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司馬遼太郎 Part13
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0494日本@名無史さん
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2019/03/06(水) 00:12:25.33
>>462
鹿児島の異変を太政官が知ったのは2月3日だが、これを知らせたのが菅野覚兵衛というのは意外だった。
0495日本@名無史さん
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2019/03/06(水) 00:17:48.10
2月9日
川村純義を乗せた高雄丸、錦江湾に到着。
艦長は伊東祐之。
0497日本@名無史さん
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2019/03/06(水) 01:04:41.86
>>341
去年のNHK大河もトシヨシだったな。
良=ナガと読む例が他にないからな。
0498日本@名無史さん
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2019/03/06(水) 01:08:47.80
乱暴者でも、生きた時代が張飛や呂布ぐらい遥か昔なら好きになれるが、
百数十年の近さだと、辺見十郎太のようなキャラは好きになれないな。
0499日本@名無史さん
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2019/03/06(水) 01:14:01.19
客を殺して肉饅頭にしてしまうおばさんは好きになれるの?
0500人馬 ◆gmc8oQca6NVb
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2019/03/09(土) 21:12:54.66
☆ 樺山資綱
樺山資之=樺山三円は間違いないようだが、資之と資綱が同一人物であるかどうかは不明。
樺山資之は、「木戸孝允日記」明治7年2月27日付、黒田清隆あて書簡に登場します。
樺山資之と申仁、屡拙宅へ来訪之よし。
折柄留守中なとに而、面会も不得仕。
元司法省出仕之樺山(註:資綱)とは相違候哉。
自然御承知に御座候へは、是又御示奉願候。
というものです。
木戸は、自宅をしばしば訪問する樺山資之なる人物が何者かわからず、黒田に、かつて司法省に務めた樺山資綱とは別人なのかと質問しています。
0502再び異人館 ◆XVejevC5AF.M
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2019/03/09(土) 22:54:14.73
西南の役の本質を最も鋭く捉えていたのは、ハリー・パークスだな。
パークスの書簡を読んだ。脱帽した。
0503日本@名無史さん
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2019/03/09(土) 23:06:49.77
パークスが書簡を送った相手であるダービー外相は、第15代ダービー伯爵エドワード・スタンリーである。
オークスとダービーの創設者として高名なダービー伯爵は、第12代。
0504日本@名無史さん
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2019/03/09(土) 23:16:06.29
馬が走ってく 馬が走ってく 
でっかい鼻の孔おっぴろげて 馬が走ってく ?
0505日本@名無史さん
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2019/03/10(日) 10:12:23.16
パークスと比較すると勝海舟の頓珍漢ぶりには呆れかえる。
政府の発表した政府軍優勢報道を大本営発表のごとく「あれはウソ」と言い切っている。
0508日本@名無史さん
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2019/03/10(日) 10:19:09.67
まあバカは放っておけばいいけど、西南戦争に関する勝の談話は『氷川清話』には載っていない。
アーネスト・サトウの日記に書かれている。
広瀬靖子訳「西南戦争雑抄」上・下(『日本歴史』第二六一・二六三号 / 一九七〇年)
0509日本@名無史さん
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2019/03/10(日) 10:25:19.20
サトウ日記の西南戦争関連は、萩原延寿の訳で単行本化されているな。
萩原延寿『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄一三−西南戦争』(朝日新聞社 / 二〇〇一年)
0510東風動く ◆dExTdUkD48aX
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2019/03/10(日) 11:02:43.44
☆ 渋谷彦助
鹿児島県一等属。
坂本龍馬が筑前太宰府で三条実美に謁見できたのは薩摩の渋谷彦助の斡旋があったからですし、ここ太宰府で長州藩士小田村素太郎(楫取素彦)と知合いになってもおります。
どうも筑前太宰府ではすでに薩長和解の素地ができていたようです。
0511日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 01:14:59.92
海老原穆の逮捕は、川路書簡の中で1行触れられただけだな。
0512日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 01:53:02.08
>>500
樺山三円と樺山資綱が同一人物なのか否かを考え始めると、夜も眠れなくなるな。
0513日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 01:56:19.27
木戸さんは樺山三円と樺山資綱が同一人物なのか否かを考えすぎてノイローゼになったのかもしれん。
0514日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 02:30:10.53
☆ 山縣有朋
この頃になると、風格すら感じさせる山縣。
桐野・篠原はただの地五郎。
山縣の敵ではないな。
0516宣戦 ◆PWLX8lcfBw
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2019/03/11(月) 20:16:42.51
☆ 蓑田長僖(49歳)
鹿児島県庁第六課(会計課)課員
明治21年に日本運輸会社(現在の日本通運)は暫定役員として蓑田長僖を選出している。
同一人物であろうか?
0517日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 20:25:07.08
☆ 鎌田政直(51歳)
鹿児島県庁第六課(会計課)課員
なお、第六課の課長は渋谷彦助(>>510)。
0519日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 21:02:18.04
私学校党蹶起の軍資金の提供は、島津久光の内命によるものだろうな。
0520日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 21:08:08.60
軍資金を提供されたにもかかわらず、西郷が大山に対して冷淡な態度だったのは、
西郷は私学校のニセたちに乗せられただけでなく、久光にも乗せられたという思いがあったのだろう。
0521日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 21:34:38.61
【部隊編成】
一番大隊 篠原国幹 西郷小兵衛
二番大隊 村田新八 松永清之丞
三番大隊 永山弥一郎 辺見十郎太
四番大隊 桐野利秋 堀新次郎
五番大隊 池上四郎 河野主一郎
独立大隊 別府晋介
独立第一大隊 越山休蔵 鮫島敬輔
独立第二大隊 児玉強之助 坂元敬介
0522日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 21:37:29.13
☆ 松永清之丞
明治10年1月29日、鹿児島市草牟田の火薬庫から、政府が弾薬を運び出します。
当夜、汾陽光輝家(>>454)で松永清之丞と堀新次郎が、火薬庫からの武器搬出を計画し、実行。
これが西南戦争に繋がります。
0523日本@名無史さん
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2019/03/11(月) 21:44:34.12
☆ 堀新次郎
明治後、伊地知貞馨となる堀次郎と混同しないように。
0525日本@名無史さん
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2019/03/12(火) 20:27:19.52
☆ 淵辺群平
天保11年(1840年)、鹿児島高麗町で生まれる。諱名は高照、通称は直右衛門、後に群平という。
戊辰戦争では、山崎の戦いで重傷を負った。
次いで、参謀・黒田清隆のもとで監軍として軍議に参画し、北陸に出征した。
長岡城攻略の際は、刀が鋸の様になるまで自ら敵を斬ったという。
明治10年、谷口登太が内偵した中原尚雄の西郷隆盛刺殺計画を聞いた高木七之丞邸の会合に出席していた淵辺はこれに憤激し、私学校本校で行われた大評議でも出兵に賛成した。出陣に際しては薩軍本営附護衛隊長となって、西郷を護衛しながら熊本に赴き、本営の軍議に参画した。
0526日本@名無史さん
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2019/03/12(火) 20:33:29.12
☆ 仁礼景通
西南の役の最後に城山で捕縛されて銃殺された薩軍副官の仁礼景通ほか鹿児島城下に仁礼姓は多い。
仁礼景範と名が似ているが、親族ではなさそうである。
0527日本@名無史さん
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2019/03/12(火) 20:52:05.46
☆ 2月14日
別府晋介の独立大隊(郷士軍)は、2月14日に加治木に集結し、横川→大口→水俣というコースを辿った。
0528日本@名無史さん
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2019/03/12(火) 21:01:03.17
☆ 2月15日
一番大隊(篠原国幹隊)は、市来→川内→阿久根→米ノ津(出水市)…海路…佐敷(現在の芦北町の中心部と佐敷川流域)という西回りルートを辿った。
二番大隊(村田新八隊)は、別府晋介隊と同じく東回りコース。
0530日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 17:55:42.77
☆ 武の自宅
屋敷は明治2年薩摩藩の重臣二階堂氏から譲り受けたもので、敷地約3600u、高縁の御殿づくりで部屋数も多く、庭には大きな松の木もあったという。
西南戦争で焼失したが、明治13年に西郷従道が再建した。いま屋敷跡は公園になっており、当時の井戸が残っている。
http://www.meijiishin150countdown.com/meiji/wp-content/uploads/2016/12/b34d0fe89b9b7b12d6287e69a5aeaf45-300x196.jpg
0531日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 18:00:07.40
☆ 西郷松子
安政4年(1857)前後の生まれ、昭和18年3月6日没。父は有馬糺右衛門、母は大山巌の姉・国。
明治6年11月、西郷家の四男・西郷小兵衛と結婚し、西郷家に入る。小兵衛25歳、松15歳か16歳。いとこ婚。
名はマスであったが、西郷の次弟・吉二郎の先妻の旧名と同姓同名(有馬マス)であったため、呼び名をマツ(松子)と変えた。
0532日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 18:04:18.58
☆ 西郷糸子
西郷隆盛の妻。
元治2年(1865年)、西郷隆盛と結婚する。隆盛は3回目、糸子は再婚。
隆盛との間に寅太郎・午次郎・酉三の子どもを産む。
また、隆盛の奄美大島における島妻である愛加那との子である菊次郎・菊を引き取り養育した。
https://bakumatsu.org/img/00336_l.jpg
https://samurai-hi.com/wp-content/uploads/2017/12/110b997c79e4679ef6f0e88767df4532.png
https://pbs.twimg.com/media/Dui9aqTVAAAZ-1U.jpg
0533日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 18:07:24.48
☆ 西郷寅太郎
明治17年に吉井友実や勝海舟等の働き掛けが功を奏し、明治天皇の思召しからポツダム陸軍士官学校留学を命ぜられ、13年もの間ドイツで学び、その間プロイセン陸軍少尉となる。
明治35年父隆盛の維新の功により侯爵を授かり華族に列せられ、貴族院議員に就任する。
https://samurai-hi.com/wp-content/uploads/2018/08/t02120285_0212028511872790473.jpg
0535日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 18:09:46.95
☆ 市来四郎
幕末は島津斉彬側近として琉球を通じての貿易を模索。明治以後は島津久光の側近となる。
0536日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 18:16:12.70
☆ 加治木
2010年、同じ姶良郡の蒲生町・姶良町と合併して姶良市となった。
加治木という地名は、船の舵を置いておいたら、そこから芽が出て木が生えたという「柁の木伝説」に由来する。
ここから「柁木」「柁城」と呼ばれるようになり、やがて「加治木」になった。
平安時代頃からこの地域を支配していたのは、大蔵氏の一族とされる加治木氏であった。
蒲生に本拠を置く蒲生氏、帖佐に本拠を置く平山氏などとともに、互いに同盟したり対立したりしながら、島津氏との勢力争いを繰り広げていた。
http://www.pref.kagoshima.jp/ah09/infra/port/minato/cruising/images/1714-115035-608.jpg
https://cdn.jalan.jp/jalan/img/2/kuchikomi/3332/KXL/5d0cf_0003332641_1.jpg
0538日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 18:34:20.58
平成の合併はむかつくわ。
わしは今でも昭和の地図帳を愛用している。
0540日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 20:23:25.34
☆ 東目街道
薩摩藩時代、現鹿児島県霧島市福山町を基点として、都城を経由し高城町の月山日和城を通り、高岡町に通ずる往還道として作られた「東目街道」は、薩摩藩西目街道に対して同藩東側を通るため「東目街道」と称されました。
0543日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 20:41:26.43
☆ 吉田温泉
宮崎県えびの市大字昌明寺にある「吉田温泉 鹿の湯」を訪問しました。
鹿の湯という名前の通り、傷ついた鹿がこちらの温泉に浸かって傷を癒したという言い伝えが残っています。
http://kagoshima-meijiishin150.com/wp-content/uploads/2018/01/20171209-700x394.jpg
https://stat.ameba.jp/user_images/20171109/20/onsendou2127/c0/62/j/o1600120014066898085.jpg
0548日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 21:39:53.06
☆ 人吉藩
藩主家の相良氏は鎌倉時代初頭の建久4年(1193年)、この地の地頭に任ぜられた。
その後戦国大名に成長し、江戸時代に入っても領主として存続し明治維新を迎えた極めて稀な藩の一つである。
明治4年に廃藩置県により人吉県となったのち、八代県、白川県を経て熊本県に編入された。
https://www.shirofan.com/files/shiro/kyusyu/hitoyoshi/VJ7Z1604.jpg
http://www.tougarashi-1ban.com/image/hitoyoshizyou/top.jpg
0549日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 21:45:39.56
☆ 永国寺
熊本県人吉市土手町にある曹洞宗の寺院。寺に伝わる幽霊の掛け軸から、幽霊寺の異名で知られる。
創建は応永15年(1408年)とも17年(1410年)ともいう。一径永就和尚を勧請開山とし、実底超真和尚が開山。
相良氏第9代相良前続(さきつぐ)の開基になり、相良氏代々の崇敬を受けた。
人吉における西郷の宿舎。
https://washimo-web.jp/Trip/Hitoyoshi02/ei01.jpg
https://media-cdn.tripadvisor.com/media/photo-s/0d/4f/71/4b/dsc-0789-largejpg.jpg
0550日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 21:56:06.34
この先鋒の別府晋介隊は、小川、宇土を経て、熊本城から7q手前の川尻で宿営している。
☆ 小川……2005年、宇土郡三角町・不知火町および下益城郡松橋町・豊野町と合併し宇城市小川町となった。
☆ 宇土……小西行長の城下町である。中世から交通の要地であり、豪族たちがその支配をめぐって争いを続けてきた。
☆ 川尻……旧飽託郡川尻町。1940年熊本市に合併。
いずれも八代の北方。
0551日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 22:03:04.25
☆ 池辺吉十郎
天保9(1838) 年生まれ。幕長戦争の小倉の役(1866)に戦功あり、京都詰公用人、熊本藩少参事を歴任、帰郷して郷党の青少年を教育し学校党の勢力を養成した。
明治9年の神風連の乱では学校党の軽挙を抑えたが、翌10年薩摩西郷軍が蜂起して熊本に至るや、学校党を主力に同志700名余の熊本隊を率いて西郷軍に応じた。
寺田、立山に奮戦したが戦況利あらず、銃創を被り、10月政府軍に捕縛され、同月26日長崎で斬刑に処された。
明治時代の政論家池辺三山はその子息である。
https://www.city.tamana.lg.jp/pub/44428_filelib_a67a830d24a9241c9dfc1e3fb6864af2.JPG
0554日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 22:13:31.10
☆ 佐々友房
嘉永7年(1854年)、現在の熊本市内坪井町に肥後熊本藩士佐々陸助の二男として生まれた。
戦国武将佐々成政の子孫という。
明治12年1月に出獄すると、熊本市高田原相撲町に同心学舎を設立した。
後に同心学校と改め、明治15年2月に濟々黌と改称する。現在の熊本県立済々黌高等学校である。
http://tashiseisei.com/album/upl/19.jpg
0557日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 22:33:46.01
西郷のこの挙は、自分のかつての朋友たちを批判の広場に引きずり出し、勢いのおもむくところ、衆人の監視のなかで首を刎ねることになるかもしれない結末を、容易に想像させる。
西郷の人柄からいば勝った光景もまたうとましかった。
むろん、負けるとは夢にも思っていなかった。
0559日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 23:28:44.55
西郷の国民的人気と比較すると、谷干城の知名度の低さは気の毒になってくる。
西郷の人気は、力士の人気と同レベルのものだろう。
人気者の敵になってしまった谷干城の可哀そうなことよ。
0560熊本鎮台 ◆JcEWIDFG0Y
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2019/03/13(水) 23:44:54.12
☆ 谷干城
天保8年(1837年)、儒学者谷景井(萬七)の四男として土佐国高岡郡窪川(現在の高知県高岡郡四万十町)に生まれた。
幕末期は谷守部の名で知られる。戊辰戦争が始まると板垣と共に藩兵を率いて出動した。
熊本鎮台司令長官であった西南戦争において、熊本城攻防戦を指揮したことで知られる。
明治44年に没する。
http://www.ehagaki.org/wp-content/uploads/2017/03/p063-%E8%B0%B7%E5%B9%B2%E5%9F%8E%E5%B0%86%E8%BB%8D.jpg
0562日本@名無史さん
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2019/03/13(水) 23:49:56.79
☆ 樺山資紀中佐
明治5年より南清に出張、台湾出兵に従軍。
西南戦争では熊本鎮台司令長官・谷干城少将の下、同鎮台参謀長として熊本城を死守する。
その後警視総監兼陸軍少将に昇進するが、海軍へ転じ、明治16年に海軍大輔、同19年には海軍次官となる。
https://pds.exblog.jp/pds/1/201511/13/92/a0287992_2341039.jpg
0563日本@名無史さん
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2019/03/17(日) 21:06:19.57
☆ 与倉知実中佐(>>381
歩兵第13連隊連隊長。神風連の乱後も留任。
薩摩藩出身。
明治9年10月24日の神風連の乱では、自宅を中垣景澄ら8人の襲撃を受けるが、妻・鶴子の機転で馬丁を装ってその場を脱出した。
その後は大兵営の歩兵第13連隊を率いて鎮圧をはかった。
しかし、明治10年の西南戦争「段山(だにやま)の戦い」で被弾した。同じ日、鶴子は女子を熊本城で出産したが、与倉は翌日死去した。
https://murakumo1868.web.fc2.com/img-02modern-03/1107.jpg
0564日本@名無史さん
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2019/03/17(日) 21:11:00.93
☆ 川上操六少佐
薩摩藩士川上伝左衛門親徳の三男として生まれ、鳥羽・伏見の戦い・戊辰戦争に薩摩藩10番隊小頭として従軍する。
明治10年に始まった西南戦争では歩兵第13連隊長心得として従軍し功を立てる。
明治28年3月には征清総督府参謀長に任命される。日清戦争では、それまで川上が推し進めた軍の近代化が功を奏した。
その功により8月に勲一等旭日大綬章・功二級金鵄勲章を賜り、子爵を授けられる。
https://pbs.twimg.com/media/DxeswcwX0AAJuB0.jpg
0565日本@名無史さん
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2019/03/17(日) 21:14:48.94
☆ 大迫尚敏(なおはる)大尉
薩摩藩士・大迫新蔵の長男として生まれる。造士館生徒として学び、薩摩藩5番組として薩英戦争に従軍する。
明治10年西南戦争に出征し、熊本城篭城戦に参加。2月27日、草場学校制圧の指揮を取り、顔面を負傷する。
明治37年2月に始まった日露戦争では、戦況が芳しくない旅順要塞攻略の為、8月に第7師団の動員が決まった。乃木希典大将の指揮する第3軍に組入れられ、二〇三高地の攻撃に当たった。その後も奉天会戦に参戦し明治39年3月に帰国する。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ae/Major-General_Osako_Naotoshi.PNG/150px-Major-General_Osako_Naotoshi.PNG
0566日本@名無史さん
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2019/03/17(日) 21:28:05.29
☆ 富岡敬明(よしあき)
肥前小城(おぎ)藩士神代次兵衛利温の次男として生まれる。
明治9年11月に熊本県権令となる。権令在任中に西南戦争に遭遇し、熊本城で司令長官谷干城少将、参謀長樺山資紀中佐・同副長児玉源太郎中佐等と54日間の籠城戦を耐え抜いた。
https://saga.ismcdn.jp/mwimgs/2/f/320m/img_2fa7272faf1c646aa36b5aab008b663824296.jpg
0567日本@名無史さん
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2019/03/17(日) 21:52:17.12
熊本鎮台司令長官谷干城少将は、1月28日に小倉第14連隊の連隊長乃木希典に、一個中隊を長崎に移すよう命じた。
0568日本@名無史さん
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2019/03/17(日) 21:55:38.99
谷干城少将は、2月14日(別府晋介の先鋒が加治木を出発した日)に、小倉と福岡(小倉連隊の分屯所)の兵力をすべて熊本籠城にまわすべく処置した。
山縣は、空になった小倉の留守を、広島鎮台に二個中隊に命じた。
0570籠城 ◆/BtAuHyeGc
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2019/03/17(日) 22:38:26.79
☆ 招魂祭
2月12日13日の両日、熊本城内で神風連ノ乱で戦死した鎮台兵の招魂祭が興行された。
0571日本@名無史さん
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2019/03/17(日) 22:51:49.23
>>567
乃木が長崎へ一個中隊を派遣したのは2月6日。
乃木の隷下の小倉14連隊は、小倉に二個大隊、福岡に一個大隊が分屯していた。
乃木は福岡大隊から一個中隊を引き抜き長崎へ派遣した。
0572日本@名無史さん
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2019/03/17(日) 22:53:13.21
谷は、この時期は、薩軍が長崎の艦船を奪取して東上すると考えていたんだな。
0573日本@名無史さん
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2019/03/17(日) 22:57:22.16
☆ 2月13日
熊本から小倉の乃木へ非常警備態勢の電報。
乃木は小倉の第一大隊から引き抜いた二個中隊を久留米に急行させる。
同二個中隊は16日に久留米到着。
0576日本@名無史さん
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2019/03/17(日) 23:36:08.22
☆ 2月17日
薩軍が米ノ津湊に現れたとの情報を、熊本鎮台司令部が得る。
鹿児島県出水市米ノ津町。
0577日本@名無史さん
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2019/03/17(日) 23:49:10.79
☆ 2月18日
谷干城、熊本市中に防衛措置を布く。
☆ 2月19日
大山県令の専使、富岡権令および樺山参謀長と会談。
この日、政府の征討令が出る。
0578日本@名無史さん
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2019/03/18(月) 17:52:41.76
政府の征討令が出た2月19日、西郷は加久藤越え(>>542)手前の吉田温泉昌明寺宿に投宿していた(>>543)。
0582日本@名無史さん
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2019/03/18(月) 22:07:59.20
☆ 放火説
薩軍のスパイもしくは薩軍に内応した鎮台兵が放火したとする説。
理論的には可能だとする専門家もいるが、放火だと決定づける明確な証拠は見つかっていない。
0584日本@名無史さん
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2019/03/18(月) 22:11:47.45
☆ 失火説
計画的な自焼火災であれば、兵糧を運び出した上で火をつけるはずである。
火事で兵糧が焼けてしまった上に、兵器も慌てて移動させたとする日記の記述もあることから、自焼説はありえない。
0585日本@名無史さん
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2019/03/18(月) 22:19:58.60
☆ 自焼説
天守閣は敵の攻撃の一番の目印となるため、それを防ぐために事前に燃やしたとする説。
熊本旧城下の9割が焼失しているが、城周辺の建造物は敵である寄せ手に利用されるため、籠城側がこれらを焼くのが兵法の常道である。
そもそも熊本県権令富岡敬明(よしあき)から政府への最初の電報は「本日十一時十分鎮台自焼セリ」であった。
天守閣には籠城戦のために必要不可欠な兵糧が集められていたが、焼けた米が発掘調査で出てこなかった。
つまり、鎮台が兵糧を運び出した上での計画的な火災であったため、炭化米も出てこなかったのである。
0586日本@名無史さん
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2019/03/18(月) 22:24:17.49
記録に残っている火災発生後の弾薬搬出指揮をしたのが児玉源太郎少佐というのがどうもくさい。
天守閣周辺の弾薬も、おそらく事前に搬出していたものと思われる。
事前搬出の指揮をしたのが児玉源太郎少佐。
0588日本@名無史さん
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2019/03/18(月) 22:34:05.97
失火説はないな。
政府の征討令が出た当日というタイミングを考慮すれば、自焼説が妥当であろう。
発掘調査で炭化米が出てこなかったという新事実が重い。
0589日本@名無史さん
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2019/03/18(月) 22:37:41.65
500石の米すべてが焼失した後に、一両日で600石を集めたというのもくさい。
もとからあった500石に加えて、一両日で100石を集めたのであろう。
この観点からも、自焼説が妥当。
0590日本@名無史さん
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2019/03/18(月) 22:58:13.34
☆ 戦力補強
2月19日夕刻、小倉第14連隊第1大隊のうちの左半大隊300人余が入城している。
2月20日、東京警視隊600人が、綿貫吉直少警視に率いられて入城。
0592肥後の野 ◆zaVQMzov1k
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2019/03/18(月) 23:28:19.63
☆ 薩軍
2月19日:別府晋介の独立大隊、益城郡小川宿に宿営(>>550>>553)。
2月20日:別府晋介の独立大隊、熊本平野の旧飽託郡川尻町で後発軍の来着を待つ。
※川尻
熊本市中心部の南方約8kmに位置する川尻地区。早くから海外との交易港として開け、江戸時代には緑川流域の物資の集散地として栄えた。
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