邪馬台の全解決
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
ジュンク堂で、買ったばかりで驚いている。これ本当?
教科書が書き換えられると宣伝しているが? >>712-725
なんでいきなりスレタイと関係ない話はじめてんの? スレタイ読めない池沼かよ 倭国がどこにあったのか、だろ?
関係なくはないな。 いや、怒るなよ、
邪馬台国問題を考える際に、日本書紀は有効かとおうている訳だよ。つまり、飛鳥時代ですら史実的に疑問なのに、三世紀は語れないだろうと言いたかっただけだよ。
怒りなさんな。 >>729
だから、
それは、そのままでは使えない資料だよ。神功皇后のお仲間の武内宿禰は、何才?
関門海峡を神功皇后が開削したの?
無理筋ばかり。
演習で読まされたけど、教授もこんなもんだと言ってたよ。 >>732
で?
妻がいるって史料のどこに書いてある? >>730
だから、日本書紀を批判するにしても、正確に頼むよ 史料は隋書だろ。
倭王多利思比孤には妃も王子もいた。
その時の国書が「日出づる処の天子云々」なわけだ。
でも日本書紀では、多利思比孤ではなく推古天皇になっていて、そもそも名前も性別も違う。
ちなみに諡号にタリシヒコとある天皇は7人くらいいたはずだが、いずれも年代などが該当しない。 山城国の織田信長が関白になった。
その部下に薩摩出身の豊臣秀吉がいる。
中世でもこんなレベル。 >>720
何を(720)書こうか日本書紀、だもんね。日本國ことはじめものがたり。 日本書紀では、三世紀の話は高天原神話のして書かれている。卑弥呼=アマテラスでしょう。それだけでも、凄い。 >>741
文字のない伝承の時代から、文字で記録の時代にいつ変わったかが、ポイントになりますね。、 >>741
平原遺跡の発見で、卑弥呼と天照の間に八咫の鏡というまさかの共通項が見つかってしまった。 >>743
まあ、それで決まりだね。径百余歩は、その十分の一だと、こほ本は書いてる。ピッタシだ。 出版社はワーキングプア商売やけど、
モニタリングはしたいらしい、と先輩に聞いたけど、
ここはそれか 邪馬台国論争が飯に種の連中と皇国史観ウヨの八百長論争ももう終わりだ これまで邪馬台国とは異なる、しっかりした論拠で述べられていて、ようやく納得できる説に出会った印象です。
邪馬台国に興味のある人は必読の書と言っていいと思います。 邪馬台国が連合であることは承知していましたが、連合名とまでは気がつきませんでした。なるほど、です。
自分の想定位置とは異なりますが、比定地の決め方に無理がないように思います。
少なくともこれまでの他説とは説得力が違います。
充分楽しめました! >>760
アマゾンの書評をアップしました。同意見ですが、 >>760
アマゾンの書評をアップしました。同意見ですが、 >>763
仕事してますか。
わたしはしています。 良い仕事が、良い人生。人様の評価も調べ、次の企画をつくります。 >>769
売るためではありません。
二ちゃんは宣伝媒体にはとてもなりません。
でも、さまざまな反応をいただくことで、より良き本ができるのです。
このスレの皆さんの殆どは、読んでいませんが、それも参考になります。 初版が出たときは売れなかったはず
今はネットで評判になれば違うぞ >>771
いや、初版はかなり売れてそこそこ話題にもなった記憶がある
当時のロッコウブックスって営業力があったのかあちこちの書店に棚あったし 六興出版は良い本を出してました。バブル期に潰れました。
やがて出版氷河期になり、今は大氷河期です。ネットの時代になり、無料のゴミ情報の時代になり、かってのような知的姿勢が誰も持てない時代になりました。 洗練された情報媒体としての本
編集がいい仕事をしてたということで。 >>773
だから、読んだ人の書評が欲しいのです。 今だ!777ゲットォォォォ!!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ (´´
∧∧ ) (´⌒(´
⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
 ̄ ̄ (´⌒(´⌒;;
ズザーーーーーッ >>776
二ヶ月で増刷しました。、書店の評判もとても良いです。 筑紫日向伊都国の天孫族が保有していたはずの八咫の鏡を、神武は持っていなかった。
饒速日との対面では天の羽羽矢を見せて身分を明かした。
では倭国の王権の証とされた八咫の鏡は誰が持っていたのか?
3世紀に卑弥呼とともに平原遺跡に何枚かが副葬された。
壹與は肥前河上神社の祭神となった。
4世紀には筑紫の女王である神夏磯姫が八咫の鏡を所有していた。
その孫の田油津姫は筑後から筑豊を支配していた。
彼らは肥国から進出して筑紫を支配していたのだろう。 皇国史観ウヨは著者名が中国韓国だと必ず読むんだよw >>785
この時代は皇国はないよ、
あれは大正末から昭和は初めに作られた言葉。
司馬遼太郎より。 司馬遼?張将軍か
。それなら話は速い。遼来来ね。ラーメン喰ったし。 >>788
>邪馬台国問題も解決して論争も終わったな
だから前々から「其山有丹」一つだけでも、とっくに決着済みって言ってるでしょ。 @阿波 阿波のようなスレ荒らしが蔓延るのが論争が終わった証拠だね 西暦250年前後あたり邪馬台(ヤマト)とは九州北部の倭人達の自分達の国に対する自称であり、王の系図は仲哀帝まで下れるけれど
西暦350年後あたり畿内で勃興した応神/仁徳親子の勢力が瀬戸内海を征西、王権強化のために乗っ取った「ヤマト」という名称を対外的に僭称しつつ
魏志倭人伝の卑弥呼云々の記述をギリギリまで都合よく利用するため神功皇なる女傑キャラを創作して崇神〜仲哀帝の系図に自分等を繋ぎ、
いつしか崇神から神武なるキャラを生み出してアマテラスの五世孫とか唱えつつ欠史八代も加えて歴史を1000年ほど永く見せ、
皇親政治も極まって来た天武天皇以降の時代には列島内の他の歴史的書物などすべて廃棄させ
自分達が神の子孫だから〜〜〜という壮大な作文・日本書紀をまとめ上げた。と思います。
因みに古事記の内容を語った稗田阿礼ってのは藤原不比等のことだと思ってます。 >>791
被害妄想だね。
単なる「稗田阿礼」或いはその先人達の年代記憶ちがいによるものだよ。 @阿波 【邪馬台国の終焉】
八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。
倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。
仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。 >>794
見事なストーリー創造者が居たものですよね、神功皇后はもともと皇族という家系図だから
応神を仲哀の落とし子と設定しようがしまいが神武からの万世一系は崩壊しない。。。
妊娠したまま三韓征伐とかの逸話はもう笑っちゃいますけどね、これは事実でなく創作話に違いないことを
ちゃんと分かってね皆さん、神話ですから みたいな強引さが嫌いじゃありません。 せっかく三韓征伐したっていうのに、いつの間にか朝鮮人に取り返されちゃったんですかーみたいなw 「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
もともと第一の道論は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先 進性をことさらに高く見積もり、前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一 の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、 修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続 けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改 善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道とは、(中略)大和弥生社会がこの時期により大き な別の権力主体によって征服、あるいは包括、
刷新されるという苛酷な道であり、そこでは農業共同体構造の再 編は外的強力によって強制的に達成されたことになる。
旧稿において私は、(中略)第二の道を主張した。
しかしこのことが、私があたかも北部九州勢力の東遷論 者であるかに評価されることとなり、
5年後に刊行された橿原考古学研究所論集では改めて、いわゆる「東遷論」 一般には与するものではないことを明記した。
こうした小共同体の安定した強固にすぎる程の紐帯とそれを安住させ得る自然条件の卓越性、それゆえの保守的基盤と非闘争性をもつ大和の弥生社会が、
いわゆる「ヤマト王権」と呼ばれる政治的連合体の権力中枢を内的に生成させ、国家形態を「王国」にのし上げ得るだけの母胎にはたしてなりうるのだろうかという疑問をもつにいたった。
そもそも私は、橿原考古学研究所に入所し自らこのテーマを追い始めた1976 年頃から、大和弥生社会の自然的、社会的、
そして文化的安定性とそれゆえの緊張関係の欠除、いわば内陸後背地の保守的地域がそうした王権機構を生成するような母胎にはたしてなりえたのか、というこの疑問が終始脳裏を離れることがなかった。
(一)大和にとっての外的強力とはいかなる地域のいかなる集団であったか(権力中枢の系譜)、
(二)彼らの征服活動に興ずる必然性とその対象としての大和とりわけ東南部の重要性、
(三) 農業共同体再編の具体化と階級的支配関係の実体については、その後の論攷で私なりの一応の答えは用意することができた。 >>797
>(一)大和にとっての外的強力とはいかなる地域のいかなる集団であったか(権力中枢の系譜)、
それは、倭国(阿波)を発った忌部一族。
>(二)彼らの征服活動に興ずる必然性とその対象としての大和とりわけ東南部の重要性、
奈良盆地は湿地帯で、伊勢や東海、播磨より開発が遅れた地域。
>(三) 農業共同体再編の具体化と階級的支配関係の実体については、その後の論攷で私なりの一応の答えは用意することができた。
それは、忌部一族のよる拓殖と倭国(阿波)先進文化の注入。 @阿波 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
DH2 誰かも相手にされない捏造妄想これかもゴリ押します @阿波 捏造の阿波アゲでしかプライド保てない人間ですいません @阿波 日本の起源も人類発祥の地も地球誕生の地も阿波です @阿波 >>802
>日本の起源も人類発祥の地も地球誕生の地も阿波です @阿波
いやいや、そんなもんじゃないよ。 @阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。 女王国は奴国
邪馬台国は30ヵ国の総称
距離は10倍
卑弥呼の墓は平原
これで決まり 知ってる人は昔から知ってるからw
大体、今だに邪馬台国九州説か畿内説で割れてるってのがなw
邪馬台国は筑紫つまり九州にあったよ
そして九州と畿内には大きな政権があった
邪馬台国とヤマト王権という響きが似てるけど、微妙に違うのは
二つの異なる勢力があったとにおわせるため
この九州王朝が白村江の戦いで唐に敗れ畿内王朝に吸収され
670年統一国家として日本国が生まれたのだよ
覚えときなw >>805どの勢力、あるいは権力者が、どのような理由で、二つの異なる勢力があったとにおわせる必要があり、そして名付けたの?知りたい。 そもそも卑弥呼の時代に大和に大きな勢力などない。
ただ、後世にそこに王権が移って来た。
正確には筑紫の政権を乗っ取る形で畿内に政権が誕生したので、ことの経緯を詳らかにできないのだろう。 >>807
>正確には筑紫の政権を乗っ取る形で畿内に政権が誕生した
「筑紫の政権」があった痕跡はどこ? いつもの儚い妄想ですね。
「筑紫の政権を乗っ取る」力があった畿内の痕跡はどこ? いつもの儚い妄想ですね。 @阿波 >>808
今から阿波踊りの券は買える?
宿は混んでる?
大阪からバスで行けるけど、なんか揉めてるなあ。
なにか、市長と新聞が悪者みたいだけど? 阿波は徳島の観光業者じゃなくてウヨの荒らし業者だよ >>810
でも、阿波人だろ、
あの間抜けな騒動をみてると、昔、日本の中心でしたは、
そりゃ無い。 徳島新聞とかテレビが、自分の利益のために、元社員の市長をつかっているという構図らしい。
すごい田舎芝居、
卑弥呼の子孫ともあろうものが、
すごい田舎者まるだしだけど でも、今の阿波おどりは伝統とは関係ないなあ。
新しく作られた、観光用のジャパニーズ フレンチ カンカンだなあ。
なんとかソーランと同じだ。だから、良いけど。 仮に邪馬台国が畿内にあったとしても、纒向だけはない。
半島大陸との交易の痕跡がない纒向が、外国との交渉術に長けた卑弥呼の王都であるはずがない。
そもそも弥生時代の交通事情では、関西と九州を含む広域国家などあり得ない。 >>818
正論、
3世紀にそんなインフラ、交通手段もなきところで、大きな国家形成は無理。そんな海外とも交易する巨大な国があれば、当然に文字使用もされて記録ものこるはず >>819
>3世紀にそんなインフラ、交通手段もなきところで、大きな国家形成は無理。
そうだね。 倭国(阿波)周辺でのお話なんだよ。
>そんな海外とも交易する巨大な国があれば、当然に文字使用もされて記録ものこるはず
文字の確認(観音寺木簡)は7世紀中頃からだね。 だけど大陸との交易は弥生時代からやってるよ。 @阿波 文字の出土状況
3〜4世紀は墨書土器などで文字の痕跡がある。
一文字だけ書かれていることが多い。田の字が多い。
5世紀は金石文の痕跡が残る。鉄刀などに彫られた文字である。
文字の形をみると、彫りの職人は書き順やとめ、はらえなどを
意識していないでたらめな彫り方になっており、
彫り職人は文字を使い慣れていないことがわかる。
6世紀は木簡が出始める。手習いの細片が多く、文字を習うという習慣が
始まっており、文字が下級役人に浸透し始めてきている。
7世紀には戸籍が出始める。文字を文化行政に実用的に
使用し始めていることが推測できる。
8世紀には万葉仮名など日本独自の使用法に、
魔改造が始まる。
ただしあくまで一般的な文字の普及丈量を表したものであり、
3世紀あたりでも、中国人などを招聘すれば、
あるいは彼らから習得した倭人がいれば、
文字の読み書きができる人員は確保できるであろう。 倭国と邪馬台国では、呼び名の発想レベルがまるで違うだろ。
「わし」「わたし」「われ」と自称してた人々を中国人は「倭人」と呼び、倭人のクニだから当然「倭人国」=「倭奴国」=「倭国」となる。
一方邪馬台国は、その住民が自らのクニを「ヤマト」と呼び習わしていたものの音訳。現在の九州北部、筑後平野に所在。
300年以上経って、この島国の統治権力をほぼほぼ牛耳ることに成功した畿内の応神・仁徳親子とその末裔は、
永い歴史を創作するためにも「ヤマト」という呼称を自国の名称にいただきつつ「大和」という文字を充てた。 >>821
糸島市の博物館に行けば、紀元前後こ硯が出土している。正確な年代は忘れたが、卑弥呼以前だった。 >>820
現代の阿波人は徳島新聞しか読まんのか?
あの阿波おどりはなんだ?
そんな野蛮な土地が昔の都であるもんか。
あの市長は弾劾せんのか、やれ。 奈良は出雲の大国主連合国家の支配下、もしくは友好国だったが、
それに対抗する九州の邪馬台国の侵略によって滅びた。
神武が広島に8年、岡山に7年なんてお茶を飲んでいたのではない。
出雲国との大戦争をやっていたからだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています