邪馬台国纏向説
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>>605 芝遺跡では弥生時代前期後半頃には吉野川下流域や紀伊からの搬入品が認められるが、 特に吉野川下流域土器は弥生時代を通じて恒常的に出土すると考えられる。 弥生時代終末頃になると吉野川下流域時の他に、畿内・讃岐・土佐・吉備からの搬入品が認められるようになるものの、 普遍化した出土状況は見られない。 古墳時代前期前半頃になると吉野川下流域時が主体であることに変わりはないが、一定量の畿内系土器の搬入が認められる ようになる。 以上のような搬入土器の出土状況や共伴関係の検討から、 吉野川下流域の搬入時を主体とし、複数地域からの搬入土器が混在する第一段階(弥生時代終末頃〜古墳時代初め頃)。 吉野川下流域地域の土器・畿内系土器が主体となる第二段階(古墳時代前期前半頃)に分類することができると考えられる。 第一段階は伝統的な交流からの脱却の揺籃期、第二段階は交易ルートの確立を意味し、この現象は吉野川下流域、 なかでも鮎喰川下流域集団の影響が大きく、朱を媒介として交流が盛んに行われていたものと考えられる。 朱の搬出や食料供給に阿波南部地域集団が関係(菅原1992、岡山 2002)していたことを示す資料である。 @阿波 >>606 4、周辺の遺跡の様相 本地域は発掘調査がほとんど行われていないため、資料数が少ないが、海部川河口砂堆に所在する大里松原神社遺跡において 若干の土器が採集されている。 東阿波型土器や下川津B類時が出土しており、在地産土器と外来系土器が混在する状況を示している。 時期は大きく弥生時代後期後半と古墳時代前期初頭の2時期に分かれ、 この在地土器と外来系土器の混在する状況が、本地域の特徴であると意義付け、海人の存在が想定されている。(菅原1992) この他、吉野川下流域地域で畿内系土器が出土しているのは黒谷川郡頭遺跡(菅原1989)や石井城ノ内遺跡(日下1999)などに 限られ、出土点数も数点しかない現状では、阿波南部地域の特異性が窺える。 @阿波 >>607 5、まとめ 芝遺跡は阿波南部地域で数少ない発掘調査を行った遺跡である。 県内では珍しい円形周溝墓をはじめ、竪穴住居等の遺構や弥生時代前期後半以降の土器・石器も出土し、 本地域の集落形態の一様相が確認できた遺跡である。 また、弥生時代終末頃〜古墳時代前期前半頃にかけての搬入土器がまとまって出土したことから、 出土状況・共伴関係の検討を行い、各搬入土器の搬入時期のピークを探った。 土器の搬入には鮎喰川下流域集団の関与が想定され、一連の動きに若杉山遺跡(岡山1997)の朱が関わっていると考えられる。 本地域の発掘調査事例が芝遺跡に限られる現状では、搬入土器が普遍的に出土するのか、芝遺跡の特異性なのか、判断しがたいが、 大里松原神社遺跡においても搬入土器が認められることは、 本地域に一定量の土器が搬入される状況があったことの傍証になるものと考えられる。 芝遺跡は土佐ー阿波ー畿内を結ぶ四国東岸海岸沿い太平洋ルートを想定できる遺跡であり、 海上交通に際しての人・物が集中する拠点集落であったと考えられる。 @阿波 僕たちが愛してやまなかった邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、どうやって生きて行けばよいのだろうか。。。 岡上ってびっくりするほど意味のあること書かないよね 畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。 犯罪者キナイコシの、スレッドを荒らすやり方が、ますます悪質になってきているよ、、、 土器の伝播というのは、実物であれ、製法であれ、人間の移動の証拠であることは間違いありません。 しかしながら、部族集団の大入植や侵略、奴隷の大量移送があったのか、商集団の最小ロットや、家族単位の移動だったのかは、殆ど見分けがつかないのですね。 極論をいえば、土器づくりの工人が一人いて、需要が見込める地域にサンプルとして、土器を数点持ち込み、熱効率や使いかって等の機能性、または洒落たデザインがその地でウケが良ければ、しばらく居ついて、需要がつきたり、地元民に上手に模倣されるまで生産するわけです。 そんなことが、例えばですが、庄内式土器の最初のころ河内湖沿岸→纏向→姫路(→博多?)という経路で行われていたかもしれませんね。 弥生後期までは、墓形の企画も同じことがいえますよ。墓づくりの技術集団が、各地の求めに応じて、渡り歩いたとも言えますからね。円形、方形周溝墓、ホタテ型とか、それぞれの技術集団がいただけかもしれません。 前方後円墳体制というような政治体制ができていたとしても、それは、定型化が始まる布留式期以降からです。卑弥呼の時代とは無関係です。 四隅突出だけは、私の予感でしかありませんが、同一部族のような気はしますがね。 部族集団の入植や、政治体制への参加を論ずるには、レガリアの模倣の観点で見直す必要がありますね。具体的にいえば、やはり王墓の副葬品であり、弥生後期から古墳出現期では、鉄製品、勾玉、鏡、耳飾りになる訳ですね。 庄内式期、纏向の唯一の王墓である纏向石塚の副葬品は、全くの不明です。でも、この時期の層の出土状況からは、鉄製品、勾玉、鏡、耳飾りがあるような集落とは全く程遠い状況だったわけです。 むしろ、布留傾向の土器がでるころ、つまり、早くても250年以降ですが、近江を通じて、北部九州を模倣したレガリアでの副葬が始まっています。卑弥呼を共立した倭国体制への参画が始まった証拠でしょうね。 纏向が邪馬台国の可能性は、全くありませんよ。 つまり邪馬台国は熊本城が建てられた所にあったわけですね。 >>618 その人がここに一人で書いているのだね? 邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、キナイコシはどうやって生きて行けばよいのだろうか。。。 >>622 邪馬台国熊本説は九州説の中でも異端だろ? 詳しく語ってごらんよ >>620 >私の予感でしかありませんが じゃあ無意味だな 予感は科学じゃない 西暦240年も隋の時代も都は変わらない 隋書?国伝 倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在る。 山の多い島に居住している。 魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国で、みな自ら王を称していた。 夷人は里数を知らない。 ただ日を以って計算している。 その国境は東西は五ヶ月行、南北は三ヶ月行でそれぞれ海に至る。 地勢は東が高く西が低い。 邪靡堆を都にする。 すなわち、魏志の言うところの邪馬臺である。 >>626 >> 魏志倭人伝に道のりが示されているのね。。。 (帯方郡から)南に10日航海し、(末盧国から)陸路を1月行くと女王が都にしている所である(後に、熊本城が建てられた)邪馬壹国に至る。 官は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮といい、70000戸あまりあるようだ。。 女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができるが、その他のかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。 (帰りに宿泊するのは、邪馬台国の)次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、 その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、 その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、 その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、 その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、 その次は邪馬国(八女)であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、←邪馬国(八女)に注目、、、、 その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は(帯方郡からの道里を前述し、示した)奴国である。 これが女王の境界が尽きるところである。。。 その(女王の)南に狗奴国があって、男子が王になった。 その官には狗古智卑狗がある、、 女王に服属していない、、、 邪馬台国纏向説とは、大和朝廷が東遷して、纏向に邪馬台国を作成したという説ですね。。。 その通りです、、、 しかし、5年前の大規模調査で、完全に破綻してしまいました。。。 確かに、墳形の分布に政治体制や血縁を認めることは、科学的態度ではありませんし、四隅突出墓自体は、スレの趣旨から離れてしまいまいそうですね。 でも、もう少しだけ言わせてもらいますと、北陸にこの墳形が伝播し作られていた期間、この地域で言う法仏式から白江式までは、畿内で言う庄内式期です。 そして、その直後に、加賀で布留傾向甕が誕生した可能性があるのですよね。そして、布留傾向甕は過去に例をみないような短期間に広域に拡散しています。 四隅突出墓体制なるものがあったとして、それが終焉した時期にその地から全国に一斉に波及したのが、布留傾向甕なのです。卑弥呼の死からは、少し経った時期ですね。纏向が倭国の片田舎から、ようやく鉄器時代に入る直前の西暦250年以降ですね。 纏向が邪馬台国だった訳はありません。 【庄内式土器】 1,「庄内式土器研究会」の全国的(釜山〜関東)調査によれば、庄内式土器の中心出土地は纒向ではなく、中河内(八尾市・大阪市・東大阪市・柏原市)であり、その規模は纒向を「都市」とすれば、中河内は「大都会」である。 2.中河内の遺跡群には各地(特に多いのは吉備・播磨・四国地方などの西からの搬入)からもたらされた土器がかなりの頻度で出土している。大和の遺跡が東海や近江・北陸といった東の地域からの土器搬入が目立つのとは対照的。 3.河内の庄内式土器は西日本各地への移動が確認されているが、大和の庄内式土器はほとんど移動していない。 4.今まで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、ほとんど播磨の庄内式土器であって、大和の庄内式土器が移動している例は数えるほどしかない。 5.播磨で作られた庄内甕と畿内の遺跡の庄内甕は瓜二つで、近年の胎土の研究の進展により区別できるようになった。 6.大和盆地で庄内甕が出土するのは東南部だけである。すると庄内式が大和から全国に広がっていったとする従来の考え方を改めなければならなくなった。 7.胎土の研究を進めていくと、庄内式土器の次の段階の布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする現在の定説も否定しなければならない。 8.なぜかというと、胎土観察の結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかった。 9.しかも北陸の土器の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現する。 10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。 つまり邪馬台国は熊本城が建てられた所にあったわけですね。 >>634 >10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。 したがって、日本各地に散見する布留式土器は倭国(阿波)の東阿波型土器の工法が拡散したのである。 @阿波、 >>634 >10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。 手直し したがって、日本各地に散見する布留式土器は倭国(阿波)の忌部一族によって、東阿波型土器の進化工法が拡散したのである。 @阿波 岡上、またクズスレ立てたのか_・・・ 心の病気か? >>634 その情報は、米田さんの胎土研究が元になっているのですか。確かに、庄内式は姫路が初源でしたね。 河内と勘違いしていました。先日お示した、土器づくりの工人の辿ったルートも手直ししなければいけないですね。>>619 胎土分析を突き詰めると、確か、畿内から九州に庄内式の現物が搬入されたと言い切れるものは、筑後川下流域の河内型だけでしたね。 三雲から出た大和型は、砂礫構成での花崗岩質の含有の具合から福岡市の土を使用した可能性も高いのですよ。 天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの延べ何百時間にも及ぶ大規模調査が実施された2013年以来、箸墓古墳を卑弥呼の墓とは、誰も言い張らなくなってきたね。。。 比較的、卑弥呼の死の年代に近いとされる箸中山の大王墓は、無鉄器時代の纏向を築造の直前に侵略した、鉄器でヤマト王権を列島規模に拡大させた功績者のものの可能性が高いですよ。 少なくても、死の前後まで、三国に分裂していた中国に干渉されるような乱中にあった共立王のものではありません。 墳形が在地の首長墓である纏向石塚と似たのは、畿内付近の墳丘技術者集団のデザインというだけです。 だいたいの纏向と邪馬台国への見解はこのスレで、数点お示ししました。大和の東南部が、邪馬台国の首都である考古学的な根拠は絶無であることが、ご理解いただけたと思います。 要は、卑弥呼と曹魏が交渉を始めてから20年ほどは経っている布留傾向が出る時代より前に、朝鮮南部や博多からは纏向に文物が一切入っていないのです。纏向が邪馬台国の可能性は、全くありません。 >>646 この妄想がやめられないんだねww 単に、始めて考古学者が箸中山古墳の墳丘上を歩いて観察することが許されただけ 妄想の大規模調査ww >>647 >無鉄器時代の纏向 そんなものはないww >>647 >鉄器でヤマト王権を列島規模に拡大させた功績者のものの可能性が高いですよ 編年無視だといろいろな妄想ができますね 纏向の建設開始は庄内0式土器の時代の3世紀初頭で、卑弥呼の遣使よりも前 ちょうど卑弥呼の共立に伴って新しい都を築き始めたと見ればよい つまり、そこ纏向が女王之所都=邪馬台国で、畿内説そのままだよ >>630 >その次は(帯方郡からの道里を前述し、示した)奴国である。 これが捏造 そんな読み方は誤読・曲解以外にはない 邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、キナイコシはどうやって生きて行けばよいのだろうか。。。 誤読された方がいらっしゃるようですので、加筆修文致します。夜間使用するプラウザの都合でSAGEづらいのでご容赦下さい。荒らし行為ではありません。 纏向遺跡では、布留傾向土器が出る地層より、下層には、鉄器が出ません。掘立小屋や纏向石塚築造時を示すと予想される遺物はありますが、鉄器がでない層です。在地の集落規模の首長の時代です。 箸中山の大王墓の被葬者は、古墳築造の直前に、掘立小屋を建てた在地の集落規模の首長時代の纏向を侵略したのですよ。鉄器でヤマト王権を列島規模に拡大させた大王自身か、功績者である可能性が高いですね。 少なくても、箸中山の大王墓の被葬者は、死の前後まで、三国に分裂していた中国に干渉されるような乱中にあった共立王のものではありません。 箸中山の大王墓の墳形が纏向石塚と似たのは、畿内付近の墳丘技術者集団のデザインというだけです。 西暦200年前後に纏向に最初に入った勢力は、掘立建物を作り、纏向石塚を作りましたが、無鉄器勢力です。鉄製品、文字関連品、卑弥呼の好物(絹、金、刀、銅鏡、真珠、鉛丹)も持ちません。 鉄器をもった別勢力が、布留傾向土器が作られ始める250年以降に侵入し、箸中山やホケノを作ったのです。掘立建物勢力は鉄器をもった別勢力によって、制圧されたのでしょうね。 布留傾向の前の時代の大和東南部が、邪馬台国の首都である考古学的な根拠は絶無です。 要は、卑弥呼と曹魏が交渉を始めてから20年ほどは経っている布留傾向が出る時代より前に、朝鮮南部や博多からは纏向に文物が一切入っていないのです。特に、鉄製品、文字関連品、卑弥呼の好物(絹、金、刀、銅鏡、真珠、鉛丹)が出ないのは畿内説にとって致命的です。 纏向が邪馬台国の可能性は、全くありません。 >>654 >掘立建物 これは、掘立柱の建物のことか? 結構な大規模建築も掘立柱で作られているのは知ってるよな? 掘立柱の建物はけして文化レベルの低い集落ではない 掘っ立て小屋に近い語感の単語を意図して使っているだろう? それから、鉄器用の砥石も出ているし、石庖丁が消えるのも奈良盆地は比較的早い 奈良盆地で鉄器が不足していたと考える理由はない 鉄器が「ない」ではなく、「見つからない」理由を考えた方が真実に近づける >>651 >ちょうど卑弥呼の共立に伴って新しい都を築き始めたと見ればよい >つまり、そこ纏向が女王之所都=邪馬台国で、畿内説そのままだよ 開拓の最前線が王都にはならない。 >>656 >開拓の最前線が王都にはならない。 開拓の最前線じゃなくて、纏向は計画都市だよ 纏向編年が、纏向大溝の土器一括資料がもとになってるのは知ってるだろう 最初に物流のために運河的な大溝の開削から始めて、計画的に 祭祀空間を作っているんだよ 開拓ではない理由は、九州説がよく言う「纏向遺跡には田畑がない」こと からも分かる >>660 その福岡の大溝とやらは、どこにあるんだい? 環濠集落の環濠も、確かに溝ではあるが、あれは目的が違うぞ 大宰府政庁跡のほぼ正面から 大溝跡らしいものが発掘されてる。 ただし、すでに人口が多いところには 条坊都市を作るのは難しかったのか 西側には部分的にしか都市の痕跡はなく 不完全なものだった。 完全形態は近江大津京を経て 藤原京が完全条坊都市らしい。 >>662 >大宰府政庁跡のほぼ正面から >大溝跡らしいものが発掘されてる。 それ時代いつ頃? >条坊都市を作るのは難しかったのか これだったら何百年も後だぞ ただの環濠集落の溝や古墳の周溝なら 日本中にあるだろ。 大溝という言葉は条坊都市の区画を分ける 水路のことを指すことが多い。 ググると、那珂遺跡、藤崎遺跡、井尻遺跡などで弥生時代の大溝が見つかっていたようだけど。 畿内説は軍国主義史観 日本の3000年の歴史などとプロパカンダした戦前の大日本帝国思想の残滓に過ぎない その証拠に畿内説支持者には歴史修正主義・日本第一主義など所謂エスノセントリズムの信奉者が多い 日本は歴史的に世界の辺境後進地帯であり韓半島や中国大陸から先進文化を下賜されてきた。 その視点から考えれば邪馬壹国は九州に他ならない そりゃ大きい溝はみんな大溝だろうが、纏向にあるような運河みたいな水路とは別物って話よ 那珂遺跡は弥生中期から水運のために縦横に大溝を整備していたらしいけど、纒向と何が違うのかな? 纒向纒向と言う人は井の中の蛙なのではないかな? >>668 >弥生中期から水運のために縦横に大溝を整備していた「らしい」 「確認できるようなソース」や「根拠」を挙げてくれるかな? 668がそうだというつもりはないけれど、九州説の人で 嘘・捏造が当たり前で、根拠なしのでたらめを言う人がいるからさ >>668 >那珂遺跡は弥生中期から水運のために縦横に大溝を整備していたらしいけど、 「確認できるようなソース」は? 申しわけない。イメージで掘立小屋とタイプしてしまってますね。正確には、高床式建物と思われる建築物でしたね。 もっとも、漢魏洛陽城宮城と比較するわけではありませんが、 辻地区の庄内期の建築群は、決して大王の宮室と確定しうる大きさではありません。例えば三内丸山の柱なんて、縄文中期のものですから、もっと大きな建築物が出てきたって不思議じゃないわけです。 でも、私は何処そこが邪馬台国だとは主張していませんから、弥生末にもっと大きな建築物が何処にあったのか?、と尋ねられても、わかりません、と答えるしかありません。 鉄器に関しては、布留傾向以後は出てるのですから、やはりその時期に大きな転機があったと考えるべきです。砥石は須恵器の層以外にあったことは、知りませんでしたね。庄内期なのですか? いずれにしろ、鉄よりも庄内〜布留1式を通じて文字使用の痕跡が全く見られないことの方が、纏向説にとって致命的です。 纏向周辺の発掘調査率は日本有数ですから、文物が出ないことの言い訳にはなりえませんよ。 このただ一つの邪馬台国纏向説スレッドにも、謎の優れた考古学者達が現れて、邪馬台国纏向説を、蠅を叩き潰すようにして、叩き潰してしてしまったようだね。。。 せっかくだから、溝や掘立柱が珍しくないことを、初心者にも説明すれば、良いのではないのかな。。。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1521001812/ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる