司馬遼太郎 Part13
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司馬遼太郎全集を重箱の隅をつつきながら読み進めてまいります。
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前スレ
司馬遼太郎 Part12
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1516287702/ ☆ 威力偵察
川尻の薩軍が宿営している民家に放火するのが目的。
参謀長樺山が薩軍に寝返らないという証のための出動。 二個中隊500人の夜襲部隊。
指揮官は大迫尚敏(なおはる)大尉(>>565)。
中隊長隔岡大尉。
中隊長小島大尉 →岡本鋭威軍曹 >>596
隔岡大尉は間違い。正しくは隈岡長道大尉。
明治17年から広島鎮台の歩兵第12連隊の連隊長に補されている。 >>596
小島大尉は、小島政利大尉のこと。
明治24年に熊本第6師団の歩兵第24連隊(福岡連隊)の連隊長に補されている。 ☆ 川尻緒戦
薩摩軍の出鼻を一挙に挫くべき樺山参謀長の夜襲の作戦は失敗に終わった。初戦は官軍の敗軍に終わっている。
2月21日
川尻ノ賊営ヲ放火セシメント欲シ、午前第1時大尉隈岡長道、同小島政利ノ2中隊ヲ遣ル。
適適、賊ノ哨兵之ヲ知覚シ、先ツ銃ヲ発ス。我兵彼レノ備アルヲ知リ、且天已ニ明ルヲ以テ、戦ハスシテ退ク。 ☆ 2月21日
正午ごろ桐野利秋が川尻に到着。
午後になって村田新八の率いる二番大隊も川尻に到着。
この日、桐野と村田の名前で開戦の命令を出した。 熊本鎮台は防戦どころか、通過にあたっては兵糧や弾薬を出してもてなしてくれるはずであるというつもりで
桐野はこのたびの東京ゆきの旅程を立案していた。
西南戦争の本質を突き詰めれば、地五郎の認識の甘さによって起こった戦いというべきであろうか。 >>603
田舎で4年間百姓をしていた連中と草創期の近代国家の実務をこなしていた連中との認識の差だな。 西郷は八代で川尻の戦況を聞く。
前線からの要請によって川尻に到着したのは、2月21日の夜中である。
宿舎は川尻下町の質屋布屋。 ☆ 2月22日
熊本城下に最初に到着したのは、川尻にもっとも遅く着いた池上四郎の五番大隊である。 ☆ 熊本城の戦い
永山弥一郎の三番大隊は、この時点では熊本城攻撃に参加していない。
桐野は西郷とともに川尻にいたので、四番大隊を率いていたのは、堀新次郎だと思われる。
http://livedoor.blogimg.jp/tadashi_nakamur/imgs/3/b/3b79f2b9.png ☆ 十字火
十字砲火のこと。
機関銃のような自動火器を使用した戦術のひとつで、2つの火器から放たれる火線が交差(Cross)するところから、クロスファイアと呼ばれる。
この戦法は、第一次世界大戦で登場したといわれているが、西南戦争の戦闘報告に既に表れている。 ☆ 片山屋敷の戦い
篠原国幹の率いる一番大隊の攻撃は熾烈を極めた。
片山屋敷を守備していた歩兵第13連隊の連隊長与倉知実中佐は(>>563)、この戦いの最中に戦死した。 片山屋敷の戦いではなく、「段山(だにやま)の戦い」と呼んだ方がよいようだ。
現在の藤崎八幡宮の位置を基準に考えると地理を誤解してしまうので注意が必要である。
西南戦争当時の藤崎神社は、段山の東南にある藤崎台にあったが、兵火のためにすべて灰燼に帰し、社地は熊本鎮台用地となったため、
現在の井川渕町に移転。明治11年に仮殿を造営、次いで同17年にようやく本殿の造営をみた。
https://murakumo1868.web.fc2.com/img-02modern-03/1101.jpg >>610
神風連ノ乱では活劇のような脱出劇で活躍した与倉連隊長。
あっけなく死んだな。
段山の戦いにおける篠原の指揮は、面目躍如たるものがあるな。 もう寝ろよ、ネトウヨwww
それとも明日も仕事がないのかwww ☆ 学校党−熊本隊
池辺吉十郎(>>551)率いる学校党700名余も、2月22日の熊本城の戦いに参戦している。
池辺は薩軍主力が川尻に達したとき、旧城下の江津学校に同志を集めている。 江津学校については、筆者にもよくわかりません。
熊本県立湧心館高等学校の前身は熊本県立江津高等学校なのですが、これと江津学校の関係は調べてもわかりませんでした。 ☆ 有馬源内
宮崎八郎と共に台湾に赴いた?権党の同志。
熊本藩士。東肥新聞社。
宅は熊本城下千反畑(せんだんばた)にあった。 ☆ 高田露(あきら)
嘉永7年(1854)肥後国託麻郡春日村(現在の熊本県熊本市西区)で熊本藩士の家に生まれる。
明治7年に台湾出兵に従軍した。帰国後は民権党を結成し、評論新聞記者・近事評論記者として自由民権を主張した。
明治10年に西南戦争が勃発すると、宮崎八郎らとともに協同隊を組織して西郷軍に加わった。
西郷軍の敗北とともに捕えられたが、やがて出獄を許された。
明治35年、第7回衆議院議員総選挙に出馬し当選。当選回数は合計で4回を数えた。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e6/Takada_Akira.jpg/180px-Takada_Akira.jpg
大河ドラマ「翔ぶが如く」の高田露 https://1rin.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_203/1rin/tobu2-3202c.jpg 名前ぐらいは正しく呼んであげたいな。
ネットのおかげで、日に2〜3人の名前読み間違いを発見できる。
死ぬまでに全部は無理だろうけど、できる限り読み間違いを是正してゆきたい。 病を得たり!惣の介
@kimitstokoshiro
·
3月18日
返信先:
@tebasakitoriri
さん
司馬遼太郎氏の著作に「学生運動を熱心にやっていた為に企業から相手にされず やむを得ず実業の世界に入って経営者になった者が結構な人数で居て 運動でやり手と言われた人ほど 会社が危うくなった時 怜悧に人を切る」と言う趣旨の事が書いてありました。
仮にこういう愚策を実行して失敗し(続 ☆ 2月21日
宮崎八郎、川尻の薩軍先鋒の別府晋介と会談。
保田窪神社(>>620)に熊本協同隊が集結。約40名。 ☆ 中根正胤
熊本城に着いた熊本共同隊は、宮崎八郎と中根正胤の二人を篠原の元に派遣するわけです。
まあ、中根さんは、これ以前に別府晋介と会って同盟を約束して帰ったという人物なので、まあ、そういう経緯もあって、代表に選ばれたんでしょうね。
さて、この二人と篠原の会談ということになるわけですが、この篠原さん、薩人の中でも、とびきり無口だったそうですね。
まあ、薩摩というところは、無口でひょうかんな薩摩武士というのを理想的な武士のありかたとして、教育をしてきた国ですから、
まあ、ぼっけもんの典型というのが、この篠原さんだった、というところでしょう。
彼は、ほとんど無口で、宮崎ら二人の言葉を聞いていたようですが、最後に、
「これくらいの城ひとつを落とすのに何の戦策も戦略もいりません。一蹴して過ぎるのみです」
と、かつて別府晋介が言ったのと同じ言葉を吐いたそうです。 ☆ 平川惟一(のぶかず)
明治3年、藩命により有馬源内等とともに伏見の屯営(陸軍下士養成所)に入り、明治5年陸軍中尉となる。
明治6年、『征韓論』の破裂により野に下り、熊本県飽田郡百貫村に帰農した。
明治7年、佐賀の乱の後、有馬源内、宮崎八郎等と台湾出兵に志願し従軍するが、負傷して帰国。
明治8年4月、広田尚、宮崎八郎、有馬源内、松山守善、崎村常雄らと植木町に、変則熊本第五番中学校(通称:植木学校)を設立し校長兼舎監を務める。
『民約論』を中心とした様々な授業を行い、自由民権を唱え各地で集会を開き実践するが、急進すぎると県からの補助金を打ち切られ同年10月末で閉校する。
明治9年末、民権党同志の中で薩摩の桐野利秋や篠原国幹とかねて面識のあった有馬源内を通じて情勢を打診。
明治10年、鹿児島県で西郷隆盛の私学校が挙兵すると、植木学校出身者を中心とした民権党の同志と熊本協同隊を結成し、
2月21日に北上してきた薩軍に川尻で合流、四番大隊大隊長の桐野利秋のもとで協同隊を指揮し共に政府軍を相手に戦った。
https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/022/276/38/N000/000/033/148748996453668056178.jpg ☆ 野間安親
兄弟(弟は野間富記)で西南戦争に出て真っ先にやられてしまった…
クールな批評家でありながら武術も重んじたい気持ちだけはある。
やたら選挙好き。(でも平川ひいき)
自由民権と征韓論をスマートに語ってみたい気持ちだけはある理想家。
理想家というのはいつも気持ちだけは満タンなんだ… 前章の最後のところで述べられた熊本城攻撃の詳細が、くりかえし述べられている。
与倉連隊長戦死の場面では、岡本鋭威軍曹(>>596)の活躍が目覚ましい。 信じがたいほどのことだが、薩軍は補給の手当てどころか、この日の夕食をどうするかさえ決めていなかった。
ついでながら攻城の主力であるはずの砲兵は、この日まだ戦場に着いていなかった。 「かあさん、晩御飯まだ?」
「なに食べようかしら。まだ決めていないのよ」 熊本城攻撃に参戦した四番大隊(桐野隊)は800人で、半数以上は22日の夕刻に川尻に到着している。
>>608
>桐野は西郷とともに川尻にいたので、四番大隊を率いていたのは、堀新次郎だと思われる。
間違いです。 遅着した四番大隊の小隊長たち
一番小隊長 堀新次郎
三番小隊長 野村忍介
四番小隊長 川久保十次
五番小隊長 永山休二 マジでイラサボー(青竹)一本で熊本城を落とせると思っていたんだな。
清正を舐めとるな。 レイパー新井浩文に加藤清正役をやらせたNHKは、薩軍以上に清正をなめとる。
デスマスクみたいな顔をしたレイパー役者に、清正をやらせるんじゃねーよ。
あのドラマの頃から新井の目は死んでいた。
清正登場シーンだけ、糞つまらんかった。 で、熊本城が手ごわいので、薩軍は方針変更します(*^-^*)ゞテヘヘ 《強襲続行論》篠原国幹、別府晋介、辺見十郎太
《小倉占拠論》野村忍介、西郷小兵衛、池上四郎
《折衷案》西郷隆盛
23日の熊本城強襲は中止し、熊本城の包囲は継続。
兵力の一部をもって植木に進出し、南下する政府軍に備える。 しかし、山縣有朋の放った6,400名の先発梯団は、2月20日に神戸港を発し、22日には博多港に到着し南下の態勢をとりつつあった。
この時点で、野村忍介の小倉占拠論は、演習用の戦術にすぎなくなっていた。
第一旅団 野津鎮雄
第二旅団 三好重臣 山縣有朋>>>>>>>>>越えられない壁>>>>>>>>>>桐野利秋 結果論としては強襲続行が正しかったのだが、砲兵なしで攻城を続行するというところが大馬鹿。 熊本鎮台は籠城策なのだから、熊本城をスルーして北上すればよかったのにね。 >>647>>>>>>>>>越えられない壁>>>>>>>>>>西郷隆盛 阿呆!野津・三好の梯団と熊本鎮台に挟撃されるだろう。 諸葛亮なら北上すると見せかけて、熊本鎮台が城外に出て薩軍を追尾する態勢をとったときに、魏延に熊本城を急襲させる。 ☆ 大江村九品寺
熊本隊(学校党)の本営。
寺は現存しないのであろうか、地名だけが残っている。 ☆ 熊本協同隊
篠原国幹隊とともに40名の熊本協同隊は行動した。
22日の戦闘で野間安親・富記兄弟は戦死。 22日、乃木希典少佐の率いる小倉歩兵第14連隊が、山鹿街道を南下した。
薩軍五番大隊二番小隊長の村田三介は、熊本協同隊の高田露(あきら)を道案内にして、山鹿街道を北上して野戦に転じた。 「第14連隊は、全員強行して入城すべし」
>>571 乃木は福岡大隊から一個中隊を引き抜き長崎へ派遣した。
>>590 2月19日夕刻、小倉第14連隊第1大隊のうちの左半大隊300人余が入城している。
>>573 乃木は小倉の第一大隊から引き抜いた二個中隊を久留米に急行させる。同二個中隊は16日に久留米到着。
まだ熊本城に入城していない部隊が、小倉・福岡・長崎・久留米に分駐していた。
乃木自身も、久留米にいた。 ☆ 南関
乃木は河原林雄太少尉とともに21日午後4時に久留米を発ち、21日夜に熊本県南関で吉松少佐の第三大隊に追いついた。
村田三介が第14連隊南下の情報を得たというのは(>>653)、この吉松少佐の第三大隊のことである。
乃木が南関に到着したときは、薩軍はいまだ川尻にいる。 戦略的にいえば乃木希典の第14連隊は面白みのある価値を生じつつあった。
城に入れなければむしろそれをあきらめて城外の遊撃軍として薩軍の背後を脅かしたり牽制することができたはずである。
しかも22日には政府の派遣した先遣軍が二個旅団も博多湾に上陸しているという形勢からみて、長期間続ける必要はなかった。 ☆ 吉松速之助少佐
弘化2年(1845)、高知城下本丁筋の土佐藩士吉松省平の長男に生まれた。
鳥羽・伏見の戦いには藩兵隊長として伏見を守る。その時の速之助の決断が官軍としての土佐藩の以後の行動を決定する。
さらに迅衝隊第八隊長として戊辰戦争に加わり、今市、日光、会津と転戦した。
会津戦争の折、大垣藩兵に捕らえられ凌辱のすえに生晒しにされた神保雪子(神保修理の妻)を見かけて放免を主張したものの、他藩の容喙は受け付けないと拒絶された。その後、密かに雪子の懇願を聞き届けて腰に据えた短刀を与え、その自刃を助けている。 「おまん、名はなんぜよ?名ある武士の妻か。言うたら、夫の恥になるかえ?」
女性は吉松に対し、「せめて自害したいので、短刀を貸してほしい」と依頼します。
吉松はこれを受け入れ、その会津武士道を全うさせたと伝わっています。
この女性が会津藩の重役・神保修理の妻・雪子だったことが分かったのは、吉松の死後のことでした。
http://ryoma-hometown.com/wp-content/uploads/2019/01/essey44_7.jpg
凌辱された神保雪子
https://ogami-itto.com/wp-content/uploads/2018/10/ikegami_kimiko_svew2q-720x500.jpg 明治4年、薩長土三藩の献兵によって御親兵が創立されたとき、陸軍大尉、中隊長となる。
明治9年、陸軍少佐に昇進。大隊長となり熊本鎮台福岡分営に屯した。この年に神風連の乱が起きたが、営内を鎮した。
明治10年に西南戦争が勃発すると歩兵第十四聯隊第三大隊を率いて福岡から出撃し、同郷で妻の伯父にあたる谷干城鎮台司令長官が守る熊本城救援を図った。 南関、高瀬、木葉と進んだが、2月22日の植木の戦いで、上官である聯隊長代理乃木希典中佐が軍旗を喪失した。
その翌日、木葉で西郷軍と対峙した。二方向から攻撃されて苦戦に陥った吉松は、乃木に援軍を要請したが、乃木は司令部を離れてわざわざ吉松の元に自ら赴き、「今や我足下に分つべき余兵なし、たといまた之れ有らしむるも、乞ふ代りて之れに当たらん」と断った。
すると吉松は笑って「余力があればのこと。君は全軍を指揮する聯隊長である。ここに長く留まるべきでは無い」と応じた。
乃木が無事に去った後、最前線に踏みとどまった吉松はわずか20余名の部下とともに聯隊主力の退却を支えたが重傷を負い、その夜に息を引き取った。享年33であった。 乃木は第三大隊の二個中隊から、行軍の疲労が残っていない60余名を選び、高瀬を発った。 >>663
かなり前のところを読んでいます。
ネタバレはしないでください。 【植木の戦い】2月22日夜。
早朝から熊本城を包囲していた薩軍は、偵察から「植木に政府軍!」の報を受け、午後から
5番大隊・2番小隊(隊長・村田三介)、
4番大隊・9番小隊(隊長・伊東直二)、
4番大隊・5番小隊(隊長・永山休二)の3個小隊を向かわせている。
薩軍3個小隊は、植木の市街に進出すると山鹿・木葉の2方向から政府に挟み撃ちに遭う恐れがあるので、熊本寄りの向坂に布陣した。
http://seinan1877.zouri.jp/ueki/ueki.JPG >>668
周作の親父が馬の肛門に片腕を突っ込むところは面白いです。 >>671
小字は、郵便局がないとバス停として名が残るくらいだな。
コンビニの店名やアパート・マンション名として残る場合もあるが、田舎だとそれもない。
がんばれ全国のバス停。 マンションに期待するな。
フランス語のマンション名を付けるのが流行になっている。
向坂荘では、誰も入居せん。 黒岩重吾の奈良時代を描いた小説で、川の上に小屋をつくって、そこでうんこをしている描写があった。
厠の語源は、この川の小屋=川屋なのかどうかが知りたい。 篠原国幹の統率術というのは、薩摩隼人のウィーク・ポイントである「死を恐れるのか?」を連呼するだけなんだな。 ちなみに「植木の戦い」は、実戦経験のない乃木さんの初陣です。 小学校の国語の教科書が、武将・軍人の話で埋め尽くされる日が待ち遠しいです。
乃木さんの植木の戦いなんて、むかしの日本人なら誰でも知っていた。 偏頗するのはよくないけどな。
楠木正成は美化されすぎたために面白くない人物になってしまった。
実物はもっと面白い人物だと思う。 ☆ 村田三介
弘化2年(1845)生まれ。明治6年陸軍少佐を辞し、西南戦争では小隊長として西郷軍にくわわる。
熊本県北部の植木で政府軍をやぶり、乃木希典ひきいる第十四連隊の軍旗をうばう。
鍋田で明治10年3月11日戦死。33歳。
篠原国幹に「死を恐れるのか?」に言われるほどの頭脳派。
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/13/1a83a9565e00762238acfbf24a659423.jpg 村田三介のイメージは冷静沈着な頭脳派だよな。
日テレ「田原坂」では村田三介の妻・佐和子役は石井富子さんだったが、イメージに合わない。
俺はずっと汾陽光輝(かわみなみ)役の鈴木ヤスシの妻か姉だと思っていた。
http://livedoor.blogimg.jp/donzun-actors/imgs/3/5/350bf83f.jpg なお村田三介が属する四番大隊の大隊長池上四郎の姓は「いけのうえ」と読む。
「いけがみ」と読んでいる人が多いと思うが。 >>677
トイレ(toilet)のことを厠(かわや)と言いますが、その呼び名には、手水(ちょうず)、手水場(ちょうずば)、便所(べんじょ)、雪隠(せっちん)などがあり、川の流れに落とす川屋(かわや)からカワヤの名が出たとの説も広く知られています。
この他にも、昔から、はばかり、ご不浄(ごふじょう)、遠方(えんぽう)、東司(とうす)、後架(こうか)、高野山(こうやさん)、閑所(かんじょ)、装者所(よそものどころ)など、多くのトイレの呼び名があります。 便所=仏教からきた言葉で、便利な所という意味です。 古代人の便所は水洗式だったことの証左となる歌が、「万葉集」巻十六に出ている。
香塗(こうぬ)れる 塔になよりそ川くまの くそふな喰(は)める 痛き女(め)やっこ
あの人は人糞を食っているフナを食べている汚ならしい女だという相手の女をののしった歌です。
これは、川の上に便所を作っていた証拠と言えます。
世界の便所は、流すか、捨てるか、埋めるの三通りですが、川に流すのは南方系文化、便器を置くのは北方系文化と言われています。
溜桶をいけて便を貯めておくのは、農業用の肥料に使うところからきた日本独自の知恵。
http://konjaku-photo.com/m/pic/600/3215.jpg
http://file.qingdao.blog.shinobi.jp/koedame.jpg 万葉集サイコー。ユーモアをも交えた自然主義文学だな。
古今、新古今ごときと並べて語ってはならない古代の最重要な文化遺産。 >>684
そうだったんですか。ずっと「いけがみ」だと思っていました。 >>687
わたくしは昭和40年代までの日本をこよなく愛する日本人ですが、
子供の頃遊んでいて肥溜めに嵌った屈辱の思い出があります。
肥溜めのことを考えると、あの時代に戻りたいとは思いません。 >>669
加治木常樹の「薩南血涙史」によると、永山休二の小隊が植木に着いたのは、戦いが終わった後の2月23日ですよ。
加治木自身が永山小隊の押五(のちの伍長か)だったので間違いはない。 >>659
明治後は吉松秀枝(ほつえ)少佐。
小説も、そのようになっている。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています