邪馬台の全解決
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
ジュンク堂で、買ったばかりで驚いている。これ本当?
教科書が書き換えられると宣伝しているが? その自爆テロ発言、おまえも巻き込まれてるから
またブーメランだな まずは検討の入口として、「一大率」は「一人の大率」であることを確認したい。
中島一憲氏は「大率」の用例として「墨子」の「迎敵祠」を引用し、「大率」は「城郭の
上四隅に配置された師団長」であり「国際的に通用する官職名であった」とされている 2。
後代の百済の官職名に「大率」が見えることがこの理解の裏付けとなる。
具体的には、 二十四史の一つである隋書(百済伝-列伝四十六東夷伝百濟)に、「官有十六品 長曰左平 次 大率 次恩率 次コ率 次杅率 次奈率 次將コ 服紫帶」とあり、大率という官職名が記載さ れている。
また、倭人伝が大率の読みに何の注釈も加えていないことも同理解と矛盾しない。
官職名が「大率」である以上、「一大率」は「一人の大率」である。
ttp://wvgr.web.fc2.com/6.Daisotsu.pdf >>626
あちこちにこのコピペしてるアホはこれ書いた本人なのかな? >>627
とは限らないが、コピペがアホであることは間違いない 大率とは何かがカギなわけだが、それが官名であることがわかる資料があるわけだから、無視はできない。 官名じゃないっつの
単にいろいろな意味なり用法なりある中に
城郭守備兵の師団長の意味もあれば百済の位階の一つもあるってだけの話
伊都国に常駐する一大率が城郭軍の師団長なのか?
倭の国々には城郭なしって書いてあるやんw 倭と百済は近い関係だから、百済を参考にするべきだね。
ただ、一つの国を担当する官ではなく、広域(対馬海峡)を支配しているので、海軍力を持っていただろう。
明治になり、最後の帥宮は初代陸軍大将になったので、将軍的な意味合いもあったかもしれない。 三世紀にはまだ百済の大率はないだろ
明治の話なんてぜんぜん関係ないし 倭の最初に記録された人名は筑紫にいた帥升、卑弥呼の時代は筑紫伊都に大率(率は帥と同じ)、景行天皇の時代に筑紫の梟師、その後は筑紫太宰の帥。
偶然か? >>635
同じ意味のことを「漢文」という同じ言語で表現してんだから
偶然も糞もないだろw
意味がないほどの必然だぞ
倭国王帥升は倭国の「主帥」で名が「升」
主帥も大帥も梟帥も同じ 36年も前の本にいまさら驚いてるアホどもは
いままで何を学んで邪馬台国を考えてたのやらw 畿内説だけじゃなく
邪馬台国論争で飯を食うためだろ 平原遺跡が発見された時、魏志倭人伝は決着がついたはずだった。 学者、専門家と言われる人が無能だから邪馬台国論争が終わらないw 考古学者は説は出さないよ、説の基となる資料を出すんだよ。 絹や鉄製品、硯、その他装飾品等の出土状況からみて学問的にはほぼ決着がついてますね。 伊都クズがいかに歴史学・考古学を知らないのかがよくわかる 無能な働き者が最も周囲に迷惑をかけるという典型だな これだけ材料が揃っているのに九州と結論できないなら、学者はタダ飯ぐらいと言われてもしょうがない。 その材料が、みんなお前の妄想
ってことなんだが
事実が見えんか?
かわいそうに >>637
実は「升」は「タケル」の意訳で
「帥升」の本当の名前は「スメラタケル」だぞ 平原が本命だが、倭人伝の記述と合わんのがあかんかった。この本は記述あうとゆうてる。
あの遺跡しかないわ。
日本史のスタートラインだ。 それは卑弥呼の末裔、最後の邪馬台国の女王。
時代が神功皇后と同じだから4世紀末。 >>664
神功皇后を実在の人物と考えてるの?
それで時代が特定できると? 今だ!666ゲットォォォォ!!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ (´´
∧∧ ) (´⌒(´
⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
 ̄ ̄ (´⌒(´⌒;;
ズザーーーーーッ 日本書紀の中でも創作が多い部分だとは思うが、人物自体はいたと思うよ。
天皇家の歴史としては不都合なこと(仲哀と応神の皇統断絶の疑いとか)も多いが、それでも書かざるを得なかったのだと思う。 >>660
「帥升」をスイショウやソツショウまたはその中古音上古音に相当する様な読み方をしても日本語の音韻には一致しない
ということは音訳ではなく意訳で考えるべき案件
「升」は「昇」の異体字(本来の字)
タケル(建/武)はタカ(高)の類語で、上に上るニュアンスは「昇」に通じるためこの「升」で訳された
「帥」には率いるという意味があり、魏志韓伝の中にも「渠帥」という現地民の首長の言及がある
スメラ(皇)はスマル(統る)の類語で、各地の豪族の上に立つ統一王を指すため、これが「帥」に訳された
合わせて「帥升」を「スメラタケル」と読めば上代日本語での王の呼び名としては自然なものとなる 梟帥と書いてタケルと読む。
帥、率の字にタケルの意味がある。
iPhoneもタケルで梟帥と変換できる。
タケルは帥の方の読みである。 >>667
言ってることがわからんが?
いたの、
いなかったの? 事績に創作は多いが、いたと思う。
そうでないと応神天皇が生まれないしw >>672
応神天皇を歴史判断の基準にしていいの? の日本史で信用していいのは、日本書紀はなしで、日本書紀編纂以後は信用していいが、日本書紀の中身は信用できないが基本だよ。
編纂者による編集作品。作品だからね。 >>680
聖徳太子すら実在したのか?
推古天皇は女帝だが、その時に唐の使者が来たが、男のおうだった。聖徳太子でも推古天皇でもない。応神天皇どころではない。、飛鳥時代でも、そんなもの。 つまり、日本書紀の記述より、裁判でもそうだが、利害関係のない第三者の知見が優先。唐の使者が嘘をつく理由は何一つ無い。 利害関係のある当事者の陳述書は、裁判官は信用しない。
歴史も同様。 >>682
男の王だったとか、どこにもかいてないけどな 中国の春秋に対抗して神武天皇の時代を紀元前600年頃にしたんだろう >>681
日本書紀で信用できるのは神武東征ぐらいだろう
時代は全然違うみたいだけど。 日本書紀って長いんだぞ。
なんで神武だけ信用するんだ? >>685
日本書紀には、書いてないけど、歴史を勉強きたものなら、すぐ分かる話だぜ、 >>685
妃と太子の名前があり、さらに後宮には女が数百人いたと。 >>685
ちゃんと覚えてないが、
推古天皇、女帝だが、その時にあった男王の名は、
間違っているかも知れないが、
あまたらしひこおおきみ、
推古天皇でも聖徳太子でもない。身内ではなく、他人が、ただの訪問者がそう記録している。
これを否定しないと、日本書紀は成り立たない まして、卑弥呼、
神功皇后、
そんなカバな、
そんなもんから、邪馬台国? >>696
だったかなあ、
古田武彦氏は、だから九州王朝説をだしたが、
江上波夫説のように、ヤマトまで行って、あまたらしひこと、あったと考えるのが自然では >>697
すまん、
江上さんは、そんなことを言っていない。 >>670
梟帥のタケルは梟の方が本体だ
「梟(ふくろう)」には猛々しい・強いという意味がある
「帥」「率」には「タケル」という訓はない
それらの字は率いる・統べるという意味だ タケルに統べるという意味があるんだよ。
梟は修飾語。
帥に意味がある。 >>701
ソースもなしにそんなことを言うな
ヤマトタケルの武・健にそんな意味はない ないよ
「統べる(suberu)」なら「皇(sumera)」の方が意味も発音もずっと近いだろ 梟にタケルなんていう意味はない。
タケルは支配者の意味。 梟帥やタケルについて思いつき並べるのは
もうちょっと古文や漢文を勉強してからにしろ。
きみらには早すぎる どちらにしろ漢和辞典も古語辞典も見ないアホはトンデモを言い張ることしかできない 魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif >魏略逸文
>帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里
孫栄健の『邪馬台国の全解決』では一万二千里ってのは奴国までの距離だっていうんだが
確かに謎解きというかパズルごっことしてはそうなる。
だから著者の孫栄健は30国の総称が邪馬台国だとか屁理屈いいながら
事実上「奴国=女王国=邪馬台国」としてしまっている。
しかし魏略には一万二千里は女王国ではなく「女国」になってる。
みな勝手に女王国の「王」の字が誤脱してると思い込んでるが
広志逸文だかなんだったか奴国を女国に誤った例があったろ
ってことは孫栄健みたいにややこしい理屈をひねらんでも
原資料では「奴国まで一万二千里」とあった、ってストレートな説でよくね? 聖徳太子すら、実在かわからんのに、日本書紀で三世紀の話はまったく無理やわ。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/多利思比孤 ヤマトに来た隋の使者があったのは、多利思比孤という男王で、嫁さんがいた。当然に女の推古天皇ではあり得ないし、聖徳太子ごとき人物もいない。
しゃうがないから、さまざまな学者がこじつけを言ってるが、無理筋ばかり。
飛鳥時代の話ですらこれだ。日本書紀や古事記で古代史を考えるのは、ある話ではない。 >>713
タリシヒコは遣隋使が中国側に説明した話 >>714
いや、
ネットで検索して、
隋使者が奈良まで来て、男王とあっている。
推古天皇も、聖徳太子もいない。、 >>716
男王とあっている、という証拠なし
都市伝説 飛鳥時代でも、このレベル。三世紀の古代史を日本書紀で考えるなど、話になりません。
そんな専門家は、今はいません。 日本書紀なんて最後の7世紀辺りの記述は全く信用できないよな
まして3世紀とか話になりませんわな。 つまり、
邪馬台国問題で神功皇后とか応神天皇とか出すお爺様は、その時点で退場しかないのです。
日本書紀は天武天皇政権の作品であり、
それを承知の上で、そこから少しでも歴史を復元するのが、今の学界らしいです。 >>722
ブログなんか貼るなよ
日本書紀には男王とも女王とも書かれてないよ 日本書紀を信じないなら、隋に使いを送ったのは九州倭国の男王だよ。
隋書には多利思比孤の名前がある。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています