邪馬台国畿内説 Part311
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1514150954/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々は倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向は洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。 ◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46−1
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。 ◆FAQ 46−2
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである.
が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絕二千里。
(精絕國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通扜彌四百六十里。
(罽賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏秅國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與罽賓、北與撲挑、西與犂靬・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與罽賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上)
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏蟬県が温泉郡城峴里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「猗氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道猗氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】>>1を修文 可愛らしい天照大神が登場する神社の応援歌。
今年も色々ありましたが、大晦日にはこのMVを
見て年を越しましょう!御利益あること疑いなしです↓
https://www.youtube.com/watch?v=HmwLv_AcMIU
皆さん、良いお年を! 正月も、奥村は一人寂しくここ遊ぶしかないね
友達いないからなぁ〜〜〜〜〜 >>928
>安全最短の原則なら陸で行けカスw<
関係がない。魏使らは投馬國へは行っていない。 >>931
>女王国内移動のほうが安全最短の原則<
関係がない。
魏使らは、投馬國へは行っていない。 >>933
>わざわざ女王国内の旁國を避けて水行するなよ<
これも同じ。
関係なし。
魏使らは、投馬國へ入っていない。 >>935
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの大和説学者や大和説者って人種は、
イイカゲン、というか、
一種の・・・・なんだね。 >>1
出現期古墳段階とは具体的にどの古墳?
箸墓以降の古墳なのかホケノなど纒向型のことなのか
前者であれば邪馬台国とは年代が微妙にずれている
3世紀後半に政治連合が形成され始めたというのは東遷説にピッタリ >>937
>「女王之所都」は邪馬壹國の説明<
邪馬壹國の説明が、女王之所都。
数量説明は、対象の直ぐ後ろに書く、という原則で、
水行十日陸行二十日の数量説明は、その直前の「女王之所都」という文言の説明であり、
邪馬壹國の中に女王之所都がある、という関係であるから、
邪馬壹國⊃女王之所都、という関係であり、邪馬壹國≠女王之所都≠であるから、
水行十日陸行二十日の数量説明は、邪馬壹國の説明ではなく、
だから、水行十日陸行二十日は、「(当初の目的であった)從郡至倭〜女王之所都」の日数説明だ、
という事になる。 >>938
>古田里は大体の度量衡説w <
陳寿自身が、有効数字1桁程度の「大体の度量衡」で記載しているから。 >>67-69
>>921の
>魏使らの中の、侏儒國まで行った計測役人が距離計測して、
に対してレスしてんだよ
>>931も>>933も同じ
会話ができないならレス書くな反日爺 >>72
>数量説明は、対象の直ぐ後ろに書く
南至 (投馬國 ) 水行二十日
南至 (邪馬壹國←女王之所都) 水行十日陸行一月
同じ >>939
>考古無知の古田でも須玖岡本を絡めたほうが本が売れるだろうと考えたんだろうな <
関係がない。
古田説は、邪馬壹國の入り口が不彌國の南の福岡平野部にあるとされ、
それから邪馬壹國を「福岡平野及び筑紫平野部及びその周辺丘陵地域」を比定されたんだから、
従来の須玖岡本=奴國説を否定されて、当然であった。
当初は、卑弥呼の墓を須玖岡本の一小山に比定されたが、
最近は、「安徳台」説に変更されていた。 >>1 奥村 の 特徴・・・頭が悪いのは皆が周知だから除く
・友達いない(唯一 SNS)
・親族には嫌われ者(嫁さんいない)
・金が無い
・貼り付け大好き
・ナリスマシ大好き(スレの7割は埋める)
・粘着質だがアラスだけ(
・反論が苦手というか、相手のカキコミが理解できないから
根拠は?証拠は?・・と連呼する
・酒が好き(安い酒でアル中)
・二流大学に憧れてるが、所詮関西は3流以下か中卒 >>70
史料事実は事実では無い事もあると
ドンマイ >>73
あんた知らないの????
勉強した方が良いと思うよ・・歴史のイロハ >>941
国民の過半数は九州説だという事は、
「南→東」などの嘘吐きダマシのような、こじつけの妄想しかない大和説の馬鹿話なんて、
誰も興味ないのにな。
邪馬壹國なんて九州にしかないだろ。 >>73
御免ね
邪馬台国論叢のイロハぐらい知ってね・・距離については反論はあるが
これは無いよ
>じゃ、どうやって直線距離を知ったの? < >>943
九州説の根拠なんていくらでも書かれている。
ただ「南→東」などの嘘吐きだましのだましの大和説のバカはの、
漢字が読めない、日本語が理解出来ないだけだから。 >>82
>>73 じゃないけど
ぜひ、教えて欲しい >>944
今年も九州説の完全勝利であった。
来年も引き続き、九州説の完全勝利となろう。 >>79
だから考古無知の古田でも知ってる須玖岡本がある福岡平野に比定したんだろ >>952
>陳寿が杭州を會稽と言ってるなら分郡どころか129年以前の郡名を使ってることになる<
陳寿は、地の文での「計其道里、當在會稽東治之東」の「会稽」を、
「夏后少康之子封於會稽」の会稽の事だ、
とした記載をしているのだから、2〜3世紀の郡名や分郡よりも、
陳寿の執筆時点での「夏后少康之子封於會稽」の会稽が、どこだ、と考えたのか?、
という事の方が大事。
だから、会稽山という山名や、その付近の杭州や紹興の付近の事だろう、と推定出来る。
また「夏后少康之子封於會稽 斷髪文身 以避蛟龍之害」は会稽山のことを言っているのではない >>953
「南→東」などの史料事実の否定曲解は嘘吐きダマシだから、
大和説死亡と言っているのだよ。 >>954
大和説学者の説得力のなさは尋常じゃないな。
安倍政府や、右翼国粋マスコミや、、ヘイトスピーチキョクウらの、
何でも「排他的人種差別戦争主義」と全く同じで。 >>956
実際のところ、今の有象無象大和説は、ネタ切れのため、
安倍政府や、右翼国粋マスコミや、、ヘイトスピーチキョクウらの、
何でも「排他的人種差別戦争主義」の、
トンデモ本の俗流史観から、
平気でパクリをしている >>1
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない< >>957
>会稽は漠然と越人の地を言ってるんだろう。<
いや、やはり会稽山付近であり、越人の地とは明らかに区別されている。
>呉は別だ。<
呉の中心地は、やはり南京付近だろうなあ。 >>958
今の大和説は、
安倍政府や、右翼国粋マスコミや、ヘイトスピーチキョクウらが絡んでいるんだろう。
何でも「排他的人種差別戦争主義」中心史観に合致させるのが目的なんだろう。 >>960
大和説の九州説へのヘイトスピーチは芸がない。
直ぐに、鸚鵡返し反論を食らっており、
説の中味と一緒だ。 【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
↑
古墳時代の定義があいまいでは無いでしょうか
前方後円墳の始まりが、古墳時代の始まりとしたら、
あまりにも邪馬台国論争に参加するには杜撰では無いでしょうか >>90
史料事実は事実では無い事もあると
ドンマイ スレ主=ザラコクの成りすまし
スレ主=ザラコクの成りすまし
スレ主=ザラコクの成りすまし
スレ主=ザラコクの成りすまし
スレ主=ザラコクの成りすまし
スレ主=ザラコクの成りすまし 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) >>961
>倭人の風俗を語るのに、会稽とタン耳朱崖の2つを比較対象に挙げたんだから、
その中間の東冶が本命だろうな <
関係がない。
タン耳朱崖の風習が、会稽にも倭地にも、
伝搬でも人的移動でも起こっただけ。 >>962
九州説者の指摘が図星だからが、
あいつ等大和説者らは「オウム返えされ」しか出来ないんだよ。 >>89
お!
しきやね?
ばしょは長江右岸河口(文脈から一択
わじんのかきくだしはちせつあるよ
ちんじゅがわじんのためにかきくだすあるよ
わじんには衝撃的じゃろがきくあるよ^^
色々根拠をひっぱったあと(いれずみのふうしゅう
そのどうりをはかっても
まさにかいけいがひがししてこれのひがしをもおさめたんやろ?(あん?
おじいちゃんらこーはくみろ
くだらvsしらぎ(いぬがみせんせーふう >>963
オウム返しをされると必ず、
大和説者のウソつきがバレてるね。 同意する。
前方後円墳だけに着目した時代区分に意味はない。
少なくとも九州北部では方形周溝墓を王墓とする墓制が継続されていて、畿内における前方後円墳の登場を基準として邪馬台国を論じるのは循環論法だ。 >>964
鸚鵡返しで、主語を入れ替えても成り立つと言うことは、
鸚鵡返しされた大和説が、批判ではなく、
じぶんらの論の欠陥を、九州説の事だ、とするような、
ただの言いがかりだった、と言うこと。 しつもん!
プラズマせんせーはなんで >>1 からザラコクいわれてるん?
つかザラコクてなんや?
ありゃりゃちんじゅのかきくだしスルーするき満々あるな
きのうの墓土器へんねんに続いてこーさんあるか? 女子がたいりょーにおどってうたうのはひみこさんの1000にんの下女さんのながれやろね(めーまわる ももたろーのよめさんが紅組の司会やね(かすみちゃん >>89
>「夏后少康之子封於會稽」の会稽が、どこだ、と考えたのか?、
>という事の方が大事。
違う、皆黥面文身する倭人が今どこにいるのかということ
文身の風習がある越族は江南〜華南に住んでいた
会稽山は夏朝の始祖禹に因んだ地名
墨は禹が用いた禹刑のもっとも軽い刑で、華夏族社会からの追放を意味する
越族の都の東冶は漢の武帝に滅ぼされ治所が置かれた
文身の風習がある越族は華夏族の進出によって徐々に故地を追われていったのであって
越族と同じ風習で周代に鬯を貢じた倭人は今會稽東冶の東にいると推測している >>968
>ザラコクも とうとう認める 會稽東冶=會稽東治<
認めない。 >>116
うそつき
おまえは書いた
967日本@名無史さん2017/12/31(日) 15:47:47.87>>968
・・・
會稽東冶は會稽東治。
・・・ >>972
>>九州の南北長の話であったのに、
それがが280kmだなんて変な事を書くからだよ。<
>どこが変? 唐津駅から佐多岬突端まで280kmだけど?<
何故、宗像や北九州市や関門海峡から、にしないんだい?。 >>109
>鸚鵡返しで、主語を入れ替えても成り立つと言うことは、
成り立つって証拠は? >>118
>何故、宗像や北九州市や関門海峡から、にしないんだい?。
する理由は? >>973
>>3世紀の呉の支配地拡大の呉郡の新地域を、「会稽東治」に含めなかったとしたら、
そりゃインチキ詐欺だな。<
>なんで呉郡を「会稽東治」に含めるんだ? 関係ないのに<
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の記載から、
会稽とされた地域が、東海岸地域にまで達していた事が確実だから。 >>975
大和説は、「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの、
詐欺説だから。 >>118
>九州の南北長の話であったのに、
九州の南北長の話なんか最初からしてない
280kmは↓の2地点間の距離
>古田さんのくねくね折れ線行程の邪馬壹國女王之所都への近似計算合計と、
>魏使らの女王國への直線距離的な萬二千余里とが、
>たまたまほぼ一致した。 >>121
>東海岸地域にまで達していた
という理由は?
九州説はまた妄想? >>976
>>女王國とは、原則は(狗奴國以外の)29國の共立諸国であるが、<
>そんなこと、誰が決めたの?<
「不屬女王」であり、「素不和」と書かれたのは狗奴國だけであるから。 >>123
九州説の人って
なんでウソばかり
つくんだろうね >>977
あらゆる解釈で、
史料事実の否定曲解の嘘つき騙しや、九州説と違うことを新発明しないと、
大和説はニッチもサッチも行かないみたいだね。 >>981
>>>3世紀半ばだな 卑弥呼の墓で問題なし<
>>箸墓は、布留だし、那珂八幡の後だし、「有槨」になったホケノの後だから、
4世紀。<
>四世紀だという理由が無いんだが<
河内の加美や久宝寺?では、
285年以後の建国になる伽耶人の渡来と、
(布留はなく)、庄内と伽耶の陶質土器が共存しており、
同じく「槨部族の渡来と支配者層への参入があった」と思われるホケノでは庄内と布留であり、
だから、布留だけの箸墓は、300年を超えてしまう。 >>982
>会稽郡じゃない上海を 会稽東治だと言い張ったら サギだろ<
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の「会稽」の話になるのに、
殆ど海岸沿いで、寧波と同じく東海への最も近くなるに上海を、
会稽東治にしなかったら、
そりゃインチキだろ?。
そりゃ、詐欺だろ?。 >>983
>そもそも上海は治所じゃないし<
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の頃は、
おそらく上海は、会稽地域に含まれる地域であった筈だよ。 >>986
大和説って、
以前に何度も何度も議論があって説明した事を知らん振りして、
同じ質問を繰り返すから、
メチャクチャだな。 >>988
>東冶が分郡後は會稽郡じゃないと言いながら<
ないよ。
>北に拡大するために<
寧波も言ったよ。
>今度は呉郡まで「会稽東治」だと言い出した <
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の会稽の時代は、当然呉郡ではなかった。
>杭州南部の呉郡富春は孫堅の出身地<
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」と、何の関係があんの?。
>上海は唐代に干拓する以前は大半が潟の呉郡の寒村<
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」と、何の関係があんの?。 >>1000
>>「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの学説は、
学説の資格がありません。<
>いろいろ考証して史料事実を否定したり肯定したりするのは、学説そのものなんだが<
間違える確率が全くなく、極めて信頼性の高い史料事実を否定曲解するのは、
嘘つき騙しの詐欺であり、学説ではないんだがねえ。 >>135
魏代に倭人が會稽東冶の東にいるだろうと推測しているのだから
夏朝期の地名でも分郡後の地名でもない 明けましておめでとうございます
今年は九州説が完全に消滅しますように >>130
>285年以後の建国になる伽耶人の渡来と、
>(布留はなく)、庄内と伽耶の陶質土器が共存しており、
妄想です >>134
>>>986
>大和説って、
>以前に何度も何度も議論があって説明した事を知らん振りして、
>同じ質問を繰り返すから、
>メチャクチャだな。
全くその通りだな。
特に、根拠を述べて説明しても「根拠は」と聞く低脳が一番くだらない。
まあわざとやっているのだろうが、畿内説の品位を下げているだけなことに早く気付くべきだと思う。 >>134
>大和説って、
>以前に何度も何度も議論があって説明した事を知らん振りして、
>同じ質問を繰り返すから、
>メチャクチャだな。
その「説明」が根拠ナシのダメダメだからじゃないの >>140
言を左右して
根拠を答えたがらない
その態度が
いちばん品位を下げている
新年は是非あらためて欲しいものだ
>>66
「南→東」などのように、
史料事実の抹殺曲解しか出来なかった大和説は、
国民の3割の支持しか得られず、
既に死んでいる。 >>144
九州説が「南→東」みたいな連呼ばかりなんで、世間から飽きられ見捨てられて寂しく死んだんじゃないの? >>73
>じゃ、どうやって直線距離を知ったの? <
魏使らは、
可視出来る長距離区間は、簡易三角測量と、「方向と一寸千里」から。
記里車と歩測は、道のり距離であり、補助的。
陳寿は、投馬國に関しては、おそらく、
南水行二十日の「一日距離からの概算」と、
漢書の東鯷人の「会稽海外」記録と、
それが卑弥呼の時には投馬國となって卑弥呼共立国になっていなっているらしい、
という事からの、机上の概算。 >>140
? >>130の
>河内の加美や久宝寺?では、
>285年以後の建国になる伽耶人の渡来と、
>(布留はなく)、庄内と伽耶の陶質土器が共存しており、
みたいな怪情報を垂れ流してたら
「根拠は?」と聞枯れて当たり前
反論も回答もできなくて
「低脳」「くだらない」なんて
罵倒しかできないでいると
九州説の品位を下げるだけ
>>75
>じゃ、12000里は?<
魏使らの「自郡至女王國萬二千餘里」は、
「女王國」だから、当然、
一つは、邪馬壹國女王之所都への折れ線的道のり距離記載の、
(古田式的な)合計計算と、
もう一つは、如淳注の直線距離的な萬里と、
手前の九州北岸の不彌國から「南水行二十日」の投馬國を、直線距離的に二千里と見立てた、
二つの合計。 >>76
>会話ができないならレス書くな反日爺<
投馬國への行程の話と、侏儒國への記録の話とを、混乱しているような、
アホのキョクウの大和説の病気なら、
病院か留置場に入れて貰えばよいのであり、
レスを書くな。 >>77
>>数量説明は、対象の直ぐ後ろに書く<
>南至 (投馬國 ) 水行二十日
南至 (邪馬壹國←女王之所都) 水行十日陸行一月 同じ <
()を付けて、誤魔化してはいけない。
女王之所都と邪馬壹國とは、
邪馬壹國の中に女王之所都がある、
という関係であり、(同じではなく)違うもの。 >>150
で?
その「女王之所都」まで何里で着くんだ?
??? >>78
大和説トンデモアホ学者は、漢文を読めないをだけではなく、
漢文を否定曲解する嘘つき騙しの・・・・だから。
w >>81
史料事実が事実では無い事も、まれにはあるが、
「南」は「東」の間違いである事は全くなく、
大和説は、ドンマイではなく、全くの・・・・詐欺師。 >>121
>「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の記載から、
>会稽とされた地域が、東海岸地域にまで達していた事が確実だから。
どうして
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」という記載があると
会稽とされた地域が東海岸地域にまで達していたことになり
どうして
会稽とされた地域が東海岸地域にまで達していると
会稽より北にある呉が「会稽東治」に含められてしまうんだ?
論理的な繋がりがまったく無い
全く意味不明だ >>154
>「南」は「東」の間違いである事は全くなく、
理由は? >>148
>一つは、邪馬壹國女王之所都への折れ線的道のり距離記載の、
>(古田式的な)合計計算と、
古田式的合計って何それ
なんで1万2千里になるの? >>88
>だから考古無知の古田でも知ってる須玖岡本がある福岡平野に比定したんだろ<
いや、魏志の行程記載を分析して、「福岡平野〜大宰府の間」位、と比定出来たら、
そこに、須玖岡本や安徳台があったの。 >>100
史料事実は事実では無い事もあるが、
「南」と「東」を間違える事は、・・・・アホの大和説者しかないない。
怖いから、ドンマイしてはいけない。 九州説は理由もなく言い張るだけだったから
読者から見放された >>158
魏志の行程記載にどんな分析して
「福岡平野〜大宰府の間」位と比定出来た
というんだ
w >>135
>ないよ。
杭州、上海(沼地)は曹魏の前から會稽郡じゃない
>寧波も言ったよ。
>>635で書いた
会稽郡東部は257年に臨海郡に分割された、現在の寧波市〜台州市〜温州市
>当然呉郡ではなかった。
呉郡は漢代に會稽郡から分割した
>何の関係があんの?
會稽東冶とも會稽東治とも関係ない完全な呉郡
呉越春秋には少康之子は無余の名があるが
倭人伝の名も書いてない伝説は、夏朝以前から広い地域に住んでいた
越族の文身の風習のことを書いているだけ >>149
>投馬國への行程の話と、侏儒國への記録の話とを、混乱しているような、
それがお前 >>158
考古無知の古田でも知ってる須玖岡本がある福岡平野に比定してから
屁理屈で帳尻あわせしてるから
曲解しなければならなくなってる >>162
>呉郡は漢代に會稽郡から分割した
だから、卑弥呼の時代には呉は会稽と関係ないんだよ
無理して会稽東治を北に持って行こうとするのは
サギ もともと戦国時代に
会稽の越が呉を征服して併合したんだからな
漢に再分割された呉は会稽とは関係ない 倭人伝は、越族と海南島の風俗を倭人と対照してるからね
会稽東治は現在の福州という通説が正しいよ >>168
悪口しか言えない無力な人がいる
かわいそうだね 1に手も足も出ないって告白してる可哀想な人が・・・ >>108
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者らの脳が、
病的であり、悲惨。 >>115
>越族と同じ風習で周代に鬯を貢じた倭人は今會稽東冶の東にいると推測している <
せっかく「会稽山は夏朝の始祖禹に因んだ地名」とまで言ったのに、
「会稽東冶」としてしまったら、
やっぱり✖。 >>117
>うそつき おまえは書いた
967日本@名無史さん2017/12/31(日) 15:47:47.87>>968
・・・ 會稽東冶は會稽東治。 ・・・<
会稽東冶は、会稽東治の間違いだよ、
という意味。 >>123
>>九州の南北長の話であったのに、<
>九州の南北長の話なんか最初からしてない 280kmは↓の2地点間の距離 <
いや、南北長の話であったから、私はYahoo地図で、300km以上位だと書いた筈。
>古田さんのくねくね折れ線行程の邪馬壹國女王之所都への近似計算合計と、
魏使らの女王國への直線距離的な萬二千余里とが、
たまたまほぼ一致した。<
それなら別に構わない。 >>124
>(夏后少康之子封於會稽の会稽は)東海岸地域にまで達していた <
>という理由は? 九州説はまた妄想?<
「斷髮文身以避蛟龍之害」と書かれているから。
大和説者は、また、分裂幻覚の妄想?。 >>127
大和説の人って、 なんで、分裂幻覚の妄想のウソばかり つくんだろうね。 >>176
>>>九州の南北長の話であったのに、
>>九州の南北長の話なんか最初からしてない 280kmは↓の2地点間の距離
>いや、南北長の話であったから、私はYahoo地図で、300km以上位だと書いた筈。
またウソをついているね
807日本@名無史さん2017/12/30(土) 15:13:11.75>>876
>>792
会稽山などとは書いていない
夏の少康の庶子が入れた文身は蛟龍の害を避ける越族の風習で
越の君主の起源伝説
全部「大体」といいながら東治は忘れて会稽だけピンポイントに比定し
ごまかしでさらに北にだけ拡大するサギ解釈の連呼
筑紫など南九州最南端の280km北
という話だ
南北長の話ではない >>178
「斷髮文身以避蛟龍之害」と書かれていると
どうして
>(夏后少康之子封於會稽の会稽は)東海岸地域にまで達していた
という理由は
になるんだ?
九州説は支離滅裂だ
>>137
>魏代に倭人が會稽東冶の東にいるだろうと推測しているのだから<
魏志で陳寿は、「倭人は会稽東治之東にいるだろう」と推定している。 >>138
明けましておめでとうございます。
今年は、「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説が、
完全に消滅しますように。 >>139
>>285年以後の建国になる伽耶人の渡来と、
(布留はなく)、庄内と伽耶の陶質土器が共存しており、<
>妄想です<
確か米田の紹介です。 >>143
大和説者は、
言を左右して 自説の大和説の根拠を答えたがらず、
根拠を言ってあっても知らん振りして「根拠は?」と質問し続けて。
不可知部分の議論に持ち込んで、
議論そのものを亡き者にして、
世間の人々に、大和説者が議論に勝ったかのように、印象付けるダマシ宣伝をする。
その態度が 、
いちばん品位を下げている。
新年は是非あらためて欲しいものだ。 >>145
大和説が、
「南≠東」などの嘘吐きダマシの指摘に反論できず、
「証拠は?」「根拠は?」「理由は?」「なぜ?」みたいな、
「なぜ?なぜ?」の言い合い合戦の連呼ばかりなんで、
世間から飽きられ見捨てられて、寂しく死んだんじゃないの?。 新年早々、悪意に満ちた書き込みを連発とか…
いい死に方できないだろうな >>147
>>河内の加美や久宝寺?では、
285年以後の建国になる伽耶人の渡来と、
(布留はなく)、庄内と伽耶の陶質土器が共存しており、<
>みたいな怪情報を垂れ流してたら 「根拠は?」と聞枯れて当たり前<
いや、以前に「米田」の論考の紹介だ、という事は、何度も書いておいてある。
反論も回答もできなくて、
「証拠は?」「理由は?」なんて「なぜなぜ合戦」のような議論に持ち込んで、
うにゃむにゃにして、
勝利宣言のヘイトスピーチ罵倒しかできないでいると、
大和説の品位を下げるだけ。 >>151
>>で? その「女王之所都」まで何里で着くんだ? ???<
折れ線的道のり行程での、
萬千三百余里から萬二千余里の間位。 >>153
元旦から、自説を言えずに、史料事実を否定曲解の嘘吐きダマシをして、
「なぜなぜ合戦」と「ヘイトスピーチ街宣」の口汚い大和説者。 >>191
>萬千三百余里から萬二千余里の間位。
自郡至女王國 萬二千餘里とは何の関係も無い里数 >>155
>>「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の記載から、
会稽とされた地域が、東海岸地域にまで達していた事が確実だから。<
>どうして
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」という記載があると
会稽とされた地域が東海岸地域にまで達していたことになり<
「蛟龍之害」は、海岸での話だから。
>どうして
会稽とされた地域が東海岸地域にまで達していると
会稽より北にある呉が「会稽東治」に含められてしまうんだ?<
夏后少康之子封於會稽の頃は、会稽の東北東の海岸地域も会稽であって、
呉ではなかった事になるんだから。
>論理的な繋がりがまったく無い 全く意味不明だ <
大和説者は、文章の論理的な繋がりが、全く分からないアホ人種のようだ。 >>195
夏朝期の会稽と呼ばれた地域の範囲なんてものはわからない >>156
>>「南」は「東」の間違いである事は全くなく、<
>理由は?<
字形も意味も全く違うので、人類の常識として間違えないものであり、
後代の中国の考証校勘学者は誰も校勘しておらず、
「間違いだ」とするのは、
現代日本の「国粋皇国史観大和説に狂った大和説者」の・・・・だけだから。 >>157
>>一つは、邪馬壹國女王之所都への折れ線的道のり距離記載の、
(古田式的な)合計計算と、<
>古田式的合計って何それ なんで1万2千里になるの?<
魏志倭人伝に記載された「大体の行程移動距離」を合計したら、
萬千三百〜萬二千余里になるから。 >>198
>萬千三百〜萬二千余里になるから
なっても自郡至女王國 萬二千餘里とは何の関係も無い里数 >>191
折れ線的道のり行程で
萬千三百余里から萬二千余里の間位行くと
どうしてそこが
「女王之所都」
だと思うんだ?
理由は? >>195
>「蛟龍之害」は、海岸での話だから。
「蛟龍之害」が海岸での話だと
どうして
会稽とされた地域が東海岸地域にまで達していたことになるんだ? >>195
>夏后少康之子封於會稽の頃は、会稽の東北東の海岸地域も会稽であって、
会稽郡東部は257年に臨海郡に分割されているんだがな
おまえ、陳寿の地の文は陳寿の時代の地名で書かれていると主張していたのは
嘘だったんだな? >>197
>字形も意味も全く違うので、人類の常識として間違えないものであり、
>後代の中国の考証校勘学者は誰も校勘しておらず、
そんなのは、異郷を行く旅人が方位を取り違えない理由にはならない >>190
>いや、以前に「米田」の論考の紹介だ、という事は、何度も書いておいてある。
なんど書いたって、証拠ないじゃんソレ >>195
>夏后少康之子封於會稽の頃は、会稽の東北東の海岸地域も会稽であって、呉ではなかった事になるんだから。
だから何なんだ?
なにをどう言い繕っても
呉は会稽より北にあるんだから
呉の地を会稽だってことにして誤魔化すような
サギはできないぞ >>205
ザラコクはどうせ「掲示板で畿内説者がうっかり言った」とか言うだけだろ
トンチンカンな聞き違いさ >>160
大和説は、「南→東」などのように、
理由もなく「ヘイトスピーチして、嘘つき騙しを言い張るだけだったから、
読者からも国民からの見放された。 >>161
>魏志の行程記載にどんな分析して 「福岡平野〜大宰府の間」位と比定出来た
というんだ w <
まあ、思想宗教にクルって、「南→東」などの嘘つき騙しをする・・・・大和説のアホに、
言っても仕方がないが、
古田第1書。 >>162
>杭州、上海(沼地)は曹魏の前から會稽郡じゃない
>>>635で書いた 会稽郡東部は257年に臨海郡に分割された、現在の寧波市〜台州市〜温州市
>呉郡は漢代に會稽郡から分割した<
何だ?、結局は、全部、元のはるか前の「夏」の頃?は、
「会稽」に含まれていた話、に?なっていたではないか。
>會稽東冶とも會稽東治とも関係ない完全な呉郡<
会稽地域の東半分は、古くから会稽の地域。
>呉越春秋には少康之子は無余の名があるが
倭人伝の名も書いてない伝説は、夏朝以前から広い地域に住んでいた
越族の文身の風習のことを書いているだけ <
またへんてこな日本語だが、また変な事がある。
越が文身の風俗の中心であったんなら、
越が呉王夫差を倒した時に、呉の文身族は、仲間の越が勝ったんだから、
列島に逃げる必要がないではないか。
また、出雲の文身族や、北陸の「越=こし」も、越から逃げる必要がないではないか。 >>164
>考古無知の古田でも知ってる須玖岡本がある福岡平野に比定してから
屁理屈で帳尻あわせしてるから 曲解しなければならなくなってる<
古田説は、何の無理もなく、人類の常識や史料事実や実態に拠った推論をされただけ。
それに引きかえ、大和説は、「南→東」などの史料事実の否定曲解のような、
明らかな嘘つき騙しをしなければならなくなってる。 >>165
>呉郡は漢代に會稽郡から分割した だから、卑弥呼の時代には呉は会稽と関係ないんだよ
無理して会稽東治を北に持って行こうとするのは サギ<
漢代以前は、会稽付近以東に呉郡も臨海郡もなく、
「夏后少康之子封於會稽」の会稽だけであったから、
陳寿が「計其道里、當在會稽東治之東」と書いた「会稽」には、
漢代以後に出来た呉郡や臨海郡の海岸地域の地も含んでいる事になる。 >>166
>もともと戦国時代に 会稽の越が呉を征服して併合したんだからな
漢に再分割された呉は会稽とは関係ない<
越が呉王夫差を倒した時以前は、会稽は、
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の地であったままであった、
という事だな。
という事になる。 >>167
>倭人伝は、越族と海南島の風俗を倭人と対照してるからね<
越族というのが、違うね。
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」なんだから。
>会稽東治は現在の福州という通説が正しいよ <
現在の福州の東には、勿論九州はなく、
沖縄のような「14万戸」が全く入らないような小島だけだから、
通説は✖ね。 >>171
「南→東」などの史料事実の否定曲解をしている嘘つき騙しの「1」に、
手も足も出ないって告白してる可哀想な人が・・・・大和説信者。 >>175
>夏朝と倭人は関り無い <
魏略も魏使らも陳寿も、
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」という事を書いているから、
夏朝と倭人は関り無いとは言えない。 >>177
私の日本語は、「南→東」などのような史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの、
思想宗教的に狂った・・・・大和説人種には、通じない 。 >>180
>>>>九州の南北長の話であったのに、<
>>>九州の南北長の話なんか最初からしてない 280kmは↓の2地点間の距離<
>>いや、南北長の話であったから、私はYahoo地図で、300km以上位だと書いた筈。<
>またウソをついているね
>>792 会稽山などとは書いていない
夏の少康の庶子が入れた文身は蛟龍の害を避ける越族の風習で 越の君主の起源伝説
全部「大体」といいながら東治は忘れて会稽だけピンポイントに比定し
ごまかしでさらに北にだけ拡大するサギ解釈の連呼 筑紫など南九州最南端の280km北
という話だ 南北長の話ではない <
またウソを付いているね。
お前が「280km」という事を書いた投稿よりも、もっと前の投稿の話だ。 >>182
>「斷髮文身以避蛟龍之害」と書かれていると どうして
(夏后少康之子封於會稽の会稽は)東海岸地域にまで達していた
という理由は になるんだ?<
蛟龍の害は、外洋に面した海岸などで起きるから。
大和説者って人種は、支離滅裂だ 、。 >>219
>蛟龍の害は、外洋に面した海岸などで起きるから。
という根拠は? >>219
またザラコクの作り話か
蛟龍は淡水でも出る怪物だぞ >>189
大和説者は、新年早々、悪意に満ちた書き込みを連発とか…。
いい死に方できないだろうな。 >>223
あんたくらい、悪態と嘘ばかりついて生きてると
周囲からは、悪意のこもった目でしか
見てはもらえないんだろう
当然の報いだよ
当然だ >>210
>「夏」の頃?は、 「会稽」に含まれていた話、に?なっていたではないか。
夏朝期の会稽と呼ばれた地域の範囲なんてものはわからない
少康之子の話は伝説、陳寿も名を書いていない
会稽山の旧名は茅山、別名畝山
>会稽地域の東半分は、古くから会稽の地域。
秦が越を滅ぼし会稽郡を設置してから、漢初は呉郡(後範囲は変動する)
>列島に逃げる必要がないではないか。
勝敗関係なく人は戦乱を避けて逃げる >>216
江南と文身の風習が同じと言っているだけ
夏朝では墨は禹刑の一つ >>192
>史料批判を経て會稽東冶と訂正された<
後代史家の范曄の高慢な自己判断に拠る書き換えや、
唐代史家や、現代の日本の「思想宗教に狂った」大和説史家の、
史料批判による「東冶」説など、信頼性が全くない。
何よりも、東冶の東には、沖縄などの小島があるだけで、
14万戸以上の人口を養える陸地がなく、
范曄らの解釈の矛盾が丸見え。
日本の大和説史家は、その矛盾を隠して、
陳寿の判断ミス説という「何でも間違いだ」の・・・・説を唱えているが。 >>194
>>(「邪馬台国女王之所都への」折れ線的道のり距離は)
萬千三百余里から萬二千余里の間位。<
>自郡至女王國萬二千餘里とは何の関係も無い里数<
自郡至女王國萬二千餘里は、「投馬國を含む)女王國」への、直線距離的な里数。 >>218
筑紫など南九州最南端の280km北と最初に書いたレス(>>807)のアンカは
>>792でそのアンカは>>645←>>635の間違い
>会稽郡は北緯30度以南で、その東は屋久島の南の口之島以南
>九州島最南端で会稽郡北端の111km北の北緯31度、
>那珂八幡は会稽郡北端の約390km北の北緯33.5度
>九州島は会稽郡の大体東北
九州の南北長の話などしていない >>196
>夏朝期の会稽と呼ばれた地域の範囲なんてものはわからない<
例えば、
会稽山のような、古くから「会稽」という呼称を持った地である事や、
その地が、「蛟龍之害」が起きるような海岸付近である、
という範囲だと判る。 >>228
それをチェリーピッキングという
古田は文献のゴミを拾って商売した
最後は泥棒が書いた偽書を拾い、
一般の人にもトンデモであったことが認知されてしまった >>214
>現在の福州の東には、勿論九州はなく、
>沖縄のような「14万戸」が全く入らないような小島だけだから、
>通説は✖ね。
現在の福州の東には、勿論九州はなく、
沖縄のような「14万戸」が全く入らないような小島だけだから、
倭人伝にある方位や距離は間違いだ
という通説が正しい。 >>200
>>萬千三百〜萬二千余里になるから<
>なっても自郡至女王國 萬二千餘里とは何の関係も無い里数<
また同じ事の貼り付けらしいから、私も少し変更して貼り付け。
「邪馬台国女王之所都への」折れ線的道のり距離が
萬千三百余里から萬二千余里の間位。
自郡至女王國萬二千餘里は、「投馬國を含む)女王國」への、直線距離的な里数。 >>229
例えば北朝鮮の首都から日本までの距離を説明するときに
最短の距離か、中心地までの距離を言うことはあっても
札幌や小笠原までの距離を言ったりはしない
萬二千餘里が女王國までの直線距離的な里数なら
最短の女王國の境界か女王がいる中心地 >>234
途中の折れ線的道のり距離は万里でも万五千里でもいい
直線距離的な自郡至女王國萬二千餘里とは無関係 >>201
>折れ線的道のり行程で 萬千三百余里から萬二千余里の間位行くと<
>どうしてそこが 「女王之所都」 だと思うんだ? 理由は?<
不彌國からの投馬國説明には、
出発説明と到着説明との間に、途中移動があった事を示す文言がないから、
魏使らは移動していない、という事になって、側副傍線行程記載である事になり、
その 不彌國からの魏使らが通った主線行程は、その次の「南至邪馬壹國」になり、
その主線行程での南至邪馬壹國にも、途中移動の説明文がないから、
不彌國と邪馬台国とは、途中移動無しに着く事になり、
だから、不彌國の外縁部にほぼくっついて、
広大な邪馬壹國の外縁部の入り口がある事になる。 >>234
>「邪馬台国女王之所都への」折れ線的道のり距離が
>萬千三百余里から萬二千余里の間位。
だという根拠が消えた(自分で消した)のが
わかってない? >>202
>>「蛟龍之害」は、海岸での話だから。<
>「蛟龍之害」が海岸での話だと どうして
会稽とされた地域が東海岸地域にまで達していたことになるんだ?<
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の文では、
会稽で「斷髮文身以避蛟龍之害」した事になるから。 >>231
名の書いてない伝説だから会稽の範囲なんかは
文献で書かれていない限りわからない
夏の少康の庶子の伝説は『史記』 越王勾践世家第十一に
越王勾践の先祖として書かれているので、想像で範囲を決めるなら広い範囲になる >>237
>不彌國からの投馬國説明には、
>出発説明と到着説明との間に、途中移動があった事を示す文言がないから、
>魏使らは移動していない、という事になって、側副傍線行程記載である事になり、
>その 不彌國からの魏使らが通った主線行程は、その次の「南至邪馬壹國」になり、
そこに日数が書いてあるのに、無視して誤魔化すなよ
古田説はサギだな >>237
それは仮説だから、それを根拠に論を進めると
循環論法になる >>203
>>夏后少康之子封於會稽の頃は、会稽の東北東の海岸地域も会稽であって、<
>会稽郡東部は25年に臨海郡に分割されているんだがな<
仮にそうであったんなら、「臨海郡は、元は会稽郡であった」、という事だ。
陳寿は、
「夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害」であった「古くからの会稽」で説明しよう、
としており、
以前から会稽と呼ばれていた地、というのが「会稽東治之東」の会稽だ。
>おまえ、陳寿の地の文は陳寿の時代の地名で書かれていると主張していたのは
嘘だったんだな?<
始めから、陳寿は「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の会稽のつもりだ、
という事は、書いていたよ。
それに、会稽山も呼称も古いだろうし、会稽郡も陳寿の執筆時に残っていた筈だよ。 >>204
>>(南と東)字形も意味も全く違うので、人類の常識として間違えないものであり、
後代の中国の考証校勘学者は誰も校勘しておらず、<
>そんなのは、異郷を行く旅人が方位を取り違えない理由にはならない<
魏の役人たちは、
周髀算経や礼記の「東西やそれと直行する南北」の簡単な決め方を、
当然知っているから、方位を取り違えない。 >>243
>「臨海郡は、元は会稽郡であった」、という事だ。
東冶は会稽郡で治所 >>205
>>>(加美や久宝寺での庄内と伽耶の陶質土器との共存)
いや、以前に「米田」の論考の紹介だ、という事は、何度も書いておいてある。<
>なんど書いたって、証拠ないじゃんソレ<
Yahooであった、と思うが、誰かの「米田論考の紹介」で読んだ事だろうから、
沢山検索したら、見つかる、と思うよ。 >>206
>>夏后少康之子封於會稽の頃は、
会稽の東北東の海岸地域も会稽であって、呉ではなかった事になるんだから。<
>だから何なんだ?<
お前は、会稽の北〜東北部に「呉郡」に設置の話を書いた時、
その地がそれまで何郡であったのか?を書かなかったぞ?。
その地は、それまで何郡であったんだい?。
>なにをどう言い繕っても 呉は会稽より北にあるんだから 呉の地を会稽だってことにして誤魔化すような
サギはできないぞ <
会稽郡の一部が「呉郡」とされたんなら、
陳寿が、夏后少康之子封於會稽以来の「会稽」とした地域であった、としても、
ちっともおかしくない。 >>207
>ザラコクはどうせ「掲示板で畿内説者がうっかり言った」とか言うだけだろ
トンチンカンな聞き違いさ<
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者や米田の発言は、確かに信頼性が低いが、
大和説に都合が悪くなる、という事に気が付かずに、
「ついうっかり」書いてしまった事は、
逆に信頼性が高い事があるもんだ。 >>247
>会稽郡の一部が「呉郡」とされたんなら、
会稽郡の前は越 >>220
>>蛟龍の害は、外洋に面した海岸などで起きるから。<
>という根拠は?<
蛟龍のような巨大な海中生物は、
遠浅海岸で波に運ばれて砂浜に打ち上げられたら、
自分の重い体を持ち上げたり動かす事だ出来なくなって、
死んでしまうから。 >>221
>またザラコクの作り話か 蛟龍は淡水でも出る怪物だぞ<
蛟龍とは、巨大な人食い「鮫」のようなものではないのか?。 >>210
ここで書いていたか。
「呉郡は漢代に會稽郡から分割した」と。
だから、呉郡の地は、元は会稽郡の一部であったのだ。 >>222
>杭州湾はモロ海でしょ<
杭州湾は、小津波のような大波が起きる銭塘湾があったんではなかったか?。
という事は、蛟龍のような大型鮫は、
打ち上げられたら日干しになってしまうから、最も怖がる湾であり、
からやはり、蛟龍は外洋に面した深い海岸の生物であったんだよ。 >>224
あんたら大和説者ら、ヘイトスピーチキョクウらくらい、
悪態と嘘ばかりついて生きてると、
周囲からは、悪意のこもった目でしか 見てはもらえないんだろうな。
当然の報いだよ。当然だ。 >>254
>だから、呉郡の地は、元は会稽郡の一部であったのだ。
魏代は別だから、ダメ
古田説はウソ >>225
>>「夏」の頃?は、 「会稽」に含まれていた話、に?なっていたではないか。<
>夏朝期の会稽と呼ばれた地域の範囲なんてものはわからない<
魏使らや陳寿や魏略は、
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」という認識を残しているんだから、
会稽と呼ばれた地域を知っており、
それが海岸地域をも含んでいる、という事も知っている。
>少康之子の話は伝説、陳寿も名を書いていない 会稽山の旧名は茅山、別名畝山<
古くから「会稽」という地域であったから、会稽山と呼ばれた。
>>会稽地域の東半分は、古くから会稽の地域。<
>秦が越を滅ぼし会稽郡を設置してから、漢初は呉郡(後範囲は変動する)<
ウソを付くな。お前は、「呉郡は漢代に會稽郡から分割した」と書いていた。
いずれにしても、会稽という地名が古くからずっと存続していた、
という事実には変わりがない。
>>(越人であれば、呉に勝ったんだから)列島に逃げる必要がないではないか。んだから)<
>勝敗関係なく人は戦乱を避けて逃げる<
越人であれば、戦勝國民であり、呉人に威張れる筈。 >>226
安倍政府文部省や学会や教育界や右翼マスコミらが、
あれほど皇国史観国粋大和説を宣伝しているのに、
未だに、国民の過半数は九州説であり、大和説は3割しかいない、
という現実を見よ。 >>227
>江南と文身の風習が同じと言っているだけ<
いや、魏略は倭人が「聞其舊語、自謂太伯之後」がである、という情報も記載しているし、
晋書、梁書、太平御覧も記載し、
通典も魏略を引用し、通鑑前編は、呉王夫差の後裔である事も記載している。
魏志などでも、倭人使節が中国の周代の「大夫」を名乗った事も記録している。
いずれにしても、倭人の指導部は会稽付近の出、であると言っている事になる。
>夏朝では墨は禹刑の一つ<
論点には全く関係がない。 >>230
この投稿をそのまま引用して、その返事を書いたところ、
5chから、「アンカ」が多過ぎます、というクレームがあって、
私の投稿を全部消去してしまったから、
返事は断念。
しかし、私の見たのは、>>230で照会された投稿ではなかった、と思う。 >>232
>それをチェリーピッキングという<
いや、「東冶の東には、14万戸以上があるような島も国もない」というのは、
普通の史料批判であり、
大和説者らの「東冶】説の根本的な欠陥の指摘だ。
大和説者らは文献のゴミを拾い、更にそれらを否定曲解などして商売した。
最後は、和田キヨエを誑かして、旧和田家宅に大量の尿入り?一升瓶をおいて、
一般の人にもトンデモであったことが認知されてしまった。 >>233
>>現在の福州の東には、勿論九州はなく、
沖縄のような「14万戸」が全く入らないような小島だけだから、
通説は✖ね。<
>現在の福州の東には、勿論九州はなく、
沖縄のような「14万戸」が全く入らないような小島だけだから、
倭人伝にある方位や距離は間違いだ
という通説が正しい。<
会稽東治之東という大体の位置説明には、九州が(戸数でも)十分当てはまるから、
東冶や福州だ、とした大和説が間違い。 >>259
>海岸地域をも含んでいる、という事も知っている。
越族の王が言ってる伝説だから範囲はわからない
>会稽という地名が古くからずっと存続していた、
>という事実には変わりがない。
秦末に会稽郡が設置された後、漢初は呉郡と称され、前202年に会稽郡を設置した
郡名と会稽という地名を混同するな
>越人であれば、戦勝國民であり
勝つ前に戦乱を避ける人々もいる
お前は排他的人種差別戦争主義だからわからないだろうが >>261
>自謂太伯之後
自称しているだけ
>晋書、梁書、太平御覧も記載し
晋書では會稽東冶之東
>論点には全く関係がない。
夏朝では墨は禹刑、文身は越族の風習、少康之庶子は越族の王統先祖伝説 >>262
>私の見たのは、>>230で照会された投稿ではなかった、と思う。
見ればわかる >>263
>「東冶の東には、14万戸以上があるような島も国もない」というのは、
>普通の史料批判であり、
だから行程方位か地理観が間違っている
中国では17世紀まで地球は平面上で四角いと考えられていた
>最後は、和田キヨエを誑かして、旧和田家宅に大量の尿入り?一升瓶をおいて
畿内説の誰が?
青森県教育庁編『十三湊遺跡発掘調査報告書』には、
「なお、一時公的な報告書や論文などでも引用されることがあった『東日流外三郡誌』については、
捏造された偽書であるという評価が既に定着している」と記載されるなど、
現在では公的団体も偽書であることを公表している。 >>264
>会稽東治之東という大体の位置説明には、九州が(戸数でも)十分当てはまるから、
九州は会稽〜東冶の東の北、大体東北 ザラコクかなんか知らんがしつこいのは
嫌われるだけだぜ。
はっきりと九州説なんか全く興味も関心もないから諦めたら?時間の無駄だよ。 ザラコク氏のレスが多すぎて斜め読みしかしていないが、呉と越のそれぞれの末裔が九州北部で同舟して倭国を形成したのであれば、興味深いことだな。 徐福集団が九州にきたときは既に越と呉(春秋時代の)が争っていたかもか >>235
>例えば北朝鮮の首都から日本までの距離を説明するときに
最短の距離か、中心地までの距離を言うことはあっても
札幌や小笠原までの距離を言ったりはしない <
魏使らの行程記録や、陳寿の三国志での国や都市間距離記載は、
原則として、「居住外縁部間の最短距離で記載」、が守られている。
>萬二千餘里が女王國までの直線距離的な里数なら 最短の女王國の境界か女王がいる中心地<
女王國の外縁部は、
狗邪韓国と末盧國に官名がない事と、
一大國と不彌國が(戸での記載ではなく)「家」での記載である事などで、
如淳注のまでの直線距離的萬里の九州北岸から、更に投馬國の外縁部までの大体の直線距離的な二千余里だ、
と、魏使らに判断された可能性がある。
陳寿の「倭地」の五千余里でも、同じように、海峡三千余里と、投馬國の外縁部までの二千余里余だ、
と認識されていた可能性がある。 >>236
>途中の折れ線的道のり距離は万里でも万五千里でもいい
直線距離的な自郡至女王國萬二千餘里とは無関係<
当然、「全くの無関係」とは言えない。
陳寿らは、直線距離と折れ線的道のり距離の区別をせずに、
同じ距離位だ、という近似をしているんだから、
当然、十分に関係がある。 >>238
>>「邪馬台国女王之所都への」折れ線的道のり距離が、
萬千三百余里から萬二千余里の間位。<
>だという根拠が消えた(自分で消した)のが わかってない?<
何も消えていないよ。
これも、「何が消えたのか?」をはっきり言わないで、
口先匂わせ誹謗をする・・・・詐欺師の大和説者。 >>240
>名の書いてない伝説だから会稽の範囲なんかは 文献で書かれていない限りわからない<
「斷髮文身以避蛟龍之害」だから、会稽であった場所で、海岸付近にまであった、という事までは、判る。
>夏の少康の庶子の伝説は『史記』 越王勾践世家第十一に
越王勾践の先祖として書かれているので、想像で範囲を決めるなら広い範囲になる<
会稽の地名がない情報は、会稽特定根拠にはならない。 >>273
で、徐福集団が九州に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系土器と中国系農具は?
. >>241
>>不彌國からの投馬國説明には、
出発説明と到着説明との間に、途中移動があった事を示す文言がないから、
魏使らは移動していない、という事になって、側副傍線行程記載である事になり、
その 不彌國からの魏使らが通った主線行程は、その次の「南至邪馬壹國」になり、<
>そこに日数が書いてあるのに、無視して誤魔化すなよ<
魏使らが通ったのであれば、当然里数を書く。
「夷人は里を知らず日数で表す」だから、
その「水行二十日」情報も、倭人からの伝聞情報。
知らん振りして、誤魔化すなよ。
大和説学者は、全くのサギ師だな。 >>242
>それは仮説だから、それを根拠に論を進めると 循環論法になる<
史料事実や史料実態からの帰納的推論であるから、「結論先にありき」ではなく、
循環論法にならない。 >>274
最も遠い場所までの距離を書く根拠になっていない >>245
>「臨海郡は、元は会稽郡であった」、という事だ。<
>東冶は会稽郡で治所<
それ以前に「東冶」は、
その東に14万戸以上の人口が住める陸地が全くないから、✖。
勿論、260年の分郡で、東冶は建安郡になったから、
「夏后少康之子封於會稽」の会稽にも合わず、
陳寿の地の文の「計其道里、當在會稽東治之東」の会稽にも合わず、✖。 >>275
>陳寿らは、直線距離と折れ線的道のり距離の区別をせずに、
>同じ距離位だ、という近似をしているんだから
同じ距離位だと考えているなら水行二十日の投馬國までの直線距離とは考えていない >>249
>>会稽郡の一部が「呉郡」とされたんなら、<
>会稽郡の前は越<
これもダメだな。
越王勾践支配の前は、やはり呉王夫差の支配であり、越の支配ではない。 >>252
>少康の庶子が文身を始めたのではない <
そりゃ当然だけど、何が言いたいの?。 >>277
>海岸付近にまであった
会稽という地名の範囲はわからない
>会稽の地名がない情報は、会稽特定根拠にはならない。
封於會稽と書いてある 邪馬台国とは畿内、後のヤマトと呼ばれる場所。それ以外の選択肢はもうない。
いくらくだらん屁理屈並べても無駄だよな。 >>253
>越の風習に染まったんだよね <
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の時に、
越という部族が存在したのか?も判らんよ。 >>280
仮説を帰納的に推論したから根拠になるというのを循環論法というんだよ >>257
また、「南→東」などと同じように、史料事実を否定曲解しての、
分裂幻覚の妄想でのヘイトスピーチ? 。
だから大和説はダメなんだ。 >>282
>「東冶」は、 その東に14万戸以上の人口が住める陸地が全くない
なら、行程方位か地理観が間違っている
>260年の分郡で、東冶は建安郡になったから、
呉郡は129年に分郡、会稽東部は257年に分郡されている >>258
>>だから、呉郡の地は、元は会稽郡の一部であったのだ。<
>魏代は別だから、ダメ<
陳寿の「地の文」の「計其道里、當在會稽東治之東」の「会稽」は、
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の会稽であり、極めて古いのだから、
魏代に会稽郡から呉郡が分離した位では、「古い」とは言えず、✖。
大和説学者はウソ付きばかり。 >>265
>>>(魏使らは会稽が)岸地域をも含んでいる、という事も知っている。<
>越族の王が言ってる伝説だから範囲はわからない<
魏使らは、越王の出目には関係なく、「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」と書いている。
>>会稽という地名が古くからずっと存続していた、 という事実には変わりがない。<
>秦末に会稽郡が設置された後、漢初は呉郡と称され、前202年に会稽郡を設置した
郡名と会稽という地名を混同するな<
会稽の呼称は古い。郡名と会稽という地名を混同するな。
>>越人であれば、戦勝國民であり<
>勝つ前に戦乱を避ける人々もいる
お前は排他的人種差別戦争主義だからわからないだろうが<
生きるすべを知ってしまった人は、
危険が認識出来る時まで、同じ居地に留まろう、とするもの。
お前ら、排他的人種差別戦争主義の・・・・にはわからないだろうが。 >>293
>「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の会稽であり、極めて古いのだから
恣意的に断定するな
それなら會稽之東になる >>295
>魏使らは、越王の出目には関係なく、「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」と書いている。
魏使らは書いていない
>会稽の呼称は古い。
それは会稽郡ではない、お前が混同している
>危険が認識出来る時まで、同じ居地に留まろう、とするもの。
平和に暮らしたい人にとっては戦争自体が危険
排他的人種差別戦争主義のお前にはわからないだろうが >>266
>>自謂太伯之後<
>自称しているだけ<
「大夫」や「姫氏」などの関連証拠があったから、記録された。
>>晋書、梁書、太平御覧も記載し<
>晋書では會稽東冶之東<
晋書も梁書も、書き換えの多い唐代著作の半分×書であるが、ついうっかりの「信頼性のある記載」もある。
>>論点には全く関係がない。<
>夏朝では墨は禹刑<
夏后少康之子が文身をしたわけではない。
>文身は越族の風習<
日本列島では、縄文からの習俗。
>少康之庶子は越族の王統先祖伝説<
「会稽」の証拠にはならない。 >>288
>越という部族が存在したのか?も判らんよ。
いなかったら夏后少康之子封於會稽の伝説もない >>289
また考古学をしらない爺による「考古学的に〜」かよ >>289
考古学的にありえない。
て、どんなところとかご教示下さい >>267
>なんで当てはまるの?<
九州は、会稽東治付近から「東北東と東の間方向に納まる」から、
大体「之東」に当てはまる。 >>298
>「大夫」や「姫氏」などの関連証拠があった
大夫も自称、姫氏の証拠を出せ
>晋書も梁書も、書き換えの多い唐代著作の半分×書であるが、
>ついうっかりの「信頼性のある記載」もある。
會稽東冶之東がな
>夏后少康之子が文身をしたわけではない。
もともとが越王家を夏后に結びつけてる話だから
>日本列島では、縄文からの習俗。
九州は黥面文身の根拠となるものが非常に少なく
北部九州は首狩の痕跡が見られる >>269
>>「東冶の東には、14万戸以上があるような島も国もない」というのは、
普通の史料批判であり、<
>だから行程方位か地理観が間違っている<
だから、
九州は、会稽東治付近から「東北東と東の間方向に十分収まっている」から、
「之東」に十分当てはまり、
魏使らの記録も、陳寿の地理観も、ほぼ間違ってはいない。
>中国では17世紀まで地球は平面上で四角いと考えられていた<
個々の人間は、
生まれた時から以後に受けた情報や教育の範囲内にしか、事実認識能力がないのだから、
過去の人間の自然や歴史の知見よりも劣り、
知的退化を起こす事は、幾らでも有り得る。
特に、近代日本などのような、思想や宗教に強制的に教育されたアホ大和説人種などは、
知的退化を起こし易いもの。 >>303
九州は大体会稽郡の東北
南九州は孫呉の東、北部九州は広陵郡の東 >>305
お前のレスには根拠=データというものが一切無い 「東治」は会稽(今の紹興市)から海を船で香港方面に行く途中にあることが三国志ではっきりしてるので、今の福州で間違いなし。
短里説も九州説も崩壊してる。 >>269
>>最後は、和田キヨエを誑かして、旧和田家宅に大量の尿入り?一升瓶をおいて<
>畿内説の誰が?<
和田キヨエに接触して、喜八郎家への誹謗中傷のビラを大量に作らせた、
「皇国史観大和説の組織」のもの。
表面的には、大和一元列島支配教の皇国史観である東遷説の安本が、
詐欺師の桐原や仲間の偽筆跡鑑定家を使って、表面に出ていたが、
実質的には、文部省や学会や右翼マスコミが右翼興信社らが、
喜八郎さんや古田氏潰しに動いた。
>青森県教育庁編『十三湊遺跡発掘調査報告書』には、
「なお、一時公的な報告書や論文などでも引用されることがあった『東日流外三郡誌』については、
捏造された偽書であるという評価が既に定着している」と記載されるなど、
現在では公的団体も偽書であることを公表している。<
バカだね。
和田家文書が、文部省や右翼マスコミや学会の本質である、
国粋皇国史観大和天皇家一元列島使亜飛の思想宗教を否定するものである、
という事が知られてからは、
公的機関も一斉に右へ倣えをしたんだから、
そんなものは、何の信頼性もないんだよ。 >>309
>「皇国史観大和説の組織」のもの。
だから誰が泥棒喜八郎の家に大量の尿入り?一升瓶を置いた?
>文部省や右翼マスコミや学会
>公的機関も一斉に右へ倣えをした
単なる反日恨集団(含泥棒)だな >>270
>>会稽東治之東という大体の位置説明には、九州が(戸数でも)十分当てはまるから、<
>九州は会稽〜東冶の東の北、大体東北<
「東冶」などと書いての、ウソを付くな。
だから、以前に、説明しておいたんだよ。
Yahoo地図での概算で、
会稽東治付近から九州は700km位。
だから、九州の南北が700km位であって初めて「東北」になる。
しかし、九州は南北300km位。
だから、会稽東治付近から、九州は「東北東〜東」の間にすっぽり入り、
「大体東」であり、
魏使らの記録も、陳寿の推定も、大体合っていた、という事になる。 >>271
大和説学者かなんか知らんが、
しつこいのは嫌われるだけだぜ。
はっきりと大和説なんか全く興味も関心もないから、諦めたら?。
時間の無駄だよ。 >>312
ウソを付くな反日恨集団罵声要員
九州は大体会稽郡の東北
南九州は孫呉の東、北部九州は広陵郡の東 >>278
>で、徐福集団が九州に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系土器と中国系農具は?<
おや?、また、例の「反中國」の・・・・大和説者が現れた。
「大夫」などの証拠を出したのに、それをこっそり隠している詐欺師。 >>284
越の国は越王の支配下だが
何が言いたいんだ? あけましておめでとうございます。
会稽東冶が無駄な抗弁を受けているようですので、結論を申し上げておきます。
孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。 >>281
>>魏使らの行程記録や、陳寿の三国志での国や都市間距離記載は、
原則として、「居住外縁部間の最短距離で記載」、が守られている。
>>女王國の外縁部は、 狗邪韓国と末盧國に官名がない事と、
一大國と不彌國が(戸での記載ではなく)「家」での記載である事などで、
如淳注のまでの直線距離的萬里の九州北岸から、更に投馬國の外縁部までの大体の直線距離的な二千余里だ、
と、魏使らに判断された可能性がある。
陳寿の「倭地」の五千余里でも、同じように、海峡三千余里と、投馬國の外縁部までの二千余里余だ、
と認識されていた可能性がある。<
>最も遠い場所までの距離を書く根拠になっていない<
「自郡至女王國萬二千餘里」も、女王國の最遠外縁部ではなく、近縁の外縁部付近だろう、と言っている。
そして、福岡県付近が女王國の近縁中心地であり、
そこまでが直線距離的に萬余里位であり、
その南の熊本県付近が敵対した狗奴國のがあり直線距離的な二千余里位があり、
南九州が女王國の遠位外縁部のが、
郡から、直線距離的に萬二千余里の投馬國だろう、と言っている。
だから、熊本県の南北 >>283
>>陳寿らは、直線距離と折れ線的道のり距離の区別をせずに、
同じ距離位だ、という近似をしているんだから<
>同じ距離位だと考えているなら<
この・・・・男のこの言い方は、また、
「直線距離=折れ線的道のり距離」と絶対断定しての、差異を言い立てるつもりなんだろうねえ。
陳寿らは、当然、全体の直線距離と、
部分直線行程の折れ線的道のり行程の合計とは、少し違う、という事も知っている。
>水行二十日の投馬國までの直線距離とは考えていない<
魏使らも、陳寿も、南の西側海岸付近には敵対的な狗奴國があるから、
南への水行二十日が南への直線的距離を示すものではなく、東回りの迂回水路であった、
という事も知っている。 >>286
>>海岸付近にまであった<
>会稽という地名の範囲はわからない<
蛟龍之害が起こり得るような海岸付近にいた事が判る。
>>会稽の地名がない情報は、会稽特定根拠にはならない。<
>封於會稽と書いてある<
だから、会稽山という地名が貴重な情報。 >>287
邪馬壹國とは福岡平野から筑紫平野及びその周辺丘陵地。
後の筑紫と呼ばれる場所。それ以外の選択肢はもうない。
いくらくだらん屁理屈並べても無駄だよな。 >>323
同意。
魏志倭人伝でも後漢書でも、倭国とは福岡県つまり筑紫に他ならない。
畿内は魏志倭人伝にない田舎。 >>290
>仮説を帰納的に推論したから根拠になるというのを循環論法というんだよ <
存在確認された史料事実は、仮説ではないよ。
推論の出発点だよ。 魏志倭人伝にある邪馬台国について語るべきなのに、魏志倭人伝にないことばかり持ち出して畿内を邪馬台国にこじつけても、妄想に過ぎないよ。 >>292
>>「東冶」は、 その東に14万戸以上の人口が住める陸地が全くない<
>なら、行程方位か地理観が間違っている<
だから、范曄や范曄以後の唐代史家や現代大和説の「東冶】説者のらのら、
地理観が間違っており、
魏使らや陳寿や九州説者らの地理観が合っている。
>>260年の分郡で、東冶は建安郡になったから、<
>呉郡は129年に分郡、会稽東部は257年に分郡されている<
いずれも、分郡される前は、会稽郡であったんだから、会稽と呼ばれた地であり、
いずれも、陳寿の地の文の「計其道里、當在會稽東治之東」の会稽の根拠になり得る。 >>327の訂正
>>260年の分郡で、東冶は建安郡になったから、<
>呉郡は129年に分郡、会稽東部は257年に分郡されている<
いずれも、分郡される前は、会稽郡であったんだから、会稽と呼ばれた地であり、
いずれも、陳寿の地の文の「計其道里、當在會稽東治之東」の、
「会稽東治」の根拠になり得る。 >>294
>夫差は会稽郡を支配していない<
?。また断定だけか?。
越王勾践は、呉王夫差に負けて、許して貰った側だったんだろ?。 >>319
>福岡県付近が女王國の近縁中心地であり、
>そこまでが直線距離的に萬余里位であり、
>その南の熊本県付近が敵対した狗奴國のがあり直線距離的な二千余里位があり
ものすごくアバウトだから魏使が測量したなどという反日恨集団罵声専門要員のホラ話は終了 >>296
>>「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の会稽であり、
極めて古いのだから <
>恣意的に断定するな それなら會稽之東になる<
恣意的に断定するな 。
漢書が、東鯷人に対して「会稽海外」という説明をしているから、
陳寿は、倭国に対して「計其道里、當在會稽東治之東」という、
詳しく区別をする必然性がある。 >>320
>少し違う、という事も知っている。
少しじゃなくて水行二十日分
>南への水行二十日が南への直線的距離を示すものではなく、東回りの迂回水路であった、
それなら行っていないところまでの直線的距離はわからない >>322
越族は広い海岸付近に住んでいるから会稽という地名の範囲はわからない
「会稽の地名がない情報は、会稽特定根拠にはならない。」は無知な反日恨集団罵声専門要員のチョンボ
会稽山は墨を刑とした禹に因んだ地名 >>325
史料事実ではなくて史料解釈からの仮説だから根拠にはできない
仮説は根拠を基に証明しなければならない >>327
>魏使らや陳寿や九州説者らの地理観が合っている。
これも仮説を根拠としている循環論法
>分郡される前は、会稽郡であったんだから
会稽郡の東部侯官都尉の治所が東冶 >>297
>>魏使らは、越王の出目には関係なく、
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」と書いている。<
>魏使らは書いていない <
魏志だけではなく、魏略にも書かれている事が、魏使らの記録にあった事の証拠。
勿論、漢書にも書かれているから、
魏使らは漢書情報も知っていて、「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」情報との関連を考えた事になる。
>>会稽の呼称は古い<
>それは会稽郡ではない、お前が混同している <
陳寿は、「会稽」とのみ記載し、「会稽郡」とは書いていない。
お前が混同している。
>>危険が認識出来る時まで、同じ居地に留まろう、とするもの。<
>平和に暮らしたい人にとっては戦争自体が危険
排他的人種差別戦争主義のお前にはわからないだろうが<
国民は、空襲や原爆が落とされるまで、戦争で殺される、とは思わず、
政府やマスコミの説明を信じていた。
排他的人種差別戦争主義の・・・・のお前にはわからないだろうが。 >>299
>>「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の時に、
越という部族が存在したのか?も判らんよ<
>いなかったら夏后少康之子封於會稽の伝説もない <
越という氏族が南方に出来たのは、
夏后少康之子封於會稽の事件のもっと何代も後の事だよ。 >>331
東鯷人は分為二十餘國で東治ではない
恣意的に断定するな、反日恨集団罵声専門要員 >>300
また、
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの、
「大和説学者の考古学を妄信」する「考古学的に〜」かよする?。 >>301
>邪馬台の読みは、やまと<
「邪馬台」なんて、史料事実に存在しない、
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説学者の「捏造造作」文言。 >>336
>魏使らは漢書情報も知っていて、「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」情報との関連を考えた事になる。
だから魏使らは書いていない
>陳寿は、「会稽」とのみ記載し、
陳寿は會稽東冶と書いた
混同するな
>空襲や原爆
そんなものは呉越の戦いの時代にはない
反日恨集団罵声専門要員(泥棒賛成主義)にはわからんだろうが >>304
>「大夫」や「姫氏」などの関連証拠があった<
>大夫も自称、<
いや、漢書に、呉地域に「大夫」の身分があった記録がある。
>姫氏の証拠を出せ<
太伯も呉王夫差も姫氏。
新撰姓氏録には、松野連が呉王夫差の子孫である記録がある。
>>晋書も梁書も、書き換えの多い唐代著作の半分×書であるが、
ついうっかりの「信頼性のある記載」もある。<
>會稽東冶之東がな<
✖記載の方。
>>夏后少康之子が文身をしたわけではない。<
>もともとが越王家を夏后に結びつけてる話だから <
夏后少康之子自身が文身したのではないんだから、越部族が文身したって、
会稽での文身部族とは関係がない。
>>日本列島では、縄文からの習俗。<
>九州は黥面文身の根拠となるものが非常に少なく 北部九州は首狩の痕跡が見られる<
出雲が縄文期からの先駆王朝であり、
北部九州は、燕の南の倭人や、呉王夫差の後裔の倭人や、徐福らの、後からの流入があったもの。 >>343
>漢書に、呉地域に「大夫」の身分があった記録がある。
大夫は自称
>新撰姓氏録には
お前のレスは、>「大夫」や「姫氏」などの関連証拠があったから、記録された。
新撰姓氏録見て書いたのか
>✖記載の方。
チェリーピッキング
>越部族が文身したって、 会稽での文身部族とは関係がない。
史記 卷四十一 越王句踐世家第十一に書かれていること
>北部九州は、燕の南の倭人や、呉王夫差の後裔の倭人や、徐福らの、後からの流入があったもの。
燕の南、夫差、徐福に黥面文身の風習があったことを証明せよ 感情の原因はそれを感じる者自身の固定観念・価値観・自己ルール
解釈(含む誤解)の原因は解釈者。解釈の自由には責任が伴う
「言葉 風紀 世相の乱れ」はそう感じる人の心の乱れの自己投影
憤怒は無知 無能の自己証明。中途半端な知識主ほど辛辣に批判する
「真実は一つ」は錯誤。執着する者ほど矛盾を体験(煩悩 争い)する
問題解決力の低い者ほど自己防衛の為に礼儀作法やマナーを要求する
論理的思考力が低い者ほど宗教フェイク迷信デマに感化傾倒陶酔洗脳
史上最も売れているトンデモ本は聖書。神は人間の創造物
全ては必然。偶然 奇跡 理不尽 不条理は思考停止 視野狭窄の産物
全社会問題の根本原因は「低水準教育」。解決策は「高度教育」
宗教民族差別貧困は紛争の「原因」ではなく「理由口実動機言訳切欠」
犯罪の原因は「加害者の人格障害」。必要なのは治療と高度教育
体罰は指導力の乏しい教育素人の甘え怠慢責任転嫁コミュ障
死刑は民度の低い排他主義集団による時代錯誤なリンチ殺人
核武装論は人間不信と劣等感に苛まれた臆病な外交素人の精神安定剤
投票率低下は社会成熟の結果。奇人変人の当選は議員数過多の徴候
感情自己責任論 〜学校では教えない合理主義哲学〜 m9`・ω・) >>327
>いずれも、分郡される前は、会稽郡であったんだから、会稽と呼ばれた地であり、
>いずれも、陳寿の地の文の「計其道里、當在會稽東治之東」の会稽の根拠になり得る。
だから古田説は間違いだな
>>329
>越王勾践は、呉王夫差に負けて、許して貰った側だったんだろ?。
許したら臥薪嘗胆して復習した
夫差は殺されて呉は征服された >>328
卑弥呼が魏に使いするより
100年以上も前には
会稽郡の一部だったことがある
なんて理由で
陳寿が「会稽東治」と
書くわけないだろ
時代錯誤 >>343
で、弥生期にブタチーノが渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系土器と中国系農具は?
. >>343
で、弥生期にブタチーノが渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系土器と中国系農具は?
. ・倭国大乱は卑弥呼を共通の王とし戦乱の終結
・九州北部〜山口(倭国)、出雲、近畿の勢力の連合国(邪馬台国)を樹立した
・邪馬台国=ヤマトコク(大和王権の前身)
・中国からは日本の勢力が複合的になってしまったため倭、邪馬台国、女王国と呼称される
・卑弥呼は「鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。」後漢書、後の天皇家の宮中祭祀の名残
・卑弥呼死後は男が王位に立ったが内乱状態に卑弥呼の親族の台与が王位に立ち内乱が収まった
・天皇家一族が邪馬台国の主導権を握り、初期大和王権へと変質、神話として語り継がれる
・大和王権、倭の五王が中国に朝貢 >>327
>いずれも、分郡される前は、会稽郡であったんだから、会稽と呼ばれた地であり、
>いずれも、陳寿の地の文の「計其道里、當在會稽東治之東」の会稽の根拠になり得る。
だから古田説は間違いだな
↓
お古田>つまり、今の福建省(台湾の対岸)は、はじめ会稽郡の中に入っていた。
お古 >ところが、永安三年(二六〇)会稽郡の南部にあたるこの地域は、「分郡」されて、建安郡と命名された。
お古 >つまり、「郡名+県名」という、例のいい方からすると、永安三年以前は「会稽東冶」だが、この年以後は「建安東冶」としなければならない。 九州説なる盲説は我が國の國體の概念に著しく違背する。
危険だ。 >>357
?
九州説って国体護持右翼皇国主義説だろ >>306
>九州は大体会稽郡の東北 <
この男は、まだ、
「東治→東冶」の史料事実の否定曲解をして、誤魔化そうとしている。
会稽の東海岸(北緯30度位)から九州は、700km位。
そして九州は、
北緯30度から北へ110km位(北緯31度)から、更に北へ南北280kmとして、
最北端で、30度から390km位だから、ちょうど東北東方向。
だから、九州は、会稽の東海岸から「東北東〜東」の間で、ほぼ「東」と言え、
「東北」には全くならない。
>南九州は孫呉の東、<
孫呉の東海岸は、元、会稽郡の東治の地域。
そこから、九州は「東北東〜東」でほぼ東方。
>北部九州は広陵郡の東 <
北部九州は、会稽の東方海岸からも、孫呉の東海岸からも、東北東方向で、
「東北」方向ではない。 賀正
巻向は物部の墓場やった(^^
ジャマイカは海岸にあった(たぶん 正月あけてからはじめてのしらふタイムじゃ(ねおきじゃが^^ >>308
>「東治」は会稽(今の紹興市)から海を船で香港方面に行く途中にあることが
三国志ではっきりしてるので、今の福州で間違いなし。<
その記載は、360年の分郡以前の記載であり、
「東治」は、当然普通名詞であり、「(福州の)東の治所」の意味。
分郡以後の陳寿の地の文での「会稽東治」の「会稽の東の治所」とは場所が全く違う。
>短里説も九州説も崩壊してる。<
大和説の長里説は、赤道付近になってしまう事で崩壊し、
大和説側の「東冶」説は、東方に14万戸以上の人口の陸地が全く存在しない事で崩壊し、
短里説や九州説は、「会稽東治の東北東〜東方向に九州が存在する」事で、成立した。 はつもうで
ゆくならやはり
いずもかな(いってきます^^ るーぷはロムる気せんぞなもし
じじいども新しい切り口用意せー >>362
>孫呉の東海岸は、元、会稽郡の東治の地域。
なんで突然陳寿が100年以上も前の地名を使うと?
陳寿が発狂してるとでも言い張りたいのかな? >>365
>短里説や九州説は、「会稽東治の東北東〜東方向に九州が存在する」事で、成立した。
つまり短里説や九州説は、詐欺をしないと成立しないわけだ。 >>362
会稽の東海岸は257年の分郡以前の会稽郡で
東冶は260年の分郡以後は会稽郡ではないと言張る
反日恨集団連呼専門要員
計其道里 當在會稽東冶之東
だから、「會稽東冶」か「會稽、東冶」
九州は大体会稽郡の東北
南九州は孫呉の東、北部九州は広陵郡の東 >>310
>>「皇国史観大和説の組織」のもの。<
>だから誰が泥棒喜八郎の家に大量の尿入り?一升瓶を置いた?<
和田喜八郎宅が売却されて不動産屋の所有になって、中が綺麗になっていて、
その家を買い取ったのが和田キヨエで、
その後で、大量の尿入り?一升瓶発見騒ぎが起きたのだから、
大量の尿入り?一升瓶を置けるのは、和田キヨエしかおらず、
和田キヨエが主犯。
また、和田キヨエは、苗字が変わっていないから、独身であった筈であり、
喜八郎家からの援助で生活していた和田キヨエが、
元喜八郎家を買い取るお金を持っていた筈もなく、
どこから資金が出たのか?というと、
そりゃ、喜八郎さんへの誹謗中傷ビラを大量に配布した事で、
配布をそそのかした安本氏らや右翼新聞社などの右翼組織からの、
援助や謝礼金が大量に和田キヨエに渡されていた、という事しかない。
つまり、和田キヨエを誑かした偽書説派親大和説派の安本や右翼新聞社らが、
大量の尿入り?一升瓶事件の共同正犯。
>>文部省や右翼マスコミや学会 公的機関も一斉に右へ倣えをした<
>単なる反日恨集団(含泥棒)だな<
この男や、大和説者も、単なる、
「反日」ヘイトスピーチキョクウの・・・・恨集団(含泥棒)だな。 >>371
>皇国史観
在日朝鮮人の集団だと書いてない?
中国、中華?が嫌いだとか 中華が嫌い・・・、
ということは皇国も何もないような気がする
元号などもない
様々な組織があるのでわからない、
組織によるのかもしれないけど もしかして、あまり頭が良くないのかな、
そういう集団、組織の上の人々も 日本最初期のころは中国の影響もあったけど昔の昔に遣隋使をやめたりしているので昔から嫌ってる。 >>371
>安本や右翼新聞社らが、
>大量の尿入り?一升瓶事件の共同正犯。
九州説の安本が大量の尿入り?一升瓶を置いたのか?
新聞社はどこの新聞社の何という記者か? >>371の追記。
尿入り?大量一升瓶が事実であれば、通常は、
女性は構造的にこぼれてしまって非常に困難なのであり、
当然複数以上の多数の男性の尿を集めるしかなく、
その事も、右翼組織や右翼マスコミ男性らの尿であった可能性が高い。 >>311
大和説者という人種は、このように、トンデモ人種。 >>361
年末年始も全岡上病には関係なしか。
はように病院いきなはれ >>314
ウソを付くな、
「反日ヘイトスピーチ」のキョクウ恨集団の、尿入り一升瓶要員。
九州は大体、会稽郡の東の治所の「東北東〜東」。
南九州は元会稽郡の治所であった孫呉のであったほぼ東。
北部九州は、会稽郡の東の治所の東北東。 おかしな話
王族、貴族、聖徳太子の存在を否定したい人がいたり、
称賛するものはいらないとか
ググってみるといたでしょ? >>316
>大夫は自称<
漢書に、呉付近で「大夫」が使用されている記述がある。 >>380
>>371では
和田喜八郎の住宅の尿入り一升瓶は九州説の安本美典と新聞社が置いたと言ってるんだろ? >>317
>越の国は越王の支配下だが 何が言いたいんだ?<
越王家は、
夏后少康之子の血は入っていたようだが、
会稽付近の王になっていたのではなかった、という事。 >>385
無知なくせに適当なこと書くな反日ジジイ このスレに居ついてる九州説論者みると、頭おかしいとしか思えないよな。 >>318
>孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻
ならびに追撃した賀斉の伝、
並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。<
同じ文が、古田第1書の引用では、「東冶」になっており、
古田さんも、書陵部に日参されて、
張元済が「最も善本である」として採用された本を使用された筈であり、
その後、書陵部本にも善本であるものと、善本ではないものがあった、
という話も書いておられたから、
この投稿子の「書陵部蔵本」が、どちらの本であったのか?は、不明である。
そして、「東治」であったんなら、
そりゃ、文面から本来固有名詞であるから筈の場所に、
「(福州の)東の治所」という意味の普通名詞で使われた事になり、
矛盾になる。
だから、おそらく古田本の記載の方が正しい。 >>391
>張元済が「最も善本である」として採用された本を使用された筈であり、
>その後、書陵部本にも善本であるものと、善本ではないものがあった、
>という話も書いておられたから、
古田信者が
またウソ八百をついている >>321
>ザラコクは言ってることがコロコロ変わるな <
概略の論理は、別に変っていない。
変わったのは、ここでの議論をしていて、
「自郡至女王國萬二千餘里」の対象が、「邪馬壹國女王之所都」ではなく、
「女王國」となっていた事を知った事での、
小変更。 >>324
>同意。
魏志倭人伝でも後漢書でも、倭国とは福岡県つまり筑紫に他ならない。
畿内は魏志倭人伝にない田舎。<
「同意」、ありがとうございます。 >>371
>つまり、和田キヨエを誑かした偽書説派親大和説派の安本や右翼新聞社らが、
>大量の尿入り?一升瓶事件の共同正犯。
九州説は嘘ばかり書いてるな
安本は九州説って誰でも知ってるから
すぐバレるのに >>391
>古田さんも、書陵部に日参されて、
>張元済が「最も善本である」として採用された本を使用された筈であり、
>その後、書陵部本にも善本であるものと、善本ではないものがあった、
>という話も書いておられたから、
古田がどこにそんなこと書いたの?
古田がウソツキ?
ザラコクがウソツキ?
どっち? >>330
>>福岡県付近が女王國の近縁中心地であり、そこまでが直線距離的に萬余里位であり、
その南の熊本県付近が敵対した狗奴國の直線距離的な二千余里位があり<
>ものすごくアバウトだから魏使が測量したなどという反日恨集団罵声専門要員のホラ話は終了<
おや?、これまで随分議論して来たこの男も、
和田キヨエを誑かして、喜八郎誹謗ビラを印刷配布したり、
一升瓶に尿を入れる係やその仲間だったのかな?。
この投稿の「魏使が測量した」というのも、全くの嘘吐きダマシそのもの。
私の説明は、「魏使ら」であり、魏使以外の計測役人がいた、という説であり、
その計測は、女王之所都と卑弥呼の墓と侏儒國まで、という説であり
それ以外の数値は、計測役人が行っていないんだから、
殆ど、倭人からの伝聞か?、陳寿の推定であった、という説。 >>332
>>少し違う、という事も知っている。<
>少しじゃなくて水行二十日分<
魏使らは、不彌國の真南は陸地である、であるという事を知っているから、
不彌國からの水行二十日は、一旦海で出ての大回り日数である事も知っており、
実際の陸上直線距離は、倭人が直接陸行で行った時の日数の説明から、知った、
という可能性がある。
>>南への水行二十日が南への直線的距離を示すものではなく、東回りの迂回水路であった、<
>それなら行っていないところまでの直線的距離はわからない <
おそらく、倭人の陸路を採って行った時の日数の伝聞情報からの推定。 >>333
>越族は広い海岸付近に住んでいるから会稽という地名の範囲はわからない<
陳寿が「計其道里、當在會稽東治之東」と書いた時の会稽は、
当然「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の会稽であり、
陳寿生存時に、会稽山や会稽郡の地名があり、地名東の外海に近い所。
>「会稽の地名がない情報は、会稽特定根拠にはならない。」は無知な反日恨集団罵声専門要員のチョンボ<
この男の「反日恨集団罵声専門要員」発言は、自分が、
「反日ヘイトスピーチ」のキョクウ・・・・集団の要員であった、
という事をバラしてしまった、というチョンボ。
>会稽山は墨を刑とした禹に因んだ地名<
これも、何の因果関係もない無意味な発言であり、チョンボ。 >>334
>史料事実ではなくて史料解釈からの仮説だから根拠にはできない
仮説は根拠を基に証明しなければならない<
自然科学や考古でも同じ。
不可知部分が殆どである自然や歴史において、
存在確認された史料事実自体が、否定し難い高い確率を持っており、
不可知部分への帰納的推論の出発点の根拠になれる。 >>335
>>魏使らや陳寿や九州説者らの地理観が合っている。<
>これも仮説を根拠としている循環論法<
いや、存在確認出来た史料事実は、仮説ではなく、ほぼ100%の確率の論拠。
>>分郡される前は、会稽郡であったんだから <
>会稽郡の東部侯官都尉の治所が東冶<
陳寿の地の文の「計其道里、當在會稽東治之東」や、
会稽山や、
古くからの会稽郡の存在や、
東冶の東方には14万戸の大きな陸地が存在しない、
などの史料批判に拠って、
「東冶」は否定された。 >>337
>越国は滅んでいない<
陳寿の生存の頃は、会稽付近には越国は存在しない。 >>339
>東鯷人は分為二十餘國で東治ではない<
何?、この意味不明な・・・・文は。
東鯷人は、「会稽海外」にいるんだから、東治とは、始めから関係がない。
>恣意的に断定するな、反日恨集団罵声専門要員<
意味不明な・・・・文を書くな、
「反日ヘイトスピーチ」の極右殺人戦争狂の、
恨集団罵声専門要員。 >>340の訂正。
また、
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの、
「大和説学者の考古学を妄信」する、
「考古学的に〜」かよ?。 >>342
>>魏使らは漢書情報も知っていて、
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」情報との関連を考えた事になる。<
>だから魏使らは書いていない <
魏略に同じ文がある事の説明が付けられない。
>陳寿は、「会稽」とのみ記載し<
>陳寿は會稽東冶と書いた 混同するな<
ウソを付くな。
陳寿は、「計其道里、當在會稽東治之東」と書いた。 >>399
>陳寿が「計其道里、當在會稽東治之東」と書いた時の会稽は、
>当然「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の会稽であり、
>陳寿生存時に、会稽山や会稽郡の地名があり、地名東の外海に近い所。
ならば
呉郡である上海あたりを会稽東治だと言い張る男は
詐欺師だな
w >>397
>計測役人
倭人からの日数聞き取りで里数を推定できるという仮説に計測役人は不要 >>398
>実際の陸上直線距離は、倭人が直接陸行で行った時の日数の説明から
直線陸行はできない >>399
>陳寿生存時
は、会稽郡東部は臨海郡
>「反日ヘイトスピーチ」のキョクウ
ヘイトスピーチをするのが反日
>何の因果関係もない
会稽山は文身とは関係ない >>400
>存在確認された史料事
お前のはチェリーピッキング >>401
>ほぼ100%の確率の論拠
結論先にありき
>陳寿の地の文
恣意的な決め付け
>東冶の東方には14万戸の大きな陸地が存在しない
行程方位か地理観が間違っている 名字(明治時代?)が必要になり、先祖などの名を名乗ったんだよな〜、
そのような理由から・・・・、
かなり下(上)の存在に思えるとか
どこかで見たような気がする >>403
>東鯷人は、「会稽海外」にいるんだから、東治とは、始めから関係がない
会稽の東に治所はなく、会稽の海外の東鯷人も関係ないから
會稽東治は會稽東冶
意味不明なのがお前の>>331と「反日ヘイトスピーチ」 >>405
>魏略に同じ文がある事の説明が付けられない。
漢書に書いてある
>陳寿は、「計其道里、當在會稽東治之東」と書いた。
中国では版本の會稽東治は會稽東冶に訂正されている 詳しい人、いないのかな
リューマ、リョーマ(坂本)
というのもいたよと言っていたり 調べてみると、
千葉道場が何やらと言っていない?
本当は千葉氏と言う意味だと思うんだけど >>408
角度が45度くらいずれていたんじゃない?
魏志倭人伝みたいに。
それなら九州にはたどり着ける。
でも畿内にはたどり着けないから、畿内説にとってこそ致命傷だよ。 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 >>421
45度くらいずれてたら、倭人在帶方東南大海之中が倭人在帶方東大海之中になる >>421
>でも畿内にはたどり着けないから、畿内説にとってこそ致命傷だよ。
なんで、辿り着けないの?
理由は?
??? >>159 >>404
>「南」と「東」を間違える事は、・・・・アホの大和説者しかないない。
新井白石の前の日本書紀の頃からの日本人や隋書や混一疆理歴代国都之図のアジア人がアホしかいないと
あなたどこの国の人ですか? >>344
>>漢書に、呉地域に「大夫」の身分があった記録がある。<
>大夫は自称<
「自称」は、魏側の判断。
倭人側は、当然、中国時代からの身分呼称を継承した。 >>344
>>新撰姓氏録には
>お前のレスは、
>「大夫」や「姫氏」などの関連証拠があったから、記録された。
新撰姓氏録見て書いたのか<
この・・・・は、また変な文を書いている!。
新撰姓氏録の方が、松野連家の「呉王夫差の出だ」という説明を載せた。 >新撰姓氏録の方が、松野連家の「呉王夫差の出だ」という説明を載せた。
それ、なんか証拠でもあって言ってるの?
>>344
>>(半分×の)✖記載の方。<
>チェリーピッキング<
全ての情報を書き切れないのだから、関係のない話は、省くのが当たり前。 >>344
>>越部族が文身したって、 会稽での文身部族とは関係がない。<
>史記 卷四十一 越王句踐世家第十一に書かれていること<
「夏后少康之子」の血を引いたと称するずっと後の者が、
越地域でもまた「斷髮文身以避蛟龍之害」をした、というだけだな。 >>344
>>北部九州は、燕の南の倭人や、呉王夫差の後裔の倭人や、徐福らの、
後からの流入があったもの。<
>燕の南、夫差、徐福に黥面文身の風習があったことを証明せよ<
この言い回し形は、例の「・・・・的投稿男」の投稿そのものだね。
魏志に書かれた「黥面文身の風習」は、
「燕の南、夫差、徐福」とは、直接関係がなく、
大陸部族が森林での狩猟で、身を隠す事にも使ったんだろうが、
中心は、縄文期頃からの、南方の漁労部族で使われた風習であった、
と思うよ。 >>364
>九州北部に呉と越のそれぞれがやって来ていたのか。<
違う、と思うね。
縄文期頃から、南方漁労部族に広がっていた風俗であり、
列島にも縄文期に既に伝わっていて、
呉の王家は、黥面文身をしていなかった、と思うから、
呉王夫差の遺民も、極一部にはいた、としても、
大多数は、鯨面文身をしていなかった、と思うよ。 >>348
>>(呉郡、臨海郡など)いずれも、分郡される前は、会稽郡であったんだから、
会稽と呼ばれた地であり、
いずれも、陳寿の地の文の「計其道里、當在會稽東治之東」の会稽の根拠になり得るなど<
>だから古田説は間違いだな<
相変わらずの、分裂幻覚の・・・・妄想だな。
古田さんの言った通りに、
「計其道里、當在會稽東治之東」の会稽の根拠になる、と言っている。 >>350
>>越王勾践は、呉王夫差に負けて、許して貰った側だったんだろ?。<
>許したら臥薪嘗胆して復習した 夫差は殺されて呉は征服された <
そんな事は、常識だからな。
それで、越王勾践自身も、鯨面文身していたんかい?。 >>351
>(呉郡が)卑弥呼が魏に使いするより 100年以上も前には
会稽郡の一部だったことがある なんて理由で 陳寿が「会稽東治」と 書くわけないだろ
時代錯誤<
いや、呉郡も、
古くから「会稽」と呼ばれた地域の一部であった、
という事の証拠になる、という話。
それらの事を知っているから、陳寿は、
「計其道里、當在會稽東治之東」の「会稽」を書けた、
という事になる。 >>352
>で、弥生期にブタチーノが渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系土器と中国系農具は? <
おや?、また出て来たね。
例の、中国人蔑視の人種差別や、和田キヨエをたぶらかしたキョクウ仲間の・・・・が。 >>354
>・倭国大乱は卑弥呼を共通の王とし戦乱の終結<
「倭国大乱」なんてなく、「倭國乱」ね。
大和説者は、何とか「大乱」にして、倭國の範囲を西日本全域に広げて、
世間の人々を騙そう、とする。
>・九州北部〜山口(倭国)、出雲、近畿の勢力の連合国(邪馬台国)を樹立した<
「邪馬台国」ってのもなかったね。
大和説者は、邪馬壹國では「大和=ヤマト」にならないから、
「邪馬壹國→邪馬台国」とすり替えて、世間の人々を騙そう、としている。
>・邪馬台国=ヤマトコク(大和王権の前身)・・・<
ほら、ここで「大和」を出して来て、世間の人々を騙そう、としたが、
「南≠東」に拠って、大和説は✖ね。 >>355
>>いずれも、分郡される前は、会稽郡であったんだから、会稽と呼ばれた地であり、
いずれも、陳寿の地の文の「計其道里、當在會稽東治之東」の会稽の根拠になり得る<
>だから古田説は間違いだな ↓
お古田>つまり、今の福建省(台湾の対岸)は、はじめ会稽郡の中に入っていた。
ところが、永安三年(二六〇)会稽郡の南部にあたるこの地域は、「分郡」されて、建安郡と命名された。
つまり、「郡名+県名」という、例のいい方からすると、永安三年以前は「会稽東冶」だが、
この年以後は「建安東冶」としなければならない<
「郡名+県名」の記載としての捉え方の話であるから、別に間違っていない。
また、要するに、陳寿の「地の文」の「計其道里、當在會稽東治之東」の、
「会稽東治」は、「会稽東冶」ではなく、
「(元からあった)会稽郡の中の東治」の意味だ)、
という事にもなるから、
古田さんは、何も間違っておられない。 >>347
大和説なる盲説は、我が國の國體の成立の実態に、著しく違背する。
国民を騙して、安部政府と同じく、」殺戮核戦争に持ち込もうとする。
危険だ。 >>359
>? 九州説って国体護持右翼皇国主義説だろ<
?。 大和説って、国体護持の殺し合い核戦争大賛成の、右翼皇国主義説だろ 。 >>426
>中国時代からの身分呼称を継承した。
外来語 >>427
>松野連家の「呉王夫差の出だ」
9世紀で諸蕃だからホラ >>429
省いてるのではなくて都合の悪い記載は全部✖にしているから
チェリーピッキング >>430
だから「夏后少康之子」は伝説
越の古くからの文身の風習と倭人の風習が同じと言っているだけ >>431
九州は黥面文身の根拠となる遺物が本州より極端に少ないから
北部九州に流入したと主張している「燕の南、夫差、徐福」が、黥面文身と直接関係がないなら
倭人伝のころに九州に黥面文身の風習があった根拠がほとんど無い
倭人の風習の卜骨も本州は広範囲に多く、九州島からわずか2ヶ所だけしかない >>368
>>孫呉の東海岸は、元、会稽郡の東治の地域。<
>なんで突然陳寿が100年以上も前の地名を使うと?
陳寿が発狂してるとでも言い張りたいのかな?<
何で陳寿が、
「孫呉の東海岸も元、会稽郡の東治の地域」であった、
という事も知らないと?。
大和説者は、発狂しているのかな?。 >>369
>>短里説や九州説は、「会稽東治の東北東〜東方向に九州が存在する」事で、
成立した。<
>つまり短里説や九州説は、詐欺をしないと成立しないわけだ。<
つまり、長里説や大和説者は、
大和説の長里説では、赤道付近になってしまう、という事実を隠し、
大和説側の「東冶」説は、東方に14万戸以上の人口の陸地が全く存在しない、という事実を隠し、
短里説や九州説は、「会稽東治の東北東〜東方向に九州が存在する」事で、成立した
という事実を隠す事でしか、
成立しないわけだ。 >>370
>会稽の東海岸は257年の分郡以前の会稽郡で <
会稽の東海岸ははるか以前から会稽郡でからあった証の話。
>東冶は260年の分郡以後は会稽郡ではないと言張る<
東冶は、陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」の「東治」ではない証拠の話。
>反日集団連呼専門要員<
この・・・・男は、「反日ヘイトスピーチ」のキョクウの・・・・集団連呼専門要員。
>計其道里 當在會稽東冶之東<
嘘を付くな。
計其道里 當在會稽東治之東 、だ。
>だから、「會稽東冶」か「會稽、東冶」<
だから、これも×。
>九州は大体会稽郡の東北<
九州は、会稽東治の「東北東〜東」の間であり、 「大体東北」ではなく、「大体東」。
>南九州は孫呉の東、北部九州は広陵郡の東<
・・・・詐欺師の特徴は、このように、 当たり前な事をな言って、聴衆を信用させて、
その中に、こっそり騙しを含ませて、それで国民を騙す。
皆さま、「オレオレ詐欺」や、 「安部キョクウ政府の憲法改悪核戦争主義詐欺」に気を付けましょうね。 >>447
12世紀の版本の會稽東治之東というのが後代の史書では使われていない
現在中国では會稽東冶之東と訂正されている
九州は会稽郡の大体東北
畿内説は行程方位は根拠にならないという立場 >>448
>会稽の東海岸ははるか以前から会稽郡
会稽郡は東冶あたりまで
>東冶は、陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」の「東治」ではない証拠の話。
二重基準
>計其道里 當在會稽東治之東 、だ。
学問では史料批判ということを行う
>だから、これも×。
都合が悪い情報の排除
>九州は、会稽東治の「東北東〜東」の間であり、
九州は会稽郡の大体東北
>詐欺師の特徴は、このように、 当たり前な事をな言って、聴衆を信用させて、
>その中に、こっそり騙しを含ませて、それで国民を騙す。
>皆さま、「オレオレ詐欺」や、 「安部キョクウ政府の憲法改悪核戦争主義詐欺」
ヘイトスピーチ >>432
>呉の王家は、黥面文身をしていなかった、と思うから
史記に呉王の文身の言は書かれている >>449
>畿内説は行程方位は根拠にならないという立場
おいおい
根拠にしようと思ってもできない、だろw >>449
>畿内説は行程方位は根拠にならないという立場
単に畿内はやまたと関係がないだけだよ。 >>449
>畿内説は行程方位は根拠にならないという立場
単に畿内は邪馬台国と関係がないだけだよ。 >>372
>>皇国史観<
天皇専制支配願望の・・・・宗教の集団だ、と書いてない?。
反韓、反中、反ロ、反共、が大好き人種だとか。 >>376
>>安本や右翼新聞社らが、 大量の尿入り?一升瓶事件の共同正犯。<
>九州説の安本が大量の尿入り?一升瓶を置いたのか?<
いや、親大和説東遷派の安本は、主として、偽鑑定や桐原詐欺師らのサギ係の方。
>新聞社はどこの新聞社の何という記者か?<
確か、東奥日報?との斎藤とかいうと記者らが、熱心だったとか。 >>386
「南→東」などの嘘吐きダマシの詐欺師のくせに、
いい加減なこと書くな、「反日ヘイトスピーチ」キョクウのガキ。 >>387
このスレに居ついてる大和説論者みると、頭おかしいとしか思えないよな。 >>391の訂正。
>孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻
ならびに追撃した賀斉の伝、
並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。<
同じ文が、古田第1書の引用では、「東冶」になっており、
古田さんも、書陵部に日参されて、
張元済が「最も善本である」として採用された本を使用された筈であり、
その後、書陵部本にも善本であるものと、善本ではないものがあった、
という話も書いておられたから、
この投稿子の「書陵部蔵本」が、どちらの本であったのか?は、不明である。
そして、「東治」であったんなら、
そりゃ、文面から本来固有名詞である筈の場所に、
「(福州の)東の治所」という意味の、普通名詞で使われた事になり、
矛盾になる。
だから、おそらく古田本の記載の方が正しい。 >>457
それお前が思うというだけなら
名誉毀損になるぞ >>392
>>張元済が「最も善本である」として採用された本を使用された筈であり、
その後、書陵部本にも善本であるものと、善本ではないものがあった、
という話も書いておられたから、<
>古田信者が またウソ八百をついている<
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説信者が、また、
具体的な反論が出来ずに、
「口先ヘイトスピーチ」宣伝だけで、
国民を騙す嘘八百をついている。 >>395
>>つまり、和田キヨエを誑かした偽書説派親大和説派の安本や右翼新聞社らが、
大量の尿入り?一升瓶事件の共同正犯<
>九州説は嘘ばかり書いてるな
安本は九州説って誰でも知ってるから すぐバレるのに<
大和説者は、何にも判らないアホばっかりだったんだな。
安本は、
古田さんを安本説支持者に引き入れようと申し入れて断られた事を根に持って、
古田九州王朝説を見て、自分の皇国史観とは全く反対である事が判り、
皇国史観の大和説に転向しようと思ったが、
しかし、それまで九州説でシンパを持ったから、一挙に転向出来ず、
止むを得ず、東遷説にすり替えて、反古田反九州王朝説を唱えて、人気を回復しようとし、
和田家文書問題で、古田さんが真書説になったと知るや、
偽筆跡鑑定師や桐原詐欺師や右翼興信社や右翼マスコミや右翼組織を動員して、
全力で、古田攻撃に転身した・・・・サギシそのもの。 >>396
>>古田さんも、書陵部に日参されて、
張元済が「最も善本である」として採用された本を使用された筈であり、
その後、書陵部本にも善本であるものと、善本ではないものがあった、
という話も書いておられたから、<
>古田がどこにそんなこと書いたの? 古田がウソツキ? ザラコクがウソツキ? どっち?<
お前が詐欺師。
もうどの本であったのか?は覚えていないが、
「邪馬壹國の論理」から「古代は沈黙せず」頃であったと思うよ。 >>406
>会稽東治=会稽東冶=福州 同じこと <
全くの極右の・・・・アホなんだね。
会稽東治≠会稽東冶=福州。 >>407
>>陳寿が「計其道里、當在會稽東治之東」と書いた時の会稽は、
当然「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の会稽であり、
陳寿生存時に、会稽山や会稽郡の地名があり、その東の外海に近い所。<
>ならば 呉郡である上海あたりを会稽東治だと言い張る男は 詐欺師だな w<
会稽山の東方海岸地域だよ。 軽くスルーされたがどうなんだこれ?
>>159 >>462
>「南」と「東」を間違える事は、・・・・アホの大和説者しかないない。
新井白石の前の日本書紀の頃からの日本人や隋書や混一疆理歴代国都之図のアジア人がアホしかいないと
あなたどこの国の人ですか? 方角間違い例なら、他にも沢山ある事が理解出来ないバカを
相手にする必要ないからな。
百済の西側に国があると記された資料すらある。 >>408
>當在會稽東治之東は九州説の致命傷ですね<
この男も、全くの・・・・だね。
大和説の長里説であれば、赤道付近に行ってしまうんだし、
「東冶」説であっても、東冶の東には、14万戸以上の人口が住める陸地が全く存在しない、
という大和説にとっては致命傷な事実を、
全く伏せて隠して、世間の人々を騙そう、としているんですから。
そして、九州説には、何の致命傷もない。 >>470
それを楯にして歴史を捏造していいことにはならない。 >>410
>>(大和説に)なんの問題があるんだ? 何もない<
「南≠東」、
「大和は筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」、
倭國は、「西北接百濟、正北抵新羅」、
「弥生銀座」、「平原の21枚の尚方作鏡」、
「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」の祇園山、
大和説の長里説であれば、赤道付近に行ってしまうんだし、
「東冶」説であっても、東冶の東には、14万戸以上の人口が住める陸地が全く存在しない、
など、
大和説にとっては致命傷ばかり。 >>472
>東冶の東には、14万戸以上の人口が住める陸地が全く存在しない、
>という大和説にとっては致命傷な事実を、
>全く伏せて隠して
隠すも何もそれが畿内説が行程が根拠にならないとする根拠だから
また、南九州も考古学的に北部九州との関係がほとんどない >>474
>「弥生銀座」、「平原の21枚の尚方作鏡」、
>「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」の祇園山、
考古学素人の根拠 >>411
>>計測役人<
>倭人からの日数聞き取りで里数を推定できるという仮説に計測役人は不要<
皇帝に報告しなければならないのだから、
行けなかったところは、仕方がないから倭人からの日数伝聞での推定でもよいが、
行けて計測出来るところは、出来るだけ計測しておかなければ、
怠慢だ、とされて首が飛ぶ。 >>473
史書に間違いや捏造があると認識して考えるのも歴史学だろうが >>412
>>実際の陸上直線距離は、倭人が直接陸行で行った時の日数の説明から推測の可能性<
>直線陸行はできない<
中国では、歩行1日200里、という認識があった。 >>477
正確な基準が存在する里数ではないし
推定できるなら計測不要
皇帝はそれで満足 短里なんて5倍以上も縮尺を間違えたものに頼ってるくせに
方位は間違えないなんて言い張るんだから自分勝手な九州説だよな >>413
>陳寿生存時は、会稽郡東部は臨海郡<
陳寿の若い頃は、会稽郡であった。
>ヘイトスピーチをするのが反日<
ヘイトスピーチするのが、排他的人種差別殺戮戦争の国粋皇国史観の極右。
5chでも、大和説者らがその仲間。
>会稽山は文身とは関係ない <
勿論、鯨面文身は海岸地域に多い。 >>414
>>存在確認された史料事実<
>お前のはチェリーピッキング<
お前らのは、「南→東」などのように、
都合の悪い史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシ。 >>483
>陳寿の若い頃は、会稽郡であった。
陳寿の若い頃は東冶は会稽郡
>ヘイトスピーチするのが、排他的人種差別殺戮戦争の国粋皇国史観の極右。
反日のお前はヘイトスピーチしている
>鯨面文身は海岸地域に多い。
鯨面文身は越族の広い地域の風習 >>484
畿内説は行程解釈を根拠にしていない
中国でも東冶と訂正されている >>415
>>存在確認された史料事実は、ほぼ100%の確率の論拠<
>結論先にありき<
大和説者の嘘吐きダマシの論法。
>>陳寿の地の文<
>恣意的な決め付け<
恣意的な否定抹殺。
「計其道里、當在・・・」という書き方は、筆者の判断を示す書き方。
>>東冶の東方には14万戸の大きな陸地が存在しない<
>行程方位か地理観が間違っている<
「東冶」説は、大和説者。 >>487
>大和説者の嘘吐きダマシの論法。
ヘイトスピーチ
>「計其道里、當在・・・」という書き方は、筆者の判断を示す書き方。
陳寿が書いた時の地名というのが恣意的な決め付け
>「東冶」説は、大和説者。
「東冶」は、後代史書と現代中国での訂正 >>417
>>東鯷人は、「会稽海外」にいるんだから、東治とは、始めから関係がない<
>会稽の東に治所はなく、<
いや、会稽郡の東の支配地域の事。
>会稽の海外の東鯷人も関係ないから<
いや、会稽を基準にした、という点で、
「計其道里、當在會稽治之東」と、関係がある。
>會稽東治は會稽東冶<
會稽東治≠會稽東冶だし、會稽東冶の東には14万戸以上の人が住める陸地がない。
意味不明なのが、「反日ヘイトスピーチ」の・・・・殺人キョクウのお前。 >>489
>会稽郡の東の支配地域の事。
典拠を示さないとお前が決めて言張っても意味が無い
>関係がある。
東治とは、始めから関係がないんだろ
>會稽東治≠會稽東冶だし
だから訂正されている >>418
>>()魏志の、夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害)
魏略に同じ文がある事の説明が付けられない。<
>漢書に書いてある<
魏使らの記録に記載されていなければ、魏志も魏略も記載する必要も義務もない。
>陳寿は、「計其道里、當在會稽東治之東」と書いた。<
>中国では版本の會稽東治は會稽東冶に訂正されている<
どこの国であっても、思想や宗教に凝り固まった政府の国の決定は、何の信頼性もないし、
そもそも、「東冶」に最初に変更した後漢書の范曄の、
「前史の記載を書き換える高慢な人間性」が信用出来ない。 >>491
>魏使らの記録に記載されていなければ
全く同じ文が漢書にあるのに、倭地のことでもないことを
魏使らが書く必要もないし書いた根拠もない
>信用出来ない。
漢籍の素人が信用しないというだけ >>423
>45度くらいずれてたら、倭人在帶方東南大海之中が倭人在帶方東大海之中になる<
周髀算経や礼記に、東西南北の簡単な計測法が書いてあるから、
魏の役人たちや陳寿は、方向を45度も間違えない。 >>493
>45度くらいずれていたんじゃない?
と書いたのは>>421 >>425
>「南」と「東」を間違える事は、・・・・アホの大和説者しかないない。<
>新井白石の前の日本書紀の頃からの日本人や隋書や<
隋書は、方向を間違っていないよ
>混一疆理歴代国都之図のアジア人がアホしかいないと<
いや、個々の人間の知的認識の成長には、個人差が幾らでもあり得、
知的退化を起こす人もあれば、 文化文明の頂点に立つ人もあるもの。
>あなたどこの国の人ですか?<
播磨の素人オジン。 >>478
畿内説にとって都合の悪い記事から逃げているだけだろ。 >>481
>短里なんて5倍以上も縮尺を間違えたものに頼ってるくせに
間違いというよりは、そういう尺度が使われていたということだろ。
畿内説の南→東の詐欺とはわけが違う。
魏志倭人伝と地図を照らし合わせれば、短里で書かれていることは明白。 >>497
>間違いというよりは、そういう尺度が使われていたということだろ。
という詐欺 >>495
>隋書は、方向を間違っていないよ
済州島の東西を間違ってるよ >>493
>周髀算経や礼記に、東西南北の簡単な計測法が書いてあるから、
>魏の役人たちや陳寿は、方向を45度も間違えない。
「できる」と「やった」は別次元 >>464
>お前が詐欺師。
>もうどの本であったのか?は覚えていないが、
九州王朝説は、いい加減な中傷ばかり言ってるな >>483
>陳寿の若い頃は、会稽郡であった。
陳寿は地の文に
三国志執筆時の地名を使うと主張するのか?
自分の若い頃の地名を使うと主張するのか?
その場しのぎにコロコロ主張を変えるな >>467
>>ならば 呉郡である上海あたりを会稽東治だと言い張る男は 詐欺師だな w
>会稽山の東方海岸地域だよ。
九州説は
それが上海だとか
詐欺してたのを認めて、ちゃんと謝るかい? >>477
そもそも「計測役人」なんてものが使者一行にいたのか? >>491
>魏使らの記録に記載されていなければ、魏志も魏略も記載する必要も義務もない。
どうして漢書に書いてあることが
魏使らの記録に記載されているの?
使者がパクリだと? >>460
>>>その後、書陵部本にも善本であるものと、善本ではないものがあった、
>>>という話も書いておられたから、
>>古田がどこにそんなこと書いたの?
>もうどの本であったのか?は覚えていないが、
>「邪馬壹國の論理」から「古代は沈黙せず」頃であったと思うよ。
古田は宮内庁に紹熙本が二種類もあったと言ってるの?
古田がウソツキ?
ザラコクがウソツキ?
どっち? 古田が勝手に「東冶」を「東治」に書き換えたってこと? >>460
>「(福州の)東の治所」という意味の、普通名詞で使われた事になり、
卑弥呼の当時は福州なんて無いよ
会稽郡だ >>479
>中国では、歩行1日200里、という認識があった。
それ、超スゴい俺様なら可能って
もろ自慢話だから
基準にならない >>442
>>松野連家の「呉王夫差の出だ」<
>9世紀で諸蕃だからホラ<
明確なウソを書けば、当然朝廷から罰せられる。
諸蕃側もおそらく、何らかの根拠や証拠を提示するもの。 >>443
>省いてるのではなくて都合の悪い記載は全部✖にしているから チェリーピッキング<
「南」や「東治」や「東冶の東方に14万戸の陸がない」事や、
「長里では赤道付近になってしまう」事など、
都合の悪い記載を全部✖にしているのが、大和説者。 >>444
>だから「夏后少康之子」は伝説
越の古くからの文身の風習と倭人の風習が同じと言っているだけ<
いや、陳寿は「計其道里、當在會稽東治之東」のように、
(越ではなく)「会稽」との近縁を主張している。 今日の昼間BSの番組で邪馬台国やってたみたいだけど見た人いる? >>445
>九州は黥面文身の根拠となる遺物が本州より極端に少ないから<
少なかっても、魏使らの目に止まれば、
魏使らは、当然 「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の話を思い出すもの。
>北部九州に流入したと主張している「燕の南、夫差、徐福」が、黥面文身と直接関係がないなら
倭人伝のころに九州に黥面文身の風習があった根拠がほとんど無い <
九州にあれば、魏志記載の根拠になる。
>倭人の風習の卜骨も本州は広範囲に多く、九州島からわずか2ヶ所だけしかない <
壱岐から大量に出ているから、何も問題はない。、 >>517
>少なかっても、
>九州にあれば、
少なかったら倭人の風習ではない
韓伝のように「其男子時時有文身」と記される
>壱岐から大量に出ている
本州のほうが広範囲、大量
九州島は庄内式を受容してから2ヶ所だけだから
元々倭人が非常に少なかったといえる
また壱岐には西北九州に分布する支石墓がないから
文化が九州島とは違っていた >>449
>12世紀の版本の會稽東治之東というのが後代の史書では使われていない<
思想宗教的な「結論先にありき」の国家の支配下や、
その国家の権力学者らの関与の強い後代史書は、半分×書であり、
根拠にならない。
>現在中国では會稽東冶之東と訂正されている<
善本を求め続けた張元済らの選択本では「會稽東治之東」である。
>九州は会稽郡の大体東北<
ウソを付くな。
会稽東治の「東北東〜東」だから「東」。
>畿内説は行程方位は根拠にならないという立場<
大和説の嘘吐きダマシが「丸見え」。
魏の役人たちは、周髀算経や礼記を当然読んでいるから、
方位も1里距離も殆ど間違えない。 >>519
>半分×書
チェリーピッキング
>善本を求め続けた張元済らの選択本では「會稽東治之東」である
會稽東冶之東と訂正された
>会稽東治の「東北東〜東」
会稽東治は會稽東冶、九州は会稽郡の大体東北
>大和説の嘘吐きダマシ
ヘイトスピーチ
>方位も1里距離も殆ど間違えない。
実際違っている >>450
>>会稽の東海岸ははるか以前から会稽郡<
>会稽郡は東冶あたりまで<
東冶付近は、260年の分郡で会稽郡から省かれたんだから、 会稽の中心部ではなかかった、という事になる。
>>東冶は、陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」の「東治」ではない証拠の話。<
>二重基準<
全て、「古くからずっと会稽であったのはどこか」という一重基準。
>>計其道里 當在會稽東治之東 、だ。<
>学問では史料批判ということを行う<
存在確認された史料事実を、100%否定抹殺するのは、
史料批判でもなく、学問でもなく、嘘吐きダマシの・・・・詐欺。
>>だから、これも×。<
>都合が悪い情報の排除<
存在確認された史料を完全排除するのが、都合が悪い情報の排除であり、・・・・サギシ。
>>九州は、会稽東治の「東北東〜東」の間であり<
>九州は会稽郡の大体東北<
「東治→東冶」の・・・・詐欺。 >>450
詐欺師の特徴は、このように、
当たり前な事を言っておいて、聴衆を信用させて、
その中に、こっそり騙しを含ませて、それで国民を騙すもの。
皆さま、「オレオレ詐欺」や、 「安部キョクウ政府の憲法改悪核戦争主義詐欺」に、
騙されてはいけませんよ。
口先で如何にももっともらしく言っていても、
最後は、国民を犠牲にして、
自分らは大儲けして栄耀栄華を貪ろうとする人種なんですから。 >>451
>>呉の王家は、黥面文身をしていなかった、と思うから<
>史記に呉王の文身の言は書かれている<
史記は全く確認出来ないから、いつの誰の事か?など詳細が分らんが、
常識的には、
古くは一部で鯨面文身をした王がいた、としても、
三国時代の孫権らは、鯨面文身をしていた、という記載は知らんし、
していたとは、とても思えない。 >>522
>会稽の中心部ではなかかった
会稽の東方海岸も中心地ではない
>古くからずっと会稽であったのはどこか
それなら分郡云々は必要ない
会稽は越の首都、会稽郡は時代によって変るから
三国時代のことは後漢末〜曹魏時代の会稽郡の範囲
>存在確認された史料事実を、100%否定抹殺
>都合が悪い情報の排除
>「東治→東冶」の
東冶と訂正しているのは中国
>サギシ
>詐欺
ヘイトスピーチ >>453
>>>畿内説は行程方位は根拠にならないという立場 <
>>おいおい 根拠にしようと思ってもできない、だろw<
> 北部九州説もできない<
ウソを付くな。
古田説で、十分出来ている。 >>524
>古くは一部で鯨面文身をした王がいた、としても、
>三国時代の孫権らは、鯨面文身をしていた、という記載は知らんし
>>451は
>>432
>呉の王家は、黥面文身をしていなかった、と思うから、
>呉王夫差の遺民も、極一部にはいた、としても、
>大多数は、鯨面文身をしていなかった、と思うよ。
に対して書いたレス >>461
>それお前が思うというだけなら 名誉毀損になるぞ<
和田キヨエは、白状しないだろうが、
喜八郎誹謗ビラを大量に印刷しているから、その印刷屋探しや、
(旧喜八郎家を購入するためなどの)和田キトエへの渡した資金の出どころを探せば、
出て来ると思うよ。 >>526
>古田説で、十分出来ている。
古田は考古無知だから文献解釈からの仮説の比定がド素人レベル >>529
なんだ証拠があるわけじゃなくて邪推か
安本美典や東奥日報の斎藤と話せばいい
畿内説とは関係ない >>466
>畿内説関係ないな<
いや、大和説で反古田であったNHKなどの右翼マスコミや、
政府文部省系の役所関係(大和説派)が一斉に「反古田で偽書説」に動き、
裁判でも、右翼大和説者が野村側に協力し、
掲示板でも、大和説者が、直ちに安本派への応援に入った。 >>468
>会稽山とか倭人伝には書いていない<
当たり前。
14万戸の人口を擁する大きな陸地なんだから、
ピンポイントの起点で済む筈がない。 >>470
>方角間違い例なら、他にも沢山ある事が理解出来ないバカを 相手にする必要ないからな。
百済の西側に国があると記された資料すらある<
この男も、詐欺師だなあ。
始めからずっと、
「魏の役人たちが関与して計測した方向記録」という意味を書いて来ておいた筈だよ。
魏の役人でもない一般人の方向説明は、
朝鮮通信使の話や、州胡の話などのように、
曖昧である事は、いくらでもある。 >>471
簡単におうむ返しされる=自分の事に当てはまるという事が判らない・・・・アホの知能だね。 >>516
柳田康雄「卑弥呼は伊都国から選ばれた。」
とうとう言っちゃったね >>475
>>東冶の東には、14万戸以上の人口が住める陸地が全く存在しない、
という大和説にとっては致命傷な事実を、 全く伏せて隠して <
>隠すも何もそれが畿内説が行程が根拠にならないとする根拠だから<
いや、ダメだよ。
方向は根拠になる。
そして、大和も、会稽東治から「東北東〜東」であって大体「東」だから、
「東」も否定しては、大和も否定されてしまって、
大和説はアホなるんだよ。
>また、南九州も考古学的に北部九州との関係がほとんどない<
構わない。
南九州だった、と思われる東鯷人の国は、
卑弥呼共立直前に投馬國に変わったばかり。 >>476
>>「弥生銀座」、「平原の21枚の尚方作鏡」、
「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」の祇園山、<
>考古学素人の根拠<
玄人大和説学者の誰も否定し切れなかった、史料事実。 >>532
NHKと政府文部省系の役所関係が敵か
日本には敵が多いなw
尿入り一升瓶は畿内説には関係ないから >>533
大きな陸地とわかってるんだから起点をピンポイントにするはずがない >>478
>史書に間違いや捏造があると認識して考えるのも歴史学だろうが<
いや、自然や歴史における「信頼性や存在の確認された事」からの、
「帰納的な確率的な推論をする」のが学問だ。
「間違いや捏造がある」として、自由きままな妄想や捏造をするのは、
学問ではなく、思想宗教にクルった「結論先にありき」の・・・・だ。 >>537
>大和も否定されてしまって
行程方位を比定しているのだから、大体「東」なんてのはどうでもいいこと
>構わない。
南九州の考古を知らない、だろ >>480
>正確な基準が存在する里数ではないし<
いや、一寸千里や、簡易三角測量や、記里車や、歩測や、一日陸行200里などの、
ほぼ正確な基準がある。
>推定できるなら計測不要<
計測した方が、よりベター。
ベターを求めず、さぼった事がバレれば、首が飛ぶ。
皇帝はそれで満足 >>481
大和説や長里説なんて、5倍以上も縮尺を間違えたものに頼ってるくせに、
方位も間違えているなんて言い張るんだから、
自分勝手な嘘吐きダマシの・・・・説だよな。 >>482
>中国と九州は地形が違う<
山や平野や川や湖などがあるのは同じ。 >>485
>>陳寿の若い頃は、会稽郡であった。<
>陳寿の若い頃は東冶は会稽郡<
分郡されて会稽郡から外されてしまうような地は、元々からの会稽の地ではない。
>>ヘイトスピーチするのが、排他的人種差別殺戮戦争の国粋皇国史観の極右。<
>反日のお前はヘイトスピーチしている<
いや、「反日ヘイトスピーチ」の極右の・・・・のお前が、ヘイトスピーチをしている。
>>鯨面文身は海岸地域に多い。<
>鯨面文身は越族の広い地域の風習<
日本の縄文にもあるから、越族だけではない。 >>543
>ほぼ正確な基準
対馬南端〜壱岐北端 約50km
壱岐南端〜唐津城 約40km
だから無い
>計測した方が、よりベター。
萬二千餘里が行ってもいない、女王の都でもないところまでの
聞き取りによる推定直線距離なら途中まで計測しても無意味 >>546
>山や平野や川や湖などがあるのは同じ。
山も平野も川も湖も日本とは全然違う >>486
>畿内説は行程解釈を根拠にしていない<
存在確認された史料事実を、否定曲解するのは、学問ではなく、
思想宗教にクルった嘘吐きダマシの・・・・サギシ。
>中国でも東冶と訂正されている<
思想宗教に狂った国家の「存在確認された史料事実の否定訂正」も、
全く信頼性がなく、
根拠にならない。 >>488
>>大和説者の嘘吐きダマシの論法<
>ヘイトスピーチ<
ヘイトスピーチは、国家権力側が少数部族を排他街宣するもの。
>>「計其道里、當在・・・」という書き方は、筆者の判断を示す書き方。<
>陳寿が書いた時の地名というのが恣意的な決め付け<
「計其道里、當在・・・」という説明は、魏使らがする仕事ではない。
>>「東冶」説は、大和説者。<
>「東冶」は、後代史書と現代中国での訂正 <
これは、すぐ前に書いた事だから、転写。
思想宗教に狂った国家の「存在確認された史料事実の否定訂正」も、
全く信頼性がなく、 根拠にならない。 >>547
>分郡されて会稽郡から外されてしまうような地は、元々からの会稽の地ではない。
会稽郡東部は東冶より前に分郡されている
>ヘイトスピーチをしている
お前はほとんどのレスでヘイトスピーチをしている
福岡の行政もサギだとヘイトスピーチをしている
>日本の縄文にもあるから、越族だけではない。
倭人伝ではその日本に縄文時代からある風習と
越の地域に古くからある文身の風習が同じであることを書いている
九州はその痕跡となる遺物が本州に比べて非常に少ない >>550
>思想宗教にクルった嘘吐きダマシの・・・・サギシ。
ヘイトスピーチ
>思想宗教に狂った国家の「存在確認された史料事実の否定訂正」
ヘイトスピーチ >>551
>ヘイトスピーチは、国家権力側が少数部族を排他街宣するもの。
違う
>「計其道里、當在・・・」という説明は、魏使らがする仕事ではない。
陳寿が書いた時の地名というのが恣意的な決め付け
>思想宗教に狂った国家
ヘイトスピーチ >>490
>>会稽郡の東の支配地域の事<
>典拠を示さないとお前が決めて言張っても意味が無い<
漢文の「記載文言の逐次的受け止め解釈」という、人類の常識的な理解が根拠。
>>関係がある。<
>東治とは、始めから関係がないんだろ<
これは、全く意味不明文。
さては、いよいよおかしくなったか。
>>會稽東治≠會稽東冶だし<
>だから訂正されている<
これはまた同じ事だから、また転写。
思想宗教に狂った国家の「存在確認された史料事実の否定訂正」も、
全く信頼性がなく、 根拠にならない。 >>555
>漢文の「記載文言の逐次的受け止め解釈」という、人類の常識的な理解が根拠。
漢籍は中国の史家のほうが専門家
>全く意味不明文。
お前が書いた文
>思想宗教に狂った国家
ヘイトスピーチ >>492
>>魏使らの記録に記載されていなければ<
>全く同じ文が漢書にあるのに、倭地のことでもないことを
魏使らが書く必要もないし書いた根拠もない<
魏使らは、倭人に鯨面文身を見たから、漢書の記載を思い出して、関連付けて記載し、
その記録を見たから、陳寿と魏略もどちらも驚いて、記載した。
>>信用出来ない。<
>漢籍の素人が信用しないというだけ <
これも同じ事だから、転写しておこう。
どこの国であっても、思想や宗教に凝り固まった政府の国の決定は、何の信頼性もないし、
そもそも、「東冶」に最初に変更した後漢書の范曄の、
「前史の記載を書き換える高慢な人間性」が信用出来ない >>499
>>間違いというよりは、そういう尺度が使われていたということだろ<
>という詐欺 <
という、大和説者に特有の、史料実態の否定のサギ。 >>500
>>隋書は、方向を間違っていないよ<
>済州島の東西を間違ってるよ<
「其南海行三月、有tam牟羅國、南北千餘里、東西數百里、土多[冠鹿脚章]鹿、附庸於百濟」
の事かな?。
そりゃ、済州島ではなく、台湾だよ。 >>557
>魏使らは、倭人に鯨面文身を見たから、漢書の記載を思い出して、関連付けて記載し、
その記録を見たから、陳寿と魏略もどちらも驚いて、記載した。
漢書に既に書いてあることは事実、お前のは妄想
>何の信頼性もないし
>高慢な人間性が信用出来ない
史記の内容すら知らない無学者が信頼しない、信用出来ないと高慢に言ってるだけのこと >>559
>「其南海行三月、有tam牟羅國、南北千餘里、東西數百里、土多[冠鹿脚章]鹿、附庸於百濟」
>の事かな?。
>そりゃ、済州島ではなく、台湾だよ。
あほう
台湾が百済の属国かよ >>557
>そもそも、「東冶」に最初に変更した後漢書の范曄の、
>「前史の記載を書き換える高慢な人間性」が信用出来ない
そもそも、後漢書が「東冶」に最初に変更した
とか「証拠もなく決めつける高慢な人間性」が信用出来ない >>545
>大和説や長里説なんて、5倍以上も縮尺を間違えたものに頼ってるくせに、
縮尺を間違えた、とか決めつける根拠は?
頼ってる、と断定する理由は? >>522
>東冶付近は、260年の分郡で会稽郡から省かれたんだから、 会稽の中心部ではなかかった、という事になる。
そんなこと、卑弥呼の時代には関係ない >>555
>漢文の「記載文言の逐次的受け止め解釈」という、人類の常識的な理解が根拠。
空虚な修飾語を取り除くと
「理由はないけどワシのいうことが正しいんぢゃ」 >>558
>という、大和説者に特有の、史料実態の否定のサギ。
ヘイトスピーチ >>561
其南海行三月は其南海行三日の誤記ですね
朝鮮半島南端から牟羅國(済州島)まで3日。 >>564
>そんなこと、卑弥呼の時代には関係ない
関係ない時代の話を持ち出してあれこれいちゃもんつけているのは畿内説の側だろう。 >>501
>>周髀算経や礼記に、東西南北の簡単な計測法が書いてあるから、
魏の役人たちや陳寿は、方向を45度も間違えない。<
>「できる」と「やった」は別次元<
魏志に方向が記載されている、という事は、魏の役人たちの記録を見たからであり、
魏の役人たちが記録した、という事が、方向計測を「やった」のであり、「できた」。 >>502
右翼思想宗教にクルった大和説者は、「南→東」などの嘘つき騙しのように、
いい加減な中傷ばかり言ってるな。 >>503
>>陳寿の若い頃は、(江南海岸部は)会稽郡であった。<
>陳寿は地の文に
三国志執筆時の地名を使うと主張するのか?
自分の若い頃の地名を使うと主張するのか?<
関係がない。
陳寿は、当然、それまでの自分の全ての知見を使って執筆するもの。
>その場しのぎにコロコロ主張を変えるな <
その場その場の記載を「特定の時期の知見だけが根拠であった」、などと、
「絶対断定」するな。 >>504
>>>ならば 呉郡である上海あたりを会稽東治だと言い張る男は 詐欺師だな w<
>>(元会稽郡の呉郡の上海付近は)会稽山の東方海岸地域だよ。<
>九州説は それが上海だとか 詐欺してたのを認めて、ちゃんと謝るかい?<
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・キョクウの大和説のお前は、
上海付近が、陳寿の若い頃には会稽郡であった、
という事を隠す詐欺をしていた事を 認めて、ちゃんと謝るかい?。
認めないだろうなあ。
このような・・・・キョクウは、は、最後は殺人事件を起こすんだろうなあ。 >>505
>そもそも「計測役人」なんてものが使者一行にいたのか?<
詔書や金印や大量の下賜品を抱えて、魏使一人で運べるものではなく、
当然、何人もの有能な部下をもの連れているもの。
その中には、里数や方向計測の担当役人も記録役人も、当然いたから、
記録された。 >>571
>陳寿は、当然、それまでの自分の全ての知見を使って執筆するもの。
つまり分郡関係なし 【マスコミが朝鮮に牛耳られる経緯】
このようなスレッドがあるでしょ
むかーしから知っているわけなんだけど、
他の家のことはわからないけど、家の老婆は昔から知っていた >>572
>上海付近が、陳寿の若い頃には会稽郡であった、
>という事を隠す詐欺をしていた事を 認めて、ちゃんと謝るかい?。
陳寿の若い頃に?
上海付近が会稽郡なわけないだろう
発狂してるのか?
>>572
>上海付近が、陳寿の若い頃には会稽郡であった、
上海付近の海塩県(嘉興市)が呉郡になったのは129年
陳寿は233年生れ >>506
>>魏使らの記録に記載されていなければ、魏志も魏略も記載する必要も義務もない。<
>どうして漢書に書いてあることが 魏使らの記録に記載されているの?<
「倭人の鯨面文身」の情報は、魏使らが目撃記録しなければ、中国には全く知られない事だから。
だから、「倭人の鯨面文身」の情報が中国に伝えらえたのは、魏使らの目撃記録があったから。
また、魏使らは、それが漢書に載っている事を知っており、
漢書の「会稽海外の東鯷人」記録も知っていたから、皇帝に報告する必要があった。
>使者がパクリだと?<
そういう「倭人の出目に関する貴重な目撃情報」であったから
魏略も魏志も記載した。 むかーしの渡来人、古代帰化人というの?
実際は中華だと書いてない?
漢文というのは、どこの国のモノなの? >>573
>大量の下賜品を抱えて、魏使一人で運べるものではなく、
それは荷物持ち >>507
>>>>その後、書陵部本にも善本であるものと、善本ではないものがあった、
という話も書いておられたから、<
>>>古田がどこにそんなこと書いたの?<
>>もうどの本であったのか?は覚えていないが、
「邪馬壹國の論理」から「古代は沈黙せず」の頃であったと思うよ。<
>古田は宮内庁に紹熙本が二種類もあったと言ってるの? 古田がウソツキ?
ザラコクがウソツキ? どっち?<
確か、誰だったか?、大和説学者との議論で、
紹煕本の中に文字が違うにものがあった事が判った事で、判明した事であり、
更に、張元済の採用本でも差異が発見され、
古田さんの採用した本が、一番「善本」であった、という事であった筈だよ。 >>579
>「倭人の鯨面文身」の情報は、魏使らが目撃記録
九州は鯨面文身の根拠になる遺物が非常に少ない
北部九州は瀬戸内系の土器製作技術が流入しているから
瀬戸内系の鯨面文身している人がいるとは思う
>魏使らは、それが漢書に載っている事を知っており、
断定できない
陳寿は、当然、史記や漢書に載っている事は知っている
>「会稽海外の東鯷人」記録も知っていた
東鯷人は倭人伝に書いてないから妄想 >>582
>確か、誰だったか?
そういう小耳に挟んだあやふやな記憶を根拠にしないでもらいたい
自分の中だけで自己満足する分にはかまわない 他のスレにも書いたはず
電話には親が出んだけど
またオレオレ(私私)詐欺が流行っているので気を付けてください、
という電話が来た、神奈川県警のほうから来たとか
振り込め詐欺?だったかな、でも同じような意味だよ >>508
>古田が勝手に「東冶」を「東治」に書き換えたってこと?<
古田さんが、書陵部に日参して探して選んだ紹煕本には、第1書に書かれたように、
王朗の時は(東治ではなく)「東冶」と書かれていた、という事は事実。 >>586
>王朗の時は(東治ではなく)「東冶」と書かれていた、という事は事実。
「東冶」であるはずの地名が宮内庁書陵部所蔵の版本の王朗伝では「東治」となっている
中国では東冶と訂正されているということ >>569
>魏志に方向が記載されている、という事は、魏の役人たちの記録を見たからであり、
>魏の役人たちが記録した、という事が、方向計測を「やった」のであり、「できた」。
すごいゴリ押し・・・
結論ありきの典型だな >>586
>古田さんが、書陵部に日参して探して選んだ紹煕本には、第1書に書かれたように、
>王朗の時は(東治ではなく)「東冶」と書かれていた、という事は事実。
事実だって証拠は?
>>573
魏略にも魏志倭人伝と同じ里数が使われてますから
里数を測ったのは張政等より以前の公孫氏の帯方郡の郡使でしょうね。 >>582
古田が、宮内庁に紹熙本が二種類もあった、と言ってるなら
古田が嘘をついていたことになる
古田が、書陵部で見た紹煕本には王朗伝に「東冶」と書かれていた、と言ってるなら
古田が嘘をついていたことになる >>510
>>(書陵部本に王朗に関しての「東治」の記載)
「(福州の)東の治所」という意味の、普通名詞で使われた事になり、<
>卑弥呼の当時は福州なんて無いよ <
当たり前だ。だから、「(福州の)」と()を付けて置いたんだよ。
>会稽郡だ<
分郡後は、建安郡であり、会稽郡ではないし、
会稽郡が別にちゃんと残っているんだから、
会稽郡の中心ではなかったのだ。 >>593
>分郡後は、建安郡であり、会稽郡ではないし
建安郡の前に会稽郡の東部は臨海郡になっている >>593
>当たり前だ。だから、「(福州の)」と()を付けて置いたんだよ。
遁辞をいくら繰り返しても
「東治」と呼ばれた実績のある唯一の土地は
現在の福州だ >>511
>>中国では、歩行1日200里、という認識があった。<
>それ、超スゴい俺様なら可能って もろ自慢話だから 基準にならない<
裴松之注所引「魏書」だから、一般的な認識であり、
長里の200里は90km近くになり、一日では全く無理であり、
短里なら15km余りであり、武具を付けても可能。 >>518
>>少なかっても、 九州にあれば、(魏使らの目に止まる)<
>少なかったら倭人の風習ではない<
魏使らは、海岸伝いに女王之所都に来ており、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
も海岸伝いであり、倭人の風習を何度も見た、という事になる。
>韓伝のように「其男子時時有文身」と記される<
倭人には「「時有」になっていないから、韓よりも多かった。、 >>596
>裴松之注所引「魏書」だから、一般的な認識であり、
裴松之注所引「魏書」だと自慢話を載せないのか?
理由になってない >>596
>短里なら15km余りであり、武具を付けても可能。
それ、ぜんぜん自慢にならない。 >>597
>魏使らは、海岸伝いに女王之所都に来ており、
>「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
>も海岸伝いであり、倭人の風習を何度も見た、という事になる。
にもかかわらず、九州には黥面がとても少ないってことは
魏使が黥面を見たのは瀬戸内や畿内であった可能性が高い
ということだね 答曰「翻能步行日可二百里。自征討以來、吏卒無及翻者・・・」
どこが一般的な認識やら >>597
>海岸伝いに女王之所都に来ており
北部九州沿岸には瀬戸内系製塩土器、S字甕と
黥面土器が多く出土する地域の土器が来ているから
人も来ているだろうと言っている
>倭人の風習を何度も見た、という事になる。
お前は侏儒國には女王国内を通らずに寄航もせずに行ったと言張っているのだから
本州、四国の風習を見たということになる
>「時有」になっていないから、韓よりも多かった。
「男子無大小 皆黥面文身」と書かれている倭国に黥面文身が少なかったことの根拠にはならない
倭人伝に書かれている黥面文身、卜骨の根拠となるものが
九州には非常に少なく、本州には多い >>605
>九州には非常に少なく、本州には多い
だからなんだ? >>606
だから魏使が九州でそれらを
頻繁に見かけることはない >>520
>>半分×書<
>チェリーピッキング<
大和説者は、思想宗教に、「都合の悪い記述は否定曲解」で、
「都合よく曲解した記述をチェリーピッキング」。
>>善本を求め続けた張元済らの選択本では「會稽東治之東」である<
>會稽東冶之東と訂正された<
大和説学者らのように、国家権力に媚び隷従する学者は、似非学者。
>>会稽東治の「東北東〜東」<
>会稽東治は會稽東冶、<
東冶は、会稽の中心でなかったから、分郡されて建安郡にされた。
>九州は会稽郡の大体東北<
九州は、会稽東治の「東〜東北東」で、大体東。
大和説者は、排他的人種差別殺人戦争の国粋皇国史観キョクウのヘイトスピーチの人種。
>>方位も1里距離も殆ど間違えない。<
>実際違っている<
実際殆ど間違っていない。 >>525
>>(東冶は分郡に拠って建安郡にされ、会稽山付近は会稽郡のままであったんだから) 会稽の中心部ではなかった<
>会稽の東方海岸も中心地ではない<
当然、会稽東治であった。
>>古くからずっと会稽であったのはどこか <
>それなら分郡云々は必要ない <
陳寿の認識は、ずっと当然「夏后少康之子封於會稽」の会稽であり、 漢書の「会稽海外」の会稽であり、 分郡があっても会稽郡として残り続けた会稽郡の中心地。
>会稽は越の首都<
いや、夏后少康之子や太公望らの首都であり、その後は入れ替わりがあったが、大体江南の首都。
>会稽郡は時代によって変るから<
中心地は変わっていない。
>三国時代のことは後漢末〜曹魏時代の会稽郡の範囲<
いや、分郡で建安郡とされて、離れて行った地域は、会稽郡の中心ではなかった。
>>存在確認された史料事実を、100%否定抹殺・・・都合が悪い情報の排除・・・「東治→東冶」の<
>東冶と訂正しているのは中国<
思想宗教国家に媚び隷従する学者は、似非学者。大和説学者も、国粋皇国史観に媚び隷従するキョクウのヘイトスピーチサギシ人種。 >>530
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説学者は、
文献だけでなく、考古でもで曲解捏造の嘘つき騙しだから、
考古解釈からの仮説の比定も、ド素人レベル。 >>613
倭人伝に書かれている黥面文身、卜占の風習ともに
九州には不適合で、畿内説には適合するから >>611
>いや、夏后少康之子や太公望らの首都であり、その後は入れ替わりがあったが、大体江南の首都。
太公望の首都って、なんだそれ?
>>611
>陳寿の認識は、ずっと当然「夏后少康之子封於會稽」の会稽であり、 漢書の「会稽海外」の会稽であり、 分郡があっても会稽郡として残り続けた会稽郡の中心地。
関係ないね
いま問題になっているのは
「会稽東治の東」
なんだから
いま議論してるのは
会稽郡の中心地がどこかではなく
「会稽東治」がどこか? だ
>>518
>>「其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火[土斥]占兆。
其會同坐起、父子男女無別、人性嗜酒」壱岐から大量に出ている<
>本州のほうが広範囲、大量 <
本州には、山口位までしか行っていないから、関係がない。
>九州島は庄内式を受容してから2ヶ所だけだから 元々倭人が非常に少なかったといえる<
庄内も、三雲が最古であり、列島での発祥。
また壱岐には西北九州に分布する支石墓がないから
文化が九州島とは>っていた >>518の返事の失敗でやり直し
>>「其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火[土斥]占兆。
其會同坐起、父子男女無別、人性嗜酒」壱岐から大量に出ている<
>本州のほうが広範囲、大量 <
本州には、山口位までしか行っていないから、関係がない。
>九州島は庄内式を受容してから2ヶ所だけだから 元々倭人が非常に少なかったといえる<
庄内も、三雲が最古であり、おそらく列島での発祥地。
>また壱岐には西北九州に分布する支石墓がないから文化が九州島とは違っていた<
構わない。
一大國は(戸ではなく)「家」表記であるから、魏への納税兵役義務がなく、
卑弥呼の女王國の中で独立的であり、
支石墓は、モンゴルのような砂漠系であるから、燕の南の倭人であった可能性があり、
甕棺は、江南方面にも見られるから、姫氏系であった可能性もあり、
しかし、卑弥呼の共立後の墓は、混在的になったらしい。 >>622
>本州には、山口位までしか行っていないから、関係がない。
それじゃ、倭人伝に書かれている黥面文身や卜占の風習は、いったい何処で観察されたの? >>616
邪馬台国が畿内である理由にはならない。
本州と畿内をすり替えている。
詐欺師の論法。 >>622
>庄内も、三雲が最古であり、おそらく列島での発祥地。
なんの出典も根拠もない珍説を振り回すなんて
九州説はトンデモ説でございますって
自分で証明してるよ
>>622
>一大國は(戸ではなく)「家」表記であるから、魏への納税兵役義務がなく、
>卑弥呼の女王國の中で独立的であり、
なんか根拠でもあって言ってんの? >>531
>なんだ証拠があるわけじゃなくて邪推か<
人類の常識からの推定だ。
>安本美典や東奥日報の斎藤と話せばいい 畿内説とは関係ない<
ダメだ。
野村の裁判でも、大和説者が動いたし、
当初から、大和説者は、反古田だから、殆ど安本の応援側に付いたし、
掲示板でも、大和説者は、殆どが安本の応援だ。 >>536
>柳田康雄「卑弥呼は伊都国から選ばれた。」 とうとう言っちゃったね <
そうでしたか。おめでとうございます。
しかし、その言い方は、微妙ですね。
「倭國は西日本全体の広域であり、卑弥呼は伊都国から選ばれて、大和に都した」
という「大和説の中の東遷説」に含みを残しているようにも思える。 >>539
>NHKと政府文部省系の役所関係が敵か 日本には敵が多いなw<
国民も、大半が、安本や大和説者の宣伝に騙されたみたいだ。
>尿入り一升瓶は畿内説には関係ないから<
ダメだ。
Yahooでも、大和説の主要論客は全て安本の応援弁護であったし、
2chや5chでも、最近ずっと議論して来た「例の・・・・的な大和説者」も、
結局は、尿入り?一升瓶でのヘイトスピーチ人間であった、という事がバレてしまった。 >>542
>>大和も否定されてしまって<
>行程方位を比定しているのだから、大体「東」なんてのはどうでもいいこと<
行程方位も、どれもほぼ間違っておらず、
「南→東」の嘘吐きダマシは成立しない。
>>構わない。<
>南九州の考古を知らない、だろ<
大体、南九州と言っても、
宮崎と鹿児島と南熊本や薩南諸島では、少しずつ違っているらしい、
という事も知らないんだろ?。 >>544
>>史料事実。<
>考古の話<
大和説者は、文献考古共に、
九州説の史料事実からの論理に反論出来なかった。 >>622
>山口位までしか行っていない
>庄内も、三雲が最古
古田武彦信者の循環論法
>支石墓は、モンゴル
巨石文化のドルメン、インド、インドネシア、中国南部(石棚墓50数基)、半島北部支石墓などは地上式
遼寧の支石墓の影響を受けた石棺の支石墓は朝鮮半島南部数万基〜西北九州300基くらいが地下式
甕棺はインド南部、東南アジアからルソン島 >>628
>大和説者は、殆どが安本の応援だ。
泥棒と古田武彦信者以外の日本国民は偽書で確定 >>630
>尿入り?一升瓶でのヘイトスピーチ人間であった
証拠ないんだろ
古田武彦信者特有の邪推と恨み >>631
>行程方位も、どれもほぼ間違っておらず
会稽東冶の東に大国はないから間違っている
>少しずつ違っている
何が? 上野原縄文の森の考古学的根拠を書け >>632
>反論出来なかった。
古田武彦レベルは通常は研究者レベルでは忙しいので相手にされない
ここでは、海よりも深く天よりも広い大和心でサービス応答してあげている >>632
>大和説者は、文献考古共に、
>九州説の史料事実からの論理に反論出来なかった。
ここは畿内説のスレで、大和説者なんていないから
居ない人が反論するわけないだろう
ばかではないの? >>548
>>ほぼ正確な基準<
>対馬南端〜壱岐北端 約50km 壱岐南端〜唐津城 約40km だから無い<
有効数字1桁程度の近似値計測の範囲内。
それに、出発港や到着港は、南端や北端とは限らないから、
お前(例の尿入り一升瓶男)の距離設定場所がインチキ。
また、長里説なら、6倍以上も違ってしまう、という事も隠しているから、
それもインチキ。
>>(日数からの推定よりも)計測した方が、よりベター。<
>萬二千餘里が行ってもいない<
魏志と魏略の両方に書かれているから、魏使らの記録であった、という事になり、
倭人からの「南水行二十日」や「陸行日数情報」の伝聞からの推測で書かれた、
という事になるしかない。
>女王の都でもないところまでの聞き取りによる推定直線距離なら途中まで計測しても無意味<
魏使らは、「邪馬の「国女王之所都」とは別の、
「女王國」というという捉え方での「萬二千余里という直線的距離」を説明しようとしたのだから、
投馬國も含めた距離推定をする事が必要になる。 >>640
>また、長里説なら、6倍以上も違ってしまう、という事も隠しているから、
>それもインチキ。
違うって証拠は? >>640
>魏志と魏略の両方に書かれているから、魏使らの記録であった、という事になり、
なんでさ?
??? 現代ですらGPSでやっと島の位置が間違っていた事が発見されるくらいなのだから
船旅では使者に正確な距離が解らなくても当然だろう >>549
>>(歩行1日200里は中国と日本とでは違うか?)
山や平野や川や湖などがあるのは同じ。<
>山も平野も川も湖も日本とは全然違う<
山や川や湖を、出来るだけ避ける、という事は同じ。 >>644
>山や川や湖を、出来るだけ避ける、という事は同じ。
お前が>>で398書いたのは
>実際の陸上直線距離は、倭人が直接陸行で行った時の日数の説明から、知った、 >>640
>有効数字1桁程度
お前が>>543で書いたのは
>ほぼ正確な基準がある。 >>552
>>分郡されて会稽郡から外されてしまうような地は、
元々からの会稽の中心地ではない。<
>会稽郡東部は東冶より前に分郡されている<
会稽郡東部も東冶も、分郡されて会稽郡ではなくなったんだから、
会稽郡東部も東冶も会稽郡の中心部ではなかった、という事になり、
だから、以前からずっと「会稽」と呼ばれて来た会稽は、
分郡で最後まで「会稽郡」として残った場所。
>お前はほとんどのレスでヘイトスピーチをしている<
「尿入り一升瓶ヘイトスピーチ」のお前は、ほとんどのレスでヘイトスピーチをして来た。
>福岡の行政もサギだとヘイトスピーチをしている<
行政は、憲法違反の再軍備や戦争を実行しようとしているサギの安倍政府に、
隷従するしか出来ないから、詐欺師仲間。
>>日本の縄文にもあるから、越族だけではない。<
>倭人伝ではその日本に縄文時代からある風習と
越の地域に古くからある文身の風習が同じであることを書いている
九州はその痕跡となる遺物が本州に比べて非常に少ない<
当たり前。
九州倭国は、毛人縄文人を「東征55國」した方。
だから、九州にいた鯨面文身の縄文人が減っていて当たり前。 >>644
>歩行1日200里
輕軍到襄陽。聞先主已過,曹公將精騎五千急追之,一日一夜行三百餘里,及於當陽之長坂「先主傳」
曹操が軽装、精騎で襄陽から一日一夜行三百餘里で劉備に追いついたのが当陽県長坂
襄陽〜当陽市長坂 直線で約135km >>553
>>(この男は)思想宗教にクルった嘘吐きダマシの・・・・サギシ<
>ヘイトスピーチ<
この男は、「尿入りの大量の一升瓶」で、和田家や古田説派をヘイトスピーチした。
>>思想宗教に狂った国家の「存在確認された史料事実の否定訂正」は、
半分×であり、根拠にならない。<
>ヘイトスピーチ<
この男は、後代の范曄の後漢書の「東冶」を肯定し、
「東治」と書いた陳寿の三国志に対しても、ヘイトスピーチした。 >>648
>「会稽郡」として残った場所。
會稽之東ではなく會稽東冶之東
>尿入り一升瓶
を持ち出したのは憎しみの古田武彦信者のお前
>行政は、憲法違反の再軍備や戦争を実行しようとしているサギの安倍政府に、
>隷従するしか出来ないから、詐欺師仲間。
行政も恨む古田武彦信者のヘイトスピーチ
>九州倭国は、毛人縄文人を「東征55國」した方。
一元史観
>九州にいた鯨面文身の縄文人が減っていて
日本の縄文時代から九州には鯨面文身の痕跡となる遺物が本州に比べて非常に少ない >>554
>>ヘイトスピーチは、国家権力側が少数部族を排他街宣するもの。<
>違う<
この「尿入りの大量の一升瓶」男は、国家権力側に加担して、少数派の和田家や古田を、
ヘイトスピーチした方。
>>「計其道里、當在・・・」という説明は、魏使らがする仕事ではない。<
>陳寿が書いた時の地名というのが恣意的な決め付け<
陳寿の「会稽」認識は、「夏后少康之子封於會稽」の会稽であり、
その中心地は、分郡があっても、会稽郡の呼称が残っていた方だ。
>>思想宗教に狂った国家<
>ヘイトスピーチ <
この男の「尿入り?の大量の一升瓶」誹謗は、ヘイトスピーチ。 >>650
>「尿入りの大量の一升瓶」で、和田家や古田説派をヘイトスピーチした。
最初のレスが
>>263
>最後は、和田キヨエを誑かして、旧和田家宅に大量の尿入り?一升瓶をおいて、
>一般の人にもトンデモであったことが認知されてしまった。
「尿入りの大量の一升瓶」ヘイトスピーチは
恨みの古田武彦信者のお前が一人でやっている
>陳寿の三国志に対しても、ヘイトスピーチした。
してないが? >>648
>会稽郡東部も東冶も、分郡されて会稽郡ではなくなったんだから、
>会稽郡東部も東冶も会稽郡の中心部ではなかった、という事になり、
>だから、以前からずっと「会稽」と呼ばれて来た会稽は、
>分郡で最後まで「会稽郡」として残った場所。
いま問題になっているのは
会稽郡とか、その中心じゃなくて
会稽東治だから
関係ない 我々大和民族は人を愛し、女性を愛し、自然を愛し、そして女性を愛する
大和魂の民族
恨や火病はない >>556
>>漢文の「記載文言の逐次的受け止め解釈」という、人類の常識的な理解が根拠。<
>漢籍は中国の史家のほうが専門家<
後代や現代の政府系史家は、
時の政府の思想宗教的な「結論先にありき」に隷従しなければ生きていけないから、
信頼性が殆どない。
>>全く意味不明文<
>お前が書いた文<
前後の文を引用しないお前は、「尿入りの大量の一升瓶」でのヘイトスピーチ男であるから、
信頼性が全くない。
>>思想宗教に狂った国家<
>ヘイトスピーチ<
お前が、「尿入りの大量の一升瓶」の捏造での、思想宗教にクルったヘイトスピーチ男。 >>658
>後代や現代の政府系史家は、〜信頼性が殆どない。
陳寿もその一人
>「尿入りの大量の一升瓶」
異常に尿に執着する古田武彦信者 >>658
もちろん
文法も知らない無学なザラコクは
まったく信頼性が、ない 九州説
「距離は5倍以上間違ってるけど方位は絶対に間違わないよ!」
「陳寿は短里を知らなかったけど方位は完璧に知っていたよ!」
混一疆理歴代国都之図(1402)
https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/tenjikai/2002/zuroku/jpg/001.jpg
隋書東夷伝(628)
「都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」 >>560
>>魏使らは、倭人に鯨面文身を見たから、漢書の記載を思い出して、関連付けて記載し、
その記録を見たから、陳寿と魏略もどちらも驚いて、記載した。<
>漢書に既に書いてあることは事実、お前のは妄想<
魏使らは、倭國で倭人の中に鯨面文身の人を見たから、記録したのであり、
魏使らの記録に載っていなければ、魏志も魏略も、造作する筈もなく、
どちらもが記載する筈がない。
>>(後漢書?)何の信頼性もないし
高慢な人間性が信用出来ない<
>史記の内容すら知らない無学者が信頼しない、信用出来ないと高慢に言ってるだけのこと。<
これも、「尿入りの大量の一升瓶」男のヘイトスピーチね。
素人オジンは、知り得た史料事実の範囲内で、帰納的な推論をするだけ。 >>663
>魏使らは、倭國で倭人の中に鯨面文身の人を見たから、記録したのであり、
>魏使らの記録に載っていなければ、
「男子無大小 皆黥面文身」の記載部分に関してはな
そしてそれも魏使の記録以外の情報源の可能性も十分ある
>知り得た史料事実の範囲内で
倭人伝と古田本とyahooで小耳に挟んだ話しか知らないだろ >>561
>>「其南海行三月、有tam牟羅國、南北千餘里、東西數百里、土多[冠鹿脚章]鹿、附庸於百濟」
の事かな?。
そりゃ、済州島ではなく、台湾だよ。<
>あほう 台湾が百済の属国かよ<
そりゃ「附庸」は百済側の説明であり、
実際には、一時期攻め込んだだけなのか?、
一部分に植民しただけなのか?、
中国への敵対で百済に外交辞礼を送っただけなのか?、
などは、判らんよ。 >>562
>>そもそも、「東冶」に最初に変更した後漢書の范曄の、
「前史の記載を書き換える高慢な人間性」が信用出来ない <
>そもそも、後漢書が「東冶」に最初に変更した とか
「証拠もなく決めつける高慢な人間性」が信用出来ない <
そもそも、「尿入りの大量の一升瓶」でヘイトスピーチしたり、
「南→東」などの嘘吐きダマシをしたりする・・・・男の人間性が信用出来ない。
また、後漢書が「東冶」に最初に変更した、というのは、
史料事実であり、史料実態。 >>563
>>大和説や長里説なんて、5倍以上も縮尺を間違えたものに頼ってるくせに、<
>縮尺を間違えた、とか決めつける根拠は? 頼ってる、と断定する理由は?<
あれっ?、この投稿も、
例の「尿入りの大量の一升瓶」ヘイトスピーチ男の口調に似ているね。 九州説
「距離は5倍以上間違ってるけど方位は絶対に間違わないよ!」
「陳寿は短里を知らなかったけど方位は完璧に知っていたよ!」
後漢書(424頃)
「自女王國『東』度海千餘里至拘奴國」
隋書東夷伝(628)
「都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」
混一疆理歴代国都之図(1402)
https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/tenjikai/2002/zuroku/jpg/001.jpg >>564
>>東冶付近は、260年の分郡で会稽郡から省かれたんだから、
会稽の中心部ではなかかった、という事になる。<
>そんなこと、卑弥呼の時代には関係ない <
勿論、「計其道里、當在會稽東治之東」は、陳寿の「地の文」だから、
陳寿が成人になってから得られた知見全体からの判断であり、
その「会稽」とは、卑弥呼の時代から執筆時点の間に、
会稽郡であり続けた地域だ。
「東冶」や「呉郡」や「臨海郡」に分郡された地、ではあり得ない。 >>565
>>漢文の「記載文言の逐次的受け止め解釈」という、人類の常識的な理解が根拠。<
>空虚な修飾語を取り除くと
「理由はないけどワシのいうことが正しいんぢゃ」<
漢文の「記載文言の逐次的受け止め解釈」は、史料事実じゃ。 >>566
>>という、大和説者に特有の、史料実態の否定のサギ。<
>ヘイトスピーチ<
これも、例の「尿入りの大量の一升瓶」のヘイトスピーチ男。 >>567
>其南海行三月は其南海行三日の誤記ですね
朝鮮半島南端から牟羅國(済州島)まで3日。<
また、変な男が現れた。
史料批判も根拠も言わず、「誤記ですね」という史料事実の否定の、
自分の分裂幻覚妄想を断定している。
「尿入りの沢山の一升瓶」男と同じような、
隋書や百済に対するヘイトスピーチをやっている!。 >>574
>>陳寿は、当然、それまでの自分の全ての知見を使って執筆するもの<
>つまり分郡関係なし<
「関係大有り」だよ、「尿入りの大量の一升瓶」ヘイトスピーチ男。
お前が「分郡」年次を皆書いて、
それらの会稽郡の中心部地域が、全て「会稽郡」のまま残っていた事になったから、
陳寿は、それまでの自分の全ての知見を使って、
地の文の「計其道里、當在會稽東治之東」の「会稽」を書いた、
という事が判ったんだよ。 >>575
ヘイトスピーチ大和説者は、いくら理由も書いて上げても、
知らん振りして、ただ、
「理由もなく、ただ言い張るだけか・・・」
とヘイトスピーチするだけか・・・。 >>577
>>上海付近が、陳寿の若い頃には会稽郡であった、
という事を隠す詐欺をしていた事を 認めて、ちゃんと謝るかい?。<
>陳寿の若い頃に? 上海付近が会稽郡なわけないだろう 発狂してるのか?<
何だ?。
分郡されて呉郡が出来た、とか言ったのはお前だろ?。
じゃ、その呉郡は何郡から分郡されたんだい?。
まさか「呉郡から呉郡が分郡された」なんて発狂を言わないだろうな?。
それじゃ、会稽郡から呉郡が分郡されて出来て、
分郡で残った方は、会稽郡になるではないか。
つまり、会稽郡の中心部は、そのまま会稽郡であった。 >>578
>>上海付近が、陳寿の若い頃には会稽郡であった、<
>上海付近の海塩県(嘉興市)が呉郡になったのは129年 陳寿は233年生れ<
あれ?、おかしいなあ。
お前は、始めは、呉郡の分郡と臨海郡の分郡を、
どちらも250年代であった、というような説明を書いていた筈だぞ?。
129年は、東冶付近の会稽郡への編入の年次ではなかったのかい?。
私の記憶違いであったんなら、そりゃ、「陳寿の若い頃」というのは間違いだ。
しかし、それでも、いくら分郡があっても、
残った会稽郡の地がずっと中心地のままであった、
という事には変わりがないぞ、
尿入りの大量の一升瓶のヘイトスピーチくん。 >>581
>>大量の下賜品を抱えて、魏使一人で運べるものではなく、<
>それは荷物持ち<
何?。
魏使は、部下の役人を連れずに、
一人で「荷物持ち」を雇って、
一人で里や方向を記録した、スーパーマンだった、、とでもいうの?。 >>677
>私の記憶違いであったんなら
ほとんどが記憶違いと勘違い
>残った会稽郡の地
避蛟龍之害も倭水人好沉没捕魚蛤も海の話
だから東部海岸地域を除いて残った内陸の東などとは表現しない
分郡される前の会稽郡で
東治は東冶、「會稽東冶」か「會稽、東冶」 >>583
>>「倭人の鯨面文身」の情報は、魏使らが目撃記録 <
>九州は鯨面文身の根拠になる遺物が非常に少ない 、<
少なくても、目撃出来れば根拠に十分。
>北部九州は瀬戸内系の土器製作技術が流入しているから
瀬戸内系の鯨面文身している人がいるとは思う<
いや、瀬戸内は、「東征毛人五十五國」の通り道。
>>魏使らは、それが漢書に載っている事を知っており、<
>断定できない 陳寿は、当然、史記や漢書に載っている事は知っている <
漢書も読んでいなくっちゃ、魏使の調査役目が勤まらない。
>>「会稽海外の東鯷人」記録も知っていた <
>東鯷人は倭人伝に書いてないから妄想 <
だから、東鯷人のその後を知りたかったから、侏儒國まで探索させ、
もう存在しない事が判って、「東鯷人→投馬國」の可能性が高い事が判った。 >>584
>>(書陵部の紹煕本の中での差異の存在に関して、古田さんと議論された大和説者の名前)確か、誰だったか?<
>そういう小耳に挟んだあやふやな記憶を根拠にしないでもらいたい
自分の中だけで自己満足する分にはかまわない <
嫌だ。
Yahooでの議論では、ちゃんと名前は探して上げたが、
5chのような「尿入りの大量の一升瓶」ヘイトスピーチの狂人らには、
探し手上げても無駄だから、探して上げる気がしない。 >>680
>目撃出来れば
目撃した情報が倭地の地域のことであるかを推定する根拠が出土遺物
>瀬戸内は、「東征毛人五十五國」の通り道。
鯨面文身している人がいるとは思うというのは北部九州の話
>漢書も読んでいなくっちゃ
誰も読んでないとは言ってない
>東鯷人のその後
書いてない、目的は倭人
>「東鯷人→投馬國」の可能性が高い事が判った。
最初から投馬國に行け >>682
何言ってるかよくわからない
そのことは家族と話せ >>683の訂正
倭地の地域のことであるか → 倭地のどの地域のことであるか >>587
>>王朗の時は(東治ではなく)「東冶」と書かれていた、という事は事実。<
>「東冶」であるはずの地名が宮内庁書陵部所蔵の版本の王朗伝では「東治」となっている<
宮内庁書陵部所蔵の紹煕本には、
張元済が「善本」とし「東冶」と書かれた版本は別に、
「東治」という地名としては矛盾のある記載の版本の、
二つ(以上?)あった、という事。
>中国では東冶と訂正されているということ<
張元済が、写真に撮って、中国に持ち帰った紹煕本には、
王朗の所は「東冶」になっていた、という事。 >>589
>>魏志に方向が記載されている、という事は、魏の役人たちの記録を見たからであり、
魏の役人たちが記録した、という事が、方向計測を「やった」のであり、「できた」。<
>すごいゴリ押し・・・ 結論ありきの典型だな<
史料実態からの帰納的推論、そのもの。 >>686
>張元済が「善本」とし「東冶」と書かれた版本
どこに?
ttp://db.sido.keio.ac.jp/kanseki/T_bib_line_search.php >>591
>魏略にも魏志倭人伝と同じ里数が使われてますから
里数を測ったのは張政等より以前の公孫氏の帯方郡の郡使でしょうね。<
公孫氏の郡使が、里数を測ったという必要も記録もないし、
公孫氏の郡使が、侏儒國まで行く必要も記録もない。 >>591
大和説学者が、宮内庁に紹熙本が二種類もなかった、と言ってるなら、
大和説学者が嘘をついていたことになる。
大和説学者が、書陵部で見た紹煕本には王朗伝に「東冶」と書かれていなかった、
と言ってるなら、
大和説学者が嘘をついていたことになる。 >>594
>>分郡後は、建安郡であり、会稽郡ではないし<
>建安郡の前に会稽郡の東部は臨海郡になっている<
260年より前の臨海郡の分郡は、「会稽郡→会稽郡+臨海郡」の分郡であり、
260年の分郡は、「会稽郡→会稽郡+建安郡」の分郡であったんだから、
会稽郡の中心部地域は、ずっと会稽郡のままで残ってでおり、
その地を、陳寿は、
「夏后少康之子封於會稽」の会稽であり、
「計其道里、當在會稽東治之東」の会稽である、
と書いた。 >>692
お前が言張っても、もう會稽東冶と訂正された
山の中で猪と語れ >>690
>大和説学者が、書陵部で見た紹煕本には王朗伝に「東冶」と書かれていなかった、
>と言ってるなら、
>大和説学者が嘘をついていたことになる。
おいおい
1が「東冶」じゃなくて
「東治」と書いてある画像をupしてるだろ?
書陵部の蔵書印もちゃんと写ってたぞ
妄想に生きるな
現実を見ろ九州爺 畿内説ってなんでこんなにスレが分立しているんだよ
まとめろよ 自分の立てたスレだけが正しいと言い張って重複立てるアホがいる。 >>696
九州説信者がナリスマシでニセスレ立ててるだけだ
粘着質の異常者が嫌がらせに乱発してるから
まとめようもない >>595
>>当たり前だ。だから、「(福州の)」と()を付けて置いたんだよ。<
>遁辞をいくら繰り返しても 「東治」と呼ばれた実績のある唯一の土地は
現在の福州だ<
「尿入りの大量の一升瓶」ヘイトスピーチ男が、遁辞をいくら繰り返しても、
王朗の逃亡先としての「東冶」を「東治」と書かれたのは、
陳寿の「会稽東治」の「東治」と同じく普通名詞であるか?、
書陵部の中の一冊に「東冶→東治」の書き換えをした版本があったか?、
という事になるだけだ。 >>598
>>裴松之注所引「魏書」だから、一般的な認識であり、<
>裴松之注所引「魏書」だと自慢話を載せないのか? 理由になってない <
裴松之は、長里だと「不可能であり間違いだ」、とはっきり判るから、
短里だ、と考えて、注に引用した。 >>599
>>短里なら15km余りであり、武具を付けても可能。<
>それ、ぜんぜん自慢にならない。<
「車駕」で1日300里なんだから、
「歩行」なら1日200里は、全く妥当。 >>600
>>魏使らは、海岸伝いに女王之所都に来ており、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
も海岸伝いであり、倭人の風習を何度も見た、という事になる。<
>にもかかわらず、九州には黥面がとても少ないってことは
魏使が黥面を見たのは瀬戸内や畿内であった可能性が高い ということだね、<
九州は先進的で、鯨面文身の縄文人は減っていたが、
瀬戸内近畿は、倭國の東征は倭王武の時点でも55国なんだから、
梁書の出雲の文身國のように、
毛人縄文人の鯨面文身がかなり遅くまで残っていた、
という事だろう。 >>601
これも酷いね。
「尿入りの大量の一升瓶」を置いた?犯人の仲間?の大和説者は、
「車駕が1日300里」の記載もある事を、
完全に隠蔽している。 >>603
>答曰「翻能步行日可二百里。自征討以來、吏卒無及翻者・・・」
どこが一般的な認識やら<
私も、小学5〜6年の頃に、身軽な服装で15km位を歩いた事があるが、
最後は、日がとっぷり暮れて9時頃になってしまった。
重装備したら、普通は全く無理。 >>606
>>海岸伝いに女王之所都に来ており
>北部九州沿岸には瀬戸内系製塩土器、S字甕と 黥面土器が多く出土する地域の土器が来ているから
人も来ているだろうと言っている<
先進的な首都の弥生銀座に、鯨面文身の成りでは、怖がられるだけであり、
来れたものではない。
>>倭人の風習を何度も見た、という事になる。<
>お前は侏儒國には女王国内を通らずに寄航もせずに行ったと言張っているのだから<
変な曲解男。「言って」いない。
>本州、四国の風習を見たということになる <
海岸沿いで、鯨面文身者を見たんだろう、と言っている。
>>「時有」になっていないから、韓よりも多かった。<
>「男子無大小 皆黥面文身」と書かれている倭国に黥面文身が少なかったことの根拠にはならない
倭人伝に書かれている黥面文身、卜骨の根拠となるものが 九州には非常に少なく、本州には多い<
いずれにしても、魏使らは、九州倭国やその周辺で、沢山の鯨面文身者を見た、という証拠。 >>607
>だから魏使が九州でそれらを 頻繁に見かけることはない<
頻繁に見たから、特記した。 >>612
「尿入りの大量の一升瓶」ヘイトスピーチ大和説人種の、
既出連呼。 >>614
「尿入りの大量の一升瓶」ヘイトスピーチの大和説詐欺師の、
既出とヘイトスピーチ 。 >>616
倭人伝に書かれている黥面文身、卜占の風習ともに、
先進的九州にも沢山見られるから、
九州説には、十分な情報。 >>617
「南→東」などの史料事実の否定曲解する嘘つき騙しの大和説者は、
「尿入りの沢山の一升瓶」ヘイトスピーチもする、
排他的人種差別殺人戦争の国粋皇国史観の政府や、
右翼マスコミや右翼学会教育界の、落し児。 >>619
>いや、夏后少康之子や太公望らの首都であり、その後は入れ替わりがあったが、
大体江南の首都。<
>太公望の首都って、なんだそれ?<
江南が拠点であち中心値であった、という意味。 >>620
>>陳寿の認識は、ずっと当然「夏后少康之子封於會稽」の会稽であり、
漢書の「会稽海外」の会稽であり、
分郡があっても会稽郡として残り続けた会稽郡の中心地。<
>関係ないね いま問題になっているのは 「会稽東治の東」 なんだから
いま議論してるのは 会稽郡の中心地がどこかではなく 「会稽東治」がどこか? だ<
だから、会稽郡の東の治所。
「尿入り大量一升瓶」ヘイトスピーチの・・・・詐欺師は、
未だに判らんアホ人種であるらしい。 >>623
>>本州には、山口位までしか行っていないから、関係がない。<
>それじゃ、倭人伝に書かれている黥面文身や卜占の風習は、いったい何処で観察されたの?、
狗邪韓國、對海國、一大國、末盧國、伊都国、不彌國、
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種で、又侏儒國への行程で。 >>625
>>庄内も、三雲が最古であり、おそらく列島での発祥地。<
>なんの出典も根拠もない珍説を振り回すなんて
九州説はトンデモ説でございますって 自分で証明してるよ<
大和説者の柳田クンの、ついうっかり発言。 >>704
最初は20キロ歩けない素人でも
一月40キロ以上歩ける
九州説はちゃんと歩いて調査しないから
東海が伊勢湾や木曽三川という説を理解出来ないんだな >>714
>大和説者の柳田クンの、ついうっかり発言。
そんな発言、実在しないよ
w >>627
>>大國は(戸ではなく)「家」表記であるから、魏への納税兵役義務がなく、
卑弥呼の女王國の中で独立的であり、<
>何か根拠でもあって言ってんの?<
古田さんの「倭人伝を徹底して読む」の、
三国志の「戸」と「家」の全調査が根拠。 >>633
>>(魏の役人らは)山口位までしか行っていない
>>庄内も、三雲が最古<
>古田武彦信者の循環論法<
(魏の役人らは)山口位までしか行っていない のは南へ侏儒國へ向かったから。
三雲が最古は、柳田のついうっかり発言。
「田武彦信者の循環論法」誹謗は、「南→東」などの嘘吐きダマシと同じように、
「尿入り大量一升瓶」ヘイトスピーチ男」の捏造。
>>支石墓は、モンゴル<
>巨石文化のドルメン<
おそらく。
>インド、インドネシア、中国南部(石棚墓50数基)、<
密林地域ではメインになり難い。
>半島北部支石墓などは地上式
遼寧の支石墓の影響を受けた石棺の支石墓は朝鮮半島南部数万基〜西北九州300基くらいが地下式<
支石墓は、どうしても、石の露出の多い半乾燥地域。
>甕棺はインド南部、東南アジアからルソン島<
北部九州は、結局、いろんな地域からの部族の共存地。 >>711
>>太公望の首都って、なんだそれ?
>江南が拠点であち中心値であった、という意味。
また出まかせのデタラメか
九州説はこれだから信用ならない >>712
>だから、会稽郡の東の治所。
会稽郡のに「東の治所」なんて、どこにあるんだ?
捏造するな
九州説は、これだから信用ならない >>634
>>大和説者は、殆どが安本の応援だ。<
国民のかなりの部分が、
NHKや東奥日報などの右翼マスコミや、
「尿入り大量一升瓶」ヘイトスピーチ大和説者らや、
桐原詐欺師や偽筆跡鑑定師らに騙されて、
気の毒な事だ。 >>719
>三雲が最古は、柳田のついうっかり発言。
じゃなくて、ザラコクの捏造だよ >>723
安本は畿内説に敵対してる人だけど?
なんで畿内論者がその仲間みたいに言うの? >>701
>「歩行」なら1日200里は、全く妥当。
妥当だったら自慢話にならないでしょ
つまり、古田珍解釈の間違い >>635
>>(例の・・・・男は)尿入り?一升瓶でのヘイトスピーチ人間であった<
>証拠はないんだろ 古田武彦信者特有の邪推と恨み<
始めは、二つの人間に書き分けていたが、
途中で突然「尿入り?の大量の一升瓶」ヘイトスピーチを始め、
更にその途中で、突然、
例の「中国から来たという考古証拠は?」というのと同じ表現のの投稿を書いてしまって、
3つとも同じ人間であったことがバレてしまった。 >>700
>裴松之は、長里だと「不可能であり間違いだ」、とはっきり判るから、
>短里だ、と考えて、注に引用した。
大人の足なら1日50kmは十分いけるんで
「俺なら倍はイケる」という自慢話に
「不可能であり間違いだ」は無い >>636
>>行程方位も、どれもほぼ間違っておらず<
>会稽東冶の東に大国はないから間違っている<
会稽東治のほぼ東に九州があるから、間違っていない。
>>少しずつ違っている<
>何が? 上野原縄文の森の考古学的根拠を書け<
薩摩と宮崎と南熊本と薩南諸島の考古を、自分で書き分けてみろ。 >>731
>会稽東治のほぼ東に九州があるから、間違っていない。
さすがにこれはウソが酷いな >>637
>>反論出来なかった。<
>古田武彦レベルは通常は研究者レベルでは忙しいので相手にされない
ここでは、海よりも深く天よりも広い大和心でサービス応答してあげている<
と書いて、また、大和説者が逃げている。 >>734
大和説者なんで居ないよ
ここは畿内説スレ >>731
陳寿は「ちょうど東」と言っているのに
それを『ほぼ東」に歪曲する詐欺 >>718
古田トンデモ説が根拠って
ソレは無いわな >>709
>倭人伝に書かれている黥面文身、卜占の風習ともに、
>先進的九州にも沢山見られるから、
沢山って?
どこで、いくつ?
??? >>641の訂正
魏使らは、「邪馬壹國女王之所都」とは別の、
「女王國」というという捉え方での「萬二千余里という直線的距離」を説明しようとしたのだから、
投馬國も含めた距離推定をする事が必要になる。
現在は、PCに盛んに、
「このPCは乗っ取り?などの危険にさらされ続けています。すぐに〜を」
という画面ばっかり出て、
投稿もしょっちゅう壊されたり抹消されて、書き直してばかりで、
ちっとも進まない。 >>643
>現代ですらGPSでやっと島の位置が間違っていた事が発見されるくらいなのだから
船旅では使者に正確な距離が解らなくても当然だろう<
一寸千里などに拠る有効数字1桁概数や、
有効数字1桁日数程度の概数。 >>739
>魏使らは、「邪馬壹國女王之所都」とは別の、
>「女王國」というという捉え方での「萬二千余里という直線的距離」を説明しようとしたのだから、
>投馬國も含めた距離推定をする事が必要になる。
女王国までの距離を書くのに、どうして女王国の果てまでの数字を使うんだ?
支離滅裂な主張だ >>739
じいさん、年甲斐もなくエロサイトにでも通ってるのか? >>705
>変な曲解男。「言って」いない。
Part310の>>929
>だから、一旦東へ向かって山口か松山付近の倭種の地を経て、
>そこから、南の足摺方面に向かったのだ。
>海岸沿いで、鯨面文身者を見た
北部九州沿岸の本州倭人、本州、四国の風習をだろ?
>九州倭国やその周辺で、沢山の鯨面文身者を見た、という証拠
日本の縄文時代から九州は鯨面文身の痕跡は非常に少ないから
沢山見たなら本州から人が沢山来ている >>709
>先進的九州にも沢山見られる
日本の縄文時代から九州は鯨面文身の痕跡は非常に少ないから
沢山見たなら本州から人が沢山来ている
卜骨は庄内式土器受容後2ヶ所だけ >>712
>会稽郡の東の治所。
治所は長官が駐在しているところ >>713
北部九州沿岸部は、鯨面文身の痕跡が多い本州の影響が強いから >>719
>山口位までしか行っていない
というのは仮説だから根拠にはならない
>三雲が最古は、柳田のついうっかり発言。
まだ福岡の庄内式土器研究が進んでいなかったから
>北部九州は、結局、いろんな地域からの部族の共存地。
支配層が入れ替わっている >>729
俺はお前が連呼している「尿入り?の大量の一升瓶」を
畿内説の誰が置いたのか確認しただけ
お前の回答では畿内説者は関係ないようだから
安本美典や東奥日報の斎藤と話せばいいと書いたが
その証拠もないようだから邪推だろ
お前一人で興奮して「尿入り?の大量の一升瓶」を連呼している >>645
史料事実からの帰納的推論の否定は、
国粋皇国史観という思想宗教的な「結論先にありき」の、
・・・アホの大和説者に有り勝ちだね。 >>647
>>有効数字1桁程度<
>お前が>>543で書いたのは >ほぼ正確な基準がある。<
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
「多数の1桁以内の一致」というのは、ほぼ正確である、
と言えるのであり、
大和説の6倍位の差異は、正確な基準には全くならないんだよ。 >>750
畿内説は、お前が「史料事実からの帰納的推論」だと言っている仮説を
根拠を挙げて指摘している
「否定は、 国粋皇国史観という思想宗教的な「結論先にありき」」だと言うのなら
俺の仮説に対して反論するなと言っているのと同じこと >>751
>大和説の6倍位の差異は、正確な基準には全くならないんだよ。
正確な基準なんかにしてない相手に独り相撲
ばかみたい >>751
約40、50kmと76.5kmとの誤差はほぼ正確であるとは言わない
博多の南までの距離をほぼ正確な測量値だと言張っても
「萬二千餘里」が全く離れた別の場所という仮説なのだから無意味 >>750
畿内説側は、お前が「史料事実からの帰納的推論」だと詐称している珍妙な仮説に対して、
具体的根拠を挙げて誤りを指摘している。
「否定は、 国粋皇国史観という思想宗教的な「結論先にありき」」だ、
などという抗弁は、
「俺の仮説に対して反論するな」と、
ただワガママを言っているのと同じこと。 >>649
>>歩行1日200里<
>輕軍到襄陽。聞先主已過,曹公將精騎五千急追之,一日一夜行三百餘里,及於當陽之長坂「先主傳」
曹操が軽装、精騎で襄陽から一日一夜行三百餘里で劉備に追いついたのが当陽県長坂
襄陽〜当陽市長坂 直線で約135km<
いくつかの点で問題がある。
一つは、これは(魏代ではなく)長里時代の漢代の記録を元にしたものである事。
また、出発点や到着点が、居住外縁部であれば、135kmよりもはるかに短くなってしまう事。
また、約135kmの一日一夜行の連続行は、
馬の疲労での取り換えや栄養補給が何度も必要になり、全く不可能である事。
まして、1頭や2頭なら駆け抜けられても5000頭全体では全く無理ある事。
だから、1〜2頭で追いついては、歩行者もともなった劉備らを包囲する事も出来ず、
劉備らは、当然逃げられた事。
また、一日一夜行という記録が、そのような日もあった、というだけの事の誇大表現であった、
という可能性もある事。 >>757
>また、出発点や到着点が、居住外縁部であれば、135kmよりもはるかに短くなってしまう事。
>>757
居住外縁部がどーたら言う古田珍説が
現実と合わないのは
理の当然 >>757
>長里時代の漢代の記録
これは仮説
>出発点や到着点が、居住外縁部であれば、135kmよりもはるかに短くなってしまう事
曹操が到着したのは劉表の死後劉jが受け継いだ襄陽城で居住外縁部ではない
精鋭の騎馬でも300里を一日一夜かかるのだから
歩行で一日200里は到底無理 >>760の追加
当陽県長坂は現在も地名が残っている >>757
古田説の欠陥は
何もデータなしに
主観だけで「無理」とか
断定するところ 135kmを馬で一日一夜だったら、
休憩時間除いて平均したら常歩(なみあし)時速6.6kmくらいの速度だな
実際の距離はもう少し長くなるが >>763
騎兵の昼夜300里は董卓軍が都の変事に駆けつける個所でも出てくるから、戦闘前提で急行軍するときの常識だったんだろう 人間もアスリートレベルなら日に200里(約87km)行けそうだな >>765
だいたい参勤交代で一泊二日の距離だ
自慢話なら「俺なら一日だ。他の奴には真似できねえが」
くらい吹くさ >>762
古田は古臭いが、それに対して印象操作しかできない畿内説はもっとダメだな。 >>768
実証による反論が見えてないこの男が
一番ダメ人間 >>651
>會稽之東ではなく會稽東冶之東 <
嘘を付くな。會稽之東ではなく、會稽東冶之東でもなく、会稽東治之東。
>尿入り一升瓶 を持ち出したのは憎しみの古田武彦信者のお前<
嘘を付くな。
私は別に出す必要がなく、お前ら「例の・・・・大和説者」が持ち出したから言い返しただけ。
>行政も恨む古田武彦信者のヘイトスピーチ<
行政も支配した文部省や右翼マスコミや右翼偏向大和説学会。
>>九州倭国は、毛人縄文人を「東征55國」した方。<
>一元史観<
列島は多元であった。
>日本の縄文時代から九州には鯨面文身の痕跡となる遺物が本州に比べて非常に少ない <
先進盟主であった九州倭国にも残っていた。 >>653
>「尿入りの大量の一升瓶」ヘイトスピーチは
恨みの古田武彦信者のお前が一人でやっている <
お前ら大和説者らが、
執拗に「古田説とと偽書説を絡めたたヘイトスピーチ」投稿をしたから、
世間の人々に真相を説明しただけ。
>>陳寿の三国志に対しても、ヘイトスピーチした。<
>してないが?<
「南→東」などの陳寿の記載に対する否定曲解のヘイトスピーチ。 >>654
>>会稽郡東部も東冶も、分郡されて会稽郡ではなくなったんだから、
会稽郡東部も東冶も会稽郡の中心部ではなかった、という事になり、
だから、以前からずっと「会稽」と呼ばれて来た会稽は、
分郡で最後まで「会稽郡」として残った場所。<
>いま問題になっているのは 会稽郡とか、その中心じゃなくて 会稽東治だから
関係ない <
ほら、都合が悪くなると、逃げた。
また、「会稽東治」は、以前から会稽の中心とされてきた場所の東の支配地域の事。 >>655
大和説者の恨みは、最後まで古田説に勝てず、負けたままであった事。 >>656
誰が見ても、
常習ヘイトスピーカー、をして来たのは、
古田説に負けて、反論出来なくなった大和説者だろ?。 >>657
キミら大和説者は、皇国史観国家主義を愛し、排他的人種差別を愛し、侵略殺人戦争を愛し、
そして唯我独尊支配の栄耀栄華だけを愛するやくざ暴力団。
九州説や古田説にたいする恨や火病たいするばかり。 >>773
>また、「会稽東治」は、以前から会稽の中心とされてきた場所の東の支配地域の事。
>>773
東の支配地域って、どこよ?
なんで地名が言えないの?
なんで「東治」が
東の支配地域
なんていう意味なの?
妄想捏造もたいがいにしろ >>659
>>後代や現代の政府系史家は、〜信頼性が殆どない。<
>陳寿もその一人 <
議論の出発点は、邪馬壹國や卑弥呼が説明された陳寿の魏志倭人伝。
>>「尿入りの大量の一升瓶」<
>異常に尿に執着する古田武彦信者<
「尿入りの大量の一升瓶」ヘイトスピーチに異常に執着していたのは、
この「異常な・・・・投稿」主や大和説者。
私は、世間の皆様に真相の説明をしただけ。 >>660
もちろん、
「南→東」などの史料事実の否定曲解をする嘘つき騙しの大和説者は、
始めからまったく信頼性が、ない。 >>781
いや、元から狂っていただろ
発狂の度合いが酷くなったというべき 社用PC使って就業時間内に投稿しまくってるじいさんがまともなはずない >>661
大和説:
「距離は5倍以上間違ってるし、方位も絶対に間違いよ!」
「陳寿は短里を知らなかったし、方位は完璧に間違えたよ!」
>混一疆理歴代国都之図(1402) <
後代の実地での計測を伴わない地図は、知的退化の証拠。
>隋書東夷伝(628) 「都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」<
後代の唐代の魏徴らも、
前史の魏志の邪馬壹國と、その後代の別の後漢書の邪馬臺國を、
史料事実に背いて、同じだ、と、
曲解した注釈を書いた、似非学者。 >>775
>常習ヘイトスピーカー、をして来たのは、
>古田説に負けて、反論出来なくなった大和説者だろ?。
反論を受けている
という事実すら
目をそむけて
無視してる
あわれな
古田説
あほ
や >>664
>>魏使らは、倭國で倭人の中に鯨面文身の人を見たから、記録したのであり、
魏使らの記録に載っていなければ、<
>「男子無大小 皆黥面文身」の記載部分に関してはな
そしてそれも魏使の記録以外の情報源の可能性も十分ある <
海峡と九州北岸と侏儒國への途中、でしかない。
>>>知り得た史料事実の範囲内で<
>倭人伝と古田本とyahooで小耳に挟んだ話しか知らないだろ <
うん。
Yahooでは、東大兄弟を股に掛けた天誅らや、
東大の学者らや、京大の戦争好き医者らと議論したが、
皆、古田説に負けて、卑弥呼の議論から撤退してしまったよ。 ウソでもなんでも全て自分の都合がいいように解釈してそれが事実だと思い込む病気があるんやで >>668
>漢書(424頃) 「自女王國『東』度海千餘里至拘奴國」<
前史の魏志記載を、自分の解釈や考えで誇張的に書き換える、
後代史書の後漢書は、魏徴や現代大和説学者らと同じように、
信頼性が全くなく、半分×であり、
根拠にならないんだよ。 >>675
大和説者は、
まるで、「尿入り大量一升瓶」のサギがバレて、にっちもさっちもいかなくなった猪が、
興奮して暴れてるみたいだな。 魏志→記載事項は史料事実だ!
後漢書→記載事項は信用ならない
このダブスタw 魏志だって、倭人が書いたわけでも、郡使が書いたわけでも、魏使が書いたわけでもなく
それまでに蓄積された情報のうち、陳寿が接することのできたものから、陳寿が再構成して記述してるのにな >>793
陳寿が誇張や解釈を加えてないと、なぜ勝手に断定するのか?
これが古田流歴史学ごっこが学問ではなく信仰だと言われる由縁 >>679
>ほとんどが記憶違いと勘違い<
「南→東」や「尿入り大量一升瓶」などは、殆ど皆、
お前ら大和説者の嘘吐きダマシのサギ。
>避蛟龍之害も倭水人好沉没捕魚蛤も海の話
だから東部海岸地域を除いて残った内陸の東などとは表現しない<
会稽地域は、内陸ではない。
また、陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」は、
漢書の東鯷人の「会稽海外」との関連を考えた表現。
>分郡される前の会稽郡で 東治は東冶、「會稽東冶」か「會稽、東冶」<
分郡された後の会稽郡の位置が、本来の会稽の中心地であったのであり、
また、東冶ではなく東治。 >>681
分裂幻覚の・・・・大和説者の中で、妄想に入り浸るな。 >>683
>>(鯨面文身の倭人)目撃出来れば<
>目撃した情報が倭地の地域のことであるかを推定する根拠が出土遺物<
存在確認出来ているから、それで十分。
>>瀬戸内は、「東征毛人五十五國」の通り道。<
>鯨面文身している人がいるとは思うというのは北部九州の話<
瀬戸内は、元は鯨面文身の多い毛人蝦夷地。
>>漢書も読んでいなくっちゃ(魏使が務まらない)<
>誰も読んでないとは言ってない <
「読んでいない」みたいな言い方をした。
>>東鯷人のその後<
>書いてない、目的は倭人<
東鯷人との関係は、判った方が手柄。
>>「東鯷人→投馬國」の可能性が高い事が判った。<
>最初から投馬國に行け<
「水行二十日」は危険が多過ぎる。 >>688
>>張元済が「善本」とし「東冶」と書かれた版本 <
>どこに?<
宮内庁書陵部。 >>693
お前が言張っても、張元済の採用した善本では、王朗は「東冶」に逃げた。
そして、「計其道里、當在會稽東治之東」は、
もう、「東治」のままでよい、と決まった。
山の中で猪と語れ。 >>694
>そこに東治が無いんだよ 会稽しかない<
だから、「会稽東治」と書かれ、会稽の東の支配地域、という説明になった。 >>799
>>張元済が「善本」とし「東冶」と書かれた版本
>>どこに?
>宮内庁書陵部。
宮内庁書陵部に、そんなものがある
という証拠は?
>>695
>>大和説学者が、書陵部で見た紹煕本には王朗伝に「東冶」と書かれていなかった、
と言ってるなら、 大和説学者が嘘をついていたことになる。<
>おいおい 1が「東冶」じゃなくて 「東治」と書いてある画像をupしてるだろ?
書陵部の蔵書印もちゃんと写ってたぞ<
おいおい、書陵部には、
張元済が写真にまで撮って持ち帰った「紹煕本の善本」があったんだよ。
つまり二種類以上あったのだ。
妄想に生きるな、
現実を見ろ、「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの大和説の、
分裂幻覚妄想の病人。 >>801
>だから、「会稽東治」と書かれ、会稽の東の支配地域、という説明になった。
なんで「会稽東治之東」なんて書いたの?
なんで「会稽之東」と書かなかったの? >>801
>「会稽東治」と書かれ、会稽の東の支配地域、という説明になった。
なんで「会稽東治」が
「会稽の東の支配地域」
だなんて意味だと言い張るんだ?
理由でもあるのか?
??? >>715
>最初は20キロ歩けない素人でも 一月40キロ以上歩ける<
何?この意味不明文。
それに、長里での一日90kmの説明になっていない。
大和説者は、ちゃんと歩いてちゃんとみたり、調査しないから
歩行1日200里という話を、理解出来ないんだな 。 書陵部所蔵資料目録・画像公開システムで検索してみればw >>721
>>>太公望の首都って、なんだそれ? <
>>南が拠点であち中心値であった、という意味。<
>まかせのデタラメか<
太公望の地を特定したら、デタラメになるから、
始めから「江南付近」と言ってある。
大和説者は、都合が悪くなると、
直ぐに「言葉尻切り取り」ヘイトスピーチに走るから、
信用ならない。 >>722
>>だから、会稽郡の東の治所。<
>会稽郡のに「東の治所」なんて、どこにあるんだ?<
それ以前や当時の、会稽郡の東の支配地であった地域。
曲解捏造するな。
大和説者は、これだから信用ならない 。 >>726
>安本は畿内説に敵対してる人だけど? なんで畿内論者がその仲間みたいに言うの?<
安本は、反九州王朝の皇国史観の東遷説であるから、
親大和説者であり、大和説の一派。 >>803
>つまり二種類以上あったのだ。
魏志倭人伝 南宋紹煕本 宮内庁書陵部蔵
『倭人伝を徹底して読む』(大阪書籍)
魏志倭人伝 南宋紹煕本 二十四史百衲本
『「邪馬台国」はなかった』朝日文庫版(岩波文庫の『魏志倭人伝、他三篇』
岩波文庫本には、写真版を二十四史百衲本から載せたという記載がない。
わたしの角川文庫本には、二十四史百衲本から載せたという記載が最後にある。
しかし二十四史百衲本から、載せるべきではなかった。
せっかく東京に宮内庁書陵部蔵という立派な本があるのだから、
それから載せるという本来の姿を取るべきだった。
二十四史百衲本の名前に押されたと言うべきか、ただ信用していた。
それを編集した張元済さんは非常に尊敬している学者ですが、そこまで目が及ばなかった。古田武彦
お前が言ってる二種類とはこのことじゃないのか?
宮内庁書陵部に二種類あったようなことは古田は言ってないんだが >>808
>太公望の地を特定したら、デタラメになるから、
>始めから「江南付近」と言ってある。
太公望の地が、なんでを「江南付近」なんだ?
>>728
>>「歩行」なら1日200里(短里で15km余り)は、全く妥当<
>当だったら自慢話にならないでしょ<
古代の未整備の悪路での重装備では、十分自慢話になる。
つまり、実態を知らない大和説者の珍解釈や曲解捏造の、間違い。 >>730
>>裴松之は、長里だと「不可能であり間違いだ」、とはっきり判るから、
短里だ、と考えて、注に引用した。<
>大人の足なら1日50kmは十分いけるんで<
殆ど寝ずに行かないといけない。
まして未整備な悪路では猶更。
そして、これは、裴松之も短里を知っていて使った証拠。
>俺なら倍はイケる」という自慢話に 「不可能であり間違いだ」は無い<
古代の未整備な悪路では無理。 >>809
>それ以前や当時の、会稽郡の東の支配地であった地域。
それ以前や当時の会稽郡の東の支配地って
具体的にどこのことだ?
なんで「会稽東治」が
会稽郡の東の支配地
なんて意味になるんだ? >>815
相変わらず、何も証拠を出さずに言い張り続けるザラコク >>810
>安本は、反九州王朝の皇国史観の東遷説であるから、
>親大和説者であり、大和説の一派。
なんで
反九州王朝の皇国史観の東遷説だと
大和説の一派になるんだ? >>814
>古代の未整備の悪路での重装備では、十分自慢話になる。
なんで未整備の悪路って決めつけてんの? こんなふうに
自分の説に都合のいい言葉の意味や過去の出来事を
根拠もなく勝手に作ってしまう
それが九州王朝説
だな そもそも呉書は「短里」は使ってないってのが
古田の主張じゃなかったの?
??? >>818
>反九州王朝の皇国史観の東遷説だと
>大和説の一派になるんだ?
邪馬台国が大和に東遷したと主張しているからでしょ? 15キロ歩くのが精一杯の人間が
でも方位だけは正確に知ってますとかあるのかね? 伊能忠敬が道なき道を計測しながら歩いたのが
一日平均17キロだと >>733
>>会稽東治のほぼ東に九州があるから、間違っていない。<
>さすがにこれはウソが酷いな <
何だ?、何か文句があるのか?。
何度も計算して上げたように、「東〜東北東」の間だから、
北でも南でも東北でもなく、
「ほぼ東」だ。 >>736
>陳寿は「ちょうど東」と言っているのに それを『ほぼ東」に歪曲する詐欺<
何だ、またウソを付くのか?。
陳寿は、「邪馬壹國女王之所都」から大体「南水行二十日」に投馬國がある事を知っているから、
女王國が南北にかなり長い事を知っており、
だから、「ちょうど東」なんていう筈がない。
だから「計其道里、當在會稽、東冶之東」の「東」も、「大体東」だ、という見方だ。
だから、お前が「ちょうど南」と歪曲した詐欺師だ。 >>737
「南→東」などの嘘つき騙しのトンデモ大和説が根拠だって?。
ソレは無いわな。 >>738
>>倭人伝に書かれている黥面文身、卜占の風習ともに、
先進的九州にも沢山見られるから、<
>沢山って? どこで、いくつ? ??? <
卜占は、壱岐に沢山見られるし、
鯨面文身も、例えば発掘が2個であれば、その10〜100倍は存在する、
という話があるからだ。 >>742
>>魏使らは、「邪馬壹國女王之所都」とは別の、
「女王國」というという捉え方での「萬二千余里という直線的距離」を説明しようとしたのだから、
投馬國も含めた距離推定をする事が必要になる。<
>女王国までの距離を書くのに、どうして女王国の果てまでの数字を使うんだ?
支離滅裂な主張だ<
「女王國の果て」ではない。
魏使らも陳寿も、国までの距離は、その居住外縁部までの距離での説明であり、
投馬國も、その北側の外縁部までの距離だ。
勿論、投馬國の南の外縁部までの距離は、魏使らも陳寿にも情報がなくて判らない。 >>744
>>だから、一旦東へ向かって山口か松山付近の倭種の地を経て、
そこから、南の足摺方面に向かったのだ。
>>海岸沿いで、鯨面文身者を見た(んだろう)<
>北部九州沿岸の本州倭人、本州、四国の風習をだろ?<
本州と四国は、西端だな。
>>>(韓と比較して)九州倭国やその周辺で、沢山の鯨面文身者を見た、という証拠
>日本の縄文時代から九州は鯨面文身の痕跡は非常に少ないから
沢山見たなら本州から人が沢山来ている<
魏使らにとっては、北部九州で見た鯨面文身者は、皆倭人だ。 >>745
>>先進的九州にも沢山見られる<
>日本の縄文時代から九州は鯨面文身の痕跡は非常に少ないから
沢山見たなら本州から人が沢山来ている<
また、何か?変な捏造をしている?。
魏使らが見たのは、縄文時代の鯨面文身者ではなく、
3世紀の 北部九州付近の「鯨面文身の倭人」だ。
>卜骨は庄内式土器受容後2ヶ所だけ<
壱岐に大量にあるし、
庄内も、壱岐と同族親族の三雲が列島での初元だ。 >>746
>>会稽郡の東の治所。<
>治所は長官が駐在しているところ<
私の「会稽東治」の「治」は、
「支配下として治めている所」という普通名詞的な理解だ。 >>747
>北部九州沿岸部は、鯨面文身の痕跡が多い本州の影響が強いから><
逆だ。
卑弥呼や難升米ら、倭國のトップクラスには、
鯨面文身をしていた、という記載がないから、していない。
という事は、倭国の鯨面文身者は、
倭国上層部に拠って服従させられた在地の毛人蝦夷部族のの風俗であった、
という事で、
だから、倭国に拠って減ったんだろう、という事だ。 しょうがつも
あほじじいらの
けんかむだ(しつれい >>748
>>(魏使の部下ら)山口位までしか行っていない <
>というのは仮説だから根拠にはならない <
いや、仮説ではなく、史料実態だ。
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
であり、侏儒國が足摺付近であるから、
魏使の部下らが行った倭種は、足摺の北方にあった事になり、
だから、山口や松山付近になる。
>>三雲が最古は、柳田のついうっかり発言<
>まだ福岡の庄内式土器研究が進んでいなかったから<
弥生銀座の那珂八幡の庄内よりも古い、という説明であったから、
その時点で列島最古だ。
>>北部九州は、結局、いろんな地域からの部族の共存地。<
>支配層が入れ替わっている<
中心的部族は、天孫族の阿毎氏と、呉王夫差の遺民の姫氏だ。 >>790 >>831
とりあえず
張政が邪馬台国と狗奴国との紛争に派遣されたついでに調べた程度で簡単に正確な方位が明らかになったというなら
それを後漢書が書き直す理由も更に後の史書が書き直さない理由も無いんじゃないですかね?
後漢書はいい加減だ!みたいな批判が何処かの史書にあるんですかね? ちんじゅが人生かけちょる三国志に無名の地名いきなり出すんかのー
東治は東して治めるちゃうならかいけいの東が治まるやろ?
とうやはろんがい12000x400mてどこまでいくんや 魏志は九州説にとって
「神聖にして疑うべからず」ものなんだな >>836
>卑弥呼や難升米ら、倭國のトップクラスには、
>鯨面文身をしていた、という記載がないから、していない。
文身で階級を分けていたということは、誰もがしていたということ。
卑弥呼もしていただろう。
神武一行が畿内大和に攻め込んで嫁探しをした時に、神武の代理で大久米が土地の姫に、なぜ目の周りにそんな刺青があるのかと尋ねられている。
畿内には刺青の風習がなく、大久米らの出身地の九州北部には刺青の風習があったということらしい。
よって、刺青は九州北部の風習。 >>841
魏志倭人伝がなかったら、卑弥呼も邪馬台国もわからなかった。
魏志倭人伝を無視して「邪馬台国」をでっち上げている畿内説がおかしいんだよ。 魏志は神聖にして疑うべからずじゃなくて
南だけだろ 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
−弥生時代の鉄鏃は福岡県から171個出土、奈良県からは2個。
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。 日本の学者も中国の学者も信じないんだから
論争はもう完全に終ってる >>845
【倭國はどんな国?】じゃないのか?
北九州は奴国で邪馬台国に属す倭國の一部だな >>842
>畿内には刺青の風習がなく、大久米らの出身地の九州北部には刺青の風習があったということらしい。
>よって、刺青は九州北部の風習。
大久米らの出身地が九州北部って
どっから湧いてきた話よ?
>>828
>陳寿は、「邪馬壹國女王之所都」から大体「南水行二十日」に投馬國がある事を知っているから、
>女王國が南北にかなり長い事を知っており、
>だから、「ちょうど東」なんていう筈がない。
俺の説が正しいから通説は間違いだ
という循環論法 卑弥呼や倭の五王は畿内に実在した
これは考古学的に堅い
どういう関係かは今となってはわからないが、
分家の応神が九州から乗っ取り今の天皇家の基礎を築いた
邪馬台国東遷ではなく大和朝廷東遷が正しく要するに神武天皇とは
応神の東征を過去に投影しただけ
九州から大和を確かに征服した確かなと見ていい史実であり
これが建国神話に反映していないというのも無理
要するに神武とは応神のこと
五王の畿内王権はほぼ考古学的に裏とれている
卑弥呼の頃の邪馬台国が九州にありそれが出雲飛ばして
畿内を制圧すんのは無理あるし
九州から畿内の征服がないのも馬鹿げている
神武の東征が必要なくなる
東征はあった
応神の時に
明確な九州による東方征服 >>843
魏志倭人伝がなかったら
九州説が存在しない >>835
>私の「会稽東治」の「治」は、
>「支配下として治めている所」という普通名詞的な理解だ。
あんた一人がどう理解しようと
世間では「治」には「支配下として治めている所」という意味はない >>830
>鯨面文身も、例えば発掘が2個であれば、その10〜100倍は
ゴキブリかよw
w >>838
>弥生銀座の那珂八幡の庄内よりも古い、という説明であったから、
>その時点で列島最古だ。
九州の中では古い
という話が
列島最古
に変化してしまう脳って
かなり腐敗が進んでない? >>834
「日本の縄文時代から九州は鯨面文身の痕跡は非常に少ない」
って日本語の意味、わからない? >>827
>何度も計算して上げたように、「東〜東北東」の間だから、
>北でも南でも東北でもなく、
>「ほぼ東」だ。
あんた、計算してないだろ >>852
応神即位は、大宰帥みたいな立場で出向してた王族がお家騒動に勝った話だろうな >>838
>いや、仮説ではなく、史料実態だ。
>「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
>であり、侏儒國が足摺付近であるから、
そういうの。史料実態って言うのか?
仮説というよりトンデモ説って言わないか?
? >>840
会稽東冶がどこにあるかは
12000里と関係ないだろ >>860
会稽郡治からどっち方位か?
8分法で北北東〜東北東が「北東」
つまり67度30分以下は北東になる
紹興市越城区を基準点として
三雲公民館 64度07分13秒 東北東より北
岡本遺跡 64度31分56秒 東北東より北
太宰府天満宮 64度46分08秒 東北東より北
高良山頂 66度09分56秒 東北東より北
結論:北部九州を東というのは無理 >>832
>魏使らも陳寿も、国までの距離は、その居住外縁部までの距離での説明であり、
>投馬國も、その北側の外縁部までの距離だ。
そこが佐多岬か屋久島なんだろ?
不合理じゃないか >>863
「當在會稽東冶之東」なんだから、ちょうど東と言っている。
角度を広くとる必要なし。 >>749
>俺はお前が連呼している「尿入り?の大量の一升瓶」を
畿内説の誰が置いたのか確認しただけ・・・<
いや、私が2chに来た時から、直ぐに、
「尿入り一升瓶」の事で、古田派へのヘイトスピーチをする大和説者がずっといた。
そして、その都度、反論もして置いた。
また、「中国からの渡来を示す考古証拠は?」などと叫ぶ・・・・投稿子もおり、
それは明らかに異常性のある書き方であったから、
時々「大夫」などの反論を書いておいた。
そして、お前との長い議論が始まって、途中でお前がまた、
突然「尿入り一升瓶」のヘイトスピーチを書いたから、
私は和田キヨエが主犯である、という説明投稿をした。
そうすると、お前が突然「・・・の証拠は?〜の証拠は?」を連発する異常な投稿を書いたから、
長い議論になったお前が、「尿入り一升瓶」投稿男でもあり、「・・・の証拠は?」を連発した異常者であった事も判った。 定説である福州市鼓楼区からの方位
三雲公民館 49度17分18秒
岡本遺跡 49度46分50秒
太宰府天満宮 50度01分28秒
高良山頂 50度59分30秒
阿蘇山頂 53度42分34秒
纏向遺跡 55度23分17秒
西都原古墳群 57度28分18秒
佐多岬 61度14分30秒
屋久島空港 64度12分58秒
九州全土が無理 >>866
また、なんの証拠もないことを言い張っているな >>866
「・・・の証拠は?〜の証拠は?」は
畿内説なら誰でも言うよ
どこも異常でない >>866は怪しげな記憶やアテ推量で断定ばかりする常習者だ >>825
30代健常者の平均歩速は毎秒約140cm
50分歩いて10分休憩を日の出から日没まで続けると、1日約50km進むことになる >>866
その主犯が誰かという説明投稿で
どんな証拠を挙げたの? >>752
>畿内説は、お前が「史料事実からの帰納的推論」だと言っている仮説を<
「仮説」と言って誤魔化すな。
存在確認された史料事実は、否定抹殺し難いものであり、
史料批判での信頼性や客観性の論理の出発点になるものであり、
信頼性や客観性が確認されれば、帰納的推論の出発点になるものだ。
>根拠を挙げて指摘している<
お前は、始めから「南→東」などのような、
信頼性と客観性が確認された史料事実を否定抹殺する、という事をした上での挙証でのであるから、
始めから、「結論先にありき」の空中楼閣になっており、信頼性が全くない。
>「否定は、 国粋皇国史観という思想宗教的な「結論先にありき」」だと言うのなら 俺の仮説に対して反論するなと言っているのと同じこと<
「南」などの史料事実に対する「信頼性の確認」を十分にしてから、
それから「東」の挙証をしな。 >>873
>信頼性と客観性が確認された史料事実を
誰が確認したの? >>873
信頼性と客観性が確認された史料事実を否定抹殺する、という事をした上での挙証である
という証拠は? >>755
>約40、50kmと76.5kmとの誤差はほぼ正確であるとは言わない <
魏使らや陳寿は、有効数字1桁程度の概数記載をしているんだから、
その程度の概数である、という認識で、正確性を判断すべきだ。
また、一寸千里にしても、簡易三角測量などにしても、
有効数字行けた程度の精度しか得られない、
という事も実態だ。
>博多の南までの距離をほぼ正確な測量値だと言張っても<
有効数字1桁程度の正確さでの記録だ。
>「萬二千餘里」が全く離れた別の場所という仮説なのだから無意味 <
始めから、対象そのものが違う。
「萬二千余里」の対象は、「邪馬壹國女王之所都」への里数ではなく、
「女王國」への里数説明だ。 有効数字行けた程度の精度しか得られない、と知りつつ
ピタリ正確とか言って読者を欺いてきたのが古田説 >>878
>「萬二千余里」の対象は、「邪馬壹國女王之所都」への里数ではなく、
>「女王國」への里数説明だ。
不弥国から距離ゼロと言ってきた九州王朝説が
死にました
w >>756
>畿内説側は、お前が「史料事実からの帰納的推論」だと詐称している珍妙な仮説に対して、
具体的根拠を挙げて誤りを指摘している。<
大和説者は、始めから、
「南」という基本的は史料記載の史料批判無しに、
「東だ」と読み変えるインチキをしているんだから、
そりゃ、インチキは・・・・詐欺師だな。 >>878
郡から女王国の北の境界まで
直線距離で一万二千里なのか? >>881
>大和説者は、始めから、
>「南」という基本的は史料記載の史料批判無しに、
してるけど? >>881
畿内説のスレで大和説とやらを非難しても意味ないと思うぞ
スレ違いだから >>866
>途中でお前がまた、
>突然「尿入り一升瓶」のヘイトスピーチを書いたから、
>そうすると、お前が突然「・・・の証拠は?〜の証拠は?」を連発する異常な投稿を書いたから、
書いとらんよ、確認して該当レス引用してみ
俺が書いたのは、
>>153
>古田が信頼したのは、どろぼう喜八郎
お前が書いたのが
>>465
>>153
>大和説信者が信頼したのは、
>「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの文部省や通説学者らであり、
>右翼興信社や桐原詐欺師を雇った安本であり、
>喜八郎さんの撥ね字の悪筆を知らずに、章子さんの清書原稿を鑑定した偽筆跡鑑定家であり、
>和田キヨエをたぶらかして尿入り?の沢山の一升瓶を旧和田家の置いた右翼組織ら
俺が書いたのが
>>225
>筑紫版外三郡誌みたいなのはまだ屋根裏から落っこちてないの?
お前が書いたのが
>>400
>>225
嘘吐きダマシの偽書説派やの大和説派が、
和田キヨエをたぶらかして造らせた「尿入り?一升瓶」は、
まだ大和説派の屋根裏から落っこちてないの?。
お前一人で興奮して「尿入り一升瓶」を持ち出して連呼している >>881
>「南」という基本的は史料記載の史料批判無しに、
>「東だ」と読み変えるインチキをしているんだから、
してるって証拠は? >>886のアンカは
Part308とPart309のスレな ザラコクの言動は、嫁のぶんの朝飯までペロリ食っちゃったくせに「今朝も鬼嫁が飯をくれんかった。ワシ虐待されとるんぢゃ」と市役所に訴えに行くボケ老人に似ている >>849
筑紫からついて行った重臣だよ。
久米の比定地はいくつかあったが、九州の地名は詳しくないから知らない。 >>882
>>>878
>郡から女王国の北の境界まで
>直線距離で一万二千里なのか?
北の境界は狗邪韓国で、帯方郡から七千里。
だから一万二千里は女王の都まで。
対馬海峡を渡りきったところで一万里になるので、女王の都は福岡県内。 >対馬海峡を渡りきったところで一万里になるので、
ならない >>895
記紀くらい読めよ。
もともと邇邇芸が筑紫の日向に向かう時に従事した氏族で、神武が筑紫の日向から大和に向かう時にも従軍した。 狗邪韓国まで循海岸水行で7千里ほど
渡海千里ほどを3回
計1万里ほどで末盧国に到着する >>913
魏志倭人伝のどこにも書かれてねーんだよ 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 >>916
魏志倭人伝のどこにもそんなこと書かれてねーんだよ それよりも
タツノオトシゴ、うみうま・・・だよ
むかーしの中華(思想)のような気がする、
日本の形にも見えるけど、実際は中華・・・? 阿智 阿知?オモイカネ?
脳のようなキャラクターが出来たり 「残る六支の刃を集めるのじゃ!」
このような事を言っているキャラクターの画像が出てこない?
それとmike oの某曲(MV)オモイカネ △に眼
フリーメーソン イルミナテイ
同じような感じがしない?脳 >>759
>>また出発点や到着点が、居住外縁部であれば、
135kmよりもはるかに短くなってしまう事。<
>外縁部がどーたら言う古田珍説が 現実と合わないのは 理の当然<
日本と韓国の距離は?と言えば、対馬北端と釜山海岸になるのは、理の当然。
また陳寿も、遼東〜高句麗の距離関係記載は、外縁部間になっているし、
扶余に関してもそうなっているし、
倭人伝での距離記載も、原則として、外縁部間距離になっている。 これはゲームのキャラクターなんだけど
「天津神 オモイカネ」と書いてない? >>928
輕軍到襄陽。聞先主已過,曹公將精騎五千急追之,一日一夜行三百餘里,及於當陽之長坂「先主傳」
は、外縁部間距離ではない 説以前にザラコクってマジもんで頭の病気だろ、サイコパスすぎる。 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1515198119/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>760
>>長里時代の漢代の記録<
>これは仮説<
いや、陳寿も、自分が実際に確認出来なかった事象に関しては、
古い文献記録資料の記載を転載する事は、幾らでもある。
それは、現在でも同じ。
>>出発点や到着点が、居住外縁部であれば、
135kmよりもはるかに短くなってしまう事<
>曹操が到着したのは劉表の死後劉jが受け継いだ襄陽城で居住外縁部ではない<
城の場合も原則は、城郭の外縁部の門。
また、今問題にしたのは、襄陽の到着地点ではなく、5千の騎馬の出発地点の問題。
>鋭の騎馬でも300里を一日一夜かかるのだから<
それがダメだ、と言っている。
一日一夜で300里だ、とは書いていない。
一日一夜行の事があった、というだけの記載。
だから、何日かの内の一日は、夜も走った、という事もあった、というだけの
>歩行で一日200里は到底無理<
未整備な荒れ地では、長里では全く無理。短里なら、極めて妥当。 >>762
大和説の欠陥は、
何もデータなしに、データがあってもそれを、否定したり曲解したり捏造したりして、
主観だけで「無理」とか、
断定するところ。 >>764
>騎兵の昼夜300里は董卓軍が都の変事に駆けつける個所でも出てくるから、
戦闘前提で急行軍するときの常識だったんだろう<
そうであったとすれば、
これも、漢代の記録ね。 >>765
>人間もアスリートレベルなら日に200里(約87km)行けそうだな<
未整備な悪路では、夜は、更に殆ど無理。 >>767
>だいたい参勤交代で一泊二日の距離だ
自慢話なら「俺なら一日だ。他の奴には真似できねえが」 くらい吹くさ<
自分で一回やってみな。
未整備は悪路や山道では、草ぼうぼうであり、進めるものではない。 >>770
実証による反論が見えてないこの大和説男が、
一番ダメ人間。 >>933
>城郭の外縁部の門。
襄陽城があるのは現在の襄陽市襄陽区
>何日かの内の一日は、夜も走った
一日一夜は一昼夜、135kmを数日かけたら急追ではない
>未整備な荒れ地では、長里では全く無理。
自慢話だから未整備に限定できない
古田里の日に約15kmくらいだったら軍隊より遅め 先に襄陽を発った劉備たちと荊州の民は「日行十餘里」
いくらなんでも古田里の日に約765m余りは遅すぎる >>776
大和説信者の異常性をいかんなく発揮してるな。 >>778
>>また、「会稽東治」は、
以前から会稽の中心とされてきた場所の東の支配地域の事。<
>支配地域って、どこよ? なんで地名が言えないの?<
陳寿が地名を書いていないから。
>なんで「東治」が 東の支配地域 なんていう意味なの? 妄想捏造もたいがいにしろ<
陳寿が、会稽の東の治、と書いたから。 >>782
大和説が狂っていたのは、昔からだよw。 >>783
いや、大和説者は、元から狂っていただろう。
発狂の度合いが酷くなったというべき。 >>943
>陳寿が、会稽の東の治、と書いたから。
陳寿が会稽の東の治と書いたって
「東治」が 東の支配地域
なんていう意味にはならない
文字の意味を捏造するな >>786
反論を受けている という事実すら 目をそむけて 無視してる、
あわれな大和説。
あほや。 >>789
大和説者には、
ウソでもなんでも全て自分の都合がいいように解釈して、
それが事実だと思い込む病気があるんやで。 >>938
未整備は悪路や山道だと決めつける理由は? >>943
>陳寿が地名を書いていないから
書いているぞ、東治と。
今の福州だ。 >>794
>陳寿が誇張や解釈を加えてないと、なぜ勝手に断定するのか?<
断定しない。
陳寿にも判断ミスがある。
しかし、陳寿は、記録を出来るだけ転写してそれに対する意見を書いているが、
後漢書や現代大和説者は、思想宗教的な結論先にありきに拠って、
始めから記録を否定したり曲解捏造しているから、✖。
これが大和説ごっこが、
学問ではなく信仰だと言われる由縁。 >>797
敗北大和説者は、こんな悪口しか言えない。 >>953
>後漢書や現代大和説者は、思想宗教的な結論先にありきに拠って、
>始めから記録を否定したり曲解捏造しているから、✖。
それ、なんか証拠でもあるの?
??? >>804
>>だから、「会稽東治」と書かれ、会稽の東の支配地域、という説明になった。<
>なんで「会稽東治之東」なんて書いたの? なんで「会稽之東」と書かなかったの?<
会稽だけでは、南になり過ぎて、真東に女王國や倭地がある、とは言い難かったから、
少し北になる上海方面から東方だ、とした方が適切だろう、と思ったから。 何も考えずに鸚鵡返ししてるだけだから
たまに九州説を大和説に書き換えるの忘れてる >>957
>少し北になる上海方面から東方だ、とした方が適切だろう、と思ったから。
あり得ないね
そこは呉郡で、会稽じゃないから
>>805
>>「会稽東治」と書かれ、会稽の東の支配地域、という説明になった。<
>なんで「会稽東治」が 「会稽の東の支配地域」 だなんて意味だと言い張るんだ?
理由でもあるのか? ???<
会稽だけでよければ、「東治」を書く必要がない。
陳寿は、女王國や倭地は、会稽の東の地域の東方だ、とした方が、
より読者に判りやすいだろう、と思ったから。 >>812
>岩波文庫本には、写真版を二十四史百衲本から載せたという記載がない。
わたしの角川文庫本には、二十四史百衲本から載せたという記載が最後にある。
しかし二十四史百衲本から、載せるべきではなかった。
せっかく東京に宮内庁書陵部蔵という立派な本があるのだから、
それから載せるという本来の姿を取るべきだった。
二十四史百衲本の名前に押されたと言うべきか、ただ信用していた。
それを編集した張元済さんは非常に尊敬している学者ですが、そこまで目が及ばなかった。古田武彦
お前が言ってる二種類とはこのことじゃないのか? <
違うみたいだなあ。
張元済の本と書陵部のものとが違う、という方の話のようだ、
>内庁書陵部に二種類あったようなことは古田は言ってないんだが<
古田さんが、第1書でので王朗の「東冶」の記載を、どっちの本から採られたのか、
という事が問題だ。 倭人伝だと邪馬台国は暖かい海洋民族の影響のめちゃめちゃ強い国だよな
大阪は海没していて奈良はもうちっと海に近かったんだとしても
畿内説は違和感ある
吉備も出雲も出て来ない
倭人伝読んだ限りだと九州にしか思えない
そのへん畿内説論者はどう思ってんの? 九州以外にもいろんな勢力が盛んだったけど
邪馬台国自体は九州で神武東征や国譲り語られる勢力拡張で
大和王権ができたじゃいけないの
大和の旧勢力は東京みたいなもんで結局は日本の首都だからいいやん >>813
>>太公望の地を特定したら、デタラメになるから、
始めから「江南付近」と言ってある。<
>太公望の地が、なんでを「江南付近」なんだ?<
太公望の地の名前を憶えていなかったから。 >>816
>>それ以前や当時の、会稽郡の東の支配地であった地域。<
>それ以前や当時の会稽郡の東の支配地って 具体的にどこのことだ?<
おそらく、分郡に拠って会稽郡から別れた呉郡地域。
>なんで「会稽東治」が 会稽郡の東の支配地 なんて意味になるんだ?<
ついさっき、誰かに説明済み。 >>817
相変わらず、何も証拠を出さずに,
質問ばかりして、その返事の言葉尻を切りてって曲解断定して、
それで誹謗しようと、質問を言い張り続ける大和説者。 >>818
>>安本は、反九州王朝の皇国史観の東遷説であるから、
親大和説者であり、大和説の一派。<
>なんで 反九州王朝の皇国史観の東遷説だと 大和説の一派になるんだ?<
東遷説は、大和説の一派。 >>820
こんなふうに、
自分の説に都合のいい言葉の意味や過去の出来事を、
根拠もなく勝手に作ってしまう。
それが、大和説 だな。 >>821
>そもそも呉書は「短里」は使ってないってのが 古田の主張じゃなかったの? ???<
いや、
古田さんは、混在説。 >>824
>15キロ歩くのが精一杯の人間が でも方位だけは正確に知ってますとかあるのかね?<
関係がないから、
あるね。 >>965
大和が天下を取る前に、九州北部が天下を取っていた時期があり、邪馬台国ほその頃の話なんだよ。 >>921
>>>915
>邇邇芸が、いつ筑紫の日向に向かった?
畿内説は妄想を巡らせるだけでなく、少しは文献を読んでくれ。
それが正しいかどうかはその後で判断しろよ。 >>972
15キロを歩くより1000メートルの山を登る方が大変だぞ
それより遥かに高く険しく迷いやすい山を幾つも上り下りして確認しなければならない
街道で歩数を数えるだけですむ距離を測る方が遥かに簡単だ >>963
>古田さんが、第1書でので王朗の「東冶」の記載を、どっちの本から採られたのか、
>という事が問題だ。
その箇所引用してみて 文身は九州北部の習慣だった。
それを魏の使いが見て記録した。
畿内にあろうがなかろうが、伊都に滞在した使いにはあずかり知らぬこと。 そもそも畿内には文身の証拠はあるの?
微妙に本州と言い換えているみたいだけど。 >>977
それ、なにか根拠があって言ってるのか? >>971
なんで同じ国で単位の混在なんて有りうるんだ?
度量衡の統一は国家の象徴じゃないの? >>967
いつ、どこで誰になんと説明したんだ?
隠して誤魔化さずに
ちゃんと理由を明らかにしろよ
九州説は誤魔化しばかりだ >>980
古事記より
故爾に天津日子番能邇邇芸命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、
伊都能知和岐知和岐弖、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、
竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき。 >>965
>>太公望の地が、なんで「江南付近」なんだ?
>太公望の地の名前を憶えていなかったから。
なんで覚えていないと江南付近になるんだ?
??? >>989
それなら>>30だな
>◆FAQ 24
>Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
>
>A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
> 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
> 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
> 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
>
> このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
以上 畿内じゃないじゃん。
記紀のイスケヨリヒメのエピソードからは、むしろ畿内には文身がなかったことがうかがえる。 【筑紫の日向】
そもそも筑紫とは、博多湾を望む高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったらしい。
それが拡大して博多湾沿岸から有明海沿岸や遠賀川沿岸まで含めるようになった。
こうして成立した倭国は、筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であった。
福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の筑紫日向なら朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。
伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、その中に高祖宮がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の伊都が倭国の王都であり、天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の都である。 >>995
東海と吉備が二大中心地なら、当然その人たちは纏向に来てる このスレッドは1000を超えました。
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