邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part13
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邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。 >>268
円型のモノを入れる入れ物があった以上、
その入れ物の側壁の長さ=円型のモノの円周長
を簡便に計算する方法があった、ということです。
銅鏡の大きさはまちまちですから、
その都度円周長を簡単に導けなければならなかった。
咫尺法であれば、周代から存在している。(この時点で咫尺法の証明責任終了
曲尺と鯨尺の関係も同じ数学理論が使われているわけです。
否定したいあなたの方が、
「咫尺法以外の方法が存在した」ことを証明しなければなりません。 咫尺法とは、10対8を使うわけです。
定規を当てるだけで、計算なしで円周長が得られるわけです。
差し金(曲尺)の角目と丸目も同じ理論ですね。
同じ定規の表と裏に、それぞれ10対8の角目と丸目が刻んであります。
咫尺法を応用して、
丸い木材から一辺何尺の角材が作れるか、
逆に角材から、直径何尺の丸材が作れるか、
計算なしですぐわかりますから、作業現場では大変貴重です。
咫尺も曲尺も全く同じ。
ローテクの計算機なわけです。 >>261
>>263-264
なるほどです。
鯨尺と曲尺の関係も10対8なのですね。
衣服もまた、人体の各部を円柱に見立てて、
円柱を入れる入れ物なわけですから、
布地の幅=人体各所の円周率、として測る必要がありますね。
当初は大工さんと同じ曲尺ベースで鯨尺換算していたのが、
巻き尺の発明によって、鯨尺のみで仕立てるようになったのでしょう。
魏志倭人伝には倭人は貫頭衣を着ていたとあります。
素材を切り取るのに、
長さは、身体の縦長を尺で測ればすみますが、
幅は、身体の横長を測って、咫尺法で4倍の咫を採ればいいわけです。
咫は女性の手の大きさというのは、
女性が衣服を仕立てていたからですかね。 >史記、漢書、三国志、後漢書での「咫」の字の使用例を全例検索
>史記9件、漢書12件、三国志3件、後漢書13件 の、全37件
>うち、咫尺 で使われているのが23件
> 尺有咫 で使われているのが 7件
> 八寸曰咫 で使われているのが 6件
>「咫尺」は三国志の「未能進咫尺之地」(未だ咫尺の地を進むに能わず)のように、「一咫あるいは一尺程度のわずかな(距離)」程度の意味で、慣用句的に使われている
「咫尺」法が社会に広く使われていた証左ですね。
衣服の仕立て、銅鏡など円型のモノの入れ物の側壁、などなどを作るのに、
「咫尺」が使われていたわけです。
>「尺有咫」は、矢の長さなどを表すのに用いられ、史記では「矢長尺有咫」(矢の長さ、尺あまり咫(=18寸))
>「八寸曰咫」は、「咫」の長さの説明、つまり 咫=八寸
尺=10寸
咫=8寸
というのが、長い時代の広い地域で固定していたわけです。
咫尺が実用されていたからこそ、単位が固定されていた証左ですね。 衣服の採寸は鯨尺がベースでしょ。
もし真っすぐの物差ししかない場合、
身体の縦寸と横寸を鯨尺で測って、
たとえば横寸が2鯨尺であれば、直径2鯨尺の円柱と考えて、
咫尺と同じ計算法で、衣服の円周長は、4倍して8の8曲尺。
咫尺が採寸に使われたのなら、
「未能進咫尺之地」などは、
未だ土地を採寸して切り取れていない=未だ全く進めていない
のようなより深い歴史的意味合いが出て面白いね。 >>270
>円型のモノを入れる入れ物があった以上、
>その入れ物の側壁の長さ=円型のモノの円周長
>を簡便に計算する方法があった、ということです。
円形のものの大きさは、直径で示すんだよ
円周率がキッパリ分かっている現代でも、フライパンの大きさとか
直径で表してるでしょ? 28センチのフライパンとか
「咫」で計ったと主張する人で、円形のものの大きさを
円周で表した例を出してくれという問いに答えられた人がいない
円形の鏡が作れるんだから円が描ける訳だ
だったら「その入れ物の側壁の長さ=円型のモノの円周長」ではなく
中身よりも大きな半径で円を描いて、それに合わせて作れば済むこと
「簡便に計算する方法があった、ということです」
そんな方法を使うより、紐を巻いてその長さを測った方がもっと簡単
そして、その紐の長さは尺と寸で測れば済むし、そこに咫を混ぜても面倒になるだけ >>270
>咫尺法であれば、周代から存在している。(この時点で咫尺法の証明責任終了
これが極限まで頭悪いよ?
「和同開珎が使われていたのは間違いない(この時点で和同開珎の証明責任終了)
江戸時代にも和同開珎が使われていた」
ってのと同じことを言ってるようなものだよ?
周代に「咫」という単位があったことは、漢魏尺を使っている時代に
咫が使われていたことを意味しない
咫は周代に使われていた「身体尺」で、人によって長さが異なる
そして、秦の始皇帝による度量衡の統一以降の公定尺の体系に
一度も咫は入れられたことはなく、計量単位としては一度も用いられた記録がない
だいたい、咫二寸とか、咫三寸とかいう表現もあり得ない
咫二寸ではなく一尺だし、咫三寸ではなく尺一寸でないと分からない
咫は使おうと思っても使い勝手が悪いんだよ
円周を測るのに便利という人は、直径七寸の円の円周を咫で表してみればいい
少しも便利じゃないだろ? 測らなくても計算で求められるのであれば、それがどれだけ便利なことかわからないだろうか。 >>273
>尺=10寸
>咫=8寸
>というのが、長い時代の広い地域で固定していたわけです。
本当に論理的な解釈ができない人ですね
それが長い時代広い地域で固定定着していたら、八寸曰咫のような注は
「そもそも必要がない」んだよ
誰も使わない、誰も知らない短いだから、注記が必要になる 訂正
× 誰も使わない、誰も知らない短いだから、注記が必要になる
○ 誰も使わない、誰も知らない単位だから、注記が必要になる >>278
>測らなくても計算で求められるのであれば、それがどれだけ便利なことかわからないだろうか。
つ「直径七寸の円の円周を咫で表してみればいい 」
さ、計算して見せて!
便利なんでしょ? >>273
>「咫尺」法が社会に広く使われていた証左ですね。
>衣服の仕立て、銅鏡など円型のモノの入れ物の側壁、などなどを作るのに、
>「咫尺」が使われていたわけです。
さっきまで「尺咫法」って言ってたのに、前言撤回かい?
本当に「調子がいい」ことですこと
そして、「咫尺」が具体的な長さに使われている例が「一例もない」ことは
すでに>>253から>>259で完全に示した
衣服の仕立てに使った例も、同じく「一例もない」
>>272
>鯨尺と曲尺の関係も10対8
ではなぜ、鯨尺であり曲尺であって、「咫」じゃないんだ?
「咫」が使われていない証明でしかないな 王朝交代で色々は失われても
どういうわけか日本には周代の古い制度が伝わってるようだから、昔から日本人は古いものを尊重してたんだなぁ。 >>278>>285
超便利だから、
現代の大工さんも差し金(曲尺)で角目と丸目を使っているわけですね。
古代の職人さんも咫尺で尺と咫を使っていたわけです。
差し金のように直角でないだけで、全く同じ構造の物差しだったのでしょう。
>>282
尺をベースに計算するので、
わかりやすいように尺咫の順に並べただけですが、何か?
言葉にいちいち突っかかって、議論の本質をずらして誤魔化していますが、
10対8の比率を利用することで、円周率3.14を用いるよりも
簡便に角と丸を数値変換できるのはいずれも同じです。
数学的には周代から現代まで全く同じ理論が現場で使われ続けているわけです。
歴史に興味があるのであれば、感動的だと思いますが。 キナイコシは歴史に興味があるのではなく、歴史を闇に葬りたいだけ。 >>288
>歴史を闇に葬りたいだけ。
日本の歴史を永遠の謎にしたいのは間違いでしょうね。 >>287
>尺をベースに計算するので、
>わかりやすいように尺咫の順に並べただけですが、何か?
分かりやすいも何も、根拠が一切ない
平成の人間の「妄想の産物」による「造語」だってだけじゃんw
あたかも古来、そういう言葉、考え方が存在したみたいに書くなよ!
あったら記録に残るだろ?
それが一切ない
>現代の大工さんも差し金(曲尺)で角目と丸目を使っているわけですね。
現代の大工さんが使っているのは、
丸目はきちんと3.14のπ、角目は1.41のルート2の目盛だよ
3.2なんて円周率の近似値としては使えない
古代の人をバカにしすぎだし、全然便利じゃない つ「直径七寸の円の円周を咫で表してみればいい 」
さ、計算して見せて!
便利なんでしょ? 八咫鏡の良いところは、端数が出ない予定調和になることですね。
七咫鏡とかだと、径が尺では端数が出てしまう。
だから八咫鏡はその大きさであることが大事だったと。 だーかーらー、平原1号墓出土鏡の円周が八咫だっていうのは昭和に入ってから言われ出した戯れ言
ちゃんとした咫の長さで測れば「8.63咫」だぞ?
どこがぴったりなんだ? 逆に考えるんだ。
平原遺跡の鏡こそが八咫の定義なんだ。 伊都国推しの人間にとっては、それがマジなんだぜ!
要するに根拠なしの思いつきだってことだ いや「円周を咫で計る」も、「弥生時代の倭国で咫が意識されていた」も
現実と矛盾してるんだが? >>299
>予定調和のようにぴったりハマっているよ。
現実と矛盾してるんだが? >>300
妄想の世界にいるから現実と思ってる現実は事実と違う 予定調和と予定調和のようにという比喩の違いもわからない脳認知障害者ですか >>303
他人を侮辱する以外に自己を正当化する方法を知らないコミュショーいたー 方々でコミュ障の書き込みをしている一人くらいしか、九州説ってのは居ないんだなw 書き込んでいないはずのスレで、コミュ障と言われた、などとキナイコシが書いていて、同一人物であることを告白していてワロた 「現実と矛盾する」っていうのは
「予定調和のようにぴったりハマってない」って意味だよ
脳認知障害以前に、日本語の読み取り能力が足りないってことだろ?
単に頭が悪いだけ 合理的説明をすると都合のいいでっち上げだと叫ぶ池沼がいる 合理的っていうのは、道理に合うっていう意味だよ?
理に合わないことは、合理的じゃないんだ 1 道理や論理にかなっているさま。「合理的な自然界の法則」
2 むだなく能率的であるさま。「合理的な処置」
どちらも八咫バカには当てはまらないな >>305
日本史版には九州説の人が畿内説の人の2〜3倍いるようだけど
畿内説は少人数の人が連続投稿してるみたい。 >>315
>日本史版には九州説の人が畿内説の人の2〜3倍いるようだけど
>畿内説は少人数の人が連続投稿してるみたい。
日本史板の九州説は、3人+αだよ
九州王さんはキャラぶれはもう気にしないことにしたの?
地金が透けまくりw
メッキし直したら? キナイセツの人は3人程度
スレ主とスプリング8ともう1人くらい
たまに下手な自作自演をしてる。 俺は「葛城日本海」ってハンネにしようかなw
葛城は鴨厨先生とかぶるし日本海は伊都屑先生とかぶるが
そもそも鴨厨と伊都屑が同一人物なのかもあやふやだぬ 書き込みしてるのは10人ちょいぐらいで
畿内説は、3人ぐらい?揃って口が悪い。
九州説は10人弱って感じじゃない? 九州説は揃って他人の話きく気がなさげなのが多くね?
自分の言いたいことにしか興味ないみたい
畿内説は馬の耳に念仏をそのままいくマメに説明する熱心なやつと
呆れてバカにしてるやつの両極端(だから最低二人はいるはず)
あと九州派だけでなく畿内説も細かくは割れてるな。
同一人物だと思ってたら矛盾してることいっててやっと気づくことがある
九州説がうるさすぎて畿内説同士の論争をみる機会がめったにないから
畿内説同士の内部事情がわかりにくくてフラストレーションがたまるは 九州説もわりとバリエーションは多いのだが、畿内説がそれを理解しないから話が噛み合わない。 ひとまず下賜鏡は
内行花文鏡
三角縁神獣鏡
画文帯神獣鏡
の三説、ということで。 内行花文鏡は王権の象徴としての意味があるらしいけど、100枚は多すぎるんだよな。
全部が同じ鏡ではなかったかもしれない。 >>324
×九州説もわりとバリエーションは多い
○九州説はめちゃくちゃバリエーションが多い >>325
三角縁神獣鏡はムリでそ、畿内説でもそんなこと言わないやつが多い 青龍三年銘方格規矩四神鏡は確定 10枚くらいか
長宜子孫内行花文鏡も確定 5枚くらいか
残りは普通の方格規矩四神鏡だろう。
4世紀国産凸面はそもそも中国人にとっての銅「鏡」じゃない。 少なくとも現時点で出土してる鏡は、畿内か九州かの決め手になるようなものは無いね 今だ!333ゲットォォォォ!!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ (´´
∧∧ ) (´⌒(´
⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
 ̄ ̄ (´⌒(´⌒;;
ズザーーーーーッ 決め手も何も邪馬台国時代に対応して
洛陽で魏代まで使われていた銅鏡は
ほぼ北部九州から見つかっているのだから決定的だろ。
佐賀大和町の尼寺一本松遺跡で内行花文鏡が見つかっているのだから、
北部九州の銅鏡からの年代決定は100年間違っていたということだ。
あとは良心との戦い。
一本松遺跡周辺には與止日女神社や肥前国府跡などもあったから、
弥生時代に邪馬台=大和勢力がまずこの辺りに支配官を置いて、
佐賀平野の干拓を開始したのだろう。 平原遺跡という決定的な遺跡が見つかっているのに、認めようとしていないだけだろ。 魏は既に鉄鏡の時代に入っている。
鉄鏡といっても、金メッキや銀メッキだぞ。
曹操の墓に副葬されていたのも鉄鏡。
記録にも、魏の皇帝一族が使う鉄鏡の大きさや金銀様式が詳しく記載されている。
魏は新規デザインの銅鏡なんて作る興味も技術もない。
卑弥呼に贈る銅鏡百枚は後漢形式の銅鏡百枚を倉庫から取り出して一括処分しただけ。
新型の位至三公鏡は魏代末かもしれんが、おそらく全て晋代だろう。
公孫氏によって洛陽から遮断された日本では
銅鏡が珍重され続け、
桜馬場遺跡の無銘内行花文鏡をベースに、平原遺跡の超大型内行花文鏡が作られ、
卑弥呼が貰った平原の長宜子孫内行花文鏡のデザインをアレンジして、
その他の大型内行花文鏡が作られたんだろう。
それで年代も全部合う。 桜馬場遺跡と井原鑓溝遺跡は完全に同時代の主従関係にあるのだから、
桜馬場に雲雷文帯の内行花文鏡が見つかった時点で、
井原鑓溝+桜馬場の主従コンビは2世紀と考えるのが妥当。
歴史書と照らし合わせると、107年の倭国王の最有力候補。
そうなると、考古学的時代差から逆算して、
57年の王は三雲南小路遺跡が最有力候補。
光武帝が新を滅ぼすのが23年、統一するのが36年だから、
57年に与えるのなら、新の奨励した方格規矩鏡はゼロで、
前漢鏡一式の三雲南小路は極めて妥当。
更にそうなると、70〜80年の男王時代を経て、
2世紀中盤の倭国乱に入り、
2世紀後半に擁立された卑弥呼が長期政権を経て、
3世紀の平原遺跡に超大型内行花文鏡と共に入ることで
史学上も考古学上もピッタリ符合する。 >>338
>井原鑓溝+桜馬場の主従コンビは2世紀と考えるのが妥当。
>歴史書と照らし合わせると、107年の倭国王の最有力候補。
何を言っているんだ?
妄想の大概にしておけ。 >>336
>桜馬場遺跡の無銘内行花文鏡をベースに、平原遺跡の超大型内行花文鏡が作られ、
ふむふむ 洛陽焼溝漢墓に雲雷文帯内行花文鏡が副葬され始めるのが
76年以降。
洛陽と北部九州の時間差を考えると、
井原鑓溝+桜馬場の主従コンビは
どう考えても2世紀以降になる。
じゃあ3世紀まで持って行けるかというと、
魏志倭人伝には、末蘆国に官はおらず、
しかも末蘆国がうらぶれた様子が記されている。
漢との外交で栄えた末蘆国は、
後漢末の中国動乱、公孫氏の台頭、倭国乱によって、
魏代には落ちぶれていたわけだ。
よって、井原鑓溝+桜馬場の主従コンビは2世紀前半であり、
107年の洛陽との外交によって、銅鏡形式が洛陽最新型=雲雷文帯内行花文鏡に同期したことになる。
その数年後から数十年後に被葬者が亡くなって副葬されたわけだ。
当然のことながら、主である井原鑓溝にも無銘内行花文鏡はあったことになる。
107年の外交成果は今一つで、朝貢で貰ったのは内行花文鏡を数枚だけで、
方格規矩鏡は洛陽あるいはほとんどが楽浪郡で自腹で買ったものだろう。 >>342
>方格規矩鏡は洛陽あるいはほとんどが楽浪郡で自腹で買ったものだろう。
自腹で買えるようなお金は、どうやって稼いだの? >>343
>蠶桑 緝績 出細紵 縑緜
>以婢千人自侍
明治日本政府と同じく、「絹」でしょうね。
富岡製糸場の女工が最盛期で400〜500人ですから、
伊都(女)王直営の絹生産力はその2倍以上の労働力を擁しており、
弥生時代としてはとてつもない絹生産力だったわけです。
国際市場環境としても、後漢は遠征続きでしたし、
黄巾の乱(184)以降は三国動乱へと突入していきますから、
中国での絹生産は激減し、
倭国産の絹価格は高騰したことが確実です。
逆に、だからこそ伊都王は千人の女工を集めて絹生産に注力したのでしょう。
楽浪郡に出向いた倭人、あるいは伊都へ駐する楽浪郡史や楽浪商人は、
絹と方格規矩鏡などを交換したわけですね。 平原遺跡には大量の国産方格規矩鏡が副葬されています。
が、
倭人の銅鏡職人が舶載方格規矩鏡をお手本として練習した習作がありません。
あからさまな国産とわかる練習作が無くて、
いきなり舶載かどうか迷う高いレベルに達しているわけです。
つまり、107年の朝貢時に、洛陽で方格規矩鏡の職人をスカウトしてきたわけですね。
新の王莽の庇護下で働いていた方格規矩鏡職人が、
後漢時代に入って冷遇され、
師升達はその職人に目をつけて、勧誘したのでしょう。
ですから、井原鑓溝+桜馬場の方格規矩鏡は、本場洛陽からやってきた鏡職人が、
倭国で作った銅鏡の可能性もあります。
原料も職人も洛陽直輸入ですから、見分けはつけようもないでしょうね。
平原の方格規矩鏡になると、
本場の尚方出身の親方の指導を受けた、倭人の弟子たちが方格規矩鏡を作ったので、
銅鏡そのもののレベルは非常に高いけれども、文字の出来だけは今一つなわけです。 >>344
>伊都(女)王直営の絹生産力はその2倍以上の労働力を擁しており、
>弥生時代としてはとてつもない絹生産力だったわけです。
東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。
千餘戸から婢千人は無理だな
それに婢千人が機織りしているはずもないし、ただ言うことだけが目的の思いつきだねぇ >>346
>千餘戸から婢千人は無理だな
ギリギリだけど無理じゃないよね。
王宮勤めの関係者しかいない方が、セキュリティ的には理想的だよ。
二万戸の博多奴国に王宮を作ったら、人の出入りが多くて警備が困難になる。 >大人皆四五婦 下戸或二三婦
一家に23人から45人は奥さんがいて、
それぞれにそれなりの娘がいるのだから
単純計算で
伊都千戸なら、奥さんが20003000から40005000人。
娘を合わせると1万人は女性がいる計算になる。
このスレ=北部九州説だと、邪馬台国は7万戸の連合国家なのだから、
各家庭で養蚕して、繭を伊都へ集めて
伊都で紡績して、絹織物を専売品として対外の主力交易品の一つとしていたんだろ。 絹もない鉄もない畿内と、桑を植えて蚕を育てて機を織っていた九州では、かなり生産様式というかライフスタイルが違っていただろうね。
邪馬台国の男女比が違うのは戦争が長くて男が死んだからだとも言われているが、畿内では戦乱の跡が少ないからそのような状況にもならない。
畿内は魏志倭人伝の記述と合わないことだらけ。 そんなに男女比に差がある社会は存続できない
下戸と書いてあるのも、魏使の目に付くところに出られる上流階級の人間だよ >>344
>逆に、だからこそ伊都王は千人の女工を集めて絹生産に注力したのでしょう。
たしかに、卑弥呼の王宮になぜ千人もの奴婢が必要だったか考えた時に、何割かは機織りをしていたかもしれないですね。
記紀でも、アマテラスの王宮で奴婢が機織りをしていたと読める記事があります。
纒向説だと建物が少ないから、奴婢は屋根のない運動場のようなところに詰め込まれて何かの仕事をしていたとか言われているそうですが、ナンセンスですね。 >あからさまな国産とわかる練習作が無くて、
>いきなり舶載かどうか迷う高いレベルに達しているわけです。
>つまり、107年の朝貢時に、洛陽で方格規矩鏡の職人をスカウトしてきたわけですね。
咫尺(漢尺)の伝来ですね。
見よう見まねの不出来な国産方格規矩鏡が存在しないことによって、
考古学的に証明されたわけです。
桜馬場遺跡(=井原鑓溝)の内行花文鏡をベースに
伊都王権の象徴的神鏡を作るよう命令が下って、
漢尺で直径二尺の内行花文鏡を作り上げたのでしょうね。
その入れ物を作る時に、容器の寸法の指図は、
直径二尺の円板を2枚(底と蓋)と、
八咫×半尺の長方形板を1枚(側板)
です。 >>349
出土遺物からわかるように、弥生九州倭国では、
鉄器があって、絹の衣服を着ていたわけですね。
硯があって文字もある先進国家だったわけです。
それが九州倭国を出ると、一気に不便になるわけです。
東に渡海した、日本海沿岸の倭種地域なら、まだ鉄器も絹もありますが、
それ以外の地域だと、鉄器も皆無か痕跡だけで、
北部九州で言うと、500年くらい昔の菜畑遺跡の生活レベルまで落ちるわけです。
現代の感覚で言うと、
電化製品に囲まれて過ごしている我々が、
アフリカ奥地の寒村に放り出されるようなものです。
東征将軍スサノオなどであれば、
国家事業として、自分専用に鉄器を運ばせることができたでしょう。
各種の東征古墳の副葬品ですね。
しかし、左遷組や失脚組となれば、国家の支援は無い。
倭国の勢力範囲外に落ちのびて、
鉄器なし絹なしの未開人=毛人と同様の生活になってしまうわけです。 出土遺物からわかることがもう一つあります。
弥生先進国である北部九州倭国は、
東方の各地を占領しては、そこからの租庸調を献上させていた、ということです。
平安京に広大な水田があったわけではありませんよね。
各地からの租庸調で首都の貴族以下人々は暮らしていました。
同じことで、伊都を頂点とする北部九州倭国も、
各地からの租庸調で七万戸を養っていたわけです。
土器の流れから明らかです。
祭祀用武器
鉄工遺跡(鉄原料は北部九州経由、鉄製品は北部九州に集中)
の分布からも
北部九州倭国が東方へ荘園を拡大していったことは明らかです。 何が言いたいかというと、甕棺墓です。
北部九州倭国の貴族は、
鉄器や絹に囲まれて、
壱岐対馬経由で楽浪中国との交易も独占して、
東方からの租庸調があって、
まさにこの世の春を謳歌していたわけです。
寿命を全うして、生まれ変わるとしたら、
当然また「北部九州倭国に生まれたい」わけですね。
だから、同じ倭人であっても、
北部九州で亡くなった場合は、
北部九州に生まれ変わりたいから、甕棺墓に入る。
九州外で亡くなった場合は、
これまた北部九州に生まれ変わりたいから、舟型棺に入る。
魂が船に乗って、北部九州へ帰れますように、
という切実な想いですね。 >>356
>北部九州で亡くなった場合は、
>北部九州に生まれ変わりたいから、甕棺墓に入る。
>九州外で亡くなった場合は、
>これまた北部九州に生まれ変わりたいから、舟型棺に入る。
目から鱗だ。
斬新だ。 前スレで、大国主の生涯について考察しましたが、
その続きです。
大国主=八千矛神=中広型銅矛が、
第〇〇代東征将軍スサノオとなって幕府を開いたのが最高位で、
倭国王アマテラスにはなれなかった。
だからアマテラス一族ではなく、漢皇帝の権威を借りて、
倭国王=1世紀伊都国王に承認してもらった。
最古の王族=吉武遺跡(伊都)=アマテラスと、
振興の勢力=須久遺跡(那国)=オオクニヌシが、
お互いに呪文をかけあっているわけですね。
<伊都>アマテラスは、振興の那珂川那国オオクニヌシを抑えるために、
「那」ではなく、「奴」の字に置き換える呪術をかけた。
魏代伊都が魏使との外交時に使った文字は、「奴」国です。
魏ではなく、伊都が奴国と表記したわけですね。
<那国>その前の時代の、大国主が朝貢する時には、
本来であれば、漢伊都国王となるべきところを、
委奴としたわけです。
漢ではなく、那国大国主が、さんざん奴国として卑下されたのを
逆手にとって、伊都を委奴=馬鹿にしてきた奴国に委ねるんだよ、
としたわけです。
任那という文字が残っています。
那国に任せるということですね。
日本各地に残るのも、奴珂ではなく、「那」珂です。 振興の須久に対して、
須久大国主とオオヤマツミ女王八上姫(因幡=稲場=鐘崎)が婚姻して、
勢力拡大しようとしたのを、
吉武アマテラス一族が警戒して、
須久大国主と 須勢理姫を結婚させて、取り込んだわけです。
日本海沿岸アマテラスと、
瀬戸内沿岸オオヤマツミの政治的綱引きですね。
その結果、
筑紫の吉武アマテラス+須久大国主(中広型銅矛)vs瀬戸内オオヤマツミ(銅剣)
の戦いとなり、
当然のことながら、中広型銅矛が圧勝します。 大国主は、漢使による金印授与イベントのために、
吉武遺跡宮殿までの県道49号線整備に
自領福岡平野の木材を大量伐採して、洪水疫病を引き起こして失脚します。
大国主には180柱の子供がいたそうです。
旧百余国ですから、ほとんどの国の姫、
あるいはオオヤマツミ系だと女王に子供を産ませたわけです。
それが夷=夷守=ヒナモリであり、
徳川幕府と同じく、大国主の子孫が各国の支配者にすり替わっていった。
けれども、大国主が失脚してしまい、
ニニギ新伊都政府に恭順したのが、魏志倭人伝にある「副官」のヒナモリ。
しかし、恭順せずに落ちていった夷もいたわけです。 大国主失脚時の倭国勢力範囲は、
日本海沿岸は越まで。
越後には、沼河姫と大国主の間に産まれたタケミナカタがいます。
吉武伊都アマテラスにとっての、東征将軍スサノオが、
須久大国主(スサノオ就任)にとっての、辺境攻略隊長タケミナカタですね。
瀬戸内沿岸は、淡路島まで。
大阪湾沿岸には、最後の石剣部族が残っていて、
これは今から銅戈将軍ニギハヤヒ(大国主の次のスサノオ将軍です)が調略します。
瀬戸内沿岸は銅剣オオヤマツミの勢力圏です。 よって、
大国主の子孫のうち、ニニギ新伊都政府に恭順するのをよしとしない集団は、
日本海沿岸を北上して、
川沿いに内陸へと逃げていくことになります。
関東ですね。
越後から信州には、タケミナカタが腰を据えて、
能登半島を盾にして、伊都政府に武力抵抗します。
畿内にはまだ石剣部族がおり、銅戈ニギハヤヒと戦争して緩衝材となってくれます。
オオヤマツミ環濠集落はまだ点状に入りこんでいるだけで、
愛知県が大国主残党とオオヤマツミとの接触地域になり、
お互いに銅鐸=Jアラートを配備して、睨み合うわけです。
この状態が百年ほど続きますが、
越後信州タケミナカタの敗退。
大阪湾石剣部族の敗退と、オオヤマツミ領土を通過しての
銅戈ニギハヤヒ軍の朝日遺跡進軍。
によって、関東の大国主残党は降伏します。 大国主残党の運命はここで潰えて、本来なら生口などとして
屈辱の歴史を迎えるはずでした。
畿内へ向かって、伊勢など東国の土器が移動していきます。
降伏したわけです。
しかし、倭国乱が起きます。
筑紫において、
筑前邪馬台国+オオワダツミ+日本海沿岸
vs
筑後狗奴国+オオヤマツミ+瀬戸内
の大戦乱が起きたわけです。
当初は狗奴国有利だったため、
邪馬台国は、狗奴国側についた銅戈と戦っていたタケミナカタに同盟を打診します。
結果として、邪馬台国+タケミナカタが勝利したので、
那珂川は那珂川であり、奴禍川などにはなったり、消えたりしなかったわけです。 大国主時代に、
吉武アマテラス+須久大国主 vs 瀬戸内オオヤマツミ
大国主が失脚して、
伊都ニニギ
銅戈ニギハヤヒ+オオヤマツミ
vs
大阪湾石剣部族(大国主系とは無関係)
タケミナカタ+関東大国主残党
倭国乱が起きて、
伊都+オオワダツミ+タケミナカタ・大国主残党
vs 筑後肥後+オオヤマツミ
オオヤマツミと大国主は、八上姫との喧嘩以来ずっと
仲たがいし続けていたわけです。
敵味方がハッキリしていますね。 超長くなって申し訳ありません。
ようやく本題(>>356)に戻りますが、
関東の前方後方墳とは、大国主残党の墓なわけです。
肥前のは、伊都ニニギに恭順した夷のもの。
出雲のもそうです。
(出雲は本来オオヤマツミ領土なのですが、中広型銅矛vs銅剣戦争の時に大国主が奪ったのでしょう)
大勢の夷が、泣く泣くひれ伏して、下戸あるいはその下の身分となったのが、
倭国乱のときに名誉回復したわけですね。
とういことは、
東日本に分布する舟側棺というのは、
那珂川流域、那国において優雅に暮らしていた大国主一族が、
一晩の洪水によって失脚し、
あれよあれよという間に関東まで落ちのびて、そこで侘しい未開人生活を送りながら、
漢から金印まで授与された輝かしい栄光の過去を想いながら、
いつか北部九州倭国へ帰れる日を夢見て、眠りについた。
そのような念のこもった棺ということです。
最大限の敬意が必要でしょうね。 弥生時代の謎として、
高地性集落
銅鐸
甕棺墓
があります。
鉄工遺跡の発見によって、
高地性集落とは、木材から炭を作るための施設。
現代の採油所であることがわかりました。
銅鐸も、前スレで考察したように、
石剣地域に入植していく倭種環濠集落が、
収穫期の襲撃に備えて配備したJアラートであることがわかりました。
普段は乾土に埋めて劣化を防ぎ、収穫期に取り出して設置する。
高台に偽装して設置して、敵襲があれば銅鐸を鳴らして集落民を環濠の中へ避難させる。
銅鐸を鳴らし終えたらそのまま獣道を走って、近隣の集落などへ救援を呼びに行く、
というシステム。
甕棺墓は、何一つ不自由なく優雅に暮らしていた北部九州倭国の貴人が、
生まれ変わってもまた北部九州倭国に生まれ変わりたいという祈りを込めた葬儀。
あとは、なぜその甕棺墓が急速に廃れて、平原遺跡の卑弥呼女王が
木棺墓に入ったか?ですね。
卑弥呼が丹後の太田南遺跡1号墓の一大率長官の娘であることと関係があるとは思われますが。 >放射説は漢文的にありえない
そうですね、漢文的には連続して読むべきで放射説はあり得ませんね
但し距離(里)と時間(日)が連続して書かれてる場合は同じ行程を距離と時間で説明してるんですね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています