雄略記)としており
先の鉄剣銘と固有名詞が一致している な?
九州側は、根拠なしの意味のない 反論したつもりの書き込みしかしてないだろ?
こじつけだというなら、こじつけであることを「根拠」とともに論証してくれ
タケルはイズモタケルも古事記に出てくるし、建御名方神、武埴安彦など武人や武神に
多く付けられている
別に九州の専売品じゃないだろ ええっ?
オマイラ知ってるか?
川と川に挟まれて、周囲に住居が無くって、鉄器ゼロの
大物主の倉庫が
奈良湖のほとりに見つかったんだよ!!! 再掲
1.文献史学
宋書の倭王武の遣使記事と、日本書紀の雄略紀の遣使記事の対応関係が見て取れる
2.考古学的状況
倭の五王の時代は、畿内に巨大古墳が次々に作られる大和朝廷のある意味絶頂期
3.考古学的遺物
獲加多支鹵大王の金錯銘鉄剣が埼玉の稲荷山古墳から銀錯銘鉄剣が熊本の
江田船山古墳から出土している
4、考古学遺物と文献の一致
記紀では、雄略天皇を大泊瀬幼武天皇(雄略紀)、大長谷若建命(雄略記)としており
先の鉄剣銘と固有名詞が一致している 3世紀のかけらも引っかからない時代を力説してどうするの >>892
関係のない横レスをしてくれてありがとう
東遷説以外の九州説は、結局古墳時代まで九州王朝が存続しているとしなければならない
なぜなら、九州にあった邪馬台国が移動したとはどこにも書いてないし、考古学的遺物も
九州から畿内への権力中心の移動を示さない
とすると、「倭の五王の遣使も九州王朝が行った」と主張しなければならなくなるし、
実際多くの九州説は、そう主張している
その人たちに対して、倭の五王の中でも倭王武を雄略天皇とする比定は鉄板だから
否定できるなら否定してごらん、というのが>>891の内容
関係ないで逃げずに、否定できるなら否定してみて
できなければ、倭の五王は大和朝廷の大王でいいな?ってところが確定する >>894
>方法論が間違ってるからどうでもいい。
方法論が間違っているといいたいなら、「どこ」が「どのように」間違っていると考えるのか
「根拠」とともに示せばいいのに、相変わらず根拠なしの1行で何か入った気になる
九州説の典型だね
基本は理由も言わずに逃げる
九州説がまともに議論できないことが示せれば、それはそれで構わない 卑弥呼が日本書紀に登場しないからなあ。
大和朝廷の先祖とは別口で、共和制的女王が立てられてた場所と時代があったということ。
女王が居たのは九州のどこか。
伝聞情報が錯綜して、卑弥呼とは畿内にあった邪馬臺國(ヤマト)の女王なのだと誤報。
邪馬臺國と邪馬壹國と記し間違えたのはこれまた阿呆の書記官。 >>896
>女王が居たのは九州のどこか。
だとしたら、ほぼ同時期に日本中が古墳時代に入るんだが、
その卑彌呼がいたという設定の九州の国は古墳時代にどうなるんだ?
古墳時代の政治秩序の中心が大和朝廷なのは間違いない
そして、古墳時代開始前後に大規模な権力中枢の移動は考古学的遺物からは考えられない
卑彌呼のいた九州の国はどうなるんだい? >古墳時代の秩序
3世紀の中心となる畿内の古墳ってどれを念頭にしているのだい?
鉄器ゼロだから中心どころか辺境だと思うけど。 >>898
卑彌呼のいた九州の国はどうなるんだい?
今話題になっているのは、倭王武が雄略天皇だとする比定の妥当性だぞ?
逃げるなよ >>899
だからなんなん?
大型内行花文鏡などを無視
銅鐸の消滅
そもそも鉄器や絹など文明の利器がどうやって東へ伝播するのか
そういった考古学的遺物を全て無視して、
>古墳時代開始前後に大規模な権力中枢の移動は考古学的遺物からは考えられない
などという前提条件を断言している時点で、
お前さんは破綻している。 邪馬台国論争において、
鉄器ゼロの倉庫群と判明した時点で、敗退確定しているわけだ。
それを誤魔化すために内行花文鏡将軍の鉄器古墳を持ち出すのなら、
その年代根拠を示せ、
という、
ごくごく基本的で当たり前の質問にも答えられないのかな? 畿内の豪族と九州の倭王武の伝承を
記紀編纂時に混ぜただけだろうからねえ。 >>903
ホケノ山は三角縁がないのだから卑弥呼より前だろ。
何世紀のいつ頃よ?w >>904
>三角縁がないのだから卑弥呼より前だろ。
三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡(及びそのレプリカ)と認めてくれるなら、
その時点で「畿内が邪馬台国」で終了だな
おつかれ様でした! 撤収! >>900
>だからなんなん?
もう何度も書いてて面倒なんだが、卑弥呼の時代と古墳時代の始まりは
事実上重なる
卑弥呼の次の台与が、266年の晋への遣使を行ったと考えるなら、その時点では
古墳時代は始まっている
邪馬台国の時代と、古墳時代は重なっているんだよ
そして、箸中山古墳から見瀬丸山古墳まで、権力誇示モニュメントである最大の
古墳は畿内で造営され続け、倭国の権力中枢が古墳時代の間ずっと畿内から移動
していないことは明らかだ
で、この状態で、邪馬台国が九州にあったとするなら、邪馬台国は畿内王権とは
無関係に存在し、また古墳時代も存続し続けることになる
となると、倭の五王の遣使も、
九州説を取るなら、九州王朝の派遣を「主張しなければならない」
というところで、しかし倭の五王の最後の倭王武は雄略天皇に比定するのが定説
九州説の人は、九州王朝の存在と、倭王武が畿内王権の大王であることを
どう説明するのかと訊いている訳だ
答えておくれよ
先に、問題点を提示したのはこちらだ
逆質問で逃げずに答えてくれるとうれしい
答えられないなら、九州説はその程度だってことだ 卑弥呼が亡くなって、しばらく戦乱になって
その後トヨになる時代と古墳時代が
重なるのですね。
卑弥呼の時代は定義としては
弥生終末期になります。 >>905
なに論点ずらしてんの?w
キナイコシのヨタ話では、
三角縁=卑弥呼がもらった鏡なのだろ?
三角縁=卑弥呼がもらった鏡だという、キナイコシのヨタ話に付きあうと、
ホケノ山は三角縁がないのだから卑弥呼より前だろ。
じゃあ、ホケノ山は何世紀のいつ頃よ?w キナイコシが王宮と主張してた建物群からは
鉄器ゼロ
海外土器ほぼゼロ
祭祀型銅器すら無い
鉄器ゼロを指摘すると、
ホケノ山の副葬品を持ち出そうとするから、
じゃあその年代はいつよ?
と、ごくごく当たり前の質問をしているのだが。 >>907
>その後トヨになる時代と古墳時代が
>重なるのですね。
卑弥呼の共立から古墳時代が始まってると見るのが、今の主流だけどまあいいや
で、台与の時代は重なってるとして、その台与の邪馬台国が九州なら
倭の五王の時代には、その九州の王はどこで何をしているのか?
という疑問
畿内説では、そのような存在を考えないので、九州説の人に
ぜひ答えてもらいたい >>910
なんで邪馬台国板で倭の五王を九州説が説明しないといけないのん? キナイコシが王宮と主張してた建物群からは
鉄器ゼロ
海外土器ほぼゼロ
祭祀型銅器すら無い
鉄器ゼロを指摘すると、
ホケノ山の副葬品を持ち出そうとするから、
じゃあその年代はいつよ?
と、ごくごく当たり前の質問をしているのだが。 畿内説反対スレはやたらあるのに、逆が見たらないってことは、
畿内説が一般にかなり広く浸透しているって理解していいですか。 >>913
>畿内説反対スレはやたらあるのに、
盗人モウモウしいっていうのを実感したわ もともとは邪馬台国スレはあっても
畿内説や九州説スレはなかったんだけどね。
畿内説がこてんぱんにされるので
九州説を隔離しようとして、
畿内説さんが九州説スレを立てたのさ。
でも相変わらず畿内説はこてんぱんにされ続け
九州説スレもよく使われていたが
畿内説さんが建てたものなので執着はない。
そのうち、経緯を知らない
九州説スレに嫉妬した畿内説さんが
畿内説スレを建てた。
こちらは畿内説さんが建てたものだから
畿内説さんは畿内説スレにものすごく
執着してるわけだ。 いや、こんなスレが作られるくらい、キウスと岡上の所行は常軌を逸っしてるんだが?
「もう邪馬台国板でも作れよ [無断転載禁止]©2ch.net」
九州説を信奉するなら、九州説スレでやればいい
「邪馬台国畿内説」で始まるスレタイを乱立させているのが、ただの迷惑目的なのは明白
まあ、常に背乗りしたがるのは、身に染みついた業なんだと思うけどさ テンプレを読みに行くことすら拒否する駄々っ子のために貼ってあげるよ
倭国内の弥生時代後期〜末期に鉄器がないと想定する方がおかしい
鉄器が「発掘されない理由」を考える方が、重要
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。 あのー
それだからダメだって言ってるんだが。
纒向の話をしているのに、
京都大阪までかき集めてどうすんの?
しかも京都大阪までかき集めてたったのそれだけ?
邪馬台国じゃないなあ、と思わないの?
北部九州の人がわずかに持ち込んだ鉄器を大事に大事に使ってたんだなあ、と思わないの?
【鉄器】
唐古鍵 板状鉄斧
大竹西遺跡 鉄剣(大阪府八尾市)
<こ れ だ け>
【痕跡】
唐古鍵 鉄斧「柄」
加美遺跡Y1号周溝墓 「伐採痕」(大阪市)
久宝寺南遺跡 準構造船の加工痕(大阪府八尾市)
纒向遺跡 大量の砥石 大型鉄器を研磨したと「推定」
明らかじゃん。
ごくごくわずかな鉄器とその痕跡のうち、
3点が大阪で、八尾市に準構造船を伴っている。
北部九州倭人が鉄器を持って準構造船でやってきたわけだ。 >>919
> 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
前提が妄想だから、それ以下の論証になんの意味もない。 畿内説さんは自分の建てたスレに執着して
他人が畿内説スレを建てても
貶めて潰すような行為をする。
執着しない九州説から見れば
あるもの使えばいいと思うが
畿内説さんはちょっと病的だね。 >>893
>東遷説以外の九州説は、結局古墳時代まで九州王朝が存続しているとしなければならない
彩色古墳、沖ノ島の祭祀など、九州北部が畿内とは異なった王朝文化を維持していたことは、考古学的にも伺えるよ。 >>893
>その人たちに対して、倭の五王の中でも倭王武を雄略天皇とする比定は鉄板だから
いや、色々おかしいよね。 >>897
>そして、古墳時代開始前後に大規模な権力中枢の移動は考古学的遺物からは考えられない
直前の弥生末期には福岡県内に王墓が集中しているけど?
畿内に邪馬台国を想定するなら、大規模な倭国の東遷でもなければいけなくなる。 >>900
>そういった考古学的遺物を全て無視して、
>>古墳時代開始前後に大規模な権力中枢の移動は考古学的遺物からは考えられない
>などという前提条件を断言している時点で、
>お前さんは破綻している。
その通りだな。
畿内の文化は九州北部の銅鏡銅矛文化に飲み込まれていくだけの辺境の一地方。
同じ関西圏でも、近江や摂津などが発展していたのに、交通の便の悪い大和は後進地域だよ。 >>906
>古墳は畿内で造営され続け、倭国の権力中枢が古墳時代の間ずっと畿内から移動
卑弥呼は弥生時代だよ?
日本史学会では邪馬台国を古墳時代だと認めているの? >>910
>倭の五王の時代には、その九州の王はどこで何をしているのか?
倭が九州北部のことなら問題は解決だろ?
畿内の歴史書である記紀には五王のことは載っていないのだから。 >>922
>執着しない九州説から見れば
>あるもの使えばいいと思うが
あるものを使えばいいのに、使いもしない背乗りスレを大量に乱立させてるんだぞ?
ここもその一つだが、もうすぐ埋まると多分また無駄にスレ立てするヤツがいるんだぜ
使えるスレはきちんとあるのに!
>畿内説さんはちょっと病的だね。
病的なのは、ザラコクとかキウスとか、お鏡さんだよ
日本史板も、コメ数が20に達するまで2日以上かかるスレは落ちるようにすればいいのに >>922
病気病気。倒錯してるから頭の病院行った方がいいと思うね。
一応、公共の掲示板なのになぁ。 >>928
>倭が九州北部のことなら問題は解決だろ?
そうではないことを示すのが、倭王武=雄略天皇ってこと
これは教科書にも載っているレベルの定説で
根拠もこれだけある
1.文献史学
宋書の倭王武の遣使記事と、日本書紀の雄略紀の遣使記事の対応関係が見て取れる
2.考古学的状況
倭の五王の時代は、畿内に巨大古墳が次々に作られる大和朝廷のある意味絶頂期
3.考古学的遺物
獲加多支鹵大王の金錯銘鉄剣が埼玉の稲荷山古墳から銀錯銘鉄剣が熊本の
江田船山古墳から出土している
4、考古学遺物と文献の一致
記紀では、雄略天皇を大泊瀬幼武天皇(雄略紀)、大長谷若建命(雄略記)としており
先の鉄剣銘と固有名詞が一致している
倭国が九州北部だというなら、これを覆すだけの絶対的な物証と、緻密な論証が必要だが
それができた九州説を見たことがない
できるのは根拠なしの一言書きに捨て台詞だけ
例)>>883 など
さあ、絶対的な物証と、緻密な論証を期待しています!
できるものならな 雄略の時代は
宮廷は奈良になかったからな
邪馬台国と何も関係ない >>932
>宮廷は奈良になかったからな
宮廷って何を意味するつもりで使っている?
泊瀬朝倉宮は磯城にあるよ
>邪馬台国と何も関係ない
今問題にしているのは、倭王武が雄略天皇という定説を認めるかどうか
九州説は倭の五王を九州王朝としているがそれがトンデモだっていうのの確認 倭の五王はプレ九州王朝の王権。
九州王朝は筑紫君磐井から始まる。 >>934
>倭の五王はプレ九州王朝の王権。
ほらね?
結局、九州説だと倭の五王の遣使は九州の派遣ってなっちゃうでしょ?
では、がんばって倭王武は雄略天皇という定説を否定してみてくれ
できなければ、九州説は成り立たない >>935
倭の五王と、畿内説が比定する天皇の家系は食い違いがあるよ。 >>934
いや、磐井は途中の王だね。
おそらく武内宿禰(玉垂命、住吉神)が始祖の一人だよ。 >>937
武内・・・神功皇后を孕ませ応神の実父である憎いアイツのことか 筑前国一宮住吉神社、筑後国一宮高良大社のいずれも武内が祭神になっている。
つまり武内は筑紫の覇者であり倭王だ。
ヤマトタケル(倭の覇者の意味)のモデルとも言われる長身長寿のバケモノ。 磐井は先代から筑紫の君(倭王)の位を平和的に受け継いでいるはずなので、「初代」とは呼べないはず。 >>938
>武内・・・神功皇后を孕ませ応神の実父である憎いアイツのことか
むしろ、武内宿禰は神功皇后の実父っていう説の方が信憑性がある
春秋年なら仲哀の死後2年目に出産というのも実は筋が通ってる >>936
>倭の五王と、畿内説が比定する天皇の家系は食い違いがあるよ。
それを言ったら、九州王朝には家系図すらないじゃないか
大陸側は朝貢に来たときの使者の伝える情報が全てで、
しかも断片的なんだからあまり言ってもしょうがない
雄朝津間稚子「宿禰」尊が本来は大王になるべき皇子ではなかったことも
影響しているかも知れない
で、その辺を言い出すとガタガタするから、
「倭王武が雄略天皇に比定されることの是非」に絞って話をすれば紛れがないだろ?
これを否定できなければ、九州王朝はあり得ない >>942
>「倭王武が雄略天皇に比定されることの是非」に絞って話をすれば紛れがないだろ?
家系図が違うのだから、取り敢えずそこの比定は間違いだということだよ。
冊封体制においては、王は世代ごとに中国の承認が必要なんだよ。
だから断片的な情報で誤るということはない。
畿内説に都合の悪い情報は無視するという悪い癖が出ただけ。 >>943
都合の悪い情報って?
またブラフで罵倒? >>943
>家系図が違うのだから、取り敢えずそこの比定は間違いだということだよ。
という反論は、倭の五王の最初の方には成り立つけれど、最後の3代は
允恭天皇、安康天皇、雄略天皇の系譜と完全に一致してるよ!
ということで、
「倭王武が雄略天皇に比定されることの是非」に絞って話をすれば紛れがないだろ?
これが否定できなければ、九州王朝説は死亡だよ
さあ、がんばれ >>945
そりゃあ一部くらいなら合うだろう。
うちの親戚とだって部分的になら合うと思うよw
でも、王統はそういうものではない。
一部同じだから正しい、など見苦しい言い訳だ。 >>946
合わないから別だ、という主張に根拠が無いだけ >>947
合わないってことは、比定が誤りだということだよ。 >>946
みぐるしいなあ
じゃあ、どこがどう合わないかきちんと指摘してごらん 讃と珍が、通常、仁徳と履中とされていて、記紀の系譜だと親子なのが
宋書では珍が弟とされてるってところだろ?
珍が履中ではなく反正と見れば、それで解決だよ >>948
これに対しては、反論はないのかい?
1.文献史学
宋書の倭王武の遣使記事と、日本書紀の雄略紀の遣使記事の対応関係が見て取れる
2.考古学的状況
倭の五王の時代は、畿内に巨大古墳が次々に作られる大和朝廷のある意味絶頂期
3.考古学的遺物
獲加多支鹵大王の金錯銘鉄剣が埼玉の稲荷山古墳から銀錯銘鉄剣が熊本の
江田船山古墳から出土している
4、考古学遺物と文献の一致
記紀では、雄略天皇を大泊瀬幼武天皇(雄略紀)、大長谷若建命(雄略記)としており
先の鉄剣銘と固有名詞が一致している >>948
つまり、合いもしない筑紫倭国とやらの王にデッチ上げようとする人がいたら、クレージー・ダブスタと呼んであいね? >>950
>珍が履中ではなく反正と見れば、それで解決だよ
勝手に王位継承順を変えていいわけないだろ。 【徳島市大原町千代ヶ丸山 観音山古墳は、反正天皇の御陵跡であった】
元禄年間に徳川幕府から「阿波淡路右両国之内、古代之天子葬之場所有之由ニ候云々」として阿波で古代天皇の埋葬が行われた痕跡を徳島藩に調査させている。
元禄十四年四月二十四日(同日)、勝浦郡大原村千代ヶ丸の観音山古墳を徳島藩普請奉行 猪子理五郎等が掘り出した時の記録も残っている。
『(元禄)同十年十一月十九日、土屋相模守殿、御留守居呼出左之書付御渡、 覺 阿波淡路右兩國之内、古代之、
天子葬之場所有之由に候、淡路國三原郡有之旨に候、場所吟味有之候䔡其所に矢奈等被申付、雑人不入込候様可被申付候(中略… )
同十四年四月廿四日、勝浦郡大原村千代ヶ丸觀音山へ、普請奉行猪子理五郎、森脇彌五兵衛罷越、石之櫃堀出し申處に、内に右左品々有之、
一、石櫃長九尺八寸、深貮尺九寸、幅三尺餘、切ふさ貮枚、むぎ合に仕、内樋有之、
一、しやれかうべ貮つ、長サあぎとまで壹尺四寸、丸サ三尺七寸廻り、兩眼の間三寸、
一、上下の齒長さ八分、左奥齒より右之奥齒まで壹尺四寸、兩方の耳幅長さ壹尺五分、
一、今一つかうべの儀は不分明
一、刀一腰長さ六尺八寸、幅貮寸五分、
一、釼二振有之内一振は長五尺五分、幅三寸五分、今一振は長壹尺五寸、幅三寸五分、
一、鉾一、長さ貮尺は丶七寸、石突八寸、
一、矢根廿五本有之、長壹尺貮寸、幅三寸、
一、からうとの内かうや貮つに書付添、
右之通 以上』
「古代天子葬之場所有之由の候… 」 この記述から、徳川幕府は阿波国に古代天皇陵が存在することを知っていたことになる。
反正天皇は「古事記」に「御身の長(たけ)九尺ニ寸半、御歯の長さ一寸、広さニ分、上下等し斉(ととの)ひ、既に珠を貫けるが如くなりき。」と記録されているが、
こちらの記録と千代ヶ丸 観音山古墳の埋葬者の身体サイズときちんと一致している。
徳島市は大原町千代ヶ丸。この千代ヶ丸山 観音山古墳は、実は反正天皇の御陵跡であったのである。 @阿波 >>954
>勝手に王位継承順を変えていいわけないだろ。
???
変えてないだろ?
履中が朝貢しなかった、1代スキップしたってだけだぞ?
そもそも、系譜が合わないのなら、
宋書または記紀のどちらかまたは両方の記述に誤りがある、というだけで、
倭王武1代だけの
「倭王武が雄略天皇に比定されることの是非」とは切り離して議論できるだろ?
九州王朝説を主張するなら逃げずに、「倭王武が雄略である」というのを否定する根拠を
示して論証してくれ
できなければ、九州王朝説は死亡ってことで 雄略天皇が大和朝廷につながる大王だという証明がないと意味ないね
記紀が九州王朝の大王の系譜を盗んで王統を長く見せてるという事は十分にあり得る >>958
958は「あり得る」でいいんだ
何の論証もいらないね
雄略とのちに呼ばれる、畿内の磯城の地に泊瀬朝倉宮を置いた大王が、
大和朝廷のそのときの大王である可能性は、あり得るどころじゃないんだけどさ
結局、これに対する具体的な根拠のある反論、反証はないんだね
1.文献史学
宋書の倭王武の遣使記事と、日本書紀の雄略紀の遣使記事の対応関係が見て取れる
2.考古学的状況
倭の五王の時代は、畿内に巨大古墳が次々に作られる大和朝廷のある意味絶頂期
3.考古学的遺物
獲加多支鹵大王の金錯銘鉄剣が埼玉の稲荷山古墳から銀錯銘鉄剣が熊本の
江田船山古墳から出土している
4、考古学遺物と文献の一致
記紀では、雄略天皇を大泊瀬幼武天皇(雄略紀)、大長谷若建命(雄略記)としており
先の鉄剣銘と固有名詞が一致している >九州王朝説を主張するなら逃げずに、「倭王武が雄略である」というのを否定する根拠を
>示して論証してくれ
@
倭王武は5世紀末から6世紀初頭の人。
雄略は5世紀の人であるが6世紀初頭の人ではない。
∴ 倭王武 ≠ 雄略
A
倭王武は九州の人
雄略は畿内の人
∴ 倭王武 ≠ 雄略 >>959
全部妄想だよ
一つ一つ検証すると根拠がない。 日本側に文献が残っていたかどうかだな。
5世紀後半から6世紀だと
文字が普及するギリギリのところ。
口伝だと細かい年代を記録するのは
ほぼ不可能だからね。 埼玉の王が、熊本の王から鉄刀を下賜
されているようですね。
関東と九州が関係を持っていたことがわかります。
その頃の畿内の状況は不明ですがね。 畿内の頭越しに関東と九州が結びついていたのは興味深いな… >>965
畿内は下手に人口が増えていたからね。
九州倭国から見たら、
遠交近攻でしょう。
遠交(関東)
近攻(畿内)
北部九州グループ(+関東) :彩色古墳
南部九州グループ(+瀬戸内、畿内):線刻古墳 関東はもともと出雲の勢力下だったが、出雲が筑紫の支配下に入ったため、関東も筑紫の支配下に入ったのだろうね。
大宮氷川神社、鷲宮神社などの出雲系列の大社に加え、出雲を攻略した武将が祭られる鹿島神宮、香取神宮などかある。
そのまま出雲と筑紫の歴史を反映しているのだろう。 >>960
>@
>倭王武は5世紀末から6世紀初頭の人。
>雄略は5世紀の人であるが6世紀初頭の人ではない。
>∴ 倭王武 ≠ 雄略
これ「6世紀初頭の人」は、梁書と南斉書の武の「進号」記事をもって
その時点でも武が生きていたといいたいのだろうが、どちらも
梁と斉の初代皇帝が新王朝を建てたときに、前王朝の冊封を追認し
新皇帝の徳を示すために御祝儀で進号しているものであり、
倭からの使者が来たという記事ではない
倭王武本人とは関係のない勝手進号
なので、6世紀に倭王武が生きていたから雄略ではないという指摘はあたらない
残念だったね
きちんと梁書と南斉書を読んでごらん
梁書 梁書 卷二 本紀第二 武帝中 天監元年
「戊辰 車騎將軍高句驪王高雲進號車騎大將軍
鎮東大將軍百濟王餘大進號征東大將軍
安西將軍宕昌王梁彌進號鎮西將軍
『鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍』
鎮西將軍河南王吐谷渾休留代進號征西將軍
巴陵王薨于姑孰 追諡爲齊和帝 終禮一依故事」
南斉書 列傳 凡四十卷/卷五十八 列傳第三十九/東夷/倭國
「倭國,在帶方東南大海島中,漢末以來,立女王。土俗已見前史。
建元元年,進新除使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓〔慕韓〕六國諸軍事、
安東大將軍、倭王武號為鎮東大將軍。」 >>960
>A
>倭王武は九州の人
>雄略は畿内の人
>∴ 倭王武 ≠ 雄略
これ「倭王武は九州の人」にまったく根拠がなくて、
ただの九州説の人の仮定に過ぎないんですが?
根拠の一つも挙げて論じるならともかく、これでは
九州説はただの妄想です、と言っているようなものだよ >>961、>>962
反論するなら、妄想だと断じるなら、そう判断するに至った理由なり根拠なりを挙げてくれよ
九州説はいつも、理由もなく一行書きで「そうじゃない」っていうだけ
科学板なんだからさ、議論、討論をしようよ
できなきゃしょうがないけどさ >>964
>埼玉の王が、熊本の王から鉄刀を下賜
>されているようですね。
>関東と九州が関係を持っていたことがわかります。
ここでいう埼玉の王が、稲荷山古墳の被葬者で、熊本の王が江田船山古墳の被葬者ということかな?
でも、江田船山古墳の鉄剣の方が「銀」錯銘で、稲荷山古墳の鉄剣が「金」錯銘なんだよ
普通に考えて、稲荷山古墳の鉄剣の方が格上で、被葬者も重要人物だと考えられる
熊本の王から埼玉の王へ下賜というのは、筋違い
九州だからえらいっていう先入観ははずした方がいいよ
共通の王、「獲加多支鹵大王」に、それぞれ仕えていたことを記していると考える方が合理的
そして、斯鬼宮を宮都としていたと書かれているので、磯城の地に泊瀬朝倉宮を置いた大泊瀬幼武尊
つまり雄略天皇として、矛盾はない じゃあ関東王朝説でも立ててみようか?
ところで朝倉宮って地名が移転したのか? >>974
>じゃあ関東王朝説でも立ててみようか?
お好きにどうぞ ただのトンデモ説にしかならないけどね
そして同時に、九州王朝説もその程度のトンデモだという告白(告発?)にしかなってない
>ところで朝倉宮って地名が移転したのか?
近鉄大阪線の桜井駅の隣に、大和朝倉駅ってのがあるよ
泊瀬も朝倉も、磯城郡の中の地名
太古に九州の人が九州の甘木周りの地名を持ち込んだってのは、安本説だね >>970
>「倭王武は九州の人」にまったく根拠がなくて、
>ただの九州説の人の仮定に過ぎないんですが?
根拠 梁書諸夷伝東夷条
倭
武は倭国王
扶桑國
扶桑國から荊州(湖北省)へ来た留学僧慧深が説くには、
乙祁(億計天皇)は大漢國建康(南京)から東へ2万里(1600q)の国(扶桑國)の王です。
大漢國建康(南京)の東方2万里(1600q)にあるのは近畿。
九州は、大漢國建康(南京)の東方1万2千里(1000q)になる。 >>976
>根拠 梁書諸夷伝東夷条
これは無理があるだろう?
乙祁(億計天皇)は、名國王爲乙祁のことだろうけれど、乙祁をオケと読むのは苦しい
乙は「yǐ」だし、祁は「qí」だ
梁書は、梁の時代のことが書いてあるのだから、502年から557年のこと、6世紀だ
継体天皇の在位が507年〜531年でこのあたりはほぼ正確
雄略天皇までは、日本書紀が元嘉暦で書かれており、それなりに信用できるとして
継体天皇から仁賢天皇(億計天皇)まで遡ると、仁賢天皇の在位は
488〜498年の5世紀となって、梁の時代にかからない
そもそも、梁書の扶桑国の記述は、「沙門慧深來至荊州 説云」と最初に書いてあって
慧深がこう言っていたというだけで、何がどこまで正しいかも分からない代物 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。