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邪馬台国畿内説 Part315
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0001◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:23:42.57
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1516141607/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
 
0002◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:24:45.64
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:25:16.69
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:25:44.30
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:26:16.26
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:26:44.22
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
 
0007日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 02:26:56.73
Q&Aって必死杉でワロタ\(^o^)/畿内説
0008◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:27:05.21
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
0009◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:27:27.83
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
0010◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:27:48.62
◆6−3
 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0011◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:28:31.56
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
 
0012◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2018/01/19(金) 02:28:52.43
◆7−2
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0013◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2018/01/19(金) 02:29:12.41
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
 
0014◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2018/01/19(金) 02:29:30.19
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf


◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収

●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」

●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
0015◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2018/01/19(金) 02:29:49.01
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1    ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3    ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山                  
  IIA期ー 布留0古相      ー 河内庄内III   ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0016◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:30:10.32
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。

 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
0017◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:30:26.14
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
0018◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:30:52.89
◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々は倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向は洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)

※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0019◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:31:22.80
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0020◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:31:49.64
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0021◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:32:16.94
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0022◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:32:48.58
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0023◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2018/01/19(金) 02:33:19.38
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0024◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2018/01/19(金) 02:33:57.05
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
 
 
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
 
 
0025◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2018/01/19(金) 02:34:16.78
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
 万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
0026◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2018/01/19(金) 02:34:38.38
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
 
0027◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2018/01/19(金) 02:35:00.85
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。


◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!


A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
 
0028◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:35:28.77
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
  これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。

 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0029◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:36:00.55
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
  この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
 箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。

・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等
0030◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:36:21.94
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。


◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。
0031◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:36:51.90
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。

 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0032◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:37:12.42
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
0033◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:38:54.71
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
  弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
 
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
 
 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。
  
 
0034◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:39:30.22
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
 
 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
 
0035◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:39:54.33
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
 
0036◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:40:40.73
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。
 
 
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
 
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
  
 
0037◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:41:04.25
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0038◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:41:27.01
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
 
0039◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:41:51.62
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
 
0040◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:42:16.62
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0041◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:42:53.39
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
 
 
0042◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:43:17.53
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。
 
0043◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:43:54.92
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。

※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
 
0044◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:44:20.74
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0045◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:44:43.71
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
 
0046◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:45:29.26
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0047◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:45:53.67
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
 
0048◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:49:26.97
◆FAQ 46−1
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?
 
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。
 
 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯
 →櫛歯文が省略され圏帯のみ
 →圏線に退化
 →すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
0049◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:49:39.90
◆FAQ 46−2
 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
  
0050◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:49:59.31
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
0051◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:50:22.95
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
 
0052◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:50:55.06
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0053◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:51:14.22
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0054◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:51:31.63
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0055◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:51:49.29
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0056◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:52:07.85
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0057◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:52:25.34
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである.
が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。

居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0058◆UiepmfCeDJqf
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2018/01/19(金) 02:52:42.03
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0059◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2018/01/19(金) 02:52:59.55
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
0060◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2018/01/19(金) 02:53:21.18
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。


(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絕二千里。
(精絕國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通扜彌四百六十里。
(罽賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏秅國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與罽賓、北與撲挑、西與犂靬・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與罽賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)
0061◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2018/01/19(金) 02:53:38.99
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0062◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2018/01/19(金) 02:54:03.91
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏蟬県が温泉郡城峴里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「猗氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道猗氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0063◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2018/01/19(金) 02:54:23.11
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆なし
0064日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 03:42:49.50
>>63
>注意*前スレが終了してから書き込んでください。 <

よく言うよ奥村=>>1
過去 名無し投稿で自分でルール破りしてたのになWww
0065日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 07:19:02.19
>>1
テンプレを何処かにまとめてURL一行にするとかは出来ないのかね?
無駄だ
0066日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 07:58:07.57
テンプレの無理くりなところをまとめて、テンプレの後に貼り付けるね。
0067日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 08:39:28.12
魏略(太宰府天満宮の国宝 翰苑(かんえん)から抜き書き)
【倭在帯方 東南大海中 依山島為国 度海千里 復有国 皆倭種】
 倭は帯方東南の大海中に在り、山島に依って国を為している。
 海千里を渡るとまた国があり、みな倭種である。
【従帯方至倭 循海岸水行 歴韓国 到拘邪韓国 七千余里】
 帯方より倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を経由して
 拘邪韓国に到る。七千余里
【始度一海 千余里 至對馬国 其大官卑狗 副曰卑奴 無良田 南北市糴】
 始めて一海を渡る。千余里。対馬国に至る。その大官は卑狗で、
 副いわく卑奴。良田なく、南北で交易して穀物を買い入れている。
【南度海 至一支国 置官 至對(馬)同 地方三百里】
 南また海を渡り、一支国に至る。官を置く、対馬と同じ。
 地は三百里四方
【又度海 千余里 至末盧国 人善捕魚 能浮没水 取之】
 また海を渡る。千余里。末盧国に至る。人は魚捕りが上手く、
 水に浮き沈みすることができるので、これを取る。
【東南五百里 到伊都国 戸万余】
 東南五百里で、伊都国に到る。万余りの戸数がある。
【置 曰 爾支 副曰 洩渓觚 柄渠觚 其国王皆属王女】
(滑ッを)置く。いb椚爾支といい=A副いわく洩渓跏W・柄渠觚といb、。
 その国王はみな女王に属す。
【自帯方 至女国 万二千余里】
 帯方から女王国に至るには、一万二千余里である。
【女王之南 又有狗奴国 以男子為王 其官曰 拘右智卑狗 不属女王】
 女王国の南にまた狗奴国があり、男子をもって王としている。
 その官いわくコウチヒコといい、女王には属さない。
0069日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 10:13:57.99
全は一 一は全
0070日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 10:21:01.37
畿内説は万全だからな
0071日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 10:21:48.74
>>66は実力的に無理筋
0072日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 10:34:18.34
「無理くり」←関西人、こういう場で使うのはだいたい大阪人
0073日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 10:36:05.30
「俺様の説と違う」
というクレームのつか方しか知らない九州説の面々には
ちと荷が重いネ
0074日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 10:40:38.64
>>72
何が「無理くり」なのかすら
口に出せないようじゃ
な・・
0075日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 10:43:32.23
キチ>>1晒し上げ
0076日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 10:43:39.24
前にもテンプレの後にアンチ感想文コピペしたことあったと思う
その後偽スレが乱立した
0078日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 10:59:40.59
学者のいなくなった九州説はある意味
開発の終わったソフトと同じだな
0079日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 11:01:55.51
無理くりって標準語じゃないのかな。
>>73
うちは固定された結論なんてもってないよ。
現状ある説なんて、ほんのちょっとの情報から壮大な仮説を立てただけだよって言ってるの。
どう頑張っても、まだまだ結論は早い早い。
もっと進んで、揺るがぬとこまで行って証拠だして決定してもらいたいんだよ。

>>74
ほとんどの仮説が情報不足で無理くりだよ。
邪馬台国や大和朝廷の成り立ちで他説の余地がない説なんて一つもないよ。
あったら出してみて。
0081日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 11:06:54.23
死ぬ前に結論がみたいけど、今みたいな決めつけでグダグダやってちゃ研究が遅れるよ。
仮説から飛躍して結論のように言うのはやめて、そんな暇あったら研究進めちゃってよ。
案外、今学会で権力の座にいる年寄が先の短さにあせって無理くり結論にもってこうとしてるのでは?
と疑いたくなるよ。
0082日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 11:08:08.38
標準語では無理やり、かな。
0083日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 11:13:10.09
>無理くりって標準語じゃないのかな。

最初に大阪に来たんだろうw
0084日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 11:13:58.00
なんも反論できんけど文句は言いたい
という情けなくもセコい心情
理解できなくもない

しかし、みっともない
0085日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 11:22:30.18
>>84
反論は専門家に任せるよ。
可能性の話を断定してるの見かけたら、違うケースもあるかもよって断定の間違いに気付いてもらうよ。
そんなことできないほどの根拠や証拠をずーっとまってるよ。
まだまだそんな状況じゃない。
速いよ速いよ。
結果がどうじゃないといけないとかもないよ。

ただどうも学閥とかの問題で今の年寄の権力者が死に絶えないと
新たな段階へ進まないのかなーとも思うよ。
結論急ぎすぎて研究が停滞とか残念。

ローマ時代の地動説が馬鹿宗教の影響で天動説にもどったみたいになってるかも。
こういうロマンの世界に、学閥だの個人の名誉など持ち込まないでよしいよ。
実際どうかなんて、知らんけどね。笑
0086日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 11:25:36.90
これも一種の思考停止だな

w
0087日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 11:27:50.97
ヤマト=邪馬台国
で思考停止している畿内説が何を言うやら
0088日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 11:28:14.11
>>85
>可能性の話を断定してるの見かけたら、違うケースもあるかもよって断定の間違いに気付いてもらうよ。

それすらやってない現実が、九州節の敗北を物語る
0089日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 11:28:50.21
>>87
したという証拠は?
0090日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 11:32:36.28
数年前の、とあるスレ(他の邪馬台国スレ)

なんで倭が和になるんだよw
という謎のレスがあった
0091日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 11:37:40.00
>>557
>前方後円墳の炭素14測定による造営年代の推定
初期のもので3世紀中ごろと出ていて<

炭素14測定は、
プラズマ化をしてしまって、原子核の結合状態を不安定にしてしまっており、
原子核崩壊を促進してしまっている可能性が高く、
50〜100年位古い計測になってしまている可能性があるから、
絶対年代の根拠にはならない。

>これは 邪馬台国の時代に畿内に大きな権力があった事を示す<

邪馬台国なんて存在しないし、「南≠東」だから、×。
0093日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 11:45:17.53
>>560
>しっくりするのはなるべく平和的に大乱を治めて東に向かい畿内に落ち着いたって流れかな。<

「南≠東」だから、×。
0094日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 11:49:16.18
>>564
>うちは最近では、先ほど出た倭国大乱を治めつつ
東に向かって畿内に落ち着いたがいい線いってんじゃないかなって楽しんでるよ。 <

「南≠東」であるし、
「大和は、白村江の後まで、倭國の別種の旧小国」であったから、×。
0096日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 11:52:21.99
>>67
【置 曰 爾支 副曰 洩渓觚 柄渠觚 其国王皆属王女】
(滑ッを)置く。いb椚爾支といい=A副いわく洩渓跏W・柄渠觚といb、。
 ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
(官を)置く。いわく爾支といい、副いわく洩渓觚・柄渠觚という。
0097日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 11:58:08.12
>>95
その構図がすでに、畿内説にまだ確証がないことを認めてるんだよ。
誰もが納得の証拠付き結論が出るまでは、畿内説も他の全ても仮説の一つだよ。
0098日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 12:03:09.78
せめて傍国の21カ国だったか、それらの国に瀬戸内海沿岸の国々で
確定できればいいのだが。
鬼国とか紀の国かもしれないし。
0099日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 12:08:13.14
傍国で特定できているのは、斯馬島(糸島半島の元あった島)と、屋久島が
なんとかやっと。他は全て怪し気な推測だけ。
0100日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 12:11:57.31
>>99
屋久島は、西南海行一日という記述が
翰苑にあるからだが
(西南海行一日有伊那分國)
島原半島や天草かもしれない。
0101日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 12:23:45.92
>>97
98点も0点も満点でないから同じ
というようなもの

ようするにインチキ
0103日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 12:46:17.04
>>102
どこが?
0104日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 13:23:13.01
>>102
そう言う言い方しないの。
現状有力な仮説の一つだよ。
仮説から断定にぶっ飛ぶのはおかしいけど、仮説インチキとか言ってたら研究進まないよ。
仮説を裏付ける作業が断定にまるで足りてないだけ。
0105日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 13:31:34.68
こいつサイキバだろ
0106日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 13:38:54.37
仮説をさも確定したことのように言い張るのはインチキ。
0107日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 13:59:26.11
そういや記紀の九州の扱いを見ると面白いことが見えてくるな

記紀では常に「宮崎>北部九州」で北部九州は降伏して来た外国由来の人間と言う扱い
仁徳天皇の妃も日向から来ている

北部九州は一大卒が監視して支配してた属国で大王家とは無縁と言う立場がそのまま継承されてるのが分かるな
少しも敬意を払う様子がない
0108日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 14:02:26.49
>>106
そんなことした証拠は?
0109日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 14:17:03.78
>>108

>>1
> 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
> それは桜井市纒向以外にありえない。
0110日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 14:38:34.53
この宮崎優先の姿勢は考古学的な発見とも合致するな

大王家と縁があるのは東部や東南部の勢力
古い大型古墳があるのもこの辺り
北部九州はあくまでも外国系の外様
0111日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 14:45:30.44
その九州北部のことしか魏志倭人伝に出てこないのだから、宮崎と本州、四国は邪馬台国と関係ない地域。
0112日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 15:00:25.76
魏志倭人伝に出てくる北部九州は一大卒に監視されて怯える属国だな
本国の邪馬台国に従う下位の国

まぁ北部九州はどう読んでも邪馬台国なんて存在しようがないと言う証拠だな
0113日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 15:09:41.05
宮崎は重要と言っても属国の北部九州よりは上と言うだけで通り道でもないから特記してない
さらに不弥国から先の畿内に従う東部の国からは「女王国」となるわけだ

まさに倭人伝の記述通り考古学的見地とも合致する正確な記述だな
0114日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 15:10:02.57
古墳時代の列島は装飾古墳のタイプによって大まかに地域を分けることができる。
彩色古墳が多く見られる地域と線刻古墳の地域。
畿内は線刻の地域(南九州系)に属しているということ
0116日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 15:25:01.10
>>565
>魏志倭人伝に卑弥呼の墓は径百歩(140m)とか
7万戸もある大きな都市と書いてある<

魏使らの記録の「自郡至女王國萬二千餘里」と、
陳寿の地の文の「計其道里、當在會稽東治之東」に拠って、
魏使らも陳寿も、一寸千里に拠る「短里」(1里≒76.5m)を使った事が確実であり、
1里=300歩は変わっていないから、割り算して、1歩≒25.5cmになり、
「百余歩=25.5m余り」になり、
祇園山はOKだが、箸墓は×。
0117日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 15:27:52.22
日中の史書両方から
そして考古学的な発見からも

「北部九州は畿内の大王家に降伏し監視される外様」

と言う姿がハッキリと分かるな
倭人伝も記紀も正確な書物だな
0118日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 15:32:17.38
>>116
成程。1里というのは300歩ということであったのか。短里から計算して確かめた。確かに100歩は25.5mであった。貴重な情報を有難う。
0119日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 15:36:13.70
>>568
>魏との交流の印がはっきりしてるのは景初三年(238年)記名の 三角縁神獣鏡
魏志倭人伝にも書いてある通り魏との正式な国交はそこからスタート<

明帝の下賜鏡百枚の詔書は、景初二年(238年)12月だから、
景初三年(239年)記名の 三角縁神獣鏡は、明帝の下賜鏡ではなく、
洛陽から、三角縁神獣鏡が殆ど出土しないから、その点でも明帝の鏡ではなく、
更に、列島最古の三角縁神獣鏡は、筑紫に集中していて、
大和では4世紀以後になるから、
三角縁神獣鏡は、大和説の根拠にならない。
0120日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 15:43:24.66
>>572
>平原遺跡と魏志倭人伝の女王が一致すればいいのだけど、 その証拠がないんだよなあ。<

21枚の「尚方作」鏡が出土し、
「尚方作」鏡は、皇帝の工房で造られた事を示すから、
明帝の下賜鏡が元になった事が確実であり、
卑弥呼か壹與の墓でしか有り得ない。
0121日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 15:45:26.85
>>573
>いいや畿内で決まりだね 邪馬台国=大和国 <

いいや、九州で決まりであり、
「邪馬台国」という文言は史料に存在しないから、それも×。
0122日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 15:46:47.80
日中双方の史書が筑紫を王都であったと記載している。
また、確実な弥生時代の王墓が筑紫にしかない。
0123日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 15:48:09.92
>>575
>機内は色々証拠がそろってる 邪馬台国は畿内<

大和は、全く証拠がない。
邪馬壹國女王之所都は、筑紫で決まり。
0124日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 15:48:10.92
>>118
里が短いから歩も短いのだな。
平原遺跡も2号墓を合わせると合致するようだ。
0125日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 15:49:43.30
>>114
その九州北部のことしか魏志倭人伝に出てこないのだから、宮崎と本州、四国は邪馬台国と関係ない地域。
0126日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 15:57:57.34
西日本を九州北部と宮崎〜関西のブロックに分けるなら、魏志倭人伝に出てくる邪馬台国は九州北部のブロック。
宮崎は投馬国。
邪馬台国から東に海を渡ったところにも倭人がいると書いてあり、それが本州。
0127日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:04:28.60
古代の九州北部のブロックは韓濊倭の雑居地域だろ
0128日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:07:41.10
>>581
>畿内の証拠 前方後円墳<

武帝の晋に「天円地方」思想を教わり、モンゴル〜高句麗の前方後円墳を学んだ筑紫の、
那珂八幡や津古生掛や原口が始まりであり、
大和は、その模倣や「セレモニーの進化拡大」をしているから、後。

>三角縁神獣鏡<

洛陽からは全くのように出土しないから、明帝の下賜鏡ではなく、
列島でも古い三角縁は、筑紫に集中しており、
大和は、4世紀以後であり、×。

>大和という地名<

「邪馬壹國」は、「大和」ではないから×。

>逆に九州でない証拠
北部の大きい所は伊都国、奴国と魏志倭人伝に記されている
中部、南部に邪馬台国に相当しそうな大きな遺跡がない <

邪馬壹國は筑紫であり、弥生銀座の首都圏遺跡がある。
中部の狗奴國も遺跡がたっぷり。
南部の宮崎鹿児島も古墳や上野原などがある。
0129日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:07:41.98
韓伝と濊伝は倭人伝とは別に書いてある。
狗邪韓国から九州北部までが魏の使いが訪れた邪馬台国。

わざと突っ込んで欲しくて書いているだろw
0130日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:08:39.14
九州説のバカっていつまでも「倭が日本に滅ぼされたんだー」とか「筑紫城ってかいてあるー」とか恥ずかしいこと平気で言い続けるよな

こいつらマジで唐書なんて読んだこともないでバカサイトの受け売りしてるんだろうな

見ててあまりの哀れさに可哀そうになってくる
0131日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:09:15.06
>>128
>邪馬壹國は筑紫であり、弥生銀座の首都圏遺跡がある。

その通りだが、

>中部の狗奴國も遺跡がたっぷり。
>南部の宮崎鹿児島も古墳や上野原などがある。

狗奴国は熊本、投馬国が宮崎で、いちおう別になっている。
0132日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:10:12.74
>>582
>出雲武装解除とか見ても鉄の武器って圧倒的だったんじゃないかな。
九州から早くに飛び出て畿内まで進んだ勢力もその差があったから比較的平和的に畿内の権力を九州勢に渡したのではないかな。
そして、大和朝廷となる力を持った。 土器コレクターの話よりわかりやすいよ。<

大和が朝廷になってのは、8世紀からであるから、×。
0133日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:10:24.91
倭人伝のどこどう読んだらこの異常者達は北部九州に邪馬台国があるとか妄想できるんだろうなぁ

あれだな
九州説って脳の障害として認定して治療受けられるようにしてやった方が良いな
0135日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:14:44.09
>>585
>でも九州にはない <

前方後円墳も三角縁も筑紫が早いし、
筑紫には弥生銀座という巨大首都圏がある。
0136日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:16:29.98
>>116 25mほどの円墳ならたくさんあるね。
できるだけなるべく古い時期のもので、その割りには
大型のものを探せばいいわけだ。
0137日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:17:05.73
>>589
>なら逆に何をもってすれば邪馬台国の証拠となるのか <

21枚の「尚方作」鏡。
0138日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:19:52.00
>>119
ひょっとして、魏からもらった鏡を
粘土に押し付けて型取りして、それに
銅を流し込んで国内で複製したのかな?

もしそうであるなら、同じ型からと思われるものが
多数あるはず。
0139日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:20:27.12
>>590
>径百歩(140m)の墓 偶然にも端墓古墳がほぼ同じ大きさ <

魏使らも陳寿も「短里」(1里≒76.5m)を使っており、
だから、百余歩は、25.5m位であり、
箸墓は×。
0141日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:21:42.73
三角縁神獣鏡の同型鏡を分析すると鏡径に大小があり、小さくなるほど文様が不鮮明になる。
これは母鏡から鋳型を作りできた子鏡をまた同じように鋳型にとって順次コピーしていったとみられる。
踏み返しされた三角縁神獣鏡の母鏡とみられるもっとも大きな径となるものが出土した古墳をみると、北九州と吉備に片寄っていることがわかる。
これは三角縁神獣鏡の流通の起点が畿内ではないことを示しており、たとえ下賜と仮定しても
北九州から畿内にもたらされた蓋然性が高く畿内説にとって非常に不利な結果となっている。

母鏡の出土例
>藤崎方形周溝墓
>天神森古墳
>原口古墳
>名島古墳
>香椎ヶ丘古墳

>以上福岡

>湯迫車塚古墳 岡山
>赤塚古墳 大分
>造山1号噴 島根
>椿井大塚山古墳 奈良
0142日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:22:29.07
>>593
>誇張でしょ。<

6杯位も誇張して書いてバレれば、首が危ない。
0143日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:27:31.41
>>294
>ホケノ山 大塚山<

ホケノは、布留があるから、3世紀最末〜4世紀以後。
「有槨」ある事からも同じ。
0144日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:29:48.77
>>595
>里が5倍誇張していたのだから、歩も5倍誇張していたかも。<

魏使らも陳寿も6倍誇張していなかったから、歩も6倍していなかった。
0145日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:30:53.22
三角縁神獣鏡が国産でも別に何にも困らないんだが

何故か「国産=畿内説が困る」とか思い込んでる馬鹿が多くて面白いな

畿内政権の明確な意図と秩序の構築の証として配ってるのが明確になるだけ
「九州もそれをありがたく押し頂いている」しなw
九州説が卑弥呼だ卑弥呼だ大騒ぎしてる祇園山からも出てるよなぁ・・・一枚だけ
流石は属国
忠実なことだ

あと紀年鏡は別に三角縁じゃなくてもあるんだがな
0146日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:31:26.22
誇張と言うよりは、当時の東夷においてはそもそもそう言う単位であったと言うことだな。
0147日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:33:48.13
>>145
秩序と言うなら、内行花文鏡が至高、次いで方格規距鏡。
三角縁はずっと下。
そして最大の内行花文鏡があるのは福岡。
0148日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:42:16.34
>>596
>時代は3世紀中ごろと科学的に判定<

年輪も、欧米の大平原林とは違って、局所の気候地域差の多い列島では、
不確定要素が多過ぎて論拠にならず、
AMSも、プラズマ化という失敗をしているから、50〜100年位古く出てしまって×。

>景初と魏の年号が入っている<

明帝の下賜鏡の詔書は景初二年12月だから、景初三年鏡は、明帝の鏡ではなく、×。

>ついでに洛陽でも1枚出土 <

列島では500枚以上の出土があるのに、1枚出土では×。

>大和という地名で<

「邪馬台国」なんて文言は史料に存在しないから、×。

>でかい遺跡があるのは畿内だけ<

列島の前方後円墳は、那珂八幡や津古生掛や原口がある筑紫が早く、
それを模倣し、セレモニーが進化拡大した布留の箸墓は、4世紀以後。

以上
0149日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:43:44.81
最後のやたら長い水行陸行が全移動距離を表してたら、完全に九州だよね。
記録の捉え方を、無理くりに解釈することもないんだよね。
さらに記紀とも隋書とも違和感がなくなる。
九州の強みはそう言う不自然なく記録と合致するところだよ。
九州の考古学者は、あとはそれを裏付ける遺跡遺物を掘り出すだけだね。
それができてないから、仮説段階の畿内説に気の早い断定をされてるんよ。
平原であんなに埋葬品が立派だったとか知らなかったから案外あれが当たりだったりするのかもしれないけど、この時代文字が無いことが本当に痛いね。
宮内庁が全部掘り返していいよーってしてくれればいいのにね。
0150日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:44:33.97
>>147
分かってないみたいだな

三角縁を配ってると言うことは、過去九州の鏡システムとはもう別もんなんだよ
九州に500年間無かった新秩序を構築してるのが畿内なんだよ

それ以前の鏡なんてもう関係ない
どこにも何にも影響を及ぼせてない、その時代で打ち止めのローカル個人墓なんて持ち出すだけ恥
0151日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:47:12.82
>>145
九州勢が畿内に移り住んだら、全部持って行って一枚だけ、地元に残すお偉いさんに権威のシンボルとして持たせといたとか、考えられるよ。
量産できる時点で三角縁の方は案外低いのかもよ。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:47:22.56
>>150
筑紫から全国に内行花文鏡が配られているし、畿内でも三角縁より丁重に扱われている。
そもそも銅鏡文化そのものが九州北部を中心とする文化だよ。
0153日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:50:05.14
つまり三角縁を用いてると言うことは畿内は九州の鏡の秩序を継承してないってことなんだよ
両者に連続性を見いだせない証拠
三角縁という九州と全く別物の鏡を用いて独自の体制であることを示している

「鏡があるから東遷だー」とか
「大きい鏡があったから九州だー」とか

九州説がなにも理解してない事がよくわかる
九州の古い鏡配布のシステムは既に弥生時代で断絶してると言う証
つまりそこに主体なんて存在しないと言うわけだ
0154日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:50:16.92
>>151
いや、そもそも、枚数でも九州筑紫の平原遺跡が四十枚に達しているわけで。
しかもそのうち5枚は他に類がない史上最大の内行花文鏡。
0155日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:51:18.51
弥生銀座(春日)は朝鮮工人の移住地
0156日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:51:52.51
>>153
三角縁と同時に内行花文鏡も出土して、しかも三角縁より丁重に扱われているんだけど。
3世紀以降に、伊都を頂点とする内行花文鏡文化が波及しているよ。
0157日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:52:34.08
>>150
その新システムを作ったのが九州から移り住んだ高い大陸の技術を持った人たちかもね。
畿内で突然技術とシステムの革命が起こったと考えるよりはるかに自然だね。
そして九州が独自だったり畿内と違ってたとしても、そんなの自分たちの発祥地なんだから大切にするのと尊重するので自治権持ってたとしても不思議で無いね。
そもそも畿内から九州を統治するには遠すぎるしね。
畿内の文化レベルの成長は知識と技術を持った九州からの人の流入かもよ。
記紀ともあうよ。
0158日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:52:34.65
>>152
理解できてないみたいだな

鏡の配布という見た目は同じだが、畿内は九州で全く存在してない新しい方式を構築してんだよ
九州説が「三角縁なんて九州と関係ない!」と喚いてる通りだよw

まさに関係ない新しいシステムなんだよ
それこそが九州の鏡配布のシステムは弥生時代でもう断絶してる証拠なんだよ
間抜け
0160日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:54:08.48
平原特大鏡みたいなのは北部九州には拡がっていない
0161日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:55:21.03
>>159

肥国だよ
0162日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:55:54.00
>>156>>157
何度も同じこと言わせんな

「鏡の配布」という見た目が同じなだけ
九州に全く存在しない三角縁を「意図的に選んで」「新しいシステムを構築してる」んだよ

内行花文鏡を上位に見る形はそのままでも九州の鏡の方針と全く変わってんだよ
明確な断絶の証
三角縁と言う新しい鏡を用いてそれを示してるんだよ
0163日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:56:01.28
>>158
わかってないな。
三角縁は量産品。
畿内でもより大事にされていたのは内行花文鏡。
システムの抜本的な変革ではないんだよね。
0165日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:57:14.83
>>602
>もう畿内って鉦鼓は山ほど出てるんだがな <

そりゃ、近畿は、筑紫倭國の東征以前は、鉦鼓の銅鐸地域であったんだから。
0167日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:58:18.18
>>158
畿内に九州の人が移り住んだ後に、新しい土地だからこそ、権威の象徴、与える宝物として三角縁を量産する必要があったと見ると自然だよ。
断行じゃなく発祥地であり遠すぎることもあり九州は自治の状態にあったと見ると自然だよ。
畿内でいきなり文化と技術が急上昇したってのは、人の流入なしでは、無理くりすぎるよ。
0168日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:59:57.13
>>160
と言うことは、発見された場所が本当に重要人物の墓ってことかな。
0169日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:00:05.13
内行花文鏡を九州から受け取り敬うのは変わっていないだろ。
0170日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:00:48.62
>>164

肥国は朝鮮半島渡来2世の擬無紋土器の産地
0171日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:01:06.10
あ-悪い
こっちへ答えは違ってた
>>157
そうだね
鏡作りについては九州の人間が一日の長があるからね
彼らの力を利用したと考えて別に差し支えないだろうな

ただあくまでも技術者や参考と言うだけで政権の主体でも何でもない事はちゃんと留意しておくべきだな
0172日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:01:48.55
>>168

皆興味がなかったんだよ
0174日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:02:29.04
>>159
今は大阪と滋賀かなー。
市か町の20%くらいが在日なところが滋賀にあるね。
しかも投票率は40%以下。
在日に選挙権与えたら、市の行政乗っ取られるね。
やだよー。
0175日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:03:14.97
>>169
そうだね
そこについて別に何の問題もない

従来の鏡配布は貴重な鏡を配る際に数が足りなくて破鏡や?製鏡を用いていた
三角縁はその部分をより鮮明に際立たせて独自性を明確にしてる点に特徴がある

ただ従来の貴重な鏡を上位とみることに変化はないが九州の鏡の主体やシステムとは明確な断絶を示している
0176日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:05:41.86
>>173
女性の装飾品、他にない鏡、初めて聞いたら決まりじゃんって思ってしまいそうなリーチかかってるけど、決定打が足りないのかな?
0177日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:07:47.93
>>166
受け取ってない
何を根拠に受け取ったと言ってるのか理解できない

内行花文鏡のような鏡を上位とみるシステムはそのままなだけ

そして「意図的に」「九州に全くない鏡を共に配ることによって」九州とは違うことを明確に示してる
九州の文化のそのままの東征だの東遷だの言うならそのままの物を用いるだけ

畿内は独自の?製鏡を弥生末期から作り続けている
その鏡の進化の上に独自のシステム構築が存在してる
弥生末期から既に九州の鏡配布と違う状況を表している
0178日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:09:53.36
>>175
破鏡の文化はさらに古い時代からあるよね。
日本製でない鏡で紀元前からなかったかな。
それこそ北部九州に集中してて初期には畿内なんて全く関係ないアイテムだよ。
漢とかさなら古い時代になると文化は九州がぶっちぎりに見えるよ。
やっぱ畿内のレベルが突然上がったのは、高い技術を持った勢力が移り住んだと考えるのが自然かもよ。
0179日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:11:00.73
>>167
>>171に書いた通り

捕捉するなら畿内は弥生時代の末期から独自の小型?製鏡を作りこれを配布するシステムを構築している
むしろこのころから既に独自性を見出せる

邪馬台国の三角縁配布は飛躍的ではあるがその延長線上にあるものと考えて差し支えない
いう通り九州の人間の協力なども当然得てるだろうと思う

ただしつこいようだがそれは技術的なもので政権の主体ではありえない
0180日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:13:18.00
>>175
畿内の前方後円墳でも内行花文鏡の破鏡を大事にしているだろ。
根本的には九州の鏡を大事にするスタンスに変化はない。
0181日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:14:10.38
>>177
その考えおかしいよ。
新天地で頑張って開拓開発するからこそ、特大鏡とか資源がもったいないから適度な三角縁にしたとか考えたら自然だよ。
独自でなく九州から来た技術屋が、さらにアレンジ加えただけかもよ。
断定は早すぎるし思考停止だよ。
0182日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:15:48.08
「かもよ」は岡上かw
0183日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:16:14.14
>>179
技術だけなら、大型の三角縁を作って重宝すれば良かっただろうが、実際には同時に出土する内行花文鏡を丁寧に扱っていた。
権力構造そのものが、九州を頂点としたままで、その分家、支店のような形で畿内が発展している。
0184日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:17:41.00
つまり三角縁神獣鏡は畿内中心の勢力が「九州と全く関係なく」「九州の主体を奪い取って」成立したシステムであると言うわけだ

この鏡の存在がそのまま畿内に全国的な、しかもかなり自覚的な政権が誕生したことを意味するわけだ
当然、3世紀末の九州もそこに組み込まれていると
0185日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:17:41.82
>>179
それを独自と捉えるのが不自然だよ。
破鏡にしても鏡にしてもそれらを与えるのは、さらに古い時代からあるよ。
効率よく三角縁量産したから配りやすくなった自然な流れだよ。
そこを独自と突っ張るから不自然だよ。
0186日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:19:18.24
そもそも本州で銅が取れるようになるのは和銅年間だろ。
それまでは九州の香春山で取れた銅を分けてもらっていたんだよ。
九州に歯向かえば、銅も朝鮮半島からの鉄も手に入らない。
0188日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:22:30.26
畿内の息の根を止めるのなんか、筑紫倭国にとっては容易だったろうね。
畿内が三角縁を量産できたのは、九州から内行花文鏡をありがたく頂いて祭り続けたからだよ。
0189日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:22:52.29
>>183
最初はそうかもしれないけど、途中で九州の主体が畿内に移ったかもよ。
卑弥呼は我の力を借りて倭国を治めた。
魏の力を知っていた。
魏が攻めてくれば苦戦は間違いない。
筑紫では防衛が難しい。
最近身内が移住して発展しつつあり防衛に適した内陸の土地に移動だ!
喧嘩もしたけど無事遷都できた。
よかったよかった。
卑弥呼か卑弥呼の次の代かは知らんけどそんな流れかもよ。
0190日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:23:08.68
>>185
独自で間違いない

鏡の配布を500年続けていた九州には全く存在しないシステムを「この時期にあえて」生み出している
上でも書いたが九州が主体となるものであるならこの形を変えることに何の意味もない
そもそも独自の小型?製鏡を持っていたのだからそれをやればいいだけ

あとついでに「古墳」と言うシステムの副葬品であることを忘れてはならない
これも九州に全く存在しなかったシステム

畿内は意図的に、自覚的に九州との違いを表している
九州は常に受け身
0191日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:23:11.02
3世紀に香春で銅は採ってないだろ
0192日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:23:59.31
>>606
>畿内説を否定する根拠にはならないな
三角縁が魏から伝わる前の墓だったんだろうし
そのころには古い漢鏡のフトックが枯渇してたとしてもおかしくはない <

平原に21枚の「尚方作」鏡だけではなく、大量で巨大な内行花文鏡も
明帝の詔書の鏡である事になり、
だから、平原にない三角縁神獣鏡は、明帝の鏡ではなかった、という事になる。
0193日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:24:03.71
銅鐸文化が消滅して、九州北部からの銅鏡文化に塗り替えられている点で、単なる技術導入では済まされないんだよ。
先祖代々の祭祀を放棄するわけだからね。
0194日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:25:29.50
>>189
>卑弥呼は我の力を借りて倭国を治めた。
>魏の力を知っていた。
>魏が攻めてくれば苦戦は間違いない。

魏とはただの交流ではない。
金印は倭王ではなく、親魏倭王だ。
日米のような同盟国なんだよ。
0195日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:25:38.78
>>188
出雲の武装解除したように見える出土した銅剣から考えても、当時九州に偏ってた鉄の武器は、争う気が無くなるくらい圧倒的だったのかもね。
東遷にしても遷都にしても、多少の争いがあっても比較的平和に統合したのかもね。
そもそもみんな親戚!みたいな状況だったかも。
0196日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:26:24.12
>>193
おバカさんは銅鐸の歴史を勉強してから話に参加しようね
歯医者さんのバカ本のタイトルでも読んで迷い込んできちゃったのかな?ぼくちゃん
0197日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:27:16.09
>>190
>あとついでに「古墳」と言うシステムの副葬品であることを忘れてはならない
>これも九州に全く存在しなかったシステム
>畿内は意図的に、自覚的に九州との違いを表している

田舎の風習みたいなもの。
でも内行花文鏡が最上位というルールは不変だった。
0198日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:28:12.60
>>608
>普通に多いし国内最古級で<

大和が最古級ではなく、筑紫が最古級。

>最大のものが集中している<

大和が最大ではない。
0199日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:28:57.96
>>194
流石にそれはアホな考えよ。
同盟してねもだまし討ちとか中国の伝統だよ。
中国に限らず同盟破りとか珍しくないよ。
0200日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:29:00.84
連弧文鏡なんかは匈奴の墓でも出るから
0201日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:29:23.54
>>195
違う、親戚ではない

一つ聞きたいことがあるんだけど、
代表のような人はいるの、家の長?

それとも勝手に名乗っているの?
犯罪にならない?
0202日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:29:44.11
>>195
東遷も遷都も同じだが、大陸や半島との交易に有利な筑紫を捨てる意味は全くない。
魏と友好関係が成立した卑弥呼の時代にはなおさら。
対馬海峡を渡る技術は倭にしかないしね。
0203日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:31:05.96
【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。

その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。

この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。

いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。
0204日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:31:34.71
祭祀の塗り替えと言うならまさに九州がそれを受けている

大型墳墓の祭祀など存在もしてなかった
埴輪のような土器祭祀も存在もしてなかった
三角縁神獣鏡など存在もしてなかった

九州と言う勢力が500年間の間全く持たなかった物が急激に浸透している
まさに邪馬台国の時代を境に「それまでの祭祀をすべて失う形で」一方的に受け入れている

九州が属国、または大王家に降伏した外様であると言う姿が如実に表れているのが分かる
0205日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:32:39.69
>>190
独自はむりくりだよ。
鏡配るのなんてさらに古い時代からあるよ。
むしろ畿内にもともとあったその小さい鏡がずっと配られてたら畿内独自だったろうけどね。
人の流入と権力者の入れ替わりがあったからこそ、新たな与えるものとして三角縁量産になったと考えると自然だよ。
0206日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:33:50.86
畿内では人間が木の股から生まれるのか?
九州経由で人間が流入するしかないんだよ。
そして、3世紀に列島で最も豊かで技術力があったのが九州北部。
0207日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:35:55.40
>>206

九州はどこ経由なのか?
0208日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:36:38.20
>>204
>大型墳墓の祭祀など存在もしてなかった
>埴輪のような土器祭祀も存在もしてなかった

卑弥呼より後の時代の話をしてどうする?
卑弥呼の墓には殉葬がされた。
畿内で殉葬の代わりに埴輪を作るのは、もっと後。
しかも埴輪には馬がいる。
邪馬台国には馬がいなかったとあるので、埴輪の文化は馬が輸入された4世紀以降だよ。
畿内説はいつも卑弥呼より後の時代のものを持ち出してさも証拠であるかのように説明する。
0209日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:37:36.07
>>201
その断言にまるで根拠がないよ。
さらに古い時代中国からの破鏡とかが権力の目印とかの時代に九州から旅立って開拓に出た集団がいても不思議じゃないよ。
稲作の進歩とともに新たな土地は欲しくなってくるだろうしね。
いざ九州勢がその開拓の道をなぞって古き時代に分かれた信頼とネットワークをもうようになっても不思議でないよ。
0211日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:38:05.50
>>201
後半の質問の意味がわからないよ。
0212日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:38:40.18
あとついでに言うなら

九州が主体だと言うのならそもそも古墳なんざ使う必要がない
埴輪なんぞもいらない
九州式の地下式の小規模な方形周溝墓でいいはず
そして三角縁なんて使うまでもなく今まで通りの独自?製鏡を使えばいいだけ

無かったもの、無かったもの、無かったものだらけ

しかも500年と言う九州が自覚的な勢力として確立してからまさにこの邪馬台国の時期になるまで
予兆さえもない

これを九州主体だとか言える脳みそが理解できない
0213日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:39:42.66
>>210

九州で呉の物は出てない
ほとんど朝鮮由来
0214日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:43:02.83
もっと言うなら九州は土器さえも変わってしまってる
畿内の土器に

生活も、宗教も、宝物も
何もかもが「邪馬台国の時代に畿内の方式の物に塗り替えられている」

「今まで無かった」
のオンパレード

一つなら言い訳もできるかも知らんが「ほぼ全部に渡ってなかった物にすり替わってる
これを見て「九州が主体でした」「畿内の独自性はありません」とか頭どうかしてんじゃねぇのかと
0215日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:43:24.87
何の話なのか、わからないけど

その頃、お前はいないだろ、
日本にはいなかっただろ、と言っている人もいたような

国も何も造っていない、
最近(数代前)、日本に来たんだろう

とか
0216日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:44:24.83
>>201
>それとも勝手に名乗っているの?

記紀の神武東征のくだりを読んでみな。
長髄彦が、ここにはもう天神の子として饒速日がいるのに、なぜまた天神の子を名乗って人の土地を取ろうとするのかと聞いている。
最後は、饒速日と神武が、天神の子である証拠として天羽羽矢を見せ合って、同じ氏族であることを確認している。
(鏃は氏族によって形が違うことがわかっている)
0217日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:44:59.55
>>202
捨ててないよ。裴世清が来た時も高い文化を保ってたみたいだよ。
むしろ大陸を警戒するからこそ首都は遠ざけ前線には力を入れたと考えたら自然だよ。
同盟が確実と思うのはアホだよ。
大陸の力を借り同盟でより知ったからこそ警戒したと考えるのが自然だよ。
0219日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:45:57.59
>>216
もれ(仮)に対して言っているのなら、
頭の病院に行ったほうが良い
0220日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:48:09.20
それよりも

その天神というのは、何と言う家なの?
氏や姓などがあるでしょ
0221日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:48:47.33
魏紀年 四鏡の銘文と字体
https://www.jstage.jst.go.jp/article/shogakushodoshi1991/1991/1/1991_1_16/_pdf
読んでみたけど、すごく難しいことが書いてある。
景初四年というありえない年号の鏡は、魏本土で作られたものではないが、
倭まではいかずに、帯方郡で作られたものだろうという。
また、卑弥呼に贈った鏡も、これまた魏本土で作ったわけではなく、帯方郡で作られている
量産品らしい。女王卑弥呼への特注品ではないらしい。というのは
文面が、夫のいない独身女性へプレゼントするの銘文ではないからだ。

三角縁神獣鏡の銘文の一例。他のも年号を除けば大体こんな文が書かれている
景初四年五月丙午之日陳是作鏡吏人[言名]之位至三公母人[言名]之保子宜[糸子]壽如金石兮
〈読み下し〉
(一) 景初四年、五月丙午之日
(二) □(=陳)是(=氏)、鏡を作る。吏人、之に[言名]すれば、レ位三公に至り、母人、之に[言名]すれば、子を保ち[糸子](=孫)に宜(よろ)しからむ。
(三) □(=壽)は金石の如し(□=兮(ケイ)=終尾辞)
口語訳
「この鏡を使ってくれたら、大変立身出世しますよ」と言う、「女性が、
(女性は母になる人ですから)これを使ってくれたらいいお子さんが生まれますよ、
 お孫さんもいいお孫さんができますよ。いい子孫が出来ますよ」」

ハイミスの女王卑弥呼へ渡す鏡としては、かなり失礼な文面である。
量産品の鏡だから、こんな定型文が使われていただけ。
0222日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:49:32.08
>>212
九州勢が畿内に移り住んだからこそ改革が必要に迫られるよ。
のんべんだらりとその土地で生きてたら、変化は遅くなるよ。
環境の変化こそが文化の進歩を促進するよ。
新しい土地で周辺を収めようとするからこそ効率の良い方法を考えるよ。
主体が九州と一度も行ってないよ。
主体は九州から高い技術を持って畿内へ移り住んだ人たちと考えると文化の進化とかも自然な流れになるよ。
0223日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:49:40.39
それで、何と言う家なの?
0225日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:51:19.52
>>218

中国でガラス小玉なんか墓に入れてないだろ
朝鮮半島、山陰由来だよ
0226日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:52:30.00
神原古墳の三角縁神獣鏡銘
この銘文もまた商業生産用に作られた鏡のPR文句そのものである。
大量生産品だな。

「量初三年、陳是(ちんぜ)鏡ヲ作ル。自ズカラ経有リ。本(も
と)ヲ述ブルニ、是(ぜ)ハ京師(けいし)ノ杜ノ地ノ出ナリ。吏
タル人ノ之ヲ詔(つ)グレバ、位ハ三公二至リ、母タル人ノ之ヲ詔
(つ)グレバ、子ヲ保チ孫(そん)ニ宜シ。寿(いのちながき)ハ
金石ノ如シ。」
<口語訳>魏の景初三年(239)、陳是が鏡を作る。ひとり
でに行われるさまに、ここに至った経緯(事情)がある。ふるさと
を述べると、私(陳氏の自称)は、古都の杜(前漢の宣帝陵がある
長安の郊外の里)の地方の出身である。下級の役人が、この鏡を告
げ教えれば、位は太尉・司徒・司空の三大官に及び、母親である人
が、この鏡のことを教え導けば、子供を養い守り、子孫にも都合が
良いであろう。長生きすることは堅い金石のように確実である
0227日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:55:22.81
>>216
そこ好きなシーン。
古くに分かれて開拓に行き畿内に落ち着いた一団と九州勢がどちらが正当な長であるかを決したシーンが物語化したんだろうね。
正当かの証明はともかく鉄器を主体とした武力の後ろ盾を考えれば九州勢が権力の座に着きそう。
しかも遡れば同族なんだから、ジェノサイドせず多少の争いののち統合の形となった考えれば自然で記紀ともマッチするよ。
記紀が完全に事実無根のファンタジーとは思えないよ。
畿内説のひとはそうなんだろうけど。
0228日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:56:50.16
>>613
>別にひっくり返らない
だからって邪馬台国は静岡にはならないな
そんくらいじゃ畿内説もびくともしないし <

「南≠東」だから、大和も静岡も、どちらも始めから完全に×。
0229日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:57:23.16
その天神というのは、
死んだ人物の事を言ってるの?

頭の病気の人の話?
0230日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:58:26.46
>>222
主体が移動した根拠がないけどね。
それより、畿内説って、結局は東遷が前提なんだろ?
0232日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:00:06.82
>>212
そんなの普通だよ。
主体が畿内に移ってそっちの流行り物とか便利なものが下ってきたと考えると自然だよ。
開拓土砂で古墳作りも流行っただろうしいつの時代も流行り物や便利なものはは広がるよ。
伝わるのがおかしいと言う発想がおかしいよ。
0234日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:00:22.68
>>194
漢も匈奴に金印を贈って同盟を結んだよ。
下賜品なんてレベルじゃなくて、
中国皇帝と匈奴の王は、同格の「兄弟」という
同盟関係だ。倭と比べれば破格の優遇扱い。
それを王莽のときだったか、匈奴王を中国の家来扱いに変えた。
中華思想の一環だろう。だが、匈奴王は中国本土に
侵攻して首都を攻めて、中国皇帝は降伏してしまう。
また最恵国待遇に戻して、財政や物品の大量援助だけでなく
漢王室から嫁まで匈奴に贈る有り様。
0235日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:01:16.53
>>231

インドからの伝播でベトナム、フィリピンでたくさん作ってるな
甕棺、首狩の分布と重なる
0236日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:03:55.94
>>230
記紀と出雲の大量の銅剣とか、畿内の文化の進歩も九州からの文化技術知識の流入をイメージさせるよ。
0237日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:04:29.39
>>618
>製造に使われた材質の銅は中国産のものと判明している<

漢鏡の再利用もあるし、
呉系楽浪鏡師の持参鏡や持参銅も有り得るし、
洛陽から殆ど出ないから、明帝の鏡ではない事は確定。
0238日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:07:02.75
>>234
そんなのザラだよね。
同盟してたから九州の勢力が大陸の脅威を警戒する必要なしとか、歴史知らなすぎーって馬鹿にされるぞ。
0239日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:08:31.54
九州説は一元史観、万世一系の皇国史観なんだよ
02401 ◆Az7kmcQbsA
垢版 |
2018/01/19(金) 18:10:37.99
テスト
1#okumura
0241日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:12:50.28
畿内説ってこう話してると不自然説なのになんで今主流なのか不思議。
もちろん邪馬台国の発祥から大和朝廷までずーっと畿内の可能性はまだあるけど現時点で決めつけ用もするのが不自然。
なんか異常な焦りというか圧力というか、主だった大学の思想とかも気になるのは。
やっぱ世界最古の皇紀2600年を潰すにはちょうどいいしそういう勢力のバイアスかかってたりもするのかな。
まあ2600年はうちも尊重するけど神話としての尊重だね。
0242◆Az7kmcQbsA
垢版 |
2018/01/19(金) 18:13:12.53
テスト
0243日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:13:48.90
>>619
>考古学者も畿内と言っているよ <

「南→東」などのような史料事実を否定曲解するような、
嘘つき騙しの「大和説考古学者」では、
何を主張しても、何の信頼性も価値もない。
何の
0244日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:16:11.35
>>234
>それを王莽のときだったか、匈奴王を中国の家来扱いに変えた。
>中華思想の一環だろう。だが、匈奴王は中国本土に
>侵攻して首都を攻めて、中国皇帝は降伏してしまう。

それは対等同盟をやめたからだろう。
倭の卑弥呼が臣下としての親魏倭王を受け入れている限り、問題はないんだよ。
0245日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:17:41.36
>>235
平原遺跡の女王の財宝はワールドワイドで、当時の常識から外れているな。
凄まじい権力だ。
0246日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:18:35.46
邪馬台国の時代より古い時代の破鏡の分布が九州北部に集中。
圧倒的に九州の文化レベルが高かったことが考えられるよ。
その後、大和朝廷に至るまでには、何度も人と文化の移動があったことは濃厚だと思うよ。
その締めくくりが、東遷か遷都のようなものだったんだと考えると自然だね。
02471
垢版 |
2018/01/19(金) 18:18:47.92
>>242 >>240

テストしなくていいよスレ主は奥村で間違い無いから
自分も認めてるから
0249日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:21:43.80
>>244
同盟だろうが身内だろうが都合でぶち殺すのが特に中国の得意技だよ。
そんな情報を同盟してたからこそ知って遷都しても不思議じゃないよ。
つか君は純粋だね。
同盟してたら絶対安全とか、理想の世界だね。
0250日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:21:44.02
その天孫族と言うのは
『津 真道』のことじゃないの?

某と某は同じ人物だと言う話、祭祀関係(儀式)
0251日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:22:11.61
>>622
>大きな権力があったから古墳がたくさんって見えるよ<

筑紫倭国から別れた別種の旧小国で、
地方の市を監督する大倭職で儲け、
倭國の東征のお手伝いで儲けて、
大量の征服民を獲得して墓守り人にし、
半島からの古韓尺技術者の流入で、
巨大な墓を造って、征服民を威圧しようとしたもの。
0252日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:24:13.77
>>239
それ間違い
畿内説が皇国史観ですよ  昔は違ったけどね
0253日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:25:34.42
>>252
根拠は
0254日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:25:40.17
🌞 🌛

津真道
 🌎

わかりやすく言うと、このような話だよ、
と言っている人がいた
0255日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:26:08.60
>>248
記紀がどう表現してるのか考えるのが楽しいよね。
九州勢力がアマテラス
東に旅立ったのがスサノオからオオクニヌシの流れと見ると、その後統合してアマテラスの治る日本となった流れは本当にしっくりくる。
記紀はきっと歴史を物語風に記録してるんだと思う。
脚色も込みで日本人のルーツを語ってると思うよ。
じゃなきゃ、最初から最後まで畿内の物語になったさ。
0256日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:26:27.55
>>252

北部九州が日本を征服したと言ってるんじゃないの?
0257日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:26:50.40
>>625
>景初三年(238年)って魏の年号
ちなみに卑弥呼が魏に使いをよこしたのも景初三年と
魏志倭人伝にある
改鋳としても、魏との交流がなければ作れない <

明帝は、景初二年(238年)の12月に、
「100枚の銅鏡」の下賜の詔書を出したんだから、
景初三年鏡は、明帝→卑弥呼への下賜鏡ではない。
0258日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:28:27.44
景初四年を作ってしもうた辺境のいなかっぺ
0259日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:28:34.80
>>253
テンプレで三輪山伝説(記紀)引用している・・
スレ主のせいでは無いけど どこぞの畿内説論者
0260日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:30:59.51
>>251
なるほど。
でもうちは九州勢力が畿内に落ち着くまでの流れでは、そう高圧的なものでなく案外平和的な取り込みだったのではと思うよ。
出雲の銅剣とかからそう感じる。
大陸の脅威に備えるなら激しく争って国力下げるより大陸の脅威を利用し団結する流れを作ったと思うよ。
0261日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:31:30.47
>>264
>人を動かして大きな墓を作るには大きな権力が必要 ピラミッドしかり 証明終了<

倭國の別種の旧小国にとっては、
倭國の権力や権威が、巨大墓に必要。
照明終わり。
0262日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:31:38.81
>>255
ちゃんと読めよ。
東征したのは饒速日と磐余彦。
あと、東遷ではなく東征なんだよ。
0263日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:31:50.29
三輪山伝説は伝説の中に箸が出てくるので
手づかみで食事する邪馬台国倭人とは無関係の後世のお話しですね
0264日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:33:02.05
>>256
制服とかでなくみんなで一つになって代表に選ばれたのが倭国大乱を治めた九州から来た勢力のものだったって感じかもね。
0265日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:33:51.77
>>260
>出雲の銅剣とかからそう感じる。

大国主が隠れて(死んで、殺されて)、残りの者は逆らわずに降伏したと記紀に書いてあるんだけど。
0266日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:34:13.31
東征って書いてあるじゃんw
記紀でも古代から戦いまくりじゃんw
0268日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:35:07.62
>>264
妄想は大概にしろよ。
磐余彦は長髄彦との戦いで、兄の五瀬が死んでいる。
0269日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:35:58.95
>>267
記紀にはそんなことは書いてない。
出雲が降伏し、筑紫に邇邇芸が派遣されて倭王となった。
0270日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:36:40.85
『津真道 スサノヲ』だという説があったり

▢▢時代になり、
渡来(時代的に新しいという事は天孫だろう)してきたという説があったり、
蝦夷を~とか
0271日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:38:16.85
>>629
>すなわち卑弥呼の時代には畿内には国内最大の勢力が存在した
九州にはそんな証拠はないようだけれど <

大和は、筑紫倭国の別種の旧小国である、
という事が史料事実であるから、
始めから×。
0272日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:39:27.58
>>266
しかも、東遷ではなく東征なんだよ。
畿内説は東遷を主張して倭国の主力が九州北部から畿内に移動したと主張するけれど、東遷そのものが畿内説の造語でね。
0273日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:40:35.98
>>630
>もう学会ではとっくの昔に決着がついてるの <

「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの大和説学会であれば、
何を決着しても、何の信頼性も価値のなく、×。
0274日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 18:41:19.61
>>261
証明になってないよ、平和的な統合でも強大な権力になりうるし、ピラミッドも権力で強制的なやり方ではなかったとわかってるよ。
大陸の脅威から距離を取り多くの人をまとめ、国力高めるために日本中で開拓ブームが起こり残土を利用してイベントのように、尊敬される人の墓を作ったとしても何の不思議もないよ。
0275日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:42:37.20
>>633
>だとしても畿内説を否定する事にならないね <

「南≠東」だから、大和説は始めから×。
0276日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:42:55.74
東征した先の原住民が反乱しないように無意味に巨大なものを作らせたんだろ

木器でwww
0277日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:44:42.54
>>635
>いやー邪馬台国が畿内って証拠がありすぎてマジ辛えわー<

いやー、「邪馬台国が畿内」なんて証拠が無さ過ぎて、マジ哀れだわー。
0278日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:45:11.25
>>149 日本ではヤマト朝廷が征服戦争を
押し進めていたころ、
中国本土では首都が陥落して、膨大な書物が炎上・・。
三国志の原本も喪失してしまった。大損失だよな。
ついでに日本の建国のあたりの歴史も白紙に。
0279日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:48:32.65
北部九州倭国兵

主兵装:鉄剣、鉄矛、鉄戈
副兵装:鉄鏃、骨鏃(毒塗、抜けない返しつき)
防御:巴型銅器付き盾



畿内無鉄器兵

主兵装:木の棒
副兵装:石鏃、銅鏃
防御:銅鐸
0280日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:50:46.57
だっ津ーの?国の神なんだけど、
後世になり、配下になってしまったんだろう、
それと位などは関係ない、相当しない

と言っている人もいたよ

授けられた位、それ以上の人物がいるとか
0281日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:51:40.94
>>641
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。<

スレ主も、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しだから、
何の信頼性も価値もない。
0283日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:53:54.32
>>642
>わけないだろって発想が小さいよ。
平安の遷都まくだらない理由でされてるし、大陸の脅威から距離を取るってのが一番しっくりくるよ。
海軍力の及ばない内陸ってのもその流れから自然。
九州勢力が攻めて畿内にって流れじゃなく、そもそも共同体で遷都しただけの話かもしれないよ。
だから記紀にも、平和的な統合に見える記載がされてるのかもよ。 <

「南≠東」だし、
「大和は、倭國の別種の旧小国」であるから、×。
0284日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:54:07.17
>>266
武力で倒して行ったほうが物語としてカッコいい!
しかし出雲のように武装解除させてる証拠もあるのだから、穏便にやれるところは穏便に進めたと考えられるよ。
0285日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:55:10.99
>>647
>そうだったとしても邪馬台国畿内説を否定する事にはならない <

「南≠東」だから、×。
0286日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:55:28.04
>>284
お前は強盗が家に来たら玄関を開けて武装解除するのか?
戦って負けたから武装解除されたんだろが
0287日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:55:55.59
>>268
そういうこともあったけど、まあ今後は仲良くしようやって流れでも不思議でないよ。
0288日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:55:59.04
>>269
大国主は若い頃に出雲を攻めて
記紀にあるとおりその後長らく支配した
若き大国主の戦勝遺物が出雲のあれ

老年の大国主は敗北して邇邇芸が筑紫日向へ
ということは筑紫日向ももとは大国主が領有していたわけ
0289日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:58:08.43
>>279
その状況に間違いがないなら、九州勢がまぁまぁ武装解除して従えばうちの仲間として丁重に迎えるよって圧倒的有利な形で畿内入りできたかもね。
0290日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:58:12.68
>>652
>まあ素人がいくらああだこうだ言っても
俺らより何倍も頭いい学者が畿内でほぼ統一されてるから
九州説なんて追求するだけ虚しい事になるよ <

「南→東」などの嘘つき騙しの「大和説学者は、何も信頼性も価値もなく、
根拠にもならない。
0291日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:58:47.88
だっ津ーの?

そもそもの話・・・・・だと
書いてあるはず
0292日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:58:49.87
>>287
仲良くするなら鉄器を普及させるだろ
だが現実には木器で巨大古墳連発
0293日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:59:12.06
>>286
最低限の争いで、武装解除目指すよ。
0294日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:01:27.18
>>283
年代の古い古墳とかはどう見るの?
武器とかのレベルに差があったとしてもそこそこの勢力があったと考えられるよ。
0295だよ
垢版 |
2018/01/19(金) 19:02:09.00
畿内説ってさ

三流大学を出て、畿内の地方公務員になって騒いでやるの集まりだってさ
0296日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:04:58.41
北部九州 → 東遷 → 猪飼野 → 生野区
0297日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:05:31.89
よくもまぁ九州説はとっくに論破され済みの説を飽きもしないでくり返せるもんだ
0298日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:05:33.65
wiki『位階』

調べて見ると時代も違うし、
かなり後世の話だよ、そういったものを取り入れた時代
0300日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:12:56.76
>>284
実際、神武は兄が殺され、自身の軍も全滅寸前となっている。
最後は饒速日が長髄彦を討って終わる。
神武は勝者ではないんだよ。

天照は大国主に対して勝者であり、それを受けて筑紫伊都に邇邇芸の倭国王権が誕生した。
それまでは30国がそれぞれ王を名乗っていたが、伊都国成立以降は伊都国(倭奴国)の王だけが倭王。
0301日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:14:13.86
>>287
出雲で決戦すれば悲惨な戦いになるのが目に見えていたので、大国主が自ら犠牲となって決戦を回避した。
0302日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:14:55.81
>>288
大国主はスサノオからの相続だろ。
0303日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:14:58.98
>>295
三流大学って線引き無いぞ
畿内説の学者でも地方公務員あがりもいるが
京大の教授クラスの畿内説は別格だ  

俺の出身高校の英語の教師なんて今や教授と呼ばれてるが
退職後 願書をだせば合格する大学の教授だ
その先生曰く 君らでも教授に成れる大学で生徒の英語は中学生レベル・・コネは必用
0304日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:15:40.13
同じようなキャラクター(芸人)がいたでしょ、
パロディ

そんなの関係ねー、そんなの関係ねー、
というネタの芸人

何とかボーイズ
0305日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:16:55.17
>>289
相手も元々は同族の饒速日がトップだったからややこしい。
かつて出雲を倒した天照の孫だからね。
所有していた鉄器の量こそ少ないが、戦略はバレていたんだろう。
0306日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:17:29.26
海、水・・・海底・・・そのような関係の作品
0307日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:17:37.94
>>294
饒速日が先に降臨していたからね。
0308日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:18:23.94
>>296
>北部九州 → 東遷 → 猪飼野 → 生野区

ギャグか?
後ろ二つがどこだかわからないのだが。
0309日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:19:43.48
下の名前が、サトシ・・・?
もれ(仮)と同じような
0310日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:23:09.37
>>300
饒速日が有利な状況なのに長髄彦を討ってまで神武を立てたって物語の部分が、九州から来た勢力がこの地を治めていることの正当性を示すためと考えると自然だよ?
0311日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:24:41.86
『そんなの関係ねぇ』

画像を調べてみること、一度は調べてみたほうが良い
0312日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:25:08.10
>>297
畿内説が説得力を持たないからだよ。
0313日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:25:57.21
>>305
なるほどそう見ると苦戦するシーンも納得だね。
0314日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:27:36.02
それとパトラのような衣装を着ていた人物

「美穂」と言ってなかった?
0315日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:28:23.71
つまり、九州勢どうしが和解して畿内を治めたわけだ。
饒速日の末裔の物部大連はかつて大王家よりも権力があったそうだ。
討たれた長髄彦は大国主の末裔らしいから、饒速日や磐余彦より格下だったんだな。
0316日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:29:10.59
戦争大好きだからな、万世一系九州説w
0317日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:30:07.97
【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。

その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。

この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。

いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。
0318日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:30:34.38
>>303

有名大学の考古学専門の学者はいないのでは?・・・旧帝大か早慶

有名大学では日本史の(教授)が考古学に少し踏み入れ考古学者とも呼ばれてると思う・・歴史学者と読んだ方良い
それでも考古学の専門学者より含蓄あると思う  公務員あがりではダメ
0319日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:31:06.53
記紀も倭人伝も戦いだらけだからね。
0320日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:32:49.36
『ウォーターボーイズ』

うるとら そうる?

イアン・ソープ いあん・そーぷ
0321日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:33:57.53
うちのしつこい言い分の、早い段階で東に旅立った一団が畿内まで進んでいたってところなんだけど、そう思うきっかけが、徐福伝説まで遡るんだけど、
ここのマニアックなみなさんは当然知ってるだろうけど、徐福が蓬莱に旅立った時、二度目の旅立ちの持ち出し品の中に大量の弓があるんだよね。
もし伝説が一定の事実を伴ってたとすると、当時の日本には革命的な武器だったんじゃないかなと思う。
武器としてだけでなく、九州から東へ旅立つとしたら、開拓だけでなく狩猟で生活の糧を得る必要も高まる。
弓の技術の革新は、狩猟生活しながら開拓を進めるにすごく都合が良かったのではないかと思うんよ。
もともと日本は弓に適した木材がないし、それを補う和弓の技術なんてもっと後の時代に考えられたものだしね。
大陸からの強い弓は圧倒的だったんじゃないかな。
それが早い段階に東に向かった一団を支えた力なのかもね。
と考えて楽しくなるよ。
0322日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:35:28.88
>>314
中学生の時好きだった子が美穂ちゃんだったなー。
0323日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:37:00.88
徐福の時代は稲作伝来に近いんだよね。
弥生文化は王権とともに福岡に上陸し、そこを起点に全国に広められた。
0324日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:37:29.91
>>315
おおかその流れだったんじゃないかなーってうちも思うよ。
記紀にそった流れだよね。
0325日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:37:43.02
>>322
そんなの関係ねー、
好きだった子は、いない

確か、いなかった
0326日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:40:09.40
徐福が使うのは弩だろ
0327日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:42:34.54
>>323
水田自体はさらに古くからあるから、更なる技術知識の伝播で大規模化して行った時期と見てるよ。
その伝播した中に弓が!
だったらロマンだなー。
今の中国は迷惑だけど この頃の中華はロマンの宝庫だと思う。
0328日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:45:37.03
他のスレにも書いているけどw
もれ(仮)には、妹がいるんだよ・・・と書いているはず

兄も、いる

どういう事だと思う

先祖:キュウリの葉、葱の華・・・などの写真
0330日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:49:29.07
>>326
どちらもあったと思うけど、ベアボウをリアルで楽しんでるから、弓であって欲しいという願望。
弓って偉大。
モンゴルが歴史上世界最大の支配領域となれたのも、弓と馬の力だもんね。
弓カコイイ!
0331日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:49:59.31
ふざけた事してんじゃねーぞ!!
と言っている人もいたような
0332日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:00:22.16
何なんだろう

家は「すがの」だよ、と言っていたり

何かの本物の家だったとか?
むかーし住んでいた家に、謎の刀が飾ってあった

とか
0333日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:03:52.19
『松傾』

このような写真もあったでしょ、松の木の立てられている写真
0334日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:04:59.53
古墳から出た弓を色々検索してみたら長さ2mオーバーの単一木材みたいね。
そうなるとやはり日本に自生する木では強い弓が作れなかったことから、大陸からの強力な木材で作られた弓は圧倒的だったろうね。
当時はモンゴルで主流だったコンポジットボウはまだ存在しないしね。
0336日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:08:15.54
何度も書いているけど、
力夫という名前の親戚はいないよ

銀▢というのは、いたりするけど
0337日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:09:57.46
新興宗教か何か?

家は、そういうのではないと言っていた
0338日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:13:43.45
だから婚姻関係も違うでしょ、
家は香野と・・・言っていたり、寺院の話とか

力夫氏は、
そのような家と結婚していないはず
0339日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:22:33.08
『ネギ坊主』?『キテレツ』?

寺院に通っていたと言っていたり、
何だったんだろう
0340日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:25:08.26
寺澤≠纏向じゃねーよ
纒向は寺澤ごとき 同やんじゃ無理 
寺澤は漁夫の利を得ようとしただけ・・
私利私欲
0341日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:25:36.99
>>262
たてつきの仏さんが神武さんのスポンサーやね
たてつきさんは紀伊半島にも人脈あった人や(たけみかづちにミラー100まい
0342日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:29:19.99
家の話ではないけど
調べてみると・・・新興宗教じゃない?

悪く言うと、騙り、成り済ましの類
0343日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:29:37.57
ぼんやりイメージを文章にしてみた。

大和朝廷成立までの仮説
古代、邪馬台国よりも古い時代は九州北部が最も文化レベルが高かった。
稲作も武具も最も大陸と交流頻度が高く必然的に高い文化レベルがあった。
稲作が大規模化するにしたがって、新たな土地をもとめて九州から東へ人の移動があった。
その移動の中で、定住する集団もあらわれ特色をもった文化が生まれた。
移動は畿内も含め広範囲におよんだ。時は流れて東夷伝の時代になり、
倭国大乱記録された大乱があった。
倭国大乱は九州とそこから遠くない範囲。邪馬台国が魏の力を借り倭国大乱を治める。
魏と同盟し魏の助けを受けたからこそ、その文明レベルの高さ武力の強さに脅威を持つ。
九州北部は防衛の前線とし勢力を残しつつも、勢力の主体は東へ移動。
移動する中で、過去に分かれた勢力と平和的また武力で合流。
最終的に防衛に優れた内陸の土地、畿内に落ち着く。
常に大陸と交流を持ち高い武力もあった九州勢力は畿内までを治めた。
その後、統治する正当性を国内外へ示すため
九州から来た勢力の長がもっとも尊い血筋とする記紀が編纂された。

こんな感じだったんじゃないのかなーって思ってる。
倭国大乱の範囲をしぼったのは、九州から遠くなるほど、村づくりが防衛を考えてないつくりになってるから、大乱に巻き込まれてないでしょって考え。
どうどう。
いい線いってない?
0344日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:32:45.58
家は川俣町が何やらと言っていたりするけど、
機織りの話とか
0345日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:35:25.06
>>330

>どちらもあったと思うけど

どこに?
0346日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:36:33.29
徐福は邪馬台国と関係ない

各説の論者が徐福出す時点で邪馬台国論叢オシマイ

ショウガナイ 

倭人伝ぞのものが邪馬台国

畿内は倭人伝ではムリ・・記述しかり物証しかり

倭人伝以降の文献で成り立つ畿内説(相当 間を置くから根拠足りえない妄想)

記紀だより 皇国史観が畿内説だと思うよ
0347日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:40:26.13
>>340
寺澤に恨みあんのかい
寺澤を相手にしてるようじゃ ✖✖✖ 
寺澤は下っ端
0348日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:41:51.25
あの頃、時代だから・・・
新興宗教か何かなんだろう

▢▢力夫・・・調べてみるとわかる
0350日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:43:56.98
>>321
あーそーか
弓はじゅーよーやな(古代は遠距離戦主体やったわけやね?
兵士を突撃させるほどの強権も金属も弥生にはないか
0352日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:45:10.44
九州説はレベルが低いな
0353日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:46:57.83
>>335
プラズマしらんの?(わえもよーしらん
0354日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:47:36.21
>>1
は奥村茂輝とは関係無い別の奥村
0356日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:50:52.90
>>346
徐福の実在とかはどうでもいいんだよ。
邪馬台国とかの時代から大和朝廷のなりたちより古い時代に伝来した文化が問題なんだよ。
どこかで文化レベル戦力レベルの均衡が大きく崩れたから大乱になるんだよ。
戦争の歴史では定番のきっかけだよ。
0357日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:51:26.34
>>343
ダックとちゃう人みたいやな?
防衛要素は高地性集落分布やと逆に東国のが増えてったんじゃね
0358日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:51:36.32
>>355

ソースは?
0359日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:51:53.21
>>354
奥山じゃねーよ
奥村=>>1

奥村誠義でもねーし
0360日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:52:53.58
プラズマ化しただけで原子核崩壊を促進したりなんかしねーよw
0361日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:53:20.69
>>350
現代戦でも完全に勝利するためには、最終的に歩兵による占領が必須だよ。
ただ、最初っから歩兵で突撃するのとミサイル打ち込んでから突撃するのとの差があるよ。
古代もそこは同じだよ。
弓で決着も相手に戦意喪失させればあるかもしれないけど、結局踏み込んで占領のプロセスは必須だよ。
そんなのは、古代も現代も同じだよ。
0362日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:54:47.38
>>351
なんども書くけど、大陸の力をかりたからこそ大陸の脅威も理解し
対策として移動することは考えられるしし自然な流れだよ。
ないと断言するのが不思議だよ。
0363日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:54:59.52
大爆笑
自作自演のスレ主
0364日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:57:39.56
テンプレに矛盾は無い
正統な畿内説を示してる
0365日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 20:59:44.25
数年前の、とあるスレ(邪馬台国スレ)

ここは天理教ばかりなのか
と言っている人がいたでしょ、大本とか


本当に、そうなのかな
0367日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:00:00.45
>>343

間違いだけ指摘します。

>倭国大乱は九州とそこから遠くない範囲。邪馬台国が魏の力を借り倭国大乱を治める。

魏志倭人伝によると、倭国大乱は後漢の時代。
倭人たちは自力で和平を実現し、卑弥呼を共立したらしい。

>九州北部は防衛の前線とし勢力を残しつつも、勢力の主体は東へ移動。

全く魏志倭人伝にないくだりで、根拠なし。
魏志倭人伝や後漢書を読む限り、倭国の主体が九州北部から移動した様子は、卑弥呼や壹與の時点までない。

神武東征は中国人の知らないところで行われ、その後もしばらくは九州北部が中国との外交をになっていた。
つまり、畿内にいたのは倭国の分家。
0368日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:00:15.03
葛城で決まり 纏向は似非
0370日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:01:39.53
>>364
>テンプレに矛盾は無い
>正統な畿内説を示してる

そりゃ、妄想なら内部で完結した矛盾のない説をいくらでも作れるさ。
でも、現実の出土品と矛盾している。
0371日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:03:37.78
>>360
数十メートル程度しか離れていない複数試料の検査結果を収束させない原因のことをプラズマ効果と呼ぶと理解しました(さんざん調べたがそれ以上のことがわからん
0372日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:04:38.30
>>365
天理教は関係無し
桜井市VS天理市はわかるけどな
畿内説のセクト意識は醜い
0373日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:05:55.96
>>366
その通り。
本来なら、倭王卑弥呼のピンチに対して、魏は出兵して助ける必要があった。
脅威ではなく、卑弥呼としては魏の傘の下に入った気分だったはず。
少なくとも、金印をもらえなかった半島の王たちや列島の他の豪族よりは有利になったはず。
0374日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:06:32.21
>>358
そもそも弩が弓からの発展だよ。
連弩はこの時代にあったか微妙。
連弩は孔明って言われてるけど、実際はもっと古い時代からあったと今は言われてるね。
弓に関しては実際趣味でやってるからいろいろ調べてるよ。
当時は、弩は初心者でも一定の威力を出せねらいやすいから熟練度の低い兵士が遠距離から使う。
弓は弩より威力は劣るが、撃てる速さが熟練度に応じて早くなり、中距離から接近戦まで使用。
使い分けみたいよ。
ちなみに趣味で遊んでるうちでも、10m離れた50cm×50cmの的を10矢26秒で全矢命中できるよ。
弓は遠距離武器ってイメージだけど、数人で連携すれば凶悪な近距離戦術ができるよ。
まぁモンゴルのパルティアンショットがもっとも被害が少なくて正解な運用だろうけど
日本のように自由自在に馬で走り回れる地形が少ない土地ではあまり使われなかった戦術らしいよ。

うーん弓の話は燃える。
0375日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:07:03.54
>>361
アメリカ陸軍は突撃せんけど
まー最後は火炎放射器やな
0376横からスマン
垢版 |
2018/01/19(金) 21:07:16.27
ザラコクの定義がようわからん
0377日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:08:15.00
>>370
同意する
0378日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:09:11.38
>>374
れすはやいひとやな^^
ここの人らはおじーちゃんばっかやからめーまわされるぞ
まーあまりきばるな
0379日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:09:25.53
それよりもウマヤドだよ、
何という宗派だったの?

何かやっていた、信仰していたと書いてあるけど
0380日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:10:31.62
>>367
魏と書いた場所は大陸に修正。
大陸の高い技術と武力をもっとも取り入れていた九州北部の勢力って書けばよかった。


移動を表すものは記紀にあるよ。
移動の時期はうちも倭国大乱が収まった後の話と思ってるよ。
大陸と同盟を結んだあとに距離を置いてると思うよ。
大陸の同盟などあてにならん、信用したらアブナイアブナイってね。
0382日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:12:42.77
>>374
わえは組み討ちのはなしのがもえる
やーやーやーわれこそはなんたらかんたらー
じゅーどーの起源やね?
0383日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:13:17.40
>>380
記紀は根拠にならない

>大陸の同盟などあてにならん、信用したらアブナイアブナイってね。
妄想はいらない
0384日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:15:19.97
>>380
卑弥呼は魏とズブズブだよ。
平原遺跡の中国趣味を見ればわかる。
璫などは当時でも最新の流行品。

ただ、同時期に倭国大乱で失脚して伊都を逃げ出した集団がいたはず。
それが伊都の前王家の天孫族(神武ら)だ。
彼らが瀬戸内ルートを開拓し、畿内が発展するきっかけとなったのだろう。
3世紀中頃から九州からの文化を受容して畿内も発展するが、何をトチ狂ったのか、畿内が主体だと思い込んでしまったのが畿内説。
0385日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:15:50.12
>>378
タイピング早いので頭ん中に浮かんだことぶわーーーーって書くよ。

>>373
はず・・・じゃ説得力ないよ。
とりあえず攻められないために同盟。
とりあえず時間稼ぐために同盟。
とりあえず・・・の同盟なんて腐るほどあるよ。
当然同盟の裏切りなんて世界の歴史で日常茶飯事だよ。
倭国大乱を武じゃなく収めた・・・が事実だとしたら、なおさら同盟したからもう安心!みたいな馬鹿じゃないと思うよ。
0386日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:18:33.50
>>385
妄想はいいよ。
実際には卑弥呼は魏と頻繁にやり取りをして親密な関係を構築している。
卑弥呼の部下が何人も魏の官僚級の待遇で銀印をもらっているしね。
0387日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:19:09.93
蝦夷征伐の前に畿内征伐
狗奴国は畿内および四国・中国じゃないかな
四国、中国地方が狗奴国の有力候補
邪馬台国は九州だが邪馬台国の亜流が東征してヤマト王政
0388日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:21:06.08
>>387
>邪馬台国は九州だが邪馬台国の亜流が東征してヤマト王政

まあ、これしかないよね。
0389日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:22:36.57
>>382
うちは平安末期までさかのぼれて、いまだにその
やーやー我こそは!を子供に覚えさせるための巻物があるよ。
そんな変な戦争してたの日本くらいだけどね。
ルールぶち破った義経が強かったのは当然だよ。

ちなみに近い先祖はとある藩の弓術指南役だよ。
たけど弓の中で和弓は無駄にでかくて好きじゃないよ。

>>383
ならないか、なるかまだ分からない段階だよ。
決めつけは思考停止だよ。
同盟が完璧な約束だとでも思ってるなら、歴史を勉強しなおしだよ。

>>384
ズブズブだろうと裏切る時は裏切る時は裏切るよ。
表向きに仲良くしてても裏で対策を練るのが外交だよ。
0390日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:24:14.19
神武の実年代はおよそ邪馬台国の時代という説がある。
倭国大乱で倭国の政権の座から降りた天孫族が東征したとすれば、その後に内行花文鏡を祭る前方後円墳文化が畿内に成立するのが理解できる。
0391日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:24:29.32
>>386
妄信もいいよ。
なんぼ仲良くして密な関係があろうと、裏では対策も考えるのが外交だよ。
親密な交流から裏切りなんて珍しくもないよ。
さすがに歴史勉強しなおしておいでレベルの同盟妄信だよ。
0392日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:24:42.42
>>125
畿内は倭種(附庸国)の一地域。
北部九州勢は、南九州からの神武東征で東に押し出されるまでは畿内とは密な関係があったと思うね
0393日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:28:21.82
伝説のQueenに、自転車の曲

『ポケモン 自転車』?
0396日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:33:20.16
>>392
神武のいた高千穂宮は、筑紫日向にあったんだけどね。
イザナミがいた筑紫日向の小戸が今の福岡市西区で、日向は高祖山日向峠周辺を意味している。
つまり、魏志倭人伝の伊都国こそ、神武らがいた倭国の都なんだよ。
ちなみに神武の曽祖父のニニギの墓が伊都国の三雲南小路遺跡で、三種の神器を副葬された豪華な王墓だ。
0397日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:34:04.44
何か関係してるような


『大谷派』
0398日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:37:14.16
>>374

徐福が東征で使った古墳から出る長弓が
秦にあったというソースを聞いている
0399日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:39:00.31
日本の古代史では弓の力があまり追求されてないのが悲しいよ。
複合弓、コンポジットボウの技術がなく、さらに弓に適した木材が自生していない日本にとって、大陸からの弓は影響がデカかったと思うのに。
ちなみに弩は現代のクロスボウと基本構造が同じだけど、弦を足使って引いてかけて矢を乗せての作業に20秒はかかるよ。熟練しても15秒はかかるね。
狙いやすいメリットはあるし威力もすごいけど、1矢失敗したら、うちレベルの者に7矢はやられて蜂の巣だよ。
何が言いたいかというと
弩は防壁がしっかりした大規模な要塞や都市に籠城して大量の物資がある状態での運用が適していて、当時の日本の都市規模や争いには弓が適していた!
ということだよ。
たぶんね。
0400日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:39:03.46
神武紀の書き出しで神武天皇の「諱(いみな)を彦火火出見と云いウガヤフキアエズ(略称しました)の第4子」とあります。
彦火火出見は伊都国の東、クシフル山の麓の高祖宮の祭神です。
彦火火出見は倭国大乱の前の伊都国王家の男王たち70〜80年の王の称号です。
伊都国高祖宮は記紀の筑紫日向の高千穂宮です。
高祖宮の目の前に倭国大乱の後に作られた倭国女王墓が、平原遺跡です。
伊都国が倭国の都、筑紫日向が卑弥呼の女王国です。
0402日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:40:47.19
>>399
弥生時代は環濠集落や高知集落もあったはずだけどね。
0403日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:41:11.06
>>401
記紀と魏志倭人伝を読むといいよ。
0404日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:42:01.94
>>399

神武が弩で東征したという妄想なのか?
0405日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:43:41.63
魏志倭人伝も記紀も、伊都国が倭国の都だと読むと、互いに矛盾なく収まるんだよ。
記紀も魏志倭人伝も無視しなければいけない畿内説は非常に不利。
0406日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:43:45.97
知らない人もいると思うから

『ピカチュウ 声優』

   大谷派?
0407日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:43:57.47
>>386
リカンノケーやな
よみかたしらんし漢字もかけん
なによりわえの端末よーへんかんせん
0408日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:44:08.66
>>403
普通の人は珍読はしないよ
0409日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:44:22.16
>>398
そもそも徐福の実在を前提としてないよ。
徐福伝説が日本への文化の伝来を示しているのではって話だよ。
なんで徐福が東征するの?
伝説物語としても移住じゃないの?

弓について研究してる資料、特に弓の木材がどこの素材だったのかとかうちが凄く興味のあるところだよ。
弓関連は色々見たけどそこ一つも見つからんからね。
0411日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:45:10.84
神武が使っていたのは刀だね。
まあ、もともと漢の頃から武器としてより威信財の性格が強かったけどね。
0413日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:48:04.85
記紀に書いてあるよ。
0414日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:49:17.31
まあ時期的には大乱で破れた甕棺族が東に逃げていって、纏向に落ち着いたってのはあり得るね
0415日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:50:06.71
>>386
離間計や
ばちょうや義経や石川一正とか
だいたい銀印かってにもらうなしめがいかんわ
0416日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:50:32.08
>>409

なんだ徐福じゃないのか
↓は何の根拠なんだ?

>>321
>徐福が蓬莱に旅立った時、二度目の旅立ちの持ち出し品の中に大量の弓があるんだよね。
>大陸からの強い弓は圧倒的だったんじゃないかな。
>それが早い段階に東に向かった一団を支えた力なのかもね。

で徐福じゃないけど徐福のソックリさんみたいなおっさんが
弩で東征したのか?
0417日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:51:05.83
>>404
大陸からの日本の素材では作れない強力な弓の伝来がもっと古くにあって、九州勢力の初期の東への移動を支えたとイメージしてるよ。
神武の東征を邪馬台国の時代と同じと見るなら、倭国大乱後はもっと装備が整ってると思うよ。
弓のメリットは戦争だけじゃなく狩猟の能率アップがあるからね。
開拓で東に向かうとしても、作物できるまで食いつなぐためには狩猟に頼る部分も大きくなるからね。
武力としてだけでなく、開拓を支える生活の道具としての発展の一つと見てるよ。
0418日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:51:57.43
祓詞

掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪 穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を 聞こし食せと恐み恐みも白す

こうして生まれたのが住吉三神と、それを祭る住吉神社。
全国の住吉神社は、筑紫の日向にあった博多住吉の分社。
特に摂津住吉は九州からの瀬戸内ルートの進出拠点。
海運が主力の古代においては、内陸の奈良盆地より、海に面した摂津河内吉備などの方が重要だった。
0419日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:53:56.16
>>414
でも記紀には畿内組がもともと一つの親類扱いだから、負けて逃げた敵とは考えにくくも思うよ。
0420日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:54:51.13
>>417
日本人は袋ナガサやぞ
昔は石ぼうじゃ
0421日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:55:58.64
>>417

日本の素材では作れない強力な弓、
つまり大陸の弩で東征して、墓に長弓を入れたのか?
0422日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:56:11.70
九州からの出土品を見れば、弓矢も刀も九州の技術が圧倒的なんだよ。
何しろ纒向には鉄や銅がほとんどなかったからね。
魏志倭人伝には邪馬台国に鉄も銅もあると書いてあるのに。
まあ、すぐに畿内も九州倭国からの内行花文鏡を掲げた集団に蹂躙されて前方後円墳の古墳時代が始まるんだけどね。
0423日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:56:48.11
>>416
徐福伝説が新しい技術の伝来を表してるのではと考えてるよ。
東に開拓に向かうきっかけとなった技術だよ。
この段階は東征と考えてないよ。
稲作技術の向上と、武力の底上げで開拓に向かいやすくなったのではと思ってるよ。
0424日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:59:27.74
>>420
どゆこと?
二つの単語がどっちもわからん。
0425日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:00:02.27
>>422
>魏志倭人伝には邪馬台国に鉄も銅もあると書いてあるのに。

九州説は、こんなウソをついても平気な人々
0426日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:00:55.35
>>421
何度も言うように、東征や遷都があったかもしれない時代よりずっと前の東へ開拓の旅に出るぞー時代の話だよ。
0427日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:02:08.42
>>419
だからさ、神武らは伊都を逃げ出して、すでに自分の王国を築いていた饒速日おじさんを頼ったんだよ。
伊都国の官は禰宜だろ。
神武の曽祖父の邇邇芸と同じ名前だから、一部は卑弥呼の下に仕えたんだよ。

卑弥呼は天孫族にとって憎たらしいから、記紀に登場しないし、神武らが出た後にそれまで倭国の都であった筑紫の日向の高千穂宮がどうなったのか、描かれないだろ。
卑弥呼が伊都高千穂宮にいて、外交の面に立ったんだよ。
墓は宮の目の前の平原遺跡だし。
0428日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:02:53.33
>>424
まんもすはんたーしらんのか
またぎや
0429日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:03:50.17
>>423

だから徐福伝説の新しい技術の中に長弓があるソースを聞いているんだよ
0430日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:03:53.17
徐福だけにこだわらず帥升の大陸との交流でも高い技術の流入は考えられるよ。
0431日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:04:59.21
まーいしぞくはじょーもんからあったから弓もあったんやろね?
じゃんぐるけいの短いのやろな
0432日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:06:33.71
>>430

お前弓の話は徐福の持ち出し品のことしか書いてないだろ
0433日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:06:52.17
>>429
秦の公式武器じゃね?(普通のこたえ
0434日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:06:57.37
>>426
九州から東への進出は何次にもわたったんだよ。
スサノヲ(日本海ルートで農業林業を広めた)、饒速日(物部大連の祖)、三島溝杙(鴨王の祖)、神武(大王家の祖)など。
0435日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:07:09.42
>>429
そういうこと。
徐福伝説に書かれてるからそれでいいのでは?
秦から来るのだから秦の弓持ってきてなんか不思議あるの?
それにそもそも弓好きの弓にこだわった弓のための仮説だよ。
0436日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:08:14.84
国内で弩は出土していたっけ?
0437日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:08:42.71
>>433
普通にそれを連想してくれると思って、そこ書いてないのを気づきもしなかったよ。
0438日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:10:40.44
島根では弩の特徴を有する木製品は出てるけどな
0439日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:12:54.82
>>437
ここのおじーちゃんらは巻向に夢中でほかのことよー連想せん(ゆみせんせーもあんまりとばすな
0440日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:16:27.16
島根と奈良は関係深いな。
ヤマト征伐に加担したんだろうな。
奈良の大きな地名が出雲の集落名になっているパターンが多い。

応神仁徳に負けた人々の一部が、出雲まで逃れてきたのかもな。
0441日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:17:00.76
>>433

秦の公式武器が長弓か?
0442日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:17:04.03
じゃあ、徐福は島根に渡ったと。
あれ?
スサノヲ?
0443日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:18:46.76
纒向の外来系土器も尾張と山陰が中心だし、ヤマト征伐の中心もこの勢力だろうな。

出雲は縄文系遺伝子が色濃く残るエリア。

奈良に都のある大和朝廷は縄文系の政権なんだろうな。
0444日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:18:59.24
神武と戦った登美の長髄彦は出雲からやってきた事代主の末裔だそうだ。
地名も移動したんだな。
0445日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:19:03.93
>>436
ほとんど出てないよ。
うちが知ってるのもwikiに載ってる島根のやつだけ。
弩は日本に合わなかったんだよ。
特にこの時代は物資の豊富な巨大要塞での防衛戦とか少なかったとも思うよ。
その理由は、建物が木造だからだよ。
早の技術も伝わってたら、籠城なんて木造じゃできないから出陣して迎え撃つ早期決戦しないとなんもかんも灰になるよ。と思うよ。
実際扱ってもクロスボウより弓の方が楽しいし機動力もあり戦闘向きだよ。
0446日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:20:15.41
>>445
早の、、、タイプミス。
火矢の
0447日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:21:10.81
>>441
しらんのか
じゃんぐるはたんきゅう
へいげんはちょうきゅう
0448日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:22:12.53
長髄彦は饒速日に殺されるが、姪のイスケヨリ姫は神武の妃になる。
元はと言えば出雲の大国主の末裔だ。
九州から来た大久米の顔の刺青を笑った姫だ。

魏志倭人伝には倭人は顔に刺青をしているとある。
当時、畿内には刺青の文化はなく、九州に刺青の文化があったことがわかる。
0449日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:22:46.29
>>444
いつせをいぬいたひとらの長やね
0450日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:23:00.99
>>445
>大陸からの強い弓は圧倒的だったんじゃないかな。
>それが早い段階に東に向かった一団を支えた力なのかもね。
>日本には弓に適した木材が自生していない

この話はどうなったんだ
0451日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:23:39.84
大和朝廷の起源は、出雲か筑紫にたどり着く。
0452日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:24:01.58
>>434
まさにこれよ。
0453日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:25:02.72
>>449
その通りです。
ダックの王です。
0454日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:26:13.84
日本書紀、しかも神代ではなく仁徳天皇の時代に、なぜ怪物何か登場させたんだろう。

飛騨の顔が二つ胴が一つの怪物。
飛騨もかなり縄文系遺伝子が濃いエリア。

飛騨に追い詰められたスサノオとアマテラスの顔を持つ尾張の勢力では?
胴は国常立神かな。
天香久山に祀られている神。
ホアカリ系のことなんじゃないかな。
0455日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:27:27.20
>>447
そうなんだよ。
だけど日本には胆力の強い木材が自生してないんだよね。
だから後の時代に現れたのが、貼り合わせと巨大化で威力を出した和弓なんだよ。
0456日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:27:31.50
かもはおかやまにもゆらいあったな(うきたやったろか
0458日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:31:22.27
>>450
その文章の通りだよ。
従来の日本の弓より圧倒的に高性能の弓を手に入れれば、開拓で東に向かうにしても、途中の狩猟でもイザコザでも大活躍やよ!
という予想。
0459日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:31:45.51
纒向含め大和朝廷は尾張と出雲が作ったので問題ないな。

出雲は記紀で大々的に取り上げられているし、ぴったりだな。
先代旧事本紀に物部氏と尾張氏は同族とあるし、どちらも国常立神で問題ないかな。

大和朝廷は日本古来の民族による政権だな。
0460日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:34:08.62
>>454
今、二人が胎児段階で癒合して頭が二つある女性がアメリカだったか教師してるよ。
実際に居たのかも。
0461日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:34:17.79
>>454
リャンメンすくなのちんしゅやまのぼってきました(鎮守やったかな(ちんじゅ?
へんな文字のせきひあったぞ
0462日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:35:21.62
>>448
考古学的に否定されてる

所詮九州説は非科学
0464日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:38:18.01
>>458

弓に適した木材が自生していない日本で作った
弩ではない、大陸からの強い弓というのは何だ?
0466日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:40:57.31
>>462
鴨せんせーやろ?(畿内説やん
0467日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:41:35.72
物部氏の祖の饒速日は高天原から船で畿内に来ているからね。
饒速日のフルネームは天照国照彦火明櫛玉饒速日命。
天照から筑紫(対馬海峡、九州北部)を、大国主から出雲(中国、関西)の権威を継承したという名前になっている。
ホアカリも饒速日のこと。
饒速日の次に倭王となるのが、弟の邇邇芸で、兄弟相続だった。
尾張は分家の分家。
0468日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:42:44.51
>>462
では、イスケヨリヒメのセリフはなんなのか。
説明してみろ。
0469日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:43:01.94
倭国大乱で犠牲になった地域勢力のことを顧みない、負けた勢力の事績の良いとこれだけパクる。大和朝廷がした負の面だけを他人に擦りつける。
何でこんな理不尽なことがまかり通るんだ?
0470日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:43:03.03
>>464
世界でもっと古くから使われてる原始的な弓でロングボウの発展型みたいなものと思うよ。
基本一つの木材で作られていて、素材で強さの限界が決まるよ。
そういうものが伝わってきたと思われるよ。
あと、質問の文章が変だよ。
もう少し弓について燃える質問よろしくよ。
0472日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:45:12.34
>>468
ずっと後世の話だってだけ

確定
0473日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:45:42.48
>>467
きのさきおんせんの神社やね?(なまえわすれた
0474日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:46:45.20
>>470

ロングボウの発展型みたいなものを作る
のに適した木材が日本には自生していないんだろ?
0475日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:47:28.94
畿内は征伐されたんですよ。
外部の勢力に。
ヤマトも、ナガスネヒコやヤソタケル、兄磯城も殺されたと書いてあるだろう。

そういう歴史を無視するな。
平成も終わりの時代になってまで歴史を捏造しようとするなよ。

倭国大乱で犠牲になった地域勢力が浮かばれへんわい。
0476日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:48:05.11
>>472
神武の妃選びが邪馬台国よりずっと後?
さすがに珍説だろ。
0477日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:49:14.31
>>476
学界の定説だよ
0478日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:49:24.34
>>471
葛城ゆーてはるんやから九州説ちゃうやろ(どーでもえーか
0479日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:50:49.28
>>474
ないよ。
和弓が生み出されるまで、日本製の弓はヘナチョコだったらしいよ。
だから大陸と交流の深い九州北部がそれを手に入れやすく力を得た理由の一つかなと思ってるよ。
鉄剣も九州北部に集中してて注目されてるのに、弓は今ひとつさみしいよ。
0480日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:54:20.99
>>479

日本で作れない大陸の強力な「木弓短下長上」か
九州のどこでたくさん出てるんだ?
0482日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:55:41.18
様々なルーツの渡来人も縄文系勢力も平和に暮らしていた畿内や北部九州。

倭国大乱でそれを壊したのは、出雲など山陰の勢力、尾張、阿波、九州南部や遠賀川の石神で、何処が問題なんだ?
彼らがヤマトを征伐し、大和朝廷を作ったで問題ないだろう。

四道将軍で関東東北を征伐。大和朝廷がした事実だよ。

大和朝廷は畿内に自生した政権ではない。
外部勢力による征服王朝ですよ。
0484日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:56:44.74
>>479
鏃にばっかり目いってて弓のことは考えんかった(勉強になりました
おじーちゃんらも感心しとるぞ(たぶん
0485日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:57:19.18
Wiki 長髄彦から抜粋

登美夜毘売(トミヤヒメ)、あるいは三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)ともいう自らの妹を、天の磐舟で、斑鳩の峰白庭山に降臨した饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の妻とし、仕えるようになる。

Wiki ミカシキヤヒメ

『日本書紀』では三炊屋媛、鳥見屋媛、長髄媛、『古事記』では登美夜毘売と記する。
御炊屋姫、櫛玉姫命、櫛玉比女命、櫛玉比売命、などとも表記される。
長髄彦の妹で、饒速日の妻となる。饒速日との間に物部氏、穂積氏らの祖先神である、可美真手を生んだ。

Wiki 玉櫛姫

日本書紀では事代主神・古事記では 大物主の妃。
神武天皇の皇后である媛蹈鞴五十鈴媛命の母。
別名:溝咋姫神・三島溝杭姫・三嶋溝樴姫・溝咋玉櫛媛・活玉依姫・勢夜陀多良比売ともいう。
0487日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 22:58:19.62
>>484

お前だけがな
0488日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:00:09.28
千歳市丸子山遺跡から出土した縄文時代末葉の赤色漆塗り弓2例はともに全長170cm
0489日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:02:30.97
九州説は話にならないが、ここに来ている畿内説の輩はかなりタチが悪い。

畿内説を唱えながら、歴史を捏造しようとする輩。

畿内は出雲や尾張に征服されたんですよ。

大和や大阪の恩人は、住吉さんなどの九州北部の勢力、応神さん仁徳さん息長さん、鹿島の先住民の鹿さんなんです。

彼らの恩を仇で返そうとしているのが、ここに来る畿内説の輩。

出雲や尾張の回し者なんじゃないかと思えてくるわい。
0490日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:03:16.93
同じ時代に同じ大和にいた玉櫛姫と櫛玉姫の関係がポイントで、少なくとも親戚のはず。
婿が饒速日か大国主か大物主かで違うわけだが、どちらにしても似たようなもの。
大和にいたのは外部、それも出雲か九州か高天原から来た顔ぶればかり。
0491日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:06:39.52
>>682
この男も酷いね。

>国産品もあるが、国産品と舶載品ははっきり区別されてる<

しかし、立岩のように、通説学者の区別自体が間違っていた事もあった。

>移り住んだ時に持っていったとするなら238年以降になるが <

明帝の詔書は、景初二年(238年)の12月)のであり、
景初3年鏡は×。

>その当時すでに畿内には大きな権力が出来上がっていたし<

大和は、倭国の別種の旧小国であったのであり、倭国の東征のお手伝い程度。

>考霊の間(180年ごろ)に倭国に大乱があったという
魏志倭人伝の記述にそぐわない <

魏志倭人伝に「考霊の間(180年ごろ)に倭国に大乱」なんて書かれていないよ。
0492日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:08:27.33
大阪を開拓したのは筑紫日向から来たとされる鴨氏の祖、三島神社の三島溝杭耳。

Wiki 賀茂氏
賀茂氏(かもうじ、鴨氏/加毛氏)は、速須佐之男命の11世の孫の大鴨積命を祖とする出雲国の古代の氏族。
神武天皇を導いたとされる賀茂建角身命[2]を始祖とする天神系氏族。
子孫は上賀茂・下鴨の両神社の祠官家となった。
氏人には鴨長明(下鴨社家)、賀茂真淵(上賀茂社家)がいる。
大物主(三輪明神)の子である大田田根子の孫大鴨積を始祖とする。
現在鴨の地にある高鴨神社の祭神である事代主や味鋤高彦根神(賀茂大御神)は賀茂氏が祀っていた神であると考えられている。
0493日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:11:09.41
九州説は妄想ばっかりだな
0494日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:11:48.85
>>684
>卑弥呼の没年ごろに畿内と統合したと考えたら自然だよ。
なんらかの理由で追加で墓に入れた可能性まで考えたら、なんぼでも変わる話だよ。<

陳寿は、当然壹與の遣使があった事を知っていて、魏志を書いたんだから、
壹與の頃にも「南≠東」のルールで、大和が否定される件は、
有効なんだよ。
0495日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:12:39.75
歴史的事実が虚しくなる異民族の説だからな
0496日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:14:44.96
>>480
しらんよ。
うちが知りたい。
0497日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:15:43.70
摂津住吉は、筑紫日向でイザナギが禊をした時に生まれた住吉三神を祭る、博多住吉の分社。
天津神(海の神)であった筑紫倭国の王家は、各地の港に宮を立てながら進出した。
同じ筑紫日向から来た鴨一族と協力して畿内を開拓したのだろう。
もう一つの畿内の勢力、饒速日も天津神の称号を持ち、ともに畿内を開拓していた。
そこに、筑紫日向から遅れて磐余彦(神武)もやって来る。
0498日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:16:43.00
>>496

知らんけど妄想してるってことだな
0499日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:17:04.91
>>688
>距離誇張でそこは根拠にならないよ。 謎の部分だよ。
そこから発生する全てが仮説に過ぎないよ。<

魏使らは「自郡至女王國萬二千餘里」に拠って、
陳寿も「計其道里、當在會稽東治之東」に拠って、
どちらにしても、「距離誇張」はないよ。
0500日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:17:36.53
>>494
お前が発明して勝手の決めた
「南≠東」のルールなんて
なんの意味もない
0501日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:17:46.37
畿内にいた氏族は、徹底的に九州からの移民ばかりだ。
0502日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:17:50.18
三島は鴨みたいな蝙蝠と関係ない。

鴨はヤマト征伐の時に寝返った土蜘蛛。
カモはクモだよ。

オクヤマツミ、秋津の姫達を乗っ取ったんだな。
裏切り者だよ。
0503日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:19:24.31
出雲の伝承では、宗像家は出雲帝国の西王家、神門臣家から分家独立したタカアタス命が初代で
宇佐の地に都したと言います。

近畿の葛城に初めて?移住して分家独立なさったのは
世代でいうとカタアタス命らから三〜四世代後。
出雲帝国の東王家の富家/向家の八重波津身命(いわゆる事代主/大物主)の御子、天日方奇日方命らが母親の生玉依媛命の実家の摂津の三島(高槻市辺り)に母子共々に移り、
後に葛城に出雲人や三島からの人らを連れて移住して
登美家(富家)を号して盤拠したのが端緒のようです。
妹君には媛踏鞴五十鈴姫命 と五十鈴依媛命がいたと言います。
少し後に、その葛城の登美家を頼り出雲から西王家の神門臣家の多岐津彦(父は高彦/味耜高彦根命)らが葛城の南部に移住してきて
高賀茂家を号して分家独立。

葛城のこの出雲から移住して分家独立した登美家と高賀茂家をひとからげに葛城のカモ族と呼ばれるようになって、、、
(王族を神族と奉り、神をカモと発音していた所以)


遡って、宗像家初代のカタアタス命には三人の女御が座して、
長女の多岐理媛命は出雲の東王家、富家の天の冬衣命(第7代オオナモチ(帝王))に嫁ぎ
八重波津身命他を生みます。


また、次女の多岐津媛命/神屋楯媛命/高津媛命は出雲の本家、西王家の神門臣家の八千戈命(第8代オオナモチ)に嫁ぎ(いとこ同士の結婚)
高彦(味耜高彦根)ほかを生みます

八千戈と八重波津身の治世の御代に秦人がやってきて出雲帝国をかき回して乗っ取りを謀り、お二方はほぼ同時期に賊のてにより殺害されてします。
この渡来人等との共住を忌避して出雲人が領有した各地に移住した中の一つが上の近畿の葛城(大和)地方。

時代は紀元前3世紀終わり〜同2世紀頃、中国の秦末から前漢の半ば頃に比定出来るカモです?
0504日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:19:26.44
>>484
いやいや、出土品で弓がどうなのかとかさっき指摘されたけどそういうのは追求してなかったよ。
ただ、銃器が発明されるまでの戦争戦術についてはマニアックに調べてたから、その技術の流入も日本に大きく影響与えただろうなーって連想してるの。
自生する素材がない以上、大陸との交流があるところに集中して、武力の均衡も崩れるだろうしね。
まぁ弓の部分に関しては弓マニアの暴走と見てくれていいよー。
0505日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:19:41.40
>>499
「自郡至女王國萬二千餘里」の位置と
「計其道里、當在會稽東治之東」の位置と
ぜんぜん会わないだろ

だから九州説は辻褄が合わなくてダメなんだ
0506日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:20:05.79
>>502
カモはカミなんだとさ。
0507日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:20:22.22
三島は事代主に敗れ、姫達は事代主に奪われたんだよ。
0508日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:20:32.14
>>693
謎でも何でもなく、
大和に邪馬壹國女王之所都はなかった。
0509日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:20:48.78
高天原(海の国)のアマテラス(海の王)は、親戚の大国主が治める稲穂が豊かに茂る陸上(豊葦原中国)が欲しくなった。
そこで船で軍勢を送り脅し、降伏した大国主を殺して国を取った(出雲の国譲り)。
そして孫のニギハヤヒを関西に、孫のニニギを九州に王として派遣した。
奈良盆地には大国主の一族(三輪山の神、富美の一族)が生き残っていて、ニギハヤヒを王として迎えた(後の物部大連家)。
九州に降ったニニギの末裔であるイワレヒコは、九州倭国の戦乱(倭国大乱)で九州を逃れて、奈良にいた親戚のニギハヤヒ一族を頼って落ち延びてきた(後の天皇家)。
蘇我大臣家がいつ頃奈良盆地に来たのかは分からないが、筑紫にいた武内宿禰の末裔と言われる。
古代のヤマト王権はこれらの家系により共同で運営されていた。
蘇我大臣家と天皇家が物部大連家を滅ぼし(物部戦争)、次に天皇家が蘇我氏を滅ぼした(乙巳の変)。
こうして天皇家が畿内の覇者となった。
0511日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:21:48.91
葛城の鴨(=神=王)族には天日方奇日方命を初代とする登美家
(本家は出雲の東王家、富家。また、向(ムコウ)家とも)
、、、葛城の下鴨神社こと、鴨都波神社を氏神と仰ぎ、
併せて三輪山にも同じ祭神=氏神(八重波都身命=少彦(役職名としての出雲の副王)。故に、キキ編纂に当たり、それを改竄して都美羽八重事代主(生前の御名を反転した呪詛)とした。)

、神名を大物主神と仰いで初代の祭主には祭神の御子、葛城の登美家 初代、天日方奇日方の上の妹君の媛鞴踏五十鈴日女命(母親は摂津三島(高槻市島本町辺り)の生玉依媛命)が就かれた。
(以降、九州から侵攻、平定した物部王家(第2次侵攻。第1次侵攻はニギハヤヒやウマシマジに仮託された物部王家の別流。)の
崇神(実際には垂仁=イクメ大王)による祭祀の一旦停止迄、登美家の血筋の日女命が
歴代、三輪山の祭主/日女命(ヒルメの命/いわゆるヒミコ。なかんずく、数人に冠された大倭日女命の称号はまさしく偉大なる女王で大巫女で在られた証。))に就かれた。

その登美家を頼り、葛城の中南部に移住したのが
高彦/味耜高彦(出雲第9代少彦(副王)で西の王家、神門臣家の当主)の
御子の多岐津彦(祖母は宗像家の多岐津媛命)と出雲人ら。
多岐津彦は高賀茂家と号してその初代となり、
高賀茂神社に父親の高彦=味耜高彦を祀り一族の氏神、カモの大御神と仰ぎ(高賀茂神社)、また、叔母の下照媛命も氏神として祀った(中賀茂神社)という。
0512日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:22:10.41
 古代日本で活躍した賀茂氏であるが、伝承を検討すると三系統あるらしい。
第一の系統が味鋤高彦根命を始祖とする
  味鋤高彦根命−天八現津彦命→都佐・長国造
第二の系統が事代主命を始祖とする
  事代主−天日方奇日方命→賀茂・三輪君
第三の系統が賀茂建角身命を始祖とする
 賀茂建角身命−玉依彦−生玉兄日子命→賀茂・鴨県主
である。この三系統の共通点はいずれも葛城山麓に住んでいたということである。

 この中で味鋤高彦根命=賀茂建角身命であることが判明しており、事代主は賀茂建角身命の娘玉依姫の夫である。よって、三系統の賀茂氏は一つにまとまる。
0513日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:22:34.43
>>497

峠で禊はできんだろ
0514日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:22:34.80
>>508
理由も何もなく
ただ俺サマ結論を言い張るだけ

それが九州説
学問ではない
0515日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:23:39.46
>>695
>邪馬台=大和のどこが無理やりだ?<

「邪馬壹國→邪馬台国」が無理やりだし、
「南→東」も無理やりだ。
0516日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:23:45.69
>>507
賀茂氏は畿内の有力氏族だけどね。
鴨長明も鴨王の末裔だとは知らなかった。
0517日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:23:59.34
>>421
魏から邪馬台国への贈り物は弓などの武器
を送れば、狗奴国との戦争にも役立つのに、
贈ったのは女向けのきらびやかな品物が主体
なんだよな。
0518日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:24:23.18
>>513
高祖山の麓は博多湾なんだが。
0519日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:24:31.50
>>514
畿内は思考停止して断定する宗教的盲信なのってきりかえされるよ。
まだまだどれも仮説に過ぎないよ。
0520日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:25:35.44
>>517
卑弥呼は喜んだろうが、重臣たちはがっかりしただろう。
本来なら宗主国として援軍を送るべきところだしな。
0521日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:27:17.46
>>696
>ならん、という決めつけで思考停止してるよ。
大陸の脅威を知ったかこそ東遷か遷都かが起こったのかもよ。<

卑弥呼も壹與も、大陸からの脅威はなく、
だから「東遷も遷都」も起きなかった。
0522日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:27:39.48
どの時代に九州から畿内に入ったかの違いに過ぎないな。
それもわずか数世代のうちだから、2世紀末から3世紀末の畿内の急速な発展の正体が筑紫日向からの進出だ。
0523日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:27:56.37
>>518

日向は峠だけだろ
0524日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:31:37.66
>>704
どうやら大和説には、基礎的な人間性や人類の常識が欠落しているようだな。
だから「南≠東」などに違反する大和説なんて言い張ってるんだろうけど。
0525日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:31:38.37
>>489
九州説なんて投げ捨てて
徐福研究を進めて欲しい
0526日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:32:28.65
>>521
大陸の脅威がなかったなんて言えないよ。
馬鹿じゃなきゃ同盟国の状況を調べてそこの性質も見極めるよ。
裏切り上等の大陸を警戒してなんの不思議もないよ。
妄信しちゃだめよ。
0527日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:32:32.14
>>479 魏志倭人伝に弓の記載がある。
木弓短下長上
木の弓は下が短く上が長い。

和の弓の特徴がよく出ている。
0529日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:35:55.35
>>520
海を超えて援軍を出すのはかなり困難だぞ。
贅沢品を贈って懐柔するのがむしろ良いかもしれないな。
争いはより強い力で勝つよりも、実際は女を
リーダーにすることでまとまっているし。
0530日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:38:46.52
狩猟の道具としては、3万5千年も前から日本で弓は使われてるよ。
ただどうもねらってたのはシカとかの大型動物がメインで精度は低かったようだよ。
道具としての制度の高さと武器としての運用方法戦術が流入してきたとすれば
大陸素材の強い弓が一部だとしても、精は向上しそれまでと戦い方、戦術が変化するよ。
それを得る可能性がもっとも高いのが九州北部などのエリアだと思うよ。
島根で弩が出土してるのも、そういった技術がながれてきてることの証明だと思うよ。
0531日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:38:51.53
>>737
気の毒な事だけど。
とっくに九州説で決着はついてるんだけどね。
0533日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:40:50.41
>>528
其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃

馬を贈るとか鉄のやじりをもっと大量に供給するとか
軍船を贈るとかもいいのに、
檄文をだして旗を贈る程度。卑弥呼が死んだころは
邪馬台国滅びそうになってるし。
0534日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:41:30.20
>>527
日本の弓は、素材に良いものがないから、日本製だとそうなるよ。
大きくすることで威力を出し、下を短くすることで取り回しを良くしてるよ。
そして、大きく引く耳のうしろまで引くスタイルも、強い素材がないことから生まれた
独特の射撃スタイルだよ。
0535日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:41:49.50
>>743
>邪馬台国があったとされる機内には卑弥呼の時代、3世紀に
全国に類を見ない大きな前方後円墳が出現しました。
また、魏との交流を示す三角縁神獣鏡も多数見つかっています。
これはほかの地域には見られないものです。
魏志倭人伝との記述にも一致しており、
邪馬台国畿内説は疑いようもないのが現状です <

もう2回も反論済みです。
0536日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:44:46.79
素材が耐えられる「しなり」が小さくても大型化することで必要なしなりを確保。
耳の後ろまで大きく引くことで、弱い反発力でも矢にを押す時間を稼ぎ運動エネルギーを高める。
そういう技術が素材に恵まれない日本で生まれたんだよ。
0537日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:45:59.15
>>512
空想はいらない。
系図の根拠、鴨が住んでいた遺跡、その遺跡が鴨のものである根拠を書けよ。
0538日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:46:17.99
>>746
>九州北部から船で南に行けば何かある? 何もないだろ、<

南九州の投馬國がある。

>東に行けば畿内大和だ <

「南≠東」だから、東へは行かない。

>だから南は東の間違いの可能性が高いだろ、

だから、「南→東」は間違い。
0539日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:46:37.90
>>535
南みなみって何度喚いても反論にならんし
0540日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:48:13.07
>>527
そして、のちに竹をメインに他の素材も張り付けさらに大型化した日本独特の和弓に発展したんだよ。
弓の歴史も面白いでしょ。
世界の古代の戦争でも弓って影響がとてつもなくでかいよ。
日本でもきっと影響あったと思うけど、日本の古代史ではあまり重視されてなくて残念よ。
0541日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:48:41.37
>>531
虚勢が悲惨
0542日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:49:05.51
>>517

魏は高句麗韓濊を討伐してるから
韓濊島である北部九州の奥の本州の女王国を懐柔するのが
とても効果がある
0543日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:49:17.32
>>749
>学者の間ではとっくに決着がついておる <

「南→東」などの嘘を付いた大和説学者なんて、
何の信頼性もなく、根拠にもならない。
0544日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:50:31.09
>>534
大きな弓にすると、長い矢を使えるしな。
長い矢だと何がいいかというと、強く長く引き絞れることだ。
短い弓をあまり曲げ込むと、曲げ癖がついてしまって
弱くなる。だから弓といえどもあんまり曲げるわけには
いかないからな。糸も、動物の腱をつかえば強い糸にできるが
日本では入手しづらいし。魏が供給すればよさそうだが。
耳のうしろまで弦を引くのは実際にはやりづらい。
耳にあたってしまうことがある。だから実際はほおのあたりまでが
無難。騎馬の上から弓を引くのはこれはかなり難しいことで、
那須与一などは貴重な存在。
0545日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:52:08.55
南に水行10日と陸行1月の部分は、その前の文章にすぐ
「南至邪馬壹國」がくっついてるよ。
隣接してるから距離表記していないと考えると
南に水行10日と陸行1月は帯方郡からのおおよそのトータル距離とも考えられるよ。
そうすると九州かもよ。
0546日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:58:46.40
鴨、死した神を蘇らせる神。
死んだ神々を乗っ取る神ということだな。

背乗りを公言しているだけ偉いわい。
0547日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 23:59:10.70
和弓の弦の原料は麻繊維
0548日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:00:45.25
>>523
筑紫の日向のクジフル山は、高祖山のすぐ南の頂のことです。
日向川は室見川の支流です。
筑紫の日向の小戸は、今ではヨットハーバーになっています。
0549日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:01:42.67
>>529
武器を供給すると内乱が加速する可能性もあるしな。
0550日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:02:34.82
>>544
そうだよ。耳の後ろまで引くってのは和弓の本当に独特なところだよ。
サイトのない弓では、体に触れる毎度安定して同じ位置から発射できる姿勢が大切だよ。
うちだと右頬に右手の甲が毎度同じように触れることを意識してサイティングするよ。
和弓のように矢を放つ手が空中なのはちょっと特殊な技能だよ。
ただ、弓はスナイピングメインじゃなく、近距離武器だと考えると変わってくるよ。
ある程度練習すると、10m先の人サイズの的なんて適当に撃っても当たるよ。
前衛後衛考えた戦術や、大人数の弓運用であれば、遠距離で正確な射撃を狙うより
確実な戦闘方法になると思うよ。
うちの趣味程度の技術で3秒に1矢以上うてる。
熟練弓兵が、10人で固まって連携して攻めれば、単純に1秒に3矢以上とんでくるわけだ。
そんな戦術が当時の日本に入ってくれば、戦争は一変するね。
0551日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:02:44.01
>>540
アーチェリーみたいな上下対象の弓の方が
命中率も良さそうなのに、日本風の長弓は
古代から使われているというのが不思議だ。

リアル弓(パプアニューギニア)
http://footage.framepool.com/shotimg/qf/940999454-%E5%85%B5%E5%A3%AB-%E5%BC%93-%E8%85%B0%E5%B8%83-%E3%82%AB%E3%83%84%E3%83%A9.jpg
身長と同じぐらいもある。
それを実際に日本人が使わせてもらったら
(研究者だがウエイトリフティングをやるほどの筋肉男)
弓が大変固くて、充分ひきしぼることができなかったそうだ。
それで矢を放ったが威力不足だという。ニューギニアの男がひきしぼると
ものすごい勢いで矢が飛び出した。ただ、弓の戦いは
どうしても長距離戦になりがちで、死者はそんなに多くならないという。
(ただしパプアニューギニアにも鉄砲が入ってきたので死傷者が増えがち)
0552日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:04:17.27
>>529
そこで技術戦術の支援だよ。
戦争の技術で圧倒的に前に進んでる技術戦術が力の均衡をうごかすこともあると思うよ。
0553日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:04:24.84
>>548

だから日向は峠だけ
0554日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:04:28.92
>>545
伊都国が糸島市前原あたりなら、邪馬台国が平原あたり、クジフル山の高祖宮(高千穂宮)付近になる。
0555日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:06:02.55
>>553
筑紫の日向の小戸がヨットハーバーになった。
0556日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:11:08.00
畿内説は日本の歴史を破壊している。
畿内勢力の具体的な名前と出自をごまかすことで、畿内説をでっち上げている。
姓氏録から天神系(筑紫)と地祇系(出雲)を除いたら、古墳時代以降の渡来系くらいしか残らないのではないか。
大和朝廷の氏族を軒並み出自不明の根無し草にして何が畿内説だ。
0557日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:12:41.47
>>549
人や物だけじゃなく、技術や戦術でもきっかけになると思うよ。

>>551
弓はそれだけで殺せたらラッキーみたいな感じだよ。
相手を怪我人だらけに消耗させてから突撃だよ。
他に近距離戦での支援、火矢で燃やす、食料調達、運用は多彩だよ。

あと弓の引きはコツだよ。
アーチェリーの県体に参加したことあるけど、うちより細身でどう見ても腕力なさそうな人が
うちより数段思い弓引いてた。
熟練するほどそうなるよ。
0558日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:14:52.35
>>550
後3年の役や現代の流鏑馬で見ると、
耳の後ろまで引き絞ってたわ。
卑弥呼の時代からそういう弓だったとは
ちょっと信じられないけどな。

上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢
生口や倭の錦、赤、青の目の細かい絹、綿の着物、白い布、丹、木の握りの付いた短い弓、矢を献上した。

魏の皇帝は邪馬台国の短い弓を見ているので、
(通常、弓は短いや長いは言わない。日本の長弓だけが特別)
弓についてはそれで充分だと思ったのではないかと思う。
戦国時代でも飛び道具が主流で鉄の刀はあまり使ってないから、
魏としては武器を送るまでもないと思ったのかも。
むしろ経済力で従えさせるのが皇帝らしいというか。
0560日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:15:34.12
>>537
賀茂(鴨)神社があちこちにあるじゃないか。
京都と大阪に合わせて末社、氏子がどれだけいると思っているんだ。
畿内の歴史を無視するなよ。
0561日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:16:13.23
>>554
伊都国からはどこも、「至る」みたいに〆られてるのが気になるよ。
伊都国からは、伊都国からの距離を表しているとする説も捨てがたいよ。
その上で
水行10日陸行1月は帯方郡からのトータル距離とみればしっくりくるよ。
方角無理くりする必要ないよ。
自然だね。
0562日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:17:04.03
>>557 そっか。俺は弓道部だけど
アーチェリーがあれがその方がいいと
思ってたけどなあ。
0563日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:17:33.99
三島神社と三輪神社も同系だな。
で、その由来を否定するキナイセツって何なんだ?
0564日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:18:25.13
>>558
それって、邪馬台国の弓は短かったという証拠なんじゃ?
0565日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:21:38.67
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。


また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。

ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。

つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。

というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
0566日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:22:06.12
>>559
長い弓だけど中央だよな。不思議だ。
アイスマンは、イチイの木だがこれも長弓。
(イチイは寒冷地向けの木)
当時の倭人は、自分の身長を超えた弓を
使ってたんじゃないかな。そうじゃないと
上が長く下が短いとはならない。
0567日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:23:24.14
摂津住吉、三島溝杙の伝記を調べれば、筑紫日向から瀬戸内を通過して大阪湾に達するルートが存在していたことがわかるな。
0568日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:23:24.27
>>564 長い弓は持ち運びがとっても不便。
長距離の旅では短いのを持っていったのだろう
0569日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:24:03.01
いないね、なぜだと思う?

いま川崎に住んでいるから、誰が住んでいるのか?

説明不要
0570日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:24:57.42
>>558
分かってる範囲でも35000年前から日本で弓が使われてるのだから
その時期にすでに、日本の弱い素材でもなんとか威力を出す射撃方法が
自然発生しててもなんも不思議じゃないよ。
とはいえ、その35000前は、気候が違うので強い素材があった可能性もあるよ。
東夷伝にすでに和弓の原型を思わせる物が記録されてるってのが面白いね。

さらに古い時代の人骨とかの発掘で矢傷での死亡は多々見られるらしいよ。
衛生観念とかなかった時代だから、定番だけど矢傷にばい菌入って破傷風とかで死ぬらしい。
即殺できなくても相手の戦力削ぎ取るには最高だね。

>>559
そだね、ロングボウだね。工夫の少ない素の状態のロングボウだね。
0571日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:25:11.97
献上品の弓には豪華なものを選ぶと思うのだが、実際に短いものしかなかったのではないか。
三国時代を戦い抜いた魏から見たら、倭国大乱は小競り合いくらいにしか思えなかったのかもしれない。
0572日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:30:50.08
祭祀用の弓だろ

https://miko.org/~uraki/kuon/furu/explain/column/miko/book/hujyosi/21/okamin01.gif
0573日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:34:19.23
>>554
だね。可能性十分あるね。

>>564
儀礼用とか鳥類用の弓かもしれないよ。
アマゾンとか各地の原住民の弓は鳥類用だと極端に小さいよ。
35000年前から大型動物を狩猟していた日本では、小型の弓が主流だったってのはさすがに考えにくいよ。
ただでさえ素材に恵まれないのに小さくしちゃ大型動物倒せないよ。

>>566
自分の身長を大きく超えた弓を使ってても不思議じゃないね。
なにせ現代の和弓が身長よりはるかに大きいよ。

>>568
それもあるかもね。
0575日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:35:16.26
鴨が死んだ神々を蘇らせる仕組み。
悍ましいわい。

古墳時代の秋津遺跡。
強固な板塀で囲まれたエリアで何が行われていたのか?
死んだ神々の姫達を収容していたんだよ。始まりは、オクヤマツミ、秋津の姫達だ。

姫達からの系図、姫達の持つ権威を利用したんだよ。

復活した神々の種は知らん。何でも良かったんだろう。クモでもな。
0576日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:37:32.77
第七回朝鮮通信使
5/08 晴 ソウルで出発式■釜山まで陸路■行程30里( 約12km) 良才駅泊
5/09 不明 龍仁?泊
5/01 晴 行程80里(約33km) 竹山泊
5/11 晴 崇善で昼食 行程120里(約50km) 忠州泊
5/12 晴 昼食後出発 行程40里(16km)安保駅泊
5/13 晴 行程40里(16km)開慶泊
5/14 晴 行程70里(29km) 龍宮泊
5/15 晴 關禮、行程30里( 約12km)醲泉泊 宴会
5/16 晴 豊山で昼食 行程70里(29km) 安東泊 宴会
5/17 晴 行程70里(29km) 義城泊
5/18 晴 行程50里(20km) 義興泊 つづく
5/19 晴 行程40里(16km)新寧泊
5/20 晴 行程40里(16km)永川泊 宴会
5/21 晴 行程75里(31km) 毛良で昼食 慶州泊
5/22 晴 慶州泊
5/23 晴 行程70里(29km) 蔚山泊
5/24 雨 龍堂で昼食 行程120里(約50km)東莱泊
5/25 晴 東莱泊
5/26 雨 行程20里(8km)釜山泊 ■釜山にようやく到着■
5/27 晴 釜山泊 5/28 晴 釜山泊 5/29 晴 釜山泊 宴会
6/1 雨 釜山泊 倭館で關禮と渡航打ち合わせ 6/2 晴 釜山泊
6/3 晴 永嘉台で安全祈願の海神祭 6/4 大風雨 釜山泊
6/5 雨 釜山泊 6/6 晴 船に荷を乗せる 釜山泊
6/7 雨昼晴 釜山泊 永嘉台で宴会
6/8 晴 倭館の市場を見物:倭館の開市は3と8の5日間隔
6/9 大雨 釜山泊  6/10 大雨 釜山泊
0577日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:38:21.75
6/11 雨 釜山泊  6/12 大風雨 釜山泊
6/13 晴 釜山泊 副使病危篤  6/14 雨 釜山泊
6/15 晴 關禮、釜山泊 副使死亡  6/16 晴 釜山泊
6/17 晴 釜山泊 埋葬
6/18 晴 出航 対馬の佐須奈泊■ようやく釜山から出航。1日で対馬到着■
6/19 小雨 佐須奈泊  6/20 曇 佐須奈泊
6/21 晴 府中(厳原)向け出航、風浪で大浦に避難 行程20里(8km) 大浦泊
6/22 晴 波高く 大浦泊 小船で周辺見物
6/23 晴 行程10里(4km)至る鰐浦口。風不順なので櫓船で曳航し鴨瀬着 船内泊
6/24 晴 行程70里(29km)府中泊
6/25 晴 府中泊 奉行と打ち合わせ 宴会
6/26 晴 府中泊島主、西山寺主と会う 6/27 晴後雨 府中泊 牛1頭貰う
6/28 晴夜雨 府中泊  6/29 晴 府中泊 宴会
7/1 晴 關禮、府中泊  7/2 晴 府中泊 7/3 小雨 府中泊 
7/4 夕雨 府中泊 7/5 晴 府中泊  7/6 晴 府中泊  7/7 晴 府中泊 
7/8 晴 出航 壱岐泊 ■ようやく対馬出航 一日で壱岐に着く■
7/9 晴 出航 行程350里(146km)藍島(相島)泊■福岡市の沖合の島に到着■
7/10 晴 最初は西風で順調、風が東に変り終日櫓で曳航 行程240里(100km)下関泊
■下関に到着■
0578日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:38:44.79
7/11 晴 阿弥陀寺泊(下関)
7/12 雨 阿弥陀寺泊(下関)
7/13 朝雨午晴 阿弥陀寺泊(下関)書を求める人多数
7/14 曇雨 阿弥陀寺泊(下関) 東風が強く出航できない
7/15 晴 關禮、西風になり出航、行程180里(75km)向浦(長門)泊
7/16 晴 風勢悪く帆が使えないので櫓 行程170里(71km)上關(周防)泊
7/17 晴 北風で帆が使えないので櫓 行程120里(50km) 津和村(周防)泊
7/18 晴 北風で帆が使えないので櫓 行程80里(33km) 鎌刈(安芸)泊
7/19 晴 行程200里(83km) 韜浦(備後)泊
7/20 晴 行程100里(41km) 下津(備後)泊
7/21 晴 東風で帆が使えないので櫓 牛窓(備前)泊
7/22 晴 行程100里(41km) 室津(播磨)泊
7/23 風待ちで待機 室津(播磨)泊
7/24 風待ちで待機 室津(播磨)泊
7/25 晴 行程130里(54km)明石(摂津)泊
7/26 晴 水深が浅いので川船に乗換、行程130里(54km) 大阪城泊

ソウルから大阪たっぷり2ヶ月以上かかってる。水行一月・陸行一月とでも記録しそうだな。
風待ちの日がものすごく多い。
0579日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:39:59.34
意外と弓に興味示してくれる人がいて嬉しいよ。
世界中の戦いで弓は大きく影響してるのに日本だけそれがないってことはないと思ってるよ。
強い弓が来たってだけじゃなく、戦術に取り入れられ大きく変化を起こした時期が
日本にもきっとあったと思うよ。
それが大陸と交流が深かった九州北部からであり、倭国大乱より昔ではと思うよ。
きっと何度も何度も開拓団は出て行ったんだと思うよ。
けどやっぱり最も進んだ文化と技術と武力を持っていたのは九州北部であり
最終的にすべてを飲み込んで大和朝廷となったのかもね。
0580日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:41:43.81
大陸は短弓だろ
0581日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:44:17.14
「其弓長四尺力如弩」挹婁伝
0582日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:44:39.33
>>578
これ見ても、水行10日陸行1月は帯方郡からのトータル距離とみるのが自然では?
まぁ時代が違いすぎるけどねー。
0583日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:44:39.67
宮崎県が日向国と呼ばれるようになったのは、景行天皇の命名によるもの。
それ以前に日向といえば筑紫(福岡県)の日向であり、伊都国と奴国の周辺のこと。

では宮崎県はなんと呼ばれていたのか?
日向国一宮は妻神社であり、投馬国が当時の呼称だ。
帯方郡から、末盧国で上陸せずに水行するだけでたどり着けるが、魏の使いは関門海峡を通過しなかったので、倭人からの伝聞の日数しか記録されていない。
0584日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:47:17.84
倭人伝に日向峠は書いてないだろ
0585日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:47:44.14
大和朝廷は縄文系の出雲などの山陰の勢力、尾張、阿波、鴨ことクモ、宮崎と遠賀川の石神、紀伊、西瀬戸内海の海賊、亀岡〜丹波が作った政権だな。

畿内や九州北部は征伐された側。

渡来人の勢力神々が、豊かになった縄文系の勢力に征伐殺されたんだな。
0586日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:49:31.31
>>545
南に水行10日と陸行1月
といっても、風待ちがやたらと多い。
瀬戸内海でさえ、これまた多い。
対馬海峡横断は、風待ちがなければ
3日だが、実際の記録を見ると、
とてもではないが3日で海峡横断は無理。
ただ島間は1日で突っ切っている。
0587日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:49:54.56
>>584
伊都国から奴国に移動するのに通過しているはずだが、名前は紹介されていない。
0588日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:50:47.12
>>580
馬で接近して、パルティアンショットが
あるからな。後ろ向きに射つから
すぐ離脱できる。
0589日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:51:59.96
>>584
日向峠は高祖山の南側だが、日向小戸は高祖山の北側だ。
少なくともこの両方を含む範囲が筑紫の日向。
0590日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:53:10.92
>>589

お前が範囲決めても意味ないから
0591日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:55:22.55
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の筑紫日向なら朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
0592日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:58:44.56
高祖山は、東が福岡平野、西が糸島平野に開けている。
北は博多湾に面して、その向こうには朝鮮半島がある。
邇邇芸の国見の詔は実に正しく地理を説明している。
0593日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:59:20.51
筑紫日向峠と書いてあればな
0594日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:59:39.81
>>582 そやね。朝鮮通信使は江戸時代だけど、
帆船使っているし、朝鮮に出兵した小西行長も
朝鮮の最前線から大阪の秀吉まで報告のため最速で
飛んでいっても一ヶ月はかかっているよ。
朝鮮出兵のときは韓国西海岸は制海権をとれなかったから
日本軍将兵は半島を陸行したけれど、朝鮮の使節は
対馬から釜山について港に入ると、そのまま上陸して
陸路でソウルに行ってしまう。行きも帰りも歩く。
水行の不安定さに比べれば、歩いた方がまだ確実かもしれない。
0595日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 01:02:07.00
「其俗少綱紀 國邑雖有主帥 邑落雑居不能善相制御 無跪拜之禮」韓伝
こっちのほうが危ないだろ
0596日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 01:03:16.98
>>593
峠だけじゃないよ
0597日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 01:04:06.62
>>582
水行10日で無理とわかる
0598日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 01:04:52.52
久米(くめ)氏族の発祥として、和名抄にいう肥後国球磨郡久米郷の存在が指摘されます。
人吉盆地は球磨(くま)の中枢、のちの熊襲(くまそ)の地。
古代においてメとマは同音とされ、久米はクマとも発音されます。
歴史学者、喜田貞吉は「久米は玖磨にして、久米部は玖磨人、即ち肥人ならん」と述べ、久米は狗人、熊襲に拘わるとしました。

新撰姓氏録は阿蘇祖族、山部氏族を隼人同族の久米氏の流れとして、久米(くめ)は熊襲の球磨(くま)であり、魏志倭人伝の狗奴国(くな)もそれに纏わるとします。

狗奴国はもとより句呉の太伯の子孫とする説があり、大宰府天満宮所蔵の翰苑は
「女王国の南の狗奴国は、自ら 太伯の後であると謂った。」と記し、
旧隼人町の大隅国一宮、鹿児島神宮には句呉の太伯が祀られています。

久米氏は隼人系の海人といわれ、久米族とでも呼ぶほうが相応しい異能の集団。
大久米命は黥利目(入墨目)で、入墨は海人の習俗とされます。
そして、のちの隼人が天皇や王子の近習とされ、宮中の守護にあたります。

橿原神宮から橿原神宮前駅へ向かう参道の右手は久米町。
古えの大和国高市郡久米邑であり、神武二年の天皇による論功行賞において、大久米命に与えたとされる地。
久米氏の氏神と氏寺が町中に並びます。

久米寺に鯰(なまず)の奉納額がみられ、古く、久米氏族が鯰をトーテムにしていたとされます。
鯰の伝承といえば、阿蘇の大鯰の逸話が知られます。
阿蘇の開拓神、健磐龍命の神話では、健磐龍命は大鯰を退治して田畑を拓きます。
この逸話は中央から下向した氏族に鯰トーテムの民が服属する図式を示すといわれ、阿蘇の古い民は鯰の信仰をもつとされ、阿蘇の古社には神使として鯰が祀られます。
0599日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 01:06:10.23
>>596

峠と小川だけ
0600日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 01:07:15.77
>>597
ちんじゅ は さすがに宴会の日などの
停滞したまま動かない日は差し引いたんじゃないの。
海峡横断は10日ぐらいを見込めば充分だろう
0601日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 01:08:31.40
>>588
「其國便乗船寇盗 鄰國患之」挹婁伝

船も乗る
0603日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 01:10:47.00
肥前一宮ヨド姫神社は、トーテムとしてナマズを祀っている。
このヨド姫は、壹與のことではないかと言われている。
ヨド姫は干珠満珠という玉で海の潮の満ち引きを制御したという。
筑後一宮である高良玉垂宮の玉も同じ干珠満珠のことであるという。
さらに、穴門豊浦宮にいた神功皇后は武内宿禰にこの干珠満珠をとって来させたという。
神功皇后が祭壇を作って干珠満珠を祭った場所が壇ノ浦と呼ばれる。
0604日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 01:12:53.84
本国の済州島ではヨンドンハルマンだよ
0605日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 01:15:09.68
>>588
とはいえパルティアンショットを騎馬軍団で活用できるのは
パルティアやモンゴルのような遊牧民族限定だったみたいだよ。
馬上弓って時点で、普通の国では一部の人の訓練を積んだ特殊技能。
ところが、遊牧民族は馬上で過ごし馬上で弓を使うのが日常。
だからこそ戦闘でも運用できて無双のチート戦術だったんんだよ。
0606日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 01:33:42.48
前漢代の遺物に騎射像が結構出てるよ
0607日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 01:52:38.95
>>603
他のスレにも書いたんだけど、
誰を倒すという物語になっているの、神?
0608日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 02:10:36.84
ゲームなどがあるでしょ、
牛(ミノタウロス)のような敵を倒したりするけど、どういう事なんだろう

その敵から金品を得たり、犯罪者の話?

それと『松傾』?
日本人ではないのかな、牛が何やらと書いてあったり
0609日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 02:14:27.11
『松傾』〜『津真道』?

どのような人物なのか、見たことないはず、
当時の容姿など
0610日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 02:19:09.30
他のスレにも書いた

『津 真道 須佐之』

グーグルなどで検索してみて
0611日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 02:24:36.33
すさのお?などが、
生きていた時代の書物、肖像画など・・・なかったのかな、
オロチを退治している画も、かなり後の時代に描かれたモノだと思う
0613日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 02:33:52.98
実在していたとして・・・『アマテラス』も同じ

調べると出てきたりする絵があるけど、
神話から、かなーり後の時代のモノばかりのはず
0614日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 02:37:42.58
ジンム

>『日本書紀』によると、
>甲寅の歳、45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった磐余彦は、
>兄弟や皇子を集めて
>「天孫降臨以来、一百七十九萬二千四百七十餘歲(179万2470余年。神道五部書のうち『倭姫命世紀』、
>『神祇譜伝図記』ではニニギは31万8543年、
>ホオリは63万7892年、ウガヤフキアエズは83万6042年の治世とされ、
>計は179万2477年となる。)
0615日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 02:53:01.20
麻なのか絹なのか、しらないけど、着ている服(画を参照)

そういう衣服の歴史とか、デタラメなのかな
0616日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 03:04:14.43
ヤマタノオロチの正体はオロチョン族だと考えるとスッキリするんだよな、オロチョン族はツングースエベンキ族みたいなもんだしね、
当時大量に半島から入り込んできたわけだ、スサノオが飛騨からオロチョン退治に行ったと
0617日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 03:04:24.91
 
 九州説はウソばかりついていたから消えたんだよ
 

 
0619日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 03:29:29.21
そうなると思う

実在していたとしても

すさのお より

あまてらす のほうが

先に産まれている事に

なっているし
0620日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 03:48:35.06
 九州説は荒らしばかりやってるから世間から見放されたんだよ
 

 
 
0621日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 06:01:21.65
弓道は武道から除くべきかな
戦いには有効だが
武道の範疇では卑怯な手だな
1対1でおのおの弓で戦うなら認めるけど
0622日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 06:08:57.84
畿内説のスレで九州説が圧倒だな
畿内説の猛者が現れるのを望む
0623日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 06:15:30.68
箸墓古墳隣接の「池の水抜く」放送中止は地元の反対
なぜ反対したのかよくわからん
0624日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 06:24:14.89
>>621
弓より金属バットを武道に入れたほうがいいかも(笑)
0625日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 06:36:26.06
>>751
>三角縁が筑紫の方が古いって何だよ 景初元年鏡でも見つかったのか<

最古は、志登の鏡。
その後、祇園山や那珂八幡や原口に現れ、列島各地にも表れるが、
しかし、大和の三角縁は、ホケノの後であり、4世紀。
0626日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 06:49:46.84
>>758
>三角縁神獣鏡は呉から1枚も見つかってないから呉鏡じゃないよ<

三角縁も、神獣鏡も、呉で盛行し、楽浪でも盛行していて、
「三角縁+神獣」鏡が列島でばかり大量に見つかり、
「海東」鏡のように、鏡師が列島へやって来た事を示す記銘鏡があるから、
呉系楽浪鏡師らの中の「三角縁神獣鏡」を造る鏡師も、
楽浪の戦火から逃れて列島へ来て、三角縁神獣鏡を造り始めた。
0627日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 06:53:54.18
>>622

>畿内説のスレで九州説が圧倒だな

そんな妄想に浸ってるから九州説が滅んだんだよ

 
0628日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 06:55:51.62
>>625
これも妄想
0629日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 06:59:58.45
>>763
>大きな前方後円墳の中でも最古級の箸墓古墳は 3世紀後半(250から300年)。<

加美が「庄内」で285年以後の伽耶の陶質土器と共存で、
ホケノがその後で「布留」で「有槨」」で、
箸墓は「布留」でホケノの後だから、
箸墓は、4世紀。

>卑弥呼が死んだのは 248年だからぎりぎり入るか入らないか。<

入らない。

>三角縁神獣鏡の出土じつに540面以上。大部分の出土は
西暦300年以降の古墳から出土するので、国産説が払拭できない。<

呉系楽浪鏡師らの渡来に拠る「列島」産。
0630日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 07:01:49.78
何を言うにしても出典や先行研究が示せないだろ?
九州説は我流解釈だけだ

考古学だけじゃなく
あらゆる分野の通説を破壊しないと
九州説は浮かぶ目がない
ってことを知るべきだな
0631日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 07:06:26.01
>>765
>終わりの始まり
【歴史】「鏡研究者側が疑問点をどんどん出さないと」 邪馬台国畿内説の論拠にも…
三角縁神獣鏡、製作地論争 画期的「国産説」の登場
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1516272714/

ご紹介、どうも有難う。
0632日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 07:10:05.02
>>630
どう見ても九州説は素直な解釈だよ。
畿内説は文献も地理もともに無理くり解釈だよ。
どちらもまだまだ仮説に過ぎないけどね。
0633日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 07:12:25.79
>>766
>古いな 200年代の墓からも三角縁はいくらでも出てる
あと伊都国や奴国の南に邪馬台に相当するような 大きな遺跡はあるか?<

弥生銀座付近〜筑紫平野部が邪馬壹國中枢であり、大きな遺跡ばかり。
0634日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 07:21:46.02
畿内発祥で畿内勢力の権力が保たれ入れ替わりなく続いてたら、記紀の内容がアレなのはあまりに不自然だよ。
そこの納得のいく説明を一度も見たことないよ。
畿内を治めた九州からの勢力が、自分たちのルーツをそこそこ素直に書いたから情けないところも恥ずかしいことも書けたんだと思うよ。
日本に古くから住む人種は世界と比較して、数万年も貝塚から対人用の武器が出土しない平和的な民族らしいよ。
基本嘘つかない優しい体質なんだと思うよ。
それは現代の日本の世界一と言えるモラルや治安に繋がってると思うよ。
何かで火がつくとキチガイ変態戦闘民族になる一面もあるけどね。
記紀も素直に書かれた、記憶が薄れるほど古いものは神話として書かれた。
そう考えてるよ。
記紀を簡単に切り捨てたり無理くり解釈したりとか自分たちの先祖馬鹿にし過ぎと思うよ。
0635日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 07:28:00.61
>>806
>いずれにしても邪馬台国に向かうには九州北部素通りして
そっから船出しなきゃならんのだぞ <

投馬國記載は、出発と到着記載の間に「途中移動」の記載がないから、
側副傍線行程記載であり、魏使らは行っていない。
そして、不彌國で、「折れ線的道のり記載里数」がほぼ萬二千余里になってしまっているから、
邪馬壹國女王之所都は、不彌國の直ぐ南にある。
0636日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 07:29:42.10
>>807
>南水行10日陸行1月はどうすんの?<

女王之所都に関する説明であるから、郡からの「日数」説明。
0637日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 07:49:10.91
>>417
弓は日本のは古墳時代から上が長くて下が短い独特の形
魏志倭人伝に出てくる
0638日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 08:02:49.22
>>491
桓靈間倭國大亂 更相攻伐歴年無主
(桓靈の間倭国大いに乱れ 何年も王が居なかった)
0639日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 08:02:51.68
>>637
弓そのものは35000年も前から使われてるよ。
日本の弓が威力を高めるためその形に大型化していった経緯に大陸の強い弓を知ったことが関係してるかもしれないし、変則的な形で精度を保つ技術が入ってきたのかもしれないよ。
最古の記録、奴国が漢と交流してちょい弓を知って、その後の工夫でなんとか威力を高めたあの形の日本独特の弓が生まれた。
とか考えるよ。
和弓の原型が少なくとも東夷伝に書かれた時代より古いって凄いね。
0640日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 08:07:33.68
>>639
かもしれないじゃ根拠にならんだろ
大陸で同じ形の弓があったら根拠になるけど
0643日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 08:30:23.47
嘘つきちがい>>1晒し上げ
0645日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 08:40:49.49
>>605
日本の弓は、騎乗して矢をうつとなると、
必ず左側に向けなくてはならない。右側には射てない。
だから、騎射するときは馬をあやつって敵が
左側になるように走らせる。
つまり、馬のアタマが邪魔なんだわ。だから
後ろ向きにパルティアンショットをすると、射撃範囲が広がる。
しかも、短い弓でも威力がでるように急接近もできる。接近して
矢を放つや、馬のケツから打つから、すぐさま全力離脱。
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/000/684/98/N000/000/015/148896307191669250177.png
中国大陸の兵を邪馬台国まで出したくても、花形の騎兵となると
馬は倭にはいないし、舟に乗せるのも難儀だから、短弓をもった中国歩兵を送りこんでもパッとせんわな。
0646日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 08:41:35.74
>>640
ほとんどないと思うよ。
上の長い弓は世界でも日本独特だよ。
素材に恵まれなかったから生まれた工夫の作品だよ。
上の長い弓が入ってきた、ではなく技術。
工作技術が大陸からのの影響でレベルアップして日本独特の形状が作れるようになったのではと考えてるよ。
根拠は日本に良い素材がないことと世界にほとんどない形状だよ。
基本の工作技術木工技術のレベルアップは大陸の影響でも、国産の弱い素材で強い弓を作ろうとしてあの形状になったのは日本オリジナルよ。
と考えてるよ。
0647日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 08:46:00.63
>>605
馬の上で騎射するのは、両手を馬手綱から
離さなければならず、これがすでに難しい。
しかも日本の馬は揺れる。(モンゴルの馬は歩き方が違うので揺れが少ない)
馬上弓は、一部の人の訓練を積んだ特殊技能だね。
騎馬民族は視力がおそろしくいいから(視力5.0とかある)
夜間でも目が効いて、中国皇帝といえども恐れた相手。
なるべく遊牧民族を味方にして辺境警備にあたらせるよう
努めているけどね。
0648日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 08:51:45.58
>>606 花形だからな。騎馬を使うことで
すでに財政的の点で、かなりの有力者。
(日本での徒歩の兵は足軽といって格下)

魏や帯方郡の軍隊のエリートである騎兵(騎馬隊?)を倭に
派遣して軍事パレードをやれば効果的だろうけど、
馬を揺れる舟に乗せるのはこれが大変難しくてな・・
0649日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 09:15:57.07
ですです。普通の国では馬上で弓を扱うのは特殊技能なんですよ。
なので集団で騎兵が弓を使い、奇襲しパルティアンショットしながら逃げて完封するような戦闘は、馬上の弓が生活レベルで当たり前な民族限定のチート戦法だったんです。

ところで
弓の話は燃えますが、話題をふったのもうちですが、日本の話からずれてしまうのでここらで、大陸の弓戦法からは離れます。
すんません。
0650日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 09:20:25.67
東夷伝の邪馬台国への道のりの畿内説への疑問を書きます。

次に何国がある、次に何国があると説明が続いているのに突然距離感覚がぶっ壊れたように途中説明なく畿内に飛ぶ事を不自然には思わないのですか?
0651日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 09:26:07.67
追加質問
東夷伝で出てくる国の数は30位だったかな。当時の都市規模だと綺麗に九州北部に収まるようです。
畿内までだとその3から4倍の国名が出てても不思議でないのに、なぜ何もないのでしょうか。
瀬戸内海を船で移動したとしても中継地点の説明すらないのはあまりに不自然では?

この2つの質問がうちが畿内説がスタート段階から不自然で説得力がないと思うところだよ。
0652日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 09:32:25.78
A:大物主が作った倉庫でした
0653日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 10:17:40.71
>>651
北部九州に綺麗に収まる。
収まりません、単なるこじつけによる思いこみ。

畿内までの国名は傍国が説明しています。遠方だから
詳細が判らないと説明しています。
北部九州に14万戸以上入ると考えるのも論外です。

畿内説説得力以前に君が単に理解能力が不足してるだけですよ。
0654日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 10:23:12.64
>>632
そう思うならお前は変な宗教や勧誘にすぐ騙されるだろうな。
まず邪馬台国伝ではなく倭人伝だと理解する事から始めないと。
0655日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 10:31:41.01
>>653
個数は誇張かもよ。
そういうの考慮できない思考停止が畿内説の説得力のないところだよ。
こじつけは畿内説の得意技だよ。
0656日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 10:34:52.50
>>654
勧誘なんかNHKすら華麗に追い返すよ。
うちは常に東夷伝と書くよ。
でも畿内みたいに無理くり解釈はしないよ。
0657日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 10:36:36.37
>>623
完全に宝探しもどきの遊び半分だったからな

そもそも水抜きは毎年やってる
テレビのおふざけ企画で滅茶苦茶やられるのも迷惑なんだろう
0658日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 10:37:03.00
現在一番可能性が高いのは畿内
なら邪馬台国は畿内でいいだろ
0659日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 10:39:03.71
>>653
あと九州北部の全てを掘り返したわけでもないのに収まらないと断定する考え方が、もう課題を楽しむとか考古学やるのに向いてないよ。
0660日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 10:42:38.18
>>658
高いように祭り上げられてるだけだよ。まるで仮説の域を出てないよ。
畿内の可能性もあるよ。
九州の可能性もあるよ。
東征、遷都した可能性もあるよ。
2つの王朝が統合した可能性もあるよ。
何が正解かわからないのが現状だよ。
決めつけてる人は思考停止してるだけだよ。
まだパズル始めて外側のピースすら埋まってない状態だよ。
0661日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 10:43:59.65
奈良湖を見つめながら遥か西方の北部九州倭国を想った若い日々

鉄器など知らず髭ぼうぼうの毛人だった自分




あの日あの時あの場所で捕まって

生口として奴国に連れてこられて本当に感謝
0662日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 10:52:59.39
弓の話題が盛り上がってたみたいだけど弓の記述は日本独特のものだよね
馬上で長弓とか日本の武士の変態ぶりは世界でも例がない

あと穢れを払うために水に入るとかも今の禊を想起させるな
酒が好きと特記されてる辺り面白い
0663日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 10:53:40.87
>>656
無理に解釈しないと九州説なんかにならないよ。
少なくとも最新の考古学の知識があれば九州説なんか
もはやあり得ない。北部九州は奴国まで。 
現在でさえ吉野ヶ里以上の弥生後期集落は全国にあるからな。
0664日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 10:53:43.95
奴 = 古の罪人、奴婢
0666日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 10:55:31.96
>>660
残念だが少なくとも北部九州の可能性は既にない。
倭人伝を根本的に間違いとするなら別だが。
0667日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 10:55:38.36
>>663
最新の考古学の知識

北部九州=紀元前から鉄器普及、中国産の朱を大量消費

vs

無鉄器地域の無住居大型倉庫
0668日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 10:56:49.70
>>666
本音が出たねw

>倭人伝を根本的に間違いとするなら別だが。

倭人伝だと北部九州になるから、
倭人伝が根本的に間違いということにしないと北部九州説で決まってしまうわけだw
0669日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 10:58:06.63
>現在でさえ吉野ヶ里以上の弥生後期集落は全国にあるからな。

具体的にプリーズ
0670日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 10:58:48.94
紀元前から鉄器普及、中国産の朱=輸出するものが無い時代=朝鮮からの移住
0671日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 10:59:21.48
>>655
そうなると距離も方角もという話になるが。

思考停止なんて九州の話に限定してる奴に言われてもな。
少なくとも九州説は視野が狭すぎ。
0672日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 10:59:22.64
吉野ヶ里は内環壕、外土塁柵 ← 動物園の構造
0673日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:01:25.54
畿内説はまともに議論もできないのか?

印象操作ばっかじゃん
0674日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:02:17.23
>>669
妻木晩田遺跡に朝日遺跡、
鍵唐古だって周囲と隣接してる弥生遺跡合わせたら
数倍以上になるよ。
0675日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:02:39.06
>>663
記紀はモロに九州を指し、漢書後漢書東夷伝隋書全てに九州と読み取れる内容なのに、どう妄想したらきろくぶつで畿内優勢と思えるの。
盲信すごいよ。
最新の考古学が無理くりを支えても断定できないのだから畿内説もまだまだ仮説に過ぎないよ。
0677日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:04:11.06
>>674
え?
たったそんだけ?w
0678日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:04:36.64
>>666
東夷伝も記紀も嘘っぱちとしないと畿内説が成り立たないよ。
0679日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:04:55.19
妻木晩田遺跡も朝日遺跡も北部九州倭人の東征遺跡ですな。
出土品や環濠の形式から明らかです。
0680日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:05:58.37
>>667
畿内説にはこういう部分はモザイクがかかってるのかもね。
0682日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:06:27.75
末蘆、伊都、奴国などの大きさからすると現代の市や郡レベルの大きさだから
北部九州で30国余裕で入るって話だろ?

博多湾までの行程が詳述されてるのに
瀬戸内海やそれこそ肝心の畿内については全然書かれていないのはなんでって
まっとうな疑問だろ?

畿内説は真面目に反論してみろよ?
0683日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:09:00.63
>>677
当然他にもあるが。
九州最大が吉野ヶ里だろw
しかも復元モデルは鍵唐古や他から集めた資料だぞ。
0684日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:09:46.15
>>671
そうだよ。
数字に関して中国はずっといい加減だよ。
現在のGDPすらいい加減だよ。
南京事件なんて人口以上の殺害数っていう超常現象を平気で言うよ。
数値はある程度幅を持って考えないといけないよ。
そもそも当時の情報収集能力にも限界があるよ。
方角や風土の記録より数値は遥かに曖昧だよ。
0685日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:11:30.59
>>673

お前ら朝鮮人と同じで連呼と日本の学者の悪口しか言わないじゃん
0686日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:12:14.97
>>683
九州最大は福岡市内の膨大な遺跡群だな

つうか、弥生日本でぶっちぎりの最大
0687日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:12:51.28
>>681
そしてその島が舞台の中心となり物語が展開するよ。
畿内でなく九州!
畿内に都がある時に書かれたのにね。
出自は九州にありーってことでしょ。
0688日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:14:38.36
伊都王墓群や奴国の巨大遺跡群に太刀打ちできないから
ひたすら吉野ヶ里を持ち出すしかない畿内説

吉野ヶ里なんて甕棺墓文化圏の辺境だぞ
北部九州の辺境集落としか勝負できないのか
0689日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:15:55.83
>>685
おいおい
勝手に日本人同士で戦わせようとするなよ

狗邪韓國が倭人領で発狂するそこのキミィ
0690日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:16:23.01
>>686

>弥生日本でぶっちぎりの最大

朝鮮由来の遺物に関してはな
つまり朝鮮工人の移住
0691日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:16:25.80
>>682
女王国の傍国は遠方だから詳細わからないとあるから。 
今更だが投馬国から日数表記にかわるのは、倭人の資料を元に
する程遠方だからだ。

官の名前でもイクマ、(生駒)ミマカキ(上牧、馬見丘陵)ナカテ(中臣、葛城に基盤)
全て一ヶ所に固まった場所に存在しているからな。
0692日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:20:26.48
>>686
だから奴国、伊都で問題なし。
それに奈良は葛城地方なんて本当にまだ全くの未発掘地帯だぞ。 
日本史では一番重視されてるのにな。 
最近少し掘っただけで既に弥生前期最大の水田跡が確認されてるぜ。
0693日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:20:30.47
福岡と佐賀の県堺から佐賀にかけては
朝鮮文化の住居がうじゃうじゃあるよ
計画的な移住のように
0694日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:22:31.37
>>690
朝鮮由来の遺物「も」多い
別に全てが朝鮮由来ではないな

福岡平野が丸ごと巨大遺跡であったことは
畿内説がひた隠しにする考古学的事実

平原女王墓と同じく、
北部九州倭国中枢の伊都や奴国から目をそらすために吉野ヶ里を持ち出す
0696日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:24:18.96
つまり朝鮮半島と交流していたのは北部九州まで

鉄器を融通していたのも北部九州まで

魏と頻繁に交流していた邪馬台国とは北部九州だったわけですな
0697日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:25:20.59
阿波や淡路の方が歴史が古いという事だろうね
0698日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:25:56.52
弥生時代に伊都国王=北部九州倭国王は金印を2回ももらったんだろ?

じゃあ朝鮮半島はどうよ?

どっちが主体なのよ?w
0699日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:26:33.61
>>694
それじゃ奈良盆地と丸ごと、河内平野も丸ごとな。
三世紀末の邪馬台国は畿内という事で問題ないだろw
しかも背後に丹山も沢山あるしな。北部九州なんて石炭だろ。
九州説がひたすら無視する考古学的事実。
0700日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:29:03.68
>>696
邪馬台国は勿論、倭国に鉄が豊富なんて記事はないけどな。 
せいぜい骨や石と同列に鉄鏃があるだけだぞw
0701日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:30:34.92
>>699
奈良盆地と河内平野、全部丸ごとでもいいよ。

それでも伊都+奴国の足元にも及ばないし
海外交流遺物や鉄器文化圏など
弥生東夷伝世界との明らかな地理的断絶があるから勝負にすらならない。
0702日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:30:59.94
>>693
>朝鮮文化の住居がうじゃうじゃあるよ
>計画的な移住のように

畿内説が陥落した今、
北部九州説を半島由来にするためにこれを言いたいのだが

>>698
>弥生時代に伊都国王=北部九州倭国王は金印を2回ももらったんだろ?

こう切り返されるのが明らかなので

先回りして『国宝金印偽物説』を唱えているわけですなあ
0703日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:32:40.32
紀伊半島中央部中央構造線沿いなんて丸ごと丹山みたいなもんだからな。
他と比較にならない丹生神社が集中しているのも当然。
0704日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:33:35.41
朝鮮半島からの一方的な受容だな、言語も同じだろう
もちろん交配もしてるだろうがもともと縄文時代には
北部九州は人がほとんど住んでなかったからな
「倭人伝」だから半島の韓とは違った風習文化の民族の伝だな
0705日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:35:19.40
>>700
3世紀に鉄器があるのは当たり前
現代社会で海外旅行に行って、
コンセントがある!なんてのが話題にならないのと同じ。

東夷伝全体で鉄器が普及していることをわざわざ紹介された国などない
鉄原料の産地だけ記載されている。

むしろ3世紀にもなって鉄器が無いほうが驚きで、
鉄器の無い集落などが見つかれば記載されたことだろうな。
0706日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:37:03.16
>>701
それは三世紀以前の話だな。
現実に日本の歴史書がヤマトはここと言って、隋書でも
邪馬台国とはヤマトと書いてるのに難癖つけてるだけなんだぞ、
九州説は。しかも江戸時代まで九州説なんて存在すらしない。

マジで立場をわかっているのかと。
0707日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:38:00.35
奈良湖を見つめながら遥か西方の北部九州倭国を想った若い日々

鉄器など知らず髭ぼうぼうの毛人だった自分




あの日あの時あの場所で捕まって

生口として奴国に連れてこられて本当に感謝
0708日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:38:17.00
鉄器なんか根拠にしてたのは40年前だよ
九州説は勉強しないジジイしかいないから時間が止まってる
0709日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:40:12.41
畿内説は勉強しすぎだよ
鉄器が溶ける土壌とか普通思いつかないw
0710日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:40:15.66
>>707

日本在来民を生口にしたがる朝鮮部落民の願望
0711日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:40:24.12
>>705
鉄器工房なら二世紀淡路島に近江、それに大県にもあって
金山彦神社もここに本拠がある。当然鉄器もあるな。
何が問題あるのかとw
0712日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:41:46.72
一つの集落でなにもかも作るのは弥生中期の集落形態だよ
0713日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:43:35.38
縄文人が大嫌いなのが九州説
0714日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:44:27.12
>>711
二世紀には鉄器工房があったんだ。
じゃあ三世紀に鉄器が普及していない場所は首都じゃあないな。
0715日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:47:22.06
福岡は鉄器が村に捨ててあるんだろ
0716日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:51:06.84
>>714
意味不明だな邪馬台国に鉄器が豊富なんて記述はない。
大体三世紀なら畿内や兵庫、丹波周囲で増加してるぜ。
弥生時代通じてとかあり得ない比較見てたらダメだぞw

皇居周辺が鉄器で埋まれてた訳だろ、
卑弥呼の宮も女官だらけと記述にあるからな。
0717日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:54:03.38
>>716
鉄器ゼロ=首都では無い

の反論になっていない。

さらに
>>705
に対する反論にもなっていない。
0718日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:56:07.24
九州にまともな丹山はないからな。
倭人伝を元に議論するなら不利なのを判っている。
だからあえて触れないようにしてんだよな。

倭人伝の記述にない鉄なんて元々議論対象ではないのにw
0719日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:56:38.58
>>706
その三世紀台の栄えた高い文明をもって畿内に移り住んだと考えるよ。
比較的おだやかな東征からの遷都と思うよ。
武装解除させたりの様子もみられるから。
そしてそのおかげで三世紀途中から畿内が大きく発展してると考えられる。
よって九州北部の邪馬台国と畿内の大和が連続している。
それが隋書の記録にも、邪馬台国とはヤマトみたいに残ってるんだよ。
きっとね。

畿内がなんの流入もなく同じ統治者が権力を持ち続けたとしたら
急激な進歩なんて起こすのは難しいと思われるよ。
そもそもそんな継続する畿内の統治者が、われらの起源は九州にありって記紀は生まれないよ。

畿内妄信のひとは、記紀で起源を九州としてる点についてはどう解釈するの?
0720日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:58:33.18
鉄器なんてのは工具
木製品は後期からは低地の集落では原料から一貫製作しなくなっている
樹種も畿内では遠隔地の針葉樹のヒノキが主体になっている
0721日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:59:42.47
畿内のホケノ山古墳(3世紀中ごろ)
鉄鏃60個
鉄剣1振
鉄刀10振
ほか鉄製農具など

椿井大塚山古墳(3世紀末)
鉄刀7本以上
鉄剣十数本以上
鉄矛7本以上
鉄鏃約200本
ほか鉄製工具多数
0722日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 11:59:53.17
>>719

考古知識無さすぎ
0723日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:00:08.93
>>718
ちがうよ。
畿内説が、都合の悪いものを議論の対象としないだけだよ。
0724日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:01:11.51
首都はその周辺に鉄工房が複数存在するなら問題なし。
卑弥呼は数十年平和を鬼道で維持したんだからな。
大体戦地に首都作らないわw

それに戦闘も瀬戸内海等ならそっちで使うだろ。
淡路島や近江に工房作るのは当たり前だな。
0725日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:02:39.89
>>716
鉄器は出土で証明されてるよね。
大陸からみれば、鉄器は当たり前で記録されずながされてるだけかもよ。
出土で証明されている以上、当時九州に偏って鉄器があったことは揺るがないよ。
当然、武力で上を行く九州北部をはるか遠方の未発展な畿内が統治してたってのは
無理くりすぎて泣けてくるよ。
0726日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:03:11.24
>>721
「墓の中に」鉄鏃が60や200もあるのに
領内に鉄鏃ゼロ

軍隊を保有していれば訓練するよね
鉄鏃射撃訓練をした形跡が全くない。

ということは、鉄鏃がある地域の軍隊が進駐してきたわけだ。

さらにそれを補強するように、
「墓の中に」鉄製農具や鉄製工具多数があるのに、
領内に鉄器ゼロで木製農工具が出土。

勝負はついている。
0727日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:03:21.92
>>723

研究者の見解レベルじゃないと議論にならない
鉄器連呼サイキバが「思う」だけじゃ
0728日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:05:04.04
>研究者の見解レベル

鉄器が溶ける土壌w
0729日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:05:26.75
>>726

北部九州は竪穴住居の中で鉄鏃射撃訓練してたのか?
0730日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:05:48.48
>>726
そんなどっからどう見てもおかしな意見を強弁しなくてはならない時点で
畿内説で勝負あり
0731日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:06:36.86
>研究者の見解レベル

鉄器リサイクルシステムw

リサイクルしても紛失やらで何らかの欠片は残るだろがwww

射た鉄鏃すらも拾いに逝ったというのか?www
0732日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:06:52.09
>>719
記紀読んでないだろ。
畿内に先にいたのは神武の同族なんだが。九州からなんて
何処にも書いてないからな。
それに三輪山の大物主の血をひく神の娘と結婚を求めている。
大物主も九州とは無関係出し。
変な安い本ばかり見てると勘違いするのは無理もない。
0733日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:08:36.30
>>730
反論を放棄して自説連呼ですか。

墓の中に鉄鏃や鉄製農工具があるのに
領土にゼロ。

つまり墓の年代が間違っているか、
墓の主が鉄器普及地域から無鉄器地域へやってきた征服者か。
0734日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:09:21.33
>>731

サイキバにとっては異民族である日本人研究者は信用できないだろうから
素人が思うではなくて、サイキバの国の学者の見解を提示するといい
0735日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:09:53.76
>>729
竪穴住居の中で明日の狩りの準備をしていたんだろ
鉄鏃を一つ二つ落としてもいっぱいあるから気にしなかったわけだ
0736日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:10:27.89
) ソ    ,.    .'  /^^⌒^へ
´) ( )ソ   .'  ,.  / (0\)》)ノ) .' V    
 ).'  ) )丶 .   ξミ   ̄ ⌒∞\.'´W.'  /巛/巛/巛/巛/巛/巛
丿 . ソ( .  ' 彳ゞ:》  |\____)..'’: .:┏┓  ┏━━┓        ┏┓巛
 (: ')) ,. .': ゞ》ソ/   | ∨VVVV∨   ┏┛┗┓┃┏┓┃        ┃┃ <
(   ノ. , 彳》ゞ/    |  (`・ω・´) < ┗┓┏┛┃┗┛┃┏━━┓┃┃  巛
  .'/| .'.) ゞ》ゞ/     \/VVVVV)   ┏┛┗┓┃┏┓┃┗━━┛┃┃  <
 //.';   : 彳シ    \  ̄ ̄ ̄/   ┗┓┏┛┗┛┃┃        ┗┛  巛
( ' ヽゞゞゞゞソξ   \ ⌒\  .| ⌒\  ┃┃      ┃┃        ┏┓ <
 ヽ  ´⌒⌒ 入(  ソ `VVV  ノ)`VVV  ┗┛      ┗┛        ┗┛巛
 ).'\     (   ノーー-、_/ーー-、   \巛\巛\巛\巛\巛\巛
    `ーー-(     (\\\   (\\\
          ̄ ̄ ̄ ̄^⌒^⌒   ̄^⌒⌒
天皇陵発掘される。

行燈山古墳(Andon-yama Kofun)の被葬者のY染色体は、
ハプログループD1b1a2b1a1(D-Z1504, CTS8093)であると推定されている(注1)(注2)。
picture from Wikipedia
「行燈山古墳」は奈良県天理市柳本町にある「柳本古墳群」を構成する古墳の1つで、
形状は前方後円墳。出土埴輪・出土銅板から古墳時代前期後半の4世紀前半頃の築造と推定される。
柳本古墳群では渋谷向山古墳に先行する時期の築造とされ、初期ヤマト王権の大王墓と考えられている。
被葬者は明らかでないが、現在は宮内庁により第10代崇神天皇の陵に治定され同庁の管理下にある。
昭和49年(1974)-同50年(1975)に宮内庁書陵部による外堤・渡堤・後円部墳丘裾部での発掘調査が実施されたほかに、
平成29年(2017)、学術団体による立ち入り調査が実施された。
また同時に2017年に海外機関で行われた研究によれば、Z1504がポジティブであったことから、
D1b1a2b1a1(D-Z1504, CTS8093)の可能性が濃厚となった(注1)(注2)。
0737日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:14:03.97
普通に北部九州で戦闘が多かったで説明つくのにな。
だから男王が常駐。

卑弥呼は鬼道で東国も修めないとダメだから、三輪山麓で
丹と酒に巫女集めてただけの話。

邪馬台国は畿内以外にない。
0738日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:14:12.75
  
  諸遺物          福岡県   奈良県
西暦300年以前
弥生時代の遺物 弥生時代の鉄鏃 398個 4個
鉄刀                       17本 0本
素環頭大刀・素環頭鉄剣         16本 0本
鉄剣                       46本 1本
鉄矛                         7本 0本
鉄戈                       16本 0本
素環頭刀子・刀子               210個 0個
絹製品出土地               15地点 2地点
10種の魏晋鏡                37面 2面
古墳時代の遺物

大略西暦300年以後 三角縁神獣鏡 49面 100面
前方後円墳(80m以上)        23基 88基
前方後円墳<100m以上)         6基 72基

武力は九州に偏り、開拓土木工事の功労者に与える鏡は畿内に多いよ。
これ以降、畿内にも鉄器はあふれ始めるよ。
これは土地開発を終えて、九州北部の勢力が移り住んだと考えれば自然だよ。
別勢力だったと考えても、もともとの畿内勢力は武器の差でつぶされてるよ。
どちらにしても畿内で栄えた大和朝廷は高い文明と武力をもった九州勢の移住から発生してると思うよ。
移住のタイミング次第で、邪馬台国が畿内にもあって不思議じゃなくなるよ。
0740日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:15:16.04
>>737
議論放棄だな。

鉄器がある北部九州倭国が
邪馬台国と南の狗奴国に分かれて鉄器同士で戦っただけ。

無鉄器地域は倭人伝にも記載されず邪馬台国と無関係。
0741日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:16:31.60
熊本のほうが福岡より鉄器が多いからな
(完成品よりは素材系の割合高しだが)
0742日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:17:29.63
>>733
そう考える事で今まで謎だった何かが解決したりしない上に
余計な謎が増える
普通に畿内に鉄器が普及してたから九州の墓よりもっと多数の
鉄器が副葬できたで終わり
0743日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:19:06.06
>>739
全国中にある地名を無理に見つけて、似てるぞ、九州からコピーした!
なんて子供みたいな研究者もいるけどな。
0744日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:19:56.95
>>742
鉄器ゼロだから普及していない

九州だと自国領民に鉄器を分配したけど
畿内への征服者だから原住民には鉄器ゼロのまま全部自分が抱えて眠りについた
0745日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:20:48.89
謎が解決したじゃないかw
銅鐸生産の本場が、北部九州内行花文鏡鉄器勢力に征服されたんだw
0746日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:20:49.97
>>732
うちは、九州からは何回も何回も東に向かう集団が出たとして仮説を立ててるよ。
それこそ漢の時代とかそれ以前から東を目指す人がいて不思議じゃないと考えてるよ。
なので当然畿内にいたのは同族とするよ。
だからこそ、記紀の物語でも最終的には合流の形になってるのだと思うよ。
0747日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:21:20.19
>>738
いちおう後漢書には150年〜180年ごろに倭国大乱とあったから
その頃記紀に書いてあるような神武東征みたいな事があったんだろう
0751日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:23:17.30
>>744
ゼロではないよ
むしろ1つの古墳から見つかってる鉄器は九州より多いんじゃないの
0752日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:23:49.11
>>735
まあ鉄のレートは東高西低やろね(経済の常識やろ?
日本海航路の海運業は儲かったに10000銅鐸
敦賀の港湾も栄えてたやろなー(遠い目
0753日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:25:55.02
>>751
領地から鉄器ゼロ

巧みに誤魔化し続けるところを見ると、
もう反論できないと自覚しているわけだ。
0754日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:26:20.11
>>750
吉備の勢力だろw
つまり孝霊と吉備都彦が瀬戸内海で成敗して戻ってきたにすぎない。
古事記の記述の裏付けまんまだよ。
0755日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:26:22.16
>>737
防衛とか考えないの?
軍事的な知識はなしで考古学趣味するのと的外れな見解になるね。
うちは考古学趣味をやるためには、基礎知識としてある程度軍事マニアであることが条件だと思うよ。
丸腰で畿内に重要人物いたら、敵対国にあっさりやられるよ。
少なくとも、鉄器が少なかった頃の畿内に邪馬台国はないと思うよ。
鉄器が増える時期に邪馬台国が移ってきて大和朝廷となっと考えれば自然だよ。
0756日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:26:53.62
卑弥呼、台与の時代は博多湾貿易と呼ばれて
本州女王国の倭人は半島まで行かなくても、従属国の奴国で韓人の弟さんから入手すればよかった
ところが3世紀後半になると半島南岸は北方騎馬色が強くなって
半島の双子のお兄さんが奴隷になってしまったので
直接半島に行くようになり、金海貿易と呼ばれている
そして沖ノ島祭祀が始まる
0757日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:27:53.30
>>740
同年代に鉄器が出土してるのに無関係って、もう思考するつもりもないんだね。
0758日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:28:35.53
>>753
畿内では卑弥呼の時代の古墳1基から鉄器200点以上
必死に誤魔化しているのはそちらのようですな
0759日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:28:53.96
>>741
九州の真ん中に横線を引いたように鉄器が大量に出土してるよね。
そこより南によほど強敵がいたってことを表すね。
0760日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:29:22.63
敦賀に水揚げして峠こえてまた琵琶湖から彦根へ
ここで加工した
0761日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:29:40.03
>>757
同年代に鉄器が出土しているから、
伊都奴国と熊本が邪馬台国と狗奴国として戦っていたわけだな。

で、そちらのいう鉄器が出土する邪馬台国とその首都ってどこ?
0762日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:30:15.23
>>755

でもお前北部九州の大陸製の強力な弓の物証を提示できないで妄想してるだけだろ
0764日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:31:39.62
畿内では古墳1基から鉄器200点以上出てるけど
九州はどんなもんですかいの
0765日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:31:40.62
>>743
山門の周辺の地名とリンクするって説なら
ただ地名があうだけじゃなく、配置までそっくりってところがロマンなんだよ。
そこまでの合致はさすがに意図的じゃないかと考えても不思議じゃないよ。
もちろん可能性の一つだよ。
0766日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:32:47.49
>>759

住居に捨ててる鉄鏃は不良商品だろ
0767日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:34:08.78
>>747
そうも考えたけど、それだと畿内に鉄器が増加するより前の移動になるよ。
権力者や重要人物が移動して拠点を構えるなら、必ず武力の移動もあるよ。
それまであまりなかった鉄器、特に鉄の武器が増えてきた頃が
九州からの勢力が畿内に移り住んだ時期と考えるよ。
0768日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:34:38.97
>>763
畿内のホケノ山古墳(3世紀中ごろ)
鉄鏃60個
鉄剣1振
鉄刀10振
ほか鉄製農具など

畿内の椿井大塚山古墳(3世紀末)
鉄刀7本以上
鉄剣十数本以上
鉄矛7本以上
鉄鏃約200本
ほか鉄製工具多数

アホな事言えば言うほど
周りに機内にはいかに鉄があふれていたのか知れ渡るぞ
0769日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:34:59.29
>>765

山門の周辺じゃなくて、神功が熊襲討伐した甘木周辺だろ
0770日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:35:06.66
>>764
九州では鉄器は民衆にあまねく普及しているね。
九州王墓の副葬品は鉄器よりも金銀財宝にシフトしていく。

畿内は周回遅れなわけだ。
0771日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:35:36.74
>>755
卑弥呼は鬼道で民衆を修めたとあるが?
軍事オタクは兵器に知識が偏りすぎだね。
元々戦争の動機は宗教が原因が大半なのに。

また畿内の地形も知らなさすぎる。
淡路島や大県に鉄工房があればヤマトの防御は万全だから。
だから神武も内陸勢力を懐柔して騙し討ちしたんだよ。
0772日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:36:02.43
>>768
畿内説が議論放棄しましたね。

>「墓の中に」鉄鏃が60や200もあるのに
>領内に鉄鏃ゼロ

>軍隊を保有していれば訓練するよね
>鉄鏃射撃訓練をした形跡が全くない。

>ということは、鉄鏃がある地域の軍隊が進駐してきたわけだ。

>さらにそれを補強するように、
>「墓の中に」鉄製農具や鉄製工具多数があるのに、
>領内に鉄器ゼロで木製農工具が出土。

>勝負はついている。
0773日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:36:20.03
>>767
何の説得力もないぞ
移住してから増産したかも知れないっつったら終わりだぞ
0774日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:37:02.35
>>771
>淡路島や大県に鉄工房があればヤマトの防御は万全だから。

前線に鉄工房があって、なんの防御が万全なのだ?
0775日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:37:30.40
>>770

>九州では鉄器は民衆にあまねく普及しているね。

そうじゃないのがわかったのが40年前
0776日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:37:35.40
>>770
>>772

畿内のホケノ山古墳(3世紀中ごろ)
鉄鏃60個
鉄剣1振
鉄刀10振
ほか鉄製農具など

畿内の椿井大塚山古墳(3世紀末)
鉄刀7本以上
鉄剣十数本以上
鉄矛7本以上
鉄鏃約200本
ほか鉄製工具多数

どうやらまだ懲りてないようだな
0777日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:38:40.50
>>776
負けた内容をいくら連打しても勝てませんよ。

>「墓の中に」鉄鏃が60や200もあるのに
>領内に鉄鏃ゼロ

>軍隊を保有していれば訓練するよね
>鉄鏃射撃訓練をした形跡が全くない。

>ということは、鉄鏃がある地域の軍隊が進駐してきたわけだ。

>さらにそれを補強するように、
>「墓の中に」鉄製農具や鉄製工具多数があるのに、
>領内に鉄器ゼロで木製農工具が出土。

>勝負はついている。
0778日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:38:53.33
>>706
>現実に日本の歴史書がヤマトはここと言って、隋書でも
後付けに意味なし

>邪馬台国とはヤマトと書いてるのに難癖つけてるだけなんだぞ、
書いてないけど
0779日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:39:13.92
>>765
それ証明するならどっちが古いかからだぞ。
九州は大和朝廷の出張先なんだからな。
大体博多の名前は畿内の方が古いのは文献資料では確認済み。
0781日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:40:11.87
九州の王墓は弥生時代なら内行花文鏡でしょ。
平原のは世界最大で、
畿内のは欠片

4世紀以降になると九州王墓は金銀製品や馬具を珍重していく。
0782日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:42:54.12
>>674
福岡平野を埋め尽くす遺跡群を一つにまとめて考えたら、圧倒的なんじゃない?
0783日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:43:46.19
>>774
奈良盆地に入る前に河内湖で挟んで叩けるだろ。
海なら丸見えだし。現に神武伝承でもやられたしな。
0784日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:43:52.11
>>681
国生み神話は博多湾の能古島からはじまるんですが。
0785日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:43:56.66
>>758
その時代畿内の農耕は未だに石器が使われており、墳墓からは後生大事に鉄器が出る。
実用レベルに足りない鉄文化だったってことだよ。
0786日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:44:30.02
>>685
日本の歴史を葬り去ろうとしているその学者は、本当に日本の学者なの?
0787日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:44:43.06
>>781

肥人(こまひと)は8世紀まで異人なのを忘れちゃだめだぞ
0788日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:45:59.65
>>762
弓の影響はあまり日本で重視されてないけど、うちのロマンだよ。
この仮説を掘り下げてくれる研究者大募集だよ。
0789日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:46:04.30
>>694
>北部九州倭国中枢の伊都や奴国から目をそらすために吉野ヶ里を持ち出す

畿内説って、卑怯だな。
0790日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:46:18.65
>>784

能古島は神じゃなくて牛飼ってたところだよ
0791日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:47:06.81
菅原公の系列の神社だと牛が神だが関係あるのだろうか
0792日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:48:08.90
>>785

九州でも石器は使われてる
0793日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:48:15.06
>>761
それを考えるのが楽しいんだよ。
今のところ伊都国かなーって思うけど、邪馬台国という名称が連合国の名前のおうなもので
九州北部全体を指すのかもとも思うよ。
他にもいろいろ考えるよ。
0794日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:48:46.04
>>791

ない。
0795日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:49:19.41
>>706
隋書に「ヤマト」なんて書いてないけどな。
畿内説って平気で嘘を書く。
それよりも、阿蘇山があって時折火を噴くと書いてあるんだが。
0796日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:51:22.03
>>721
内行花文鏡を祭る、九州伊都からの直接支配の証拠ともいうべき古墳ですねw
0797日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:53:15.14
>>771
宗教も武力の後ろ盾が無けりゃ戦争はできないよ。
せっかくいいとこ指摘してるのに、肝心なところ理解してないよ。
9条あれば戦争起きないと同じくらい馬鹿な考えだよ。

畿内が内陸で当時攻めにくい場所だからこそ移り住んだと考えるよ。
途中抵抗する力をもつ場所があっても、畿内はまだまだ未開地だよ。
0798日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:53:32.46
>>795
倭人伝の記述に火山がないなら南側に行ってない証拠だな。
また隋の頃には九州南部も成敗したから倭国のエリアになっただけの話。
記紀の記述とも合致しているから。
0799日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:54:52.93
>>777

畿内のホケノ山古墳(3世紀中ごろ)
鉄鏃60個
鉄剣1振
鉄刀10振
ほか鉄製農具など

畿内の椿井大塚山古墳(3世紀末)
鉄刀7本以上
鉄剣十数本以上
鉄矛7本以上
鉄鏃約200本
ほか鉄製工具多数

おら何回でも張るぞ
畿内ではこんなに鉄器が見つかってるんだぞ
0800日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:54:59.13
>>732
>それに三輪山の大物主の血をひく神の娘と結婚を求めている。

父親は大物主だが、母方の祖父は筑紫日向から来て摂津を開拓した三島溝杭耳だけど。
畿内にいた氏族は、天津神か出雲の末裔しかいないよ。
0801日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:55:06.13
鉄も対馬経由やし
DNAかて対馬ちごても東シナ海経由やし
西から東へ何波も人動いたんは当たり前やろ?
ぶっちゃけヤマト王権だけ由来が先住民ゆーんは非科学やなー(かいけつ
0802日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:56:38.07
>>773
倭国大乱の時期の移動だと、大乱の時期に戦力を裂くことになるよ。
そんな不利になることをすると思えないよ。
最終的に宗教のちからで国を治めたとあるし、移動するにしても
神託的な当時の人を納得させやすい手段で移動すると思うよ。
0804日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:56:56.60
>>741
狗奴国が一国で伊都を中心とする邪馬台国に対抗できた理由の一つですね。
0806日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:58:01.10
神武さんも移民みたもんかもナー
数十人くらいの
0807日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:58:25.72
>>742
でもその墓が明らかに九州北部の銅鏡文化のもとにあり、伊都平原の内行花文鏡の縮小版を祭っていた。
0809日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:58:29.99
>>799
負けた内容をいくら連打しても勝てませんよ。

>「墓の中に」鉄鏃が60や200もあるのに
>領内に鉄鏃ゼロ

>軍隊を保有していれば訓練するよね
>鉄鏃射撃訓練をした形跡が全くない。

>ということは、鉄鏃がある地域の軍隊が進駐してきたわけだ。

>さらにそれを補強するように、
>「墓の中に」鉄製農具や鉄製工具多数があるのに、
>領内に鉄器ゼロで木製農工具が出土。

>勝負はついている。
0810日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:59:16.03
>>802
お前はどんな脳みその回路をしてるんだ
倭国大乱って言われたら神武東征を連想するだろ普通
0811日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:59:43.67
>>797
卑弥呼は黄色旗を貰ったのも忘れないように。
また黒塚からはそれらしき鉄の金具も発見されている。
ここは正にヤマトの中心ともいう場所だしな。

攻めにくい場所だから都として発展したんだよ。
鬼道使いの女王なら奈良盆地程相応しい場所はない。
道教に必要な丹山もあるからな。
0812日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 12:59:54.51
>>743
移民先に故郷の地名をつけるのはよくあることだよね。
配置まで似ていたら、それを偶然とは言えないよ。
特に、歴史書に九州から移民して来たと明記してあるわけだし。
0813日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:00:28.46
>>801
>ヤマト王権だけ由来が先住民ゆーんは非科学やなー

そんなこと言ってるやつはおらん
0814日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:00:35.77
>>745
>謎が解決したじゃないかw
>銅鐸生産の本場が、北部九州内行花文鏡鉄器勢力に征服されたんだw

シンプル。
わかりやすい。
0815日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:01:25.83
>>779
畿内は当時まだまだ未開地だよ。
地名なんて開発が進む中で名づけられていくよ。
開拓者の中心が九州からの勢力ならにかよった地名になっても不思議じゃないよ。

ちなみにその文献、どの文献。
0816日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:01:27.73
>>807
それは畿内説を否定しないね>>808
>>808
そっちがじゃないのか?
>>809
畿内のホケノ山古墳(3世紀中ごろ)
鉄鏃60個
鉄剣1振
鉄刀10振
ほか鉄製農具など

畿内の椿井大塚山古墳(3世紀末)
鉄刀7本以上
鉄剣十数本以上
鉄矛7本以上
鉄鏃約200本
ほか鉄製工具多数

ごらんの皆さん
畿内ではこんなに鉄器が見つかっている鉄器大国ですよ
九州とは違って
0818日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:03:00.25
>>758
内行花文鏡があるから九州北部から攻め込んだ勢力だよ。
0819日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:03:00.91
>>783
そういう部分の神話は受け入れるなら、九州からの神武の勢力の畿内統治も受け入れるといいよ。
0821日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:03:58.25
>>786
全員とはいわないけど、実際皇紀の歴史を矮小化したい勢力はいるのだろうと思うよ。
0822日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:05:05.96
>>816
ごらんの皆さん
畿内では鉄器が出土しないから、

北部九州からの内行花文鏡征服者の墓を暴いて
北部九州からの鉄器を呈示するしかないんですよ

遺跡の生活域からふんだんに鉄器が出土する九州とは違って
0823日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:05:21.01
>>792
鉄の出土の差を言ってるよ。
九州で他が使われていても、鉄器の使われ方の比較で圧倒的だよ。
0824日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:05:41.54
>>820
領地に鉄器が普及していないから否定される
0825日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:06:08.26
>>812
東国から防人を投入、太宰府に役人を派遣したと歴史書に書いてますね。
だから博多や福岡も名前をもって来ました。
元々奴国なのも確定しています。
0826日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:06:21.07
>>821

具体的に誰?
0827日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:06:22.62
>>769
熊襲って、クマ=神だけどね。
九州北部の倭国ではしばしば内乱があり、その一つが描かれているんだよ。
熊襲タケルは筑紫で王として君臨していたから、実は倭王だった。
ただ、勝てば官軍負ければ賊軍のような書き方がされただけ。
0828日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:07:03.56
>>822
畿内のホケノ山古墳(3世紀中ごろ)
鉄鏃60個
鉄剣1振
鉄刀10振
ほか鉄製農具など

畿内の椿井大塚山古墳(3世紀末)
鉄刀7本以上
鉄剣十数本以上
鉄矛7本以上
鉄鏃約200本
ほか鉄製工具多数

九州説は畿内からは全く鉄器が出土しないとかって
周りを洗脳してたからな
九州説の洗脳をとくいい機会だ
0829日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:07:34.66
>>798
たしかに東夷伝には阿蘇山でないね。
まぁ活動期でなく印象に残らなかったのかもしれない。
0830日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:07:58.65
>>779
>九州は大和朝廷の出張先なんだからな。

記紀のどこを読んでいるんだ?
九州から大和に入って大和朝廷ができたんだが?
0831日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:08:15.53
>>799
同時期
九州は実用が当たり前の鉄器。
畿内は墳墓に大切にあるのみ。

おさっしだよ。
0832日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:09:55.62
ホケノ山ならともかく
椿井大塚山は京都だろ

離れた場所のしかも副葬品を持ち出して
鉄器が普及していたとか
詐欺じゃん
0833日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:09:55.90
>>823

弥生終末期に九州の鉄の出土が何個で人口が何人?
日本人学者は信用しないだろうから
韓国人学者の統計でもいい
0834日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:10:48.11
>>798
>>795
>倭人伝の記述に火山がないなら南側に行ってない証拠だな。
>また隋の頃には九州南部も成敗したから倭国のエリアになっただけの話。
>記紀の記述とも合致しているから。

つまり倭国は九州北部。
魏の頃は熊本は狗奴国として対立していたけど、隋の頃は熊本も倭国になった。

本州のことは描かれていない。
0835日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:11:03.04
いいか九州説
鉄器がないとかほざきよるならソース付で反論されるんだからな
もう畿内には鉄器がないなんて言いませんと詫びるなら
これ以上ソースは張らんでおいてやるが
あくまで突っ張るならまた張るぞ
0837日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:11:19.89
>>829
普通九州の山々巡ったら温泉か火山の記述はあるだろう。
海岸線やそれらのない地域しか行ってない明確な証拠。
0838日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:11:22.53
>>833
鉄器普及地域では数十数百が当たり前でしょ。
対して、ゼロはゼロ。
見苦しいよ君。
0839日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:11:44.42
>>799
>おら何回でも張るぞ
>畿内ではこんなに鉄器が見つかってるんだぞ

いいんじゃない?
九州から強大な勢力が畿内に攻め込んだ証だからね。
ついでに鏡の種類も書くといい。
0840日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:11:54.45
>>827

我流解釈ならどんなストーリーでも作れる
0841日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:12:07.07
>>828
負けた内容をいくら連打しても勝てませんよ。

>「墓の中に」鉄鏃が60や200もあるのに
>領内に鉄鏃ゼロ

>軍隊を保有していれば訓練するよね
>鉄鏃射撃訓練をした形跡が全くない。

>ということは、鉄鏃がある地域の軍隊が進駐してきたわけだ。

>さらにそれを補強するように、
>「墓の中に」鉄製農具や鉄製工具多数があるのに、
>領内に鉄器ゼロで木製農工具が出土。

>勝負はついている。
0842日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:12:24.57
>>803
その出土場所が墳墓限定なのが特徴だよ。
もちろん、まったくしようされてないと言うわけじゃなく、どれだけ当たり前に
使われてたかの差が大きいよ。
畿内ではその時期まだまだ一部だけの貴重な鉄だったと思うよ。
そしてその後の急増の時期が来るよ。
人、技術、文化の流入があったと見るのが自然だよ。
0844日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:12:45.52
>>802
>倭国大乱の時期の移動だと、大乱の時期に戦力を裂くことになるよ。

負けた側の天孫族が畿内に先に行っていた親戚筋を頼って落ち延びたんだよ。
0845日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:13:32.86
>>805
>>796
>それは別に畿内説を否定しないと何度言ったら

畿内はただの植民地だよ。
女王がいたのは九州。
0846日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:13:34.49
>>835
遺跡住民に鉄器が普及していない、というのが争点なのに
墓の副葬品を持ち出してもソースになっていない。

しかも椿井大塚山は全然別の地点。
あんた詐欺師だな。
0847日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:14:02.26
>>806
数十人で向かって、畿内が権力を渡すのだったら、よほど正当性を示すシンボルを
もってたかもしれないね。
数十人で行ったとは思わないけどね。
0849日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:15:52.75
>>816
>ごらんの皆さん
>畿内ではこんなに鉄器が見つかっている鉄器大国ですよ

全部、伊都からの侵入者が持ち込んだもの。
その墓の主人は、平原遺跡の内行花文鏡の縮小版を持っていた。
0850日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:15:54.37
>>839
>>841
>>846

畿内のホケノ山古墳(3世紀中ごろ)
鉄鏃60個
鉄剣1振
鉄刀10振
ほか鉄製農具など

畿内の椿井大塚山古墳(3世紀末)
鉄刀7本以上
鉄剣十数本以上
鉄矛7本以上
鉄鏃約200本
ほか鉄製工具多数

そうかそうかそんなに張られたいか
突っ張れば突っ張るほど世間に九州説の隠したかった
畿内の実態が広がっていくというのにバカなやつめ
0851日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:16:48.42
>>838

だから素人がそんな気がする程度じゃ日本ではだめなんだよ
日本人と会話するときは、君の祖国の学者の統計でもいいから
九州は鉄が普及してたデータ出さないと
0852日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:17:10.00
そして見苦しい言い訳を重ねれば重ねるほど
九州説のバカさ加減も広がっていく
0853日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:17:53.91
>>829
>>798
>たしかに東夷伝には阿蘇山でないね。
>まぁ活動期でなく印象に残らなかったのかもしれない。

肥後狗奴国が敵だったから、当然魏の使いは阿蘇山を見ることができなかった。
0854日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:18:17.18
>>850
遺跡の生活域に鉄器ゼロ。

鉄鏃も鉄製農工具も使われず、領民は石鏃や木製農工具のみ使用。

しかも椿井大塚山古墳ははるか離れた京都府木津川市の古墳。

畿内説のソースとはかようなものである。
わかりやすい例。
0855日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:18:25.48
よーし畿内説のボーナスステージ来た
畿内の古墳の鉄器の資料張るだけで九州説が勝手に発狂して自爆してくれる
0856日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:18:29.03
>>810
うちは、大乱と東に移住したのは別と考えるよ。
大乱の勝者は大陸の文化の恩恵を受けていたと考えるよ。
当然その強さ脅威も知り、移動のきっかけになったと考えるよ。
0857日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:19:05.49
>>840
いや、ちゃんと伝記に書いてあるんだが。
0859日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:20:03.79
>>854
畿内のホケノ山古墳(3世紀中ごろ)
鉄鏃60個
鉄剣1振
鉄刀10振
ほか鉄製農具など

畿内の椿井大塚山古墳(3世紀末)
鉄刀7本以上
鉄剣十数本以上
鉄矛7本以上
鉄鏃約200本
ほか鉄製工具多数

こんなに見つかってるのに
九州説はこれを無かった事にしたいようです
0860日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:20:24.79
>>738にデータ出てるのに何言ってんだ畿内説は?
0861日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:20:54.67
>>811
攻めにくい場所であっても、武力に大差があったら意味ないよ。
本当に要塞のような土地だった鎌倉だって滅びたよ。
畿内の大和朝廷への発展は、九州勢力の流入、安全を担保できる武力の流入があってからと考えるよ。
0862日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:21:40.10
>>859
遺跡の生活域に鉄器ゼロ。
鉄鏃も鉄製農工具も使われず、領民は石鏃や木製農工具のみ使用。

椿井大塚山古墳ははるか離れた京都府木津川市の古墳。
平原女王墓の世界最大を頂点とする内行花文鏡が出土している。

畿内説が主張するソースとはかようなものである。
わかりやすい例。
0863日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:22:06.60
>>812
そそ。
結果として移住は記紀そのままなんだよ。
それが、東征か遷都か明確じゃないけどね。
0864日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:22:09.98
>>847
饒速日は権力を渡していない。
長髄彦を殺したのも饒速日。
その末裔は物部大連として大和朝廷の実権を掌握していた。
しばらくは磐余彦の家系は大した活躍もなく、日陰者の居候だった。
あまりにも目立たないので欠史八代などと呼ばれるほど。
0865日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:22:20.27
>>860
鉄器の数が福岡県全体で
畿内の古墳1基にかなわないつうデータに見えるな
0866日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:22:25.29
>>853

九州中南部とも本州とも仲悪くて
韓濊とは仲がいいなら韓濊の植民地だろ
0867日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:22:34.72
>>851
よく見てみ。

鉄器→鉄にさりげなくすり替えてるだろw

東征→東遷と同じ姑息な手法だ。
0868日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:23:07.08
>>862
畿内のホケノ山古墳(3世紀中ごろ)
鉄鏃60個
鉄剣1振
鉄刀10振
ほか鉄製農具など

畿内の椿井大塚山古墳(3世紀末)
鉄刀7本以上
鉄剣十数本以上
鉄矛7本以上
鉄鏃約200本
ほか鉄製工具多数

敗者の九州説はコピペしかできなくなったようだな
0869日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:23:08.43
>>866
代々の王墓があり、
2回も金印をもらっている。
0870日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:23:10.36
>>850
>そうかそうかそんなに張られたいか

鏡のことも書けよ。
都合のいい抜粋は卑怯だな。
0871日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:23:18.58
>>816
この墓穴掘り繰り返しは、畿内説を馬鹿にするためにやってるよ。
たち悪いよ。
0872日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:24:18.00
>>868
鉄器普及ゼロの畿内説は反論できずに、お門違いのコピペしかできないようだな。


遺跡の生活域に鉄器ゼロ。
鉄鏃も鉄製農工具も使われず、領民は石鏃や木製農工具のみ使用。

椿井大塚山古墳ははるか離れた京都府木津川市の古墳。
平原女王墓の世界最大を頂点とする内行花文鏡が出土している。

畿内説が主張するソースとはかようなものである。
わかりやすい例。
0873日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:24:18.32
>>868
鉄器普及ゼロの畿内説は反論できずに、お門違いのコピペしかできないようだな。


遺跡の生活域に鉄器ゼロ。
鉄鏃も鉄製農工具も使われず、領民は石鏃や木製農工具のみ使用。

椿井大塚山古墳ははるか離れた京都府木津川市の古墳。
平原女王墓の世界最大を頂点とする内行花文鏡が出土している。

畿内説が主張するソースとはかようなものである。
わかりやすい例。
0874日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:24:51.00
>>738

何百年間の総数なんだよw
0876日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:25:11.42
銅鏡の副葬配置についても考察しろよ
0877日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:25:43.53
>>874
ゼロはゼロ
0878日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:25:53.23
>>870
鉄器の話持ち出してきたの九州説だろう
何話をすりかえようとしてるんだ?
まぁ鏡は椿井大塚からは三角縁神獣鏡の1〜4期までの物が出ていて
当時この地域が魏との交流があった事の証明でもあるんだが
0879日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:26:29.14
>>866
>>853

>九州中南部とも本州とも仲悪くて
>韓濊とは仲がいいなら韓濊の植民地だろ

本州はただの植民地だよ。
仲が良かったのは半島ではなく中国だよ。
平原遺跡の副葬品は、半島由来のものはほとんどなく、中国からの輸入品ばかり。
それより、ヘイトスピーチは見苦しい。
0880日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:26:47.89
>>874
鉄器が普及していて
ある程度リサイクルされたら
何百年間使われるうちにこれくらいの数が出土するということだな。

ゼロはゼロ。普及していない。
0882日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:27:26.59
>>871
>>872
>>873

畿内のホケノ山古墳(3世紀中ごろ)
鉄鏃60個
鉄剣1振
鉄刀10振
ほか鉄製農具など

畿内の椿井大塚山古墳(3世紀末)
鉄刀7本以上
鉄剣十数本以上
鉄矛7本以上
鉄鏃約200本
ほか鉄製工具多数

九州説は卑怯にも、以前畿内からは全く鉄器が見つからないと
デマを流していました
どっか発掘されたらすぐバレるのにね
0883日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:27:38.54
>>878
>まぁ鏡は椿井大塚からは三角縁神獣鏡の1〜4期までの物が出ていて
>当時この地域が魏との交流があった事の証明でもあるんだが

中国にない鏡で何が証明できるって?
0884日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:27:39.10
>>855
あほやなー
鉄くらいあちこちに流通してるやろ?
問題は流通量と加工地
首都は加工地直近にある
彦根が首都で巻向は墓地や(クナの
0885日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:28:10.32
>>873
で、邪馬台国に鉄が豊富な記事が何処にもないで話は終了。
丹山は沢山あるで紀伊半島は確定だな。
0886日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:28:21.03
>>882
>九州説は卑怯にも、以前畿内からは全く鉄器が見つからないと
>デマを流していました
>どっか発掘されたらすぐバレるのにね

それは九州系の古墳だからねえ。
0887日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:28:25.93
>>835
どんどん貼っていいよ。
墳墓に大切に祭られた鉄器がメインで、生活で当たり前に使われるほど普及されてなかったことが皆に伝わってたすかるよ。
0888日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:28:27.13
大津の可能性はある
0889日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:28:50.69
>>884
近江は日本海ルートで筑紫の勢力範囲。
0892日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:29:43.95
>>867

>>823
>鉄の出土の差を言ってるよ。

と書いてるから
0893日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:29:50.31
>>882
遺跡の生活域に鉄器ゼロ。
鉄鏃も鉄製農工具も使われず、領民は石鏃や木製農工具のみ使用。

椿井大塚山古墳ははるか離れた京都府木津川市の古墳。
平原女王墓の世界最大を頂点とする内行花文鏡が出土している。


生活域の話をしているのに、
内行花文鏡墓の中身を持ち出して議論をすり替えようとする。

畿内説が主張するソースとはかようなものである。
わかりやすい例。
0894日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:30:48.34
>>891
洛陽のどの遺跡から出土したの?

遺跡名。
住所。
発掘状況を説明してくれ。
0895日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:30:57.81
>>844
それは考えられるし自然だね。
負けた側の事を考えてなかったよ。
恐れ入ったよ。
0897日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:31:36.51
>>882
全部で100kgやな(わえの家にもあるよ(すくなっひこな
0898日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:31:55.82
>>881

データも出せないけど普及してたハズってのが九州説
0900日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:32:02.81
>>887
>>893
畿内のホケノ山古墳(3世紀中ごろ)
鉄鏃60個
鉄剣1振
鉄刀10振
ほか鉄製農具など

畿内の椿井大塚山古墳(3世紀末)
鉄刀7本以上
鉄剣十数本以上
鉄矛7本以上
鉄鏃約200本
ほか鉄製工具多数

今現在の九州説、一種の錯乱状態…!
負けているのに、引けない…
そして反論にもなってない反論を繰り返し、さらに傷口を広げる…!
0901日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:32:50.09
>>896
画文帯神獣鏡を交易していて、それをモデルに作られた国産鏡だな。

畿内で盛んだった銅鐸生産と同じく、同范技法が用いられている。
0902日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:33:39.31
>>900
遺跡の生活域に鉄器ゼロ。
鉄鏃も鉄製農工具も使われず、領民は石鏃や木製農工具のみ使用。

椿井大塚山古墳ははるか離れた京都府木津川市の古墳。
平原女王墓の世界最大を頂点とする内行花文鏡が出土している。


生活域の話をしているのに、
内行花文鏡墓の中身を持ち出して議論をすり替えようとする。

畿内説の手口とはかようなものである。
わかりやすい例。
0903日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:34:05.20
>>853
なるほどだよ。
阿蘇山に近いラインで横に線を引いたように鉄器が大量に出土してるよ。
そのあたりが狗奴国との前線だとすれば、海外からの大使をわざわざ
危険エリアに近づけないのは自然な配慮と納得だよ。
0904日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:34:25.58
>>894
洛陽の白馬寺って寺の近くの畑
そばに大きな墓があるのでそこから流出した可能性
そこの農民の陳さんが見つけて骨董市へ
銅鏡コレクターで研究者の王さんが購入
0906日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:35:41.49
>>902
畿内のホケノ山古墳(3世紀中ごろ)
鉄鏃60個
鉄剣1振
鉄刀10振
ほか鉄製農具など

畿内の椿井大塚山古墳(3世紀末)
鉄刀7本以上
鉄剣十数本以上
鉄矛7本以上
鉄鏃約200本
ほか鉄製工具多数

いいぞいいぞ
顔を真っ赤にして泣きわめきながら
もっと傷口を広げるんだ
0908日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:35:57.67
>>860
うちが載せた資料なんて、妄信者には見えないよ。
もしくはオートモザイク機能が発動だよ。
0909日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:36:23.17
>農民の陳さんが見つけて骨董市へ

日本と中国は2千年近く交流していたし
第二次世界大戦前までは多数の日本人が洛陽近辺にも在住していた。

その頃に持ち込まれた鏡が混入した可能性については?
0910日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:37:00.98
>>906
遺跡の生活域に鉄器ゼロ。

鉄鏃も鉄製農工具も使われず、領民は石鏃や木製農工具のみ使用。

椿井大塚山古墳ははるか離れた京都府木津川市の古墳。
平原女王墓の世界最大を頂点とする内行花文鏡が出土している。


生活域の話をしているのに、
内行花文鏡墓の中身を持ち出して議論をすり替えようとする。

畿内説の手口とはかようなものである。
わかりやすい例。
0912日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:37:31.18
>>889
帆船時代やぞ辰韓直行便あっても不思議ちゃうやろ?
孫権海軍の凄いの知らんのか?
0913日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:37:38.11
>>879

中国製のものなんか限られてる
ほとんど朝鮮由来の物、技術だろ
朝鮮史観のくせにヘイトスピーチでごまかすなよ
0915日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:38:53.90
>>910
畿内のホケノ山古墳(3世紀中ごろ)
鉄鏃60個
鉄剣1振
鉄刀10振
ほか鉄製農具など

畿内の椿井大塚山古墳(3世紀末)
鉄刀7本以上
鉄剣十数本以上
鉄矛7本以上
鉄鏃約200本
ほか鉄製工具多数

屁理屈だけの九州と
ソースつきの畿内説
どちらがより説得力があるかは一目瞭然ですね
0916日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:38:56.37
>>907
反論を諦め個人中傷に走る畿内厨
0917日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:39:54.67
>農民の陳さんが見つけて骨董市へ

洛陽近郊の畑なんてずっと耕されていた土地だろうに。
そんな場所から見つかった銅鏡が
弥生時代に埋まったものと証明できるのか?
0918日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:40:22.86
>>903

熊本あたりは北部九州製の煎餅鏡もらってる
0919日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:40:42.89
>>864
まさに象徴天皇だね。
日本らしい選択だよ。
そうやって天皇という存在が守られたのかもよ。
欠史八代などと呼ばれても保たれるほど大切にされてるんだよ。

その流れでも九州勢の神武血筋がいかに大切にされたか分かるね。
0920日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:41:15.70
>>917
モノは本物っぽいらしいぞ
当時の加工跡が日本の三角縁神獣鏡と同じらしいから
0921日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:42:13.97
>>915
北部九州倭国から日本海沿岸には紀元前から鉄器が普及していたのだから
3世紀邪馬台国には鉄器が普及していて当たり前。
というのが本来の論点。


遺跡の生活域に鉄器ゼロ。

鉄鏃も鉄製農工具も使われず、領民は石鏃や木製農工具のみ使用。

椿井大塚山古墳ははるか離れた京都府木津川市の古墳。
平原女王墓の世界最大を頂点とする内行花文鏡が出土している。


生活域の話をしているのに、
内行花文鏡墓の中身を持ち出して議論をすり替えようとする。

畿内説の手口とはかようなものである。
わかりやすい例。
0922日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:42:44.46
それにしても、謎の写真だよ

ネギ カンダタ 蜘蛛の糸。
カラマーゾフ。

ミノス。
0923日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:43:42.43
>>921
畿内のホケノ山古墳(3世紀中ごろ)
鉄鏃60個
鉄剣1振
鉄刀10振
ほか鉄製農具など

畿内の椿井大塚山古墳(3世紀末)
鉄刀7本以上
鉄剣十数本以上
鉄矛7本以上
鉄鏃約200本
ほか鉄製工具多数

はいはい
そうやっていくらでも九州説の隠したかった事実を
周りに広めるお手伝いをしてくれ
0924日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:43:46.78
>>920
弥生時代の地層から出土したかどうか
例えば弥生時代の漢魏土器と共伴したのかどうか
を質問しているのに、

ものが本物らしい、という議論にすり替える。

畿内説の手口とはかようなものである。
わかりやすい例。
0926日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:44:49.89
蚕などを飼い、
機織りをしていた家だと言っていたり

泥棒のようなものに入られて?
0927日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:45:20.94
つまりだ

日本から持って行って、誰かが耕しそう=掘り起こしそうな場所に埋めておけば
自然と見つかる

という邪推をする輩もいるのだから、
出土証明というものが必要なわけだ
0928日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:46:19.36
>>923
土曜日に敗北を重ねてご苦労さまです。


北部九州倭国から日本海沿岸には紀元前から鉄器が普及していたのだから
3世紀邪馬台国には鉄器が普及していて当たり前。
というのが本来の論点。


遺跡の生活域に鉄器ゼロ。

鉄鏃も鉄製農工具も使われず、領民は石鏃や木製農工具のみ使用。

椿井大塚山古墳ははるか離れた京都府木津川市の古墳。
平原女王墓の世界最大を頂点とする内行花文鏡が出土している。


生活域の話をしているのに、
内行花文鏡墓の中身を持ち出して議論をすり替えようとする。

畿内説の手口とはかようなものである。
わかりやすい例。
0929日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:46:43.50
>>924
弥生時代の地層から現代の偽物が出るなんてありえんだろ
論点は何だ?偽物か本物かって事だろ
何でもない事ですぐ誹謗中傷をする九州説マジ切羽詰まってる
0930日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:46:46.79
>>921
さすがに必死さが可哀想になってきたよ。
生活域の鉄器普及をどうしても無視したいみたいだよ。
0931日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:47:45.16
>>928
畿内のホケノ山古墳(3世紀中ごろ)
鉄鏃60個
鉄剣1振
鉄刀10振
ほか鉄製農具など

畿内の椿井大塚山古墳(3世紀末)
鉄刀7本以上
鉄剣十数本以上
鉄矛7本以上
鉄鏃約200本
ほか鉄製工具多数

九州に鉄器が溢れてるというなら
ズバリソースを張ればいいのにね
屁理屈ばかりというのはお察し
0932日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:48:36.42
>>930
畿内に生活域の鉄器普及なんてあるの?
全部土壌で溶けちゃったんじゃないの?
嘲笑
0935日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:50:55.89
鉄器のない地域も中国文献に記載されているぞ。

鉄製小刀で髭を剃ったりムダ毛処理したりできない
『毛人』の国々だw
0937日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:51:37.87
>>931
北部九州倭国から日本海沿岸には紀元前から鉄器が普及していたのだから
3世紀邪馬台国には鉄器が普及していて当たり前。
というのが本来の論点。


遺跡の生活域に鉄器ゼロ。

鉄鏃も鉄製農工具も使われず、領民は石鏃や木製農工具のみ使用。

椿井大塚山古墳ははるか離れた京都府木津川市の古墳。
平原女王墓の世界最大を頂点とする内行花文鏡が出土している。


生活域の話をしているのに、
内行花文鏡墓の中身を持ち出して議論をすり替えようとする。

畿内説の手口とはかようなものである。
わかりやすい例。
0939日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:52:21.21
>>932
うちの書き方がわるかったゴメンよ。
畿内説派は、どうしても生活域の鉄器普及の差を認めたくないようで可哀想になってきたよ。
というつもりだったよ。
0940日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:53:37.32
>>937
畿内のホケノ山古墳(3世紀中ごろ)
鉄鏃60個
鉄剣1振
鉄刀10振
ほか鉄製農具など

畿内の椿井大塚山古墳(3世紀末)
鉄刀7本以上
鉄剣十数本以上
鉄矛7本以上
鉄鏃約200本
ほか鉄製工具多数

九州説の生活地域のソースもないんじゃ
説得力まるでないね
もしかしてただの言いがかりか?
0942日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:54:26.38
>>932
マキムク遺跡(笑)からは、銅鐸片(笑)しか出ませんでした(笑)
0945日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:55:49.25
>>942
えー、銅鐸が許されるのは、弥生時代までだよねー。
キンモー
0947日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:57:17.70
>>900
>畿内のホケノ山古墳(3世紀中ごろ)

なあ、内行花文鏡の破片を大事にしていた副葬したことは書かなくていいのか?
0948日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:57:19.01
生活域から鉄器が出ないってのも畿内は
5パーセントぐらいしか発掘されてないからね
あと打ち直して刀とかにしたのもあるだろうし
生活域から出ないっていうのは何の反論でもない
0949日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:57:23.96
景初3年銘があるから中国鏡だ

日本でしか出土してないじゃん

卑弥呼用の特注品だ

洛陽にあったのは内行花文鏡や方格規矩鏡なんだから
南方系の神獣鏡のしかも完全に新しい意匠の銅鏡百枚は間に合わないだろ

呉に製作依頼したんだ

魏と戦争中の呉が魏の年号鏡を作るわけないじゃん
0951日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:57:46.84
>>934

副葬鉄器のグラフだけこそ泥しちゃだめだよ
その著者の野島が鉄器そのものが古墳時代へと発展させたのではないと論文に書いている
九州説民族集団は泥棒が習慣になってしまっている
0952日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:58:28.47
低脳畿内厨が、アワレだな
少しは手加減してやれよ
0953日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:58:36.27
>>914
戦前ならいくらでも可能。
0954日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:58:44.06
>>946
だから弥生時代と書いてあるだろう
卑弥呼の時代は?
古墳時代だ
その時の資料じゃないと
もしかして都合悪いから隠してる?
0955日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:58:52.83
>>948
ほんの一部しか発掘されていないのは九州もおなじだよー。
たぶん発掘が進めば差は開くばかりだよ。
この時代、畿内では鉄器は生活用品としては貴重すぎたんだよ。
0956日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:58:53.47
弥生時代終末期で最も鉄器の保有量が多いのは、山陰〜近畿日本海側
畿内と九州の保有量が逆転するのは古墳時代の前期後半
結論 鉄器の保有量は古墳の出現とは関係ない
0958日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:59:44.76
>>940
北部九州倭国から日本海沿岸には紀元前から鉄器が普及していたのだから
3世紀邪馬台国には鉄器が普及していて当たり前。
というのが本来の論点。


遺跡の生活域に鉄器ゼロ。

鉄鏃も鉄製農工具も使われず、領民は石鏃や木製農工具のみ使用。

椿井大塚山古墳ははるか離れた京都府木津川市の古墳。
平原女王墓の世界最大を頂点とする内行花文鏡が出土している。


生活域の話をしているのに、
内行花文鏡墓の中身を持ち出して議論をすり替えようとする。

畿内説の手口とはかようなものである。
わかりやすい例。
0959日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 13:59:53.00
>>948
苦しいのう、苦しいのう
0960日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:00:19.67
>>955
畿内のホケノ山古墳(3世紀中ごろ)
鉄鏃60個
鉄剣1振
鉄刀10振
ほか鉄製農具など

畿内の椿井大塚山古墳(3世紀末)
鉄刀7本以上
鉄剣十数本以上
鉄矛7本以上
鉄鏃約200本
ほか鉄製工具多数

こんなに墓に入れるほど鉄器が溢れてたんだと思うぞ
0962日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:01:06.41
>>957
洛陽近郊の畑で見つかっただけだね。

旧日〇軍のお偉いさんが骨董品が趣味でその中に何枚か入っていたのかもねえ。
0963日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:01:09.93
>>929
>論点は何だ?偽物か本物かって事だろ

偽物だなんて誰も言ってはいない。
ただ、本物を埋めておくくらいのゴッドハンドは容易だったろう。
0964日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:01:31.92
>>958
畿内のホケノ山古墳(3世紀中ごろ)
鉄鏃60個
鉄剣1振
鉄刀10振
ほか鉄製農具など

畿内の椿井大塚山古墳(3世紀末)
鉄刀7本以上
鉄剣十数本以上
鉄矛7本以上
鉄鏃約200本
ほか鉄製工具多数

はいはい
九州説はソースが張れないのね
じゃあ九州こそ鉄器がなかったんじゃないの
0965日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:02:10.92
>>960
はい、だからそこは内行花文墓。
九州北部の遺物を横取りするなよ
0968日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:02:33.32
>>951
古墳時代のうったらとかじゃないよ。
九州勢が畿内に移り住む条件として、武力の差を重視してるよ。
0969日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:02:43.80
>>960
>こんなに墓に入れるほど鉄器が溢れてたんだと思うぞ

思うだけでは意味がない。
考古学的に生活域からの鉄器ゼロ。
0970日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:03:19.35
>>943
>>941
>下の方にひっそりと弥生時代と書いてあるのは説明しないのか

卑弥呼は弥生時代だよ。
勝手に畿内の古墳の年代を繰り上げて古墳時代なんていいはらないでね。
0971日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:03:35.30
九州説いつも以上にズタボロにやられております
鉄器にあふれていた機内を鉄器がない事にしたいがため
ちゃんとしたソースに意味不明の反論を延々とくり返す
レスバの典型的負けパターンです
0973日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:03:53.68
>>964
北部九州倭国から日本海沿岸には紀元前から鉄器が普及していたのだから
3世紀邪馬台国には鉄器が普及していて当たり前。
というのが本来の論点。


遺跡の生活域に鉄器ゼロ。

鉄鏃も鉄製農工具も使われず、領民は石鏃や木製農工具のみ使用。

椿井大塚山古墳ははるか離れた京都府木津川市の古墳。
平原女王墓の世界最大を頂点とする内行花文鏡が出土している。


生活域の話をしているのに、
内行花文鏡墓の中身を持ち出して議論をすり替えようとする。

畿内説の手口とはかようなものである。
わかりやすい例。
0975日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:04:59.56
>>954
>卑弥呼の時代は?

寝ぼけんな、カス
根拠は?
0976日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:05:08.45
>>965
鉄器の話九州説から持ち出して来たんだろう
鏡の話にすり変えるんじゃない
もし鏡の話したかったらご勝手に
0977日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:05:12.98
鉄器ガー連呼で具体的なことを何も言えない九州説こそ考古学の遺物無視
0979日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:05:27.29
>>957
>>949
>洛陽で出土した
>はい論破

ゴッドハンド。
ペナルティ。
0980日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:06:07.91
>>967
スマホからなので
0981日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:06:08.37
>>971
生活域からの鉄器ゼロ。

という指摘に対して、
平原女王墓を頂点とする内行花文鏡を伴う墓の副葬品を示して
論点ずらしをする

それが畿内説クオリティですか?
0982日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:06:49.18
>>972
葛城は九州北部からの出張先
0983日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:07:19.83
弥生中期には既に大陸からの鏡が畿内の河内や葛城に存在するのを
無視する九州説が哀れだな。最大級の水田も既に確認済み。
普通にこの時点でヤマトは都なのである。
0984日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:07:29.76
>>969
>>975

畿内のホケノ山古墳(3世紀中ごろ)
鉄鏃60個
鉄剣1振
鉄刀10振
ほか鉄製農具など

畿内の椿井大塚山古墳(3世紀末)
鉄刀7本以上
鉄剣十数本以上
鉄矛7本以上
鉄鏃約200本
ほか鉄製工具多数

畿内には鉄器が溢れていた事を
九州説が協力してくれて広めることができた
有意義なスレでした
0985日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:07:42.54
>>976
だからあ、同時に見つかった鏡から考えるに、あんたの根拠とやらはすべて九州伊都から持ち込んだものでしょ。
0986日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:07:59.50
>>978
人の移動じゃなくて輸入ルートがつながったとも解釈できる
人が移動したという考古学的根拠をどうぞ
0987日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:08:40.98
九州説はソースすら張れませんでした
弥生時代のソースは論外な
卑弥呼の時代は古墳時代
0988日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:09:00.39
>>981
畿内説が鉄器関連でまた敗北
実に清々しい休日だ
0991日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:09:18.20
>>983
>弥生中期には既に大陸からの鏡が畿内の河内や葛城に存在するのを
>無視する九州説が哀れだな。最大級の水田も既に確認済み。

まさしく筑紫日向からの神武の入植ルートだよね。
それで都になったって?
畿内説は東遷説ということかな?
0995日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:10:34.70
>>989
>>982
>それは紀元前の話だからな。
>三世紀には当然ヤマトが邪馬台国。

あははは
根拠なし
皇紀2600年ですか?
畿内説は記紀を拠り所にしないはずでは?
0996日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:10:41.61
オレが九州説だったら畿内に鉄がないなんて強弁しないね
0999日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:11:16.39
>>973
所で、本当にゼロなの?
うちは、ちょろっとは出土してるんじゃないかなって思ってたよ。
1000日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:11:21.36
>>940
北部九州倭国から日本海沿岸には紀元前から鉄器が普及していたのだから
3世紀邪馬台国には鉄器が普及していて当たり前。
というのが本来の論点。


遺跡の生活域に鉄器ゼロ。

鉄鏃も鉄製農工具も使われず、領民は石鏃や木製農工具のみ使用。

椿井大塚山古墳ははるか離れた京都府木津川市の古墳。
平原女王墓の世界最大を頂点とする内行花文鏡が出土している。


生活域の話をしているのに、
内行花文鏡墓の中身を持ち出して議論をすり替えようとする。

畿内説の手口とはかようなものである。
わかりやすい例。
10011001
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