邪馬台国纏向説
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112日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:32:01.45
>>111
そうですね。
狗邪韓国が女王の境界ですね。 114一介の古墳ファンです。2018/02/15(木) 11:42:29.30
古墳の年代について調べていると、どうしても邪馬台国論争の問題が絡んでしまいますね。卑弥呼の塚が弥生墳丘墓なのか古墳なのか、です。
古墳の年代にとって、纏向は重要な地域です。畿内や、列島規模でみても、古墳時代の原点であります。
115日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:43:14.12
しかし、西暦240年前後、纏向は無文字であり、無鉄です。
少なくとも、考古学的証拠は皆無です。
この文明発生前の地域が、鉄の産地を跨いで中国大陸と文字による交流が可能だったとするのは、不合理ですね。
116日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:44:25.73
3世紀全般や4世紀に視野に広げれば、卑弥呼の死後ということですが、舶来鏡や鉄器等の大陸の文物は入ってきているのだから、介在するものがいたようですが、直接的な相互交流の証拠には不十分です。 118日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:45:54.10
後漢書では倭の西北界が拘邪韓國ですね。
朝鮮半島には南西部に前方後円墳がありますね。畿内の影響があった最古の証拠でしょうね。
ただ、どんなに引き上げても、5世紀中葉のようです。
邪馬台国の時代に畿内の影響があった考古学的証拠になりません。
119日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:47:18.68
魏志倭人伝では、倭国は対馬以南です。倭人の地の領分で、官が置かれ統治されていた領分が倭国との認識のようですね。官が置かれていなかった朝鮮半島や、女王国の東に海を千里渡った領分は倭種の地です。
120日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:48:45.52
卑弥呼の前の男王のときや、倭国大乱後の卑弥呼の共立の当時、倭国は統一体だったのでしょう。
共立後、しばらくして狗奴国の卑弥弓呼素が反乱したのですね。
121日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:50:41.81
そして、魏国はそれ以降、再び台与を共立するまで、倭国を女王の属国と女王国と男王国=狗奴国の3グループに分けて認識していますね。女王国は一万二千里から、卑弥呼の宮が邪馬台国と考えるのが合理的です。(このあたりはスレの住人さんに同じような意見の方がいますね。) 123日本@名無史さん2018/02/15(木) 12:30:16.01
>>115
魏に何回も朝貢したり使節を受け入れてるのに
無文字なんてことは有り得ないよな。 124日本@名無史さん2018/02/15(木) 12:39:12.30
【卑弥呼の王宮の候補】
・高祖宮
魏志に伊都国と記された糸島市にある。
糸島平野と福岡平野の間にあるクシフル山があり、福岡に通じる峠を日向峠と呼ぶことから、高祖宮は記紀にある筑紫の日向の高千穂宮に比定できる。
高千穂宮は天孫ニニギが八咫の鏡を伴って筑紫の王として即位した宮であり、神武天皇が東征に出発した宮でもある。
後にこの地に建設される怡土城、高祖城はクシフル山の山頂を含む中国式山城であり、高千穂宮の名にふさわしい。
糸島平野にある三雲南小路遺跡はニニギと木花咲耶姫の墓と伝えられる。
高祖宮の目の前の平原遺跡からは、ニニギ王家の家宝である神宝八咫の鏡が出土している。
伊都高祖宮こそ倭国の王都であり、平原遺跡は倭国女王卑弥呼が被葬者の最有力候補である。
・橿日宮
現在の香椎神宮。
卑弥呼の後継者となる筑紫の女王の一人として、景行天皇の時代に筑紫の梟帥の称号と八咫の鏡を持つ神夏磯姫(神橿日姫)がいて、その名からはおそらく橿日宮に住んでいたと思われる。
景行天皇の孫の仲哀天皇も橿日宮を拠点としており、代々の筑紫の王宮として用いられていたと考えられる。
魏志では不弥国に比定されることが多く、ここまでは距離が明記されているので郡使が往復したことは確実である。何のために往復したのかと言えば、卑弥呼に会いに行った可能性がある。
・高良宮
筑後一宮。高良大社や高良玉垂宮などからなる複合施設だが、後世の仏教との習合や神仏分離などの影響による。
近隣には卑弥呼もしくはそれに近い人物の墓と言われる祇園山古墳がある。
卑弥呼が筑後出身ならば、高良宮が元宮だったかもしれない。
郡使が滞在した伊都国までやや遠いのと、魏志倭人伝に該当する記事もないのが不利。
すると祇園山は壹與の墓か? いずれの宮も聖地である山の西の麓にあり、王は太陽を背にして君臨したと考えられる。
これは倭国が太陽信仰をもとにした祭政一致体制であったためである。
その象徴となるのが王位の証である八咫の鏡などの内行花文鏡である。
平原遺跡に見られる鳥居や御柱などは、3世紀において神道が成立していたことを示す。
卑弥呼が用いたと記録された鬼道も、三種の神器や榊を用いた神道の儀式であったはずである。 125日本@名無史さん2018/02/15(木) 12:39:39.32
【壹與と與止日女】
肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。 この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。 139日本@名無史さん2018/02/15(木) 13:45:18.87
イザナギが降臨した淤能碁呂島は能古島、イザナギが禊をしたのは小戸、そこに建てられたのが住吉。
福岡こそイザナギの都。
倭国の建国の地。
そしてその倭国の女王となったのが卑弥呼。
考古学的にも、3世紀以前の倭国の王墓は博多湾沿岸にしかない。
そして博多湾沿岸は稲作伝来の地、弥生文化発祥の地。
全ては博多湾沿岸から始まった。 140日本@名無史さん2018/02/15(木) 13:45:36.75
三角縁神獣鏡の同型鏡を分析すると鏡径に大小があり、小さくなるほど文様が不鮮明になる。
これは母鏡から鋳型を作りできた子鏡をまた同じように鋳型にとって順次コピーしていったとみられる。
踏み返しされた三角縁神獣鏡の母鏡とみられるもっとも大きな径となるものが出土した古墳をみると、北九州と吉備に片寄っていることがわかる。
これは三角縁神獣鏡の流通の起点が畿内ではないことを示しており、たとえ下賜と仮定しても
北九州から畿内にもたらされた蓋然性が高く畿内説にとって非常に不利な結果となっている。
母鏡の出土例
>藤崎方形周溝墓
>天神森古墳
>原口古墳
>名島古墳
>香椎ヶ丘古墳
>
>以上福岡
>
>湯迫車塚古墳 岡山
>赤塚古墳 大分
>造山1号噴 島根
>椿井大塚山古墳 奈良 149日本@名無史さん2018/02/15(木) 16:51:27.77
>>123
上表文は倭王印で封泥または押印されなければいけませんから、卑弥呼の膝元から送られていますね。邪馬台国に文字文化があったことは間違いありませんよ。
150日本@名無史さん2018/02/15(木) 16:52:20.41
>>128
邪馬台国や狗奴国を比定することには、あまり興味がありませんね。
邪馬台国を弥生集落遺跡と考えた場合にも、最低でも文字文化は欠かせません。今のところは玄界灘沿岸以外だと、島根県か三重県ということになりますか。
山陽、畿内、四国は厳しいのではと思います。
151日本@名無史さん2018/02/15(木) 16:53:17.90
東夷伝に朝鮮半島で倭人が鉄を入手したとありますが、鉄は貴重だから、再利用されて残っていないことも考えられますから、代わりに鉄文化とリンクしているものを見つければいいのです。
畿内の古墳との関連でならば、まず、割竹形木棺の伝播を考えるべきでしょうね。
ところが、畿内の古墳で、引き上げても250年とされるホケノの前の年代に割竹形木棺がないのです。(私には見つけられませんでした。)
152日本@名無史さん2018/02/15(木) 16:53:58.85
それと、畿内は古墳時代の原点であることは、間違いありませんが、鉄器使用開始の指標となるホケノのこの割竹形木棺の墓制は、滋賀県野洲市が発祥なのです。少し遅れて平原1号、それから半世紀遅れで纏向へと伝播しています。 154日本@名無史さん2018/02/15(木) 17:12:47.37
>>152
割竹型木棺の製作に鉄器が必要ということでしょうか。
滋賀県は「畿内」というよりも、日本海航路による筑紫勢力の圏内であるように思います。 160日本@名無史さん2018/02/15(木) 18:42:09.88
まあ、魏志倭人伝にない前方後円墳を根拠にされても困るよな。
邪馬台国とは別にそのような集団がいたというだけだし。 166日本@名無史さん2018/02/15(木) 20:11:35.22
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif
167日本@名無史さん2018/02/15(木) 20:14:08.13
邪馬台国と周辺国
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg 172日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:13:40.04
割竹型木棺の製作に鉄器が必要かどうかは、断定しきれませんね。
丸木でのカヌーは石器でもつくっていますしね。
ただ、死期を予測して作ったり、在庫を常に確保していたとするのは、弥生の感覚にとっても、縁起が悪いのではないでしょうか。
死の直後に数日で作ったのだとしたら、鉄器は必要でしょうね。
あと、鉄入手のルートのこともありますが、丸木でのカヌー作りと作業が酷似しているから、おっしゃる通り、日本海航路に早くから進出していた勢力が関わっているでしょうね。
2世紀までに若狭や敦賀から琵琶湖岸に達していた勢力があったと思います。
173日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:18:38.26
よく、勘違いされることですが、寿陵でもないかぎり、葬儀に該当する、セレモニーは棺の方が墳丘墓より、重要です。
現代でも同じことでしょう。
墳丘墓や古墳は、王権の継承者ための、継承セレモニーのアイテムです。
174日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:20:59.46
だから、葬礼での種族の分類は、棺によって考えるべきですね。
175日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:05:07.68
>>155
タイトルの纏向の語に反応しましたね。
古墳好きですからね。 183日本@名無史さん2018/02/18(日) 17:02:14.39
纏向遺跡自体は、西暦200年頃、誕生していますね。
纏向石塚が、210年頃の築造ですから、ある程度の人口集落があった証拠になります。
でも、鉄器が皆無の年代です。勿論、それ以降も文字については、3世紀全体を通しても、その痕跡はありませんから、邪馬台国とは無関係です。
そして、卑弥呼が魏と接触し始めた230年代もまだ無鉄器です。
250年頃以降、ホケノ築造ですから、纏向の鉄器時代は、卑弥呼死後ですね。
卑弥呼死後、鉄入手ルートにつながった、もしくは、近江方面の鉄入手勢力に征服されたということになります。 186日本@名無史さん2018/02/19(月) 10:16:22.67
桜井茶臼山古墳は興味深いですよ。三角縁神獣鏡が出土していて、宗像との関わりもあるようです。纏向とは少し離れていて、纏向遺跡には、無い要素があります。誰の古墳でしょうかね。
187日本@名無史さん2018/02/19(月) 11:06:23.07
九州北部から運ばれた内行花文鏡が大事にされていた古墳だよね。
被葬者の出身地はどこだったのかな? 188日本@名無史さん2018/02/19(月) 11:20:37.31
>>186-187
北部九州説はじめ、だれにも分からない
189日本@名無史さん2018/02/19(月) 13:04:20.13
実は、考古学的に墳形以外に纏向の古墳とヤマト王権の関連を見出すことはできません。ヤマト王権最初期の大王墓とされる西殿塚古墳も、そうですね。
対照的に、桜井茶臼山古墳の副葬品は、大和王権の祭祀を思わせるものが多い。北部九州の影響を強く受けています。
時期的には西暦300年頃過ぎ、天皇家に系譜が繋がる人物が初めて畿内に権力を獲得して、ここに埋葬されたのでしょうね。
190日本@名無史さん2018/02/19(月) 13:07:42.55
何百枚もの三角縁神獣鏡が、庄内式と全く共伴関係にないことは、不思議ですね。ほとんどは、布留式期に模倣して制作された国産鏡とするのが合理的でしょう。画文帯を模倣したものか、中国製の三角縁神獣鏡を模倣したものかは、わかりませんがね。
邪馬台国論争にとっては、ややこしいことをしてくれたものです。 191日本@名無史さん2018/02/19(月) 13:13:59.46
難升米が曹叡に拝謁したタイミングを考えれば、下賜鏡は景初三年の作でしょう。
下賜鏡が三角縁神獣鏡かどうかは、わかりませんが、もしそうならば、紀年銘くらいはあったかもしれません。
景初三年鏡が出土したのは、出雲なのですが、残りの99枚はどうなったのでしょうね。
邪馬台国が九州ならば、銅鏡などは珍しくもなんともありませんから、鋳つぶして、リサイクルした可能性もあります。
そうではなかったとも、最終的には、倭国を併呑した大和朝廷によって、奈良の大仏にでもなったのですかね。
192日本@名無史さん2018/02/19(月) 13:34:42.84
桜井茶臼山古墳の副葬された三角縁神獣鏡の破片が、紀年銘が正始元年とあるものと、一致したようですね。
恐らく、舶来鏡でしょう。西暦240年代頃はどこにあったのかが、問題になりますが、共に副葬されていたものから類推すると、やはり、九州北部ということになりそうです。
193日本@名無史さん2018/02/19(月) 14:18:36.60
邪馬台国の条件として、まずは、西暦240年に文字文化と鉄文化があったことです。
そして、それ以前から、曹叡が卑弥呼の好物と認識したものがあったことが必須です。絹、金、刀、銅鏡、真珠、鉛丹ですね。
残念ながら纏向は全く該当しません。 >>197
ここは、纏向説スレッドだから、纏向説が破綻している根拠だけを抜き出して、纏めればいいのではないのかな、、 今日も、優れた考古学者たちに、キナイコシが、偽の畿内説スレッドで、畿内説を鮮やかに論破されているね。。。。 畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。
狂人のキナイコシが、焦ってインターネットで暴れるだけになってしまったね、、、、 >>1さんがどういう意図でスレを立ち上げられたかはよくわかりません。
纏向を邪馬台国の首都とするのか、纏向が邪馬台国そのものに一致させるのかもわかりません。
しかし、魏と交流していた240年頃の卑弥呼が、纏向以外の地にいたことは断言できますね。
考古学的には240年代までの纏向には、鉄文化も、文字文化も、鏡も、鉄剣もありませんからね。
邪馬台国の都の訳がありませんよ。 もっとも、「それじゃあ、おまえは邪馬台国をどこだと思っているんだ?」と問われても、
わからないと答えるしかありませんが。
距離や方角などについては、魏志倭人伝に記載されている行程をどのように解釈すべきか、文献学上の裏付けが必要なのでしょうが、その方面は全く無学なのでね。
しかし、考古学的には、繰り返しますが、邪馬台国の条件は、西暦240年に文字文化と鉄文化があって、それ以前から卑弥呼の好物の絹、金、刀、銅鏡、真珠、鉛丹があったことです。 畿内説は、あの2013年の大規模調査で破綻した。。。 畿内説を論破されたキナイコシは誰に質問しているのだろうか。。。。
このスレッドに現れた謎の考古学者は、ほとんどの倭人に文字文化がなかったといっているようだが、、、 >>236
そうだね、だからこそ、文字が発達した邪馬台国が倭国の中では、考古学的に特徴的になるといってるようだね、、 >>237
発狂したキナイコシは、そんなこともわからないのだろうね。。。 よく調べてみると、熊本城の地下から、文字の痕跡が発見されるのではないのかな。。。 >>236
倭人に文字文化があった根拠は
奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。
徳島県国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀末頃に阿波から奈良へ遷都(持統朝)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。
阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>234
倭人全体で考えれば、繊維質上に文字は残ってないようですが、弥生後期までに、硯や、文字が刻まれた土器が出ています。
上位層では、「太伯」「大夫」という漢語を文字で代々伝えたと思いますよ。渡来した時のままの言語体系を数百年続け、該当する漢語の発音を、口伝だけで伝え、再び、漢人に対し特定させるほどの正確さで発音したことも、否定はしきれませんが、可能性は低いでしょうね。
ただ、私が主張したかったのは、倭人全体に文字文化があったことではなく、邪馬台国の首都で、卑弥呼か、卑弥呼の側近が漢語を解し、詔を読み、上表文を書くほどの文化レベルに達していたということだけです。
遠距離の首都同士の国交ですからね。会話ではなく、読み書きのやり取りが必要ですからね。
そして、正誤を卑弥呼は確かめなければなりませんから、文字を解せる者は複数人いなければいけませんね。 文字が刻まれた土器ではなく、墨書きされたものだったでしょうかね。 3世紀の熊本にも阿波にも、文字の痕跡はないようですよ。 通訳がいたんだから、中国人を雇っただけということもある。 >>245
上表文は倭王印で封泥か押印されます。そうして、魏皇帝は内容の真偽を確かめるのだし、そのために、印を送りました。
だから、卑弥呼のいる邪馬台国で書き上げなければいけません。意思疎通に悪意の他者が介在しない工夫です。
上表文を書いたのが、中国人であって、倭人側には内容の正誤を確かめるすべがないとしたら、卑弥呼は倭王印で押印しづらかったと思いますよ。 本当にいなきゃあしょうがないわな
中国人を複数雇えば良いよ 三世紀の墨書土器は、わりと各地から出てる。
一文字が多いので呪文っぽい雰囲気。 キナイコシも、本当は畿内説が破綻してしまったことは、わかっているのではないかな。。。 >>244
まだ、熊本城の地下が発掘されていないからね。。。 >>246
発狂したキナイコシは、そんなこともわからないのだろうね。。。 少し、荒れ気味のスレ進行ですね。
あったことは証明できますが、なかったことは証明できませんからね。3世紀の熊本にも文字はあったのかもしれないし、雇われ中国人がいたのかもしれません。
でも、複数の中国人を邪馬台国まで招致し、漢語を読み書かせたのならば、つまり、邪馬台国にはその程度の文字文化はあったということです。 >>253
読み書きできない程度では、大袈裟に「文字文化」と言えないのでは? @阿波 >>254
倭人に文字文化があった根拠は
奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。
徳島県国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀末頃に阿波から奈良へ遷都(持統朝)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。
阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 連続句読点爺は嘘スレや偽スレを乱立させるキチガイだもんな 連続句読点爺は嘘スレや偽スレを乱立させるキチガイだもんな 畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。
狂人のキナイコシが、焦ってインターネットで暴れるだけになってしまったね、、、、 今日も、優れた考古学者たちに、キナイコシが、偽の畿内説スレッドで、畿内説を鮮やかに論破されているね。。。。 キナイコシも、本当は畿内説が破綻してしまったことは、わかっているのではないかな。。。 畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。
狂人のキナイコシが、焦ってインターネットで暴れるだけになってしまったね、、、、 纏向が邪馬台国ではないという理由は、すでに何点も提示しましたが、有効な御反論を頂けなかったのは残念です。 また、私は熊本や徳島の弥生時代の文字の事情は知らないですし、スレの論点と離れてしまうようですよ。 いまのところ、考古学的には3世紀前半の纏向で文字の痕跡は見つかっていませんが、邪馬台国で文字が伝われたかどうか、魏志倭人伝の金印と上表文の記述に対する評価次第でしょうから、この辺りの文献史学の決着待ちというところですか。 いまのところ、考古学的には3世紀前半の纏向で文字の痕跡は見つかっていませんが、邪馬台国で文字が使われたかどうか、魏志倭人伝の金印と上表文の記述に対する評価次第でしょうから、この辺りの文献史学の決着待ちというところですか。 纏向の古墳群が2世紀以前からの土着勢力のものであったとしても、ホケノ以降は近江を通して日本海側からの影響を受けていることは、棺と鉄のことで説明しました。 また、纏向とは少し離れる南側の後続する大王墓が、より、九州地方との副葬品の組み合わせに酷似してきます。 こうしてみると、纏向の3世紀後半(卑弥呼没後)というのは、他地域との交流によって、急激に発展し、権力が集約していったようです。 冷静に判断すれば、4半世紀ほど、纏向は曹魏と接点を持った240年頃の邪馬台国の時代に間に合っていないのです。 本当のところ、邪馬台国には興味がないのですが、古墳の学術研究の始点が、邪馬台国問題に振り回されてしまうのは、苦々しいですね。 キナイコシが、重複偽スレッドで、畿内説を鮮やかに論破され、腹いせにこの本物のスレッドを荒らしに来るのではないのかな。。。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 今日も、優れた考古学者たちに、畿内説のキナイコシが、偽の畿内説スレッドで、鮮やかに論破されているね、、、 難升米が謁見したのが明帝であると、文献史学的にこれ以上はない形で時間軸が明示されたのですから、考古学もこれを基に邪馬台国を探すべきでしょう。
つまるところ、西暦230年代であり、それ以降の考古遺物は卑弥呼の塚比定に限って、引き合いにだすべきでしょうね。
邪馬台国の条件としては、鉄と文字、卑弥呼の好物それから、人口でしょうか。その他の魏志倭人伝に紹介される産物や風習は、倭人のものであって、邪馬台国限定のものではありませんからね。
従って、文献史学と考古学の突合せは、鉄と文字、卑弥呼の好物(金や銅鏡)、七万戸と、西暦240年以前の考古遺物です。
纏向遺跡でいえば、庄内式以前ということになり、あっけなく、候補から消え去ります。 畿内説が破綻し、キナイコシが論破されてしまったのは、もう誰の目にも明らかなのではないのかな。。。 今日も、ただ一つのこの纏向説スレッドに、レベルの高い謎の考古学者が現れて、畿内説を鮮やかに論破してしまっているよ、、、 >>286
キナイコシを何度も論破し、キナイコシが最も恐れている岡上氏ではないのかな、、、 畿内説が破綻して、自論を論破されてしまったキナイコシが基地外になってしまったね。。。 纏向遺跡の庄内式期終末期に、かろうじて、ホケノが築造されたのかもしれませんが、すでに、布留0から始まる後続の布留式期が始まっています。 そして、この時期には、巻向駅近くの、掘立建物群は廃絶されています。つまるところ、卑弥呼の宮として引き合いに出された掘立建物群は、実はホケノ前の無鉄器時代だったのであり、同時に存在した可能性が考古学的にほぼ無いのですね。 この時期より前、纏向の他の古墳にも近江の刳り抜き棺は採用されていません。 ひょっとすると、掘立建物群廃絶の時期に、纏向は近江の勢力に征服されたのかもしれませんね。仮に、そうでもなくても、強い影響下に入ったことは間違いありませんね。時期的に、卑弥呼の没年付近だね。 今、キナイコシが、偽の重複スレッドで箸墓古墳が那珂八幡などの(後からの)模倣だと論破されてしまったね、、、 キナイコシも、本当は畿内説が破綻してしまったことは、わかっているのではないかな。。。 連続句読点爺も、本当に自分が嘘つきだってことを、認識できないのではないかな 大物主への年貢を入れる倉庫なんだから
大物主が滅ぼされたら当然廃絶されたのだろう。 近江勢力というのが、出雲の配下であり、纒向の倉庫を運営していたということかな?
興味深い。 >>298
出雲で負けた集団が近江を通って纏向に落ち延びた 今日も、ただ一つのこの纏向説スレッドに、レベルの高い謎の考古学者が現れて、畿内説を鮮やかに論破してしまっているよ、、、 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています