邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part13
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邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。 女王國筑紫平野説は緻密に組み立てられた説です。
女王王都久留米説に対応する3世紀の遺跡は未発見です。
多利思北孤の都も久留米です。
女王卑弥呼の墓は祇園山古墳になります。 >>162
免田式土器や小型仿製鏡U型など、
邪馬台国時代に久留米と熊本は同じ経済圏にあります。
よって、そういうことだと思われます。 久留米が邪馬台国王都なら、
南の熊本から北上するに当たって、まずは久留米が立ち塞がりますから、
久留米から西へ向かう吉野ケ里遺跡は勢力を維持していたでしょうし、
久留米から東北すぐの平塚川添遺跡は鉄器を全回収して放棄されたりしなかったでしょう。 倭國王帥升の都は米多國(倭面土國)で吉野ヶ里遺跡になります。2世紀初頭
倭奴國は107年(永初元年)に帥升によって滅ぼされました。
帥升は倭奴國の捕虜を生口百六十人として安帝に獻じた。 吉野ヶ里は単なる筑紫勢力の前線環濠集落で、
当時は有明海に面していて、長崎に逃げ込んだ建御名方と海上でやり合っていたのでしょう。
筑紫は北と東に軍事力を振り向けていましたから。 久留米は邪馬台国の王都ではありません。女王國の王都です。
卑弥呼の居所です。
邪馬台国は4ヶ国連合国です。
小郡・朝倉浮羽・久留米三潴・八女の4地域です。
邪馬台国の盟主は八女です。 九州王朝大好きさんは自分のスレを立てれば?
内容が違うので混乱します。 倭国本軍は筑紫から北や東に進軍したという意味です。
西方面には伊万里に銅戈が一本出ているくらいです。
長崎は直線距離では近いように見えて、
沿岸航海とはいえ外洋部分を長距離移動しなければなりませんし、
攻め込んでも島原などへ逃げ込まれると追いきれません。
肥前は基本的には大国主勢力が先に拡散していたのですが、
筑紫で大国主が失脚した。
佐賀は事代主系が主で、降伏した。吉野ヶ里に伊都王配下の支配官が着任。
長崎には武力抵抗を選んだ建御名方系が集結して、筑紫本軍がいない吉野ヶ里に対してやや優勢な年月を送ったわけです。 邪馬台国九州説と大して変わらん。
つまりは九州に倭国という国があったということだからな。 >>174
んなもん当たり前。
今ホットなのはその他の傍国がどこかとか、
狗奴国がどこかとか、そこらへん。 筑紫に大国主は保留するとしても、佐賀に事代主とか言われると、妄想としか言いようがない。 狗奴國勢力の範囲
矢部川南岸〜緑川北岸 熊本県北部 中心地は菊池盆地 東鯷人二十餘國の北部地域
東鯷人二十餘國の範囲 横穴式墓と河童伝説の分布地
矢部川南岸以南・菊池盆地・熊本平野・八代海沿岸・人吉盆地 >>120
うーん、魏略を独立に読む視点を主張していて、
なぜそのアイデアが明確な形で出てこなかったのかと、ちょっと後悔しています。
小首長たる「ヒコ」が共立時には王として、共立後は官として描写されていたんですね。
例の論考は、ちょっとだけ加筆しますので、注付きで、ネタ採用させて頂きたいともおもいます。
ご報告まで >>179
後漢書も卑弥呼共立以前の視点で書かれてるから
「國皆稱王丗丗傳統」と書かれてますね。 >>176
熊本も邪馬壹國にいれてよw
魏志倭人伝の記述からは邪馬壹國と狗奴國勢力との境界は分かりませんね。 >>170
久留米は邪馬台国の王都でも女王國の王都でもありませんし
卑弥呼の居所でもありません。
久留米は傍国の中の一国です。 >魏志倭人伝の記述からは邪馬壹國と狗奴國勢力との境界は分かりませんね。
魏志倭人伝の記述ではなく、墓の形式分布から文化の境界を推定します。
邪馬壹國と狗奴國勢力との境界は、横穴墓の北限である矢部川南岸になります。
狗奴國勢力は、東鯷人二十餘國の北部地域になります。 >>181
>>185
狗奴国は熊本県の北部1/3 >>183
古代考古学全般に言えるが、
墓の規格だけで「国の勢力圏」を決める方法が適切かどうか疑問
そもそも邪馬台国は「共立」だの「連合政権」だの言っておきながら、
墓の規格を統一できるほど強権だとは矛盾していることである
古代日本には様々な「神」が祀られ、すべて皇室に帰結するわけではないことを
みても、また後の武士の時代でも、各武家ごとに代々の宗派はあり、主君に臣従したからといって、主君と同じ宗派になるわけではないことをみても、
宗教だけで主従関係や支配範囲をみることは適切とは言えない
お墓を作る技術者集団が「国(クニ)」を超えて活動していたとみるべきではないか? >>187
>お墓を作る技術者集団が「国(クニ)」を超えて活動していたとみるべきではないか?
だから、倭国(阿波)を発った忌部一族が、倭国(阿波)墳墓工法を拡散しただけのこと。 薄型軽量土器も同じ。 @阿波 >>187
>お墓を作る技術者集団
オオヤマツミですね。 >>187
それには同意です
葬送文化や宗教の広がりでしょうね
ただ、"広がる"にはそれなりの交流が必要となるので、参考程度にはなるかと
つまり傍国の候補地には間違いないと思います
しかし、連合国の範囲はここまでという線引きは難しいですね >連合国の範囲
同じ文化圏の範囲だろ。
鉄器があって、中国朱があって、その範囲だよ。 中国朱で思い出しましたが、楯築墳丘墓。
よく、同時代最大の楯築墳丘墓を持ち出して、
北部九州の王墓など小さくて物の数ではない。
瀬戸内にすら巨大な墳丘墓を作る権力者がいたのだぞ。
などとおっしゃる方がいますが、
全くの見当違いですよね。
同じ倉敷市の、楯築墳丘墓のすぐ下に、有名な上東遺跡があります。
そうです。
洪水によって埋まって、当時の生活用具がそのまま出土した、
タイムカプセルのような貴重な遺跡です。
この上東遺跡には、鉄器がありません。
つまり、楯築墳丘墓を作った領民は、
鉄器を使っていなかったわけです。 楯築墳丘墓は、まさに卑弥呼の時代の墓ですが、
木槨があり、
副葬品は、鉄剣1、ガラス玉と管玉、土製勾玉、大量の朱(おそらく中国朱)
銅鏡はありません。
おそらく中国朱を持つ武将墓が、
狗奴国王がまだ健在の卑弥呼時代に、
鉄器のない領民によって作られた。
そうです。
北部九州邪馬台国による瀬戸内海占領しかありえないわけですね。 四隅突出型墳丘墓が邪馬台国の派遣した地方官であることも、
何度も示してきました。
楯築墳丘墓もまた、非常に貴重な上東遺跡によって、
鉄器の無い領民を邪馬台国軍が征服した武将墓であることが明らかなわけです。
これは説ではなく、考古学出土物から判明する結果です。
以上からわかるのは、
少なくとも弥生時代にあっては、墓の大きさは重要ではない。
権力の大きさはやはり副葬品で論じるべきである。
楯築墳丘墓に中国朱があるのであれば、
邪馬台国は、魏に朝貢する前から中国朱を入手できていた。
ということは、公孫氏と交易をしており、
魏など中国本土の情報を逐一入手していた、ということもわかります。
次には鳴門の萩原墳墓群にも同じく円墳と中国朱が到達するわけです。 前スレで検討しましたが、
銅鐸とは、倭種倭人が開拓最前線の環濠集落に配備したJアラートなわけです。
それが、岡山市周囲には少ない。
もともとの古代出雲=豊国日本海沿岸の本拠地を筑紫勢力、
主に東征将軍スサノオの基地として奪われてゆき、
瀬戸内へと活路を見出したオオヤマツミ一族が、
新たに拠点としたのが岡山市周囲だった。
だから、岡山市にはオオヤマツミ主力がいるので、銅鐸が必要なかったわけです。
これも前スレで論じましたが、
時代を経て、倭国大乱で瀬戸内オオヤマツミは狗奴国側についた。
その本拠地が邪馬台国水軍によって攻め落とされて、
その領民が作らされたのが、楯築墳丘墓ということでしょう。 淡路島に舟木遺跡や五斗長垣内遺跡といった鉄工房が運営されていました。
鉄原料は全て朝鮮半島から北部九州経由で輸入される。
それが淡路島に運び込まれ、その製品はまた、北部九州へと運ばれたわけです。
その経路上に上東遺跡がある。
誰がどう見ても明らかです。
舟木遺跡も五斗長垣内遺跡も、同時代の筑紫王、
つまり三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡の王が運営していたわけですね。
さらに、祭祀型銅戈です。
北部九州と、大阪湾沿岸に分布します。
間の瀬戸内はほぼスルーされています。
祭祀型武器がこのように両端で出土するのですから、
文明的に三百年ほど先行している北部九州倭国が東征(東遷ではありません)したことが
明らかなわけです。
北部九州側でも出土するのですから、
出陣式で祭祀を行って埋納し、占領地で祭祀を行って埋納したこともわかります。
二本の銅戈(銅矛)銅矛を並べて出陣式をする。
鳥居の形ですね。
もとは中広型銅矛から始まった祭祀形式ですから、つまりは八千矛神=大国主が
始めた祭祀形式なわけです。
記紀にいろいろ関連事項が出てきます。
さらに高地性集落が、瀬戸内海沿岸を東進して、大阪湾沿岸へと上陸していきます。
森林を管理して、炭を作っていたわけですね。 祭祀型武器の分布も情報を与えてくれます。
北部九州を中心として、新たに分布する祭祀型武器が、入っていかない地域
=北部九州倭国が既に領土とした地域
なわけです。
紀元前に丹後半島に扇谷遺跡が営まれることから、
紀元前の日本海沿岸は、壱岐対馬⇔北部九州⇔丹後半島まで、
長期安定的に統一支配されていたことが確定します。
この後から祭祀型武器が登場します。
中広型銅矛(オオクニヌシ)は、瀬戸内海を東征しますが、
本来は北部九州から近いはずの日本海沿岸には入っていきません。
つまり、中広型銅矛が登場する以前に、北部九州から日本海沿岸は統一されて、
中広型銅矛は、新たに瀬戸内海を淡路島南あわじ市まで東征したわけです。
銅戈は、瀬戸内海には分布せず、
北部九州と大阪湾沿岸に分布します。
銅戈の分布先を見れば、
銅戈の時代に、北部九州倭国は、
南は熊本鹿児島へ、日本海沿岸を抜けて長野県柳沢遺跡へ、
そして瀬戸内海を抜けてついに大阪湾上陸し、さらに朝日遺跡まで進軍したわけです。
その次の広型銅矛は、宮崎県から四国の太平洋沿岸なわけですね。 ちなみに、広型銅矛は、鋳型から推定される、作られたはずの数に比べて、
出土している数が少ないことがわかっています。
なぜなら、広型銅矛を埋めた場所の記憶が残っているうちに、
倭国大乱が起きたわけですね。
ですから、狗奴国側の筑後肥後豊後〜瀬戸内〜畿内においては、
筑前邪馬台国と敵対して朝鮮半島からの金属供給路が断たれたために、
広型銅矛を掘り起こして溶かして銅鏃など武器に再利用したわけです。
また、神籠石から広型銅矛が出ていますから、
神籠石というのは、倭国乱に備えて、主には狗奴国側が建設した防御施設であり、
北部九州における神籠石というのが、早期における
邪馬台国と狗奴国の境界線なわけです。 銅鐸からも情報が得られます。
前スレで考察したように、
銅鐸は、倭人倭種が東方の開拓最前線の環濠集落に配備するJアラート。
九州本国から遥か遠いので、襲われたら銅鐸を鳴らして全員で籠城するしかないわけです。
突線鈕1式までの銅鐸は、
主にオオヤマツミ一族が、若狭湾八岐大蛇一族などの、石剣部族の領域へ食いこんで
形成した環濠集落に配備されたものでしょう。
ちなみに、石剣部族というのも農耕部族ですから、もとはといえば北部九州から
遠賀式土器を伴って東進した人たちです。
八岐大蛇がかろうじて残っているくらいで、神としては消え去りました。
石剣部族の最後が、銅戈による大阪湾攻略です。
それまでの畿内には、オオヤマツミが部族として入りこんでいただけ。
最大のものが下之郷遺跡などです。
北部九州倭国本国が、初めて本腰を入れて畿内攻略をしたのが、銅戈。
瀬戸内海側から銅戈。
琵琶湖〜川沿いに内陸側から、オオヤマツミ。
よって、長髄彦はそういうことでしょうし、
大物主擁立とは、大阪湾上陸作戦に協力してくれた御礼でしょう。 突線鈕2式以降の、近畿式銅鐸と三遠式銅鐸。
よく、九州銅矛が、畿内銅鐸を攻め滅ぼしたという設定がありますが、
これは間違いであることが明らかです。
青銅原料も北部九州を経て供給されるのですから、
銅鐸が北部九州と敵対していたのなら、銅鐸はどんどん小さくなっていったはずです。
しかし、近畿式銅鐸は逆にどんどん巨大化していきます。
銅鏡なら何十何百枚に相当するのだろうという容積の青銅器です。
つまり、近畿式銅鐸とは、勝者の銅鐸です。
大型化して、本来の用途であるJアラートの役割を終えて、
祭祀青銅器となっていきます。
一方の三遠式銅鐸は、大型化する前に消滅する。
しかも使用された形跡がある。 三遠式銅鐸は、柳沢遺跡から出土しました。
タケミナカタの領域です。
筑紫で大国主が失脚したわけですが、
大国主一派のうち、武力抗戦を選んだのがタケミナカタです。
ですから、タケミナカタ軍のいる越後には銅鐸はありません。
伊都王の倭国軍が攻めてきたら、銅鐸を鳴らして逃げるのではなく、
迎え撃つわけです。
近畿式銅鐸と三遠式銅鐸は、越後ではなく、
愛知県でせめぎ合っていたわけです。
つまり、実際に使われていて、早期に消滅した三遠式銅鐸は、
北部九州で失脚した大国主一派のうち、
武力を伴わない集団が東国に逃げ込んだ先で使っていた銅鐸。
近畿式銅鐸は、銅戈ニギハヤヒや、オオヤマツミ一族が作った勝者の銅鐸。
近畿式銅鐸と三遠式銅鐸は愛知県でせめぎ合っていました。
入り混じっています。
本来の用途は祭祀器ではなく、Jアラートですから、
敵から奪った銅鐸も、気にせずJアラートとして使用していたわけです。 銅戈ニギハヤヒの倭国軍が、
柳沢遺跡を占領=タケミナカタ降伏
&
朝日遺跡に進軍
してくるに及んで、
大国主一派は降伏します。
ということはです、
その一帯の東国に出現する前方後方墳とは、
大国主残党によって築かれたということになります。
これを西方へ投射すると、様々なことがわかります。 これも何度か書きましたが、
越後を誰が支配しているかで、筑紫王墓の翡翠に影響が及んでいるわけです。
>八岐大蛇
>スサノオ〜沼河比売・大国主
>タケミナカタ(筑紫と敵対)
>銅戈
>邪馬台国
筑紫で須久岡本の大国主が失脚して、 旧伊都(委奴)から、新伊都(日向)へ遷都。
ニニギが倭国王アマテラスとなり、ニギハヤヒが東征将軍スサノオになります。
タケミナカタが越後で反抗する。
だから、三雲南小路遺跡には、王妃2号墓に、翡翠がたった一つしかありません。
銅戈がギリギリ征服して翡翠を届けたのでしょう。
柳沢遺跡には近畿型銅戈が複数本出ています。
その戦利品として、母型の実家である唐古鍵にプレゼントしたのが巨大翡翠ですね。
時代は下って、
超豪華な副葬品を誇る女王墓である、平原遺跡に翡翠がありません。
近畿式銅戈部隊は狗奴国側なので、倭国乱時に越後で孤立して取り残されたのですね。
邪馬台国と敵対したので金属原料が枯渇し、最後は土製銅戈を作っています。
同じく近畿式銅戈が出土した青谷上寺地遺跡も狗奴国側についたため、
倭国乱が起きると攻め滅ぼされたわけです。
卑弥呼の代には、銅戈部隊はなんとか越後で粘った。
台与の代に、越後を落としたわけです。倭国の産物に青玉が記載されます。
よって、稲部遺跡の鉄工所を作ったのは台与。
占領した越後に高地性集落を作って、炭の供給地にします。 不思議なことに、越後にはタケミナカタ諏訪神社が多数現存しています。
総本山の諏訪大社も堂々と存在しています。
つまり、銅戈部隊が柳沢遺跡を落として、
タケミナカタ一族のトーテムを滅却して
越後や信州を完全に支配下に置く前に、倭国乱が起きたわけです。
卑弥呼の父親である、一大率丹後若狭湾長官=太田南古墳群1号墓被葬者は、
倭国乱早期は筑紫伊都の救援に向かわなければならなかったので、
越後の銅戈部隊は瞬殺されなかった。
敵の敵は味方。
主力を北部九州に派遣した一大率丹後若狭湾支部は、
タケミナカタ勢力と同盟を結んで、
銅戈部隊を牽制したわけです。 安芸の奥、周防(すわ)に籠ったタケミナカタは滅ぼされました。
銅戈や巴型銅器が出土しています。
そしてもう一つのタケミナカタ勢力が、長崎です。
銅戈部隊は、東方や熊本鹿児島には積極的に攻め込みましたが、
西方には、わずかに伊万里に一本出ているだけです。
長崎にタケミナカタが立てこもり、抵抗していたわけです。
吉野ヶ里遺跡は天下の名城ですが、
では何と戦うためにかような名城を築いたのか?
吉野ヶ里遺跡からは銅鐸が出土しています。
攻め込まれて銅鐸を鳴らし、領民を環濠内に総退避させる状況もあったわけです。
吉野ヶ里遺跡には鉄器が数百点も出土していますから、筑紫とは長期敵対していません。
筑紫銅戈部隊が熊本鹿児島へ攻め込んでいるのですから、南や東も味方。
つまり、
西の長崎タケミナカタが、吉野ヶ里をたびたび海上から攻略していたわけです。 その長崎にもタケミナカタ諏訪神社が残っている。
吉野ケ里遺跡は神籠石ラインの狗奴国側ですから、狗奴国側についた。
鉄器が大量に出土しているので、平塚川添遺跡のように鉄器を全回収して撤退する暇もなく、
戦乱のうちに失われたわけです。
そう考えると、其余旁國のうち、
斯馬國=糸島市の、志摩郡(当時は文字通り島)
巳百支國=銅戈西端=伊都王統治西端の伊万里
伊邪國=伊佐国=諫早
=越後銅戈攻略と同じく、長崎タケミナカタと邪馬台国は同盟して、
諫早に進駐して水軍基地として、有明海へ出撃する拠点とした。
奇習である、粥占いが、
遥か離れた肥前と信州諏訪大社に残っています。
大国主一族の風習だったわけですね。
筑紫で失脚して、銅戈部隊に攻められて、
すんでのところで滅亡するところだったけれども、
倭国乱で邪馬台国と狗奴国が戦争を起こし、
銅戈部隊の大部分は狗奴国側になった。
よって、邪馬台国から同盟依頼を受けて、タケミナカタや大国主末裔は、
息を吹き返したわけです。
前方後方墳です。 鉄工房遺跡に話を移します。
今から数年間、江戸時代の生活に戻してください。
と言われて、耐えられるでしょうか?
耐えられませんよね。
北部九州倭人も同じことです。
紀元前に、丹後扇谷遺跡鉄工所を作って鉄器文化になった時点で、
後戻りはできません。
鉄器そのものだけではなく、
鉄製工具を用いて作る様々な製品も生活に欠かせないわけです。
扇谷遺跡から、淡路島舟木遺跡までにタイムラグがあります。
鉄工房が無い時代は絶対にありえませんので、
どこかに未発見の鉄工房遺跡が眠っていることになります。
祭祀型武器の進行から考えると、
熊本。
福岡〜大分県の周防灘沿岸。
愛媛県の瀬戸内沿岸。
大三島など、淡路島より西の瀬戸内海の島。
などが候補となります。 次に鉄工房遺跡が途絶するのが、
須久岡本王(大国主)が失脚して、
旧伊都(委奴)から、新伊都(日向)へ遷都した前後です。
葦原那珂津国が大洪水からの疫病で大混乱に陥り、指導者不在。
瀬戸内海オオヤマツミは、当然大国主のために木材や炭を供給する必要が無くなりますし、
舟木遺跡鉄工所は操業停止します。
銅戈ニギハヤヒが大阪湾攻略に成功して
五斗長垣内遺跡が稼働し始めるまでに、どうしたのでしょうか? ニニギ一行が、
疫病が流行する福岡平野〜早良平野の旧伊都(委奴)から、
日向峠を越えて
新伊都(日向)へと向かう途上に、
猿田彦が現れます。
猿田彦は、高天原から葦原中国までを照らし、
目は真っ赤。
伊勢出身の国津神で、
アメノウズメによって、故郷の伊勢へ送り届けられ、
アメノウズメと結婚して、猿女氏が始まります。
伊勢の阿邪訶の海で漁をしている時に、
比良夫貝に手を挟まれて亡くなります。 前スレで考察した通り、
職工集団である忌部氏は、鉄工房の傍にいる必要があるわけです。
鉄器そのものを作る場合はもちろんですが、
その他の製品を作るにしても、鉄製工具でなければ精密な操作ができません。
鉄製工具が壊れるたびに注文したり、
細かい変更点などを指示したりする必要がありますから、
鉄工房の傍にいないと仕事にならないわけです。
ですから、丹後扇谷遺跡→淡路島五斗長垣内遺跡の周囲に、
神代忌部氏が分布しているわけです。
考古学的に、その次に日本列島に登場する鉄工遺跡は稲部遺跡ですから、
五大忌部に次いで登場する伊勢忌部は、稲部遺跡の周囲でしか仕事にならないわけで、
伊勢遺跡とも関連して、
神代弥生時代の伊勢とは、若狭湾〜琵琶湖周辺だったことになります。
つまり、猿田彦とは、若狭湾〜琵琶湖周辺の出身だったわけです。 滋賀県高島市に、熊野本遺跡という高地性集落が見つかっています。
なんと、弥生時代の畿内集落に、鉄器や鉄滓が見つかっていたのです。
考古学上の大発見のはずですが、
ろくに保存もされずに忘れられようとしているわけです。
高島市の南には古代から崇められてきた比良山があり、
この辺りには、
白髭神社、水尾神社、など猿田彦を祀る、猿田彦に関連する神社が多数あります。
また、安曇川、志賀など、まさに北部九州系の地名が残っています。 つまり、
葦原那珂津国が大洪水からの疫病で大混乱に陥っている状況で、
ニニギ一行が、
疫病が流行する福岡平野〜早良平野から、
日向峠を越えて
新伊都(日向)へと西へ向かう。
猿田彦が現れます。
もちろん一人きりではなく、
北部九州のワダツミ一族と一緒です。
猿田彦は、ワダツミ一族配下の、伊勢琵琶湖西岸の、
熊野本遺跡の鉄工房の頭領だったわけです。
倭王となるニニギ一行を出迎えるにあたり、
ワダツミ一族は伊勢の猿田彦を呼び寄せ、ニニギに面通ししたわけです。
北部九州倭人の集団の前に、
突然はるか東方の伊勢から来た修験者のような天狗のようないでたちの
猿田彦がぬっと現れる。
夕暮れ時だったのでしょう。
猿田彦の背後の西日が、その長い日差しで
背後の東方の高天原(旧伊都=委奴=早良平野)から葦原那珂津国までを照らします。
鍛冶場の頭領ですから、炎で焼けて
猿田彦の目は真っ赤です。 ワダツミ一族は猿田彦を紹介し、
当面の間、猿田彦が仕切る、熊野本遺跡の鉄工房を使うことを提案します。
ニニギも猿田彦に興味を持ち、
猿田彦とと共に、アメノウズメを神代伊勢琵琶湖へ派遣して、
熊野本遺跡の鉄工房を実地調査させたわけです。
アメノウズメの視察に合格した熊野本遺跡はニニギによって使用することが決定し、
アメノウズメと猿田彦が婚姻することでニニギ側に取り込まれることが決定する。
緊急に鉄工房を必要とする緊急事態における、
極めて政治的な話です。
晩年の猿田彦は、
比良山での作業中に事故ったのか、
比良山のふもとで漁をしている時に事故ったのか。
琵琶湖は湖面は穏やかですが、
淡水湖ですので浮力が小さく、
海を行き来することに慣れた海人族にとっては、思わぬ水難事故が起きやすいのですね。 現代国家は石油が血液であり、石油がなければ国家が回りません。
弥生国家は木材が血液であり、木材がなければ国家が回れなかったわけです。
ちなみに江戸時代までそうですね。
吉武高木王
木材:日本海沿岸
鉄工房:丹後扇谷遺跡
須久岡本王(オオクニヌシ:中広型銅矛)
木材長官:スクナヒコナ
鉄工房:淡路島舟木遺跡
三雲南小路王&銅戈将軍(ニニギ&銅戈ニギハヤヒ)
木材長官:オオヤマツミ、瀬戸内〜大阪湾
鉄工房:最初期熊野本遺跡→後に淡路島五斗長垣内遺跡
井原鑓溝王&広型銅矛将軍(山幸彦&海幸彦)
同上
平原女王(卑弥呼)
木材長官:ワダツミ配下の猿田彦一族
鉄工房:半島に発見済み
???(台与)
木材長官:猿田彦一族(越後〜琵琶湖〜川沿いの高地性集落)
鉄工房:稲部遺跡 オオヤマツミが狗奴国側で戦ったため、
瀬戸内〜大阪湾沿岸の高地性集落や、淡路島鉄工房が操業停止したわけです。
その間隙をついて木材長官についたのが、猿田彦一族。
各神社に入っているのは、
神社の森をはじめとする、各地の森林を管理していたからでしょう。
邪馬台国の人にとっては、
役所に必ずいる、森林管理のおっちゃん達だったわけですね。
石油時代の現代人にはなかなかピンとこないわけです。 説得力があるストーリーですね。
葦原中国の大洪水で遷都という話は初めて聞きましたが
どう言う痕跡なのですか?
また瀬戸内の海民には
オオヤマツミ
住吉
宗像
とあり、民俗学的には
オオヤマツミ族は南九州から移動して来た。
宗像族は宗像三神を奉斎するので北九州から。
瀬戸内土着が住吉神だというのです。
海民が流通路の要と思ってますからこれらの海民の分布とご説と整合取れますでしょうか? >>220
>とあり、民俗学的には
>オオヤマツミ族は南九州から移動して来た。
民俗学はたまにおかしなことを主張する。 博多湾沿岸の筑紫の日向の小戸が発祥の地である住吉神が、瀬戸内となんだって?
デタラメもいいところだ。 大ヤマツミは普通は神社の分布から瀬戸内と言われる。
ただし、記紀においては筑紫の日向に降臨した日向王家に姫が嫁いでいること、博多湾で国生みをしたイザナギのことされることから、大ヤマツミは博多湾における先代王であったとも考えられる。
また、大ヤマツミはスサノオとの関わりでも登場し、おそらく博多湾とは別系統の北陸の伝承である。
事実、大ヤマツミを祭る神社は新潟県に最多である。 大山祇は綿津見(海神)と対になる語であり、国津神と天津神の言い換えである。
古代倭国の中心的勢力は筑紫、出雲、越であるが、そのうちの越の王が大山祇かもしれない。
福岡の香椎が越からの転化であると言われるように、もともと日本海側全域が越であったところに、出雲が成立し、その出雲を倒して筑紫が成立した。
出雲の大国主も元々は博多湾にいたという説もあり、年代順に北部に追われていった様子がうかがわれる。
最後に筑紫を征服した天津神の中心氏族である天孫族が天皇家の祖であると言われ、それ以外の在来勢力を一括して国津神と呼び、大山祇はその王の一般名詞であり、大国主は出雲の最後の王を指す固有名詞として使われることが多い。
大山祇は南九州とは関係ない。 結局、住吉神、大山祇、宗像三女神のいずれも博多湾沿岸と関わりが深く、それが全国に拡散したことのなる。
おそらく拡散した時期が違うだけであり、九州北部からの文化の波及(征服?)を示しているだけである。 安曇氏スレより転載、
起源は賛否あるかもしれないけど、
民俗としては明確に違うみたいよ。
>>66
98 :日本@名無史さん:2013/06/14(金) 11:16:37.40
宮本常一氏の研究によれば、三種類の海民が、瀬戸内海にみられるという。(「瀬戸内海文化の系譜」)
第一は、男女共漁をする海民で、北九州から瀬戸内海に移動してきた海民である。
かれらは宗像三神を信仰し、あわびや魚、海草を採取しながら移動する定着性の低い海民であった。
尼崎、海部などの地名が残っているのは、かれらの居住地と推定できる。
第二は、男漁女耕をする海民で、南九州から瀬戸内海に移動してきた海民である。
かれらは大山祇を信仰し、四国側を中心に定着し、後に村上水軍などの海上の武装勢力を形成した。
第三は、半農半漁をする定着民で、瀬戸内海に定着していた在来海民である。
かれらは、住吉の神を祀り、遠浅で磯漁の条件の良いところに居住した。
貝の採集に優れた技能をもっていたかれらは、あわびの採取、交易、製塩などに従事し、供御人などに任ぜられて朝廷との関係を結んだ。 ふむふむと思ったページからの紹介
ttps://ameblo.jp/makoto-kodama/entry-12286813486.html
弥生時代当時の倭は漁業と海運業が主産業を為し、海人族が大活躍する国でした。
海人族には綿津見三神を崇拝する安曇族と、筒男三神を崇拝する住吉族、
及び宗像三女神を崇拝する宗像族と大きく三つの部族に分かれていました。
各部族の本拠地は安曇族が奴国、住吉族が不彌国、宗像族が宗像国だったと思われます。
三つの海人族は、それぞれの祭神を祀る神社を建て、航海の守り神としていました。
志賀島に在る志賀海神社は、奴国王だったと思われる安曇族の首長が、
港となる博多湾への船の出入り口となる志賀島に海神を祀ったものであり、
宗像大社は宗像市の辺津宮、大島の中津宮、沖ノ島の沖津宮の三社に分かれており、
住吉神社は当時の不彌国の範囲が現在の博多駅辺り迄伸びていたので、
博多駅前の地に住吉神社が建てられたのではないかと思われます。 >>226
瀬戸内の民が、筑紫の日向を起源とする博多住吉の神を祀る理由がわからなくなってしまう。
単に九州北部から瀬戸内に移住した民の痕跡を見ているだけにしか見えない。 >>228
>単に九州北部から瀬戸内に移住した民の痕跡を見ているだけにしか見えない。
その北部九州も倭国(阿波)の海人族。
瀬戸内とか日本海ばかり言ってるが、太平洋側の東海・関東が抜け落ちている。
それらすべては、倭国(阿波)の海人族の軌跡なのである。 @阿波 関東は蝦夷の国であったが、次第に出雲や倭の勢力に侵食された。
関東の古地名の多くは蝦夷の言葉に由来する。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 分類を推定してみよう。
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
越の民の移動?
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
大ヤマツミ?
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
住吉の神(博多から摂津へ)
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
天孫族、皇祖 京都や大阪の鴨川神社は大ヤマツミの子の三島の神に由来し、その子孫が大和の登美の長髄彦や登美の鴨主になる。
京都に鉾にまつわる祭りが多いのも頷ける。
京都、大阪、奈良の大きな寺社は、ほぼ全てその起源を博多湾に求めることができる。 八幡神社総本社の大分の宇佐神宮。
天満宮本社の太宰府天満宮。
水天宮のルーツとなった久留米の水天宮
などもあります。 『日本書紀』
猿田彦の登場する場面。
>有一~、居天八達之衢。其鼻長七咫、背長七尺餘、當言七尋。
>且口尻明耀、眼如八咫鏡而赩然似赤酸醤也。
猿田彦は弥生神代伊勢の熊野本遺跡の、鍛冶場の頭領ですから、
仕事道具の皮吹子を肌身離さず持ち歩いていたわけです。
筑紫式送風管ですね。
身長が七尺余ですから、漢尺で七尺=161センチメートル。
鼻というのは皮吹子で仕事に励む時の猿田彦の姿で、
漢尺で七咫=129センチメートル。
咫が長さを表す実例ですね。
同じ文章の中に八咫鏡があるのは何かの暗示でしょうか。
ひょっとしたら、八咫鏡の鏡を作成したのは
熊野本遺跡の猿田彦だったのかもしれませんね。
倭国乱で邪馬台国側についたわけですし。 猿田彦は宗像を経由しての筑紫日向(伊都高祖山)への天孫降臨の道案内を務めた神であり、九州の人物。 >>236
>猿田彦は宗像を経由しての筑紫日向(伊都高祖山)への天孫降臨の道案内を務めた神であり、九州の人物。
「猿田彦大神」と「天鈿女命」とは夫婦であることは日本神話に詳しい人はご存知でしょう。
徳島県鳴門市にある「大麻比古神社」の祭神は「猿田彦大神」とされています。
その大麻比古神社背後の大麻山には「猿田彦」を祀る祠があったという。
実はこの大麻山の隣には峰続きで「天円山(あまがつぶやま)」があります。
そして、この天円山山頂には「天鈿女命」を祀る「天ヶ津神社」が鎮座しています。
「猿田彦大神」と「天鈿女命」両神は仲良く阿波国鳴門の「大麻比古神社」裏手の「大麻山」・「天円山」に祀られています。 @阿波 そんなところ(阿波)にいたら、筑紫の日向への降臨の案内はできないよね。
阿波には王権の証である内行花文鏡もないだろうw >>238
>そんなところ(阿波)にいたら、筑紫の日向への降臨の案内はできないよね。
「筑紫の日向」じゃなくて、
竺紫(とくし)の日向ね。
徳島県の橘(阿南市)の小門の阿波岐原。 @阿波 >>238
>阿波には王権の証である内行花文鏡もないだろうw
倭国(阿波)いは、大概のものが有るから。 @阿波 尺咫
鏡職人ではなく、入れ物職人にとって必須の知識だったわけです。
八咫鏡も、王権を象徴する鏡をほいほい手に取って直径を測れるわけではないですよね。
ただし、入れ物は古くなると作り直すので、その時に入れ物の寸法は測るわけです。
編み籠でも木箱でもいいですが、モノを入れる入れ物を作るとします。
(簡潔にするため入れ物の壁厚は省略して考えます)
土台はモノと同じ大きさでいいとして、
側面については、モノの周囲全長が必要なわけです。
それぞれの一辺の長さが、
(入れるモノの周囲全長)×(側面の高さ)の長方形の側面素材を作って、
それを折ったり丸めたりして、土台に接着するわけですね。
古代の物差しがあるとします。
片方に尺、もう片方に咫が刻んであります。
径1尺の正方形のモノを入れる箱を作るなら、側面の長方形素材の大きさは、
(4尺)×(側面の高さ)となります。
正方形のモノであれば、物差しを1回当てて、同じ長さを4回でいいわけですね。
径1尺の円形のモノを入れる箱を作るなら、側面の長方形素材の大きさは、
(4咫)×(側面の高さ)となります。
円型のモノであれば、物差しを1回当てて、それに対応する咫を同じく4回です。
尺咫とは、現場の動きに現実的に対応した便利な尺度であるわけです。
職人さんは現場での師弟関係において技術を伝えていきますから、
学者さんが書斎で書く歴史書にはなかなか登場しないわけです。 銅鏡だけでなく、土器でもなんでも、
円型のモノを入れる入れ物を作るには、
入れ物の側面の長さを決めるのに、円周長が必要です。
円型のモノを入れる入れ物全てが現物です。
根拠は、数学的な問題なわけです。
円周長を測定するための方法が何か?ということになると、
古代東アジアであれば「尺咫法」しかありません。
現代であれば、「円周率」ですね。
「尺咫法」は周代に定義されていますから、
「尺咫法」以外の、円周長を測定する方法を提示できなければ、
自動的に「尺咫法」が使われていたことになります。 円筒形の土器なんてそうそうないけどな
妄想お疲れ様 親方が注文を受けます。
「直径2尺の銅鏡を入れる、高さ半尺の入れ物」を作るように。
親方は注文を受けてすぐに、弟子に命令するわけです。
「直径2尺の円形の板」を2枚
「8咫×半尺の長方形の板」を1枚
作りなさいと。
大きい材料の方が調達するのが大変ですから、
8咫の長さの材料を見つけるほうが手がかかります。
よって、現物はほとんど誰も見たことが無いけど、
入れ物を作る注文が出たら、8咫の長さの材料を頑張って探さなければならないので、
八咫鏡。 あえて論点をずらそうとしているのですか?
土器に入れる、ではないですよ。
銅鏡でも、お気に入りの土器でも(土器はたいてい円形ですよね)
王冠でも、璧でも、
円型のモノを入れる入れ物を作るには、
「尺咫法」が無いと作れない、という意味です。
古代の人が、
円周率=3.14を使って、直径×3.14を計算した痕跡のほうが無いですよね。
けれども、「尺咫法」は周代に規定されている。
咫=0.8尺、10咫=8尺ですから、
8対10で刻みを入れればいいだけです。小学生でもできます。
また、「尺咫法」を円周率に換算すると、3.2>3.14ですから、
中に入れるモノよりわずかに大きい入れ物ができるわけです。
入れ物職人さんにとっては簡単でとても便利ですね。 土器なんて粘土紐を巻き上げて作るし、胴は円筒じゃなくて球の方が近いし、意味なし
鏡も径を揃えて作ってる訳じゃないから意味ないし
鏡の容器も鏡にあわせて径が変わるから意味ないし
伊都クズの妄想には全く根拠がなくて意味ないし 妄想を押し通すためにさらにさらにと妄想を積み重ねていく
どんどん不確実性が高くなるだけの妄想タワーの出来上がり >>208
>不思議なことに、越後にはタケミナカタ諏訪神社が多数現存しています。
越後の諏訪神社は、戦国時代に長尾景虎とその家臣が分祀勧請したものが多いよ
戦国武将が武神の神社を信仰するってのは分かりやすいでしょ? >>242、>>244、>>247、>>249
>尺咫法
そんな言葉はないww
咫尺って言葉はあるけどな
史記での「咫」の字の使用全例
矢長尺有咫
長尺有咫
尺有咫は、尺(10寸)+咫(8寸)で、18寸の長さ
八寸曰咫
咫尺,八寸
咫は8寸である
徒欲日夜望咫尺之地
舜無咫尺之地
奉咫尺之書
今拘學或抱咫尺之義
言拘學守義之士或抱咫尺纖微之事
咫尺で、「少しの(ながさ)」程度の意味
日本語で「ちょっと」を「一寸」と書くのと同じ発想
咫を円周を測るのに使っている例はない 漢書での「咫」の字の使用全例
長尺有咫
石砮長尺有咫
尺有咫で、18寸
八寸曰咫
張晏曰:「八寸曰咫。」
咫は8寸
豈其與水爭咫尺之地哉?
奉咫尺之書
但日夜望咫尺之地
履咫尺之難
臣聞天威不違顏咫尺
且盲不見咫尺
咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺、喻輕率也。
咫尺は、それ「あるいは長さ咫あるいは長さ尺」を簡単に言うもので、比喩である
咫を円周を測るのに使っている例はない 三国志での「咫」の字の使用全例
未能進咫尺之地
終日行不離咫尺
加咫尺之書
咫尺は、一咫か一尺程度の少しの長さの意味
咫を円周を測るのに使っている例はない 後漢書での「咫」の字の使用全例
其長尺有咫
石砮矢長尺有咫
長尺有咫
尺有咫で18寸
八寸曰咫
八寸為咫
咫は8寸
舜無咫尺之地
今拘學或抱咫尺之義
咫尺天儀
咫尺龍沙
咫尺言不以為遠也
夫欲千里而咫尺未發
去營咫尺
今以曲俗咫尺之羞
咫尺は、一咫か一尺程度の少しの長さの意味
咫を円周を測るのに使っている例はない 史記、漢書、三国志、後漢書での「咫」の字の使用例を全例検索
史記9件、漢書12件、三国志3件、後漢書13件 の、全37件
うち、咫尺 で使われているのが23件
尺有咫 で使われているのが 7件
八寸曰咫 で使われているのが 6件
「咫尺」は三国志の「未能進咫尺之地」(未だ咫尺の地を進むに能わず)のように、「一咫あるいは一尺程度のわずかな(距離)」程度の意味で、慣用句的に使われている
「尺有咫」は、矢の長さなどを表すのに用いられ、史記では「矢長尺有咫」(矢の長さ、尺あまり咫(=18寸))のような使われ方になる
「八寸曰咫」は、「咫」の長さの説明、つまり 咫=八寸
ここまでで、全37件中36件
残りの1件は「咫尺」の説明中に使われているもので、漢書の「咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺、喩輕率也。」
咫尺は「あるいは長さが咫あるいは長さが尺」を簡単に言うもので、軽率の喩えなり
というものだ
要するに「咫」は、
「尺とあまり変わらないわずかな長さ」 咫尺という熟語として使う
「具体的な八寸という長さ」 長さの単位として使う
という二つの意味での使い方しかない
そして、円形のものの周囲を測るために使われている用例は「一つもない」
咫を丸いものを計る単位に使った例は、邪馬台国前後にはない
咫を使っていたとされる周代を記録した大陸史書は史記しかないが、もちろん、史記にも咫を丸いものを計る単位に使った例はない
これによって、「咫は、円周率を3.2で近似するための便利な単位」という平原出土鏡を「八咫鏡」に『する』ための戯れ言は、完全に否定されたね
つまり、平原出土鏡は「八咫鏡」ではない 平原1号墓出土鏡を、円周が八咫だから、八咫の鏡という人がいるが、
咫=8寸という長さの単位ではあっても、史記から後漢書の範囲で
咫を長さを表すのに使っている例は、石砮や矢の長さで「尺有咫」という慣用句的な
決まった表現で18寸を表す場合だけで、基本的には「咫尺」で「わずかな長さ」を
比喩的に表す熟語でしか使わない
平原1号墓が卑弥呼の頃であることを想定するならば、その時代に「咫」で
具体的な長さを測ることはない
したがって、平原1号墓出土鏡が円周が八咫であると認識されることもないし
八咫鏡と呼ばれることも、考えられることもない
しかも、破鏡供献されているので、千年以上後になって、発掘され復元されるまで
その間、その周囲の長さが知られることもない
この鏡が八咫鏡の語源となることもない
つまり、どうやっても平原1号墓出土鏡は八咫鏡とは無縁の鏡である 邪馬台国の時代を含む大陸史書の全例検索をしても、
「咫」が長さの単位として使われている例が、事実上ない
「尺有咫」という決まり文句中で使われる例はあるが、
そのたびに「八寸曰咫」という注が付き、当時、既に「咫」が
実用される長さの単位ではなかったことが分かる
その状態で、「何かを測った」「何を測ってもいい」と主張すること自体が
意味を持たないんだよ 咫も無意味!
魏志倭人伝の里も方角も無意味!
記紀はもっとナンセンス!
だって畿内説と矛盾するから。 今でも鯨尺と言って
鯨尺8寸=一尺とする計測法があるよ。
今では和服に使われているらしい。 伊都説は無意味!
だって歴史学の方法論を無視してるから ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています