邪馬台国畿内説 Part312
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1514650470/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>197
お前のレスは
Part311 >>866
>そして、お前との長い議論が始まって、途中でお前がまた、
>突然「尿入り一升瓶」のヘイトスピーチを書いたから、
>私は和田キヨエが主犯である、という説明投稿をした。
その途中で突然書いたという「尿入り一升瓶」のヘイトスピーチを引用してみ >>923
お前ら「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの大和説患者は、
国民にも迷惑で害になるから、日本人を辞めろ。 >>930
>輕軍到襄陽。聞先主已過,曹公將精騎五千急追之,一日一夜行三百餘里,及於當陽之長坂「先主傳」
は、外縁部間距離ではない<
陳寿自身の見聞ではなく、
漢代の記録であるから、外縁部間距離記載であったのか?は、不明。
むしろ、「一日一夜行三百餘里」の「三百餘里」は、
「一日一夜行」だけの説明である事になるから、
襄陽〜長坂の全体の距離ではなく、
「一日一夜行」のような事が途中であった、という情報であった可能性もある。 >>931
説以前に、大和説者って、マジで頭の病気だろ、
サイコパスすぎる。 >>205
>「一日一夜行」だけの説明である事になるから
一日一夜は一昼夜
襄陽(城)から當陽之長坂まで三百餘里 >>940
>>何日かの内の一日は、夜も走った<
>一日一夜は一昼夜、135kmを数日かけたら急追ではない <
一日15kmなら、135kmは、9日かかる。
>>未整備な荒れ地では、長里では全く無理。<
>慢話だから未整備に限定できない 古田里の日に約15kmくらいだったら軍隊より遅め<
まあ、自分で実験してみな。
前も足元も見えない位の藪道があれば、
人も馬も、、トゲでズタズタになってしまって、血だらけになってしまうよ。 >>205
>「一日一夜行」のような事が途中であった
精騎で急追して何日間で當陽之長坂の劉備に追いついたかもわからなくなってしまう曲解 >>208
>一日15kmなら、135kmは、9日かかる。
一日15kmは精騎で急追ではない >>208
>前も足元も見えない位の藪道があれば
自慢話をするのに距離が短くなる条件下での話はしない >>941
>先に襄陽を発った劉備たちと荊州の民は「日行十餘里」
いくらなんでも古田里の日に約765m余りは遅すぎる<
そりゃそれなら、当然、「歩行1日200里」と比べたら、遅すぎる。
まあ、漢代の長里記録であったとしても、1日4.5kmでは、ちょっと遅い。
しかし、家財道具や子や孫らも連れた住民がいれば、
やはり相当に遅かったんだろうが、
長里記録であったのか?短里記録であったのか?の判断材料にはならない。 >947
>>陳寿が、会稽の東の治、と書いたから。<
>陳寿が会稽の東の治と書いたって 「東治」が 東の支配地域 なんていう意味にはならない
文字の意味を捏造するな<
「治」の原義は「治する=支配する」。 >>950
>未整備は悪路や山道だと決めつける理由は?<
倭地でも、弥生銀座には大道が幾つもあるが、
對海國や末盧國では苦労しており、
雑木林の原野であっても、草が密生していれば、
とてもまともに歩いたり騎馬で走れる、というものではない。 >>952
>>陳寿が地名を書いていないから<
>書いているぞ、東治と。 今の福州だ。<
書陵部の王朗の「東治」も、」
「東治」という地名であったとすれば、現地にそんな地名の場所が存在しないから、
「東の支配地」という普通名詞的な使用であった事になるだけだ。 >>959
>>(陳寿は)少し北になる上海方面から東方だ、とした方が適切だろう、と思ったから。<
>あり得ないね そこは呉郡で、会稽じゃないから<
陳寿は、その呉郡がつい最近まで会稽郡であった事を知っているし、
漢書の「会稽海外」記載との関連を示しておく必要もあったから。 >>960
大和説は、「南→東」などのような嘘吐きダマシのウソの、
捏造やりすぎ 。 >>973
>大和が天下を取る前に、九州北部が天下を取っていた時期があり、邪馬台国ほその頃の話なんだよ<
賛成です。 >>975
>15キロを歩くより1000メートルの山を登る方が大変だぞ
それより遥かに高く険しく迷いやすい山を幾つも上り下りして確認しなければならない
街道で歩数を数えるだけですむ距離を測る方が遥かに簡単だ<
賛成です。 >>976
>>古田さんが、第1書でので王朗の「東冶」の記載を、どっちの本から採られたのか、
という事が問題だ。<
>その箇所引用してみて<
古田第1書の「王朗」の記載の前後を少し探したが、
見つからなかった。 >>212
家財道具といっても逃げてるのだから必要最小限のものだから
日に約765m余りはいくらなんでも遅すぎ
散歩より短い >>220
>古田第1書の「王朗」の記載の前後を少し探したが、
>見つからなかった。
見つからない?
引き続き古田が宮内庁書陵部に三国志版本が2種類あったと
言っているという証拠をよろしく >>983
>なんで同じ国で単位の混在なんて有りうるんだ?
度量衡の統一は国家の象徴じゃないの?<
周髀算経や礼記の周制への復古は、魏朝が決めた事で、
呉は関係がないから、魏朝の短里を使うものもいれば、
従来の長里を使うものもいたから混在であり、
蜀は、元々漢朝系であったから、
むしろ漢代の長里を使う事が多かった、という混在。 >>986
>いつ、どこで誰になんと説明したんだ? 隠して誤魔化さずに
ちゃんと理由を明らかにしろよ <
「南→東」などの嘘吐きダマシの、
相手の説明に知らん振りして同じことを質問し続ける大和説者は、
・・・・である事が自明であるから、
同じ事を繰り返し書かされるのは面倒臭いので、嫌だ。
また、世間の人々に説明する必要を感じたら、書いておくつもり。
大和説者は、「南→東」などの嘘吐きダマシの誤魔化しばかりだから。 >>213
みずにつかるに台をなすすなわち治なり(もゆるおとこ >>219
つまり陳寿は知らなかったけど短里が使われていますって? たいほうの
いへんをしるは
いとの女王
こうそん窮し
はんしゃすばやき(まきむくむりや >>1000
>(鯨面文身)東海と吉備が二大中心地なら、当然その人たちは纏向に来てる<
東海と吉備が二大中心地なら、当然その人たちは、出雲系の銅鐸祭祀部族なんだろうなあ。
梁書の出雲の文身國の呼称とも、整合するし。
という事は、魏使らが筑紫で目撃した鯨面文身部族は、出雲系住民であったのか?。 げいめんぶんしんはしなかいえんがんのふうぞくやろ?
おかやまの土偶は拡散後(かいけつ >>230
>>>219
>つまり陳寿は知らなかったけど短里が使われていますって?
多分そう。
でもちょっと怪しんで、日程も合わせて記載した。
後世のバカがそれを続けて読むものだと思い込んで畿内説を創作した。 >>234
5000里だけはいちり400mやな(かいけつ とういでんりはざっくりいっていちり90mぜんご(統計解析済み >>234
でもたぶん後世のバカって陳寿の記述を見て
短里が使われてる!って思い込んで
その証明に無駄な年月を費やしてる人間の事だと思うぞ >>237
とういでん
そのりのながさ
いっしゅんで
こんぴゅうたあが
90はじく 太宰府の
ぶんしょによれば
すべてきゅうしゅう
だがはやまるな
やまいはそのあと 57のりずむにのりてよっぱらう
やまいはたぶんさんいんかきび(あるいはしこくやきょうと きゅうしゅうにふりなるりくぎょう
ひとつきながすぎ
わえのちょっかん
ことしはえんがこうとうかぶはぼうらく
しろうとはてをだすべからずとくにろうじん
わえのちょっかん >>238
人間は才能あるやつが訓練すれば
一日100キロでも走れる訳だしな
だから大月氏国クシャーナ朝に金印が贈られたりした
一日15キロしか歩けない人間たちとかコメディだ >>237
>短里が使われてる!って思い込んで
>その証明に無駄な年月を費やしてる人間の事だと思うぞ
短里が使われているのは明白であるのに、それに無駄な反論を試みるために人生を費やしている自分の愚かさは棚にあげるのですね。 >>242
道路が舗装されていないし、荷物を抱えて参勤交代のような行列ないしキャラバンで移動することを前提とするはず。
超人的な人間を前提とした記述は当時も資料として意味を成さなかっただろう。
外交官が輿にでも載せられて移動する姿を想像するといい。 >>62
大和説
「距離は5倍以上間違ってるし、方位は絶対に間違いよ!」
「陳寿は短里を知らないし、方位は完璧に間違いよ!」
>後漢書(424頃) 「自女王國『東』度海千餘里至拘奴國」<
5世紀の南宋の范曄が後漢書として「女王國」と書けば、
そりゃ魏志の卑弥呼の事であり、
魏志の「南」と「狗奴國」を、
「東」や「拘奴國」と勝手に書き換えている事になるから、
この文は、✖ね。
>隋書東夷伝(628) 「都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」<
「則魏志所謂邪馬臺者也「」という魏徴らの注的記載は、
「邪馬壹國と邪馬臺國」とを「同じだ」というインチキをしているから、✖。
>混一疆理歴代国都之図(1402) <
はるか後代に、実地に計測確認する事無しの知的退化での、
想像で書いた地図だから、✖。
大和説
「地位の低い陳寿が書いた魏志は間違いだから、聖典にせず改竄すべし!」
「後漢書は南宋のお偉いお方が書いたから、我々はすべし絶対的聖典にすべし!」 >>66
大和説の掟
その1 大和天皇家一元列島支配の人種差別戦争的な皇国史観を絶対信仰する事
その2 安部政府文部省や右翼マスコミやキョクウ教育界の教えを絶対信仰して崇め奉ること
その3 遺物の年代比定は大和説に都合がよい様に言いくるめること
その4 都合の悪いデータはこっそり隠して話題にせず、他説攻撃に転ずること
その5 間違っていようが、他説の人格攻撃を言い張ることが最善の道
その6 文部省や上司の言う事には、何も考えず服従すること
その7 発掘調査でヤバイものは見て見ぬふりをすること
その8 ただひたすらに大和説を信仰する事 信じればよし >>67の訂正
後漢書が、書き直した事は、魏志と比較すればすぐ判る。
范曄が書き換えた理由は、范曄の誇張癖や誇大化癖という性格的なものであり、
范曄が「高慢で威張りたがり屋」だろう、という事もすぐ判る。 >>245
後漢についての歴史書は、東観漢記、後漢紀、八家後漢書と数多くの史家が著している中で
三国時代以後、司馬遷『史記』・班固『漢書』・東観漢記は「三史」と尊ばれた
唐代以後は范曄『後漢書』が東観漢記に取って代わるようになった
隋書に邪馬壹國は書かれていない
混一より前の時代に、実地に計測確認した優れた地図は?
地位の低い陳寿が書いた魏志は間違いだと言ってるのは誰? 陳寿は、国史を掌る著作郎(六品)から杜預・張華の働きかけにより治書侍御史(兼中書侍郎・領著作郎(兼任))に昇進、
『華陽国志』では太子中庶子(五品 (600石、天子の侍中に相当))『晋書』陳寿伝では、「起爲太子中庶子、未拜」
太子廃位により就任しなかったが、除せられたという事実は、陳寿の西晋朝における地位を物語っている
地位は低くない 245-247を書いたのはザラコクだな
ここまで無知な男なのか
呆れたものだ
「三史」の著者
『史記』の司馬遷は宮刑(去勢する刑罰)、『漢書』の班固は獄死、『後漢書』の范曄は一家全員処刑
と比べると、蜀漢出身の陳寿の西晋での経歴は不遇というほどではない >>244
答曰「翻能步行日可二百里。自征討以來、吏卒無及翻者・・・」
が短里だと言い張ってる人間が>>242dで笑われてるんだが
状況を理解してる?
九州説
「距離は5倍以上間違ってるけど方位は絶対に間違わないよ!」
「陳寿は短里を知らなかったけど方位は完璧に知っていたよ!」
後漢書(424頃)
「自女王國『東』度海千餘里至拘奴國」
隋書東夷伝(628)
「都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」
混一疆理歴代国都之図(1402)
https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/tenjikai/2002/zuroku/jpg/001.jpg
九州説
「魏志は聖典にして“南→東”や“邪馬壹國→邪馬臺國”や“當在會稽東治之東→大較在會稽東冶之東”など勝手に書き換えてはならない!
根拠は出せないが、後漢の范曄が“高慢さ”や“威張りたがり屋”」で誇張や誇大化の傾向なのは、魏志と比較すれば直ぐ判る。
日本の文部省や大陸人が許しても我々は許せない!」 >>253
少ないからおかしいと指摘されてるのに
強弁でごまかす醜態 >>255
言いたいことはそれだけ?
何が何でもキナイセツに持って行こうとしているだけでしょ。 沖ノ島の祭祀を見るに、倭国の国家祭祀の中心は4〜6世紀でも九州北部なんだよなあ。 沖ノ島は中央の管理のもとに祭祀が行われてる
九州説ってなんでこんなにバカなんだろうな あと宗像は福岡の中央勢力に近い位置でありながらここと一定の距離を保っている
かえって東の出雲などと繋がりを持って独自勢力を維持しているのが見える
つまり九州説の大好きな伊都国だのとは別勢力的な立場を見せているわけだ
「九州なら何でもいい」とか思い込んでるアホは何も知らないのがよくわかる 九州で見つかった卜骨って
有明海岸の限られた地区にまとまってるんだよね
それって壱岐からか吉備からか知らんけど
そこは外来者の住み着いた村で
九州そのものには卜占の風習はなかった
ってことじゃないの? >>69
大和説者が、
漢籍の知識を沢山持っている、といくら高慢に誇っても、
その裏で「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをしていたのでは、
無意味。 >>263
大和説者が、 漢籍の知識を沢山持っていると言っているんじゃなくて
中国の三国時代以降や現代の史家
彼らを信頼できないと言ってるのが高慢無知なザラコク >>71
筑紫は、卑弥呼や壹與が女王であるから、」男子がする鯨面文身がすたれるのは当然だが、
大和は、卑弥呼や壹與がいなかったのに、鯨面文身が少なかったのでは、
そりゃ、大和は、正真正銘の田舎だったんだわ。 >>72
><(後漢書)誇張や誇大化の傾向が直ぐ判る具体的な文章をよろしく <
古田第1書。 >>265
九州は縄文時代の鯨面文身の痕跡となる異物はほとんどないが
弥生時代に北部九州沿岸は少しだけ出てる >>73
>倭人伝、古田本、Yahooの情報だけじゃ
常に最もベターを求めて、それへの漸近努力をしてない<
全てを知る事は出来ないのだから、
知り得た範囲内で、「最もベター」を求めればよい。 >>74
>いくら筆者を侮辱しても 史料を無かったことには出来ないよ<
だから、信頼性や客観性の史料批判をすべし。 >>75
「最もベター」を求める努力をせずに、
「南→東」などのような史料事実の否定曲解をしているのが、大和説者。 >>76
大和説者は、自分に都合の悪いことを言う人を中傷する、ことが多いね。 >>81
「南→東」などウソツキ常習や、誹謗常習の大和説を、
弁護する大和説者の、 お里が知れる。 まだ入れ墨が九州文化だとか喚いてるのか・・・
入れ墨を施した顔を描いた弥生時代の土器や埴輪の出土は吉備や東国が中心だ
本当に何も知らないんだな
まぁだからキュウシュウセツとかやってんだろうけどよ 島本町民以外の皆さん
大阪府三島郡島本町では
「いじめはいじめられた本人が悪い」ということですよ >>83
>>「男子無大小皆黥面文身」という事は、女である卑弥呼は、鯨面文身をしていない、<
>自分でも気がついたよ。 卑弥呼は女性だから、刺青をしていなかったかもしれない。<
「かもしれない」ではなく、「していない」。
>>難升米ら、卑弥呼直属の「大夫」は、魏から「率善中郎將」などを受理しているから、
鯨面文身をしていなかった可能性が高い。<
>これは魏志倭人伝を信じるなら、していた可能性がある。
ただ、中華では刺青をしている者は文明社会の一員と見做さない風習があるから、どちらとも言えない。
倭人の祖とされる呉の太伯は、自ら刺青をして文明社会と決別した。<
卑弥呼直属の「大夫」と、部族の「大人」とを区別しているから、
大夫らも、鯨面文身をしていなかった可能性が高い。 >>277
有棺無槨も皆黥面文身も倭人の風習だから
卑弥呼も自称大夫らも、鯨面文身をしていなかったなら
女王の墓にも当てはまらないな >>96
>九州程度の出土量だと
倭人伝の鯨面文身、卜骨の記述が実際と一致していたかどうかも疑わしい<
魏の使者らは、山口付近から足摺付近の沖の島付近までしか行っていないんだから、
安芸や吉備以東に鯨面文身者がいくら居ようと、
「南≠東」で、魏の役人たちの記録には始めから関係がなく、
九州地方に存在していれば、それが魏志の記載の証拠になるだけ。 >>100
大和説者は、
「南→東」などの史料事実の否定曲解をしている嘘吐きダマシ人種であるんだから、
漢籍に当たって史料批判をして、史料の客観性や信頼性の確率の高さを、
幾ら確認しても、 何の価値も信頼性もない。 >>279
始めから邪馬壱国は北部九州だと決まっているから
どこでどれだけ出ようが関係ないということだな >>278
理屈抜きで幼児のようにむずかる九州ジジイがみっともない 九州には、せごどんの前に神なし、せごどんの後に神なし >>278
「男子無大小皆黥面文身」
だから卑弥呼は非該当
まだわからないの?
縄文人は男女ともいれずみをした
弥生人の源流、中国人や半島人にはその習慣はない >>101
>新撰姓氏録は阿蘇祖族、山部氏族を隼人同族の久米氏の流れとして、久米(くめ)は熊襲の球磨(くま)であり、魏志倭人伝の狗奴国(くな)もそれに纏わるとします。
狗奴国はもとより句呉の太伯の子孫とする説があり、大宰府天満宮所蔵の翰苑は
「女王国の南の狗奴国は、自ら 太伯の後であると謂った。」と記し、
旧隼人町の大隅国一宮、鹿児島神宮には句呉の太伯が祀られています。<
凄い情報ですね。
もっと教えてほしいですね。 >>105
大和説考古学者は、
「南→東」などの史料事実を否定曲解をしているから、
幾ら考古学的根拠を持ち出しても、信頼性が殆どなく、✖。 >>106
>>「治」単独の基本的な意味は、「支配」を示す。<
>「支配下として治めている所」という意味はない <
「会稽東治」は、会稽の「東の支配地」、という意味になる。 >>292
どうして、そんな変な意味になるの?
「治」という漢字には、そんな意味は全然ないのに
????? >>109
>素人が年代を決めても無駄 <
素人の年代決定に、大和説の玄人考古学者が論理的に反論出来なければ、
いくら口先で「無駄」と誹謗しても無駄。 >>288
一次資料を無視して後代資料をありがたがる九州説 >>295
そのど素人の年代決定が
カケラほども論理的でないと
再三指摘されているわけだが
つまり無駄素人 >>112
>那珂八幡付近で播磨や河内や纏向からの庄内からの庄内同士の共存があって、
三雲がそれより古いと なんで三雲が列島最古になるの?
論理がないよ 郵便ポストが赤いから最古だと言ってるのと同列だ<
現在のところ、
弥生銀座の那珂八幡付近や播磨や河内や大和の庄内よりも古い庄内のある地域は、
三雲以外に、見つかっていないから。 >>298
>現在のところ、
>弥生銀座の那珂八幡付近や播磨や河内や大和の庄内よりも古い庄内のある地域は、
>三雲以外に、見つかっていないから。
それ、誰が唱えてる説?
76歳の素人おじん? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています